注:この文書は校閲を受けていない非正式の訳です。暫定版としてお使いください。ただし、暫定版と明記してお祈りの会や学習等に使用できます。
Note: This is a provisional translation, not officially reviewed
or approved by the National Spiritual Assembly. However it may be used for
devotional gatherings and other similar purposes while indicating clearly these
are provisional translations.
人生の処方箋
序文
この本の中に提唱されている考えは、それによって他の人々が風向きを見るようにと風の中に投ぜられた麦藁の役割として著されたものです。これで全てが語りつくされているわけではありませんが、取りかかった途方も無く多数の問題を扱い始めています。
その考えは強い確信をもって著者によって提唱されています。その確信と申しますのは、私達は現在、有史以来このかた、今日に至るまで、人々を脅かしてきたどれよりも深刻で重大な政治的、経済的、社会的問題に巻き込まれておりますが、この惑星が外見的には希望の無い状況にあるにも関わらず、すなわち、私たちを取り巻く暗い地平線にもかかわらず、私達は、たとえどんな災難が私たちを飲み込みそうになっても、一人一人が最善の努力をしてそれを、わきへそらし、少なくともある程度で食い止めることが出来るし、またそうすべきであるという確信なのです。
私達は飛行機や衛星、ロケットで距離を乗り越えることができます。ラジオ、テレビ、レーダー、レーザー光線その他近代科学の発明品で時間を節約します。全ての人々が機械による大量生産の効果的な働きで、楽しむ時間をつくることが少なくとも理論的には可能です。原子核を分離し、建設や破壊のための目もくらむような力を放出することも出来ます。私たちが行っているあらゆることを行う方法があるのに、人間を啓発せしめ善良で、幸福な生き物とする方法がないとは考えられません。
今日の私たちの世界以上に悲劇的な世界があったでしょうか。どこに私達は、平和や正義、そしてあらゆる物の中で最も待ち焦がれ、探し求めてきた精神の平静や幸福感などを見ることができましょう。私達の持っている楽しみ、気晴らし、娯楽の渦など何でもかんでも私たちを忙しくして、実際いつも、皆の意識にのぼりかけている考えを私たちが考えてみる時間を奪っています。それは私たちがひどく不幸であり、運命の瀬戸際をさまよい、将来の希望が見出せないという意識です。
しかし、将来への希望はあると私は思います。いやそれどころか幸福な個人生活と、幸福な全世界的生活を織り成す完璧で具体的な方法があります。私たちが用いる唯一の道具は私たち自身です。私たちに現在直面している問題は全部私たちが作り出したのであり、全ての人々の問題をひどい混乱の中に陥らせたものです。すなわち、地球上のあらゆる大陸での無数の誤った実りの無い小戦争のみならず、20世紀の二つの大きな信じがたい程破壊的な世界大戦を戦った私たちでした。私たち人間はこの状況を改善しなければなりません。私たちにかわってそれを行う外部からの力はないでしょうし、あるはずもありません。
私たちを現状に導いたのは何が欠けていたのか自問しなければなりません。どんな風にして失敗したのでしょうか。ばかでかくて扱いにくい世界の人々の群と比較して考えれば、私たちは個人的にはとるに足りない存在ですが、その私たち一人一人が、本当に将来の出来事に影響を与える事が何か出来るのでしょうか。答えは可であります。なぜなら、自然の作り出した最も素晴らしいものは人間だからです。善も悪もみな、創造の力も破壊の力もみんな人間の中にあるからです。
人間こそは真に、天国と地獄への鍵であります。なぜなら彼が力や能力を向ける方法によって将来起こることは決まるからです。これがいかに真実であるか見るためには、世界史上でどの位の違いをたった一人の男が作るものか、エイブラハム・リンカーンが故国のために行ったことを比較しさえすればよいのです。
危機は私達の問題の中で明らかに激しいのですが、私達はその嵐を通過し、向こう側の練磨されたよりよい人類へ到達することが出来るし、またそうするでありましょう。
しかし、どの位長く私達の苦悶は続くのでしょう。いつになったら、現在の生みの苦しみにあえぐ胎内から将来への重荷を投げ出すことができるのでしょう。いつ、その将来の利益が全ての人に達するのでしょうか。これらの問題は、私達の手の中、すなわち、あなたがたのそして私の、一人一人の手の中にあるのです。
進化は、ひたいが突き出て、不器用で、明瞭に物を考えられない猿のような人間から進歩してきましたが、突然に止まって私たちが今のままでいるということはないでしょう。
そんなことを考えたら自然の法則の曲解ということになりましょう。それどころか進化は、私達の進歩を助長し続け、おそらくは、私たちの人間性における発展を信じがたい程の高さにまで至らしめるでありましょう。
しかし、どの程度速く、あるいはゆっくりと進行するかは、個人的にみても、人類全体からみても、私たち自身にかかっております。
この本は、まさに、その表題が表しているように、生活の処方箋を提供せんがために書かれたものです。人は病気の時、薬を飲みます。私達は、ひどい病気の種、人類の一員です。不健康な環境である社会に住んでおります。私たちが、精神衛生と呼ぶことのできる法則がありますが、もし私たちがそれに従うならそれは、私たちがモラルや精神の健康を個人的に取り戻す 助けとなるでしょうし、私たちを、社会の構成要素として変化させることによって、私たちみんなの社会をすべての点でよりよいものとすることができるでしょう。これらの法則は、この本の中では手短に扱われております。
今日では、あらゆるものが巨大になり、大きなスケールで起こっているので、私たちは無力感でいっぱいです。結果を調べるために個人的に猛烈な努力をすることが、実りの無いエネルギーの無駄と思える程のペースで、私達は、出来事の潮流の上で急がされています。私は、世界中の大部分の人々がぬかりなく、現在の政治の動向を見ていると思います。第二次世界大戦後、人々は、国際協力の新しい時代が苦しみや、死のにがい灰の中から起こることを希求し、夢見ておりました。悪しくも、二度目の世界大戦を防ぐことに失敗した国際連盟からは、はるかに進歩した国際連合は、新たな、永遠の平和を守る保護機関として、歓迎されました。それにもかかわらず、新しい武力同盟が形成され、新しい誤解が一夜にして発生し朝刊の見出しとして現れます。
普通の人は、隣の人が、敵であろうが、味方であろうが、その人々に押し合わされているように感じています。科学が、ほんのすぐ隣といえるほどに縮小させてしまったこの世界の中で私達はみんな、身をすりあわせています。私達は今、もしそれ以上の動機がないなら、自己保存のために、昨日の敵にさえ、よい隣人になるべきだとはわかっております。しかし、そうはなれそうもありません。嫌悪と、誤解の壁は、お互い、日増しに高くなっています。どこで方向転換しましょうか。
答の一つは、みなさん自身の方へ向きなさいということです。全ての答にはとうていなりませんが、それは将来の世界のどんな安定のためにも欠くことのできない、絶対の、基本的必須事項なのです。私達は人間にならねばなりません。百年程の間確実に失ってきた生きる術を取り戻さねばなりません。
目下のところ、世界を客観的に見て、地球には、動物と、人間という環境不適応の奇妙な種が棲息していると言えそうです。というのは、私たちは、精神の輝きと、性質の気まぐれとによって、私たち自身の種を(他の種も同様に)滅亡させようとしており、私たちの期待にそって生きていないのが確かだからです。私たちは、私達の種がそうあるべきもの、つまり創造の王たりえません。私達は今のところは、ただの、あわれな、ぞっとするような、創造的な環境不適応者にすぎません。私達は、どうしてそうなってしまったかを考えて、手遅れにならないうちに、私達の行動能力を鍛錬して、正しいチャンネルに戻さねばなりません。
第一章 災いの種は私たちのもとに
今日、人々は、自分の生活に、また、自分たちが暮らしている世界に大きな不満を抱いています。その人の社会的な地位がどうであろうと、仕事が何であれ、その収入や余暇の過ごし方がどうであろうと、不満はあらゆる方面に聞こえます。人々の非難が経済的状況に向いていない時には、政治的状況が非難の対象であったりします。教会が人々の罪を贖うことがなければ、その時は、ある階級の人々が私たち人類の直面している、不幸な状況の非難の矢面に立たされます。たぶん、災いの種のほとんどは、私たちの身の回りにあるとは、思いもよらないように見えます。実際、私たちこそがもめごとの原因ではないでしょうか。
私たち程裕福な世代は、今までにありませんでした。かって私たち以上に多くを所有して、地上に立ち、空を見上げた人はありません。海も、空も、物質を構成している原子までも私達は掌握しています。そして日増しにそれらを強く支配してゆきます。私たちは大空を旅し、何も無いところを目にみえぬメロディーで充たし、原子核をもかいま見るのです。光をも利用します。それなのにまだ、悲惨なほどに不満だらけで不幸せです。
私たちの胸の中にはガンがあるようです。
それが私たちの才能の果実を若くし、私たちの心の平静や情緒の安定、それに自分の複合自我内で生きる力や、仲間と一体になって生きる力を奪っていきます。
私たちは、西洋文明という、強力な文明を作り上げました。それは急速に、世界の果てのすみずみまで広がっています。しかし、この巨大な構造物は、それが勝ち得た進歩、有利さ、便利さによって、私たちを滅ぼしてしまいそうです。現在それは、私たちに、フランケンシュタインの影を投げかけています。
それは、私たちによって創られていながら、私たちをその被造物にしてしまうかもしれません。そして、私たちと西洋文明の両方とも破壊してしまうかもしれません。
それは、この二大文明がフランケンシュタインの怪物のように魂のないものだからでしょうか。それとも、それは、私たちが自然を征服し、それを支配している法則を調べ、その力を誘導することに夢中になっていて、たぶん、私たちの文明を支配する一組の法則をもっていることをすっかり忘れてしまっているからでしょうか。そして、自分の性質や、自分達がおかれていて利用している世界との真の関係を理解することを怠っているからでしょうか。
どこかに基本的な不適応が存在します。
何でも所有している私たちが何も持っていないのです。私たちの祖父母が知っていた内面的な安心感もなければ、いわゆる「暗黒時代」の人々の持っていた精神的信念もありません。今の私たち以上にすばらしい考えや計画を人々が持っていた時代はありませんが、生命がこれ以上安っぽく扱われ、みながこれ以上悲惨な死や、惨めで不安で不毛な存在の危機に瀕していてすべての基準がこんなにむなしく無用のものである時代もありませんでした。
この美しい世界が地獄になっています。
そしてもし私たちがそれに気づいていないとすれば、それは、ただ気づきたくないからなのです。私たちは自分を騙しています。
20万の一般市民が彼らの街の上空に落とされた一個の原爆の目もくらむ閃光のもとに一掃され、人口の多い街が一夜にして、煙の立つ廃墟となってしまうのです。一人の妊娠中の女性が戦闘機のパイロットになることもあります。17歳の少女が150人の敵を殺害するゲリラの英雄と賛えられ、10歳の男の子が狙撃や破壊行為によって高位の勲章を授与されることもあります。あちこちで罪のない人々が捕虜となって捕らえられ、拘留されて残虐に殺されます。今こそ私たちが今日持っているものを生活とよぶことができるのか、そして、それは私たちをどこに導こうとしているのかを自問する時なのです。
自然は私達に比較すればこの上なく良いものに思われます。みぞれや雨、雪の中、熱帯の太陽のあぶられるような光の中、むっとする密林の中でさえ、私たちの無秩序で狂気じみていて、厄介な生活方法に比較すれば、釣り合いや目的が明白であります。世界のどこかでひどい小さな戦争があったり、ひどい内戦が荒れ狂っていても、夜になると、破壊された何千という生命や家庭の上に、星が穏やかに輝いていることは、ほとんど信じられないような出来事です。鳥は銃声が轟き、サイレンが鳴り響いた直後に木の下でさえずることができるのはどうしてでしょうか。終わってみれば、全く平静だったとわかる、大きな秩序ある自然のリズムとは全くあいいれない、恐ろしい悪夢の中で私たちは生きているとしか思われません。私たちの地球は、永久に回転し、宇宙の計画という綱に結び付けられています。すべては法則に支配されたひとつの大きな全体に統一されています。しかし、人間の世界には、無秩序、不一致、大きな矛盾、浪費される限りない富、乱用される限りない力、力による支配を行うための破壊に役立つ恐るべき組織があります。
そして今なお、病気は私たちの内部にあって外部にあるのではないということに全然気付いていない様です。人類全体が特定の治療法に固執しております。ある人は、救済法は民主主義だと信じ、またある人は、救済法は共産主義と確信しています。この問題を解決することが出来るのは国家社会主義だという人もあります。必要なことは経済の調整だけだというグループもあれば、社会的な面を強調するグループもあります。しかし、教育的な面などを強調するグループ等もあります。第一次、第二次世界大戦で戦った国はどれも、多かれ少なかれ宗教的でありましたが、それぞれが、その国の神に、力や勝利を求めましたが、宗教は、これらの戦争を防ぐことも、また当時の形では、一人一人に、人々は、禁欲と、あきらめをもって彼らの死に出会うのだと信じささえになる以上のことも出来ませんでした。全ての人々は兄弟(同朋)であり、協力して国際協調の組織を作り上げねばならないというような理想的性質を持つ最も普及した概念と並行して、人間社会が今までのうち最悪の状態にあることを私たちは知っています。そして警鐘の大きな原因は、人々の心の中に忍び込んできたある冷淡さであり、一種の辛らつらさであり、私たちが、慈悲、同情、寛大さの温情を持っているにもかかわらず存在する、昔ながらの冷笑癖であります。世界の大多数の人々は今日、長続きする平和が可能であると本当に信じているのでしょうか。生、自由、幸福の追求がすべての人々に報われるのでしょうか。世界の民族がお互いに憎しみあうことを止めることができるのでしょうか。人類が最も高い意味において宗教的になれるのでしょうか。人々は、そうしたことを求めて働こうと自分自身に注意しておりますか。答は明らかに否であります。彼らはそれらに確信を持っていませんし、それらをやってみて実現しようとする意図は毛頭ありません。人類は今なお、自分のことばかり考えています。
この自分の利益に夢中になっている人、彼は何者でしょうか。生物学的に彼が何者かは明らかですし、心理学的にも彼が何で出来上がっているかは明らかです。しかし、こんなことは、人間に関することの中で難しいことではないかわりに、希望を抱かせることでもありません。彼を人間的にしているものが問題の核心になります。何によって彼は人間的になっているのでしょうか。そして、その人間的にしているものとの関連において人間はどのような行動をすべきでしょうか。今日の世界には、途方もなく大きい不適応が存在します。人々は、人間を支配している法に従って生きてはいけません。彼らは内部が病んでいて、ゆがんでおり、栄養失調で発達が悪いのです。当然結果は混沌状態です。滑らかな平面であるべき所が、いわゆるデコボコの表面になっています。まっすぐであるべきものが曲がっています。静かであるべきものが煽動でわきかえっています。あらゆる事が私たちの思うようにいきません。すべてが逆で、問題は全部もつれています。なぜなら、私たちは、自分自身の支配者ではないからです。私たちには、自分が、どこの誰かも分からないほどです。ひととおり教育を受けた人なら空に飛行機を飛ばせるために法律が行使されること、病気は人から人へと移る微生物によって広がること、無線は奇跡ではなく、事実の巧妙な組み合わせであることを知っています。驚くべき数の人々が、ビタミンについて聞いたことがあり、衛生の大切さを理解し教えられれば、込み入った機械を作動させることができます。しかし、いったい何人の人が人間としての自分自身について知っているのでしょうか。何人の人が、面白いとか、気がまぎれるとか忙しいというのではなく、内面的に深い幸福にあるでしょうか。私たちは鋭い物が切れること、火によって火傷されること、高い所から落ちれば砕けることを知っていますがまだ、頭から足の先まで内面的に、あざだらけで、どんな風に自分を傷つけているか、また自分のどの能力が使用しないために退化しているか、そして生涯どんな目に見えぬ手足が利かなくなっているか知らずに生活しています。
人類は万能解決策をあれこれと求めて走り回ります。最後の大戦の後、すなわち、1940年代と1950年代の間にあっては、その万能解決策にあたるものは、国際連合の成立と、平和を求める疲弊した世界に希望を与える同盟の行動でありました。しかし、条約に次ぐ戦争は私たちの問題を解決はしなかったのです。岸によせる波のように次々と国際会議は失敗するか、部分的に成功するか、あるいは、全面的に成功したと主張するかでした。しかし、世界の諸問題はなお解決していません。政治的修辞句、公約、スローガンは、毎日の新聞の見出しをかざるため次々と打ち上げられてます。私たちは人間社会が直面しているこの悲惨な状況に対する平和的な解決策は見つかっていないことを充分知っているので、うんざりしながらその見出しを読むのです。
個人ばかりでなく国家までもが、これぞと思う救済法を探しています。中国には中国の政治のトレードマークがあり、その国専有の万能救済法がいつも用意してあります。ソ連もそうですし、西欧民主主義国も非同盟国家もそうです。ビンの形がどうであれ、またそれに貼ったラベルの銘柄が何であれ、内側の薬は全く同じ味がして結局は私を見なさい。私についてきなさい。私のようにしなさい。さもないと・・・ということになります。個人個人が、それも、自分で選んだ元気づけるものを持っています。自分の就きたい職に就き、好みの家を建て、やりたい事業を始め選んだ女性と結婚し、しかるべき場所に落ち着くことが出来るなら、その特人生は生きる価値あるものとなりましょう。少数派の人々もそれぞれ好みの解決法を持っています。社会的に認められること、独立すること、特定の政党が勝利すること、特定の哲学が勝利することなどです。人類に必要とされているものに千の側面があります。しかし、達成されたと思うと経済的、社会的あるいは政治的状況が以前と同じ位悪くなっていた、新たな災難が以前のものにとってかわり、絶え間なく元気づけと、解決策が必要です。しかし、中でも最も大きな問題は、私たちが内部に有している人間性です。あらゆる個人的な病の源泉であり、ほとんどの国家や国際的疾病の源泉となっています。
もし聡明で、偏見のない監視者が私たちの住む地球を訪れることがあるとすれば、彼はおそらく、地球上の熱にうかされたような行為に、すぐ否応なしに驚愕するでしょう。個人も集団も、機器を使って、物理的だけでなく、精神的、情緒的に、よりいっそう速いペースであわただしく行動しています。世界には、文明陣でありながらくつろいでいる人は、一人もいないことは明らかです。それはまるで、驚くべき分散の力が働いていて、私たちを自分自身に集中させまいとしているかのようです。活動的であること、分散することが私たちの生活テンポを特徴づけています。私たちはエネルギーを外に向けて放散しますが、社会を平和に安定した幸福なものにするという意味では、ほんの少ししか建設的に働かないようです。私たちのエネルギーの外部への猛烈な発散の一例は、ほとんど全ての人が例外なく、いつも自分以外のグループ、国家、階級、民族を非難、批評しているということです。自己批判は、ほとんど全くといっていい程聞かれませんが、聞こえるときは、単なる儀礼的な形式であり、深い自覚によるものではありません。立ち上がって次のように言えるほど、道徳的に強靭な大国はありません。「私が全体の福利のことをもっと気遣っていたら、もう少し非利己的な国際主義に向けての道をたどるようにしていたら、よりよい、内面的な生活様式を作り上げていたら、他の人達があとについてきたかもしれません。私たちはあのような破壊的な戦争を戦わなくてもよかったかもしれません。また、あんなに何年もの間、貴重な時間を、守られない条約、不毛の論争やつきることのない非難の応酬に無駄使いをしなかったかもしれません。私たちは、論争を解決する手段としての集団絶滅を禁ずる所に近づいていたかもしれません。」と。同じ事が集団についても言えます。
資本家階級は、自分の良心を捜す事もその欠点を認めることもありません。労働者階級も然りです。白人も黒人も、この政党もあの政党もそうです。すべての事が例外なく、他の人の過ちなのです。大きな団体の中に投影されるものは、個人の中で支配している法則なのです。私たちは、私たち自身をもてあましています。第一に何故なら私たちは自分を知らないからです。
この本の論旨は、人々が自分のエネルギーの一部を自己の内面に向けて使い、自分はどんな人間かを探究し、自分の性格に注意を払い、それを知り尽くすため自分の本質を知ろうとしなければよりよい人間社会へ向けて永久に変わってゆくことはないということです。私たちは、よりよい社会に向けての素晴らしい青写真をもっておっりますが、私たちがどんなことをしても骨組みがもちません。社会という建造物のひとつひとつのれんがにあたる人間が重みに耐えられずに、いつもあちこちでこわれています。
私たち人間は、酒を飲み、喫煙し、夜更かしをして、朝寝坊はするくせに、練習もせずオリンピック選手になりたがっている人のようですらあります。また、自分たちがオリンピックの勝者になれないのは、自分がふしだらな生活を送っているからではなくて、他の人が自分にチャンスを与えてくれないからだと言っている、つむじ曲りの子どもみたいであります。
大計画というものはくわだてるのにずい分気分の良いものです。社会の安全保証、今までしいたげられてきた隷属した人々の民主的生活、国際銀行、フード、プール、どの一つをとっても、一度に何百万という人々を抱え込んでしまうようなものをもっています。
しかし40億に近い人々の精神生活を改革するなんて!想像がおよばぬばかりか、そんなことを考えて時間をつぶすのさえばかばかしいと思います。しかし、奇妙なことに、ここでまた、問題は個人に戻るのです。歴史は3人や4人の人で書かれたものでなく、普通は、ひとりひとりの人によって書かれたものです。私たちがそれを認めようが、認めまいが事実は、一個人が、あるいはせいぜいひと握りの人々が大衆に影響するのです。何百万の人々を変えようとすることは、今すぐ必要なことではありません。何千か何百の人で充分です。これは人間が非常に他人の影響を受け易いという能力によるものです。生命体はすべて適応能力に富み、柔軟で、精巧に出来ていますが、人間が、あらゆる生物の中で最も敏感で影響を受け易いのです。突然、荒野から連れてこられて街の機械文明にさらされるような強い刺激だけでなく、微細な影響力にも反応するのです。人間の中では野蛮な方であっても、その人は、親切、洗練、調和などを理解します。その人が、一人の人間として成熟しているなら、これらの影響で変わることはないかもしれませんが、ある程度までそれらを理解することは出来るのです。
一つの集団、たとえばアメリカ人の子ども達を隔離し、彼らを全く孤立して育て先生は、彼らがピンク色のとかげのように優れたタイプの人間だと教え、古代ギリシャ語だけ話すように、また、足を使って食べるように教え、その他にもばかばかしいことを教えることができるなら、またこんな妙なやり方で育てられた子どもたちが他の人間を見たり、その人達の話すのを聞いたりしなければ、彼らは、きっと、古代ギリシャ語を流暢に話し、足がとても器用になることはほとんど疑う余地もないことです。もし勇気ある人々の集団が開拓して、自分達自身のほとんど尽きることのない人間の能力に従って生きる方法を身につけるなら、きっと彼らが、だれにでもあてはまる原型なるものを創り、それが、ほかの人があとからついてゆきやすい型として役立つでありましょう。新しいことを行う方法を求めるむづかしさは、その半分が、それを実際にやってみせることにあります。それは理論ではなくて、改良された方法なのです。
全体をふくまらませる個人の力は、人類の歴史上に繰り返し、繰り返し示されてまいりました。それ故に、今の世の中で、今日、歴史の必要性に合った正しい考え方を持つ本当に啓発された才のある一握りの人々が、世界改革の主導者になることになぜ疑惑をはさむのでしょうか。誤解があってはなりません。ここに提案された考えは、国家の改革や経済、社会、国の難問解決のため、大計画を導入しようとする国や社会や人々の数々の必要な、有難い努力を否定するものではありません。それらは、むしろ、一体となった生命体という大車輪に連動するはずみ車となる提案だと考えればよいでしょう。つまり、この素晴らしい私たちの遠心性の行為を相殺する求心性の行為へ向けての動きとして、あるいは、不適切ではあるかもしれませんが、人間の内面の必要性をいくらか知る上の調査として、また、そう考えるのがよければ精神衛生に向けての提案だと考えればよいでしょう。
第二章 人間の闘争本能
人間の本質は、大きく分けて二つの概念でとらえることが出来ると今日では考えられております。ひとつには、人間が精神面で異常なまでに発達を遂げたがために獲得した、超動物的なものであり、もうひとつが、他の生き物と違って、人が死を超えて生き残る性質を有している点であります。
