七つの谷
寛大にして慈悲深き神の名において。
神に賛美あれ。神こそは無より存在物を生み出し、人の心の書簡に、創造以前の神秘をきざみ、神秘的な神のことばにより、その人が知らなかったことを教えた。そして、神を信じ、身をささげる者たちのために、その人を「光かがやく書」となした。
また、この荒廃した暗黒の時代において、その人に万物の創造を目撃させ、その人を「卓越した姿」となして、すばらしい声で永遠の頂より語らせた。その目的は、すべての人間が、自分の心の中で、また自分の力で、「主の顕示者」の地位を認め、実に、神のほかに神は存在しないことを証言できるようにすることにある。それにより、すべての人間は真理の頂上に登り、何を熟考するにしても、神の実在だけを見るようになるであろう。
そして、われは「聖なる本質」の太洋から分岐した最初の海であり、「唯一性の地平線」よりかがやき出た最初の朝である方を称える。
また、「永遠の天空」に昇った最初の太陽であり、「創造以前のランプ」から一体性のランタンにともされた最初の炎である方を賛美する。その方こそは、高められた人びとの王国におけるアーマドであり、神に接近した人びとの集りのなかのモハメッドであり、誠実な人びとの領土におけるマームードである。「……あなたの望む名をもってその方に嘆願せよ。」なぜなら、知る人たちの心の中では、「その方はもっとも卓越した名をもつ」方であるから。また、その方の親族と友人たちに永遠につづく恩恵豊かな平安が宿らんことを。
さらに、われは、あなたの存在の木の枝にさえずる知識の小夜鳥の調べを耳にし、あなたの心の木陰の枝に鳴く確信のはとの鳴き声を聞いた。あなたの手紙を読み、その愛の衣の清らかな芳香を吸い、あたかもあなたと出会ったように感じた。
その手紙の中で、あなたは神のうちに自分を無にしたこと、そして神をとおして生命を得たことを述べた。また、神の愛した人びとに対するあなたの愛、および「神の名の顕示者」であり、「神の属性の黎明の点なる方」に対するあなたの愛について記した。
それゆえ、われは栄光の高みより、神聖でかがやくばかりの証しをあなたに示すのである。それは、あなたを神に近い神聖でうるわしい宮廷へと誘うためである。そして、創造物の中に、「最愛なる方の御顔」、「栄誉ある方」だけしか目に映らない地位にまであなたを引き上げるためである。そしてあなたは、全創造物について一語も語られない日に見るのと同じように、全創造物を見るであろう。
唯一性の小夜鳥も、これについてゴーシエの園で歌った。かれはこう語った。「そして、『神を恐れよ。そうすれば神から知識が授けられよう』ということばに秘められた奥深い神秘が、あなたの心の書簡にあらわれるであろう。そして、あなたの魂の小鳥は、創造以前よりつづく聖所を思い起こし、あこがれの翼で、『踏み固められたあなたの主の道を歩め』という導きの天界に飛翔し、『あらゆる果実によって養われる』庭園で、精神的な交りの果実を集めるであろう」
おお友よ、わが命にかけて誓う。知識の土地に造られた緑園には花々が咲き、果実が実っている。その土地は、もろもろの名称と、もろもろの属性の鏡に隣接しているところである。それらの鏡には、「本質なる方」からかがやき出す光が反映されている。
もしあなたがその果実を味わうならば、心は思慕の念であふれ、忍耐と自制の手ずなは、あなたの手からはなれ、あなたの魂は稲妻に打たれたようにふるえるであろう。
そして、あなたは地上の故郷より、「実在の中心」にある最初の聖なる住家へと引き寄せられるであろう。さらにまた、新たな段階へと引き上げられ、地上を歩むように天空を飛翔し、大地を駆けるように水上を進むことができるようになろう。
こうして、わたしとあなたは喜びにあふれるであろう。また、知識の天上に昇り、確信の風で活気づけられた人たちすべても喜びに満たされるであろう。その風は「慈悲深き方の領土」よりかれらの存在の園に吹き寄せてきたからである。
「正しき道」を歩む人に平安あれ。
さて、ちりの住居より天上の故郷へと旅する人がたどる段階は七つあると言われている。ある人はそれを「七つの谷」と呼び、ほかの人は「七つの都市」と呼んだ。旅人は自我を捨て、この七つの段階を越えなければ、神に近づき、神と融合できる太洋に到達することは決してできないといわれている。また、たぐいなきぶどう酒を飲むこともできないのである。その最初の谷は探求の谷である。
探求の谷
この「谷」を越すための駿馬は忍耐である。この旅を始める旅人は、忍耐が必要である。それがなければ目的地に着くことも、目標を達成することもできない。旅人はまた、決して落胆してはならない。たとえ、十万年努力したあとでさえ「聖なる友」の美を見ることができなくても、動揺すべきではない。「わがために」聖堂(目標)を求める者は、「わが道にかれらを導くであろう」という吉報をよろこぶのである。その探求において、旅人は奉仕のために、ゆるがない決意を固め、思慮なき段階より実在の領域へと向かう道を、たえず努力しながら進んでゆく。
いかなる絆も探求者を引きとめることはできず、また、いかなる忠告も探求者をひるませることはできない。
旅人であるしもべらは、心の中にあるすべての汚点を洗い清めなければならない。心は聖なる宝物の泉であるから。しもべらはまた、模倣をやめなければならない。模倣とは、先祖や親が残したものにしたがうことである。そして、地上のすべての人びとに対する友情にも敵意にも左右されないようにしなければならない。
この旅路で、探求者があるところまで来ると、あらゆる創造物が、心を散らされた状態で「聖なる友」を求めてさまよっているのを見る。探求者は、どれほど多くのヤコブがヨセフを追っているのを目にすることであろうか。かれはまた、「最愛なる方」を求めて急ぐ多くの愛にうたれた人びとを見、願いをこめて「望まれる方」を探し求める無数の人びとを目撃する。
ここで探求者は、一瞬ごとに重大な事柄を発見し、刻一刻あらたな神秘に気づく。それは、かれが天と地の双方の世界から心をはなし、「最愛なる方」の聖堂を求めて旅立ったからである。一歩進むごとに、「見えない領域」から下される援助にはげまされ、探求への熱意は高まってゆく。
