第2章
人生の目的
肉体と知性と精神の関係
1. 人生の目的
1. 神様,あなたがわたしを創りたまいましたのは,あなたを知り,あなたを崇拝するためであることを証言いたします。今こそ,わたしの無力なことと,あなたの御力の大いなること,またわたしの貧しさとあなたの御豊かさとを証言いたします。あなたの他に神はいまさず,あなたは危難の中の御救いに在し,御自力にて存在したもう御方にまします。(バハオラ:「バハイ祈りの書」,p.71:短い必須の祈り)
2. この世とそこに住み動くあらゆる物を創造したもうた神は,その拘束されない最高なるお心により,人間が神を知り愛するという独特の特異性と能力を与えたもうた――それは,全創造の根底をなす発生推進力,また主要な目的と見なされるべき能力である。(バハオラ:「落穂集:その1」,p.20)
3. 全人類は,常に前進し続ける文明を推進するがために創造された。全能なる御方は証言なさる――野生の動物のように行動するのは,人間にふさわしくない。人間にふさわしい美徳とは,地上のすべての民族や親族に対する寛容,慈悲,同情,そして思いやりである.....(バハオラ:「落穂集:その1」,p.81)
4. (『われわれの人生の目的は何なのですか?』という問いに対して)
それは,美徳を得ることである。(アブドル・バハ:「パリ講和集」,p.251)
5. 人は,その生命の始まりにおいては,母体の世界における胎児であった。そこで人は,人間の生活に必要な力や能力を受け取った。この世で必要な力を,人は,その限られた状態において与えられたのである。この世では目が必要であり,人は母体の中で,それを潜在的に与えられた。また,人には耳が必要であり,人は,母体の中で,新しい生活の準備としてそれを与えられた。この世で必要な力は,母体の世界で与えられたのである。
したがって,人は,この世において,次の世への準備をせねばならない。神の御国(みくに)で必要なものは,この世で獲得せねばならないのである。この世の生活に必要な力を母体内で得ることによって準備したように,聖なる生存に不可欠なものも,この世で潜在的に獲得せねばならないのである。
この滅ぶべき世の生活や限界を超越する『王国』で,人は何が必要なのだろう?その世界は,神聖と輝きの世界である。したがって人は,この世で,これらの神の属性を得る必要がある。その世界では,精神性や信念や確信,そして神の愛と知識が必要である。地上の国から天なる王国へと昇っていくとき,その永遠の生活において必要なものが準備できているように,人は,これらの属性を,この世において得なければならない.....人はいかにして,これらの属性を得ることができるであろう?人はいかにして,これらの慈悲深い才能や力を得られるであろう?まず,神の知識を通して得ることができる[1]。第二に,神の愛を通して[2], 第三に,信念を通して,第四に,博愛的行為を通して,第五は自己犠牲,第六はこの世からの超脱,そして第七は純潔と神聖を通して,これらのものを得ることができるのである。これらの力を得,これらの必要条件を満たさなければ,人は必ずや永遠の生命を奪われてしまうであろう。しかし,もし神の知識を持ち,神の愛によって火をつけられ,人類間の愛のもととなり, 純潔と神聖の最高の状態で生きたなら,人は必ずや生まれ変わり,聖霊によって洗礼を受け,永遠の生存を得るであろう。(アブドル・バハ:The Divine Art of Living,pp.18-20)
2. 肉体と知性と精神の関係
6. 神の預言者と神に選ばれた人々は別として,人は肉体の死後,この世でその人の生涯を特徴づけた個性や人格や意識および理解をそのまま保持するかどうか, と汝はわれに尋ねた。もしそうだとすれば,失神や重病のような頭脳能力への軽い傷害が人の理解と意識を失わせるのに,どうして肉体の分解とその要素の分離を必然的に含まねばならない死が,理解力を滅ぼし,意識を消滅させる力を持たないのか,と汝は述べた。人間の存在と機能に必要な器官そのものが完全に分解するときも,人間の意識と性格が保たれていくと誰が想像しえようか?
