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ひとつの共通の信教(2004)

(バハイ世界センター、万国正義院監修)

序文

2002年レズワン、われわれは世界の宗教的なリーダーに公開状を送りました。 われわれの行動は、派閥的な憎悪という病気が、もし決定的に抑制されないなら、痛ましい結果が、ほぼ世界全体に影響を及ぼすであろうという認識から生じました。 この手紙では、バハイも初期段階から貢献しようと努めてきた 宗教間活動の業績を認めました。 にもかかわらず、われわれは、もし宗教的な危機が、人類を苦しめて他の偏見に関して起こっているのと同等の対応が求められるのなら、組織宗教も、遠い過去から受け継いだ固定観念を超えるという同等の勇気を持たなくてはならないと率直に感じました。

なによりも、われわれは、すべての文化的な表現や人間的な解釈の多様性を超えて、宗教もまたひとつであるという真理の意味するところを、宗教的な指導者たちが、正直に直面しなくてはならない時が来た、というわれわれの信念を表現しました。 宗教間の運動を引き起こし、過去百年間の浮き沈みを通して、その運動を支えてきたもが、この真理の意味合いだったのです。 偉大な宗教の合法性に挑むどころか、この原理は、それらの宗教の継続性を保証する能力があるのです。 しかし、その影響力を発揮するためには、この真理の認識は、宗教的な対話の中心において作動しなくてはなりません。それで、われわれが、手紙の中で、この原理を明確に表現した理由でした。

反応はすばらしいものでした。 世界中のバハイ諸機構は、主な宗教的共同体の何千という有力な人物に、この手紙を届けました。 一部では、このメッセージの内容が無視されたこと自体は、おそらく驚くべきことではありませんでしたが、バハイの人々の報告では、全体的に暖かく歓迎されたということでした。 特に心を打たれたのは、宗教的機構が、本質的に精神的・道徳的な問題に関して、人々を助けることができないでいるという点を、メッセージを受け取った多くの宗教的指導者たちが誠実に感じているということでした。 話し合いは宗教を信じる大衆のお互いとの関係が根本的に変わる必要性に進んでいきました。かなり多くのケースで、メッセージの受領者たちは、各宗教内の他の聖職者たちにコピーを渡したいという意思表示がなされました。 われわれは、われわれのイニシャチブが、宗教の目的に関して、新たな理解の道が開かれるための触媒となることを期待しています。 この変化がどのような速度で起きるかにかかわらず、バハイの人々は、自分自身の責任をまずきにしなくてはなりません。 バハオラのメッセージを世界中至る所で人々に伝えられるようにするのは、バハオラを認めた人々に、バハオラご自身が課された仕事です。これはもちろん、バハイの人々が信教の歴史上、常に携わってきた仕事です。しかし、社会的秩序が加速的に崩壊しつつある今、宗教的な精神は、本来可能であったはずの治癒的な影響力を長い間妨げてきた、その束縛から解放しなければならない必要性がさらに増しているのです。

このニーズに応えるために、バハイの人々は、人類の精神的な生活が進化していくプロセスについて深く理解する必要があります。バハオラの書は、宗教的問題の話し合いを、宗派的な考え方や一時的な考え方を超えて可能にする洞察を与えてくれます。この精神的な資源を活用するという責任は、進行という贈り物から切り離すことができません。バハオラは、こう忠告しておられます——「宗教的な狂信と憎悪は、世界を焼き尽くす炎であり、その勢いは誰求めることができない。神の御手のみが、人類をこの人類を荒廃させる苦しみから救えるのである」と。バハイの人々は、このニーズに応える努力をするにあたって、助けが得られないと落胆するどころか、自分らが奉仕する大業は、宗教的背景にかかわらず、至る所に住む人々の間で、いや、宗教的な背景を持たない多くの人々の間でさえ、起きている(精神的な)覚醒の先頭に立つ「鏃」(やじり)であるということに、ますますと気づくことでしょう。

このチャレンジについて熟考した結果、われわれは、この後に続くドキュメントの作成を委託するに至りました。「ひとつの共通の信教」というこのドキュメントは、われわれの監修のもとに作成されています。それは、現代の危機を背景として、バハオラの書、そしてその他の宗教の聖典から関連箇所を引用して、考察しています。友らの思慮深い学習のために役立てることをお勧めいたします。

万国正義院

ひとつの共通の信教

新たに始まりつつある歴史的な時期は、バハオラのメッセージを広めようとする努力に対して、最近終わったばかりの世紀よりも受容性のある時代であると確信を持てる理由が十分にあります。あらゆる兆候が、人類の意識の海が変化を遂げようとしていることを示唆しています。

20世紀の序盤、実在性を物質主義的に解釈しようとする動きが確立し、社会の方向性という意味では、世界中の人々の信念を支配するに至りました。そのプロセスの中、約1,000年続いた、人間の性質の文明化という動きは、軌道からはずされました。西洋の多くの国々で、社会の導きの焦点として機能してきた聖なる権威——その解釈の表現こそ多様ではありましたが——は解消され、消滅してしまったようでした。おおよそにして、個人的なレベルでは、人は、物質的存在を超える世界と自分の生活をと結びつけるものを信じる自由を与えられましたが、社会全体としては、そのような考え方は、よく言って「作り話」、最悪の場合には人を惑わす「アヘン」として見なされ、進歩を妨げるものとして断絶させられました。つまり、人類は、自らの運命を自分自身の手に委ねてしまったのです。われわれは理知的な実験と論議を通して、人類の統治と発展に関する基本的な問題を全て解決したのだ——このように人々は信じさせられました。

この姿勢は、何世紀もかけて培われてきた価値観や理想や分野はいまや確立され、人間の本質を表す永続的に表現できるものであるという前提条件により、強化されました。それらのものは、教育によりさらに洗練され、法律の制定により強化されれば完成したものになったのです。過去の時代が残した、道徳的な遺産とは、宗教の仲介をもはや必要としない、破棄できないものでした。明らかに、規律を受けていない個人や集団、いや、国家でさえも、社会の秩序の安定を脅かし、矯正を必要とします。しかし、これまでの歴史の全ての力が、人類に課してきた普遍的な(世界的)文明という目標は、今や、実在性に関する非宗教的な考え方に影響を受けつつ、抵抗のできない勢いで出現しています。幸福とは、より優れた健康、食物、教育、生活水準で計られています。これらの目標は、疑いなく、好ましいものです。そして、その達成は、その追及に熱中している社会が達成できるところまで来ているように見えます。

地球上の大部分の人々が住む地域では、「神は死んだ」という安易な宣告は、ほとんど知られないままでした。アジア、アフリカ、ラテンアメリカそして太平洋の島々の人々は、人間の性質は、精神的な力により強い影響を受けているどころか、彼らのアイデンテイテイーそのものが精神的であると確信しています。その結果、これまでそうであったように、宗教が、生活における究極の権威として機能しているのです。このような信条は、西洋で起きた思想的な革命により直接の影響は受けなかったものの、諸民族や諸国の交流という意味では、軽視されてしまったと言えます。独断的な物質主義は、世界的な規模で権力と情報の中心地を貫通し、捉えました。そして、世界的な経済的搾取の活動に誰も挑むことができないようにしました。二世紀に及ぶ植民活動により与えられた文化的なダメージに加え、それにより影響を受けた大衆の内面的な生活と外面的な生活の間に苦しみを伴う分断がなされました。この分断は、生活のほぼあらゆる面に侵攻しています。これらの人々は、自分たちの将来を描く力も失い、さらには子どもたちの道徳的安寧さえも確保できず、危機に直面しています。それは、欧米で勢いを増してきている危機とは異なりますが、多くの点で、もっと深刻な危機であります。信仰は、人々の意識の中で中心的な位置を維持してはいますが、これらの出来事を阻める力がなくなったかのように見えました

したがって、20世紀が終わり近づくにつれ、地球規模で宗教が関心の的になるということは思いもよらなかったわけです。しかし、まさにそれが今、懸念と不満に膨らんだ形で起きています。それは、精神的な空虚により起きている現象なのですが、それ自体、人々はぼんやりとしか気づいていません。古くから存在していた宗派間の闘争は、辛抱強い外交的な技能には無頓着で、さらに辛らつさを増して現れました。聖書に関する話題、奇跡的な現象、神学的なドグマは、それまで無知だった時代の残物として放りさられていましたが、厳粛に、また無差別に、有力なメデイアで取り上げられました。多くの国で、政治的な地位に着くためには、宗教的な背景や業績が重要で新たな意味合いを持ちました。そして、ベルリンの壁が崩壊することで国際的な平和の夜明けが来たと信じていた世界は、諸文明の間で戦争が起きようとしているという警告を受けました。それは、和解できない宗教間の敵対感という性質を帯びた戦争です。書店、雑誌スタンド、ウエッブサイト、図書館は、宗教や精神性に関する、大衆の尽きない関心に応えようと奮闘しています。おそらく、この変化をもたらした最もしつこい要因は、自己規律や道徳的行動を可能にする力として、宗教的信条に代わるものがないことをなかなか認識できないでいることです。

このように宗教が集めた注目を超えて広まったのが、精神的な探求の復活です。これは通常、単に物質的な存在を超えた自分のアイデンテイテイーを見つけたいという衝動というような表現で表されています。これは様々な追求を刺激しており、肯定的なものも、否定的なものも含まれます。一方では、正義を追求し、国際平和を促進する社会における個人の役割に新たな装いをもたらす効果があります。同様に、環境保護や女性権利拡張運動などは、社会レベルの意思決定における変化をもたらす支持を得ようということに焦点を当ててはいますが、人々の自己概念や人生の目的に関して考え直す機会を与えています。全ての主要な宗教で起きている方向転換は、信者たちが、伝統的な宗教から、精神的な探求や個人的な体験を重視する宗派へと加速的に移行している現象を示しています。また、その反対の極では、宇宙人の目撃、「自己発見」の法、大自然探索、カリスマ的存在者の崇拝、様々なニューエイジ関連の熱狂、薬物や覚醒剤による意識の刺激などが、一世紀前の歴史的転換期に起きたスピリチュアリズムや神知学よりもはるかに多くの信奉者を生み出しています。バハイにとって、多くの人の心に嫌悪感さえ催すかもしれないカルトや活動があふれている現象は、古いマジュヌンの話に具現されている洞察を思い出させるだけです。この話の中で、マジュヌンという人物は、純粋な精神であるレイリを必死で塵の中に探しています——「どこで彼女を発見できるかわからない。だからわたしは所かまわず、彼女を探すことにしているのだ」[1]

宗教に関する関心が復活した現象は、ピークに達したとはいえません。それは、厳格に宗教という分野にせよ、もっと広義の精神性という分野にかかわらず、です。逆に、この現象は、着実に勢いを増している歴史的な力の産物であります。それは、20世紀が遺産として残した、物質的存在が究極の実在性を表しているのだという確信を揺るがしています。

