01
God 神
人間は神を知り、神に近づきたいという望みを持っているが、人間の思考力では神を理解することはできない。創造されたものは創造者を理解することはできないので神は人間が神を知るある方法を示された。つまり、神は時代ごとに神の属性を完全に反映する鏡のような人である神の顕示者を送り、それを通して人間が神について理解できるようにした。これまでに送られてきた神の顕示者にはアブラハム、モーゼ、クリシュナ、仏陀、キリスト、モハメッドなどがいる。人間は彼等の生涯や教えを研究することにより、神が公正で慈愛に満ち、英知ある存在であることを知ることができる。
バハオラとアブドル・バハが神について語った言葉 :
001-1 God, the Creator 創造主としての神
神の存在に関するバハオラの説明 : 「神の単一性に、また、最高の主、比類なく、栄光に満ちた宇宙の統括者である御方に最高の誉れあれ。」 「主は全くの無から万物の本質を創造され、その創造の最も洗練された鋭敏な要素を創りだされた。」 「また主は、その創造物を最終的な消滅の危機から救い、主の王国、不滅の栄光の王国へと迎え入れ給うた。すべてを包み込む主の恩恵や、すべてにみなぎる慈悲の他にこのようなことを成し遂げることはできない。」(落穂集(1))
アブドル・バハは次のように述べる。「創造された被造物が存在するからには、それを創造したものが存在しなければなりません。絵があるからには、それを描いた画家がいるはずです。机や椅子の存在は、大工の存在を示しています。光があるからには光が存在するのです。つまり、すべての物事にはその原因となるもの、または、それを創り出したもとがなければならないのです。」 「これは生存の世界の至るところで言えることである。 最も小さな創造物でさえ創造者の存在を証明する。例えば、この一切れのパンは、それを作った人の存在を証明するのである。」 「神に誉れあれ! 最も小さなものの中で生じた最小の変化でさえ、創造者の存在を証明するのである。それでは、この無限で偉大な宇宙が自らを創造した、あるいは物質や要素の自然作用により宇宙が生じたということがありえようか?そのような仮定は明らかな誤りである。」(質疑応答集 p-3)
001-2 God the Unknowable Essence 知られざる本質である神
001-3
Relationships between God and Human being 人間と神との関係
神は宇宙を創造し、万物を創造した。そして、神は神の存在を知られることを欲し給うた。そこで、 神は神の面影に似せて、宇宙の真理や神を理解できる魂を持った人間を創造された。人間の実体は精神的なもので、その存在の究極の目的はより神に近づくことである。このような人間の実体や神の存在は人間と神の間をつなぐ者(神の顕示者)の存在によってのみ人間に明かされる。人間存在の目的は神を崇拝し、その導きに従うことである。神を知る唯一の方法は、神の顕示者を通して啓示された『神の言葉と掟』の中に示された『神の属性と印(しるし)』にある。(「かくされた言葉3,4,5」 落穂集(1))
001-5 Reality of Man 人間の実体
アブドル・バハによると、「人間の実体は人間の思考(精神)であり、肉体ではない。思考力と動物的存在である肉体は共生する。人間は動物的創造物であるが、思考力を持っているので他の総ての創造物に優っており、常に神の国に関することに憧れ、聖人のようになれるのである。一方、人間がこの世の肉体的、物質的事柄だけを中心に行動するなら、やがては動物とあまり変わりない存在になってしまう。」(The Reality of Man)
001-6 Title of God 神の称号
神はいろいろな名称で呼ばれている。全知者、全能者、知ることのできない本質、創造主、常に許し給う御方、総てを知り給う御方、総てに賢い御方、自存する御方、唯一無二の御方、永遠の絶対者、総てに寛大なるもの、などはバハオラが神を称して使われた名称の一部である。
001-7 Attributes of God 神の属性
神の顕示者は神の意志と特質を人間に知らしめる、通路のような存在。顕示者と人間との違いについて、神は太陽に、顕示者はその太陽を映す完全に磨かれた鏡と云うたとえに表現することができる。即ち、神の顕示者を見ることは神を見ることと同じなのである。
バハオラは神の顕示者について以下のように説明されている。
「唯一真実なる神をその創造物に結びつけるつながりはない。また永遠なる絶対者とはかない従属者の間には何の類似点も存在しない。ゆえに神は各時代に清く汚れのない人物を天と地の王国に顕すことを定め給うた。」(落穂集(1))
神の顕示者は地上に降りた神ではなく、神の属性(特質)を完全な形で写しだす人である。たとえると、鏡は太陽の属性である光線や熱を反射させるが太陽自体ではない。神の顕示者は総て同じ聖霊を持っている。彼らは彼らが現れた場所と時代の状態と必要性に応じ神の啓示を顕わしたので、外見上は互いに異なるように見えるが、総ておなじ神から遣わされた者たちである。従って、彼らは総て一つの魂を持ち、同じであると考えてよい。彼らは総て同じ神殿に住み、同じ天の住人である。彼らの違いといえば、啓示の時代と場所が違うということと、啓示した時期の状況が違うので社会的な教えが違うということである。
神の顕示者としてはアブラハム、仏陀、クリシュナ、ゾロアスター、モーゼ、キリスト、モハメッド、バブ、バハオラなどが挙げられる。
003 Báb バブ [神の顕示者]
003-1 Life of The Báb バブの生涯
本名セイエド・アリ・モハメッド。1819年10月20日、イランのシラズで商人をしていたセイエド・モハメッド・リダの息子として生まれる。バブと言う称号は「門」を意味する。父方、母方共に家系をたどると預言者モハメッドにつながる。バブが9才の時に父親は他界し、その後は母方の叔父の一人に育てられた。バブの母ファテメ・バガムはシラズの商人ミルザ・モハメッド・フセインの娘で、3人の兄弟があった。その一人ハジ・ミルザ・セイエド・アリはバブの後見人となり、バブが1844年5月23日に自分が神の顕示者であると宣言するとその教えを受け入れ、バブの信者となった。彼はその後テヘランの七殉教者の一人として殉教している。バブは幼少の頃より非凡で、学校に行っても校長に、「この子は天才です。私にはこの子に教えるものは何もありません。」と言って返されてしまい、叔父に「他の子供たちと同じようにおとなしくして先生の言うことを一言漏らさず聞きなさい。」と注意された。バブは叔父に言われた通りにしたが、教師はこの子に教えるものはないと確信していた。この校長は小学生の他に神学生も教えていたが、バブは校長も答えられない神学生たちの質問に、コーランなどの言葉を引用して解答するほどであった。バブは知的に優れていただけでなく、その人格の気高さでも人々を感銘させた。バブは常に高潔で穏やか、容姿端麗で他の子供たちと違っていた。幼少の頃より祈り、瞑想することが好きで、大人も舌を巻くほどの達筆でもあった。古典詩を朗誦し、コーランにも詳しかった。14才の時、叔父の手伝いをして商人になり、店の責任を任せられた。彼の商人としての名声は各地に広まった。バブは祈る時、周囲から完全に超脱した。神に魅せられ、涙した。彼の唇から流れ出す美しさと力に満ち溢れた神への賞賛の言葉で、聞くものの心も神への思慕で一杯になり涙が流れ出るほど感動させられた。
バブは1842年8月、ハジ・ミルザ・アリの娘カディジェ・バガムと結婚した。カディジェの2人の弟も後にバブの教えを受け入れた。これら2人の弟とバブの叔父の子孫は、現在アフナンと呼ばれている。バブとカディジェは似合いの夫婦で、結婚後バブには新しい輝きが顕われた。カディジェが難産で死ぬかもしれないという時、バブは即座に鏡に祈りを書き、カディジェの前に捧げた。無事、男子が生まれ、アハマッドと名付けられたがこの子は間もなく死んだ。バブの母は怒り、バブが神の力を持っているのなら何故自分の子を救わなかったかと詰め寄った。するとバブは「神は私が子供を持つよう定められていないのです。」と答えた。
1844年5月23日、バブはムラ・ホセインに自分の使命を宣言した。バブは自身も独立した神の顕示者であるが、約束された御方バハオラの出現が近いことを人々に告げ、バハオラを受け入れるよう準備させた先駆者でもある。宣言から1850年7月9日にタブリーズで殉教するまでの6年間で、30万〜50万人にも膨らんだバビ教徒の内2万人近くがイラン政府の弾圧と迫害によりイランの各地で殉教してしまった。バビ教徒の殆どはバブの殉教後バハオラを受け入れた。バブの遺体は信者たちによって密かにテヘランの寺院に隠されたが、その後、アブドル・バハの指示でイスラエルに移され、現在ハイファのカルメル山の中腹にあるバブの霊廟に安置されている。
003-2 The Station
of The Báb バブの地位
バブは神の顕示者であると同時にバハオラの出現を伝える先駆者でもあった。バブの宗教制の期間は1844年から1863年バハオラの宣言までの19年間である。バブがもたらした新しい暦はバハオラによって承認され、バハイの正式な暦となった。バブはイスラム シーア派が待ち望んでいるエマム、すなわちモハメッドの再来と見なされる。
004 Bahá’u’lláh バハオラ (1817-1892)[神の栄光]
004-1 Life of Bahá’u’lláh バハオラの生涯
バハイ信教の創始者。本名はミルザ・ホセイン・アリ。1817年11月12日イランのテヘランで時の大臣ミルザ・ボゾルグの息子として生まれる。幼少の頃から非凡な才能、溢れる優しさ、抜きん出た精神性の高さをもっていた。彼は戸外に遊び、時間の多くを花園や野外で費やすことを好み、人々を引き付けた。14歳の頃にはすでにその博識は評判になった。22歳の時、父が死去すると政府の因習によって父の官職を継ぐことを命じられたがこれを辞退した。時の総理大臣はこれを評して「彼の意のままに任せよ。そのような官職は彼にとって何の値うちもないのだ。彼はより高い目標を抱いているのだ。余には彼の意は分からないが、ある目標を遂行するために運命付けられている。」と言った。1844年にバブが宣言するとすぐにバブの信教の有力な擁護者となり、バダシドでのバビ教徒の大会を催すなどの活動を指揮し、さらにバブの遺体の獲得と保護などに力を尽くした。
1852年8月、ペルシャ国王暗殺の容疑でテヘランの地下牢に投獄された。この時首からかけられた鎖の重圧でできた傷跡は一生肩に残っていた。牢獄から解放されて2週間後にバハオラはバグダッドに流されたが、4ヶ月におよぶこの牢獄生活でバハオラの体は弱りきっており生命さえ危ぶまれる状態であり、この長旅は寒さと苦痛と困難の連続であった。
バグダッドに着いて1年後、バハオラの腹違いの弟ミルザ・ヤーヤの裏切りと陰謀が増強したため共同体の和合を重んじたバハオラは修行僧となり、一人でソレイマニエの山中に身を引いた。2年後、従者たちのたっての願いでソレイマニエから戻ってきたバハオラはまた、バグダッドで有名になった。バハオラの名声を懸念したイランの権威者はバハオラをもっと遠隔地へ移すようトルコ政府に要請した。その結果、トルコ政府はバハオラをコンスタンチノープルに召喚することとした。出発に先立ち1863年4月21日〜5月2日にバハオラはバグダッドのレズワンの園で自分の使命を宣言し、この時代の神の顕示者であることを公表した。この12日間はレズワンの祝日と呼ばれバハイにとって最大の祝日である。
その後バハオラは、コンスタンチノープルから更に遠くへ流された。アドリアノープルへのこの旅は数日であったが厳しい寒さ、乏しい食物、粗末な衣服などで困難は極に達した。アドリアノープルでの最初の冬は寒さや食料不足などでバハオラの家族や従者の中に大勢の病人がで、何人もが死んでいった。この地に滞在中バハオラは世界各国の国王や為政者達に書簡を書き送り、正義を行うよう呼びかけた。その時の書簡は「バハオラの宣布」という書に納められている。この頃、ミルザ・ヤーヤのバハオラ攻撃がさらに激化したため権威筋は混乱を避けるためミルザ・ヤーヤのグループをキプロス島へ、バハオラの一行をパレスチナのアッカの牢獄に移した。
アッカの牢獄は不潔この上ないものであった。冷たいコンクリートの床に直に寝かされ、食物は粗悪で不十分であったためバハオラの一行84名は言語に絶する苦難を味わい、多くが疫病で病死した。2年余り継続したこの過酷な生活の期間にバハオラの愛する息子ミルザ・ミディが不慮の災難で亡くなった。後に牢獄生活も少しずつ改善され、この牢獄がトルコ兵たちの兵舎として使われるようになってからバハオラは家族と共にアブードの家に移った。この家でバハオラはアグダスの書を著した。その後マズラエの家に移りそこで2年を過してからアッカ郊外のバージに移った。1892年5月29日、バハオラはこのマンションで74才の波乱に満ちた生涯を閉じた。バハオラの遺体はその日のうちに屋敷の一室に埋葬された。この部屋はバハオラの霊廟でバハイにとって最も聖なる場である。
004-2 Station of
Bahá’u’lláh バハオラの地位
神の顕示者。総ての時代の人々が待望していた「約束された御方」、即ち、キリストの再来、佛教で言う第五の仏陀、ゾロアスター教のシャー・バーラム、バハイ信教の創始者。バハオラの宗教制は少なくとも1000年は続く。
004-4 Books and Tablets revealed by Bahá’u’lláh バハオラの本と書簡
バハオラの書は神からの啓示と見なされ、これからの世界の法律の基礎を述べた「アグダスの書」、「かくされた言葉」、「確信の書」、「七つの谷」、「四つの谷」、国王や支配者たちに宛てた書簡、「枝に関する書簡」、「狼の息子への書簡」、「証拠の書簡」、多くの祈りなど、これまでのところ15,000ほどが集められている。これらのうち「アグダスの書」、「確信の書」、「七つの谷」、「かくされた言葉」、「落穂集」の一部、「祈りの書」はすでに日本語に訳されている。落穂集は、ショーギ・エフェンディがバハオラの書の中から選んだものを収容したものである。
