バハオラの律法時代
行政秩序
アブドル・バハにおける最愛なる同胞たちよ!バハオラの昇天とともに、神の導きの太陽は、シェイク・アフマやシイード・カジムが予告したようにシラーズに昇り、その進路を西にたどりながら、アドリアノープルで最高点に達し、そして、一千年が経過するまでは二度と昇ることなく、遂にアッカの地平線の下に沈みました。それほど輝かしい天体が沈んだということは、神の啓示が確実に終ったこと、つまりバハイ時代の最初で最も活力に満ちた段階が訪れたことになります。バブが創始され、バハオラにおいて最高に達し、この偉大なる予言的周期のあらゆる予言者によって予期され、誉め称えられてきたこの時代は、バブの殉死の時から、テヘランのシアチャルでのバハオラの奮起的な経験に至るまでの短い間を除いては、ほとんど50年間にわたる絶え間ない累進的な啓示の時代でした。それは、その継続期間と豊富さにおいて人類の精神的な歴史上、全く類を見ない時代であります。
そして他方では、アブドル・バハの天昇は、この律法時代の『英雄時代』と『使徒時代』の終わりを告げたのであります。その『英雄(または使徒)時代』は、バハオラの啓示の将来の勝利を特徴づける偉大さが匹敵すること、ましてや、凌ぐこともできない程の輝きを放った信教の時代であります。なぜなら、バハオラの信教の現在の機構を築き上げた、この最高の建設者たちの業績も、また、来るべき日々に『黄金時代』の英雄たちが勝ち得るであろう騒乱の勝利も、バハイ信教の生命を生じ、最初の基盤を築いた人々に関することもないからです。バハイ時代の最初で創造的な時代は、その性質により、今始まったばかりの『初期形成時代』やその後に来る運命にある『黄金時代』から超越し、違ったものであるものなのです。
アブドル・バハは、世界のあらゆる認められた宗教組織も匹敵できない制度を具体化されましたが、彼は、自らが属していた時代の幕を閉じ、今私たちが一生けん命努力を尽くしている時代の幕を開けられたと言えましょう。したがって『アブドル・バハの遺訓』は、バハイの律法時代の構成部分である三つの時代が途切れないように確証するために、『神の神秘』である彼の知性によって考案された永久不変のきずなと見なされるべきであります。こうして、バハイ信教の種がゆっくりと芽を出し成長しているこの時代は、それが花咲くのを目撃すべき時代と、その種が遂にその黄金の実を結ぶであろう次の時代と密接に関連しているのです。
バハオラの法律によって放散された創造的エネルギーは、アブドル・バハの心の中に浸透し展開しながら、それが及ぼす影響と密接な相互作用により、この最も偉大な律法時代の栄光と約束である「新しい世界秩序」の「憲章」として見なさるべき「手段」を生み出したのだあります。したがって、アブドル・バハの「遺訓」は、聖なる目的の影響を与えた御方とその伝達手段と選ばれし者である方との神秘的な交わりにより生じた必然的な結果であると見なすことができます。アブドル・バハの遺訓は、神の法律の設立者とその解釈者の継承者である「聖約」が「産み出したもの」であるが故に、
つまり、それを結局考案した方から切り離すことをできないように、その最初の原動力となる刺激を与えられた方からも切り離すこともできないのです。バハオラの不可解な目的はアブドル・バハの行動に浸透し、また、この二人の動機はとても密接に融合しているので、バハオラ自身の教えを、その同じ教えの理想的な「模範者」であるアブドル・バハが設立なさった組織から切り離そうと試みることは、バハイ信教の最も神聖で基礎的な真理を否定することになるということを、私たちは常に忘れてはなりません。
アブドル・バハが亡くなられてから世界の40カ国もの所で進歩し形成されている行政されている行政的秩序は、アブドル・バハの「遺訓」そのものの骨組みとして、そして「遺訓」は、この新しく生まれた子供が育てられ、成長するための不可侵の要塞なのです。この行政的秩序は、拡張し、強化されるにつれて、疑いなく、この重要な「文書」の潜在力を現し、その意味を十分明かにするでしょう。その「文書」は、バハオラの律法時代の最も顕著なる人物のひとりの「意志」を表現した最も注目すべきものであります。この行政秩序は、その構成部分や構成機関が能率よくかつ精力的に活動し始めるにつれて、その主張を断言し、やがて全人類を包み込む運命にある「新しい世界秩序」の核心としてだけでなく、まさにその基本として見なされるべき能力を実証するでしょう。