探求の程度を判断するときには、「愛のマジヌンの物語」を基準としなければならない。その物語はこうである。ある日、マジヌンが涙を流しながらちりをふるいにかけていた。それを見て人びとは「一体何をしているのだ」と聞いた。「レイリを探しているのだ」とかれは答えた。すると人びとは可哀想に思って叫んだ。「まあ何と悲しいことか。レイリは純粋な精神の持ち主なのだ。それなのに、おまえはちりの中からかの女を探し出そうとしているのか」
そこでマジヌンは言った。「どこで彼女を発見できるかわからない。だからわたしは所かまわずかの女を探すことにしているのだ」
たしかに、分別ある者が主の中の主なる者をちりの中に探すことは恥ずべきことである。しかし、これは探求への強烈な熱意を示すものである。「熱意をもって探し求める者はだれであれ、探し出すであろう」
真の探求者は、自分の探求の目標以外のものを追うことはない。愛する者は、自分の愛する人と結ばれること以外の望みはもたない。さらに、探求者はすべてを犠牲にしなければ目標に到達することはない。
すなわち、「神の都」である精神の領域に入るためには、探求者はそれまでに見たこと、耳にしたこと、そして理解したことのすべてを無視しなければならないのである。われわれが「目標の的である方」を求めるならば、労力が必要である。その方との再会の密を飲むためには熱意が要求される。そして、一度この盃を味わえば、この世を放棄するようになろう。
この旅路で、旅人はあらゆる国に留まり、あらゆる地域に住む。そして、すべての人の顔に「聖なる友」の美を求め、すべての国で「最愛なる方」を探す。さらに、旅人は、だれかの心に「聖なる友」の秘密を発見し、だれかの顔に「最愛なる方」の美を見いだすことができるかも知れないと、あらゆる集いに加わり、あらゆる人との交友を求める。
そして、旅人が神の援助により、この旅で、痕跡なき「友」の痕跡を発見し、天の使者から久しくその行方が不明であったヨセフの香気を吸うならば、かれはまっすぐに「愛の谷」に入り、愛の火で溶けてしまうであろう。
愛の谷
この都には、恍惚とした喜びがあふれ、世界を照らすあこがれの太陽がかがやき、愛の火が赤々と燃え上がっている。そして、愛の火が燃え立つとき、その火炎は、理性の収穫を焼き尽くして灰としてしまうである。
そこで、旅人は自分を忘れ、自分以外のものには何も気づかなくなる。旅人は無知と知識、疑いと確信を見わけることができず、導きの曙と過ちの夜を区別することもできなくなる。かれは不信と信仰の双方から逃れ、猛毒を良薬を取りちがえる。これに関してアッタール(十二、十三世紀の詩人)はこう述べている。
信仰のない者には過ちを、信心深い者には信仰を、アッタールの心にはあなたの苦痛の一片を与えたまえ。
この「谷」を通過するための駿馬は苦痛である。苦痛なしにはこの旅は決して終わらない。この段階では、愛する者は自分の愛する人以外は何も考えない。また「聖なる友」以外には安息の場を求めることもない。過ぎ行く瞬間ごとに、旅人は「最愛なる方」の道に百の命を捧げ、一歩進む毎に、「最愛なる方」の足元に一千の首を投じるのである。
おおわが兄弟よ。愛のエジプトの地に足を踏み入れなければ、あなたは「聖なる友の美」であるヨセフの下にゆくことは決してないであろう。また、ヤコブと同様、外なる視力を捨てない限り、内なる実在の目を開くことは決してないであろう。さらに、愛の火で焼きつくされるまでは、「あこがれの的である最愛なる方」と語らうことも決してないであろう。
愛する者は何も恐れることはない。また、危害が近づくこともない。愛する者は火の中にあっても寒く、海の中にあっても乾いているのである。
愛する者とは、地獄の火の中でも寒く感じる者であり、知る者とは、海の中で乾いたままの者である。(神秘主義の詩)
愛は存在というものを受け入れず、生命をも望まない。愛は死の中に生命を見、屈辱の中に栄光を求める。愛の狂気に値するには、人は全く正気でなければならない。「聖なる友」の絆に値するには、人は活気ある精神で満ちあふれていなければならない。「聖なる友」の輪なわに捕らえられている首は幸いである。「聖なる友」の愛の道において、地面に落とされた頭は幸せである。それゆえ、おお友よ、「比類なき方」を発見できるよう、自我を棄てよ。天界の巣に住居を見いだせるよう、この滅びる地上を通り過ぎよ。もし、あなたが存在の火をともし、愛の道にふさわしくなることを望むならば、無となれ。愛は生きている魂を捕らえず、鷹は死んだねずみを襲わない。(神秘主義の詩)
愛はつねに世界を炎に包み、その旗じるしが運ばれる地をすべて廃虚と化す。愛の王国においては存在するものも存在せず、愛の領域においては賢者も権威を失う。愛のレビヤタン(海獣)は理性の名人を飲み込み、知識の主を滅ぼす。愛は七つの海を飲み干しながらも、その心の渇きはなおもいやされない。そして言う。「もっとないのか?」(コーラン、50:29)
愛は自らをも避け、地上のすべてからも自分を引きはなす。
愛は天にとっても地にとっても奇妙な存在である。
愛には七十と二の狂気が宿る。(十三世紀の詩人、ルーミの詩)
愛は数えきれないほどの犠牲者をその足かせにはめ、多くの賢者をその矢で傷つけた。この世の赤みはすべて愛の怒りから生じ、人の頬の蒼白さはすべて愛の毒からもたらされたものであることを知れ。愛をいやすものは死以外になく、愛は影の谷間だけを歩く。しかも、愛する者の口には愛の毒は蜜より甘く、求める者の目には、愛による破滅は十万の命より尊いのである。
それゆえに、悪魔的な自我のベールを愛の炎で焼きつくし、精神を洗い清め、純化しなければならない。そうしてこそ、「もろもろの世界の主」の地位を知ることができよう。愛の火を点し、すべてを焼きつくせ。次いで、愛する者たちの国に入れ。(バハオラの詩)
そしてもし、創造主から確証を得たならば、愛する者は愛の鷲の爪を逃れて、「知識の谷」に入る。
知識の谷