このような再評価という現象の最も明らかな原因は、物質主義的な事業の破綻です。百年以上もの間、進歩という考えは、経済的な発展、そして社会的な改善を動機づけ、形成する能力と同一視されていました。意見の相違はあっても、それはこのような世界観に挑もうというものではなく、その目標をどうすれば最もよく達成できるかという点での相違に過ぎなかったのです。その最も極端な形態である「唯物論的科学」は、歴史と人間行動のあらゆる面をその狭い用語体系で解釈しようとしました。その初期の提唱者たちを刺激したのが、以下に人道的な理想論であったにせよ、最終的には、その支配下にある無力な大衆の生活を強制的に統制しようとする全体主義的な体制を作り上げるだけでした。そのような虐待を正当化するために掲げられた目標とは、貧困から解放され、人間の精神の可能性を実現させる新しい社会を創造することだったのです。最終的には、80年間の増大する愚行と暴虐の末、この運動は未来世界への教訓として崩壊していったのです。

その他の社会的な実験は、非人道的な手段を用いることは拒否したものの、その道徳的・知的推進力の源泉は、前者と同じ実在性に関する限られた概念でした。彼らの世界観は、人間は経済的な幸福に関しては利己的であるために、正義と繁栄の社会の建築は、近代化と呼ばれる方法で確保できる、というものでした。しかし、20世紀の最後の数十年は、その逆の結果を生み出しています。つまり、家族生活の弱化、犯罪の増加、教育制度の崩壊、そして、バハオラご自身が警告を出された、人間社会に差し迫っている、その他の様々な社会的な疾病の集まりでした——「その状態は実にあわれなものになり、現在それを暴露することは相応しくないほどである」[2]。

社会経済開発というものの運命でさえも、最も理想論的な動機でさえも物質主義の根本的な欠陥を是正することはできないことを示しました。第二次世界大戦の混沌状態の初期に生まれた「開発」の事業は、人類がそれまで集団的に取り組んだ中で最大で最も野心的な事業でした。その人道的な動機は、膨大な物質的・技術的投資に見合うものでした。五十年後、この事業は、かなりの益を生じたとは言えますが、独自の基準により、大失敗だったという判決を下さるを得ません。近代化の益を存分に楽しむごく一部の人類の安寧と、絶望的な欠乏状態の泥沼に落ち込んだ大部分の世界人口との間のギャップを狭めるどころか、高遠なる目標を掲げて始まったこの事業は、逆にそのギャップを広げ、底なし沼に落ち込んでいったのです。

消費者文化は、人類の生活を向上させるという物質主義を今日受け継ぐものですが、それのインスピレーションとなっている目標のはかない性質にもかかわらず、恥ずかしさも感じずにどっしりと腰を構えています。消費をする余裕がある少数の人々にとって、その益は即座のものであり、その理論的根拠も物おじをしません。この新しい信条は、伝統的な道徳性の崩壊によりさらに大胆になり、それは、動物的衝動の勝利に他なりません。つまり、この動物的衝動は、超自然的な制裁の抑制から解放されて、食欲のように本能的で、かつ盲目的になったのです。その最もあからさまな被害者は、言葉です。かつては道徳的に低俗と非難されていた傾向は、社会的進歩に必要なものとなりました。利己主義は、重要な商業的資源となり、虚偽は公の情報に変身しています。あらゆる種類の異常が恥じることもなく人権としてまかり通っています。適切な婉曲語法を用いて、貪欲、肉欲、怠惰、傲慢は——そして暴力でさえも——広く受け入れられているだけでなく、社会経済的な価値をも得ています。皮肉なことに、言葉は意味を失ってしまったばかりでなく、真理が容易にも代償となっている物質的安楽と獲得も意味を失っているのです。

明らかに、物質主義の過ちは、生活の向上を目指すという賞賛さるべき行為にあるのではなく、その使命を定義した視野の狭さと、根拠のない自信にあったのです。その目標の達成のために必要な物質的繁栄と科学技術的な進歩の重要性は、バハイ信教の書物を通して述べられているテーマです。しかし、最初から必然的であったように、人類の肉体的・物質的安寧を精神的・道徳的発達から切り離そうという勝手な行為は、物質主義的な文化が仕えようとしていた、まさにその人々の忠誠を捨て去ることにより、終わってしまったのです。「世界がいかに日々新たな病に冒されているか、見るがよい」——バハオラは、こう忠告しておられます——「その病は全く絶望の階段に近づきつつある。と言うのは、真の医師は治療を施すことを妨げられ、他方、未熟な医者が好まれ、完全に思いのまま振舞う自由を許されているからである。」[3]

物質主義の約束が幻滅に終わるのに加え、人類が21世紀にもたらした実在性に関する誤った概念を弱らせたのは、地球規模の統一化です。最も簡潔なレベルでは、これは、コミュニケ−ション・テクノロジーにおける進歩という形で現れています。それは、地上の多様な諸民族間の交流の道を広げました。情報へのアクセスという利点は、個人間や社会間の情報交換を促進するだけでなく、過去の学習の蓄積を、人類という家族全体の財産という形に集約できるのです。かつて、このような知識の蓄積とアクセスは、特権を得たエリート層に限られていました。地球化というものが永続させてしまう——いやさらに悪化させてしまう ——忌まわしい不公正が生じたにもかかわらず、知識ある観察者はみな、そのような変化が、実在性に関する概念を見直す刺激を与えたという事実も認めることでしょう。

技術的な要因とは他に、地球の統一化は、より直接的な影響を思想に与えています。たとえば、大衆が国際的な旅行をすることにより生じた、地球規模の意識の変化は誇張しきれないほど、強烈です。また、バブがその使命を宣言なさってから1世紀半の間に目撃された地球規模の人口の大移動の結果はさらに大きなものです。何百万もの難民たちが、特に欧州・アフリカ・アジア大陸を潮が満ちひくように移動しました。そのような騒乱の最中、世界の諸人種や諸文化が、地球というひとつの国の市民として徐々に統合されていくのが見られます。あらゆる背景の人々が、それまで祖先が知ることもなかったほかの文化や習慣について知るに至りました。そして、それは、必然的に、その意味合いを探るというプロセスにつながっていったのです。

バハオラが書簡を送られた世界の指導者の誰か一人でも、道徳的な資格により支持される実在性の概念について考えてみる時間を割いたならば、過去一世紀半の歴史はどう変わっていたか、想像もできません。その道徳的な資格とは、実は、彼ら自身が最高のものと呼ぶようなものだったのですが。このような過ちにもかかわらず、バハイにとって疑いの余地がないのは、バハオラのメッセージに宣言されている社会の変革は、着々と実現されているということです。発見や苦労を共有することによって、多様な文化背景を持つ諸民族は、想像上の違いという表面のすぐ下に存在する共通の人類という認識を持ってお互いと面と向かうようになりました。ある社会ではいまだに頑固に反対されていようが、あるいは別の社会では無意味で息詰まるような制約からの解放として受け入れようが、地上の住人は「ひとつの樹の葉」[4]であるという感覚はは、人類の集団的な努力を評価する基準となりつつあります。

物質主義の確実性への信念が失われ、人類の経験が進歩的にグローバル化されたことは、存在の意義について深く理解したいという切望において、互いに強化しあっています。基本的な価値観は挑戦を受け、偏狭的な愛着は捨てられ、かつては思いもよらぬ要求が受け入れられるようになりました。この普遍的な騒乱こそが、過去の宗教の聖典が 「復活の日」という比喩表現を用いて描写した事象である、とバハオラは説明しておられます——「叫び声が上げられ、人々は墓から出てきて、起き上がり、周りを見回している」[5]。これらの混乱と苦しみの背後にあるプロセスは、実は精神的なものなのです—「すべてに慈悲深き御方の微風は漂い、魂たちは墓から蘇った」[6]。

過去の歴史を通して、精神的な発達の主な動因は、大宗教でした。地上の大部分の人々にとって、これらの信仰体系の聖典が、バハオラの言葉を借りて言えば、「神の都」[7]という役割を果たしてきました。それは、意識全体を包み込む知識の源泉であり、それは、誠実な者に「新しい眼、新しい耳、新しい心、新しい意志」[8]を授けるほど、強烈なものです。宗教文化が大きく貢献した膨大な文献に、何世代にもわたる真理の探求者たちが語ってきた超越性の経験が記されています。何千年もの間、神の囁きに反応を示した人々の人生は、音楽や建築やその他の芸術に、息を呑むような業績を残し、何百万もの同胞たちに、その魂の経験を限りなく模写してきました。それに匹敵するような勇敢さ、自己犠牲、自己規律を表す力は、この生存世界には他に見当たりません。社会的なレベルでは、宗教がもたらした道徳的原則は、社会の普遍的な法律となり、人間関係を調整し、高めてきました。このような観点から見ると、世界の主要な宗教は、文明の主要な推進力として現れてきます。これに反論することは、歴史的な証拠を無視することになります。

それではなぜ、この非常に豊かな宗教的遺産は、今日の精神的探求を呼び起こす中心的な場としての役を果たしていないのでしょう。周辺部では、各信教の原点に戻って教えを再形成し、社会に新たな訴えをかけようとしていますが、意味づけを求める努力の大部分は、散乱し、それは考え方が個人中心的であったり、一貫性に欠けていたりします。聖典が変わったわけもないし、そこに収められている道徳的原理が妥当性を失ったわけでもありません。「天」に答えを求める者は、粘り強く努力を続ければ、聖書の「詩篇」や「ウパニシャッド」に答えを見出すでしょう。この物質的世界を超越する「実在性」を少しで感じている人であれば、イエスや仏陀が詳細に語っている言葉に心を打たれることでしょう。コーランの黙示録的なビジョンは、正義の実現は神の目的の中心に位置することを続けて確信させます。何世紀も前に生きた偉大な英雄や聖人たちの人生は、その本質的な部分において、今もなお意義深く訴えかけています。したがって、宗教を信じる多くの人にとって、現代文明の危機の最も苦痛となる局面は、真理の探究が、自信を持って宗教の道に向けられていないことです。