これに関して、この「行政的秩序」は、これ以前の予言者たちが設立したいかなるものとも根本的に異なるということに注目すべきです。なぜなら、バハオラ自身が行政的秩序の原則を啓示なさり、その機構を設立なさり、バハオラの言葉を解釈する者を指名し、バハオラの法令を補足し応用するための機関に必要な権威を授けられたからです。そこに、その強さの秘密と根本的な違い、そして崩壊と分裂からの保護の保証があるのです。世界のいかなる宗教の聖典にも、また、バブの律法時代の創始者の文書にさえも、視野と権威においてバハイ律法時代の基礎にある聖約を設立したり行政秩序に必要な規定に比較できるものを見つけることはできません。世界で認められた宗教の中で最も広まり、顕著である二つの宗教、キリスト教とイスラム教を例にとりましょう。これらの宗教に、バハオラの「聖約の書」やアブドル・バハの「遺訓」と比較になるもの、あるいはそれらに相当するものがあるでしょうか?福音書やコーランの原典は、その聖典の規定するを解釈したり、その共同体の業務を管理したりする権利を主張し、その役目をした指導者や議会に十分な権威を与えているでしょうか?使徒たちの認められた長であったペテロや、モハメッドのいとこであり正当な後継者であるアリは、彼らが授けられた長としての地位を支持するために、彼らの同時代または後の時代にその権威を否定したり、今日まで続いている分裂の発生を早めた人々を黙らせるような、キリストやモハメッド自身からの明白な文書を提出することができましょうか?イエス・キリストの記録された発言の中に、後継者に関して、あるいは全く精神的原理とは異なった特定の法律や明白に定義された行政的法令の規定に関して、バハオラやアブドル・バハの権威ある発言に れている詳細な命令や法律や忠告に匹敵するものを見つけることができましょうか?−−−私たちは、このように自身を持って尋ねるでしょう。コーランは、法典や行政的法令や祈祷に関する法令に関してそれまでの、より堕落した啓示よりも、すでに明らかに進歩していますが、そのコーランの節は、モハメッドが、口頭で何度か彼の後継者に授けた疑いのない権威が、議論の余地のない基盤に基づくものと解釈できましょうか?バビ律法時代の設立者であるバブは、ペルシャ語のバヤンの規定を通して、キリスト教やイスラム教を苦しめた永久かつ悲惨な分裂を裂けるのに、いかに成功したとしても、バハオラの信教の組織化された信奉者の和合を常に保たねばならない手段と同様に確実で効果的な手段を、バブの信教を守護するために産み出したと言えましょうか?
これ以前の啓示の中でもただひとつ、このバハイ信教は、その教えの中に含まれ、詳しく述べられた明白な指示と、繰り返して述べられた忠告と、権威を与えられた保護手段を通して、次のような機構を築くのに成功したのであります。それは、行きづまり、崩壊した宗派の、当惑した信者達が近づき、批判的に調べ、やがてその世界を包み込む避難所の、不死身の保護を追い求めて来るそのような機構なのです。
そして、「遺訓」を通して非常に広大で独得な秩序を設立し、非常に強力な「聖約」の「中心」である方が次のような言葉を記されたのはもっともであります。「この聖約は非常に堅固かつ強力であるので、時の初めから今日に至るまで、宗教の律法時代には類を見ない程のものである。」また彼は、その使命の間で最も暗く危険に満ちた日々にこう書かれました。「この神聖なる周期の最も奥底に潜在するものは全て、徐々に現れ、明らかになるでろう。なぜなら、今それは成長し始めたばかりであり、その印の啓示の夜明けにすぎないのだから。」また彼は、「遺訓」によって設立された「行政的秩序」の出現を予期する、確信ある言葉として、こう述べられました。「もしこの『枝』がこの物質世界から断たれ、その葉を落としたとしても、恐れることなかれ。いやむしろ、その葉は生い茂るであろう。なぜなら、この枝は、この世から断たれた後に成長し、栄光の頂点に達し、世界を芳香で満たす実を結ぶであろうから。」バハオラの次の言葉は、全てを包み込む将来のバハイ共同体の基礎であるこの「行政的秩序」が明らかにすると定められた権力と威厳以外の何を指していると言えましょう。「この最も偉大な、この新しい世界秩序のの震動的な影響により、世界の均衡は狂わされた。人類の整頓された生活は、この独特で驚くべき組織の作用により大変革がもたらされたそれは、人間の目が今だかつてその類をみたことがないものである。