ここで旅人は疑いを捨てて確信をもつようになる。妄想という暗やみに背を向け、神を畏敬し、その導きの光に向かうのである。旅人の内なる目は開き、「最愛なる方」と親しく語らう。また、真理と敬意の門を広く開け、空しい想像のとびらを閉ざすのである。旅人は、この段階で神の命令に満足し、戦争を平和と見、死に永遠の生命の秘密を見いだす。そして、内なる目と外なる目をもって、創造の領域と人の魂における復活の神秘を目撃する。
さらに、純粋な心で、「神の顕示者」が永久につづけて下されるという連続性に、神の英知を理解するのである。また、大洋の中に、一滴を認め、一滴の中に大洋の秘密を見るのである。原子の核を裂いて、見よ!その中に、太陽を見いだすであろう。(神秘主義の詩)
旅人は、この谷において、「真実なる方」の創造の中に、明らかな摂理以外のものは何も見ない。そして、つねにこう語るのである。「慈悲深い神の創造の中には欠陥を見ることはできない。くり返し良く見よ。そこに一つでも欠点を見いだすことができようか?」(コーラン、67:3)
旅人は不正の中に正義を見、正義の中に慈悲を見る。そして、無知の中に多くの知識がかくされていることを発見し、知識の中に限りない英知があらわされていることを見いだす。旅人は肉体と情熱のおりを破り、不滅の領域の住民と親しく交わる。そして、精神的な真理の階段を登り、精神的な意味を秘めた天界へといそぐのである。
ここで旅人は、「もろもろの地方とその住民の中に、わがしるしを示す」箱船に乗り、「この書が真理であることが彼らに明らかとなるまで」(コーラン、41:53)の海を航海する。そしてもし、不正と遭遇したならば、忍耐をもち、激しい怒りに出合ったならば、愛を示すのである。
昔、恋する男がいたが、恋人と離ればなれになったため、長い年月の間、ため息ばかりついていた。別離の炎でかれは気力をまったく失ってしまった。愛に支配されたかれの心から忍耐力は抜け去り、肉体は心の重荷に疲れはてた。
かの女のいない生活は無意味だと考え、かれは時とともに衰弱していった。かの女を慕うあまり、幾日も休まらない日がつづき、かの女を想う苦痛のため、幾夜も眠れない夜を過ごした。かれの肉体は、なすすべもなく衰弱し、心の痛みに耐えかねて悲しみの叫びをあげるほどであった。もし、かの女に一度でも会えるならば、かれは一千の命を投げ出してもいいと思った。しかし、それも空しい願いであった。医者は、かれを直せないことを知っていた。また、友人たちもかれを避けた。
実際、医者は恋の病に効く薬をもっていないのである。ただ、愛する者の好意だけが病む者を救うことができるのみである。
ついに、願いがかなえられず、かれは絶望し、希望も消えてしまった。こうして、恋する男は、ある夜、もはや生きることができなくなり、家から飛び出し市場に向かった。すると突然、町の番人が後を追ってきた。男は走り出し、番人もあとを追いかけた。そこにほかの番人も加わり、疲労しきった男の行く手をすべてふさいでしまった。
そこで、あわれな男は右往左往しながら嘆き悲しんでこう自分に言い聞かせた。「たしかに、これほどすばやくを追ってくる番人は、死の使いであるイズライルにちがいない。そうでなければ、わたしを傷つけようとする虐待者だ」
嘆く心と、愛の矢の傷で血がしたたる足を引きずりながら男は走りつづけた。そうしているうちに、庭園を囲む壁に突き当たった。その壁はひじょうに高かったが、大変苦しい思いをしてよじ登った。そして、自分の命を捨てる覚悟で、庭園の中に身を投げた。
その庭園でかれが見たものは、ランプを手に、失った指輪を探している恋人の姿であった。愛に心をうばわれた男は、魅惑的な恋人を見て、大きく息をのみ、両手をあげて、祈るように叫んだ。「おお神よ。この番人に栄光と富と長寿を与えたまえ。番人は、この哀れなわたしを導いた天使ガブリエルだったのです。あるいは、このみじめなわたしに生命をもたらした天使イスラフィルにちがいありません。」
実に、その言葉は心の底から出されたものであった。なぜなら、かれは、一見乱暴と思える番人の行いの中にかくされた正義を発見し、いかに多くの慈悲があったかをさとったからである。番人の怒りをとおして、愛の砂漠で渇きにあえぐその男は、恋人のいる海へと導びかれた。そしてかの女との別離の悲しみの闇は、この再会のよろこびの光で消えたのである。番人は遠くさまよう者を恋人のいる庭園へと案内し、病める魂を心の医師へと導いたのである。
さて、この恋する男が先を見とおしていれば、最初から番人を祝福し、祈り、乱暴を正義と見たであろう。しかし、結末がかくされていたために、男は始めは悩み、嘆き悲しんだのである。
しかし、知識の庭園を旅する者は、始めに終わりを見とおすため、戦争のなかに平和を見、怒りの中に友情を見るのである。
知識の谷にいる旅人はこのような状態にある。しかし、これより高い谷にいる人びとは、始めと終わりを一つと見なすことができる。それどころか、かれらは始めも終わりも見ず、「最初」も「最後」も目に入らない。いやむしろ、みどり豊かな庭園に住む不滅の都市の住民は、「最初も最後」さえも見ないのである。かれらは最初というもののすべてから逃れ、最後というもののすべてを退けるのである。
というのも、かれらは稲妻のように名称の世界をとおり抜け、属性の世界を越えて逃れていったからである。これに関して、次のように語られている。「完全な和合とは、ほかのすべての属性を除くことである」。そして、かれらは「本質なる方」の庇護の下に住むことになったのである。
これに関して、カージェ・アブドラ(十一世紀の詩人)—「高遠なる神」がかれの愛すべき精神を清められんことを願う—は、「わたしどもを真っ直ぐな道に導きたまえ」の意味に関して、把握しがたい点を指摘し、つぎのように雄弁に語った。
「正しい道をわたしどもに示したまえ。すなわち、『あなたの本質』に対する愛をもってわたしどもに栄誉を与えたまえ。それにより、自我とあなた以外のすべてに心を向けないようになり、全くあなたのものとなり、あなたのみを知り、あなたのみを見、あなた以外の何ものも考えなくなるように」
いやそれどころか、これらの人びとはこの次元さえ越えて上に登ったのである。これについて、つぎのように述べられている。
愛は愛する者と愛される者とを隔てるヴェールである。これ以上明かすことはわたしには許されない。(ルーミの詩)
