第8章 哲学的主題
1.神の存在と性質
神の意志
1. 神の単一性に最高の誉れあれ。そして、至高の主にして比類なく、栄光に満ちた宇宙の統治者なる御方に最高の栄誉あれ。主は、
皆無から万物の本質を創造したまい、その創造の最も洗練され微妙な要素を、全くの無から生ぜられた。また、主は、その創造物を、隔離の屈辱から救い、究極的消滅の危難から救い、それらを、主の不滅なる栄光の王国へと迎え入れ給うた。主の全てを包みこむ恩恵や全てにみなぎる慈悲の他に、このようなことを成し得ない。さもなくば、全くの無が非存在の状態から生存の領域へと現れる価値と能力を得ることができたであろうか?(バハオラ:Gleanings from the Writings of Baha’u’llah、 XXVII)
2. 神の存在の証明や実証のひとつは、人間は人間自身を創造しなかったということである。人間を創造し、造り出したものは、また別の存在なのである。
無力な被生物は、別の生存物を創造することができないゆえに、人間を創造したものは、人間とは異なることは明白かつ反駁(はんばく)し得ぬことである。
創造物が完全であり、創造者が不完全なことがありえようか?絵が名作でありながら、それを描いた画家自身が芸術において不完全でありえようか?それはその画家の芸術であり、創造物なのだから。さらに、絵は画家と異なる。もしそうでなければ、絵は自らを創り出したはずである。その絵がいかに完璧であれ、画家に比べれば、それは全くの不完全なのである。
依存的世界[1]は、不完全の源であり、神は完全性の起源なのである。依存的世界の不完全性はそれ自体、神の完全性の証拠なのである。
たとえば、人間を見る時、人間は弱い存在であることがわかる。この弱さそのものは、永遠にして全能なる『存在』の力の証拠のひとつなのである。なぜなら、もし力が存在しなければ、弱さというものは考えられないからである。それで、創造物の弱さは、神の力の証拠なのである。もし、
力が存在しなければ、弱さはありえず、したがって、この弱さという存在から、この世界には力が存在することが明らかとなるのである。また、依存的世界には、貧しさというものが存在する。貧しさというものがこの世には明らかである。ゆえに、豊かさというものも必ず存在するのである。依存的世界には、無知が存在する。それで、知識も必ず存在するのである。知識がなければ、無知も存在しないのである。無知とは、知識が存在しない状態なのである。存在というものがなければ、無存在もありえないのである。
全依存的世界は、さからうことのできない法則と規則に支配されていることは、明らかである。人間でさえも、死や睡眠やその他の条件によって影響を受ける。つまり、人間は、ある点において支配されており、この支配されているという状態は必ず、支配者の存在を意味するのである。依存的生存物の性質とは、
その依存状態にあり、それは不可欠な要素であるゆえに、独立性を不可欠とする独立的存在があらねばならないのである。
同じように、病気の人を見れば、健康な人が存在するはずだということがわかる。もし健康という状態が存在しなければ、病人の病気については証明できないのだから。
したがって、全ての完全性を持つ、永遠にして全能なる『存在』があることが明らかとなる。その『存在』があらゆる完全性を備えていなければ、それは、その創造物と同じ存在になるのだから。
生存の世界の至る所で、これは言えることである。最も小さい創造物も、創造者の存在を証明する。たとえば、このひときれのパンは、それを作った人の存在を証明するのである。
神に誉れあれ!最も小さな物の中で生じた最小の変化でさえ、創造者の存在を証明するのである。それでは、この無限なる偉大な宇宙が、自らを創造し、物質や要素の作用により生じたなどありえようか?そのような仮定は、
明らかに誤りである!
このような非常に分かりきった論議は、内なる知覚がまだ目を覚ましていない人[2]のためものである。しかし、もし、内なる知覚力が目を覚ましたら、十万の明白な証拠が明らかとなるのである。このように、内在する精神を感じる時、人はその存在に関する論拠を必要とするのである。しかし、その精神の恩恵を得られない人々にとっては、外的な論拠を確立する必要があるのである。(アブドル・バハ:Some Answered Questions、pp5-6)
神の性質:その本質の不可知性
3. 全てを所有なさる御方にして、比類なき栄光の王なる神に誉れあれ。その誉れは、全創造物の理解は到底及ばず、人間の心の理解力を超えて崇高なものである。神以外、神を十分に賛美して歌うことができた者は今までいなかったし、また、今後、
神の栄光の全てを十分に描写することができる者は誰もいないであろう。神の崇高なる『本質』の頂点に達したなどと、誰が主張できよう。また、神の計り知れぬ神秘の深みを計り知る心の持ち主がおろうか。 (バハオラ:Gleanings from the Writings
of Bahá’u’lláh、XXVI、p.60)
4. 不可知なる本質におわし、神々しい存在なる神は、肉体としての存在、上昇や下降、出現や退却などというあらゆる人間的な属性よりはるかに崇高であることは、明敏で啓発された心の持ち主全てに明らかである。人間の舌が神の賛美を十分に述べ、人間の心が神の測り知れない神秘を理解することは、神の栄光からして到底できないことである。神は、古今を通じ、ご自身の古(いにしえ)の永遠性の中に隠れておられ、神の実在は永久に人間の眼から隠されたままにされるのである。(バハオラ:「落穂集:その1」、p.12、改訳)
5.神の本質というものは、人間の知性によって理解することはできない。限りある理解力によって、無限の秘義を理解することはできないからである。神は全てを包みこむ。神が他のものによって包容されることはありえない。包容をするものは、包容されるものより優越している。全体はその部分よりも大きいのである。
人間が理解できるものは、人間の理解力の範囲内にとどまる。だから、人間の知性によって、神の秘義がいかなるものかを理解することはできないのである。われわれの想像力では、せいぜいわれわれが心の中で想像できる範囲内で、心に描きだすことができるくらいである...
神の実体は、われわれの想像が決して及ぶものではない。神とは、われわれは知ることができず、また考えることができないものであり、人間の最高の概念さえもはるかに超越した存在なのである。
(アブドル・バハ:「パリでの講和集」、pp.26-28、改訳)
6. この人々はみな、心の世界に(偽りの)神を描き、そして自らが作り出したその像を崇拝している。しかし、それは、人間の知性によって理解されているのである。そして、理解するものは、それによって理解されるものよりも偉大であることは確かである・・・この世のあらゆる民族が、いかに自らが作り出した空想物の前にひざまずき、心の中に創造者を創造し、それを、全てのものを『お造りになる方』と呼んでいるかについて考えてみよ。しかし実は、それは幻想にすぎないのである。このように、人々は、単なる知覚の誤りによるものを崇拝しているのである。
しかし、あの『本質の本質』、 『目に見えぬものの中の目に見えぬもの』は、人間のあらゆる推測から清められ、また、人間の知性は、それを超越することはできないのである。(アブドル・バハ:Selections from the
Writings of ‘Abdu’l-Bahá、pp.53-54)
不可知なる創造主:神と被創造物なる人間とをつなぐ仲介者(神の顕示者)の必要性
7. 唯一にして真なる神を、その創造物に直接結びつけるつながりはありえない。また、永遠なる絶対者と、はかない従属者の間には、何らの類似点も存在しえない。ゆえに、神は、あらゆる時代や宗教制に、清く汚れない『人物』を天と地の王国に顕現することをお定めになったのである。(バハオラ:「落穂集:その1」、p.22、改訳)
8. 日の老いたる御方を知るための門は、このように、全生存物の面前から閉ざされているので、『彼の恩恵は万物を超越し、わが恩恵は、万物を包みこんでいる』という神の言葉通りに、無限の恩恵の『源』なる御方は、それらの輝かしい『聖なる宝石』を精神の領域から人間の肉体という形で現し、全ての者の前に顕現された。人々が不変の『存在』の神秘を世界に伝え、その不滅の『本質』の不可思議について語れるように。
これらの聖別された『鏡』たち、これらの古来の栄光の『夜明け』たちは、全て、宇宙の中心なる『天体』なる御方とその『本質』とその究極の『目的』について地上で語る『解説者』なのである。その御方から、彼らの知識と力は生じ、彼らの主権はその御方に由来するのである。彼らの御顔の美しさは、その御方の姿の反映にすぎず、彼らの啓示は、その不滅の栄光の印にすぎないのである。彼らは、神の知識の『宝庫』であり、天なる英知の『貯蔵庫』である。彼らを通して、限りなき恩恵は伝えられ、彼らにより、衰えることのない『光』が啓示されるのである。(バハオラ:「落穂集:その1」、pp.12-13、改訳)
2.創造 〜善と悪〜
創造の目的
9. 神様、あなたが私を創り給いましたのは、あなたを知り、あなたを崇拝するためでありますことを証言いたします。今こそ、私の無力なことと、あなたの御力の大いなることを、また私の貧しさと、あなたの御豊かさとを証言いたします。
あなたの他に神はいまさず、あなたは危難の中の御救いにおわし、ご自力にて存在し給う御方にまします。
(バハオラ:「バハイ祈りの書」、p.71)
10. 神はこの世とそこに住み動くあらゆるものを創造し、神の拘束されない卓越した御意により、人間に神を知り愛する、
独特の特異性と能力を与え給うた−それは、全創造の基礎をなす発生推進力、 また、 主なる目的と見なされるべき能力である。(バハオラ:「落穂集:その1」、p.20、改訳)
11. 全ての人は、常に進歩する文明を推進するために創造された。全能なる御方が、わが証人である。野獣のように行動するのは、人間にふさわしくない。人間の尊厳に適する美徳は、地上の全ての民族や親族に対する寛容、慈悲、憐れみ、そして慈愛である。(バハオラ:「落穂集:その1」、CIX、p.81、改訳)
