世界平和への確証
世界の人々へ
何世紀もの間、善意の人々が心惹かれ、数限りない幾世代もの求道者や詩人たちがその未来像として心に描き、かつまた時代から時代へと多くの人類の聖典が絶えず約束してきた『大平和』は、今や世界諸国民の手の届く所に近づいてきました。歴史上初めて、無数に異なる多様な背景を持った人々が住む地球全体を、誰しもが一望することが可能になったのです。世界平和は可能であるばかりでなく、必然のものとなりました。それは地球の発展における次の段階、ある偉大な思想家の言葉によれば、「人類の地球化」(プラネタイゼーション)ともいうべき段階に入ってきたのであります。
平和は、古い行動様式にこだわり続けることから引き起こされる想像を絶する惨禍を経過しなければ、そこに到達し得ないのであろうか、それとも今、協議の意志を行動に移して実現すべきか、これこそ地球上に住むすべての人々の前に置かれた選択であります。諸国民が直面し処理し難い種々の問題は、一つの全世界共通の問題として凝縮されてきておりますが、この危機をはらむ岐路に立って、押し寄せる争いと無秩序の潮流を食い止め損なうとすれば、それはまさしく良心に反した無責任な態度というべきでありましよう。
好ましい徴候としては、今世紀のはじめに設立された国際連盟、続いて幅広い基盤を持つ国際連合によってとられてきた世界的秩序への歩みが、着実に強化されていることがあります。第二次世界大戦以来、地球上の大多数の国家の独立が達成したこともそうであります。これらの事実は、国家建設の過程が終わりを告げたこと、そして、これらの新しく誕生したばかりの国家も古い国家と相互に利害関係のある諸問題において、大きくかかわり合うようになったことを示しております。その結果、これまで孤立し、敵対し合っていた諸国民や集団は、科学、教育、法律、経済、および文化など、各方面の国際的活動で極力、協力し合うようになってきました。国際的規模の人道主義的組織が、この数十年間にこれまでになく増加したことや、戦争廃止を掲げる女性や青年の運動が普及したこと、そして個人的な交流を通じて理解し合おうとする一般の人々の間にも、自発的な連絡網の拡大が見られたことなど、これらも好ましい徴候であります。
この上なく恵まれたこの世紀において興った科学とテクノロジーの進歩は、地球上の社会的進歩に一大躍進を予告するものであり、それによって人類の現実問題が解決できることを示しております。事実、科学とテクノロジーの発展は、世界が一つに和合した時にも、複雑な生活を管理する手段そのものであります。しかし、障害は執拗に存続しております。不審や、誤解や、偏見や、疑念や、偏狭な利己主義が、諸国民や民族間の関係において常につきまとっているのであります。
私たちは、深い精神的、倫理的責任感から、時機を得たこの機会に、『バハイ信教』の創始者、バハオラが一世紀以上も前に世界の為政者たちにあてて示した鋭い明察に、ぜひとも皆様の目を向けていただきたいと思うのであります。私たちは、そのバハイ信教の信託機関の者であります。
バハオラはこう書いております。
「悲しいかな、絶望の嵐はあらゆる方向から吹き荒れ、人類を分け隔て、人類を苦しめる争いは日々増しつつある。現に普及している秩序は嘆かわしくも欠陥があり、それ故に緊迫した動乱と混乱の徴候は、今、明確に認められる」
このバハオラの予言的判断は、人類が共通して経験したことによって十分確認されました。現在普及している秩序に見られる欠陥は、国際連合に組織された独立諸国が戦争の恐怖を消し去ることができないこと、世界の経済崩壊の脅威、無政府状態とテロ行為の蔓延、しかも、これらは他の要因とからみ、ますます多くの人々に激烈な苦しみを広げていることがはっきりと窺えるのであります。事実、私たちの社会、経済、宗教の諸機構は、これまであまりにも侵略や紛争によって特徴づけられたが故に、多くの人々は、このような行動は人間の性質に固有のものであり、従って根絶できないもの、との見解に屈してきたのでありました。
こうした見解で身を固めた結果、向上への動きを止めてしまう矛盾が、人間社会のあらゆる面に起こってきました。一方において、すべての国民は平和と調和を、そして日々の生活を悩ます惨めな不安を終わらせることに意欲のみならず熱望を表明しています。他方において、無批判な同意が次の説に与えられているのであります。つまり、人間は救い難く利己的、かつ攻撃的であるために、進歩的で同時に穏やかな、ダイナミックでありながら調和のとれた機構や、個人の創造力が自由に発揮でき、かつまた協同と総意に基づいた機構というものを建設することは不可能である、という説であります。
平和の必要がより緊急になるに従い、平和の実現を妨げている根本的な矛盾を見れば、人類の歴史上の苦境について、一般的見解がよりどころとしている仮説を再評価する必要のあることがわかります。冷静に考察すれば、前に述べた人間というものの行動は人間の真の姿を表しているのではなく、人間の持つ精神のゆがみを表現していることが明確にわかります。この点を十分に理解することによって、すべての人は建設的に社会的な力を始動させることができるでありましょう。なぜなら、それらは人間の本質と一致するものであり、戦争や矛盾の代わりに調和と協力を促進するものであるからです。