今や、知識の曙があらわれ、さすらいの旅のランプは消え失せた。完全なる威力と光明をもつモーゼからもこのことはかくされていた。ましてや、翼をまったくもたない者は、飛行を試みてはならない。(ルーミの詩)
もしあなたが神との交信と祈りに身をささげる人間であれば、「聖なる人びと」から下される援助の翼に乗って飛翔せよ。そうすれば、「聖なる友」の神秘を見、「最愛なる方」の光に達することができよう。
「まことに、わたしどもは神より生まれ、神に戻る」(コーラン、2:151)
「知識の谷」は、限界ある世界の最後の段階であるが、そこを通過したあと、旅人は「融合の谷」に到着する。
融合の谷
この谷で、旅人は「絶対者」の聖杯から飲み、「一体性の顕示者たち」を見つめる。この段階で、旅人は、複数というヴェールを突き破り、肉体の世界を逃れ、唯一性の天界へと昇る。そして、神の耳で聞き、神の眼で聖なる創造の神秘を見る。さらに、「聖なる友」の聖所に歩み入り、親しい友として「最愛なる方」の館に迎え入れられるのである。また、「絶対者」の衣のそでから真理の手を伸ばし、権威の秘密を明かすのである。
旅人は、自分のうちに名前も名声も地位も見ないが、神を賛美する自分に誉れを見いだす。そして、自らの名のうちに、神の御名を認めるのである。かれにとって「すべての歌は『王』からであり」(ルーミの詩)、すべての旋律は神から来たものである。
かれは「語れ、すべては神より来たものである」(コーラン、4:80)ということばを理解する王座に座り、「神以外には権力も威力もない」(コーラン、18:37)というじゅうたんの上に安心して休むのである。
かれはすべてのものを一体性の眼で見、聖なる太陽のまばゆい光が、「本質者」の出現の場から、すべての創造物を同じように照らし、唯一性の光が万物に反映するのを目にする。
旅路のこの段階において、旅人が存在の世界で見る変化のすべては、かれ自身の視点の変化によって起こるものであることは、あなたにも明らかである。その意味がより十分に明白となるように、ここで一つの例えで説明してみよう。
肉眼にうつる太陽を考えてみよう。太陽は同じかがやきをすべてのものに注ぎ、「顕示者の王」の命ずるままに、あらゆる創造物に光を与える。しかし、その光が当たる場所に潜在している能力にしたがって、その受ける恵みも異なってくるのである。
たとえば、光が鏡に当たると、太陽のまるい原形が映し出される。これは、鏡の感度の鋭さによるものである。水晶に光が当たれば、燃える火のように見える。ほかのものに当たれば、その物体を照らすだけにとどまり、太陽のまるい原形が映り出されることはない。そして、創造主の命によって、太陽は光により、すべてのものをそれぞれの性質に応じて鍛錬するのである。このことは、あなたも観察されるとおりである。
同様に、光が物体に当たると、その物体の性質にしたがって異なった色彩があらわれる。たとえば、光が黄色い球に当たれば黄色にかがやき、白い球に当たれば白く、赤い球だと赤い光線があらわれる。したがって、これらの変化はかがやく光によるものではなく、物体の違いによって生じてくることがわかる。さらに、ある場所が壁や屋根のようなもので遮られるならば、その場所のかがやきはまったく失われ、太陽の光も届かなくなるのである。
このように、病んだ魂をもつ人びとは、知識の大地を、自我と欲望の壁のなかに閉じ込め、無知と盲目でくもらした。そして、神秘の太陽の光と「永遠に愛される方」の神秘からもヴェールで隔てられているのである。
かれらは、「神の使者たちの主」が教えた宝石をちりばめた英知から遠くはなれてさまよい、「最も麗しき方」の聖所から閉め出され、光輝の聖堂から追われたのである。この時代に生きる人びとの価値はこの程度にすぎない。
そして、小夜鳥(バハオラ自らの顕示)が粘土の肉体からはなれて天に向けて飛翔し、心のばら園に住まい、アラビアの旋律と甘美なイランの賛歌で、神の神秘を語るならば、—その一語だけでも死者をよみがえらせ、新しい生命を与え、この世の朽ちた人骨にも「聖なる精神」を与えるのであるが—何千という妬みの爪や無数の憎しみのくちばしが、この小夜鳥を追い、全力を振り絞って、殺しかかるのをあなたは目撃するであろう。
まさに、昆虫は甘美な香りを悪臭と感じ、風邪を引いている者は香ばしい匂いも無臭と感じる。それゆえ、無知な人びとを導くために、次のように言われてきた。
頭を重くした風邪を追い払い、神の息吹を思う存分吸い込め。(ルーミの詩)
つまり、ここで物体の違いが明らかに示されたのである。旅人が物体だけを見るとき、すなわち、違った色をした球体のみに注目するとき、黄色や赤や白を見る。これが原因となって創造物の間に争いが絶えないのであり、また心の狭い者たちがもたらした暗黒のちりによって世界がおおいかくされてしまったのである。
しかし、ある者たちは光のかがやきに眼を向け、また、ほかの者たちは一体性のぶどう酒を飲み干した。かれらは太陽だけを見るのである。
このように、旅人たちは三つの異なった段階を進んでおり、したがって、各人の理解力も、用いることばも違う。そのため、地上では争いが絶えないのである。
ある者は一体性の段階に住み、その世界について語る。また、ある者は限界の領域に居住し、あるいは自我の段階に留まっているのである。さらに、ほかの者は完全にヴェールにおおわれたままである。
「神の美」の光輝を全く受けていないこの時代の無知な人びとが、さまざまな説を主張するのもこの理由からである。すべての時代と周期において、これらの無知な人びとは、自分たちが受けるべき罰を、一体性の海の人びとに与えるのである。
「もし神が人間をその悪行のために罰するならば、神は地上に生き物をひとつも残されないであろう。しかし、神は定められたときまで、人間に猶予を与えたもう……」(コーラン、83:28)
おおわが兄弟よ。純粋な心は鏡のようなものである。愛と神以外のものへの愛着を断つためのみがきで、心の鏡をみがきあげよ。そうすれば、あなたの心は真実の太陽で照らされ、永遠につづく夜明けの光でかがやくであろう。
