880 バハイの歴史に残るでき事 Dates
Bahá’í Historical Significance
1753年 シェイキ・アーマド・アソイ誕生。シェイキ派の創始者でバブとバハオラの出現を伝えた人。1834年(81才)メディーナで没す。
1793年 セイエド・カーゼム誕生。シェイキ・アーマド・アソイの後継者。
1817年11月12日 バハオラの生誕。テヘランにて。
1819年10月20日 バブの生誕。シラズにて。
1831年7月29日 ナビル(バハイの歴史家)の誕生。ザランド(イラン)にて。
1835年10月 バハオラ、アシヤ・カヌーム(敬称ナヴァーブ)と結婚。バハオラ18歳。
1839年1月 バハオラの父・ミルザ・ボゾルグ逝去。バハオラ21歳。
1842年 8月 バブ、カディジェ・バガムと結婚。
1843年12月31日 セイエド・カーゼム逝去。カルバラにて。享年60才。
1844年1月22日 モラ・ホセイン、カルバラに戻る。セイェド・カジム没後3週間。
1844年5月23日 @ バブ、自らの使命をモラ・ホセインに宣言。日没2時間後。
A アブドル・バハの誕生。テヘランにて。
1844年8月 @ バブの使徒が18名になる。バブはこの18名に「生ける文字」の称号を授与。
A バハオラ、モラ・ホセインが預かったバブの手紙を受け取り、それを読むと直ちに、バブを12代イマム(カイム)として受け入れる。
1844年9月 バブ、ゴッドスを供にメッカ巡礼の旅に出発。
1844年10月10日 バブ、モラ・ホセインから最初の手紙を受け取る。手紙にはバハオラがバブを神の顕示者として認めたと記されている。
1844年12月20日 バブ、メッカのカーバー神殿前で、自分は「カイム」(モハメッドの生まれ代わり)であると宣言。
1845年1月10日 バブ、クデュースを従えてメディーナに到着。
1845年 バブ、シラズのマスジッド・バキル寺院の説教台に立って自らの使命を宣言。
1845年8月6日 バブ、モラ・サディクの尋問を受ける。
1846年
バブ、国王の使者ヴァヒードと3度にわたって会見。ヴァヒードはこの会見後バブの信者になり、そのことを国王に報告。
1846年5月23日
バブ、シラズの叔父(ハジ・ミルザ・セイエッド・アリ)の家で再び逮捕されるが、シラズを出るという条件で釈放された。町に伝染病が発生。
1846年12月 バブ、イスファハンの知事の邸宅に客人として三ヶ月間滞在。
1847年3月4日 イスファハンの知事逝去。バブ、捕らえられ、テヘランに護送される。
1847年3月29日 バブ、テヘランに到着。国王と接見する予定であったが結局、総理大臣の意見に従った国王が会見を中止。
1847年4月1日 バハオラ、テヘラン郊外のクラインにいるバブに手紙と贈り物を届ける。その後バブはタブリッツを通ってマークーの砦に向かう。
1847年7月 バブ、マークーの砦に監禁される。後に、マークーの砦の主は信徒になる。
1848年4月10日 バブ、マークーからチェリーグの砦に移される。
1848年6月 バダシトにてバビ教徒大会開催される。この催しはバハオラによって準備され、22日間続いた。バハオラ、タヘレ、ゴッドスなど81名が参集。
1848年7月 @ バブ、タブリッツで最初の尋問を受ける。
A バハオラ、タバルシの砦にバビ教徒を見舞われる。この時モラ・ホセインは初めてバハオラに会見。
1848年9月 ナシリッド・ディン・シャー、イランの国王となる。彼は1896年に亡くなるまでの48年間王位にあった。バビ教徒迫害の最高責任者。
1848年10月12日 モラ・ホセイン、タバルシの砦に到着。
1848年11月27日 クデュース、タバルシの砦に到着。
1848年12月21日 バハオラ、再びタバルシの砦に向かってテヘランを出発、途中アムルで捕らえられ、鞭打ちの刑を受ける。
1849年2月2日 モラ・ホセイン、タバルシの砦で敵の銃弾を受け戦死。
1849年5月16日 クデュース、郷里バルフルシで殉教。
1850年6月29日 イラン国王からバブの調査を命じられたヴァヒード、バブの信者になり、イランのネイリズで殉教。
1850年7月 9日正午 バブ、タブリッツの兵舎前の刑場で殉教。
1851年1月8日 ホジャット、イランのザンジャンで殉教。
1851年6月 バハオラ、総理大臣の勧告に従いイラクへ向けてテヘランを出発。
1851年8月28日 バハオラ、イラクの聖地カルバラに到着。
1851年10月5日 バハオラ、シェイキ・ハッサンとカルバラで会見。バブの秘書であったシェイキ・ハサン・ズヌジはバブの命に従い、この町で「神が現し給う者」に会うため待っていた。
1852年8月 バハオラ、イラクよりテヘランに戻る。
