200299 地名、霊廟、建造物、記念碑等

 

 

200-1 House of ‘Abdu’l-Bahá アブドル・バハの家     

 ハイファ カルメル山の麓のアッバス通にある。アブドル・バハの設計で1908年に完成した。最初はアブドル・バハの家族だけが使っていたが、1910年にアブドル・バハ自身もここに住むようになってからこの家はアブドル・バハの家と呼ばれるようになった。アブドル・バハがヨーロッパやアメリカ訪問から帰った後は、外国からの巡礼者の接待所としても使われた。アブドル・バハの死後、ショーギ・エフェンディによって増築された。1957年からルヒヤ・カヌームがこの家の主人となり、客人の接待などに使われていた。

 

200-2  Shrine of Abdu’l-Bahá  アブドル・バハの霊廟

 バブの霊廟の中にある。バブの霊廟は九部屋から構成され、うち三部屋がバブの廟として使われ、三部屋がアブドル・バハの廟に使われている。一番北側にあるアブドル・バハの霊廟はさらに3つに区切られていて、彼の遺体は中央部に埋葬されている。両側がお祈りを捧げる部屋でどちらからも見えるようになっている。遺体の安置されている中央部はショーギ・エフェンディ自身が飾り付けをされた。その装飾は現在もそのままで維持されている。将来、アブドル・バハの霊廟は別に造られ、遺体はそこに移されることになっている。

    

201         Adrianople アドリアノープル(現在名はEdirneエデルネ)

トルコにあるバハオラ流刑地の一つ。バハオラの家族と信者の一行はここで5年を過ごした。バハオラたちは1863年コンスタンチノープル(イスタンブール)からこの地に流された。バハオラはここから世界各国の国王や為政者達に書簡を送っておられる。この地で聖約の破壊者ミルザ・ヤーヤの反抗がますます酷くなった。最初ヤーヤはバハオラに毒を盛った。バハオラは生死をさまよう重態に陥ったが命を取り戻された。すると今度は暗殺を試み、それに失敗すると、また、バハオラの使っている井戸に毒物を入れるなどさまざまな陰謀を図った。バハオラが断食の祈り、アーマドへの書簡等が啓示されたのもこの地に滞在中のことであった。現在、バハオラの家族がこの地で幽閉されていた家は修復され、訪問することができる。

                                                                                                                      

202         ‘Akká or Acre or Akko  アッカ [地名] 

バハオラの最後の流刑地。アッカとはアラビヤ語で港町の意味。この地の名は何度も変わっている。十字軍が遠征し駐屯していた頃はセント・ジーン・デ・アッカと言われていた。19世紀にはトルコの支配下にあり、牢獄の町となっていた。1868年、バハオラと家族の一行はこの町の牢獄に移された。ここはトルコ帝国の凶悪犯を収容する牢獄で、牢の状態は人が住めるものではなかった。バハオラとその一行はコンクリートの床の上に転がされ、食べ物もない日が続いた。多くの者が病気に罹り、飢えと寒さで死んでいった。最愛の息子メヘディが屋上の明り取り窓から転落して亡くなったのもこの牢獄でのことであった。バハオラはここからナポレオン三世やヴィクトリア女王、ローマ法王のピウス9世に書簡を送られた。1870年、この牢獄が兵舎として使われることになり、バハオラは牢獄のすぐ近くのアブードの家へ移された。その後、アブドル・バハたちはアッカ市内のアブドラ・パシャの家に、バハオラはアッカの市外にあるマズラエの家に移られた。守護者ショーギ・エフェンディはアブドラ・パシャの家で生まれた。1898年から1899年ごろアメリカから最初の巡礼団が来た時、アブドル・バハはアブドラ・パシャの家で彼らをもてなした。1908年ハイファにアブドル・バハの家が完成したのでアブドル・バハの家族はそちらに移った。

 

202-1 Prison of ‘Akká  アッカの牢獄 

バハオラによって「最大の牢獄」と名付けられた悪名高い牢獄。 バハオラとその家族は1868831日から22ケ月この最悪の牢獄で過された。バハオラがこの牢獄に幽閉されていた時、イランのバハイたちはバハオラに一目でもお目にかかろうと千キロ以上の危険な道のりを徒歩でやってきた。彼らはアッカに着くと遠方の小高い丘に立ち、牢獄の窓からバハオラが手を振られる姿を微かに見て帰っていった。この牢獄は、現在、イスラエル独立記念館になっているが、バハオラの幽閉されていた部屋は残されている。

 

203         Aqueduct of Sulaymán スレイマンの水道橋 [建造物] 

その昔、アッカに水を供給するために作られた水道橋。バハオラの一行がアッカに流された時は部分的に残っていたが使われていなかった。アッカの町に住む人々は衛生的な飲み水が不足し、困っていた。アブドル・バハと交際があり、バハオラに好意を持っていたハマッド・ビッグ・タウフィッグがこの町の町長になった.時、自分は町長として何をしたらいいかとバハオラの意見を求めた。バハオラは、水道橋を直し、衛生的な飲み水をアッカに供給するよう提案された。 町長は早速この提案を受け入れ、アッカの町で衛生的な水が得られるようにした。

 

204         Arc アーク [建造物]      

カメル山の中腹に造られた半円形のバハイの建造物の集合体。このアーク建設はバハイの国際行政センターの手で推進されたが、計画は守護者ショーギ・エフェンディが立てた。アークは、現在すでに建っている万国正義院の建物、国際資料館、国際布教センター、聖典研究センターと、建設が予定されている国際図書館からなる。これら5つの建物は地下道で相互に連結している。万国正義院の建物以外は、表面に出ている部分よりも地下に隠れている部分がより広く設計されている。アークの前面は斜面状の庭園になっていて、下方にバハオラの奥様やアブドル・バハの奥様、アブドル・バハの妹バヒヤ・カヌーム(最も聖なる葉)、アブドル・バハの弟(純粋な枝)たちのお墓がある。アーク全体はバハオラの霊廟に向かって建っている。これらの建物の直ぐ隣にバブの霊廟とその上下に続く各9段のテラス式庭園がある。

   

205  (The) Báb   バブ

205-1     Shrine of the Báb  バブの霊廟・バブの廟 [建物] 

バブの聖なるご遺体が祭られている廟。ハイファのカルメル山中腹、ハイファ港を見下ろす所に建てられている。金色のドームをもつこの廟の上層部は、守護者ショーギ・エフェンディによって建設されたもの。9つの部屋からなっており、うち三部屋がバブの霊廟に使われている。バブのご遺体はその中央の部屋に埋葬されていて、両脇にそれぞれお祈りを捧げるための部屋がある。

バハオラは、1891年にカルメル山に野営されたとき、バブのご遺体を埋葬する場所をアブドル・バハに指示されていた。1898年、アブドル・バハはバブの遺体をテヘランの隠し場所からハイファに移すようイランのバハイに命じられ、ご遺体は1899年に無事に到着した。アブドル・バハは早速、廟の建設に着手されたが、建設には幾つもの難問があった。資材を運び込むためのしっかりした道路もなく、建設を許可する役人の反対もあった。また、アブドル・バハは依然として拘束の身であったため現場で指揮することもできなかった。建物は10年後(1909年)にようやく完成した。 1909321日、ビルマのバハイたちから送られた大理石の棺が地下の安置所に置かれ、バブのご遺体の収められていた木製の棺がアブドル・バハの指示でその棺に収められた。アブドル・バハは、靴を脱ぎ、ターバンとガウンをとって棺の前で平伏し、棺内のバブのご遺体を拝し、棺に額をつけてしばらく大声で泣かれたという。

現在の廟は、後に、守護者ショーギ・エフェンディが大業の翼成者で、建築家であったスーザーランド・マ

ックスウェル氏の助けで改修設計されたもの。この工事は1944年に始まり、195310月に完成した。守護者もバブのご遺体が収められた棺を開き、バブのご遺体を拝された。

 

205-2     House of The Báb バブの家

イランのシラズにあったバブの生家。今は革命政府によって破壊され、駐車場にされている。バハオラの最も聖なる書「アグダスの書」でバハオラはバブの家を信者の巡礼の場と定められている。バブは1844522日の夕方、この家でムラ・ホセインに向かってご自分の使命を宣言された。後にアブドル・バハによって修復されたこの家は1942年にバハイを敵視するグループよって放火され焼失した。その後、再建したが1955年にまた破壊され、再度、建てられたものも1979年に革命政府によって完全に破壊されてしまった。

 

206           Badasht Conference of バダシト(の大会) [地名] 

1848年の夏、バハオラの呼びかけでイランのこの村でバビ教徒の大会が開催された。大会には81名のバビ教徒が22日間にわたって結集した。大会の目的のひとつは、バブのバヤンに示された啓示を日常生活に取り入れていくため、従来の伝統、儀式、体制、寺院のあり方などをどのように変革しなければならないかを討議することであり、二つ目は、チェリーグに拘禁されているバブを助け出すことであった。第一の目的はこの会議でほぼ結論に達したが第二の目的は結論がでないままに終わった。

この大会に出席していたタヘレは、バブの宗教制になったらこうなると言って、身につけていたべールをとった。当時、女性は人前に出るとき必ずベールを被り、他人に顔を見られないようにするのが慣わしであったため出席者の中には驚きのあまり腰を抜かす人も出てきた。この会議でバハオラは出席者全員に称号を与えられた。これまでクアツルアインと呼ばれていたタヘレに「タヘレ」という称号を与え、「生ける文字」の最後の人クデュースにその称号を与えられた。また、自分自身を「バハ」という称号で呼ばれた。

 

211 Baghdád バグダッド [地名] 

現在、イラクの首都。 バハオラの時代はオスマン・トルコ帝国の都市であり、バハオラの最初の流刑地。

バハオラは1853年イランのテヘランから追放され、この地に流された。翌年1854年から1855年までの2

間バハオラはスレイマニ山中で過されるが、その後は1863年までここで過された。

 

212 Bahá’í Center バハイ・センター [建物] (Haziratu’l-Quds バジラトルクッズ)

その地のバハイ活動の中心となる場所。集会所、および事務所としての機能をもつ。通常、各都市に一つある。

日本では東京に全国センターがあり、ここには会議、事務、礼拝、史料管理、書籍販売など多様な目的に使われている。現在、東京の他に6つの都市にバハイ・センターがある。

 