もちろん、問題は二つあります。まず、理知的魂は、個人的な領域のみに生きるのではなく、社会生活の活発な参加者です。偉大な信教の説いた真理の正当性は変わっていませんが、21世紀に生きる人の日常生活は、そのような導きが示された時代とは想像以上にかけ離れたものになっています。民主主義的な意思決定は、個人と権威者の関係は根本的に変わりました。女性の地位は向上し、男性と同様の権利を正当に求めることができるようになってきました。科学技術の革命は、社会の機能だけでなく、社会というものの概念そのものをも変えてしまいました。教育の普及と新しい分野の急速な発展は、社会的な移動性と統合を刺激し、市民が権利を最大限に享受できる機会を提供しています。幹細胞研究、核エネルギー、性アイデンティティー、生態学的問題そして富の活用はどれも、これまで先例のない疑問を提起しています。これらや、その他の数え切れない変化が、人間の生活に影響を与え、人間や社会に、日々、新たな選択という世界をもたらしました。それでも変わっていないのは、その是非はともかく、そのような選択を迫られるという必然的な必要条件です。現代の危機の精神的な性質がもっとも鮮明になるのが、この部分なのです。なぜなら、意思決定を迫られる事項の大部分は、実用的なものだけではなく、道徳的なものでもあるからです。したがって、伝統的な宗教への信仰が薄れたのは、現代生活を確信を持って効果的に生きるための導きがそこにあることを発見できなかったことの必然的な結果なのです。

人類の精神的切望の答えとしての伝統的信仰体系の再出現の障害となっているもうひとつの要因は、前述した地球的統合の影響です。地球上至る所で、ある宗教的枠組みの中で生きてきた人々は、然、いる人が、一見、自分たちの信条や習慣と相容れない体系で生活してきた人たちとの密接な接触を突然、余儀なくさせられるようになりました。これらの相違点は、防御的姿勢、一触即発状態の反感、公然とした敵対などにつながり得ますし、そうなることもしばしばあります。しかし、多くの場合、教義を再考慮し、共通の価値観を見出す努力につながっています。一般の人々の間に見られるこのような反応は、宗教間の活動によるところが多いです。必然的ですが、そのようなアプローチには、交流や理解の妨げとなる宗教的教義という問題点が伴い増す。自分の信条とは根本的に異なるように思われる信条を持っている人たちが、総計に値するような道徳的生き方をしている時、自分の信教が他者の信教より優れている根拠はどこにあるのだろうか。また、全ての大宗教の根本的な価値観は共通であるのならば、宗派的な愛着は、自分と隣人との間の不必要な障害を強化するだけではなかだろうか。

したがって、このテーマについてある程度客観的に精通している人は、確立された現存宗教のどれかが、現代生活における課題に関して、究極の導きとなるという幻想を抱く人はほとんどいません。たとえ、その目的のために、分裂した宗派が団結したとしても、です。世界が独立宗教と見なしている宗教は、その権威ある聖典と歴史が作った型のなかで設定されています。そして、その創始者自身の言葉を以って正当化できるように教えを改めることができないため、社会的・知的進化とともに生じる多様な疑問に十分に答えることができないのです。悲惨であるかのように見えますが、これは、進化的なプロセスに本来備わっている特徴なのです。後戻りを強制させようものならば、宗教に対する幻滅を強め、宗派間の争いを悪化させうるのです。

ジレンマは、人為的でありかつ自傷的です。今日、バハイがバハオラのメッセージを分かち合うという仕事を追求している世界秩序——もしそう表現できるのなら——は、人間の本質と社会の進化についての誤解があまりに深く根ざしているので、世の中の改善に向けた最も理にかなった、善意的な努力さえも抑圧しまっているほどです。特に、宗教のほぼ全ての局面に関する混乱に関しては、そうです。バハイの人々は、隣人の精神的なニーズに十分に応えるために、これに関連する課題について、深く理解していなければなりません。この挑戦が要求する努力は、信教の書物でおそらく最も頻繁かつしきりに繰り返されている忠告でよく理解できるでしょう。すなわち、「瞑想し」、「熟考し」、「反省する」ことです。

一般的によく言われることは、「宗教」は、現在、存在する多数の宗派を指すということです。驚くことではありませんが、このような意見には別の筋からすぐに反論があがってきます。つまり、「宗教」とは、文明全体を形成し、刺激してきた、歴史上の偉大で独立した信仰体系を意図する、という意見です。しかし、この観点に対しては、さらに別の疑問が生じます。つまり、現代世界において、これらの歴史的な信教をどこに見い出せるかということです。正確に言って、「ユダヤ教」、「仏教」、「キリスト教」、「イスラム教」そしてその他の信教は、どこにあると言えるのでしょうか。これらの信教は、自分らが権威を持ってその宗教であると主張する矛盾し、対立した組織と同一視することはできないからです。さらなる反応をあげると、「宗教」とは、単に人生に対する態度、物質的存在を超越する「実在性」との関係に他ならないというものがあります。そのような視点から見ると、宗教は個人の属性であり、組織には見出せない衝動であり、普遍的に可能な体験であると理解されます。しかし、再び、このような志向は、宗教的な考えを持つ大多数の人によれば、自己規律の権威そのものと、宗教に意味づけをする統合の力に欠けているのです。逆に、ある人々は、こう反論するでしょう——宗教とは、自分たちのように、日々の儀式や自己否定という厳格な方法を受け入れ、社会から身を断った人々の生活様式を指すのである、と。これらのあい異なる概念に共通することは、人間の理解を完全に超越していると認められている現象が、皮肉にも、その概念による限界の中に徐々に拘束されてしまっていることです。その概念とは、人間が作り出した組織的、神学的、経験的、儀礼的概念のことです。

バハオラの教えは、これらの矛盾する見解の絡まりを打開し、多くの真理を再構築しています。それらの真理は、すべての聖なる啓示の中心に、明白にまたは暗示的に存在してきた真理です。教理問答や教会の教義で神の「実在性」について理解したり、提案したりしようとすることは、自己欺瞞であることをバハオラは、書簡の中で明白にしておられます——「不可知な御本質に在し、神々しい御存在である神は、肉体的存在、上昇や下降や出現や退却などという、あらゆる人間的属性よりはるかに崇高であることが、総ての明敏で啓蒙された心の持ち主には、はっきりとしている。人間の舌が神の讃美を十分に述べ、人間の心が神の測り知れない神秘を理解することは、神の栄光からして到底できないことなのである。」[9]万物の創造主が、永遠に進化を続ける被造物と関係を持つための手段は、近接不可能なる神性の属性を顕示する預言者たちの出現です。「日の老いたる者〔神〕を知ることへの門戸は、このように生きとし生けるものの面前から閉ざされているので...無限なる恩恵の源泉は、あの輝かしい聖なる宝石達〔顕示者〕を霊界から人体という高貴な形で現わし、万人の前に明らかに示された。それによって彼等が不変の存在の神秘を世間に伝え、また神の不滅の真髄の不可思議について語るようにと。」[10]

神の使者たちの間に優劣の差をつけようとするならば、永遠で、全てを包み込む「存在」は、人間の気まぐれな好みに屈してしまうという幻想に屈してしまうことになります。バハオラは、的確な言葉でこう述べておられます——「総ての予言者達は、皆それぞれ異った衣をまとって現われた神の大業の聖堂であるということが、汝には明白であろう。もしも汝が、識別力のある眼で観察するならば、予言者達は皆同一の神殿に住み、同一の天空に舞い上がり、同一の玉座に座し、同一の事を語り、同一の教えを宣布しているのが分かるであろう。」[11]さらに、これらの独特な預言者たちの本質を物質界の体験から拝借した理論の中に包括させることができる——あるいは、包括させられる必要がある——と考えることも、同じように僭越なことである。バハオラは、「神の知識」とは、神の意志と属性を表す顕示者の知識である、と説明しておられます。人間の魂が、神の顕示者なしには言葉も理解力も及ばない創造主と密接な関係を持てるのは、その顕示者を知ることによって、です。バハオラは、神の顕示者の地位について、次のように主張しておられます——「わたしは、証言いたします。あなたの美を通して、『崇敬されし御方』の美の覆いが取り払われ、あなたのお顔を通して、『待望されし御方』のお顔が輝き出でたのす...」[12]。

このような意味での宗教は、宗教なしには想像もできない魂の潜在能力を目覚めさせるのです。自分の生きている時代の神の啓示の影響力からどれだけ益を得たかに応じて、個人の魂の性質は、聖なる世界の属性を進歩的に吹き込まれていくのです。バハオラは、こう説明しておられます——「この真理の昼の星の教えにより、あらゆる人間は、内奥にある真の自身に授けられている潜在能力をすべて顕(あら)わし得る地位に達するまで、進歩し、発達する」[13]。人類の目的は、「常に進化する文明」[14]を推進することを含んでいるので、宗教が持つ並ならぬ力は、信じる者を時間の限界から解放し、将来何世紀にも渡る世代の人々のために犠牲を引き出すという能力を持っています。まことに、魂は不滅であるがゆえに、その真の性質に目覚めることは、この世だけではなく、それを超えた諸々の世界においてはさらに直接的に、進化のプロセスに役立つための力を授けられるのです。バハオラは、こう主張しておられます——「これ等の魂が放射する光は、この世の進歩と人々の発展の原因となるものである。彼等は存在の世界を発酵させる酵母(こうぼ)の様なもので、この世の技巧や不思議が顕(あら)わされるよう活気づける力となるものである...万物は原因、原動力、活気のための源を必要とする。これ等の魂と超絶の象徴は、存在の世界に崇高なる運動の推進力を供給して来たし、又、供給し続けるであろう」[15]。

このように、信じるということは、人類と言う種の必要で消滅できない衝動であり、それは、ある有力な現代思想家により、「進化がそれ自体に気づいたもの」16として表現されました[16]。20世紀の出来事が悲しくも切実な証拠を示しているように、もし信仰の自然な表現が人為的に阻(はば)まれるなら、確証を得たいという切望を多少でもなだめるために、無価値な——あるいは堕落的でさえある——崇拝の対象物を作り出していくでしょう。

まとめると、継続する啓示のプロセスを通して、われわれが宗教と呼んでいる知識体系の「源泉」なる「御方」は、その体系が完全であり、宗派的な野望により課された矛盾を持たないことを示しておられます。神の顕示者の働きはそれぞれ、評価をできない自律性と権威を有しています。それはまた、ひとつの「実在性」を限りなく展開させていく段階のひとつでもあります。神の連続する啓示の目的は、創造の受託者としての人類の能力と責任を呼び起こすことであるので、このプロセスは単に反復されるのではなく、進歩していくものであります。また、この背景で考慮されて初めて、その意義が十分に理解されるのであります。

現在、この初期段階において、バハイは、「信教」の基盤となっているこの啓示に本来備わっている真理のごく一部しか理解していないと言えるでしょう。たとえば、大業の発展に関して、守護者はこう述べておられます——「われわれが、あえてできることは、約束された夜明けの最初の一条の閃光をとらえようと努めることだけであります。それは、時が満てば、人類を取り巻いてきた暗やみを追い払わなければならないものです」[17]。この事実は、われわれが謙虚であることを奨励することに加えて、バハオラは、現在の複数に連立する宗派組織に並べるために、この新しい宗教をもたらされたのではないということを常に思い出させるものであるべきです。むしろバハオラは、意識の発達を推進する主要な原動力としての宗教という概念全体を構築し直されたのです。多様な特徴を有していながらも人類がひとつの種であるように、その人種に潜在する心と知性の特質を開発するために神がお使いになる仲介の手段も、ひとつのプロセスなのです。そこに現れる英雄や聖人たちは、この苦闘の全ての段階で現れる英雄と聖人たちであり、そこ収める成功も、全ての段階で収める成功であるのです。これが、師(アブドル・バハ)の人生と使命で示されている標準であり、また、今日、人類の全精神的遺産の相続者となったバハイ共同体が具現している標準です。しかし、この遺産は、地上の諸民族全てが得ることのできる遺産であります。