歴史的な記録から判断いたしますと、人はいつも人間より偉大なものがあると信じておりましたし、人間は、ある点で、その自分より大いなるもの、非物質的なるものと同種類であるといつも信じておりました。実際に、毎度繰り返される歴史的現象に宗教がありました。地球上のどこもかしこも、民族にはいつもそれらの宗教がありました。宗教に向う本能はどの民族にもあるものなのです。有史以来、これらの宗教がどんなふうにして発生したか明らかになっております。ひとりの人物が民衆の中に立ち、皆の神よりじきじきの御告げを給わったと宣言するのです。それだけでなく、神の教えは、根を張り、野火のごとく広まり、社会を改革し、古い信仰を捨て、寺を建て、新たな法を広め、新しい文化を築きました。現存する世界の宗教はどれもみな共通にこれらをあわせもっております。さらに、宗教は、どれも皆、同一の基本的教義をもっております。唯一神。神の形に似せて創造された人間。*黄金律と一連の法律の施行がそれです。[1]
後程宗教についてふれますが、ここでの要点は、人間自らの中にあるものを通じて、また、大宗教の創造者やその跡にやってきた改革者や教師を通じて、ほとんど例外なしに、人間はユニークで、他の生物とは異なっておりこのユニークさのひとつが死後に魂とか霊魂とかいう形で生き続けると信じてきたことと、現存の文明が産んだ唯物主義や無神論のうねりの中においてさえ、なお人間はこのことを信じ続けているということです。
物質といえば、固体で、塊というと何かすぎに消えてしまいそうなものを想起していた過去において、死後の生活なるものを人間が信じていたならば、物質が極微小物質の緊張関係から成り立っていることや、以前の基準と比較したらほとんど実体もないと同然の、奇妙な電気物質から成る事がすぐに示される今日においては、どれ程より多く、死後の生活を信じることでしょうか。もし、人びとに魂の存在の可能性を確信させるものがあるならば、それは科学によって初めて私たちに明らかにされる私たちの驚くべき宇宙の本質でありましょう。法則に支配され、みごとなまでに秩序を保たれ、形は変化に富んだこのような驚くべき構造は、スイス時計が偶然などではないように、偶然などではありません。それには、それを作った主があるに相違ありません。そのことは、予言者たちが、この世の初めから、適切な、分かりやすい言葉で私たちに語ってくれたことを暗に立証してくれます。お題目はいつも同じです。「みなさんは、神の子です。神がみなさんを育まれました。神のもとにもどりなさい。」
私たちは、自分の方程式の中に、他の生物にない“X”をもっているので、自分を未知なる性質のもおのだということを認めるなら、世界のもめごとの大部分は、(同時に世界は人類全体にとって快適な生活のきざしで輝いてもいるのですが)この“X”について私たちが全然知らないからであり、また、それは、宇宙の全ての物と同様に法則に支配されているのに、私たちは、その法則が何かを知らず、いつもこれを犯しているという結論に達することができるでしょう。
人間は驚くべき生き物です。星雲がどんなにすばらしくても、水晶石がどんなに完全であっても、原子核がどんなに興味深くとも、それらは、人間ほど畏敬の念を起こさせもしないし、すばらしくもありません。人の体が複雑でありながら整然としていて心が入り込んでいて、感情の範囲が広いために、人間は自然の王者たりえるのです。
人間が物事を成し遂げる能力には、ほとんど限りがありません。超音速ジェット機は人間の発明した奇跡かもしれませんがパイロットが飛行場からそれを飛び立たせ、成層圏を通って、地球の向こう側へ安全に着陸させることに比べたら半分も驚くような創造物ではありません。人類にはほとんど限りない可能性があるようです。人類は穏やかに、喜びに充ち、感謝すらして、磔棒に向かい、信じられないようなよい未来がやってくることを信じて死んでいく殉教者を作り出すこともできます。また、人類は、拷問や、残酷好み、破壊を喜ぶという点においては、どんな自尊心の強い狼や虎も恥じ入らせてしまう怪物をも産み出します。人類はその深みより、ベートーベン、シェークスピア、ダーウィン、レンブラントのような人びとを産みだす事も出来るし、さらには、不幸にも、ネロやヒトラーのような人達まで産みだすことが出来るのです。人類は無数の犯罪者とともに、無数の英雄、女傑を産みだします。私たちは、ただ、人間には驚くべき潜在能力、驚くべき力があるという結論に達するのみです。また、私たちは、すでに人間が成し遂げたことから判断して、もし彼らが自分自身それを行うよう仕向けるだけでまく、それを行うことが可能になる法則を見つけるよう勤めるならば、出来ないことは何もないと思っても差し支えないでしょう。
今日、私たちを苦しませる困難に分析的に思いを馳せると何が分かるでしょうか。悪いことがくっきりと浮かび上がります。一応善しとされていることが、同様にくっきり浮かび上がります。私たちは、政府や社会の運動ではなく、個人の問題に関心があるのだということを常に心に留めていると、今日では、憎しみや嫌悪が愛や同情よりもずっと強いことが分かります。偏見や偏狭が忍耐や理解よりも強力です。他人の苦しみに対する無関心、利己心、嘘、偽、卑劣な不正、相手を選ばぬ性交、飲酒、麻薬、犯罪、離婚などみな増加の一途をたどっています。これらはどれも明らかな罪悪です。あまり明確な形では現れないものに、増加をたどる皮肉主義、絶望、他人が努力していないのに善をなすことは無意味だとする不信感のおとずれ、つまり、個人の努力などは無意味であり、流れに身をまかせるほうが楽だという考えがあります。一応はよしとされているものに次のような態度や努力をみな含めてもよいでしょう。それは次のように分類されます。純粋に内部的な、非開放的な改革のために働いているキリスト教徒やその他の宗教集団の態度や努力。少数の利益を犠牲にし、あるいは無視して自分たちの条件を改善しようとする、多数派の態度や努力。他の集団の損害を無視して社会の一民族集団を向上させんとする態度や努力です。行政は、改革や、新計画を通じて人間を援助しております。医学は病気という重荷を、急速に人間から取り除いております。心理学は、人が心の働きをよく理解し、多くの、これまでの難問を乗り越えることを可能たらしめております。しかしながら、なお、人は、自由でも、幸福でも、自信があるわけではありません。心が軽く、自信に充ちているのでないなら、この進歩、生活の改善、この改革は人にとって何のためになるのでしょう。
人間は何かどっしりしたものの上で方向を見定め、方向付けをされる必要があります。人間のもつ磁石は、現在、ぐるぐる回っていて方向が定まりません。人類の進路をとった所へたどりついてみると、そこは自分の行こうとしていた所ではなかったことがわかります。彼の予想した喜びや結果が逃げてしまいます。成功、財産、結婚、子どものどれも、普通の人々がそれによって得られるであろうと考えた安定した、高度な満足感を与えてくれてはいません。人は何年も苦労して、時には一生涯をかけて、ある有益な地点までたどりつくのですが、そこに着いてみると、それは無駄で全く満足できないことが分かるのです。しかし、問題は自分自身の内部にあるにちがいないとは言わないで、人類は、どこかで、道の曲がり角を間違えたと信じて、それを道のせいにすることが多いのです。私たちは、欲しいものがいつも指先のほんの少し向こうにあると思っています。私たちは、めったに自己の心の内部に通ずるドアを開いて実際に何が手元にあり、どんな調整や浄化が必要なのか、どんなすばらしい道具がそこにあって、私達の人生から深いよろこびを得るのに役立つかを見ようとはしません。
腕を、それが衰えて下げられなくなるまで、二、三十年も空中にかざしている人々もいます。ナイアガラの滝の上にロープを張って、その上を歩いた人もいます。テーブルやイス、その他の物を鼻の上に乗せてバランスをとることの出来る人達もいます。脳組織、眼、心臓、神経など、微細を極めた手術を施す医者もいます。物理学者や数学者は、ほとんど不可能と考えられそうな頭脳的なはなれた技をやってのけます。人びとは、どうやってこの驚異的な、込み入ったことをやってのけるのでしょう。精神的、訓練、努力を通してです。人間は学習できる生き物で、ほとんど何でもできます。不眠症患者も眠れるようになりますし、酔っ払いや、麻薬常習者も治ります。どもりの人もはっきり話せます。どのようにしてでしょう。辛抱、忍耐、練習です。出来ないことはほとんど何もありません。では人類が幸せになることは不可能でしょうか。自分を自分のものにしてしまう手はないのでしょうか。そんなはずはありません。大自然は、その子どもには厳しいしつけを行うけれども、平和と喜びを育てます。あらゆるものに自分の居場所があります。何とかして、どこかにうまく入り込みます。人々にも、きっと入り込んで、生長し、幸福の分け前を味わう場所があるにちがいありません。しかし、人々は、自分自身に適応することができるまで、言い換えれば、自分の内面生活を支配する法則を見つけるまでは、生活環境に適応はできません。
ここは、引き続き起こる主張を証明しようとするところでも、長たらしい引用で立証するところでもありません。それらは、おのずから真実が明らかになり、それに基づいて、しかるべき結論がでて、しかるべき行為が奨励されます。
人間は他の生き物が所有していない闘争本能を有しています。人間の闘争好みは、彼が肉体をあわせもっていることに起因します。この純粋に精神的な側面を持っていることが一つの特徴であり、実際これが主な特徴なのですが、それが人間を他の動物と区別しています。このユニークな素質は、その後個々人の永遠の側面となるのですが、胎児が初めに形を成す時に、人間の性質の不可欠な部分となります。人間の肉体は、あらゆる欲望と、動物の本能の多くを持った動物的なものです。それは、地球上のあらゆる他の生命体とも同様に、一度だけ生きます。肉体は生まれ、成長し、死に、分解します。肉体は、飢え、情熱、恐れ、愛、怒り、喜びなどを、他の動物と全く同様に、自分なりに知っています。人間の魂は神から授かったもので、精神の働きを通して肉体と結びついた非物質的な実体です。それは、個性を持ち、意識があり、高度な知能を持ち、そして動物にない、精神力と呼べる物を有しているのです。肉体が生まれる時、換言すれば受胎の瞬間に、魂が生まれます。体の中の生命が長らえる限り、魂は、肉体の能力と相互作用しながら、限りある命の経験によって利益を受けながら、その肉体とともにとどまります。肉体が死んでも魂は死なず、それはただ解き放たれて、個人として、A氏、Bさんの人格として、自分と、他人を意識しながら永遠に生き続けます。
魂は騎手で、肉体は馬です。騎手が熟練していて、馬を扱いこなし、馬と一体となって動くことが出来なければ、馬に手を焼くか、暴走されるかです。
この頃私たちは、たいてい、疾走する馬に、死神のようにしがみついています。私たちは馬について何も知らず、落ちないようにただ夢中になっていて、もし出来るなら、私たちの苦境を他人にさとられないように夢中になっています。私たちは、全く訓練された騎手ではないのです。私たちは馬術の、充分にきびしいコースが必要です。
私たちのもつ二つの面を少し研究しましょう。肉体には必要なものがあります。そして、論理的に、もう一つの魂にも必要なものがあるに違いありません。肉体は敏感な機械であり、それは、もともと、他の動物と同様に、独力で、必要物や、体の求める快適さを調達することと関係があり、また、偉大な自然の生物の衝動、すなわち、種が消滅しないように再生産することと関係があります。同時に人間の体は、その肉体的能力と、他のより高度な精神を魂の能力との相互作用によって進化して、すばらしい所まで到達しましたが、そのユニークなしくみのおかげで、他の動物にはみられない、自然からの開放を成し遂げました。人間は好きなように生きます。動物はそうせねばならない様に生きます。人間は、自分の体の働きを楽しみ、濫用しますが他の動物には出来ません。たとえば、セックスは、人類に対しては、それが動物に対してもつものと全く異なったものになってしまいました。セックスは最も非利己的で、最も優しく、最も美しい愛の感情を結びつけることが出来ます。さもないと、どんな野生の動物にもみられない濫用、悪用、耽溺にまで堕落する可能性があります。食べるということは、一つの芸術になりました。娯楽の一形態であり、社交的な集まりの場でもあるのです。食べることで病気になる人もあれば、健康を増進する人もあります。換言すれば、私たちの動物的な半分でさえ、他の生物にみられない行為の自由を楽しんでいます。
私たちの別の半分、永遠に続く半分の必要物は何でしょうか。体はその一生の行路を知っています。体は、出来れば小ぎれいで強くなり、その不足を充たし、最後には土に帰らねばならないことを知っています。私たちは、たいていの人が、私たちの本質をほとんど意識していないので、私たちの内面の必要物にそれ以上に注意を払わず、魂がその必要とするものを得ているのか、健康な状態にあるのか、将来へ向けて希望のもてる見通しはあるのかを立ち止まって尋ねようとはしません。この内面の飢餓と不注意の連続した状態が、人々が本当に幸せになることを妨げています。だから、私たちは、物質的な見地からは、健康、富、暇、家族など何でも持っている人々が熱にうかされたように、一つの気晴らしから、別の気晴らしへと突進し、静まることなく、満足することなく、一生走り回り、実際あの深い内面の満たされないもの、飢えた不幸な魂から逃げる所を見るのです。そして、人々の多くは、もし彼らがこの必要欠くべからざる部分について考えてみるならば、この部分こそ彼らそのものなのですが、それに我慢ならなくなります。彼らはそれを憤慨しながらみて言います。「ええ、わかっています。もし私があなたに耳を傾けたら私は全く人生を楽しむことが出来なくなってしまうでしょう。」
これは、私たちの問題を扱うおろかな、未熟な方法であることは確かです。他は全て働きの調和がとれていて、理解出来る法則の仕組みの中で進んでゆきます。それなのに、なぜ、生命の最も高度な形態である私達に体と魂の調和を築くことが出来ないのでしょうか。なぜ私たちに、体と魂の調和を築くことのみならず、喜びを引き出すことと、全ての中で最も貴重な心の平静の必要性に留意することが出来ないのでしょうか。
私たちの意識、精神、愛する能力は、私たちの有する最も素晴らしい才能です。それらは鏡に似ていると言えましょう。もしそれを他に向けるならば、それは暗い地面を映し出すでしょうし、それを太陽に向ければ、鏡は、光線が凝集されると、燃えやすい性質のものならどんなものにでも火をつけることの出来るほどの目もくらむような光でいっぱいになるでしょう。あるいは、これらの才能は、我々が進路をとるために所有しているコンパスのようなものであると言えましょう。それを何に向けましょうか。何か固定した、けっして変わることのない高度な価値、精神の北極星にしましょうか。始めの一時的な目標から、次は別の目標へ、今年は新車、翌年は別荘など、気まぐれに従ってそれに向けましょうか。
私たちの魂に充分な心配りをする方法を考えてみる前に、私たちの魂の目的は何かを自問する必要があります。予言者たちを除いては誰もこの質問に答えた人はおりません。彼らは私達に、神は、神を知るようにと、神が私たちに示した道をたどるようにと、また、神を愛し、神の不滅を共にするよう我々をおつくりになったと教えてまいりました。私たちがまだこの世の中にいる間はこの不滅が意味することの充分な含意を理解することは出来ません。それは母の胎内にいる赤ん坊が、その小さい頭が新しい生活に現れる日までは、その前途に何が横たわっているのかわからないのと同じです。
神は創造主です。神は、長い、驚嘆すべき、物惜しみしない過程をたどる中で、果実をうむといったやり方で創造してきました。私たちがその果実です。この世においては、ちょうど胎内の赤ん坊のように、次の世界の準備をします。私たちは最初、私たちの仮の小部屋である‘この世’に形を成し、胎内の子どものように、二つの行き方を発達させます。私たちが使用する生き方と、私たちの肉体の必要にはほとんど無用と思われる生き方です。子どもは液体でいっぱいの真っ黒な袋の中に閉じ込められて、小さいボールの中におりたたみおりたたみ込まれている時から、光もないのに眼を生長させ、空気も無いのに舌や耳を発育させるのは、ばかばかしい気がします。しかし、私たちは、その赤ん坊の足が胎内で不具になるとびっこになるだろうし、眼が発育しなければ、眼が見えなくなるだろうということも知っています。少しでも考えてみれば、全くの無用のしろものと考えられるようなこともすべては、将来の生活の全体的な基礎なのです。だからそれは、かなりの程度までこの世では私たちの魂と共にあるのです。私たちの魂は、その旅の第一段階にあって、才能を発達させようとして、ここにあるのです。もし、首尾よくいかなければ、それらが生まれる時、換言すれば、肉体と別れて、新しい、永遠の生活へ踏み込むときに必要欠くべからざるものを欠いていることになります。
私たちは、現在の満足だけでなく永遠の喜びのために、この世で発達させておくべき才能に、それとなく感ずくために、動物にはない、人間の最も主要な特質は何かと自問するだけでよいのです。人間は仲間、原理、美、知識、とりわけ創造主を愛する性質を有しておりますが、それは野獣には絶対に見られないものです。それゆえに愛は人間の魂のこの上なく貴重な才能の一つです。
この世でそれを使用して発達させておかねばなりません。人間は深く物を理解し、知識とすることも出来ます。人間はこの世とあの世の両方で、生きることの意味と働き、創造の体系をよりよく理解するよう精神の力を発達させねばなりません。同情、あわれみ、他者への気前のよさ、忍耐、寛容などの幅広い優しい情感をもつことができます。その美しい人間の才能を将来も同様に、使用に耐えうるようこの世で使用しておかねばなりません。人間は自己を犠牲にすることも、任務、愛、正義の道で忍耐することもできます。これらも現世において行使することを通して強化されねばなりません。一部の人物が有する口では言い表すことの出来ない、輝く性質があります。そういう人達は、喜びと自信を持ち、彼らが存在する意味や彼らを存在せしめ、分かち、他者に、ねたませたり、賞賛させたりする絶対者の存在
を確信しているように思われます。その自然な喜びと自信は魂の力です。それは現世で養成することができますし、またそうされなければなりません。
人間の最も貴重な能力のひとつに信仰があります。信ずる能力です。この心情的な確信は理性と探求に基づく純粋に精神的な確信に相対していて、愛する能力と隣接し、人間の発達に最大の影響を与えることができるのです。それは現世において養われます。
「汝自身を知れ。」という古い諫言は、人生の根本原理です。私たちは、神の不滅を分け与えられ、ほとんど無限ともいえる発達の能力を有するのです。真の世界も、真の驚きもすべて私たちの内部にあります。
シェークスピアの書いた言葉を読み、物理学者の理論や証明を精察し、巨大な航空機が進路から逸脱することもなく進むのを見るにつけても、これらは何と素晴らしい成果なのかと考えられずにはいられません。これらのものがみな誰かの魂という温床で育まれたことや探し出されて新しい創造性への道へ方向付けられるのを待っている能力の広大な貯蔵庫が私たちの内部にあることを立ち止まって考えてみることはめったにありません。
動物は罪を犯すことはありません。動物はその本能の命ずるままに、そのやり方を続けます。だから一生のうち一時たりとも自由になることはありません。それは木や石が自由でないのと同様です。しかし、私たちは、選択の能力を持っているので、比較的に―絶対にではありませんが―自由なのです。
私たちの選択は、環境によって少し左右されることはあっても、ある範囲内においてはその行為を決定するのに自由です。これが人類の栄光のすべてです。人間の魂を引き立ててくれます。人間がその魂を少しも変化させられないなら、魂を持っていることに何の意味もありません。人間は強制的に発達させられた別のものになってしまうでしょう。
神は強制的に神を信じ愛する自動制御機構を作ろうとは思いませんでした。神は進んで神の為に愛してくれることを好みました。それこそ愛が与える喜びだからです。だから神は、自分が創った人間に自らの意思をお与えになりました。それによって、人は自分の性格を変え、魂を飾り、努力の成果を楽しみ、愛することと愛されるという日の光に欲することができました。私たちの意志は私たちのハンドルです。それを使って私たちのコンパスを真北に向けることも出来ますし、また、むら気が起きた時、この偉大な魂の鏡をとって、宇宙の原動力である神が絶えず放散している光を捕らえるため、上向けることも出来ます。また私達にとっては、暗黒の世界である物質的なレベルにまで、その鏡を下に向けることもできます。私たちがその鏡を上に向けると、慈悲深くなり、自分を征服することが出来、安らぎ、自信、幸福感、そして私たちを人間としてなりたたせるところの善を施し、建設的になる力に充ち充ちてきます。私たちが鏡を下向きにすれば、最も野蛮な動物よりももっと悪くなるでしょう。私たちの器用さによって研ぎ澄まされた憎しみは見るに耐えられないものになります。私たちの堕落はとどまる所を知りません。貪欲さや肉欲、冷血な殺害は、私たち自身をさえ驚かせてしまいます。
鏡を下に向ければ、当然不快や不満になります。なぜならば、私たちそのもの、私たちの人間性、自覚ある魂が誤用されているからです。人間の本質に逆らった事をするよう教えられています。それはあのオリンピックの勝者になりたがっている男の例によく似ています。彼はいつも自分が勝者でないと憤慨しています。でも彼は絶えず勝者になることを妨げるような事ばかりしています。
こうしたことは理論上では全く結構なのですが、問題は、実際に何が出来るかということです。こうしたことがその通りだとしてもどうやって私たちは、正道に乗ることに励めばよいのでしょうか。なぜ、私たちはこの世で何かをするのでしょうか。(もちろん、食べること、眠ること、生計を立てることなど、私たちがそれを強いられることを除いてということです。)私たちは、それがしたいからするのです。私たちは、そうしたいからこそ、本を読まずに踊りに出かけます。私たちが徐々に死に向かうことになると医者が忠告してくれた物を食べるのは、たとえそれで結果的に死ぬようなはめになっても、それによる喜びの方をより好むからです。誰も他人に内面的状況に立ち入ってそれをどうにかするよう強制することはできません。その人が、そうしたい、欲求を持たなければ、たとえ欲求を持っていても行動に移し自分自身と取り組むスタミナがなければ、誰もその人に代わってそれをしてくれることはできません。
それは純粋に自発的な仕事です。あなた自身の問題です。この世で最もあなたを愛してくれる人、あなたのために死んでくれる人でも、これをあなたの代わりにすることはできません。
この世で、行わねばならないあらゆる嫌な仕事の中で、おそらく最も嫌なものが、自分自身と向き合い、自尊心と愚かでちっぽけな己惚れの眼鏡をはずし、自分自身の特徴をよく見つめることです。幻想をいだいていた方がずっといい。忘却の広場に逃げ込んだほうがずっといい。言い訳を見つけて、「えーと、今日は時間がないものですから。」とか、「それを考えると気分が悪くなるので、今、気分を害している暇はないので。」とか言う方がずっと気分がいい。しかし、問題は内面的なものです。なんとかしなければなりません。初めて、グイとねじられた時は、恐ろしく痛いかもしれませんが、一旦歯が抜かれてしまえば、痛みは消えます。その他にもっと微妙なことが起こります。不安と、苦闘からなり、半ば意識的なうんざりさせるような苦痛の種になっている感情が私たちから消え去るのです。良心の目を絶えず避ける必要がなくなります。なぜなら、ついに私たちが、良心が私達に語りかけようとしてきたことに耳を傾けるようになったからです。私たちは力が漲るのを感じます。なぜなら、勇気ある行為によって、私たちが急に、力を意識するようになるからです。
しかし、私たちの本質を知ろうとする、初期の試みを正統化する、足しになるような、もっと、ずっと深淵な、もっとずっと励みになるものがあります。それは勝利を保証するものです。その何かとは、言わば事の本質です。例えば、細胞とか種子は1つから始まりそれが増殖し、2つになります。次の段階は3つではなく、2掛ける2で当然4つになります。4は2を加えるのでなく、ただちに8つになります。8つは16になり、16が32になり、32が64、そして64が128になります。7回変わるうちに、1つが128にまでなります。なぜなら、生命の進行状態は単純加算よりもむしろ、幾何学的進歩によって進んでゆいからです。もしそれが単に加算による進歩だとしたら、7回の転移の後、128ではなく8つになっているだけです。換言すれば、一歩一歩の進歩が、登山のゆっくりだが骨の折れる仕事と違って、急激な発展や広がり、エネルギーや能力の増殖をいみするのです。その一歩一歩は楽ではないかもしれませんが、その都度得られる利益は、大きくて、私たちにとってどれだけためになるか計り知れません。
いかなる種類の生長も奇跡です。何百万マイルもかなたの燃えるガスのかたまりによる放散で一粒の小さい種は、急速に大木に成長します。一つの眼に見えない卵子が、九ヶ月後には、眼が見え、音が聴こえ、呼吸し、動き、考える能力を秘めた人間として現れてきます。もし、魂もそれを育む環境に支配されるなら種子や卵子と同様顕著に反応するでしょう。
