注:この文書は校閲を受けていない非正式の訳です。暫定版としてお使いください。ただし、暫定版と明記してお祈りの会や学習等に使用できます。Note: This is a provisional translation, not officially reviewed or
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devotional gatherings and other similar purposes while indicating clearly these
are provisional translations.
アブドル・バハ
生誕〜アッカからの解放まで
第一章 師、アブドル・バハ
ここに、豊かで広大な、計り知れない生命がある。それは、十分に描写することもできなければ、取り囲むこともできない。また、それはいかなる評価の範囲からも超越したものである。なぜなら、バハオラの「息子」の人生におけるあらゆる出来事は、重要な特色を備えているからである。テヘラン土牢に行き、鎖の重みで背の曲がった敬愛する「父親」の姿を見たとき、彼は八歳であった。そのときから、任務を終わらせてこの世を去って行った七十七歳のときまで、アブドル・バハは、自己放棄の人生、神のためのたゆまざる献身的な奉仕の人生を送ったのである。この奉仕の場において、彼は努力と苦痛を惜しみはしなかった。バハオラは、アブドル・バハに「最大の枝」「神の神秘」「師」といった称号をお与えになった。しかし、権威のマントが自らの背肩に降りてくると、彼は、自らが「アブドル・バハ」――「バハのしもべ」として知られることを望んだのである。
アブドル・バハは、悲しみに打ちひしがれた者や傷ついた者、苦しんでいる者と非常な憐れみを持って悲しみをともにした。そして彼は、真に喜んでいる者らとともに喜んだ。何千もの人々が助けを求めて彼の家へやってきた。ある者はこの世の物を求めてきたが、多くの者は精神のみが授けることのできる助けを求めてやってきた。彼は、彼ら全てに豊富に、またふんだんに与えた。誰も、追い返されることはなく、家の戸はいつも開け放たれており、誰も何ももらわずに去っていくことはなかった。しかし、アブドル・バハは虐げられ困窮した者がやって来るのをただ待っていることはなく、そういう者たちを見つけ、世話をするために出かけていくのであった。学者や賢者たちも彼のところを訪れ、彼の知識の泉から深くとって飲んだ。統治者や支配者や政治家、陸軍大将、強力で偉大なる人物たちも訪れ、アブドル・バハを顧問として見出したのである。そして、その彼の動機は寛大で利己心のないものであった。
このような描写によって、アブドル・バハの人なりについて十分に説明できたと思うのは誤りである。彼について今述べたことは、あらゆる時代の聖者や予言者たちについても言えることである。しかし、あらゆる障害を超越し、完全性へと到達した人生のテーマを描写できる言葉はない。ある観察者はかつてアブドル・バハは「神秘的な道を実用的な足で」歩いたという発言をした。著名なる聖書の学者であり、批評家であるT・K・シェイン博士は、彼について「人類への大使」として語っている。
ケンブリッジのペムブローク大学の著名な東洋学者であるE.G.ブラウン博士は、1890年の4月にアッカを訪れ、アブドル・バハに会っている。後に彼は次のように記している――
「それほど印象深い外観をした人物を私はまれにしか見たことがなかった。背が高くがっしりとし、矢のようにまっすぐとした姿勢をし、白いターバンと衣をまとい、その黒髪は肩までとどきそうなくらいで、広く強い額は優れた知力と強い意志を示し、目はタカのように鋭く、ほりは深いが快い顔つきをした人物――これがアッバース・エフェンディに関する私の第一印象である。バビ教徒らは、彼を『師』(アカ)と呼んでいた。続いて交わした彼との会話により私は外観によって刺激された彼に対する私の敬意はさらに深められたのであった。彼より雄弁で、議論に優れ、説明がうまく、そしてユダヤ教、キリスト教やイスラム教の聖典について深く知っている人物は雄弁で、鋭敏なペルシャ人の間でもほとんど見つからないと私は思った。これらの特質と、威厳あり温和なる外見は彼の父親の信奉者の輪をこえて彼が得ていた感化力と尊敬に対する私の驚きを消し去ってしまった。この人物の偉大さと力については、彼を見たことのある者にとっては疑いの余地がないものであった。」(1)
アメリカ大陸で最初のバハイであるソーントン・チェイスは、今世紀の初頭、次のように記している――
「彼の名声は世界中に広まっている。この国から多くの人々が様々な動機により彼を訪れ、戻ってきたときに、われわれは彼らに会い、話を聞いた。彼らは口をそろえて、地上で最も強力な人物を見たということに意見が合っている。彼らは、いかに様々な期待や好奇心や望みを抱いて彼のところへ行き、彼の面前ではそれぞれの状態に応じて、畏敬の念、恥、恐れ、愛、卑下や高揚の念によって圧倒されたかについて話している。彼らは、いかに彼らがアブドル・バハの足もとにひれ伏し、彼が踏み歩いた土にさえも接吻したいと切望したかについて語るのである…
「すらりとして中位の背丈のその素朴な人物から発せられる言葉の、絶する愛と優しさ、威厳と力について、逞しい一人前の男性たちが、頬に涙を流し、感情に声を震わせながら、われわれに語ったのである…
「われわれは、小さな子供たちが、いかに彼を愛するかについて話を聞いている。そして、彼がいかに、学校へ行く途中の子供たちをかかえ、抱きしめ、優しい同情心を持って子供たちの心の中に入っていくかについて話を聞いている。そして、いかに貧乏人や苦しんでいる者らが彼の後をついてまわり、彼の言葉から糧を得、また、彼がいかに物質的、精神的贈り物によって彼らを祝福するかにいて。また、友人たちがほんのちょっと彼に会うために、いかにあらゆることに勇敢に立ち向かい.あらゆる試練に耐えるかについて、また、敵がいかに彼の優しい容貌の前に、やなぎのように屈し、頭を下げるかについて、そして、いかにあらゆる者が、彼に会った後、良かれ悪しかれ、変わらずにそこを去っていくことができないということについて、われわれは話を聞いている。」(2)
ホラス・ホリー(3)は、米国の著名なバハイのひとりで、信教の守護者によって神の大業の翼成者として指名された人物であるが、彼は1911年の8月レマン湖の岸辺でアブドル・バハに会っている。次の言葉は、彼の証言である――
「彼はすばらしい美を示され、それは、人々のなかに私がかつて見たことも、また考えたこともないような姿勢と装いの必然的な調和であった。『師』の姿を心に思い浮かべた事もなかった私は、この人物が『師』であることを知った。私は全身がショックを感じ、心臓が鼓動し、ひざはがくがくと震え、鋭い感受性が全身を流れるのを感じた。私は、最も感受性の鋭い感覚器官が何かに変わってしまったかに思
えた。まるで、目や耳は、この荘厳なる印象には不十分であるかのごとく。私のあらゆる部分は、アブドル・バハの存在を意識していた。あまりの幸福感のため、私は泣き叫びたかった――それは、その時できる最も適した自己表現であるように思えた。自分が押し流され、完全なる謙遜の状態を示している間でさえ、自分自身ではない新しい存在が現れてきたのである。人間の最高点から、栄光が私のところへ流れ込んだかのようであり、私は、感嘆したいというまことに激しい衝動を感じた。私は、アブドル・バハに、バハオラの威厳ある存在を感じた。そして、思考がもと通り活動し始めると、私は、人が近づける最も純粋なる精神を存在に近づいていることを悟ったのである…
「2日間の滞在の間、われわれは、『師』に質問することができるという、貴重な機会を与えられた。しかし、私は、それは私が彼に会うことのできる最も高遠で実りあるレベルではないとすぐに悟った…私は、知的な問題や道徳的問題の解決以上のものを含んでいる尊敬の念に屈せざるを得なかった。それ程のすばらしい人物の顔を見、彼の存在の魅力に完全に反応を示すこと――これによって私には常に幸せをもたらされた。その効果が消え去り、私を変えずにおきはしないかという恐れは私には全くなかった…尊敬すべき、威厳に満ち、力強く、しかし限りなく優しい彼は、そのとき献身的な人民と交わるために玉座から降りてきた公正なる国王のように見えた…」(4)
アブドル・バハが米国を訪れたとき、ハワード・コルビー・アイヴズはジャージー州のユニテリアン派の牧師であった。1912年の4月11日に、アブドル・バハがニューヨークに到着したとき、アイヴズ氏は、バハイの友人たちからよく話しを聞いていたこの尊敬すべき「教育者」に会いに行った――
「私はほんの少し、かい間見ることが出来るだけであった。熱心な友人たちや好奇心を持った人々がどっと押し寄せ、戸内に入ることさえ困難なほどであった。私には、そのような集会ではあまりない印象的なまでの沈黙の想い出がある…ようやく私は前にすすみでて、人々の肩越しにアブドル・バハの姿を初めて見ることができた。彼は腰をかけておられ、頭にはトルコ帽をかぶっておられ、その下からは白い髪がほとんど肩まで流れるように伸びていた。しかしこれらのことは、たまたま目に付きあまり注意を向けることもできないものであった。まことに感銘的で、今でも忘れることのできないのは、鋭敏な礼儀正しさに合わせられた口で言い尽くせない威厳であった… それまで見たこともないような優しさと愛が彼から発せられていた。私は感情的にかき乱されてはいなかった。私は後に、彼の『地位』という言葉によって理解するようになったことに、あのとき納得してもいなければ、ほとんど興味もなかったことを憶えているだろうか?…何が私の周りにいた人々の眼をそれほど輝かせ、彼らの心をそれほど喜ばせたのだろうか?彼らの口によってそれほどよく発せられた『素晴らしい』という言葉にはどんな意味があったのだろうか?私にはわからなかったが、知りたいという望みがあった。なぜなら、私はそれまで、何かが欠けているとそれほど思ったことはなかったから。」(5)
数ヵ月後、ハワード・アイヴズはアブドル・バハに忠誠を誓った。*
「ここに私は、外見的には私と同じように混乱した世界に住みながらも、内面的には疑いなくあのより崇高で真実の世界に住んでいる人物を目にした。彼の考えや動機や行いの全ては、あの『光の世界』に源を置いていたのである。そして、私にとってはまことに身を奮い立たせ、励みとなる事実なのであるが、かれは、あなたと私のように平凡な普通の人々で、もしそう望むならその世界に入り、住み、そこで活動できることを当然のこととして考えておられたのである。」(6)
著名なるハンガリーの東洋学者アルミニウス・ヴァムベリーは、13年にブタペストでアブドル・バハに会った。それから数ヵ月後亡くなる少し前に、彼は、アブドル・バハに次のような手紙を書いている――
「私は、貴兄の父親を遠くから見たことがあります。私は、彼の御令息の自己犠牲と崇高なる勇気について悟りました。そして私は、崇敬のために途方にくれております。
「貴兄の唱える原則と目標に対して、私は最高の敬意と献身を示します。そしてもし、最も高遠な御方なる神が長い人生を授け給うなら、私はあらゆる条件の下で、あなたに仕えることができるでしょう。私はこのことについて心の奥底から祈り、嘆願致します。」(7)
かつてボンベイ の知事であったラミングトン卿は、アブドル・バハについて次のように記しておられる――
「これほど人類が平和と友好のうちに住むことを望み、本来備わった聖なる特質を認めて他人を愛するような人がいたであろうか。
「1919年にハイファの道端で、白い衣を着た人物を見たのをよく憶えている。彼が立ち上がって、歩き始めたとき、真に聖なる高徳な人物の像が私に印象を与えた。彼が自らの印鑑付き指輪を指から抜いて渡しにそれをくれたのは、このときのことだったと思う。」(8)
第二章 父親バハオラの日々
バハオラの長男アブドル・バハは、1844年の5月23日、テヘランに生まれた。それは、バブがシラーズでその使命を宣言した晩と同じ晩のことであった。彼は、祖父にちなんでアッバースと名づけられたが、バハオラの昇天後は、アブドル・バハという名で呼ばれるようになった。半分、気の狂ったバビ教徒によってナーセロッディーン・シャーの命が狙われたために、バハオラが投獄され、バビ教徒らが激しい迫害を受けたとき、アブドル・バハはほんの8歳であった。バハオラの家は略奪され、土地や財産も奪われ、彼の家族は、富裕から貧困へとおとしいれられた。ヨーロッパにおられたとき、アブドル・バハは当時の暗い日々のことを回想して、こう言われた――
「離脱することは、手段の欠如を意味するのではない。それは、心が自由であることを意味するのである。テヘランで、われわれはあらゆる物を所有していたのが、一晩にして奪われ、食べる物もないほどになった。私は空腹であったが、パン一切れもなかった。私の母上は、私の手のひらに小麦粉を注いでくれ、私はパンの代わりにそれを食べた。しかし、われわれは満足していたのである。」(9)
さらにこう語っている。