005 Abraham アブラハム 神の顕示者
アブラハムとはヘブライ語で多くの人の父を意味する。彼はイスラエル人の祖先であると聖書の創世記に出ている。アブドル・バハは次のように述べている。
アブラハムはメソポタミアに生まれ、神の単一性について知らない家族で育った。彼は国や人民、家族に抗し、彼らが信じていた神々を否定した。誰の助けもなく、ただ一人で有力な部族に対抗した。これらの人々は唯一神を信じず、多数の神々がいると信じていたのでアブラハムに対抗して立ち上がった。アブラハムに援助の手を差し伸べたのは甥のロトの他にあと一人か二人くらいであった。アブラハムは敵の反撃で苦難に陥り、祖国から追い出されたが、動揺することなく確固とした精神を示し、多神教を信じる世代の中で唯一神の信仰を確立させ、聖地はアブラハムに与えられた。アブラハムの教えはいたるところに広まり、子孫にはヤコブやヨセフも現れた。モハメッドもバブもその子孫の一人であり、イスラエルの預言者たちは皆そうである。
06 Buddha 仏陀 または、釈迦 神の顕示者
紀元前500年ころにネパールのルンビニという地の小さな王国の王子として生まれ、その名をゴータマ・シッダールタと呼ばれた。仏陀という称号はサンスクリット語で「悟った者」と言う意味である。本名のゴータマは部族の名で、シッダールタが固有名である。仏陀の教えは「宮廷の快楽生活」と「ヨガ修行者の禁欲生活」との二つの極端な生き方の中道を説いている。この世はすべて過ぎ行くもの、「執着」は苦しみをもたらすと説いている。仏教は仏陀の没後、アショーカ王時代にインドの国教となり、国の平和と繁栄に大きく貢献した。
仏陀は自分の律法時代は500年しか続かないと預言している。この500年は「正法」と呼ばれ、教えが正しく受け継がれる時代である。次の1000年は「像法」時代と呼ばれ、教えが模倣により伝えられ、次第にその精神が失われる時代である。その後は「末法」の時代で、この頃になると教えの精神はなくなり、中身も形もなくなってくると伝えられている。仏教は6世紀頃に日本に伝来したのであるが、鎌倉時代には既に末法時代に入っていたということになる。
バハイ信教では仏陀を神の顕示者の一人と認める。仏陀はやがて弥勒菩薩として現われると信じられている。バハイはバハオラを第五の仏陀の出現と信じる。
アブドル・バハは「質疑応答集」にこう述べている。
「仏陀もまた新しい宗教を確立した。しかし、彼らの制度は完全に破壊されてしまった。信条や儀式はその根本的教えから逸れてしまった。仏教の創始者は神の単一性を確立したがその教えの本来の原則は徐々に姿を消し、無知による習慣や儀式が生まれ、偶像を崇拝するようになった。」
07 Christ, Jesus キリスト(イエス・キリスト) 神の顕示者
キリストはナザレの大工ヨセフとマリアの間に生まれた。大工として育ったが30才になった頃「救世主」としての活動を始める。「キリスト」とはギリシャ語で救世主と言う意味。キリストは堕落した当時のユダヤに現れ、愛と平和の教えを説いた。しかし「自己を神と称して偽り、魔術を行って人々の心を惑わした」という罪で、わずか三年で十字架にかけられて処刑される。キリストの影響はローマ帝国時代に最高に達した。特にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したことでその影響が広範囲に及ぶようになる。ローマ帝国に貧乏人や負傷者の世話をする公共診療所を開設したのはコンスタンティヌス帝で、彼は福音書の教えに従い、堕落していたローマ帝国に中庸と正義を確立した。
008 Muhammad モハメッド (570-632) 神の顕示者
キリスト教に次いで世界で二番目に大きい宗教イスラムの創始者。モハメッドは紀元570年にアラビヤのメッカに生まれた。当時世界で一番野蛮な国といわれていたアラビアでは、一人の男性が何人もの妻を持ち、女性たちは常に男たちの迫害の対象となっており、女の子が生まれることを恥と見做し生き埋めにするほどであった。互いの財産を略奪し、殺し合い、女・子供を捕らえて売買するなど野蛮で残酷の極にあった。このような人々はやがてモハメッドの啓示を受け入れ、啓発され、建設的な活動に勤しむようになった。モハメッドは、神は一つ、アブラハム、モーゼ、キリストは自分と同じように神の預言者であると説いた。また、4人まで妻を持つてもよいがすべての妻を同じように平等に取り扱わねばならぬと教えた。
やがて巨大なイスラム帝国が建設され、最盛期には東はインドネシア、西はスペインに至る帝国が誕生し、強大なイスラム文明が発展した。ヨーロッパ人は教養、科学の多くをイスラムから学んだ。アラブ人は翻訳に優れ、ギリシャ哲学の書物は彼らによってラテン語に翻訳された。その他、建築学、法学、神学、文法、天文学、歴史学、数学、幾何学、医学なども発展させた。
モハメッドはキリスト教徒とユダヤ教徒たちの命と名誉は神のもとにあると明白にのべている。イスラムではモハメッドを「預言者の打ち止め」と呼び、彼以降には預言者は現れないという信仰があるが、コーランは「偉大なる告知」という表現で審判の日に審判者が到来することを予告している。宗派によっては、「キリストの霊の再来」、「イマーム・ホセインの再来」、「ガエーム」などの名称で呼ばれる者の到来を待っている。バハイ信教は、バブとバハオラという二人の顕示者の到来でこれらの予言が実現したと説明している。
08
Moses モーゼ 神の顕示者
ヘブライ人たちがエジプト王の支配下で奴隷として虐げられていた時にヘブライ人の子供として生まれたのがモーゼであった。当時、彼らの間でヘブライ人の救世主が現れると言ううわさが広まり、エジプト王ファラオはその年に生まれた男子を全員殺すように命令した。モーゼの母は我が子が殺されるのを見るに忍びず、彼を籠に入れてナイル川に流した。しかし、その赤ん坊(モーゼ)はエジプト王ファラオの娘に拾い上げられ、奴隷の子供であった彼は宮廷で王子として育てられた。成人したモーゼはある時、ヘブライ人を殺したエジプト人との争いに巻き込まれてそのエジプト人を殺してしまう。そのため宮廷にいられなくなり逃亡し、逃亡先で結婚、羊飼いとして働く。そんなある日、彼は山中で「燃える藪」を介して「神の声」を聞いた。それは、「ヘブライ人たちをエジプトから救い出せ」と言う命令であった。モーゼが神の声に従ってヘブライ人たちをエジプトから約束の地カナンへと導くとき紅海の水が二つに割け、そこを通って向こう岸に渡ったという話しは有名である。神はシナイ山に着いたモーゼに十戒を与えられた。その後モーゼはユダヤ教を確立した。当時無知であったユダヤ人はモーゼの戒律や教えや制度により偉大な民族となり、強力な文明の基礎を作った。彼は次なる救世主キリストの到来を予言し、「万軍の主」なるメシヤの到来を予言した。守護者ショーギ・エフェンディはバハオラこそ彼らに予言されている「万軍の主」であると説明している。
009 Zoroaster ゾロアスター (660BC-583BC) 神の顕示者
ゾロアスター教(拝火教)の創始者。ゾロアスターは紀元前7世紀の中頃に今のイランで生まれた。77才で亡くなるまでその生涯を伝道に捧げたといわれている。20歳で放浪の旅に出て、30歳で神からの啓示を受けた。ゾロアスターが42歳の時、時の国王ウイシュターズがこれに帰依し、拝火教はイランの国教となった。ゾロアスターは、全知、全能の神を教えた。バハイはゾロアスターを神の顕示者の一人とみなす。ゾロアスターはシャー・バーラムという世界の救世主の出現を予言しているが、バハイはバハオラをシャー・バーラムであると認める。
日本でゾロアスター教を拝火教と呼ぶのは、彼らが火を用いて審判を行うことに由来する。
010 Christinaクリシュナ 神の顕示者
ヒンズー教の起源は紀元前150年とも、もっと以前とも言われ、良くは分かっていない。創始者は
クリシュナということになっている。ヒンズー教はその長い歴史の中で他の宗教と同化した部分が多く、最初に説かれた教えとは大分違ってきているようである。
現在、ヒンズー教徒は7億人あると言われている。
020~199 人名
020 Abbúd, Ilyas アブード・イリアス [人名]
アッカのアブードの家の家主。キリスト教徒で裕福な商人。彼の家はバハオラ、およびアブドル・バハの家族が住んでいたウディー・カマールの家に隣接していた。アブドル・バハがムニレ・カヌームと結婚された時、彼らのために部屋を空け、貸してくれた。
その後、カマールの家全体がバハオラの家族に貸与された。カマールは1878年に他界。
021 ‘Abdu’l ‘Azíz アブドル・アジズ [人名]
1861年〜1876年にトルコ帝国を支配統治した国王。独裁的で、ペルシャ国王のナセル・ディン・シ
ャーと共に、残酷な流刑でバハオラを苦しめた。1876年、腹心の部下に裏切られ虐殺された。
022 ‘Abdu’l-Bahá アブドル・バハ 「バハの僕」の意味
022-1 Life of ‘Abdu’l-Bahá アブドル・バハの生涯
1844年5月23日、イランのテヘランでバハオラの嫡子として生まれた。この日はバブの歴史的宣言の日と同じ日である。バハオラが過酷な4ヶ月の牢獄生活で重病に陥り、出獄後まだ十分に体力も回復していない時バグダッドに追放となった。その時アブドル・バハは9歳であったがすでに父の崇高な地位に気づいていた。バグダッドに着いて一年後、アブドル・バハが10歳のとき、バハオラは不和を避けてスレイマニエ山中に2年間身を隠した。バハオラの一家はバグダッドに19年間滞在後コンスタンチノープルへと追放され、その3ケ月後にはアドリアノープルへ追放された。ここでもバハオラは自分の異母兄弟で、聖約の破壊者であるミルザ・ヤーヤの反乱に悩まされ、4年後にはアッカへと追放された。アッカの牢獄生活も筆舌に尽くしがたいものであったがこれらの苦難の日々、アブドル・バハは常にバハオラを助け、またバハイたちの精神的支えとして身を粉にして奉仕された。アブドル・バハは、トルコ皇帝アブドル・ハミドの命のもとにアッカ市の外への移動を禁じられていたが、この状態は1908年まで続いた。彼は人生の40年間を父バハオラと共に牢獄で過したが、1910年頃から拘束も緩やかになり、1913年までの間に英国、フランス、オーストリヤ、アメリカなどの国々を訪問した。この旅行でバハイ信教は広く世界中に広がっていった。アブドル・バハは分かりやすい言葉で難しい問題を語り、その生涯をバハオラの教えの普及と、信者の鼓舞激励に費やした。アブドル・バハは遺訓を残し、ショーギ・エフェンディを後継者と明示することで信者間の混乱を防いだ。アブドル・バハは1921年11月28日、イスラエル・ハイファで没した。彼の葬儀には最後のお別れを惜しむ人が何千人も集まった。彼の遺体は、ハイファのバブの霊廟の隣の部屋に安置されている。
アブドル・バハは1920年、第一次世界大戦の折、飢えに苦しんでいる人たちを飢饉から救った功績で英国政府より男爵の称号を授けている。
022-2 Title of Abdu’l-Bahá アブドル・バハの称号
アブドル・バハは一般的にはアバス エフェンディと呼ばれていた。バハオラに忠誠を尽くし、バハイとして完全な模範を示したアブドル・バハは、「聖約の中心」、「最も偉大な枝」、「神の神秘」、「師」、「バハイ信教の権威ある模範者・解釈者」など多くの称号をバハオラから授けられたが、彼は「バハの僕」と言う意味のアブドル・バハという名を好んで使われた。彼はまた、「貧しき者の父」と呼ばれるほど全ての人に親切であった。
022-3 Books and
Tablets of‘Abdu’l-Bahá アブドル・バハの著作
アブドル・バハはバハオラの教えの具現者であるため自分で書いた本の数は限られるが、祈り、日常の生活の知恵、講話集、質疑応答集、講演内容、旅行記録をまとめたものなどが残されている。内、日本語に訳されているものは、「アブドル・バハのパリ講話集」、「質疑応答集」、「アブドル・バハのエピソード集」、「大樹の泉」、「アブドル・バハの祈り」、「アブドル・バハの遺訓」であるが、他に「世界平和の公布」、「アブドル・バハ選集」、「ロンドンでのアブドル・バハ」、「アメリカでのアブドル・バハ」、「神の計画の書簡」など、訳されていないものがたくさんある。
022-4 Station of ‘Abdu’l-Bahá アブドル・バハの地位
アブドル・バハの地位は、バハオラの教えの解釈者、完全な具現者である。守護者ショーギ・エフェンディは、アブドル・バハは神の顕示者ではないが特別の地位を持つ人で、特別の敬意を払うべき人であると述べている。
023 Abdu’l Hamíd II アブドル・ハミド2世 [人名]
アブドル・アジズの甥で、アブドル・アジズの後を継いで1876〜1909年トルコ帝国を統治した。彼は叔父のアジズと共に、バハオラとアブドル・バハに対し繰り返し流刑、投獄を課しバハオラ一家を苦しめ残酷に扱った。
024 ‘Abdu’l Páshá アブドル・パシャ [人名]
1819〜1831年、アッカ市の総督であった彼は義父スレイマン・パシャの莫大な遺産を引き継いだ。
彼の遺産の中にアッカ郊外の広大な土地と幾つもの邸宅があり、バージのバハオラのマンションや庭園やマズラエの家は彼の物であった。
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025 Afnán アフナン [聖なる家系]
バブの家系、特にバブの母方の叔父たちとバブの妻の兄弟たちの家系。「聖なるローとの木の小枝」の称号をバハオラから与えられている。聖なるロートの木はバブとバハオラのこと。
026 Aghsán アグサン [バハオラの家系]
聖なるロートの木の枝。バハオラの子供たちの家系。聖なるローとの木はバハオラ自身でバハオラ
の直系の男性は枝、女性は葉と呼ばれる。ルヒヤ・カヌーム没後はこの家系の後継者はいない。
027 Agnes B. Alexander, Miss