物質世界だけでなく、精神世界も法則で支配されていると常に予想するならば、精神の成長に必要なものは何でしょうか。まず必要なものが、日に当たることです。日光とは何でしょう。神の愛です。神を太陽にたとえれば、発散する光は、彼の愛です。生命は光を浴びて育ちます。生命は光をエネルギーに転換します。光の力で
自分を構築します。神の愛は、魂に必須の光です。その中で魂は、ふくらみ成長をとげ、肉がつき形が整います。「なぜ」という質問は、いつも私たちの知識にとっては、妨げとなっているように思われます。私たちには、なぜ神が存在するのかわかりません。どうして宇宙があんな風になっているのかわかりません。私たちは神が本質的にどんな物なのかも、また、私たち自身が何なのかすらわかっていません。しかし、「どんな風に」という事については何かを知っています。どうやって私たちがここまで到達したかは、進化の研究で私たちに明らかになってきております。最大の利益を引き出すには、この世でいかに機能するべきなのかも、私たちは急速に科学から学んでおります。私たちの内面を成長させる方法は同様に私たちの知るところとなっております。葉は、光が必要なときには、光を最大限に取り入れようと小さい緑の手をいっぱいに伸ばします。動物は、太陽の与える恩恵を得ようと影から日のあたる所へ動きます。私たちは、動物や植物より優れておりますが動物の本能や、植物の常識に欠けているように思われます。私たちは精神の太陽が出ている所に出ては行きません。それどころか、ブラインドを降ろしてしまいます。肉欲、不信、頑固一徹さというブラインドを。そして私たちの惨めな魂を餓死させます。
この世の中には、別の物が存在しないということによって存在するものがあります。例えば、影は光がないために存在するのであり、寒冷とは熱がないからであり、死は生が絶えたためであり、憎しみとは、愛が衰え、その場所が憎しみで充たされたからです。人々が混乱し、不幸で、不満であるなら、(明らかにそうなのですが)それは、それなしでは確実性、喜び、満足を得られない力から彼らが切り離されているからであり、それは、人間の創造主が絶えず人々に注いでいる愛の力であり、その力から人々はいつも自分を閉め出しているのです。
第三章 幸福への道
個人の内面生活の安定は、ある必要条件が充たされるかどうかにかかっています。神を愛することを学ばねばなりません。神とともに自分の魂をも信ずるようにならねばなりません。祈りを知らねばなりません。違った生き方をすることを学ばねばいけません。どうしてこれらのことをしらねばならないのでしょう。誰かがそうしろと言うからではなく、そうしないと地獄で火あぶりになると警告されたわけでもなく、そうすること自体がよいことだと信ずるからでもありません。それらが原子や星の行動を支配する引力の法則や原理と同じ位重要で論理的な法則に基づいていると確信するからそれらを行うのでなければなりません。
私たちは、何故神を愛さねばならないのでしょう。私たちはよく、植物は太陽を愛しているといいます。それは、日なたに置かれると、植物の小さな細胞のひとつひとつがエネルギーをせっせと蓄えるということです。換言すれば、植物は自分に最も利益を与えてくれるものに反応します。だから私たちがブラインドをあげて、神の光を浴びるならば本質的な所で私たちは神の愛の光に反応します。私たちの反応だけは、意識してよく考えて行われるべきです。どんなに立派でも、この世の中で、全く私心のない愛はありません。たとえどんなに自己犠牲的であろうと、母の子供に対する愛ですら私心のない愛ではありません。愛することで利益を得ようと思わずに私たちを愛してくれる人が一人だけいます。それは、私たちの創造主です。
何故そうなのでしょうか。理由は二つあります。まず、発出するのがその性質である太陽のように、神の性質は愛することだからです。第二に、太陽と同様に、神は私たちに何も求めておりませんし、完全に私たちからは独立しているからです。この惑星に生命が存在し続けようが、絶えようが太陽には全然影響がありません。私たちが創造主を愛しようが愛すまいが全然影響はありません。なぜなら、全く私たちの愛に頼る所がないからです。しかしながら私たちは神に頼っております。私たちがよく知っている崇高な私心のない愛とは何を言わんとしているのでしょう。母はその子どもを全面的に愛します。彼女はその発達を育み、害から護り、その子が強く育つのを見守り、援助し幸福にして、その潜在能力を充分に伸ばしてやろうという望みで充ちています。この人間の愛は不完全ではありますが、私たちの知る最も崇高で最良のものです。私たちへの神の愛もそれと同じ性質のものです。私たちみなによくあれと願い、いつも援助の手を差し伸べる用意が整っています。―ただただ完璧で、それに伴う少しの私心もありません。比喩的に申しますが、昼夜慈悲や神の愛という強力な力を私達に注いでいる燃える善の光に私たちが絶えず浴していて、私たちが行わなければならないことは、自分の回りに築いた孤立状態を取り除き光を私たちにしみ込ませ、私たちの魂に養分を与えることだと私たちが気付きさえすればよいのですが。その様な力に反応しないでいられましょうか。太陽を求める植物程にも私たちが感じないでいられましょうか。また、母を慕うオオカミの子やヒヨコ程にも私たちを愛してくださる神を愛することが出来ないことがありましょうか。
信仰とは何でしょうか。人生における成功には、信仰以上に大切なものはありません。それは、言葉で定義しようとすると捕らえどころのないものです。たぶんそれはその結果によって最もよく理解され得るものです。信仰・信念は驚くべき力になります。それは時には意識的な知識に、時には奇妙な直観的な確信に基づいています。信仰はこれらのどちらかに基づいています。例えば、科学者は、ある事実は既に充分に証明されていることを知っています。彼は、その向こうには今までの所はまだ証明されたり、定義されたりはしていませんが、別の事実、別の法則、別の機能があると信じています。彼のこの信念は彼をして進歩させ未知のものを知らしめることを可能にします。彼の確信は彼をして新しい発見へと推進させる力です。一方では、恐るべき力をもっている直観的確信のあります。人は何かを完遂したことは一度もありません。また、誰かがそれを完遂した話も聞いたことはありません。実際、それは、以前に成就されたことはなかったでしょうが、彼は、それは成し得ることであるし、それを行う事に成功するだろうと心全体で確信します。人は自分を導く知識も経験もありませんが、ただ何かの可能性を信ずることだけは出来ました。しかし、その信仰は大変強く、それは彼を成就へと導きました。何かを成し得ると信ずる瞬間に、力が流れ込んでくるように思われます。それが出来ないと信ずる瞬間に、あなたは闘いの半分以上負け、それを行うに必要な力を消耗してしまいます。精神科医は信ずる力を知っています。そして彼らの医師としての主な働きの一つは患者の心の中に、これこれの事ができるという信念を教え込むことです。信仰治療法は、ほとんど同じものに基づいています。ある行為が、彼を治してくれますが、それは、しばしば奇跡のように行われるという確信で、患者の全身はいっぱいです。信仰が強力な膨張剤となることは明らかです。信仰は、それだけで強力な物ですが、なお限りある力です。しかし、もし、あなたが、信仰を尽きることのない力の源に結びつけるならば、もし何でも出来る友達を持つなら、その友達は喜んであなたにその仕事を任せ、おりおりに彼の力を利用させてくれます。あなたはただ媒介者であるけれども、それにもかかわらず、恐ろしい力を行使します。
その友人を、私たちは皆もっています。その友人は神です。神は私達に、その力を利用させてくれます。(当然、程々の程度までですが)もし神の力や神を信ずるならば。その事が聖者の中で次のように言われている意味です。「もし、からし種ひと粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここからあそこに移れ』と言えば移るであろう。このようにあなたがたにできない事は何もないであろう。」[2] これらは単に漠然として美しい考えではありません。それは重大な精神の法則に基づいています。信仰は磁石です。それは力を引き寄せます。ちょうど光る水晶石やガラスが太陽の光を捕らえるように。私たちが、内面へ向かって、神へ手を差し伸ばし、彼の限りない力を信じ、神は私たちを助けることが出来るだけでなく、私たちを助けてくれるだろうと信ずる時、私たちは何か本質的なことを行います。私たちは、力、治療、霊感など何でもそれを、通過して、私たちに流れ込むためのパイプラインを敷設します。努力と手段のない所に成果はありません。物理的にもそれは昔から変わらぬ生活の智恵です。もし私たちが、何か、水、太陽の光、空気などが欲しければ、自分をそれが得られる所に置かなければなりません。もし私たちが神からの援助が欲しければ、神が私たちを助けてくれることが出来ると信ずるばかりでなく、助けてくれると―実際、それが神の本質ですが―信ずることが必要です。
祈りの目的は何でしょうか。
祈る人々があまりに少ないことはあきれたことです。その人たちは大変よい人達で、信心深いことさえあるかもしれませんが、それでも祈りません。彼らには祈りの理由がわかりません。それに、彼らが祈ろうとする時に不自然な感じがすることがよくあるのです。神を信じていてさえも、彼らは神にまだ何も求めません。彼らは、神が自分たちの必要なものを知っていてきちんとそれらを供給して下さるとか、神には何も求める必要はない。自分で手を伸ばして、それを得ればよいとか主張します。これは何故そういうことになるのでしょうか。第一に、私たちが神と連絡を取ることを拒んでさえなぜ神はきちんと私たちの内面の希望に答えると言うのでしょうか。自分の側で全然努力しないでなぜ何かを受けましょうか。私たちは石ではありません。生体です。ただの生体であるだけでなくこの地球上で最も高度に進化した生体なのです。生体は、活動と同化の過程を経てあらゆるものを吸収します。それは、カップに注がれる水の様ではなくて、欲しいものに手を伸ばして掴む手のようであり、また、活発な小さい根が土を掘り、湿気や食物を吸収する植物の様です。それでも、私たちが手を伸ばして欲しい物を自分で手に入れることが出来ることについては、私たちが欲しい物で、助けがあれば手に入れることができても、私たちの手の届かない所にあるものがたくさんあります。私たちはその助けを頼むことができないほど、うぬぼれたり、ばかになってはいけません。私たちの精神に必要なものは無料で私たちにきちんと、とどけられると思う根拠はありません。
祈りが必要なもう一つの理由があります。それは私たちが、祈りによって必要なものを要求することができるようになるよりは、はるかに緊急な理由によるものです。この私たちの魂という鏡は、たとえ下ではなく上に向けていても埃をかぶって曇ります。祈りは曇りを取り除きます。初め、これは大変不思議な考えの様に見えるかもしれません。しかし、あなたがそれについて考えるならば、その考えは全然不思議でも何でもありません。私たちは祈る時、実際どうするでしょう。私たちは誰か私たちより偉大な人、父、友、神、無限の本質、あらゆる根源の中の根源―何と呼んでもかまいませんが―を想起します。大切なのは、現実であり、その機能であり、名前ではないのですから。私たちは、彼―この絶対者あるいは、根源なるもの―は数え切れない世界をもつ私たちと宇宙を創ったように、あらゆる力を有していることを実感します。私たちは、彼が私たちを愛していることを忘れてはいません。彼が、そのつもりなら、私たちに援助することが出来ることを忘れてはいません。私たちの祈りが、援助を求めるためであろうが、お願いのためであろうが、また、ただ単に、神の行為が何と素晴らしいかを賛美するためであろうと、何かに対して、神に感謝するためであろうと、その祈りは、私たちの神経を、私たちが進路を決める時に用いる、あの不変でかつ無限の北極星に集中させます。私たちの羅針盤が揺れ動いて定まらない時は、祈りによって私たちは、再びそこへ向かうことができます。祈りによって、行く手に横たわるものを想起し、たとえ一時ではあっても、私たちの想いを、常に移り行く日常生活の価値から永遠なる価値へとはせることが出来ます。
祈りは必然的にこの日常の埃を取り除きます。もしあなたが、「ああ、神様!」とこのふた言だけ言ってこの言葉の意味を考えれば、仕事に追いまくられて気をそらし、楽しさや悲しみに夢中になったり、以前のあなたの様に身の回りの煩わしさの中に巻き込まれるままになっているわけにはいきません。祈るのに、人は普通「ああ、神様!」よりずっとたくさんのことを言います。たとえば、心から愛し合った二人がいます。彼らの愛は美しいもので、それが彼らを彼ら以上の所まで引き上げてくれます。それによって、以前にない幸福が彼らにもたらされます。その愛が今まで、在るとは知らなかった、よりよい、より貴い、世界へのドアを開いてくれるように思われます。だんだんに彼らは自分たちの愛が、それ程すばらしいものだと思えなくなり、お互いに欠点が分かるようになります。彼らは、他人のささやきや批評に耳を傾けるでしょう。彼らの愛は夥しい、小さな、いつもまとわりついている些細な事で汚されます。もし彼らがこの事実に気付かないなら、もし、たくさんの小さな本質的でないものの増加ゆえに、この大きな物を失わないようにとする努力を怠るならば、彼らの愛は完全に抹消されてしまうかもしれません。さらに悪いことには、本当は愛など一度もなかったのだと思うかもしれません。
この物質世界の生の本質は、気をつけて、いつも大きな価値と小さな価値とを区別しておかないと混乱へと向かう様に思われます。それは私たちの神に対する関係とほとんど同じです。私たちの心や魂という曇りのない鏡は―というのは確かに、私たちが心と呼ぶもの、たいへん穏やかで暖かく美しい感情のすみかは、魂と同義なのですが―生活の埃をかぶってしまいます。ささいなことは、限りなく降り積もります。つまらぬ小さな行為、ささいな感情、心配事、もうそれ以上は太陽が鏡に映らなくなるまで、時には鏡も太陽もあるのを忘れるまで積もります。祈りは、その内面の鏡からこの生活の埃を取り除きます。そして、真実や本当の永遠の価値の光がこの鏡にさしこむ時私たちの進む道がはっきり見えてきます。私たちの陥っている混乱の見通しがきくようになります。私たちは、再び何が本質で何が本質に非ざるものかがわかります。さらに私たちは、神が私たちに自由に使うようにと用意してくれた無限の資源を使用することが出来、人生のつらい事をやってゆく、新しい力や自信を引き出せるのです。
もし、人々がその内面生活を法則によって支配されるものと見なすならば、人々は、現在のような混乱状態の中にはいなかったでしょうし、また、よくあることですが祈りの意義を発見しながら、再びそれを失ってしまうこともなかったでしょう。戦争とか、人々が危険や激しい精神的あるは、肉体的苦痛の重圧を被る大きな一身上の緊張の時には、今まで祈ったことのない人も、子どもの時から祈ったことのない人も大勢の人が祈ります。祈るだけでなく助けも得られることがわかります。突然、絶望して、窮地に立ち他には手を差し伸べる拠所もなく、人々は、その人のことを知ってはいるけれども自分からは呼びかけたことのない人、その人について聞いたことはある「神様」と呼ばれる人と連絡を取ろうとします。ほっとしたり、時にはびっくりもするのですが、人々は「助けて」という絶望的な叫びに答えて助けが得られることを発見します。しかし、彼らの生活は全て、彼らの存在と神の存在のまさにその本質によって助けはいつも手元にあるのですが、ただ彼らが恐らく気付いていないでしょう。この人達の多くは、事態の重圧が取り除かれると、将来再び彼らが極限にまで追い詰められなければ祈りをやめてしまうでしょう。彼らは、自分の鏡を下に向け、その光を消すか、また、鏡をみがいておくことを忘れ、光がそれに反射しなくなるかのようなことになるでしょう。彼らが、これをたいてい故意に行うことはないでしょうが、祈りが全く彼らにとって曖昧であり、日常生活の出来事の方が緊急であり、強烈なことが理由です。こんなに忙しく、こんなに注意を分散させるものや問題が山積みする私たちの超文明化された生活の中で働いている遠心性の強力な力は、人々を―もし彼らがそれを避けようと努力しないなら―彼らが見つけたり再発見したこの新しい内面の力から再び投げ出してしまうでしょう。
私たちは考えてみると、祈ることにおいては、たいへん利己的で無作法です。祈りのほとんど全部が「お願いします。」の祈りです。「これが欲しい。あれが欲しい。」そして「これを取り除いて、そうしたらあれをして。」私たちはめったに「ありがとう。」と言いません。賞賛することはそれ以上にありません。
この世の美しさ、澄んだ水、晴れた空、星、林、生の喜び、健康であり、不具でないこと。糧を与えられ、保護され、飢えたり寒かったりしないこと。愛し愛されたりすること。それらのことに、私たちの何人かが神へ感謝するでしょうか。私たちは賞賛したり感謝したりするべきですが、それはただ、そうすることが適切だからであるばかりでなく、それが私たちの心の中で感謝しなくてはならないものを全て強調するからです。そうすることで、不平ばかり言い、自分以上に所有している人をねたんだりする時に、私たちは、あら探しをしたり、欲の深い気分から抜け出ることが出来ます。
私たちは、祈りの方法を知らない人も誤った方法で祈っている人も祈りを練習しなければなりません。ぼんやりして、いくつかの言葉をぶつぶつつぶやいただけでそれを祈りと呼ぶことは、何も成果をもたらさないことが多いものです。成果などあるはずがありません。全てのことに、乗り越えなければならない惰性という力があります。それは、あなたが歩く時には、自分の足で立ち、考える時には自分の考えをまとめ、何かを動かす時にはグイと押す努力です。あなたが祈る時、連絡を取ろうとしている、神の放送局に、あなたのダイヤルを合わせるため、祈りに、誠実さ、緊急性、感情、主張など何かを込めなければなりません。その放送局はいつもそこにあるのですが、あなたは、連絡を取らねばなりません。あなたが神の放送局がそこにあると信じるならその努力は、極く微かで済みます。なぜなら、あなたの確信こそ磁石であり、自動受信機となるからです。しかし、あなたが信じないのなら、学ばねばなりません。ひとつずつやってごらんなさい。何かひとつ新しい技術を習得するように、応答があるまで続けてごらんなさい。あなたはあなたの抑圧、問題、頼りなさから神へ通ずる通路を開けるでしょう。祈りは効果があるに違いありません。なぜならそれが、あなた自身の魂を支配する法則にかなっているからです。精神的に健康でいるため魂は、意識的、能動的にその創造主にダイアルを合わせなければなりません。
異なる生き方とはどういうことでしょうか。
この世の中では、すべてのものが形態化されています。すべてが、その構成要素と明確な関連を持ちながら発展しています。原子から星雲に至るまで、物にはその存在のまさに本質である均衡、体系、秩序が在ります。その本質的な平衡状態が乱されない限り物事は、円滑に進行していきます。生体における健康は、そのすべての構成部分と良好な関係にあることに基づいています。平衡を乱して、ある部分を少なく別の部分を多くすれば、病気や異常の結果となります。核からX染色体を取り除きY染色体を付ければ雌ではなく雄になります。すべてが変わります。一生が変わります。感情も、職業も、習慣も、体の機能も、声も、姿も、全てがそのひとつの小さな違いによって大変革をおこします。それ故に、平衡が生命には解剖学的にも、生物学的にも、精神的にも絶対に必要不可欠です。体に必要なものと、体の扱い方の知識が19世紀と20世紀には、それが過去何百世紀の間に発達した以上の発達を遂げました。この20年か30年の間に私たちの心の働きの知識は、精神病理学の発達へと導きました。私たちは、何故物事をするのか、いかに精神が働くかを理解し始めています。今日の教養ある人びとには、不衛生、害虫、不純な水道の水、人口の過多、栄養不足が病気につながることを教える必要はありません。人びとはそれを大変よく知っています。徐々に、私たちは心理学によって証明された方法に従って今までと違ったやり方で人々を扱い、社会を改善する方法を考え始めてもおります。刑務所の改革、職業療法、青少年裁判所、戦争犠牲者の人格の急速な更正、これらはみな、私たちが健康の法則とか、思考の法則とか呼ぶことの出来る有効なある基本の法則に従って、私たちの世界を改善することを望んでいることを示すものです。
私たちの内面の発達には何がよいのか、健康な体だけでなく健全な精神を保持するにはどうしなければならないか、生き方の精神的な法則について、私たちはもっと知らねばなりません。
数学の理論も、煉瓦やモルタルの建築物も何もかも、基礎がしっかりしていないと長持ちしません。事柄が正確で、真実に充ちて、事実に一致しているかあるいは偽りで何も支えにならないかのどちらかです。家屋の基礎や骨組みがしっかりしていて、それを支えられるだけの強度があるか、あるいはその強さがなくて家屋が倒れてしまうかのどちらかです。同じことが私たちの人格にも応用できます。私たちの人格に必要な第一の基礎的な構成要素は真実であるということです。虚偽、偽善は不健全な要素です。真実が明快でどんな追求にも耐えられるのに、それらは真実ではなく、追求の明かりに耐えられないので不健全なのです。自然は真実に基づいています。それを騙すことは出来ません。適合するもの、自分自身の場所に入るもの、平衡を維持するものだけが受け入れられてます。偽物、代用物は除外されます。しかし、比較的自由な人間は、選択という王者の特権をもっています。彼は、嘘つきになるか、正道になるか決定することが出来ます。しかし、彼が生活に嘘を織り込むと彼の生活は、ゆがも、もつれ、飢えに瀕します。もし、人間が善い、確固たる、本当の価値ではなく、偽りのものを織り込んでゆくならば、人格という布は、代用物と、弱いところばかりになるでしょう。
嘘をつくことは他人を欺くばかりでなく、徐々にその人自身をも欺きます。私たちも含めて全ての動物が所有している本物と、偽物を区別する判断能力は、誤用することで鈍り、最後には退化してしまいます。私たちは嘘をついて、本来の自分を保っていることはできません。なぜなら、偽物を私たちの中に取り入れてしまうからです。死んだ物が私たちの生体の中に導入されます。生体の中の死んだ物は危険です。それらが腐敗するからです。嘘も同様にゆっくりと道徳の繊維を蝕みます。真実でないことを言うから真実でないことを行う、言い換えれば自分のものではないものを没収するまでの一歩はそれ程大きな一歩ではありません。もしあなたが一旦、あなたの価値を混乱させてしまうと、あなたの言うことが事実に基づいていようがいまいが、どうでもよく思えるようになり、「自分のもの」と他人のもの」の境界がわからなくなるまでいともたやすくその価値は、もう少しばかりさらに混乱します。真実であるということが、その上に人格を築く基礎になります。大きな嵐もその建造物をこわすことはできません。この広大な、忙しく、息づいていて、拡大途上にあり、進化している宇宙は現実であり、その価値はみな本物であり、偽りの存在する場所はありません。人生が欠陥だらけでどうして健全であり得ましょうか。なぜなら、嘘は、欠陥であり、本物、事実、真実がないことであるからです。
怠惰、空虚、貪欲、臆病だけが嘘を生み出します。人々が「本当のことを言わない方が親切だ。」と言う時、彼らはただ言い訳をしているか、自分を欺いているにすぎません。結局は本当のことを言う方が常に親切なのです。なぜなら、そうすればその人は自分の立場とどうしなければならないかがわかるからです。(この一般的法則の唯一の例外は医者です。彼は正直であるがために、患者を即座に殺してしまったり、治るのに妨害になるほど強いことを患者に言ったりすることを期待されるはずがありません。)小さな嘘、不注意な偽りが誤解や害のもととなるかもしれません。それが信頼を壊します。―というのは、ある人が一度あなたに嘘をついたら、その人が二度嘘をつかない保証がどこにあるでしょう。その人がある人に嘘をついたなら、他の人に嘘をつかないことがあるでしょうか。あなたの信頼を置ける何が彼の中にありましょうか。
嘘をつかないということに、健全な人格のもう一つの不可欠の構成要素である誠実さが加えられねばなりません。その二つは必ずしも同じではありません。この世の中には、嘘をつかない盗人同様、誠実な嘘つきもおります。誠実さとは、誰か他人の金を盗まないことに限られません。それは、実体のないものを盗まないことをも意味します。もしあなたが友達の妻に言い寄ったりしたら、あなたを誠実な人と呼ぶにふさわしくありません。あなたは彼から何か、彼がお金以上、いや命以上にさえ大切にしているものを奪っているのです。もしあなたが彼から愛を奪わなくても、その時、少なくとも彼の体面を汚しています。この世には、今日準不誠実とも言える大きな灰色の地帯があります。それは、誠実つまり白ではないのですが、盗みつまり黒でもないのです。両者の大きな混合です。それは贈収賄、不当な特権、心づけ、いわば我田引水というありふれた言葉で表現されます。これらの見出しで現存する腐敗の程度を、本にして出版すればかなりの大きさが必要になるでしょう。わいろによって自分の地位を得たり、引き立ててもらったり、ある取引が自分の事務所に流れ込んでくるよう確保したり、あなたが誰かに気に入られたり、その人があなたにサービスせざるを得ないはめになるようあなたに利益をもたらす人に贈り物をする。あるいは、もっと援助が欲しければ、もっとお礼が必要であると気付かせてくれる人に賄賂、換言すれば度を過ごした心づけ、をおくる。それはもはや公正とは言えません。なぜなら10回のうち9回までが、あなた以外の人があなたより正当な権利があるものを不正な方法で買収しているからです。あなたが当然受けるべき権利を10回目に受ける時でさえ、あなたはそのような方法を使うことによって、本来不正な慣行を行使することになるのです。それはあなたの預金口座にとってはよいかもしれませんが、あなたの人格にとってよいはずがありません。あなたがこの世の財産を手に入れて一生を終えても、あなた自身の人柄のよさに対する尊敬を得て一生を終えることはまずできません。あなたがこの世を去る時、お金も財産ももってゆくことはできないので、もっていけるものとしてだけでなく、あなたが毎日ずっと持っていなければならないものとして、つまりあなたの人格に投資した方がよいのです。高潔さ。あなたは全く嘘をつかない人であるかもしれません。この世で一番生真面目な正直者であるかもしれませんが、まだ高潔な性格ではありません。高潔な人とは何とはなしに快い、頼りになる、あなたがもっとこの世にあればなあと本能的に願うような人のことです。その人の言うことはすばらしく、あなたが確信を持って頼れる、卑しいことや不正はどんなに誘惑が多くとも決してしない人のことです。