「敵によって悲惨な状況におかれ、攻撃を受けていたとき、私は9歳の少年*であった。彼らは中庭に一杯になるほどの沢山の石を私達の家に投げた。母上は、私たちの安全のために別の家を裏通りに借りて、私たちを家の外に出ないようにし、守って下さった。しかし、ある日、食糧が不十分になったので、母上は、私に、叔母の家に行ってキラン**をいくつか分けてくれと頼むよう言われた。叔母の家へいくと、彼女は出来るだけのことをしてくれた。彼女は5キランの銀貨をひとつハンカチに包んで私に渡してくれた。家に帰る途中、ある者が私を見つけて『ここにバビ教徒がいるぞ』と叫んだ。すると、通りにいた子供たちが追いかけてきた。私は、ある家の入り口に避難することができた… 夜が訪れると私はそこから出てきたが、再びその子供たちが追いかけてきてどなり、石を投げつけた… 家についたときには、私は疲れきっていた。母上は何があったのか聞かれたが、私は物も言えずその場に倒れてしまった。」(10)
バハオラは、4ヶ月の間、暗く不潔な土牢のなかに監禁されていた。彼は、人殺しや追いはぎとともに投獄されていた。また、多くのバビ教徒らも彼とともにおり、彼らは、バハオラを愛し、崇敬し、彼のそばにいて苦しみをともにすることを幸せに思っていた。バビ教徒らの苦悶ははげしいものではあり、死刑のときは信じがたいほどの拷問の後にころされるのだが、そのときがくると、彼らは顔を輝かせて処刑の場へ歩いていくのだった。彼らは自らが全く献身的であったことの報いに対して感謝し、バハオラの前にひざまづいて、その衣のすそにキスをして殉教の場へ進んでいった。
バハオラご自身、当時の話をムラ・ムハンマド・ザランディに語っておられる。彼は、ナビル・イ・アザムという称号を与えられており、バハイ信教の歴史家、年代記編者である――
「テヘランでのあの記念すべき年に起きた嵐に奪われた者はみな、われわれが監禁されていたシア・チャルの囚人であった。われわれはみな、ひとつの独房につめこまれ、足かせをはめられ、首のまわりには最もいまわしい鎖がかけられていた。」(11)
「父親」の姿をしきりに見たがっていたアブドル・バハは、ある日、土牢へ連れて行かれた。次の話はそのときの恐ろしい訪問に関するものである――
「彼らは黒人の召使いをつかわして、私を牢獄におられる父上のところへ連れて行った。看守らが、独房がどこにあるか教えてくれ、召使いは私を肩の上に乗せてつれていってくれた。そこは、暗く、傾斜が急なところであった。私たちは狭い入り口を通って階段を下っていったが、そこから先は、何もみえなかった。その階段の途中で父上の聖なる声が聞こえた――『その子をここへつれてきてはいけない。』 それで私は連れ戻された。私たちは、囚人たちが出てくるまで、外で待っていた。そして急に『祝福された完全』[1]が土牢からつれて出された。彼は他の囚人と一緒に鎖につながれていた。何という鎖であったことか! それは重く、囚人たちはとても苦しそうに動いていた。それは、悲しく心を引き裂くような光景であった。」(12)
バハオラはようやく釈放されたが、次には国外追放が待っていた。バハオラは、家族とともに母国から追放され、所有物を奪われたまま、真冬の雲におおわれたイランの西部を通って旅せねばならなかった。そのようなつらい旅に十分な準備もできなかったため、彼らはとても苦しい思いをした。バハオラの娘であり「最大の聖なる葉」という称号を授けられているバヒア・カヌームは後に、そのときの経験についてある英国の女性[2]に語っている。(その女性もまた、バハオラの大業に献身的な女性であった。)「この話をしたらもっとあなたを悲しませることになるでしょう。」とバヒア・カヌームは言った。というのもその女性の眼には涙が光っていたから。「おお親愛なるカヌームよ、私はあなたのあらゆる悲しみを通じて、心の中であなたと一緒にいたいのです。」と彼女がいうと、バヒア・カヌームはこう答えた――
「私たちの人生の悲しい出来事を通して、もし私が思考の中に生きなかったら、私にはその他何も残っていなかったでしょう。なぜなら、いつも悲しみによって満たされていたのだから。でも、神の道において苦しむとき、悲しみは実は喜びなのです。」(13)
アブドル・バハは若くして、肺結核にかかられたことがあった。それから60年後、病気のためにフランスの首都に予定より長くおられることになったが、その病気について語りながら、アブドル・バハは、子供時代についてお話しになった。
「私は2年半旅をしてきたが、病気にかかったのは、ここが初めてである。そのため、私は予定より長く滞在せねばならなくなった。もし、この病気にかからなかったら、パリには1ヶ月以上とどまりはしなかったであろう。これには理由があるのである… 私が幼いときからそうであった。私の身に降りかかったことの英知は、後になって明らかになったのである。私は7歳のころ、テヘランで結核にかかった。そのとき、回復の見込みはなかった。この病の英知と理由は後になって明らかになった。もし、その病気にかかっていなかったら、私はマジンダランにいたであろう。しかし、その病気のために私はテヘランにとどまり、『祝福された完全』が投獄されたときも、そこにいたのである。こうして私は彼と一緒にイラクに旅したのである。そして時がやってくると、医者たちは私の回復をあきらめていたのもかかわらず、その病気が急に治った。それは、あらゆる者が回復は不可能であると言ったにもかかわらず、起きたのである。」(14)
この追放者たちは、1853年の4月にバグダットに着いたが、牢獄生活とこの真冬の旅のために、バハオラの健康は害されていた。家族もまた疲労のため病にかかっていた。
バハオラは自らの使命と運命についてご存知であった。彼はテヘランの土牢にいるとき、自らの内に「太陽」が輝くのをみたのである。彼は自らが、バブが予言なさった救世主であり、宗教の経典で約束されてきた人物であることを悟ったのである。しかし、バハオラの使命宣言は、10年後の1863年まではなされなかった。アブドル・バハは「父親」の地位に気づいておられたと伝えられている。バハオラに対する彼の態度は、単に父親に対する息子の態度ではなかった。その態度には、より高遠な献身と従順が示されていた。神の顕示者を最初に信じるものは、その前の律法時代の業績の真髄であるとバブはおっしゃった。したがって、バハオラを心魂から信じた最初の人物であるアブドル・バハは、バブが語られた美徳を示す最も著しい人物であると言えよう。さらに、彼は「あらゆるバハイの理想の具現者、そしてあらゆるバハイの美徳の権化…」となるべき人物なのであった。
バグダットに着いてからちょうど一年後、バハオラはソレイマニエの山と荒野に身を引くことになさった。健康を回復すると、崩壊しかけたバビ教徒の共同体を生き返らせるために立ち上がられたが、バハオラをねたみ、憎んだ共同体内の人物のために、逆境が訪れた。彼は、自らの目的が指導権を主張することでないことを明らかにするため、そして人々の不和の原因をさけるために、誰にも告げず、バグダットを去っていかれたのである。(1854年4月10日)
アブドル・バハは、この別離のために大変悲しまれた。彼は、ほんの10歳の子供ではあったが、その風采と態度は落ち着いており、自信に満ちていた。彼は、大人でさえもさけようとするほどの責任を、若くして背負わなければならなかったのである。彼は、バブの書物をあるだけ熱心に読んだ。彼の知性は学校によって形造られたものではなかった。その後何年かして、まだ十代のとき、彼は預言者ムハンマドのものとされている有名な伝承について明快な解説を記している。それは、「われは『隠されたる宝』であり、知られるのを好んだ。ゆえに知ることのできる生存物を創った」という伝承である。アブドル・バハは、非常に教養あり、博学で高貴な人物であるアリ・ショーカト・パシャの依頼で、これにとりかかったのである。アブドル・バハの解説は、深い知識や著しい言葉のうまさや、まれに見るほどの知力を示しているだけでなく、最も深い理解力も示していた。
アブドル・バハは、当時の賢く、経験の豊かな学者たちとよく交際なさり、彼らが提出する主題について話をなさった。彼らは、この少年の言うことに敬意を示した。なぜなら、アブドル・バハの話は、子供っぽいどころかむしろ啓発的であったし、彼は、つつましく、また魅力的でもあったからである。あるとき、バハオラの敵はこう語った―― もしバハオラが、その並外れた力を実証するものとして他に何の証拠がないとしても、アッバース・エフェンディのような息子を育てあげたということだけで十分であると。
北部の山に住み、驚くべき性質を備えているという賢人の話がバグダットにも伝わった。アブドル・バハは、それがバハオラのことであることを直感した。バハオラの忠実な弟であるミルザ・ムサもそう思った。カービラの優れたアラブ人のバビ教徒であるシェイク・スルタンが、もう1人のバビ教徒で木こりのジャワドに伴われて、バハオラを探し、戻ってきてもらうよう頼むために出かけていった。バハオラが、長い間おられなかったことは、バビ共同体が彼をとても必要としていることを疑いなく明らかにした。バハオラは、人々が歓喜する中、1856年3月にバグダットへ戻ってこられた。
バハオラは、バビ教徒らが失ってしまっていた、先見と希望と性質を彼らにとり戻させられた。しかし、アブドル・バハの心が見抜いていたバハオラの地位は、まだ十分に明らかにはしなかった。バハオラがアブドル・バハに「シルラ」(神の神秘)という称号を授けられたのは、この頃のことである。バハオラに会いたがった人々は、その長男アブドル・バハに、賛美と崇敬の念を起こさす性質や特性を見出したのである。
しかし、敵はまた活動を開始した。バハオラの名声が至るところに広まっていったため、彼らはさらに攻撃をしかけるため力を合わせた。彼らは声を高めたため、ナーセロディーン・シャーは、警戒した。イラン大使の頼みに応えて、オットーマン帝国の政府は、バハオラをコンスタンチノプールに追放することにした。出発前、バハオラはバグダット郊外にあるナジーブ・パシャの庭園に行かれ、自らの地位と使命の宣言をなさったのである。そこは後に「レズワンの園」として知られるようになった。「日々の中の日」が、ついにやってきたのである――それは、「恵み深く、最も寛大な御方なる汝の主の御顔から輝く『光』の光輝のみが見られる日」なのである。
アブドル・バハは、レズワンの園での12日間の滞在の間に、手紙を書いておられる。次はその一部である。
「ラマダンの3日後、祭りが催されているとき、私の叔父と私はパシャ[3]を訪れたが、彼はバハオラに会うことをしきりに願っていた。しかもパシャは、自分の家で会見したいとのことだった。しかしバハオラは知事の家では会いたくないと言われ、もしパシャが会いたいのなら寺院の中で会えるとおっしゃった。そこでバハオラもパシャも寺院へ行ったのだが、パシャはそこへ入るとすぐ出て行ってしまった。後にパシャは、サドリ・アザム(総理大臣)からの手紙をもたせて自らの高官をバハオラのところへつかわし、次のようなメッセージを伝えた――『私は寺院に来たけれども、そのような話を最初の会見で持ち出すのは恥ずべきことだと思いました。』その高官は起こったことについて全て説明し、こう言った――『パシャが尋ねようとなさったのは、あなたがとどまるのを望まれるかどうかということです。もしそうなら、あなたは、サドリ・アザムに手紙を書いて、私たちがそれを彼に送って知らせましょう。しかし、ここを去ることを望まれるなら、それもあなたの自由です。』バハオラはこうお答えになった――『もし政府が適切な敬意を示すなら、いくつかの理由があって私はしばらくいたいと思う。』それからパシャはバハオラに次のようなメッセージを伝えた――『私はあなたのお望みを実行に移し、あなたの言われることをいたしましょう。』」
アブドル・バハはさらに、次のようなことを記しておられる。総知事は自らナジブ・パシャの庭園を訪れ、バハオラに敬意と愛情を示しにやってきた。そして、邪悪な企みを続けてきた敵の敗北は、この歴史的な手紙の最後の文節に明らかに示されている――
「彼らの喜びは、神の干渉により残念無念へと変えられ、バグダットのペルシャ総領事は陰謀らが企んだ計画や陰謀について非常に後悔したのである。ナミク・パシャ自身も、バハオラを訪れた日に次のように語っている――『前は、彼らはあなたが去られることを主張していましたが、今は、あなたが居残るようせがんでいます。』彼らは計画し、神もまた計画なさった。そして計画する者の中で、神こそが最高の御方である[4]。」
1863年5月3日、バハオラの一行は、オットーマン帝国の首都へ向けて出発した。テヘランからバグダットへ旅したときとは違い、今度は、バハオラに献身的な人々に伴われての、勝利の行進のようであった。アブドル・バハは、今や19歳の青年であり、美男子で優美、敏活、そして奉仕に熱心で、意志は固く、あらゆる者に寛大であった。彼は、長くつらい旅をできるだけ楽なものにしようと、他の者のために努力した。夜、野営地に着くときには、最初に着く者のひとりであり、旅人らの世話をした。また、食糧が足りないときは夜の間、食糧を捜しに出かけるのだった。そして夜明けには早く起きて、一日の旅の準備をするのであった。それから、一日中「父親」の横についてラバに乗り、つねにバハオラの世話をしたのである。黒海のサムスン港に着くまで110日もかかった。そこから船に乗ってコンスタンチノープルへ向かい、オットーマン帝国の首都に着いたのは、1863年8月16日のことであった。