したがって、繰り返し出てくる神の存在証明は、神は古(いにしえ)の時より、何度もご自身を顕示なさってきたということです。広義で言えば、バハオラが説明しておられるように、人類の宗教史という一大(いちだい)叙事(じょじ)詩(し)は、「聖約」の成就(じょうじゅ)を表しているのです。この「聖約」とは、万物の創造者が、精神的・道徳的発達に必要不可欠な導き、そして誤ることのない導きを人類に保証し、その導きを体得し、その価値観を行動で表現するように呼びかけておられる、その永続する約束を指しています。人は、歴史決定論的な解釈を用いて、この神の顕示者の特異な役割、あの顕示者の特有な機能と論争することもできます。しかし、そのような推論は、社会の進化に不可欠な人類間の関係の変化や、思想を変えた発展を説明する役には立ちません。有史上では指に数えられるほどに稀にしか出現していない神の顕示者たちは、その教えの権威は明確で、他のいかなる現象も匹敵できない文明の推進に影響を及ぼしているのです。バハオラは、こう指摘しておられます——「神の最高の顕示者が人々の前に現れる時のことを考えてみよ。その時が来る前、『古来の美』は人々に知られておらず、神の言葉をまだ発していない。その顕示者は、彼を知る者が誰もない世界における全知者である。彼こそは創造物のない創造主である」[18]。

前述のような宗教の概念に対して、最もよくあげられる反論は、啓示宗教の間に見られる相違点はあまりにも根本的すぎて、それらの宗教をひとつの統一された真理体系の諸段階、または局面であると述べることは、事実を歪めることになるという主張です。宗教の性質に関する混乱を考えると、そのような反応も理解はできます。しかし、そのような反論は、バハイにとって、ここで検討されている諸原則をバハオラの書に提示されている進化的な背景に照らし合わせてみることをする、格好の機会となるのです。

宗教間の相違点は慣習か教義のどちらかに分類することができます。個人の生活を管理する宗教的な慣習においては、物質的な生活という相対的な背景と照らし合わせて考えてみると役に立つでしょう。衛生、服装、医療、食生活、交通手段、戦争、建設、経済活動などにおける多様性は、それがどれだけ顕著な違いであっても、人類は、実は唯一無二なるひとつの人種ではないと言う理論を支持するために提示されることは、もはやないでしょう。20世紀が幕を開けるまで、そのような単純な論議はごく当たり前でした。しかし、歴史的・人類学的研究により、文化的な進化という継ぎ目のないパノラマが明かされています。この文化的進化を通して、人類の創造性に関する無数の表現が生まれたのであり、世代から世代へと受け継がれたのであり、ゆるやかに変化を遂げていき、しばしば遠隔の地に住む民族の間にまで広まり、彼らの生活を豊かにしたのです。したがって、今日の社会が、そのような現象の広大な光景を繰り広げていることは、それらの諸民族が変化することのない固定された存在であるということを意味するのではありません。むしろ、諸民族が通過してきた段階の違いを表しているだけなのです。しかし、これらの多様な文化的表現は、地球規模の統合という圧力を受け、現在、流動的な状態にあります。

バハオラは、人類の宗教的な生活も、同じような進化的プロセスを遂げてきた、と指摘しておられます。明確な相違点は、歴史の試行錯誤という継続的な方法で生じた出来事なのではなく、そのような慣習は、神の啓示という全体像の必要不可欠な部分を表していると言えます。それは聖典に具現化されており、何世紀もの間、几帳面に維持されてきました。啓示された行動規範は、やがてその機能を果たし、社会的進化により生じた新たな課題により、薄れていきますが、規範そのものは、人類の長い発達段階において、行動と態度の訓練という不可欠な役割を果たし、その権威を失うことはありません。バハオラは、こう主張しておられます——「これらの原則や法律、また、これらの確固として確立された強力な体系は、同一の根源から生じたもので、同一の光源の光線である。互いに異なっているということは、これらが広められた時代の様之の要求によるものと見なされなければならない」[19]。

したがって、規則や儀式や他の慣習における相違により、啓示宗教の本質的な一体性に反論を唱えることは、これらの規則や慣習が果たそうとした目的そのものを見失うことになります。いや、もっと深刻なのは、宗教の機能における永久的な部分と一時的な部分の違いという根本的なものを見失うことになるのです。宗教の本質的なメッセージは不変です。バハオラの言葉を借りれば、それは、「...過去においても、未来においても、神の永遠して不変の信教」[20]なのです。それは、魂が、創造主とのより成熟した関係を持つための道を開いてくれます。また、人間の動物的な本能を規制する道徳的自律性をより養えるようにするための道を開いてくれます。宗教の、このような役割は、文明建設というプロセスを強化する補助的な導きを提供するという役割と相容れないことは決してありません。

累進的啓示という概念は、神の啓示が下される時にそれを認めることが最終的に重要なことであるとしています。この点において、人類の大部分が啓示を認められなかったことにより、人口全体を法令と慣習の儀式化に陥れてしまったのです。それらの法令や慣習は、すでにその役目を果たし、今では道徳的な発達を阻んでいるだけです。残念なことに、今日、それをできないでいることが、大きく関連しているのが、宗教をつまらないものにしてしまうことです。人類が近代化というチャレンジと取り組み始めた頃ちょうど、道徳的な勇気と啓発の源泉であった宗教は、嘲笑の的となりました。最初は、社会の方向性について意思決定がなされるレベルで、そしてやがては、常に拡大している一般大衆の間で、です。したがって、人間の信頼を失った多数の裏切りの中でも最もひどいこの裏切りは、やがて信仰の基盤そのものを弱めることは、さほど驚くべきことではありません。それで、バハオラは、このように繰り返しなされた失敗から教訓を学ぶよう、読者に強く勧めておられます——「しばらく考えてみよ。そしてそのような否定の原因が何であったのか、考えてみよ」[21]、「そのような否定と回避の理由は何だったのであろう」[22]、「そのような論争の原因は、何だったのであろう」[23]、「考えてみよ。何が動機だったのであろうか」[24]。

宗教を理解する上で依然障害となっているものは、神学的な前提条件です。宗派に固執する偏狭さは過去に遡って見られ、聖職者により先導されてきました。議論の余地のない機構の権威を確立する聖典がない中、精鋭の聖職者達は我が物顔で神の意思の解釈を独占的に行ってきました。しかしながら、多様な動機、悲劇的効果は精神性の流れを妨げ、個人の知識の探求を阻み、儀式の細部にばかり焦点を当てる傾向をつくり、自らを精神的指導者とする者達の宗派と異なる信者に対して、憎悪と偏見を生み出してきました。神の仲裁という創造力が累進的に意識を育て続ける過程において、障害となるものは何もない一方で、いつの時代においても達成可能な範囲は表面的、人為的な障害により限られつつありました。

時を越えて神学は、偉大な信教の中心に権威を築くと同時に、時として精神的反目を生みながら伝統の礎である啓示教義を行ってきました。自分の土地に種を蒔いた地主が主人公のイエスの寓話では、現在直面する問題とその潜在的重要性がこのように書かれています。「しかし男たちが寝ていると、敵がやってきて小麦の周りにそら豆を蒔いて歩きました」[25]。召使たちがそら豆を取り除いたほうが良いと地主に言うと、「いいや、そら豆を拾い歩いて小麦を台無しにしてはいけない。収穫まで一緒に育て、収穫の時がきたら刈り手たちにまずそら豆を束にまとめて燃やすように言おう。ただし、小麦は納屋に入れるようにとね」[26]。全編にわたり、コーランには、この矛盾する支配権によってもたらされる精神的害悪に対し、最も厳格な断罪が記されています——「我が主が断じて禁じておられることは——公共場所、密室においての恥辱行為。真実または根拠に対する過失と侵害。神により権限が定められていない者を神の同類とみなすこと。神の知識を付与されていない人間が神について述べること」[27]。現在の考えでは、神学者自らの宗教に対する按手は、これらの文言で強固に非難されている背信者の行為そのものであるにも関らず、この警告が神の権威の侵害に対する抗議を封じ込める手段として使われているのは、最大の皮肉です。

実際、累進的に解き明かされる聖なる真理の啓示の新たな段階は、時代と直解主義的なイメージと解釈で固められており、その多くは事実上学び尽くされた文化から知恵を得たものでした。意識の発展、肉体の復活の概念、肉体的歓喜の至福、霊魂再来、汎神信仰にまつわる縁起等の初期段階の価値がいかなるものであろうと、地球は文字通り一つの母国となり、人間は自分をその市民であるとみなすようにならなければならない時代において、今日分離と紛争が障壁となって立ちはだかっています。この点において、独断的な神論により神の意思の理解を求める人々の道に作り出される様々な障壁に関して、バハオラの警告がいかに熱烈であるかを正しく認識することができます——「言挙げよ、おお宗教の指導者達よ。現在人々の間に広まっている基準で神の聖典を量るなかれ。なぜなら、聖典そのものが人々の間で確立された、誤ることなき秤だからである。」[28]。ローマ教皇ピウス9世へあてた書簡の中で、バハオラは今日において神が「正義の器の中で選び出したものを蓄え、焼却するにふさわしいものは火中に投じてきた」[29]と忠言しています。

神学が宗教の理解を妨げてきた複雑な状態から解放された知性は、バハオラの目を通して、これまでの聖書の節を探究することができます。「過去の時代と世紀の眼識となり、時代の闇を照らす明かりとなる今日は無類である」[30]とバハオラは断言しています。この展望を好機として捉えた結果、最も顕著に観察されるものは、世界の宗教の簡単に見分けがつく聖典の模倣とは異なる、ヘブライ聖典、聖福音及びコーランに一貫して通じる目的と原則です。同一系統の主題は定められている戒律、訓戒、叙述、象徴性及び解釈を基盤として提示され続けます。これらの土台となる真実のうち、決定的特徴は、神—現象的世界(現世)もしくは天上界の全創造物の主—の一体性を累進的に表明し、決然と断言しているところです。「我は神である。我のほかに神なるものは存在しない」[31]と聖書は宣言しています。また、同様の概念は後のキリストとマホメットの教えにおいても実証されています。