このような進路を選ぶことは、人類の過去を否定するのではなく理解することであります。バハイ信教は、現代社会の日常の混乱と悲惨な吠態を、国境というものが地球そのものになり、人類が最終的に、そして不可避的に一つの社会秩序に統合されていく有機的過程の必然的段階と見なしております。人類は独特の有機的単位として、個々の人間の生涯における幼児から子供の時代への成長過程に類似した発達過程を経てきました。そして今、不安定な思春期から長く待望された成熟期に近づきつつあるのです。
偏見、戦争、搾取は、長い歴史の中で人問が未熟な段階にあった時の姿であること、人類は今日、集団として成熟期に到達しつつある避け難い激動を体験していることを認めたとしても、それは決して絶望の原因となるものではなく、平和な世界の建設の一大事業への前提条件であります。この一大事業が可能であること、そしてその建設に必要な活力が存在すること、杜会の諸構造を統合建設することが可能であること、以上が皆様に吟味していただきたい主題であります。
近い将来にどれほどの苦難や混乱が持続しようと、また当面の状況がどれほど暗いものであっても、バハイ共同体の信徒たちは、人類はその巌終的な結果に自信をもって崇高な試練に立ち向かうことができると信じております。激動的な変化は人類をより急速に駆り立ててはいますが、それは文明の終わりを合図するどころか、「人間という地位に固有の潜在能力」を開放するのに役立ち、「地上における人間の運命、人間の実体の生来の卓越性」を現すでありましょう。
(一)
人間が他のすべての生命形態から区別される優れた資質は、人間の持つ精神として知られているものの中に要約されますが、知力はその本質的特性であります。この天賦の優れた資質は人間に文明を樹立させ、物質的繁栄を可能にしました。しかし、それを達成しただけでは、決して人間の精神を満足させたとは言えません。人間の持つ精神の神秘的な本質は、超越性、見えざる世界、究極の実在、かの『神』と呼ばれる知られざる真髄の中の真髄に向かうのであります。精神的指導者たちの相次ぐ出現により人類にもたらされた宗教は、人間と、かの究極の実在を結ぷ主要な環であり、杜会の進歩と精神的発展を成し遂げる能力を刺激し、洗練してきたのであります。
人間社会の諸事を正しい方向に向けさせ、平和の確立を真剣に試みようとするならば、宗教を無視することはできません。宗教に対する人間の理解とその実践は歴史の大部分を占める要素であります。ある著名な歴史家は、宗教を「人間性の中に存在する能力」と呼びました。この能力の低下は、社会の混乱をもたらし、個々の人間の内部葛藤、および個人間の争いの原因となってきたことは否定できません。公正な心を持った観察者であれば、宗教が文明の生き生きとした表現に与えた重大な影響を軽視することはできないでありましょう。さらに、宗教が杜会秩序に必要欠くべからざるものであることは、それが法律や道徳規範に直接与えた影響によって繰り返し証明されてきております。
バハオラは、社会を動かす力としての宗教について次のように述べております。
「宗教は、世界の秩序の確立と、そこに住むすべてのものの平穏な満ち足りた生活のためのあらゆる手段の中でも最も偉大な手段である」
また、宗教の衰微や腐敗に言及して、バハオラはこう書いております。「宗教というランプが曇れば、混乱と混沌が相次いで起こり、公平、正義、静穏、平安の光は輝きを止めるであろう」このような因果関係を列挙して、バハイの書物では次のように指摘しております。
「人間性の倒錯、人問行動の堕落、人間の作った制度の腐敗と分解は、既述の状態の下で最悪、かつ嫌悪すべき様相を呈している。人間の品性は地に落ち、自信は揺らぎ、規律を保持する神経は緩み、良心の声は抑えられ、尊厳か恥辱かの感覚は曇り、義務、連帯の観念は薄れ、相互の利益、忠誠の観念はゆがめられ、平和、喜び、希望といった感情すら徐々に消滅しつつある」
従って、もし人類が身動きのとれぬ争いの状態にまできてしまっているのであれば、その時こそ、宗教の名の下に生じてきた誤解と混乱の源について、自分自身を、自らの怠慢を、そしてこれまで耳を傾けてきた声、人を迷わし破滅させてしまう声について考え直さねばならないのです。特定の宗教上の正統派なるものに盲目的に、かつ自己本位に固執してきた人々、神の預言者たちの宣言に反する問違った解釈を信奉者たちに押しつけてきた人々は、この混乱に対して重大な責任を負わねばなりません。この混乱は、信仰と理性、科学と宗教との間に建てられた人工的な障壁によって倍加されました。大宗教の創始者たちの実際の言葉や、彼らがその使命を遂行しなければならなかった社会的環境を公平に調べてみると、実際には人類の宗教共同体や人間社会の諸事万端を混乱させている敵意と偏見の原因となるものなど何も見いだせないのであります。