コンスタンチノープルのバハオラとその家族には何が待ち受けていたのであろう? バハオラは平静に落ち着きを失わず到着し、誰からも好意や施しを求めることもなければ、役人や高官を訪れることもなく、また彼らからの訪問のお返しとして訪問されることもなかった。彼は、オットーマン帝国王の裁決がなされるのを落ち着いて待っておられたのである。12月の初め、スルタン・アブドル・アズィーズは、バハオラとその家族をアドリアノープルに追放する命令を出した。そのころバハオラはバビ共同体を越えて自らの使命の宣言を公けになさったのである。その宣言は、ある書簡の中に収められているが、その原文は現存していない。そしてその厳しい忠告の書簡は、スルタンにあてられたものである。
バハオラとその家族は再び、真冬に十分な準備もできず、アドリアノープルへ向けて旅をせねばならなかった。
アブドル・バハはねたむ者や不忠な者らの悪意から「父親」を守り、不信心な世の人々の妨害から彼をかくまうようになった。しかし、バハオラの悲しみは、まだ終わるどころか、さらに悲しむべき出来事が待ち受けていた。それは、バハオラご自身の腹違いの弟による裏切り行為と流刑植民地への追放であった。
ミルザ・ヤーヤとその仲間の企みと、彼らによるオットーマン帝国への抗議の結果、バハオラはさらにアドリアノープルから追放されることになった。このアッカへの追放が、バハオラの最後の追放となるのであった。
ルメリアにいたその5年の間に「最大の枝」にして「神の神秘」であるアブドル・バハは比類なく輝かしい成熟の域に達したのである。バハオラとその家族がコンスタンチノープルから追放されたとき、アブドル・バハは19歳であった。そして今や彼は24歳であり、信者の間だけでなく、その外部の人々の間でも大変尊敬されていた。アドリアノープルの知事であるカーシド・パシャもその一人で、彼は、アブドル・バハを非凡な人物と見なし、非常に尊敬敬慕していた。カーシド・パシャは、バハオラとその「息子」に非常な愛情を寄せていたため、バハオラを追放せよというスルタンの勅令が届いたとき、彼は自らその内容をバハオラに告げることを断り、その不快な任務を部下にゆだねたのである。もう一人、オットーマン帝国の著名な役人であるアズィーズ・パシャも、ヴァリ(総知事)の地位に上げられたとき、バハオラに敬意を示し、アブドル・バハと話をするために2度アッカへ旅をしている。
バハオラは、アドリアノープルにおられるとき、非常に重要な書簡を啓示なさった。それは「スーリ・グスン」(枝のスーラ[5])で、クラサンのバハイであるミルザ・アリ・リダィ・ムスタウフィにあてられたものである。バハオラはその中で、自らの「長男」を次のように賛美なさっておられる――
「サドラトゥル・ムンタハからこの神聖にして栄光ある人物、この神聖の枝が現れた。彼に避難所を求め、その加護の下にいる者は幸いである。まことに、神の法律の『枝』はこの『根』から生じたのであり、この『根』は神がご自身の意志の地中にしっかりと植えつけられたのである。そしてその『枝』は全創造物をおおいこむほどに高められたのである。ゆえに、この荘厳にして神聖で、強大にして崇高なる『産物』に対して彼にほまれあれ…」(23)
バハオラは、アブドル・バハの高い神聖な地位について断言なさり、彼からそむく者を強くとがめられた。
1868年の8月21日、バハオラとその一行はアレキサンドリアに向けて船に乗った。当初、バハオラとその信奉者らは隔離されそうになったが、後にこの残酷な隔離は取り消され、信奉者らはバハオラに同伴することを許された。しかし、バハイのうち4人は、ミルザ・ヤーヤとともにキプロスへ流されることになった。こうして、流刑植民地なるアッカに着いたのは、1868年8月31日のことであった。
アッカは、バハオラが「最も苛酷な牢獄」と呼ばれるほど、非常に荒廃した不健全な牢獄都市であった。その空気や水や通りは汚く不潔であり、そこの住民は無知に捕われ、愚かで、偏狭なへつらい者であった。その悲惨な土地に着いた最初の晩、バハオラとその一行は食物や飲み物を与えられなかった。やがて、アッカの有害な空気と兵舎の非衛生的な条件のため2人を除いてみな、病にかかってしまった。彼らはマラリアや赤痢や腸チフスによって苦しめられ、3人が命をなくした。アブドル・バハは病人を看護し、「父親」をかばい、アッカの住人のあざけりと怒りに立ち向かい、冷淡な看守や残忍な番人、敵意に満ちた役人らにがんと立ち向かった。彼は決して動揺せず、警戒心をゆるめなかった。何年か後、ハジ・ミルザ・ヘイダー・アリの自伝の中で、バハオラが「息子」と布教について、次のように語られたことが記されている――
「人々に対して快く親切な性質と忍耐を示すことは大業について布教するための必要条件である。空しく、空虚な想像の産物であり、オウムのように他人の考えを繰り返すだけであっても、ある人の言うことは全て言わせるべきである。人は、がんこな拒否や敵意感につながるような討論をしてはならない。なぜなら、その相手は自分が打ち負かされたと思うからである。したがって、人と大業の間がとばりによって隔てられれば隔てられるほど、人はそのことを怠るようになるのである。人はむしろ、こう言うべきである――よろしい、わかりました。しかし、この事柄についてこの見方で見てごらんなさい。そして、それが真実か偽りか、自分で判断してごらんなさい――もちろん、礼儀正しく、やさしく、思いやりを持って、こう言わなければならない。そうすれば、相手は答えを返したり、拒絶のために証拠を並べ立てようとはせず、耳を傾けるであろう。そして相手は、目的が口論をしたり人を負かすことではなかったことを悟り、同意を示すであろう。その相手は、目的が真実の言葉を発し、人間性を示し、神々しい性質をもたらすことであったことがわかるのである。その目と耳が聞き、心が応え、真の性質が明らかにされ、神の恵みによって新しい創造物になるのである…『最大の枝』は、いかに愚かな話をも進んで耳を傾ける。それは、相手の者が『彼は私から学ぼうとしている』と思うほどの熱心さである。そうして徐々に、相手が気づかないようなやり方で、彼は相手に洞察力と理解力をあたえるのである。」(29)
アッカでの悲惨な生活が続き、バハオラは、牢獄に監禁され、スルタンは、バハオラがそこで亡くなることを望んだ。やがて、アブドル・バハの弟であるミルザ・マフディが牢獄の屋根の明かり窓から落ち、重傷を負い、亡くなるという悲しむべき出来事が起きた。その後、監禁がゆるめられ、やがてバハイたちは再びバハオラに会うことができるようになった。
アッカにバハオラが流されたとき、信奉者たちは、バハオラの追放の地のことも彼の運命についても知らなかった。彼らは心配し、苦悩した。彼らはバハオラが、その先駆者バブと同じ殉教のコップから飲み干されたと思ったにちがいない。イスファハンのバハイたちは、英国インド・ヨーロッパ電報局に行って、バハオラの身に何が起こったかを調べるための援助を請った。やがて、流刑植民地に監禁されているという知らせを告げる書簡がいくつかのバハイのところに届いた…悲しみは増したが、信念と犠牲の喜びは悲しみの表面をおおった。
後にアブドル・バハは、「父親」のメッセージを西洋の人々に伝えるため、旅に出られた。1912年の8月、ワシントンD.C.の献身的なバハイであるパーソンズ夫人は、アブドル・バハをニュー・ハンプシャー州のダブリンに招待した。そこに彼女は土地を持っていたのだが、その夏、米国の首都の多くの著名な人物たちはその行楽地を訪れた。パーソンズ夫人は、自宅で午餐会を開くことにし、20人ほどの人々にアブドル・バハに会ってもらうよう招待した。彼らはそれぞれの分野で優れた人々であり、教養や科学、芸術、富や政治などで著名な人々が出席していた。パーソンズ夫人は、アブドル・バハが、この社会の指導者たちに、バハオラとその信教について話されることを願っていた。おそらく、招かれた客自身も、講義のためにそこへ来たと思っていたのであろう。しかし、アブドル・バハは、彼らを笑わせるような話をなさった。彼自身も存分にお笑いになり、彼らにも面白い話をするように勧められ、彼らが話しをすると、また彼らと一緒にお笑いになった。アブドル・バハとその客は、その午餐会の間陽気にすごした。アブドル・バハはみんなに言われた――「笑うことはよいことである。それは、精神的な気晴らしである。」
そうしてアブドル・バハは、牢獄での年月についてお話しになった。彼はこう言われた――生活は苦しく、常に苦しみが付きまとっていたが、一日が終わると、囚人たちはともに腰をおろし、変わった出来事の話をしては笑うのであった。面白い出来事は沢山あるわけではなかったが、彼らはそれでも、何か面白い話を見つけ出して笑ったのであった。喜びは、物質的な快楽や富によるものでないと、アブドル・バハは言われた。もしそうでなければ、彼らは常に憂うつな時をすごしたであろう。しかし、彼らの魂は喜びにみちていた。その著名なアメリカ人たちは、日常の生活ではあまり見られない真理の影響を受け、この東洋からの訪問者を違った目で見るようになった。その目には、深い崇敬と敬意の念が映し出されていた。そして、アブドル・バハのすばらしい心は、彼らをみな、おおい込んだのである。後にアブドル・バハは、自分のもてなしを気に入ってもらえただろうか、とパーソンズ夫人にお尋ねになった。
1870年、オットーマン帝国内で騒動があり、トルコの軍隊が動かねばならなくなった。アッカの要塞が軍事用に必要とされ、バハオラとその信奉者達は、牢獄から連れ出されることになった。しかし、それは束縛からの解放ではなく、彼らは牢獄都市の防壁内に住まねばならなかった。その後、バハオラとその家族は、家から家へと移された――マリクの家からコーワムの家、そしてラビーの家、それからウッディ・カマルの家へ移されたが、それらの住まいは制限され、かすがいで閉められ、13人が一つの狭い部屋に住まねばならなかった。囚人の大部分は、カン・イ・アヴァという隊商宿に部屋が見つけられた。バハオラとその信奉者らは、心が憎しみによってこめられ、偏見によって頭がゆがめられた住民らの間で住んでいたのであり、そのような人々を扱うことには、信念のみが与えることのできる特質が必要とされていた。
そうして今、アブドル・バハの真の才幹が示されるようになったのである。
バハオラとその信奉者らがアッカにいるころのこと、他の住人と同じようにバハイに対してあまり敬意を示さないあるキリスト教徒の商人がいた。ある日のこと、バハイたちがアッカの外で買う許しを得ていた木炭を、この商人が買おうとしていた(当時、アッカの町の中でそのような買い物は許されなかった)。その商人は、木炭が良質なのを知り、自分が使うためにそれを持っていった。かれにとって、世間の習慣からはずれた存在だったので、バハイの所有物を押収することもできたのである。この出来事について聞いたアブドル・バハは、その商人が商いをしているところへ行って、木炭を返してもらうように頼みに行った。その事務所には、沢山の人が行ききしており、商売に熱中していて、アブドル・バハがいるのに気がつかなかった。彼は腰をおろし待った。それから3時間して、その商人がアブドル・バハの方を向いてこう言った――「あなたは町の囚人のひとりなのか?」アブドル・バハが、そうだと答えると、商人は何の罪で投獄されたのかと尋ねた。「キリストがとがめられた罪と同じものである」とアブドル・バハは答えた。商人はめんくらった。彼はキリスト教徒であったが、ここに自分の行為とキリストの行為の類似点について話している人物がいるのである。「キリストについて何を知っているというのだ?」と、商人は言い返した。アブドル・バハは落ち着いて、話を始めた。アブドルバハの忍耐は、商人の高慢さに立ち向かった。そうしてアブドル・バハが腰を上げて去っていくときには、商人もまた立ち上がって通りまで一緒に歩き、彼に敬意を示した。それからはこの商人はアブドル・バハの友人、いや勇猛な支持者となったのである。
アッカにはまた、バハイをとても憎んでいたシェイフ・マフムードという人物がいた。町の人々の多くは徐々に自分たちがまちがっていることに気づき、バハイたちを賛美するようになってきていたが、シェイク・マフムードは、あいかわらず憎しみを抱いていた。ある日、彼は人々がアブドル・バハを善良で素晴らしい人物であると話しているところにいあわせた。シェイクは、それに耐えられず、このアッバス・エフェンディの本性をあばいてやると叫んだ。彼は怒りに満ち、アブドル・バハがその時いた寺院へ急ぎ、襲いかかった。アブドル・バハは、あの冷静で威厳に満ちた態度でシェイクを見、預言者ムハンマドがかつて語ったことを彼に思い出させた――「客には寛大であれ、たとえその者が不信心な者であっても。」シェイク・マフムードはその場を立ち去ったが、彼には怒りの念や憎しみが残っていた。彼が感じたのは、強い恥の念と悔恨だけであった。彼は家へ逃げ去り、戸にかんぬきをした。数日後、彼はアブドル・バハのところへ行き、ひざまづき、彼の許しを請うた――「私はあなたの戸以外のどの戸を求めることができましょう。あなたの恩恵以外、誰の恩恵を望むことができましょう。」そして、彼は、献身的なバハイとなった。[6]