213             Bahá’u’lláh バハオラ

213-1 House of Bahá’u’lláh in Baghdád バグダッドのバハオラの家

1853年から1863年までの10年間、バハオラがバグダッドに流刑の身であったときに住まれた家。狭い路地

の奥にある極めて簡素なこの家はユーフラテス川の西岸に近いカースという住宅地に建っている。バハオラによって「最も偉大な家」、「神の家」と呼ばれ、最初は侮辱を受けるがやがては賞賛されると述べておられる。この家は現在、イスラム教シーア派の手中にあるが、バハオラはこの家をバブの生家と共にバハイの聖なる巡礼の場所と定められている。

バハオラはここで「かくされた言葉」、「確信の書」、「七つの谷」などを著わされた。そして1863年に更に遠方の地、コンスタンチノープルに追放されることになったとき、この地を離れる前にレズワンの園で12日間を過され、この時「聖なる水夫への書簡」を著わされた。421日から52日までのこの12日間はレズワンの祝日と呼ばれ、バハイの最大の祝日とされている。

 

213-2 Mansion of Bahjí バージのバハオラのマンション

アッカ市の総督であったアブドラ・パシャによって1821年に建てられた家。後に、アッカの商人ウディ・カ

マールに買い取られ、1870年に大改修された。しかし、カマール一家は1879年にこの辺りに大流行したペストを恐れて他所に逃げたため空き家になっていた。アブドル・バハはバハオラのためにこの家を借り、1879年にバハオラはこの家に移られた。バハオラはこのマンションで「狼の子への書簡」、その他多くの書簡を著わし、1892529日にここで昇天された。バハオラの遺体はこのマンションに隣接する小さな家の中に埋葬され、そこは現在バハオラの霊廟となっている。この地域一帯はバハイにとって最も聖なる場所であり、必須の祈りを祈る時に顔を向ける「ゲブレ」である。

 バージのこのマンションは、長い間聖約の破壊者によって占拠されていたため建物も荒れ朽ちていたが、1929

年、守護者ショーギ・エフェンディはこのマンションをバハイの手に取り戻し、大修理を行い、さらに近辺の土

地を買い取って造園計画を進められた。現在、バージのマンションには多くの歴史的資料が展示され、バハオラ

の寝室も昔のままに保存されている。

 

213-3 Shrine of Bahá’u’lláh  バハオラの霊廟・バハオラの廟 [建物]

バハオラの御遺体の安置してあるところ。1892529日、バハオラが昇天されるとその日のうちにご遺体はバージのマンションに隣接する一角に埋葬された。この場所は、バハイにとってこの世で最も神聖な場所である。また、日々必須のお祈りを上げる時、バハイが面を向ける場所(ゲブレ)である。この霊廟は現在まだ仮のものであるため非常に簡素であるが、やがて時がくれば立派な霊廟がここに建てられることになっている。

 

214             Black Pit – Síyáh-Chál シア・チャール

バハオラほか、幾人かのバハイが捕らえられ、幽閉されたテヘラン市内にある地下の洞牢。この地下牢への入り口は一つしかなかった。真っ暗闇の通路を進むと三段の険しい階段の奥に囚人の収容されるところがあった。バハオラが投獄されたときこの牢屋には150名ほどの者が幽閉されていたが、その殆どは盗賊、人殺し、追いはぎの類であった。ほとんどの者が着るものもなく、寝るためのむしろも与えられてなかった。中は悪臭に満ちていた。バハオラはこの牢獄で、「まことに、われ汝自身により,また汝の筆によって、何時が勝利を得んことを助けん。汝に降りかかる事を悲しみ、怖れるなかれ、汝は安全なればなり。」という言葉を神より告げられた。

 

215             Bahá’í Cemetery  バハイ墓地

アグダスの書に掟として示されているように、バハイは埋葬されるため、墓地もそれに適したものが必要となる。現在、日本に見られる墓地では必ずしも埋葬を受け入れてないので、バハイ全国精神行政会の埋葬可能な墓地を確保する努力をしているが、すでに利用できる墓地については21512154に示す。

 

215-1 Ashiya Cemetery  芦屋墓地

 全国精神行政会は芦屋市役所が管理する芦屋霊園(芦屋市柴緑区113)に623平方メートルの永代所有権を保有しており、ここには埋葬できる。

 

215-2 Okinawa Cemetery 沖縄墓地

 全国精神行政会は沖縄県伊佐敷町に埋葬用地を所有している。

 

215-3 Yoich Cemetery 北海道余市墓地

 全国精神行政会は北海道余市市の余市霊園に用地を所有している。

 

215-4 Yokohama Gaikokujin Bochi 横浜外国人墓地

 全国精神行政会は、横浜外国人墓地(市の中心部にある)に2つの墓地使用権を保有しているが、規定により日本国籍の人は利用できない。この墓地は政府所有で、財団法人が管理運営している。この墓地の使用規定に、同じ土地に何体埋葬できるかを規定した条項はないが、埋葬した遺体は2メートル以上の土で覆わなければならないという規則がある。通常、一遺体を埋葬する場合2メートル50センチの穴を掘って棺を安置し、その上に2メートルの土を盛ることになっている。全国精神行政会では一つの地に3体埋葬すると決めた。この場合、最初に3メートル50センチの穴を掘り一体埋葬した後、3メートルの土で覆う。2体目は3メートルまで掘って棺を安置し2メートル50センチの覆土をするというようにして3体を埋葬をする。墓地使用量は150万円で、墓堀代と永代利用料が含まれている。詳しは、横浜外国人墓地利用規則を参照。

 

216      Carmel, Mount  カルメル山

古代から「主の山」として知られている。旧約聖書や新約聖書に神の山として言及されている。この山の中腹の斜面にバハイ世界本部、万国正義院、国際史料館、国際布教センター、聖典研究センターなどで構成されるアークがあり、また、バブの霊廟(アブドル・バハの廟を含む)とその霊廟の上下につながる1キロメートルにおよぶテラス式庭園、巡礼館、モニュメント・ガーデンがある。カルメル山の麓にはアブドル・バハの家やルヒヤ・カヌームの墓所などがある。特に、金色のドームをもつバブの霊廟とその上下に続くテラス式庭園のすばらしい景観はハイファ市に入る前から目に入り、人々の心を弾ませる。山頂近くにあるバハイの礼拝堂用地には、現在、石塔が建てられている。やがてはそこに礼拝堂が建てられる予定である。海岸の大通りに近いところにあるバハイ墓地には藤田佐一朗氏の墓もある。

    

217      Chihríq (The fortress of) チェリーグの砦

  イラン北東部にある山岳地帯の砦。バブは殉教前の2年間ここに幽閉され、その間に「アラビヤ語のバヤンの書」や「ハジ・ミルザ・アカシへの書簡」などを著わされた。

 

218 Collins, Gate コリンズ・ゲイト [建造物]

バージのバハオラの霊廟に通じる北の表門。ショーギ・エフェンディによって発注され、造られた鋳鉄の大門。ショーギ・エフェンディはこの門を大業の翼成者アメリア・コリンズの名前を取ってコリンズ・ゲイトと名付けられた。

 

219 Constantinople – Istanbul  コンスタンチノープル (イスタンブール)

 トルコの主要都市。昔はトルコ帝国の首府であった。バハオラは186353日にバグダッドを追放され、816日にここに到着された。バハオラはこの流刑地で4ヶ月を過ごされた後、アドリアノープルへ流された。

 

220 Fort of Shaykh Tabarsi  シェイキ・タバルシの砦 

イランのバルフルシの南東にあるシェイキ・アハマッドの社に、ムラ・ホセイン率いる313人のバビ教徒が身を守るために築いた砦。バルフルシの僧侶や政府の軍隊が何千人もかかってこの砦を攻め滅ぼそうとしたがなかなか陥落しなかった。結局、184810月に始まった攻防は翌年5月まで続いた。ムラ・ホセインは18492月に敵の銃弾に当たって戦死し、敵の策略で捕らえられたクデゥースは郷里のバルフルシに連行され、拷問の後、虐殺された。

 

221 Green Acre Baha’i School  グリーンエーカー バハイ・スクール

アメリカ・メイン州エリオットにあるこのバハイ学校。もとはサーラ・ファーマーの邸宅であったが、1929年アメリカで最初の夏期学校が開催されたときバハイに寄付された。今では、バハイの常設学校となっている。

 

222 Harám-i-Aqdas  Most holy sanctuary  ハラミ・アグダス [最高の聖域] 

バハオラの霊廟の周りに広がる一帯をバハイでは最高の聖域としている。

 

225  Hazíratu’-l-Quds  ハジラトル・クッズ 212 Bahá’í Center バハイ・センター参照

 

227    Holy City  聖なる都市 Jerusalem エルサレム

一般的にエルサレムは聖なる都市と呼ばれ、キリストの処刑の地「ゴルゴダ」、モハメッドがそこから天に昇ったとされているドーム・オブ・ロック、ユダヤ教の最大の聖地「嘆きの壁」などは総てエルサレムの旧市内にある。

 

228    Holy Land  聖地 イスラエル                 

首都はエルサレム。キリスト生誕の地や処刑の地があることからキリスト教にとって最大の聖地であると同時に、ドーム・オブ・ロックがあることからイスラム教にとってもメッカに次ぐ聖地である。また、ユダヤ教の最大の聖地でもある。このため、一般的に世界では聖地と言えばイスラエルを指す。バハイでは、バハオラやバブやアブドル・バハの霊廟とバハオラの幽閉されたアッカの牢獄やバハオラが最後に住まれたバージのマンションやバハイの世界本部がハイファとアッカ周辺にあるので聖地と呼んでいる。バハイの最大の聖地はアッカの郊外バージのバハオラの霊廟のある付近の場所を言う。

 

229      Holy Places  聖なる場所

バハイの聖なる場所は、バブ、バハオラ、アブドル・バハが幽閉された牢獄と住居と霊廟と宣言の場所や聖なる家族の霊廟や殉教者の殉教の場所や墓地などである。バハイで最も聖なる場所は、バハオラの霊廟のある所とその近辺とされている。アブドル・バハは書簡の中で、聖なる場所とは聖なる恩寵の沸き出でる場所で、そこを訪れるとバブやバハオラや殉教者の聖なる魂に触れ、畏敬の念で故人を偲ぶことにより、肉体的にも精神的にも心が動かされ、深い感動を覚えると述べておられる。バハイは「バハオラの霊廟」、バハオラの住まれた「バグダッドの家」と「バブのシラズの家」の三カ所の巡礼を義務付けられている。他の聖所も義務ではないが、訪問するよう奨励されている。