「汝、自ら欲するところを他人に為せ」という教えは、すべての宗教で異なった言い方により繰り返されてきた倫理でありますが、これは前述した問題の後半部について特に二つの面でその内容を支持しております。つまり、この教えは要約すればそれがどこで発生し、どの時代に現れたかを問わず、これらの宗教を通じて広く伝えられた道徳的態度と平和を生み出す一面を有しているということです。また他面でこの教えは、宗教の本質的特性、すなわち支離滅裂な歴史観の中では人類が真に評価できなかった和合というものをも意味しております。
もし人類が、人類全体としての幼児期に出現した大教育者たちの真の役割というものを、一つの文明の過程において、それを推し進めることであると理解していたならば、人類は、大教育者たちの継続的な教えが累積的に与えてくれた影響から、計り知れないほどの偉大な恩恵を得ていたことは疑いないところであります。しかし、残念なことに人類はそれを怠ったのであります。
多くの国で狂信的な宗教への熱情が再び起きていることは、断末魔以外の何ものでもありません。これに関連して起こっている暴力的、分裂的現象そのものが精神的破綻を証しています。事実、最近突発的に見られる宗教上の狂信状態の中で最も奇妙で悲しむべき特徴の一つは、どの例を取り上げても、人類の和合を生み出す精神的価値だけでなく、各宗教がかちとってきた独特の道徳的な克服力をも徐々に損なっている点であります。
宗教が人類の歴史の中でいかに重要な役割を果たしたとしても、また目下の闘争的宗教上の狂信状態が再び起きてきていることがいかに劇的であっても、この数十年来、ますます多くの人々が、宗教と宗教機構は現代社会の主要な問題に無意味であると見なしてきました。人々は、宗教に代わって、物質的な満足を得るため快楽追求に向かい、あるいは社会を苦しめている邪悪から杜会を救済するために立案された人間の作ったイテオロギーに従ってきております。しかし、悲しいかな、これらのイデオロギーのほとんどすべては、人類の一体性という概念を受け入れて異なった民族間の和合を推進する代わりに、特定の国家を神格化し、他の人々をその一つの国家、民族、階級に従属させ、協議も思想の交換も禁じ、飢えに瀕している何百万もの人々を非情に見捨てる一方で、世界人口の大半を蕃境におとしいれている市場経済システムの運営にのみ目を奪われているのです。そこでは、ただ、ごく少数の人だけが、私たちの先祖が夢にも見ることがなかった裕福な状態で暮らすことを可能にしているにすぎないのです。
現代の世故にたけた人たちがつくりだした代用信仰についての記録はなんと悲劇的なものでありましょう。祭壇前で礼拝することを教えられてきた人々すべてが抱いた深い幻滅から、これらの祭壇に対しての取り消し難い評価を歴史の中に読み取ることができるのです。これらの教義が生み出した果実は何かと言えば、その教義のお蔭で人間社会の諸事万端に優位な地位を占め、何十年もその権力を無制限に行使してきた人々によってもたらされた、二十世紀末の世界の隅々に蔓延する社会的、経済的弊害なのであります。これら表面に表れている苦難のすべての根源は、精神的疲弊であり、それは、恵まれず苦悩する何百万という人々の心の希望を消してしまい、一般大衆を捕らえて離さぬ無感覚さに反映しております。
東洋であれ西洋であれ、資本主義であれ社会主義であれ、唯物主義の教義を説く人々が、やがては自らが率先して発揮できると考えていた道徳的指導力について申し開きをする時が来ました。これらのイデオロギーが約束した「新しい世界」はどこにあるのでしょうか。彼らが献身努力してきたと宣言する理想の国際平和はどこにあるのでしょう。この人種、あの国家、あるいは特定の階級の強大化によって生み出されるはずの文化的業績の新しい領域への突破口はどこにあるのでしょう。現代の人類の生きかたを制する人々が、ファラオやシーザーのような専制君主、または十九世紀の帝国主義列強でさえ思いもよらぬ大規模な富を自由にできる時、どうして人類の大半は飢えと不幸にますます落ち込んでいくのでありましようか。
人間は本来救い難く利己的であり、攻撃的であるという誤った考え方を助長する根は、特に物質追求の講歌に見いだされます。それは同時に前述したイデオロギーの元祖であり、それらに共通する特色でもあるのです。私たちは子孫のために新しい世界を建設しなければならず、それにはまず基盤を浄化しなければなりませんが、それは実にこの点にあります。
物質主義的思想が、過去の経験から人類の必要を満たすことに失敗したことに鑑み、現在、地球を苦しめている間題の解決法を見いだすためには、今や新たな努力がなされるべきことを率直に認めざるを得なくなってきております。社会至る所に見られる耐え難い状況は、人類共通の失敗、つまりあらゆる局面でざん壕を除去するどころか、かえってざん壕構築に駆り立てられる傾向を示しております。明らかに広い範囲の改善努力が緊急に必要であります。それは根源的に姿勢の問題であります。人類は、すでにすたれた概念と実行不能の仮説に固執するその強情さをいつまでも持ち続けようとしているのでしょうか。それとも指導者たちがイデオロギーをも顧みず、一歩前進し、確固たる意志をもって適切な解決を求めて団結し、ともに協議しようとはしないのでしょうか。
人類の将来を懸念する人々は次の忠告を熟慮されるでありましょう。