アッカの人々の情欲が数ヶ月の間になだめられたと思い込んではならない。実際、変化が起きるまでには何ヶ月もかかり、そのひと月ひと月には危難が満ちていた。その間、信教の評判を悪くするような重大な危機が共同体を襲った。この危機を引きおこしたのは、スルタン・アブドル・アズィーズの命令により、バハオラの信奉者らの同行者として含まれていたミルザ・ヤーヤの支持者たちであった。彼らは最初から公然に挑んできていた。彼らはひそかに調査し、人々を扇動し、容易ならぬうわさを広めた。アブドル・バハは、彼らが、アッカに到着するバハイを見つけるために警戒し、みはっていたことについて語っておられる――
「『祝福された完全』の日々には『最大の牢獄』の規制は極端に厳しく、友人のうち誰も、要塞から出ることもできなければ、そこに入ることもできなかった。カジュ・クラン[7]とシィード[8]は、第2門の上に住まいを持ち、日夜見張りをしていた。誰が到着するのを見つけるたびに彼らは即座に政府に報告し、新たに到着した者が手紙をもってきており、手紙を持って出て行くであろうと告げるのであった。そうして、当局者はやって来た者を逮捕し、刑務所に入れ、しまいには追放するのであった。このやり方が規則となり、政府は長い間それに従ったのである。」(31)
これらの者らの陰謀は増し、バハオラの命は危険にさらされ、バハイたちは常に不安にさせられた。バハオラは、決して罰を与えようなど考えないよう、常に、バハイたちに勧告なさった。暴力をしがちだったあるアラブ人のバハイは、ベイルートへ戻るように言われた。危害が広まり、緊張感が張りつめているとき、バハオラはアラビア語で書簡を啓示なさった。それは東洋[9]のバハイには「まことに、誠実な者らの心は離別の火によって燃え上がっている」という始まりの節によって知られている。バハオラの文章の中でも、この書簡は特別な位置を占め、独特な性質を持っている。その中で、彼は、自らの魂の苦悶について明かし、自らの苦しい境遇について嘆き、人々の移り気や不信心や片意地について悲しみ、神に救いを求めておられる。それから、彼は、最高の顕示者から自らの嘆願に対してやってくる応答を人類と分かち合っておられる。そして彼ご自身こそ、その最高の顕示者なのである。
そうして、前述した恐ろしい出来事が起きたのである。バハオラが繰り返し発せられた命令を無視し、追放者のうち7人が、共同体を苦しめる者らを消し去ろうと決心した。彼らはその忌まわしい計画について誰にも告げなかった。ある晩、町の中が、しんまりと静まり返っているとき、彼らは、ミルザ・ヤーヤの支持者たちの家に入りこみ、殺してしまった。シィード・ムハンマドとアカ・ジャン・ビグ、そして最近その仲間に加わったミルザ・リダ・クリ・イ・タフリシは命を奪われたのである。この新しい仲間は、何度も約束を破っており、バハオラの信奉者たちとの関係は断たれていたのである。
ただちに町は修羅場となり、町全体がかき立てられ、人々は不安を感じた。人々の恐れはつのり、バハオラの住居の隣にすんでいたアブードは、隣の家との間を隔てる壁をさらに厚くするほどであった。
バハオラは、新たな屈辱を受け、家のまわりは軍隊が取り囲み、通りでは野次馬がどなり立てていた。彼は、知事の家につれていかれ、逮捕された。アブドル・バハも捕らえられ、刑務所へ連れていかれ、そこで鎖をかけられた。25人のバハイも同じく投獄された。また、子供たちでさえも、アッカの住民たちの怒りから逃れることはできなく、家から出てくると、子供たちは、住民たちから悪口を浴びせられ、石を投げつけられた。70時間ほどたって、バハオラとアブドル・バハは家に戻ることを許された。バハオラはこう書いておられる――
「束縛は、われを害することはできない。われを害しうるのは、われを愛し、われにかかわりあると称しながらわが心とペンを嘆かせるようなことをしでかす者らの振る舞いである。」「バハオラの苦難のコップは今やあふれんばかりに満たされた」とは、彼のひ孫にあたる、バハイ信教の守護者、ショーギ・エフェンディの言葉である。(32)
この屈辱のときにアブドル・バハがしなければならなかったことは、奇跡的なことであった。彼が豊富に、またはっきりと示した特質は、バハオラが、彼を「神の神秘」として呼ばれたことを、まことに実証するものであった。アブドル・バハは、計り知れず、あきを知らぬほど忍耐強かった。彼は何ものにも揺るがされることがないほど確固としていた。彼は、高潔であり、妥協を許さず、がんとしていた。彼は優しさの権化であった。彼は厳格であり、また、謙遜の道を歩んでいた。また、彼は間違いなく権威者の口調で話をした。彼は温順であり、威厳の典型でもあった。これらの矛盾したように見える聖なる特質は、彼の人物を行動と言葉に明示されていたのである。
そうして、初めはほとんどわからないほどであったが、変化が起き始めた。バハオラとその信奉者たちに対してあまりいい感情を抱いていなかった知事が、異なった才幹を持ち合わせた役人と変えられたのである。新しい知事であるアフマド・ビグ・タフィクは、理解力ある人物で、公正なる行政官であった。バハオラは、アッカの住民にかつてはきれいな水を与えていたが、年月と共に見捨てられてしまった古い高架水道を修理するよう、彼に指図なさった。アフマド・ビグは、この任務を遂行し、そのおかげで、アッカの住民たちはおおいに益を得た。当時、その地域に広まっていたことわざによると、アッカの空気はまことに不潔であるため、アッカの上空を飛ぶ鳥は死んで落ちてくる、と言われるほどであった。しかし人々は、バハオラが彼らの間に連れてこられて住むようになってから、状況が変化したと言うようになった。コレラはくり返しアッカの防壁の近くまでやってきたが、町の中までやってくることはなかった。また、この賢明で慈愛ある知事は、自分の息子を教育のためにアブドル・バハのところへ送り、正義と健全な行政を行うために、アブドル・バハの助言を求めるのであった。
追放者たち(i.e.バハイたち)を厳重に監禁するよう、暴君によって命令されていたアッカとその近郊の役人や住人たちは、「主要な追放者」とその「息子」の聖なる魅力と抗しがたい威厳によって捕らわれてしまった。
それからベイルートからは、ヴァリ・アズィズ・パシャが、バハオラに敬意をあらわし、その「息子」と交わることによって恩恵を得るためにやってきた。彼はアドリアノープルで、バハオラとアブドル・バハを知るという特権を授けられていたのである。後に彼は再び訪問している。そしてアブドル・バハは、正式にはまだ囚人であったが、ミドハト・パシャの特別な招待により、ベイルートへ旅をしている。彼は、オットーマン帝国の聡明なる政治家のひとりであり、自由主義の改革者で、大臣としてスルタンに人民のための憲法を授けさせるのに貢献した人物である。その政体は長続きせず、アブドル・ハミードが独裁主義を取り戻してその改革者を追放したが、ミドハト・パシャの評判は永続し、彼は「憲法の父」として呼ばれ、敬われていた。アブドル・バハのベイルートへの旅は1878年頃のものだったに違いない。そしてこのおりに、バハオラは、その重要性を祝い、示すための書簡を啓示なさったのである――
「全ての名称が周りを回る者の存在によって、バの地(ベイルート)に栄誉を与え給うた彼に誉れあれ。地球のあらゆる原子は、全創造物にこう告げた――『牢獄都市』の門そしてその地平線から偉大なる美の『天体』、神の『最大の枝』が輝き出でた。それは神の古来の不変なる『神秘』である。そしてそれは、別の地へと向かって進んでいった。」(33)
ベイルートでアブドル・バハは、ミドハト・パシャのほかに、アラブ世界の多くの著名な人物にあった。そのなかには、将来のエジプトのgrand?ムフティー[10]なるシェイク・ムハンマド・アブドゥもいた。この学識あり崇高なるシェイクは、シィード・ジャマルッディン・アル・アフガニの同僚であった。後者は、pen-Islamism?の主唱者であり、バハオラの信教のがんこな敵であった。しかし、このシェイクのアブドル・バハに対する崇敬は熱心なもので、彼は、アブドル・バハに同伴してアッカへ行くつもりでいたほどであった。しかしアブドル・バハは、そのような行為はシェイクとその身分を害することになるのであきらめさせた。
アブドル・バハは、バハイ信教の信者の外部ではアッバース・エフェンディとして知られているが、その名声は今や広く知れ渡った。キリストの故郷であるナザレを訪れたとき、アブドル・バハは、その町の博学で強力なムフティーであるシェイク・ユスフから大いなる敬意を表されて迎えられている。そのムフティーの命令により、役人や高官たちは、町に到着するずっと前からアブドル・バハに会い、ナザレまで護衛して同伴した。そのような敬意を示した態度は、総知事や他の身分の高い人々のみ示されるのであった。シェイク・ユスフは後にこのアブドル・バハの訪問の返礼として彼を訪問しており、そのときアブドル・バハはまことに壮麗に彼を迎えたのであった。
アフマド・ビグ・タキの後にはムスタファ・ディヤ・パシャが知事として後を継いだ。Subl.R?te?からの命令に、変更はなかったが、アッカの知事たちは、バハオラを自分たちの囚人として見なすことはできなかった。ムスタファ・ディヤ・パシャは、もしバハオラが望むなら、町の中での監禁から放たれて田舎に住むことができることを明らかにした。バハオラは牢獄生活の最悪のときに、兵舎の中で次のように書いておられたが、この申し出を受け入れにはならなかった。
「恐れるなかれ。扉はひらかれるであろう。わが天幕はカルメル山にはられ、至上の喜びが実現するであろう。」(34)
しかし、まだその時はやってきていなかったのである――
9年間の波乱に富んだ年月がたったが、バハオラはいまだに、町の防壁内に閉じこめられていた。庭園や緑地や田園風景を楽しんでいた彼は、その間ずっと田舎の風景を目にされることはなかったのである。アブドル・バハはそれから何が起きたかについて、次のように語っておられる――
「バハオラは、田舎の美と緑を愛された。ある日、彼はこう言われた――『われは9年間、緑を目にしていない。田舎は魂の世界のためのものであり、都会は肉体の世界のものである。』この言葉を間接的に聞いたとき、私は、バハオラが田舎へ行きたがっておられることを悟った。そして、私は、彼のお望みをかなえるために私ができることは何でも成功するであることを確信していた。そのころ、アッカにはムハンマド・パシャ・サフワトという者がいたが、彼はわれわれに対して大変敵対心を持っていた。彼は町から北へ約6キロ離れたところにマズライ[11]という大邸宅を持っていたが、そこは美しい場所で、周りには庭園があり、小川が流れていた。私は、このパシャの家を訪れて、こう言った――『パシャよ、あなたは邸宅を空にして今はアッカに住んでおられル用だが。』『私は病弱で町から出ることはできない。それにそこへ行けば、友人たちから離され、ひとりになる。』と彼が答えると、私は再びこう言った――『あなたがそこから離れ、そこを空けている間、私たちに貸してくださらないか。』彼は、この申し出に驚いたが、すぐに承諾した。私は一年に5ポンドという非常に安い料金でその家を借りることができ、5年分の家賃を彼に払って契約を結んだ。私は人を送ってその家を修理させ、庭園を整備し、浴場も造らせた。また、私は、『祝福された美』のために馬車を用意した。ある日私は、自らそこへ行って自分の目で見てみることにした。いかなることがあっても町の防壁から出てはならないというくり返し述べられた命令にもかかわらず、私は門から出て行った。憲兵が見張りについていたが、彼らは何も言わなかったので、私は邸宅へ向かって進んで行った。翌日も私はいく人かの友人や役人らと一緒に出かけた。町の門の両側には番人や見張り人が立っていたが、われわれは妨害されたり引き止められはしなかった。それから別の日に、私は午餐会を催してバージの松の木の下に卓を広げ、そこに町からの著名な人々や役人たちを集めた。そして晩には、われわれはみな一緒に町へ戻って行った。
「ある日、私は『祝福された美』の聖なる御前に出て、こう申し上げた――『マズライの邸宅があなたのために、そしてそこに行けるよう馬車も用意してあります。』…『われは囚人である』と言って、彼は行くのを拒まれた。後に私は再びお頼みしたが、返事は同じであった…しかしアッカにはあるイスラム教徒のシェイク[12]がおり、彼はかなりの影響力を持った著名な人物で、バハオラを愛し、またバハオラからも大変好意を受けていた人物である。私は、このシェイクを訪れ、状況を説明した。私はこう言った――『あなたは大胆である。今晩、彼の聖なる御前に出てひざまづき、彼の手を取りなさい。そして、彼が町からお出になると約束なさるまで離れないようにしなさい!』彼はアラブ人であった…彼はまっすぐにバハオラのところへ行き、彼のひざもと近く座った。彼は『祝福された美』の両手を取り、両手に接吻し、『なぜ町からお出にならないのですか?』と尋ねた。『われは囚人である。』とバハオラはお答えになった。シェイクは答えた――『とんでもございません!あなたを囚人にする力が誰にあるというのですか?あなたはご自身を牢獄に閉じ込められたのです。監禁されるのはあなたご自身の意思でありました。どうか町から出て邸宅へ行って下さい。そこは美しく、緑に生い茂っております。木々は美しく、オレンジは火の玉のようです!』『われは囚人である。そうすることはできない。』と『祝福された美』が言われると、シェイクは彼の両手を取り、接吻した。丸1時間、彼は嘆願し続け、そしてようやく、バハオラは『カイリ・ユブ』(よろしい)と言われ、シェイクの忍耐とねばり強さは報われたのである。彼は、とても喜んでやってきて、私に喜ばしい知らせを告げた…私は翌日、バハオラと一緒に馬車に乗って邸宅へ行った。誰も反対する者はなく、私はバハオラをそこへ残して、町へもどってきた。」(35)