 

230      House of ‘Abbúdアブードの家

1871年からバハオラオラのご一家が住まれたアッカのウディ・カマールの家に隣接する家。この家には裕福な商人アブード(キリスト教徒)が住んでいた。ウディ・カマールの家はバハオラの大家族にとって狭かった。アブードはアブドル・バハが結婚されるのを知って、彼らのために自分の部屋を空け、貸してくれた。その後その家全体を貸してくれたので事情が大いに改善された。バハオラは1877年にアッカ郊外のマズレエの家に移られたが、アブドル・バハ一家は引き続きこの家に住まれた。バハオラはマズラエに移られてからも何回もこの家を訪問された。アブドル・バハはこの家で、「聖なる文明の秘密」と「一人の旅人の話し」を著している。バハオラの妻ナバーヴは1886年にこの家で亡くなられた。現在はウディ・カマールの家とアブードの家の双方あわせた家をアブードの家と呼んでいる。

 

231      House of ‘Abdu’lláh Páshá アブドラ・パシャの家 

アッカ市の総督アブドラ・パシャによって1810年に建てられた石造りのお城のような家。アッカの旧市内にある。アブドル・バハの家族はこの家に1896年から1910年まで住まれた。バブの殉教から50年たった1899年にバブの遺体の収められている木の柩(ヒツギ)がこの家に運び込まれ、それは1909年にバブの霊廟に移されるまでここに密かに保管されていた。アブドル・バハは国家反逆の罪で8年間この家に幽閉され、ショーギ・エフェンディはこの家で誕生された。アメリカからの最初の巡礼者達は1898年にこの家の一室でアブドル・バハと面接した。イシカバードの礼拝堂建設やシラズのバブの家再建などの指示はアブドル・バハがこの家から出された。ローラ・クリフォード・バーニィはこの家でアブドル・バハにさまざまな質問をし、その時に得た答えを書き取って「質疑応答集」を編纂した。アブドル・バハは彼の最初の遺訓をここで書かれた。このように数々のできごとに満ちたこの家は1975年にバハイの手に戻り、ルヒヤ・カヌームの指揮で昔の面影に近い家具や調度品が配備された。

 

232    House of The Báb バブの生家    205-2 参照

 

233 House of Bahá’u’lláh in Baghdad バハオラのバグダッドの家  2131 参照

 

234 House of ‘Udí Khmmár  ウディ・クマルの家 

バハオラの一家は1871年から1873年までこの家に住んだ。この家でバハオラはバハイの法律の書「アグダスの書」を著され、アブドル・バハはムニレ・カヌームと結婚された。この家に住んでいる間に、バハオラの敵対者によって7名のバハイが暗殺され、バハオラはその騒動を起こした煽動者という濡れ衣で投獄され、官憲の尋問を受けられた。この家はアブードの家と隣接していたので、後にアブードの家全体を借りるようになってからは一緒にしてアブードの家と呼ばれるようになった。

 

239   House of Worship  礼拝堂 Mashriqu-‘l-Adhkar マシュリゴゥル・アズカー

 礼拝堂の意味。イラン語で、祈りを捧げるために造られた建物、または部屋のこと。バハイの礼拝堂は九つの入り口と天井のドームに特徴付けられる。アブドル・バハは、礼拝堂は九つの出入り口、九つの庭、九つの噴水を持つべきで、さらに、礼拝堂の周辺には付属施設として病院や旅行者の宿泊施設、孤児院、学校や研究所のような施設を置くことが望ましいと説明されている。礼拝堂内には絵や彫刻品などは置かず、また、堂内で楽器は使用しない。歌を歌ったり、祈りを吟唱することは許される。

 守護者ショーギ・エフェンディは各地域、および全国の代表者たちが夜明けにこの建物に集まり、祈ることで、強力な精神的活力とインスピレーションを受けることができると述べている。

 

239-1 House of Worship of Ishqábád, Turkistan  トルキスタン・イシカバッドの礼拝堂 

239-2  House of Worship of Wilmette, Illinois, USA アメリカ・ウイルメットの礼拝堂 

239-3  House of Worship of Kampala, Uganda ウガンダ・カンパラの礼拝堂 

239-4  House of Worship of Frankfurt, Germany ドイツ・フランクフルトの礼拝堂 

239-5 House of Worship of Sydney, Australia オーストラリア・シドニーの礼拝堂 

239-6  House of Worship of Samoa サモアの礼拝堂 

239-7  House of Worship of Panama パナマの礼拝堂 

239-8  House of Worship of New Delhi, India インド・ニューデリーの礼拝堂 

239-9  House of Worship (cite) of Mt Carmel  カルメル山の礼拝堂用地 

 

240         International Archives 国際史料館 [建物]

アークの建物の一つで、カルメル山中腹に建つギリシャ風の建物。バハイの歴史的資料、バブとバハオラの肖像画や写真、バブやバハオラ自身が書かれた多数の書簡、顕示者が身につけられていた衣服や、実際に使われた印鑑、すずり、ペンなどが保存されている。守護者によって建てられたこれまでの国際史料館は手狭になったのでアーク・プロジェクトの一環として拡張が行われた。拡張は主に地下部分でなされたので史料館の外見はこれまでと変わらない。

 

241         International Library 国際図書館

国際図書館はアークの全ての建物が完成するときに造られる。今はまだいつからこの建設が開始されるか決まっていないが、完成すると世界有数の図書館となる。 現在は、最近完成された国際布教センターの地下室の一部が図書館として使用されている。 

 

242         International Teaching Center 国際布教センター  939参照 

アーク・プロジェクト完成まではアブドル・バハの家の前にある建物が国際布教センターとして使われていた。「西洋人の巡礼館」と呼ばれたこの建物は、1963年から20年間、万国正義院の建物として使われ、それ以後、国際布教センターがこの建物を使った。そして2000年末、アークの一環として、万国正義院の隣に地上2階、地下7階の建物が完成すると国際布教センターはそちらに移った。国際布教センターは万国正義院に任命された9名の国際顧問によって運営される。現時点では、存命中の大業翼成者フルタン氏とモハマッド・バルガ氏は名誉メンバーである。国際布教センターの主な役割は、世界中の大陸顧問を通して世界各地のバハイの布教と保護に関する業務を企画、指導することである。    

 

246    Írán イラン 

中東の石油産出国。面積は日本の4倍。神の顕示者であるゾロアスター、バブ、バハオラの出現した国。総人口5,500万人(日本の3分の1)の殆どがイスラム教のシーア派信者。国教がイスラム教であるため、憲法はイコーランに基づく。イスラム教以外の宗教は認めているというが、憲法で保障された権利は受けられない。イスラム教以外で最も多い信者を有するバハイ教だけは独立宗教と認めず、バハイは公的機関に職を得ることはできず、バハイの子供たちは公立の教育機関で教育を受けることができない。私立学校でも、校長はイスラム教徒でなければならないし、教科書もイラン政府の検閲済みの教科書しか使えない。犯罪者はイスラム法で規定された罰を受けるが、異教徒の場合は法律で規定された罪の2倍重い罪を科すことができる。

 

247    ‘Iráq イラク [国名]

北はトルコ、南はサウジアラビヤ、西はイラン、東はヨルダンと国境を接している。バブとバハオラの出現を予言したシェイキ・アハマッドとセイエド・カゼムはこの国のカルバラという町に住んでいた。バハオラはシア・チャールから開放されると直ぐにこの国の首都バグダッドに追放となられた。ここにはバハオラが10年間住まれた家や、1863年バハオラがご自分の使命を公に宣言されたレズワンの庭園がある。

 

250    Isfáhán イスファハン 

イラン第二の都市。古都で、日本でいえば京都のような、歴史に満ちた都市である。この町からは、「殉教者の王」と「殉教者の愛」の兄弟など歴史上有名なバハイが輩出している。アブドル・バハの奥様ムニレ・カヌームもこの都市で生まれ育った。

 

251    ‘Ishqábád or Ashkhabad  イシカバード                                                          

トルキスタンの都市。当時この地には多くのバハイが住んでいたが、ロシアの一部であったためバハイの迫害はあまりなかった。1902年、バブの妻の弟モハンマド・タキはアブドル・バハの指示でこの地に世界で最初のバハイ礼拝堂を建てた。その礼拝堂は地震で建物が損壊したため取り壊された。

 

252    Israel  イスラエル 228 参照 

 

253 Karbilá カルバラ [地名]

バグダッドの南40キロにある都市。イスラム教シーア派にとって最大の聖地エマム・ホセイン殉教の地であり、ホセインの霊廟があるところ。バブの出現が間近と予言したセイェド・カゼムはこの地に住んだ。

 

254        Máh-Kú Castle マークの砦 

イラン北西部でクルド族の住む国境の町にある砦。バブはここに9ヶ月間投獄された。ここに投獄されていたのはバブ一人であった。バブがこの砦に閉じ込められている間に不思議なことが起こった。ある時、砦の城主アリ・カーーンが城内を散策していると、素晴らしい、心に響き渡る旋律のお祈りが聞こえてきた。誰がお祈りをしているのだろうと声のする方へ行くと、それは囚人であるバブの牢獄の方から聞こえてきた。そっと近寄ってのぞいて見ると、バブが涙を流しながらお祈りをしておられた。城主は強い感動を覚えた。数日後、城主は夢を見た。預言者モハメッドが一人の従者を連れてこの砦に向かってくるという夢であった。城主は飛び起き、直ぐに三頭の馬を用意して、夢の中に現れた場所に向かうと、二人連れの男がやってきた。城主が二人に行く先を尋ねるとバブに会うために城に行くと言ったので、用意してきた二頭の馬に乗るよう勧めたが二人は歩いて行くことを望んだ。二人は1週間城内に滞在することを許された。以来、城主は囚人であるバブを客人として丁重にもてなすようになった。

 

255        Mashriqu’l-Adhkár or House of Worshipマシュリゴゥル・アズカー 礼拝堂 239-1~8参照

 

256 Mausoleum of the Báb  バブの霊廟 [建物] 205-1  Shrine of the Báb バブの霊廟参照

 

257 Mázindarán  マジンダラン 

テヘランの北方、エルブス山脈の北側にある都市。カスピ海沿いの地方でバハオラの祖先の領地。雨が多く、日本の気候に似ていてお米の有名な産地でもある。

 