「もし長い間大事にされてきた思想と昔から尊ばれてきた機構が、そしてもしある杜会的思想や宗教的信条が、人類全体の福利を推進しなくなったならば、また、もしそれが絶えず発展し続ける人類の必要を満たさなければ、速やかにこれを廃止し、時代遅れで忘れ去られた教義の仲間に入れなければならない。変化と衰微の普遍の法則に支配されるこの世界で、あらゆる人間の機構を襲う退廃からどうしてそれだけが免れ得ようか。なぜなら法律の基準、政治的・経済的理論はひとえに人類全体の利益を擁譲するためにつくられたのであり、特定の法律や教義を保持するために人類が苦しめられるようにつくられたのではないからである」
(二)
核兵器廃止、毒ガス使用の禁止、また細菌戦の非合法化はいずれも戦争の根本原因までは除き得ないでありましょう。このような実際的方法をとることは、平和への道の要素として重要であることは間違いありませんが、永続する影響を与えるにはそれ自体あまりに浅薄すぎるのであります。人間は器用で他の戦闘方法を発明するでありましょう。そして食物、原料、財政、産業力、イデオロギーやテロ行為を用いて主権と統治権を限りなく求め、互いに滅ぼし合うでしょう。人間社会の諸事万端における現在の大規模な混乱は、国家間のある特定の争いや不和の和解によって解決するものではありません。真正の世界的機構が採用されねばならないのです。
確かに、この間題が世界的な性格を持っていることについては、諸国家の指導者たちに認識の欠落はありません。それは指導者たちが日常直面する諸問題の中で自明であります。国際連合の諸機関はもとより、関心を寄せ、啓発された多くのグループが、この困難な課題に対して何がなされるべきかを一般に知らせるために提出した研究や解決法が蓄積されています。しかし、決意の麻痺が見られ、この点を特に注意深く調べて決然とした態度で対処しなければなりません。この麻庫は前述したように、人類は本来がどうしようもなく闘争好きであるという強い確信に根ざしています。この確信があるために、一国家の利益を世界秩序の必要条件の次に置くという考えを受容し難く、統合された世界の主権を確立するという遠大な計画を勇気をもって直視するのも鷺蕗しているのであります。そしてまた、すべての人々が平和と調和と繁栄の中にともに住み得る新しい秩序への望みを表明できないでいるのも、大半が知らされずに抑圧された状態にいる一般大衆の無力さに帰すことができます。
世界秩序への試験的な歩み、特に第二次世界大戦後のそれは希望が持てる徴候を示しております。いくつかの国家を構成員とする諸集団が相互利益に関する側面で協力し得るよう、その関係を正式なものにする傾向がますます強まっており、やがて全世界の国家が先に述べた麻庫を克服し得ることを示唆しております。東南アジア諸国連合、西インド諸島共同体と共同市場、中央アメリカ共同市場、相互経済援助会議、ヨーロッパ共同体、アラブ諸国連盟、アフリカ統一機構、米州機構、南太平洋フォーラムなどによって代表される共同の努力は世界秩序への道を準備するものであります。
地球上の最も根深い問題の幾つかが一層注目されていることも、希望の持てる徴候であります。国際連合は、明らかな欠点があるにもかかわらず、四十以上の宣言と条約を採択し、政府が批准に無関心な場合でも、一般大衆により新しい生活への希望を与えました。世界人権宣言、集団大虐殺行為の防止と処罰に関する条約、人種・性別・宗教に基づくあらゆる形態の差別撤廃に関する同様な宣言、さらに児童の権利を支持、拷問にかけられようとしているすべての人々を保護、飢えと栄養失調の根絶、科学とテクノロジーの進歩は人類の利益のためにのみ使用など、これらの宣言が大胆に実施され、拡大していくならば、戦争の幻影が国際関係を支配する力を喪失するその日の到来が早まるでありましょう。国連の宣言や条約の意義は強調するまでもないことですが、この内の幾つかは、世界平和確立に直接関連があるため注釈を加える価値がありましょう。
最も有害で執勧な邪悪の一つである人種差別は平和への主要な障害であります。その差別行為はいかなる口実の下でも許されず、人問の尊厳に対するあまりにも極悪な冒漬であります。人種差別はその犠牲者たちの限りない潜在能力の発達を遅らせ、その加害者たちを堕落させ、人間の進歩を阻みます。この問題を克服するには、人類の一体性を認め、これを適切な法的手段で実施し、世界的にもこれが広く支持されねばなりません。
富める者と貧しい者の間に横たわる過度の不均衡は激烈な苦しみの元であり、世界の不安定を招き、事実上、世界を戦争の危機にさらすものであります。この状態を効果的に処理できた社会はほとんどありません。解決には、精神的、道徳的、実務的、各方面からのアプローチを複合して対応しなければなりません。またこの問題は、新しい視点から見直される必要があります。経済面やイデオロギーに関する論争は避けて、緊急を要する決定に直接関係のある人たちを参加させて、広範囲にわたる部門の専門家たちとの討議を必要とします。それは極端な富と貧困の差を排除するために必要なだけでなく、善を見極める精神的な力と結び付いた問題であります。この善を見極める精神的な力を理解することは、新しい普遍的な共通の姿勢を生み出し、そのような新しい姿勢を育成することが、それ自体問題解決の重要な部分をなすのであります。