1852年8月15日 熱狂的バビ教徒による国王ナシリッド・ディン・シャーの狙撃事件。この後、政府と僧侶によるバビ教徒への迫害が激化。
1852年8月16日 バハオラ、捕らえられテヘランのシァ・チャール(暗黒の牢獄)に4ヶ月間幽閉される。この間に家財のほとんどを略奪される。
1852年8月18日 タヘレ、テヘランで殉教。
1852年12月 バハオラ、シア・チャールから解放されるが、重い病になっていた。
1853年1月12日 バハオラ、家族と共にバグダッドに国外追放される。
1853年4月8日 バハオラの一行、バグダッドに到着(2ヶ月と27日の旅の後)。
1854年4月10日 バハオラ、クルデスタン山中に隠遁。腹違いの弟ミルザ・ヤーヤとの確執を避けるため。隠遁中はクルド族の人々からペルシャの修行僧として慕われ、尊敬された。
1856年3月19日 バハオラ、クルデスタン山からバグダッドに戻る。
1858年 バハオラ、バグダッドで「かくされた言葉」を著わす。
1862年2月 バハオラ、「イガンの書」(確信の書)を著わす。この本はバブの叔父の質問に答えたものである。
1863年3月21日 バハオラ、バグダッドの郊外でノゥ・ルーズを祝う
1863年3月25日 バハオラ、「聖なる水夫の書簡」を著わす。この中で、バハオラは彼の啓示が聖約の破壊者から攻撃されることを予告。
1863年4月21日 〜 5月2日の12日間 レズワンの祝日−バハオラの宣言の日。
バグダッドの郊外レズワンの庭園で彼は始めて公に自分の地位を宣言。
1863年5月3日 バハオラの一行、コンスタンチノープル(今のイスタンブール)に向けてレズワンの園を出発。
1863年8月16日 バハオラの一行、コンスタンチノープルに到着。
1863年12月4日 バハオラの一行、再度の追放命令にあい、厳寒の中をアドリアノープル(今のエデルネ)に向けて旅立つ。
1863年12月12日 バハオラの一行、アドリアノープルに到着。後、4年8ケ月と22日この地に幽閉された。「アーマドへの書簡」はこの間にこの地で著わされた。書簡中に「辺境の牢獄」とあるのはアドリアノープルのこと。
現存するバハオラの写真はアドリアノープルで撮られたもの。
1965年 ミルザ・ヤーヤ、バハオラに毒を盛り、暗殺を図る。バハオラは一命を取
り留めるも生涯後遺症が残る。
1866年3月 @ バハオラ、ミルザ・ヤーヤと絶縁。ミルザ・ヤーヤの攻撃が激化する中でバハオラは自宅にこもり、面会を絶つ。
A バハオラ、世界の為政者達に宛てに書簡を著す(「バハオラの宣布」)。
1867年2月 バハオラの末子ミルザ・バディウラ誕生。(アドリアノープルにて)
1868年7月28日 トルコ政府による追放命令書が届く。家族や信者、66名がバハオラと共に牢獄都市アッカへ追放となる。
1868年8月12日 バハオラの一行、アドリアノープルの港からアレキサンドリア経由でアッカへ向けて出港。ミルザ・ヤーヤの一行はキプロス島へ追放される。
1868年8月21日 バハオラの一行、ガリポリから蒸気船でアッカに向う。
1868年8月31日 一行、アッカの牢獄に到着。バハオラはこの最大の牢獄に2年2ケ月と5日間監禁される。
1870年6月23日 バハオラの息子ミルザ・ミーディ(清らかな枝)、牢獄内で事故死。
1870年11月4日 バハオラ、牢獄から開放され、アッカ市内の借家を転々とした後、アブードの家に移る。この家でバハオラは「アグダスの書」を著わした。
アブドル・バハはここでムリニ・カヌームと結婚。
1875年1月14日 アブドル・バハ、アブドラ・パシャの邸宅を購入し、家族はそこに移る。バハオラの自宅軟禁続く。
1877年6月初旬 バハオラ、モフティーの強い説得で、アッカからマズラエの邸宅に移る。
1879年
バハオラ、バージのマンションに移る。
1887年10月 バハオラの忠実な弟ミルザ・ムサの死去。
1888年12月11日 バハイの歴史家ナビル、自分の書いた「夜明けを告げる人々」をバハオラに奉献。
1890年4月15日 E.G.ブラウン教授、4月15日〜20日、4回にわたりバハオラと面会。
1891年の夏 バハオラ、ハイファに3ケ月間滞在。「カルメル山の書簡」を著す。この時、アブドル・バハにバブの霊廟建立の位置を示された。
1892年5月29日午前3時 バハオラの昇天。
この日の内に遺体はバハオラの霊廟に埋葬された。
1893年9月23日 アメリカ・シカゴで行われた最初の世界宗教会議で、バハイ信教についてDr. Henry H. Jessup
の提出したバハオラの言葉が読まれた。
1893年 イブラヒム・ケイララ、シカゴで信教布教を始める。