バハオラの御前でひざまづき、町の防壁の外へ出て行くようバハオラに懇願したのは、アッカのムフティーであり、イスラム共同体の宗教的指導者であった。神の幼き信教の運命は、その9年の間に何という驚くべき変化をとげたことか。
マズライの邸宅に2年間滞在なさった後、バハオラは、ウッディ・カマール[13]の邸宅に移られた。この邸宅は、アッカにより近く、そこからは、古き町の近づきがたい要塞や、青い地中海、湾の向こう側にあるカルメル山の輪郭などがみえるのだった。アッカの平原上にあるバハオラのこの最後の住まいは今日、バージの邸宅として知られており、彼の聖なる遺体を収めてある廟の隣に立っている。そしてその廟は、地上で最も聖なる場所である。バハオラがアッカに監禁されている間に、この邸宅は建てられており、その近辺で最も壮麗な家とされていたが、突然起きた伝染病のためにその家の持ち主はそこから逃げ出してしまったのである。こうして、アブドル・バハは、ウッディ・カマールの邸宅を「父親」のために借り、後に買い取ることができたのである。バハオラは、それを「人類の最も荘厳なる光景と神がお定めになった」「深遠なる邸宅」とお呼びになった。その最初の持ち主の遺体は、邸宅を取り囲む塀の角に埋められている。
アッカの住民の中にジュルジュス・アル・ジャマルという名の狂信的なプロテスタントがおり、彼はバージの邸宅の地域の近隣に土地を持っていた。彼は自らの手によってオリーブ大農園をつくり、それは今日もなお残っている。彼の土地には邸宅の方に向かって松の木が生えており、バハオラは、それらの松の木の下を歩いたり、そこに座ったりされた。アブドル・バハが松の木の生えている土地を買いたいと申し出をされたとき、ジュルジュスは、トルコの金貨で1万ポンドという途方もない金額を要求した。また、彼はその土地に埋葬されるよう、遺言の中に規定した。さらに、彼はバージには素晴らしい未来があるので自分の所有物を売らずに待つよう、兄弟に命令した。そこに埋葬されるようにという彼の望みは実行されたが、彼の兄弟は土地を売ってしまい、ナザレに埋葬するためにその棺は掘り出された。
また、アブドル・バハは、ナマインという庭園も手に入れた。そこは、アッカの近くの小川の真中にある島となっており、ナポレオン・ボナパルトの名からとって名付けられた、人工の丘の近くにあった。その丘は、町を爆撃するためのナポレオンの大砲を取り付けるためにつくられたものであった。バハオラがその使命を初めて宣言なさった、バグダットの郊外にあるナジブ・パシャの庭園を思い起こさせる「レズワン」という名を、バハオラは、ナマインの庭園にお授けになった。さらに、彼は、そのときは樹も何もない平地であったその歓喜の憩いの場を「新しいエルサレム」「わが緑の島」として言及なさった。信奉者たちが美しく手入れしたこの庭園を、バハオラはときおり訪れになった。また、2階に簡素で住むのに適した部屋のある、まことに簡素な夏用の家に滞在なさることも何度かあった。バハオラは、ナマインの冷たい水のそばにいるご自身にやってきた「天の乙女」の幻視について、書簡の中でありありと描写なさっておられる。
バハオラは遂に、その「息子」の尽力により、アッカとその住人らの圧迫から救われた。そして今、彼は信奉者たちを教育し、聖なる勧告を示すことに全ての時間を費やすことができるようになったのである。陰うつなアッカに住み、役人や名士や町の住民に会い、バハイ共同体を保護し、その利益をまもり、その幸福のために世話をし、「父親」を擁護したのはアブドル・バハであった。バハオラに会うために、アブドル・バハはいつも、アッカとバージの間を歩いて行った。それから何年も後、西洋を訪問中、ニューヨークからリバプールまで渡航しているとき、アブドル・バハは甲板を長い間、行ったり来たりしておられた。ようやく腰をおろして休まれると、付き添いの人たちにこう言われた――「私は、アッカからバハオラの廟までの道のりである4600フィート[14]歩いた。廟まで歩いていけるように私は歩く運動をしておきたいのである。後に聖地にいるとき、私は虚弱になり歩くことができなくなり、この恩恵を奪われてしまったのである。」(36) 彼はそのとき、69歳であった。
著名なる、神の大業の翼成者であるタラズラ・サマンダリ[15]は、バハオラの人生最後の6ヶ月の間、16歳の時に、巡礼者としてバハオラを訪れているが、彼は、アブドル・バハに同伴して、アッカからバージまで歩いていった日のことを回想している。その日は、雨が降った後で地面がぬれていたが、邸宅全体が見える道の曲がり角までくると、アブドル・バハはひれ伏し、水で浸った地面に額をおつけになった。そして、アブドル・バハがバージに近づいてくると、周りにいる者たちに向かって「師がやってきている。急いで迎えに行き付き添いなさい」とバハオラがおっしゃったことが何度あったであろう。これについては、何十人もの人々が証言している。
さらにサマンダリは何日か、バハオラの御前に呼び出されることがなかったので、バハオラの家の幼い子供に会ったとき、バハオラがおひとりでいられるのを確かめてから彼に嘆願の言葉を伝えて欲しいと頼んだ。その嘆願とは、彼の面前に達する恩恵を受けることであった。サマンダリがバハオラの御前にやってくると、バハオラはこうお尋ねになった――汝は毎日、師に会っているのではないか。サマンダリがそうですと答えると、バハオラは、こうおっしゃった――それでは、毎日師に会って彼と交わるという栄誉を受けている汝が、なぜ、何日か私の面前に達していないなどと言うのか。バハオラは、アブドル・バハに会うことを、自らに会うことと等しいものとなさったのである。
前に言及したハジ・ミルザ・ヘイダー・アリは、さらにアブドル・バハの地位と力に関するバハオラのもう一つの証言を記している。彼は、アブドル・バハに関するイスラムの伝承に関する論文を書いており、その編纂と解説の書をバハオラに見せた。バハオラはそれをほめたたえ、彼の推論や結論は全く正しいものであるとおっしゃった。さらにバハオラは、こうおっしゃった――
「『最大の枝』の発言の力や彼の能力は、まだ完全に明示されていない。彼が将来、権力と権威と神の光輝をもって、ただひとり誰からも援助されず、世界のまん中で『最大名』の旗を掲げるのを見ることができるであろう。そして、彼が地上の人々を平和と調和の天幕の下に集めるのを見ることができるであろう。」
バハオラが生きておられる間、2度目の聖地への巡礼のとき、このハジ・ミルザ・ヘイダー・アリと2人の巡礼者は、ある博学な人物と一緒にコンスタンチノープルから船で旅をした。この博学な人物は、アッカの住民で、その町の名士のひとりであった。この人物は、ハジ・ミルザ・ヘイダー・アリに、アッバース・エフェンディ(アブドル・バハ)について賞賛と深い崇敬の意を表して語った。ハジは、自分の信仰や目的地について語りはしなかった。というのは、そうすることによって旅が妨げられるからであった。しかし、ハジは、アッバース・エフェンディはペルシャに多くの信奉者がおり、彼やその信奉者たちについて聞いたことがあると言っておいた。そのアッカからの旅人は、アッバース・エフェンディは独特でまことに素晴らしい人物であると答えた。その旅人は、アブドル・バハの人格をとても熱心にほめたたえたので、ハジ・ミルザ・ヘイダー・アリは、自分はエジプトへ向かっているけれども、この話を聞いたためアッカを訪れてこのすばらしい預言者にあってみることにしたと言わざるを得なかった。後にハジは、このアッカの旅人がこのことについてアブドル・バハに話し、「彼らはやってくるでしょう」といったことを知ったのであった。
当時、イランでは、バハイの迫害や圧迫や殉死は、日常の出来事であった。毎年、信者が殉死への道を進み、ついに3万人ほどの信者が殉死するに至った。しかし、バハオラの信奉者たちは何事にもひるまず、確固不動としていた。
そしてバハオラが、アッカの独房から信奉者たちに約束なさったことは、確かに実現したのである。彼の天幕は一度以上、カルメル山に貼られたのである。バハオラは晩年、その聖なる山にて、「息子」に特別な任務をお与えになった。ある日、山の中腹にあるイトスギの木陰に立って、バハオラは、すぐ下方にある岩を指し、自らの「先駆者」なるバブの切断された遺体を収める廟がそこに建てられねばならない、とアブドル・バハにおっしゃったのである。バブの遺体は何十年もの間、その母国にて隠されたままであった。
アブドル・バハは、状況が良好になるとすぐその命令を実行に移した。しかし、その任務は巨大なもので、遂行するのにいく年もかかった。それはアブドル・バハを大変危険にさらし、多大な悲しみと苦しみを彼にもたらした。しかし、結局、彼は「父親」の命令を遂行し、成就させることができたのである。
第3章 バハオラの昇天
バハオラは、1892年の5月29日の未明に昇天なさり、バハイたちは悲しみに打ちひしがれた。アブドル・バハは、トルコのスルタン、アブドル・ハミードに次のような電報を打ってそのことを知らせた――「『バハの太陽』は沈みし。」
また、スルタンにあてられたその電報では、バハオラの遺体は、バージの邸宅の周辺に横たえられることが伝えられていたが、アブドル・ハミードは承諾した。そして、信教の信奉者でなかった高官や指導者やおびただしい数の平民――男性も女性も――がバハオラに最後の敬意を表し、去って行き、長い騒動の時が過ぎ、アッカの平原に静寂が戻ったとき、聖なる遺体を収めていた棺は邸宅から持ち出され、何メートルか離れた家に移された。そこは、バハオラの義理の息子の家であった。そこには、「偉大なるアフナン」[16]が客を迎えるために使っていた部屋があり、その下には地下室が準備されており、その地下室に、棺がおかれることになった。
アッカとその近辺の人々の悲しみはとても深いものであった。それだけでなく、シリアとその近隣の領土も死別を感じるほどであった。かつてはバハイたちを忌み嫌い、あざけり、避けていた人々も、バハオラの死を嘆くために、毎日邸宅の門までやってくるのだった。かつては、バハイの近くにいたら自分の命や名誉や財産も危うくなると信じていた人々も今は、偉大なる「人物」が自分たちの間から去って行ったことに痛ましくも気づいたのである。アッカやその他、アラブの世界の著名な都市――ダマスカス、ベイルート、カイロ、バグダッド――の著述家や詩人が、イスラム教徒もキリスト教徒も同様に、バハオラだけでなくその「息子」をもほめたたえる賞賛の言葉が書かれた。その中には、エジプトの著名なる文筆家であり、キリスト教徒であるアミン・ザイダンや、シリア中で、その信心深さと学識により知られているイスラム教徒のハジ・ムハンマド・アブドル・ハルクなどがいる。そして、彼らが、自分たちの悲しみや尊敬の念を表現したこれらの言葉を差し出し、与えたのはアブドル・バハのみであったのである。
バハオラに「時代の主」、人類の「救世主」を認めた人々の心の傷は、不滅のナビルによって生き生きとまた感動的に描写されている――彼自身も、その苦痛に耐えられず、やがて海に身を投げて自殺している。
「塵の世界で起きた精神的な騒乱は、神のあらゆる世界を振動させたように思われる…私の内なる舌と外なる舌は、われわれがあった状態を描写することはできない…邸宅の周りにある野原に押し寄せていた、アッカとその近隣の村々の住民たちは、その困惑の中で泣き悲しみ、頭をたたき、悲しみのために大声で泣き叫んでいるのが見られた。」(38)
ペルシャやエジプトやシリアやイラク、オットーマン帝国の他の領土やコーカサスやタキスタンそして東洋の他の国々のバハイたちに、アブドル・バハは次のようなメッセージをおくっている。それはまた、アブドル・バハから彼らへの最初のメッセージである――
彼こそは栄光に満ちた御方なり。
かつては全人類に輝きを放っていた、世界の偉大なる「光」は沈んでしまった。天上から彼の愛されし者らに光輝を放ち、彼らの心と魂に永遠の生命の息を吹きこみ、不滅の栄光の彼の御国なる「アブハの地平線」から永遠にかがやくために。
おお、主に愛されし汝らよ!ためらったり動揺したりせぬよう警戒せよ、まことに警戒せよ。恐れを降りかからせることなく、また、困惑したりおびえたりするなかれ。この惨事の日によって汝らの熱意の炎が弱められたり、か弱い望みが消し去られたりせぬよう、十分に警戒せよ。今日こそは、確固と堅忍不抜の必要な日である。岩のように確固不動とし、この動乱時の嵐を圧力に勇敢に立ち向かうものらは幸いである。まことに、そのような者らは、神の恩恵と聖なる援助を受け、真に勝利を得るであろう。
あの最も偉大なる「光」である「真理の太陽」は、「無限の領域」の上に不滅の輝きをもって昇るべく、この世の地平線の下に沈んだ。その「最も神聖なる書」の中で、彼は、友人たちが確固不動としているよう呼びかけておられる――「おお、世界の人々よ!わが美の輝きが見えなくなり、わが肉体が隠されたとしても動揺するなかれ。いや、むしろ、わが大業が勝利を得、わが言葉が全人類によって聞かれんがためにたちあがり、身を震い立たせよ。」(39)