健全で正統な愛国心とはっきり区別される過激な国家主義は、より広範囲な忠誠心、人類全体への愛にその地位を譲らねばなりません。
バハオラはこう述べております。
「地球はただ一つの国であり、人類はその市民である」
世界市民の概念は、世界が科学の発達により、一つの近隣としての地域に縮小してしまったことと、疑問の余地のない諸国間の相互依存関係の直接の結果なのであります。世界の人々への愛は自国への愛を排除するものではありません。世界社会の一部の利益は、全体の利益を推進することによって最大限に得られます。諸国民相互の親和そして連帯感を育てる様々な分野での現在の国際的活動も拡大、強化される必要があります。
宗教的争いは歴史を通して数え切れないほどの戦争や論争、進歩への主な阻害の原因となってきました。そして現在、信仰を持つ人々にも、信仰を持たない人々にも、ともに嫌悪を覚えさせるものになりつつあります。どの宗教の信者たちも、この争いがもたらす基本的疑問に進んで立ち向かい、明白な回答を得なければなりません。宗教間の違いを理論と実践の場において、どのように解決していったらよいのでしょうか。人類の宗教的指導者たちが直面している問題は、同情心と真理への望みで心を満たして、人類の苦境を熟慮し、全能の創造主の前で謙虚な心で、人間の相互理解と平和の進歩のため、ともに働くことができるように、相互に深い寛大な精神で神学上の差異を水中に沈めることができないかと自分自身に問うことであります。
女性の開放、男女間の完全な平等の達成は、まだ広く一般には認識されておりませんが、平和への最も重要な必要条件の一つであります。この平等性を否定することは世界の人口の半分に対して公正を欠くことになり、男性には有害な態度と習慣を助長させ、それは家庭から職場に、政治活動の中に、そして最終的には国際関係に持ち込まれます。男女平等の否定を正当化できる理由は、道徳的にも、実際的にも、生物学的にも見いだすことはできません。女性が人問の活動のあらゆる分野で完全なパートナーとして歓迎される時にのみ、国際平和達成を可能とする道徳的、心理的状況が生み出されるでありましょう。
義務教育普及の大事業には、あらゆる宗教団体や国家から集まってきた献身的な人々の一団が奉仕していますが、これは世界の各国政府から最大の支持を受けるにふさわしいものであります。無教育は議論の余地なく国民の衰微と滅亡、および偏見の存続をゆるす主要な原因であるからです。すべての市民が教育を受けなければ国は繁栄しません。多くの国は資源の不足から何を最優先とするかにあたって教育の必要に応えることができない状況にあります。教育に関する政策決定機関は女性と少女に対する教育に第一優先権を与えることを考慮すべきでありましょう。知識の恩恵が最も効果的に、そして急速に社会に分散されるのは、教育を受けた母親たちを通してであるからです。また、時代の要求に従って、世界市民の概念はすべての子供の基本的な教育の一部として教えられるべきであります。
基本的に諸国民間の意志伝達手段が欠けていることは、世界平和への努力に容易ならぬ害を及ぼしています。国際補助語の採用は、この問題の解決に多くの貢献をなすものであり、最も緊急なものとして関心を持つべきことであります。
以上に述べた諸問題には、強調すべき点が二つあります。
一つは、戦争の廃止は単に条約や議定書に調印することではなく、その問題解決はこれまでの平和追求の方法とは異なった、新しい段階で対処しなければならない複雑な仕事であることです。政治的な協定にだけ基礎を置く集団安全保障の考えは妄想にすぎません。次に、二つ目として平和問題を取り扱う上で重要な課題は、この問題を精神的な原則・信条のレベルにまでもっていかれるかということです。それは純粋な実用主義とはっきり区別されるものです。平和は本質的には精神的、あるいは道徳的姿勢に支えられる心の中の状態から萌え出るものであり、永続する解決法が見いだされる可能性は、主としてこの姿勢を喚起することにあるからです。
あらゆる社会間題の解決法は、精神的原則・信条、または人間的価値と称せられるものに見いだされます。善意の集団は自分たちの問題に一般的な意味合いでの実用的な解決法を案出するでありましょう。しかし、通常、善意や実用的な知識だけでは十分ではありません。精神的原則・信条の本質的真価は、人間性の中に存在するものともよく調和する物の見方を示してくれることはもちろんのこと、実際的な手段の発見と実践の促進に役立つ姿勢、原動力、意志、熱望を生じさせることにあります。各国政府の指導者、および権威者であるすべての人々は、まず精神的原則・信条とは何であるかを見極め、その精神的原則・信条に沿って問題解決に努力されるのが、最も効果的でありましょう。
(三)
解決すべき根本問題は、闘争というかたくなな行動様式を持つ現代社会をいかにして調和と協力が力を持つ世界に変えることができるか、であります。