バブ自身も、「神が顕現し給う御方」について言及しながら、バハオラの啓示が明かすよう定められた組織を予期し、その「世界秩序」を賛美しています。次の言葉は、ペルシャ語のバヤンの第3章の、バブの注目に値する言葉です。「バハオラの秩序に視線を向け、自らの主に感謝する者幸いである。その御方は必ず現れるのだから。まことに神は、バヤンにおいてこれを決定的にお定めになった。」
私達は、次に掲げる天において、アブドル・バハの「遺訓
」によって後に宣言され、正式に設立するよう定められた「行政秩序」の性質と仕組みについておぼろげながら感じ、その最初の暗示を発見することができます。1)万国正義院や地方正義院の制度が特別に命ぜられ、正式に設立されているバハオラの書簡。2)まず最初にバハオラが、そして次にアブドル・バハがもたらされた神の大業の翼成者の制度。3)アブドル・バハが亡くなられる前に、初期形成の段階としてすでに活動していた地方と全国行政会の機構。4)書簡の中で、バハイ信教の設立者であるバハオラとその「聖約の中心」であるアブドル・バハが行政機構に授けられた権威。5)アブドル・バハがペルシャの行政会にお与えになった特定の命令に従って、機能を果たした地方基金の制度。6)守護者制度を明かに予期する意味を含む「キタビ・アグダス」の書の中の節。7)アブトル・バハがある書簡の中で説明し、強調なさった、過去の予言者達の支持された長子相続制の原則と法律。
この時点で、この強力な「行政機構」を支える双子の柱−−−守護者制と万国正義院−−−の性質と役目について説明を試みるべきであると私はおもいます。これらの機関と協力して活動する要素の全部を描写することは、バハイ信教の根本的真理を一般的に説明しようとするこの説明の範囲外であり、目的外であります。その特徴について正確かつ精密に定義し、一方ではアブドル・バハのこの二つの根本的機構を結び付け、他方では各々の機構を、バハイ信教の「設立者」とその「聖約の中心」とに関連させる関係の性質について汲まなく分析することは、将来の世代の人々が疑いなく十分に果たすであろう任務であります。私の今回の意図は、この組織の幾つかの顕著な特徴について説明を加えることです。そして、私達がこの組織の巨大な構造にいかに間近に立っていようとも、その特徴はすでに非常に明らかなので、それらを誤解したり無視するのは許されないことです。
まず初めに、バハオラの「行政的秩序」のこの二つの機関は、その起源が神にあり、その役目は不可決であり、目標と目的においてお互い補足的であるということは、明白かつはっきりと述べられるべきです。これらの機関の共通の、根本的目的とは、バハイ信教の「根源」から流れ出る、神によって指名された権威の継続を保証し、その信奉者達の和合を守り、その教えの無欠性と柔軟性を維持することです。お互いと協力しながら、この二つの切り離せない機関は、信教の業務を管理し、活動を調整し、利益を促進し、法律を執行し、その補助的機関を擁護するのであります。各々は、明確に定義された管がい内で、別々に活動します。
−−−各々は、その自体の付随の機構を備えつけており、それらの機構は、そのとくべつな責任と任務を効果的に果たすためのものであります。各々は、各々に課された制限内でその権威と権利と特権を行使するのです。これら二つの機関は矛盾してもいなければ、各々が占める地位を失うこともないのです。お互いを矛盾したり破壊したりするどころか、これらはお互いの権威と役目を補足し、その目標において永久かつ根本的に連合されているのです。
「守護者」の制度がなかったら、「バハオラの世界秩序」は不具となり、アブドル・バハが記されたように神の法律によって常に支持されてきた世襲の原則を永久に失ってしまうでしょう。アブドル・バハは、あるペルシャの信者にあてられた書簡の中でこう述べられます。「神の全ての律法時代において、長男は並はずれた相違点を与えられた。予言者の地位でさえ、長男の生まれつきの権利であった。」そのような機関なしでは、「信教」の無欠性は危機におちいり、全組織の安定は非常な危険にさらされてしまいます。その信望は失われ、引き続く世代についてとぎれることなく長い目で見るために必要な手段は全く欠如し、その選出された代表者たちの法律制定の領域を定義するために必要な導きは全く失われてしまいます。