第4章 聖約の中心
バハオラは、「ケタベ・アード」(聖約の書)のなかで、アブドル・バハを「聖約の中心」としてお定めになった。この文書は、人類の経典の中でも類のない文章である。その中で、バハオラはアブドル・バハが信教の長となり、自分の言葉を解説する者であり、偽りと真実が区別される、誤ることのない「決定権」であるという意思を明白に述べられた。バハオラはこの聖約を信奉者のみと確立なさったのではなく、全人類に対して確立なさったのであるが、それは宗教の歴史に全く類を見ないものである。
バハオラの最後の書である「狼の息子への書簡」の中で、バハオラは、ご自身の遺訓について「深紅の書」として言及なさっている。「神の遺訓の箱舟」[17]という聖ヨハネの啓示のことばは、このバハオラの遺訓をさしているのである。
バハオラの遺訓の類はいまだかつて存在したことがなかった。そしてバハオラの聖約もまた、類なきものである。「…人類の一体性の中心軸は制約の力である」と、アブドル・バハは述べられた。また、「…諸々の書や書簡や経典の中で言及されている『確実な柄』は聖約と遺訓に他ならない」「聖約の灯は世界の光である…」ともおっしゃっている。
人類の一体性を具体的になすものは、バハオラの教えである。人類の精神的な一体性を、地上の人々全てが疑いなく認める事実となせるのは、その教えに他ならない。それのみが、人類を自らのいけにえとなることから教えるのである。しかしそのためには、バハオラの教えが堕落から守られなければならない。さもなければ、失敗に終わるであろう。バハオラの教えの無欠性を守り保護してきたのは、バハオラの聖約であり、その抗しがたい力は何度も試めされ、証明されてきた。聖約のみが、神聖を汚す者の手を押えてきたのである。
アブドル・バハは、この聖約の中心であり、彼にのみ聖約が表現されているのである。彼のみが、不忠な者と忠実なものを分け隔てる権威をもっていたのである。アブドル・バハ自身、次のように証言なさっている――「『ケタベ・アグダス』の明白な原文によると、バハオラは『聖約の中心』を彼の言葉の『解釈者』となさった――それは、時の初めから現在に至るまで、いかなる律法時代にも類を見なかったほど、強大かつ確固とした聖約である。」(41)
高慢で片いじなある人物が、アブドル・バハに1枚の白紙を送って、アブドル・バハに人の心や考えを見通す力があるかどうか試そうとした。アブドル・バハは、次のようにお答えになった――
「おお、アブドル・バハを試そうとした汝よ!汝のような者にとって神の前に従順で謙遜なしもべを試すことは似つかわしいことであろうか?いや、神にかけて誓う、世界の人々を試すのは、『聖約の中心』の方である。」(42)
バハオラは、ご自身の遺訓をアブドル・バハに託され、彼が昇天なさってから3?日後に、その内容があかされた。その日、アブドル・バハによって選ばれたバハオラの家族を含めた9人は、遺訓の封を開け、その内容を知るために集まった。同日後になって、バハオラの廟の中で、バハオラの忠実な兄弟ミルザ・ムサの息子、ミルザ・マフディド・ディンが遺訓を読み上げた。その内容には誰も疑うことのできないものであった――今、誰の背に権威のマントが着せられ、バハイは誰の方へむかい、誰に従うべきかは明らかであった。誰も異議を唱える者はなく、そこにいた者はみな、アブドル・バハがバハオラの後継者であることを聞き、バハオラが定められたことに従った。
しかし、ねたみによってかき起こされた心を持ったものがいた。それは、バハオラの息子のひとりミルザ・ムハンマド・アリで、彼は「グスニ・アクバー」(より大きな枝)という称号を与えられ、バハオラによってアブドル・バハの次の地位を授けられていた人物であった。彼はすでに不信行為を犯していた。それについては、バハオラのもうひとりの息子ミルザ・バディオラの悔い改めの手紙が証言している――その悔い改めも長続きしなかったのであるが、その手紙の中でミルザ・バディオラは、バハオラの筆記用具や封印や文書が収められていたバハオラの2つの箱は、バハオラが昇天なさったその日の夜明けにミルザ・ムハンマド・アリによって盗まれたことを述べたのであった。
アブドル・バハは、その2つの箱が、ミルザ・ムハンマド・アリのごまかしにより、いかにして盗まれたかを述べておられる。あの5月29日の夜明けに、バハオラの遺体を洗うために準備しているとき、ミルザ・ムハンマド・アリは水を散らして文書をだいなしにしてはいけないから箱を別の部屋に移してはどうかとアブドル・バハに提案した。アブドル・バハはバージの邸宅に部屋をもっていなかったので(彼は当時アッカにすんでおられた)、ミルザ・ムハンマド・アリがその箱を委託された。
数日後、バハオラから書簡を授かったあるバハイがやってきて、バハオラの印が押してなかったので、それを押してもらえるだろうかとアブドル・バハに尋ねた。その箱を持っているはずのミルザ・ムハンマド・アリにアブドル・バハがお尋ねになると、彼はそれがどこにあるか知らないと言い、それを受け取った憶えもないと否定したのであった。
ミルザ・ムハンマド・アリが最も求めていたのは「父親」が書き記したことを知っている「遺訓」に手をつけることであった。しかし、その文書は、アブドル・バハに託されていた。こうして、バハオラの聖約を破壊しようという彼の最初の試みは失敗に終わった。しかし彼は野心とねたみにより、結局自らを滅ぼしてしまうまで、さらに惨めな行為を犯してしまった。
シラーズの著名なバハイであるミルザ・ムハンマド・バキル・カーンにあてられた書簡の中で、アブドル・バハは、ミルザ・ムハンマド・アリの偽りの行為について言及している――
「違反行為の中心人物は、この僕に特別に属する委託物をすべて盗んでしまった。彼はすべて盗んでしまい、何も戻しはしなかった。今日に至るまでその横奪者はそれらを所有している。アブドル・バハにとって、それらのひとつひとつは、天と地の領土よりも大切なものであるが、見知らぬ者らの間でわれわれに悪評がもたらされたりせぬように、われは沈黙を守り、それについて一言も話はしなかった。これはわれにとって大きな打撃であった。われは苦しみ、悲しみ、泣いたが、誰にも話はしなかった。」
やがて、ミルザ・ムハンマド・アリは、アブドル・バハの権威を弱め、バハイたちの心に疑惑を投げこみ、野心ある者や利己心のあるものらを熱心に団結させ始めた。ミルザ・ヤーヤが邪悪な天才であったように、ミルザ・ムハンマドもまたそうであった。彼を刺激したのは、ミルザ・マジュディッディンであり、後者は、バハオラの「遺訓」を公に読み上げたあの人物であった。彼は、極端にうぬぼれており、高慢であった。著者には、彼がハイファの通りを高慢にいばって歩いていたのをありありと思い起こされる。彼の話は、ルシファーの話を思い起こさせる。ミルザ・ムハンマド・アリの姉妹と結婚していた彼は、バハオラの次男を手先として使うのであった。それは、アブドル・バハの権威を無効にし、自らの目的を達成させるための力を得るためであった。アブドル・バハは、彼が長生きをし、みじめさにより苦しめられ、死を期待し、死がもたらす解放を切望するであろうとおっしゃった。しかしさらに、慰めは拒否され、ついには、自らがたくらんだことや計画が全て、完全な失敗に終わり、バハオラの聖約の証明と勝利をこの世にて目にするであろうともおっしゃった。
アブドル・バハの予言は実現した。ミルザ・マジュディッディンは百を越えるまで長生きし、病に襲われ、身動きがとれなくなり、話すことができなくなったのである。しかし、彼の目は見ることができたのである。バージの邸宅の隣にあり、その輝きから長い影を投げかけている捨て去られた家のなかで、この悲嘆にくれた人物は、1955年まで生き続けた。彼は、聖約の力が破壊の上に勝ち誇るのを見、アブドル・バハの孫であり、バハイ信教の守護者であるショーギ・エフェンディがバハオラの廟にふさわしい環境をその周りにつくり出しているのを目にした。そのショーギ・エフェンディは、バハオラの「聖約の中心」その人によって名付けられ、育てられ、守護者として指名されたのである。そうして、ミルザ・マジュディッディンは死んだ。しかし、その悲惨なる運命が彼を襲う前に彼がしでかしたことは、まことにひどいものであった。
ほんの短い間に、ミルザ・ムハンマド・アリは、バハオラの家族のほとんどを自分の味方にすることができた。その仲間に加わるのを拒否したのはアブドル・バハの妹であるバヒィア・カヌームと、バハオラの忠実で信心深い腹違いの弟ミルザ・ムハンマド・クリであった。後者は、バハオラとともに追放生活と苦難をともにしたのだが、厳しい試練に直面した今、彼は妻や子供たちとともに聖約を固守するために確固していたのである。バハオラの息子や娘たちは、その妻や夫たちとともに、違反者になることを選んだ。ミルザ・ムサ[18]の息子や娘達もそうした。かつてキリストは、こう言われた――「過失がきっとあるであろうが、それをもたらす者は、災いである。」(43)§
バハオラの肉親であるこれらの男女がどうして、バハオラを裏切るような行為をおかしたのかと、人は不思議に思うかもしれない。この話を進めていくにつれ、彼らの行いが、いかにひどいものであったかが分かるであろう。バハオラが生きておられる間も、彼らはねたみの徴候を示していた。アブドル・バハは彼らの上にそびえ立った、精神的な巨人であり、彼らは小人であった。アブドル・バハは、シラーズのあの忠実で確固としたバハイであるミルザ・ムハンマド・バキル・カーンに、ミルザ・ムハンマド・アリがなした不信行為について打ち明けておられるが、このシラーズのバハイは、違反者の中心なるミルザ・ムハンマド・アリに、たとえ王者なる不死鳥が死んでしまったとしても、誰もフクロウの加護を求めはしないというペルシャの2行連句の節を思い出させた。荒虚に住むフクロウは、東洋の文学では凶兆の鳥として知られている。
ねたみは、バハオラが証言なさっているように、やっかいな病である。ねたみは、ねたみを胸に抱く者を破壊する。権力へのあきを知らぬ欲望も、同じように破壊的である。
しかし、ミルザ・ムハンマド・アリがバハオラの息子であり、その「遺訓」の中でバハオラによって名をあげられているということは事実である。彼は「より大きな枝」であり、多くのバハイは、このバハオラの息子が反逆の性質を持っているなど信じることができなかったのである。彼らは、全く戸惑ってしまった。
これらの違反の源なる者らの他にも、野心に挑戦を許した者らがいた。そのひとりは、バハオラの秘書であるミルザ・アカ・ジャンであった。彼は、バグダッドにいた16歳のころからバハオラの付き添い人、筆記者として熱心にバハオラに奉仕していた。ナジブ・パシャの庭園での使命宣言がなされる何年も前に、バハオラが自らの地位にかんする言葉を語らえた最初の人物はこのミルザ・アカ・ジャンであった。バハオラの晩年において、ミルザ・アカ・ジャンがバハオラのお気に召さないことをしたのは確かに真実であるが、この過失は許されていた。彼の重大な過失とバハオラの不満を忘れずにいたミルザ・ムハンマド・アリとその一行から忌み嫌われ、また、アブドル・バハからかばってもらっていたにもかかわらず、ミルザ・アカ・ジャンは、彼らのたくらみに手を貸し、奇妙なことには彼らの手先になってしまったのである。大胆になった彼は、4ヶ月間、バハオラの廟の中に住み、そこから「聖約の中心」に向かって悪口をあびせたのである[19]。アカ・ムハンマド・ジャヴァド・イ・カズヴィニは、アッカのもうひとりの著名なバハイで、バハオラの書簡を書き写すという著しい栄誉を授けられた少数のひとりであったが、彼もまた、不実なものらと手をつないでしまった。そのような者は、この他にもいた。困惑の波が高まる中では、忠実で確固としたものらでさえも当惑してしまった。バハオラの昇天とその家族の不忠のしるしによってひどく悲しみに打ちひしがれ、耐えきれなくなったナビルは、海に身を投げ捨てて自殺した。バハオラは、その「遺訓」の中で、自らの家族や親族に敬意を示すよう信奉者たちにお命じになっておられたが、そのバハオラの息子や娘たちがその「遺訓」を無視し、「最大の枝」と競うとは、まことに手に負えない問題であった。そして「最大の枝」なるアブドル・バハの最高の地位は反駁のできないもので、その比類なき特質は常に認められていたのである。
アブドル・バハがほとんど孤独になる時がやってきたのである。
第5章 公然なる反逆
この扇動は初め、ひそかにおこなわれた。暗示はあいまいで底意があり、不平は隠されていた。それから一部の事実しか含まない話が広められ、次に見えすいたうそが作り出されるようになった。さらに、ミルザ・ムハンマド・アリの密使が広範囲に旅をするようになり、偽りの報告を伝えたり、違反の毒を注入する手紙が聖地から次々と出された。