1894年 チェイス・ソーントン(アメリカ人で最初のバハイ)、信教を受け入れる。
1897年3月1日 ショーギ・エフェンディ誕生。アッカ・アブドラ・パシャの家で。
1897年5月21日 ルア・ゲッティンガー、ケイララを通してバハイを受け入れる。当時、アメリカのバハイ人口は60名。
1898年9月22日 最初の聖地巡礼団(ホーベ・ハースト夫人、ゲッティンガー夫妻、ケイララ夫妻、)がニューヨークを出発。
1898年10月 メイ・ボレス(後のメイ・マックスウエル)、パリでルアを通してバハイを受け入れ、最初の巡礼団に加わる。
1898年12月10日 アメリカからの最初の巡礼団がアッカに到着。
1899年1月31日 イランから密かに運び出されていたバブの遺体がアッカに移され、アブドル・パシャの家に保管される。
1900年(明治33年)11月26日 アグネス・アレキサンダー女史、シャーロット・ディクソン夫人を通してローマでバハイ信教を受け入れる。
1901年8月20日 アブドル・バハ、聖約の破壊者である弟らと共に、アッカ市内からのでることを禁じられる。
1902年11月28日 イシカバードの礼拝堂建設が始まる。
1903年6月7日 アブドル・バハ、アメリカの礼拝堂建設について書簡を発表。
1908年4月9日 イリノイ州ウイルメットの礼拝堂用地として2区画を購入(2000ドル)。
1908年9月 アブドル・バハ、アッカ市内に足止めの命を解かれる。
1909年3月21日 アブドル・バハ、バブの遺体をバブの霊廟に収められる。遺体が納められた大理石の棺はビルマのバハイによって寄贈された。
1909年3月21日 第一回アメリカ全国年次大会の開催。
1910年9月 アブドル・バハ、エジプトに向けて出発。
1911年9月4日 アブドル・バハ、ロンドンに到着。
1911年9月10日 アブドル・バハ、英国シティ・テンプルで西洋人に向かって最初の講演。
1911年10月3日 アブドル・バハ、パリに向ってロンドンを出発。
1912年3月25日 アブドル・バハ、エジプトを出発、セドリック号でニューヨークへ向けて。
1912年4月11日 アブドル・バハ、ニューヨーク着。約8ケ月間のアメリカ各地訪問の開始。
1912年5月 1日 アブドル・バハ、シカゴの礼拝堂用地に礎石安置。
1912年8月16日 アブドル・バハ、エリオットのグリーンエーカー訪問。8日間滞在。
1912年11月9日 ワシントンDCで、初めての人種交流バハイ晩餐会開かれる。
1912年11月24日 アブドル・バハ送別の晩餐会(ニューヨークのホテルにて)。
1912年12月5日 アブドル・バハ、ヨーロッパに向けて船出。
1913年1月21日 アブドル・バハ、ロンドンを発ちパリで。
1913年3月30日 アブドル・バハ、ドイツに向けてパリを出発。
1913年5月1日 アブドル・バハ、再びパリに。パリに43日間滞在。
1913年6月12日 アブドル・バハ、マルセイユからエジプト・セイド港に向って出発。
1913年6月17日 アブドル・バハ、エジプト着。
1913年12月5日 アブドル・バハの一行、ヨーロッパとアメリカ旅行から帰る。
1919年4月 アブドル・バハ、「聖なる計画の書簡」発表。
1920年4月27日 アブドル・バハ、英国政府よりナイトの爵位を受ける。(ハイファにて)
1920年12月20日 シカゴ礼拝堂の建設始まる
1921年11月28日 アブドル・バハの昇天(ハイファにて)
1921年12月 ショーギ・エフェンディ、守護者に任命される。
1922年1月3日 「アブドル・バハの遺訓」の公表。
1922年1月7、22日 「最も聖なる枝」(またの敬称バヒヤ・カヌーム。アブドル・バハの妹)、アブドル・バハの遺訓でショーギ・エフェンディが守護者として任命されたことをイランのバハイ、およびアメリカのバハイ宛てに打電。
1922年4月5日 守護者ショーギ・エフェンディ、バハイ本部の職務をバヒヤ・カヌームに委託してスイスへ旅立つ。
1922年12月15日 守護者ショーギ・エフェンディ、守護者としての職務に復帰。
1923年3月12日 守護者ショーギ・エフェンディ、世界のバハイに全国精神行政会基金と地方精神行政会基金の設立の呼びかけ。
1925年11月22日 大業の翼成者J.E.エッセルモント没(ハイファにて)。
1926年1月30日 マーサ・ルート女史、ルーマニアの女王との最初の面接。女史はこの後7回女王に面談している。
1929年2月14日 バブの霊廟の増築(6部屋から9部屋に)工事開始。
1929年3月4日 国際連盟、バグダッドのバハオラの家をバハイ共同体へ譲るよう支持する決議。
1929年11月27日 守護者ショーギ・エフェンディ、バージの屋敷の大々的修復着手。
