注:この文書は校閲を受けていない非正式の訳です。暫定版としてお使いください。ただし、暫定版と明記してお祈りの会や学習等に使用できます。
Note: This is a provisional
translation, not officially reviewed or approved by the National Spiritual
Assembly. However it may be used for devotional gatherings and other similar
purposes while indicating clearly these are provisional translations.
生命の血管よりも近く
Closer
Than Life-Vein
第一部 感情とは
従来の見方と現代の見方
人間が変わるための源泉
バハイの本の中には、どのようにしたら新しい世界秩序を築くことができるかがくわしく述べられて
います。同時に、人間が成長していくための方法も具体的に示されています。
世界を変えるためには、各個人が変わらなければならないことは当然です。しかし、この変革は普通
の人間の力では成し遂げることはできません。これほどの大変革は神のみがなしうるものです。つまり、
神の意志を伝えるために下されたバハオラのみが達成できる大事業なのです。
「……神が自らを人間にあらわす目的は、人間のもっとも奥深くに存在する真の自己の鉱山にかくされ
ている宝石をあらわにすることにある」GL,p.287
ポジティブとネガティブな感情
バハイの本の中で、人間が二つの性質をもっていることが明らかにされるまでは、人間がもつ気持ち
はすべて、感情としてまとめられてきました。
感情は、ポジティブなものとネガティブなものの二つの種類に分けられてきました。愛、慈悲、正義、
喜び、親切などの健全な感情は、ポジティブな部類に入れられ、憎しみ、恐れ、怒り、偏見、貪欲など
の不健全な感情はネガティブな部類に入れられました。
ネガティブな感情は自然に起こるものであり、許されるものでした。かんしゃくを起こす子供にかぎ
らず、大人が抑えていた感情をぶちまけることも健全であると見なされてきました。ある学者は、成熟
した人間は自分の感情を抑えるべきだと主張し、ほかの学者は感情を抑えることは有害であり、人間は
ときどきは感情を爆発させるべきだと力説しました。
今日、以上の見方は変わってきました。怒ったり、かんしゃくを起こしたり、感情を爆発させること
は健全でないと見なされるようになってきました。
人間の二つの性質、精神面と物質面
現代は人間が精神的に成熟に達した時代といえます。つまり、人は、自分が高度に発達した動物では
ないこと、知性と話す能力をそなえた存在であること、思考力をもち、モラルの選択ができ、創造界の
頂点に立っていること、物質面と精神面の二つの性質をもっていることなどに気がつくようになったの
です。
愛、慈悲、親切、真実、正義は人間の精神的な性質に属するものであり、憎しみ、貪欲、偏見、嫉妬、
怒りは物質的な性質から生まれたものです。美点は人間の精神的な性質から来たものであり、欠点は物
質的な性質から来たものです。このように、美点と欠点はそれぞれまったく異なった源泉から引き出さ
れるものなのです。
「人間には二つの性質がある。精神的または高貴な性質と物質的または低級な性質の二つである。人は
精神的な性質を通して神に近づき、物質的な性質により世俗の世界にのみ住む。この二つの性質のしる
しは双方とも人間に見られる。人間の物質面から、うそや残酷さや不正が。つまり、それらは低級な性
質から出てきたものである。聖なる性質から、愛、慈悲、親切、真実、正義が示される。これらはすべ
て高貴な性質の表われである。よい習慣、高貴な特質はすべて、人間の精神的な性質に属し、欠点や罪
深い行動はすべて人間の物質的な性質から生じてきたものである」RM,p.24
感情の源泉
感情は二つの性質のどちらかに属する
人間の二つの性質は、モラルの選択に直接かかわるものです。人が、主に、この世の物質的な面に関
心を向けることを選べば、精神的な性質の発達はそれだけおくれることになります。一方、人が自分の
精神的な性質の発達がいかに重要であり、自分のためになることを認識すれば、その人の生活は精神性
が反映されたものとなります。
感情は、この人間の二つの性質を理解し、区別できるために与えられているのです。人は感情の働き
に気がついていないために、感情によって混乱したり、みじめになったり、不運や病気をまねいたりさ
えするのです。
しかし、今日、そのような混乱は必要でなくなくなりました。感情は人間の二つの性質のどちらかに
属するものであることがわかったからです。精神的な感情は精神的な性質から来たものであり、物質的
な感情は物質的な性質によるものなのです。
ポジティブおよびネガティブな感情の新しい呼び方
ある事物に、より広い意味を与えるとき、新しい呼び方が用いられることがしばしばあります。たと
えば、蓄音機がステレオ、雑貨店がデパート、空飛ぶ機械が飛行機、錬金術師が薬剤師、ドラマーが
セールスマンと呼ばれるようになり、また、ショッキングな経験がトラウマとなり、食べ物に対する敏
感な反応がアレルギーとなったことです。そして、現在、感情は物質的な特性と精神的な特性と呼ばれ
ることになりました。
これまで考えられてきたポジティブな感情というのは、精神的な特性のことであり、ネガティブな感
情というのは物質的な特性のことです。精神的特性または物質的特性といえば、それらがどこから来て
いるかを容易にたどることができ、見分けることができます。
精神的および物質的特性は人の態度の質を示す手段
この精神的な特性と物質的な特性は、人の態度の質を示す手段でもあります。人は歩くための足と、
見るための眼をもちます。同様に、態度をあらわすために精神的および物質的な特性をもっているので
す。
愛と憎しみ、喜びと悲しみ、確信と恐れといった相反する二つの感情をもっているがゆえに、人はど
のような態度をとるかを選択できるのです。つまり、精神的および物質的な特性をもっているがゆえに、
モラルの選択による効果をあらわすことができるのです。
また、愛、喜び、確信といった精神的な特性を示すことにより報酬を受けることもできるし、憎しみ、
悲しみ、恐怖といった物質的な特性をあらわすことによって、精神面をおろそかにしているという警告
を受けることもできます。
人生の主な目的は、モラルの選択によって自らの魂を発達させていくことにあります。精神的な特性
と物質的な特性は、魂の発達状態をその本人に知らせる働きをします。精神的な特性が優勢であれば、
進歩している証拠であり、物質的な特性がしばしばあらわれるようであれば、進歩に欠けていることが
わかるのです。
ここで注意が必要なのは、物質的な特性とされる怒りも、不正に対する憤りであれば精神的な特性か
ら来たものと見なされることです。
情熱的な愛と精神的な愛
情熱的な愛は本当の愛ではない
一般にいう愛と精神的な愛ははっきりと区別されなければなりません。つまり、ある人がほかの人に
対していだく「情熱的な愛」は本当の愛ではなく、魅惑された状態なのです。アブドル・バハは、これ
を「人生の移り変わりに心をゆだねること」であると述べています。
「しかし、友人間にときおりある愛は、(本当の)愛ではない。それは変わりやすいもので、魅惑され
ている状態に過ぎない……。二人の人間が今日はあきらかに仲良しに見えるが、明日になるとまったく
変わってしまうかも知れない。昨日まではお互いのために死んでもよいと思っていた二人が、今日はお
互いに避けるといった具合である。これは愛ではない。人生の移り変わりに心をゆだねているに過ぎな
い。このような愛は、それを生じさせた原因がなくなれば、同時に消えてしまうのである。これは本当
の愛ではない」DAL,P.98
魅惑されている期間は、愛の感情は精神的な性質から生じてきます。しかし、やがて愛の感情が消え
て憎しみに変われば、この憎しみの感情は物質的な性質から生じるのです。こうして、長い間哲学者た
ちを迷わせてきた愛の意味が明確となったのです。つまり、人が感じるものは、精神的な性質または物
質的な性質のいずれからか生じるものであることがわかったのです。
この二つの性質の役割が理解され応用されるようになるまでは、人が表に出す感情と内部に秘めたま
まの感情は複雑に思えるのです。
精神的な愛は魂の力から生み出されるもの
神を信じる人たちがお互いに感じる精神的な愛の説明には、混乱はなく、あいまいなところもありま
せん。この愛の感情は肉体的な感覚を超えた人間の魂の力から生み出されたものです。精神的な愛は、
相互に精神的な親近感を示すことにより生じてきます。
この愛をはぐくむためには、神の言葉にしたがわなければなりません。愛の感情の強さは、神の言葉
にどれほど従順であるかの度合いに依存するからです。バハオラの教えにしたがうことにより、神から
下された知識を身につけます。そして、神の美がすべての人間の魂に反映されているのを見て、精神的
な愛が存在することを学ぶのです。
人はお互いの心に映っている神の愛を見るとき、相互に惹かれます。精神的な愛の力は神から下され
たもので、それにより人はお互いに惹かれるのです。人びとの間に真の愛と調和をもたらすものはこの
力だけです。これこそが真の和合と永久に変わらないきずなの土台なのです。
「神を信じる人たちの心に存在する相互の愛は、精神の和合という理想によって生じるものである。こ
の愛は神の知識を通して得られる。こうして人は神の愛が心に反映されているのを見るのである。人は
お互いの魂に神の美が反映されているのを見、この共通点において同じであることを見いだし、相互に
愛情をもって惹かれるのである。この愛が全人類をひとつの海の波となし、ひとつの天の星となし、ひ
とつの木の果実となすのである。この愛こそが本当の調和と真の和合の土台をもたらすのである」
DAL,P.98
すべての人に平等に注がれる神の愛
神は、人間を深く愛するがゆえに、恩恵を注ぎつづけます。人間は神を深く愛するがゆえに、神に心
を惹きつけられるのです。神の愛は、どんな人間にも同じく注がれます。教育があってもなくても、金
持ちであっても貧乏であっても、またどの人種に属していても、この愛はすべてに平等に注がれるので
す。また、どのような人間であっても、神に対して愛を示すことを妨げられることはありません。そし
て、人間が進歩するかどうかは、神に愛を示し、精神性をどれだけ成長させるかにかかっています。
「どうしてあなたたちすべてを同じ土くれより造ったか知っているであろうか。それは、だれもほかの
者より自分を高めないようにである。自分たちがどのように造られたかをつねに心のなかで熟考せよ。
われはあなたたちをすべて同じ物質より造ったゆえに、あなたたちはひとつの魂のように、同じ足で歩
き、同じ口で食べ、また、同じ国土に住むようにならなければならない。そうしてはじめて、あなたた
ちの最奥の本質より、行為と行動によって、一体性のしるしと超脱の真髄があきらかとなろう。これが、
あなたたちへの忠告である。おお光の群衆よ。この忠告に心を留めよ。そうすれば、不思議な栄光の木
より聖なる果実を得ることができよう」HW,P.20
新しい人間へ
類まれな時代
後代の人びとは、現代人が自分の生きた時代の偉大さにいかに盲目であったかを不思議に思うでしょ
う。というのは、現代は人間が精神的に変革する時代であり、自己の行為と態度により、地上に世界文
明を築く時代であるからです。現代は人間の高貴な性質が花開くときなのです。
「言あげよ、おお人びとよ。今日は類まれな時代である。同じく、すべての国民の望みの的なる方を称
える言葉も、また、その方の眼にかなうようにと熱望する行為も類まれでなければならない。全人類は、
自らの地位にふさわしいことを成就し、自らの運命に価することを成し遂げることができるようにとこ
の日を待ち望んできた」GL,P.39
「おお地上の住民よ。この至高なる啓示を際立たせる特性はこうである。わたしは、一方において、神
の聖典の紙面より、人の子ら間の争い、悪意、害毒の原因となるものをすべて消し去った。他方におい
て、わたしは調和と理解、そして永続する完全な和合のための必要条件を記した。わたしの法規を守る
者は幸いである」GL,P.97
新しい正義の意味
新しく生まれ変わろうと決心した人は、自分の内部にひそむ能力を引き出し、自分の運命を成就しよ
うと努力します。そして、他人に対してだけでなく、自分自身に対しても、高貴な特性を示すように努
めます。
二五〇〇年も前、イスラエルの予言者ミカは人間の責任についてこう語りました。「主が求められる
ことは、正義を行ない、慈悲を愛し、主なるあなたの神と共に謙虚に歩むことである」ミカ書、六章八行
しかし、そのあとにつづいた何世紀もの間、正義、慈悲、謙虚さに対する人間の理解は十分でなく、
大多数の人びとが圧政と不正に苦しんできました。とはいえ、文明から文明へと発展していくうちに、
人間の理解は徐々に広げられ、深められてきました。
そして百年前、バハオラは正義の意味を明確にし、その正義の下では、だれも貧困と搾取によって苦
しむことはないことを示しました。
「繁栄しているときは寛大で、逆境にあるときは感謝せよ。隣人の信頼にふさわしい者となり、晴れや
かで親しみのある顔で隣人を見よ。貧しい人たちには宝庫となり、富める人たちには忠告者となれ。
困っている人の叫びに答え、約束の神聖さを守る人となれ。判断は公正で、発言は慎重であれ。すべて
の人に公平にあたり、だれに対しても謙虚であれ。暗やみの中を歩く人には明かりとなり、悲しみにう
ちひしがれている人には喜びとなれ。渇きにあえぐ人には大洋となり、苦悩におぼれる人には避難所と
なり、圧政の犠牲者を支持し、その擁護者となれ」GL,P.285
モラルの選択の効果
モラルの選択は人間の責任
人が自由意志を用いて選択できるのはモラルの選択だけです。生活上さまざまな状況のもとで決断を
せまられるとき、精神性に基づいた選択をするかどうかの自由しか人間には与えられていないのです。
健康も睡眠も仕事も旅行も財政も自分で統制することはできないのです。
どれほど健康に気をつけていても、突然病におそわれたりします。眠りたくても眠れないかも知れま
せん。同様に、仕事も旅行も財政も自分の期待するように順調にいくとはかぎりません。このように、
人は「僕 の物質面に関わる事物を完全に統御することはできないのです。
しかし、モラルの選択の権利だけは人間にあたえられており、どのような選択をするかは各個人の責
任なのです。
「ある事柄は人間の自由意志でどうにでもなる。たとえば、正義、公正、暴政、不正で、つまりすべて
の善行と悪行である。これらの行為は、ほとんどの場合、人間の意志にまかされていることはあきらか
である。しかし、人間が強いられ、したがわなければならないことがある。たとえば、睡眠、死、病気、
力のおとろえ、けが、不運といったものである。これらは人間の意志ではどうにもならないもので、人
間の責任ではない。人間はそれらを耐えるように強いられているからである。しかし、善い行いをする
か、悪い行いをするかを選ぶのは自由である。人間は自分の意志で選ぶようになっているのである」
SAQ,P.287
自分にも親切であること
大半の家庭では、他人に親切にするようにと子供に教えます。そして、子供も他人に対して公正であ
り、正直でなければならないことを知っています。したがって、毎日の生活で他人に接する場合、でき
るだけ精神的な特性を示そうとします。今日、この他人に対する親切さを拡大して、自分も含めるべき
です。他人に親切にしようと努めるならば、同時に自分にもそうすべきなのです。
人が物質的な性質から生じる恐れ、心配、不安、憎しみ、怒りなどを示すとき、自分に対して大変不
親切な行為をしていることになります。物質的な特性をあらわす結果はみじめになるだけです。本当の
幸せは、精神的な性質からのみ生み出されるからです。
このことを理解した人は、怒りを爆発させたり、憎しみや嫉妬などの感情を心にもつことはなくなり
ます。そして、精神的な特性を示すように努力するのです。
この努力により、人は徐々に、より温和に、より公正に、より愛情深く、より正直に、より忍耐強く
なっていきます。そして、物質的な性質からくる恐怖感や絶望感はうすらぎ、精神的な性質から生み出
される神への賛美と感謝を示すようになるのです。
新しい人間へ変わっていくときの目標は、物質的な特性を示すことが少なくなるというよりも、つね
に精神的な特性を示すようになることです。
習慣やくせは一夜では直らない
しかし、忘れてならないことは、人間は長い間身につけてきた習慣やくせを一夜で直すことはできな
いということです。この変革には日々の訓練が必要です。もちろん、どれほど早く変われるかは、どれ
ほど熱意をこめて努力するかにかかっています。