もう一つの非常に大切な特質は、今の世の中では見つけるのがはなはだ難しいのですが、信頼性です。自分で行うとか合意を守るといった事、また、その件に関して期限を守ったり、社会的あるいはそれ以外の公約を守ることに完全である人がきわめて少ないことは驚くべきことです。信頼性は強さを意味するばかりでなく、それを育てます。あなたは、自分のエネルギー、時間、考えをある方向へと導きます。あなたはある定まった一点へ集中します。―それは約束の日とか、フランス語を学ぶというような目標だとします。―そして、その目標に達するまで突進します。これが「私はそれをすると言っただけでなく、計画通り完全にそれをやり遂げた。」という成就感や自信・自尊心をもたらします。個人の内面的報酬は力量感と満足感です。その人の受ける外面的な報酬は仲間からの尊敬や賞賛が増えるだけでなく、感謝と彼の進む方向へのよりいっそう豊かな人生の流れです。もし、その人がフランス語を学び始めそれを習得すると、彼の才能は高められ、学習能力が向上し、精神も豊かになります。もし彼が仕事関係で信頼性を示すと、彼は、過大評価されることのない資本評価の形で投資したことになります。もし彼が個人的な関係の中で責任感、時間厳守の感覚、信頼感を与えるならば、友人や知人には社会的な価値を築き、家族にとっては大黒柱となります。
これらは正真正銘これだけはは人格になくてはならないものです。しかし、それらは「冷たい徳」と言えましょう。それらは絶対になくてはならないものですが高潔な人間の形成にとっては充分なことも確かです。「暖かい徳」がそれらに加えられなければなりません。そのまず第一が親切です。前者を太陽の光にたとえれば、後者は雨であり、それは生気を与え、太陽と同様生命を生み、降水となる時、洗い清め、祝福を与えます。私たちの代表的な人間は、今まで真実に充ち充ちて、正直で、誠実かつ信頼に足る人物でした。彼は厳しく、冷淡で他人の苦しみに無関心で、けちで、不親切で、口やかましいこともあります。彼は大理石の彫像のように完璧ですが生気がありません。暖かさが心臓や血管を充たし、皮膚に赤味がさしてこなければなりません。動脈が鼓動し、手足が動かなければなりません。親切が必要なのです。
単に親切という言葉でも私たちの耳には有難いものです。それだけ人生の重荷を軽くし、暗い人生をそれだけ明るくしてくれるからです。その言葉はそれだけ多くの暖か味のある、優れたものから成り立っています。親切はある時は憐れみの表現であり、またある時は同情や、愛、正義の表現であることもあります。それは、私たちの魂の中のあまたの泉から流れてくるものです。私たちが親切を行うのは、自分が幸せだからのこともあり、悲嘆に暮れているからのこともあります。親切をするのが義務だからのこともあり、親切を行うことが私たちの最大の特権であると思うからのこともあります。親切にはたくさんの表現方法があります。今回は、何かをしないこと、例えば、他の人の的外れ、思春期の愚かさ、子供の行為や話の中の本人は大まじめなこっけいさを笑わないこととか、私たちより不幸な人の奇形や困惑に気付かないことが親切ですが、別の時は賞賛したり、激励したり、いんぎんであることが親切のこともあります。ある時はほほえみで、ある時は言葉で、またある時は行為によって、私たちは親切を示すことが出来ます。ただし、一つだけ確かなことがあります。それは、私たちが現せる親切はすべて、たとえそれがどんなに大きな利益を与えようと、その親切は誰か他人のためになるよりも、むしろ私たち自身のためになるということです。私たちの親切は、私たちの内部で精神の消化酵素(生物学者より言葉を借りれば)を分泌します。それは、私たち自身の堅い構成要素を消化します。私たちの利己心、貪欲、偏見、抑制は私たちが他人に示す親切に直接影響されるのです。
親切のほかに、人類の顕著な特徴となっているものの中で次にあげる優しい情熱も加えられるべきです。それは、同情、あわれみ、理解、容赦、寛大などです。私たちは完全でないが故に、皆大なり小なり誤りを犯しています。誤りは罰することの必要性を意味します。罰しないで済ますことや、それを軽減してやること、すなわち大目にみてやることが必要です。だから、実際に主の祈り[3]の中で容赦しなさいと言われているのです。その中では「私たちの負債をもおゆるし下さい。」と言っています。もし私たちが神、天の父に許しを求めるのなら、その時は誤りを犯したり、私たちを個人的に傷つける、ここにいる他の人々を許すことによってその希望が真実であることを示しましょう。容赦というその言葉こそ慈悲の行為を表します。神が感動して、私たちに慈悲をお与え下さるようお互いに情けをかけましょう。私たちが愛情に満ちて我慢強くお互いに感情を抑えているのを主はご覧になって、私たちの失敗や欠点をがまんし、大目にみてくださることでむくいてくださいます。
他人の窮状や動機、困難、弱点を理解することがその人達を助ける第一歩です。不寛容は何も問題を解決しません。私たちは賢明な医者のように、病気を診断するため症状をよく聴かねばなりません。それなのに近頃ではお互いを処遇するにどれ程理解がなされてないことでしょう。それはまるで精神膠着(頭の軽さは言うに及ばず)の流行病が発生したかのようです。国家はお互いの問題の現実を把握する努力をほとんど全くといってよい程しておりません。どの階層においても、どの民族においても同様です。彼らはお互いに難くせつけることに夢中で途中で立ち止って他人の話に耳を貸そうとしません。同じことがたいてい個人にもあてはまります。心を開いてお互いに接近することをしないで、他人を支配しようという気持ちでまるまるとふくらみきっている出来合いのプランを持つか、あるいはその人の見解に偏見をいだいて、その人の言うことはひとことたりとも聴こうとしないかのどちらかです。
この滑稽な精神的態度は私たちの関係の至るところで見出されます。親から子へ、子から親への、雇用者から被雇用者へ、またその逆の、貧しい者から富める者への、富める者から貧しい者へと限りがありません。それは、生命に向けての科学的取り組み方と正反対です。科学者は偏見など抱いている暇はありません。なぜなら偏見を抱けば、彼は正規のコースをはずれ、重要な点を見逃し、大切な時を見当違いなものを追い求めて無駄にするかもしれないからです。科学者は永久に心を開いていなければならないし、難問によって、彼に与えられた現実に関心をもち解決を見つけることに興味を抱かなければなりません。その時に問題の核心に達することができ、お互い本当に助け合うことが出来るのに、何故私たちは、科学者と同様に啓発され、先入観をもたない思いやりのある態度でお互いに接しようとしないのでしょうか。憐れみも同情ももたない人達もいるようです。(普通の人たちは思いやりがあります。罪人のタイプでなければですが。)そういう人たちは、彼らがこれらの弱さの現われだと考えるものを持たずにすむことを誇りとします。彼らは、それはその人自身の責任であり、もしその人が苦しんでいても、それはその人が彼の罪、愚かさの償いをしているだけだとする態度をとります。換言すれば、その人たちはその最も恐るべき病い、独善を患っているのです。私たちはみな、こういう偏屈な人間に出会ってきました。それが無神論者のこともあるし、狂言的な人のこともあります。しかし、彼らは最も不幸な人達です。なぜなら彼らは自らの精神を進歩の停滞した状態にしてしまっているからです。もし彼らが他人に同情やあわれみを示すことに価値を見出さないなら、それは、もちろん彼らが他人のためにそんな行為を示すことは無用だと思っているということなのです。誰もそんな危険を冒すことは出来ません。いつかある日、あわれみを受けるに足る程に深く落ち込んだり、他人の同情という鎮痛剤のお世話になるような打撃に遭遇し苦しむことがないと誰が確信できるでしょうか。同情もあわれみも決して必要なことはありえないと思った瞬間に、その人は真にその両方とも必要なのです。なぜならその人は自分の成長につながるドアを閉ざしてしまっているからです。もし、その人が何かが彼にふりかかるとか、彼が独善的にお高くとまっている所から突然墜落するかもしれないというところに気付くだけの想像力すらもちあわせていないなら、彼は実際、危険な立場にいます。なぜなら、その人は危険に注意することをおこたっているからです。危険と人生は手をとりあって歩いています。内面的な危険と、外面的な危険と。私たちは、進歩していないか限り、たいていは後退しているものです。自己満足している人は、自分が必要な進歩はほとんど完了していると感じています。結果的にその人は今にも後退が始まる所か既に後退が始まっているかです。後退は破滅につながり、破滅には挫折した心が再起する援助として同情とあわれみが必要なのです。
寛大さは、人間に求められるもう一つの特徴です。奇妙なことに、概して貧しい人達の方が、金持ちや裕福な人達より気前がよいものです。ほんの少ししかもっていないものだから、彼らにはごく少量がどれ程の意味があるのか、よくわかるようになります。大変苦しんだから、彼らには他人がどんな風に苦しんでいるのかがすぐにわかり、その重荷を軽減するため、自分のわずかの金を与えるのです。与えることは、非常にここちよい感じがするものです。ことに、もしあなたがそうすることをいつも心がけているならばです。時には、与えるということが、あなたが誰が他の人に援助や喜びを与えんがため分かち合った実体のあるものが、実体はないがもっとずっと満足のある気分を楽にし、高揚させるものに取って代わられるという印象を与えることもあります。自然は空虚を嫌うといわれ、すぐに何もない所を充たすので、あなたが他人に与えたものはそれが本当の贈り物であって「お前にやってやったのだから、今度は俺にも。」式のものでなければ、あなたは満足とか円熟とかあるいはあなた自身の本質の成長という形で報いられることでしょう。
健康な人格に絶対欠かすことの出来ない要素は何かと考える時に、特に注意を払うべき人間的な表現方法に他に二つあります。一つが礼儀にかなった行為であり、もう一つが私たちの舌を上手に使用することです。
礼儀は生活上の小さな親切であると言われます。この世の中のあらゆるものが仕上げをすることでよくなります。宝石はまずカットして次に研ぎます。家具はカンナで削り、次に色をつけ、ニスを塗ります。着物は裁断してから縫い付けますがきちんと縁取りをし飾られることもあります。家屋は建築されてから木造部分にペンキが塗られます。礼儀は私たちの人格の仕上げに相当します。それはみばえをよくし、他人との交際を円滑に、より気持ちの良いものにします。私たちは誰も、物事のざらざらしたへりの感触を好きではありませんが、それがあれば完璧なのに仕上げをしていない品物が見事に出来上がっているのを見るのも好きではありません。同じ事が個人にもあてはまります。好ましく上品で親切な人柄が同時に無礼で小さい事柄に思いやりがなく気の利かない人柄のこともあります。もし、その人が私たちの神経を逆なでし、いらいらさせる、そんなざらざらしたへりを研ぐならば、もし、その人が一歩進んで自分の人間性に向けて少しだけ努力すればもっとずっと気持ちよくなるだろうといつも私たちは思っています。
最近、特に若者達の間に大変奇妙な傾向が目立ち始めています。それは、粗野に振舞ったり、どちらかと言えば無作法にし、少しいやらしい方が気が利いていて、洗練されていることになると思うことです。それなのに、同じ若者が食事の後、自分が油っぽい指を衣服でぬぐったら、あるいは髪の毛を不潔にしもつれた塊にして、虫でいっぱいにしておいたら、また居間のカーペットの上に唾を吐いたりしたら、洗練されているとも、気が利いているとも思わないでしょう。こんなことを述べるだけで不快を催しぞっとします。しかしおおっぴらには話せない変な噂をしたり、ぶっきらぼうで無作法で思いやりがないことはまだ許せます。貴族階級の人々ですら手を使用して食べ、めったに風呂に入らず、高価な毛皮や汚れのないベルベットを身につけることはもっとまれにしかなく、人間に寄生するあらゆる種類の害虫に耐えた時代でさえ人々は、文明によって作り出された進歩を非常に自慢する彼らの子孫には、めったに見られない雄々しさ、礼儀、年寄り、病弱者、弱い者に対する思いやりを持っていたというのに何と不思議な事でしょうか。
私たちが持っているお互いに対する態度の、もっと一般的なもののいくつかを表してみても無駄ではないでしょう。それらは他人にとっては人生をつまらないものにし、私たち自身については、人気を落とすばかりか私たちの人格の人間らしさの中にある明らかな欠点を示しもするものです。あなたは自分ばかり話し他人に話させない人ではありませんか。もしそうだとしたら、それは人格の停滞している徴候だと気がつきませんか。あなたは進歩しないで立ち泳ぎしているのと同じです。あなたが自我からいつも頭が離れなくなるほど自分自身と自分の意見を高く評価するなら、その時あなたは他の人から何も得られなくなり、好奇心に充ちて眼を見開き、生気に充ちていることがなくなり、あの最も飽き飽きする人間、慢性的に退屈な人間になってしまいます。あなたは本当はとても良い人間なのかもしれません。だから自分にチャンスを与えなさい。あなたの自己中心主義によって他人をいらいらさせるのをやめなさい。
あなたは若い人の意見には全て軽蔑といらいらとで鼻を鳴らし30歳以下の人間が社会に対してもあなたの精神に対しても、実のある気の利いた貢献をすることは不可能なことと信じている年長者たちの一人ではありませんか。あなたはよもや自分が若かった事はなかったのですか。それにいつから年齢と知恵が同義語になったのでしょう。もう少し謙虚になりなさい。想い起こしてもみなさい。世界を誤った方向に導いたのはみんな30歳を優に越えた政治家が大部分だったのです。
あなたも、30歳以上の人は―実際には25歳以上なのですが―年寄りで耳を傾けるまでもないと思い込んでいる小生意気な若者の一人ではありませんか。そのあなたの感覚、最新式な物の見方、興味が進歩の基準であり、他はみな老人くさい事ばかりなのでしょうか。よく考えてもごらんなさい。何年か経てばあなたもあんな風に年をとるのです。その時あなたには知性のかけらもなくなり、無用の使い古しとして社会から引退するとお考えですか。それとも、あなたの今の素晴らしい輝きが当然しばらくは続くとお考えでしょうか。思い上がりはお止めなさい。あなたには大胆さ、機転、心の広さ、古い物事に捕らわれない心など若者の良さがあるかもしれませんが、年寄りにも経験、安定、寛容、辛抱強さなどの長所があるのです。世の中にはその両方が必要です。だからおばあさんをあまり煙たがるのはお止めなさい。
あなたは自分の持っていないものを軽蔑したり軽視する傾向はありませんか。もしそうだとしたらそれは劣等感の現れです。礼儀正しい人をこれ見よがしの人、趣味の良い人を俗物、思いやりのある人を取り入ろうとしている人と思ったら、その時あなたはおそらく礼儀を欠き、だらしのない服装で、思いやりに欠けています。何故変えようとしないのですか。その人柄に優雅さと魅力、暖かさが加わり、その人となりを他の人々が慕うようなこの人間的な素晴らしさを持つことを妨げるものは何もありません。誰か他の人に良い点を見つけたらそれを自分のものとしなさい。というのは、人生におけるこれらの美しい実体のないものは誰にでも無料だからです。自分を磨き、角をとりなさい。自然は偉大なる補償人でありますから自然から学びなさい。もしもあなたにある点で欠陥や障害があったら、それを乗り越えなさい。まず第一にあなたが悪い家庭や低いレベルの環境にあったら、それが何であれ必ず持っている何がしかの才能を磨きなさい。そしてもともとは不利だったものを対照的に長所に変えなさい。あなたがもし、外見上醜かったり不器量だったりしたら、機知と知性を気立ての良さと同情、親切でそれを補いなさい。もしも奇形だったらそれを忘れることです。あなたの奇形が単なる目印―さらには賞賛のもととなるよう、他の特徴が明るく輝くようにしなさい。私が今までに知り合った最も立派な人達の中の一人は少しせむしでした。彼の背中や肩が変形しているばかりか顔もゆがんでいました。彼は陽気で魅力的で知性にあふれ、皆に愛されておりました。その証拠に、彼には背のすらりとした正常な奥さんと二人のとても可愛いい子供がおりました。そして後にこの子供達が充分成長し彼が50歳になった頃、二人目のとても素敵な女性と結婚しました。彼は精神と魂の才能を全て完璧に開拓したので、彼の奇形の体は少しも不利ではなく彼の愛すべき部分とも見えるようになりました。人は彼を、あるがままの姿以外に想像することも希望することもできませんでした。
苦虫をかみつぶしたような顔。不機嫌な顔をした人があなたは好きですか。敵意に充ちた顔は?怒った顔は?多分嫌いでしょう。だからその種の表情を顔にたたえて仲間に苦しみを与えながら人生をおくるのは止めなさい。人々は普通、病気、不満、心の乱れからそんな表情になるのです。ところで、これらの顔の表情を直す方法があります。もしあなたが病気だったら、体に気をつけてそれを克服するように努力しなさい。しかし一方では、その非社交的な表情をあなたの顔から消すため、あなたの側に求められる僅かな特別の努力は、あなたの害とはならないでしょうが、為になることがあるかもしれません。もう少し陽気に見えるよう努力することで、多分もう少し陽気になるでしょう。私達は普通、人生に投資した分だけのものを人生から得られるのだという事を忘れないで下さい。あなたの為にあなたを愛するあの奇特な人達を除いては、不快な顔に向けられる同情の眼差しを見つける事は出来ないでしょう。不満については、その最善の改善方法は感謝する事です。感謝を感ずる方法は、あなた程暮らし向きの良くない人達の事を考える事です。そしてそんな人は山ほどいるのです。怒りの眼差しを直すのはもっと難しいものです。怒っている時は普通かんかんになって、あまり道理がわからなくなってしまいます。しかし、自分自身を笑う事はできます。そしてもともとあなたが公正な人だったら全然責任のない人に怒りの眼差しであなたの怒りをぶりまけるのは、明らかに公正ではないとわかるでしょう。近頃、私達はどちらかと言えばあくせくし、疲れる、気のやすまらない世の中に暮らしています。私達の眼が静かな笑みをたたえた顔に出会う時、それはどんなに僅かではあっても、心休まる感じを産み出します。顔に、それなりの人間的な表情をたたえて世の中に顔を向ける事で、あなた自身と他の人達の生活の調子を上げる役割を果たすよう努力しなさい。
私達が皆、あの手この手で犯しがちな厚顔無恥のとても良い実例が私自身にありました。かつて私が遠隔の地を旅している時、私は旧友と木陰でチェッカーの一種であるゲームをしているはでで粗野な伊達男を見つけました。私は誰かに説得してもらい彼に日なたに立ってもらって写真を撮るまでは落ち着きませんでした。初めその人は断りましたがあまり強く説得されたので、ついに彼は愛想よく立ち上がりました。そこで私はその人の写真を撮って、その私の貴重な戦利品を持って別れました。しばらくして現像し大喜びでそれを見た時、私はなんとまあ人の道に反した無遠慮でずうずうしい態度であったろうと突然思い立ったものでした。もしも私が自分の国で友達と座って、動物園やサーカスの出し物ではなく静かに仲間内だけでゲームを楽しんでいる時、全く見知らぬ人がやって来て、私に立って陽のあたる所へ行って私の写真を撮らせてくれとせがんだら何とした事でしょう。恐らく私だったら警察を呼んだ事でしょう。それなのに私は何千という他の旅行者達のように、私が本国から遠く離れてその人が他民族であるという理由だけで、他人にそんなことをする当然の権利があると思い込んでしまったのです。私はその人の反応と同じ状況下にある時の私の友の反応とを分析した時、白人、特にアングロサクソン系の人達は、世界中で一番無礼な人種であろうとふと気付いたのです。
洗練という言葉は、私達のより多くがそれについて考える方がよい言葉です。それは、私達を類人猿とは明らかに異なる範疇に置くあの究極の仕上げを意味します。猿の家に行ってみる事は非常に有益な経験になります。私達の遠い解剖学上のいとこが、ずらりと並んで座り、体をかいたり、自分の体を調べたり、鼻くそをほじったり、寄生虫を捕えたりして、また大部分の猿はキャーキャー叫んだりして暇をつぶしています。ボルネオのオランウータンやチンパンジー、ゴリラのような大型の猿はもっとずっと威厳をもって振舞っています。振る舞いに関しては、人類は尾無しの大型ザルよりむしろ小型尾長ザルのようになる傾向があることは残念です。要するに私たちの精神、文明、生活様式だけが私たちを全ての動物から区別するのではありません。最後に付け加えなければならない。あの洗練という言葉に集約され、「神は紳士だ。」とか「彼女は淑女です。」と言って男女を適切に区別する細かい仕上げがあります。その最初の教訓はサルから学ぶことが出来ます。彼らがする事しない事を御覧なさい。最も早期に母が子に教える事の中に「他人の前では鼻、耳、口などに手をやってはいけません。」という事があります。小さくて白い顔のギボンやバブーン種の猿をよく御覧なさい。彼らは他人の物をひったくったり烈しくつかみ合ったりします。教訓。つかむな。ひったくるな。彼らに耳を傾けてごらんなさい。気ちがいじみた大声を発しています。教訓。他人に向って大声で叫んだり金切り声を発するな。
これらの事を述べる事は人をばかにしているように思えるかもしれないし、こんなに当たり前の事を私たちに言う必要はないと考えるかもしれませんが、そうではないと私は思います。私達は皆、少しはそれらについて本当に考える必要があります。やたらとひったくる事、叫ぶ事、バタンとドアを閉める事、鼻をほじる事、かくことは分別のあるべき大部分の大人によって行われているので、もし大人に分別がないなら自重して分別を学習しなければなりません。洗練は有閑階級の特権であると考えられていました。そしてもしあなたにより多くの時間があり、より多くの使用人、お手伝いさん、住むに快適な家があれば、あなたが楽に洗練されるであろう事は疑うべくもありません。しかしながら洗練はお金や社会的地位によるものではありません。私たちの巨大な都市の最悪の一画に、あるいは極貧の家庭に、洗練と礼儀を見出すこともよくあります。実際、私の経験からも親切、歓待、優れた振る舞いという意味での本当の洗練が世界中の文盲の原始人や村人たちの顕著な特徴となっていることもよくあることです。
人間の舌は大変強力な武器です。国家は建てられ、舌によって滅ぼされてきました。なぜなら演説は人間の偉大な才芸の一つだからです。それなのにそれなのにそれは両刃の剣のように良くも悪くも両方に切れます。私達はそんなに強力な武器を良くも悪くもいかに使うかに腐心しなければなりません。悪いと思いもせず人々が不注意な陰口、告げ口、批評によって、他人の生活を見事にずたずたに切り刻んでしまうこともたびたびです。私達は盗む事がないようにと手を見張るし、心には嘘をつかないよう気をつけていますが、舌には中傷しないように気をつけることはあまりありません。それなのに残慮の結果発せられた国家間の言葉が、彼らをして戦争に突入せしめるかもしれないし、同様に個人の間で愚かにも発せられた言葉が、全く真実の根拠もなく人の名声を汚し、友情を壊し、結婚を妨害し、家族内不和の原因となり、人の全生涯をだめにするかもしれません。最も高潔で他人の害にならない人々が、最もひどくこの陰口や中傷という悪い癖に犯されることが多いようです。私達の持っているこの話術の能力は理由のない破壊の為に私たちに与えられたはずはありません。それは私たちの精神が犯罪や腐敗の道具として、あるいは私たちの心が憎しみや強欲の心の発電所として計画されたのではないのと同じです。
第四章 愛と結婚
私たち個々人は、孤立した存在ではありません。私達の生活はすべて、他人との関わり合いの上に成り立っているのです。人間は、自分ひとりでは完全なものにはなれないのです。人間は生まれつき―蜂や蟻といった群をなす動物と同じように―集団をつくる種であり、独りだけで人格を完成させるなどということは誰にもできない相談なのです。スーフィー派の僧侶や行者たちは、世俗的なものを拒絶したり、悔い改め、自ら苦難を求めて苦行することによって、自分が個人的に救われたり、自分自身の自我を円熟させることに一生を費やしていますが、このようなことと同じなのです。ということは、人間であれ何であれ、群をなす種においては、個体は集団の中でお互いに影響を受け合い、強調し、競い合い、刺激を与え合い、相手を手本として学びながら、成長していくものだからです。それゆえ個人が成長していく過程は、そのほとんどが、私たちが出会う人々の人生と関わりをもっているのです。私達が彼らとどう関わり、どう対応するかによって、私達の人格が良くも悪くもなるのです。