258 Mazra’ih マズラエ 

アッカの北7キロの田舎にある邸宅。バハオラはアブードの家からこの家に移り、ここで2年を過ごされてからバージのマンションに移られた。後に一時期この家はイスラム教関係の所有物になってしまい、その後は長い間空家だった。イスラエル政府の所有物となってから政府はこれを政府の役人の保養所にしようとしていたが、守護者ショーギ・エフェンディは時の総理大臣のベン・グリオンに直々に面会し、バハイ巡礼の場としてこの家がバハイにとってかけがえのない大切なものであると説明した。総理大臣はその訴えを聞き入れ、195012月、ここはバハイに賃貸されることになった。守護者はこのことを世界のバハイに報告された。

 

259 Maxwell Bahá’í School マックスウエル・バハイスクール

カナダのビクトリア州バンクーバー島にある、バハイが運営している学校。

 

260 Mecca メッカ 

モハメッドの生誕地で、宣言の地でもある。イスラム教で最も神聖なカーバーがあり、イスラム教徒にとって最も聖なる地。信徒は一日5回、ここに向って祈りを捧げる。イスラム教徒は一生で一度はメッか巡礼をするよう勧告されている。メッか巡礼を果した男性の姓名にはハジ、女性にはハジェという称号がつけられる。

 

261 Medina メディナ [昔はヤスレブと呼ばれた]

 サウジアラビヤ西北部の都市。人口20万人。預言者モハメッドの墓があるところで、イスラム教徒にとって第二の聖地。

 

262 Monument Gardens モニュメント・ガーデン 

バハオラの聖なる家族の墓がある庭園。万国正義院の建物の前を下がった所にある。ここにはバヒヤ・カヌーム(最も聖なる葉)、ムニレ・カヌーム(聖なる母)、ナバーブ(バハオラの妻で、最も光輝な葉)、ピュアレスト・ブランチ(最も聖なる枝)の墓があり、美しい墓碑が建っている。

 

263 mosque  モスク [回教の寺院]

 イスラム教の礼拝堂。ドームをもつ建物で、建物の外側にミナレットと呼ばれる縦長の細長い塔を備えている。

 

264 Most Holy Tomb  最も聖なる霊屋

 バハオラの霊廟のこと。この霊廟の周辺はハラミ・アグダスと呼ばれバハイでは最も聖なる場所である。

 

265 Mount Carmel カルメル山 216 参照

 

266 Najaf ナジャフ 

バグダッドの南80キロに位置する都市。シーア派にとって重要な霊廟が2つあるため、彼らにはカルバラに次ぐ大事な都市。

 

267 Na’mayn ナマイン 

アッカの南東、市壁から1キロのところを流れる川の中州。アブドル・バハは1875年にバハオラのためにこの土地を借りられた。バハオラはこの庭園をレズワンと命名され、何度も訪問されている。この小さな中洲には草木が生い茂り、季節の花が咲き、噴水がある。また、小さな小屋も建てられている。バハオラはここを訪問するとベンチに腰を下ろし、小屋で休息してくつろがれたという。

 

268 Nayríz  ネイリッズ 

イラン南西部の町。1850年、ワヒードを含め多くのバビ教徒がここで殉教した。

 

269 New Era School  ニューエラ スクール

インドのプナに近い村パンチガニにあるバハイ経営の学校。

 

270 Núr ヌール 

イラン北部マジンダラン州にある県の一つ。バハオラの父はこの県の地主であった。

 

271 Pilgrim House  巡礼館

 聖地を巡礼、あるいは訪問する人が休憩したり、集まったりするところで、ハイファ、バージのそれぞれの聖なる場所の近くにある。

 

271-1  Pilgrim House of Bahjí バージの巡礼館 

 バハオラの霊廟のすぐ後ろにある巡礼館は、1892年頃にアブドル・バハが住居として借りられたもの。巡礼者数の増加に伴い、いま新しい巡礼館の建築が進められている。

 

271-2  Pilgrim House of Haifa  ハイファの巡礼館

 長い間巡礼館として使われたバブの霊廟の脇にある石造りの巡礼館は、バブのご遺体が現在の場所に埋葬されて直ぐに、一信者がアブドル・バハの許可を得て建設したもの。当初は、ホテルなど宿泊施設が整っていなかったためイランやイラクなどから来た巡礼者の宿泊所として使われ、東洋人用巡礼館と呼ばれていた。2001年に完成した新しい巡礼館は二階建ての大きな建物で、大通りに面したところにある。

 

271-3 Eastern Pilgrim House  東洋人用巡礼館  2712 参照

 

271-4 Western Pilgrim House  西洋人用巡礼館

ホテルなどの施設が整っていなかった時代に、西洋からの巡礼者の宿泊所として使ったため西洋人用巡礼館と呼ばれた建物。この建物は200011月まで国際布教センターとして使われていたもので、アブドル・バハの家の向かいにあり、通りを隔ててルヒヤ・カヌムのお墓がある。はじめ西洋からの巡礼者に使われたこの建物は、後に国際バハイ評議院のために使われ、次に万国正義院の建物として使われた。そして、1983年に新しい万国正義院の建物が完成してからは国際布教センターが使った。

 

272 Qasvín  カズビン

テヘランの西50キロにある都市。タヘレの生誕地。この都市にはバブの最初の弟子が数多く住んでいた。アブドル・バハの「忠実なる者らの話し」にそれらの人の逸話が書かれている。

 

273 Resting Place (tomb) of Shoghi Effendi  ショーギ・エフェンディの墓所

195711月、イギリス訪問中に逝去されたショーギ・エフェンディはロンドン北部にあるニュー・サウスゲイト墓地に埋葬された。墓碑はすべて大理石造りで、背の高い円柱が支える地球儀の上にまさに飛び上がろうとしている鷹の青銅像が載っている。

 

274 (Garden of) Ridván (Na’mayn of Akká) アッカ郊外のレズワンの庭園 267 ナマイン参照

 

275 (Garden of) Ridván (Najib Pasha of Baghdad) バグダッドのレズワンの庭園

 バグダッドの郊外、チグリス川を渡った所にあったナジブ・パシャの庭園。バハオラは1863年、コンスタンチノープルへ流される直前の421日から52日までの12日間をここで過ごされ、ご自分の使命を公けに宣言された。バハイ信教の間でこの庭園はレズワンの園として知られている。

 

276 Shaykh Tabarsí シェイキ・タバルシ [地名] 220 参照

 

277  Shrine 社 廟 (やしろ) 霊廟

 聖なる御霊が祭られているところ。バハイ信教ではバブ、バハオラ、アブドル・バハが霊廟にまつられている。

 

278   Síyáh-Chál - the Black Pit, シア・チャール  214  参照

 

279 Sulaymáníyyih  スレイマニエ

イラクのクルデスタンにある町。母親違いの兄弟ミルザ・ヤーヤの策略で信徒間に増大した衝突を避けるためバハオラが隠遁された場所。バハオラは唯一人でこの地の荒野へ身を引かれた。この時の模様は「イガンの書」に記されている。「この地に来たはじめのころ、後に災難が起こるであろうと察し、それが起こる前にさらに身を引こうと決心した。われは荒野に赴き、そこに隔離されて、二年間、寂しく、全く孤独の生活を送ったのである。われの目から苦悩の涙が雨と降り、われの心臓からは苦痛の大波が押し寄せていた。食べるものもない夜も多く、体の休まることのない日も多かった。こうした窮乏と困難にも関わらず、我が存在をその手に持ち給う神によって、われの魂は歓喜に包まれ、われの全存在は言いようのない喜びを示すのであった。 われは独居のなかで、他の誰かの害、利益、健康、病気と言うものにはまったく関与しなかった。我は世界とその一切を忘れて我の精神と問答していた。そのようなわけで我は、神の運命の網目は人間の最大の観念を超越するものであり、神の命令の矢は人間の計画の最も大胆のものを超えるものであるということに気付かなかった。」

 

280 Tabríz タブリーズ 

 イラン北東部アドハルバイジャン州の州都。バブは18487月にマークの砦に監禁される前にもここに40日間拘束され、ナシリッド・ディン・シャーや宗教裁判官に尋門を受け、鞭打ち刑に処された。それから2年後の18507月、再びここに召喚され、この町の広場で750名の兵隊の一斉射撃を受けて殉教された。

 

281 Terrace テラス式庭園 

バブの霊廟の上方と下方に広がる各9段、計19段のテラス式庭園。2001年5月に正式な開通式が行われた。テラスの一番下の段の前方には広い道路の両側にジャーマン・テンプラー・コロニイの特徴あるレンガ屋根の家が並んでいて、その先は海岸通りに通じている。テラス階段の全長は1キロメートル、標高差は225メートルある。そのテラスの中央が金色のドームを戴くバブの霊廟である。テラス完成以前にもバブの霊廟から海岸通りに通じる真っ直ぐな階段があって、それを「王様の道」と呼んでいた。時来たれば、世界中から国王たちがこの階段を登って、バブの霊廟に参拝にくると言われている。このテラス式庭園はハイファ市が誇る観光名所となっている。

 

282 Tarbíyat Schools  テルビヤット・バハイ学校

テヘランにあったバハイ学校。男子校は1898年に開校し、女子校は1909年にアメリカ人の女医スーザン・ムーディ博士が赴任してから始まった。この学校はバハイによって運営されていたが、バハイ以外の家庭の生徒も入学できた。女子校の発足にはアメリカから来たリリアン・カップスとサラ・クロック女史らの功績が大きい。女子校は最初40名の女子生徒で始まったが24年後(1934年)に政府の命令で学校が閉鎖される時には750名になっていた。閉鎖された理由は、守護者ショーギ・エフェンディはバブの殉教の日には授業を休むよう指示されたが、政府はバハイの祭日にも授業を行うよう命令し、結局、閉鎖を命じたためである。

 

283 Tihrán - the capital of Iran テヘラン 

イランの首府。バハオラのお生まれになったこの地で起こったバハイに関わる事件やでき事が数え切れない。バハオラは1852年にこの地のシア・チャールに4ヶ月間幽閉され、その中で神からの啓示を受けられた。また、テヘランでは著名なバビ教徒7名が殉教している。テヘラン市内にあるバハオラの生家は現在政府に没収されていて、どのような状況にあるか分からない。

