バハオラの律法時代
バブ
親愛なる友人たちよ!バビ律法時代の創始者であるバブが神の独立的顕示者のひとりとしての地位の資格を十分に与えられていること、主権と権威を与えられていること、そして独立的予言者としての全ての権利と特権を行使するということは、バハオラのメッセージが断固として宣言する、またその信奉者が妥協なしに支持せねばならない、もうひとつ別の根本的真理であります。バブはバハイ啓示の単に霊感を受けた「先駆者」として見なされるべきではないこと、又、ペルシャ語のバヤンの中でバブ自身証言なさるように、バブ以前のあらゆる予言者目的がバブ自身において達成されたということは、私が実証し強調しなければならない任務であると感じる真理であります。もし言葉と行動において、私たちがバハイの信条のこの根本的原則の意味を認めるのをためらい、その無欠性を完全に支持し、その真実性を実証するのを拒むなら、私たちは自らが信ずる信教への任務を確かに果たしそこねたそとになります。またそれは、信教の基礎的で神聖な原則のひとつを犯すことになるでしょう。まことに、ナビルの不滅の「話」を校訂し、翻訳する仕事を私に引きうけさせた主な動機は、西洋のあらゆる信教の信奉者が、バブの崇考なる地位の非常な意味をより深く理解し、バブをもっと熱烈に敬慕し、愛することを可能にするということでした。
全能なる御方によってバブに定められた二重の地位の主張、バブ自身が大胆に宣言しバハオラがくり返し確証なさり、アブドル・バハの遺訓が最終的にその証拠を認めたこの主張が、バハイ律法時代の最も顕著な特徴であることには、疑いの余地はあり得ません。それは、バハイ律法時代の独自性に関するまた別の証拠です。その独特性とは、この聖なる周期に与えられた強さと神秘的な力と権威を多大に増すものであります。まことに、バブの偉大さは主に言って、非常に卓越した啓示の、神が指名なさった「先駆者」であることにあるのではなく、別の宗教の律法時代の創始者に本来備わっている力を与えられていることと、バブ以前の使者たちが匹敵できない程に、独立予言者の主権を行使することにあるのです。
バブの律法時代の短い期間や、彼の法律や法令が作用する範囲が制限されていることは、その起源が神にあるかどうか判断したり、そのメッセージの力を評価するための何の基準にもなりません。バハオラ自身次のように説明なさります。「われ自身の前の顕現と、この最も強力で驚異的な啓示の間の期間がそれ程短かったということは、誰も明かすことのできない秘密であり、いかなる心も知ることのできない神秘である。その持続期間は前もって定められてあり、その理由については、わが「隠されたる書」の内容について知らぬ限り、決して見つけることができないのである。」バハオラは、バヤンの人々の議論に反ばくする彼の書のひとつである「オタビ・バデイ」の中で、さらにこう説明なさります。「見よ。この驚異的で最も神聖な慈悲あふれる律法時代の九年目が終った時いかにすぐ、必要な数の純粋で、完全に献身的な聖なる人々が非常に秘密に完全にされたかを見よ。」
バビ律法時代の「設立者」の到来の前ぶれとなった驚くべき出来事。彼自身の波乱に満ちた人生、彼の殉死の奇跡的な惨劇、そしてその自国の人々の中で最も著名で権力ある人々に及ぼした彼の影響の不思議な力---これら全てについて、ナビルの感動的な話が証言します---は全てそれ自体、予言者たちの中で非常に崇高な地位を占めるというバブの主張の妥当性の十分な証拠として見なされるべきです。
バブの人生に関する、その著名な歴史家が子孫に残した記録がいかに生き生きとしたものであれ、それ程輝きに満ちた話も、バハオラのペンがバブに対して示された熱烈な敬意の言葉の前においては色あせてしまわなければなりません。この敬意の言葉についてはバブ自身、自らの主張をはっきりと断言することによって十分に支持なさりました。そしてアブドル・バハが書き記された証言によって、その特徴はさらに強化され、その意味は解説されました。