世界は、増殖を繰り返すことによって、発展してきました。単細胞生物は分裂によって増殖しますが、高等動物は結合によって子孫を作ります。人間も、他の高等生物と同じようにして、子孫を生み出すのです。ですから、人間の相互関係において最も基本にあるのは、家族です。たとえどんなに厚い友情でも、人間社会の基盤にはなりえないのです。夫婦こそ基盤なのです。男と女、すなわち夫婦が基本的な単位で、その周りに、子供や親戚や友人達の輪が広がっているのです。したがって、個人の人生において最も基本的なことの一つは、性の問題に如何に対応するか、ということになります。このことは何時の時代においても重要な問題でしたが、しかし今日ほど性が一般大衆にとって問題になったことはありません。文明世界には、性への執着、性の乱れ、露骨な性描写、性欲を刺激するもの、といったものが氾濫しています。性の問題を余りに強調しすぎたため、かえってその解決が難しくなり、未だに解決できないでいるのです。それどころかこの問題はますます増大しており、このままでいくと、アメリカでは、間もなく半数のカップルが離婚に至ってしまうでしょう。「教育が混乱の後手に回っている」、とはある作家の弁ですが、まったくそその通りです。離婚は増える一方です。特効薬が出来たにもかかわらず、性病にかかる人は増え続けています。先進国の多くでは、出生率が落ち込んでいます。道徳の荒廃は目に余るものがあります。でも最も見過ごせない問題は、若年層の間に、性道徳をないがしろにする行為や、乱交が広がっていることです。まったく今日の西洋社会では、九歳の少女が売春することなど、さして珍しいことではありません。また子供をモデルにしたポルノ雑誌が次々と出版され、私達の社会は、道徳的荒廃という底知れぬ溝に現在向かい合っているのです。これらはみな腐敗しきった精神の反映ですが、こうしたことに正常な精神の持ち主はこれ以上耐えられなくなっています。何かが明らかに狂っているのです。社会全体も間違っていますし、その構成員である個々人の態度も間違っているのです。私達は根源的な精神の法則に背き、私達が成長するにあたって欠かすことの出来ない、人間なら本来持っている筈の道徳的指標を無視してしまったに違いありません。なぜなら、もし私達がこうした道徳律を守っていれば、先に述べたような邪悪に満ちた状態が減ることはあっても、増えることはないはずだからです。
世界で行われている結婚を分類すると、大きく三つの形態に分かれると言えるでしょう。その中で最も広範に流布している形態は、アジアやアフリカは言うにおよばず、南洋諸島の全域や西半球の部族社会にまで見られるものです。ここでは結婚を、単なる共同体に対して負っている社会的な義務としてだけでなく、実際に従わなければならない義務であり、家全体の問題であって、しかも基本的には両親が決定権をもつもの、と考えています。二番目はヨーロッパ的な結婚観とも言えるものです。すなわち結婚を、社会がしかるべく機能するために欠かすことのできない基本的な人間関係であり、理性的になされなければならないものであって、親族や縁者の不利益になるようなものであってはならない。そして個人的な恋愛感情をあまり持ち込んではならない―もしどうしてもと言うなら、結婚以外のところで恋愛感情を満たせばよい―と考えるものです。三番目の結婚観は、超アメリカ的とも呼べるものです。それは個人主義的な色彩が濃く、結婚に対して極端に理想やロマンスを求める形態で、もっぱら愛という言葉で表されるものに基盤を置くものです。彼らは、結婚によって無上の幸福を得られるとするばかりか、もし得られない場合には、その結婚を続けるのは自然の摂理に反するとまでみなし、新しい伴侶を求め続けることが許されるのです。つまりお互いの恋愛感情が満たされなくなった時は、二人が結びついている理由が全く失われた時であり、それゆえそんな結婚は解消しなければならない、というのです。
以上はもちろん一般論であり、そのように理解して頂きたい。どこにでも例外というものはあるし、また現実の結婚はその一つ一つが異なっているからです。だがそれでも、結婚を分類すると大きく三つの形態に分かれる、ということは言ってもよいでしょう。一番目は主に東洋人に代表されるもので、彼らは結婚に対して、完全なる愛とか理想的な夫婦関係といった過大な期待をかけることがありません。彼らは結婚を、子孫を残すことによって自分の名を永久に留め、また社会に貢献するための、人生上の重大な行為とみなしています。次はヨーロッパ人の形態で(他に適当な言葉が見つからないので、こう呼んでおきます)、彼らも同じように、結婚を通して理想的な幸福を得られる、といったほとんど幻想に近いような期待を抱くことはありません。もちろん相手の選択にあたっては、東洋人よりも個人の自由が許されますが、それでも選択にあたっては極めて保守的です。そして制度としての家庭生活を非常に大切にしますが、その一方で、家庭以外の場所で楽しみを求めることをさほど問題視しません。アメリカ人の場合は、自分の努力は最小限にしておいて、結婚から何とか多大なものを得ようとします。彼らは、目上の人達の助言に全くといって良いほど耳をかさず、自分の立場だけで結婚を考え、あまりに事を急ぎすぎるのです。
結婚における幸福の度合いについて調査した場合、アメリカ人の方が、たとえばタイ国の人よりも幸福度が高い、という結果になることは恐らくないでしょう。それどころか実に驚くべきことに、北米やヨーロッパの人々が「後進国」とみなしている国の人々の方が、真に幸福で調和のとれた婚姻生活を送っており、しかも結婚の問題に対して極めて自然な態度をとっているのです。もちろん如何なる国の人であっても、成熟しておらず、不健全な性格の持ち主は、結婚のように緊密な人間関係から幸福を得ることはできません。ここで二つの極端な例を挙げてみましょう。中近東の男性は、概して男女の結びつきに対して、人生を豊かにし、深い喜びを与えてくれるもの、という期待をもたなすぎます。これとは反対にアメリカ人は、目に余るほど期待をかけすぎますが、それは主に、彼らが間違った価値観を重視しているからなのです。
人類のほとんどは、結婚を、子供を設けるために結ばれる関係とみなしています。ところがアメリカ人には、結婚を、性的な満足を得るために結ばれる関係とみなす傾向があります。前者の考え方の方が真理と自然の法則に基づいており、後者のほうは枝葉末節にこだわりすぎているのだ、ということに彼らが一刻も早く気づけば、より大きな幸福が得られることでしょう。
ところでここで、私はある重大な真理についてお話ししたいのですが、そのためには、この結婚という重要な問題と関連させてお話しするのが一番良いでしょう。私達が住んでいる世界、私たちに備わっている五感、音楽や美術という形で表現されている音や色彩を美的に楽しむために私達が育ててきた高度な鑑賞能力、こういったものはすべて善なるものなのです。そして私たちは、単にこれらから喜びを得る権利をもっているだけでなく、そうしなければならない―そう言ってよければ―義務も負っているのです。それは、これらは生得的な権利の一つですが、そもそもは神から与えられたものだからなのです。豊饒なる自然が、私達が享受するよう豊富に与えてくれているものに対して、それを無視することこそ清く正しく信心深い、つまり世俗的なことから超然としていることの証だと考えたり、人生上の正当な楽しみをはねのけてこそ救いの道へ進めるのだなどと考えるのは、まったく間違った生き方です。感覚的なものは、私達の生命がよりよく花開くようにしてくれるだけでなく、生命というものをよりよく理解できるようにし、内なる向上がなされるより高い次元へと通じる、一種の扉なのです。ただし他のあらゆるものと同様、五感も自分の役割を越えてはならず、また本来の機能を果たすようになっていなければなりません。
というのは、人間には、味や匂いを感じ取る鋭い感覚や、音楽を聞くための耳や、形や色彩を楽しむための目が備わっているからなのです。すなわち、人間は深い情感を感じ取ることができるからなのです。ただし、人間の心には、文学や科学というものを、理解し、そこに喜びを見出す能力が備わっているからといって、それは、人間が官能的なものに耽溺しているとか、人間は全くの唯物論者である、という意味ではありません。反対にそれは、人間が神から与えられた能力を適切に発達させてきたことの証なのです。ところが、美食家になったり、美的なものであれ性的なものであれ知的なものであれ、感覚的なものに耽ってそれを満足させるためだけに生きるようになると、その途端に、せっかくの神から授けられた能力が乱用され、魂の発展が妨げられることになってしまうのです。そうなると人間は、もはやこの世が五感を通してもたらしうるものを享受することなく、この五感を司る主人というよりは、その奴隷になり下がってしまいます。これではまるで、音楽家が楽器を自由に弾きこなし、思うままに演奏するのではなく、ピアニストがピアノの鍵盤の命ずるままに弾かされているのと同じになってしまいます。ちょうど禁欲や苦行が自然に反し、根本から間違っているように、感覚的なものに耽溺することも間違っており、人間の本性にとって有害ですらあるのです。というのは、たとえいかに禁欲が悪いことであっても、何かに極度に耽溺してしまうことの方が、より悪い結果をもたらすからなのです。これは古くある騎手と馬のお話ですが、元気な馬に乗って疾駆するのは、大変素晴らしい気分のものです。でも、ほとんどの制御のきかない馬に乗ることほど、危険なことはありません。今日、人々はさまざまなことに対する制御を失ってしまいましたが、その中でも最も際立っているのは、性生活の制御がまったく失われてしまったことです。彼らは、極端に肥大化した性欲を満足させることこそ何よりも大事な権利であって、幸福へ至る道であり、人生がもたらしうる最大の楽しみである、と考えているようです。西洋文明は、生を白日のもとにさらす傾向をもっています。たとえば、これまで安物の恋愛小説が数限りなく出版され、主に女性の読者によって、少なくとも三世代にわたって、日常的に読まれてきましたが、今やこうした軽文学が風俗の乱れの波にのって増大し、本屋、雑貨屋、空港のターミナル、薬局、ホテルのロビーなどの、ペーパーバックを置いた書棚に氾濫しています。こうした出版物は、少し前まではポルノと呼ばれ、禁止されていたものです。映画産業も、今や―写真広告や看板に見られるように―、想像力に訴えかけるようなものはほとんど何一つ作らず、通常の性行為のみならず、ホモセクシュアルとかレズビアンといった異常な性行為に関する百科事典的な知識を、あらゆる年齢層の子ども達に与えている始末です。音楽、美術、ファッション、広告業界は、潜在意識に直接訴えかけるという、巧妙で危険に満ちたテクニックを用いて、性欲の炎を盛んに煽り立てています。こうした社会状況のしたでは、人間同士の結びつきである結婚が急速に荒廃してしまうのも致し方ありません。まるで、「人は性の満足を得るために生まれてきたのであり、性の満足こそ人間の自由の根本なのだ。皆で性欲を満足させよう」、というのが私たちの標語になっているかのようであり、しかも人々は、このめちゃくちゃな標語を、見た所何の疑問も抱くことなく受け入れているようです。そしてその結果、病気や堕落した行為や離婚が、広範に増加しているのです。
ところで、人間は動物と同じように「本能」に従わなければならず、こうして初めて健康な生活が送れる、という主張がありますが、このような主張は百害あって一利なしです。というのは、人間と動物は同じではないからなのです。動物にとっての本能は、彼らを、逆らうことができないだけでなく、かえって逆らうと危険に襲われるような行動へと駆り立てるものですが、人間の本能はこうしたものとはまったく異なっているのです。動物は、本能によって行動を抑制されたり、行動に駆り立てられますが、人間はそうではありません。人間には、自由意志によって行動し、抽象的な思考をなし、自分の心と対話して情感を深める能力が備わっており、これらが途方もない力を私たちにもたらしてきたのです。ただしこうした力は、私たちの責任において支配し、制御しなければならず、今日の混乱した状況にみられるように、野放しにしてはなりません。
人間の精神の中核をなす、花ともいえるものは、愛する能力です。愛は社会を結束させる最も強い力であるばかりでなく、唯一の恒久的な融和剤、すなわち人々の間に調和をもたらす唯一の力でもあるのです。そして愛は、人々を調和させることによって、彼らの生活が最上の形で営まれるような秩序と雰囲気をもたらしてくれるのです。性を間違った形で表に出している限り、人間の真の本性が下落することは避けられません。動物は、ただひたすら無邪気に、子孫を残すために本能の命ずることを無意識に満たしているだけで、それは何の罪にもなりませんが、人間がこれと同じ事をすると罪になります。いったい何故なのでしょう。それは人間の品位に値せず、自らの魂を動物のレベルにまで落としめることだからなのです。人間は動物と違って、自らの行為についてよくわかっているだけでなく、それに対する責任も持っているからなのです。性の表現が誤った方向へ向かい、堕落し、乱れた不道徳なものになるのも、実は、人間が完全に意識してそうなるよう選択した結果なのです。しかもこの時に、漠然としか意識に昇らない場合もありますが、たいていの場合、感覚を満足させるだけを体験していると、他より高い価値をもったものが犠牲になってしまうことを承知しつつ、そうしているのです。
もし種の異なった動物同士が交尾するのを見たら、たとえ子どもが生まれないにしても、動物の側の猥らな行為を目の当たりにして、私たちは衝撃を受け、嫌悪感を覚えることでしょう。しかしそれでも、とどまることを知らない情欲を満たそうとする人間のほうが、その何千倍もおぞましいのです―しかも私たち人間は、このことに対して恥じることもなければ憂慮することもない始末です!人々が幸せを感じることが出来ず、結婚から満足を得られず、離婚に至るのも当然の報いと言えましょう。そもそも性というものは、肉体と魂の両側面から考える必要があります。ところが現在、肉体の方では、動物と比べて不自然なほど食欲や性欲が増進しており、また魂のほうでは、魂が個々人の性生活に何かをもたらしたり、そこから何かを得たりすることを全く阻まれています。このように肉体と魂のことを完全に無視していて、いったい幸福な結婚など可能なのでしょうか。そして社会の土台である結婚がぐらつき、本来の目的を果たせていないとしたら、そこから派生する父と子、兄弟と姉妹、親戚、知人といった人間関係も、満足をもたらすものではあるはずがなく、また生活全体を豊かにするという本来の役割を果たしてくれるはずもないのです。
こうして私たちは、愛とは何か、という難問に向かうことになります。ノーベル賞を受賞した、有名な医学者であるアレクシス・キャレル博士は、人間関係において愛こそが最も重要なものである、と次のように簡潔に述べています。
「私達はまだ、愛というものが人間にとってなくてならないものであって、贅沢品ではない、ということをよく分かっていません。愛とは、夫と妻と子供たちを結合させる、唯一の要因なのです。貧者と富者、弱者と強者、雇用者と被雇用者をまとめて一つの国家にするだけの力を持った、唯一の強力な接着剤なのです。もし自分の家庭の中に愛がなければ、如何なる場においても愛を持つことができません。愛は、知性や甲状腺ホルモンや胃液と同じように、なくてはならないものなのです。愛という調味料がなければ、いかなる人間関係も満足を与えるものにはなりません。「愛し合いなさい」という道徳律は、基本的な自然法則とも言えるものであり、熱力学の第一法則のように動かしがたいものなのです。
*
『リーダーズ・ダイジェスト』誌、プレザントビル、1939年7月号の、アレクシス・キャレル医学博士の論文より、許可を得て引用。
アブドール・バハは、これと同じ考えを、より明確にこう語られています。
「愛とは、神が人間に啓示をお下しになるときの拠り所であり、神が創造なされた時に、森羅万象の中に備わるよう計らってくださった、力強い結合力なのです。愛とは、現世と来世における真の至福を保証してくれる、唯一の手段なのです。愛とは、暗闇の中で私たちを導いてくれる光であり、神と私たちを結びつけ、神の光を受けた魂の一つ一つを向上させてくれる、生きた絆なのです。愛とは、力に満ちた天上界を支配する最も偉大な法則であり、この地上界のさまざまな要素を結び合わせる比類なき力であり、天体の運動の方向を定める崇高な磁力なのです。愛には決して敗れることがなく、また尽きることのない力が備わっており、
それを用いて、この宇宙に潜在する神秘を啓示してくれます。愛とは、人間の美しい身体に吹き込まれた生命力であり、この人間界に真の文明を築いてくれるものであり、崇高な目標を掲げている人種や民族に対して、尽きることのない栄光を降り注いでくれるものなのです。」
*
ショウギ・イフェンディ訳『バハイの世界』第二巻、50頁
愛は一体何故、これほどまでに卓越した存在なのでしょう。それは、私たちをお創りになられた神が、愛の神だからなのです。この神の本性は、あらゆる被造物の中に充満しています。たとえば原子に備わっている結合力、銀河系を規則正しく回転させている不可視の引力、分子の凝集力などです。また植物は美しい花を咲かせて授粉してくれるよう虫を魅きつけて新しい生命を大地に落としますし、小鳥たちは愛をささやき合って自分たちの巣を作りますし、堂々とした雄鹿には雌鹿と子鹿がおり、人間の男性にも妻と子があります。こうしたことはすべて、神の基本的な特徴、すなわち愛を反映したものなのです。
もし私たちが、愛と性を、結婚という適切な場で結びつければ、汲めども尽きることのない幸福と力をもたらしてくれる泉をもつことになるのです。性は愛を強める力をもっており、愛は性を、肉体だけでなく魂にも喜びをもたらす霊的な交わりへと高める力をもっているのです。
結婚というものは、対人関係、大きくは対社会関係という観点から見なければなりません。何事においても、そのあるべき役割を理解しないかぎり、そこから最大限のものを引き出すことはできないのです。結婚とはまず第一に、生涯を共にする伴侶を得るためのものでなければなりません。恐らくあなたの身近にいる人の中で、もっとも長く付き合うことになるのは、あなたの生涯の伴侶でしょう。あなたの御両親は、たぶんあなたよりも先に亡くなられるでしょうし、お子さんがたはやがては成人して独立されるでしょう。そして兄弟や姉妹、また友人たちもいつかは生涯を共にする近しい存在をもち、いやおうなしにそちらのほうを優先することになるでしょう。しかしあなたの伴侶、すなわちあなたの妻や夫は、これからもずっとあなたと一緒にいてくれるのです。結婚すれば、喜びも悲しみも分かち合わなければならず、家庭や子供や収入は言うに及ばず、趣味や娯楽も共有することになるのです。あなたが未婚であれば、結婚する前に、以上のことを理解しておく必要があります。そしてあなた方お二人が、こうしたことを満足にやりこなせるかどうか、しっかりと考えておかなければなりません。
結婚に対して、過大評価したり、過小評価してはいけません。水は、水面よりも上に上がることはありません。あなた方の結びつきも、二人でなし得る以上のものを作り出すことはできないのですもしあなたが、寛大さに欠けるとか、辛抱強くないとか、妥協を許さないとか、横暴であるとか、疑い深いとか、癇癪もちであるとか、我がままであるといった、不完全な人格の持ち主である場合、こうした性格のままでいてもいつかは自分の結婚が幸せなものになるであろうとか、相手を代えて別の人と結婚すればうまくいくだろうなどと、どうかお考えにならないで頂きたい。結婚の役割の中で最も大切なのは、他の対人関係でもそうですが、私たちの角を削って丸くしていく過程なのです。角を削ることは、しばしば痛みを伴いますし、また他人の性格に合わせるのは初めは大変難しいことです。そしてそれだからこそ、結婚においては、他の対人関係以上に、愛というものが必要になってくるのです。愛は本質的には神の力であって、これが二人を結びつけてくれるのです。すなわち愛は、人々の見解の相違や互いに相容れない欲求、また時には正反対に近いほどくい違う気質の間にある溝を、まるで閃光のように飛び越えてしまうのです。私たちは誰でも、ついうっかりして、あるいは怒りや妬みや恨みにかられて、あ互いに傷つけあってしまいますが、愛はそうした傷を癒してくれるのです。結婚に対して愛がもたらす作用として、徐々に影響を及ぼしてくるものにもう一つ、習慣という強い力を持った触媒作用があります。同じ家に住み、日々を共にすることによって、習慣という共通の枠組みが作られ、この人間の一生において最も強い力の一つによって、夫と妻が一つに結び付けられ始めるのです。習慣は、一種の驚異的な安定装置として作用します。そして万一愛が十分に機能を果たせなくなったときには、習慣が力を発揮して、二人の結びつきを維持してくれるのです。
ところで、結婚という方程式を成立させるためには、二つの重大な前提条件があります。その一番目は貞節であり、二番目は子供です。貞節という道徳は、今日の世界においては、最も稀有な宝物のようなものになっておりますが、そもそもはあなたの精力を大事にして、あなたの人生に多大な美をもたらしうるものにすることを意味しているのです。そしてそうした精力が適切に用いられるのは、あなたの人生の伴侶、すなわち家や子供をともにし、人生上の楽しみやつらい重荷を分かち合ってくれる配偶者とも間でのことでなければならないのです。二人が結婚する前に、男性のほうも女性のほうもこの貞節を守れば、結婚は何千倍にも高潔で、精神的に清潔なものとなり、二人の人間性が高まります。なぜならその場合、二人は結婚を始めるときになって、初めてあらゆることを分かち合うことになるため、彼らの結婚が成功するチャンスがずっと増えるからなのです。相手を他人と比べてはなりません。また一方が、相手にあまりに欲望を押し付けてもいけません。そうすれば、相手が傷ついてしまうかもしれないからです。でも何にも増して大事なのは、しかるべき形でセックスを営むことです。すなわち個人的な情欲を暴走させることなく(これは今日、大変顕著に見られます)、正常で健康的な満ち足りた人生をもたらすという、セックス本来の機能を発揮させるようにするのです。
今日、一部の人の間に、性的欲望を抑えることは健康を損なうことであり、性に関する個々人の栄光に満ちた、正当な権利を侵害することだ、という叫びがあがっています。ところがこれに対して、先のキャレル博士は、次のように述べています。
「結婚前の理想的な状況は、貞節を守ることである。貞節を身につけるためには、小さなころから、道徳的に訓練することが必要である。貞節は、自己鍛錬の最高の表れである。若い頃に、意識的に性行為を慎むことが出来るようになれば、他の如何なる道徳的な努力や身体的な鍛錬よりも、人生の質を高められるからである。*」
*
キャレル、前掲所
貞節の倫理的な帰結は結婚であり、それも出来れば早い結婚が理想的です。
けっこんの目的は子供です。ところが現在の世界では、特に大都市の忙しい生活では、このことが急速に顧みられなくなってしまいました。私たちに生命を授けてくれた穢れなき大地から、私たちは余りにも遠く離れ、物質文明という迷路の中へ迷い込んでしまったため、如何なる動物にも備わっている、最も原始的な喜びと至福の境地を、私たちは自分自身で段々否定するようになってしまったのです。
子供を設けることは、私たち人間の本性です。子供をもうけることは、たんにからだにとってよいコトデアリ、また社会にとって必要であるばかりでなく、私たちに精神的な祝福をもたらすものでもあるのです。自分にそっくりで、自分から生まれ、自分の慈しみを一身に受ける、新しい生命を生み出すことは、人間の心の隅々にまで、新しい感動の渦を巻き起こしてくれます。それどころか、自分の赤ちゃんの手に触れて、心臓の鼓動が早まらないような人間は、死んでいるも同然です!私たちはいつも利己主義という重荷を背負っていますが、赤ちゃんはそんなものを吹き飛ばしてくれます。赤ちゃんによって私たちは、人生に対して改めて鋭く見つめるようになり、新たなる責任感が芽生えてくるのです。赤ちゃんによって人間は、自分自身の行き方について、そして自分の名誉とは何かについて、問い直すようになります。赤ちゃんは、新たなる種類の愛を呼び覚ましてくれます。すなわち、自分のことなどほうっておいて、他社に対して我慢強く、惜しみなく与え続ける愛のことです。実際子供を設けることは、両親にとって、自らを清め鍛錬する契機となりうるし、またそうでなければならないのです。子供は人生に情熱をもたらしてくれます。というのは、子供を育てるためにはさまざまなことをなさねばならず、例えばこの新しい人格に食べさせ、支えとなってあげ、鍛え、教育を授けなければならないからです。こうして母と父の絆が深まり、愛情の泉が蘇り、結婚という木に緑の葉が茂るのです。子供が与えてくれるものの中でも特に素晴らしいことは、老年になるとしばしば生じる空虚感というものを、いくらかでも子供が吹き飛ばしてくれることです。若い人たちは子供など居なくても充実した人生を遅れるでしょうし、中年の人探知も自己表現の絶頂期にあるため、子供などいなくても、自分たちだけでやっていけると感じるかもしれません。しかし子供のいない老人にとっては、人生とは、何の興味もわかず、愛の全くかけた空虚なものでしかないのです。