活動の中心、継承者及び世界の受託者である人類は、その創造主を知り、創造主の目的に奉仕するために存在します。最も高貴な表現の中で、神に返答しようとする人間の内在的衝動は礼拝の形として表れ、敬意が払われる対象となる力に対し、全霊を傾けて服従するようになります。「今こそ永久不滅の見えざる王、唯一賢き神に永遠なる尊敬と栄誉あれ」[32]。崇敬の精神と神の目的への奉仕の表現は同一です。「全ての賜物は神の手中にある。神は神の目に喜ばしき者にそれを与えられる。神は万人を保護し給い、また全てを知り給う」[33]。この識別により啓蒙された人間の責任は明白です。コーランは次のように述べています。「汝の顔を全世界へ向けることよりむしろ、神を信じることの方が正しい。神の愛から汝の財産を汝の親戚のため、孤児のため、貧窮者のため、旅行者のため、求める者たちのために費やすことこそ正しいのである」[34]。キリストは「汝は地の塩である」[35]と述べて、ご自身の呼びかけに応える者らの注意を引いています。「汝、世界を照らす光であれ」[36]。時を隔て、ヘブライ聖典を通して繰り返される主題、聖福音とコーランに後に再び登場する主題を要約したヘブライの預言者ミカは尋ねます。「公正に物事を行い、慈悲を愛し、汝の神と共に謙虚に歩むこと以外に、神が汝らに何を要求するであろう」[37]。

創造主の目的を理解しうる魂の能力は、単に自身の努力から育まれるのではなく、その道を開く神の仲裁により開花するという文言には共通の合意があります。イエスは記憶に鮮明に残るような指摘をしました。「私は道であり、真実であり、生命である。私に頼る以外に何人たりとも父なる主のもとにたどりつくことはない」[38]。仮に人間が、この断言を神の導きが継続する過程の段階において、教義上困難なものとしか思わないのであれば、それこそが啓示宗教の要をなす真実だと言えます。つまり、存在を創出し、維持するという不可知の実体に到達することは、天上の王国から注がれる啓蒙に覚醒することによってのみ可能なのです。最も親しまれていたコーランのスーラ(節)のひとつでは、次のような比喩をとりあげています。「神は天と地上を照らす光です。光に満ちています!神の御衣は光に導かれる人を導きます」[39]。ヘブライ人の預言者たちの場合、キリスト教で神の子として人間の姿で後に現れ、イスラム教で神の書として現れることになった神の仲介者は、アブラハム、ヤコブの12人の子供と預言者と共に、創造主により制定された拘束力を持つ契約の形であるとしました。——「そして我は、我と汝との間に契約を制定する。汝は永続する契約のために次の世代の種を蒔け。汝と共に神があらんために。汝の後の世代のために」[40]。

神の啓示が連続するというテーマは、全ての主要な宗教の暗示されていますし、通常明白に記されています。最も古い記録であり、かつもっと明白なもののひとつに、「バガバド・ギタ」の一節があります——「われは来ては去り、またやって来る。おお、バラータよ!『廉直性』が衰え、『邪悪』がはびこる時、われは各時代に起き上がり、眼に見える形で現れ、人々を動かし、善良なる者らを助け、邪悪なる者らを退け、『美徳』をその座に戻す」[41]。この継続するドラマは、聖書の基本的な構造を成すもので、それを成す諸々の書は、「神が顔と顔を合わせられた」[42]アブラハムやモーセの使命のみでなく、小預言者らの使命も語っています。小預言者らは、これらの主な創始者たちが始めたプロセスを強化し、拡大する役割を担っていました。同じように、イエスの性質がどういうものであったかに関する空想的で論争の的になってきた推測が何であれ、彼の使命をアブラハムやモーセの与えた文明への影響から切り離すことはできません。イエスご自身、彼のメッセージを拒む者をとがめるのは彼ではなく、モーセである、と述べておられます。「あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」[43]コーランが啓示されると、神の使者たちの連続性が中心的なテーマとなります。「わたしたちはアッラーを信じ、わたしたちに啓示されたものを信じます。またアブラハム、イスマエル、イサク、と諸支部族に啓示されたもの、とモーセとイエスに与えられたもの、と主から預言者たちに下されたものを信じます。彼らの間のどちらにも、差別をつけません。彼にわたしたちは服従、帰依します。」[44]

このような文節を読む客観的で共鳴する人にとっては、宗教が本質的にひとつであることが自然とわかります。「イスラム」(神への従順/服従を意味する)という言葉は、ムハムマドが創始した特定の律法時代をさすだけでなく、コーランも明確にしているように、宗教そのものを指しているのです。全ての宗教の一体性を語ることは重要ですが、文脈を理解することも不可欠です。バハオラは、宗教は最も根本的なレベルでひとつである、と強調しておられます。科学がひとつであるように、宗教もひとつであるのです。一方は神の啓示を通して徐々に真理を明かしていくのに対し、もう一方は、人間の知性が探求し、現象的世界に影響を及ぼしていくのを可能にする手段です。また、一方は進化的なプロセスを経ていく目標を定義し、他方は、その達成の援助をします。この二つは共に、文明を推進する二重の知識体系を成すのです。『師』(アブドル・バハ)は、それぞれを「『真理の太陽』の光輝である」[45]と歓呼しておられます。

したがって、モーセや仏陀やゾロアスター、イエスやムマムマド、あるいはヒンズー教聖典に影響を及ぼした一連のアヴァター(神の権化)たちが、それぞれ異なる宗教を創始したと考えるのは、彼らの地位を不十分に理解していることになるのです。むしろ、彼らは、歴史上に現れた精神的な『教育者たち』、諸文明の出現の原動力となった存在として見なされて初めて、理解されたと考えられます。福音書には、こう書かれています——「言は世にあった。世は言によって成った...」[46]。彼らが、歴史上のほかのいかなる人物よりも限りなく崇高に崇められていることは、何百何千万もの人々が心に抱いている、あの表現不可能な感情を表そうという試みを反映しています。彼らを愛することにより、人類は、徐々に、神を愛するということの意味を増した。実際、神を愛する方法は、他にないのです。人間の想像が産み出したドグマにおいて彼らの性質の神秘を捉えようとしても、それは彼らを崇めることにはなりません。いや、彼らが仲介者として発する変革の力に、魂が自分の意思を無条件に委ねることこそ、彼らを崇めることになるのです。

道徳的な意識を養成することにおける宗教の役割に関する人々の理解は、社会の形成に関する宗教の貢献に関する理解と同様に混乱しています。最も明らかな例は、ほとんどの聖典において女性の社会的地位が低くなっていることです。その結果、男性が得た益は、さらにそのような概念を強化することになりましたが、道徳的な正当化もなされました。ごく少数の例を除いて、これらの聖典は、男性に向けて語られており、女性は宗教生活においても、社会的生活においても、従属的で支えとなる役割を女性に与えています。残念なことに、そのような考えは、道徳面の重要な点である性的衝動を統制できないことを主に女性の責任にすることにより、容易に受け入れられてしまいました。現代的な思考の枠組みでは、そのようなたいぢは、すぐに、偏見や不公平として見なされます。社会的な発展の主な段階において、主要な信教が現れましたが、それらの信教の教えは、それぞれの時代の歴史的状況にて深刻な状態に陥った社会を文明化させることが主な目的でした。古代の規範を今日の社会に当てはめようとすることは、宗教が辛抱強く、徐々に道徳観を育んでいくという目的そのものを挫くことになります。

社会間の関係に関しても同様の状態が続きました。ヘブライ人の長く骨の折れる準備期間は、道徳的な挑戦がいかに複雑で長い時間を要するかを示しています。預言者たちが要求した精神的能力が眼を覚まし、発達するためには、近隣の偶像崇拝者たちの誘惑を拒まなくてはなりませんでした。この原則に違反した支配者や人民に降りかかった当然の罰は、聖典に記されていますが、神の目的によりその原則が重要視されていたことがわかります。同じような問題が、ムハムマドが創始した新しい共同体でも起きました——彼らは、異教徒のアラブ人部族たちが、野蛮な残虐さと執拗な攻撃で、イスラム教徒らの道徳の火を消そうとしました。歴史的な詳細に精通していれば、コーランでは、これについて非常に厳しい教えが出されていることがわかります。ユダヤ教徒やキリスト教徒の一神教的な信仰に対しては敬意を示すように言いつつも、偶像崇拝に関してはいかなる妥協も許されていません。比較的短い期間に、この非常に厳格な規則は、アラビア半島の諸民族を統一することに成功し、5世紀以上に及ぶ、道徳的・知的・文化的・経済的業績に優れた新しい共同体を発足させたのです。これは、その拡大の速度に関しては歴史上類を見ないものでした。歴史は厳しい裁判官であります。最終的には、そのような大事業を盲目的に締めつけようとしたものらは常に、聖書が記している人間の潜在的能力、そしてイスラム文明の天才的な進歩という益から遠ざけられてしまうのです。

社会が成熟していく進化の過程を理解するにあたって最も論議の的となったものひとつとして、犯罪と罰というテーマがあげられます。詳細や程度こそ差はありますが、ほとんどの聖典では、社会や個人に対して成された暴力行為に対する処罰は、かなり厳しい傾向にあります。さらに、被害者または被害者の家族が報復をすることを許す場合もありました。しかし、歴史的な視点から見ると、他に実用的な手段がなかったことがわかります。現代社会の行動変容のプログラムのような手段は当然のこと、刑務所や警察さえも存在しなかった時代や社会では、社会の風紀を乱し、進歩を妨げるような行為が道徳的に不適切であること—そして実用的なコストもかかったということ——を一般の人々の意識に刻む必要があり、それが宗教の関心でした。それにより、文明は花咲くことができました。この事実を認めないことは、不正直であります。

それが、歴史に残っている宗教の現実でした。物乞い、奴隷制度、独裁制、征服、民族的偏見、社会の相互作用におけるその他の好ましくない慣習は、挑戦されることはありませんでした——また、明白に許されることもありました。宗教は、文明推進の特定の段階において、最も本質的と思われる行動の変革に焦点が置かれていたからです。社会的な問題の全てに対応できなかったからと言って宗教をとがめることは、人間の発達に関して学んできたことを全て無視することになります*。このような無秩序的な考え方は、自分自身の時代の抱えるニーズを理解したり、取り組んだりする時に、深刻な心理的障害を生じざるを得ません。

要点は、過去ではなく、現在に対する意味合いです。世界の主要な信教の信奉者たちが、その教えの永久の部分と一時的な部分を区別できないときに、問題が生じます。また、とうの昔に役割を果たしてしまった行動の規則を現代社会に課そうとする時に生じます。この原則は、宗教の社会的な役割を理解するために、基本的な条件です。バハオラは、こう指摘しておられます——「現在の苦悩に際して世界が必要としている治療薬は、次の時代に求められるものと決して同一ではあり得ない。汝らの生きる時代の要求を憂慮し、そこに関心を寄せよ。そして、その時代に必要とされるもの、また、急務とされることに汝らの審議を集中させよ。」[47]