人はどれほど努力しても、物質的な特性を完全に除くことはできないのですが、精神的な特性をより
示すことにより、幸福感が確実に増していくことは確かです。
「言あげよ。つねに真実を語ることと礼儀正しさをあなたの飾りとせよ。あなたの心より、神聖で甘美
な芳香が全創造物に漂って来るように、寛容と正義の衣を失わないようにせよ」GL,P.305
試練の目的
人生においては、人の意志ではどうにもならないことがしばしば起こります。事故、病気、災難など
です。それらに直面したとき、人は物質的な特性をあらわす傾向にありますが、そうすることは、問題
をいっそう悪化させるだけです。
財政的な困難からくる絶望感や病気の心配は、気持ちをいっそうみじめにしてしまいます。災難は神
から送られてきたもので、どれほどくやしがっても、涙を流しても、心配しても、どうにもならないと
いうことを人は学ばなければならないのです。
それは人を試すために神から送られて来たものですから、堪え忍ばなければならないのです。さらに、
試練は、人間が神の意志に自分の意志をしたがわせるまで度をまして下されることも知るべきです。そ
れは人間の精神的な発達のために送られてくるものだからです。
「誠実な人にとっては、試練は高遠なる神からの贈り物である。勇敢な人は最高のよろこびをもって激
烈な戦場にいそぐが、臆病者は、恐れおののき、嘆いたり、うめき声をあげたりする。同様に、優秀な
生徒は、学課を予習したり、暗記したりして、一生懸命に勉強する。そして、試験日には、この上ない
よろこびをもって、教師の前にあらわれるのである。同じく、純金も試練の火の中でさんぜんと輝くの
である。したがって、清らかな魂の持ち主にとっては、試練は高遠なる神からの贈り物であるが、弱い
魂の持ち主にとっては、思いがけない災難なのである。……試練は心の鏡より自我というさびを取り除
く。それは心の鏡に真理の太陽がかがやくようになるまでつづく。というのも、自我ほどおそるべき
ベールはないからである。そして、そのベールがどれほど薄いものであっても、最後には人間を完全に
おおい、永遠の恩恵の分け前にあずかることを妨げるのである」BWF,PP.371-372
「……世俗や欲望、そして人間社会の営みから自分自身を切りはなしていればいるほど、その人は、神
から送られてくる試練に気づかなくなる。試練は魂の健康状態をはかる手段である。魂は、その行動で、
自らの健康状態を証明するのである。神は、人の魂の健康状態とその準備のなさを前もってご存知であ
る。しかし、人は自我をもつため、証明されないかぎり、自分が不良な健康状態にあることを信じない。
したがって、試練がふりかかるとき、人は悪の方に行きやすいことを証明するのである。そして、試練
は、魂が自らの不健全さを認識するまでつづく。この認識のあとはじめて、呵責と後悔の念がおこり、
弱点が除かれるのである。このように、以前の短所が長所となり、邪悪に打ち勝つ力が確実に身につく
まで同じ試練が度をましてふりかかってくるのである」DA,VOL.5,P,238
従 順
従順の意味
人が神の意志に本当に従順になるまでの時間はさまざまです。中には、実際はそうではないのに、自
分はかなり従順であると思い込んでいる人もいます。または、試練を受けて、従順にならざるを得なく
なった人もいます。場合によっては、神の意志に従順になれば幸福感を得られることに気がついてそう
する人もいます。
いずれの場合でも、人は、実際の生活で、自分の望みよりも神の大業を優先させることによって従順
の意味を理解できるようになるのです。また、従順になるということは、いやいやながら奉仕すること
ではないこと、罪滅ぼしのためにするのでもないこと、また、自画自賛のためにするのではないことを
認識しなければなりません。
神の大業に従順になるということは、バハオラの教えを守ることです。バハオラは、人間が個人とし
て、また集団として、どのように行動すべきかを教えています。バハオラの教えを忠実に、かつ完全に
守った人はアブドル・バハで、すべての人びとの模範となる人です。
「わたしは牢獄で幸せであった。わたしはこの上なく喜びにあふれていた。なぜならわたしは犯罪者で
はなく、神の道において投獄されたからである。……神に賛美あれ、わたしは神の大業のために囚人と
なった。わたしの生涯はむだにされず、神への奉仕に過ごすことができた。幸せなことである。わたし
を見た者はだれもわたしが牢獄にいるとは思わなかった。かれらは、わたしが喜びにあふれ、心から感
謝し、健康で、牢獄を気にかけることはまったくないことを見たからである」DAL,P.15
自我との葛とう
アブドル・バハには自我というものがありませんでした。一方、普通の人間は、自分の意志を神の意
志にしたがわせたいと思うとき、自我との葛とうがあることに気づきます。したがって、人は、神への
奉仕のために、自我をどれほどすてるかを決めなければならないのです。
前にも述べたように、精神的な幸福は、神の教えにしたがうことから得られることに気づいた人は、
いやいやながらではなく、進んでそうするようになります。
その人は、神の意志に従順になるということは、その教えにしたがうだけでなく、神への賛美と感謝
がともなわなければならないことを学びます。さらにまた、賛美と感謝の気持ちを実行に移すことによ
り、幸福感がもたらされることも知るのです。
神は人間の幸せを望み、魂という贈り物を与えました。魂に幸せをもたらすものは、神への従順だけ
です。魂が神に賛美と感謝をささげているとき、同時に悲しんだり、心配したり、恐怖感にかられたり
することは不可能なのです。この真理を理解できれば、だれでも神の教えにしたがいたいという思いに
駆られるでしょう。
従順の効果
生きているかぎり、だれでも自分ではどうにもできない問題や困難に直面することがあります。その
ため、悲観的になったり、自己をあわれんだりします。しかし、いかなる問題や困難でも、神の意志に
したがうことによって解決でき、また、それほど耐えがたいものではなくなるのです。
人生で神から与えられた祝福を思い起こすと、賛美と感謝の念がおこり、さまざまな問題もそれほど
苦しみをあたえるものではなくなり、悲しみもうすれてしまうのです。バハオラの教えにより忠実にし
たがうようになると、怒り、恐怖、失望、悲しみ、自己哀憫の感情は、感謝、力、喜び、親切、奉仕す
る望みに変わっていきます。
どれほど解決困難な問題に直面しても、自由意志を用いて、物質的な特性を精神的な特性に変えるよ
うに努力しなければなりません。人が忍耐して努力をつづければ、心の平安、静穏、そして精神的な幸
福という高原に到達し、その後も、より高い高原にのぼっていけるのです。
「おおわがしもべらよ。今、この世で、あなたの望みに反することが、神により定められ、示されても
悲しんではならない。なぜなら、この上ない喜び、天上の喜びの日々があなたのために準備されている
からである。神聖で栄光に満ちたもろもろの世界が、あなたの眼前にひろげられるであろう。あなたは、
この世とつぎの世で、その恩恵と喜びにあずかり、つねに下される恩寵の分け前にあずかるであろう。
あなたは、確実に、それらの恩恵のすべてを受けるであろう」GL,P.329
性格を変えること
陰口をつつしむこと
人のうわさや陰口を心の中で抑制し、言わないようにすることは、社会に和合をもたらすための手段
ですが、同時に各個人の精神的な成長をうながします。他人に対して軽蔑、悪意、偏見をもたないよう
に努力すれば、次第に心が清められ、活気づけられていくのを感じるはずです。それだけではなく、か
くされたる言葉に述べられている状態に一層近づいていきます。
「では、一瞬よりも短いあなたの生涯の日々を、汚れなき知性と、清らかな心と、純粋な思考と、聖め
られた性格をもって生きよ。そうすれば、あなたは自由になり、満足して、この死ぬ運命にある身体を
捨て、神秘の楽園に行き、永遠の王国に永久に住むことができよう」HW,P.37
軽蔑や悪意や偏見を心の中で抑制することはほめるべきことです。しかし、そうしたとしても、他人
の陰口を言ったり中傷したりするくせから完全に解放されることはできません。悪口を言うことをひか
えたとしても、悪い感情の一部はまだ心に残されているからです。それを完全に除くためには、物質的
な特性を精神的な特性に変えなければならないのです。心に憎しみをもちながら、他人を愛することは
できないからです。
バハオラはかくされたる言葉の同じ句のなかで、他人の欠点を指摘することにより、自らを卑しめな
いようにと警告しています。
「邪悪なことを聞いてはならない。また邪悪なことを見てはならない。自分を卑しめてはならない。嘆
き悲しんではならない。邪悪なことを語ってはならない。あなたにそれが語られないように。他人の過
ちを誇張して語ってはならない。あなた自身の過ちも大げさに思われないように。だれの屈辱も望んで
はならない。あなたの屈辱がさらされないように」HW,P.37
くせを直すための効果的な方法
陰口を言ったり、うわさ話をしたり、議論をしたり、反感を買ったり、偏見をもって反応したりする
くせを直すための効果的な方法は、まず、いやなことを見たり聞いたりしたとき、それらを素通りさせ
て、心にとどめないことです。
しかし、この方法は、「一方の耳からはいってもう一方の耳に抜ける」こととはまったく異なります。
それは入ってきたものを無視することであるからです。つまり、入ってきた情報を心にとどめないけれ
ども、その内容をふるいにかけ、問題になる行動や言葉をそれを起こした人物から切りはなします。行
動や言葉は評価しますが、人は評価しないのです。
問題にするのは社説であり、それを書いた編集長ではありません。食料店ではなく食料なのです。隣
人の意見であり、隣人ではありません。
つまり、人の行動や言葉を心にとどめ、うらみ、あざけり、侮辱などの感情をもって投げかえすので
はありません。悪意に反応しないことは、不正直から解放されることです。偏見に左右されないことは、
不誠実から解放されることです。
感情を傷つけられない方法
うわさ話や他人をけなす人から自分を守るためにはどうすればよいでしょうか。どうしたら不愉快な
状況から受ける打撃に耐えることができるでしょうか。恐怖や屈辱や挫折の感情にどう対処したらよい
のでしょうか。
たとえば、人は相手に故意に拒絶されたと思って感情を害すことがあります。相手が無意識にした場
合にさえ感情を害されるのです。しかし、たとえ、故意にしたとしても、受けた人に感情を害されたと
いう気持ちがなければ、攻撃的な言葉は標的を失ってしまいます。実際、攻撃をしてくる人は、相手が
傷つけられた感情で応えなければ、相手をいらつかせる力はもたないのです。
感情を傷つけられないようにするためにはいくつかの方法があります。ひとつは、人間はだれも他の
人を判断したり評価する権利をもっていないことを思い出すことです。たとえ、高い地位にあり、深い
知識をもった人でもその権利はありません。それができるのは神だけです。
もうひとつは、ユーモアと理性を用い、またあわれみの気持ちをもつことです。また、物質的な特性
からはなれ、精神的な特性をもつことも有効な方法のひとつです。
攻撃的または邪悪な人に対して感謝を示すことも効果があります。攻撃する人は、攻撃される人の成
長をうながすことにもなります。この成長はその人の生涯をより豊かにするでしょう。つまり、攻撃に
よって傷つけられないように、自らの精神的な特性をのばさなければならないからです。感謝を示すこ
とによって、攻撃する人も変わるようになるかもしれないのです。その人はある程度の礼儀正しさ、善
意、尊敬を示すようになるかも知れません。
恐怖、心配、挫折の感情の原因
失望や不運や病気などから、恐怖、心配、挫折の感情が引き起こされます。その原因をつきつめてみ
ると、それは人生で直面する不慮のできごとの大半は、自分では制御できないということを認識してい
ないからだということがわかります。認識していないために、人は、物質的な特性で対応しようとする
のです。
人が神の意志にしたがい、何ごとがおこっても賛美と感謝の気持ちをいだくようになるまでは、恐怖、
心配、挫折の感情をもちつづけることになります。人が他人にいだく恐怖心にも同じことがいえます。
しかし、恐怖心をもっている人が、自分の言動をバハイの教えに基づかせるようになると、他人の意見
に左右されなくなり、恐怖心もやがて消えます。
バハオラは人間同志がお互いにどう振る舞えばよいかを教えるために神から送られた大教育者です。
したがって、バハオラが定めた基準にしたがって生活すれば、自然に、他人の悪意ある批判の足かせか
ら自由になるのです。
健全な心は神から
バハオラの基準は、人間が定めたものとは違い、完璧です。したがって、その基準をしっかり守るこ
とにより、他人からの不快な言葉を軽く払いのけ、無視することができるようになります。
同様に、ひどい劣等感やあくどい利己主義も、バハオラの教えを守る人たちの精神的な雰囲気の中で
は生き残ることはできません。心が聖なる光で照らされると、自分をわざと目立たないようにすること
も、非常なうぬぼれも消えてしまわざるを得ないからです。そして、無力感は神の知識を得ることによ
り確信と自信に変わっていきます。自信は、信仰の精神を得ることによって身についていくのです。
称賛すべき行為はすべて人間の精神的な特性から生じるもので、神からの贈り物です。一方、自己中
心的な態度は、人間の物質的な特性からきたものであることは明らかです。
健全な心は神から来るもので、芸術面、職業面、科学面、産業面の業績も神から下されるものです。
したがって、人はどの分野で業績を残したとしても、自己を誇るのではなく、謙虚に神に感謝すべきな
のです。
奉仕、親切、正義、慈善、博愛などの行為に関しても、真に誠実な人は、精神的な特性からきた行為
とにせの敬虔さをはっきりと区別し、それらの行為は自己称賛につながるものではないことを認識する
のです。
こう見ると、自己中心になる権利はだれにも残されていないことがわかります。人は徐々に、物質的
な特性は人間にはふさわしくないことを学んでいきます。そして、精神的な成長の高原をつぎからつぎ
へと通り過ぎるごとに、人間完成に向かう道は無限であることを知るのです。
「この人生で受ける報酬は、人間の実体をかざる美徳と完成である。たとえば、暗かった人が明るくな
り、無知な人が賢くなり、怠慢な人が注意深くなり、眠っていた人が目覚め、死んだようになっていた
人が生き返り、眼が見えなかった人が見えるようになり、耳が聞こえなかった人が聞こえるようになり、
俗人であった人が聖人となり、物質的な人が精神的になることである。これらの報酬によって、人は精
神的に生まれ変わり、新しい人間となるのである」SAW,P.223
「深く考えると、物質面においても、存在物の完成に限りがないことに気がつく。なぜなら、人は完全
なものを見つけても、もっと優れたものを想像せずにはいられないからである」SAQ,P.230
意識の三つの段階
知識、意志、感情
物質的な特性と精神的な特性の違いは、意識の三つの段階でより明らかにされます。それは、知って
いるという段階、意志を用い行動を選択する段階、気持ちや情緒を感じる段階です。つまり、知識、意
志、感情の三つの段階です。ここで注意すべきことは、段階といっても上下があるのではなく、むしろ
状態を意味することです。
ときどき、どの意識の段階で、考えや決断や感情をあらわすかを見分けがたいときがあります。たと
えば、テレビを消す行動を起こすのは、番組が面白くないという認識からか、それとも寝る決心をした
ためか、またはあまりにもコマーシャルが多くてうるさいからなのかをはっきり区別するのはむずかし
いのです。さらに、その行動には二つの理由があるかもしれないし、または全部の理由が含まれるかも
しれないのです。
一般に、条件反射または本能的な反射から生じる気持ちは、感情の段階からのみ起こってきます。た
とえば、ある子供が、親の言うことをきかないと罰されるように条件づけられていれば、そむいた場合、
罪悪感と恐怖心を感じます。同様に、車を運転中にフロントガラスに小鳥がぶっつかれば本能的にそれ
を避けようと身を引きます。そのとき感じる恐怖感も感情の段階の反応です。いずれの場合も、知識と
意志の段階は使われていません。
知識の段階
知識の段階で、人は知識を得たり、識別したり、気がついたり、心に留めたりします。これらの機能
は、人間の知的およびモラルの進歩に直接関連するものです。それは、意志を用いてモラルの選択をす
るときの土台となるからです。よいモラルの選択は、モラルの基準についてどれほど知っているかだけ
でなく、どれほど気がついているか、また心に留めているかに依存します。
しかし、モラルの教えを知りながらも、それを実行できないということは、いかに意志の段階で知識