[守護者の機関に]劣ることなく不可欠である万国正義院の機関から切り離されたら、アブドル・バハの「遺訓」のこの「組織」はその行動において麻ひし、キタビ・アグダスの「著者」がその律法的、行政的法令の機関に故意にお残しになった空所を埋める力を失ってしまうでしょう。
アブドル・バハは、バハオラの言葉を解釈する権威に対して挑んだ「聖約の破壊者」たちの論拠を否定した時、彼自身お使いになった言葉を用いながら、また、「信教」の「守護者」の役目について言及し、こう断言なさります。「彼は神の言葉の『解釈者』である。」そしてこうつけ加えられます。「彼の後には、その直系の子孫の長子が後を継ぐことになる。」さらにアブドル・バハはこう説明なさります。神の大業の守護者なる彼に服従することによって、その強力なる要塞は、難攻不落かつ安全のままであろう。」「神の大業の守護者に従順と服従と従属の態度を示すことは、万国正義院のメンバーや全てのアグサンやアフナン、そして神の大業の翼成者たちの義務である。」
それに反してバハオラは、「崇高なる楽園の第八の葉」において、こう宣言なさります。「『書』の中にはっきりと啓示されていない事柄に関して、共に協議を行い、賛成することを執行することは、正義心のメンバーの義務である。神はお望みになることをもって彼らに霊感をお与えになるであろう。まことに神はお与えになる方であり、全知なる御方である。」アブドル・バハは、「遺訓」の中で次のように述べておられます。「あらゆる者は『最も神聖なる書』(キタビ・アグダス)に頼らねばならず、又、そこにはっきりと記されていないことは全て、万国正義院に委託せねばならない。この機関が満場一致、あるいは過半数で可決することは、まことに真実であり、神自身の意志である。それからそむく者はみな、まことに、不和を好む者であり、悪意を示し、聖約の『主』からそむいた者である。」
アブドル・バハは「遺訓」の中で、前に述べたバハオラの言葉を確証なさるのみでなく、先に述べた正義院の権利と権力と同時に、この機関に、時代の必要条件に応じてそれ自体の法律を廃止する権利と権力を、さらにお与えになります。次に引用するのが、アブドル・バハの「遺訓」の中の明白な言葉です。「正義院には、『書』の中にはっきりと示されていない法律について制定し、日々の処置に関係する権力があるので、それを取り消す権力もある−−−これらの法律は、神の明白な原典の部分ではないので、正義院はそうすることができるのである。」
守護者と万国正義院の両方に言及する次のような断固とした言葉があります。「国際的に選出され、成立さるべき万国正義院と、神聖かつ若き『技』なる、神の大業の守護者は、両方とも『アブハの美』[バハオラ]の保護と擁護のもとにあり、『崇高なる御方』[バブ](わが生命が、この両方の御方に捧げられんことを)の加護と不過誤の導きのもとにある。彼らが決めることは全て、神の意志なのである。」
これらの言葉によって、信教の守護者は[神の]「言葉」の「解釈者」であり、そして万国正義院は教えの中にはっきりと啓示されていない事柄について法律を制定する役目を与えられているということが、疑いなく明白かつ明らかになります。守護者の解釈は、守護者自身の領域内で活動しながら、万国正義院の法令と同様に権威があり、義務的なのであります。そして万国正義院の独占的な権利と特権とは、バハオラがはっきりと啓示なさらなかった法律や法令について、意見を述べ、最終判決を下すことです。どちらも、お互いの神聖で規定された領域を侵害することができないし、また、侵害することもないでしょう。どちらも、神の意志によって与えられた特別で疑いの余地のない権威を奪い取ろうとすることもないでしょう。