1931年1月 ハワイで初めてバハイについてラジオで放送。 講演者マーサ・ルート。
1932年7月15日 バヒア・カヌーム逝去(ハイファにて)。
1933年10月23日 ケイス・ランサム・ケラー夫人病死(イスファハンにて)。守護者によって殉教者の称号、大業の翼成者の地位を与えられる。
1934年5月10日 カルメル山のバハイ建造物に対する免税を認められる。
1935年7月14日 アイスランドの新聞にバハイ記事掲載される(マーサ・ルートの働き)。
1937年3月25日 守護者、アマトール・バハ・ルヒヤ・カヌームと結婚。
1937年4月 守護者、アメリカに対し最初の7年計画を提示。
1939年9月28日 マーサ・ルート没(オワフ島にて)。守護者により大業の翼成者の地位を与えられる。
1939年12月5日 守護者の指示で「清らかな枝」(アブドル・バハの弟)とナヴァーブ(アブドル・バハの母上)の遺体がバハイ墓地からカルメル山のモニュメント・ガーデンへ移される。
1940年6月2日 守護者、ルヒヤ・カヌーム同伴でフランスのセント・マリオから英国へ。その翌日セント・マリオはドイツ軍に占領された。
1940年7月28日 守護者、ルヒヤ・カヌームと共に英国から南アフリカに出発。
1944年5月23日 アメリカでバブの宣言百年祭と全アメリカ年次大会が開催される。
1946年4月 アメリカで第二次7年計画始まる。
1946年12月15日 バブの霊廟のアーケード建設完了。
1948年3月7日 守護者、バブの霊廟の大改造計画発表。
1948年3月21日 第二次世界大戦後初めて、東京でノウ・ルーズの祝い開催(13名出席)
1948年4月 東京地方精神行政会の設立。
1948年 バハイ国際共同体、国際連合の外郭NGOとして認められる。
1949年1月21日 守護者、イスラエルのベン・グリオン首相と会見。
1950年7月9日 バブの霊廟のドームと、回り廊下の完成。
1951年1月9日 守護者、国際評議会を任命。
1951年4月 国際評議会の議長にメーソン・レイミイ、副議長にアメリア・コリンズの任命。
1951年12月24日 守護者、大業の翼成者12名の任命を発表。
1952年2月 守護者、さらに7名の大業の翼成者を任命。
1952年3月 ウイリアム・サザーランド・マックスウエル(大業の翼成者、ルヒヤ・カヌームの尊父)、モントリオールで没。享年78歳。
1952年3月26日 守護者、ルヒヤ・カヌームを大業の翼成者に任命(マックスウェル氏の後任として)
1953年5月2日 守護者、世界10年聖戦開始を宣言し、バハイがいまだ伝えられていない処女地133にパイオニアとして移住することを奨励。これらの地に移住した人たちに「バハオラの騎士」の称号を与えると発表。
1953年5月2日 シカゴ・ウイルメットの礼拝堂献堂式。
1953年10月 バブの霊廟の金色ドーム完成。
1953年12月13日 イスラエルの宗教省にバハイ信教関係の専門部設けられる。
1954年4月 守護者、最初の顧問補佐を任命。
1954年4月25日 イスラエル大統領ベン・グリオン夫妻、信教の世界本部とバブの霊廟訪問。
1954年4月28日 十年聖戦開始後一年で100以上の処女地が「バハオラの騎士」の移住によって開かれた。
1957年4月 国際資料館完成。
北東アジア全国精神行政会設立。
1957年3月27日 守護者、アグネス・アレキサンダー女史を大業の翼成者に任命。
1957年10月 守護者、さらに8名の大業の翼成者を任命。
1957年11月5日 守護者他界(ロンドンにて)。
1959年2月 ウイルメットの礼拝堂脇にバハイが運営する老人ホーム完成。
1961年1月14日 ウガンダ・カンパラのアフリカ本山礼拝堂の献堂式。
1961年4月 9名の国際バハイ評議会(大業の翼成者を含まない)が世界中の全国精神行政
会メンバーの郵便投票によって選ばれた。
1962年1月1日 大業の翼成者アメリア・コリンズ女史がハイファで亡くなる。享年88才。
1963年4月 世界本部で第一回国際大会が開催され、万国正義院メンバーが選出される。
1963年4月28日 バハオラの宣言百年祭世界大会。ロンドンのアルバートホールにて。
1963年4月30日 万国正義院より世界中のバハイに宛てた最初のメッセージが大会会場であったロンドンのアルバートホールで発表される。
1964年4月 九年計画の始まり。
1964年7月4日 フランクフルト郊外に建てられたヨーロッパの本山礼拝堂の献堂式。
1965年7月22日 大業の翼成者レロイ・アイオワ氏がハイファで亡くなる。
1968年2月19日 西サモアのマリエトワ・タヌマフィル国王、バハオラを受け入れる。
