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物質と精神が調和した社会

精神性と物質性が調和した社会

現代社会は、科学とテクノロジーが非常に発達し、とても便利な時代になりました。かつては山を越え谷を超えて旅していた道程も、今は車や鉄道ですぐに移動できます。それどころか海を渡り、大陸を横断し、国境を越えることなど夢にも及ばなかったことが、日常茶飯事のように行われるようになりました。おかげで、人と物の輸送は大量にかつ高速で可能となりました。また、かつては肉筆で手紙をしたため、徒歩または馬に乗って配達して長距離の意思疎通をしていたものが、やがては電話や電信によって代えられ、次にファックスが登場し、今ではEメールやビデオ通話などクリック一つで可能になりました。このように、物質的進歩が、人間の生活を物質的に豊かにしたことは間違いありません。

しかしその一方で、人々は物質的豊かさに埋もれ、物質的豊かさの追求と維持に追われ、人間の持つ内面性や精神性に対する意識が低下してしまいました。心について考える時間と余裕がなくなり、いや、心の存在さえも疑ってしまうような時代です。心がおろそかになり、学校教育はますますと知的訓練に集中し、知識の追求もその本質的価値よりも、いかに洗練された知力を持っているかということに基準が置かれてしまいました。物質性への偏重は、人間関係にも影響を及ぼし、人と人との意思疎通が支障をきたし、家族の絆が弱まり、道徳や風紀が乱れ、社会の基盤が揺らいでしまいました。その悪影響はあまりにもひどいため、一部では、物質性を否定し、自然に帰り、なるべくものに頼らない生き方を推奨する団体まででてきているほどです。

しかしここまで便利になった生活を捨て、原始的な時代に戻ることが、幸福を取り戻すことにつながるとは言えません。むしろ、物質的に進歩した、新しい生活様式の中でいかに、精神性をも追及することが、より理にかなった姿勢だと思えます。つまり、物質性と精神性をどのように調和させるかです。この両方があって初めて、人間は心身ともに幸せだと言えるでしょう。

一方で心の存在を疎かにし、物質的豊かさのみを重視する傾向と、もう一方で物質的繁栄を批判し、精神的実在性のみを追求するという傾向とが存在する背景には、かつてない科学テクノロジーの発展と物質的豊かさに、従来の精神的価値観がついていけていない、あるいは応用が利かないという点があげられるでしょう。つまり、古い見方で言えば、精神修養とは、山奥や洞窟で下界から自分を遮断して行うものというイメージがあります。車を運転し、コンピューターを操り、新幹線に乗り、飛行機で隣の国まで飛びながら、どうやって精神的価値観、美徳、心の豊かさを考えるなど、これまでまだ経験がなかったからです。高度な数学的思考や科学実験などが精神界とつながっているというような発想は思いつかないからです。

しかし、これからの時代は、高度に進化した物質性が、従来の精神的な価値観と何ら矛盾していないこと音を学ばなければなりません。いやむしろ、その二つは調和しており、物質的進化は精神的価値観により方向づけられ、精神的進化も物質的の豊かさにより補足されなくてはなりません。

物質的豊かさは、科学やテクノロジーの進歩の度合いや物によって図ることができます。精神的豊かさは、「美徳」という表現で置き換えることができるでしょう。つまり、愛・正義・忍耐・寛容・慈悲といった、心の特質です。こういった人間の内面的・人格的構成要素が、科学やテクノロジーや物といった物質的要素と足踏み揃えて発達していかなくてはなりません。

物質的な教育は、学校や大学で学ぶことができます。日本は世界でもトップレベルです。ノーベル受賞者級の科学者を輩出しています。しかし精神的な教育は、学校ではせいぜい道徳の授業で取り上げるか倫理の科目で表面的な扱いを受けている程度です。さもなくば、剣道や柔道などの武道、あるいは華道や茶道などの芸術分野で、精神修養という形で提供されている程度です。しかし、美徳には多様な面がありまたそれらはバランスよく習得されなくてはならないため、意識的かつ系統的な訓練が必要です。当然、この美徳教育は幼児期から始めなくてはなりません。ある教育者は、人生の必要な教訓の基礎は、幼児期に砂場で遊びながら学んだと言っていますが、その通りです。

こうして、子供の時から、精神的な心の教育と、優れた科学的な教育との両方を受けていれば、大人になった時には、高等な学問の知識を、精神的な価値観により導かれながら、社会と人々のために役立つように使っていけるでしょう。