12. おお人の子よ!わが太古よりの存在と、わが本質の不変の永遠性に包まれて、われ汝への愛を知った。さればこそ、われ汝を創った。汝の上にわが面影を刻み、汝にわが美を表わした。(バハオラ:「隠されたる言葉」、
アラビア編、 #3)
13. おお人の子よ!われ汝の創造を愛した。さればこそわれ汝を創った。されば汝、
われを愛せよ。われ汝の名を呼び、汝の魂を生命の生気もて満たし得んがために。(バハオラ:「隠されたる言葉」、 アラビア編、 #4)
14.世界とそこにある全てが創造された最高の目的は、人間が神を知るということである。この日、汚れのない『住まい』に入れるよう、神の慈悲の衣の芳香によって導かれる者はみな、永遠に、全ての善に達したのである−その『住まい』に入ることとは、聖なる命令の『源』とその啓示の『夜明け』を認めるという地位なのである。(バハオラ:Tablets of Bahá’u’lláh、p.268)
15. おお実在の子よ!権威の手もてわれ汝を造り、威信の指もてわれ汝を創り、なお、われ汝のうちにわが光の真髄を置いた。汝それに満足せよ。そして他に何物も求むるな。わが業は完全にして、わが命令は免れ得ざれば。何故と問うな。また疑いも抱くな。(バハオラ:「隠されたる言葉」、
アラビア編、 #12)
16. おお心霊の子よ!われ汝を豊かに創れるに、何故汝自ら貧しくするや。気高くわれ汝を造れるに、何故汝自ら卑しくするや。知識の精華もて、われ汝を生ぜしに、汝何故われより他の者に教化を求むるや。愛の粘土もてわれ汝を創りしに、汝何故他のものに没頭するや。汝の眼を汝自らに向けよ。されば汝、汝のうちに威光に輝き力強く自存しつつあるわれを見出さん。
(バハオラ:「隠されたる言葉」、 アラビア編、 #13)
17.おお心霊の子よ!われ汝を気高く創った。しかるに汝は自らを卑しくした。さらば汝が創られたるところにまで汝を高めよ。(バハオラ:「隠されたる言葉」、
アラビア編、 #22)[3]
18. この主題について真の説明をするのは、まことに難しい。まず、
生存物には二種類あることを知りなさい。それは物質的な生存物と精神的な生存物であり、感覚で感じることのできるものと、知性によって知ることのできるものである。 知覚できるものとは、外的な五感で感じることができるものである。目で見ることのできる外的な生存物は知覚できるもの[4]と呼ばれている。理知的なものは、外的には存在しないけれども、知性が持つ概念のことである。たとえば、知性そのものは、外的に存在しない知的なものである。人間の性質や特徴の全て[5]は、知的な存在であり、知覚できるものではない。
端的に言って、知的な本質−たとえば、人間のあらゆる特質やすばらしい完全性−は全くの善であり、存在するものである。悪とは、単に、それらの性質が存在しないことである。したがって、無知は知識の欠けている状態であり、誤りは導きの欠如であり、忘れっぽいことは、記憶力の欠如であり、愚かさとは良識の欠けていることなのである。これらの状態は全て、真に存在するわけではないのである。
同じように、知覚できるものも、全くの善であり、悪とはそれが存在しない状態なのである。つまり、盲目とは視力の欠如であり、耳が聞こえない状態とは、聴力の欠けた状態、貧しさは豊かさの欠如であり、病気は健康の欠如、死は生命の欠如であり、弱さは強さが欠けた状態なのである。
それにもかかわらず、ある疑問が心に浮かんでくる−サソリやヘビは生来、 毒を持っているが、それは善なる存在と言えるだろうか?もちろん、サソリやヘビは、人間の存在に対しては悪である。しかし、それ自身に対しては、悪ではない。なぜなら、その毒は自らの武器となり、その毒牙(どくが)によってサソリやヘビは自身を守るからである。しかし、その毒の成分は、われわれの肉体の成分と合わない。それで、対立の状態が悪なのである。しかし、実際はサソリやヘビは、自らに対しては、善なる存在なのである。
この話を要約すると、あるものは、他のものに関しては悪なる存在であるかもしれないが、同時に、その適切な生存の範囲内では邪悪でないかもしれないということである。したがって、生存物には悪というものが存在しないことが証明された。神は全てのものを善として創造なさったのである。この悪というものは存在しないのである。死は生命の欠如を指すものであり、生命力を失うと、人は死ぬのである。暗闇とは光の欠如を指すものであり、光がない時、暗闇があるのである。光そのものは存在するものであるが、暗闇というものは存在しないのである。豊かさというものは存在するが、貧しさは存在しないのである。
それで、あらゆる邪悪な存在そのものはないことは明らかである。善は存在するが、悪そのものは存在しないのである。 (アブドル・バハ:Some Answered Questions、pp.263-264)
19. 悪とは不完全性のことである。罪とは、
卑劣な性質の世界における人間の状態をさす。この世には不正や残虐、憎悪や敵意や争いといった欠点が存在する。これらは、この世の卑劣な世界の性質である。これらの性質は、この世に属する罪であり、アダムが取って食べた樹の実のことである。われわれは、教育によって、これらの不完全性から自らを解放せねばならない。人間が自由になれるように、神の預言者たちが遣わされ、聖なる書が記されてきたのである。ちょうど、母親の子宮からこの不完全な世界に生まれてきたように、人は聖なる教育によって、精神の世界に生まれていくのである。現象の世界に生まれると、人は『王国』を見い出すのである。 (アブドル・バハ:「パリでの講和集」、
pp.252-253、改訳)
3.教育:環境と遺伝
教育の目的と必要性
20. 人間は鋼(はがね)のようであり、その真髄は隠されている。勧告と説明、適切な助言と教育を通して、その真髄は明るみに出されるであろう。しかしながら、もし当初の状態に置き去りにされたら、渇望と欲望の腐食により、人は結果的に破壊されるであろう。
(バハオラ:Bahá’í Education、p.5)
21.人間は最高のタリスマン〔護符(ごふ)〕である。しかしながら、適切な教育の欠如のために、本来持っているものを享受することができなかったのである。神の口より発せられた一言(ひとこと)により、人間は生み出された。もう一言で、人間は己の教育の根源を認識するよう導かれた。さらにもう一言によって、人間の地位と運命は保護された。偉大なる御方は言われる−人間を、計り知れぬ程価値のある宝石に富む鉱山と見なせ。教育のみが、その宝を発掘し、人類がそれから益を得られるようになせるのである。(バハオラ:Gleanings from the Writings
of Bahá’u’lláh、p.259-260)
22. 教育には、物質的教育、人間的教育、そして精神的教育の三種類がある。物質的教育とは、身体の健康維持や安楽や休息によって、
身体の進歩発達を図ることに関するものであり、これは動物と人間に共通である。
人間的教育は文明と進歩を意味する−すなわち、政府、 行政機構や慈善事業、職業や技術や手工芸、科学や偉大な発明や発見、そして念入りな社会機構などに関するもので、これらは動物と異なる、人間固有の活動である。
聖なる教育は、神の王国の教育である。それは聖なる美徳を養うことである。これこそ真の教育である。この状態では、人は神の祝福の焦点となり、『われの形に、われに似せて人を造ろう』[6]という言葉の顕現となるからである。これが人類世界の目標なのである。(アブドル・バハ:Some Answered Questions、p.8)
環境か遺伝か?
23. (人間には何種類の性質があるのですか?人々の間の差異や多様性の原因は何なのですか?)
人間には、生来の性質と遺伝された性質と習得した性質とがある。習得された性質は、教育によって得られるものである。
生来の性質について−神の創造は全くの善ではあるが、人間の自然な特質には差異がある。全ての人は知性や諸々の能力を備えているが、その知力や能力や価値には差異があり、これは明らかである。
たとえば、同じ家族、土地、学校に属し、同じ教師によって指導され、同じ食物を与えられ、同じ気候の中に育ち、同じ服を着、同じ教科を勉強する、いく人かの子供を例にとってみよう。これらの子供らの中でも、ある子供は学問に優れ、ある子供は並の能力を示し、ある子供は劣るようになることは明らかである。したがって、価値や能力の違いは当初から存在することは明らかである。しかし、この違いはいいとか悪いということを意味するのではなく、単なる程度の差を意味するのである。ある者は最高の程度を示し、ある者は中位の程度を示し、またある者は最低の程度を示すということなのである。同じように、人間や動物や植物、
そして、 鉱物が存在する。これら四つの生存物には、程度の差異があるのである。人間と動物の存在には、何という大きな違いがあることか!しかし、双方とも生存物なのである。生存には、程度の違いがあることは明らかである。
さて、遺伝された特質の違いは、体質の強弱の差異から生じる。たとえば、両親が虚弱であれば、その子供も虚弱になる。両親の体力が強ければ、子供もたくましく育つ。同じように、血液の純度も多大な影響を及ぼす。つまり、純粋な胚珠(はいしゅ)は、植物や動物の優越な種のようなものなのである。たとえば、虚弱で体力の弱い両親から生まれる子供は当然、虚弱な体質と神経を持つということは明らかである。その子供らは、苦しみ、忍耐力も持久力もなく、決断力やねばり強さに欠け、短気となる。その子供らは、両親から虚弱な性質を受け継ぐからである。
さらに、ある家系には、特別な祝福が授けられている。イスラエルの子らの預言者はみな、アブラハムの子孫から現れたということは、特別な祝福である。これは、神が、この家系にお与えになった祝福である。モーゼは両親からその血を受け継ぎ、キリストは母親の家系から受け継ぎ、ムハンマドやバブ、
そしてイスラエルの預言者や聖なる顕示者は全て、アブラハムの子孫にあたるのである。『祝福された完全』[7]もまた、アブラハムの直系の子孫にあたる。アブラハムにはイシュマユルとイサク以外にも息子がおり、その息子たちは当時、ペルシャやアフガニスタンの地に移住していたのである。『祝福された完全』は、彼らの子孫にあたるのである。
したがって、遺伝によって受け継がれた性質も存在することは明らかである....(途中省略)...