の段階を無視できるかを証明するものです。人は意志の力で、知識を用いるか、それを無視するかを選
択することができるのです。このように、知識だけでは人はバハオラの教えに従順であるかどうかのバ
ロメーターにはなりません。
意志の段階
意識のうち、意志を働かせる段階は、意志力を用いて選択する決断の場です。人がある結果を望むと
きは、意志力を用いてどういう行動を取るかを選択しなければなりません。たとえば、もし、ある人が
心の平安を望むならば、一定の行動を選んで、それを実行しなければなりません。
すなわち、他人との関係においても、自分自身との関係においても、自己中心ではなく、ほかの人び
とに奉仕できるようなモラルの選択が必要なのです。自己哀憫をやめ、神に感謝するようにならなけれ
ばなりません。このように、物質的な特性を精神的な特性に変える努力を真剣にすれば、その人はかな
らず心の平安を得るようになります。
これとは対照的に、牛は従順な動物で、決断したり、努力したりする必要はありません。人間だけが、
自分の意志で、物質的な特性を出すか、精神的な特性を出すかを決断しなければならないのです。
感情の段階
感情の段階において、人は善と悪双方の態度を示します。それらは人間の二つの性質から生み出され
たものです。つまり、愛と憎しみ、親切と残酷、同情と怒り、寛大と貪欲、喜びと悲しみなどです。た
だし、精神的な愛と精神的な幸福感だけは感情の段階から生み出されるものではありません。
ひどい偏見をもった人が憎しみをあらわすとき、それは感情の段階から出てきているように見えます
が、実際はそうではありません。憎しみの気持ちは本能的に、自動的に出てくるものではないからです。
また、人間の二つの性質(精神的および物質的)がともなうとき、感情の段階だけで機能することはで
きません。知識と意志の段階が必要なのです。
この憎しみをあらわす人は、過去に、一定の状況のもとではどう反応するかを決断していたのです。
したがって、同じような状況が起きると、以前決めていた態度をあらわすのです。
一方、その人が偏見をすてて、公正な態度を示そうと望むならば、知識の段階で自分の行動を知り、
意志の段階であらたな決心をし、感情の段階で公正な態度を示さなければなりません。つまり、その人
は、意識の三つの段階を全部用いてそうするのです。「これがわたしのあるがままだ。自分を変えるこ
とはできない」と言って自分の行動を弁解する人は、「現在の自分が好きであり、変わりたくない」と
言っているようなものです。
精神的成長には三つの段階がすべて必要
また、人は幸運にめぐまれると、得意な気持ちになるかもしれません。その幸運に対して感謝の気持
ちをもつこともできます。しかし、その気持ちをあらわすためには、決断をしなければならないのです。
決断なしにその気持ちをあらわすことは不可能だからです。
その後、同じ人に不運がおとずれたとします。そうなると、得意な気持ちも感謝の気持ちもなくなる
のがふつうです。その人が、人間には二つの性質があることを知らなければ、自分を可哀そうに思い、
絶望感をおぼえるかもしれません。たとえ、その人が人間の二つの性質を知っていたとしても、自己哀
憫と絶望感という物質的な特性をあらわすことを選ぶかもしれないのです。
一方、その人が精神的に成長したいと望めば、知識の段階で精神的な特性を知り、意志の段階で精神
的に幸せになる決断をし、感情の段階で神への賛美と感謝の気持ちをあらわすことができるのです。
精神的な愛と精神的な幸福
精神的な愛と精神的な幸福は、感情の段階をとおして表現されるものではありません。精神的な幸福
は、物質的な快楽と安楽からもたらされる幸福とは違った種類のものだからです。
物質的な幸福は自我と五感が満たされることであり、精神的な幸福は神の愛で満たされることです。
物質的な幸福は、感覚として認めることができますが、精神的な幸福は、内的な眼によってのみ見分け
ることができます。
精神的な幸福には強大な力があり、悲しみ、失望、恐怖の気持ちを感情の段階から追い出すことがで
きます。精神的な幸福を得るためには、神の言葉にしたがわなければなりません。
「死すべき運命にある小鳥たちよ。わたしに耳を傾けよ。変わらぬ輝きを放つバラ園で、ひとつの聖な
る花が咲きはじめた。この花に比べれば、ほかの花はすべてとげである。そして、その栄光の輝きの前
では、美しさの精髄さえも色を失い、しぼんでしまうにちがいない。それゆえに、立ち上がり、心から
の熱望と、魂の切望と、情熱をこめた意志と、全身をこめた集中力をもってその方の面前という楽園に
達するように努力せよ。そして朽ちることのない花の芳香を嗅ぎ、聖なる甘美な香りを吸い込み、天上
の栄光の芳香の分け前を得るように努力せよ」GL,PP.320-321
衝動的な行動
感情の段階からは、衝動的な行動や軽率な叫びや、ある感情に誘発されて考えもしないで行なう行為
も生まれます。知識と意志の段階を通らずに起こされる行動です。人によっては感情を害して、とつぜ
ん集会の部屋から飛び出すかも知れません。また、ある人は、忍耐できずに、他人をどなったり、嫉妬
にかられて他人に害を与えたり、貪欲から通常は守る規則を破る人も出てくるかもしれません。憎しみ
から、まわりの関係のない人にも暴力をふるうこともあるかもしれません。衝動的な人は、意志の力で
はなく、感情で自分の行動と振舞いのパターンを作り上げるのです。
しかしながら、意志力を用いてどんな行動を取るかを決断しても、傷つけられた感情、短気、嫉妬、
貪欲、憎しみなどの物質的な特性から自由になれるとはかぎりません。偏見をもった人は、計画的にわ
ざと憎しみを示す決断をするかもしれないからです。
いら立ちやすい人で、衝動的に無関心になったりする人は、無関心の態度を選ぶことを決断した禁欲
者と同じ行動をとることになります。
こう見ると、人の行動は、感情の段階から来たものであっても、意志の段階から来たものであっても
同じであると結論づけることができます。したがって、もし人が真剣に精神的に成長したいと望むなら
ば、感情の段階と意志の段階だけでは十分でないことを知るべきです。
精神的成長を自己評価する
精神的に成熟した人は、毎日の生活で、意識の三つの段階をすべて用います。すなわち、知識の段階
でバハオラの教えをつねに忘れないようにし、意志の段階で従順さを示し、感情の段階で精神的な性質
をあらわすのです。
つぎの質問は自己評価に用いられるものです。
1)バハオラの教えを十分に理解しているかどうか。
2)決断をするとき、つねに精神的な特性が物質的な特性よりも優勢を占めているかどうか。
3)感情を外部にあらわすとき、自分が望む理想の人間にどれほど近づいているかどうか。
理想の人間により近づくためには自分のどの部分を変えるべきか。
結 論
一生のうち、もっとも重要な選択は、バハオラに従順になろうという決断です。しかし、その決断だ
けでは最終的な目標に到達しないかもしれません。なぜなら、そうするためには人の内部での変革が必
要だからです。従順であることは、物質的な特性を精神的な特性に変えることも含まれます。バハオラ
の法規を守ることによって世界秩序が築かれますが、世界が変わると共に、個人も変わらなければなり
ません。
世界秩序に参加したいと望む人は、人間の地位にふさわしい行動をあらわさなければなりません。人
間の二つの性質をはっきりと理解し、自分の精神性が発達するような行動を選択しなければなりません。
自己だけを満足させたいという欲望から抜け出し、自分の望みより、神の望みを最初にもってくるよう
にならなければならないのです。そうしてはじめて、人は平安な心、静穏、幸福を見いだすのです。つ
まり、人生を全うし、精神的な人間となるのです。
「神の律法は、最高に荘厳なる啓示の天より下された。人はだれでも、その律法を忠実に守らなければ
ならない。人間の最高の業績、真の進歩、最終的な勝利は、その律法に依存する。また、将来もそうあ
りつづけるであろう。神の法を守る者は、永遠の喜びを得るであろう」GL,P.289
「あなたの心を悪意から清め、また妬みももたず、神の神聖な宮廷に入れ」HW,P.36
第二部 魂、心意、精神について
精神的な存在になるためには
従来の考え方
七千年もの昔から人間は、魂と呼ばれるものに好奇心をもち、それについてさまざまな考えをめぐら
してきました。その存在をうたがったり、否定したりした人もいましたが、それを信じて、いろいろな
意見や解釈をした人もたくさんいました。
魂が何であるかはっきりとは分からないけれども、何となく「内部の静かなるささやき」と結びつけ
た意見が多く出されてきました。感情とか気持ちと関係があるとした人もかなりいました。また、魂が
不滅であると考えた人も多かったのですが、実際は魂の本質が何であるかを理解することはできません
でした。
百年ほど前から、人間の心意に対する関心が高まってきました。健全な心意と病的な心意の研究が進
められはじめました。医学面からも、精神分析などでこの未知の分野を解明しようとしました。糸口が
見つかってほどけ出したと思ったのもつかのまで、この糸は想像以上にもつれていることがわかったの
です。
これまで、これに関する研究はまちがった方向に向けられてきました。研究者たちは、心意を魂に関
連づけなければ解明は不可能ということに気づいていなかったからです。精神についても、語義上の議
論にとどまったままでした。
今日の見方
ところが現代になって、バハオラとアブドル・バハの本から、これまで不可解であった心意、魂、精
神についておどろくべき知識が得られるようになりました。もう「あてっこごっこ」は必要でなくなり
ました。だれでも自分の能力の許すかぎり知ることができるようになったのです。さらに、自分の能力
の限界に気づいたとき、理解の頂点に達したことも認識できるようになったのです。
「あなたは心の中で、過去にもっとも偉大なる人が得た、または、未来に得るであろう知力と理解力を
集中して、この神より定められた把握しがたい実在、この永遠に存在し、栄光に満ちた神の啓示のしる
しを、現在より終わりなき終わりまで熟考したとしても、その神秘を理解することも、その美徳をはか
り知ることもできないであろう……。熟考のあげくに、あらゆる人の心意が感ぜずにはおれない無力さ
を認めることそのものが人間の理解の極致であり、人間成熟の頂点なのである」GL,P.165
以上の引用文は、人間は現在も未来も、魂の神秘を理解したり、その真価を十分に認めたりすること
はできないことを率直に述べたものです。さらに、人がこの限界を認め、受け入れたとき人間として最
高の理解と成熟の段階に到達すると説明しています。
しかし、現在になってはじめて、魂のおどろくべき力についてかなり知ることができるようになりま
した。魂の力、魂と心意の関係、魂と精神の関係を理解することによって、人は内部にひそむ巨人を解
放して、それを日々の生活に役立たせることができるようになったのです。
自分を知ること
この本の中で、魂については、その目的と機能、肉体との関係、不滅性を調べます。心意については、
その効果的な使い方、潜在意識の意味、心意を用いずに考える方法、心意による魂の変革について考え
てみます。精神については、その真の意味、創造界の精神と精神界の精神との違い、聖なる精神の働き
などについて理解を深めていきます。
以上の知識が身につけば、人間完成への一歩を踏み出すことができます。バハオラの言葉に「現代は
人間が成熟期に達した時代である」というのがありますが、それは精神面での成熟を意味することは明
らかです。というのは、身体の面ではずっと以前に成熟期に達し、知的な面から見ても、芸術や科学や
工業の分野で相当な発達を成し遂げているからです。
人間が精神的に成熟期に達し、創造された目的である「精神的な存在になる」ためには、魂の力につ
いて知識を得、バハオラの指示にしたがってその力を用いなければなりません。
自分の肉体的存在を魂に関連させ、自分の個性と魂が同じであることを認識し、知的活動を魂と結び
つけてはじめて自分自身の実体を理解できるようになります。そして「自分自身を知ることは、神を知
ることである」という言葉の意味に気づくのです。
「あなたの魂に、どれほど豊かな恩寵を託すことをわれが欲したかを理解できたならば、実に、あなた
はあらゆる創造物への愛着をすて、自分自身を本当に知るようになるであろう。それはまた、われ
(神)自身を知ることでもある」GL,PP.326-327
創造的な言葉の力
この研究を進めるときには、かならずバハオラやアブドル・バハの著作から引用して、われわれの理
解が正しいかどうかを確かめていくことが大切です。ここに引用するものは、膨大な数にのぼる文献の
一部にしかすぎません。
ここで忘れてならないことは、創造的な言葉にひそむ力のみが、人間の内奥の心意に達し、うたがい
を消し、確信を植えつけることができるということです。確信をもつということは、知っているという
ことを知っているというゆるぎない信念をもつことを意味します。
この研究が終わるころには、読者は、人間は自分の魂に完全に依存していることに気づくようになる
でしょう。また、魂は人間がもちうる財産のうち、もっとも貴重なものであることを知り、最大限の注
意をはらって、それを育成し、保護したいという望みに駆られるでしょう。
創造界
人間の理解の限界
万物は神よりはじまりました。神は無限で、不可知です。したがって、人間が神について考えだすも
のは想像の産物にしかすぎません。人間ができることは、神の特質と力について述べることです。
「始めなき始めより、神を心に描き、知ろうとする努力は、人間が神の創造物であるという限界を超え
ることはできなかった。……神は、その本質を知ろうとする人間の心、または、その神秘を述べようと
する人間の言葉をはるかに超えて、測りがたく高遠である」GL,P.318
人間の理解は、人間という地位にかぎられたものです。創造の神秘を探し出そうとしても、ある点ま
でくると、ただの推測にすぎなくなるのです。したがって、その神秘を解明するためには、神から下さ
れた大教育者に向かわなければなりません。以前はモーゼやキリストや仏陀でしたが、現代の大教育者
はバハオラです。
「唯一の神と創造物を結びつける直接の交わりはありえない。また、はかない存在と永遠なる存在、偶
発的存在と絶対的存在の間には、類似した点は一切ない。ゆえに、神は各時代、各宗教制度ごとに、純
粋で汚れなき人物が天上と地上の王国にあらわれることを定めた。この把握しがたく、神秘的で、天界
からきた人物に、神は二つの特性を与えた。ひとつは物質界に属する肉体的なものであり、もうひとつ
は、神自身の実体から生まれ出た精神的なものである」GL,P.66
四つの創造界
創造界にはいくつかの段階があります。一番下の段階は鉱物界です。鉱物界は、鉱物の精神とも呼ば
れる「結合力」をもちます。すなわち、要素が結びつくことにより存在するものです。鉱物界の上には
植物界があります。植物の精神は、「結合力」に「成長力」を加えたものです。つぎに動物界がきます。
「結合力」と「成長力」のほかに五官をもちます。しかし、動物は本能と条件反射によって行動するだ
けです。
最後に、創造界の頂点である人間界がきます。人間は「考える動物」ではなく、動物とはまったく異
なった世界に属する存在です。人間は、精神面と肉体面のふたつの特性によりほかの世界から区別され
ます。人間はほかのあらゆる創造物よりはるかにすぐれており、もっとも卑しい人間でさえ最大の山脈
より偉大な存在なのです。
「……これまで述べてきたことから明らかであるが、万物は、その内奥の実体において、神のみ名と属
性をあらわす。各人は、それぞれの能力に応じで、神の知識を表現しているのである。……全創造物の
中で、もっとも高貴で、もっとも完全な存在である人間は、ほかの創造物よりはるかに神のみ名と属性
をあらわし、その栄光を完全に表現するものである」GL,PP.178-179
人間は「結合力」をもち、「成長」し、動物と同じ「五官」をもちます。そのほか、人間は動物には
ない能力をもっています。それは「理性」です。この能力を使って、人間は物事を考えついたり、思想
を生み出したり、抽象的に考えたりすることができます。
「人間の精神は、理性または論理、推理の能力から成る。それにより、一般概念や知覚できる物体を理
解する」BWF,P.370
動物と人間の違い
動物にも頭脳がありますが、それは人間よりはるかに劣っており、ボールが球形であることを説明し
たり、文字をほかの動物に教えたりすることはけっしてできません。
「……動物と人間が共有している能力には、動物の方がすぐれているものがかなりある。たとえば、記
憶力を見てみよう。ハトをここから遠方の国に連れていき、そこから放すと、ハトは帰り道を覚えてお
り、ここにもどってくるのである。犬をここからアジアの中部まで連れていき、そこで放すと、一度も