 

284 World Center  世界本部 

 イスラエル・ハイファ市のカルメル山中腹に、万国正義院と呼ばれるバハイ信教の最高機関がある。この建物の周りには、国際布教センター、聖典研究センター、国際史料館、それにモニュメント・ガーデンがある。国際図書館もこの地に建てられる予定。この部分につながって金色のドームをもつバブの霊廟とテラス式庭園がある。

 

285 Yazd  ヤズド

 イラン中央部にあるイラン有数の都市。この都市には多くのバビ教徒がいて、迫害も厳しかった。

 

286 Zanján  ザンジャン 

イラン北西部の都市。18505月、ザンジャンの乱と呼ばれる事件が起き3000名のバハイが殉教した。この町にいたとても有能なイスラムの僧侶に発した。その僧侶はイスラムの掟に厳格で、他のイスラム教僧侶たちの悪行を暴いたので彼に憎しみを持つ僧侶が多かった。その有能な僧侶がバブの教えを知り、研究した結果、バブの信者になった。彼はバブからホジャットという称号をもらった。ホジャットはモハメッドの教えもバブの教えも根元は同じであるといって回教寺院で大胆に布教し始めた。これがもとで、町の人々は二分され今にも戦争がおきそうになった。県知事は町のいたるところに立て札を立て、命や家族や財産が大切なら市長の味方になるように煽り、騒ぎの火は町中に広がった。この戦いでホジャットは負傷し死に、残ったバビたちもみな殺された。

 

 

300〜399書籍・書簡・講演・祈りの題名

 

 

301   ‘Abdu’l-Bahá    アブドル・バハ 

 

301-01    ‘Abdu’l-Bahá  in America  アメリカでのアブドル・バハ(英語のみ)

 アブドル・バハは1912年から1913年にかけてアメリカ各地を訪問し、講演されたが、その内容を記録したもの。他には “Promulgation of Universal Peace”(世界平和の普及)という書や、「アブドル・バハの書物と発言集」にも収められており、また「モハメッドの日記」には多くの写真が収められている。

 また、「アグネス・パーソンズの日記‐アメリカでのアブドル・バハ」もカリマット・プレス社から出版されている。

 

301-02    ‘Abdu’l-Bahá  in London  ロンドンでのアブドル・バハ(英語のみ)

 1912年にアブドル・バハのロンドン滞在中の出来事および公演内容を記録したもの。アブドル・バハは19129月4日から1010日までの37日間、英国に滞在され、その間に各地で20数回の講演をされた。

 

301-03    ‘Abdu’l-Bahá ‘s talks at the Japanese Independent Church, Oakland, 1912

アブドル・バハの日本人独立教会での講話。(英語と日本語)

アブドル・バハはカルフォルニアのオークランドに滞在中、日本人で最初のバハイとなった山本寛一氏の手配で開かれた講演会で多くの日本人を前に講演された。390-1参照

 

301-04    Fountain of Greatest Branch  大樹の泉  (日本語で出版)

 アブドル・バハの講話や書簡からの抜粋集。守護者ショーギ・エフェンディや万国正義院の言葉もいくつか記されている。本書は16章から構成されており、第一章「獄中のバハオラ」、第2章「アブドル・バハのニューヨークでの講話」、第3章「祈り、冥想、最大名」、第4章「日常生活における物質と精神の健全なバランス」、第5章ではバハオラの教えの特徴と、主にバハイとしての精神生活に関わる問題を取り上げており、他には、人生の収穫、豊な心、愛、試練といった課題、すなわち人間の精神に関わることを取り扱っている。

 

301-05  Memorials of the Faithful  忠実なる者らの思い出 [著者アブドル・バハ](英語のみ)

 アブドル・バハの書かれた本。信教の初期の頃の忠実なる従者69名の逸話が収められている。バブの信者で女性として最初であったタヘレや、「ナビルの話し」の著者ナビル・ザランディ、殉教者の王の妻のエピソードなどが載せられている。この書は部分的に日本語に訳されている。

 

301-06    Paris Talk of ‘Abdu’l-Bahá    (Book) アブドル・バハのパリ講話集 (日本語と英語)

 1912年にアブドル・バハがパリ滞在中にされたさまざまな講話や、個人の質問に対する答えを集めたもの。この書では、神の存在、神から遣わされる偉大な教育者と彼等の特質、人間の起原や能力、科学と宗教の調和、人間の知識の源泉など、人々に関心の深い課題が数多く扱われている。

 

301-07    Prayers of ‘Abdu’l-Bahá    (Book) アブドル・バハの祈り (日本語)

 1963年、日本バハイ出版局によって出版された茶色表紙で薄い本。アブドル・バハの祈りの他に、バブの短い祈り2つ、バハオラの有名な祈り−アーマドへの書簡、参堂の書(1)断食の祈り、ノウ・ルーズの祈り、結婚の祈り(1)― などが収められている。

 

301-08  The Secret of Divine Civilization  聖なる文明の秘密 (英語のみ)

1875年にアブドル・バハによって著された書。原文はペルシャ語。1882年にボンベイで印刷。英語訳は1910年にロンドンで出版され、1918年にはシカゴで「文明の不思議な力」というタイトルで出版されている。

 

301-09    Selections from the Writings of ‘Abdu’l-Bahá    アブドル・バハ選集 (日本語と英語)

 アブドル・バハが欧州各国や、アメリカ、カナダでされた講演、会話、初期のバハイたちに送られた書簡などを主題別に編集して出版した本。日本語版は原本のごく一部を訳して編纂したもの。

 

301-10    Some Answered Questions ‘Abdu’l-Bahá     アブドル・バハの質疑応答集 (英語と日本語)

 1904年から1906年の間に数回アッカを訪問し、アブドル・バハに様々な質問をしたローラ・クリッフォード・バーニイ夫人がそれに対するアブドル・バハの応答をまとめたもの。キリスト教に関すること、神の存在、神から送られる偉大な教育者と彼らの特質、人間の起原や能力、科学と宗教の調和、人間の知識の源泉、その他、人々に興味の深いものが数多く含まれる。現在の日本語訳ではキリスト教に関するもので日本人に理解しにくいと思われる部分は除かれている。

 

301-11     Tablets of ‘Abdu’l-Bahá アブドル・バハの書簡集 (英語のみ)

 

301-12  The Tablets of Divine Plan  聖なる計画の書簡  (英語のみ)

  アブドル・バハが、第一次世界大戦中に北アメリカとカナダのバハイに宛てられた14通の書簡。バハオラの世界秩序を実現させるための布教計画と激励が示されている。この書簡について守護者ショーギ・エフェンディは、これは「命令」であり、「布教にとって最高のもの」と述べている。つまり、この書簡に「バハイの大業の炎を東西両洋に伝え広め、バハオラの出現の福音を五大陸に広めること」とあるのは命令ということである。

14通のうち8通は1916年に、残り6通は1917年に啓示されたが、当時、イスラエル国内は戦争で混乱しており、6通の書簡はバブの霊廟に保管されていた。従って後の6通が発表されたのは、第1次世界大戦終結後の1919年、4月の年次大会の時であった。この書簡が発表され、その呼びかけに直ちに応えたのはマーサ・ルート女史とハイド・ダン女史であった。

 

301-13  Tablet of Visitation by ‘Abdu’l-Bahá  アブドル・バハの参堂の書 

 アブドル・バハの著されたもので、これはアブドル・バハの廟で唱えられる。同時に、「謙虚な心で、熱意を込めてこの祈りを唱えるものは誰であれ、この僕(アブドル・バハ)の心に喜びと楽しみをもたらす。これはまた、この僕と対座するに等しい」とアブドル・バハが約束されていることから、一般の状況で世界中で多くのバハイが好んで唱える。

 

301-14    A Traveler’s Narrative (book)  旅人の物語  (英語のみ)原文はアブドル・バハの著。

アブドル・バハ著。アブドル・バハは、バブの人生の出来事とバハオラの追放に関することを記したこのイラン語の原文をE. G. ブラウン教授に渡した。教授はこれを英訳し、1891年に出版した。最初はブラウン教授の書いたものと思われていたが、後日、アブドル・バハの書かれたものの翻訳と判った。

 

301-15  Vignettes of ‘Abdu’l-Bahá    アブドル・バハのエピソード集  (英語と日本語)

 アンナマリー・ホノルド著。アブドル・バハに関するエピソードを集めた本。著者は、これまであまり紹介されていないエピソードを集めて紹介している。日本語訳の本はすでに売り切れ、目下再販を準備中。

 

301-16    Will and Testament of ‘Abdu’l-Bahá    (Book) アブドル・バハの遺訓 (英語と日本語)

 アブドル・バハが書かれた遺言。この非常に重要で欠くべからざる書でアブドル・バハは、バブとバハオラの地位を説明し、守護者を指名し、守護者制度の機能を略述し、万国正義院の設立方法を述べ、また、信教を教え広める神聖な義務、政府に対するバハイの態度、不和や分裂からこの信教を保護する方法について説明している。

 

301-17  Writings and Utterances of ‘Abdu’l-Bahá    アブドル・バハの書物と発言集 (英語のみ)

 アブドル・バハの著作、書簡、講演、エピソードなどを網羅し、1364ページに及ぶ。アブドル・バハがアメリカ滞在中にされた講演のほとんどが掲載されている。すでに日本語に訳されているものもあるが、大部分は未訳。

インドのバハイ出版局出版。

 

303       The Báb   バブ

 

303-01   Báb’s Address to the Letters of Living  バブが生ける文字に与えた講話 3801803‐2参照

 モラ・ホセインをはじめとする、バブの最初の18名の弟子は「生ける文字」という称号を与えられているが、その弟子たちがこれから神への奉仕を始めようとする時にバブが与えられた講話。バブは今日という日の意義、バブに従う者の心構え、生ける文字の意義と責任などについて力強い調子で述べておられる。

 

303-02   Bayán  (The Báb)  バヤンの書

  バブの宗教制の「母なる書」。バブによって「彼の法律の書」というタイトルが付けられている。イラン語のバヤンとアラビア語のバヤンの二つがある。イラン語のものはバブがマークの砦に監禁されている時に啓示されたものでワーヒードと呼ばれる19章からなり、3章には来るべき約束された御方バハオラの出現について述べられている。バブの経典中で最も重要なもの。アラビヤ語のバヤンはバブがチェリーグの砦に幽閉されているときに啓示されたもので、ペルシャ語のバヤンに比べページ数は少ない。 