そのとき、「わが地上も、わが天上もわれを包むことはできない。われを包み得るのはわが忠実なるしもべの心のみである」(コーラン、1:5)の意味を明らかに理解できるようになろう。そして、自らの命を手にとり、限りない思慕の念をこめて、新しい「最愛なる方」の前に身を投ずるであろう。
「一体性の王の顕示者」から注がれる光が、心と魂の王座を照らすとき、そのかがやきは手足と器官のすべてにあらわれる。そのとき、有名な伝承の神秘が、暗やみのなかからかがやき出すのである。
「しもべは、わたしが答えるまで、祈りのなかでわたしに引き寄せられて来る。そして、わたしが祈りに答えるとき、わたしはしもべの耳となり、それをとおしてしもべは聞くようになる」
なぜなら、館の「主人」が自らの住家に姿をあらわし、その館の柱はすべて、その光でさん然とかがやいたからである。光のもたらす効果は、この「光を与える方」から生み出される。こうして、万物はその方をとおして動き、その方の意志により立ち上がるのである。
そしてこれこそ、「神に近き者が飲む泉」(コーラン、83:28)と述べられているように、神に近づいた人たちが飲む泉なのである。
しかし、以上に述べたことばは、神人同型説を意味するなどと解釈してはならない。また、神の世界が創造物の段階まで下りてきたとも見なしてはならない。あなたもそのような推測をすべきでではない。
なぜなら、神はその「本質」において、上昇や下降、進入や退出をはるかに超えて神聖なるものであるからである。神は永遠の古より人間の属性を完全に超えた存在であり、永遠の未来までそうありつづけるのである。
神を知った者は、かってひとりもいなかった。また、神の実在に到達する道を発見した者も、かってひとりもいなかった。
神秘をきわめたと思った者はすべて、神の知識の谷で迷い、遠くさまよい歩いた。聖人はすべて、「神の本質」を理解しようと試みたが、途中で道を見失ったのである。
神は、賢者の理解を超えて神聖なるものであり、知識者の知識を超えて高遠なるものである。神への道は閉ざされており、なおもそれを求めることは不敬である。神を証明するものは、そのしるしであり、神の存在そのものがその証拠なのである。
それゆえ、「最愛なる方」の顔を愛する人びとはこう述べている。「おお、『あなたの本質』のみが『神の本質』への道を示すことができ、創造物には類似するものはなく、それよりはるかに超越した神聖なる方よ」(イスラムの伝承)全くの無が、いかにその駿馬を創造以前の原野に走らせることができようか。また、はかない影が、いかに永遠の太陽に達することができようか。
「聖なる友」(モハメッド)はこう語った。「あなたから教えられなければ、わたしらは決してあなたを知ることはなかった」。そして、「最愛なる方」(モハメッド)は、「また、あなたの面前に参じることもなかった」と述べたのである。
これまで知識の異なる段階について述べてきたが、それは、「実在の太陽の顕示者たち」についての知識にかかわるものである。この実在の太陽は、その「鏡」である「顕示者」に光を注ぐ。
そして、その光は人びとの心のなかにあるが、知覚や地上のさまざまな生活条件のため、その光はヴェールでおおいかくされているのである。それは、あたかも鉄のおおいをかぶせられたローソクのような状態である。おおいが取りはずされるときはじめて、ローソクの光はかがやき出すのである。
同様に、あなたの心を包んでいる幻想のおおいがとり除かれるならば、一体性の光があらわれてくるであろう。したがって、光線にさえも進入も退出もないことは明らかである。ましてや、「実在の本質」であり、待望の「神秘なる方」に進入や退出があろうか。
おおわが兄弟よ。盲目的な模倣を捨て、探求の精神をもってこれらの段階を旅せよ。真の旅人はことばによる攻撃に引き留められることもなく、また、暗示による警告にもさえぎられることはない。一枚のカーテンが、いかに愛する人と愛される人を裂くことができようか。アレクサンダー大王の壁さえ、二人を引きはなすことはできない。(十四世紀のペルシャの詩人)
神の秘密は数多くあるが、それを知らない人びとも数え切れないほどいる。「最愛なる方」の神秘を記すには、書物が何冊あっても十分ではない。また、この何ページかに述べ尽くすこともできない。たとえ、その神秘が一つの文字、または一つのしるしであったとしてもである。「知識は一つの点であるが、無知なる者がその点を倍増させた」(イスラム教の伝承)
以上のことを考慮に入れて、もろもろの世界の相違について考えてみよ。神の世界は決して終わることはない。しかし、ある者は四つに分けられるとした。第一に、始めと終わりのある時間の世界。第二に、始めはあるが終わりが明らかにされていない持続期間のある世界。第三に、始めは見えないが終わりがあるとされる永続の世界。最後は、始めも終わりも見えない永遠の世界である。
以上に述べた点については異なった意見が多いが、それらを詳細に述べると疲れが出てくるであろう。
ただ、ある者は永続の世界には始めも終わりもないと言い、永遠の世界を目に見えない、そして「侵しがたい天上界」と呼んだ。ほかの者は、これらの世界を、「天上の宮廷」、「最高の天界」、「天使の王国」、そして死を免れない世界などと呼んだのである。
愛の道をたどる旅には四通りある。第一は、創造物から「真実なる方」への愛の旅。第二は、「真実なる方」から創造物への旅。第三は、創造物から創造物への旅。最後は、「真実なる方」から「真実なる方」への旅である。
前時代の神秘主義者や学者のことばは数多く残されているが、ここでは言及しない。過去の文献からこまごまと引用することを好まないからである。ほか人のことばの引用は、修得した知識を証明するものであり、神から与えられた知識ではないからである。
すでに引用した理由は、人びとの習慣を尊重し、友人たちのならわしに従ったからである。さらに、この課題は、この書簡の範囲を越えるものであり、過去のことばをここで述べようとしないのは、自尊心からではなく、むしろ英知をあらわし、恩恵を示すためである。
ケズルは海を航海する船を壊したが、その悪行には幾千もの善行があった。(ルーミの詩)