バハオラが、19世紀の政治的・宗教的指導者たちを召喚なさった、新しい時代の必要な事項は、彼らの後継者や進歩的な考えを持つ人々により、大部分、少なくとも理想論として採用されました。20世紀が幕を閉じる頃までには、ほんの数十年前には空想的で非現実的な理想論として片づけられていた諸原則が国際的な会談の中心的な考えとなりました。それらの原則は、科学的研究の報告や有力な——また気前良い財政援助を受けた——委員会の下した結論により支えられて、地方・全国・国際的レベルの強力な諸機関の仕事を動かしています。それらの実践にあたっては、数多くの言語で膨大な学術的文献が作成され、その実用的な手段について考察が進んでいます。そして、そのようなプログラムは、5大陸のどこでも報道機関の注目を確実に引くことができます。

これらの原則の大部分は、悲しいかな、嘲笑されています。それは、社会的平和の敵だけでなく、それらの原則に献身的であると自称している人たちからでさえ、嘲笑されています。ここで欠けているものは、それらの原則に関連する説得力のある証拠ではなく、それらを実行するための道徳的な確信の力です。そして、その力の真に信頼できる源泉とは、歴史を通して、宗教的信仰であったのです。バハオラご自身の使命が始まった頃、宗教的権威者たちはまだ、社会にかなりの影響力を誇っていました。キリスト教世界が1千年間の疑うことなき確信から離れて、遂に奴隷制度の悪について語り始めた時、初期のイギリス人改革者たちが注意を向けようとしたのは、聖書に記されている理想論でした。それに続いて、アメリカ国内を二分した闘争の要因となったもんだいについて語った時、その米国大統領は、こう警告を発しました——「3千年前に語られたように、鞭で打たれて流された血は、剣による血で報われん、と。それで今もなお、『主の裁きは真であり、正義である』と言わねばならない。」[48]しかし、そのような時代は終わろうとしています。第二次世界大戦のあとに続いた騒乱の間、モハンダス・ガンデイのような有力な人物でさえ、インド亜大陸における宗派間の暴力を鎮めるために、ヒンズー教の精神的力を動かすことはできませんでした。イスラム共同体の指導者たちも、この点においては同じです。「われが諸々の天を巻物のように巻き上げる『日』」[49]というコーランの比喩的なビジョンに見られるように、伝統的な宗教のかつては無敵の権威は、もはや、人類同士の関係に影響を及ぼすことができなくなったのです。

ここで、バハオラが新しい時代に関する神のご意思に関して比喩表現を使われていることが理解できます——「われが単なる法典を汝らに啓示したと思うなかれ。いやむしろ、われは、強大と威力の指もて、選り抜きの美酒の栓を開けたのである」[50]。バハオラの啓示を通して、人類全体の成熟に必要な原則が、人間の動機の根源に貫通し、行動を変容させる力を授けられたのです。バハオラを認めた者にとって、男女の平等とは、社会的に必要な原則ではなく、人間の性質について明かされた真理であり、人間関係のあらゆる局面に関して様々な意味合いを含んでいるのです。人種の調和という教えについても同じことが言えます。教育の普及、思考の自由、人権の保護、人類全体の委託物としての広大な地球資源、市民の安寧を守る社会の役割、科学的研究の促進、そして、地上の諸民族を統合するのを促進する国際補助語という実用的な原則でさえ——バハオラの啓示に応えた人にとって、これらの原則や同じような教えは全て、偶像崇拝や窃盗や偽りの証言を禁ずる聖典の教えと同様の権威を有するものであります。これらの教えのうちいくつかは、過去の宗教で、多少の暗示がされることもありましたが、その明確な定義や処方については、地上の多様な諸民族が、自分たちがひとつの人種であると発見できる時まで待たなければなりませんでした。バハオラの啓示により付与された精神的力により、神の基準の意義を隔離された原則や法の集まりとしてではなく、人類全体を包み込むビジョンとして理解できます。そのビジョンとは、目的において革命的であり、可能性においては陶酔させてしまうようなものです。

バハオラの教えに不可欠なのは人類の集合的に機能するための行政に関する原理です。バハオラがビクトリア女王に宛てて書き送った書簡からよく引用される一節の中で、バハオラは民主主義的立憲政治の原理を誉め、賞賛していますが、それは、もしその原理がこの時代の目的を実現するならば、それが働くべき国際的責任という状況についての訓戒でもあるのです。「おお、各国の人々の中から選ばれた代表者たちよ。もし、注意深く吟味する者でありたいなら、ともに協議し、人類のためになり、その状態を改善することのみに自分たちの関心を向けよ。この世を人体にたとえると、世界が創られた時は完全であったが、今や重篤な不調や病気という種々の原因に悩んでいるのである。もし、自分の欲望のみに没頭して重大なあやまちを犯すような無知な医者の治療に任せたなら、それは一日で治るどころか、かえって病状が著しく悪化し、重態に陥ってしまう。また、少しは有能な医者の手当によって一時的にその身体の一部が治されたとしても、他の器官は前同様、病んだままの状態である。そこで我は、あなた方に、全知にして聡明なる御方のことを知らせる。今日、支配者は勝手にふるまい、この上なく有利な自分の地位をはっきり識別できず、ましてや、啓示など認めることさえできないほどの高慢に酔いしれ、うろたえたり、いがみ合ったりしている様を我は見ている。そして彼らの内の誰かが、その状態を改善しようと努力する時、その動機はいつも、自分自身の利益のためであった。そして、この動機の不純さは改善しようとする彼の力を制限してしまった。」[51]他の一節で、その原理が実際に意味することを明確に書き記しています。世界中の政府は、守護者が言及した「世界連邦組織」[52]の基礎となる、国際的な意見交換の組織を召集するよう求められています。その世界連邦機構は、参加国の領土と自治権を保護し国や地方の争いを解決し、すべての人類のためになる国際的発展の計画を調整しまとめていくのです。重大なことに、このような制度がきちんと確立されたら、ある国家が他国に対して行った攻撃的行為を抑えるためにその機構が武力を行使する権利をバハオラは認めています。バハオラの時代の為政者たちに、かれは武力の行使がもつ明らかに道徳的な権威について述べています。「もし国王の一人がほかの国王を攻撃すれば、皆一斉にその攻撃者に立ち向うがよい。これこそ、明らかな正義である。」[53]

これらの目標は、和合の力によって段階的に実現されていくでしょう。このことは、バハイにとってはもっとも明白な事実なのですが、その事実が現在の人間社会の危機に対して何を示唆しているかは、十分に論議されていないようです。人類社会の健康を害している普遍的な病の原因は和合の欠如であるということに反論する人はほとんどいないでしょう。和合の欠如はあちこちで政治的意思に障害を与え、変化を望む集団的意思を弱体化させ、国際関係や宗教関係を悪化させています。もしも、和合が遠い未来の目標だと考えれ、それを達成するのはまず社会的、政治的、経済的、道徳的生活におけるさまざまな混乱についての対策を考えて何とかそれらの問題を解決してしまってからだと思われているならば、何と奇妙なことでしょうか。なぜなら、後者は本質的に問題の症候であり、副作用であって、問題の根本的な原因ではないのです。どうして基本的な現実の反転がこのように広く受け入れられるようになってしまったのでしょうか。それは、恐らく、とても違った経験をもつ人々が知性と心の真の和合を達成するのは現存する社会機構の能力の範疇内では無理なことだと考えられているからでしょう。この暗黙の了解は、数十年前に広く認められていた社会進化論からより進んだものではあるのですが、現代社会の問題に対応するには実際にはあまり役立ちません。

和合とは、人類の精神的状態を指します。法律によって、また、教育によっても和合の精神を支援し促進することはできますが、それは、和合が社会生活を営む上でもっとも大切な要素だと人々が気づきそれが広く認められて初めて可能になるでしょう。世界中の知識階級と彼らの物質主義的に偏った社会観は、政治的妥協に支えられた現実味のない社会科学によって人類の将来に待ち構えている、避けられない災難をいつまでも延期することができると頑固に望んでいます。バハオラは、こう述べておられます——「全人類がどれほど深刻な、そして、計りがたい苦悩に悩まされているか、我には手に取るように見える。病床に沈み、痛みに苦しめられ、幻滅しはてた人類の姿が我が眼前にある。慢心に酔いしれた者等が、人類と、過ちのない神聖なる医師との間に立ちはだかっている。そして見よ、彼等の工作は、自分達をも含む全人類を抜き差しならぬ罠(わな)に陥れている。彼等は病の原因を発見することもできず、治療薬についての知識も何ら持ち合わせていない。」[54]和合は、世界の病の治癒であり、その力は宗教の人間の生活に対する影響力を回復させることによって確保できるでしょう。現代に神によって明らかにされた法律と原理は「人々の間の和合の光がい出るための最強にして最も確実な手段である」[55]とバハオラは宣言しておられます。「この基礎の上に建てられるものは何であれ、世の中の変転や不意の出来事などによってその力を損なわれることは決してない。また何世紀もの間の変転もその構造を覆すことはない。」[56]

したがって、バハオラの使命の中核となるものは、人類の一体性を反映する地球共同体の創造でありました。バハイ共同体はババオラの使命を擁護して命令できるという究極の証言は、彼の教えが生み出した和合の例です。21世紀に入り、バハイの大業は、世界が経験した他のいかなるものとも異なる現象です。成長の高まりと長期の連帯が交互に現れた何十年にもおよぶ努力が、度々の後退によって影を帯びた後、現在、バハイ共同体は、民主的な選出制度を通じて、聖職者の介入を受けることなく全体的な事柄を管理する、世界のほぼ全ての倫理的、文化的、社会的、宗教的背景を代表する数百万人の人々を包含しています。共同体が根を下した何千という場所を、北極からティエラ・デル・フエゴまで、アフリカから太平洋まで、あらゆる国、領土、大きな諸島群に見出すことができます。この共同体は最も多様で地理的な広がりのある、同じような構成の地球上の人間集団をすでに構成しているという主張の正当性を、証拠に精通した人物が疑うことはないでしょう。

これらの業績には説明が必要です。富へのアクセス、大きな政治的利益、オカルトの祈りや神の怒りに対する恐れを吹き込む攻撃的な改宗計画といった従来の説明では、誰も、関与した出来事について何の役割も果しません。信教の信奉者は、単一の人類の一員という自己認識、自らの人生の目標を形成し、そして明らかに、彼らに関する限り、内在する道徳的卓越性の表現ではないという自己認識を達成しました。「ああ、バハの人々よ!貴方に匹敵する者がいないということは慈悲の兆候である。」[57] 公正な観察者は、少なくとも、その現象が、慣れ親しんだものとは性質上全く異なる影響の働きを表すという可能性を心に抱かずにはいられません。その影響とは、ありとあらゆる背景をもつ一般人から犠牲という並外れた偉業と理解を導き出すことができるとして、あくまで精神的なものとして正しく説明されるものであります。