信教の守護者はそれ程威厳ある機関の長となされましたが、彼は決して、一時的でさえも、独占的な立法の権利を横領することはできません。彼は仲間のメンバー「万国正義院のメンバー」の大多数の決断を無視することはできません。しかし、彼が、その制定された法律は、バハオラの啓示された発言の意味と矛盾し、その精神からそれると誠実に信ずるなら、その法律の制定を万国正義院のメンバーが再考慮することを主張する義務があります。守護者は特別に啓示されたことを解釈するのであり、万国正義院のメンバーとしての資格の外では、法律を制定することはできません。守護者は、その仲間のメンバーの組織化された活動を統治すべき憲法を単独で規定するのを禁じられています。また、彼の協力者たちの機関を選挙で選ぶという神聖な権利を持つ人々の自由を侵害するようなやり方で感化することも禁じられています。
守護者の機関は、アブドル・バハが亡くなられるずっと前に、彼自身がペルシャの3人の友人たちにあてられた「書簡」の中で予期されていることを心に留めておくべきです。アブドル・バハの死後に、あらゆるバハイが頼るべき人がいるかどうかという質問に関して、アブドル・バハは次のようにお答えになりました。「汝らがわれに尋ねた質問に関してであるが、これは十分に保護された秘密であることを知れ。それはまるで貝殻の中に隠された宝石のようなものである。それが明らかにされることは、前もって定められている。その光が現れ、その証拠が明らかになり、その秘密が明かされる時が来るであろう。」
親愛なる友人たちよ!バハオラの「行政秩序」における守護者の機関の地位が高く、その役目は重要であり、それがかかうる責任の重要さは大変なものですけれども、その重要性は、「遺訓」の表現がどのようなものであれ、決して過度に強調されてはなりません。信教の守護者はいかなる状況においても、また、その功績や業績が何であれ、「聖約の中心」が占める独特な地位におけるアブドル・バハと同等の地位まで高められるべきではありません。ましてや神の顕示者のみに定められた地位に高められるべきでもありません。私たちの信教の確立された信条からそれ程それてしまうことは、公然なる冒涜に他なりません。すでに述べましたように、アブドル・バハの地位について私が述べたるにあたって、彼と、神の啓示の「設立者」との間のへだたりがいかに大きくとも、バハオラの「聖約の中心」なる方とその選ばれし後継者である守護者たちとの間のへだたりは、比べることができない程、さらに大きいのです。守護者と「聖約の中心」の間のへだたりは、「聖約の中心」とその「設立者」の間のへだたりよりもずっと、ずっと大きなものなのです。
信教の守護者は、誰も、バハオラの教えの完璧な模範者、または、バハオラの光を映し出す汚れなき鏡である、と主張することは決してできないことを記すのは、私の厳粛なる義務であると感じます。バハオラとバブの完璧で過ちを犯さない保護のもとにあり、バハイの教えを解釈する権利と義務をアブドル・バハと分かち合うとは言っても、守護者は、本質的には人間であり、もし自らの責任に忠実でありたいと望むなら、いかなる口実があろうと、バハオラがその「息子」に授けられた権利や特権や特典を横領することはできないのです。この真理を考慮して、信教の守護者に祈ったり、彼を「主」や「師」と呼んだりすると、また、彼を「聖なる御方」と呼んだり、彼の祝福を求めたり、誕生日を祝ったり、そして彼の人生に関する出来事を祝ったりすることは、私たちの敬慕する信教に秘められた確立された真理からそれてしまうことになるでしょう。守護者が、バハオラとアブドル・バハの発言の意味を明かす力を特別に与えられたという事実は、解釈するように求められたことばを発した方自身と同等の地位を授けられるということには、必ずしもならないのです。その権利を行使し、その任務を果たしても、守護者は、バハオラやアブドル・バハの地位よりも限りなく低く、その性質も彼らとは全く違ったままでありうるのです。
私たちの信教の、この重要な原則の無欠性に対しては、現在そして将来の守護者たちの言葉と行動が十分に証言しなければなりません。守護者たちは、そのふるまいと模範によって、その真理を難攻不落の基盤の上に確立し、その真実性の非の打ちどころのない証拠を、将来の世代の人々に伝えねばなりません。
それほど重要な真理を認めることを、私がためらうこと、あるいは、それほどしっかりとした確信を宣言するのを私がたじらうことは、アブドル・バハが私に置かれた信用をはずかしくも裏切ることであり、また、アブドル・バハ自身に与えられた権威を横領するという、許せぬ行為であります。