アブドル・バハは、「アグダスの書に於いて確認され、言及されている法律以外は、バヤンの書はアグダスの

書によってとって代えられた。」と説明されている。

 

303-03    Martyrdom of the Báb  バブの殉教 (日本語)802-3

 ザファー・モグベル氏が英文の「夜明けを告げる人々」の一部を日本語訳して出版したもの。バブの幼少時から殉教に至るまでの劇的な生涯に加え、バブに会った唯一の西洋人医師ウイリアム・コーミック博士のバブについての話や、バブが18名の「生ける文字」に宛てたバブの別れの言葉が収められている。

 

305      Bahá’u’lláh バハオラ

 

305-01   Age of Bahá’u’lláh バハオラの時代 (日本語)

 

305-02  Ascension of Bahá’u’lláh  バハオラの昇天 801-1

 

305-03  Bahá’u’lláh バハオラ (英語)305-05

 1992年、バハオラの昇天100年祭を記念してバハイ世界本部から発表された声明書。各国の全国精神行政会がそれぞれ自国語に翻訳し出版している。日本では原本にバハオラの言葉などを加え、「バハオラ−地球のヴィジョン」という題名で出版した。

 

305-04    Bahá’u’lláh and the New Era バハオラと新時代 (英語と日本語)

 ジョン・エッセルモント博士著。博士がアブドル・バハの助言と承認を得て書き上げたバハイ信教の紹介書で、信教の先駆者バブ、創始者バハオラ、聖約の中心アブドル・バハの紹介、バハオラの教え、掟、行政秩序などを網羅している。信教の紹介書として最も広く普及している。

 

305-05    Bahá’u’lláh, His World Vision  バハオラ−地球のヴィジョン (日本語)3053

 1992年に世界本部から出版された原本は英語。日本ではこの邦訳に教えについての解説を加え、「バハオラ−地球のビジョン」というタイトルで出版した。本の発売日には日本の大新聞に宣伝が出された。

         

305-06    Dispensation of Bahá’u’lláh  バハオラの宗教制 (英語のみ)

 

305-07 Epistle to the Son of Wolf  by Bahá’u’lláh (Book)  狼の子への書簡 

 1891年、バハオラがバージにいるとき著された書簡。バハオラはこの書で、バハイを弾圧し、多くのバハイ信徒を死に至らしめたシェイキ・モハメッド・バキアの息子で、父をもしのぐ極悪非道なシェイキ・マハメッド・タキを厳しい口調で弾劾している。バハオラはシェイキ・モハメッド・バキアを狼と呼ばれた。その息子のタキはイスファハンやイェズドでのバハイの大虐殺を扇動した張本人である。

 

305-07    Gleanings from the Writings of Bahá’u’lláh 落穂集 (英語と日本語)

 バハオラの膨大な著作の中から代表的なものをショーギ・エフェンディが選んで集めたもの。バハイの必読書として世界中で広く読まれている。扱っている内容は、神の啓示の時代、人間の魂と永遠の生命、大平和と世界秩序の精神的要素、個々の人間に課せられた義務と生命の精神的意義など。日本語版は、幾つか日本語に訳されたものを落穂集1」と「落穂集2」に分けて収めている。

 

305-08   The Hidden Words  かくされた言葉 (英語と日本語)

 1858年ごろ、バハオラがバグダッドのチグリス川畔を散策されながら啓示された言葉を後になって編纂したもの。「かくされた言葉」について守護者ショーギ・エフェンディは、「素晴らしい宝石のような言葉を集めたもの」と説明しておられる。本書のアラビヤ編は「この書は、栄光の国土より降り、権威と威信の舌によって語られ、また、いにしえの神の使者達に啓示されたところのものである。われはこの真髄を取り、正しき者達への天恩のしるしとして、これを簡潔なる衣服もて包んだ。これぞ正しき者達が、神の聖約に忠誠を守り、彼らが生ける間に、信託を成就し、心霊の国土において、聖なる美徳の宝石を、かち得んがためである。」という言葉で始まる。

 本書には過去の全ての神の啓示が含まれ、その真髄が非常に簡潔な形で表現されている。ショーギ・エフェンディはこの書を「人間の心を再教育し、その魂を啓発し、その行いを矯正するために投げ入れられた強力な酵母である。」と評しており、人類全体の必読書である。

 

305-09    (The) Kitáb-i- Aqdas Bahá’u’lláhアグダスの書 (日本語と英語)

 バハオラの著書中、最も聖なる書で、バハオラの法律が納められている。守護者は1953年から10年計画で本書の翻訳に着手されたが、1957年の逝去で未完に終わった。1986年、万国正義院は「アクダスの書」の翻訳の必要性を認識され、6年計画のゴールにこの翻訳を掲げられた。1992年、英語訳が完成されてから各国の言語に翻訳された。現在の日本語訳は暫定的なもので、やがては立派な訳が出されるであろう。

 

305-10    (The) Kitáb i-Íqán  (Bahá’u’lláh)  確信の書 (英語と日本語)(日本バハイ全国精神行政会)

 バハオラの数多くの書の中で、「アグダスの書」に次いで二番目に重要な経典とされている。宗教がしばしば闘争や不和の原因となっている事実は人間の歴史に於ける大きな悲劇の一つである。論旨の説得力の強さと、抵抗を許さない雄弁さで過去の聖典中の抽象的で不可解な部分を説明し、宗教の一体性、神の啓示の累進性、神の顕示者の同一性を明確にした。それにより、各宗教の全ての信者に完全、かつ永遠の統合をもたらす広大で難攻不落の基盤を設けた。この書を深く研究する人は、その中に「確信」を見出すことができ、「確信」こそは求め得べき最も高価な報酬となるであろう。

 

305-11  Life of Bahá’u’lláh バハオラの生涯 (日本語)(岩倉宣子著)

 現時代のための神の顕示者の受難と栄光の生涯を小冊子にまとめたもの。守護者ショーギ・エフェンディはバハオラを「超絶的な威厳を持ち、荘厳で、近づきがたく栄光ある方」と述べている。バハオラの生涯は読む者に心からの感動をもたらす。

 

305-12    Prayers of Bahá’u’lláh  バハオラの祈り (英語と日本語)(日本バハイ全国精神行政会)

 

305-13  The Proclamation of Bahá’u’lláh  バハオラの宣布 (英語と日本語)(日本全国精神行政会)

1968年、万国正義院はバハオラのレズワンでの宣言百周年を記念して、国王や為政者、聖職者たちに対するバハオラの呼びかけを一冊にまとめ、「バハオラの宣布」として出版された。バハオラはこれらの書簡で、古い秩序は崩壊して新しい文明が興る、人間の義務は全人類の一体性を認めることであり、特に国王はその一体性を推進し、集団保障の原則に従い、軍縮を実施し、和合と正義に基づいた世界政府を樹立させねばならないと述べている。そして、もしこの書簡を受け取った国王がこの神のメッセージを拒絶すれば、権力の座から追われるであろうと警告している。歴史が証明するように、1870年から始まった王朝や君主制の崩壊とバハオラの警告との関係は驚くべきものである。この書は平和が緊急に叫ばれている現時代の人々への警告でもある。

 

305-14    Revelation of Bahá’u’lláh  バハオラの啓示 (英語のみ)出版社Geoge Ronald

 アディブ・タヘレザディ著。4部からなり、1部は1953年から1963年、バハオラのバグダッド時代、2部は1863年から1868年アドリアノープル時代、3部は1868年から1877年アッカ時代、4部は1877年から1892年マズラエとバージ時代にバハオラが著された書簡に関するもの。バハオラの啓示の詳細を述べている。

 

305-15    The Seven Valleys  (Bahá’u’lláh) 七つの谷 (英語と日本語)

バハオラがイスラム教スーフィ派(神秘主義)の判事からの質問に対する答えとして著されたもの。スーフィ派特有の用語や神秘主義文学からの引用が多く、これらになじみのない者には難解と言われている。バハオラは人間の精神的発展を7つの段階(探究の谷、愛の谷、知識の谷、融合の谷、満足の谷、驚嘆の谷、真の貧困と完全な無の谷)として説明されているが、これもスーフィ派にとっては分かり易いと言えよう。この書が扱っているテーマは物質界を超越した魂の世界のことであり、永遠の神秘の果てにあることを言葉で解説することには自ずと限界がある。そこで多くの比喩が使われているので、このような背景を念頭にこの書を読むとよい。

 

305-16    The Story of the Báb and Bahá’u’lláh  バブとバハオラの物語 (日本語)

 ジェナビ・コールドウエル氏が、「夜明けを告げる人々」を平易な英語にしたものを本子コールドウエル氏が邦訳し、「バブとバハオラの物語」という題で出版した。本書では、日本のバハイ信教の歴史と役割、バハイと国連との関係についても紹介している。

 

305-17   The Story of Bahá’u’lláh  バハオラ物語  (英語と日本語)

大業翼成者フルタン氏がバハオラの日常生活の様々なエピソードをこの一冊にまとめた。日本語訳もあり。

 

305-18  Tablet of Ahmad アーマドへの書簡 (日本語と英語)ヤズドのアーマドに送られた書簡

「アーマドへの書簡」という書簡は二つある。一般に知られている有名な書簡は、1865年にバハオラがヤズドの信仰の厚いアーマドに啓示された。素朴で、純粋で、バハオラを誠心誠意信じたアーマドはペルシャ中を旅して回り、当時まだバビ教徒であった人々にバハオラの出現を伝えた。彼はバハオラの聖なる書を肌身離さず持っていて、暇さえあればそれを読んだ。「アーマドへの書簡」中でバハオラは、苦境にある時これを読めば神が悲しみや苦しみから解放してくださると約束されたので、アーマドはいつもこの書簡を吟唱していた。

もう一つの「アーマドへの書簡」はバハオラがカシャンのハジ・ミルザ・モハマッドに対して送られたもの。この書簡でバハオラはバハイ信教に深くなるよう彼に忠告しているが、彼はバハオラから離れていった。この書簡の三分の二はショーギ・エフェンディによって英訳され、落穂集に収められている。

 

305-19   Tablet of Branch  枝に関するバハオラの書簡

 バハオラがアドリアノープルに幽閉されていた時に、イランのクラサンにいたアリ・リダイ・ムスタワイに対して書かれた書簡。アブドル・バハに「最大の枝」の称号を贈るということが書かれている。