バビ律法時代を勉強する人は、神の顕示者以外示すことのできない力と精神について間違いなく証言できる断言の言葉を、「キタビ・イガン」の他どこに見いだすことができましょうか?バハオラは次のように宣言なさります。「神の啓示と神の不屈の意志の力を通して以外そのようなことが顕現され得ようか?神の正義にかけて誓う!それ程偉大な啓示について心の中で考えるなら。そのような宣言をすることを考えただけでもあらゆるものはとまどわされるであろう!全ての人々の心がひとりの心につめこまれたとしても、その者は、それ程すさまじい事に挑むのをためらうであろう。」バハオラは、別の節でこう断言なされます。「いかなる目もそれ程多大な恩恵のほとばしりを見たことはないし、いかなる耳もそのような慈愛の啓示について聞いたこともない.....『不変性を授けられた』−予言者たちの深遠さと栄光は太陽のごとく輝くのだが、彼らは各々、全ての人が見た『書』と、正当に確認された節という栄誉を与えられた。この神の慈悲の『雲』から降ってきた節の数は非常に多く、誰もまだその数を見積ることができなかったというのに.....彼らはどうしてこの啓示の価値を低く見れようか?それ程重要な出来事はこれまでの時代に目撃されたことがあろうか」
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バグダッドにおいて、自らを取り巻いていた苦しい試練と危険について言及し、次のように書かれます。「そんな中でも、神の慈悲と恩恵によって、この掲示され顕現された『言葉』(バブ)の道において自らの生命を捧げんがために、神の意志に完全に身を委ね、われは現在の境遇に耐えるものである。神――その命令により聖霊が語ったのであるが――にかけて誓う。わが魂のこの切望がなかったら、われはもはや一刻たりとも、この市に留まりはしなかったであろう。」
親愛なる友人たちよ!それ程すばらしい賛美の言葉、それ程重要な文章の中で、バハオラのペンによって発されたそれ程大胆な断言は、バブの言葉の中でも十分にくり返し述べられています。それは、自らの主張を表現するために、バビ啓示の「源」なるバブ自身がお選びになった言葉です。バブは、カユムル・アスマの中で自らの地位について次のように宣言なさいます。「我は、全能なる御方の手が築いた『神秘的な神殿』である。我は、神の指がその壁がんのなかで火をつけ、不滅の光輝にて輝くようにされた『らんぷ』である。我は、あの歓喜の『場所』においてシナイの上に燃え上がり『燃えるかん木』のまん中に隠されたあの天の『光』の『炎』である。バブは同じ注釈者の中で、自らに語りかけ、次のように叫ばれます。「おお、グラトウル・アインよ!私はあなたの中に、天上の『群衆』が発した『告知』である『偉大なる告知』のみを認識致します。この名前によって『栄光の玉座』の回りを巡る人々があなたのことを知ってきたことを、これまで、証言致します。」バブはさらにこうつけ加えられます。「以前に我が遺わしたあらゆる予言者とともにわれは各々、『神の記憶』と神の日に関する別々の『聖約』を確立した。栄光の領域において又、真理の力によって、神の慈悲の中心の回りを巡る天使たちの目の前においては、『神の記憶』と神の日は全く明かである。」彼は再び断言なさいます。「もしそれがわが望みであるなら、わが啓示のたった一文字によって、またたく間にわが大業の真実性世界とその全てのものに認めさせるのは、われに可能なことである。
マークの牢獄の要塞から、バブはモハメッド王にあてて次のように語られます。「我は、『最初の点』であり、そこから、全る創造物が生じられた。われは