しかし、文化は多大な影響を及ぼし、それによって生じる性質の違いはまことに大きなものである。教育によって無知な者は学識を得、臆病者は勇敢になるのである。栽培によって、歪んだ(ゆがんだ)枝はまっすぐになり、山や森のすっぱく、苦い実は甘く美味なものになるのである。また、五つの花びらを持つ花は百の花びらを持つようになるのである。教育により、野蛮な国は文明化され、動物でさえも飼い慣らすことができるのである。教育は非常に重要なものとして見なされるべきである。肉体の病気が非常に感染しやすいように、精神や心の特質も、非常に感染しやすいのである。教育は普遍的な影響を及ぼし、それによって生じる差異は非常に大きなものなのである。
おそらく、ある人はこう言うであろう−人々の能力や価値には差があるため、その違いは性質の違いを引き起こすはずである[8]。
しかし、これは、そういうわけではない。なぜなら、能力には二種類あるからである。それは、生来の能力と習得した能力のことである。生来の能力は、神の創造であり、それは全くの善である。神の創造には、
悪[9]そのものはないのである。しかし、習得した能力が、悪が現れる原因となったのである。たとえば、神は、砂糖や蜂蜜によって益を得、毒によって破壊されるよう、全ての人を創り、そのような体質と能力をお与えになったのである。この性質と体質は生来のもので、神はそれを、全ての人に同等にお与えになったのである。しかし、人は、毎日少しずつ取ることにより、徐々に毒に慣れるようにし、次第にそれを増し、つにいは、毎日一グラムのアヘンなしでは生きていけないほどになったりするのである。このようにして、生来の能力は完全にゆがめられてしまうのである。生来の能力や体質がいかに変化し、ついには、様々な習癖や訓練によって、
全くゆがめられてしまうかに注目せよ。人は、その生来の能力や性質について非難されるのではなく、むしろ、その習得された能力や性質のために責めを受けるのである。
創造には、悪は存在しない。全ては善なのである。外見的には非難さるべきように見えるある人々の特質や性質は、実はそうではないのである。たとえば、生まれた時から、ある子供には貪欲や怒りっぽさや短気といった傲慢さが見られるかもしれない。それで、善と悪は人間の本性に生来つきもので、これは、自然と創造の完全な善という性質に反することであるという反論があるかもしれない。これに対する答えは、次の通りである。つまり、ある物をもっと欲しがるという性質は、適切に用いられるなら、賞賛さるべき特質なのである。それで、もし学問や知識を習得することや、憐れみ深く、寛大で公正であることに欲を出すなら、それはまことに賞賛さるべきことである。もし、
残忍な獣(けだもの)のように血に飢えた暴君に対して怒りを示すなら、それもまことに賞賛さるべきことである。しかし、もし人がこれらの性質を正しく用いないなら、それらは責めを受けるべきものなのである。
それでは、創造や自然において悪は全く存在しないことは明らかである。しかし、人の生来の特質が不法に用いられる時、それは責められるべきなのである。もし裕福で寛大な人が、貧しい人の必需品のためにお金を与え、そのお金をその貧しい人が不法なことに使うなら、それは責められるべきことになるのである。それは、人生の主要な部分を成す。あらゆる生来の特質にあてはまることである。もし不法に用いられ、示されるなら、その特質は責めを受けるべきものとなるのである。ゆえに、創造は全くの善であることは明らかである。最悪の性質で最も卑しむべき属性である、
嘘をつくことについて考えてみよ。それは、あらゆる悪の基盤である。これより悪く、責められるべき特質が存在するとは考えられないほどであり、それは、人間のあらゆる完全性を破壊するもので、無数の悪徳のもとなのである。これより悪い性質は存在せず、それは、全ての悪の基盤である。しかし、それにもかかわらず、もし、
医者が、病人を慰めるために、 『ありがたいことに、あなたの容態は良くなっています。回復する見込みがありますよ』と言ったなら、この言葉は真実に反することではあるが、その患者の慰めとなり、病状が変わるきっかけとなるかもしれない。これは責められるべきことではない。
これで、この問題については明白に説明がなされた。
(アブドル・バハ:Some Answered Questions、pp.212-216)
4.進化論
24.(あるヨーロッパの哲学者らが信じている、生存物の成長や発達に関する理論についてお話し下さい)
この主題については先日、話をしたけれども、再びそれについて話をしよう。端的に言って、この問題は『種』(しゅ)の起源について決定することによって解決できるであろう。つまり、人間の『種』は、それ独自の起源があるのか、それとも、後に動物から分かれて生じたのか、ということである。
あるヨーロッパの哲学者たちの間では、『種』は成長し発達し、変化することさえ可能であるということに意見が一致している。この理論に関する彼らの証明のひとつは、地質学による徹底的な研究や立証により、植物は動物より先に存在し、動物は人間より先に存在したことが証明されたということである。植物と動物の『種』はともに変化したことを、彼らは認めている。彼らは、昔、
存在していたが、現在は絶滅した植物を地層の中に発見したのである。その植物は進化し、強さを増し、形や姿を変え、『種』が変化したのである。同じように変化した動物の『種』も、地層の中に見つけられている。そのひとつはヘビである。ヘビには、かつて足があったという証跡があるが、時がたつにつれ、それはなくなってしまった。同じように、人間の脊椎骨には、かつて他の動物のように尾があったという証跡がある。ある時、その部分は役に立ったけれども、やがて人間は進化し、それはもはや役に立たなくなり、次第に消滅してしまったのである。ヘビは地下に隠れ家(かくれが)を求め、這う(はう)動物になるにつれ、足は必要なくなり、消滅したのである。しかし、その痕跡は残っている。最も重要な論点は、次の通りである。つまり、体のある部分の痕跡の存在は、その部分がかつて存在していたことを証明し、それは、今は役に立たなくなったので、徐々に消滅してしまったということである。したがって、完全で必要な部分は残り、必要でない部分は『種』の変化によって、
次第に消滅したのである。しかし、その痕跡は残っているのである。
さて、この議論に対する最初の答えは、次の通りである。つまり、動物が人間より先に存在したという事は、『種』の進化や変化の証明にもならなければ、人間が動物から人間へと進化したことにもならないのである。なぜなら、これらの異なる生存物はそれぞれの起源から別々に現れながらも、人間が動物の後に現れたこともありえるからである。植物界を見れば、異なる樹の実は必ずしも同時に熟しないことがわかる。ある実は先に熟し、ある実は後に熟する。先に熟したからと言って、後に熟した実がその前に熟した実から生じたという証明にはならないのである。
さて、二番目の答えは、次のとおりである。つまり、これらのかすかな形跡や痕跡には、まだ人間の知性には知られていない偉大な理由があるのかもしれないのである。われわれが、まだ理由を知らずにいる事柄はまことにたくさんある。肉体に関する学問である生理学では、動物の色の違いや、人間の髪の毛や、唇の赤さや、鳥の色で多様であることの理由や原因についてはいまだに知られていないと記されている。それはまだ秘密にされ、隠されているのである。しかし、瞳は、太陽光線を引きつけるように黒色になっていることは知られている。もし瞳が別の色、たとえば一様に白であったなら、太陽光線を引きつけることはできないからである。このように、今、
述べたような事柄の理由が知られていないように、動物や人間の身体部分に痕跡がある理由や英知もまだ知られていないということもありうるのである。たとえ知られていなくとも、理由はあるはずである。
次に三番目の答えについて−ある動物、
または人間が、今は消滅してしまった体の部分を持っていた時期があったと仮定してみよう。しかし、これは、『種』の変化や進化の十分な証明にはならない。人間は胎児期の初めから成熟に至るまで様々な形や姿を装い、色や外観や形や容貌は変化する。人間はある形から別の形へ、ある外観から別の外観へと変化するのである。それにもかかわらず、人間は、胎児期の始めから人間の『種』に属するのである。すなわち、人間は人間の胎児であり、動物の胎児ではないのである。しかし、これは最初から明らかではなく、後に明らかになってくる。たとえば、人間はかつて動物に似ており、今は進歩し、変化したと仮定してみよう。いや、前にも述べたように、それは単に、人間の胎児が思慮分別をできるようになり完全になるまでに通過する変化のようなものである。これについてもっと明確に述べてみよう。たとえば、人間は両手両足を使って歩いていた時があった。あるいは、人間には尾があった時があった、と仮定してみよう。この変化は母親の子宮内の胎児の変化のようである。胎児はあらゆる点で変化し、完全な形になるまで成長し、発達するけれども、それは最初から特殊な『種』なのである。また、植物界の『属』の最初の『種』は変化しないが、形や色や大きさは変化し、また進歩しさえすることを見ることができるのである。
要約してみよう。母親の子宮内で、人間はある姿から別の姿へ、ある形から別の形へと変化し、発達したけれども、人間は胎児期の初めから、人間の『種』に属していた。同じように、人間は、この世界という『母体』における存在の初めから、〔他の生存物とは〕別の『種』に属していたのである。人間は徐々に、ある形態から別の形態へと進化したのである。したがって、たとえ、
成長と進歩の真実性を認めたとしても[10]、この外観の変化や、体の部分の進歩や発達や成長は、その『種』が最初から独自のものであることを否定することにはならないのである。人間は、最初からこの完全な姿と構造を備え、肉体的美徳と物質的美徳を得る能力を持ち、『われわれの形に、われわれにかたどって人を造ろう』[11]という言葉の顕示なのであった。人間はただ、より好ましく、美しく、優美になっただけなのである。ちょうど庭師によって栽培された野生の果実が、より純良になり、より甘くなり、一層新鮮になり美味になるように、人間も、文明化によって野蛮な状態から解放されたのである。
人類の庭師とは、神の預言者たちである。
(アブドル・バハ:Some Answered Questions、pp.191-194)
25. (人間は、最初から知性と精神を備えていたのですか?それとも、知性や精神は進化による結果なのですか?)