さて、「行政秩序」の基盤を成す理論と、その主な機構の作用を統治する原則について、言葉を加えるべきであります。この独特で、神によって、産み(生み?)出された「秩序」と、歴史上の様々な時代に、人類の機構の統治のために人間の頭が考案した様々な時代に、人類の機構の統治のために人間の頭が考案した様々な組織とを比較しようとすることは、全くの間違いであります。そのような試み自体、その偉大なる「設立者」が産み出したものの優秀性に対する十分な認識の欠如を示すことになります。この「秩序」は、バハオラの全能なる「法律」が地上に成立するべき聖なる文明の基本となることを私たちが憶えているというのに、そのような試みが「行政秩序」の優秀性に対する認識不足にならないと言えましょうか?様々な、常に変化する人間の政治組織は、過去のものであれ現在のものであれ、又、その起源が東洋のものであれ西洋のものであれ、この「秩序」の隠されたる価値の力を見積ったり、その基盤の堅固性を判断するための十分な基準にはなりません。
この巨大な「行政秩序」は、未来のバハイの共同体の唯一の骨組みですが、未来のバハイ共同体は、理論上、そして実際にも、政治的組織の歴史上、独特なものであるだけでなく、世界のあらゆる認められた宗教的組織の歴史上にも類を見ることができません。民主政体も、独裁政治も、(君主制にせよ共和制にせよ)また完全に貴族政である仲介組織も、あらゆる認められた形態の神政も、(ヘブライ人の共同体にせよ、様々なキリスト教会の組織にせよ、又はイスラム教のイマム制やカリフ制にせよ)−−−これらのうちのどれも、完璧なる「建設者」の熟練した手によって作られた「行政秩序」と同じであると見なされることはできませんし、それと一致すると言うこともできません。
この新しく生まれた「行政秩序」は、その構造内にこの三つの認められた世俗的政治形態にある要素を取り入れておりながらも、そのうちのどのひとつの形態を単に複写したものでもありません。また、それらが本来持っている好ましくない特徴をその組織内に導入することもありません。人間によってこれまでに作り出された政府とは違って、それは、その究極的な基盤である、神によって与えられた真理の無欠性をそこなうことなく、これらの組織が疑いなく含んでいる有益な真理を混合し、調和させているのです。
バハオラの信教の「行政秩序」は、その性質において全く民主主義的であると見なされてはなりません。というのは、全ての民主政体が根本的にはその支持を人々から得なければならないことを要求する根本的前提は、この「立法時代」に全くないからです。信教の行政上の業務をつかさどることにおいて、又、「キタビ・アグダス」の法律を補足するのに必要な法律制定をするにおいて、万国正義院のメンバーは、バハオラの発言が明白に意味するように、彼らが代表する人々に責任はありませんし、信者の大部分や万国正義院のメンバーを直接選ぶ人々の感情や一般的な意見や説得によって左右されることも許されていないことを心に留めておくべきです。メンバーは、祈り深い態度で、その良心の命令とさしずに従うことになっております。メンバーは、共同体内に広まっている状況について知るでしょうし、いや、まことに、知らなければなりません。又、彼らが考慮するために提出されたあらゆる事例の理非について公平に心の中で熟考しなければなりませんが、彼ら自身は、拘束されることのない決断の権利を保持しなければなりません。「神はまことに、お望みになることをもって彼らに霊感をお与えになるであろう。」という言葉が、バハオラの反ばくできない保証の言葉です。彼らを直接又は間接的に選ぶ人々ではなく、彼ら自身が、神の導きを受け取る者となされたのであり、同時に、その神の導きは、この啓示の生命の血管かつ最終的保護手段であるのです。さらに、この「立法時代」に長子相続制の原則を象徴する者は、その「設立者」の言葉の解釈者とされ、したがって、彼に与えられた実際の権威よって、立憲君主国に広まっている組織を常に関連する名目上の長となることはないのです。