1968年6月21日 大陸顧問制度の設定。
1970年5月27日 バハイ国際共同体、国連の社会経済委員会(ECOSOC)の非常任顧問として認められる。
1971年1月1日 大業の翼成者アレキサンダー女史、ホノルルで没。享年95歳。
1971年12月19日 カルメル山頂のバハイ礼拝堂用地にオベリスクの建立。
1972年 万国正義院の建物の建設開始。
1972年3月30日 パナマで南アメリカ本山礼拝堂の献堂式行われる。
1972年11月26日 万国正義院、バハイ憲法制定。
1973年3月15日 万国正義院、イスラエル政府からマズラエの家を購入。
1973年4月 第三回世界大会(聖地にて)で西サモアの国王の信教受け入れが正式に発表される。
1973年6月5日 万国正義院、国際布教センターを設立。
1974年2月7日 万国正義院の本部建物のデザイン発表。
1974年4月 五年計画の開始。
1974年7月13日 カリフォルニアのボッシュ・バハイ学校の奉献式。
1975年1月14日 アブドラ・パシャの家(アブドル・バハが長年住み、守護者ショーギ・エフェンディが誕生した家)を購入。
1975年7月17日 万国正義院の建物の基礎工事開始。
1976年9月12日 西サモアのマリエトア・タヌマフィリ国王、ロンドンの守護者の墓参り。
1977年7月 バハオラのアッカにおける牢獄生活終了100年記念祭(聖地にて)。
1979年4月 七年計画の開始。
1979年1月27日 西サモアにサモア礼拝堂建設の礎石安置。式典には国王マリエトワ・タヌマフィリ2世も参列。バハイを代表してルヒヤ・カヌームが出席。
1979年 大業の翼成者モハジア博士、エクアドルで亡くなる。
1983年4月 万国正義院の建物完成の式典
1992年5月 聖地でバハオラ昇天百年の記念式典。各国から代表者19人、計1600名が参列。
1992年9月 ニューヨークでバハオラ昇天百年祭開催。この大会には日本からの200名を含
め世界中から約3万人が参加。
2000年1月22日 ルヒヤ・カヌーム、ハイファで逝去。カヌームの遺体はアブドル・バハの家の前の庭園に埋葬される。
2001年4月20日 カルメル山のアークと階段式庭園(テラス)の完成
2001年1月8日 大陸顧問と世界中の顧問補佐がハイファに集結。信教の更なる発展について話し合った。
2001年5月23日 カルメル山のアーク完成式典開催。バハイ関係代表者3500名、およびイスラエル政府とハイファ市関係者700名が出席した。
国際布教大会など
1921年5月19日 ワシントンD.C.で3日間の人種間親睦大会開催(アブドル・バハの指示にて)
1953年2月12日 ウガンダのカンパラで7日間のバハイ大陸間会議。
1953年5月3日 シカゴで4日間のアメリカ大陸間バハイ布教大会開催。
1953年7月21日 スエーデン・ストックホルムで6日間のバハイ大陸間布教大会開催。
1953年10月7日 インド・ニューデリーで第四回大陸間布教大会(9日間)開催。
1958年1月23日 ウガンダ・カンパラで6日間の国際布教大会開催。
1958年3月21日 オーストラリア・シドニーで国際布教大会開催。
1958年5月2日 ウイルメットの礼拝堂で大陸間布教大会開催。
1958年7月25日 ドイツ・フランクフルトで大陸間国際布教大会開催。
1967年10月5日 シカゴ、カンパラ、フランクフルト、シドニー、ニューデリーの5ヶ所で同時に大陸間布教大会開催。
1968年8月23日 シシリー島パレルモとハイファで、最初の大洋会議開催。
1970年8月14日 モーリシャスでインド洋会議、ボリビヤ・ラパスで国際布教会議の開催。
1971年1月1日 リベリア・モンロビアで大陸間布教大会開催。
1971年9月3日 札幌で北太平洋会議、アイスランドのレイキャヴィークで北大西洋会議が開催された。
1974年8月4日 ハワイ島・ヒロで第一回バハイ国際青年会議開催。
1974年8月28日 アメリカ・ミズリー州のセントルイスで五年計画についての会議(出席者10,000名以上)。
1976年7月6日 フィンランド・ヘルシンキで国際布教大会。
1976年7月23日 アラスカ・アンカーレッジで国際布教会議。
1976年8月3日 フランス・パリで国際布教会議。
1976年11月27日 香港で国際布教大会。日本から44名が参加。
1977年1月19日 ニュージーランド・オークランドで国際布教大会。
1977年1月28日 ブラジル・バヒアで国際布教大会。
1977年2月4日 メキシコ・メリダで国際布教会議。
1982年6月 アイルランド・ダブリンで国際布教大会(出席者1900名)。万国正義院の代表して大業の翼成者コリス・フェザーストン氏が出席。