特筆すべきことは、バハイの大業は、初期段階のその存在が最も傷つきやすい時から、こうして出来上がった、完全で、損傷のない和合を維持できたという事実です。人間は、長年続く分離・分派を生き抜くことに成功した、歴史上の別の政治的、宗教的あるいは社会的人間集団を空しく求めます。バハイ共同体は、そのあらゆる多様性において、単一の人間集団であり、バハイを誕生させた神の啓示の趣旨を理解する集団であり、全体的事柄の統治のため、その「創始者」が作り出した行政秩序に専念する集団であり、バハイのメッセージを世界中に広めるという任務に全力を傾ける集団です。数十年にわたるその草創期、数名の人間–その中には地位の高い者もいましたし、また全員が大きな希望に駆り立てられていましたが、その数名の人間が最大限の努力をして、彼ら自身またはババオラの書簡に押し付けた彼らの個人的な解釈に忠実な、別の支持者を生み出しました。宗教進化の初期段階において、同じ様な試みが、新たに生まれた信教を競合宗派に分割することに成功しました。しかし、バハイの大業の場合、そのような陰謀からは、例外なく、一時的な論争の噴出以上のものは生まれませんでした。結局、その論争の影響は創始者の目的とそれに対する献身についての共同体の理解を深めました。ババオラは、「和合の光は非常に強力であり、それは地球上をすべて照らし得るほどである」[58]と彼を認める人々に断言しました。人間の性格がどうであれ、この浄化の過程が、逆説的に、しかし必然的に、永遠にバハイ共同体の成熟の不可欠な特性であり続けるという守護者の予想は容易に認識することができます。

神に対する信仰を放棄することの必然的帰結は、悪の問題に効果的に取組む、あるいは多くの場合、それを認知する能力の麻痺です。バハイはその客観的存在をその現象のせいにすることはありませんが、その宗教史の初期の段階で、善の否定、暗黒、無知、病気のように悪が表すものは、その影響を深刻に蝕んでいると思われていました。20世紀の間に、数百万人という自分の仲間である人間を組織的に拷問し、体面を傷つけ、絶滅させた何人かの怪物のような人物の特徴についての新鮮で想像力豊かな分析を学識ある読者に提供しないという通年の許可証を出すものはほとんどいません。ある人は学問の府に招かれて、底無しかと思える人間の憎悪に油を注ぐ妄想を理解しようとする努力において、父親の虐待、社会的拒否、職業的な失望、貧困、不正、戦争大権、発生しうる遺伝的欠陥、虚無的な文学、あるいはこれらの種々の組み合わせに様々に与えられるべき重要性について熟考します。そのような考察に明らかに欠けているのは、わずか1世紀前という最近であるのに、経験豊かな解説者が、その付随する特徴の如何を問わず何を精神的病気と認識したかです。

実際、和合が人類の進歩のリトマス試験であるのなら、歴史も天国も、それらに向かって手を上げることを慎重に選択した者を簡単には許さないでしょう。信頼することで、人々は防御を弱め、他人に対して自らを開放します。そうしないと、共有する目標に向けて全面的に献身する方法がありません。相手側にとって、誠意をもって交わした約束が、取得した利益、あるいは表向きは一緒に始めたこととは異なる、あるいはそれに反することさえある、隠れた目的を達成する手段を意味していることを突然発見することほど衝撃的なことはありません。このような裏切りは、人類の歴史における頑強なより糸で、この歴史において記録に残る最古の表現のひとつが、神がその信教を確認することを選択した兄弟にまつわるカインの嫉妬の昔話です。20世紀の間に世界の人々が耐えた、この恐るべき困難が教訓を残したとすれば、それは、あらゆる生活の活動範囲における暗い過去と毒を含んだ関係から継承した組織的不和は、人間の心がその可能性を夢見る何かよりもより下品な悪魔的行動への扉を開け放つことができるという事実にあります。

悪に名前があるとすれば、それは間違いなく、善意の人々が過去から逃れ、力を合わせて新しい未来を築こうとして、苦労の末ようやく達成した平和と和解の聖約に対する慎重な違反です。まさにその性質上、和合は自己犠牲を必要とします。「...自己愛というものが人間の土そのものに練り込まれている。」[59]と「師」(アブドル・バハ)は述べておられます。自我、彼の言葉によれば「固執する自己」[60]は、自由であると自らが考えるものに対して課される制約に本能的に抵抗します。資格が与える満足を喜んで捨てるために、個人は、充足感は至るところにあると信じるようにならなくてはいけません。つまるところ、それはいつもそうであるように、神への魂の服従にあるのです。

この服従という困難を克服しなかったことは、神の使徒とその使徒が教えた理想の裏切りであった数世紀全体を通じて、特に破壊的な結果と共に現れました。 この話し合いは、バハオラが、彼を認め、彼の目的に奉仕する人々の和合の保持に成功した手段によって特定の「聖約」の性質と条項を見直す場ではありません。彼が、同時に忠誠を装った人々による意図的な違反のために留保した言葉の強さに注意することは十分です。その言葉とは、「そこから顔を背けた彼らは、そなたの神、全知全能の者、拘束を受けない者の観点では、地獄の炎の被収容者のなか数えられる」[61]です。この非難が厳しい理由は明らかです。殺人、強姦、詐欺といった身近な犯罪が社会福祉に与える危険、あるいは社会が有効な自己防衛手段を講じる必要性を認識することが困難な人はほとんどいません。しかし、もし放置すれば和合の創出に不可欠な、まさにその手段を破壊する、そして「師」の妥協のない言葉によれば、「祝福された木の根元そのものに打ち込む斧にさえなる」[62]、邪悪な精神について、バハイはどう考えるべきなのでしょう。この問題は知的な異説のひとつでもなければ、道徳的弱さのひとつでもありません。多くの人は一種類または別の種類の権威を受け入れることに抵抗があり、結局はそれを必要とする状況から距離を置きます。バハイの信教に魅力を感じたが、理由はなんであれ、そこから去ることを決めた人が、そうするのは全く自由です。

聖約を破ることは、基本的な全く別の性質の現象です。それがその影響下で生じさせる衝動は単に、個人の充足感または社会への貢献に至ると人々が信じるどんな道でも自由に追求することではありません。むしろ、このような人は、与える損害を考慮することなく、その共同体の一員として受け入れられた時に締結した厳粛な契約を尊重することなく、利用できる手段によって自身の意思を共同体に押し付けるという一見抑えようのない決心に突き動かされています。結局、個人の生活においてだけでなく、他の生活に上手く影響を与えるあらゆるものにおいても、自己は最も優先される権威となります。長くて悲劇的な経験があまりにも確かに実証したため、著名な家系、知性、教育、信心深さ、あるいは社会的リーダーシップなどの素質が、同じく、慈悲の儀式や個人の野望の儀式に利用されます。過ぎし時代、別の性質をもつ精神的優先事項が神の目的の焦点でありましたが、その当時、このような反乱の結果が、一連の神の啓示のいずれかの中心となるメッセージを汚すことはありませんでした。今日、地球の物理的一体化がもたらした計り知れない機会と恐ろしい危険によって、和合という要求事項への約束は、神の意志への献身、あるいは、さらに言えば、人類の福祉についての全ての表明を計る目安となっています。

歴史上の全てのものは、バハイの大業を備え、それが直面する困難に取組みました。この比較的初期の開発段階においても、またその資源が現在比較的限定されていても、バハイの活動は、それが獲得している尊敬に十分相応しいものです。傍観者は、現在成し遂げられつつある事を評価するため、神の起源の主張を受け入れる必要はありません。この世界的な現象をそのまま受け止めれば、バハイ共同体の性質と偉業は、文明の危機を真剣に懸念する人の側に注目することを共同体が正当化することです。というのも、共同体は、ありとあらゆる多様な世界中の人々が、単一の民族として、単一の地球という母国で、生活し、働き、充足感を見出すことができることの証拠だからです。

もっと重要視することが必要であるのなら、この事実は、信教の拡張・強化のため万国正義院が考案した一連の計画の緊急性を強調します。バハイ以外の人々も、ハハオラの書簡に具体化される和合の展望に純粋に献身する一団の人々が、自身の成功のために和合の力にまさに依存する社会改善計画に対して、ますます熱心な貢献者になることを期待するあらゆる権利を持っています。この期待に応えることは、その仕事に投資する人材・資材を大幅に倍増し、同じ考えをもった組織にとって共同体が有用なパートナーとなることができるようにする一連の有能な人材をさらに多様化しつつ、かつてない早い速度で成長することをバハイ共同体に求めます。社会的努力目標の他に、バハオラの使命についてはまだ気付いていないものの、永続的な意味のある奉仕生活を見出す機会を求めて、その理想の多くに気持ちを強く動かされている同じように誠実な何百万という人々の切望を正しく評価しなくてはなりません。

したがって、ハバイ共同体に根ざして系統立てた成長の文化は、これらのページで述べる挑戦のために、友人ができる、群を抜いて素晴らしく有効な対応であるように見えます。創造的世界に熱心かつ継続的に没頭するという経験はしだいに、社会にはびこって変化への推進力を麻痺させる物質主義的前提の支配、バハオラの言葉によれば「悪魔のような幻想の化身どもの暗示」[63]から人を自由にします。それは一体になって、友人・知人の側に和合への切望を支援し、成熟と知的表現を見つける能力を開発します。子供達のクラス、祈りの会、学習サークルといった、現在の計画の中心的活動は、その性質によって、増えつづける、まだ自分自身をバハイと認識していない人々が気軽に、活動の過程に参加することを可能にしています。その結果は、「関心のある人々の集まり」という適語で呼ばれる存在をもたらしています。その他の人が参加することで恩恵を受け、大業が追求する目標と一体感を持つようになった時、彼らも、バハイの目的の積極的な代行者として、バハイに全面的に献身したくなることは経験によりわかっています。したがって、その関連目標とは別に、全霊を傾けた計画の遂行は、人類が直面する最も苛酷な問題になったのは何かについての公開講話に対するバハイ共同体の貢献をこの上なく増幅する可能性をもっています。