神からの啓示がなければ、この「しもべ」は、ひとりの神から愛される人のそばで、自分を完全に見失われた存在、無に等しい存在であると見なすのである。ましてや、神の聖者たちの前にあってはなおさらそうである。「わが主」、「崇高なる者」は高遠なり。その上、わたしの目的は、旅人の通る段階について語ることであり、神秘主義者たちの矛盾し合うことばを説明することではない。
相対的な世界、つまり属性の世界の始めと終わりについて簡単な例を示したが、その意味が十分に明かになるように、第二の例を加えてみる。たとえば、あなた自身のことを考えてもらおう。息子との関係では、あなたは最初であり、父上との関係ではあなたは最後である。
あなたの外見は、聖なる創造界の威力をあらわし、あなたの内面の存在はかくされた神秘をあらわしている。その神秘はあなたの内部に与えられた聖なる信託である。
このように、この観点から見た最初と最後、外見と内面はいずれもあなた自身にあてはまるのである。
あなたに授けられたこれらの四つの状態から、以上に述べた四つの神聖な状態を理解できよう。そして、あなたの心の小夜鳥は、眼に見えるもの、かくされたものを問わず、存在のバラの木のあらゆる枝の上で、つぎのように声高らかに歌うのである。
「『その方』こそは最初であり最後であり、『見える方』であり、『かくされた方』である……」(コーラン、57:3)
これらの説明が、相対性の世界でなされたのは、人間に限界があるからである。しかしながら、相対性と限界の世界を一歩で通り越し、「絶対者」のうるわしき段階に住み、権威と支配の世界にテントを張った人びとは、ひとつの火花で相対性を燃やし、ひとしずくの露でこれらのことばを消し去った。そして、精神の海に泳ぎ、聖なる光の空中に飛翔するのである。
そのような段階においては、ことばから生命がなくなり、「最初」や「最後」といったことばやそのほかのことばは、認められたり述べられたりすることはない。この世界においては、最初は最後そのものであり、最後は最初そのものなのである。
愛にあふれる魂に火を起こし、あらゆる思考とことばを完全に焼きつくせ。(ルーミの詩)
おおわが友よ、自分自身に眼を向けよ。あなたが息子をもうけて父親とならなかったならば、このようなことばを聞かなかったであろう。今、それらをすべて忘れよ。そして、一体性の学舎で「愛の師」に学び、神にもどり、あなたに与えられている真の地位に達するように、あなたの内部にある実体のない世界を捨て、知識の木陰に定住せよ。
おお親愛なる者よ。高遠なる富の宮廷に入ることができるように、自分を貧しくせよ。栄光の川から飲み、あなたが質問した詩の意味を完全に理解できるよう、謙虚になれ。
したがって、この旅の段階は、旅人の洞察力に依ることが明らかになった。旅人はあらゆる都市にひとつの世界を発見し、すべての谷でひとつの泉に行き当たり、あらゆる牧場でひとつの歌を聞くのである。しかし、神秘の天空のハヤブサは、その胸に多くのすばらしい精神の賛歌を秘めており、ペルシャの鳥もその魂に多くの甘美なアラブの旋律を収めているのである。しかし、それらはかくされており、今後もかくされたままであろう。
わたしが語り出せば、多くの心は砕けよう。
わたしが書くならば、多くのペンは折れよう。(ルーミの詩)
この高遠な旅を終え、導きの光で「真実なる方」にしたがう旅人に平安あれ。
そして、この高い段階における崇高な旅を通過したあと、旅人は「満足の谷」に入るのである。
満足の谷
「この谷」で、旅人は精神の段階から吹き寄せる聖なる満足の風を感じる。かれは欲望のヴェールを燃やし、内なる眼と外なる眼をもって、万物の内部と外部に、「神はその豊かさで、各人に報いたもう」(コーラン、4:129)日を感知する。そして、悲しみに背を向けて幸福に向かい、苦しみから喜びへと移る。また、悲嘆と苦悩は感激と歓喜へと変わるのである。
「この谷」の旅人は、外見上はちりの上に住んでいても、内面では神秘的な意味をもつ高遠な王座につく。旅人は、内的な意味のあふれる恩恵という食事を食べ、甘美な精神のぶどう酒を飲むのである。
以上の「三つの谷」を述べるとき、舌は無力となり、雄弁な言葉もおよばない。ペンはこの領域に進むことはできず、インクはただしみを残すのみである。これらの段階で、心の小夜鳥は別の歌や神秘を見いだす。それらは心をふるい立たせ、魂を動かすものであるが、その神秘の内なる意味は、ただ心から心にささやかれ、胸から胸へと打ち明けられるのみである。
神秘を悟った者の喜びは、心から心へと伝えられるのみである。それを語れる使者もなく、それを託せる書簡もない。(十四世紀の詩人、ハーフェズの詩)
多くの事柄に無言であるのは、わたしの弱さのゆえである。わたしの言葉はそれらを説明することも語ることもできない。(アラビア語のことわざ)
おお友よ、この神秘を秘めた庭園に入るまでは、決して「この谷」の不滅のぶどう酒に口をつけることはできない。そして、それを一度味わうならば、他のものには眼もくれず、満足のぶどう酒を飲み干すであろう。さらに他のすべてから自分を解き放し、その方と結ばれ、その道に命をささげ、魂さえも投げ出すであろう。しかしながら、この領域には「そこに神があり、神以外には何もない」(イスラム教の伝承)のことば通り、あなたが忘れるべきものは何もない。
なぜなら、この段階において、旅人はあらゆるものの中に「聖なる友」の美を目撃するからである。
火炎の中にさえ「最愛なる方」の顔を見るのである。また、幻想の中に実在の秘密を発見し、属性の中から「本質なる方」の謎を解読する。というのも、旅人はその吐息によってヴェールを燃やし、一目見ただけでおおいを取りのぞくからである。また、鋭い洞察力で新しい創造界を見つめ、澄んだ心で深遠な真理を把握するのである。このことは、「今日、あなたの視力を鋭くした」(コーラン、50:21)という句によって十分立証されている。
純粋な満足の段階を旅したあと、旅人は「驚嘆の谷」に到着する。
驚嘆の谷
ここで、旅人は壮大な大洋にもまれ、刻一刻とその驚きは増してゆく。ここで、かれは富の形を貧困そのものと見、全く無力であることを自由の真髄と見なすのである。そして、「栄光に輝く方」の美にあ然とし、ふたたび自分の生命に疲れを感じるのである。