世界秩序は、人類の一体性という確固とした意識の上にのみ樹立されます。人類の一体性は人間の科学のあらゆる分野で確認されている精神的意味での真理であります。人類学、生理学、心理学は、生命の第二義的な側面においては人間は限りなく多様であるが、種としての人問は一つしかないことを認めております。この真理を認識するためには偏見1あらゆる種類の偏見、つまり人種、階級、皮膚の色、主義、国家、性別、物質文明の発達段階の差などにかかわるあらゆる偏見と、自分たちが他よりも優れていると思わせるようなすべてのものを放棄しなければなりません。
人類の一体性を受け入れることは、世界を全人類の家庭、一つの国と見なした上で世界の再組織と行政管理を行うための最も基本的な必要条件であります。この精神的原則・信条を世界が受け入れることこそ、世界平和確立へのすべての営みを成功に導く基本となるものです。従って、人類の一体性は世界に宣言され、学校で教えられ、かつそれが示唆する社会構造に有機的変化をもたらす準備としてあらゆる国で絶えず主張されるべきであります。
バハイの見解では、人類の一体性の認識は、「すべての文明化された世界の再建と非武装化を求めるものにほかならないし、その生活、その政治的機関、その精神的熱望、その通商と財政、その文字と言語など基本的分野はすべて有機的に統合されているが、なおその連邦制下の単位である各国の特徴には限りない多様性をもたせた一つの世界を求める」というものであります。
バハイ信教の守護者であるショーギ・エフェンデイは、一九三一年にこのかなめとなる原則が意味するところを説明して次のように注釈しております。
「これは社会に現存する基盤の転覆を目指すどころか、むしろその土台を拡大し、絶えず変わ
りいく世界の必要に応じて諸機構を改造するものである。正統な国家への忠誠と衝突するものではなく、また基本的な忠誠心を危うくすることもない。その目的は、人間の心の中にある健全で知的な愛国心の炎を消すことでもない。極端な中央集権の弊害を避けるべきであるということならば、本質的な国家自治の機構を廃止することもない。これは世界の民族や国民を特徴づけている人種、風土、歴史、言語と伝統、思想と習慣の多様性を、無視したり抑圧することはない。これは、これまで人類に活力を与えてきたものより幅の広い忠誠、より大なる熱望を求めている。そこでは統合された世界が命令として出すものを主とし、一国家の行動と利益を従とすることを主張する。一方においては極端な中央集権を拒み、他方においては単なる画一性へのあらゆる試みをも不母疋する。これを一言で表すならば、多様性の中の統合である」
この目標を達成するにあたっては、諸国間の関係を規定する法あるいは世界的に広く認められ強制力もある規則がないために、無秩序に近い状態になっている各国の政治姿勢を、まず調整しなければなりませんが、調整していくにもいくつかの段階を踏む必要があります。国際連盟、国際連合、そしてそれらが設立した数多くの国際組織や協定は疑いなく国際紛争の悪影響を弱めるのに役立ちはしましたが、戦争防止には無力であることを証明しました。事実、第二次世界大戦の終結以来、数多くの戦争が起こりましたし、現在も多くの戦争が暴威をふるっているのであります。
この問題の重要な局面は、バハォラが最初に世界平和確立のための提案をした十九世紀にすでに現れていました。バハオラが世界の為政者たちにあてた声明の中で、集団保障の原則がすでに提案されております。ショーギ・エフェンデイは、その意味について次のように注釈しております。
「これらの重要な言葉が、世界すべての国家で構成する未来の世界共同体形成準備に必須のものとして独立国家主権の必然的な縮小を示さなかったとすれば、他に何を意味するのであろうか。なんらかの形の国家を越える世界機構が徐々に発展する必要がある。そのために世界のすべての国家は、戦争宣言権、ある種の徴税権、自国内の秩序維持に資する以外の軍事力保有権などの権利を進んで譲らねばならないであろう。このような超国家世界機構はその圏内に世界共同体に反抗するいかなる国に対しても絶対的な最高権力を行使する適切な国際行政部と、各国の国民によって選出され各国政府によって確認された議員で組織される世界議会と、関係当事者が自発的に事件を裁判に委ねることに同意しない場合でも判決が拘束力を持つ最高司法機関を含まなければならない」
「このような世界共同体の中では、経済上の障壁は永久に除かれ、労使の相互依存関係は明確に確認され、宗教的狂信の争いと騒動は永遠に鎮められ、人種的敵対心の炎もついに消され、世界機構の代議員の熟考した判断の成果である唯一の国際法典は連邦各構成国の合同兵力をもって即時的、強制的干渉力を保持し、ついには不安定な戦闘的国家主義の激情は世界市民としての確固とした意識に変えられるであろう。以上が、実際、バハオラによって予期されたある『秩序』一緩慢に成熟しつつある時代の最も美しい果実として見いだされる『秩序』―の大要なのである」
これらの広範囲にわたる平和への実施手段は、バハオラによって次のように明示されております。
「全人類を包含する大集合が絶対に必要であることが一般に認められる時が来る。地上の為政者、国王は、それに出席して討議に加わり、諸国民問に世界『大平和』の基礎を置くような手段を考慮しなければならない」