道に迷わずに帰ってくるであろう。ほかの能力、聴覚、視覚、嗅覚、味覚、触覚についても、同じよう
に、動物の方がすぐれている場合がかなりあるのである。このように、人間が以上の能力以外の能力を
もっていなければ、動物の方が、発明や、実体を理解する上で、あきらかにすぐれていることになる。
したがって、人間は動物のもっていない能力をもつことがはっきりと分かる。
さて、動物は五官で感じられるものは感知することができるが、知的な実体を理解することはできな
い。たとえば、動物は目に見える範囲にあるものだけを見るが、目に見えないものは知ることも想像す
ることもできないのである。つまり、動物には地球が球状であることなど理解できるはずはないのであ
る。しかし、人間はすでに知っていることから、まだ知らないことを証明したり、知られていない真理
を発見したりする」BWF,PP.304-305
精神は勢いである
窓から外を眺めたり、外を歩いたりするときに、木や花や雑草などが茂っているのが見えます。植物
が成長するのは、成長の源泉となる勢い、または力が植物界にあるからです。その勢いまたは力は創造
主から放出されたものです。
創造界には、いずれの領域においても、神から放出された勢い、または力、または精神とよばれるも
のが存在します。しかし、低い領域にある鉱物の精神は植物の精神を理解することはできません。同様
に、植物の精神は動物の精神を理解することはできません。動物の精神は人間の精神を理解できないの
です。たとえば、トランジスターの入っていないラジオが電波を受信できないように、犬は人間の精神
に応じる能力がないために、人間を理解することができません。
人間は、理性、感覚、成長、結合の精神をもち、動物は感覚、成長、結合の精神、植物は成長、結合
の精神、鉱物は結合の精神のみをもちます。のちほど、精神という言葉が混乱を招かないように、創造
界の精神を考える場合は、この四つの精神はエネルギーを与える力として機能することを覚えておく必
要があります。
「植物の精神とは、ほかの存在物に影響されて種子の中に引き起こされた成長力である。動物の精神は
五官の力であり、要素が構成され、混合されて存在するものである」BWF,P.316
「鉱物の中の精神について述べよう。それは明らかに、鉱物という存在段階に応じた精神と生命を与え
られている。……植物界にもまた、成長の力があり、それが精神である。動物界には感覚器があるが、
人間界には以上のすべてを包含した力がある」BWF,P.338
空気中の電気や電波は目に見えないけれどもたしかに存在します。創造界の精神の力についても同じ
ことが言えるのです。それは確実に存在し、もしそれが一瞬でもなくなれば、全創造は崩壊してしまい
ます。
「すべての創造物は神の啓示のしるしであることを知れ。各々その能力にしたがい、永遠に全能の神の
証拠をわあらわすものである。万物の最高の主なる神は、名称と属性の世界に、その主権をあらわすた
めに、各々の創造物を神の栄光のしるしとなした……。この啓示はあらゆる領域に浸透し、全宇宙でこ
の神の光輝を反映しないものを見つけることはできない。この状態のもとでは、遠近の考えは完全に消
え失せる。……神の強大な手がこの高遠なる特権を全創造物から取り上げれば、宇宙全体は荒廃し、空
虚となるであろう」BWF,P.317
理性的魂と人間の精神は同じ
人間の精神が創造界で神より放出された勢いであり、魂は神秘的な力の集合であるとすれば、なぜア
ブドル・バハは理性的魂という言葉と人間の精神という言葉を交互に用いているのでしょうか。魂と人
間の精神は同じでしょうか。つぎの文はこの問いに答えるものです。
「動物と人間を区別する人間の精神は、理性的魂である。このふたつの言い方、すなわち人間の精神と
理性的魂は同じことを指す。哲学者が理性的魂と呼ぶこの精神は、すべての存在物を包含し、人間の能
力の限界内で事物の実体を発見し、その特殊性や効果、その性質や属性を知るのである」BWF,P.317
アブドル・バハが、理性的魂という哲学者の用語を用いたのは、聴く人の能力に応じて話をしたから
です。また、人間だけが理性の力があることを強調するために、当時、人びとが聞きなれていた言葉を
選んで使ったからです。ほかの個所で、アブドル・バハは、魂と精神は別々のものであることを明確に
しています。
「魂の第二の能力は、精神の世界で表現される。そこでは、精神を宿した魂が肉体の五官を用いずに機
能する」PT,P.86
以上のふたつの引用文から理性的魂と人間の精神は同じものを指し、魂と人間の精神は関係はあるが
別個のものであることがわかります。人間の精神が肉体と魂に作用するとき、理性をふくめたこの世で
の生命が存在するのです。人間の精神が、肉体と魂への作用を中止したとき、肉体は滅びますが魂は生
存しつづけます。
「人間の魂は高遠なるものであり、肉体または心意のいかなる虚弱さからも独立した存在である。……
しかしながら、魂が肉体からはなれるときには、すばらしい勢いをあらわし、いかなる地上の力も匹敵
するものがないほどの影響を示す」GL,PP.153-154
魂の力
魂の働き
精神という言葉は、創造界と関連して用いられる場合は、勢いまたは力を意味することはすでに述べ
ました。つぎに、魂のもつ力について考えてみましょう。その力はおどろくべきもので、それなしには、
指を動かすことも、宇宙飛行士を月に送ることもできないのです。
「外部の状況が目、耳、頭脳を通して魂に伝えられるように、魂も、その望みや目的を頭脳を通して、
肉体の一部である手や舌に伝えて、自らを表現するのである。魂に宿る精神こそは生命の本質である」
PT,P.86
現代に生きる人間は、魂についてつぎのようなことを知ることができるようになりました。一、肉体
機能の調整、二、知的機能、三、内的ビジョンの機能、四、個性、五、モラル上の選択の効果 六、精
神的幸福、七、魂の不滅性
一 肉体機能の調整
魂は不随意機能を調整する
魂は肉体の不随意機能を調整する役目をはたします。体内の内臓やほかの部分を関連させ、すべてを
調和よく機能させます。すなわち、肉体の統一機関として、生命の持続を可能にする役目をもつのです。
しかし、肉体自身がこの規則正しい肉体上の機能に気づいているわけではありません。現代の医学で
は、この機能の原動力は、神経組織にあると主張していますが、時がたてば、肉体と魂の関係が理解さ
れ、事実が明らかにされるでしょう。
「たとえば、人間の肉体を構成する各器官、手足、要素はそれぞれ異なっているが、人間の魂という統
一機関によって関連し合う。それは、すべての器官と身体の部分を完全に調和させ、規則正しく機能さ
せて生命の持続を可能にする。しかしながら、人間の肉体は、この統一機関をまったく意識できない。
しかも、規則正しくはたらき、肉体の機能を果たすのである」BWF,P.340
二 知的機能
共通機能
人間がどのようにして想像力、思考力、理解力、記憶力などの内的な精神的能力を、視覚、聴覚、味
覚、触覚などの外的で肉体的な感覚能力に関連づけるかについて考えてみます。
内的な能力と外的な能力を結ぶものは、共通機能と呼ばれ、これもまた、魂の力のひとつです。たと
えば、外でとつぜん異様なブレーキの音がしたとします。共通機能は、その音から受けた印象を想像力
に伝え、眼を用いずに自動車を見るのです。
一方、犬は同じ音を聞いても、眠ったままであるか、または立ち上がって吠え立てるかもしれません。
犬の聴覚は人間よりはるかに敏感であるため、ブレーキの音も幅広く聞こえるはずです。犬は聞いた音
の印象を神経組織に伝えますが、想像、思考、理解などの内的能力に欠けているため、条件反射か本能
によって反応するだけです。しかも、条件反射は犬の経験の範囲内にとどまります。
「人間には、五つの外的感覚があり、それらは知覚する機関である。すなわち、この五つの能力により、
物質的なものを知覚するのである。物体を見る視覚、音を聞く聴覚、匂いを嗅ぐ嗅覚、食物を味わう味
覚、身体のあらゆる部分で物を感じ取る触覚の五つの能力である……。人間にはまた、精神的能力があ
る。物事を考えつく想像力、実体について熟考する思考力、実体を理解する理解力、想像したことや考
えたことや理解したことをすべて保存する記憶力がそうである。
五つの外的能力と内的能力を結ぶ媒体は、双方に共通した感覚である。言いかえれば、外部と内部の
諸能力間に作用する感覚であり、外部の諸能力が知覚したすべてを内的な能力に伝えるものである。こ
れは、共通機能と呼ばれる。なぜなら、外部と内部の諸能力間の連絡を取るものであるから」
BWF,PP.317-318
想像力、思考力、理解力、記憶力
以上の引用文を簡単に述べますと、人間の知的能力は、魂の属性であるということです。光線は太陽
の属性であるのと同じです。光線は太陽から生まれたものであり、本も著者から生み出されたもので、
絵も画家から生まれたものです。同様に、想像、思考、理解、記憶というような知的能力は魂から出て
きたものです。
「さて、心意の能力と魂の能力は同じではないかという質問に関して述べよう。想像力、思考力、理解
力といった能力は、魂に内在する属性である。これらの能力は、光線が太陽に内在する属性であるよう
に、人間の実体に欠くことのできないものである。人間の身体は鏡にたとえられ、魂は太陽に、知的能
力は光源から放射される光線のようなものである。光線は鏡にあたらなくなるかもしれないが、太陽か
ら分離することはけっしてない」BWF,PP.346-347
想像、思考、理解、記憶の能力は魂の属性ですが、それだけでは決断することはできません。人間の
精神がそれらの能力に作用し、頭脳を通して心意が存在するのです。したがって、心意は頭脳でも精神
でも知力でもなく、これらの三つの相互作用によって存在します。
心意
では、つぎに心意について述べてみます。心意の構成を理解できれば、その働きについてもかなり容
易に理解できるようになるからです。
もちろん、そのためには精神面の知識と科学面の知識の双方が必要です。精神病にかかった人や脳に
損傷を受けた人だけでなく、一般の人たちもこの医学面の研究と精神面の知識を合わせることにより、
おどろくほどの恩恵を受けるでしょう。
人間がもちうる知識のうちで、自分を知ることほど貴重な知識はないからです。自分がどうして考え
ることができるかがわかるまでは、自分を真に理解したとは言えないでしょう。魂と頭脳を結びつける
ことにより、はじめて思考の過程が理解できるのです。魂は、人間の実体であり、その力に気づくまで
は本当に自分を知ることにはならないのです。
毎日の生活で、想像力、思考力、理解力、記憶力といった知力を意識して使うときがあります。たと
えば、数学の問題を解いたり、旅行の計画を立てたり、手紙を書いたりするときです。
そのほか、知力を無意識に使う場合があります。あることを考えているときに、それと関係のない考
えがふっと入ってきたりするときです。たとえば、永年思い出しもしなかった子供時代の経験とか、一
時間前にはどうしても思い出せなかった人の名前がとつぜん浮かんできたりするときです。この思い出
からくる思考は、記憶または記憶と想像の組合わせから出てきたものです。
心意は分割不可能
埋もれている考えや関連のない考えは、無意識または潜在意識と呼ばれていますが、だれもこのふた
つの言葉を十分に説明できないため、混乱をきたしているようです。実際は、心意はひとつしかなく、
それは分割不可能です。魂の知的能力を考えて知的過程を説明すれば、混乱を生み出すことはないはず
です。
魂から知的能力が放射され、頭脳に向かってその光線を投げかけます。一方、人間の精神がエネル
ギー源を供給します。こう考えれば分かりやすいかもしれません。
魂は不滅であるため、知的能力も不滅です。目ざめている間は意識があるため、選択をすることがで
き、したがって心意の活動を抑制できます。しかし、睡眠中は、知的能力は放射されていますが、選択
をすることはできません。この理由から、睡眠中に記憶や想像から考えやイメージが出てくるのです。
心意は決断する機関
心意は決断をする機関です。しかし、その機能を用いないと、記憶と想像の活動が活発になります。
今日、バハオラが示した世界平和確立のために心意を積極的に用いていれば、過去の思い出にひたるこ
とは少なくなるでしょう。意識して考えるときは、失錯行動もほとんどなくなるはずです。自分が何を
考えているかを意識しているときには、その考えを表現する言葉を選択するからです。
そのほか、心意の活動に関して多数の例がありますが、ここでは基本的なものだけをあげてみたいと
思います。
以上の説明から、決断したり、選択したりするのは、心意の機能であることがわかりました。心意に
は調査し、発見し、決断する能力がありますが、魂にはそういう能力はありません。すなわち、魂の知
的な属性である想像、思考、記憶の能力だけでは決断できないのです。魂は心意のほかの構成要素であ
る人間の精神と頭脳同様、心意のはたらきを助けるだけです。
心意とモラル上の選択
芸術や科学の発展には、心意のたん練が必要ですが、同様に、より正しいモラル上の選択のためにも、
心意のたん錬を必要とします。
芸術や科学上での貢献は、ほんの少数の人ができるだけですが、正しいモラル上の選択はだれにもで
きることです。その上、正しいモラル上の選択をしたときに得られる満足感は、芸術や科学上の貢献を
成し遂げたときよりはるかに大きなものです。その満足感とは、この世だけでなく、永遠につづく精神
的な幸福なのです。
心意には不滅性はない
人間の脳がどれほど重要であるかは強調する必要はないでしょう。ここで脳を目や耳と同じように、
精巧で複雑な器官として考えてみると、傷をうけていないときに最上のコンディションであることはい
うまでもありません。反対に、脳に損傷を受けた場合は、その働きが悪くなるのはもちろんです。
人が死ぬとき、脳の機能も止まりますが、同時に心意も機能しなくなります。しかし、心意のほかの
構成要素である想像、思考、理解、記憶の能力は、魂から放射されつづけます。一方、人間の精神は、
創造界の勢いのひとつとして、物質界にだけ存在するものです。
「知的能力に関して述べると、それは実際、魂に内在する属性である。光線が太陽に欠かせない属性で
あるのと同じである。太陽の光線は新しいものに変わっていくが、太陽自体はつねに同じであり、変わ
ることはない。人間の知性は発達したり、弱まったり、ときにはなくなったりするが、魂は変わらない
ことを考えてみよ。心意をあらわすためには、身体は健康でなければならない。また、健全な心意をも
つには健全な肉体が必要である。しかし、魂は肉体に依存する必要はない」BWF,P.337
「なお、五官の働きが止まったとき、心意もその理解力を失う。また、胎児期と幼児期の初期には理性
はまったく欠けているが、魂はその時期でも完全な力をそなえているのである。つまり、理性が失われ
ても、魂の力は存在しつづけるという証拠は多く見られるのである」BWF,PP.337-338
三 内的ビジョンの機能
ふたつの思考方法
この章のはじめに、魂、心意、精神について調べると、心意の効果的な使い方が分かり、潜在意識の
意味、および心意を用いずに考える方法があきらかになると述べました。
それについて考えてみましょう。人間には考える方法がふたつあります。ひとつは心意を用いる方法、
もうひとつは内的ビジョンの機能と呼ばれる魂の能力を使う方法です。
「……人間の精神の力と理解力には二種類ある。いいかえれば、ふたつの異なった方法で知覚したり行
動したりするのである。ひとつは器官を通してであり、目で見たり、耳で聞いたり、舌を使って話した
りする方法である。……精神の力と行動が表現されるもうひとつの方法は、器官を使う必要はないもの
である。たとえば、睡眠中に目を使わずに見たり、耳を使わずに聞いたり、舌を使わずに話したり、足
を使わずに走ったりすることである」BWF,P.326
「自然界のすべての生命にあらわれている神の贈り物は、人間を精神的に盲目にし、不能にする知的お
よび視力にかかっているベールによって妨げられ、かくされてきた……。しかし、視力のかすみが取り
のぞかれ、ベールが引き裂かれれば、偉大な神のしるしが見えはじめ、永遠の光が世界を満たすのを目
撃するであろう。神の贈り物はすべて、つねにあらわれており、天の約束は絶えず果たされているので
ある。神の恩恵はあらゆるものを取り巻いているが、魂の自覚の目がベールにおおわれ、暗くなってい
れば、その人は、あらゆる所に存在するこのしるしを否定し、神の恩恵を失いつづけるであろう。
それゆえ、心と魂を込めて努力しなければならない。内的ビジョンの目をおおうベールが除かれ、神
のしるしを見、その神秘的な恩恵を認め、精神的な恩寵に比べると物質的な祝福がいかに空しいもので
あるかを認識することができるように。もっとも偉大なものは神から下される精神的な祝福である」
BWF,P.266