子供を設けることには、最後にもう一つ、より深い理由があります。生命を飛行に旅にたとえて、この理由についてお話ししてみましょう。生命のない物質が生命体となり、生命は人間へと発展してきました。そして人間だけが、神のもとへ戻るのです。しかし私たち人間も、現世では、この最高点へと達する飛行のたびを終えることはないのです。すなわち個々人は、死後も行き続け、進歩し、向上し続けるのです。ですから私たちは――しかるべき理由がないかぎり――、自らこの連鎖を断ち切ったり、他の生命がこの世に生を受け、自らの翼ではばたいて上昇していくのを妨げてはならないのです。
第八章 悲しみと試練
人生とは止まることなく成長することであり、息をするために頭を懸命に上げながら、
川の流れを泳ぎ続げるようなものです。たとえ今の暮らしがどれほど安楽で賛沢であって
も、この先には必ずや、何らかの苦難や苦悩が待ち 受けているのです。困っている問題な
ど今のところないとか、生涯を通じて悩んだことなどなかった、などという人にあなたは
会ったことがありますか。失恋、不幸せな結婚、陰欝な少年期、病気、貧困、裏切り、そ
して死の一撃、苦い絶望感、幻滅―こうしたもののどれか一つが、あるいは幾つかが、
何らかの形で、いつかは私たちに襲いかかってくるのです。これらは、生きていく過程の
一コマなのです。
ところが文明人は、こうした試練や苦難を忌み嫌い、否定的に受け止めようとするばか
りか、これらの衝撃から逃れるために、特効薬を探し求めたり、心を静める修行や、これ
らを忘れるための娯楽や気分を昂揚させてくれる行為に、大切な時間の大半を費やしてい
ます。そして彼らにとって、これらの意味を理解しようとすることや、これが今ここで起
こったのは、人生におけるしかるべき意味と役割があってのことではないか、と自問して
みることなど思いもよらないのです。
人々の中には、苦難や悪の存在を否定する教義をもった宗教に逃げ込む者もありますし、
肉体や精神の鍛錬をする宗派に身を投じ、食餌法や深呼毅や身体訓練によって、あるいは
悲しみや苦しみの感情を昇華し、他のもっと楽しい性格の感情を想像することによって、
人生が自分に課す重荷から逃げ切ろうとする者もあります。現実逃避が、今日、世界中に
蔓延しているのです。人々は、人生の諸問題をあるがままに受け止め、これに敢然と立ち
向かったり、自らの運命を直視する勇気を失ってしまったようです、彼らには、道徳的に
耐える力が欠けているのです。聞こえてくるのは、近道はないか、楽に成功する道はない
か、簡単に勝てないか、嫌なことは忘れられないか、といった叫びだけです。個々人はこ
のような生きかたに染まり切っており、各国もその政府を通して同じようなことをやって
いるように見えます。
占星術の流行を例にとってみましょう。実業界では、健全な判断力と経験のある人が、
定期的に自分の占星図を参照し、またプロの占星術師が自分のために作製してくれた図表
に信じられないほど頼りきって、決断を下しています。こうした占星術師は、現代史の研
究者や学生だったら絶対に首を突っ込んで、独断的なことを言うことなどない分野、すな
わち未来についておこがましくも助言をしているのです。水晶占い、手相見、易者、東洋
の予言者や修行僧が、西洋文明の真只中で大繁盛しているとは、いったい何というおかし
なパラドックスなのでしょう!聖パウロは、「私は大人になった。それゆえ子供じみた物は
もう片付けてしまった」、と語っています。現代はディーゼル・エンジン、飛行機、原子力、
電子顕微鏡、テレビ、人工衛星、宇宙観測ロケット、人類の月面着陸などあたり前の時代
であり、それゆえ今こそ、人類がようやく長かった幼年期に別れを告げて、成人期に足を
踏み入れる時代だとは思えませんか。ところが私たちは、この最高度に機械化されている
大都会に住みながら、呪文や運勢図に頼ったり、催眠術による忘我の境地や幻覚の力を借
りて、人生を安易に過ごそうとしています。いったい私たちはどうしてしまったのでしょ
う。いったいなぜ、被造物の真の王者としての恩恵に浴している私たちが、生きることに
積極的に適応しようとしないのでしょう。いったいなぜ、人生上の苦難をこれほどまでに
恐れるのでしょう。いったいなぜ、あやしてもらって安らぎを得たり、何かよいことを予
言してもらったり、なだめすかしてもらって偽りの安心を得ることを、これほどまでに子
供っぽくねだるのでしょう。
ごくたまになら、少し馬鹿げたことをしてみたいとか、ちょっとした迷信を信じてみた
いとか、子供のように何でも信じてみたいといった気持ちから、易や星占いを見てもらっ
ても、別段それほどの害はありません。害になるのは、こうしたことを深く信じ込んだり、
現実に対する防御壁としてこれなしではすませなくってしまったり、―これより少しはま
しかもしれませんが―――無内容で非論理的な予言に希望を託したりするような、心の持
ち方です。
こうした運勢占いの次にくる例として、治療の問題があります。もし人間が瞑想したり、
調息法や食餌法を実行し、身体を鍛錬することによって、理想郷を実現できるとしたら、
今頃は世界中のかなりの割合の人が、その素晴らしい国に住んでいるはずです。もちろん、
瞑想や食餌法、身体の鍛練や深呼吸そのものには、別に悪いところはありません。むしろ、
正しく理解され、活用されるなら、健康に大変よいでしょう。でも人々は、こうしたもの
に宗教的なまでに熱中し、自論に狂信的なまでに固執しています。また中には、苦難は人
間の宿命ではなく、それゆえ取り除かれてしかるべきである、と信じている者もいます。
いったい何が彼らにそうさせているのでしょう。こうした態度は私たちの社会的生活にも
影響を及ぽしており、その顕著な例として、死刑を廃止する一方で安楽死を導入する、と
いったことがあります。これがもっと極端な形をとったのが、ヒットラー政権下のドイツ
---------------------[End of Page
1]---------------------
です。ナチス・ドイツは、身体障害者、老人、治る見込みのない病人、精神薄弱者、犯罪
者を抹殺する権限を、国策として認めたのです。トランプをめくって未来を占うことから、
精神異常者や望ましくない人物をガス室へ送り込むことまで、こうした行為はすべて、人
間の思考の奥深くに内在する傾向の現われであり、人生の意味や目的を考える際の考え方
全部と深く関わっているのです。
ごくわずかの極端な考え方を除けば、ほとんどの人は、、どこの国の人でも、苦痛や悲
しみや不幸というものは現実に存在するものである、と認めています。ただしこうしたも
のに対する態度として、二つのものがあります。一つは、苦難とは必然的なもので、人生
に無くてはならないものとして、他の如何なる経験にも代え難い、ある効果をもたらして
くれる、とする態度であり、もう一つは、苦難などは人生の本質をなすものではなく、取
り除かれてしかるべきである、とする態度です。いったいどうして、こうした苦難が、幸
福に暗い影を投げかけ、この世での私たちの人生の一部となっているのでしょうか。これ
らは、私たちの人格を形成する上で、何かの役割を果たしているのでしょうか。いったい
私たちは、こうしたものに対して、どのような態度を取ったらよいのでしょう。
この世には二つの苦難があります、一つは必然的なもの、もう一つは必然的ではないも
のです。あるいは、一つは私たちの為によかれとわざわざ与えられる、運命的な苦難であ
り、もう一つは環境があれこれ絡まって偶然もたらされる苦難である、と言ってもよいで
しょう。子供は両親によって躾けられて、して良い事と悪い事とを教えられ、悪い事をす
れば罰せられます。子供は厳しく鍛えられて、生きていく力を与えられるのです。こうし
たことを、子供の成長に責任をもっている者は、計画をもって行ないます。しかしながら、
もし子供が階段から滑って転げ落ちたり、手をストーブで火傷したり、蚊にかまれたりし
ても、それは親の過失ではなく、たとえ子供が意識的にやった場合でも、やはりそれは子
供の過失ではありません。
こうしたことは人生上の体験の中でも、あるいは避けられたかもしれませんし、また出
来れば防がなはればならないものです。
人生には、危険が満ちています。例えぱ道路を横切るとき、左右を見てから渡らないと、
車にひかれてしまうかもしれません。あなたは常に身の周りに気を配っていなければなり
ませんし、市当局も安全の為に交通を整理する手段を考案しなけれぱなりません。こうし
た意味においては、この世での苦難は軽減する一方でしょう。そしてまた、人々が、必然
性のない苦難や惨事や心の痛みや病気をもたらす元凶に立ち向かい、これらを除去するた
めに、持てるあらゆる力を駆使することは、しごく当然のことです、医学は、この世に悲
しみを広げる元凶である病気と不具に対して、敢然と闘っています。社会改革に携わって
いる人たちは、筆舌につくせないような悲劇をもたらす、貧困や犯罪と闘っています、立
法に携わっている人たちは、人々の生活をより安全で幸福なものにする方法を、あれこれ
講じています、こうした聖戦とも呼べる改革運動は、問絶なく続行されなけれぱなりませ
んし、私たちも、不必要に降りかかってくる災厄に怒りをもって立ち向かい、それを少し
でも減らすよう努力しなけれぱなりません。
しかし、苦難には第二の種類のものがあります。それは、試練という炉の中で、私たちの
魂を輝ける剣に鍛え上げてくれる、苦難です。こうした苦難は軽減することができません
し、またそうしてはなりません。私たちは、偉大なことは強追されることによって初めて
生まれるのだ、ということを認識しておく必要があります。ダイヤモンドは、溶けた岩石
のなかでこそ、形成されるのです。人の心という花が満開になるためにも、時には涙とい
う水をやらなはればならないのです。苦闘することによって力がもたらされ、耐え忍ぶこ
とによって堪忍袋が大きく、丈夫になるのです、私たちは、人生における悲嘆の種から逃
げ出してはなりません。たとえそれがいかに激しく燃えさかっていても、その中を真っす
ぐに突き進まなはればならないのです。そうすれば、その火の外に出たとき、私たちには、
より強い人格と、自分自身や創造主に対する深い信頼感が備わってくるのです。そう、創
造主が私たちをお鍛えになるのは、ちょうど優しい両親と同じように、私たちを愛してお
られるからであり、私たちがどのような人間になるかをご存じで、そのために苦痛が賞品
として勝ちとってみるだけの価値のあるものをもたらすことを、知っておられるからなの
です。
この世界は、まさに力によって成り立っています。太陽、風、雨、夜と昼といった大き
な力が働いており、これら自身が偉大な事象ですし、また自然界に多大な作用を及ぼして
います。電気と引力は、この世にあらゆる美と生命と成長をもたらす、偉大な力です。私
たち人間も、さまざまな大きな力に影響されています。愛、憎しみ、激情、怖れ、悲しみ、
痛み―こうしたものは私たちに働きかけ、刺激を与えて、私たちの資質を高め、私たちに
彩りや個性を与えてくれるのです。私たちの最もよいところを引き出してくれ、人間とい
う鋼鉄を鍛え上げ、真実の備値をもった幸福を見定めることを教えてくれる要素を、私た
ちはいったいなぜ避けたり、否定しようとするのでしょうか。生まれてこのかたお腹をす
かしたことなどない人に、飢えたことのある人のように、一切れのバンの有難みが分かる
でしょうか。もし私たちが、馬鹿げた心構えをとったり、精神安定剤を服用することによって自分自身を真綿で包み込んでいるため、苦痛や苦難の存在を否定したり、その
激烈さを体験することを拒みながら人生を送らなければならないとしたら、私たちは深み
に欠け、繊細さに欠け、強固な道徳的資質を欠いた民族になり果ててしまうことでしょう。
またその時、私たちの魂の切れ味も鈍くなってしまうことでしょう。
ただし、苦難を好むようになれ、と言っているわけではありません。苦行者の中には、
苦難それ自体を美徳とみなし、わざわざ自分で自分を苛もうとする者がおりますが、私た
ちはこのような馬鹿げた考えを起こしてはなりません。でもコッブが口に当てられ、飲ま
ざるをえない時には、これは痛くても自分を強くしてくれ、たとえ今は傷をもたらしても
結果的には癒しをもたらしてくれるのだ、と思いながら、一息に勇気を出して飲み下さな
けれぱなりまぜん。極端なものがなけれぱ色の差異がはっきりしなくなり、そのような人
生は退屈で単芭の、陰影もなく灰色の終わることのない日々となり、太陽の栄光は決して
差し込むことがないでしょう。
人生のあらゆる要素は、それぞれ固有の報酬を合わせ持っています。例えぱ、美は喜び
を与え、愛は幸福を与え、知識は心の平安をもたらし、苦痛は強さを与え、悲しみは人格
を深みのあるものにする可能性をもっている、といった具合です。もしこれらが本当にそ
うした可能性をもっているとしたら、私たちは、人生上のあらゆる経験から、その一つ一
つがもたらしうる至上の報酬を得るよう努めなければなりません。
また私たちは、この世には、今ここではすぐに理解することのできない事柄がある、と
いう事実も受け容れなければなりません。それは神秘的な事柄であって、この世で理解す
るにはあまりに深遠であったり、この世で理解されることを拒むものです。その内の一つ
は、自由意志と運命との間のどこでバランスがとられるか、という問題です。二つ目は、
罪なき人が咎められて苦難を受ける、などということがいったい許されるのか、という問
題です。三つ目は、死後の生はいったいどのような性格をもつのか、という問題です。す
なわち、墓地に埋葬された人の人格は、いったい何処にあり、どのような状態にあり、ど
のような感覚を持っているか、という問題ですが、こうしたことは私たちには分かろう筈
がありません。また、いったいなぜ両親を亡くした子供たちや、親に捨てられた子供たち
が、愛情への飢えに苦しみ、しかも時として残酷で冷淡な雇い主からひどい扱いを受けて
惨めな思いをしなければならないのでしょうか。こうしたことも私たちには、分からない
のです。いったいなぜ何百万もの子供たちが、彼らには何の責任もない戦争のために、恐
怖につき落とされ、大人でさえ耐えられないくらいの残虐な場面に遭遇するのでしょうか。
これも私たちには分かりません。また私たちは、いったいどれだけ自分の人生を向上でき
たのでしょうか。そして自分の持てる力を最大限に発揮しなかった為に、あるいは正しい
選択をなさなかった為に、勝てた筈の内なる戦いに、いったい私たちは何度破れたことで
しょうか。こうしたことも私たちには分かりません。
しかし、倫理的な推論や経験をもってすると、ある一定の事柄については、理解が可能
になります。神とは、その語のもつすべての意味からして、私たちを愛されていないなど
ということはあり得ないし、また不公平な扱いをされることもないのです。担えきれない
ほどの重荷を背負わせたり、その人の力ではなし得ないことを要求することほど、不公平
で無慈悲なことはないでしょう。私たちが人生において遭遇する試練は、私たちの力を試
し、鍛え上げ、完全なものにするために存在するのです。神は私たちに、担えきれないほ
どの重荷を与えられたり、暴君のように振る舞われることなど絶対にないのです。それど
ころか神が置かれる障害物は、私たちにとってほんのちょっと高いだけなのです。という
のは、私たちがその気になって跳べば、それを越えるだけの力をもっていることを、神は
ご存じだからなのです。そして何よりも、神は私たちを助けて下さるのです。人間の魂の
味方である神が、そばについていて下さり、私たちが勝利を収め、強くなり、神が私たち
の為に用意された遺産を受け取るに値するだけの存在になるよう、望んでおられるのです。
それゆえ神は、私たちが呼べぱ、すぐに救いの手を差し延べて下さるし、私たちが手を差
し出せば、その手をしっかりと握りしめて下さるのです。
第九章 神の大いなる計画.
これまで私たちは、正しい生き方にとって必要欠くべからざるものについて、いくつか取り
上げて考えてきましたが、本章では、生そのものを支える基盤を取り上げます。そして人間で
ある私たちの生は、これなくしては、何の意味も、方向づ甘も、目約も失ってしまうのです。
物質のさまざまな形であれ、微妙な意味の違いであれ、意見のズレであれ、あらゆるものが非
常に混み入っていますが、実は、これらを単純な基本原理に還元することができるのです。
私たちは木を数えるのに夢中なあまり、しぱしば森のことを忘れてしまいます。私たちは、計
画の末梢的な箇所を考えているうちに、そもそもの意図を見失ってしまうのです。生には、
正反対のものや両極端なものが内在していますが、しかしこれらの正反対で両極端なものがも
しスムーズに結びつき、互いに作用し合えば、均衡のとれた状態がもたらされ、さらにこのこ
とによって、宇宙が秩序をもった完全な物になるのです。たとえば、私たちから9300マイル離
れたところには太陽があり、そのガスの炎が燃え上がる球体の上や近くには、生命がまったく
存在できまぜん。ところが私たちは、この太陽のおかぱで、そこから遠く離れた、針の頭のよ
うに小さく、回転する世界の上で、生活し繁栄しているのです。もし近くにいれば絶対に耐え
られず、完全に破壊されてしまうようなものを、私たちのために和げてくれているものとは
一体なんなのでしょうか。そのようなものと私たちを結びつけ、その力を利用できるようにし
てくれるものとは一体なんなのでしょうか。それは、この惑星の上で生を営むために、太陽の
力を適量にしてくれる、仲介役を果たす存在です。つまりそれは、光と熱を伝える、太陽光線
です。私たちが太陽のところまで行ったり、太陽の方が私たちのところへ来ることはありませ
んが、私たちはこの適切な仲介物を通して、必要な太陽の恩恵を受けているのです。
この私たちが住んでいる広大な銀河系を創った存在と私たちの関係は、ある意味で、太陽と
私たちの関係と非常によく似ているに違いありません。この存在は私たちに生を与えてくれた
ものであり、私たちの性格上この存在と直接接触することはできませんが、それでも私たちは
ここからあらゆる原動力を引き出しているのです。この存在を、人間は「神」と呼びます。
神の問題ほど、人々の思考を混乱させ、まとまりをなくさせる問題は他にないでしょう。神
など存在しないと言う人もいますが、それではたちどころに、私たちや宇宙がなぜ存在するの
かを論理的に説明する、唯一のものがなくなってしまいます。というのは、原因もないのに、結果だけが顕在化することなどありえないからです。私たちは思考し、自己意識を
もち、愛し、計画を建てて生きる存在ですが、こうした私たちが一体どうして、それ自体は生
のない物質よりも下に位置する、さまざまな力の産物だ、などということがありえるのでしょ
うか。最初の種子がもっていた遺伝子や原形質の中に組込まれている可能性以上のものを、
なしとげられるまでに成長するものなどありません。あらゆる問題の中でも最大のものいった
いどうして私たち、考える人間という存在が、この宇宙に現われたのか、そして宇宙そのもの
はどうして生じたのかを考えるときに、これまで生に関して証明されてきた法則ではまったく
役に立たなくなってしまうのは、いったい何故なのでしょう。万物を創り出した存在、あるい
は万物が絶えずそこから流出してくる源泉は、それが何であれ、ちょうど私たちが自らのこと
を意識しているように、それもやはり自らのことを意識している―さらには私たち以上に意識
している―に違いありません。もしそうでなければ、人間はこの世に存在することなどなかっ
たでしょう。
唯一の神が存在し、私たちは神の計画の産物であることを受け容れられたら、次に、この神
の本質とは一体何か、と自問してみましょう。神は、私たちの中、さらには森羅万象の中に存
在する、と言う人もいます。でもこれでは、私たちは太陽の中におり、太陽が私たちの中にあ
る、と言うのとほとんど同じことになってしまいます。彼らは、神はどこにでも存在する、と
主張しています。でも知的な解釈からすると、どこにでも存在するということは、どこにも存
在しないということと同じなのです。私たちが住むこの宇宙においては、物事ははっきりとし
ており、曖昧ではないのです。物理学者や天文学者に、原子はどこにありますか、星はどこに
ありますか、と尋ねてごらんなさい。彼らは、「どこにでも」などとは絶対に言いません。
少なくとも彼らは、それが今までどこにあり、次にどこに現われるだろうかとか、実際の位置
に出来るかぎり近い所を教えてくれるでしょう。「どこにでも」などと言うことは決してない
のです。また、神はあらゆるものに内在する、などと主張するのも、まったく馬鹿げたことで
す。というのは、科学的に言うと、あらゆるものに内在するものなど、存在しないからです。
物質は、それぞれ異なった形態をし、異なった場所に存在するのです。現在、この「何にでも
内在するもの」に最も近いものとして、電気があります。しかし、神が電気であるはずがあり
まぜん。というのは、電気なら私たちが知っており、研究の対象となるものだからです。
私たちを創った存在は、私たちと同程度の偉大さだけでなく、私たちを誕生させただけの偉大
さを余分にもっているはずです。私たちに分かるのは、私たちよりも劣ったものだけです。
さもなければ、それを知的に理解することなどできなくなるからです、そして私たちよりも劣った存在が、私たちを
創れたはずのないことは明らかです。それゆえ、神は電気ではなく、また「何にでも」内在す
るものに最もぴったりするものが電気なので、神は「どこにでも」「何にでも」内在するもの
などでは決してないのです。神の問題は、電気よりもずっと偉大で、もっと素晴らしく、はる
かに微妙です。
もし無神論者の考え方はあまりに浅すぎて、科学者が私たちに見せてくれる宇宙ですら説明
することができないとか、多神論者は非科学的な考え方をしており論理性がない、と言うなら、
そのとき私たちは、神を定義するために、啓示宗教として知られているものへ目を向けなけれ
ばなりません。多神教の時代は終わったのです。私の住む宇宙を説明するのに、1ダースもの神
を持ち出す必要はないのです。立派な神、すなわち大きくて、ダイナミックで、根源的で、つね
に活動している創造主が一人いれば十分です。預言者たちはすべて、唯一の神のことを、人々に
語ってきました。キリストは、神は自らの父であり、万人にとっての偉大で愛すべき父である、
と説きました。モーセが、そして彼より以前にアブラハムが、絶大な力をもった唯一の神のこと
を教えました。ムハマドは、賞賛とともに畏怖する気持ちを声に込めて、神のことを説きました。
人間の生活において最も重要な事象が宗教であることは、疑いの余地がありません。歴史上の
いかなる時代の世界地図を見ても、世界がいくつかの区域に分かれ、しかもその区域は、地理的
な境界や政治上的な境界に囲まれた地域よりも、はるかに広大で、はるかに重要な意味をもって
いたことが分かります。この大陸や国の境などつねに越えてしまう区域とは、宗教上の区域のこ
とです。ちなみに今日の世界は、この例証として、これ以上にないほど適切です。すなわち、た
しかに今日の世界はさまざまな国に地図分けされ、相対立する政治陣営に分割されていますが、
それでも世界の大宗教という観点から見ると、これよりはるかに広大な区分が繰り広げられてい
ます。
世界宗教はすべて、同一のマークをつけています。すなわち、ある一人の男―それは集団でも、
委員会でも、選挙によって選ばれた長でもありません―が、たった独りで、ある時代の地平線に
現われ、我こそは唯一の見えざる神の代弁者なりと主張して、人々を仰天させます。何という大
胆不敵さでしょう、でも、イエス、モーセ、アブラハム、ゾロアスター、仏陀、ムハマド、クリ
シュナといった人たちが、この四千年間に、人間の生活の流れの全体を変えてしまったことは否
定できません。さらに驚くべきことは、この範囲に属する人々が非常に少ないということであり、
そしてさらに、そのごく少ない人々が、それぞれ異なった時代に異なった関わり方をして、この地球上に新たなる姿を見せてきた、とい
うことです。宗教は挫折したときに―現代の私たちの幻滅し、悲嘆にくれた目からすると―たと
えいかに味気のないものに見えようとも、アブラハムが「見えざる唯一の神よ」と、ときの声を
上げたという事実、そしてまた彼の子孫が、一神教を奉じる二つの偉大な民族―アラブ民族とユ
ダヤ民族―となり、数千年に亙って、私たちの運命の流れに影響を与えてきた、という事実は動
きません。またクリシュナの発する光明は、インド亜大陸を照らし、開化しました、モーセは、
奴隷にされていた民族を、これまで存在したなかでも、最も偉大で優秀な民族の一つにしました。
仏陀は、無数のアジア人の歴史を向上させ、ゾロアスターは、堕落し無知な民族に教えを説き、
生活を改めさせ、偉大な民族にしました。キリストは、西洋のたどるべき道を完全に変えてしま
いました。ムハマドは、野蛮で偶像を崇拝する民族を手なずけ、国々をまとめて、偉大なアラビ
ア文化を作り出しました。そしてさらに、ヨーロッバに影響を与え、ルネッサンスを促進したの
です。
私たちは、こうした事実を無視することはできません。ここには、火が燃えていることを示す
煙が立ち昇っているばかりか、たとえいかにかすんでおり、強情な目にも認めざるをえない、大
きな火が燃えさかっています。宗教とは、ものすごい力をもっています。これほどのものは哲学
ではありえなくて、宗教でしかありえません。なぜなら、自国のことを老子派だとか、ソクラテ
ス派だとか呼ぶ国などないからです。頑固者でも狂信者でもなく、それ相応の頭をもった人なら、
たいてい、自分自身が信じているもの以外の信仰も、世の中に善と安らぎをもたらしていること
を認めています。啓蒙されたキリスト教従なら、たとえいかに強く自らの教会の教義に固執して