地上における人間の存在の初めは、母親の子宮内における人間の形成に類似している。子宮内の胎児は、生まれるまでに徐々に成長し、発達し、生後も、思慮分別を得て、成熟するまでさらに成長し、発達し続ける。幼児期に、知性や精神の印は現れるが、まだ完全ではない。成熟して初めて、知性と精神は最高の完全性を示し、明らかになるのである。
この世という母体における人間の形成も、また、最初は胎児のようなものであった。そうして、胎児は、完全性において進歩し、成熟するまで成長し、発達したのであり、知性と精神は最高の能力を示し、明らかとなった。胎児の形成期の初めから、知性や精神は存在していたけれども、それらは隠されていたのであり、後に明らかになったのである。この世界という子宮においても、知性や精神は胎児の中に存在していたけれども、隠されていたのである。種子(しゅし)の内部に樹は存在するが、それはまだ秘められ、隠されている。それが発達し、成長すると、完全な樹が現れるのである。同じように、あらゆる生存物は徐々に成長し、発達するのであるが、これは、神の普遍的な組織であり、自然の体系なのである。種は、すぐに樹になることはない。胎児はすぐに大人になることはない。鉱物も突然、石になることはない。いや、これらのものは徐々に成長し、発達し、完全になるのである。
あらゆる生存物は、大小にかかわらず、初めから完全かつ完璧に創造されていたが、その完全性は徐々に明らかになっていくのである。神の組織はひとつであり、生存物の進化はひとつであり、神の体系もひとつである。大小にかかわらず、あらゆる生存物は、ひとつの法則と体系によって支配されているのである。種はそれぞれ、その内部に、初めから植物のあらゆる完全性を備えている。たとえば、種子(しゅし)には初めから、植物のあらゆる完全性が備わっているが、それは最初目に見えず、後になって徐々に現れてくるのである。しかしこれらのものは全て、種子(しゅし)の存在の初めから、外見的にではないけれども潜在的に種の内部に存在するのである。
同じように、胎児は、初めから、精神や知性、視覚や嗅覚や味覚といったあらゆる完全性、つまりあらゆる能力を備えているのである。しかし、それらは最初、明らかでなく、徐々に明らかになってくるのである。
同じように、地球は、初めから、そのあらゆる要素や物質、鉱物や原子や有機体によって創造されていた。しかし、それらは徐々に現れてきたのである。まず、
鉱物が現れ、次に植物が、そして動物が現れ、最後に、人間が現れたのである。これらの種族や種(しゅ)は、初めから存在してはいたけれども、地球において未発達の状態にあり、徐々に現れてきたのである。神の最高の組織と普遍的な自然体系はあらゆる生存物を包み込み、全てはこの規則によって支配されているのである。この普遍的な体系について考えてみると、最初から完全な姿で現れた生存物はひとつもないことがわかる。いや、生存物は徐々に成長し、発達し、完全になるのである。
(アブドル・バハ:Some Answered Questions、pp.198-199)
26. さて、われわれは、『種』(しゅ)の変化や有機的発達という主題に話を進めることになった。つまり、人間は動物から分かれて生じたのかどうか、という問題についてである。
この理論は、あるヨーロッパの哲学者たちによって信じられており、今、その誤りについて理解させることは非常に困難である。しかし、
将来、その誤りは明らかとなり、彼ら自身も、それが偽りであることを悟るであろう。というのは、それはまことに、明らかに誤りなのであるから。鋭い洞察力にて生存物に目を向け、その状態を注意深く調べ、この世界の状態や組織や完全性を見てみよう。そうすれば人は、この世において、現在すでに存在するものよりすばらしいものがありえないことを確信するであろう。地球も天体も、この無限の宇宙やそこに存在するあらゆるものも全て、本来そうあるべき姿として創造され、編成され、構成され、配列され、完成されている。宇宙には不完全な点はなく、もし全生存物が完全なる知性となり、永遠に熟考し続けたとしても、今、
存在するものよりすばらしいものを考えることはできない。
しかし、もし、創造が以前、最高の完全性にて飾られていなかったとしたら、生存は不完全かつ無意味であったであろう。この問題は、最大の注意を払い、最も思慮深く考慮する必要がある。たとえば、この依存的世界[12]は全般的に、人間の肉体に類似していると考えてみよう。もし、肉体に今、
存在する、この構成や組織や美や完全性が異なるものであったら、それは全く不完全なものになってしまうであろう。さて、もし、われわれが人間はかつて動物界に属し、または単なる動物であったと考えるなら、生存は不完全なものであったことがわかるであろう。つまり、人間が存在しなかったということは、人間の頭脳や知性のような主要な部分が欠けていたということになるのである。それでは、この世界は全く不完全であったことになる。したがって、もし、人間が動物界に属していた時期があったとするなら、生存の完全性が破壊されてしまったであろうことが証明された。人間は創造物の中で、
最も偉大なる存在であると考えられている。なぜなら、人間は、存在する完全性の全てが総和されたものであるからである。この『人間』という存在について語る時、われわれが意味するものは、完璧な人間、この世界における最高の人物のことである。それは、精神的な完全性と外見的完全性の全てが総和された存在であり、生存物中の太陽のようなものである。それでは、かつて太陽は存在せず、それは惑星であったと考えてみよう。そのような時期には、確かに、生存の関係は混乱していたはずである。どうしてそのような状態を想像することができよう?生存の世界を調べる者にとっては、われわれがこれまでに述べたことで十分な説明となるのである。
しかし、もうひとつ、捉え(とらえ)にくい証拠がある。人間や動物や植物や鉱物など、この世界に存在する限りない生存物は、全て、様々な要素から構成されている。全ての生存物に見られるこの完全性は、神の創造により、構成元素からそれらを適当に混合し、
分量を配分し、 組成の様式をつくり、 他の存在からの影響を通して生じたものであることは、疑いようがない。あらゆる生存物は、鎖のようにつながっているからである。そして、物事の特性に属する相互援助や相互作用が、創造物の生存や発達や成長の原因なのである。あらゆる生存物は普遍的に、
絶対的に、あるいは関連的に、 お互いに影響を及ぼしあうことは、様々な証拠や証明によって確立されていることである。最後に、原子や部分や能力に関して、人間や他の生存物に見られる完全性は、様々な元素の構成や程度やつり合い、その構成様式や相互への影響によるものである。これらの全てがそろう時、人間が存在するのである。
人間の完全性は、全く、原子の構成や程度やその混合様式や様々な生存物の相互影響や作用によるものである。さらに、人間は、
一万年、 または十万年前にも、これらの地球の物質により、同じ程度と均衡と混合様式、そして他の生存物からの同じ影響を通して作り出されていたのだから、その時も、今と全く同じ人間が存在していたのである。これは明らかなことであり、議論する必要はない。したがって、これから10億年後に、人間を構成するこれらの成分が、この特定な割合において集められ、構成され、同じ方式に応じて組み合わされ、他の生存物による同じ影響を受けるなら、その時も、全く同じような人間が存在するのである。たとえば、今から10万年後に、現在のランプに必要な油や火やランプの芯やランプ、 そしてランプの火をつける物などが存在するなら、全く同じようなランプができるのである。 これらは、決定的かつ明白な事実である。しかし、これらのヨーロッパの哲学者らが用いる論点は疑問点がある証明であり、決定的ではない。
(アブドル・バハ:Some Answered Questions、pp.177-179)
5.超能力
27.(ある人たちは、霊との交わりといった精神的な発見をできると信じています。これは、どのような交わりのことなのですか?)
精神的な発見には二種類ある。ひとつは想像であり、これは、いく人かの人々が主張しているにすぎない。もうひとつは、霊感のようなもので、現実のものである。それは、イザヤ、エレミヤ、
そして聖ヨハネなどの啓示のようなもので、現実のものなのである。
人間の思考には二種類の力があるということについて考えよ。ひとつは真実のもので、定められた真理と一致する時に起こるものである。そのような考えは、外的な世界において実現する。たとえば、正しい意見や理論、科学的な発明や発見などである。
もうひとつは、実りなく空しいもので、現実性に欠けた空虚で役に立たない思考や考えである。いや、そのような考えは、想像の海の波のように押し寄せては、はかない夢のごとく消え去ってゆくのである。[13]
同じように、精神的な発見というものにも、二種類ある。ひとつは、預言者らの啓示や神の選民による精神的な発見である。預言者らの先見は夢ではなく、むしろ精神的な発見であり、現実のものである。預言者らは、たとえば、『私はある人がこのような姿で現れたのを見、その人はこれこれと語り、私はしかじかと答えた』と言ったりする。これは、目が覚めている時の世界のもので、眠りの世界に属するものではない。いや、それは、実際に像が現れたかのように表現された精神的な発見なのである。
もうひとつの精神的な発見は、全くの想像から成っているものであるが、愚かな人々がそれは現実のものであると信じるように表現されているのである。それが想像にすぎないことの明らかな証拠は、この霊をコントロールするということによって何の実りも成果も生じていないということである。いや、それらは、作り話にすぎないのである。
人間の本質は、事物の本質を包みこみ、事物の真理や特性や秘密を発見するということを知りなさい。このような技術や科学や知識や驚くべき事柄はみな、人間の本質によって発見されたものである。ある時、これらの科学知識や技術や驚くべき事柄は隠されており、秘密であった。そして、人間の本質により、徐々に発見され、目に見えぬ領域から目に見える領域にもたらされたのである。ゆえに、人間の本質が事物を包みこむことは明らかである。それで、人間の本質はヨーロッパにいながらアメリカを発見し、地球にいながら天空の事柄の発見をするのである。それは、事物の秘密を明かし、存在するものの本質について知ることができるのである。現実と一致するこのような発見は、啓示に似ている。啓示は、精神的な理解や聖なる霊感、そして人間の精神の交わりなのである。たとえば、預言者は『私はこういうものを見、こう語り、このようなことを聞いた』と言ったりする。したがって、目や耳といった五感の仲介なしに精神が偉大な知覚をすることは明らかである。精神性の高い者らは、精神的な理解や発見をし、想像や空想から清められた霊的な交わりをなし、時間と空間から聖別された交わりをなすのである。たとえば福音書には、タボル山にて、モーゼやエリヤがキリストの所へ会いに来たことが記されている。これが肉体的なことでないことは明らかである。それは、肉体的に現れたかのように表現されていた精神的な状態のことなのである。
これとは別の、霊の会話や出現や交わりは単なる想像や空想にすぎず、現実のもののように見えるだけなのである。
真理は、人間の知性や思考によって、 ときおり発見される。そして、この思考や発見によって、証拠や成果が生じるのである。このような思考には、基盤がある。しかし、人間の心には、想像の海の波のごとき多くの事柄が押し寄せてくる。そのようなものには実りも成果もないのである。同じように、人は、眠りの世界において、ある光景を見、それがその通りに実現する時もあれば、ある時は、全く何の結果も生じないような夢を見る時もあるのである。
われわれが意味することは、次の通りである。つまり、われわれが、霊の会話や交わりと呼ぶこのような状態には二種類あるということである。ひとつは、単なる想像上のものであり、もうひとつは、聖なる書に記されているようなものである。たとえば、聖ヨハネやイザヤの啓示、キリストがモーゼやエリヤと会ったことなどは、後者に属するものである。これらの事柄は真実のもので、人々の知性や思考にすばらしい効果を現し、人々の心を引きつけるのである。
(アブドル・バハ:Some Answered Questions、pp. 251-253)
28. この世にいる間、心霊力に干渉することは、来るべき次の世での魂の状態に障害をきたすことになる。この心霊力は実際に存在するが、通常、この生存段階[14]においては活発ではないのである。子宮内の子供には、目や耳や手足があるが、まだ活動を開始していない。物質世界での生活の目的の全ては、『真理』の世界[15]に入るようになることであり、その世界では、そのような心霊力が活発となる。心霊力は、その世界に属するものなのである。(アブドル・バハ:Bahá’u’lláh and the New Era、p193)