1982年8月 エクアドル・クイットで国際大会(43カ国から1450名出席)。万国正義院を代表し大業の翼成者ポール・ヘニイ氏が参加。
1982年9月 * オーストラリア・キャンベラで国際大会(45ヶ国から2.400名参加)。万国正義院の代表は大業の翼成者のユーゴ・ジアケリ氏。大会テーマは「精神軸」。
* カナダ・モントリオールで国際大会。出席者9.000名。万国正義院を代表してルヒヤ・カヌームが出席。
890 Dates
of Historical Significance of Bahá’ís of Japan
日本に関わるバハイの歴史的出来事
1900年(明治34年)11月26日 アグネス・アレキサンダーさん、メイ・ホウルズさんを通じてバハイ信教を受け入れる。(イタリアにて)
1902年 山本寛一氏、クレアランス・スミス夫妻を通してバハイを知り、信教を受け入れる。23才。(ハワイにて)
1904年 山本寛一氏、アブドル・バハより書簡を受ける。
1905年 藤田左弌朗氏、カルフォルニアのキャサリン・フランクランド夫人を通して信教を知り、受け入れる。
1909年12月27日 東京YMCAでの日本初のバハイ講演会でC. M. レイミイ氏、信教について講演。英語と日本語で書かれたこの時の招待状を「残された痕跡をたどって」に見ることができる。
1910年 鳥飼健蔵氏、シャーロット・ギレンさんを通して信教を受け入れる。(シアトルにて)
1912年 アブドル・バハ、スペイン赴任でパリに立ち寄った荒川みとじ子爵と夫人に会見。この会見でアブドル・バハは、「今だ発見されていない驚くべき力がある。精神文明が人間の心を支配するまえにこの力が科学によって発見されないよう神に嘆願しよう。」と話している。(パリにて)
1912年3月 日本女子大学の初代学長成瀬仁蔵氏、ロンドンでアブドル・バハに会う。この時、彼は自分のサイン帳にアブドル・バハから短い祈りの言葉を書いてもらった。これは今も、日本女子大の資料保管所に保管されている。
1912年10月7日 アブドル・バハ、カルフォルニア州オークランド市の日本独立教会で、日本人2世にバハイ信教について講演。
1914年8月 ジョージ・ヤコブ・オーガー博士夫妻、ハワイより来日。日本への最初のパイオニア。
1914年11月1日 アグネス・アレキサンダーさん、神戸港着。日本への2番目のパイオニア。
1915年(大正4年)4月23日 アグネス・アレキサンダーさん、昭和天皇主催の浜離宮での観桜会に招待される。
1915年5月 福田菊太郎氏、アグネス・アレキサンダーさんを通してバハイを知り、信教
を受け入れる。日本国内での最初のバハイ。
1915年7月18日 アグネス・アレキサンダーさん、マーサ・ルート女史を迎え、東京でファイヤ・サイドを開催。このときの参加者の中には秋田雨雀氏や神近市子女史(日本初の女性国会議員)があった。これは、マーサ・ルート女史にとって最初の訪日であった。
1916年
@ 鳥居篤治郎氏、アグネス・アレキサンダーを通してバハイを受け入れる。日本に住む日本人で2番目のバハイ。
A 望月百合子(古川)さん、16歳でバハイになる。日本人女性初のバハイ。
1917年7月27日 アグネス・アレキサンダー女史、ハワイへ帰る。
1919年 @ 藤田佐弌朗氏、アメリカからハイファに移る。
A アイダ・フィンチ女史、パイオニアとして来日。1923年まで布教に励む。小松美加枝さんが彼女の助手を勤める。
1919年5月3日 徳富蘆花、アブドル・バハと会見。この時、当時19才であったショーギ・エフェンディにも会った。会見の模様は蘆花の書「日本から日本へ」東洋編に記載されている。
1919年8月9日 アグネス・アレキサンダー女史、2度目の来日。その後1923年10月12日にハワイに戻るまでの4年間に韓国と中国を訪問。
1920年10月19日 アグネス・アレキサンダーさんと望月ゆりさん、「東の星」の発行開始。「東の星」ではアブドル・バハの書簡なども紹介された。
1921年9月1日 アグネス・アレキサンダー女史、韓国訪問前に日本の実業家、渋沢榮一子爵を訪れ、韓国への紹介状をもらう。韓国では日本で知り合ったオー・サン・スン氏に会っている。
1921年12月 東京でアブドル・バハの追悼式開催。参加者36名。この席で毛利さんと村上さんがアブドル・バハについて話をした。
1922年 @ アグネス・アレキサンダー女史、守護者ショーギ・エフェンディの要請で、当時バハイであった人19名のリストを送る。
A 日本の女性バハイたちがシカゴの礼拝堂建設のため、日本人形100体に着物を着せて贈った。人形はアグネス・アレキサンダーの買ったものでそれらはアメリカで売られ、礼拝堂建設基金の一部になった。