この驚嘆の旋風で、いかに多くの神秘の木が根こそぎにされ、いかに多くの魂が消耗したことであろう。なぜなら、この谷で旅人は混乱におちいるからである。とはいえ、目標に達した旅人の眼には、その驚きは尊ばれ、愛されるものである。そして、絶えず新しい創造であるすばらしい世界を発見し、驚嘆から驚嘆へと進み、「一体性の主」の働きを前に畏敬の念に打たれ、われを忘れてしまうのである。
おお兄弟よ、実に、創造されたものをひとつづつ熟考するならば、そこに無数の完全な英知を目撃し、無数の新しく、またすばらしい真理を学ぶであろう。創造された現象のひとつに夢がある。夢の中にいかに多くの秘密が託され、いかに多くの英知が秘められ、いかに多くの世界がかくされているかを見よ。
たとえば、あなたは家の中で眠りについており、門には錠がおりているとする。ところが、夢の中で、とつぜん、遠くはなれた町にいる自分を発見する。しかし、その町に行くのに足を動かすこともなく、身体を疲れさせたわけでもないのである。また、眼を使わずに見、耳を用いずに聞き、舌を動かさずに語る。そして、十年後、その夜夢に見たことがそのまま実際の世界で現実となるのを目撃することがある。
さて、夢の中には、熟考に価する多くの英知が秘められているのである。しかし、「この谷」に居る人以外は、それらの英知の本当の価値を理解することはできない。
第一に、眼も耳も手も舌もないのに、それらをすべて用いることのできる世界とはどのような世界なのであろうか。第二に、十年も前に眠りの世界で見た光景を、今日、現実の世界で実際に見るというのは、どうしてであろうか。この二つの世界の違いと、それらに秘められている神秘について深く考えよ。
そうすれば、あなたは神の確かな証拠を得、聖なる発見をし、神聖な領域に入ることができよう。
「高遠なる者」である神が、これらのしるしを人間の中に置いた目的は、哲学者たちが次の世における生命の神秘を否定し、人間に約束されていることを軽んじないようにである。なぜなら、ある者は、理性を重んじ、理性によって理解できないものをすべて否定するからである。また、弱い知性の持ち主は、ここで述べたことを決して把握することができない。それを理解できる者は、「崇高で神聖なる知性の持った方」だけである。
か弱い知性にどうしてコーランが包含できようか。
また、クモの巣にどうして不死鳥が捕らえられようか。(神秘主義の詩)
これらの状態はすべてこの「驚嘆の谷」で目撃される。そして、旅人は絶えずより多くを求めるが、疲れることはない。このように、「最初と最後である主」は、さまざまな思考段階を説明し、驚きをあらわし、こう語った。
「おお主よ、あなたに対するわが驚嘆の念を強めたまえ」
同様に、人間がいかに完全な創造物であるかについて熟考せよ。また、これらの段階や状態はすべて、人間の中に折り込まれ、かくされていることについて熟考せよ。
あなたの内には宇宙が折り込まれているのに、あなたは自分を取るに足らない形とみなすのか。(アリの言葉)
したがって、われわれは動物のような状態から抜け、人間性の意味が明らかになるまで、努力しなければならない。
英知の泉から飲み、慈悲の聖水を味わったロクマン(コーランに登場する伝説の哲学者)もまた、息子のナタンに復活と死の実体を立証しようとしたとき、その証拠および一例として、夢を引き合いに出した。
このはかないしもべをとおして、「神の一体性」の学舎で学んだ若者と、教育の名人と、「絶対者」の記憶を人びとが長くもちつづけるように、わたしはロクマンの話をここに紹介するのである。
ロクマンは言った。「おお息子よ、もし眠ることができないならば、死ぬこともできないであろう。また、眠りから覚めることができないならば、死後によみがえることもできないであろう」
友人よ、心は永遠の神秘が宿る場所である。それを空しい幻想の住家としてはならない。すばやく過ぎ去ってしまうこの世のことにあくせくとし、生命という貴重な宝を無駄にしてはならない。あなたは神聖な世界から生まれた。心を地上のものにしばられてはならない。あなたは神に近い宮廷の住人である。ちりの世界を自分の故郷として選んではならない。
要約すれば、これらの段階を述べようとすれば、かぎりがない。しかし、地上の人びとから受けた虐待のために、この「しもべ」はこれ以上つづける気になれないのである。話はまだ終わっていないが、わが心はこれ以上耐えられない。ここで、われを許したまえ。(ルーミの詩)
ペンはうめき、インクは涙と化し、心の川は血の波で流れる。「神がわれわれに定めたもうた以外のことは何も降りかかることはない」(コーラン、9:51)「正しき道」を歩く者に平安あれ.高くそびえる驚嘆の頂上に登りつめたあと、旅人は「真の貧困と全くの無の谷」にたどりつく。
真の貧困と全くの無の谷
この地位は、自我を捨て、神の中に生きることであり、自分に貧しくなり、「希望の的なる方」の中で豊かになることである。ここで述べられている貧困は、創造界のものに貧しく、神の世界のものに豊かであることを意味する。
なぜなら、真の愛を抱く献身的な友が、「最愛なる方」の面前に達したとき、「愛される方」のかがやく美と、愛する者の心の火は激しく燃え上がり、すべてのヴェールとおおいを焼きつくすからである。しかり、愛する者の心臓から皮膚にいたるまですべて燃え上がり、「聖なる友」以外は何も残らないのである。日の老いたる者の特性があらわされたとき、モーゼは地上のものの特性を焼きつくした。(ルーミの詩)
この地位に到達した者は、この世に属するすべてのものから聖別された者である。したがって、神の面前という大洋に達した者が、物質的な富や個人的な意見といった滅びゆく世界の限りあるものを全く所有していないとしても、それは問題ではない。
なぜなら、創造された者の所有物はすべて、それ自らの限界で制限されているからである。しかし、「真実なる方」がもつものは何であれ、その限界を越えて聖別されているのである。この言葉の意味が明らかになるためには、深く熟考しなければならない。
「まことに、正しき者は、樟脳の泉で熟成したぶどう酒の杯を飲み干すであろう」(コーラン、76:5)