人間の魂は,肉体または知性のあらゆる虚弱さを越えて高遠なるものであり,独立したものであることを知れ。病人が虚弱の徴候を示すのは,魂と肉体のあいだに介在する妨害物によるものである。というのは,魂そのものはいかなる肉体の病気にあっても影響されることはないからである。
ランプの光について考えてみよ。外部にある物体は,その光輝を妨げるかもしれないが,光そのものは衰えない力で輝き続ける。同じように,人間の肉体を苦しめるあらゆる疾病は,魂がその固有の実力と能力を現すのを妨げる障害物である。しかしながら,魂が肉体を離れるときには,地上のいかなる力も匹敵しえないほどの権勢を示し,影響力を現す。純粋で洗練され,聖別されたあらゆる魂は,途方もない力を付与され,非常な喜びに喜悦するであろう。升の中に隠されているランプについて考えてみよ。その光は輝いているけれども,それは人間には隠されている。同様に雲に隠されている太陽について考えよ。実際は,光の光源は不変であるのに,その輝きはなんと減じたように見えるかを観察せよ。人間の魂はこの太陽にたとえられるべきであり,地上の万物はその肉体であると見なされるべきである。外部の障害物がこの二つのもののあいだに存在しない限り,肉体全体は,魂の光を反映し続け,魂の力によって支えられるであろう。しかしながら,この二つの間にヴェールがさしはさまれるやいなや, その光の光輝は,減ずるように見えるのである。
さらに,完全に雲の影に隠されている太陽について考えてみよ。地球はそれでもなお,その光で照らされているが,受け取る光の程度は,かなり減じられているのである。太陽は雲が消散させられるまでその栄光を完全に輝かしえない。雲の存在,不存在はいずれも太陽そのものの光輝に影響を及ぼすことはできない。人間の魂は太陽であり,肉体はそれによって照らされ, それから生命の糧を得るのであり,また,そのように考えられるべきである。
さらにまた,果実は実を結ぶ前に,いかに樹の中に潜在的に存在しているか考えてみよ。樹が寸断されても,果実の徴候やその部分も見出されることはない。しかし,それが現れるときには汝が観察したように,驚くべき美と栄光ある完全さの中に自らを現すのである。実際,ある果実は,樹から切られて初めて最高の成熟期に達するのである。(バハオラ:「落穂集:その1」,pp.48-50)
7. ...しかし動物とは異なり,人間は,理知的魂[3],人間的知性[4]を備えている。この知性は,肉体と精神[5]の仲介役である。(アブドル・バハ:「パリ講和集」,p.96)
8. 人間の精神は,信念の精神によって援助されなければ,聖なる秘密や天の神秘について知ることができない.....
.....知性は,人間の精神[6]の力である。精神はランプであり,知性はランプから輝く光である。精神は樹であり,知性は実である。(アブドル・バハ:Some Answered Questions,p.209)
9. 物質的創造のすべては,滅ぶべき運命にある。これらの肉体は,原子から構成されている。これらの原子が分離し始めると,分解が始まり,そうして,いわゆる死が訪れる。この原子の構成によって,肉体や他のあらゆる創造物の滅ぶべき要素が構成されているのだが,その原子構成は一時的なものである。これらの原子を結びつけるこの引力が撤廃されると,肉体は,その存在を停止するのである。
しかし,魂の場合は異なる。魂は,要素が混合されてできているのではないし,多数の原子から構成されているのでもない。それは一つの,分割不可能な実体で,それゆえに不滅なのである。それは,物質的創造の秩序の外にあり,不滅なのである。
科学は,単一の要素は[7]破壊できず,不滅であることを実証した。魂は,要素の結合体ではないので,その性質上,単一の要素のようなものであり,したがって,存在を停止することはありえないのである。 (アブドル・バハ:「パリ講和集」,pp.125-126)
10. 睡眠中,この肉体は死んだようである。それは,見ることも聞くことも感じることもなく,意識や感覚もない。つまり, 人間の力の活動が停止するのである。しかし,精神は存在し続ける。いや,その透視力は増し,その飛行はより高くなり,その知性はより優れたものとなる。肉体の死後,精神が滅ぶと考えるのは,かごが壊されたら,その中の鳥も破壊されると考えるようなものである。しかし鳥は,かごが壊されることから恐れることは何もないのである。われわれの肉体は,このかごのようなもので,精神はその烏のようなものである。かごがなければ,この鳥は,睡眠の世界で飛ぶということがわかる。したがって,もしかごが壊れても,鳥は存在し続けるのである。その感情や感覚はより強くなり,幸福感は増大する。まことに,それは,地獄から出て,歓喜の楽園に達するのである。なぜなら,感謝深い鳥にとって,かごからの解放ほどすばらしい楽園はないのだから。(アブドル・バハ:Some Answered Questions,p.228)
