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礼儀と謙遜(身だしなみの良さとしとやかさ)

 行儀の良いということは、道徳の基準に従い賞賛に価する多くの品性をもつことである。――簡単に言えば、バハオラによって明らかにされたような人間としての地位にふさわしい態度を示すことである。バハオラは次のように書かれている。

  

  おお汝等心霊の子等よ!

 汝等は、わが宝である。われ汝のうちに我が神秘の真珠と我が英知の宝石を秘蔵したれば。我が僕等のうちの異邦人と、わが人民のうちの邪悪なる者等から、それを守れ。[1]

  おお心霊の子よ!

 われ汝を豊かに創れるに、何故汝自ら貧しくするや。気高くわれ汝を造れるに、何故汝自ら卑しくするや。知識の精華もて、われ汝を生ぜしに、汝何故にわれより外の者に教化を求むるや。愛の粘土もて、われ汝を造りしに汝何故に他のものに没頭するや。汝のうちに威光に輝き力強く自存しつつあるわれを見出さん。[2]

  おお心霊の子よ!われ汝を気高く創った。しかるに汝は自らを卑しくした。さらば汝が創られたるところにまで汝を高めよ。[3]

 人には、その行為が、自分のために神が定め給うた気高い地位を保持していることを保持していることを保証する義務がある。バハイ信徒たちは更に自分たちが、祝福された完全(バハオラ)の御名を負い、また自分達の活動が、彼の大業の上に反映するから行儀正しい、あっぱれな態度を示す義務がある。

  おお汝等我が愛する者達よ!

 我が聖なる衣のへりが、この世のもので汚されることを許すな。またあなた達の邪悪で腐敗した欲望の扇動に従うな。・・・全創造物の崇敬の的である神に心を向ける人達は、必ず今日眼に見え、眼に見えない総ての創造物を乗り越えて必ずや聖別されるに違いない。[4]

 高きにある一群の天上人達が嫌うかもしれない如何なるものによっても汚されない我が衣のへりに、しっかりと、とりすがることは、あらゆる人々の義務である。[5]

 各人の地位の高潔さを守るには、信教の基準を深く理解し、神の属性を身につけ、それを反映させることによって、自分の行動を、これらの基準に一致させるよう努力する必要がある。この精神的転換を理解するには、神が人類に授け給うた地位に対して神に感謝を捧げることである。

 謙遜は正しい釣り合いで即ち神の御前にへりくだる感覚から生じる見透しによって、どういう態度が自分の地位に最もふさわしいかという意識が発達するのを助けるのである。神の僕としての自分の本質を絶えず知ろうとし続ける時は、その者の外面的行動は、内面的な謙遜や崇敬の念を反映するようになるであろう。

 謙遜な人は、へりくだり、ほこらしげな自己本意の態度で自分の能力や業績に注意を引くようなことは差し控えるものである。その者は褒賞も特別に認められることも予期しない。何となれば、奉仕の道で行った行為は、その者自身のものではなく寧ろ神のものであることを悟っているからである。その者は堅苦しさや独善的な所がなく、自然さの範囲や礼儀正しい感じを与える慎み深さを現わす。

 謙遜は、このように、私心のない印である。その訳は、自我や世俗的な業績から注意をそらすからである。謙遜は、その者の着ている衣類にも、求める娯楽にも、引き起こすユーモア感の中にも、異性の仲間に対して振舞う仕方の中にも示されることができる。

 謙遜さや上品さの感じを発展させて行くにつれて、人間の地位にふさわしくない態度に落ち込むことは恥として知られている特別な型の不快さを生じてくる。

 誠に人間には、下劣な見苦しい羞恥として知られているものに対して自分を引きとめ守ろうとする能力が備わっている。[6]

 羞恥は礼儀の限界を踏み越えた者に注意を与える一つの合図である。この自動制御は自分の行動を反省させ、その過ちを認め、必要な転換をさせるのである。このように羞恥は有用な調節者であり、神経症の一症状ではない。道徳律を破る時、恥ずかしさを感じることの出来ない者は、正しく社会の要求に合致していないのである。[7]羞恥の感覚がないと、自分がバハイの基準から、それていることを認知できないのである。この認識がないと精神的斗争の必要性が十分認められていないからである。

 上品さと謙遜とは、自分の周囲に対し鋭い敏感さを必要とする。特に付き合う人たちの価値や気質や習慣に対して鋭い感度を必要とする。礼儀正しさと謙遜とは万人共通の不変の品性ではあるが、それらの表現の仕方は文化から文化へと変わって行くものである。衣服の型、娯楽の種類、親交の度合いが、ある文化では、礼儀正しいと考えられたものが、他の文化によっては、神の僕等にとって、ふさわしくないものと見なされるかもしれない。それ故、バハイ信徒たるものは他の社会にいる時は、他の人達の感情をそこなうような態度を避けるために、そこの習慣になじまなければならない。

 しかし数々の相違点に対して敏感であれということは、バハイ信徒が神の教えに反した、他方の総ての習慣の指図に従うことを意味しているのではない。バハオラによって設けられた基準は総ての社会慣習や慣例が考察されなければならない均衡なのである。人間を高め、気高くするものは維持されて良いものであるが、反対にその地位を低下させるものは排除されなければならない。他方の習慣とバハイの行動基準との間の相違点に関して不快感を覚えたり、困惑を感じるパイオニア達や巡回布教者達は、注意深く優しさと如才なさをもって布教を続けて行かなくてはならない。もし必要あれば、彼等は地方あるいは全国精神行政会と相談するのもよろしかろう。

 各バハイ信徒は、その神から授けられた地位の崇高さを反映する行儀正しい謙遜な態度を悟り、それを示す必要性に直面させられる。神の一僕としての自身の将来の見通しや恥辱感の跳ね返り(フィードバック)によって、バハイの基準を示す上品さや謙遜の態度を実証垂範することができる。


 



[1] バハオラ 隠されたる言葉(日)アラビヤ編69 47

[2] バハオラ 隠されたる言葉(日)アラビヤ編13 27

[3] バハオラ 隠されたる言葉(日)アラビヤ編22 31

[4] バハオラ 落穂集(英)200201

[5] 五書 307

[6] バハオラ 狼の子への書簡(英)27

[7] それ故罪悪感や羞恥心のため激しく意気消沈させられた人達の精神的健康を回復させる手引きは罪悪や羞恥の無差別な償いの周囲に集中させることは出来ず、むしろ道徳的基準や、それらの保護作用の浄化の周囲に集中させなければならない。