アグネス・アレキサンダー [大業の翼成者]
通算31年にわたり日本に滞在して日本にバハイ信教を伝えたアメリカ婦人。1875年、ハワイで裕福な家庭に生まれる。祖父はハワイに最初に渡った宣教師で、彼女自身も熱心なキリスト教徒であった。1900年ごろ叔母を尋ねてイタリアに行った時、聖地から帰る途中のアメリカ人と出会い、バハイのことを知った。アグネスはその人が語ったバハイの真実性を直感した。その人はパリに住むメイ・ボレスの住所を教えてくれたので、アグネスはパリに行きメイ・ボレス(後に結婚し、メイ・マックスウエルとなる)と会い、3ヶ月間バハイについて勉強した。そして深く感動し、信教を受け入れた。これについて彼女は、「初めてメイ・ボレス嬢に会った時、彼女から私の人生にとってとても素晴らしい真実を教えて頂き深く感動した。彼女は私の精神的生みの親で、この優しい親は私の人生で常に私の導きの星となっている。」 後にアブドル・バハとの文.通を通してパイオニアとして日本に来る決意を固めた彼女は1914年に初めて日本に到着した。日本での彼女の精力的な活動で多くのバハイが誕生した。彼女はまた、韓国に2度、中国に1度布教旅行をしている。当時の日本人バハイは彼女を通してアブドル・バハから15通の書簡を受け取ったが、彼女はそれらをまとめて出版した。1932年ごろには彼女の努力で「バハオラと新時代」と「かくされた言葉」の日本語訳も出版された。当時の日本は軍国主義に支配されており、世界平和という思想は国策に反すると言う理由でバハイは常に監視されていた。
第二次世界大戦後、間もなく、彼女は再びパイオニアとして来日し、布教活動に努めた。1954年には初代のアジア顧問補佐団に任命され、三年後、1957年の3月に大業の翼成者に任命された。また、同年レズワンに発足した北東アジア・バハイ精神行政会(東京に本部を置く)のメンバーの一人としても選ばれた。この時、既に72歳であったが、1967年に骨折後の療養のためやむなくハワイに帰るまで精力的に布教活動を続けた。1971年(96才)にハワイで亡くなり、オアフ島に埋葬される。
彼女は日本のバハイの母と呼ばれている。
28
Ahmad Big Tawfiq アーマド・ビッグ・タフイグ [人名]
アッカの市長。バハオラに好意を持ち、尊敬した人道的な人であった。ある時、彼は、バハオラのために自分ができることはないかとバハオラに意見を求めた。バハオラは、昔使っていた水道矯を直して市民のために良質な飲み水を得るよう言われた。彼は、早速水道矯修理の大工事に着手し、修復した。現在この水道矯は使われていないが、その一部はアッカの郊外に残っている。
028 Ahmad–i-Ahsá’í Shaykh アーマド・イ・アソイ・シェイキ [人名]
バビ教、及びバハイ信教の始まりの道を開いたシェイキ派の創始者。シェイキ・アハマッドは1743年アラブのアハサという町に生まれた。彼はイスラムの本拠地のナジャフやカルビラでも有名な、権威あるイスラム経典の解釈者で、多くの弟子を持っていた。彼は、モハメッドの再来が近いと説き、高齢をもいとわずイラン中を旅して歩いているときヤズドという町でセイェド・カゼムに会い、彼をシェイキ派の後継者とした。その後メッカとメジナに巡礼。81歳でメジナで没した。
029 Aibara, Susumu 相原進 [人名]
相原は1922年、慶応大学の学生だった時、エスペラントを通してアレキサンダー嬢を知り、バハイに興味を持つようになった。卒業論文にバハイを取り上げ、卒論の最後9ページを信教説明(エスペラント語で)に当てている。彼はショーギ・エフェンディとエッセルモント博士から資料を得た。大学卒業後、彼は国際連盟の東京支部で働き、指導力を発揮したが、数年後突然亡くなった。
030 Akita, Ujaku 秋田雨雀 [人名]
執筆家。氏は生涯バハイにはならなかったが1915年の東京でのバハイ定期集会に出席しており、また、1920年に神戸の喫茶店で催されたバハイの集まりではバハイの12原則について語っている。この会の模様は、当時新聞記者だった三沢三蔵氏(バハイ)が記事にし、写真と共に新聞に掲載した。
032 ‘Alí Pasha, Muhammad Amin アリ パシャ (1815-1871) [人名]
トルコの皇帝。バハオラとその家族をテヘランからバグダッド、バグダッドからコンスタンチノープル、そこからアドリアノープル、そしてアッカへと流刑にした張本人。バハオラは書簡の中でアリ・パシャを強く弾劾している。
034 Amatu’l-Bahá
Rúhíyyih Khánum [称号] アマトル・バッハ・ルヒヤ・カヌーム
アマトル・バハは「バハの侍女」という意味。ルヒヤ・カヌームの旧姓はメアリー・スーザーランド・マックスウエル。カナダで、有名なバハイ、メイ・ボレス・マックスウエルとスーザーランド・マックスウエルとの間に一人娘として生まれる。1937年にバハイ信教の守護者 ショーギ・エフェンディと結婚。守護者の存命中はその書記を務め、文通を通して多くのバハイと親交を持つかたわら、「貴重な真珠」、「処世術」など何冊もの本を著し、守護者が亡くなるとその生涯を語る「守護者の伝記」を書いた。1952年、大業の翼成者に任命され、1957年守護者の没後はその意志を継いで世界中を回り、布教や講演活動に取り組んだ。日本にも2度来日し、各地で講演をした。バハイの国際大会の多くに万国正義院の特別な代理として出席。また、国際布教センターのメンバーとして活躍した。2000年1月19日、聖地のアブドル・バハの家で没。遺体はアブドル・バハの家の向にある庭に埋葬された。葬儀には万国正義院メンバー、国際布教センターのメンバー、各国の大陸顧問、世界各国の全国精神行政会代表者、世界センターで働く人たちなど大勢が参列した。アメリカ大統領らも悔やみの言葉を送っている。
038 Apostles of
Bahá’u’lláh バハオラの高弟 [称号]
ショーギ・エフェンディが、バハオラに献身した人たちの中からその功績によって選んだ19名。
038-1 Mirzá Músá (Kalim) ミルザ・ムサ(カリム) 称号
バハオラの弟。生涯バハオラに忠実であった。 132参照
038-2 Mirzá Buzurg (Badí) ミルザ・ボゾルグ(バディ)
バハオラの書簡をイラン国王に届けた若者 047参照
038-3 Siyyid Hasan
(Sultanu’sh-Shuhada’) セイェッド・ハッサン
038-4 Mullá
Abu’l-Hasan (Amin) ムラ・アブル・ハサン(アミン) ホゴゴラ代理人
038-5 Mirzá
Abu’l-Fadi-I-Gulpaygani ミルザ・アブル・ファディ ホゴゴラ代理人
038-6 Mirzá
‘Ali-Muhammad (Varga) ミルザ・アリ・モハメッド(バルガ)
038-7 Mirzá Mahmud
Furughi ミルザ・モハマッド・フルギ
038-8 Mullá ‘Ali-Akbar
(Hájí Akbar) ムラ・アリ・アクバル
038-9 Mullá Muhammad
(Nabíl-I-Akbar) ムラ・ムハマッド(ナビル・アクバル)
大業の翼成者 140参照
038-10 Hájí Mirzá
Muhammad-Tagi (Vakilu’d-Dawlih) ハジ・ミルザ・モハマッド・タギ
038-11 Mirzá
Muhammad-Tagi (Ibn-I-Abhar) ミルザ・モハメッド・タギ
038-12 Mullá Muhammad
(Nabíl-I-A’zam) ナビル・アザム
「夜明けを告げる人々」の著者 141参照
038-13 Shaykh Kazim
(Samandar) シェイキ・カジム(サマンダール)
038-14 Mirzá Muhammad
Mustafa ミルザ・モハメッド・ムスタファ
038-15 Mirzá Husayn
(Mishkin-Qalam) ミルザ・ホセイン 殉教者の王 097参照
038-16 Mirzá Hasan
(Adib) ミルザ・ハッサン 殉教者の最愛の者 097参照
038-17 Shaykh
Muhammad-‘Ali シェイキ・モハマッド・アリ
038-18 Mullá Zynu’l-‘Adibin
(Zaynu’l-Muqarrabin) ムラ・ジニュル・アドビン
038-19 Mirzá
‘Ali-Muhammad (Ibn-iAsdaq) ミルザ・アリ・モハメッド
039 Arakawa, Minozi
(Viscount) 荒川みのじ子爵
スペイン大使であった子爵は夫人同伴でパリ滞在中に、アブドル・バハがパリ訪問中であることを知った。夫人はアブドル・バハへの面会を切望したが、体調が悪く外出できなかった。事情を知ったアブドル・バハは自ら彼らのホテルに出向き、子爵夫妻に会った。以下はその時の模様を記したものである。
「アブドル・バハは...日本の状態、国際的に重要な立場にある日本、人類への奉仕、戦争廃止の
ための活動、労働者の生活条件改良や男女の教育の均等の必要性について語られた。...アブドル・バハは次のように言われた。『科学的発見は物質的に文明を増進させてきた。驚くべき力が存在しているが、幸いにも未だ人間に発見されていない。精神文明が人間の心を支配する時までは、この力が科学によって発見されないよう敬愛する神に嘆願しよう。低俗な性格を持つ人間の手に入れば、この力は全地球を破壊しかねない。』」 「燎原の火-日本」54ページ参照
040 Ashraf, ‘Agá
Siyyid アシュラフ・アガ・セイエド [人名]
バビ教徒であるという理由で捕らえられ、1870年に殉教した。役人は彼にバビ教徒であることを止めるよう説得したが聞き入れないため母親を連れて来た。母親は彼を説得する代わりに「バビ教徒であることを否定するようなら私の子ではない。」と断言した。バハオラは彼を称え「殉教者の息子」と言う称号を与えた。彼の父親もザンジャンの砦で殉教。
041 Ásiyih Khánum アシエ・カヌーム (ナバブ、最も高貴な葉という称号でも呼ばれる)
バハオラの妃で、アブドル・バハや最も聖なる葉の母親。称号はナバブ。1886年、バハオラより6年前にバージで亡くなったが、その最後のときまでバハオラと共に困難と苦しみに満ちた過酷な流刑と牢獄生活を送り、常に優しい妻であり、母親であった。イランの富裕な貴族の娘で、バハオラと結婚する時は結婚道具や衣装が何台もの荷車で運ばれたほどであったが、バハオラがテヘランの牢獄につながれたときその殆どは暴徒に略奪されてしまった。かろうじて略奪を免れた衣装も、バグダッドへ流されたときに食料調達のために、それについていた純金のボタンを売らなければならなかった。ナバブの遺体は後にカルメル山のモニュメント・ガーデンに移された。
045 Augur, Dr. George Jacob オウガー博士 [人名]
大正初期の1914年、アレキサンダー嬢より3ケ月早く来日した最初のパイオニア。同種療法の医師である彼はハワイに住んでいた時に信教を受け入れた。アブドル・バハから6通の書簡を頂くという恩恵を得た。来日後はアレキサンダー嬢と協力して東京で布教に努め、通算して5年間日本で奉仕した。帰国してからも再び日本に戻ろうとしたが果たせなかった。後にショーギ・エフェンディから、アブドル・バハの高弟の称号を授けられた。
046 Babi バビ教徒
バブの教えを信奉する者のこと。バブの宣言から殉教までの6年間で信者数は30万に増えたといわれる。内2万人は殉教。バハオラの出現後はほとんどのバビ教徒はバハイになった。
047 Badí バディ [称号]
バディはアガ・ブザーグという17才の青年に与えられた称号で、素晴らしい者という意味。バディは、苦労の末バハオラの書簡をイランの皇帝に直接渡すことに成功したが、捕らえられ、焼けたレンガを体に押し付けられるなどの拷問を受けて殉教した。
048 Bahíyyih Khánum - the Greatest Holy Leaf バヒヤ・カヌーム [人名]
アブドル・バハの妹、バハオラの娘。「最も聖なる葉」という称号で呼ばれている。バハオラの宗教制で最高位にある女性。1846年にテヘランに生まれて以来、バグダッド、コンスタンチノープル、アドリアノープル、アッカと流されたバハオラと共に、40年間の苦痛に満ちた投獄生活を送る。アブドル・バハ没後は聖約の破壊者の対処に苦労し、ショーギ・エフェンディを助け、愛と忍耐、快活で公平な判断をもって10年以上にわたり世界のバハイを指導し、励まし続けた。1932年7月15日ハイファで亡くなり、万国正義院の前庭のモニュメント・ガーデンに埋葬された。ショーギ・エフェンディは彼女の献身的奉仕に非常に感謝している。
049 Browne, Edward G. ブラウン博士 [人名]
ケンブリッジ大学の東洋学者でバビ教徒とバハイ信教について研究し本を書いている。1890年にバージのマンションでバハオラに面接を許された唯一の西洋人。彼は、「旅人の話し」というバハイの分厚い本を英語に翻訳している。彼がバハオラに面会した時、彼がバハオラから受けた印象を書いた文章は有名である。
050 Caliph or Khalifih カリフ
イスラム・スンニ派のモハメッドの後継者で、トルコ帝国のサルタン。バハオラはカリフ制の崩壊を予見されたが、それは1924年に現実になった。
051 Chase, Thornton チェイス・ソーントン [人名] アメリカ人で最初のバハイ。
1894年にシカゴで、ケイララを通してバハイになった。仕事の関係でアメリカ各地を旅行して歩いた彼は旅の先々でバハイを広めた。彼の人格からにじみ出る輝きは多くの人を信教に惹きつけた。アブドル・バハは彼に「信仰に確固たる者」と言う称号を与え、「彼は忠実にバハイ信教に奉仕した。彼の奉仕は、今後何百年も忘れられることなく歴史に残るであろう。」とたたえられた。バハイの布教者として有名なマーサ・ルート女史は彼を通じてバハオラを受け入れた。チェイスは1912年、アブドル・バハの訪米を待たずしてカルフォルニアで亡くなった.