勇気、決意、純粋な動機、他人に対する無私の愛一-これらはすべて平和への重要な一歩を効果あるものにしてくれる精神的、道徳的特質でありますが、これらは行動への意志に結集されねばなりません。そしてこの行動への意志をより強くしていくためには、人問の本質、つまり人間の思考力というものについて真剣に考慮する必要があります。この力に満ちた人問の本質について十分に理解していれば、社会的問題を解決するためには、率庖な、冷静な、誠意のこもった協議というものを通してこの人間の本質の真価を発揮させることが必要であり、またその協議から生まれる結果に従って行動することも必要であることが理解されます。
バハオラは、人間社会のすべてを決めるための協議の効力とその不可欠性を指摘し、次のように述べております。
「協議はより明確な意識をもたらし、単なる推測を確実なものに変える。それは輝く光であり、暗黒の世界において先頭に立ち導く。すべてのものには完成と成就の場があり、将来もそうあり続けるであろう。理解力の完成は協議を通して明らかにされる」
バハオラが提案した協議による平和達成への行動は、有益な精神を広く地上の人々に与えてくれ、いかなる力もその最終的勝利を阻止できないのであります。
この世界的な集会の進め方について、バハオラの長子で、その教えの権威ある解釈者であるアブドル・バハは、次のように説明しております。
「彼らは『平和の大業』を一般協議の対象にし、世界諸国の『連合』の確立にあらゆる手段を行使し、努力しなければならない。彼らは拘束力のある条約を締結し、盟約を結ばなければならない。その規約は侵し難く正当でかつ明確であらねばならない。彼らはそれを全世界に宣言し、全人類の承認を得なければならない。この崇高にして高貴な事業、すなわち全世界の平和と福祉の真の源泉は、地上に住むすべての人々によって神聖なものとみなされるべきである。人類の全勢力は、この『最も偉大な聖約』の安定性と永続性を守るために結集されねばならない。このすべてを包含する『条約』の中に各国の境界と領域は明確に定められ、政府間相互の関係の礎である原則は明臼に敷かれ、すべての国際協定と責務が確認されるべきである。同じく、すべての政府の軍備は厳格に制限されるべきである。なぜならば、もし一国が戦争の準備をしだり、軍事力を増強するならば、他国の疑惑を呼び起こすからである。この厳粛な『条約』の底流を流れる基本的原則は、ある政府が規約の一つでも破るならば、地上の他の政府が一斉に立ち上がり、その政府を屈服させるほどに確固としたものでなければならない。いや、それどころか人類全体が全力を尽くしてその政府を滅ぼすことを決意すべきなのである。もしすべての治療法の中の最大の治療が、病んだ世界の身体に旋されるならば、世界は確実に回復し、永遠に安全に保障された状態を保つであろう」
この強大な会議招集はあまりにも長く待たれてきました。
私たちはこの機会に全世界の国々の指導者の皆様に、この世界会議招集のため断固とした一歩をとられるように心の底から訴える次第であります。歴史のすべての勢いは人類をこの行動に向けて駆り立てており、これは長く待望されてきた人類の成熟期の始まりを永遠に記録として残すことでありましょう。
国際連合は、加盟諸国の完全な支持を得て、この高遭な事業の無上の目的のために立ち上がろうとはしないのでしょうか。
男性にも、女性にも、青年にも、子供にも、あらゆる場所で、全人類のためのこの緊急な行動がもたらす永遠の価値を認識させ、進んで同意の声をあげさせようではありませんか。これらの世代をして地球上の社会生活の発展の中での栄光ある段階へ歩を進めさせようではありませんか。
(四)
私たちが将来に明るい見通しを持っている理由は、戦争の停止と国際協力機関の創設を成し遂げ、さらにそれを超越した段階にある未来の姿を見ているからであります。諸国家間の恒久平和は人類の杜会発展における基本的な段階ではあるが、最終目標ではない、とバハオラも主張しております。核による全滅の恐怖から世界に強いられた最初の休戦以上のものとして、また疑い深く対抗する諸国が不承不承、承認した政治的平和を越えたものであり、はたまた安全と共存のための実用主義的協定を越え、これらの手段によって可能となった多くの協力して行なった試みさえも越えて、全世界の人々を一つの世界家族に統合するという最高の目標があるのです。
不和は、地球上の国家も国民も、もはや耐えることのできない脅威であります。その結果は思うだけでも恐ろしく、証明など必要としないほどに明白であります。バハオラは一世紀以上も前に次のように書いております。
「人類の福柾と平和と安全は、人類の和合がしっかりと確立するまで達成できないし、確立してはじめて達成される」
「人類は、和合に導かれることを、長期にわたった殉教の時代の終息を、死をかけて切望しているのである」この言葉を深く吟味してショーギ・エフェンデイは次のように注釈しております。