また、「バハイ行政秩序」は、厳格で厳しい、完全な独裁制の組織として、あるいは、専制主義的教会政府(それが教皇政治であれ、イマム制であれあるいは他の似たような制度であれ)のたわいない模倣として捨て去られることもできません。なぜなら、バハオラの信奉者たちの選出された国際的な代表者たちには、バハイの文書に明白に啓示されていない事柄について法律を制定する独占的な権利が授けられているからです。守護者も、また、万国正義院以外のいかなる機関も、この重要かつ不可欠な権利を横領したり、その神聖な権利を侵害することは、決してできません。洗礼や聖職式や罪の告白の儀式を伴う職業としての聖職制の廃止、地方的、全国的そして国際的な正義院の全てを普遍的選挙で選出することを要求する法律、そして特典や堕落や官僚主義的傾向を伴う監督制の権威が全く存在せぬこと−−−これらは「バハイ行政秩序」の非独裁主義的な性質と、その業務の管理において民主主義的な方法をとる性質にあることに関する証拠であります。
また、バハオラの名と同一視されるこの「秩序」が、一方では相続制の原則を支持し、信教の守護者にその教えを解釈する義務を託し、他方では、信者全体の中から、その最高の立法機関を成す機構を自由かつ直接に選挙で選出させるという事実を考えると、この「秩序」は完全に貴族政のものと混同されるべきでもありません。
この「行政秩序」はこれらの認められた政体のどのひとつを模倣したと言うこともできませんが、それは、各々に存在する健全な要素をその構造内に具体化し、調和させ、同化させてもいるのです。守護者が行使するように求められている相続制の権威や、万国正義院が果たす重要かつ不可欠な役目、そして忠実な人々の代表者たちによる民主的選挙を条件とする特定の規定−−−これらのものは、神によって啓示されたこの「秩序」(それはアリストテレスの著作の中で言及されているどの標準の型の政府のとも同一視されることは決してできませんが)は、各々の政治形態にある有益な要素を具体化し、又、それらの要素をこの「秩序」の基盤となる精神的真理と混合するのであるという真理をともに実証するものであります。これらの組織に本来備わっている認められた悪はこの独特な「秩序」から厳格かつ永久に除外されているので、それがいかに長く持続し、その支脈がいかに拡張しようと、あらゆる人工の、また本質的には不完全な政治的機構の組織を、遅かれ早かれ堕落させる専制政治や募頭政治や政治的扇動[デマゴギー]へと堕落してしまうことは、決してあり得ないのです。
親愛なる友人たちよ!この強力な行政的構造の起源が重要であり、その特徴がいかに独特であっても、その誕生の前ぶれとなり、その進歩の最初の段階を特長づけたと言えるかもしれない出来事は、劣ることなく著しいものに見えます。その初期の強さの成長を特長づけるゆっくりとしたまた安定着実な強化の過程と、今日の社会の、宗教的なそして世俗的な時代遅れの機構を激しく襲っている崩壊の力の破壊的な実撃との対照は、何と著しく、教化的なものでしょう!
この偉大で常に拡大する「秩序」の有機的な機構が非常に強く示す精力、その管理者たちの勇気とひるまぬ決意がすでに克服した障害、巡回布教者たちの心の中で衰えることのない熱情とともに燃える、消すことのできない熱情の火、その最高の建築者たちが今到達しようとしている自己犠牲の絶頂、その忠実なる擁護者たちが顕現する洞察力の深さや自信ある期待や創造的な喜び、また内なる平静や妥協することのない誠実性、模範的な鍛錬や規律、固い和合と統一性、そして、その原動力なる「精神」がその範囲内で様々な要素を同化し、それらをあらゆる偏見かつ清め、それらの構造内に融合させることができることを示した程度−−−これらは、幻滅を感じ、悲しみに打ちひしがれた社会が無視することのできない力の証拠なのです。
バハオラの信教の、この活気に満ちた機関を元気づける精神の輝かしい顕現、苦しみ、混乱した世界の叫びや苦痛、愚かさや虚栄、悲痛や偏見、邪悪や分裂とを比べてみなさい。その指導者たちを苦しめ、その盲目で当惑した政治家たちの行動を麻ひさせる恐れを見てごらんなさい。世界の人々の苦しみは何と激しく、その野望は何と不誠実で、その追求するものは何とささいなもので疑いは何と深く根ざしたものでしょう!危機にひんする文明の主要素を腐食している非合法と堕落と不信は何と不安なものでしょう!