052 Collins, Amelia コリンズ・アメリア [
大業の翼成者。1919年に信教を受け入れ、長年アメリカ・カナダ全国精神行政会のメンバーとして奉仕。1951年、神の大業の翼成者に指名され、国際評議員の副議長となる。ハイファの礼拝堂建設用地取得や、現在の国際布教センター建設資金などの財政的援助にも大きな貢献をした。1962年の1月に亡くなった。ショーギ・エフェンディは彼女の偉大な功績を称えて、バージのバハオラの霊廟の入り口の正門をコリンズ門と名づけた。
060 Disciples of ‘Abdu’l-Bahá アブドル・バハの高弟 [称号]
ショーギ・エフェンディによってアブドル・バハの高弟という称号を受けた人たちは総て西洋人(下記)である。
060-1 Dr. John E. Esslemont エッセルモント博士 バハオラと新時代の著者 064参照
060-2 Thornton Chase ソーントン・チェイス アメリカ最初のバハイ 052参照
060-3 Howard MacNutt ハウワード・マックナット
060-4 Sara Farmer サラ・ファーマー グリーンエイカ学校の創設者
060-5 Hippolyte
Dreyfus-Barney ヒッポライト・ドレイファス・バーニィ
060-6 Lillian Kappes リリアン・カップス テルビヤット女学校の校長
060-7 Robert Turner ロバート・ターナー ハースト家の執事
060-8 Dr. Arthur Brauns アーサー・ブラウンズ博士
060-9 W.H, Randall W.H. ランデル
060-9 Lua Getsinger ルア・ゲッシンガー アブドル・バハの最も信頼ある人071参照
060-10 Joseph Hannan ジョセフ・ハナン
060-11 Chester I. Thatcher チェスター・サッチャー
060-12 Charles Greenleaf チャールス・グリーンリーフ
060-13 Mrs. J. D. Brittingham ブッリティンハム夫人
060-14 Mrs. Thornburgh ソオーンバー夫人
060-15 Helen S. Goodall ヘレン・グッドール 富裕なアメリカ人バハイ 072参照
060-16 Arthur, Dodge アーサー・ドッジ
060-17 William H. Hoar ウイリアム・ホーアー
060-18 Dr. J. G. Augur オーガー博士 日本に布教に来た人 045参照
061 Earl, Dr. David 亜留定人 [人名]
第二次大戦後、ジョイ夫人(日本名・喜美子)と共にパイオニヤとして来日。戦後の日本、および韓国でバハイの布教に活躍した人。戦時中、米国の諜報機関の学校で学んだため日本語に強く、「バハオラと新時代」の日本語訳の改訂版作成に貢献した。明治大学講師を務めた後、山口大学で教鞭をとる。その後、韓国のメリーランド大学分校などで教鞭をとり、赴任先の地区での布教に努めた。亜留夫妻を通じて多くの日本人が確固たるバハイになった。大学教授退官後は高齢にも関わらず、パイオニアとしてグアム島に移り、活躍した。
062 Eighteen Letters of Living 18人の生ける文字
バブの教えを最初に受け入れた18人の使徒に対し、バブは「生ける文字」という称号を与えた。 18名の中の一人はバハオラにタヘレという称号を授かった女性であった。彼女は1852年の夏、テヘラン市郊外で殉教した。バブはメッカに出発する前に彼らを集め、有名なバブの別れの言葉を伝えた。18名の生ける文字のほとんどはバブの殉教前後に殉死した。18名の名前は、
062-1 Mullá
Muhammad-‘Alíy-i-Bárfurúshí- Quddús
クデュース
18名の中で指導的立場にあり、バブと一緒にメッカへ行く。1849年タバルシの砦で敵の策略にあって捕らえられ、殉教。
062-2 Mullah
Husayn-I-Bushrui entitled Bábu’l-Báb モラ・ホセイン
バブを最初に受け入れた人。タバルシの砦で敵の銃弾をうけ1849年に殉教。
062-3 Mírzá Muhammad-Hasan-I-Bushrui brother of Mullá Husayn ミルザ・モハメッド・ハッサン モラ・ホセインの弟。1849年、タバルシの戦いで殉教。
062-4 Mírzá
Muhammad-Baqir, nephew of Mulla Husayn
ミルザ・モハメッド・バギール
モラ・ホセインの甥 。1849年、タバルシの戦いで殉教。
062-5 Mirzá
Muhammad-‘Aliyi-Qazvini, brother in law of Táhirih ミルザ・モハメッド・カズビニ
タヘレの義理の弟。1849年、タバルシの戦いで殉教。
062-6 Mullah
Ahmad-i-Ibdal-i-Maraghi’i モラ・アーマッド・イバリ・マラギ
1849年、タバルシの戦いで殉教。
062-7 Mullah
Yusuf-i-Ardibbill モラ・ユセフ・アディビリ
1849年、タバルシの戦いで殉教。
062-8 Mullah
Mahmud-i-Khu’i モラ・モハマッド・クイ
1849年、タバルシの戦いで殉教。
062-9 Mullah
‘Aliy-i-Bastami モラ・アリ・バフタミ
1846年、18名の生ける文字の中で最初にイラクで殉教。
062-10 Siyyid
Husayn-I-Yazdi
セイエッド・ホセイン・ヤズディ
バブの書記としてその啓示を書き残した人。ヤズディはヤズド出身という意味。1852年、殉教。
062-11 Qurratu’-l’Ain
Ayn, Táhirih タヘレ
本名はウム・サラミー。バブよりクアツル・アインという称号を与えられる。1852年の夏、殉教。
062-12 Shaykh
Sa’id-i-Hindi シェイキ・シイド・ヒンディ
インド人。インドで死亡したが、詳細は不明。
062-13 Mullah
Baqir-i-Tabrizi モラ・バキ・タブリジ
バハオラ出現の時まで生き延び、バハオラを受け入れた。タブリジはタブリーズ出身の意味。
062-14 Mirza
Haddiy-i-Qazvini ミルザ・ハディ・カズビニ
タヘレの義弟の兄弟。他の者とは別に、単独で教えを広めていた。
062-15 Mirza Muhammad rawdih-Khan-i-Yazdi ミルザ・モハメッド・ラウディ・カン・ヤズディ 注意深く、単独で教えを広めていった。
062-16 Mulla
Khuda-Bakhsh-i-Quchani モラ・クダ・バカシ・クチャニ
モラ・アリ・ラジという名前で知られる。本人は病死したが、彼の息子マシヤツラは年若くして殉教している。
062-17 Mullah
Hasan-I-Bajastani モラ・ハッサニ・バジスタニ
バブの殉教後、イラクに移り、そこでバハオラに会う。
062-18 Mulla
Jalil-I-Urumi モラ・ジャリリ・ウルミ
1849年、タバルシの戦いで殉教。
063 Eroshenko, Vasily エロシェンコ・ヴァシリー
エスペランティスト。盲目の詩人。1915年から1916年ころに東京に住んでいた。「かくされた言葉のアラビヤ編」をエスペラント語に翻訳。アレキサンダー嬢は彼から英語とエスペラント語の点字を学び、盲人の布教に役立てた。
064 Esselemont,Dr. John Evenezer エッセルモント博士
1874年、スコットランドのアバディーンシェヤで生まれる。1914年にバハイを知り、「バハオラと新時代」の1章から9章を書き、アブドル・バハに承認を得た。1919年〜1920年、ハイファを訪れ、アブドル・バハと会ってこの本を完成させる。1925年に再びハイファを訪れ、ショーギ・エフェンディの仕事を助けたが、その年にハイファで亡くなった。彼の書いた「バハオラと新時代」は信教の紹介書として世界に広く普及している。死後、アブドル・バハの高弟という称号を授かる。
065 Fatimih ファテメ
預言者モハメッドの娘。従兄弟のアリと結婚し、二人の子供をもうける。夫のアリは初代のエマームとなり、長男ハサンが2代目、次男ホセインが3代目のエマームとなる。
066 Featherstone, Collins コリンズ・フェザーストン
1913〜1990年。オーストラリア人。大業の翼成者。夫人が借りてきた信教の歴史書「夜明けを告げる人々」の中の「生ける文字に宛てたバブの別れの言葉」参照を読んで感動し、バハイになった。以来、オーストラリア全国精神行政会のメンバーに選ばれるなど、休むことなく布教活動に全力を注ぎ、1957年、守護者ショーギ・エフェンディより大業の翼成者としての任命を受けた。1990年、ネパールで亡くなるまでに118ケ国を歴訪し、バハイたちに愛情と励ましをもたらした。ショーギ・エフェンディが示された精神軸の構想を現実のものとするため何度となく日本を訪問し、日本各地で信教の普及に尽くした。万国正義院は彼への追悼のメッセージに次のように書かれている。「英雄的な大業の翼成者コリス・フェザーストン氏がアジア大陸旅行中、ネパールのカトマンズで亡くなられたということを深い哀悼の意をこめてお知らせします。彼の、確固として、恐れを知らぬ聖約の擁護者として目を見張らるばかりの業績と努力・・・を称えるに相応しい追悼の会を礼拝堂において開くよう願っています。」
067 Finch, Ida
アイダ・フィンチ
アメリカ・ワシントン州シアトル出身のバハイ。1919年〜1923年の4年間、日本で布教活動に従事。彼女は日本人をとても愛し、また、日本人から愛された。彼女と親交のあったバハイの竹下かな江や小松美加枝(後に結婚し荒川忠子となる)は第二次大戦後もバハイの集まりに顔を見せていた。彼女の日本滞在中、日本でのバハイ活動はとても盛んになった。
068 Fujita Saichiro 藤田佐弌郎
最も有名な日本人バハイ。山口県柳井市出身。1905年、アメリカ・オークランド市の学校に通っていた頃、キャサリン・フランクランド夫人より信教について学び、バハイを受け入れた。その後、アブドル・バハから3通の書簡を受け取り、アブドル・バハがアメリカ訪問中の3ケ月間、彼と一緒にアメリカ中を旅行する恩恵に浴した。藤田氏が残りの人生をアブドル・バハと共に聖地で暮らしたいとアブドル・バハに願い出たときアブドル・バハは、将来、聖地で働くために、応用電気工学と園芸の勉強をするよう彼に助言された。1919年にハイファに移り、電気の配線や、アブドル・バハの車の手入れ、庭園の管理、巡礼者の世話などの仕事をした。第2次世界大戦中は日本に強制送還され、大戦後は日本でのバハイ活動に参加、日光での極東布教大会にも参加した。1955年に守護者ショーギ・エフェンディの招きで再びハイファに戻り、主に庭園の管理などの仕事をし、1976年5月ハイファで亡くなった。気取らず、優しく、誰にでも愛される性格で、みんなに人気があった。東京バハイ・センターに飾られている彼の肖像画はルヒヤ・カヌームから日本のバハイ共同体に贈られたものである。
069 Fukuda Kikutaro 福田菊太郎
日本国内で最初に信教を受け入れた人(1915年、18歳であった)。巻紙に、日本語で書いた手紙をアブドル・バハに送り、返事をもらっている。この書簡はアブドル・バハが日本に住む日本人に送られた最初の書簡である。(福田氏の手紙とアブドル・バハの書簡は「燎原の火―日本」にある。)
070 Furutan, Ali
Akbar フルタン・アリー・アクバー
071 Getsinger, Louisa A. Moore (Lua) ルア・ゲッツィンガー
信教の初期に活躍したアメリカ人。アブドル・バハより「大業の旗」、「聖約の先駆者」という称号を、またショーギ・エフェンディからは「アブドル・バハの高弟」という称号を与えられた。1871年11月1日ニューヨーク州の北部の町で生まれたルアは、1893年にアメリカ・シカゴの世界宗教会議で初めてバハイ信教が発表された時、シカゴの学校に通っていた。ルアが信教を受け入れたのは1897年5月21日で、6日後の5月26日にはゲッツィンガー氏と結婚している。その後間もなく、実家で自分の家族に信教について講義をした。妹や母親もすぐにバハオラを受け入れて熱心な信者になった。
1898年4月、カルフォルニアで布教を始め、元上院議員の未亡人フォーべ・ハースト夫人の家でバハイのクラスを開き、ハースト夫人と執事のロバート・ターナー氏もバハオラを受け入れる。このクラスには、ハースト夫人の姪とその友人グッドール嬢も参加していた。グッドール嬢の母親ヘレン・グッドールは娘から信教について聞き、自分も勉強会に参加し始めた。このクラスの終了間際に、全員そろってパレスチナのアブドル・バハに会いに行くことにした。(この費用はすべてハースト夫人から贈られた。)アメリカからの最初の巡礼団となったこの一行がニューヨーク港を出発したのは1898年9月22日のことであった。パリに住んでいたメイ・ボレス嬢(後のマックスウエル夫人)が信教を受け入れたのはこの一行がパリに立ち寄って、ルアが彼女に会ったときであった。こうして彼女もその巡礼団の一行に加わった。
一行は1898年12月8日に聖地に到着。ルアはそれから1899年3月23日まで聖地に滞在した。
その間、ルアはアブドル・バハの家族に英語を教え、彼女自身もイラン語を勉強した。1902年の秋、イラン国王がパリを訪問した際、ルアはアブドル・バハの指示に従い、フランスのバハイ代表という肩書きで国王に面会を申し出た。フランスのイラン大使館に提出された一回目の請願書は、依然として囚人として扱われているアブドル・バハに対しアッカの町から出る自由を与えるようトルコ国王に提言して欲しいという内容のものであった。二回目は、ヤズドやイスファハンで多発しているバハイへの迫害を止めるよう注意して欲しいというものであった。二回目の請願書を出して間もなく、バハイに対する迫害はおさまり、その後4年間は迫害が見られなかった。
ルアはその後、数回聖地を訪れ、アブドル・バハの家族に英語を教えたり、イラン語を勉強したりしている。ルアは1916年にエジプトのカイロで亡くなったが、彼女を通じてバハオラを受け入れた人々の中には、「欧州の母」といわれたメイ・マックスウエル、大富豪のフォーベ・ハースト夫人、アブドル・バハの高弟となったロバート・ターナー氏やヘレン・グッドール夫人など、バハイ世界の輝く星となった人々が多数いる。
072 Goodall, Helen ヘレン・グッドール
1898年に、ルア・ゲッツィンガーが講師を務めたハースト家の勉強会でバハイを受け入れた娘のエラを通して信教について知り、信教に強く惹かれ、ニューヨークでアントン・ハダットの行う勉強会に参加してバハイを受け入れた。入信すると直ぐに娘と共に聖地巡礼団に加わった。ヘレンが自宅で定期的に開催したバハイの集まりで、集会に集まる人たちのお世話をしていたのが日本人最初のバハイ・山本寛一氏であった。ヘレンはルアの海外布教活動の資金を援助した。アブドル・バハは訪米時に数日をオークランドの彼女の家で過されたが、この時、彼女の家での集会には100名あまりが出席した。当時、オークランド市には多くのバハイがいた。集会後に彼女の家の庭で撮った写真にはアブドル・バハを中心に2人の日本人バハイ・藤田佐弌郎氏と山本寛一氏が写っている。
073 Guardian of the Baha’i
Faith バハイ信教の守護者 ショーギ・エフェンディ。