 

305-20 Tablet of Carmel  カルメル山の書簡 380-2

  1891年、バハオラはカルメル山に4度目の訪問をされアラビヤ語でこの書簡を啓示された。これはバハオラが著わされた書簡の中でも殊に重要な書簡である。この書簡にはバハイ信教の世界本部がこの山に設立されることが比喩的言葉で示されていると、守護者ショーギ・エフェンディは述べている

 

305-21  The Tablet of the Holy Mariners 聖なる水夫への書簡 380-3 

 1863321日、バグダッド・レズワンの宣言の1ヶ月前にバハオラが著わされた書簡。比喩的な詩の形態で著されている内容は以下のようである。「聖なる航海士」は人々を「永遠の箱船」に乗せて「栄光の海」へと船出し、神より知らされた知識を人々に伝える。人々の中には思い上がって我がままに振る舞うものが現れ、箱船から追放される。やがて、天より天女が舞い降りてきて箱船の人々の誠意を試す。天女は彼らを見て「誠実さの微風も漂ってこない」、「聖なる航海士」は「邪悪な人々に捕らわれ、流刑の地に一人取り残されている。」と嘆き、号泣する。聖なる航海士が経験した苦しみを知らされると天上の他の天女たちも喜びを忘れ、深い悲しみにうちしおれる。

この書簡が著わされた翌日、バハオラはコンスタンチノープルへの移動命令を受けられ、新たな追放と苦難の時代が始まる。

 

305-22 Tablets of Visitation by Baháulláh バハオラの参堂の書380-4

 バハオラの葬儀の時、心から慕う御方との死別を嘆き悲しんだナビルは、アブドル・バハの要請でバハオラの著わされた書からの句を引用して追悼文を読み上げた。この追悼文は「参堂の書」として、現在、バブとバハオラの霊廟で吟唱されたり、あるいはバブとバハオラに関係ある祝祭日に唱えられるものである。

 

308 The Bahá’í World(book)  バハイ年鑑 (英語のみ)

  バハイ世界のいろいろな出来事、ニュース、それに関連した人物などについて紹介した本。 初めの頃は4年に一度の発行であった、1990年代に入ってからは毎年発行されている。

 

310 The Dawn Breakers (book)  夜明けを告げる人々 [本の題名] (英語のみ)

バハイ信教初期の歴史書。ナビル・アザムが自身で目撃したことや信頼できる人から聞いた話しをまとめたもの(イラン語)を守護者ショーギ・エフェンディが英訳し、「夜明けを告げる人々」という題名をつけられた。日本語の「最初の炎」、「バブの殉教」、「バハオラの生涯」、「バブとバハオラ物語」などは「夜明けを告げる人々」の抜粋集のようなものである。大業翼成者ウイリアム・シアーズ著の「太陽は放たれた」は、「夜明けを告げる人々」を平易な英語にしたものである。

 

312  The Divine Art of Living (book)  聖なる生き方  [本の題名] (英語のみ)

 メイベル・H・パイン氏編纂。バハオラの書、アブドル・バハの講演や書物から、またごく少数だが新約聖書から正しい生き方を示す句を選択したもの。

 

313 The Divine Plan Tablets of 聖なる計画の書簡 301-12

 

316       God Passes By (book) 神よぎり給う [本の題名] (英語のみ)

守護者ショーギ・エフェンディ著。バブの宣言から100年目の1944年に発行された。バハイ信教の最初の100年間を書いた歴史書。バブの使命、バハオラの啓示、アブドル・バハの在任時代と信教100年の進展状況が記されている。

 

320       Japan Will Turn Ablaze (book)  燎原の火‐日本

 日本におけるバハイの歴史を記したもので、アレキサンダー嬢の収集していた手紙をもとにバーバラ・シムス女史が編集した。アブドル・バハが日本人バハイに宛てた書簡18通、アブドル・バハがヨーロッパ訪問中(大正初期)に会われた2名の日本人との会見の模様、アメリカ訪問中に日本独立教会で行った講演内容、守護者ショーギ・エフェンディの日本人に宛てた書簡などが収められている。

 

321       Light of Guidance (book)  導きの光 [本の題名] (英語のみ)

ヘレン・バッセト・ホーンビィの編纂。初版は1983年。地方精神行政会やパイオニア、バハイ布教者用に編纂された信教の参考書で、世界中のバハイの機関や個人に広く利用されている。非常に広範にわたる課題を扱っており、これらの課題についてバハオラ、アブドル・バハ、ショーギ・エフェンディ、万国正義院の文書の中から参照となる文献を集めている。稀に「バハイ・ワールド」や万国正義院が出した編纂集、バハイ・ニュース等からの引用もあるが、参照文はすべて万国正義院からその正当性を保障された権威あるものである。

 

330 Rúhíyyir Rabbaní Kánum        ルヒヤ・ラバニ・カヌームの著作

 

330-1 The Guardian of the Baha’I Faith  バハイ信教の守護者

ルヒヤ・カヌーン著。守護者ショーギ・エフェンディの一生を記した「貴重な真珠」の縮小版のようなもの。

 

330-2  Prescription for Living  生き方の処方箋

 バハイの精神的法則の基盤と、西洋の文化や環境で育った人たちのために書いた生き方への助言。

 

330-3 (The) Priceless Pearl(book)  貴重な真珠

 アブドル・バハの孫で、大業の守護者であったショーギ・エフェンディが成人されるまでのエピソード、アブドル・バハとショーギ・エフェンディの関係、アブドル・バハ昇天によるショック、1921年に守護者に任命された彼が託された任務の重大性をどう受け止められたか、彼の指導でバハイ信教がいかに着実に発展したか、などの面から彼の一生を紹介している。

 

323       (The) Promise of World Peace(book)  世界平和の確証 [本の題名] 万国正義院発行

 1985年、国連が提唱した国際平和年に万国正義院が世界中の人々に送った声明文。この声明文で万国正義院はバハオラが描かれた世界平和への青写真を解説されている。この声明は世界の様々な言語に翻訳され、為政者、各界の権威者、一般の人々に広く配布された。国連事務総長にはルヒヤ・カヌーンから贈呈された。

 

324 Promulgation of Universal Peace  世界平和の公布 本の題名 (英語のみ)

 1982年、アブドル・バハのアメリカ訪問70周年記念のとき出版された。彼がアメリカ滞在中(1912年)に各地で行った26回の講演をまとめたもの。この内容はそのまま「アブドル・バハの書物と発言集」にある。

 

326    (The) Seven Valleys and t he Four Valleys  7つの谷と4つの谷 [本の題名] (日本語と英語)305-15

 

350 Shoghi Effendi  ショーギ・エフェンディ

 

350-01 (The) Advent of Divine Justice  神の正義の出現

 1938年、守護者ショーギ・エフェンディがアメリカとカナダのバハイ宛に書かれた手紙を集めたもの。守護者はバハオラの世界秩序建設のため立ち上がるよう彼らを鼓舞し、今が実行の時であること、これを遂行するには正しい行い、正直、清廉、人種的偏見を持たない、などの道徳的規準を身につける必要があることを説いておられる。北アメリカのバハイは7年計画遂行のため立ち上がり、世界平和推進のため、国際パイオニアとして出て行くべきであると、バハオラの言葉を引用して訴えている。

 

350-02 Arohani アロハニ 

 1923年から1957年の34年間に守護者ショーギ・エフェンディがニュージーランドに住むバハイの個人、および行政機関に送られた手紙の紹介書。序文はコリス・フェーザーストーン氏。

 

350-03 (The) Dispensation of Baha’u’lláh バハオラの宗教制

 守護者はこの書で、バブ、バハオラ、アブドル・バハの地位と使命を明確にすると同時に、バハイ行政秩序の根本部分を明確にされている。

 

350-04 God Passes By  神よぎり給う

 バブの宣言(1844年)から100年の1944年までの信教の出来事、バブの使命と殉教、バブの信者たちの英雄的生き方、バハオラの苦悩に満ちた追放と牢獄生活、バハオラの啓示、聖約の中心としてのアブドル・バハ、彼の欧州とアメリカヘの旅行と成果、バハイ世界共同体の出現などが記されている。

 

350-05 (The) Unfoldment of World Civilization  世界文明の展開

 

350-06 (The) World Order of Bahá’u’lláh  バハオラの世界秩序

最初に「アグダスの書」でバハオラが示された地球的構想は、アブドル・バハの遺訓でより明確にされたが、守護者はこの構想を11通の手紙で説明された。これらをまとめ、一冊の本にしたのが「バハオラの世界秩序」である。バハオラの世界秩序の原則は人類の統合(人類は一つ)である。この原則を基礎にして設立される世界国家は、今ある各国の主権を存続させると共に、人種、信条、階級、文化、宗教などを融合させ各人の自由を保障する。各人は各々の違いを認め合い、多様性の中の調和を尊重し、地球人として世界の繁栄進歩のためのよい市民となるべきである。守護者は、このような世界国家の完成はバハイ時代の黄金時代を意味し、それまでの間に人類は様々な大惨事や大災害を経験するであろうと言っている。

 

328                     Tablet of Carmel カルメル山の書簡 305-20380

 

329       Tablet of the Branch  枝に関する書簡 305-19

 

330 Tablets of the Divine Plan  聖なる計画の書簡集 301-12

 

331        Traces that Remain (book)  残された痕跡をたどって [本の題名]

バーバラ・シムス編纂による日本のバハイの歴史書。歴史的な写真が満載されている。

 

332        (A) Traveler’s Narrative (book)  旅人の物語 [本の題名]  301-14

 

360 (TheUniversal House of Justice 万国正義院作成の本及び編集物

 

360-01 The Constitution of the Universal House of Justice  万国正義院憲法

 

360-02 Continental Boards of Counsellors  大陸顧問団

 

360-03 Messages from the Universal House of Justice 1968-1973  万国正義院のメッセージ 19681973

 

360-04 The Promise of World Peace  世界平和の確証 323

 

333 Visitation, Tablets of  参堂の書簡 30113305-22

 

334   Will and Testament of ‘Abdu’l-Bahá  アブドル・バハの遺訓 [アブドル・バハの遺言] 30116

 

380 Tablet of Carmel  カルメルの書簡 バハオラ305-20328380

 