29. 端的に言って、真実で意義のある幻想[16]がときおり個人に起こることは、疑いのないことです。しかし、これは神の恩恵を通してその人に起きることであり、人間の機能を働かすことによって起きることではありません。そのような機能を発達させようとすべきではありません。幻視や夢を楽しむために、そのような機能を発達させることは、実際、精神的な能力を弱めることになるのです。このように、そのような状況の下では、夢や幻視にはいかなる現実性もなく、結局は、人の性質を破壊することになるのです。
(ショーギ・エフェンディの代理からある信者にあてられた手紙より、5/6/52:Lights of Guidance、p.390)
6.霊魂再来・輪廻転生
30.(ある人が信じている霊魂再来についてお話し下さい)
我々が今から述べることの目的は、真実について説明するためであり、他人の信じることをあざけるためではない。それは真実について説明すること、ただそれだけである。われわれは、誰の考えに反対するわけでもなければ、非難することを認めもしない。
霊魂の再来を信じる人々には二種類ある。ひとつは、別の世界[17]での精神的処置や報酬を信じず、霊魂再来によって人間はこの世に戻り、報いや償いを得るとするものである。この考えを信じる人々は、天国と地獄はこの世に属するものとなし、別の世界の存在については語らないのである。彼らは、さらに二つの部類に分けられる。ひとつは、厳しい処罰を受けるために、人間は時おり、
動物の姿としてこの世に戻ってきて、この苦痛や苦悶を耐えた後、動物界から解放され、人間界に戻ってくると考えるものである。これは転生と呼ばれている。もうひとつの部類は、人間は、人間界から再び人間界に戻り、再来することによって前生の報酬を得たり、処罰を受けたりすると考える。これは、霊魂再来と呼ばれている。この二つの部類に属する人々は、この世以外の世界については語らない。
霊魂再来のもうひとつ別の部類に属する人々は、別の世界が存在することを肯定し、霊魂再来を、完全になるための手段と考えるのである。つまり、人間は、この世を去り、再び戻ってくることによって、最高の完全性に達するまで徐々に完全になっていくと考えられているのである。別の言葉で言えば、人間は物質と力から成っており、物質は初め(つまり第一の周期において)は不完全であるが、くり返しこの世に現れることによって磨かれた鏡のようになるまで進歩し、優雅かつ優美になるのである。そして力――それは精神に他ならないのだが――は、あらゆる完全性とともに、物質において実現されるのである。
以上が、霊魂再来と転生を信じる人々がこの主題について述べることである。詳しいことを述べ始めたら、とても長くなるので、われわれはそれを要約したし、この要約で十分である。この問題に関する論理的な議論や証明は示されていない・・・証明は、推測や仮定や想像によってではなく、霊魂再来を信じる人々から求めるべきである。
しかし、あなたは、霊魂再来が不可能であるとする論拠は何か、と尋ねた。これについて、われわれは説明せねばならない。その第一の論拠は、外面は内面の表現であり、地球は神の国の鏡であり、そして物質界は精神界と一致するということである。知覚できる世界において、同じ外観を装うものがいくつも現れることがないことを見てみよう。ある生存物が他の生存物と全く同じであることは決してない。単一性の証拠は、あらゆるものにおいて明らかである。たとえ、世界中の穀物倉庫が穀物で一杯になったとしても、いかなる差異もない全く同一の穀粒を見つけることはできないであろう。それらの穀粒の間には、何らかの差異が見られることは確かである。単一性の証拠は全てのものに存在し、神の単一性と唯一性はあらゆるものの本質にて明らかであるゆえに、同じ外観を装うものがいくつも現れることは不可能なのである。したがって、同じ精神が、この外観の世界[18]に、前と同じ本質と状態でくり返し現れるという霊魂再来は不可能なのであり、ありえないのである。同じ外観のものがいくつもくり返し現れることは、物質的生存物にとって不可能であり、禁ぜられている。同じように、精神的生存物にとっても、同じ状態にもどることは、下降の『円弧』[19]においてにせよ、上昇の『円弧』においてにせよ、禁ぜられており、不可能なのである。なぜなら、物質性は精神性と一致するからである。
それにもかかわらず、『種』に関して、物質的生存物が再来することは明らかである。たとえば、これまで葉や花や実をもたらしてきた樹は、これからも、全く同じ葉や花や実をもたらすのである。これは『種』のくり返しと呼ばれている。ある人はこれについて次のように異議を唱えるかもしれない。つまり、その葉や花や実は分解され、植物界から鉱物界に移され、再び植物界へ戻ってきた。したがって、同じ植物がくり返し現れたのだ、と。これに対する答えは、次の通りである。昨年の葉や花や実は分解され、これらの混合成分は崩壊し、宇宙へ散らばってしまったのであり、昨年の葉や実を構成していた粒子は、分解された後に、再び混合され戻ってきたのではない。むしろ、新しい成分の構成により、
同じ『種』が戻ってきたのである。これは、人間の肉体についても同じである。それは、分解後、崩壊し、それを構成していた成分は散らばってしまう。もし同じように、この肉体が鉱物界や植物界から再び戻ってきても、それは、以前と全く同じ成分を構成することはないのである。それらの成分は分解され、散らばってしまい、この広大な宇宙に消散してしまったのである。後に、他の粒子が構成され、また別の肉体が形成されたのである。以前の肉体の粒子のひとつが、新しい肉体の構成部分に含まれているかもしれない。しかし、これらの粒子につけ加えられたり、減らされたりすることなく、それらが全て、正確に保存され、再び構成され、別の肉体が現れることはないのである。したがって、この肉体は全く同じ粒子とともに再来した。そして以前の人間がこの新しい人間となり、くり返し現れたという証明はできないのである。また、精神も、肉体と同じように再来し、死後もその本質がこの世に戻ってきたという証明にはならないのである。
もし、われわれが、この霊魂再来は完全になるためのもので、物質がさらに優雅かつ優美になり、精神の光が最大の完全性とともに物質にて顕示されるようになるためのものであると言うなら、これもまた、単なる想像にすぎない。この論拠を信じたとしても、性質の変化は、更新されたり再来したりすることによって起きることは不可能なのである。不完全性の本質は、再び戻ってくることによって完全性の本質になりはしない。完全な暗闇は、戻ってくることによって光の源になりはしないし、弱さの本質は、戻ってくることによって力や強さに変わることはない。また、現世的な性質は天の本質になることもない。ザクームの樹[20]は、何度戻ってこようと、甘い実を結ぶことはないし、上等な樹は何度戻ってこようと、苦い実を結ぶことはないのである。ゆえに、この物質世界に何度も戻ってきても、より完全になることにはならないことは明らかである。この理論には、いかなる証明も証拠もない。それは単なる考えにすぎない。いや、現実には、完全になることは、神の恩恵によるのである。
神知学者らは、上昇の円弧[21]上の人間は『最高の中心点』に達するまで何度も戻ってくると信じている。その状態では、物質は汚れのない鏡となり、精神の光は、その鏡にて最高に輝き、本質的な完全性に達するのである。これは、確立された、深遠な神学的論説である。つまり、物質世界は降下の円弧の終点で終わり、人間は、下降の円弧の終点にあり、上昇の円弧の出発点にあるということである。そして、上昇の円弧の出発点は、『最高の中心点』の反対側にあるのである。また、上昇の円弧の出発点から終点の間には多数の精神的なレベルがある。下降の円弧は『始まり』[22]と呼ばれ、上昇の円弧は『進歩』[23]と呼ばれている。下降の円弧は物質的に終り、上昇の円弧は精神性に終る。円を描くにあたって、コンパスの先が後退することはない。それは自然の動きと聖なる秩序に反することだからである。もしそうでなかったら、
円の対称的つり合いはくずれてしまうであろう。
さらに、この物質世界には、この檻を抜け出した後に、
再びこのわなに落ちこみたいと人が欲するほどの価値も優れた点もない。いや、むしろ、人間の価値や真の能力は、『永遠なる恩恵』を通して、再び同じ状態に戻ってくることではなく、むしろ、さまざまな段階での生存を通過し、経験することによって明らかにされるのである。貝殻は、一旦開かれると、そこに真珠があるか、それとも価値のない物があるか、明らかにされる。植物は、一旦成長すると、とげを生じるか、あるいは花を開くかが明らかとなり、再び成長し直す必要はない。さらに、自然の法則に従い、一直線に前進することは生存のもとであり、自然の体系や法則にさからって動くことは、不存在のもとになるのである。死後にも魂が再来することは、自然な動きにさからうことになり、聖なる体系に反しているのである。
したがって、再来することによって生存することは全く不可能なのである。それは、人が子宮から出てきた後に再び、そこへ戻っていくようなものである。霊魂の再来や転生を信じることは、いかにたわいのない想像を意味しているか考えてみよ。それを信じる人々は、コップが水を収容しているように、肉体は、精神を収容している器と考えているのである。そうして、この水はあるコップから別のコップへ移されるとするのである。これは、子供の遊びのようにたわいない考えである。精神は、物質ではなく、出たり入ったりすることはなく、また、太陽が鏡に映し出されているように、肉体とつながっているだけなのだということを、彼らは理解していない。もし肉体が精神を収容し、精神がこの物質世界に戻ってくることによって様々な段階を通過し、本質的な完全性に達することができるのなら、物質世界における精神の生命を神が長くされ、それによって完全性や美徳が得られるようになった方がましである。そうすれば、死のコップを味わう必要もなければ、再び生まれる必要もなくなるのである。
生存は、この滅ぶべき世界に限られていると考えたり、神の様々な世界の存在を否定したりすることは、元来、霊魂再来を信じる人々の想像によるものなのである。しかし、神の世界は無限にある。もし、
神の世界の最高点がこの物質世界であるとしたら、創造は無駄に終わってしまうであろう。いや、生存は単なる子供の遊びのようにたあいのないものになってしまうであろう。これらの無限の生存物という結果は高潔なる人間の存在なのであるが、この存在は、この滅ぶべき住まいで数日間行き来するだけで終わってしまうのであり、処罰や報酬を受けたりしてようやく、
全ては完璧になることになるのである。そうして、神の創造や無数の生存物は完全かつ完璧になり、主の神性や神の名称や特質は、これらの精神的生存物の代わりに、怠惰と不活発な結果になってしまうであろう!『彼らのあらゆる描写から聖別された御方なる汝の主に、栄光あれ。』[24]
以前の哲学者らの限られた知性とは、そのようなものであった。たとえば、プトレマイオスやその他の者らは、世界や生命や生存はこの地球に限られており、この無限の宇宙は九つの天体に限られ、全ては空虚で何もないものと想像し、信じていたのである。彼らの考えがいかに限られたもので、彼らの知性はいかに弱いものであったか、考えてみよ。霊魂再来を信じる者らは、精神的な世界は、人間の想像の世界に属すものと考えている。さらに、彼らの間には、ドルーズ派やヌーセイリ派の人々のように、生存はこの物質世界に限られていると考えているのである。何という無知な推測であることか。最高の完全性と美と壮大にて現れる、神のこの宇宙には、輝かしい星の数は無限である。それでは、本質的な基盤である精神的世界はいかに無限であるか、われわれはじっくりと考えてみるべきである。『見る目を授けられた者らは、よく注意を払うがよい。』[25]
それでは主題に戻ろう。聖なる経典や書の中では、『再来』について語られている。しかし、無知な人々は、その意味を理解できず、霊魂再来を信じる者らは、これについて推測した。神の預言者らが『再来』について意味したことは、本質の再来ではなく、特質の再来のことであった。それは、その顕示者の再来ではなく、完全性の再来のことなのである。福音書には、ザカリアの息子ヨハネはエリヤであると記されている。これは、エリヤの魂や人がヨハネの肉体において再来したという意味ではなく、エリヤの完全性や物質がヨハネにおいて顕現され、現れたということなのである。