アブドル・バハの遺訓に「おお、我が愛する者らよ!この被害者(アブドル・バハ)の逝去後は、神聖なるロートの木のアグサン(枝)とアフナン(小枝)、神の大業の翼成者(柱石)及びアブハの美に愛される者は皆、この二本の聖なるロートの木より分岐した若年の枝であり聖木の二本の枝の結合より育成した果実であるショーギ・エフェンディに顔を向けなければならない。真に彼は神の証であり、選ばれた枝であり神の大業の守護者である...」とある。
ショーギ・エフェンディは、1897年3月1日にアブドル・バハの長女とバブの親戚ミルザ・ハディとの間に、アブドル・バハの孫として生まれた。ショーギ・エフェンディはベイルートのアメリカン大学を卒業後、アブドル・バハの秘書として働き、その後オックスフォード大学に進むが、在学中にアブドル・バハが亡くなられた。アブドル・バハは「遺訓」を残し、ご自分の後継者としてショーギ・エフェンディを選んだことを示しておられた。守護者に選ばれた責任の重大さに圧倒された彼は1年間、叔母のバヒヤ・カヌームに仕事を任せ、心の準備のためスイスの山村で過ごした。1937年にルヒヤ・カヌームと結婚。ショーギ・エフェンディは寝る時間も惜しんで守護者の任に当たられ1957年11月4日に旅行先のロンドンで亡くなられた。彼の残した成果は以下の通りである。
1. バハイ行政秩序の確立 (選挙によって選ばれる機関と任命によって選ばれる機関の役割を明確にし、万国正義院の基礎を確立した。)
2. バハイ信教を世界の隅々まで広めた (10年聖戦、バハオラの騎士、精神軸などの布教計画を推し進めた結果、バハイ信教が世界の隅々にまで広がった。)
3. バハオラの啓示された無数の書籍の多くを英語に翻訳 (「かくされた言葉」、「落穂集」、「確
信の書」など)
4.信教解説書の執筆(「バハオラの新世界秩序」、「神よぎり給う」、「世界文明の展開」、「約束さ
れた日の到来」、「夜明けを告げる人々」
5. バブの霊廟の改築工事を、スーザーランド・マックスウエル氏の助けを得て細部にわたり計
画する。
6.バハオラの霊廟があるバージの庭園造り、バージの邸宅内の史料の展示を含め、国際史料館の細部に渡る史料の陳列などの企画、設計、管理のすべて。
7. 者から来た手紙の一つ一つに目を通し、自分自身で返事を書いたり、口述を秘書に代筆さ
せた。これらの手紙の課題はバハイ行政規則の細部にわたっている。
8. アーク建設計画の企画を練り、最終決定をした。
9. 総ての巡礼者に会い、質問に答え、励まし、適切な指示を与えた。
10.バハイの世界でどのような進展があり、誰がどこでどのような働きをしているかなどに常に目を光らせ、励ましたり、賞賛したり、適切な指示を与えたりした。
081 Háji Mírzá Siyyid Ali ハジ・ミルザ・セイェド・アリ
バブの叔父(母親の兄)。バブの父はバブの誕生後まもなく死去したため、セイェド・アリがバブを養育した。彼は、バブの宣言を聞くとこの甥を顕示者として受け入れ、数年後、バビ教徒としてテヘランで捕らえられた。その時、裁判官が、「バビ教徒ではないと言えば無罪釈放する」と言ったが、彼は、「私は子供の時からバブを育ててきた。バブは子供の時から普通の子供とは違い、今まで私が知っている神の預言者と同じ生き方をしている。私が彼を否定することは神を欺くことになる。」と言い、自分がバブの信者であることを否定しなかったため、その場で処刑された。この同じ時、有名なバハイ7名が処刑された。彼らはテヘランの7名の殉教者として歴史に残っている。
82 Háji
Mírzá Muhammad-Taqi ハジ・ミルザ・モハマッド・タギ
バブの従兄弟。アブドル・バハからイシカバードの礼拝堂建設の許可を得て、アブドル・バハの指示に従って世界で最初のバハイの礼拝堂を建設した。この礼拝堂は後に地震で大破し、取り壊された。
83 Háji
Mírzá Siyyid Muhammad ハジ・ミルザ・セイェド・モハメッド
バブの母方の叔父の一人。バハオラを尋ねてバグダッドを訪れ、バブとバハオラの地位について質問した。バハオラは彼の質問の一つ一つに答える形で、2日間かけて書簡を著わし、彼に送られた。これが「確信の書」である。彼はこれを読んでバブとバハオラを信じるようになった。
84 Hájí’
Sulaymán Khan ハジ・スレイマン・カーン
バハオラの命を受けて、バブの遺体をタブリーズから運び出した勇敢な信者。バブをタブリーズの広場で銃殺した役人らはその遺体を近くの城の堀に投げ棄てた。スレイマン・カーンはバハオラの弟ムサたちと共に、堀に放置されていたバブの遺体を密かに運びだした。翌朝、バブの遺体が消えているのに気づいた役人たちは驚いて遺体を捜したが見つからず、結局、山から出てきた熊に食べられたということにした。スレイマン・カーンは1852年にバハオラと一緒に地下牢に投獄され、殉教した。
085 Hands of the Cause of God 神の大業の翼成者 [地位]
アブドル・バハの遺訓の中で確立されている守護者制度で、守護者には大業の翼成者を任命する権限が与えられている。大業の翼成者は守護者の元にあり、次のような任務を持つ。
l 天上の芳香を広める。
l 個々のバハイの魂の教化を助ける。
l 総てのバハイがバハオラの教えを学び、人格を高めるのを助ける。
l 物質的なものや、世俗に囚われない人間になるようバハイたちを援助する。
l 神を怖れる人間であることを行動で示す人間になるようバハイたちを助ける。
l バハイ信教を敵の攻撃から守る。
バハオラによって任命された大業の翼成者:
085-1 Mullá ‘Ali Akbar ムラー・アリ・アクバル
085-2 Hájí Mirzá Muhammad Taqí ハジ・ミルザ・モハメッド・タキ 082参照
085-3 Mírzá Hassan surnamed Adíb ミルザ・ハッサン 称号はアディブ
085-4 Mírzá ‘Ali Muhammad, surnamed Shahíd-ibn-i-Shahíd ミルザ・アリ・モハメッド
アブドル・バハの時代の大業の翼成者(彼らの死後、ショーギ・エフェンディに任命された):
085-5 Dr. J.E.R.Esslemont (1925) J. E. エッセルモント博士 064参照
085-6 Keith ransom-Kehler (1933) ケイス・ランサム・ケラー 161参照
085-7 Martha L. Root (1939) マーサ・L.ルート 102参照
085-8 Abdu-‘l-Jalíl Bey Sa’d (1943) アブル・ジャリル・ベイ・サッド
085-9 Siyyid Mustafá Rúmi (1945) セーイッド・ムスタファ・ルミ 172参照
085-10 Muhammad Taqí Isfáháni (1946) モハメッド・タキ・イスファハニ
085-11 Roy C. Wilhelm (1951) ロイ・C.ウイルヘルム
085-12 Louis G. Gregory (1951) ルイス・G.グレゴリ
085-13 Hyde Dunn
(1952) ハイド・ダン
守護者ショーギ・エフェンディによって任命された神の大業の翼成者 :
1951年12月任命:
― 聖地在住 −
085-14 Sutherland Maxwell スーザーランド・マックスウエル ルヒヤ・カヌームの父親
085-15 Mason Remey メーソン・レミー
085-16 Ameria Collins アメリア・コリンズ コリンズ門は彼女の功績を称えたもの 053参照
085-17 Alíyu’lláh Varqá アリユラー・バルガ ホゴゴラ信託人
085-18 Tarázu’lláh Samandari タラズラー・サマンダリ 16歳でバハオラにお目にかかった
085-19 Alí Akbar Furútan アリ・アクバル・フルタン 何度か日本を訪問している 070参照
085-20 Horace Holley ホーレス・ホーレイ 087参照
085-21 Dorothey Baker ドロシイ・ベーカー
085-22 Leroy Ioas レロイ・アイオア
085-23 George Townshend ジョージ・タウンゼント 元キリスト教の高僧。信教について幾つかの本を著わしている 187参照
085-24 Herman Grossmann ハーマン・グロスマン
085-25 Ugo Giachery ユーゴ・ジアケリィ イタリアの貴族
1952年任命:
― カナダ、アメリカ、欧州に在住 − 総勢19名
085-26 Fred Schopflocher フレッド・スコップフロッチャー
085-27 Corinne True コリン・ツルー
085-28 Dhikru’lláh Kadem ディクルラー・カデム
085-27 Shu’Á’u’llah Ála’í シュアウラー・アライ
085-28 Adelbert Muhlschlegel アデルベルト・ムルシュールゲル
085-29 Músá Banání ムサ・バナニ
085-30 Clara Dunn クララ・ダン
補充任命:
085-31 Rúhíyyih Kánum ルヒヤ・カヌーム 守護者の奥様 037参照
085-32 Jalál Kházeh ジャラル・カーゼ
085-33 Paul E. Haney ポール・ヘニー
085-34 Alí Muhammad Varqá アリー・マハメッド・バーガ ホゴゴラ信託人
085-35 Agnes Alexander アグネス・アレキサンダー 日本のバハイの母 027参照
神の大業の翼成者の数を27名に増員したことにより追加任命:
085-36 Enoch Olinga エノック・オリンガ アフリカでの布教に成果を上げた 143参照
085-37 William Sears ウイリアム・シアーズ 信教の歴史や予言について本を書いた 165参照
085-38 John Roberts ジョン・ロバート
085-39 Hasan Balyuzi ハサン・バリュージ バブとバハオラの生涯について書いた
085-40 John Ferraby ジョン・フェラビィ
085-41 Collins Featherstone コリンズ・フェーザーストーン 066参照
085-42 Rahmatu’lláh Muhájir ラハマトゥル・ムハジャ 頻繁に来日し、日本での信教発展を刺激した
085-43 Abú’l-I-Qásim Fazí アブル・カジム・フェイジー
087 Horace H. Holley
ホーラス ・ ホーレイ
1887年、アメリカのコネチカット州トーリントンで生まれる。1909年マイロン・H.フェルプスを通してアブドル・バハの生き方とその教えについて読み、バハイを受け入れる。1911年アブドル・バハがフランスに滞在中、アブドル・バハと会う。彼の書いた幾つかの著書の中でも「バハイ信教--最新の社会宗教」は有名である。1923年から1959年までの34年間、北米全国精神行政会の書記を務めた。1951年に大業の翼成者に任命される。1959年から、彼の能力を見込んだ守護者の要請でハイファに移り、1960年そこで亡くなる。遺体はハイファのバハイ墓地に埋葬されている。
088 Husayn, Imám The third Imám イマーム・ホセイン 三代目のイマーム
預言者モハメッドの孫、アリと預言者モハメッドの娘ファテメの間に次男として生まれた。紀元670年カルバラで殉教。 090 Imám エマーム(12番目)参照
089 Imagire, Takeshi Robert 今給黎斌 [人名]
第二次世界大戦直後の日本で布教に最も貢献したパイオニアの一人。日系二世。1947年に守護者
に励まされてアメリカ軍人軍属として来日。東京はまだ焼け野原の状態であり、アレキサンダー嬢はハワイにいたが、今給黎氏は彼女と密に交信した。彼女は彼に、第二次世界大戦勃発前に出版した「バハオラと新時代」が増島博士に預けてあるのでとりにいくよう指示した。彼が増島邸を訪問すると、あたりは総て焼け野原であったが、「バハオラと新時代」を保管してあった倉庫だけは戦災を免れていた。今給黎氏は品川公民館で無料の英会話教室を開き、多くの生徒に英語を教えた。月謝は要らないがバハオラの教えを聞いて欲しいと、ファイヤサイドに誘った。こうした活動で品川周辺に信教が急速に広がって、1948年には東京地方精神行政会が設立した。5年後、彼はアメリカに帰ったが、東京では別の地区に新しいバハイが増え、地方精神行政会は次第に活発になった。 彼はその後もアメリカでアジア委員会のメンバーとして活躍。退職後は南太平洋の島でパイオニアとして頑張っている。
90
Imám エマーム(12番目)
イスラムは大きく二つの派に分けられる。一つはエマームで代表されるシーア派で、もう一つはスンニ派である。イスラム世界でシーア派を国教としているのはイランだけである。シーア派を知るにはエマームという概念を知らなくてはならない。モハメッドは紀元632年、自分の後継者を指名しないまま亡くなってしまった。残された信者たちは、合議によって彼の後継者(カリフ)を選出すべきとする者と、神の顕示者の血を引くものが後継者(エマーム)となるべきとする者とに分かれ、二つの意見は対立したまま、結局、スンニ派とシーア派に分裂した。
初代のエマームはモハメッドの一人娘の夫アリで、彼らの2人の子供ハッサンとホセインが2代目、3代目のエマームとなった。初代のエマーム・アリはスンニ派の4代目のカリフでもあったのでアリはシーア派とスンニ派両派の最高責任者になった。アリのエマーム在任期間は神の正義がこの地上に実現された。2代目エマーム・ハッサンは毒殺され、三代目はハッサンの弟、預言者モハメッドのただ一人残された孫であったホセインが引き継いだ。エマーム・ホセインは当時メッカにいたが、要請を受けてバグダッド近くの都市カルバラに着いたとき、スンニ派の軍隊の攻撃を受けてカルバラで殉教した。このときエマーム・ホセインはカルバラで自分を待ち受けている運命を予感していた。そして、天使が援軍に来たとき、その助けを受ければ勝利できたのに彼はそれを断り、人類の罪をあがない救済するために死んでいったといわれている。その後、4代目から11代までのエマームはすべてイラン国外で殉教している。11代エマームが30才前に殉教した時、まだ幼児であった長子マフディーは地下冷蔵室に隠れていて奇跡的に難を逃れた。それ以後、エマーム・マフディーは決して人前に顔を出すことはなく、彼の意思は選ばれた4名の代理人を通して伝えられたが、紀元937年にこれらの代理人の全員が亡くなるとその姿を現し、少数の選ばれた人々に対し、これから長い「お隠れ」に入ると宣言した。そのためシーア派では12番目の正統な後継者「隠されたエマーム」は死んだのではなくお隠れになっていて、時来たればこの世の不正や悪を滅ぼすために再び姿を現すと信じられている。バブは自分を12代目のエマームと宣言した。
また、イスラムの指導者で、モスクで会衆の祈りを先導する僧もエマームと呼ばれている。
091 Inouye, Daiun 井上大雲
英語の達者な仏教の僧侶。1916年、神戸でアレキサンダー嬢に会った。バハイの書物を読み、それは自分の信じていることであると公言した。彼が何時バハイを受け入れたか記録がない。15歳になる令嬢を亡くした後、僧職から身を退き、「バハオラと新時代」他、幾つかのバハイ文献の日本語訳を始めた。「バハオラと新時代」は1933年に出版された。ショーギ・エフェンディは彼の功績に祝辞を述べ、その本を100冊聖地へ送るよう指示された。この本は今でも聖地で見ることができる。
第二次世界大戦でバハイ活動は停止したが、戦後間もなくパイオニアとして来日した今給黎氏は井上氏と会っている。しかし、その後の井上氏の消息は不明。
91
Katirai,Abbás
カテライ・アバス [人名]