「樟脳」の意味が理解できれば、真の意図が明らかとなろう。この状態が、「貧しさこそわが栄光なり」(イスラム教の伝承)と言われている貧しさのことである。
内的な貧しさと外的な貧しさには、多くの段階と意味があるが、ここで述べるには適切でないと考える。したがって、別の機会にゆずるが、それは神の意志と運命によって決められよう。
この段階で、旅人の中に残された万物の痕跡は消され、聖なる顔は暗やみを破り、永遠の地平線上にあらわれる。そして、「地上のすべてのものは滅び去り、あなたの主の顔のみが残る……」(コーラン、55:26,27)という句が明らかになるのである。
おおわが友よ、精神の歌に心と魂を傾け、自分の眼のようにそれらの歌を大事にせよ。なぜなら、聖なる英知は、春の雲と同じで、人びとの心の大地に、いつまでも降り注ぐものではないからである。
また、「恵み深き方」の恩恵は、決して止まることも絶えることもないが、各時期と時代にその分け前が定められており、また、特定の恩恵が準備され、その度合いも定められているからである。
「万物の宝庫はわれと共にあり、そして、われは定められた度合いに応じてそれらを下す」(コーラン、15:21)「最愛なる方」の慈悲の雲は、精神の庭園にのみ降り注ぎ、春の季節にのみ恩恵を与えるのである。ほかの季節はこの偉大な恩恵にあずかることはできない。また、不毛の大地はこの恩恵を受けることはない。
おお兄弟よ!すべての海に真珠があるわけではない。すべての枝に花が咲き、小夜鳥がさえずるわけでもない。
それゆえに、神秘の楽園の小夜鳥が神の園にもどり、天来の朝の光が「真理の太陽」に帰る前に、この滅びゆくちりの世界で、不滅の園から芳香を嗅ぎ、その都の住民の陰の下で永遠に住まうことができるように努力せよ。あなたがこの最高の地位を得、この最も強大な段階に達したとき、「最愛なる方」を仰ぐことができ、他のすべてを忘れ去るであろう。
おお視力ある人びとよ。「最愛なる方」はヴェールを払い、城門と壁に光を投げかけている。(アッタールの詩)
今や、あなたは生命のしずくを放棄し、「命を与える方」の海に到着した。これこそが、あなたが求めた目的地である。神の意志に添うならば、あなたはその目標を得るであろう。
この都では、光のヴェールさえ粉々に砕かれ、消滅するのである。「光のヴェールのみが『その方』の美を包み、啓示のおおいだけが『その方』の顔に掛けられている」(イスラム教の伝承)
「最愛なる方」の姿は太陽のようにはっきりと見えるが、思慮なき人びとは安ぴか物や卑金属を未だに探し求めているというのは、何と奇妙なことであろうか。しかり、啓示の強烈さは「その方」を包み、みなぎる光輝は「その方」をおおいかくした。「その方」は太陽のごとく燦然とかがやいた。しかし、悲しいかな、盲目の町に到来したのである。(ルーミの詩)
「この谷」において、旅人は「存在者と啓示されたものの一体性」(凡神論:自然のすべてが神であるとする説)の段階をあとにし、これら二つの地位を超越した聖なる一体性に到達する。このテーマを理解できるのは言葉や論証ではなく、忘我のみである。旅路のこの段階に定住した者や、この庭園からの息吹をとらえた者はすべて、わたしが語ることを知るのである。
この旅路の全過程で、旅人は「法」からわずかでも逸れてはならない。なぜなら、これこそ「聖なる道」の秘密であり、「真理」の木の果実であるからである。そして、旅のすべての段階で、旅人は法への服従という衣にすがり、禁じられているものすべてを避けるという綱をしっかりと握りしめなければならない。そうすることにより、旅人は法の「聖杯」にはぐくまれ、「真理」の神秘を知るようになろう。
この「しもべ」の言葉が理解できないか、または混乱を招くならば、同じ箇所をふたたび質問せよ。そうすれば、疑問が一掃され、その意味が、「栄光の地位」(コーラン、17:81)よりかがやく「最愛なる方」の顔のように明白となろう。
これらの旅は、時間の世界においては、眼に見える終わりはない。しかし、この世から愛着をはなれた旅人には、眼に見えない確証が注がれ、大業の守護者の援助があれば、七つの段階を七歩で通過することもできよう。それどころか、七呼吸で通ることも、いや、神の意志であれば、たった一息で通過することもできよう。
これは、「神は望むままに、しもべらに恩恵を与えたもう」(コーラン、2:84)という句によるものである。
唯一性の天界に飛翔し、「絶対者」の海に達した者は、この都市を、神秘を知った者が到達する最高の状態と見なす。また愛する人びとがたどりつく最後の故郷とも考える。この都市は神の中に生きるという段階である。
しかし、神秘の大洋にいるこのはかない者は、この段階を心の要塞に通じる最初の城門と見なすのである。すなわち、人間が心の都に入るときの最初の門なのである。そして、心にも四つの段階があり、それらについては、同じ気質の者があらわれたときに、詳しく述べよう。
この地位について描写しようとしたとき、ペンは砕け、紙は破れた。(神秘主義文学より)
平安あれ。(本文の終わりを示す言葉)
おおわが友人よ。多数の猟犬が、この一体性の砂漠のガゼルを追っている。多数の猛鳥が、永遠の園のツグミに爪を立てている。神の天界に舞うこの鳥を、情け容赦のない烏の群れが待ち伏せている。また、愛の牧場に住むこの鹿に嫉妬に燃える狩人が忍び寄っているのである。
おおシェイクよ。この炎を逆風より守れるように、ガラスのほやをつける努力をせよ。この光は、主のランプに灯ることを切望し、精神のほやを照らすことを願うのである。
なぜなら、神の愛のために上げられた頭は必ず剣で落とされ、あこがれに燃える命は、かならず犠牲にされ、「最愛なる方」を記憶する心は必ず血であふれるからである。次の詩は十分にそれを説明するものである。
愛から解放されて生きよ。
なぜなら、愛のもたらす平安は苦悩であり、愛の始まりは苦痛であり、終わりは死であるから。(ハーフェズの詩)
「正しき道」に従う者に平安あれ。
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