アカ・ジャマル・イ・フルジディは、バハイたちから大変尊敬されていた、大業の著名なる布教者であり、その信仰のために投獄されたことのある人物であったが、その彼が、ペルシャでは、大業の翼成者たちと対抗し、ミルザ・ムハンマド・アリの主要な弁護者となった。著者[20]がディヤオラ・アスガルザディ(ズィアオラ・アスガルザディ)から何回かにわたって聞いた話は、バハイたちが、この著名なる布教者に対して抱いていた大いなる尊敬の念について十分に描写するものである。ディヤオラは、幼い少年のころ、イランの北西にあるタブリズの近くのミランという村に住んでいたが、そのころ、アカ・ジャマルはその地方のバハイたちを訪れた。ある晩、ディヤオラの父は彼とその他何人かを食事に招いた。この少年の母は、息子が好物としているごちそうを作っていたが、アカ・ジャマルの靴のひとつを持ってきてくれたら、ごちそうを余分にあげようと息子に言った。当時ペルシャ人は、通りや中庭からじゅうたんをしいてある部屋に入ってくるときに靴をぬぐ習慣があり、母親が欲しがっている物を持ってくるのはディヤオラにとって容易なことであった。そうして驚いたことに、母親は、その靴の底から泥を落としているのだった。この泥は身分の高く聖なる人物のはき物から来るものなのだ、と母親は少年に告げた。その土は、治癒の力を持っているに違いない。素朴な心をもち、無学の信心深いバハイの、ジャマル・イ・ブルジルディの敬い方は、このようなものであった。アブドル・バハは、ヒポライト・ドレイファス・バーニー夫妻[21]への書簡の中で、この人物はバハイの中で第一級の人物であると述べられておられる。
アカ・ジャマルの時代に、彼と同様に著名であったもうひとりの布教者にあてて、アブドル・バハは、最も重要な書簡のひとつを書いておられる。アブドル・バハは、この日、恩恵と確証を引きつける磁石は「神の聖約」であり、それは、あらゆることについて判断するための基準である、と彼におっしゃった。それからアブドル・バハは、もし、ある者が聖霊の権化そのものになりながら、聖約の道においてほんの一瞬でもためらうなら、その者はまことに、道に迷った人々のひとりである、と述べておられる。アカ・ジャマルの運命は、アブドル・バハの断言と厳格なる勧告について大いに証言している。不和の火を増そうというアカ・ジャマルの必死の努力は失敗に帰した。彼の地位は無駄になり、彼の人生は、惨めさと無名の状態に終わったのである。
公然な反逆がなされ始めたとき、捨て去られたのは「聖約の中心」のように思えた。その妹と妻と4人の娘、そして年老いた叔父とともにアッカに隔離されたアブドル・バハは、「父親」の廟に入ることさえも妨げられたのである。そのようなとき、彼は平原に立ち、遠くから参堂の祈とうを行ったのである。ミルザ・ムハンマド・アリとその仲間は、邸宅と廟と近隣の家を占領していたのである。バハオラの遺体が横たわっているところへアブドル・バハや彼に忠実なる者らが、祈りをするためにやってくるたびに、ミルザ・ムハンマド・アリとその仲間は、邸宅のベランダに群がり、彼らに侮辱的な言葉を浴びせたのである。アブドル・バハは、廟のそばに庭園を造るために一生懸命尽くされていた。彼は荒地に緑を常に茂らせ、花を咲かせるために、忠実な者らの助けを得て、自ら新鮮な土と水を運んで来られた。彼の敵対者らは、その庭園にも手をつけたが、その手入れに費用がかかり、かなりの努力と労働を必要とするので、ほうってしまったのである。
バハオラの家族やバブの親族、それから大業の著名なる人物や布教者など約40名が、アブドル・バハに示されるべき忠誠を否定したり、バハオラの聖約を破壊したりするために同盟していた、とショーギ・エフェンディは述べておられる。共同体内の不和を助長することだけに満足せず、彼らは、共同体の外でも、アブドル・バハの悪口を言い始めた。彼らは、アブドル・バハが自らを神の顕示者であり、その地位を占めると不当にも称したとして非難し、バハオラの家族――神の顕示者なるバハオラが、信奉者らに愛し敬うよう命ぜられたアグザン(「枝」)たち――に悪評判をもたらそうとしたとしてとがめた。また、彼らは、バハオラの遺訓はその家族内の関係にのみ関する文書であると主張し、アブドル・バハがその文書に途方もない重要性を与えたとし、聖約を創り出してそれが最高かつ全てを包み込むものとして無駄に賛美していると言い、また彼が、兄弟姉妹の遺産を奪い取ったとして非難した。さらに、彼らは、アブドル・バハが自らを誇張した暴君として振るまっているとしてとがめた。彼らは、バハイでない人々に向かって、アブドル・バハは自分の親類、親族から相続権を奪ったというのであった。また彼らは、バハオラは決して、自らが神の顕示者であると称したことはなく、人々を神に近づけようとする神秘的なシェイクであったとバハイでない人々に告げ、さらには、アッバース・エフェンディは、今自らをアブドル・バハと称し、新しい宗教をつくり出そうとしているというのであった。
ハジ・ミルザ・ヘイダー・アリは、ミルザ・ムハンマド・アリとその支持者らがバージの邸宅で送った生活を目撃し、それについて記している。アッカの内でのアブドル・バハの簡素で圧迫された生活とは対照的に、彼を非難した者らは、最良の食糧を大量に要求し、大量の品や衣服を注文し、法外なご馳走を食べ、豪華な食事に役人たちを招いたりしていた。彼らはこの役人たちに、アブドル・バハに対する憎しみを植え付けようとしたのである。彼らは、アブドル・バハを貧乏にし、破産させようとしたのである。しかし、アブドル・バハは、彼らの要求を決して拒むことはなく、彼らが要求をよこすたびに家令であるアカ・リディ・イ・カッナドに、それに応じるようおっしゃった。また、贈り物が届けられると、アブドル・バハはそれをバージへ持っていくよう指図なさった。彼は、自分に対して悪事を企てる者らを、その行為による悪い結果から守るために大変尽くされた。かれは、彼らの不忠なる行為を隠すためにできる限りのことをなさった。深い傷を引き起こした悪意に対して、彼は鎮痛剤と治癒を返された。ミルザ・ムハンマドは「より大きな枝」として呼ばれ、知られ、その地位はバハオラの「遺訓」の中でアブドル・バハの次に来るものとされていた。そのミルザ・ムハンマド・アリに対して、高潔にして寛大なる「兄」であるアブドル・バハは熱心に訴えられた。アブドル・バハは自分がなくなった後に、ミルザ・ムハンマド・アリが望む全てのことが起こるであろうと彼におっしゃった。これに対してかれは、自分がアブドル・バハより長生きする保証はどこにもないと答えた。権力への渇望は、このバハオラの息子からバハオラの言葉に対する信頼を全く滅してしまったのである。彼は実際、アブドル・バハの死後16年生き続け、バハオラの世界共同体から拒否され、悲嘆にくれてしまい、聖約違反者の2番目の世代のメンバーなるこの人物の叔父にあたる、サブ・イ・アザルなるミルザ・ヤーヤの晩年を、見る者の心に思い起こさせたのである。
バハオラと同等の地位に自らを置いたという非難者らの非難が偽りであることを世界に証明するために、「聖約の中心」なるアブドル・バハが「アブドル・バハ」(バハのしもべ)として呼ばれることを宣言したのは、この時期のことであった。彼は、自分の地位は隷属の地位であるとおっしゃった。空想的な考えに富んだ違反者たちは、「隷属」は神の属性のひとつであり、アブドル・バハは自らを宇宙の創造主であると暗示的に称していると言い返した。彼らは、自ら「ムヴァヒディン」(唯一神論者、ユニテリアン)という名を与え、聖約に確固とした者らを「ムシュリキン」(多神論者)と呼んだ。
ミルザ・ムハンマド・アリとその仲間は4年間、思い通りにふるまい、アブドル・バハは黙って苦しんだ。しかし、やがて、このような行為が隠されたままであることは不可能になる時がやってきた。しかし、アブドル・バハが進んで彼らをバハイ世界に向けて公然と非難したわけではなく、彼ら自身が、必死になり、賢明で寛大なるアブドル・バハ自身がかぶせたベールを引き裂いたのである。聖約が徐々に優勢になり、バハイの大多数が「聖約の中心」に集まるのを見た彼らは、表に出てきたのである。そうして、分離は必然的なものとなった。聖約を破壊しようという彼らの無駄な努力は続いたが、彼らは急速に衰退していった。彼らはあらゆるバハイにとって、不和を引き起こす者として示されたのである。
第6章 西洋の信者たち
ミルザ・ムハンマド・アリが反逆を起こし、聖約の天体がほとんど食した年月はその天体がまた、流星のごとく最高点に昇っていったときでもあった。聖約の違反者の真相が暴かれ、バハイの信者たちがアブドル・バハに向かっていたのと同時に、信教は西洋世界にもたらされたのであった。
バブとバハオラの信教は、西洋で知られていないわけではなかった。旅人や役人や学者、そして東洋思想の研究家たちは、この信教の誕生と発展について、詳しく書き記していたのである。シール嬢の「ペルシャの生活と風習の一見」は、1856年に出版されており、その中では、1857年に出版された「ペルシャ、セイロンその他での2年にわたる旅行記」で、R.B.M.ビニングは、バブについて言及している。しかし、ペルシャで起きた重大な出来事について西洋に知らしめたコンテ・ド・ゴビヌーの有名な本「中央アジアの宗教と哲学」(1865年出版)であった。イギリスの東洋学者の中でもっとも著名なるエドワード・グランヴィル・ブラウンを刺激し、この新しい信教に対して一生の間彼の関心をそそわせたのも、この本であった。[22]ゴビヌーは、フランスの外交官であり、特別な任務を与えられて、1855年に初めてペルシャにわたり、自国の代理大使としてつとめるためにそこに居残ったのである。彼は1858年にフランスに戻ったが、さらに1862年から1863年にかけて、ナポレオン3世の正式の代理としてペルシャで役職についていた。ゴビヌー伯爵は民族主義を唱える人々の頑迷なる先駆者であり、アーリア人の農場を訪れるために興奮してペルシャを訪れた権威主義者であった。しかし、一旦イランに行ってみると、彼は落胆した。というのも、彼はそこに純粋な人種(それは彼の想像の産物にすぎないのだが)を見つけることができなかったから。また、彼は様々な階級の人々が容易に交わっているのを見て不安になった。ゴビヌーはまた、「essai sur l’enegalite’
des Races Humaines」の著者でもあるが、それは、彼より知性の劣った人々が人種的優越性の協議を唱え、広めるために後に用いたものであった。民族主義の妄想に捕らわれた人物のペンが、バブの信教の情報を西洋に広める手段になったとは、今から考えてみるとまことに奇妙であり、かつ驚くべきことがらである。イギリスで、ゴビヌーの感動的な話によって最初に引きつけられたのは、文学界の巨匠のひとり、マシュー・アーノルドであった。1871年に書かれた「ペルシャの情熱劇」と題された随筆のなかで彼は、バブについて次のように記している――
「テヘランとアテネの前フランス大臣であるゴビヌー伯爵は、数年前、中央アジアの宗教と哲学の現状について興味深い本を記している…彼の本の主な目的は、ミルザ・アリ・ムハンマドの人生について描写することである…「ミルザ・アリ・ムハンマド」はバビ教の創始者であり、イギリスのほとんどの人々は少なくともその名前を聞いたことがある。」(47)
ゴビヌー伯爵の役割と同じく奇妙で驚くべき役割を果たしたのは、近東への宣教師である長老教会のある牧師であり、この人物は、西洋のある大きな代表者の集まりで、初めてバハオラの名前を述べたのであった。年は1893年のこと、シカゴで、アメリカ大陸発見の4世紀記念を祝う合衆国博覧会でのことであった。9月23日世界宗教議会の会議にて、シリアで伝道をしたジョージ・A・フォード師は、同じシリアで宣教師をつとめているヘンリー・H・ジェサップ師が書いた文を読み上げた。それは次のような言葉でしめくくられていた――
「シリアの海岸沿いにあるアッカの要塞のすぐ外にあるバージ、または歓喜の邸宅で数ヶ月前、著名なるペルシャの賢者にしてバビ教の聖者が亡くなられた。彼の名は、バハオラといい、それは『神の栄光』という意味である。彼は、ペルシャのイスラム教の改革派の長であり、その派は新約聖書を神の言葉として受け入れ、キリストを人類の救世主として受け入れ、全ての国々をひとつとして、また全人類を同胞として見なすものである。3年前、ケンブリッジ大学のある学者[23]が彼を訪れ、そのとき彼はまことに崇高で、キリストの精神にそった言葉を発したので、われわれはここに結びの言葉としてそれを引用することにする――
『あらゆる国々が信仰においてひとつとなり、すべての人々が同朋となり、人々の間に親愛と和合のきずなが強化されること、そして様々な宗教の多様性がなくなり、人種の相違がなくされること――これらのことに何の害があろうか。いや、これらのことは必ず実現されるであろう。これらの無益な争いや破壊的な戦争はなくなり、やがて『最大平和』がやってくるであろう。あなた方もまたヨーロッパでこのことを必要としていないであろうか。誇りは自国を愛する者にあるのではなく、全人類を愛する者にあるのである[24]。』
北シリアの長老教会伝導活動の管理長であるへンリー・ジェサップ師とジョージ・フォード師は、その日――1893年9月23日――西洋の歴史に新しいページをもたらしたことを知らなかったのである。このことが起きたとき、その日の前兆はほとんど知られることはなかったし、今も直、まだ認められていないのである。
しかし、あの世界宗教議会の運命的な会議には、バハオラの名前を聞いて、(後に)アメリカ大陸でその信教の道を燃え立たせるべく運命づけられた者がいく人かいたのである。