いても、人間の本質や歴史を硫究すれば、キリスト教が西洋人に果たしたのとまったく同じ役割
を、イスラム教が東洋人に果たしたことを認めざるをえません。また彼は、一日に五回も祈りを
捧げ、施しが賞賛に値する行為である信じ、人種間の偏見など本来は存在しないと思っているイ
スラム教徒が、尊敬に値する人物であり、しかも彼らは、キリスト教がイギリス人やイタリア人
やアメリカ人に投げかけたのと同じ光明に従って、生きているのだ、ということを無視するわけ
にはいきません。さらに、ユダヤ教、仏教、ゾロアスター教、ヒンドゥー教を通して説かれた、
良い生き方のことも無視するわけにはいきません。
宗教が人間の生活において、これほどまでに強力で独自の地位を占めていることが明らかであ
るとするなら、宗教にはいかなる意味があるのか、宗教の役割は何か、宗教は私たちに何をもた
らしてくれるのか、といったことを考えてみる必要があります。宗教は真理きるよう求めます。そして、人々が彼に従った場合は祝福されるでしょうし、背いた場合は―も
ちろんそれは、彼ら自身の罪です―、悲惨な状況から逃れられないでしょう。こうした神の代弁
者は、すべて同じ特徴をもっています。すなわち、嘘偽りのない性格、自分の信念への献身、
自己犠牲、英雄的な行為、そしてなかでもとりわけ、数知れぬ人々の生きかたを変え、さらには
歴史をも塗り変えてしまう、非凡な影響力です。ところでここで、自らを繰り返すリズミカルな
周期として、宇宙以外にももう一つあることに気づきませんか。そう、それは預言者の周期です。
それにしても、預言者が現われてくる過程の背後には、一体どのような仕組みがあるのでしょう。
先にお話ししましたように、神は私たちが智恵者となり、健全な魂をもつことによって、死後
も滅することなく向上し続けるよう、との意図をもって私たちをお創りになりました。太陽なく
しては、私たちも、他の生物も、この惑星で生きていくことはできません。もちろん、太陽は私
たちと直接接触することはありませんが、光線をたっぶりと注いでくれ、生命を育んでくれます。
私たちと神との間にある霊的な関係について、これと同じ考え方を用いることができます。神は、
この世で暮らす私たちに対して、何かを直接してくれる、ということは絶対にありません、必ず、
あいだに預言者という仲介役をたてるのです。預言者は、私たちがこの地球上で人間となった日
から、ずっと私たちを教育してきました。かつてキリストはこう語りました、「神の子を通さず
しては、誰も父なる神と出会えない。」この科学の時代においては、この言葉はほとんど無意味
に聞こえますが、しかしこれを、「光線なくしては、私たちは太陽と出会えない」と言い換えた
り、さらには、「仲介者を通さずしては、誰も神と出会えない」と言い換えれば、私たちにもよ
く分かります。
現代はさまざまな分野で進歩がもたらされたのに、宗教に対する考え方はまったく遅れたまま
であり、この上なく文明化され、より知的な態度をとるよう求められている西洋人ですら、例外
ではありません。現代科学の発達が作り出したおとぎの国に住み、実験室で驚異的なものが開発
されたという情報を、仕事の話や噂話として、ほとんど毎日のように聞きながら、神そのものや、
神の行動様式や能力に開しては、彼らは依然として、まったく偏った時代遅れの、非論理的な考
え方にしがみついているのです。そうでない場合には、学がありすぎて宗教に関することを嘲笑
したり、無神論者になったりしています。彼らは、世界宗教という、世界の歴史に多大な影響を
もたらす巨大な力について、じっくりと頭をつかい、何の偏見にもとらわれることなく考えてみ
ようなどとはいささかも思っていないのです。
懐疑論者や根っからの無神論者の見せている態度を例にとって、少し考えてみましょう。彼ら
は、人格神という考え方は宇宙の性質と両立しない、と信じています。なぜでしょう。彼らは目
が見えないのでしょうか。それとも、議論のための議論が好きなのでしょうか。私たちの目の前
には、ありとあらゆる形態の物質、驚くべき活力を有した生命、(人間は言うに及ばず)絶妙な姿
をした獣や鳥や魚や微生物たちが存在し、また私たちの目的を適え、私たちの望みや夢を満足し
てくれるように、分子や血肉や金属や振動や心や性格が新しい形態をとります。それなのに、こ
うしたことを目のあたりにしながら、私たちは、自分自身に対してなら示す知性や関心を神に対
しては示さず、神が存在する場所などなく、またその可能性もない、などと言っているのです。
こんなことがあってもよいのでしょうか。これだけ驚異的なことが私たちの目の前で繰り広げら
れているというのに、心の狭い人々は、それとなくほのめかしたり、論理的な推論を用いて、
私たちがこうした驚異的なものの中でも最大のものについて考えたり、その存在を確証してくれ
るもののことを考えるのを止めさせようとします。一体彼らにはそんな権利などあるのでしょうか。
次に、神や宗教という全体的な問題に対して、正統派キリスト教徒がとっている態度を例にと
ってみましょう。キリスト教の中核をなす教義は、教会において次のように教えられています。
すなわち、救いはキリストを通してのみ与えられるのであり、彼は世界史上比類のない人物であ
り、彼の様な人物はそれまでいなかったし、これからも彼が再臨するまでは現われない、という
のです。私たち二十世紀の人間は、私たちの住む宇宙の性質を論理的に理解するよう教育されて
おり、このような偏った考え方には反感を抱いてしまう傾向をもっています。人類は、この地球
上で、何千年もの前から、自意識をもち考える生命体として存在してきました。それなのに、
キリストが誕生するまで、人類には救いがなかった、などと信じられますか。キリストが誕生す
る前に、この世を去った人々は、みなどうしたのでしょう。また、彼が現われた後でも、彼を受
け容れなかった人々は、みなどうしたのでしょう。神は、彼の他にも驚異的な人物を大勢、何十
回でも何百回でも何万回でもお創りになれるはずなのに、息子をたった一人しかお創りにならず、
また自分に至る道をたった一つしかお与えにならなかった。しかも、これを2000年前という、
歴史的には何の根拠もない時になされたとは、いったい神はどうなされたのでしょう。一体どう
して神は、何千年もの前の始めから、私たちが救いの機会に恵まれるようになされなかったので
しょう。また仮にこの神の御行為が時に適っていたとしても、いったいどうして、2000年もたっ
たというのに世界中がキリスト教に改宗しないばかりか、キリストの信奉者を自認する人々の中に、その教えにまったく反する生き方をしている者がいるのでしょう、2000年た
っても私たちはこのような混乱の真只中にいるというのに、もし頼ることのできるのはキリスト
教から受け継いだものしかないとしたら、いったい紀元3000年や6000年になった時、私たちは
どのような状況におかれることになるのでしょう。
この宗教に対する時代遅れの考え方は、何も西洋人やキリスト教徒だけに限られません。
ゾロアスター教や仏教やヒンドゥー教を余けば(これらはすべて、キリスト教が誕生する以前の
ものです)、世界中の主な宗教のほとんどが、救世主は来臨した、その名はナザレのイエスだと
信じているというのに、ユダヤ人だけは四千年もたった今でも、自分たちの救世主を求めて、
祈り続けています。イスラム教徒がキリスト教に改宗することは、ほとんど絶対にありません。
というのは、彼らはすでにムハマドから、キリストは神から遣わされた預言者の一人であり、
彼のことを愛し尊敬しなければならない、と教えられているからです。自分たちの預言者から
このように教えられているので、キリスト教の牧師が、ムハマドはペテン師だから彼のことなど
見捨ててイエスの許へ来なさい、といくら教えてみても、彼らがそんな説教に我慢して耳を貸し
たがらないのは当然です。しかしだからといって、イスラム教徒が偏見をもたず、心が広いなど
と言うつもりはありません。いや、それどころか、彼らもキリスト教徒と同じように狂信的であり、
ムハマドは宗教上類まれな人物だと主張するに留まらず、預言者はすべて彼よりも先に去ってし
まい、ムハマドこそ「預言者中の預言者」であり、復活の日まで彼の後には誰も現われない、
と考えているのです。周知のように、あらゆる宗教を通じて、その信仰心の厚い人々のかなりの
部分が、自分たちの聖典を文字通り信じています。そのためキリスト教徒たちは、たとえ原子爆
弾に直撃されて粉々になった時でさえ、墓が開き、死体が起き上がり蘇える、などということが
起こると期持しています。イスラム教徒も同様です、正統派のユダヤ教従は、いつか自分たちを
統率し、自分たちの民族の物質的財産を回復してくれる、この世の王が来臨することを、心から
持ち望んでいます。このように聖典を文字通り受け取っていると、論理的には、イヴはアダムの
肋骨から創られ、世界は六日で創られ、神は土曜日に休息された、と私たちも信じなはればなら
なくなってしまいます。
自分たちの信仰に固執しているからといって、他の人々を責めたりしてはいけません。それど
ころか私たちは、歴史に光をあてて、宗教が人々の善行や文明や文化の発展にどれだけ寄与して
きたかがわかったなら、人間の生活を丹念に調べるときに、そこにおいて宗教が果たした役割を
認めるだけでなく、それが私たちに永遠に霊感を与え続け、私たちを向上させてくれるよう、
望まなければなりません。というのは、人間を向上させることこそ、宗教が果たす役割だからで
す。しかしだからといって、宗教について考えてはならないとか、宗教を論理的に理解して、
私たちに慣れ親しんでいる世界観に当てはめようとしてはならない、と言いたいわけではありません。
はたして天は地上を覆う大皿のようなものなのか、それともこの世は大洋に囲まれた平たい円
盤なのか、あるいは四頭の象の背中で空を支えた四角い広場なのか、といったことが私たちに分
からなかった頃は、「創世記」を文字通りそのまま受け容れることができました。しかし、私た
ちの惑星が大昔には太陽から投げ出された火の玉であったことや、解剖学的に言うと私たちには
尻尾の痕跡があることが一旦分かってしまうと、「創世記」をそのまま理解していたのでは、
見捨てられてしまいます。それなのに宗教を説く者は、教会やモスクの説教壇から彼らの信奉者
に向かって、キリストは水上を地上のごとく歩いたとか、キリストの遺体は墓から起き上がり昇
天したとか、ムハマドは一夜にして第七天国に行き、雌馬に乗って帰ってきた、といったことを
信じるよう求めてはばかりません。しかしここで悲しまなければならないのは、彼らが人々に、
こうした事が文字通り実際に起こった出来事として信じるよう求めていることではありません。
それよりも問題なのは、彼らがイエスやムハマドの偉大さを、救世主としての業よりも、魔術師
がなすような行為に置いていることなのです。
冷静な人なら、キリストやアラビアの預言者の生涯について読みさえすれぱ、彼らのことを賞
賛し、愛し、評価するようになります。両者とも、自らが信じた教えを説くために、自分のすべ
てを捧げました、キリストは気高くも自らの運命に従い、耐え忍び、敵を赦し、勇気をもって十
字架に向かいました。ムハマドは、親族から一斉に憎悪を浴びせられ、故郷を追われ、新しい福
音を守るために曳蛮な部族と闘い、彼が偶像崇拝から導き出して上げた人々のために、最期のと
きまで昼夜を問わず、苦労を措しみませんでした。キリストの示した模範や教えや精神は、この
2000年の西洋史の流れを形成しました。これと同じことを、ムハマドは、近東や極東に対してな
しました。キリストとムハマドが真の預言者であったことの証拠となるのは、彼らが影響を及ぼ
した範囲においてもたらされた、人間性という素晴らしい果実です。世界宗教を創設した他の人
々の生涯について、先入観を持たずに研究してみると、すべて同じパターンの行動をし、同じパ
ターンの教えを説いていることが分かります。
奇蹟が存在するか否かという問題は、宗教のことを考える際に、脇に置いておくべきです。
この世の中には、私たちがまだ理解していないことが山ほどありますし、私たちの知能の限界の
ために、永久に理解できないかもしれないことも沢山あります、奇蹟は、こうしたものの一つ
です。でも物事の結果なら、私たちの知能でも明瞭に認識し、評価することができます。何百万
という人々が、キリストやムハマドを預言者と呼び、彼らの教えに従っているのを見ると、キリ
ストの示した模範や教え、ムハマドの示した模範や教えが正しいものであったことが十分に分か
ります。彼らに対する愛や尊敬、そして信仰を通して、人々は貧弱で惨めな生活から抜け出し、
文明化され啓蒙された存在となり、偉大な国民となってきたのです。かつてアブドゥル・バハは、
絶望的な病状にある人が医者を呼んだときの話をすることによって、この問題を非常に分かりや
すく説明してくれました。すなわち、患者が医者に腕に自信があるかと尋ねたところ、医者は、
大丈夫、それどころか天才的な腕をもっていると断言し、それを証明するために、部屋の中を飛
んでみせた、というのです。これに対してアブドゥル・バハは、確かにこれは患者にとって面白
い経験ではあるが、これで彼の病状が良くなることにはならない。彼に必要なのは、奇蹟ではな
く薬なのだ、と語ってくれました。預言者が人類に対してなす貢献が、単に自然の法則を打ち破
ることだけだとしたら、彼らは、自らの影響力を行使することなどほとんどないでしょう。
私たちが彼らのことを驚嘆し、その霊的な手品を賛美するだけで終わる位なら、彼らは私たちの
ことを、彼らが訪れた時のままにしておいたことでしょう。
しかし有り難いことに、事実はそうではありませんでした。彼らはそれぞれ、私たちに、大変
貴重で有益な贈り物を二つもたらしてくれました。その一つは彼らの示した模範であり、もう一
つは彼らの教えです、神の「光明」から、慈悲の心、愛、気高さ、奉仕の精神、勇気、揺ぐこと
のない心が流れ出て、人間を向上させ、まったく新しく作り変えてしまったのです。このことを
証明するのに、煉瓦のごとく砂漠に落ちたマナを持ち出したり、結婚式をより華やかにするため
に水をワインに変えたキリストのことを持ち出したり、ムハマドがなした第七天国への夜の旅を
持ち出すことなどお止めなさい。こんなことはみな忘れてしまうのです。それよりも地味だが真
の歴史を紐とき、ユダヤ人がエジプトでどういう状態にあり、パレスチナでどうなったかを読む
のです。暗く異教に覆われたヨーロッバを一掃し、さらには世界宗教の一つとなった、キリスト
教の流れを読むのです。自らの女児を生き埋めにし、一つの建物の中で360もの偶像を崇拝して
いた、野蛮なアラブ人のことを読み、イスラム教が東洋と西洋にもたらした成果のことをご覧な
さい。こうしたことこそ、真の奇蹟なのです。しかしこれらの奇蹟は、どの宗教にもいる心の狭
い狂信者の行き過ぎた信仰や嫉妬心のために、影が薄くなってしまったのです。そのため森羅万
象を定める神の大いなる計画が見えにくくなり、また科学と自由を特徴とする二十世紀に住み、
かなり啓蒙の進んだ私たちとしては宗教を全く非理論的なものとして退けてしまうか、それとも
一切の非合理的・非科学的な迷信や偏見や教えを信じる宗教的な人格と、新しく産み出される驚
異的な製品を毎日飲み下す科学的な人格という相反する二つの部分に、自分の人格をくっきりと
分けてしまうかのどちらかしかなくなってしまいました。
ある物事がその周期を完了したときに、同じ結果をもう一度得たいと思うなら、同じ過程を繰
り返すしかありません。一日は一月には及びません。一日分の光――日の出から日の入りまで――
はその日だけのためなら十分ですが、昨日の光は明日咲く花には何の役にも立ちません。言い換
えると、一定量のエネルギーを一旦使いきってしまえば、それ以上にエネルギーを欲しい時には、
それと同じだけのエネルギーを新たに持ってこなけれぱならないのです。この前の春分以降にも
たらされたのは、一年分の成長と収穫であり、二年分には足りません。周知のように、自然界の
隅々にまで、この原理が作用しています。一定の事柄は一定の仕事をなし、一定の結果をもたら
します。もしそれ以上のものを必要とするなら、この過程をすっかりそのまま、もう一度繰り返
さなければなりません。
公平な歴史研究が実証していることや、私たちの精神が教えてくれることは論理的である、
と信じてみましょう。この世には物質界の春だけでなく、精神界の春もあるのです。精神界が春
分であった時には、(たとえばキリストや洗礼者ヨハネといった)預言者が、正しい精神の持ち主
であることを証明する二つの証拠――模範と教え――を携えて、姿を現わしました。彼らは、
人間と同じ姿形をして、現われます。というのは、その方が、私たちと交わり、自分たちが行な
ったり言ったりすることは私たち人間のためであり、奇妙で異常であって私たちの生活とはまっ
たく無関係なことではない、と私たちに感じさせるのに最も自然で最も好都合だからなのです。
彼らは、私たちと、肉体のもつ長所も短所も共有しています。しかし彼らは、私たちには絶対に
持つことのできないものを、神と共有しています。それは神のもつ完全性というものです。
私たちが向上するよう努力していると、私たちの魂の中に神の完全性という光を――ちょうど鏡
が太陽の光を反射するように――反射する能力が備わってきますが、この太陽の光に相当するの
がまさに預言者なのです。私たち人間はさまざまな方法でこの光を受け取りますが、彼ら預言者
は光そのものなのです。そしてそれだからこそ、事実としてはナザレ出身の卑しい大工であった
イエスが、世界の半分を支配できるまでになり、パロの怒りにふれて逃ぱ出したどもりのモーセが、
未だに世界中の人々が従っている律法をもたらし、ラクダ追いや商人をしていたムハマドが、
イスラム共和国を樹立することができたのです。
こうした預言者の精神や魂の構造は、ありふれたものではありません。彼らは生まれつき非凡
な人物であり、私たちに存在の目的を教えてくれる、すなわち、私たちはいかに生きいかに行動
すべきか、私たちはいかなる最終目的に向かって努力するべきか、私たちは死んだときにどこへ
行けるのかを教えてくれる教育者なのです。預言者が存在しなかったことなど、これまでありま
せんでした。自らの魂の輝きをもって獣性を否定しようとする人々が存在するかぎり、彼らを人
間らしく生きるよう導いてくれる案内人が現われるのです。それゆえ、これからも預言者は必ず
現われることでしょう。私たちは神の被造物であり、彼が創造したものの最高点に位置していま
す。神は私たちのために大いなる計画を立てておられ、それは何世紀にも亙って展開してきており、
これからも実行されていくのです。神は手を差し延べられ、仲介者を通して私たちを導いてくれ
ますが、それも大いなる計画の一部なのです。そしてこの仲介者とは、預言者のことなのです。
宗教に限界を設定するものは、私たち人間の側の行ない以外にはありません。私たちは生来心
が狭いくせに、すぐ熱狂的になるものだから、私たちは必ずや自らの宗教を絶対化し、このため
かえってその首を絞めてしまうのです。もともとは広い視野をもち、健全で広く素晴らしかった
ものを、私たちは狭めてしまい硬化させてしまうのです。預言者がもたらした光を完全なまま保
ちたい一心で、私たちはその上に隙間風を防ぐための水晶でできた煙突をたてますが、それだけ
ですまず、さらにそれを飾りたて、さまざまな色を塗りたくり、周りに壁をめぐらせ、それを褒
め称えるための儀式に意味のない呪文を持ち込み、その結果ついには、その光がまったくぽやけ
てしまって見えなくなり、私たちには中身のない器しか残らなくなってしまうのです。
物事を複雑にするのが好きな人は実に多いものです。聖職者たちは、職業がら、それぞれの
預言者がもたらしたオリジナルな教義を、複雑化してきました。そのため、もし預言者がその
信奉者のもとへ戻ってきても、それが自分のもたらした信仰だと分からない程になってしまって
います。でもこのように宗教が切り裂かれボロボロになる過程を見ても、別に驚き落胆する必要
はないのです。こうなるのは、その宗教に備わっている周期のもつ、生の一場面であり、リズム
の一端なのです。周知のように、春には自然が非常に生き生きとし、活力と生命力に満ちあふれて、
華麗に踊り回っています。夏には自然が熟しますが、それにはそれなりの魅力があります。次に
は収穫の秋がきて、果実や穀物が刈り取られます。そして次に来るのは、死、すなわち荒涼とし
て冷たい冬です。こうして腐敗が始まりますが、何もかもがこれ以上ないくらいの悪臭を放ち、
腐りきってしまったように思える頃、春がまるで奇蹟のように戻ってくるのです。自然には、
夜と昼、生と死、降雨と干ばつ、夏と冬といったように、対照的なもの、両極端なものが満ち満
ちているのです。もしそのどちらかが欠けていたら、私たちは残ったほうの価値を測ることがで
きなくなってしまうでしょう。これとまったく同じことが、精神界の周期にも当てはまります。
預言者が人間の精神的な生活にもたらしてくれる、芽生えと開花の春は、やがて夏から秋へと進
んで実を結び、冬へと衰退していきます。でもその次には、新たなる春、新たなる変化がやって
来て、新しい周期が始まるのです。
十九世紀の世界は、新しい春を迎える機が熟しておりました。各大陸の宗教勢力図を見ると、
キリスト教は与えられるものはすべて与えてしまったことが分かります。教会が二つに分裂し、
プロテスタント運動そのものが何度も何度も分派を繰り返してから、かなりの時が経っていまし
た。キリスト教の国々が、神聖ローマ帝国の庇護のもとに成し遂げた統一を失ってから、かなり
の時が経っていました。反目や宗教による迫害、セクト主義が長年に亙ってはびこっていました。
物質至上主義が、すでに西洋の道徳基盤をすっかり蝕んでいました。
数世紀にも亙って休眠状態に陥っていたユダヤ教は、軽べつされ、見捨てられ、それを奉じる
民が世界中の至る所でさげすまれながら、遠い過去に思いを駆せ、過去に狂信的に固執すること
によって、自らが偉大であるとの哀れな夢を見ておりました。
イスラム教の活力も引き潮のごとく衰え、その分派は増殖し、オリジナルの教義は、他の宗教
と同じように、影も形もわからなくなる程、歪められてしまいました。かつては、ウィーンの目
と鼻の先まで、さらにはフランスの内側まで進攻したイスラム教の勢力も、完膚なきまでに衰え
ていました。
遠隔の地アジアにおいては、仏教もヒンドゥー教も過去のものとなって勢力が衰え、消極的な
哲学、過去の信条という形をとって、休眠状態に陥っていました。ゾロアスター教は、長寿を誇
っておりましたが、心が狭く狂信的で、有るのはただ儀式と独断的な教義だけで、新しい展望や
情熱を産み出せずにいました。
聖職屋が至るところにはびこっていました。世界中の人々は、その心が教化されることもなく、
大多数が欠乏と悲惨な状況にさいなまれていました。そして彼らは、神に対して口先だけの祈り
を捧げ、来世において柔らかい寝台を約束してくれる、無数の法則に(場合に応じて)従ったり
無視することで満足しておりました。人類は、巨大な生焼けのペシャンコなパンであり、年を重
ねるごとに、物質的な豊かさにはますます興味を示すが、精神的な豊かさにはますます興味を失
っていました。精神的衰退と道徳的無気力を示す徴候が、世界中の至る所で明らかに増大してお
りました。
十九世紀の中頃から、世界中の人々の生活の中に、そよ風がかすかに吹き始めました。初めの
うちはほとんど感じられないほどでしたが、それは次第にはっきりと姿を現わしてきました。新
しい発見や大衆の新しい生活様式が、出現してきたのです。蒸気力が広く用いられるようになり、
世界の物質的側面がまったく新しい形態を取り始めました。無線、電気、麻酔、電話、鉄道とい
った新しい技術がはずみをつけ、その結果、科学や機械の上に築かれた、いわゆる現代文明がも
たらされました。何百万年もの年月を経て初めて、人類――大衆の一員としての普通の人間――
が、暗い地平線の中に切れ目を見出したのです。余暇をもつことができ、その結果、より高い水
準の教育を受け、より高い水準の生活を送る可能牲が、現実のものとして現われるのを目のあた
りにしました。奴隷制は撤廃されました。それも肉体的な意妹での奴隷状態だけでなく、困窮や
貧困という奴隷状態も、立法者によって打ち砕かれだしました。思想の分野でも、同様の変化が
現われました。突然と言ってもいいくらいに、人々が、大規模な改革をなさなければ、と意識し
出したのです。そのため、お定まりの大騒ぎが始まりました。すなわち、経済は不健全な状態に
あり、改革を必要としており、下層階級の人々は不当に扱われており、その社会的状態をもっと
よくする必要があったのです。また教育をもっと普及しなければならず、文盲を撲滅しなければ
なりませんでした。そのためには、教育過程を変える必要がありました。さらには、刑務所や刑
法体系には欠陥があり、公正さを欠いておりました、このようにさまざまな分野において、改革
者たちは大忙しだったのです。また、まったく新しい考え方が人々の想像力を捉え、その結果、
女性たちは投票権を要求し、男性と同じ地位を与えろと主張しました。夢想家たちは「人類議会、
世界連邦」について、何はばかることなく話し始め、簡単に習得できて役に立つ、新しい国際語
を作ろうという着想が支持を得ました。知識が急に、大股で歩き始めたのです。ここ百年間のう
ちに、四、五千年前に歴史が始まって以来よりもはるかに沢山、新しいことが始められ、自然や
物質について新しい事実が明らかにされ、発明がなされ、広範囲に及ぶ改革が企てられました。
一体、何が起きたというのでしょう?