11. 現在,肉体や魂や精神に関して入手できるバハイの書を英語で学習研究するとき,わたしたちは明確さの欠如という不利な条件に出くわします。というのは,すべての書物が必ずしも,同じ人によって翻訳されたわけではなく,また,あなた方もご存知のように,未翻訳のバハイの書がまだ多数あるからです。しかし,精神[spirit]と魂[soul]が時おり,意味の上で交互に使われているように思われるのは疑いのないことです。同じように,魂[soul]と知性[mind]も,異なる翻訳のために起きる問題により意味の上で交互に使われています。バハイが確実に信じていることは,人間の性質にはいわば三つの面があるということです。それは,肉体と知性と不滅の実体――すなわち, 魂または精神――のことです。知性は,魂と肉体を連結し,魂と肉体は互いに影響すると,わたしたちは信じています。(ショーギ・エフェンディの秘書を通しての手紙より,6/7/46: Unto Him Shall We Return,p.60)
3. 死後の世界
12. さて,人間の魂とその死後の生存に関する質問について。魂は,肉体より分離後,年代と世紀の経過にも,この世の変遷と運命にも変えられることのできない状態で,神の面前に達するまで成長し続けるということを知れ。それは,神の王国,神の主権,神の統治権と威力が続く限り続くのである。それは,神のもろもろのしるしと属性を顕現し,神の慈愛と,恩恵を明示する。これほど高遠なる地位の崇高さと栄光を適切に述べようとするとき,わがペンの動きは止まる。『慈悲』の『御手』が魂に付与する栄光はいかなる舌も十分に明かしえず,その他この世のいかなる媒介も描写できないほどのものである。肉体から分離するとき,この世の人々の空虚な想像から聖別されている魂は幸いである。そのような魂は,創造主のみ心にしたがって生き,行動し,最も高遠なる『楽園』に入る。最も高遠なる館の住民である『天の乙女たち』は,そのまわりを回り,神の預言者らや,神に選ばれし者らはその魂との交わりを求めるであろう。その魂は彼らと自由に会話を交わし,すべての世界の主なる神の道において耐え忍ばねばならなかったことについて彼らに語るであろう。天上の王座と下界なる地上の主である神のもろもろの世界において,そのような魂のために定められていることを知らされれば,いかなる者も,その全存在が,その最も崇高なる,聖別された輝かしき地位に達したいという大いなる切望で一瞬のうちに燃え立つであろう.....死後の魂の特質については決して叙述されえず,また,人間の目にその性質のすべてを明かすことも適当でなく,許されてもいない。(バハオラ:「落穂集:その1」,pp.51-52)
13. もし人の魂が神の道を歩んだならば,必ず最愛なる御方の栄光にもどり,引き寄せられるであろうことを知れ。神の正義にかけて誓う!その魂は,いかなるペンも叙述することができず,いかなる舌も述べることのできないほどの地位に達するであろう。神の大業に忠実であり続け,神の道に揺るがずに確固としていた魂は,昇天後,全能者が創造したもうたあらゆる世界が益を得られるほどの力を持つであろう。そのような魂は,『理想の王』にして『聖なる教育者』なる御方の命令により,生存の世界を発酵させる純粋な酵母を供給し,この世の技巧や驚異を現わす力を供給する。粉が発酵するにはいかに酵母を必要とするか考えてみよ。超脱の象徴である魂は世界の酵母である。これについて冥想せよ,そして感謝する者であれ。(バハオラ:「落穂集:その1」,p.58)