1923年
マーサ・ルートさん、2度目の来日。
1923年9月1日 関東大震災。東京にいたアグネス・アレキサンダー女史とアイダ・フィンチ女史は難を逃れた。アイダ・フィンチ女史は間もなくシアトルに帰り、衣類やお金を集めて被災した子供たちのためにとアグネス・アレキサンダー女史のもとに送った。ショーギ・エフェンディと聖なる家族からも義捐金が送られた。
1923年10月12日 アグネス・アレキサンダー女史、ハワイへ帰る。
1928年1月19日 アグネス・アレキサンダー女史、3度目の来日。1933年5月31日にハワイに帰るまでの5年4ヶ月の間に、「バハオラと新時代」、「かくされた言葉」を翻訳・出版した。
1930年
マーサ・ルート女史、3度目の来日。天皇陛下への会見を試みたが実現ならず、ショーギ・エフェンディからの天皇宛の電報は特別に製本された7冊のバハイの書と共に増島博士を通じて献上された。
1931年
キース・ランサム・ケラーさん来日。6週間の滞在中に日本女子大、その他数ヶ所で講演をした。
1932年
井上大雲氏、「バハオラと新時代」の翻訳を完成。
1933年
「バハオラと新時代」と「かくされた言葉」の出版。
1933年5月31日 アグネス・アレキサンダー女史、ハワイに帰る。
1937年
マーサ・ルート女史、4度目の来日。京都で鳥井篤治郎夫妻と福田菊太郎氏に会う。
1941年 藤田左弌朗氏、第二次世界大戦のためイスラエルより日本に強制送還される。郷里の山口県柳井に身を寄せる。
1947年
ロバート今給黎氏、守護者の要請に応え、戦後はじめてのパイオニアとして来日。
1947年 今給黎氏、品川の公民館で無料の英会話教室を始める。
1948年4月21日 品川区に第二次世界大戦後初の東京地方精神行政会設立。メンバーは広橋としお、吉野なおき、加藤よしはる、門田省三、市毛房枝、堀岡吾朗、中西成子、斎藤欽也、今給黎斌の9名であった。
1950年 アグネス・アレキサンダー女史、5度目の来日。連合国占領下で一般のアメ
リカ人の来日ビザ取得が困難な中、米国軍人ダベンポート中尉の保証でビザを取得。
1951年 4月21日 東京地方精神行政会の成立:市毛房枝、門田省三、堀岡吾朗、中西成子、
吉野なおき、アグネス・アレキサンダー、レイトン・スケルトン、バーバラ・ダベンポート、今給黎斌。
1952年 @ アグネス・アレキサンダー、京都に移る。その後2年間常見誠一郎夫妻宅に住む。常見夫人は鳥井篤治郎氏夫人の妹。
A デビット・アール氏夫人同伴で明治大学講師として来日し東京に住む。
1952年4月21日 東京地方精神行政会成立:今給黎斌、ジョン・マッケンリー空軍中佐、堀岡吾朗、北郷為雄、市毛房枝、レイトン・スケルトン、ドナルド・ウイッツル陸軍少尉、デビット・ア ール、ジョイ・アール。
1953年1月 御茶ノ水のウイッツル中尉宅で定期的ファイヤ・サイドが開催されるようになった。毎回10名程度が出席。
1953年3月21日 イランからのパイオニア、アタオラ・モグベル家族とアバス・カテライ家族が東京に到着し、品川公民館でのレズワンの祝日の集いに出席。その後、兵庫県尼崎市に居を構える。
1953年4月21日 守護者ショーギ・エフェンディ、レズワンのメッセージで「世界10年聖戦」の開始を発表。
1953年6月 ヌレディーン・モンタージ氏、イランからパイオニアとして来日。兵庫県尼崎市に住む。氏の寄付により日本初のハジラトウル・クーズ(バハイ・センター)が誕生する。
1953年9月 ヤドラ・ラファート氏、イランからパイオニアとして来日。東京・新宿(今の東京ハイ・センターのあるところ)に住む。その後、東京のバハイの集まりはほとんどここで行われた。
1953年9月 東京地方精神行政会、「東の星」を発行。このニュース・レターはこの後継続して発行された。
1953年10月 フィリップ・マランジェラ氏、米国陸軍会計監査官として東京に移住。
1953年12月 バーバラ・シムスさん、パイオニアとしてアメリカより東京に移住。
1954年 ルホラ・モンタージ氏、パイオニアとしてイランから来日。兵庫県尼崎市(現在の尼崎バハイ・センター)に住む。
1954年 高野博康氏、1年間のアメリカ遊学を終わり、帰国の途上ハイファに立ち寄り、守護者ショーギ・エフェンディと会見。その時、ショーギ・エフェンディは精神軸について彼に話された。また、日本のバハイ・センターへの贈り物としてバハオラの遺体の上にかけられた貴重な掛け布を託された。この掛け布は現在、東京バハイ・センターのお祈りの部屋に架けられている。
1954年4月21日 兵庫県に日本で2番目の地方精神行政会設立。当時は県単位の地方行政会が設立されたが、この2年後からは市町村単位に変更され、兵庫県に3つの地方精神行政会が誕生した。