「精神的な世界では、神からの贈り物は無限である。なぜなら、その領域では物質界の特徴である分離
も分解もないからである。精神的な存在は絶対に滅びることはなく、完全であり、不変である。それゆ
え、神が物質的および精神的な贈り物をわれわれのために創られたことに対して感謝しなければならな
い。神は物質的な贈り物と精神的な恩恵をわれわれに与えた。太陽の光を見る外的な視力と、神の栄光
を知覚する内的ビジョンである。メロディを楽しむ耳と、創造主の声を聞く内的な聴力を創ったのであ
る。われわれは、心と魂と心意の力を用いて、現象界の実体にひそむ完全性と美徳を発達させ、示せる
ように努力しなければならない……」BWF,P.267
第二の思考の源泉
内的ビジョンの機能は、創造的、直観的、抽象的思考の源泉です。心意も抽象的な思考を発達させる
ことができますが、それは、具体的な証拠があるときだけです。内的ビジョンの機能は、それだけで抽
象的な思考を生み出すことができます。そして、あらかじめ出された結論とか証拠というような外から
の援助を必要としません。
このふたつの思考の違いを調べると、内的ビジョンの機能は「知る」のですが、心意の方は、推論し
たり、論証したりして結論を出さなければならないことがわかります。
「魂の第二の能力は、精神の世界で表現される。そこでは、精神を宿した魂が物質的な肉体の五官を用
いずに機能する。その精神の世界で、魂は肉体の目を使わずに見、肉体の耳を用いずに聞き、肉体の運
動に頼らずに旅行する」PT,P.86
「……心意は、魂の力をとおして理解し、想像し、影響をおよぼすのであるが、一方、魂そのものは自
由である。心意は具体的なものの助けをかりて抽象的なものを理解するが、魂はそれ自体でかぎりなく
表現することができる。心意には制限があるが、魂には制限がない」BWF,P.337
魂は論証せずに「知る」ことができます。心意よりもはるかに信頼できる思考の源泉です。人は、論
証からはしばしば疑いや誤りが生ずることを経験しています。また、直感的な思考がつねに正しいとい
うわけではありません。人間は誤りを犯すからです。誤りを犯さないのは、天賦の知識をもつ顕示者だ
けです。
「人間の思考には二種類あることを考えよ。ひとつは、明確な真理と一致するときに正しいということ
がわかる思考である。そのような概念は外部の世界で実現される。たとえば、正しい意見、正確な理論、
科学的発見や発明である。一方、もうひとつの思考は、空しい思想と役に立たない思いつきからなり、
何の成果も生み出さず、実体がないものである。いや、それは想像の海の波のように打ち寄せ、はかな
い夢のように消え去るものである」SAQ,P.290
論理的な思考と直観的な思考
日々の生活では、論理的な思考と直観的な思考の双方が必要で、このふたつは相互に補足しあいます。
オリジナルな考えは内的ビジョンの機能から出てきます。心意はそれを具体化し、発展させ、完成す
る役目をはたします。この順が反対になるときもあります。たとえば、建築家が必要な資料を全部集め
て論理を用いて設計をはじめるが、途中でどうしてもオリジナルなアイディアを必要とし、論理的なプ
ロセスをやめ、内的ビジョンの機能を用いる場合です。
このように、ひとつの考えを発展させ、完成させるためには、以上のふたつの思考の相互作用が必要
です。前に述べた建築家は、内的ビジョンの機能を用いるために、論理的なプロセスを中止しました。
人はそんなことはできないと思うかもしれません。ところが、実際は、瞑想するたびに同じテクニック
を使っているのです。
瞑想の目的は、自分の思考をとめ、神の言葉や知識を内的ビジョンの機能に入れることなのです。ほ
かのことを考えるときも、この同じ方法を使えばよいのです。そして、使っていくうちに、容易になっ
ていきますきます。
発明・発見の源泉
新しいオリジナルなアイディアというのは、実際にはなく、それは太古の昔より存在していたもので、
人間によって見いだされ、認められるのを待っていただけです。電気はベンジャミン・フランクリンが
発見する前から存在していました。フランクリンが自分の内的ビジョンの機能である「知る能力」を、
すべての知識の源泉につないだときに発見が起こったのです。
知る能力は、内的ビジョンの機能にあります。人間の魂は、全知全能の神のしるしであり、あらゆる
知識の源泉が魂に反映するように創られているからです。
「これが、万物を包含する力であり、万物の実体を理解し、存在物にかくされている神秘を発見する力
である。また、この知識により、存在物を支配するのである。それは、外的には存在しないものさえも
知覚する。すなわち、目に見えないゆえに、外的には存在せず、五官で感じることもできない知的な実
体を知覚するのである。それは、知的に実在する心意、精神、属性、性格、そして愛と悲しみを理解す
る。
さらに、現存する科学、芸術、法律、かぎりない発明は、かつて目に見えない神秘であり、かくされ
た秘密であった。それらを発見し、見えない世界から見える世界へと引き出したのはすべてを包含する
人間の力である。電信、写真、レコードプレイヤー、そのほかすべての発明やすばらしい芸術は、一時
はかくされた神秘であったが、人間の実体がそれらを発見し、見えない世界から見える世界へと引き出
したである」BWF,P.304
潜在意識
現在、精神医学では、心意と魂の関係や内的ビジョンの機能については知られていません。したがっ
て、説明のできない思考過程に潜在意識というレッテルをはっているだけです。
内的ビジョンの機能は、「潜在」または「無」意識と呼ばれる心意とは違って、はっきりとした思考
です。このことがあきらかになれば、内的ビジョンの機能は、心意よりも豊富な思考の源泉であること
が認められるようになるでしょう。
しかし、現在はこの知識が欠けているため、人間の存在でもっとも重要な部分が混乱の壁と神秘の
しっくいで囲まれている状態です。したがって、人が精神医学の助けをかりて、その壁に心配と不安の
はしごをかけ、それに昇ってのぞき見ようとしますが、見えるのは、自分の物質的な特性ばかりなので
す。
魂のもつさまざまな機能が、科学によって受け入れられ、応用されるようになれば、この壁は、一瞬
にして崩れ落ちるでしょう。そのときはじめて、人は、自分の内部にある精神的な性質を見、真の実体
に気づき、精神的な幸福感を味わい、創造の目的を成就するようになるのです。
もうひとつの壁は、「人は頭脳の十パーセントから二十パーセントしか使っていない」というあや
まった考えです。この壁も、科学者や教育者が内的ビジョンの機能を認めれば、すぐに崩壊するはずで
す。実際には、人は十分に頭脳を使っており、使用していないのは内的ビジョンの機能なのです。
将来、学校でこどもたちが、考える方法を学ぶようになれば、心意と内的ビジョンの機能の双方を思
考の源泉として、きわめて豊かな思考が生まれてくるでしょう。
問題解決の機関
人は皆、程度の違いはあっても、あらゆる知識の源泉から知識を得る能力をもっています。芸術家や
科学者だけでなく、一般の人も、自分でおどろくほどの解答や考えが自分から出てくることがあります。
それは、あらゆる知識の源泉につながったからです。
多くの人が、ある重要な問題に直面して、どうしてよいかわからずにいら立ったり、心配したりして
いたのに、翌日、とつぜんすばらしい解決法が見つかったという経験をしたはずです。それは、内的ビ
ジョンの機能からきた解決法なのです。
「皆も観察したように、魂は眠っているときも、目がさめているときも動いており、つねに活動をつづ
けている。魂は、目ざめているときには解決できなかった複雑な問題を、夢のなかで解明することもで
きるのである」BWF,P.337
「睡眠中、身体は死んだようになる。見ることも、聞くことも、感じることもなく、また意識も知覚力
もない。すなわち、人間の力は不活発となる。しかし、精神は活動しつづける。それどころか、その洞
察力は増し、より高く飛翔し、その知力も増すのである」BWF,P.326
問題を解決する機関は、内的ビジョンの機能であり、これは目ざめているときにも用いることができ
ます。実際、用いるためにあるのです。しかし、スポーツマンが規則的な訓練を必要とするように、内
的ビジョンの機能も訓練が必要です。
発達には訓練が必要
内的ビジョンの機能をみがけばみがくほど、心意も鋭敏になっていきます。しかし、魂のほかの機能
も十分に発達させなければ、内的ビジョンの機能も十分にのばすことはできないのです。すなわち、内
的ビジョンの機能だけを発達させようと努力しても、魂のもつ反映力をみがかなければ、あまり効果は
ありません。人はどれほどすばらしい頭脳をもっていても、聖なる精神の光によって照らされなければ、
内的ビジョンの機能はおとろえていきます。
「しかしながら、聖なる恩恵の昼の星と天の導きの源泉が、人間の実体に与えたこのエネルギーは、炎
がローソクの中にかくされ、光がランプの中に潜在しているように、人の内部に潜在的にかくされたま
まである。このエネルギーの輝きは、太陽の光が、鏡をおおうごみやちりの下にかくされているように、
世俗的な欲望でおおわれているかもしれない。ローソクもランプも、外からの手助けがなければ自ら火
を点すことはできない。鏡も自らそのちりを取り除くことは不可能である。ランプは、火を点されなけ
れば、けっして燃えることはない。また、鏡もその面からちりが除かれなければ、太陽の映像をあらわ
すことも、その光と栄光を反映することもできないことは明らかである」BWF,P.103
内的ビジョンの機能の発達へのかぎは、精神的幸福と豊かな精神生活へのかぎと同じです。すなわち、
バハオラの教えにしたがい、日々の努力によって自我を除いていくことです。
「おおわがしもべよ。あなたの心意が、すべての考えや思いを空にして、純粋になるならば、そして、
あなたの心が神の王国に完全に惹かれ、神以外のすべてを忘れて神の聖なる精神と交わるならば、聖な
る精神があなたを援助するであろう。その聖なる精神の力で、あなたは万物を理解できるようになろう。
また、あらゆる方向を照らすまぶしい閃光、天空で輝く炎は、あなたが知らなかった宇宙と聖なる教え
の真理を教えるであろう」BWF,P.369
四 個 性
個性は個人の努力により変わる
人にはそれぞれ異なった個性がありますが、それはきわめてユニークなものです。それは、指紋の違
いとか木の葉の違いとか米粒の違いといった物質界におけるユニークさからほど遠いものです。
人間の肉体は物質界に属しますが、魂はそうではありません。魂の力のひとつは個性です。人間はそ
れぞれ異なった個性をもっています。個性は神から各個人に与えられたもので、潜在的には完全で、欠
陥はありません。しかし、それを発達させるのは個人の努力によるのです。物質界における指紋や米粒
などの間にある違いは変わることはありませんが、個性は個人の努力によって変っていきます。
「さて、人間の創造に関するあなたの質問に答えよう。人は皆、保護者であり、自力で存在する神が創
造した性質をもつように創られた。このことを知れ。神の威力にあふれ、かつ保護された書簡に定めら
れた通り、各人には前もって定められた分量が与えられているのである。しかし、あなたが潜在的にも
つものはすべて、あなたの意志の働きによってのみあらわされる。あなた自身の行動そのものがこの真
理を証明しているのである」GL,P.149
個性と性格の違い
「個性」と「性格」は似た言葉ですが、個性は魂の力のひとつであると考えれば理解しやすいでしょう。
性格は、個人が創ったイメージであり、ほかの人の眼にうつる外面です。ドラマに登場する人物のなか
から自分の好きな人物を選ぶようなものだといえます。性格は訓練と教育を通して身につくものであり、
永続性はありません。つまり、ある程度まで、自分の好きな性格をもつことができるのです。
一方、個性は魂の力として神より与えられたものです。個性はふたつの潜在能力をもちます。ひとつ
は、才能を最大限にのばす能力であり、もうひとつは、精神性をのばす能力です。
前者は科学や芸術に表現され、後者は人間の精神面と物質面のふたつの性質に示されます。このふた
つの潜在能力を発達させるためには、神の顕示者の指示にたよらなければなりません。しかし、どれほ
どこのふたつの潜在能力をのばしたとしても、人間としての限界を越えることはできません。
「……教育の人間にあたえる影響は多大であるが、人の心意と理解力は生まれつき異なる。このことは
明らかであり、論ぱくする余地はない。同じ年令、同じ国、同じ人種の子どもたちだけでなく、同じ家
庭に生まれ同じ教師の指導を受けた子どもたちも、おのおの異なった心意と理解力をもっていることが
わかる。貝殻をどれだけ教育しても輝く真珠とはならない。黒石は世界を照らす宝石とはならない。…
…とげの多いサボテンは、訓練と進化によってもけっして果実を実らせる恵まれた木とはならない。す
なわち、人間の内部にひそむ宝石は、訓練によって変えることはできないのである。しかしながら、訓
練はおどろくべき成果を生み出し、この成果をもたらす力により、人間の実体にきざまれている潜在的
な美徳と能力はすべてあらわされるのである」BWF,P.398
自由意志の限界
この短い一生のうちに、人は個性をのばさなければなりません。人が自由意志の限界を知っていれば、
誤りをおかすことも、傷つくことも少なくなり、より幸福に過ごせるようになります。
つまり、自由意志は、モラルの面と行動の面の選択にかぎられていることを知るべきなのです。その
ほかのことに関しては、人は選択する自由は与えられていません。人は魂の指揮官でもなく、運命の主
人でもないのです。
ここで、少々ショックを受けるかも知れませんが、つぎの質問を自分にしてみましょう。「明朝、か
ならず眼がさめると思いますか?」「一年中絶対に病気をしないといいきれますか?」「現在もってい
る財産をそのままずっと持ちつづけることができますか?」「旅行に出て、かならず帰宅できます
か?」以上の質問に「イエス」と答えられる人はいないはずです。
人は、自分の行動も、所有物も、健康も完全に制御することはできません。ただ、モラル上の選択だ
けは人の自由なのです。といっても、毎日一生懸命に働かないでもよいとか、将来のためにプランを立
てないでもよいとか、健康に気をつけないでもよい、というわけではありません。
バハオラが述べているように、「すべての人間は絶えず発展していく文明を推し進めるために創造さ
れた」ので、各人、その責任をはたさなければならないのです。文明の発展を推進していくとき、人は、
正直であるか、公正であるか、哀れみ深いか、愛情にあふれているか、またはその反対なのか、あるい
はどちらでもないかを選択していくのです。
「ある事柄は、人間の自由意志でどうにでもなる。たとえば、正義、公正、残虐と不正、言いかえれば、
善行と悪行である。これらの行為は、大部分、人間の意のままになることは明らかである。しかし、人
間がやむなく従わなければならないこともある。たとえば、睡眠、死、病気、力のおとろえ、けが、不
幸といったものである。これらは人間の意のままにならず、人間の責任ではない」SAW,P.287
「真理のあけぼのである方は、はるか遠くに迷える魂を救い、神の宮廷に引き寄せ、神の面前に近づけ
させることができる。『もし神が望まれたのであれば、すべての人びとをひとつの民族とされたにちが
いない』。しかし、神の目的は、純粋な精神をもつ人と超脱した心をもつ人が、自分のうちにそなわっ
ている力により、もっとも偉大なる大洋の岸辺にたどりつくことができるようにすることである。それ
により、栄光に輝く方の美を探し求める者が、わがままで邪悪な者から区別され、切り離されよう。栄
光に満ち、光り輝くペンはこのように定めてきた」GL,P.71
五 モラル上の選択の効果
モラル上の選択による魂への反映
心意が決断したものは、魂の機能のひとつに記録されます。つまり、一生のうちで、人が決断するモ
ラル上の選択を全部計算機で計算した合計が記録されると思っていいでしょう。
または、ちょうつがいのついた鏡に、モラル上の選択の結果が正確に反映されるともいえます。人の
心の中にあるちょうつがいのついた鏡は、善悪いずれかの選択によって、上を向いたり、下を向いたり
します。
下に向くときは、利己的、物質的なものを選択したためであり、上に向くときは、正義、愛、親切、
慈悲、真実、正直などの精神的なものを選択した結果なのです。人間の物質的な性質に基づいて選択す
るときの例は、ドリアン・グレイの肖像の話によく表されています。ドリアン・グレイが堕落した卑し
むべきモラル上の選択をしたとき、かれの若々しいハンサムな顔かたちは変わらなかったけれども、二
階の部屋にかくされていたかれの肖像は恐ろしい様相に変わっていたという話です。
「この人生で受ける報酬は、人間の実体をかざる美徳と完成である。たとえば、暗かった人が明るくな