14. 人はいかにその旅の目的地を期待しているであろうか?それは,希望と期待の心構えである。この地上の旅の終わりについても同じである。来世では,人は,現在悩み苦しんでいるところの多くの障害から解放されるであろう。死を通して次の世へ移った人には,独自の領域がある。しかもその世界は,われわれの現世とかけ離れたものではない。彼らの仕事,つまり神の王国の仕事というものはわれわれの仕事と同じものである。しかしそれは, 『時間と空間』というものから聖別されているのである。われわれとともにある時間は太陽によって計るものであるが,日の出や日の入りがなくなったなら,そのような種の時間は,人にとって存在しなくなるのである。天に昇っていった者らは,まだ地上にいる人々とは異なった属性を持つが,真に分離されているということはないのである。(アブドル・バハ:’Abdu’l-Bahá in London,p.96)
15. 創造の目的について考えてみよ。すべては,地上での何年かという小さな目的のために無数の年代を通して進化し発達するように創られたということがあろうか?これが,生存の最終的な目的と考えられようか?鉱物は進化し,遂には植物の生命内に吸収される。植物は成長,発達し, 遂には動物の生命内にその生命を失う。さらに動物は人間の食物の一部となり,人間の生命内に吸収される。
このように,人間は全創造物の統合であり,他の創造物より優れ,無数の年代を通じて生存したあらゆる創造物の進化の目的であることがわかる。
人は,この世で九十年生きるのがせいぜいで,それはまことに短い人生である!人は肉体を去るとき生存を停止するのであろうか?もし生存が終わるとしたなら,これまでの進化はすべて無駄であり,すべては無に帰することになる。創造には,このような小さな目的以外の目的がないなどと考えられようか?.....
もし精神が不滅でなかったなら,神の顕示者たちはどうして,そのような過酷な試練に耐えられたであろう。キリストはどうして,十字架の上で恐ろしい死をこうむられたのであろう?ムハンマドはなぜ,迫害を忍耐なさったのであろう?バブはなぜ,最高の犠牲を払われ,そしてなぜ, バハオラは,牢獄で何年もお過ごしになったのだろう?
精神の永遠なる生命を証明するためでなかったなら,どうしてこれらの苦しみがあったと言えようか?
(アブドル・バハ:「パリ講和集」,pp.127-130)
16. この肉体を去る前も去った後も,完全性において進歩があるが,それは状態[8]においてではない。それで,生存物は,完璧な人間において最高点に達する。完璧な人間よりも高い存在はないのである。人はこの段階に達してからも,その完全性において進歩を続けられるのだが,それは状態においてではない。なぜなら,人が成長することのできる状態としては,完璧な人間のそれよりも高い状態はないからである。人は,人間としての状態において成長する。人間の完全性には限りがないからである。それで,(たとえば)ある人にどれだけ学識があろうと,われわれはさらに,もう少し学識ある状態を想像できるのである。
したがって,人間の完全性は無限であるので,この世を去った後も,人は,完全性において進歩を続けられるのである。(アブドル・バハ:
Some Answered Questions,p.237)
17. (『人間の精神,つまり理知的魂は,この世から去った後にどのような手段で成長するのですか?』)
塵(ちり)でできた肉体とのつながりを断った後,聖なる世界における人間の精神の成長は,恩恵と恵みだけを通して,あるいは他者の魂の(仲介の)祈りや誠実な祈りを通して,あるいはその人の名前でなされた慈善行為や重要で善良な業績を通してなされる。(アブドル・バハ:Some Answered Questions,p.240)
18. (『思慮分別の歳に達する前,あるいは定められた誕生の時の前に亡くなった子供たちはどのような状態にあるのですか?』)
これらの幼児たちは,神のご好意の影のもとにある。また,そのような子供たちは,罪を犯したり自然の世界[9]の不純によって汚されたりしていないゆえに,恩恵の顕現の中心となり,『慈悲の眼』は,この子供たちの方へ向けられるのである。(アブドル・バハ:Some Answered Questions,p.240)
19. あの世における富とは,神に近いことを意味する。したがって,神の宮廷に近い者らは,他人のために(仲介の)祈りをすることが許されており,この(仲介の)祈りは,神により承認される。しかし,あの世での(仲介の)祈りは,この世での(仲介の)祈りとは異なる。それはまた別のもの,別の実在であり,言葉で表現することはできない。
もし裕福な人が死ぬ前に,貧乏人や不幸な人のために遺言により贈物を残し,彼らのために費やされるよう,その富の一部を与えるなら,おそらくこの行為は,その人への許しのもと,神の御国(みくに)における成長のもとになるかもしれない。