昨夜、この部屋には明かりがついていた。今夜、別の明かりがともされると、われわれは、昨夜の光が再び輝いていると言う。水が泉から湧きい出、止まる。また湧きい出ると、同じ水がまた湧きい出ている、とわれわれは言う。また、この光は前の光と同じものであると言ったりする。昨年の春、ある花が開き、甘い香りのする草木に花が咲き、美味な実が生じた。そして今年、われわれは、その美味な実や花が再び戻ってきた、と言うのである。これは、昨年の花を構成していたのと全く同一の粒子が、分解後再び混合され、戻ってきたという意味ではない。いや、それは、昨年の花の美しさや新鮮さやよい香りやすばらしい色が、全く同じように今年の花において明らかになったということなのである。端的に言って、この表現は、昨年の花と今年の花の類似点について言及しているのである。聖典の中で語られている『再来』とは、このようなことを意味しているのである。それは、『最高のペン』[26]によって、
『ケタベ・イガン』[27]の中で十分に説明してある。それを参照せよ。そうすれば、聖なる神秘の真理について知ることができよう。 (アブドル・バハ:Some Answered Questions、pp282-289)
7.宿命、運命[28]そして、
自由意志
31. おお、わが『樹』の実よ。運命と宿命に関する『最高なる命令者』の命令には二種類あることを知れ。両方とも従い、受け入れられるべきである。一方は変えることができないもので、他方は、人々が名づけたように『差し迫った』ものである。前者に対しては、あらゆる者は完全に従わねばならぬ。それは不変であり、確定されたものだからである。しかし神は、それを変更したり取り消したりすることができるのである。その命令を変えることは、そのままにしておくより害を生じることになるので、全ての者は、神がお望みになったことに喜んで黙従し、確信を持ってそれに従うべきである。
しかし、差し迫った命令は、祈りや嘆願によって避けることができるのである。 (バハオラ:Gleanings from the Writings
of Bahá’u’lláh、LXVIII、p.133)
32.(聖なる書の中で言及されている、 宿命とは定められたことなのですか?もしそうなら、それを避けようとしても無駄なのではないですか?)
運命には二種類ある。ひとつは『定められた』運命で、もうひとつは、『条件付きの』、
あるいは、 『差し迫った』運命である。定められた運命とは、変えることができないもので、条件付きの運命とは、起こりうる事柄のことである。たとえば、このランプに定められた運命とは、油が燃え、やがて燃え尽きてしまうということである。火は、最終的に消えてしまうことは定められた運命であるがゆえに、変えることのできない運命なのである。同じように、人間の肉体には生命力が創り出されるが、その生命力が破壊されるやいなや、肉体は確実に分解してしまう。このランプの火が燃え、やがて燃え尽きてしまうとその明かりは消え去ってしまうのである。
しかし、条件付きの運命とは、次のようなものである。たとえば、
油がまだ残っているうちに、強い風が吹き、ランプの火を消してしまう。これは条件付きの運命である。そのような運命を避け、自らを守り、警戒し、慎重であることは賢明である。しかし、ランプの油がやがてなくなってしまうといった定められた運命は、変更したり遅らせたりすることができないのである。ランプの火がやがて消えることは、避けられないことなのである。 (アブドル・バハ:Some Answered Questions、p.244)
33.(もし神が、人がなす行為についてすでにご存知であり、運命の書簡にその行為が記されてあるなら、それに抵抗することはできないのではないのですか?)
ある事柄が起きることを予知することは、それが実際に起きることの原因にはならないのである。神の本質的な知識も、同じように、事物が存在する前も後も、その本質を包みこむのであるが、それは、その事物が存在する原因とはならないのである。聖書の『約束された人物』に関して、神の霊感により預言者らの口を通して予言されたことは、キリストの顕現の原因ではなかったのである。
未来に関する隠された秘密は、預言者たちに啓示された。こうして彼らは、自らが告げた未来の出来事について知ったのである。しかし、このような知識や予言は、その出来事が起きる原因ではなかったのである。たとえば、これから七時間後に日が昇るということを、今晩、誰もが知っている。しかし、全ての人があらかじめこのことを知っているということは、日が現れ、昇ることの原因にはならない。
したがって、依存的世界における神の知識は、事物を生じさすことにはならないのである。それどころか、神のそのような知識は、過去と現在と未来から清められているのである。それは、事物の本質と同一のものであり、事物の出現の原因ではないのである。
同じように、『書』の中である事柄が記され、言及されていることは、その事柄が存在する原因とはならないのである。預言者らは、神の霊感を通して、何が起こるかを知っていたのである。たとえば、彼らは、神の霊感を通して、キリストの殉教について知っていたので、そのことを告げたのである。では、彼らの知識や情報が、キリストの殉教の原因になったのであろうか?いや、この知識は、預言者らの完全性なのであり、殉教を引き起こしたのではない。
天文学的な計算により、数学者らは、ある時刻に、月食や日食が起きることを知っている。もちろん、このことが、月食や日食を引き起こすわけではないのである。この説明は、単なる類比であり、正確な比喩ではないが。
(アブドル・バハ:Some Answered Questions、pp.138-139)
34. 汝は、運命と宿命と意志について尋ねた。運命と宿命は、事物の本質において存在する必要不可欠な関係にある。これらの関係は、創造の力によって、生存物の本質に置かれたのであり、あらゆる出来事やその必要な関係の結果なのである。たとえば、神は、太陽光線が放たれ、土が作物を産するように、太陽と地球の関係をお創りになった。このような関係が宿命を成すのであり、生存のレベルにおけるその顕現が運命なのである。意志とは、これらの関係や出来事をコントロールする力のことである。これが、運命と宿命に関する説明の要約である。詳しい説明をする時間は、今ない。これについて黙想せよ。そうして、運命と宿命と意志に関する真理が明らかになるであろう。(アブドル・バハ:Selections from the
Writings of ‘Abdu’l-Bahá、p.198)
35.(人は、あらゆる行為を自由になすことができるのですか?それとも、
人は強制され、制限を受けているのですか?)
これは、聖なる問題の中で、 最も重要かつ難解なもののひとつである・・・ある事柄は、人の自由意志しだいで決められる。たとえば、正義や公平、残虐行為や不公平などで、つまり善行と悪行である。このような行為はほとんど、人の意志しだいによることは、明らかである。しかし、人には、無理に強いられる事柄もある。たとえば、睡眠や死、病気や衰弱、負傷や災害といった事柄である。このような事柄は人の意志によって避けることはできず、よって人は、それらに対する責任はない。人は、それらのことに耐えるよう、強いられているのである。しかし、善行と悪行のどちらをなすかは、人の自由であり、人は、自らの意志に応じて行いをなすのである。
たとえば、人は、そう望むなら、神を賛美することに時を過ごすこともできれば、他の事について考えることもできる。また、
神の愛によって火をつけられた明かりにもなれば、人類を愛する博愛者にもなれる。人々を憎むこともできれば、物質的な事柄に夢中にもなれる。このような行為は、人自身の意志によってコントロールされるものである。したがって、人は、そのような行為に対する責任があるのである。
しかし、また別の疑問が浮かんでくる。つまり、人は全く無力で、依存的存在であるということである。特に、勢力や権力というものは、神に属するものであるのだから。地位の向上も屈辱も、最も高遠な御方のお望みしだいなのである。
新約聖書には、神は『ひとつを尊い器に、そして他を卑しい器に』造りあげる陶工のようであると記されている。しかし、卑しい器は、『なぜあなたは、私を、手から手へと渡されるような貴重な茶碗に造ってくれなかったのですか』と言って、陶工を非難する権利はない。この節の意味は、生存物の状態には差異がある、ということである。たとえば、鉱物のように、生存の最も低いレベルの状態にあるものは、『おお、神よ、あなたはなぜ私に植物の完全性を授けて下さらなかったのですか』と不平を述べる権利はないのである。同じように、植物も、動物の完全性を与えられなかったことについて不平を述べる権利はないのである。また、動物が、人間の完全性に欠けていることについて不平を述べることもふさわしくない。いや、あらゆるものは、それぞれの段階において完全なのであり、その段階において、完全性に達する努力をすべきなのである。今述べたように、低レベルの生存物には、高レベルの生存物の完全性を得る権利もなければ、そうするにも適していないのである。いや、それは、その段階において進歩せねばならないのである。
さらに、人間が活動することと不活動であることは、神の援助に依存するのである。もし援助がなかったら、人は、善行も悪行もなすことができない。しかし、生存するための援助が、寛大なる主から来ると、人は、善行も悪行もなすことができるのである。しかし、援助が断たれると、人は無力になるのである。これが、聖なる書の中で、神の助けや援助について述べられている理由である。たとえば、この状態は、風力や蒸気力によって動かされる船のようである。もし、これらの力がなかったら、船は全く動くことができない。それにもかかわらず、船の舵は、どちらへも向けられるし、蒸気力は、船の望む方向へ動かしてくれる。もし、
東へ船を向ければ、東へ進む、西へ向ければ、西へ進む。この動きは、船によってなされるのではなく、むしろ、風や蒸気によって起こされるのである。
同じように、人間の動作に関しても、人は、神の助けによって、その動作の力を得るのである。しかし、善悪の選択は、人間自身に任されている。たとえば、ある国王が、ある者をある都市の知事に任命し、その知事に権力を与え、法律に応じて、何が正義で何が不正かを示したとしよう。そして、もし、この知事が不正行為をなしたなら、たとえ、国王の権威と権力によって行動したとしても、国王には、不正の罪はないのである。しかし、もし、その知事が正義にて行動するなら、その行為もまた、国王の権威を通してなされるのである。そしてその場合、国王は喜び、満足するであろう。
つまり、善悪の選択は、人間に任されているが、人は、あらゆる状況の下で、生命を維持する援助に依存しているのである。そして、その援助は、全能なる御方から来るのである。神の王国はまことに偉大であり、全ては、神の力によって支配されているのである。しもべは、自らの意志では何もできないのである。神は力に満ち給い、全能にして、全生存物の援助者であられる。
この問いについては、これで明白に説明された。 (アブドル・バハ:Some Answered Questions、pp.248-250)
8.試練、困難、苦しみ
8.1. 苦難の種類と意義
36.おお人の子よ!わが災厄はわが摂理である。外見は火であり復讐であるが、内面は光明と慈愛である。汝、永遠の光となり不滅の精霊とならんがためにそれに向かって急げ。これはわが汝への命令である。これを守れ。(バハオラ:「隠されたる言葉」、
アラビア編、 #51」
37. おお神よ、あなたにおそば近く仕える者にとってあなたの試練は妙薬であり、あなたを愛する者にとってあなたの剣は熱烈な願望におわします。(バハオラ:「祈りの書」、p.38)
38.苦難には二種類あることを知れ。ひとつは魂を試すためのもので、もうひとつは行いに対する罰である。魂を試す苦難は教育的かつ進歩的であるが、行いに対する罰としての苦難は、
厳しい当然の処罰である。(アブドル・バハ:The
Divine Art of Living、p.89)
39.試練は神からの恩恵である。われわれはそれについて、神に感謝すべきである。悲しいことは、偶然にわれわれの身に降りかかるわけではない。それは、われわれがより完璧になれるよう、神の慈悲を通して送られてくるのである。(アブドル・バハ:The Divine Art of Living、p.89)
40.誠実な者にとって、試練は、崇高なる御方、神からの贈り物のようなものである。なぜなら、勇ましき者らは、最高の喜びにて、すさまじい戦場へと急ぐのに反し、臆病者は震え、おののき、うめき、嘆きを発するのであるから。(アブドル・バハ:The Divine Art of Living、p.90)
41.人の試練には二種類ある。(1)人自身の行為の結果であるもの。つまり、食べすぎれば消化作用に変調をきたし、毒を飲めば、病気になるか、死ぬ、ばくちをやれば金を失い、飲みすぎれば体調を崩す、といった具合である。このような苦しみは全て、人が自ら招くものであり、したがって、人生の悲しみのいくつかは、われわれ自身の行為の結果によるものである。
(2)もうひとつの苦しみとは、神の忠実なる者らの身に降りかかる苦しみである。キリストやその使徒らが、耐え忍んだ苦難について考えてみよ!