イブラヒム・ジョージ・カイルラは、レバノンのある山村に生まれたアラブ人のキリスト教徒で、シリア・プロテスタント大学[25]での教育を受けた人物であった。彼はその著名な大学の最初の医学部卒業生のひとりであった。彼は、シリアからエジプトへ行き、カイロでバハイの信者たちに出会った。彼にバハイ信教について教えたのは、ハジ・アブドル・カリームで、この人物はテヘランの商人で(当時)エジプトに住んでいた。カイルラは、バハオラが生きておられる間に信教を受け入れ、バハオラから書簡を頂くという栄誉を授けられていた。当時、レバント地方の人々、特にレバノンのアラブ人キリスト教徒のアメリカ大陸(特に米国)への移住が進んでいた。新しい地を求めて起こったこの移住は、貧困と、よりよい生活水準への望みの他、オットーマン帝国の圧倒的政体が原因であった。しかし、いまだに中近東に制限されていた世界信教に新しく加わったカイルラ博士にとって、大西洋を渡ることは、シリア・プロテスタント大学の教授らを米国から彼の母国シリアへもたらした内的衝動とは異ならない呼びかけに対する熱心な反応を意味していた。彼にとって精神的な導きをほどこしてくれたハジ・アブドル・カリーム・イ・テヘラニは、彼をできる限り励まし支えた。そうして、カイルラはアブドル・バハに手紙を書き、その承諾を得たのである。
イブラヒム・ジョージ・カイルラ博士は、1892年12月にニューヨークへ到着した。1894年2月、彼はシカゴへ移ったが、そこは数ヶ月前、バハオラの名前が公で述べられていたところである。シカゴで彼は、バハオラのメッセージに興味を示す人々を熱心にさがし求め、多くのそういう人を見つけ出した。その年、キリスト教西洋で、ある人物が初めてバハオラの大業を受け入れた。彼の名は、ソーントン・チェイスといい、アブドル・バハはかれに、「タビト」(確固たる者)という新しい名前を授けられた。彼は、西洋の果てで、アブドル・バハに会うことはできなかったが、20世紀の初めに、アッカの防壁内で命を危険にさらされているアブドル・バハに会ったことがあった。彼は母国へ戻る途中、「ガリラヤで」と題された素晴らしい本を記した。別のところで彼はまた、次のように述べている――
「彼こそは師である!彼こそはこの偉大なる時代のキリストの精神であり、彼こそは『聖別された人物』であり、『父親』によって定められた人物である! そしてその『父親』は、神の最も偉大な顕示者、バハオラである。彼、アブドル・バハは、『聖約の中心』であり、思い焦がれる心を癒し満たす恩方であり、人類への隷属の『王』である!」(49)
それから数年後、アブドル・バハがアメリカ大陸の東海岸から西海岸へと横断なさっていたとき、ソーントン・チェイスは死の床に横たわっており、アブドル・バハが太平洋岸へ到着なさったときには、彼はもう亡くなっていた。サンフランシスコで彼の死について知らされ、それから2週間後、ロサンジェルスのインブルウッド墓地にこの確固とした信奉者の墓のそばに立って、アブドル・バハはこうおっしゃった――
「この尊敬されたる人物は、アメリカで最初のバハイである。彼は忠実に大業のために奉仕した。彼の奉仕は将来、何世紀、何周期にもわたって常に記憶されるであろう… 現在、彼の価値は知られずにいるが、将来、それは計り知れないほど大切にされるであろう。そして人々はこの墓に栄誉を授けるであろう。それゆえに、神の友人たちは、この墓を訪れ、私の代わりに花を供え、彼のために荘厳なる精神的地位を求めねばならない… この人物は忘れられることはないであろう。」(50)
さらに別のおりに、アブドル・バハはこうおっしゃった――「ソーントン・チェイスは独特で無類の人物である。」
ソーントン・チェイスは、精神的にそれほど高い地位にまで昇っていったが、学識の深い知識人というわけではなかった。彼は、ある有名な生命保険会社に雇われていた。彼は、中西部でバハイ信教について知り、それを受け入れ、バハイの大業への奉仕に大変な時間を費やしたので、彼の働いていた会社は、彼をどこか遠い地方に転勤させた方がいいと考えた。そこで、彼はカリフォルニアへ転勤させられたのだが、バハイ信教に対するかれの献身は衰えるどころかさらに増したのである。職業の関係上、彼は町から町へと訪れることがあったが、どこへいこうとも彼はメッセージを伝え、大業のために奉仕した。彼は言葉や説明だけでなく(さらに妥当な方法として)その輝かしい人格によってそうしたのである。彼がときおり訪れた事務所の秘書は、後年、ソーントン・チェイスの衝撃的な雰囲気について語っている。彼が部屋に入ってくると人々は高揚し、喜びがかれの内部に漂い、彼の顔は輝きを放っていたと、その秘書は話している。ソーントン・チェイス自身、自分は新しく創造されたとあるとき書いている。
ルイサ・A・ムーアは、アブドル・バハによりリヴァ(旗)――「大業の旗」――という名を授けられたおり、信教の守護者からは「西洋の母なる布教者」と呼ばれているが、彼女もまた、アメリカ大陸で最初のバハイの中の著名なメンバーのひとりである。その最初のバハイの中には、ヘレン・S・グッダール、イサベラ・D・ブリッティングハム、リリアン・F・カップス、アーサー・P・ドッジ、エドワード・ケッツィンガー博士、ハワード・マクナット、ポール・K・ディーリー、チェスター・I・サッチャーなどといった著名な男女が含まれていた。エドワード・ケッツィンガーは、ルイサ・ムーアと結婚し、後者はルア・ゲッツィンガーとして知られるようになった。この著名で献身的な女性は、まことに、たいまつを掲げた人物であった。ルア・ゲッツィンガーがバハオラの信教について聞き、奉仕において輝いたのは、若きメイ・エリス・ボルスであり、彼女は英知と洞察力に恵まれた女性であった。上院議員ジョージ・F・ハーストの妻であるフィーブ・ハースト夫人も、ルア・ゲッツィンガーからバハオラの信教について聞いたのである。1898年、ハースト夫人は、アブドル・バハに会うために聖地を訪れる決心をした。彼女はこの歴史的巡礼で彼女と一緒に行くよう、何人かのバハイに尋ねた。ハースト夫人に誘われた人々の中には、ゲッツィンガー夫妻と、イブラヒム・カイルラ博士とその妻などがいた。
その5年間、カイルラ博士は、シカゴだけではなく、カンザス・シティーやフィラデルフィアやイタカやニューヨーク・シティー、そしてとくにケノサなどでも熱心に布教していた。聖約を破った人々によって、友人や敵の間に引き起こされた困惑や大業への不名誉を償うために聖約の力によって増やされたアメリカのバハイの数は、今や数百に達した。しかしやがて、アメリカにバハオラの到来の知らせを伝え、バハオラの信教を大胆かつ効果的に支持したその本人が、信教を裏切ることになる。
フランスの首都に住んでいた何人かのアメリカ人も、そこで巡礼に加わった。その中には、ハースト夫人の姪が2人、ソーンバラ夫人とその娘ミリアム・ソーンバラ・クロッパー(イギリス諸島で最初のバハイ、しかし最初のイギリス人バハイではない)そしてメイ・ボルスがいた。それからさらにエジプトで何人かが加わり、巡礼者の数は計15人となった。当時の状況のため、彼らは3つのグループに分かれて行った。最初のグループは1898年の12月10日にアッカへ到着した。
その日は、バハオラの信教の歴史において、歴史的な日であった。また、その日は、キリスト教圏西洋の歴史においても比類なき日であった。神の顕示者が常に現れた東洋はそれまで、西洋の男女が神の顕示者によって権威を授けられた「人物」に敬意を表してやってくるのを目撃したことはなかったのである。そして、それまで神の顕示者の「聖約の中心」が信教の全体性を任されることなく護衛したことはなかったのである。
キリスト教圏西洋で育ったバハイたちが、アブドル・バハと顔を合わせにやってくるのは、これが初めてであった。この対面はいかなる影響を及ぼし、巡礼者らはどのような反応を示したのであろう? それから30年以上たった後、ソーンバラ・クロッパー夫人は次のように記している――
「私たちはそれから、ハイファに向かって[26]粗末で小さな船に乗って行った。そこでは嵐にあい、私たちはみな、この不十分な汽船の中で情け容赦なく打たれ回された。ハイファに到着すると、私たちはホテルへ行き、夜が来るまでそこにとどまった。というのは、私たちやアブドル・バハ(や)…見知らぬ者が悲しみの町に入っていくのを見られたら、危険すぎるからであった。
「夜が訪れると、私たちは馬車に乗り、『ヨルダン川の果てにある海』[27]の固い砂浜のそばを走っていった。その道は、牢獄都市の門へと続いていた。そこで、私たちが信頼していた御者は、私たちがまちの中へ入れるように取り計らってくれた。町の中に入ると、そこには友人たちが待っていてくれていた。彼らは、アブドル・バハのおられるところへと続く、平坦でない階段を登り始めた。ある人が小さなろうそくをもって私たちの前を歩いてくれた。そのろうそくは、この静寂な場所の壁の上に異様な影を投げかけていた。
「突然、ろうそくの明かりの中に、一見霧と光の幻視に見えた人物が現れた。ろうそくの光が私たちに照らし出したのは、アブドル・バハであった。彼の白い衣と流れるような銀髪、そしてきらきらと輝く青い眼は、人間というよりも、霊という印象を与えた。私たちは、かれが出迎えて下さったことに対してとても感謝していることを言おうとしたが、彼はこうおっしゃった――『いや、あなた方が、親切にも来てくださったのである…』
「そうして彼は微笑まれた。私たちは、彼の美しい高潔な顔に現れた輝かしさの中に彼が持っておられる『光』を認めた。それは、驚くべき経験だった。西洋世界からやってきた私たち4人は、アブドル・バハの精神と言葉から受け取った宝に比べれば、この船旅とその困難は小さな犠牲だと思った――この『人物』会うために、私たちは山を越え、海を渡り、国境を越えてきたのであった。これにより、『教えを広め』『バハオラの御名を語り、世界にそのメッセージを知らせる』私たちの任務がはじまったのである。」(51)
巡礼の計画を最初に提案したフィーブ・ハースト夫人は、一年後に問い合わせへの返事で次のように記している――
「私のアッカでの滞在は3日というまことに短いものではあったけれども、その3日間は私の人生の中で最も記憶に残る日々であることは確かです。しかしそれでもなお、その3日間についてほんの少しでも描写することができません。
「物質的な見地からすると、全てはまことに簡素で平凡でしたが、その土地にみなぎり、信者らの生活と行動に現れていた精神的な雰囲気はまことにすばらしく、私がそれまでかつて経験したことのないものでした。彼らが『聖なる人々』であることを知るには、彼らに会いさえすればよいのです。
「師(アブドル・バハ)については、私は描写しようとは思いません。私は、彼が師であることを自分が心から信じ、この世での自分の最大の祝福は、彼の御前に達し、彼の聖別された御顔を見る特権を与えられたということだけを述べておきます。彼の生き方はまことにキリストのようであり、彼の全存在は純潔と神聖さを放っています!
「疑いなくアッバース・エフェンディこそは、この日をこの世代の『救世主』(メシア)であり[28]、私たちは、他を探す必要はないのです。」(52)
1899年に再び彼女は、聖地への旅に関する問い合わせに対して次のように記している――
「…もし、私のアッカへの訪問とアブドル・バハの御前に達する特権と『聖なる家族』の印象に関する言葉が、信教に対する誰かの信念をほんの少しでも固めることができるなら、私はまことに喜んでその言葉を記しましょう…
「私にとっては、真の『真理追求者』なら、一目で彼が師であることがわかると思えます。さらに、彼は、私がこの世で今までに会った、または会うかもしれない人の中で『最もすばらしい人物』であると言わなければなりません。彼は、人によい印象を与えようとなさるわけでは全くないのですが、彼の威厳あるけれども謙虚な人格かれは、力と強さと純潔、愛と神聖さが放たれています。そして、彼を取り巻く精神的雰囲気、彼のおそばにいることで祝福された人々全てに強力な影響を及ぼすその精神的雰囲気は筆紙に尽くしがたいです…私は心魂こめて彼を信じます。そして、自らを信者と称する人々がみな、彼に全ての偉大さと栄光と賛美をささげることを望みます。なぜなら、彼こそは『神の子』であるのですから[29]――そして『父の精神は彼の中に住んでいる』のです。」(53)
[1] バハオラ
[2] レイデイ・ブロムフィールド
[3] ナミク・パシャ(イラクの総知事)
[4] cf.コーラン 3:47
[8] シイード・ムハンマド・イ・イスファハニ
[9] アラビア語とペルシア語を用いる地域のこと
[12] アッカのムフテイーで、シェイク・アリ・イ・ミリのこと
[13] これは―
[14] 約1.4キロ
[16] ハジ・ミルザ・シイード・ハサンのことでバブの妻の兄弟にあたる
[17] 黙示録 11:19
[18] cf.マタイ 18:7、ルカ 17:1
[24] see BNE p46
[26] エジプトから
[28] 当時はアメリカで、アブドル・バハが「キリストの再来」であるという信条が広まっていたが、これはアメリカの信者の誤解で、アブドル・バハ自身、自らは顕示者ではないことをはっきりとなさっている。アブドル・バハの地位とこれに関しては、「バハオラの律法時代」を参照のこと
[29] p15(ch6)の脚注を参照のこと。また「バハオラの律法時代」を参照。アブドル・バハは預言者ではない。しかし、偉大な地位を授けられている。