それから,両親は,子供のために,最も厳しい困難や苦難に耐える。そして,子供たちが成長するとしばしば,親は次の世へと去っていく。この世で両親は,子供たちのために経験した心配や困難の報いを受けることはまれである。それゆえに子供たちは,この心配や困難のお返しに,慈善や善行を行い,両親のために許しを請うべきである。そして,父親が示してくれた愛や親切の代わりに,あなたは父親のために貧しい人々に布施を行い,最も従順かつ謙虚に,罪の許しと免罪を懇願し,最高の慈悲を請うべきである。
罪と不信の状態で亡くなった人たちでさえ,その状態が変わることは可能である。つまり,そのような人々は,神の恩恵を通して許しの的になりえるのであり,これは,神の正義を通してではない――なぜなら,恩恵はそれに値することなしに与えられることであるが,正義はそれに値するものを与えることだからである。われわれがこの世で,これらの人々のために祈る力があるように,神の御国であるあの世でも,われわれは同じ力を持つのである。その世界の人々も,神の創造物ではなかろうか。したがって,その世界でも,人々は成長できるのである。この世で人々は,嘆願により光を受けることができるように,あの世でも,許しを請い,嘆願し,懇願することにより光を受けることができるのである,この世の人々が,聖なる者らの嘆願や懇願や祈りの助けによって成長できるように,死後もまた同じことなのである。人々は,自分の祈りや嘆頭によっても成長することができるが,彼らが,聖なる顕示者たちの祈りの対象である時は特にそうなのである。(アブドル・バハ:「パリ講和集」,p.89)
20. 死後の人間の魂についてであるが,それは,肉体の生活の間に進歩した純潔性にとどまり,肉体からの離脱後は,神の『ご慈悲』の大海に投げ込まれたままになるのである。
魂が肉体を去り,『天なる世界』に達したときから,その進化は精神的なものとなり,それは『神に近づく』という進化である。
物資的創造においては,進化というものはある一つの程度から次の程度へ進むことである。鉱物はその鉱物的完全性から植物へと進む。植物は,その完全性とともに動物へと進み,そうやって人間へと進んでいくのである。(アブドル・バハ:「パリ講和集」,p.89)
4. 健康と治癒
21. 病気にかかったなら,有能な医者に相談せよ...医学による治療が必要なときは,それを怠るな。しかし,健康が取り戻されたならば,その治療をやめよ。(バハオラ:The Divine Art of Living,pp.53-54)
22.病気になったときに,常に,有能な医者に相談せよ。まことにわれは,物質的な手段に頼ることを廃止せず,むしろ,この『ペン』を通して,その使用を確言したのである――その『ペン』は,神によって, 神のまばゆく輝かしい大業の『夜明けの地』となされたものである。(バハオラ:The
Throne of the Inner Temple,p.78)
23. 有能な内科医, または外科医が患者のために処方することはすべて受け入れ,従わねばならない。(バハオラ:The Throne of the Inner Temple,p.79)
24. おお助けられた見知らぬ者よ!汝の燭火(しょくひ)は,わが権威の手で灯されている。自我と情欲の逆風もて,それを消すな。汝のあらゆる病(やまい)を癒すものは,われを記憶するところにある。それを忘れるな。わが愛を汝の宝となし汝の目や生命そのもののごとく,それをいつくしめ。(バハオラ:「隠されたる言葉」,ペルシャ編,#32)
25. 不健康な状態は,人間にとって避けられぬものであるが,それは耐え難いものである。健康であるという恩恵は,あらゆる贈り物のうちで最もすばらしいものである。(アブドル・バハ:Selections from the Writings of ‘Abdu’l-Bahá,p.151)