最も多くの苦難を経験する者が最高の完全性に達するのである・・・
人は幸せな間は、とかく神のことを忘れるものである。しかし、悲しみに襲われ、その悲しみに圧倒されると、人は、自分を屈辱から救い出してくれる力を持った、天にいます父のことを思い出すのである。
苦難のない者は、より完璧になれない。植物でも庭師が最も念入りに手入れしたものが、夏には最も美しい花を咲かせ、最も豊かな実を結ぶのである。(アブドル・バハ:「パリでの講和集」、
pp.66-68、 改訳)
この世の性質
42. 苦難と苦悩の倉庫−この世とはそんなものである。この世に人を縛りつけるものは、無知である。君主から最もみすぼらしい平民に至るまで、誰とても、安楽を確保することはできないのである。もしこの人生で一度楽を味わったなら、続いて百の苦が訪れるであろう。この世の状態とはそんなものである。ゆえに賢い者は、この世に愛着を持ちもしなければ、それに頼りもしないのである。(アブドル・バハ:Selections from the
Writings of ‘Abdu’l-Bahá、p.200)
43. 神から送られる試練や苦難はこの世においてのみ、起こるもので、神の国の世界[29]では起こらないのである。 (アブドル・バハ:Selections from the
Writings of ‘Abdu’l-Bahá、p.194)
苦しみに対する態度
44.おお人の子よ!汝、繁栄の中にあるとも喜ぶな。汝、またおちぶれるとも悲しむな。二つながら過ぎ去り、消え去るものなれば。(バハオラ:「隠されたる言葉」、
アラビア編、 #52)
45. おお実在の子よ!もし貧困が汝を襲うとも悲しむな。早晩、
富の主が汝を訪れるであろうから。屈辱を恐れるな。神の栄光がいつか汝の上に留まるであろうから。(バハオラ:「隠されたる言葉」、 アラビア編、 #53)
46 おおわが侍女の子よ!貧困にわずらうな。富を信頼するな。貧困には富が次ぎ、富には貧困が次ぐものなれば。されど神以外のすべてのものに貧しくあることは驚くべき賜物である。その価値を軽視するな。結局は、それは汝を神で富ましむれば。かくて汝、
『げに汝らは貧者なり』という言葉の意味を知り、また、 『神こそすべての所有者なり』という聖語は、まことの朝の如く、愛さるるものの心の地平線から堂々と輝き出で、富の玉座の上にしっかりと留まるであろう。(バハオラ:「隠されたる言葉」、
ペルシャ編、 #51)
47. 私はあなたの一体性と唯一性とを証言し、また、あなたが神に在し、あなたの他に神はいまさぬことを証言いたします。まことにあなたは大業を啓示し給い、聖約を果たし給い、天と地に住むすべての者に対し、御恩寵の扉を広く開き給いました。願わくは、祝福と平安、祝賀と栄光があなたの愛し給う人々の上にあらんことを。彼らこそは世の移り変わりや異変にもめげず、あなたに向かうことを妨げられることなく、あなたと共にあるものを得ることのみを願い、一切をささげまつったのであります。まことにあなたは常に許し給い、寛大なる御方に在します。 (バハオラ:中位の必須の祈り、「祈りの書」、
pp.74-75、 改訳)
48. そしてわれは今、汝らが信念を持つように、汝らとわれとの間の聖約となるべき戒律を与えん。汝らの信念は、いかなる嵐にても揺るがされず、何ものにも動かされぬ岩のように不動であり、あらゆることにめげず、
最後まで絶え続けねばならない。たとえ、汝らの主がはりつけにされたと聞かされても、信念を揺るがされるな。われは、生きていようと、死んでいようと、常に汝らと共にいるのだから。汝らの信念が強ければ強いほど、汝らの力と祝福も大きなものになるのである。これがバランスである。これがバランスである。これがバランスである。(アブドル・バハ:‘Abdu’l-Baháに引用、 p.73)
9.離脱性(超脱性)の意義
9.1. 離脱性(超脱性)
49. 離脱の翼に乗って舞飛ぶ者は幸いである。 (バハオラ:Gleanings from the Writings
of Bahá’u’lláh、XIV、 p.34)
50. 愛の真髄とは、人が、最愛なる御方の方へ心を向け、最愛なる御方以外の全てから身を断ち、主の望み以外の何ものも欲さぬことである。 (バハオラ:Tablets of Bahá’u’lláh、p155)
51. 消滅せねばならぬ美のために、永遠の美を捨てるな。またこの滅ぶべき塵の世に愛着を持つな。 (バハオラ:「隠されたる言葉」、
ペルシャ編、#14)
52. 滅ぶべき主権に愛着するな。またその中にて喜ぶな。(バハオラ:「隠されたる言葉」、
ペルシャ編、 #75)
53. われ以外の全てから離脱せよ。また、汝らの顔を、わが顔の方へ向けよ。これは、汝らが所持しているものに優る(まさる)故に。 (バハオラ:Gleanings from the Writings
of Bahá’u’lláh、CXXI、
p.257)
54. 天と地と全てのものから離脱していない限り、誰も真の理解の海の岸辺にたどり着くことはできない。 (バハオラ:「ケタベ・イガン(確信の書)」、p.19、 改訳)
55. まことに汝ら、富は求むるものと、その者の欲求との間、また愛する者と愛される者との間の強大な障壁であることを知れ。富める者は、ごく少数の外は決して彼のいたまう宮廷にも達せず、また満足と服従の都にも入れないであろう。自分の富によって永遠の王国に入ることを邪魔されず、またそれによって不滅の領土を奪われない富者は幸いである。最大の御名にかけて誓う。かかる富者の光輝は、太陽が地上の人々を照らすごとく、天上の人々を照らすであろう。 (バハオラ:「隠されたる言葉」、
ペルシャ編、 #53)
56. 人がもし、地上の装飾品で身を飾り、衣装を着、この世で授かる恩恵をあずかりたいと望んだとしても、己と神との間に何の邪魔をも入れない限り、害はない。なぜなら神は、神を真に信ずるしもべらのために、天地いずれに創造されたものであれ、全ての良きものをお定めになったのであるから。おお人々よ、神が汝らに与えたもうた美味なる物を食べよ。また、神の驚くべき恩恵を拒むな。神に感謝し、賛美を捧げ、真に感謝深きものであれ。 (バハオラ:
Gleanings from the Writings of Bahá’u’lláh、 CXXVIII、 p. 276)
57. おお、わがしもべよ!汝らは、わが花園の樹である。汝ら自身と他者の利益のために、立派で素晴らしき実を結ばねばならぬ。かくて、技術、
及び職業に従事することは万人の義務である。そこにこそ富の秘訣があるからである。おお理解力ある人々よ。結果は手段に依存し、神の恩恵は汝らに全く十分であろう。果実を結ばぬ樹は焼かれてきたし、また永久に火にくべられるであろう。 (バハオラ:「隠されたる言葉」、
ペルシャ編、 #80、 改訳)
58. おおわがしもべよ!すべての世界の主なる神の愛のために、職業によって生計を得、自らとその同族のために、それを費やす(ついやす)者らこそ最も善き人々である。 (バハオラ:「隠されたる言葉」、
ペルシャ編、 #82、 改訳)
59. 全ての創造物は、創造の頂点にある人類のためのものである。そして人は、神から授かった恵みに感謝せねばならない。全てのものは、私たちのためにある。というのも、それに対する感謝を通して、人生を天からの恵として理解できるからである。もし人生にうんざりしていたら、私たちは恩知らずである。なぜなら、私たちが物質的かつ精神的に存在しているということは神の慈悲の外的証拠であるのだから。それ故に、私たちは幸せであり、あらゆるものに対する賛美と感謝の念を抱きながら日々を過ごすべきである。 (アブドル・バハ:Bahá’u’lláh and the New Era、p.103)
9.2. 付録:一般のバハイ著者より引用
60. その精神的意味において、超脱性とは、冷淡や無関心やよそよそしさを指すものでない。それは、比較的、
自分の感情や考えを他人によってコントロールされずにいることを意味する・・・そのような超脱性は、個性を保持する。それは、他人の動機と同時に自らの動機を評価するにおいて、だまされがちになったり盲目的になったりすることから、人を守るのである。それは、強さや自主性や安定、
そして自分に対する知識をもたらす。超脱性は、神の方に向かい、人類に対する神の目的についての認識を深めることによって生じるのである。 (Marriage: A Fortress for Well-Being:p.32、
一般の著者より引用)
61. 富が、人間と神の間の強大な障壁となりえ、富裕な人々はしばしば、愛着という大きな危険にさらされている一方で、この世の少ない所有物を有する人々も、物質的な事物に愛着を持ちうるのである・・・
地上の財産を有することが、しばしば、愛着の唯一の形態であると誤解されているが、そういうわけではない。自らの業績や知識や地位、社会的な人気に対するうぬぼれ、そして何よりも自己愛は、人と神の間の障壁に含まれるのである。 (アディブ・タヘルザデ:The Revelation of Bahá’u’lláh、vol. 1、pp.76-77)