り、無知な人が賢くなり、怠慢な人が注意深くなり、眠っていた人が目覚め、死んだようになっていた
人が生き返り、眼が見えなかった人が見えるようになり、耳が聞こえなかった人が聞こえるようになり、
俗人であった人が聖人となり、物質的な人が精神的になることである。これらの報酬によって、人は精
神的に生まれ変わり、新しい人間となるのである」SAQ,P.260
個人のもつ闘争エネルギー
心のなかの鏡の角度を変えるのは、個人のもつ闘争エネルギーです。それは、精力、野心、意志、決
意または誇りといった言葉で表現されているものです。または、単に人格あるいは性格の一部ともいわ
れるものです。
大業の翼成者のホーレス・ホーレイ氏は『人類のための宗教』のなかで、「個人のもつ闘争エネル
ギーは誤解され、誤用されてきた。その真の目的は、同胞に打ち勝つ能力を養うことではなく、自己を
超越する能力を養っていくことである」と述べている。したがって、真の征服者といわれる人は自己を
征服する人なのです。
人は、心のなかの鏡の角度を変えるための道具箱をすでにもっています。つまり、そのなかには、決
断するための心意と、個人のもつ闘争エネルギーというバッテリーと、記録のためのちょうつがいのつ
いた鏡が入っています。さらに、取り扱い説明書もつけられています。それに忠実にしたがえば、かな
らず鏡の角度を変えることができるのです。
「すべての人間が、意識して努力した結果、また、自らの精神的な能力を用いて努力した結果、この鏡
は世俗に汚れたちりから清められ、悪魔的な妄想を追い払うことができる。それにより、永遠に神聖な
牧場に近づき、永遠の友情の宮居に到達することができるのである。これについては疑う余地はない」
GL,P.262
六 精神的な幸福
物質的な幸福と精神的な幸福
人がどのような人間になりたいかを決めるとき、同時にどれほど幸福になれるかも決めるのです。人
の幸福は、モラル上の選択と直接につながりをもっています。幸福には二種類あり、ひとつは精神的な
もの、もうひとつは物質的なものです。
物質的な幸福は一時的で、はかないものです。ある程度食べたり、飲んだりするとどれほどおいしい
ものでもいやになります。休暇もあまり長引くと退屈になります。ひじょうに面白い映画も一日八時間
つづけて見れば、だれでも二、三日でいやになるはずです。
この物質的に満たされた幸福感とバハイのサマースクールに参加し、終わっても帰りたくない気持ち
と比べてみましょう。ディープニングや国際大会に皆と集まり、精神的な雰囲気で心が高揚されたとき
の幸福感や、巡礼で感じるこの上もない幸福感に比較できるものはないでしょう。しかも、精神的な幸
福感は、ひとつの段階からつぎの段階へと高まっていきます。しかもその過程は際限なくつづいていく
ものです。
「精神的な幸福について述べると、それは人間生活の真の土台である。というのは、人生は幸福のため
に創られたのであり、悲しみのためではない。また喜びのためであり、嘆きのためではないからである。
幸福は生命であり、悲しみは死である。精神的な幸福は永遠の生命であり、暗黒があとにつづかない光
であり、恥辱があとにつづかない栄誉であり、消滅があとにつづかない実在である。この大なる祝福と
貴重な贈り物は、神の導きによってのみ得られる……。この幸福はすなわち神の愛である。この幸福の
ためでなければ、存在の世界は創造されなかったであろう」DAL,P.18
「精神的な幸福は永遠につづくものであり、計り知れないものである。この種類の幸福は、神を愛する
ことによって人の魂にあらわれ、人に人間界の美徳と完全性を身につけさせるのである」DAL,P.15
精神的に幸福になるということは、心に確信と安らかさと輝きをもつことです。また、物質界への愛
着をはなれ、精神的な世界に心を向けることです。
前に、心の鏡の角度を変えるために必要な道具箱について述べたとき、弁については触れませんでし
た。その理由は、弁は自動的に動くものだからです。鏡を上に向ければ向けるほど、その開きも大きく
なり、それだけ精神的幸福も流れ出してきます。
バハオラの教えにより忠実にしたがい、最終的には自分の意志を完全にバハオラの意志にまかせるよ
うになると、弁は大きく開き、精神的な幸福は絶えることのない流れとなってあふれ出てくるようにな
ります。
「……神以外のすべてから離れ、世俗的なものを断つとすぐ、あなたの心は神の光と、強大なる王国の
地平線から出た真理の太陽の光輝で照らされるであろう。そして、あなたは神から来た精神力で満たさ
れ、望むことを為すことができるようになろう。このことを知れ。これこそまぎれもない真理である」
DAL,P.16
試練の精神的な意味
人が健康で、満足した生活をし、すべてが順調にいっているときは、鏡の角度を上に向けて、弁を大
きく開け、精神的なエネルギーの流れを大きくすることはむずかしいことではありません。しかし、失
望したり、困難に直面したりするとき、その弁の動きが悪くなりがちです。なぜでしょうか。それは、
神を賛美し、感謝すべきときに、自らをあわれんでいるからです。
なぜ、困難にあるときに神に賛美と感謝の念をもつべきでしょうか。そうすることは可能でしょうか。
この問いに対する答えは、人が成長の段階を通っていくにしたがって明らかになっていきます。神は、
人間をこの世のさまざまな事柄に巻き込ませて、各個人の信念の深さを試します。
「この世の欺まんにまどわされてはならない。なぜなら、この世とその中のあらゆるものは、神の意志
通りになるからである。神は自らが望む者に恩恵を与え、自らが望む者からそれを取り上げる。神は望
むまま何事も為す。もし、この世が神の眼に価値あるものであれば、神はけっして自らの敵に、一粒の
からしの種さえも所有させなかったであろう。しかしながら、神はあなたたちの手が神の大業にもたら
した悪業の代償として、あなたたちをこの世の事柄に巻き込ませたのである。実に、これはあなたたち
が自から望んで自分自身にもたらした懲罰である。もし、あなたたちがこのことを悟ることができれば。
あなたたちは、神から見ればいやしむべきもの、そして価値のないもの、すなわち神が疑う者の心を試
された事物を楽しんでいるのか」GL,P.209
人間の精神が、どのように信仰の精神を通して聖なる精神に結びつけられるかを理解すれば、試練を
受けたときに、その結びつきが断たれやすくなる理由も理解できるでしょう。
人が自分をあわれむとき、心の鏡は自分自身と物質的なものへと向くのです。聖なる精神の光は、つ
ねにかがやいているのですが、心の鏡を上の方に向けないために光が反映しないだけのことです。それ
は、太陽に雲がかかって地球に光線がとどかないのと同じです。
今後、試練がおとずれてきたとき、神に賛美と感謝をささげれば、精神的な光が暗い心を照らしてく
れるでしょう。そして、聖なる精神から下される温かさと輝きを感じ取ることができるでしょう。その
とき、人は輝かしい黙諾を感じるのです。黙諾とは、輝かしい心で自分に降りかかった試練を受け入れ、
運命にしたがう態度ではないでしょうか。
従順の度合いにしたがって強まる光輝
豊かな精神的な生活へのかぎは、従順になることを学ぶことです。
「わたしがあなたたちに単なる法典をあらわしたと思ってはならない。いや、むしろ、わたしは強力な
指で、選り抜きのぶどう酒の栓を抜いたのである。啓示のペンがあらわしたものは、このことを証言す
る。洞察力のある者らよ、これについて熟考せよ……
わたしの法が、太陽のようにわたしの言葉の天にあらわれるとき、すべての人はそれに忠実にしたが
わなければならない。たとえ、わたしの命令がすべての宗教の天を引き裂くものであっても。神は望み
通りに為す。神は選択し、それに対してだれも異議だてることはできない。……すべてに慈悲ある方の
甘美な芳香を吸い、この言葉の源泉を認めた者はすべて、人びとの間に神の法の真理を立証するために、
敵の矢さえも自らの眼で迎え入れるであろう。神の法に向かい、その明確な意味を理解した者は幸いで
ある」GL,PP.332-333
「あなたの眼は、わたしが信託したものである。つまらない欲望のちりで、その輝きを曇らせてはなら
ない。あなたの耳はわたしの恩恵のしるしである。見苦しい動機による騒音のために、すべての創造物
を包含するわたしの言葉より耳をそむけてはならない。あなたの心はわが宝庫である。わたしがその中
に秘蔵した真珠を、自我の反逆の手にうばわれないようにせよ。あなたの手はわが慈愛の象徴である。
庇護され、秘められたわたしの書簡をつかもうとするその手を差し止めてはならない。……求められな
いのに、わたしはあなたにわたしの恩寵を注いだ。たん願されないのに、わたしはあなたの望みをかな
えた。あなたはそれに価しないのに、わたしはあなたを選び、最高に豊かで、計り知れない恩恵を与え
た……。
おおわがしもべらよ。大地のように甘受し、従順であれ。それにより、わたしの知識の薫り高い聖な
るヒヤシンスが、あなたの存在の土壌より、色とりどりに咲き出すであろう。火のように燃え立たねば
ならない。それにより、無思慮のベールを焼き尽くし、神の愛の生命力にあふれるエネルギーにより、
冷淡で強情な心に火を点せ。微風のように軽やかで自由であれ。それにより、わたしの宮居の境内、侵
しがたいわたしの聖所に入ることができるように」GL,PP.322-323
輝かしい黙諾
人は、バハオラの教えにしたがっているうちに、従順となり、最終的には輝かしい黙諾を感じるよう
になります。
「人は、利己的である自分の状態を忘れなければならない。そうすれば、犠牲の地位にのぼることがで
きよう。眠るのは楽しみのためではなく、より上手に仕事し、より上手に話し、よりすばらしく説明で
きるようになるためである。神のしもべに仕え、真理を証明できるように身体を休ませるべきである。
目覚めているときは注意深くなり、神の大業に奉仕し、神の地位のために、自分の地位を犠牲にすべき
である。人がこの地位に達したとき、聖なる精神からまちがいなく確証が下されるであろう。そしてこ
の力を身につけた者は、地上に住むすべての人びとに抗することができるのである」BWF,P384
人は一夜にしてバハオラの教えに完全にしたがい、黙諾の状態に達することはできません。それは努
力によって徐々に強まっていくものです。大切なことは、神の大業を生活のもっとも重要なものとして
最初にもってくることです。
そうするためには、まず教えを自分の魂と心意に浸透させ、つぎに態度と行動によってあらわすので
す。そうすれば、バハオラのメッセージを教え広め、その世界秩序を築くために専心するとき、何事に
よっても妨げられることはなくなります。そのときはじめて本当の幸福を発見し、逆境にあっても幸福
感を味わうことができるようになります。同時に、恩恵という言葉を理解できるようになるのです。
「もし、あなたがこの世について深く考え、それに関わるものがいかにはかないものであるかを認識す
れば、あなたは、あなたの主の大業に奉仕する以外の道を歩くことを選ばないであろう。たとえ、すべ
ての人びとがあなたに反対して立ち上がったとしても、神を賛美するあなたをだれも妨げる力はもたな
いであろう」GL,P.314
バハオラに対する愛に満たされた人は、ティーチングに成功したとしても、けっして自分の力による
ものだとは思わないのです。その人は、自分が単なるチャンネルにすぎないことを知っているからです。
そして、その成功を自分から切り離してしまいます。また、そうすることにより、大業への奉仕から感
謝と喜びを感じます。大業に奉仕できるというのは、かけがえのない特権なのです。
「ある人が、他人に影響を与えることができても、それは、その人自身の力ではなく、むしろ、神の言
葉による影響であると見なすべきである。それは、全能者でありすべてに賢い神が定められたことであ
る。神の眼には、そのような人は、自ら燃えつきながら外部に光を与えつづけるランプと見なされるの
である」GL,P277
七 魂の不滅性
魂の力は死後も機能しつづける
現代では、だれでも科学的知識を受け入れます。地球が球体であること、心臓には骨がないこと、宇
宙飛行士は一時間に二万七千キロの速度で飛ぶことなどは一般に信じられています。一方、精神的な知
識については、まだ一般にはそれほどたやすく受け入れられていません。しかし将来、科学的な知識と
同じように受け入れられる時代が来るでしょう。その時代になると、バハオラの書はひろく読まれ、そ
のおどろくべき知識は一般大衆にも浸透するでしょう。
ただ、バハオラを発見した人は、将来まで待たなくても、確実な精神的な知識が得られるのです。た
とえば、魂が不滅であること、死後も魂の力は機能しつづけること、すなわち、肉体の死は生命の終わ
りではなく、始まりであることなどの知識が得られるのです。
「さて、人間の魂とその死後の生存に関する質問について答えよう。魂は、肉体から離れた後、神の面
前に達するまで進歩し、時代と世紀のめぐりも、この世の変化と運命もその魂の状態を変えることはで
きない……」GL,P.155
「……信仰の概念が、始めなき始めより存在し、終わりなき終わりまでつづくと同じように、真に信じ
る者は、永遠に生きつづける。その人の精神は、神の意志のまわりを永遠にまわりつづけるであろう。
また、その人は、神が存続するかぎり、存在しつづけるであろう。
その人は、神の啓示を通してあらわされ、神の命令によりかくされるのである。不滅の王国にある
もっとも高遠なる館は、真に神とそのしるしを信じた人たちの住まいとして定められてきた。このこと
は明らかである。その聖なる座は、死によって侵されることは絶対にない」GL,P.141
モラル上の選択が、魂という鏡に映し出されることについて前述しましたが、鏡が上を向くように努
力することは、もっとも重要なことといえます。というのは、鏡に映し出されるものは、永久的なもの
だからです。
ルヒア・カヌーンは、『人生の処方箋』という本のなかで、死の瞬間、一生の姿がスクリーンに映し
出されると述べています。「そのスクリーンに、都市のごみ捨て場の光景より、バラ園の光景が多く出
てくるような人生を送らなければならない」と書かれており、読者をハッとさせています・
「人間はすべて、肉体の死後、自分の行為がどれだけの価値があったかを評価し、自らの手がもたらし
たものをすべて認識するであろう。このことは明白である」GL,P.171
死後の魂の進化
この世で、人の魂はモラル上の選択で、精神的な選択をすることによって神に近づいていきます。肉
体の死後も魂は神に向かって進歩していきますが、それは、神の慈悲と恩寵によります。この世で到達
した発達段階が、つぎの世での出発点となるのです。
「死後の魂についていえば、それは肉体のなかに宿っている間に進化して到達した純粋さのまま生存し
つづける。そして、肉体から自由になったあとは、神の慈悲の大洋に身を投じて、そこで生存しつづけ
る。魂が肉体を離れ、天上の世界に入ってからの進化は、精神的なものであり、その進化はすなわち、
神への接近である。物質界では、進化はひとつの段階での完成からつぎの段階の完成へと進んでいくこ
とである。鉱物は、鉱物としての完成に達すると植物界に吸収され、植物は、植物としての完成に達す
ると動物界に吸収される。やがてそれは人間界に吸収される。
この世界は一見矛盾に満ちているように見える。鉱物、植物、動物界のそれぞれの世界には、それぞ
れ違った段階に達した生命が生存している。地球は、人間に宿る生命にくらべると死んでいるように見
えるが、地球もまた生きているのであり、それ自体の生命をもっているのである。この世で、万物は生
き、そして死んでいく。そしてほかの形をした生き物となってふたたび生きるのである。しかし、精神
の世界ではこれとはまったく異なる。魂は、法則にそって、段階から段階へと進化するものではない。
それは、神の慈悲と恩寵により、神に接近していく進化である」PT,P.66
「物質界のものはすべて死滅する。肉体は原子で構成されており、これらの原子が分離しはじめると分
解作用がおこる。そのとき、いわゆる死が到来するのである。肉体やそのほかのあらゆる創造物を構成
している原子構造は一時的なものである……。これらの原子の結合を保っている牽引力がなくなると、
肉体というものは存在しなくなる。魂の場合はこれと異なる。魂は要素が結合してできたものではない
し、多くの原子で構成されたものでもない。それは、ひとつの分離できない実体からできており、した
がってそれは不滅である。それはまったく物質的な創造界の秩序の外にあるもので、滅びることはない。
科学は、単一の要素(単一とは結合体でないことを意味する)は破壊できず、不滅であることを証明
した。魂は要素の結合体ではなく単一の要素であるから、その性質上、消滅することはない。魂は、ひ
とつの分離できない実体から成っているので、分裂や破壊をこうむることはなく、したがって、消滅す