1953年3月21日、妻と二人の幼い息子を伴い、アタウラ・モグベル氏一家と共にイランからパイオニアとして来日。東京精神行政会の助言で関西は尼崎に居を構え、前後して来日したモンタージ氏一家などと協力して布教に励んだ。彼らの努力で、間もなく尼崎、神戸、大阪、芦屋市などに地方精神行政会が誕生した。彼は四国、北海道にも度々布教に出かけ、地元のバハイたちに親しまれた。芦屋バハイ霊園の使用権取得や、白老、富川のバハイ・センター取得に大いに貢献した。1958年よりは北東アジア・バハイ全国精神行政会のメンバーとしても活躍。サハリンが外国人に対して門戸を開放すると、妻と一緒に直ちにパイオニアとして移住し、「バハオラの騎士」の称号を得る。そして、翌年、アジア大陸顧問団に任命される。氏は33年間、日本バハイ全国精神行政会のメンバーを務めた。
92 Khadíjih-bagum カディジイ・バグム
神の顕示者バブの妻。1842年にバブと結婚。子供の時からバブの家の近くに住み、バブと幼馴染であった彼女はある夜、モハメッドの娘ファテメが現れ、彼女の手をとって自分の息子のエマム・ホセインと結婚するよう頼むという夢を見た。数日後、バブの母親が来て、夢に見たファテメと同じように彼女の手をとり、自分の息子と結婚するよう頼んだ。結婚後まもなくできた子供は幼児のうちに死んでしまった。バブは自分が神の顕示者であるということをムラ・ホセインに話す前に妻に話した。バハオラが自分はバブの預言した顕示者であると宣言した時、彼女はそれを即座に受け入れた。彼女は1882年に亡くなった。
095 Khammár, ‘Údi ウディ・カマール
アッカの裕福な商人。アッカの彼の家はバハオラ一家の住んでいたアブードの家の隣だった。アッブードの家はバハオラ一家の大家族には狭すぎた。一つの部屋に13人も住んでいた。カマールはアブドル・バハの結婚を知って、自分の家を空けてくれたので、住宅事情が大分改善された。バハオラはこの家でアグダスの書を著した。新婚のアブドル・バハも自分たちの部屋が持てるようになった。
カマールはバージに持っていたマンションを1872年に巨費をかけて改造した。1979年この地域で赤痢が大流行したのでカマール一家は、伝染病を避けて他所に移ってしまった。アブドル・バハは空き家になったバージのマンションをバハオラのために安価で借りることが出来た。カマールは1879年に亡くなった。
096 Kheiralla (also
Khayru’lláh), Ibrváhím George イブラヒム・ケイララ
ケイララは1849年生まれた。彼は最初はシリアのキリスト教正教に属していたが、1892年にエジプトでバハイを受け入れた。1892年にアメリカに渡り事業を始めたが失敗。その後もアメリカに残り、診療所の開設をめざしてバハイの布教を始め、2〜3年でシカゴ近辺のバハイ数は急激に増加した。しかし、彼は布教のとき自分流の解釈を織り交ぜていたためアブドル・バハは認可されなかった。後に、彼は聖約の破壊者となった。
アメリカ最初のバハイ・チェイス・ソートンやルア・ゲッシンガーは彼を通してバハイになった。
097 King of Martyrs and Beloved of Martyrs 殉教者の王と殉教者の愛される者
イランのイスファハンで手広く商売をしていた裕福な二人の兄弟ミルザ・モハッメッド・ハッサンとミルザ・モハメッド・ホセインに対し、彼らの殉教後にバハオラが与えられた称号。二人は熱心なバハイ教徒で、さまざまなチャリティーに私財を惜しみなく差し出し、また、バハオラのご一家が窮乏の中にあったときも多くの財政的支援をした。イスファハンのイマーム・ジューメ(僧侶たちの中で最高位)であったミル・ムハマッド・ホセインの財務管理も任されていた。彼はこの兄弟に多額の借金があり、それを返さずに済む方法はないかと探っていた。そして二人がバビ教徒であることを知ると、イスファハンの知事に二人を捕らえて死刑にするよう要求した。知事もこれに同意した。二人が死刑にされるということを知った国王は、彼らをテヘランに連れてくるよう命じたが、知事らは二人を処刑してしまった。1879年3月17日のことであった。バハオラは二人の死を大変悲しまれ、彼らを称える幾書簡を幾つも著された。アブドル・バハの妻ムニレ・カヌームはこの兄弟の従兄弟で、彼女を護衛してアッカまで彼女を送り届けたのはこの二人であった。
098 Leach, Bernard バーナード・リーチ
イギリスの有名な陶芸家。彼が最初にバハイについて聞かされたのはアレキサンダー嬢からであった。また、彼の親友で襌の大家・鈴木大拙氏夫人もバハイであった。その後何年かして、世界的に有名な画家マーク・トービー氏からさらにバハイの話しを聞き、信教を受け入れた。リーチ氏はバハイが教える東洋と西洋の融合、世界の融合に特に惹きつけられた。彼は何冊かの本を著しており、バハイが日本であまり知られていなかった1953年に、「私の宗教的信条」という小冊子を英語と日本語で自費出版している。これには自分がバハイになった経緯や教えの内容などが紹介されている。 当時、彼は日本でとても有名で、彼の講演会は聴衆で一杯になったほどである。彼は自分の宗教的信条について東京や京都で講演している。
099 Marie,Queen Queen of
Rumania ルーマニアのマリー女王
在位期間1914年から1927年。その後は皇太后となった。英国のヴィクトリア女王の孫。彼女は元首で信教を受け入れた最初の人。マーサ・ルートを通してバハイを受け入れた彼女は聖地訪問を試みたが、諸々の事情で果たせなかった。
100 Marangella,Philip フィリップ・マランジェラ
北東アジア精神行政会の第一期メンバーの一人。1953年、十年聖戦の始まった年にパイオニアとして来日。在日米陸軍の軍属で会計監査官として働き、東京近辺での布教に努めた。北東アジア全国精神行政会が設立されるとその第一期メンバーに選出された。後に関西に移り、毎週開かれるバハイ集会でスピーカーを務めた。雄弁家で人懐っこい彼に、会う人はみんな惹きつけられた。横浜の外人墓地取得にも貢献した。後年は香港に移住。
101 Martha Root
マーサ・ルート
1872年8月10日アメリカ・オハイオ州に生まれる。オベリン大学卒業後、シカゴ大学も卒業。高校の教師から始め、とんとん拍子に出世して校長になる。1909年、アメリカ人最初のバハイであるチェイス・ソートン氏と長時間にわたって話した後、バハイを受け入れる。この時、彼女は新聞記者として働いていたので、「私の信仰」という記事を新聞に載せた。
その後、世界布教旅行の必要性をアブドル・バハに申し出たが、同意は得られなかった。1912年アブドル・バハの訪米の際、マーサはその講演会に何度も出席し、二度、個人的なインタビューをした。ここで再度、世界布教旅行の必要性についてアブドル・バハに説明し、同意を得た。1915年に世界布教旅行に旅立った。この時はヨーロッパ各地、エジプト、インド、ビルマ、日本、ハワイを回っている。このときの日本での活動を示す写真は「残された痕跡をたずねて」などに見ることができる。1920年から1923年は、南米各国、北米各地、日本、中国、インドシナ諸国、香港などを回り、1932年から1936年はヨーロッパ各地を回り、ルーマニアではマリー女王とその家族にバハイを教えた。マーサは第二次世界大戦がはじまる1年前にも日本を訪れている。この間に「タヘレ」という本を書いている。1939年9月、ホノルルで亡くなった。彼女は一生の内で4回も世界を回って布教してきた。日本にも4回訪れている。一回の滞在期間は2週間から2ヶ月に亘っていて、その都度成果を上げている。ショーギ・エフェンディは最高の賛辞で彼女の功績を称え、1942年には大業の翼成者に任命された。
102 Masujima,
Rokuichiro Dr. 増島緑一郎
国際的な法律学者で、中央大学の創設者。バハイに協力的であった。1930年代の三年間、バハイはノウ・ルーズの集まりを増島博士の邸宅で祝ったが、この集まりには多い時は40名余が参加した。昭和4年、増島氏を通して幾つかのバハイ文献が天皇家に寄贈された。第2次世界大戦の直前に、アレキサンダー嬢が増島博士に預けた「バハオラと新時代」と「かくされた言葉」の日本語版は戦災を逃れ、戦後の布教に大いに役に立った。
104 Maxwell, May Bolles or May Maxwell メイ・マックスウエル
ルヒヤ・カヌームの母上。1870年アメリカのニュージャーシー州で生まれる。1898年パリに滞在中、ルア・ゲッチンガーを通してバハイを受け入れた、彼らの聖地巡礼団に加わった。パリに残って布教に努めるようにというアブドル・バハの指示に従ってパリに残り、活動を続けた。ディクソン夫人を通してローマでバハイ信教を受け入れたアレキサンダー嬢がメイに会ったのはこの期間であるが、この会見でアレキサンダー嬢はメイ・マックスウエル女史を精神的母と呼んでいる。
メイの活躍で、パリにはまもなく、ヨーロッパで最初の地方精神行政会が設立された。
1902年、スーザーランド・マックスウエル氏と結婚。彼らの一人娘・メアリーは1937年守護者と結婚している。後に、メイは南米布教という守護者の呼びかけに応えてブエノスアイレスに渡り、そこで病死した。ショーギ・エフェンディは彼女の功績を称えて殉教者の地位を贈った。
105 Maxwell, William
ウイリアム・マックスウエル
北東アジア精神行政会の第一期メンバーの一人。在韓米陸軍の教育部に勤務のかたわら、韓国ソウ
ルで布教に努め、第二次大戦後の韓国でのバハイ活動の要として活躍。1957年、北東アジア全国精神行政会が発足するや、そのメンバーに選ばれ議長に選出される。後、韓国を離れるが1990年代に再び韓国に戻って活動した。
106
McHenry, John III ジョン・マッケンリー
ジョンの父母は1951年から1953年にかけて米空軍立川基地に住んだ。二人とも熱心なバハイで休
日ともなると山梨県甲府へ布教に出かけたり、東京の公民館などでバハイ講演会などを行った。当時ジョンはスタンフォード大学の学生であったが大学卒業後、単身で、パイオニアとして来日し精力的に布教活動に従事した後、韓国に渡り、自動車のセールスをしながら布教に専念。韓国には信教が大々的に広がった。この間、大陸顧問に任命されたこともあり、数年後アメリカに帰国。
107 Mihdi, Mirzá ミルザ・メッディ
バハオラの息子で、アブドル・バハの弟。称号は「純粋な枝」。1848年テヘランで生まれた。バハオラが最初の流刑地バグダッドに旅立たれる時は、メッディはあまりに幼かったためテヘランの親戚に預けられたが、その後呼び寄せられ、以来、バハオラやアブドル・バハと苦難を共にした。成長してバハオラの書記の仕事を務めるが1870年22才のとき、アッカの牢獄の屋上でいつものように祈りを捧げているとき誤って明かりとりの窓から転落し、それがもとで死亡。バハオラは愛する息子の命を救うこともできたが、メッディは自分の命と引き換えにバハイたちの牢獄からの解放を神に嘆願し、バハオラは彼のその願いを受け入れられたのである。彼の遺体はアッカ郊外に埋葬されたが、後にハイファのモニュメント・ガーデンに移された。
108
Mírzá ミルザ
称号。名前の前に付く時は「殿」(Mister)と言う意味で、後ろに付くときは王子という意味。
108-1 Mírzá ‘Agá Ján ミルザ・アガ・ジャン
40年間、バハオラの書記を務めた。
108-2 Mírzá Mihdi ミルザ・メッディ 前述107参照
108–3 Mírzá Muhammad
Ali ミルザ・モハメッド・アリ
バハオラの聖約の破壊者。バハオラの息子でアブドル・バハの母親違いの弟。バハオラに「大きな枝」というアブドル・バハに次ぐ称号を与えられた。しかし、バハオラの昇天後、バハオラの遺訓が発表されると嫉妬に駆られた彼はアブドル・バハを妬んで、その命を狙い、様々な陰謀を企ててアブドル・バハに反抗した。最後には誰にも顧みられることなく一人寂しく死んだ。アブドル・バハは「アブドル・バハの遺訓」の中で、繰り返し、この腹違いの弟の非道極まりない行為を咎めている。
108-4 Mírzá Músá ミルザ・ムサ
バハオラの実弟。バハオラに忠実であっただけでなく、バハオラを支え、尽くした。バハオラの深い信頼を得ており、バブが処刑された時はバハオラの指示で何人かの信者と共にバブの遺体を密かに運び出し、テヘランのイマム・ザディ・ハッサンの社(やしろ)に隠した。アブドル・バハが成人するまでは彼が諸々の事務的な仕事でバハオラの代行を務めた。1887年にアッカにて死亡。ショーギ・エフェンディは彼を「バハオラの19人の高弟」として指名した。
108-5 Mírzá Yahyá ミルザ・ヤーヤ
バハオラの異母弟。バハオラに反抗し、大業に反対した。ババオラ出現までの間のバビ教の責任者としてバブが指名されたセイエド・モハマディ・イスファハニの扇動に乗せられたヤーヤは、自分こそバブの後継者であると宣言し、バハオラに対して数々の陰謀を企て、幾度となくバハオラの殺害を試みた。バハオラはバグダッド滞在中、ミルザ・ヤーヤとのいざこざを避けるためクルデスタンの山中に身を引かれた。アドリアノープルでバハオラがご自分の使命を正式にミルザ・ヤーヤに宣言されると、ヤーヤは自分の主張を譲らず、大騒動を起こした。この騒動が原因でトルコ政府はバハオラをアッカに、ヤーヤをキプロスに追放して。ヤーヤは1912年に流刑先のキプロスで惨めな生涯を閉じた。ショーギ・エフェンディはミルザ・ヤーヤについて、「バブの聖約の破壊者」と強く非難している。
109 Mizuno, Ikuo Dr, 水野育雄博士
1895年―1986年。医学博士。長年、日立製作所付属病院などの院長として活躍。甥の高野博康氏を通してバハイを知り、1954年に信教を受け入れた。バハイ行政秩序を人間の体に例え、図面に示すというような工夫で難しい話しを解かりやすく説明し、バハイ夏期学校などで講師としての定評があった。英語にも強く、日本語の表現力も豊かであったため、奥様の死を偲んで「新しい花園」の翻訳をするほか、二年間で「確信の書」の翻訳を完成した。また、日本バハイ全国精神行政会のメンバーを長年務め、1976年には顧問補佐に任命され91才で亡くなるまでその任にあって、日本の信教発展のため献身的に奉仕した。
110 Mochizuki, Yuri (Furukawa) 望月百合(古川百合子)
日本人最初の女性のバハイ。1900年東京生まれ。15才の時、新聞でアレキサンダー嬢のことを知りバハイの集会に出席。16才でバハイを受け入れ、17才からアレキサンダー嬢と一緒に暮らし始めた。聡明な彼女は文才を活かす新聞社の職に就いた。アレキサンダー嬢は毎朝彼女が新聞社に出かける前に「かくされた言葉」を一つ読み、彼女のために説明をした。こうして、彼女が翻訳した「かくされた言葉」が出版された。1920年代に発行されたバハイ・ニュース「東の光」の編集責任者でもあった。その後、2年間パリに留学したが、そこでメイ・マックスウエル夫人と会う。彼女はアブドル・バハから3通の書簡をもらっている。パリ留学から帰国後もバハイ活動に積極的に参加し、「かくされた言葉」と「バハオラと新時代」の出版に協力する。この頃から日本は軍国主義に走りはじめ、万国的平和を説くバハイの活動は難しくなっていく。百合子は古川氏と結婚し満州へ移り、第二次大戦後は東京でフランス語講師として活躍する。2001年没。
111 Moghbel, Ataullah アタウラ・モグベル
北東アジア精神行政会の第一期メンバーの一人。1953年3月21日、夫人と息子を伴ったモグベル