しかし、バハイがババオラの命令を遂行するのであれば、社会改善を推進することとバハイの信教を教えることを平行して行う努力は注目を集めるために競合する活動ではないと認識することが明らかに重要です。むしろ、それらは、ひとつの互いに密着した世界的計画について相互作用する特徴です。アプローチの違いは主に、友人が出会うニーズの違いと質問の段階の違いによって決まります。自由意志は魂に生来備わる資質であるため、バハオラの教えを模索することに惹きつけられた各人は、精神的な探求の終わることのない連続に自らの居場所を見つける必要があります。彼は、自己の良心の奥深いところで、また圧力のないところで、この発見に伴う精神的責任を見極める必要があります。しかし、この自律を賢明に実行するためには、世界の他の人々と同様、彼が巻き込まれている変化の過程についての見通しと、自らの人生の意味についての明確な理解をともに確保しなくてはなりません。バハイ共同体の義務は、神との再会に向けた人間性の普遍的な動きの全段階を支援するため、その力においてできる全てのことを行うことです。「師」によってそれを後世に遺す神聖な計画はこの仕事を実行する手段です。

したがって、宗教がひとつであるという理想が疑いなく中心にあっても、バハオラのメッセージを共有するという任務は明らかに、宗教間交流プロジェクトではありません。精神は知的必然性を求めますが、魂が切望するものは、「確信」の達成です。このような内部の信念は、その過程が早いか、ゆっくりとしているかを問わず、全ての精神的探求の究極的目標です。魂にとって、改宗という経験は、宗教的真実の探求の付加的、あるいは偶発的特徴でははく、結局取り組まねばならない極めて重要な問題です。この課題についてのバハオラの言葉には、あいまいさはありません。また、彼に奉仕しようとする人々の心にもありません。「我はまことに言う。この日こそは、人類が約束された者の顔を見、声を聴くことのできる時である。神の呼び掛けは発せられ、その御顔の光明は人類に向けられたのである。従って人は皆、自己の心の書よりあらゆる空虚な言葉の痕跡を消し去り、開かれた公平な心をもって彼の啓示のしるしを見、彼の使命の真を立証するものに向かい、彼の栄光の証しを見つめなければならない」[64]。

現代性の大きな特徴のひとつは、歴史的意識の普遍的な目覚めでした。ババオラのメッセージの教えを大いに強化する、この考え方の革命的変化がもたらしたひとつの結果は、機会が与えられれば、人々は、人類が有する諸々の聖典全体が、歴史的状況における救済の劇を真っ向から示すと認識できることです。記号と比喩の表面的言語の下で、経典が明らかにするように、宗教は、魔法の気ままな命令を通じてではなく、そのために神が創った物理的世界で展開する遂行の過程として機能します。

この点について、聖典は同一の声で、次のように語ります。宗教の目的は、「ひとつの羊の群れとひとりの羊飼い」[65]が「集まる」[66]時代、「地球が神の栄光に輝き」[67]、神の意志が「天国で実現されているように、地上でも成就される時」[68]に訪れる偉大な時代、「聖なる都」[69]が「天国から...神から」[70]降臨する「約束された日」[71]、「神の家の山は,山々の頂上に確立され、丘の上で高貴なものになり、全ての国がその方へ流れる」[72]時、「汝らよ、汝らが我が民を打ち砕き、貧者の顔を疲れさせるとはどういうことかを知れ」[73]と神が要求する時、「終末の時まで封印されていた」[74]経典が開かれ、神との和合が「神の口が名付ける新しい名前」[75]による表現を見出す日、人間が経験するもの、知力が考え出したもの、あるいは言葉が今までに包み込んだものの全てを完全に超越する時代における人間性の達成です。「たとえ我々が最初の創造物を生み出したとしても、それゆえにこそ、我々は新しいものを生み出さねばならない。我々が引き受けた約束。我々はまことにそれを遂行しなくてはならない。」[76]

したがって、一連の歴史上の預言者の啓示が言明された目的は、人の救済の道を探す個人を案内することだけではなく、前途に横たわる終末論的事象,それを通じて世界の生活が完全に変貌する事象に対して人間家族全体に準備させることもあります。バハオラの啓示は、準備のためでも予言のためでもありません。それこそがその事象なのです。その影響を通して、神の王国の基礎を築くという途方もない仕事が動き始め、地上の人々にその任務に等しい権力と能力が与えられました。その王国は、社会正義の原則に形作られ、現代が考え付く全てのものを超越した人間の知力と精神が築いた成果でより豊かになった普遍的な文明です。バハオラは、「今日こそは、神の最もすばらしい恩寵(おんちょう)が人々の上に注がれている日であり、彼の最も偉大なる恩恵がすべての創造物の中に注入されている日である...現在の秩序は間もなく巻き上げられ、その代りに新しい秩序が繰り広げられるであろう。」[77]と言明しています。

目標達成のための奉仕は、バハオラの使命と人間が設計する政治的・思想的計画との基本的違いに対する理解を必要とします。20世紀の恐怖を生み出したモラルの欠如は、その努力のために利用される物的資源がいかに豊かであろうと、理想社会を考案・建設するための精神の自発的力の最外部にある限界を暴露しました。それに伴う苦難は、地上の人々の良心に教訓を消え去ることなく刻み付けました。したがって、人間の将来に関して宗教がもつ展望は、過去の制度と共有するものはなく、現在の制度とごくわずかの関係があるに過ぎません。もしそう説明できるのであれば、それは合理的な魂の遺伝子コードにある現実に対する訴求です。イエスが2000年前に教えた神の国は「内」[78]にあります。「ブドウ園」[79]、「良き土地に蒔かれた種」[80]、「良き果実を産み出す良き樹木」[81]という彼の有機的例えは、時代の夜明け以来、神が育て、訓練した、創造的過程の目的でありその先端としての人間の可能性について語ります。忍耐強い教化という継続的作業は、バハオラが彼を認知し、彼の大業を受け入れる仲間に委託した任務です。ですから、彼が「汝等は理解の天の星であり、夜明けにそよぐ微風であり、あらゆる人々の生命そのものが依存しなければならない静かな流水であり...」[82]と、恩恵を素晴らしく語る格調高い言葉には、疑問に思うことはほとんど何もありません。

この過程は、達成の保証をその中にもっています。見るための目をもっている人にとっては、今日、苗木がいつの日か果実を実らせる木となり、あるいは子供が大人になるのと同じ方法で新たな創造が至るところで現れています。誠実で目的をもった創造者の継続的な神の摂理は、地上の住民を、単独の人間としての集まりの成人の出発点へと連れて行きました。今バハオラは、人間にその遺産を手に入れるよう要求しています—— 「全世界を癒すための最高の薬、最も強力な手段として主が定めたもうたものは、ひとつの普遍的『大業』,ひとつの共通の『信教』における、人々の和合である。」[83]

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[1] バハオラ、「七つの谷」、p.6

[2] バハオラ、「落穂集」、61番

[3] バハオラ、「落穂集」、16番

[4] 「ケタベ・アグダス後に啓示されたバハオラの書簡」、p.27

[5] 「落穂集」、17番.

[6] バハオラ、「狼の息子への書簡」(英語版)、p.133

[7] バハオラ、「ケタベ・イガン」、p. 216

[8] 同上

[9] バハオラ、「ケタベ・イガン」、第104段落

[10] 同上、第106段落

[11] バハオラ、「落穂集」、第22番(「ケタベ・イガン」、第二部)

[12] バハオラ、「祈りと瞑想」(英語版)、p.311.

[13] 「落穂集」、27番

[14] 同上、109番

[15] 同上、81番

[16] ジュリアン・ハックスレー、ピエール・タイラード・シャルダンの「人間という現象」(p.243、英語版、1959)に引用。ジュリアン・ハックスレーの「知識、道徳性、運命」(p.13、1957年)も参照のこと。

[17] 「新世界秩序の目標」、p.10

[18] 「落穂集」、

[19] 「落穂集」、132番

[20] 「ケタベ・アグダス」、182段落

[21] 「ケタベ・イガン」、第4段落

[22] 同上、第8段落

[23] 同上、第13段落

[24] 同上、第14段落

[25] マタイ、13:25

[26] マタイ、13:29-30

[27] コーラン、7:33

[28] バハオラ、「ケタベ・アグダス」、第99段

[29] バハオラ、「万軍の主の召喚」、第126段

[30] バハオラ、ショーギ・エフェンデイの「神の正義の到来」(英語版、p.79)に引用。

[31] イザヤ、45:5

[32] テモテ、1:17

[33] コーラン、3:73

[34] コーラン、2:177

[35] マタイ、5:13

[36] マタイ、5:14

[37] ミカ、6:8

[38] ヨハネ、14:6

[39] コーラン、24:35

[40] 創世記、17:7

[41] 「バガバド・ギタ」、第4章

[42] 申命記、34:10

[43] ヨハネ 5:45-47

[44] コーラン 2:136

[45] 「万国平和の宣布」(英語版)、p.326

[46] ヨハネの福音書 1:10

* つまり、人間の発達は、徐々に段階を経て達成されるものであり、一度に全ての問題を解決できるものではないという自明の理を真っ向から無視することになる。社会全体の発達でも、同じことが言えるのである。(訳者注)

[47] 「落穂集」、106番

[48]アブラハム・リンカーン第1期大統領就任演説より。

[49] コーラン、21:104

[50] バハオラ、「アグダスの書」、第5段落。

[51] バハオラ、「バハオラの宣布」、『各国の国民によって選出された議員への書簡』

[52] ショーギ・エフェンデイ、「世界文明の展開」、『世界的和合の目標』の部

[53] バハオラ、ショーギ・エフェンデイの「新世界秩序の目標」、『世界超国家』の部

[54] バハオラ、「落穂集」、106番

[55] バハオラ、「バハオラの書簡」(英語版)、p.129

[56] バハオラ、ショーギ・エフェンデイの「世界文明の展開」、『世界的和合の目標』の部に引用

[57] バハオラ、ショーギ・エフェンデイの「神の正義の到来」(英語版、p.84)に引用。

[58] バハオラ、「落穂集」、132番

[59] アブドル・バハ、「聖なる文明の秘訣」(英語版)、p.96

[60] アブドル・バハ、「アブドル・バハの書簡抜粋集」(英語版)、p.256

[61] バハオラ、新たに英訳された書簡より

[62] アブドル・バハ、「アブドル・バハの遺訓」(英語版)、p.25

[63] バハオラ、「確信の書」(英語版)、p.213

[64] バハオラ、「落穂集」、7番

[65] ヨハネの福音書、10:16

[66] バハオラ、「万軍の主の召喚」(英語版)、p.126

[67] コーラン、39:69

[68] マタイ書、6:10

[69] 黙示録、21:2

[70] 黙示録、3:12

[71] コーラン、85:2

[72] イザヤ書、2:2

[73] イザヤ所、3:15

[74] ダニエル書、12:9

[75] イザヤ、62:2

[76] コーラン、21:104

[77] バハオラ、「落穂集」、4番

[78] ルカ、17:21

[79] マタイ、21:33

[80] マタイ、13:23

[81] マタイ、7:17

[82] バハオラ、「落穂集」、96番

[83] バハオラ、「落穂集」、120番