ることもない。万物はそれぞれ生きているしるしをあらわす。この生存のしるしは、その生存の元とな
るものが存在しなくなると、それ自体では存在できなくなる。もちろん、存在しないものは、存在して
いるというしるしをあらわすことはできない。精神の存在をあらわすさまざまなしるしは、永遠に、わ
れわれの眼前に示されているのである。イエス・キリストの聖なる精神の証跡とその聖なる教えの影響
は、今日なお存在しており、今後も永遠につづくものである」PT,P.171
死後の魂の状態
死後の魂の状態を完全に理解することはできません。しかし、バハオラは死後の世界についてある程
度説明しています。バハオラに忠実であった人は、次の世界でお互いに認め合い、あたかもひとつの魂
のように、同じ目的と熱望をもって、親密に交じり合うと述べています。
「さて、人の魂は肉体から離れたあともつづけてお互いに認め合うかという質問に関して。深紅の箱舟
に入り、そこに住むバハの人びとの魂は、お互いに親密に交わり合い、語り合うことを知れ。かれらは、
生活、希望、目的、努力のすべての面において、深い係わりをもち、あたかもひとつの魂のようになる
であろう」GL,PP.169-170
「人びとの魂は、精神界でお互いに認め合うかどうかという質問に関して。このことは確かである。な
ぜなら、神の王国は精神の世界であり、そこでかくされていた実体がすべて明らかにされるのである。
いわんや、よく知られた魂は、当然そこで明らかにされるであろう。人は、この地上の世界で考えもつ
かなかった神秘を天上の世界で発見し、真理の秘密を知るようになろう。そこでは、この世で交際して
いた人たちをどれほどはっきり認め発見することであろうか。うたがいもなく、清らかな視力と洞察力
に恵まれた聖なる魂は、光の国で、あらゆる神秘を知り、あらゆる偉大な魂の実体を見る機会を求める
であろう。まさに、その世界で、神の美をはっきりと見るであろう。同様に、過去と現在の神の友らの
すべてが、天上の集まりに出席しているのを見いだすであろう」BWF,P.367
神の世界の精神
信仰とは
信仰という言葉の意味を理解すれば、信仰の精神を理解できるでしょう。信仰とは、教義や儀式にし
たがうことではありません。それは、漠然としたものでも、盲目的な信念でもありません。
現代になって、その意味はあきらかにされるようになりました。信仰とは、創造主と創造されたもの
の関係を認めるだけではなく、また、神の主権を意識するだけでもありません。それは、神の顕示者を
通して神と交わす聖なる約束なのです。それは、神から与えられた計画を受け入れ、進んでそれにした
がい、そのわくの中で生活することです。
その信仰により、人は精神的に成熟したことを示します。信仰の精神というのは、信仰の行為をする
ときの源泉となる力です。
「信仰とは、暗黙の従順、心からの忠誠をあらわす言葉ではないであろうか。それは、われわれが神の
意志の啓示であり、表現であると信じるものに厳格に固守することではないであろうか。それが一見ど
れほど込み入ったものに見えても、また、移ろい行く騒然たる時代のはっきりとしない見解、意味のな
い教義、粗雑な理論、空ろな想像、流行概念と矛盾したものであってもである。もし、われわれがちゅ
うちょしたり、ためらったりしたならば、もし、かれ(アブドル・バハ)に対するわれわれの愛を導き
とし、かれの道を歩まなかったならば、もし、われわれが神の力強い原則を放棄したりすれば、いかに
してこの世の疾病をいやす望みをいだき得ようか」BA,PP.62-63
自然界の秩序
人は自然界には秩序があることに気づいています。その秩序の中で、部分部分が完全に調整されて、
動いているのを見ます。太陽は昇り、雨は降り、草木は成長するのを知っています。また、空気や水や
季節があることを当たり前と考えています。
このように、人間が肉体的に必要としているものは、神から十分与えられているのです。では、神が
より重要だと見なす精神的なものは人間に与えられているでしょうか。
「神は、この世とそこに住み動くあらゆるものを創造し、何にも拘束されない至上の意志により、人間
に、神を知り、愛するという独特の特質と能力を与えた……。神は、 すべての創造物の内奥にある実
体に、神のもろもろの名のうち、一つの名の光を注ぎ、神のもろもろの属性のうち、一つの栄光を受け
入れるものとなした。しかしながら、人間の実体には、神はすべての名とすべての属性の輝きを集中し、
神自身の鏡となした。全創造物のうち、人間のみがそれほど大なる恩恵、それほど不朽の恩寵のために
選び出されたのである」GL,P.65
精神界の秩序
一般の人たちの見解とは反対に、人間は自力で進歩することはできません。人間は自分だけの力で、
神の属性や美徳を身につけることはできないのです。もちろん、人は正しいモラル上の選択をすべきで
す。しかしそれだけでは進歩できないのです。魂の力に何かがおこっていなければなりません。そうで
なければ、皿には何も食べ物がのっていないのに、最高の礼儀作法で食べようとしているに過ぎません。
それは、何の成果も生み出すことができないのに、一生懸命に努力しているようなものなのです。
バハオラの教えを守れば守るほど、親切さや正義感がましていきますが、それは、信仰の精神に宿る
無限の宝庫から神の属性と美徳を引き出すことができるからです。信仰が強ければ強いほど、信仰の精
神からの流れも大きくなります。流れが大きくなれば、それだけ信仰も強くなります。このふたつは相
互に作用するプロセスなのです。信仰の精神は神から与えられたものであり、人間の精神的発展には欠
かすことのできないものです。
「精神的に誕生した人類のひとりひとりの実体は、神の実体から出てきたものである。それは、太陽の
炎と熱と光は太陽から出てきたものであり、太陽の一部ではないのと同じである。このように、精神は
神の実体から出てきたものであり、その光輝は人間の実在または実体にあらわれるようになったのであ
る。この光線と熱は不変で、その光輝は消えることはない。太陽が存在するかぎり、熱と光は存在する。
永遠性は神の属性であるから、この放射も永遠につづき、止まることはない。人間の世界が発達すれば
するほど、神から放射される光輝はましていく。それは、石が鏡のように、きれいにみがかれたとき、
太陽の栄光と光輝をより十分に反映するのと同じである」BWF,PP.261-262
「人の魂は鏡のようなものであり、神の恩恵は太陽のようなものである。鏡が色彩の段階をこえて、き
れいにみがかれ、太陽に当たると、その光と栄光を完全に反映するようになる。この状態では、鏡では
なく、太陽の光の力を考えるべきである。というのは、太陽の光は鏡に入り込み、それを天の栄光を反
射するものとなしたからである」BWF,P.367
創造界に属さない二つの精神
創造界にはいろいろな精神があることは前に述べました。種が成長できるのは植物の精神の働きによ
ります。五官の働きは動物の精神によります。知的な働きは人間の精神によります。創造界における精
神は、エネルギーを与える力と見なされます。これらの異なった領域での精神がなければ、植物は成長
できず、動物の五官は働かず、人間は考えることができません。
この創造界の精神のほかに、信仰の精神と聖なる精神があります。このふたつの精神は、創造界に属
するものではありません。神の世界に属する勢いなのです。
この信仰の精神と聖なる精神は、人間が変わっていく源泉であり、手段です。つまり、このふたつの
精神によって人は啓蒙され、神の世界の美徳と完全性を反映できるようになるのです。信仰の精神が流
入されることによって、人の内部に精神的な変革がもたらされるのです。
神は、信仰の精神を人間のために放出されました。人間がその精神によって、自らの信仰を表明する
とき、確証が下り、報酬を受けるのです。
「第四段階に天国の精神がくる。それは信仰の精神であり、神の恩恵である。それは聖なる精神の息吹
から生まれ、神の力によって永遠の命のもととなる。それは世俗的な人間を天国の人間となし、不完全
な人間を完全になす。この精神は不純な者を純粋な者とし、無口な者を雄弁にする。それは、肉欲のと
りことなっている者を清め、聖別する。それは無知な者を賢くする」SAQ,P165
「……人間の精神は、信仰の精神の助けがなければ、神の秘密や天国の実体を知ることはできない。そ
れは、鏡がきれいに磨かれているけれども、光を必要としているのと同じである。太陽の光線が反映さ
れなければ、その鏡は天国の秘密を発見することはできないのである」BWF,P.317
内的ビジョンの力を用いて努力が必要
人の精神的な必要性を満たすものは、この世に豊富にあり、たやすく手に入ります。しかし、外的な
眼には見えません。したがって、人はどこでそれを見つけるのか、何をさがすべきか、どうしたらそれ
を認めることができるかを知らなければなりません。
幸いに、人には内的ビジョンの力がそなわっており、それを使って探しもとめなければなりません。
この魂の力により、神の言葉にかくされている意味を理解できるのです。アブドル・バハは、ただ神の
言葉に感情的に影響されるだけでは十分でないと述べました。明晰な知性と心の確信をもって、かくさ
れた意味を理解しなければならないのです。
「あなたは、天の王国の意義を把握するように、昼夜、努力しなければならない。神のしるしを認め、
確実な知識を得、この世界には創造主、蘇生者、供給者、建築者が存在することを認識できるように努
力しなければならない。このことを、感情ではなく、証拠と証明によって知るべきである。いや、むし
ろ、明確な議論と真の洞察力を通して知るべきである。つまり、外的な眼が太陽を見るように、はっき
りと心に描くべきなのである」DAL,P,100
「まことに、神は視力よりも洞察力を好まれる。なぜなら、視力は物質的なものを見るが、洞察力は精
神的なものを理解するからである。前者は地上の世界を目撃するが、後者は神の世界を見る。前者の判
断は一時的であるが、後者の視力は永久的である」DAL,PP.14-15
信仰の精神は精神的発達に不可欠
信仰の精神は眼に見えないものですが、人間の精神的な発達に欠くことのできないものです。信仰の
精神から人は神の属性と完全性を引き出します。つまり、信仰の精神は人間が精神的に発達するために
必要なものを満たしてくれる倉庫といえます。
ひとつの倉庫には確信が満たされており、ほかの倉庫には神の属性が保存され、人がそれらを使うの
を待っているといえばわかりやすいでしょう。
しかし、信仰の精神は、天上の世界の精神であるために、形はなく、空気や水のように人間に流れて
くるものではありません。それは、鏡に光が映るように、人間の中にあらわれるものです。鏡がきれい
に磨かれれば磨かれるほど、光をより引きつけるように、人がバハオラの教えにしたがえばしたがうほ
ど、信仰の精神を引きつけるのです。
アブドル・バハは、聞き手が理解できるように、しばしば類推を用いて説明しました。あるときは、
内的な心意を通してのみ理解できるような言葉や句を用い、聞き手がかくされた意味を自ら発見するよ
うにしました。アブドル・バハは、神の世界の富は、それを真剣に求めるものに与えられるということ
を示しました。
探求が真剣であればあるほど、それだけ大きな報酬が得られるのです。かれは、信仰の精神の特質や
その構成要素について説明しましたが、その意味は、外的な能力では理解できません。なぜなら、その
意味は、大業への奉仕によって強められた人だけに与えられるものだからです。
奉仕の行為のみが精神的な成長をうながします。バハオラの教えにしたがうことによって、信仰の精
神を魂に反映させることができるのです。
信仰の精神の構成要素
つぎのアブドル・バハの文から、信仰の精神の四つの要素を認め、描写し、関連づけて、自分の内的
ビジョンの機能をためすのもきわめて興味深いことです。
「しかし、神の世界から来る信仰の精神は、すべてを包含する恩恵と、最高の達成と、聖別された力と、
真理の太陽から来る神の光輝から構成される。これらは、神の一体性の面前から来る光を求める実在を
照らすものである。そして、この聖なる精神によって人間の精神に生命が吹き込まれ、それによって強
められたとき、キリストが述べたように、『聖なる精神より生まれた者は聖なる精神』なのである」
BWF,P.371
信仰の精神は創造界の精神と異なります。その四つの構成要素は、人間の精神的発達の手段を与えま
す。第一の要素は、すべてを包含する恩恵で、これは内的ビジョンの機能を拡大するものです。第二は
最高の達成で、これにより確信は深まります。第三は聖別された力で、これは親切、正義、正直、愛、
慈悲などの神の属性を強めるものです。第四は、神の光輝で、啓蒙された人間(光を求める実在)は顕
示者(神の一体性の面前)を通して、聖なる精神(神の光輝)の強力な反映を受けます。
人はこの信仰の精神を通して精神的成長を遂げます。信仰の精神なしには、人は物質の段階にとど
まったままです。この地上で精神生活を送るためには、信仰の精神が必要となります。
信仰の精神の説明
アブドル・バハは、信仰の精神についてわかりやすく説明しています。つまり、人間は、植物、動物
および人間の精神を与えられているけれども、信仰の精神がなければ、人間の本当の目的、すなわち、
精神的な存在になるという目的を達することはできないと述べています。
ここで信仰の精神を要約するとつぎのようになります。
一 植物の精神、動物の精神、人間の精神はいずれも、創造界(物質の世界)における勢いです。し
かし、信仰の精神は、神の世界に属する力です。
二 信仰の精神は、人間の精神的発達に必要なものを与える源泉です。それにより、内的ビジョン
の機能は発達し、確信は強められ、美徳を身につけ、より強力に聖なる精神を反映することが
できるようになります。
三 信仰の精神は人間に大きな影響を与えます。神がその精神をある魂にあたえると、バプテスマ
のヨハネやエリヤのような人が出てきます。信仰の精神に背を向けるとき、人は死んだと同然
になります。
四 バハオラの教えにより忠実にしたがえばしたがうほど、より強力な信仰の精神を受けます。
「……人間の精神には限界がある。人間の精神は、人間という身分を超えた世界の現象を理解すること
はできない。なぜなら、それは人間という存在段階において機能する能力と生命力にしばられているか
らである。したがって、その限界を超えることはできない。しかしながら、神に属すると言われるもう
ひとつの精神がある。それは、イエス・キリストが、人はその生命を与える力で生まれ、その生きる火
で洗礼を受けなければならないと述べたものである。この精神に欠けた魂は、人間の精神をもっていて
も死んだものだと見なされる」RM,P.36
「人間の精神は物質的なものによって啓蒙されたり、生命力を与えられることはない。この世の事物の
現象を調査しても蘇生させられることはない……。物質的な進歩はランプのガラスで、一方、神の美徳
と精神的な感受性は、ガラスの中の光にたとえられる。ランプのほやは、光がなければ役に立たない。
同様に、物質的な状態にある人間は、神の美徳と慈悲深い属性の光輝と生命力を必要とする」DAL,P.43-44
人間の精神の発展段階
一 死んだと同然の状態
人間の精神状態は、神の世界の勢いまたは力(すなわち信仰の精神と聖なる精神)に直接関連し、
またそれに依存するものです。このふたつの精神は、人間の精神的な発達に必要なものをすべて
供給します。人がこのふたつの精神なしに生きようとすれば、無意味な存在となります。という
のは、生きていく基準は、自分が定めたものであり、自分の欲望によって変わっていくものであ
るからです。何かを成し遂げようとしても、虚栄と無知の暗やみのなかでつまずいてしまいます。
そういう人は、誇りと尊敬、想像と洞察力をとり違えます。また、利己主義と物質主義の世界に
住むため、それから来る苦しみで悩まされます。この状態は、精神面から見た場合、死んでいる
と見なされるのです。
二 再誕生
人が顕示者を認め、その教えにしたがいはじめるとき、精神的な再誕生を迎えます。信仰の行為
は、信仰の精神を引きつけ、理解も深まっていきます。確信も深まり、より親切になっていきま
す。以前には感じなかった心の輝きを感じ、生活も変わってきます。つまり、肉体的な世界から
精神的な世界へのしきいをまたいだのです。この状態が精神的再誕生です。
三 精神的な成熟
精神的な再誕生から精神的な成熟にいたる道は永遠につづきます。日常の生活で、バハオラの教
えに対する理解を深め、その教えにしたがい、物質的な性格を精神的な性格に変えていく努力を
し、大業を優先することによって人の精神は発達していきます。
聖なる精神
聖なる精神は、信仰の精神を通して人間に精神性と精神力を深めるものを与えます。そして、聖なる
精神を通して神は自らの知識、権威、主権、属性、再生力を人間にあらわします。聖なる精神がなけれ