1954年6月 モタヘデさん夫妻訪日。東京バハイ・センターや関西のバハイ集会に参加。関西での集まりを撮った写真には今給黎斌氏、デビッド・アール博士、ヤドラ・ラファート氏などと一緒に30名以上の関西バハイが写っている。モタヘデ夫人は1961年、国際理事会(万国正義院の前身機関)のメンバーに選ばれている。
1954年9月 戦後初めてのバハイ夏期学校開催(熱海市にて)。東京や関西から参加したバハイに混じり、韓国からも4名のバハイが出席。出席者は総数40名。
1955年4月 宗教法人日本バハイ全国精神行政会の設立。
1955年9月 東京地方精神行政会の主催でアジア布教大会開催(日光にて)。この大会には大業の翼成者ジクルラー・カデム氏が守護者の代理として参加。守護者のメッセージを伝えた。この頃からイランでバハイ迫害が激しくなり、「イランのバハイ本部が政府により押収され、破壊された。」との報告があった。大会出席者は60名、うち日本人は19名。
1955年〜1956年 米空軍中尉ハミルトン夫妻、東京バハイ・センターの管理人を務める。
1955年9月 東京で催された世界宗教者会議にバハイを代表してアグネス・アレキサンダー女史、デビッド・アール博士、フィリップ・マランジェラ氏が出席。
1956年4月21日 地方精神行政会の設立。
1)名古屋 イラン人パイオニア、モフターディ夫妻の2年にわたる努力で。
2)大阪 イランからのパイオニア、ナデリ夫妻の努力で。
3)神戸 イラン人パイオニア、カゼンプール夫妻とヌレディン・モンタージ夫妻の活躍で。
4)西宮 イラン人パイオニア、カテライ夫妻とアメリカ人パイオニア、フィリップ・マランジェラ氏の努力で。
5)尼崎 イラン人パイオニア、モグベル夫妻とヴァハダッド夫妻の活躍で。
6)横浜 アメリカ人パイオニアのマグドナルド夫妻と水野育雄夫妻の活躍で。
1956年9月 京都布教大会開催。出席者は73名(うち大人58名)。
1957年3月 アグネス・アレキサンダー女史、大業の翼成者に任命される。
1957年4月21日 広島地方精神行政会誕生。イラン人パイオニアのアサシ夫妻とラビーブ氏の努力で。
1957年4月 第一回北東アジア年次大会開催(東京・神田の学士会館にて)。アグネス・アレキサンダー、ルホラ・モンタージ、フィリップ・マランジェラ、ヤドラ・ラファート、アタウラ・モグベル、ウイリアム・マックスウエル、バーバラ・シムス、高野博康、銭本三千年の9名(アメリカ人4名、イラン人3名、日本人2名)が第一回北東アジア全国精神行政会メンバーとして選出された。北東アジア全国精神行政会の管轄区:日本、韓国、台湾、香港、マカオ。年次大会出席者数70名。 アメリカ全国精神行政会から派遣されたシャーロット・リンフット女史が大会議長を務めた。
1957年8月 日本初の夏期学校、兵庫県宝塚市にて。日本の16都市から100名が出席。
1958年4月21日 新しい地方精神行政会誕生
1)明石 メンバーはすべて日本人。
2)伊丹
1959年4月21日 @ 新しい地方精神行政会誕生
1)札幌 イランからのパイオニア、テヘラニ氏の努力で。
2)長崎 イラン人バハイの協力とラビーブ氏の努力で。
A ルホラ・モンタージ氏、大陸顧問に任命される。
1971年4月21日 沖縄那覇市に地方精神行政会誕生。
1971年9月3日 北太平洋会議開催(札幌にて)。
1972年5月 大業の翼成者コリス・フェザーストン氏、沖縄訪問。氏は沖縄県知事に会い「バハオラの宣布」を贈呈。
1974年4月 第一回日本バハイ全国年次大会 万国正義院を代表して大業の翼成者ウイリアム・シアーズ氏が出席。
1976年11月27日 香港国際布教大会。日本から44名が参加。
1977年と1778年 大業の翼成者ルヒヤ・カヌームの来日。初回(1977年)は体調不良のため一週間で離日。この時、相模原市で開かれた「国連の日集会」で、古川百合子さんは50年ぶりにカヌームと再開。古川さんはパリ留学中に当時8歳のカヌームと会っていた。 二回目の来日(1978年)時は63日間滞在。北海道から九州の36都市を回り、地域のバハイに会ったほか、三笠宮殿下ご夫妻に会見。芦屋・モンタージ氏宅でのパイオニア大会、小野田での全国布教大会にも出席。
1982年 古い東京バハイ・センターを壊し、同じ場所に3階建てのセンター建設。建設費には大阪バハイ・センターの売却金の一部が使われた。
1982年9月 オーストラリアのキャンベラで開かれたバハイ国際大会に日本から80名が参加。万国正義院を代表して大業の翼成者ユーゴ・ジアケリ氏が参加。大業の翼成者コリス・フェザーストン氏も出席。