氏はカテライ一家と共にパイオニアとして東京に着き、早速、その夕べに催されていた品川公民館でのノウ・ルーズの集まりに参加した。当時、日本は戦後の復興がまだ始まったばかりであった。彼らは関西の尼崎に落ち着く。その後イランから何組かのパイオニアが来日し、関西に集中したが、一箇所に集中するのではなく分散するようにという守護者ショーギ・エフェンディの指導でモグベル一家は宝塚市に移る。関西での布教活動は神戸・西宮・宝塚・芦屋・大阪に広がり、モグベル氏は1957年の北東アジア精神行政会のメンバーとして選挙され、以後30年近く日本の全国精神行政会のメンバーを務める。彼は来日してまもなく、夫人と共同でバハイ信教の歴史書「最初の炎」を翻訳出版した。パイオニアとして共に来日した息子ザファル・モグベル氏は現在、顧問補佐を務めている。
121 Momtazi,
Noureddin ヌレディイン・モンタージ
北東アジア精神行政会第一期メンバーの一人。1953年6月にパイオニアとしてイランより来日し関西の尼崎に定住する。尼崎にバハイ・センターを寄贈する他、東京バハイ・センターや八王子のバハイ礼拝堂用地取得に貢献するが、後年、夫人と共にイランに戻る。
122 Momtazi, Ruh’u’llah ルホラ・モンタージ
1955年、父親ヌレデイン・モンタージ氏に続いてパイオニアとして来日。関西で貿易商を営むかたわら信教布教に活躍。1958年には顧問補佐に任命される。1968年大陸顧問の制度が発足すると、アジア大陸顧問団の一人として任命され、1991年までその任にあって精力的に活動する。
123 Muhammad, Hájí Mírzá Siyyid ハジ・ミルザ・セイエド・モハメッド
バブの叔父(母方)の一人。 参照
124 Moody, Dr. Susan I スーザン・ムーディ博士
1900年、イランのテヘランにバハイの男子学校が設立され、続いてバハイの病院が設立された。当時イランには女医は一人もいなかったが、男性の医者は女性の診察ができないイランでは女医が必要であった。アメリカ人のバハイが聖地を訪問するようになったとき、イランのバハイの医師がアメリカから女医を派遣してくれるようアブドル・バハに要請した。アブドル・バハはこの要請に応えて呼びかけをされ、それに応えたのがスーザンであった。彼女はこれについて、「私は最初、音楽と絵画を勉強していましたが、急に医学の勉強がしたくてたまらなくなりました。それで医者になったのですが、今考えてみると、私が医者になったのはこの為だったということが分かりました。」と述べている。
彼女は1909年11月にテヘランの病院に着任。女性患者を診るだけでなく、イランの女性の地位向
上にも貢献した。また、男子校しかなかったバハイの学校に女子校を設けることに努め、アメリカから女性教師を呼び寄せ、また、これらの資金を公に求めるためペルシャ・アメリカ協会という機関の設立に貢献した。ムーディ博士は25年ほどテヘランの病院で働いた後、帰国したが、ショーギ・エフェンディの呼びかけに応えて再びテヘランの病院に戻った。この時すでに77才の高齢であったが、83歳で亡くなるまで医療活動に命を捧げた。ショーギ・エフェンディは彼女の功績を称え、功績に相応しい偲ぶ会を持つよう指示した。アブドル・バハは彼女の功績を称えて、最も高い地位にある女性(Handmaid of the Most High)と言う意味の称号を与えた。
125 Muhammad-Qulí, Mírzá モハメッド・グォリ・ミルザ
バハオラの腹違いの兄弟で、バハオラと行動を共にし、終始、忠実にバハオラに仕えた。
126 Muhammad-Taqí, Hájí Mirzá モハメッド タキ 082参照
127 Muhammad-i-Zarandí,モハメッド・ザランディ 139 参照
129 Mujtahid モジタヘッド
言葉の意味は「努力する人」。シーア派で最高位の僧侶。回教の法律に関する博士で、「隠されたエマーム」の名のもとに法律を制定することができる。
130 Mullá Husayn-i-Bushrú’i ムラ・ホセイン
バブの最初の弟子。イランのクラサン県ブッシュルイで生まれ育つ。18才のときセイェド・カーゼムの弟子になる。カーゼムの死後、彼の遺言に従って約束された人を求めてイラン国中を旅しているとき、1844年5月23日、シラズの町でバブと出会う。この劇的な会見でバブを「約束された御方」と認め、その最初の信者になった彼はバブの親書を携えてテヘランに行き、それをバハオラに渡した。バブがマークの砦に捕らえられている時、彼は一週間をバブと過し、その帰途、バブの指示どおりテヘランでバハオラと会い、マザンダランでクデュースに会う。その後、バビ教徒たちのまとめ役を務め、激しい迫害のもとで怯むことなく布教を続ける。1849年2月2日、タバシルの砦で敵の銃弾に倒れ35歳の人生の幕を閉じた。歴史家ナビルはムラ・ホセインについて、深い知識、確固とした信仰、強固な正義感、ゆるぎない信仰心を持ち、確信に満ちた生活態度で新しい啓示の栄光と力を証明した人であると記述している。
131 Munírih Khánum(Wife of ‘Abdu’l-Bahá)ムニレ・カヌム(アブドル・バハの奥様)066参照
135 Músá, Mírzá
ミルザ・ムサ 108-4 参照
138 Nabíl-i-Akbar ナビル-イ-アクアバー
モハメッド-イ-カイニの称号「学識ある者」の意。バハオラから大業の翼成者の任を授かる。彼はある時バブの信者と言う嫌疑で逮捕された。その時彼は信者ではなかったので、その嫌疑を否定したが、後に、バブとは一体誰なのかという疑問について探求し、信者となる。イスラムで位の高い僧侶であった彼はその後バハオラに会う。最初はバハオラを認めていなかったが、バハオラの説明を聞いてバハイになってからは多くの人にバハイを伝え、そのため三度も投獄された。バハオラの「英知の書簡」はナビルのために書かれたものである。アブドル・バハは彼を大業の翼成者に任命し、ショーギ・エフェンディは彼を「バハオラの19人の高弟」に加えた。
139 Nabíl-I-A’zam ナビル・アザム
モラ・モハメッド・ザランディの称号。信教の歴史書「夜明けを告げる人々」の原作者。この本はショーギ・エフェンディによって英訳されて広く普及した。バビ教徒になった彼は、バブの殉教後バビ教徒たちのリーダーになろうと考えていたが、バグダッドでバハオラに面会してバハオラの地位を認め、それを断念した。彼はバハオラと共にアドリアノープルまで来たが、バハオラより、バブの予言した「神が表わし給う御方」が現れたことをバビ教徒に伝えるようにとの命令を受け、イランに戻り、同志に伝えて回る。その後アッカに戻り、バハオラの昇天の知らせを受けて悲しみのどん底に陥り、アッカの海に身を投じて水死する。ショーギ・エフェンディは彼を「バハオラの高弟」に加えた。
140 Naruse, Jinzo 成瀬仁蔵
1901年日本女子大学を創設し、初代学長となる。後に渋沢栄一氏や姉崎正治博士らと共にコンコーディアという平和運動を興し、1912年にこの運動促進のため世界旅行に旅立つ。途中、ロンドンでその地を訪問中のアブドル・バハと会見した。この時、アブドル・バハは成瀬氏のノートにペルシャ語で日本のための祈りを書かれた。「おお神よ!宗教間、国家間、及び人々の論争、不和、戦争の暗黒は真実の地平線を曇らせ、真理の天をおおい隠した。世界は教導の光を必要としている。それ故、おお神よ、実在の太陽が東西両洋を照らすよう、あなたの恩恵を授け給え。1912年12月30日ロンドンにて。」と書かれたこの祈りは、アブドル・バハが日本のために顕された唯一の祈りで、これが記されている成瀬氏のノートは今も日本女子大の史料保管室に大切に保管されている。日本女子大の二代目学長は麻生正蔵氏、三代目は渋沢栄一氏、四代目は井上秀氏で、アレキサンダー嬢は彼らの全員と交流があった。
141 Násiri’d-Din
Sháh ナシリッド・ディン シャー [在位1848〜1896年]
1848年から48年間、イランを統治した国王。バブの殉教、バハオラのテヘラン地下牢への投獄、バグダッドへの流刑などを命令した張本人。彼はバハイ信教を根絶すると誓った。バハオラは彼のことを「圧制者の王子」と呼んだ。1896年に暗殺された。
142 Olinga,
Enoch オリンガ・エノック [大業の翼成者]
1926年ウガンダの北東部の村に生まれる。成人し、政府のための通訳として働いていたが、大量の飲酒が原因で職を失った。このような時、彼は守護者の呼びかけでアフリカに移ってきたイラン人バハイの催すバハイの集会に参加するようになり、1952年信教を受け入れた。彼はウガンダ人でバハイを受け入れた三番目の人。飲酒を断ち、信教を国中に広めるために力を注いだ彼は、十年聖戦中にカメルーンにパイオニアとして赴き、「バハオラの騎士」の称号を受けた。彼の努力でカメルーンに300名のバハイを生み、3つの地方精神行政会が誕生した。守護者は「勝利の父」という称号を与えて彼の努力を称え、1957年には大業の翼成者に任命された。1979年、カンパラの自宅にいるところを銃を持った盗賊によって無残にも殺害された。
145 Phoebe Hearst フォーべ・ハースト
アメリカの上院議員で、新聞王ハースト氏の夫人。大富豪。ルア・ゲッティンガーを通してバハイを受け入れ、1898年から1899年にアッカを訪問しアブドル・バハと会う。この時アブドル・バハから深い感銘を受けた、アメリカ人最初の巡礼団であった彼女の一行は、その後アメリカでのバハイ布教活動に一層の拍車をかける人材となった。夫人は、それまでアメリカのバハイ活動の中心であったイブラヒム・ケイララがバハイから去った時、アメリカのバハイたちの分裂を防ぎ、団結を保持するのに貢献した。黒人最初のバハイで、「アブドル・バハの高弟」の称号をもつロバート・ターナー氏はハースト家の執事であった。
146 Purest Branch, the 最も清らかな枝 109 参照
147 Qa’im
ガエム090 参照
12番目のイマム、また「ミディ」とも言う。イスラム・シーア派に待ち望まれているモハメッドの再来。シーア派ではガエムが戻ってくることによって世界に正義が行き渡るという信仰がある。バブは自分こそ彼らが待ち焦がれていたガエムであり、偉大なる預言者を迎え入れる「門」であると主張。
159 Quddus クデュース [人名]
ハジ-モハメッド・アリーバルフルシに与えられた称号。18名の生ける文字の一人で、最高位にある。生ける文字の内で最後にバブを見つけた人。バブのメッカ巡礼に同行。バダシトの会議にも出席。タバシルの砦でモラ・ホセインの一団に合流し何ヶ月も敵と戦うが、モラ・ホセインは敵の銃弾に倒れて殉教し、クデュースは敵の計略で捕らえられ、故郷のバルフルシに連行されてさらし者にされた後、斧で打たれて殺される。
163 Ruh’u’llah ルホラ
12才で殉教した若者。ルホラの父親ルホラ・ミルザ・アリ・モハンマドは国王ナシリッド・ディン
シャー暗殺の容疑で捕らえられ、当時12才のルホラの目の前で虐殺された。そのすぐ後で役人はルホラにバハイを否定するよう迫ったが彼はそれを受け入れなかったのでその場で処刑された。
165 Seven Martyrs of
Tehran テヘランの7人の殉教者
1850年、テヘランで著名な7名のバビ教徒が、イラン国王の暗殺を企てているとの罪状で死刑にな
った。この時、彼らの生命救助を求める嘆願書が多数送られて来たが、取り調べの役人はバビ教徒であるということを否定しさえすれば放免するとした。誰も自分たちの信仰を撤回するようなことはなかったので全員テヘランの広場で処刑された。彼らの遺体は3日間その広場に放置されていた。
7名の殉教者は以下に挙げた人たちである。
165-1 Hájí Mírzá Siyyid ‘Alí ハジ・ミルザ・セイェド・アリ 081参照
165-2 Mírzá Qurbn-‘Alí ミルザ・カバン・アリ
マザンダラン州出身。地元の人々にニマトゥラーと言う名で親しまれている。誠実さ、気高さなどの徳が
高く、彼がカルビラに巡礼に出たときなど一目でも彼を見ようと、道すがらに多くの人が押し寄せた。人々
は拍手喝采で彼を受け入れたが彼は華麗さを恥とみなしており、大げさな歓迎を嫌った。カルビラからの
帰り道で彼はモラ・フセインに出会い、バビ教徒となる。彼は病気のため タバルシの砦での戦いに参加で
きなかったことをとても残念がったが、テヘランで殉教したことでその無念を果たしたと言えよう。
165-3 Hájí Mullá Ismáíl-i-Qumí ムラ・イスマイル・クミ
ファラハン出身。若くしてカルビラに移り、熱心に真理の探究に努めた。 彼はカルビラとナジャフで名の通ったすべてのウラマ(モスラムの聖職者)と交際し、セイェド・カーゼムの元に落ち着いた。カーゼムから習得した知識と理解によって数年後に彼はバブの啓示を認めることができた。熱心なバビ教徒となった彼はバダシトで信教を守っていた仲間たちの中に入り、シラル・バジャッド[Sirru'l-Vujud]という称号を授けられる。この間、彼の献身は一層燃え立ったが、多くのバビ教徒がタバルシの砦に結集しているとき病床にあったためいたたまれない気持ちで過ごした。ようやく体力を取り戻した時にはすでに、砦での戦いは多くの殉教者をもって終わっていた。これを知った彼は、信教を守るため一人で勇敢に布教に乗り出し、やがて捕えられ、望みどおり殉教した。
165-4 Siyyid Husayn-I-Turshízí セイェド・ホセイン・ツルシズ
クラサンのツルシズ村出身。モジタヘッド(シーア派の聖職者で最高位)であった。清廉、敬虔な行いで人々に大いに尊敬されていた。 ナジャフで何年か勉強した彼は、自分の教えられた原則を広めるため同僚のモジタヘッドたちに委託され、クラサンに向かった。カジミーン[Kazimayn]に着いたとき、ペルシャへ行く途中のハジ・ムハマッド・タキ・キルマニ[Haji Muhammad-Taqiy-i-Kirmani]に出会い、彼に同行することにした。こうしてタキを通してバビ教徒となったフセイ二は、バブの正当性を声高らかに唱え、殉教していった。
165-5 Siyyid Murtadá セイェド・ムルタダ
ザンジャンで名の通った商人であった彼は,ハジ・ムハマッド・タキ・キルマニが殺されるとき、セイェドの名に恥じないためにも自分を先に殺してくれとハジの体の上に被さるように身を投げ出した。彼はモラ・フセインと共に戦って殉教した自分の兄弟のようでありたいと願ったのである。
165-6 Hájí Muhammad-Taqíy-I-Kirmání モハメッド・タキー・カーマニ
商人として成功していた彼はハジ・ミルザ・セイェド・アリと親交があり、彼を通してバビ教徒となる。
165-7 Muhmmad-Husayn-i-Marághi’í モハメッド・ホセイン・マラギィ
彼はセイェド・マータダが殺されると直ぐに、自分を殉教させてくれと走り出て身を投げ出した。こうして、彼は自分が深く尊敬していたハジ・ムラ イスマイリ・グミの後を追ったのである。
167 Shaykh シェイキ
お年寄り、あるいは先生の敬意をこめた呼称。
168 Shaykhi シェイキ派 029 参照
.シェイキ・アハマッド・アソイの始めたイスラムの一宗派。バブ、バハオラの到来を予言していた。アソイの後継者はセイエッド・カーゼムで、ムラ・ホセインは彼の弟子であった。
170 Shibusawa,
Eiichi 渋沢栄一(子爵)
明治初期の有名な実業家で第一銀行の創設者。渋沢氏はサンフランシスコの商工会議所所長で、アレキサンダー嬢の従兄弟ウォラス・アレキサンダー氏と親友であった。アレキサンダー嬢は韓国(旧朝鮮)訪問に先立って、渋沢氏の招待を受けた。彼を訪問したときアレキサンダー嬢は、バハイについて、また、彼女の韓国訪問の目的について話した。渋沢氏は彼女に三通の紹介状を書いた。うち一通は第一銀行釜山支店長に宛てた物だったが、彼女は釜山に行けなかったのでその手紙は彼女の手元に残った。渋沢氏のその手紙には彼自身がバハイ信教に興味を持っていると記されている。