新しい預言者が姿を現わしたのです。
第十章 完壁なる範例を求めて
私たちの最も顕著な特徴は頭脳ですが、深く思考するために、それを用いることは滅多に
ありません。私たちは、驚くほどの速さで、人生の表面を駆けぬけていきます。それはちょ
うど、池の表面を活発にかいて、足を濡らさずに進む、アメンボウの様です。このように私
たちは、考え方の多くを、私たちの祖先や友達や先生や牧師から、そのまま受け取っていま
す。私たちはたいていの場合、たとえ必要に追られても、古い考えを脱ぎ捨てて新しい考え
を試みたり、さらにその方が古い考えよりも目的や実生活に適っているかを調べたりするこ
とに怠惰で、関心を示そうとしません。私たちは、自分よりも経験のある人や成熟した人、
あるいは智恵や知識のある人の考えに、敬意を払うべきだ、ということは承知しています。
しかしこのことは、何も考えない盲目的な虚礼であってはなりません。人は、自分の力で、
りっばな人物にならなければならないのです。たとえ父親がユニタリアンであっても、その
姓や農場や牛と一緒に信仰も遺産相続するのだ、という単純な理由で、ユニタリアンになる
などもってのほかです。同様、人生上のいかなる重要な分野においても、個人個人が自分で
考えて選択する、という神から与えられた特権を行使すべきです。そうしないかぎり、彼ら
がせっかくもっている価値が、彼らにとってむなしいものになってしまいます。もしある人
が、彼の父親が歯科医であり、民主党員であり、カトリック教徒であり、フリーメーソンで
あったという理由だけで、歯科医、民主党員、カトリック教徒、フリーメーソンになったと
したら、こうしたものは彼自身の性格を台無しにしているのです。これらは、骨の代わりに
外側から彼を支えている添え木のようなものであり、彼自身の骨格にはなっていません。父
親のなしたことはすべて優れているかもしれませんし、それは子供にとっても最高にすばら
しいものなのでしょう。――しかし子供は、自分自身の意志を用いて、それについて考え、
自分のものにしていかなければならないのです。というのは、逆も真であり、父のなしたこ
とがすべて、彼にとってこの上ない悪であり、彼が同じ道を辿れば、破滅してしまうかもし
れないからです。他人を盲目的に模倣することは、そうする必要がなく、愚かで怠慢なこと
であるばかりか、その人を人生の大きな過ちへと導いてしまいます。それが大規模な形をと
ると、無数の人々の人生に影響を与える、歴史的な悲劇に至ります。
キリストの時代のユダヤ人たちが、公正無私であったならば、キリストを十字架に架げた
りはしなかったでしょう。たとえ彼らがキリストとその教えを受け容れ、さらに彼が傾聴に
値することを教えていると信じることはなかったにせよ、キリストを好きなようにさせてい
たでしょう。ところが彼らはそうせず、愚かにも彼らの指導者に盲目的に従ってしまったの
です。そしてその指導者たるや、伝統に縛られており、精神的には、頭の上から足の先まで、
古くから受け継がれてきた独断と偏見で覆われていたのです。そのため、キリスト教という
川は本来の川床から外れてしまい、せっかくキリストが約束された救世主として訪れた選民
の生をうるおすことなく、彼らを素通りして、その生を与える水を遠隔の地に注いでしまっ
たのです。
人間の心は(しかるべき修練を積めば、将来、驚くほど広くなり、また深くなる可能性をも
っているのですが)現在のところ矯小であり、強情であるために、些細な既成観念に異常なま
での頑固さで固執しています。この地球が、太陽の一部が解き放たれ、それが冷えて固まっ
たものであり、その上に生命が誕生し、それに続く進化の過程の果てに私たちが誕生したのだ、
ということが分かるまでには、驚くほどの地道な作業が必要でした。そして恐らく、私たちが
この新しい考え方を受け容れた唯一の理由は、このことが教科書に載せられるようになり、
学校や大学でそう教えられたからなのです。しかしそれでもなお、創造ということを、「創
世記」のなかで述べられている通りに頑なに固執して、自分の考えを改めるくらいなら、いっ
そ死んだ方がましだとする人もおります。私の曽祖父は教育のある文化人だったのに、そんな
ことは絶対にあるはずがないと言って、自分の家では誰にも無線ラジオについて話すことを許
さず、またそんな馬鹿げたものに耳を貸そうともしませんでした。
私たちが受け継いできた観念の中で、最も大事にしてきたものは、預言者という観念です。
私たちが抱いている(そして何百年ものあいだ抱き続けてきた)、キリストに関するイメージを
幾つか取り上げてみましょう。彼は普通、ほっそりとしていて、ブロンドの髪をした、青い眼
の青年として描かれています。つまり彼は、やせ細っているか、禁欲的であるか、のどちらか
に見えるように描かれているのです。労働者の子供で、大工として働き、旅のほとんどを自分
の足で行ない、パレスチナの焼けつく太陽の下で暮らし、ユダヤ人出身ということから考える
と、彼はがっしりした筋肉質で、黒い髪と黒い眼をもち、浅黒い皮膚をしていた方が、はるか
に真実味があるでしょう。でもこうしたことは一体、重要なことでしょうか。こんなことが彼
の顕わした範例や教えと、一体何の開係があるでしょうか。もし私たちが、彼に関して違った
イメージを抱いたとしたら、彼がもっと驚異的な人物になったり、あるいは彼の預言の値打ち
が下がるとでもいうのでしょうか。それなのに私たちは、西洋人の画家が、彼らの人種から着
想を得て、彼らの想像する通りに色を加えた、キリスト像というものに、何と長い間こだわっ
てきたのでしょうか。しかもこれだけではありません。キリストは一度も結婚したことがあり
ませんでした。このたった一つの事実と、現代まで伝わってきた、立派な生活に関する彼の教
えから、それが断片的な教えでしかないのに、私たちは特異な諸制度を築き上げ、特異な考え
方を導いてしまったのです。すなわち、独身は結婚よりも高級な状態である、性の関係は堕落
であるが必要悪である、子供は罪のもとに受胎し、罪のもとに生まれる、などと教えられてき
たのです。また彼が妻を娶らなかったことこそ、彼の神聖性を表わす偉大なしるしだ、とも教
えられてきました。たとえば、プラスとマイナスの陽子が原子のバランスをとっていることか
ら、雄と雌が彼らの子供を再生産することに至るまで、神はこの宇宙の全体を、反対物が魅き
つけあうことによって存在するようにしたのは、何という不可思議なことなのでしょう。しか
もこの原理が、事物を織りなす縦糸と横糸でありながら、人を堕落させる悪となりうるとは、
一体どういうことなのでしょうか。創造主は不公平で気まぐれであり、彼は原子から人間にい
たるまでのあらゆるものを、始めから純粋ではない形で創った、などといったい考えてもよい
のでしょうか。生まれて一日しかたっていない赤ん坊の顔を見て、生れたばかりなので、その
小さな眼はまだ見えず、その心はまだ判断力をもっていないというのに、その子が罪のもとに
受胎し、罪を担って生まれたなどと言う権利など一体誰にあると言うのでしょうか。
私たちが見ている通り、反対物が魅きつけ合う驚異的な力こそ生命の根底をなすものであり、
また反対物が魅きつけ合う崇高な力は、人間の魂を神に魅きつけ、被造物を創造主に魅きつけ
るものだと考えた方が、ずっと自然であり、論理にも適っているのではないでしょうか。
物質のもつ磁力や動植物の性は、人間においては愛となりうるのです。そしてさまざまな形の
愛を通して、私たちは浄められたり、高められたりすることができるのです。もし私たちが、
キリストには花嫁を娶る暇も場所もなかったから結婚しなかったのだ、などと考えているとし
たら、私たちの内外で繰り広げられている人生の真の意味から遠ざかってしまうとでもいうの
でしょうか。彼が結婚しなかったのは、彼が自分の行く手に何が持ち受けているかを知ってお
り、ユダヤの民の筋金入りの狂信的な司祭によって十字架に架けられてしまう前に、何をなす
べきかを知っていたからなのでしょうか。福音書に描かれた精力的で愛情豊かで、優しく勇敢
なキリストが、結婚を自分にふさわしくないと蔑み、近よってはならない必要悪だとみなして
いた、などと言ってもよいのでしょうか。キリストを理解したいなら、彼が教えたことを読み、
彼の教えが文化や文明にもたらした影響を見る必要があります。信仰心は厚いがいたって度量
の狭い人々という、彼を二千年に亙ってがんじがらめにしてきた包帯を解いてあげなければい
けません。
ムハマドについても同じことが言えます。ムハマドは、キリストよりも後に現われましたが、
キリストの場合とは異なり、彼の教えは、ただちに記録されました。そのため、彼の書物は、
言い伝えではなく彼の実際の言葉であると考えられますが、それでも彼の信奉者たちは腐敗し、
彼の教えの多くを誤解してしまいました。キリスト教徒は、先に述べたように、性に関してひ
どく歪んだ観念をもっていたので、このアラビアの預言者の生涯における二つの要因から、
彼に拒絶反応を示してきました。その要因とは、一夫多妻制と彼の好戦的牲格のことです。
この二つの問題に対して分析を加える前に、宗教の全般的局面について、一言述べておいた
ほうがよいでしょう。もし預言者が人類に救済をもたらす聖なる医師であるなら、彼に求めら
れていることは、患者を今まさに苦しんでいる病から癒してあげることであって、彼の祖父が
患っていた病気の処方をあれこれ述べることではない、というのは当然のことでしょう。ユダ
ヤ人が紀元一年に希求していたもの――そして他にもキリストの教えを初めて受け取った三つ
の民族に属す、ギリシア人やローマ人の希求していたもの――と、六百年くらいたった後に、
アラビア人が希求したものとはまったく異なっているのです。ユダヤ人は、優秀な宗教的鍛練
法をもっていたにもかかわらず、腐敗し、迷信深く、物質至上主義的で、偏屈になっていました。
ローマ人とギリシア人は、多神教を信奉してはいましたが、教育のある文明化された人々でした
――つまりは西洋の中でもっとも文明化されていたのです――が、前者が全盛期に入ったとき
には、後者はその絶預期を過ぎ、堕落の深淵へと沈みつつありました。これらの民族は、なか
でもとりわけ、個々人の改革を必要としておりました。それまでは、文字通りの意味における、
国家というものは存在しませんでした。帝国や勢力者のグループが興隆したり滅亡しながら、
覇権を求めていたのです。キリストはこうした人々に、まさに彼らが必要とするものを与えた
のです。それは何かというと、個々人を救済する教義です。人間の一人一人が、自分の醜の堕
落を救済してくれるものを希求していたのです。人格を向上させる教えとして、イエスがもた
らした教え以上にすぐれたものなどありえるはずがなかったのです。しかし彼は、自分がこの
世に平和をもたらすためにやって来た平和主義者であると装おうとしたため、その後の二千年
間に起きたさまざまな出来事によって、彼が偽者であったことがはっきりしてしまいました。
次の言葉は、彼の主張からするとありえないはずなのですが、実際に彼が言ったことです。
「地上に平和をもたらすために、わたしが来たと思うな。私は平和ではなく、剣を投げ込むた
めに来たのである」。また彼は、モハマドとは違い、教会国家を設立しようともしませんでし
た。というのは、彼ははっきりと、こう述べているからです。「それでは、カイザルのものは
カイザルに、神のものは神に返しなさい」。このように彼はたったの一言で、物質を司る国家
の続治権と、神の教えに照らして自分自身の人格を司どらなければならない個々人の統治権と
を分けてしまったのです。
アラビア人の場合は事情が異なっていました。ムハマドが現われたのは、野蛮で商魂たくま
しい、偶像を崇拝する種族の中でした。ローマやギリシアの知識人は、彼らの神々に対する信
仰をなかば弄び、懐疑的で冗談めかしていました。それに対して下層階級に属する人々はと言
うと、彼らが神々を信仰したのは、その御利益に関する深い確信からではなく、単に制度とし
てそこに神々がいるからというにすぎませんでした。またユダヤ人は狂信的なまでに熱烈であ
り、依然としてモーセのもたらした一神教的宗教を堅く信仰していました。ところが当時のア
ラビア人は、迷信に囚われ、無知で、偶像を崇拝していました。彼らは、荒野の中で、孤立し
ていたのです。彼らの財産は、らくだ、ナツメヤシ、あちこちに点在するオアシス、香辛料、
香料、羊の群れでした。彼らは、野蛮な原始人だったのです。彼らがいかに野蛮で乱暴な性格
をもっていたかは、恐らく次の出来事を見れば、よくお分かりのことと思います。それは、
ムハマドの信奉者と、ある部族との間の武力抗争の中で起こった出来事ですが、これは決して
これだけの特殊な出来事ではないのです。すなわち、戦闘が終わったときに、一人の女性が走
り出て、まだ暖かいムスリムの敵の肝臓を切り取り、おいしそうに食べてしまったという出来
事です。ヒッチ教授は、当時のアラビア人の性格について、「戦闘的気分が、慢性的な精神状
態になっていた」、と述べていますが、これは大変的を得ているといえます。考えてもごらん
なさい。この野蛮な人種ときたら常に戦争をしていて、一族の団結よりも高度な団結を知らず、
いつも流血沙汰にあけくれ、敵や動物に対して残酷な仕置をし(彼らはよく敵のらくだをその墓
につなぎ、渇きで死んでしまうまで放っておいた)、また町での楽しみといったら、終わること
のない賭け事と酒、そして売春を実利と名誉をもたらす職業と化してしまった悪習に耽ってい
たのです。ところがまさにこうした人種が、たった一世代の間にがらりと様相を変え、それま
で敵同士であった者たちが強大な統一国家を形成し、酒と賭け事を廃止し、女性の地位を信じ
られないほどに高めて、彼女が自分自身の財産と名前を持てるようにし、しかもそれを彼女の
跡取りに遺せるようにしたのです。また、奴隷の境遇もこれ以上ないほどに改善し、かつての
敵であっても一旦忠誠を誓えば、非難することなくイスラム共同体のなかへ受け容れ、そのま
ま最高の地位に就くことすら許容するようになったのです。まったく、こうしたことを考えて
みると、ちょっとの間立ち止まって、こう自問せざるをえなくなるでしょう。約40年という年
月の間に、同胞の生活を奇跡的なまでに変えてしまったのは、いったいどのような性格の人間
だったのだろうかと。
ムハマドがまず始めになそうとしたことは、偶像崇拝をやめさせることでしたが、これを彼
は、十分な力を蓄えると、鉄の手をもって直ちに実行しました。イスラム教を考えるときに忘
れてはならないのは、イスラム教が対象とした患者はキリストが生きていた時、さらにはモー
セが生きていた時代の患者とは異なっている、すなわち異なった病気に苦しんでいたのであり、
それゆえ異なった治療を必要としていた、ということです。ムハマドはまさにそれを彼らに与
えました。アラビアの人々を鍛えるのに役立ったのは、まさにムハマドがなしたように、正義
と智恵をもって用いられる力だけだったのです。モーセは「目には目を、歯には歯を、命には
命を」と言っています。私たちは、これこそ正義の根本であると、今でも信じています。私た
ちの刑法典は、そのほとんどが、命には命を要求しています。私たちが戦うのは、いつも欲や
嫌悪のため、とはかぎりません。たとえばあるキリスト教国が、自らの動機は正しいと確信し
て、別のキリスト教国に戦いをしかけることもしばしばありました。またその開花期に、長期
にわたって十字軍を遂行し、残虐な行為をなすという罪を犯したのもキリスト教国でした。
それなのに私たちは、ムハマドに対して、彼は偶像崇拝を止めさせるのに剣をもってし、偉大
で寛容な文明を広めるのに剣をもってした、と1300年ものあいだ非難してきたのです。
ムハマドに対してなされる第二の非難は、より重大なものでありますが、それは彼が何人も
の妻をもっていたことでした。この非難には、性には何か悪い不浄なものがある、という私た
ちの心のなかに長年に亙って築きあげられて、私たちに染みついている偏見も関わっています。
でもそれはさておき、ここで、ムハマドに対してなされる非難をよく調べてみましょう。まず
第一に、ユダヤ人は一夫多妻制を実行していました。福音書の中には、これに反対する文章は、
ただの一行もありません。キリストに関していうと、彼は離婚は禁止していました。でも妻を
複数もつことについては、引用したり、彼をもとにして書物を著せるようなことを、彼は何も
語っていないのです。それどころか、初期のキリスト教徒たちは、実際に一夫多妻制を行なっ
ていたのです。それゆえ、もしイエスがこれに反対するような見解を何か述べていたら、事態
はまったく異なっていたことでしょう。この問題に関して教会に持ち込まれた教義は、すべて
初期の教父たちの手によるものだったのです。それゆえ、ムハマドの時代に主流をなしていた
二つの一神教、すなわちユダヤ教とキリスト教は、当時の教義では一夫一婦制ではなかったの
です。それどころか、二人以上の妻をもつことに対して、それを悪いことだみなす観念すらな
かったのです。ムハマドが出現したのも、何人もの妻をもつことで有名な民族の中でした。
彼は、コーランの掟のもとに、妻の数を四人に減らしました。このことは、これ自体で測り知
れない進歩だったのです。そしてまた、彼が現われるまでは、アラビア人の眼には単なる品物
としてしか映っていなかった女性に対して、その権利を雛護することにもなったのです。
ムハマドは、たぶんその性向からでしょうか、メッカを出発して近隣諸国で交易をするさま
ざまなキャラバンといつも一緒に旅をしていたからでしょうか、26歳まで結婚しませんでした。
そして結婚するまでは、まったくの童貞であったと言われています。彼が26歳のときに、彼と
結婚した人とは一体誰でしょう。もし彼が、キリスト教徒の解説者がよく描いているように、
好色漢だったとしたら、彼は結婚の対象として、器量はよいが肥満ぎみの中年で、しかも二回
もの結婚歴のある42歳の女性など選ばなかったでしょう。実際、東洋の民族にとって42歳とい
う年齢は、西洋人が考える以上に老年を意味しています。しかし彼はこの女性と二人だけで、
まったく浮気もせず、彼女が死ぬまでの23年間、彼女に対して、献身的な心からの愛惰を捧げ
たのです。
したがってムハマドが51歳になるまでは、この比較的高齢の夫亡人を除いて、彼の生活には
女性が存在しませんでした。そして彼女の死後の9年間に、12人の女性と結婚しましたが、その
中で初婚はほんの二、三人だけで、他はすべて未亡人であり、しかも中年の女性もあり、中に
は子供連れの者もいたのです。ムハマドは、この9年間に、アラビア美人の中から自由に選んで、
それも望みさえすれば一千人もの未婚の女性とだって、結婚できたのです。このことを考えると、
西洋文学や西洋人のあいだで、彼がいかにひどい濡れ衣を着せられてきたかがお分かりでしょう。
少なくとも、彼には好色を示す証拠は何もないと言えるでしょう。実際のところムハマドの個人
的な女性関係を振り返ってみると、彼の結婚の背後には、心の広さ、慈悲心、そして私が宗教的
手腕と呼んでいるものが動機になっていることは明白です。
私たちは、これほどまでにムハマドを誤解していたのです。彼を信奉していた人たちですら、
彼を損なってきました。ちょうど私たちが、キリストの名のもとにさまざまな悪事をなし、彼の
教えの中に諸々の腐敗を持ち込んだように、彼らもムハマドの名のもとに、彼を怒らせるような
行為をなしてきたのです。ムハマドは法によって、一人の男が一時にもてる妻の数を四人に厳し
く限定したのに、面白いことに、彼の信奉者たちは、文字通り何百人もの美女を抱えたハレムの
自慢をしていたのです。またムハマド自身は、キリストやモーセを信仰する人々を尊敬しろと教
え、自らもそうしたように、イスラム教徒がその中から妻を娶ることを容認し、コーランの中で、
キリストとモーセは「神の使い」「有能な預言者」であり、敬愛されるべき真理の担い手である、
と断言していました。それなのにイスラム教の狂信者たちは、教えを受け容れないものを殺すの
は徳であると考えたり、ユダヤ人やキリスト教徒とすれ違っただけで、家へ帰って着物を全部と
り替えたりしました。
(→?)
彼らの度量の狭さという弊害が、何と長い間続いたことでしょうか。イエスやムハマドやモー
セのように、善をなす力や、人間の抱えている問題や希求を見抜く心を持ち、非常に魅力的人物
であって、自分のことを偉大な人物として認めてくれた人たちの生活を建て直してあげる能力を
もっている人物に対して、そのような人物は人を惹きつけてとりこにする性格をもち、その人が
いるだけで私たちが拡充感を味わえて自己評価が高まり、かつてないほどの充実感をもって活気
に満ちた生活を送れるようにしてくれる存在だ、とどうして私たちが思うことが滅多にないので
しょう。私たちはいったいなぜ、彼らが非現実的な巨人であり、私たちのちっぽけな生活範囲か
らかけ離れており、遠くから崇め奉られる存在であり、私たちとは何の共通点もない、などと考
えなはればならないのでしょうか。あるいは、キリストは絶えず穏やかで愛情に満ち、慈悲深く
寛大な治療者であり、ムハマドは戦士であって、自らの軍を率いて戦に向かわせる行動の人であ
った、というあまりに通俗的な見方しかもたない、偏った牲絡の人々はいったいどうでしょう。
私たちがキリストやムハマドの教えから今以上に良いものを引き出せていないのは、これらの預
言者に対する私たちの精神的アプローチに原因の一端があるのでしょう。
(←?)
もし彼らが、本当に人間の肉体に宿るまたとない聖なる霊であり、私たちの生活を導いてこの
世を住みやすく幸福な所にするために、人格神からのお告げや教えや指示を携えて訪れたのなら、
私たちは、彼ら自身のことやその人格について、出来るかぎり知るべきです。そうすれば、こと
によると、彼らのありのままの姿を知ったとき、私たちは私たち自身についても知るようになり、
生きることの価値をもっとよく知るようになるかもしれません。
キリスト教徒の子供たちは、みな、イエスの温かい人間的な思いやりや、病める者や虐げられ
た人々に対して彼が即座に示した共感について生き生きとみごとに描き出した、聖書の物語に親
しんでいます。たとえば、イエスとともに旅をし、ともに教えを広めた彼の仲間たちと、彼のあ
いだに打ち建てられた、高尚で真の同胞意識についての物語。両替商を罰するときの、彼の示し
た厳しい清廉な態度の物語。弟子たちに対して彼らを真の兄弟と呼び、自分の肉親に対しては拒
絶したという物語。またあの裏切りの夜に、ゲッセマネの園において、心が悲しみにうちひしが
れ、独り寂しく神に祈る彼の姿、そして人生の最後の日々に、彼に加えられた激しい苦しみや屈
辱、といったものがありありと描かれています。彼の愛弟子で、教会を建てるならその「礎」に
とまで考えていたペテロが、彼のことなど知らないと三度も言った時に、彼はどれだけ寂しくつ
らい気持ちを抱いたことでしょう。彼が二人の盗賊のあいだで十字架に架けられたとき、人間的
に言うと、彼はどれだけ孤独感や寂しさに襲われたことでしょう――きっとこの二つの十字架に
は、愛に満ちあふれ、イエスの最後の数時間をともにすることによって自らを高められる、忠実
な弟子が二人架けられるべきだったのです。
しかし、こうしたイエスの姿は生き生きと描かれてはいるのですが断片的なものでしかなく、
しかも二十世紀もたった後になっては、私たちが知っていると思っているキリストが、実際に生
きていた人物そのままかどうかは定かではありません。
ムハマドに関しても、彼の生涯についての方がより詳らかになっているとはいえ、同じことが
言えます。そして彼は、歴史的に実在したことを実証できるという意味において、イエスよりも
ずっと歴史的な人物と言えます。しかしそれなのに、彼が死んでから長い年月が経過するにつれ、
彼の信奉者――幾つかの派に別れ、お互いにいがみあっていました――と敵の双方から、彼につ
いてさまざまな解釈や誤解がなされたため、彼の性格や人柄がいくぶんか曖昧にぼけてしまいました。
こうした太陽から放たれる光線、目に見えぬ神から遣わされる預言者、肉体と血を仲介する者、
という不可思議な存在は、私たちにとてもよく似ていますが、本質的にはまったく似ていないの
です。それゆえこうした存在のことを知るためには、いったい私たちは、どこへ目を向けたらよ
いのでしょうか。私たちに必要なのは、実際に生きている確固とした範例であり、それは時間的
には私たちに近い存在で、疑問の余地をもたないものでななればなりません。果たして私たちに
そうした存在を見付けることができるでしょうか。