26. もし肉体的な健康や幸福が,神の道において使われるなら,それはまことに好ましく,賞賛されるべきことである。そしてもし,人類の世界一般の益になるように使われるなら,たとえそれが人々の物質的利益のため,また善行を行う手段であっても,これもまた好ましいことである。しかしもし,人間の健康や幸福が官能的欲望や動物的な面, または残忍なことに用いられたなら,そのように健康であるより,病気であるほうがましである。いや,死そのものが,生よりも好ましいのである。汝もし,健康でありたいと望むなら,御国への奉仕ができるよう,健康を望め。汝が永遠の生命の泉から取って飲み,聖なる確証の精神によって援助されんがために,完全なる洞察力と固い意志,そして完全な健康を得,また,精神的かつ肉体的に強くなれるよう,わたしは望んでいる。(アブドル・バハ:The Throne of the Inner Temple,p.20)
27. 自分の健康を管理することには,二つの目的がある。ひとつは,個人的な望みをかなえるために身体を大切にすることであり,もうひとつは,人類に奉仕し,人類に対する任務を果たせるように十分長生きするという好ましい目的を持って,健康を気づかうことである。後者は,まことに立派な目的である。(アブドル・バハ:The Throne of the Inner Temple,p.19)
28. 病気には,精神的なものと肉体的をものの二種類がある。肉体的な病気は,医薬や潅木(かんぼく)や植物のエキス(精)によって癒すことができる。感情によって引き起こされた病気は,人間の精神の力によって癒される。しかし,聖なる精神の力は,あらゆる肉体的な病気や心の病気を支配する。人間の精神が聖霊によって確証され,援助されるとき,それは,生存の世界のあらゆる状態においてその効果を発揮するであろう。(アブドル・バハ:The Throne of the Inner Temple,p.75)
29. 肉体的な事故によって引き起こされた病気は,医学による治療を通して癒されるべきである。精神的な原因による病気は,精神的な手段によって消滅する。したがって,苦悩や恐れや心配によって起きた病気は肉体的な治療よりもむしろ,精神的治療により癒されるであろう。したがって,両方とも考慮されるべきである。さらに,この二つの治療法には矛盾はなく,汝は,物質的治療法を,神のご慈悲とご好意によりもたらされたものとして受け入れるべきである。神は,しもべらが,この治療法からも益を得られるように医学を啓示し,顕示なさったのである。(アブドル・バハ:The Throne of the Inner Temple,pp.75-76)
5. 生と死への態度
30. おお実在の子よ!決算の日の来るまでは,日毎(ひごと)に汝自らを反省せよ。予告なき死は汝を訪れ,汝は汝の為したることの決算をすべく召されんに。(バハオラ:「隠されたる言葉」,アラビア編,#31)
31. おお至高なる者の子よ!われ死を汝への歓び(よろこび)の使者とした。汝いかなれば死を悲しむや。われ汝を照らすために光を作った。何故(なにゆえ)汝その光から自身を蔽う(おおう)や。(バハオラ:「隠されたる言葉」,アラビア編,#32)
32. ...彼ら[信者]は,この地上の生活が与えることのできる一時的な益や過ぎ去っていく喜びを進んで最大限にあずかり,その生活の豊かさと幸せと平安のためになるどの活動にも参加することに熱心でありますが,次のことを一時(いっとき)も忘れることはできないのです――つまり,その人生は,自分たちの生存の一時的でまことに短い段階を成しているに過きず,また,その人生を生きる自分たちは単なる巡礼者そして旅人であり,その目標は『天なる都市』であり,また,その故郷は決して衰えることのない喜びと明るさの『国』である,ということです。
(ショーギ・エフェンディの手紙より,3/11/36:Bahá’í World,Vol. XVIII, p.
592)
[1] 『神の知識』はその文字通りの意の他に、神を知ることであるとも取れる。
[2]「神の愛」も、文字通りの意の他に、神への愛または神を愛することと取れる。
[3] 訳注:『知性』を意味する表現。
[4] 訳注:『知性』を意味する表現。
[5] 訳注:または魂。
[6] または魂。
[7] 『単一』とは、結合体でをないことを意味する。
[8] 訳注:英語の文ではstateという表現がやや不明確に用いられているが、ここで言及されている『状態』とは動物と人間や、 人間と顕示者の違いなどに関するものである。たとえば、動物は人間の状態に属さず、人間もまた顕示者の状態に属しはしない。しかし、人間は、人間としての状態において様々な『段階』があり、それらの『段階』を通して、より完全になっていく。この引用文では、『状態』と『段階』という表現を用いてこの二つを区別した。
[9]訳注:つまり、この世。