人類の活動と思想の非常に多くの分野を隠険に侵害している着実な悪化の過程は、バハオラのこの全能なる「一翼」が現れることに必ず伴うものと見なすことはできないでしょうか?この20年の間に地上のあらゆる大陸を非常に激しく動揺させた重大な出来事は、崩壊する文明の苦痛と、その廃墟の上に現れるべき「世界秩序」−−−あの人類の救済の「箱舟」−−−の誕生の叫びとを同時に宣言する、前兆の兆候として見なすことはできないでしょうか?
ヨーロッパ大陸の強力な君主国や帝国の破局的な没落(そのいくつかに関する言及はバハオラの予言の中に見ることができます)、バハオラ自信の故国のシーア派の聖職者階級に起こった没落や今も起こっている没落、バハオラの信教の昔からの敵であるカジャー王朝の没落、スンナ派イスラム教の支え柱であるスルタンとカリフの地位の滅亡(キリスト教時代の第1世紀後半におけるイスラエルの滅亡はそれと著しく似ています)、エジプトのイスラム教の聖職者制度を侵害し、その最も熱心な支持者の忠誠をそこなっている世俗化の波、ロシアや西ヨーロッパや中央アメリカにおける最も強力なキリスト教会のいくつかを苦しめた屈辱的な打撃、人類の政治的、社会的活動分野において、外見的には難攻不落と見える要塞の基盤を弱め、それを絶滅させている破壊的な教養の普及、今日の文明の全構造を巻き込もうと脅かす、差し迫った大災難の兆候(それは奇妙なことに西洋におけるローマ帝国の没落を思い出させます)−−−これらは全て、バハオラの宗教の、この強力な「機関」の誕生が世界に投げかけた騒動について証言します。そしてこの騒動は、この常に進歩する「機構」の意味がより深く理解され、その支脈が地球上により広く広大するにつれて、その範囲と強度においてさらに大きくなるでしょう。
もうひと言、結論として加えたいと思います。非常に高価な宝石を保護し、秘めている貝殻であるこの「行政秩序」の発生と成立は、バハイ紀元のこの第2番目の時代である初期形成時代の極印なのであります。それは、私たちの目からさらに、さらに遠ざかるにつれて、[i.e時代が経るにつれて?]この栄光ある「立法時代」の完成期である最終的段階をもたらす力を与えられた主な手段として、見なされるようになるでしょう。
この「組織」がまだ初期の段階にある間、誰もその性質を誤解したり、その重要性を低く見たり、その目的を誤って述べたりしないようにせねばなりません。この「行政秩序」の基盤となる土台は、この日の人類に対する神の不変の「目的」なのです。その霊感の源とは、バハオラ自身に他なりません。その保護者と擁護者は戦備を整えたアブハ王国の軍勢です。その種とは、それが生まれ繁茂するために、自らの命を捧げた2万人もの殉死者たちの血であります。その機関の回転の軸は、アブドル・バハの「遺訓」の真正なる規定であります。その指導の原則は、私たちの信教の教えの、過ちを犯さない「解釈者」なる方が、西洋の至る所で行った講演の中で非常に明白に発表なさった真理であります。その活動を統治し、その役目を制限する法律は、「キタビ・アグダス」の中で明白に命ぜられている法律です。その精神的、慈善的そして行政的活動が集合する中心地は、マシュリゴウル・アズカーと、その付属機関です。その権威を維持し、その構造を補強する柱は、守護者と万国正義院の双子の機構であります。それに正気を与える中心的、基礎的目標とは、「新しい世界秩序」の成立なのであり、その「新しい世界秩序」の概要は、バハオラが描写なさった通りです。それが用いる方法やそれが繰り返し教える標準は、それ(この「組織」)を東洋の方へ傾かせることもなければ、西洋の方へ傾かせることもありませんし、また、ユダヤ人や異邦人、裕福な人々や貧しい人々、白人や有色人種のどちらの方へ傾かせることもありません。そのスローガン[標語]は、人類の統合であり、その標準は「最大平和」、そしてその完成はあの黄金の一千年の到来なのであります−−−それは、この世界の諸々の王国が、バハオラの「王国」神御自身の「王国」となるべき日なのであります。
シヨーギ
パレスチナ、ハイファにて
一九三四年 二月 八日