「全人類の和合こそ、人間社会が今、接近しつつある段階の金科玉条である。家族、部族、都市国家、および国家の調和統一は継続的に試みられ、十分に確立されてきた。そして今や世界統合は苦難の中にある人類が完成を目指し奮闘している目標である。国家建設は終わりにきた。国家統治につきものの無秩序が最高潮に向かって動きつつある。成熟期に入りつつある世界は、盲目的に崇拝することをやめ、人間関係においても、人は皆同じであること、そして一つの集合体であることを認識し、最終的に、人間生活の基本的原則を最高度に具体化し得る機構を確立しなければならない」
現代の変革をもたらす諸勢力もすべてここに述べた見方は正しいと認めております。その証拠は最近の国際的運動や開発計画において、世界平和に向かう好ましい徴候としてすでに挙げた多くの例に認められます。国際連合の多様な機関に勤務している大勢の男性、女性は、地球上のあらゆる文化、人種、国家を背景に集まってきており、事実上、地球の「公僕」.であることを表しております。その印象的な業績を見れば、思わしくない状況の下でも、いかに協力できるかがわかります。和合へと推し進める力は、ちょうど精神的な春季の到来の時のように、無数の国際会議に各分野において種々の経験を積んだ人々を参集させ、その力がどのようなものかを懸命に示そうとしております。この力はまた青年や子供をも対象とした国際的なプロジェクトヘの参加を積極的に呼び掛けております。また教派を越えた世界的宗教に向かう素晴らしい運動の真の源泉でもあります。これにより歴史的に対立してきた諸宗教、諸宗派に属する人々も相互に抗し難く引きつけられているように思われます。戦争と覇権主義に対しては、和合へと向かう力は絶えず対立してきており、さらにこれに反対する傾向も現れ、世界の和合への動きは、二十世紀末葉において地球上で最も優勢に広く浸透したものの一つであります。
バハイ共同体の中での経験は、この広い範囲にわたる和合の一例として見ることができます。バハイ共同体は、数多くの国家、文化、階級、信条の背景を持つ三百万ないし四百万の人たちから構成されております。そして、多くの国民の精神的、社会的、経済的な求めに応じて奉仕しながら広範囲にわたる活動に従事しております。バハイ共同体は社会の一つの有機的組織体であります。人問家族の多様性を代表し、誰もが認めている協議の原則に沿ってその業務を推進し、かつ人間の歴史上に出現した神の教導の偉大な流露をすべて平等に尊敬するのです。バハイ共同体の存在は、その創始者が示した和合し一つになった世界に関する未来像がいかに現実的であるかを納得させてくれるもう一つの証拠であります。それはまた、人問は一つの地球社会として生きていくことができ、これからの時代に伴う課題に対応できることを証明しているのであります。もしバハイの経験がいくぶんなりとも人類の和合への希望を強めることでお役に立つようでしたら是非、私たちの共同体を研究の対象として使っていただければ幸甚に存じます。
現在、全世界が直面している任務の重大さを熟考する時、私たちは聖なる創造主のおそろしい威厳の前に謙虚に頭を垂れずにはおられないのです。創造主は人間に対する無限の愛から同じ種より全人類を創り、宝石のような人間の本質を高揚し、知性と叡知、気高さと不滅性を与え、人間に「創造主を知り、愛する独特の卓越性と能力を与え」その能力は、「全創造物にとっての推進力、そしてまた存在の主要な目的と見なされねばならない」とされたのです。
私たちは全人類が、「絶えず発展しつつある文明を推し進めるために」創造されたこと、「野の獣のように行動することは人間にふさわしくない」ことを強く確信するものであります。人間の尊厳にふさわしい特性は、あらゆる人々に対する信頼、寛大、慈悲、同情、愛のこもった親切であります。私たちは、重ねて次の信念を確認します。
「人間というものに内在する潜在能力、地上における人間の運命のすべて、人問の本質に固有の卓越性は、すべてこの『神の約束の日』に現される」
これこそ私たちが、人類がその目標として努力している和合と平和は達成し得るという揺るぎない信念を持つに至った動機なのであります。
この声明書を書いている最中にも、バハイ信教発祥の地では、バハイは今なお迫害に耐えておりますが、それにもかかわらずバハイの希望の声は聞かれるのです。確固たる態度で希望を捨てず、昔からの平和の夢は今、神の権威の力を与えられたバハオラの啓示の力によって実現しようとしているのであるという信念を表明しているのであります。ここで私たちは、皆様に言葉だけの未来像をお伝えしようとしているのではありません。信仰と犠牲への行動力を呼び起こし、あらゆる地域において私たちと同心の信仰者の平和と和合への熱心な嘆願をお伝えしたいのであります。私たちは、すべての侵略の犠牲者たちと、そして争いと論争の終息を熱望する人たちと、また、慈愛あふれる創造主による人間創造の高貴な目的を推進し、平和と世界秩序の原則に献身するすべての人々と行動をともにするものであります。
私たちの強い希望と深い確信を皆様にお伝えしたいと真剣に望みつつ、ここにバハオラの確固とした確証を引用させていただきます。
「これらの無益な争い、これらの破滅をもたらす戦争は過ぎ去り、『最大平和』が到来するであろう」
一九八五年十月
万国正義院