ば、この世は啓蒙されることはなく、まったく野蛮の状態のままとなります。人間は個人としても、人
類全体としても、この聖なる精神に完全に依存するのです。聖なる精神だけが、人間とその社会に行動
の基準や平和な共同体建設のプランを与えることができるのです。また、それを実行する活力も聖なる
精神によって与えられます。
人間の知的、精神的な成長、および共同体の発展は、聖なる精神の出現と同時に起こりはじめます。
聖なる精神が出現するごとに、人類は肉体的、物質的な存在から精神的な成熟に向かって少しずつ進歩
していきます。また、共同体のプランも、家族、部族、都市国家、国家、そして世界単位へと徐々に発
展していくのです。
「……人間の精神は物質的なものによって啓蒙されたり、生命力を与えられることはない。この世の事
物の現象を調査しても蘇生させられることはない。人間の精神は、聖なる精神の保護を必要としている。
人が単なる物質的な生存の世界から知的な世界に段階を経て進歩していくように、モラルの特質と精神
的な美徳においても向上していかなければならない。これを達成する過程で、人は聖なる精神の助けを
たえず必要とする」DAL,PP.43-44
「聖なる精神があらわれるごとに、世界は一新され、新しい周期がはじまる。人間界という身体は新し
い衣を身につける。これは春にたとえられる。春が来るたびに、世界はひとつの状態から別の状態に変
化していく。春の季節の到来によって、黒い大地や野原や荒野は青々となり、花が咲き乱れる。さまざ
まな花や甘美な香りをもった草が育つ。木々は新しい生命を得、新しい果実が。そして、新しい周期が
はじまるのである。聖なる精神の出現もこれと同じである。それが出現するごとに、人間界は一新され、
人間の実体に新しい精神を与える。それは存在の世界を称賛すべき衣で飾り、無知という暗黒を散らし、
美徳の光を放つのである」SAQ,PP.165-166
人間と神の結びつき
聖なる精神は、神の代理と見なすことができます。人は、聖なる精神を通して神の主権と権威を認め、
神の恩恵を受けるのです。
神は、神の顕示者に聖なる精神を反映させ、その代弁者となすのです。人間は、不可知の存在である
神と直接に交信することはできないので、聖なる精神が仲介者として必要なのです。顕示者の力は聖な
る精神の力で、顕示者自身には力はありません。顕示者は、交信者であり、伝達者であり、反映者です。
聖なる精神がもたらす神の意志は、顕示者を通して人間に伝えられます。
「神の実体は、思考を絶したもので、無限で、永遠で、不滅で、眼に見えないものである。創造の世界
は自然の法則でしばられており、限りがあり、滅ぶべきものである。この神という無限の実体は、上昇
したり、下降したりするとはいえない。それは、人間の理解を超えたものであり、創造された自然界で
用いる言葉であらわすことはできない。したがって、人間は、神の実体から援助を受けるために、唯一
の聖なる力をひじょうに必要としている。この聖なる力だけが、人間を万物の生命の源に接触させるこ
とができるのである。極端と極端にあるものを相互に関係づけるには媒介となるものが必要である。媒
介となる力がなければ、富める者と貧しき者、豊かなる者と窮乏者という相対するものを関係づけるこ
とはできない。
したがって、神と人間の間に媒介者がいるに違いないと言えるのである。それが、聖なる精神にほか
ならない。それこそが、創造された地球を、[思考を絶した]存在である神の実体に結びつけるものであ
る。神の実体は太陽にたとえられ、聖なる精神は太陽の光線にたとえられる。太陽の光線は太陽の光と
暖かみを地球にもたらして、全創造物に生命を与える。同様に、顕示者も神の実体の太陽から聖なる精
神の力をもたらして、人間の魂に光と生命を与えるのである……。聖なる精神こそが、神の予言者を媒
介として、人間に精神的徳性を教え、永遠の生命を得させるのである。人の魂は、神の顕示者に聖なる
精神から恩恵を受けるのであり、顕示者の人格から受けるのではない。このことは明らかである」
DAL,P.43
顕示者と神との交信
神の国に属する聖なる精神は、顕示者にあらわれる精神です。創造界に属する人間の精神は、人間に
あらわれる精神です。顕示者と人間を区別するものは、顕示者にあらわれる聖なる精神です。顕示者に
は、聖なる精神のおどろくべき力が十分に与えられていますが、人間には、その一片しか与えられてい
ないからです。
人間は、この世に生存中に、聖なる精神より力を受け取るようになっていますが、それは自ら努力し
て得なければなりません。神の意志にどれほどしたがうかの度合いに応じて聖なる精神を受け取るので
す。聖なる精神の力が、人間にあらわれるのは、空気を吸ったり、水を飲んだりするのと全く異なりま
す。むしろ、鏡に映る光のようなものだといえます。つまり、人の魂は鏡で、聖なる精神は光と見なさ
れるのです。
「神の実体は太陽にたとえられる。太陽は壮大なる高みから、あらゆる地平線上に光を投げかける。す
べての地平線とすべての魂はその光の分け前を受け取る。この光がなければ、生き物は存在しないであ
ろう。万物は何かを表現しており、それぞれ光の一部を受け取る。神の完全性、恩恵、属性の輝きは、
完全なる人の実体から輝き出る。すなわち、特殊な人物である至高の神の顕示者から輝き出るのである。
ほかの生き物は、ひとつの光線のみを受け取るが、至高の顕示者は、太陽の鏡であり、太陽の完全性、
属性、しるし、奇跡をすべて鏡のうちにあらわすのである」BWF,PP.322-323
「おおわが神よ、あなたを『すべてを認識する者』として述べれば、最高の認識をあらわす人たち(神
の顕示者)は、あなたの命令によって創造されたことを認めざるを得ない。また、あなたを『すべてに
賢き者』として称えれば、英知の泉である人たちは、あなたの意志の力で生み出されたことを、同様に
認めざるを得ない。そして、あなたを『比類なき者』として宣言すれば、一体性の内奥の精髄である人
たちが、あなたから下され、あなたの創造の証拠であることをすぐ発見するのである。さらに、あなた
を『万物を知る者』として歓呼すれば、知識の真髄である人たちは、あなたの目的を達するために創造
されたものであり、手段に過ぎないことを告白しなければならない」GL,P.3
人間の顕示者への依存
顕示者の知識は、人間の知識とは異なります。聖なる精神の援助がなければ、人間の知識は創造界の
存在物と事物に限られます。人は、理解や知識を得るためには、まず、調査し、それから論理的な知的
過程を経なければなりません。
一方、顕示者は最初から知っています。つまり、創造界の存在物と事物だけでなく、神の国の神秘や
状態について知っているのです。人間の知的な能力は、調査の能力であり、それを用いて知識を得ます。
顕示者の知識は、神の知識であり、修得したものではありません。それは天賦のものであり、限定され
たものではありません。
人が、顕示者のもたらす知識を受けなければ、その人は一冊の本とひとりの遊び友だちを与えられ部
屋にとじ込められた子どもと同じ状態です。その子どもの知識は、一冊の本と遊び友だちから得たもの
に限られます。つまり、その本が子どもの知識の全部で、友だちが経験のすべてです。
人間が知ることができるものは、調査による発明と、理性による発見だけです。人間の知力は存在物
の属性を明らかにするだけです。人間が、顕示者のモラル上の教えにそって行動しなければ、憎しみ、
貪欲、利己主義、自己満足の欲望で満たされた暗い歴史を作ることになります。神を見つけようとする
試みも、顕示者の知識を無視すれば、自ら神を発明することになります。こうして発明された偶像を崇
拝することにより、人間は石を拝むところまで下がってしまいました。
アブドル・バハはこれに関して「石の偶像はすくなくとも鉱物としての存在があるが、人の思考と想
像から生み出された偶像は幻想にすぎない」と述べています。
調査と理性により、人は肉体面と知性面を理解することができます。しかし、自分の力だけでは、自
分を知ることも、自分の目的を知ることもできません。なぜなら、人間には肉体と知力を超えたものが
存在するからです。
人間の実体を構成するものは魂ですが、知力だけでは魂の力を理解することはできません。顕示者の
知識によってのみ、それが可能になるのです。
神は人間に魂を与え、同時に聖なる教育者を下して徐々に魂の特性を解明してきました。そして、人
間が自らの魂を発達できるようにしたのです。人は、信仰の精神により、聖なる精神にふれ、自らの精
神的実体についての知識を得、それを理解しようと努めます。
「自然界の知力は、調査の力であり、その探求によって存在物の実体や特質を発見する。しかし、自然
を超えた天の知力は、万物を包含し、感知し、知り、理解する。そして、万物の神秘、実体、聖なる意
義に気づいており、また神の国の秘められた真理を発見する。この神の知力こそ、聖なる顕示者と予言
者といわれるものの特質である。この光の光線は公正なる人びとの心の鏡にさし込み、この力の一部と
その分け前は聖なる顕示者を通してかれらにもたらされる」SAQ,P.253
「……至高の顕示者は、創造物の本質と特性を包容し、存在物の実体を超越しながらもそれを含み、万
物を理解する。したがって、かれらの知識は神の知識であり、修得したものではない。つまり、それは
聖なる恩恵であり、神の啓示である。この問題をはっきり理解するために、一例をあげよう。地上で
もっとも高貴な存在は人間である。人間は、動物界、植物界、鉱物界を包容している。つまり、これら
各界の状態は人間の中に含まれており、これら各界の条件と状態の所有者と見なされるほどである。人
間は、各界の神秘とそれらの存在の秘密に気づいている。これは単に一例であり、類推ではない。簡単
にいえば、至高の顕示者は、万物の神秘の実体を知っているゆえに、人間界の状態に適した法律を制定
する」SWQ,P.181
顕示者の二つの目的
顕示者は聖なる精神の力を通してのみ、神の計画を人類に示し、それを達成できるのです。各時代に
あらわれた顕示者は、その時代の人びとの能力に応じて知識を与え、精神性を発達させ、文明を進めて
きました。現代は、内部にかくされている潜在能力を引き出して、世界秩序を築く時代です。
バハオラのうちに聖なる精神があらわれなかったとすれば、この世界秩序の建設は不可能なことです。
というのは、人間は神を直接に知ることはできないし、また何をすべきかもわからないからです。
「神が予言者を下す目的にはふたつある。ひとつは、人の子らを無知という暗黒より解放し、真の理解
の光に導くためである。つぎに、人類の平和と平穏を保証し、それを確立するためのあらゆる手段をそ
なえるためである」GL,PP.79-80
「前述の章句や引喩より、つぎのことが疑いの余地もなく明らかにされた。すなわち、天と地の領土に
おいては、聖なる人物、精髄のような人物が出現しなければならないことが明らかにされたのである。
その人物は、神の恩恵を伝えるために、顕示者および媒介者として行動する……。この真理の昼の星で
ある人物の教えにより、すべての人間は、心の内奥にある真の自己に与えられている潜在力をすべてあ
らわすことのできる地位に達するまで進歩し、発展していく。まさしく、この目的のために、あらゆる
時代と宗教制において、神の予言者と神より選ばれた人びとが人間の間にあらわれた。そして、神のみ
が生み出すことのできる大いなる力と、永遠なる者のみがあらわすことのできる威力を示したのであ
る」GL,PP.67-68
周期ごとにあらわれる聖なる精神
聖なる精神はつねに存在しているが、顕示者が出現する時期には、その流れが激しくなります。この
流れの激しさは人間の心意と魂に影響をあたえ、精神と知性の発達をうながします。大文明を興すこと
は、予言者の証拠のひとつです。
聖なる精神は、人間の心と文明を変えますが、それには三つの面があります。第一は、顕示者の教え
にしたがった人たちに与える直接的な影響。第二は、人類一般を変え、かれらを神の意志にしたがって
行動させること。第三は、為政者や指導者をはじめとする顕示者の教えを無視した者たちが神の導きと
いう恩恵をうばわれ、間接的な報復を受けること。
為政者や指導者は、おうおうにして利己主義と物質主義に動かされ、誤りやすい心意に頼り、まち
がった決定を下すのです。最後には、自らの没落をもたらし、同時に、制度も国家も崩壊してしまいま
す。その廃虚のなかから、新しい秩序が築かれていくのです。
「各時代に与えられる神の恩恵の分け前はあらかじめ定められているが、神の顕示者が出現した時期は、
独特の卓越性を与えられており、だれも理解できない地位を占める」GL,P.263
「……聖なる神の顕示者が、精神、思考、心の世界を照らすとき、精神的な春と新しい生命がらわれ、
すばらしい春季の力が眼に見えるようになり、おどろくべき恩恵が明らかになる。だれもが気づいてい
るように、神の顕示者があらわれるたびに、心、思考、精神の世界におどろくべき進歩が生じた。たと
えば、この聖なる時代に、心と思考の世界にどれほどの進歩があったかを見よ。しかも、それはまだ夜
明けがはじまったばかりである。まもなく、新しい恩恵と神の教えがこの暗い世界を照らし、このみじ
めな地域をエデンの園に変えるであろう」SAQ,PP.186-187
精神的進化の基礎
人間が精神的に進化するために、神は完全なプランを示します。神は人間に魂を付与し、信仰の精神
と聖なる精神を通して、その発展に必要なものを与えます。
神は顕示者に、聖なる精神を強力に反映させますが、人間には一部しか反映させていません。同時に、
人間は自分に欠けているものを顕示者のなかに見いだします。そして、必要なものを聖なる精神から受
け取ることができるのです。そのとき、信仰の精神は、聖なる精神にとどくためのかけ橋になります。
人は、顕示者の教えにしたがえばしたがうほど、聖なる精神を自分の中により強力に反映できるように
なります。
人がいつ、どのように強力な聖なる精神を受けるかは、きわめて明白です。その証拠はまちがいあり
ません。聖なる精神が、人の魂にとどくと、その人の心には、神の大業に奉仕したいという願望がわき
あがってくるからです。そのとき、人の知識と理解は深まり、気持ちは高揚され、幸福感で満たされま
す。また、神に近づきはじめたことを意識しはじめます。
「これ(聖なる精神)は、強力な精神であり、眼がくらむほどの光であり、輝く星である……。そして、
四方八方に広がったその証跡から、あなたはその効果を知り、認め、その光輝を理解するであろう。神
の援助で、あなたがその芳香を嗅ぎ、その微風で動かされ、その赤熱のもえさしで燃え立ち、その明る
さで照らされるようにこん願する。それに完全に顔を向けよ。そうすれば、あなたはその影響と力、そ
して、その生命力と大いなる援助の力を確認できるであろう。まことに、わたしはあなたに告ぐ。もし
あなたが、聖なる真髄である人物の出現について、確かな証拠と、議論の余地のない証明と、納得でき
る証拠を望むならば、心を空にし、眼を神の国にのみ向けて準備しなければならない。そうすれば、広
範囲にいきわたった光の輝きは、つづけざまにあなたに下されるであろう。そして聖なる精神から与え
られた刺激により、あなたは、この聖なる光の出現に関して、ほかの証拠は何も必要としなくなるであ
ろう。なぜなら、聖なる精神の豊かさを人に示す最大の証拠は、その力と影響が人にあらわれることに
ほかならないからである」BWF,PP.368-369
結論
魂、心意、精神の力についての探究も終わりにきました。はじまりの点であった神に、ふたたび戻っ
てきました。神の意志とは何であるかを考えることは、神が顕示者を通して人間に与えたプランを再検
討することです。歴史を通じて、プランの原則は変わっていません。変わったのは、そのなかの細部だ
けです。顕示者はすべて人間に、個人として、集団として、何をすべきかを教えてきました。
人間がある段階にまで精神的に成長し、より高度な文明を築く準備ができると、神は顕示者を下し、
必要な知識をもたらします。バハオラは、現代に下された神の顕示者です。そして、人は、バハオラを
認め、その法と教えにしたがうことによってのみ、現代人に与えられた神の意志を知ることができるの
です。
「神が、そのしもべらに定めた最初の義務は、神の啓示のあけぼのである方、神の法の源泉である方、
神の大業の王国と創造界において、神の地位を代あらわする方を認めることである。だれであれ、この
義務を果たした者は、すべての善を得たことになる。そうでない者は、どれほど公正な行いをする者で
あっても、道に迷った者である。この最も荘厳なる地位、このすべてを超越した栄光の頂に達した者は、
世界から望まれる方の法令のすべてにしたがわなければならない。この二つの義務は分離できないもの
で、片方だけを受け入れることはできない。聖なる霊感の源である方はこのように定めた」GL,P.330-331