171 Sims, Barbara R.
バーバラ・シムス [人名]
1953年にパイオニアとして来日。1957年、第一回北東アジア精神行政会メンバーに選出されて以来33年間、全国精神行政会のメンバーとして、特に長い間、行政会書記として活躍。著書には、アブドル・バハ、ショーギ・エフェンディ、初期の頃の万国正義院から日本人に送られた書簡を集めた「燎原の火―日本」、初期の日本人バハイ、および大正・昭和初期の日本へのパイオニアや第二次世界大戦直後の日本のバハイ活動をつづった写真入の「残された痕跡をたどって」、韓国や台湾やマカオのバハイの歴史を書いた本などがあり、多くのバハイに読まれている。
172 Siyyid
Kazim-i-Rashti セイェド・カーゼム・ラシティ
バブの出現を人々に知らせた人。幼少の頃から神童、天才といわれていた。22才のとき、当時最も有名であったシェイキ・アハマード・アソイの弟子になろうとカルバラに向かった。シェイキは彼を自分の後継者とした。カーゼムは死に際し、神の約束された顕示者の到来が近いので、イラン国中を探し回るよう弟子達に指示した。タヘレはカーゼムとの文通を通して待望されている神の顕示者の到来が近いことを知った。バブの最初の信者ムラ・ホセインはカーゼムの一番弟子であった。カーゼムはバブの出現前の1843年、60歳で亡くなった。バブはカルバラ訪問の時カーゼムに会っている。
173 Siyyid Mustafay-i Rumi セイェド・ムスタファ・ルミ
1846年バグダッドの高貴な家庭に生まれる。商売のためインドのマドラスに滞在していた時、バハオラの命を受けてインドで布教していたジャマル・エフェンディの集会に参加しバハイを受け入れる。その後ジャマルに伴ってビルマに渡り、以来一生をビルマでの布教に捧げる。アブドル・バハの時代には、師の支持を得て、バブの遺体を収める大理石の棺をビルマで作って聖地に送った。バブの遺体はビルマのバハイから贈られたこの棺に収められている。
ムスタファ・ルミは最初ビルマ第二の都市マンダレーで布教したが、後にラングーン(ヤンゴン)に近い村に移った。間もなく、その村の大部分の人々がバハイとなり、アブドル・バハは彼らの要請を認め、村の名を「アブドル・バハ村」と呼ぶことを許された。ルミは99歳でその村で亡くなった。彼の墓はこの村の大集会所の前にある。現在ラングーン近辺に30余の地方精神行政会があるが、その殆どはアブドル・バハ村の出身者によって開かれた。1945年、彼の死後、守護者は彼を神の大業の翼成者に任命。
175 Suzuki, Beatrice Erskine Lane ビアトリス・アースキン・レーン・鈴木
鈴木大拙襌師の夫人。大拙氏は1900年代前半、研究と講演のためアメリカを訪れ、そこで既にバハイであった彼女に会った。ベアトリスは1911年に横浜で鈴木大拙と結婚。アグネス・アレキサンダー嬢との交信もあった。大拙は親友の陶芸家・リーチ氏に自分の妻はバハイであると語っていた。
177 Suzuki,Hideya 鈴木秀彌
日本人で初の大陸顧問。鈴木聰雄氏の実兄。1969年、日本人バハイ初の国内パイオニアとしてルース夫人と共に北海道北広島市へ移住し北海道での布教に努め、また1972年札幌で催された国際布教大会を成功させるため大きな貢献をした。1976年に大陸顧問に任命される。ルヒヤ・カヌムは北海道訪問の時、彼の家に宿泊された。ルース夫人はバーチュウ・プロジェクトを日本で推進するなどの活動で知られている。
178
Takano, Hiroyasu 高野博康
日本国内に住む日本人バハイでただ一人、守護者に面談した経験を持つ人。アメリカで研修中にバハイを受け入れ、1953年、1年間の遊学を終えて帰国の途中、聖地ハイファに立ち寄り、守護者に会った。1957年、北東アジア精神行政会設立初年から五年間そのメンバーを務める。その後、体調不良でしばらく活動の中心から離れていたが1980年代に復帰。全国精神行政会で議長を十年務める。雄弁で、「一日一句 心を満たす言葉」などを編集し、コンピューターを使いこなし、印刷するなど多彩な能力で信教に奉仕。全国事務局のコンピューター・システム化は彼の努力で完成されたものである。
179 Takeshita, Kanae 竹下かな江
初期バハイの一人。1919年頃、アイダ・フィンチを通してバハイになった。1923年マーサ・ルートの二度目の来日の際には、彼女の家でバハイの集まりが開かれた。1923年9月の関東大震災の後、アレキサンダー嬢と共にバハイ子供クラスを始めた。1929年のエスペランティストの会合にもアレキサンダー嬢と一緒に出席している。
180 Tahirih タヘレ
「18人の生ける文字」のうちただ一人の女性。「タヘレ」はバハオラから授かった称号で「純粋なもの」という意味。バブからはクアツル・アイン(「目を慰めてくれるもの」という意味)、あるいはザリン・タジ(「金の王冠」の意)という称号を授かった。本名はファテメ・ウミ・サラミ。1819年イラン・カズヴィンの高僧の娘として生まれる。優れた詩人で、その博学、美貌でも有名であった。ある時、妹の夫の書斎でセイェド・カーゼムの本を見つけた。カーゼムとの文通を通して新しい神の顕示者の到来が近いことを知り、イラクのカルビラへ行く。バブが宣言すると直ちに彼を認め、18名の「生ける文字」の一人になる。バブの教えを広め、特に男女の同権を訴える。1852年にバビ教徒という理由でテヘランで捕らえられ、数ヶ月拘留された後、殉教する。彼女の希望で、彼女自身の白い絹のハンカチで首を絞めるという方法で殺された。
181 Tokutomi, Roka 徳富蘆花
1868年熊本県水俣市に生まれる。本名健次郎。兄に猪一郎(蘇峰)を持つ。英語の教師として働いていたが、後に、兄・蘇峰の創立した国民新聞社に入社、翻訳と評論に従事する。22才のときトルストイの本を翻訳して国民新聞に連載。1900年、彼の書いた「不如帰」がベスト・セラーになった。1905年、37歳の時、トルストイを訪ねてロシアへ旅した。この時トルストイから、パレスチナ在住のアブドル・バハからの手紙を見せられ、バハイ信教について知る。1919年1月、51歳の時、夫人を伴って世界一周の旅にで、途中エルサレムで世界平和会議に出席。この会議で彼は世界共通の新紀元を提案した。会議の後、ハイファでアブドル・バハと会見した。この時、後の守護者、ショーギ・エフェンディにも会った。帰国後、旅行記「日本から日本へ」を出版。この書には、アブドル・バハとの会見の模様や、当時19才であったショーギ・エフェンディとの会話が紹介されている。
182 Tolstoy トルストイ
20世紀初頭に活躍したロシアの著名な小説家。1905年、自分を訪ねてきた蘆花にバハオラについて話し、アブドル・バハから手紙をもらった喜びを語っている。蘆花の記述によると、アブドル・バハは、トルストイがバハイに惹かれていて、バハイについての本を書こうとしたが果せなかったと語っている。トルストイはバハオラの啓示に関心を持ち、教えを研究し、多くの人に伝えている。彼は、「われわれは一生かかって人生のなぞを解明しようとしているが、ペルシャの預言者(バハオラ)はその鍵をにぎっている。」と述べている。
183 Torii,
Tokujiro 鳥居篤次郎
1894〜1970年。日本国内で信教を受け入れた二人目の日本人。彼は盲人学校の生徒だった1915年、初めてアレキサンダー嬢に会い、卒業後、結婚して教鞭をとった静岡県江尻の盲人学校に彼女を招いた。その学校にいた盲人の教師で、英国滞在経験のある中村先生がアレキサンダー嬢のバハイの話しを通訳した。中村氏は日本で唯一の盲人用宗教刊行物の編集者でもあった。中村氏は日本の盲人女性のために記事を書くようアレキサンダー嬢に依頼した。中村氏は彼女のバハイについての話を点字に訳し、パンフレットとして配布したので信教は日本中の盲人の間に広く浸透した。
鳥居氏は日本人の盲人で最初にエスペラントを学んだ人でもあり、アレキサンダー嬢とはエスペラント点字で文通した。1932年、井上大拙氏が「バハオラと新時代」を邦訳すると、鳥居氏はそれを点字本に訳した。この本は770ページの3冊からなるもので、多くの盲人学校に送られている。鳥居氏は長年信教のために尽くし、幾つものバハイの本を点字にした。後年は日本の盲人協会の会長としてバハイの講演もしている。アブドル・バハから書簡を二通もらっている。72歳のとき、盲人のための奉仕を認められ、勲3等瑞宝章を授けた。
184 Torikai,
Kenzo 鳥飼健蔵
1882〜1962年。日本人で3人目のバハイ。バハイを受け入れたのは1910年頃。当時彼はワシントン州シアトルのシャーロット・ギレンさん宅に寄宿していて、アイダ・フィンチさんとも知りあいであった。フィンチさんは1919年から1923年まで日本滞在し、日本の布教活動に貢献した。鳥飼氏はアブドル・バハから一通の書簡を受け取っている。アブドル・バハは日本を啓発するよう強く彼に薦められた。彼は1916年から1917年に日本に来てアレキサンダー女史や鳥居氏と会っている。この時、彼は「世界新文明」という自作の日本語のバハイ・パンフレットを持参した。後に鳥居氏がそのパンフレットを日本語の点字にし、点字クラスの教科書として使ったという記録がある。その後、鳥飼氏はペルーに移り、以後連絡が絶えてしまった。
185 Townshend,
George ジョージ・タウンゼンド
1876〜1957年。1951年12月、守護者によって12名の大業の翼成者が任命された。その中の一人。アイルランド・ダブリン市に生まれ、牧歌的な環境の中で子供時代を過ごす。1895年から1899年、奨学生としてオックスフォード大学に学んだが特別な学位を取ることもなく、スポーツばかりに耽り、きちんとした仕事もしなかった。そんなある時、一冊の「バガバッド・ギタ」(ヒンズー教の経典)を見つけて精神的なことに興味を持ち始め、神の道に身を捧げようと決心する。1905年、カソリックの僧侶としてアメリカに派遣された彼が最初にバハイについて知ったのは、アイルランドに帰ってしばらくした1916年のことであった。その頃、彼は神経炎による視力障害からようやく回復しつつあった。彼は幾つかのパンフレットを読み、信教に惹かれ、早速本を注文した。バハイを受け入れてからは60冊余の本やパンフレットを書いた。中でも1934年に書かれた「すべての時代の約束」、1939年に書かれた「福音の心」は広く普及している。彼はバハイを受け入れてからもキリスト教僧侶としての仕事を続け、1933年にはダブリンの聖パトリック教会聖人の一人に選ばれている。彼は自分のバイブル・クラスでバハオラやアブドル・バハについてオープンに語った。彼がキリスト教聖職者の任を正式に退いたのは1945年、70歳の時であった。1957年には「キリストとバハオラ」を書き、キリストを信じるからこそバハオラを受け入れるべきであると、キリスト教徒たちに呼びかけている。
186 Tuba Khánum
ツバ・カヌーム
アブドル・バハの娘で、ミルザ・マブシニ・アフナン[Mírzá Mubsin-i-Afnan]と結婚したショーギ・エフェンディの母。後に聖約の破壊者となる。
191 Váhid
ワヒード [称号]
セイエド・ヤーヤ・ダラビに与えられた称号。イラン国王の信任が厚く、国王の代理として、バブの主張の虚偽を証明するためバブに面会しにシラズへ行く。議論でバブを打ち負かし、縛りあげてテヘランの国王の下に連れて帰るつもりでいたが、話している内にバブが神の顕示者であることを認めるようになり、信者となった。その次第を国王に報告し、直ぐにイラン国中にバビ教を布教するため旅に出る。最後に自分の故郷であるネイリーズに戻り、ネイリーズの乱で戦死する。
ワヒードは、また19年間のバハイ周期を意味する。その第一期は844年に始まり1863年に終わるバブの宗教制。たとえば、9部からなり一部は19章から成りたっているバヤンはバヤンのワヒードという。
192 Varga バルガ 鳩 [称号]
1856年頃〜1896年。バハオラによってミルザ・アリ・モハメッドに与えられた称号。バブの教えの布教者としての名が高く、また詩人でもあった。彼は国王暗殺の嫌疑で捕らえられ、12才の息子ルホラーの前で処刑され、体をバラバラに切り裂かれた。彼は死後、アブドル・バハによって大業の翼成者に任命された。守護者ショーギ・エフェンディは彼をバハオラの高弟に任命した。
194 Yamamoto, Kanichi
山本寛一
日本人で最初のバハイ。1879年山口県遠崎で生まれる。1900年始め頃ハワイに渡り、ウイリアム・スミス夫妻宅で働く。夫妻の娘のクラレンスはアグネス・アレキサンダー嬢を通してバハオラを受け入れた。山本氏はこの家に住んでいたエリザベス・マザーという女性からバハイを教えられた。彼はバハイの話を聞いて直ぐにバハイを受け入れた。23歳、1902年のことであった。2年後、彼はアメリカ本国オークランド市のヘレン・グッドール夫人の家で働くことになった。4年後、彼は結婚のために日本から来た女性イマと結婚した。当時オークランド市でのバハイの集まりは殆どグッドール夫人宅で行われ、山本氏はお客の世話をした。その後、彼の妻イマが流感で亡くったためイマの妹と再婚。イマとの間にはすでに6人の子供がいたが、さらに6人をもうけ、12名の子供がいた。アブドル・バハ訪米のとき、ヘレン・グッドール夫人宅で働いていた彼は接待役を努め、また、アブドル・バハの日本独立教会での講演のお膳立てをした。山本氏は生存中アブドル・バハから7通の書簡をもらっている。1961年に他界。現在、孫たちがアメリカで活躍している。
195 Zenimoto,Michitoshi 銭本三千年
アレキサンダー嬢の愛弟子。1952年にバハイを受け入れる。鳥居篤次郎氏の「光の家」で鳥居氏の仕事を手伝う。大学卒業後、毎日新聞社に務める。1957年に第一回北東アジア全国精神行政会メンバーに選出.された。「バハオラと新時代」の改訂版の出版などに貢献。その後、15年ほどバハイ活動から遠ざかっていたが1981年大陸顧問に任命され、3年ほど精力的に活動を続けたが、その後、健康と仕事の理由で活動の中心からは退く。