その光輝は決して暗くされ得ない神の御顔であり、その輝きは決して衰えることのありえない神の光である....神は、天国の全ての鍵をわが右手に置き、そして地獄の全ての鍵をわが左手に置くように決められた....我は、神の『最初の言葉』を支える柱のひとつである。われを認識した者は皆、真実で正しい全てのことを知り、善良で適切な全てのものを得るためである....神がわれを創り給おうために用いられた物は他の人々が造られるのに用いられた土ではない。神は、世才ある人々が理解できず、忠実なる人々が発見することもできないものを、われに与え給おうた。バブは、その律法時代に潜在する限りない力を強調したいと望まれた、次のように独得に断言なさいます。「この日、もし小さな蟻が、コーランの最も難解で当惑させる節について明かす力を持ちたいと望んだとしても、その望みは疑いなくかなえられるであろう。なぜなら永遠なる力の神秘は、全創造物の最も奥底なる存在で震動するのだから。」このような驚くべき断言について、アブドル・バハはこう述べられます。「もしそれ程無力な生き物に、それ程鋭敏な力が授けられるならば、バハオラのあふれんばかりの恵みによって放散された力はどれほどより効果のあるものであろう!」
バハオラとバブによるこれらの権威ある断言と厳斎なる宣言には、アブドル・ババ自身の反ばくできない証言をつけ加えねばなりません。バハオラとバブの発言の指名された解釈者なるアブドル・ババは、暗示的にではなく明白かつ断言的な言葉で、彼の諸々の「書簡」と「遺訓」の両方の中で、私がすでに言及いたしました言葉の真理を確証なさいます。
マジンダランのあるバハイあてに書かれた「書簡」の中で、この世紀の「真理の太陽」の上昇に関して、アブドル・バハについて誤って解釈された言葉の意味をアブドル・バハは明かされます。その書簡の中で、アブドル・バハは、バハイ律法時代に関するその二人の顕示者の間の関係について私たちの真の観念は常にどうであるべきかについて、短いながらも決定的に述べられます。彼はこう説明なさいます。「そのような発言をするにあたって、われは、バブとバハオラ以外の御方は誰も考えていなかった。この二人の御方の啓示の性質について解説するのが、わがの目的であった。バブの啓示は太陽にたとえられ、その位置は黄道十二宮の最初の宮である白羊宮に相当する。そして、春分の日に太陽はその宮に入るのである。それに対して、バハオラの啓示の位置は、太陽の真夏の最高点である獅子宮二よって示されている。この意味は、この聖なる律法時代は、その最高点から最大の輝きと熱と栄光をもって輝いている『真理の太陽』の光によって照らされている、ということである。」
アブドル・バハは、別の「書簡」の中で、さらに特別に次のように断言なさります。「崇高なる御方バブは『真理の朝』であり、その光の輝きはあらゆる地域を照らしている。彼は又、『アブハの発光体』なる『最大光』の『先駆者』でもある。『祝福された美』は過去の聖典によって約束された御方であり、シナイ山―――火は『燃えるかん木』のまん中で輝いた―――の上に輝いた光の『源』の啓示である。我々は全て、彼らの敷居のしもべであり、謙そんなる番人として彼らの戸に立つのである。」アブドル・バハはさらに強調してこう忠告なさいます。「あらゆる証明やさらに予言や証拠は、理性に基づいていようと経典や伝統(の原典)に基づいていようと、バハオラとバブを中心としている、と見なされるべきである。彼らに、その証明や予言や根拠の完全な実現を見い出せるのである。」
そして最後に、アブドル・バハの最後の望みと指図の保管所である「遺訓」の中の次の節の中で、アブドル・バハは、バブの二重の崇高なる地位に対する彼の証言を確証なさいます。その節は、バハイの信条の導きとなる原則を示すために特別に示されたものであります。「バハの人々(わが生命が彼らのために捧げられんことを)の信仰の基盤とは、次の通りである。神聖にして崇高なる御方(バブ)は、神の単一性と唯一聖の顕示者であり、『古来の美』(バハオラ)の『先駆者』である。聖なる御方、『アブハの美』(バハオラ)(わが生命が彼の堅実なる友人たちのために捧げられんことを)は神の最高の顕示者であり、神の最も聖なる『本質』の『夜明け』である。」そしてアブドル・バフは意味深長にこうつけ加えられます。「その他全ての者は彼のしもべであり、彼の命令に従うのである。」