   この日に栄光あれ。慈悲と芳香が全創造物に漂いしこの日に。過去のどの時代もどの世紀もおよびことのできないほど恵まれしこの日に。日の老いたる者の御顔がその聖なる座に向けられしその日に。

 

   まさにそのとき全創造物の声が聞こえ、その彼方からは天上の軍勢の声がおり重なり高らかに呼ぶのが聞こえてきた。「急げ、おおカルメルよ。名称の王国の支配者であり、天界の形成者に存す神のお顔の光は汝の上に掲げられたのである。」

 

喜びに酔いしれたカルメルは声高らかに叫んだ。

 

「あなたはあなたの視線を私に据え、御恵沢を与え、あなたの歩みを私に向け給いました。それ故、この私の命をあなたに捧げることを許し給え。おお、永遠の生命の源よ。あなたからの別離により私は消滅するに至り、あなたの御前からの隔離により私の魂は焼き尽くされました。あなたは私にあなたの呼び声を聞かせ、あなたの足踏みにより私に名誉を与え、あなたの御代から漂い出る生命力を与える芳香と、あなたのペンの甲高い声により私の魂に生気を授け給いました。それ故、私はあなたにすべての賛美を捧げまつる。あなたはまさにそのペンの声をあなたの民の中にとどろく覚醒のラッパと定めたまいました。そしてあなたの抵抗しがたい信仰の啓示の時刻が満ちたとき、あなたはそのペンにあなたの精神の息吹を吹き込み給いました。すると、見よ、全創造物は根底より揺り動かされ、森羅万象の所有者におわす御方の宝庫に秘められた神秘が人類に明かされたのです。」

 

   カルメルの声がこの最も崇高なる地点に達するや否や、我はこう応えた。

 

   「おおカルメルよ、汝の主に感謝を捧げよ。我よりの別離の炎は汝を消滅しつつあった。まさにその時、わが出現の海原は汝の顔前に押し寄せ、汝と全創造物の目を楽しませ、見えるものと見えざるもののすべてを喜びに満たした。この日、神は汝の上にその玉座を確立し、汝を御しるしの黎明の場となし、啓示の証拠の曙となしたのである。それ故、大いに喜ぶがよい。汝の周囲を巡り、汝の栄光の出現を伝え、汝の上に注がれた主なる神の恩恵について語るものは幸いなり。主は慈悲の証として汝の悲しみを喜びに変え、苦悩を転じて至上の喜びとしたのである。それ故、栄光に満ち給う主の御名において不滅の聖杯をにぎりしめ、主に感謝を捧げよ。

 

主はこの地をこよなく愛し給う。

彼の玉座に据えられしこの地を、

彼の足跡に踏ならされしこの地を、

彼の来訪により栄誉を与えられしこの地を、

彼の呼び声の轟きしこの地を、

彼の流した涙に潤いしこの地を。

 

   「おおカルメルよ、シオンに叫び、この喜ばしき吉報を告げよ。人類の目より隠されていた者はいまや出現した。すべてを征する彼の主権は現され、すべてを包む彼の光輝は明示された。ためらうことのないよう、また、留まることのないよう心せよ。急ぎ行き、天より下り来た神の都の周囲を巡行せよ。これこそは神の寵愛を受けた者、心清らかなる者、そして最も高遠なる天使の集合が崇敬の念をもって巡る天来のカーバである。この啓示の吉報を地上のあらゆる所に知らしめ、すべての都市にあまねく伝えることを我は切に祈願する。これこそはシナイの心を魅了した啓示であり,『燃えるやぶ』はこの啓示の名において次のように叫んでいる。『天と地の王国は主の中の主なる神に属す』 まことにこの日こそは地と大海がこの吉報に歓喜する日である。この日に披露するに備え、神は人間の限られた理解力や有限なる心の視界をはるかに越える恵沢をもって多くのものを蓄えてこられたのである。神は間もなく汝の上に神の箱船を浮かべ『名称の書』に記されたバハの人々を現すであろう。」

 

   全人類の主は聖別されし御方なり。その名が述べられるや否や、地上のすべての原子は振動しはじめ、荘厳なる舌は主の知識に包まれ、主の威力の宝庫に隠されたものを明かしたのである。まことに彼こそは御力に満ちたまう全能者に在し、最も高遠なる御方にましまし、その御名の威力により天と地にあるすべてのものを支配し給う。

 

802-4   Báb's Address to the Letters of Living  バブが「生ける文字たち」に宛てた別れの言葉

 

この講話は、1844年バハイ信教の幕開けの年、18人の信者がバブを見出し、バブの指示に基づいて、新しい日の

訪れを準備する神への奉仕を始めようとする時に彼らに与えられた別れの講話である。神に従う者としての心構

え、何をすべきか、今日という日の意義など、現代の私たちに有意義な教えが力強い調子で述べられている。この

講話は、モラ・ホセインやクデュースなどこの時この講話を聞いた者たちと同じように、今日バハイとして生きる

私たちにもはっきりしたババイ生活の基準を示し、私たちの心に献身の炎を燃え起こさせる。

 

おお、わが親愛なる友らよ。汝らはこの時代に生きる神の御名の持参者である。汝らは神の神秘の宝庫と

して選ばれた人々である。汝らは神の属性を身を持って表さなければならない。汝らは神の正義と威力と栄光の証拠を自らの言動を持って示さなければならない。汝らの高志、気高い生き方、真の信仰、そしてそのすばらしい忠誠は汝らの四肢が証言するほどのものでなければならない。まことに我は言う、今日のこの日は神かその書に次のように描写した日である。「その日、彼らの口を封じても、彼らの手は我に語り続け、彼らの足は彼らの成し遂げたことを証言する。」

 

キリストが十二使徒を神の大業の普及に送り出した時の言葉について熟考せよ。使徒たちが奮起し、与え

られた使命を全うするようキリストは次のような言葉を彼らに贈った。

 

「汝らはちょうど、夜の暗闇の中で山頂に灯された松明のようである。汝らの光を人々の前に輝かせよ。人々が汝らを通じて純粋と恩恵の源である天の父を知り、天の父に接近できるよう汝らは最も純粋な人格を持ち、最高の解脱の精神に達していなければならない。何故なら、誰も天の父を拝したことはないからである。汝らは天の父の精神の子らである。従って、汝らの行動は神の徳を表し、神の栄光を証言するものでなければならない。汝らは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられようか。神の大業を教え広めるためにある町に入る時、何の報酬も食事の振る舞いも期待してはならない。汝らの解脱の精神はこれほどまでに高められていなければならない。むしろ、町を出るときは足の埃も払い落として行け。汚れのない純粋な姿で町に入り、同様に汚れのない純粋な姿で町を去れ。我はまことに言う、天の父は常に汝らと共にあって汝らを見守っている。天の父に忠実であれ。そうすれば天の父は地上のすべての財宝を必ず汝らの手中の置き、汝らを地上のすべての王や支配者よりも高く引き上げるであろう。」 

 

おお我が「文字」らよ。まことに我は言う、過去の使徒たちの時代に比べて今日のこの日ははるかに崇高なのである。否、そこには計り知れないほどの差が存在する。汝らは神の約束された日の夜明けを目撃した証人たちである。汝らは彼の啓示の神秘の聖杯の相伴にあずかった人々である。腰をしっかり据え努力せよ。そして、神の書に記された神の言葉を記憶に留めよ。「見よ、主なる汝らの神は来た。また、天使たちの軍勢も神と共に来て、神の御前に配列している。」世俗の欲望を汝らの心から一掃せよ。天使のような徳を持って身を飾れ。

 

神のこの言葉の真実を自分の行動を通じて立証できるよう精進せよ。そして常に用心せよ。もし汝らが「怯むなら、神は汝らと性質の異なる人々を代わりに立て、」彼らは神の王国を汝らから奪い取るであろう。

 

空虚な礼拝でこと足りた時代は終わった。今日のこの日は、非の打ち所のない純粋な行為に裏打ちされた最も高潔な志のみが最も高遠なる御方の玉座に届き、最も高遠なる御方の承認を得ることができるのである。「良き言葉は神のもとに登り、それは良き行為によって神の御前で高められよう。」神の書に記された卑しき者とは汝らを指すのである。「我は地上で卑しめられた人々に我が寵愛を向け、彼らを人々の精神の指導者とし、我が後継者とすることを欲した。」汝らはこの地位に召されたのである。しかし、世俗のあらゆる欲望を踏み越えない限りこの地位に達することはできない。「神が語るまでは沈黙を守り、神の指示に従う尊い僕ら」となるよう努力しなければこの地位に達することはできない。汝等は「最初の点」から生まれでた最初の文字である。汝等は啓示の源泉より湧き出た最初の泉である。世俗の如何なるしがらみも、物事へのいかなる愛着も、そしていかなる儚い追求も汝らを通じて流れる恩寵の清らかさを汚すことのできないよう、またその甘美なる味を苦くすることのないよう主なる神に嘆願せよ。

 

我は、偉大なる時代の到来を目指して汝らを準備しているのである。いま汝らを指導している我が、次の

世において神の慈悲の座の前に立ち、汝らの勝ちえた成果に歓喜し、その偉業の栄誉に浸ることができるよう最善の努力を尽くせ。来るべき時代の秘密は今は隠されている。その秘密を明かすことも、その意義を推し量ることもできない。その時代にうぶ声を上げる赤子は、現在のこの日に生きる最も賢明で最も尊敬される者にも優るのである。その時代に生きる最も卑しく最も無学なものでさえも、今日の最も博学で優秀な神学者に優る知識をもつであろう。

 

国土の東西南北に隈なく分散せよ。そして、確信に満ちた足取りと澄み切った心とをもって「彼」の到来

のために道を準備せよ。自分の弱さと無力なことに心を悩ませてはならない。全能に在す主なる神の決して挫かれない威力に目をしっかりと据えよ。そして過去の時代の出来事を思い起こせ。神はまったく無力に見えたアブラハムをニムロデの軍勢に勝利させたではないか。手に持った杖以外に何の加勢もないモーゼは、神の威力によりファラオとその勢力を破ったではないか。人々はイエスを卑しい貧者と蔑(さげす)んだが、神はイエスをユダヤの民の権勢に優るところにまで引き上げたではないか。神は野蛮で好戦的なアラビヤの部族を預言者モハメッドの神聖にしてすべてを変革させる規律に帰依させたではないか。神の名のもとに立ち上がり、神に全幅の信頼を寄せて最後の勝利を確信せよ。