62. この世への愛着とは、魂が神へより近づくことを妨げる全てのものを指すと言える。バハオラは、この世とそこにある全てのものは、人間のために創造されたと説いている。人間は、得ることの可能なあらゆる良きものを所有し、人生が与えてくれるすべての正当な快楽を楽しむ権利がある。しかし人は、一時たりともそれらのものに愛着を持ってはならないのである。さらにバハオラは、人はこの人生に多大な関心を示し、世界の改善のために努め、人類のための新しい世界秩序の建設のために援助すべきであると教えておられる。 (アディブ・タヘルザデ:The Revelation of Bahá’u’lláh、vol. 1、p.75)
63. また別の書簡の中で、バハオラは、神と人との間には三つの障壁があると述べておられる。信者らがそれらを通り越し、神の面前に達するようバハオラは勧告なさる。第一の障壁は、われわれが今、
論じたもので、この滅ぶべき世に対する愛着のことである。第二の障壁は、次の世と、次の世で人間のために定められている全てのものに対する愛着のことである。第三の障壁は、『名前の王国』に対する愛着である。
・・・[第二の障壁について]人の行いは、神への愛のためのみになされる時、神の眼からして賞賛されるべきものなのである。これについてバハオラは、『ケタベ・アグダス』の中で、
『わが美のために、わが命令に従え』と証言されている。もし、自らの行動の動機が、次の世で報いを受けることであるなら、これも愛着である。超脱するということは、神のために全てをなし、償いを求めないということである・・・
神の信教に出会い、その栄光を認めると、人は、いつものごとく、それを自分の宝物のひとつとしてつけ加える傾向にある。人はその宗教を、他の活動と同等の地位に置き、他の所有物から益を得るように、それからも益を得るように、利己的な期待を持つのである。人は、神の信教が自分に仕え、自分に喜びと満足をもたらすように欲する。このような考えや行動は、この世に対する愛着であり、創造の法則に反しているのである・・・
神は、その本質において、属性を超越して高遠である。しかし、神のあらゆる領土において、また、精神的世界や物質的世界において、神は、その属性の王国を啓示なさる。創造物は全て、神の名称と属性を顕現するのである。これらの属性は、精神的世界においては、人がこの世では理解できないほど強烈に明らかである。しかし、人間の世界では、これらの属性は『名前の王国』の中に現れ、人はしばしば、これらの名前に愛着を持つのである・・・
多くの書簡の中で、バハオラは、信奉者らが『名前の王国』に囚われないようにと勧告さなる。『名前は天からやってくる』というイスラム教の言葉には、多くの意味がある。この世において、神の属性は、名前によって装われ、そのような名前によって、属性の性質が明らかにされるのである。たとえば、寛大さは、神の属性のひとつであり、それは、人において現れる。しかし、この属性を持つ人は、しばしばそれに誇りを持ち、寛大であると言われることを好むのである。その寛大さが認められると幸せに思い、無視されると不幸になる。これは、『名前の王国』に対する愛着のひとつである。これは、『寛大さ』という名前に関する例であるが、人に現れる神のあらゆる名前や属性について言えることである。通常、人は、これらの属性を神のものというより、むしろ自分のものと見なし、自我を賛美するためにそれらを用いるのである・・・
・・・もし、自分の美徳は本質的には自分のものではなく、神の属性が顕現されたものであると理解できるなら、人は、『名前の王国』から自由になり、
真に謙虚になる。そのような人は、神の完全性を、人類に授けるのである。これは、神によって人間に定められた最も深遠な地位である。
・・・真に偉大となる時、人は、自分の無力や価値のなさを認識する。そして真に知識を得る時、人は自分が無知であることを知るのである。そうして人は、自らの内部にある神の属性を顕現し、それらを他の人々に知らせることができるのである。 (アディブ・タヘルザデ:The Revelation of Bahá’u’lláh、vol.U、pp.35-44)
64. 神に献身するということは、神以外の全てから超脱すること、すなわち、あらゆる利己的、世俗的欲望、
そして来世についての欲をも超脱することを意味する。神の道は、富裕と貧困、健康と病、宮殿と土牢、バラの花園と拷問室を通して進んでいかねばならないかも知れない。いずれにせよ、バハイは、『輝きに満ちた黙従』にて自分の運命を受け入れることを学ぶであろう。そして、
この超脱の態度は決して、周りの事物に対する無神経な無関心や邪悪な環境に対する消極的なあきらめを意味するものではない。またそれは神が創造なさった全ての良きものを軽蔑することでもない。真のバハイは無神経でも、冷淡でもなく、禁欲的でもない。バハイは、神の道において豊かな関心と仕事と喜びを見い出す。しかし、快楽を追求するために、その道からほんの少しでも踏み出すことはなく、神が禁ぜられたものを欲することはないのである。人がバハイとなる時、神の意志がその意志となる。なぜなら、神意に反することは、その人にとって最も耐えることのできないことだからである。 (ジョン・エセルモント:Bahá’u’lláh and the New Era(J)、pp89-90:改訳)
10. 犠牲、自己放棄、自己忘却の意味
10.1. 犠牲・自己放棄
65. おお人の子よ! もし汝われを愛せば、汝の自我に背を向けよ。またもし汝わが喜びを求むるならば、汝自身の喜びを重んずるな。さらば汝、わがうちに死に、われ、汝のうちに永遠に生きるを得ん。(バハオラ:「隠されたる言葉」、
アラビア編、 #7)
66. おお心霊の子よ!汝自らを放棄し、われに目を向けるより他に、汝の安息はなし。何故なら、汝自らの名でなく、わが名に栄光あらしめることと、汝の信頼を、汝自らにでなく、われにおくことは、汝の務めであるからである。また、
われ一人あらゆる他のものよりも愛されることを欲するからである。 (バハオラ:「隠されたる言葉」、 アラビア編、 #8)
67. おお塵埃の子よ!汝の眼(まなこ)を閉じよ。さらば汝わが美を見ん。汝の耳をふさげよ。さらば汝わが声の快き音調を聞かん。汝自身からすべての知識をなくせ。さらば汝わが叡智(えいち)の分け前を受けん。富より汝自身を浄めよ。さらば汝わが永遠の財宝の海より永久の分け前を得ん。汝の眼を閉じよとは、わが美以外に対してである。汝の耳をふさげとは、わが言葉以外のすべてに対してである。汝自身からすべての知識をなくせとは、わが叡智以外のすべてに対してである。かくて汝清き眼と、純潔な心と、注意深き耳とをもちて、わが神聖なる宮廷に入ることを得ん。 (バハオラ:「隠されたる言葉」、
ペルシャ編、 #11)
68. 人の子[30]が神にその命を捧げた時、全創造物は大変嘆き悲しんだということを知りなさい。しかし、彼の犠牲により、新たなる能力が全創造物に吹きこまれたのである。その証拠は、地球のあらゆる人々が目撃したように、汝の目の前で今や明らかにされている。賢者らが発した最も意義深い叡智(えいち)の言葉や、知性によって明かされた最も深遠なる学問、そして最も有能な者らが産み出した技術や最強の統括者らの及ぼした影響は全て、彼の超越した、全てにみなぎる、輝かしい『精神』によって放れた生気を与える力の顕現にすぎないのである。 (バハオラ:Gleanings from the Writings
of Bahá’u’lláh、XXXVI、pp.85-86)
69. 人間には、二つの性質がある。ひとつは、精神的でより崇高な性質で、もうひとつは、物質的でより低俗な性質である。前者の性質で人は神に近づき、
後者の性質で人は現世のみに生きる。人には、このような二つの性質の徴(しるし)が見られる。 (アブドル・バハ:「パリでの講和集」、 pp.80-81、 改訳)
70. バハイの書の中では、『自分』には二つの意味があり、二つの意味の上で用いられています。ひとつは、神によって創造された、個人のアイデンティティとしての自分です。これは、『己を知る者は神を知るなり』といった言葉の中で言及されている自分です。もうひとつは、自我のことで、私たちがみな持っている陰鬱で、動物的な遺伝的性質である、
より低俗な性質で、それは、利己主義、残虐、肉欲などといった怪物のような性質になりうるものです。私たちの内なる精神を強化し、解放し、それがより完璧になるよう苦闘せねばならないのは、この自分、私たちの性質のこの局面のことです。 (ショーギ・エフェンディの代理からある信者への手紙、12/10/47:Lights of Guidance、p.421)
10.2. 犠牲、自己放棄、自己忘却の意味
71. 自己を放棄し、神と永久に結ばれるということの意味は、人は、自らの意志を完全に神の意志に合わせ、自らの望みを、神の御目的に比べれば、全くの皆無であると見なすことである。創造主が創造物にお命じになることは全て、人々は熱心に、最高の喜びと熱望にて従い、立ち上がり、果たさねばならないのである。 (バハオラ:Gleanings from the Writings
of Bahá’u’lláh、CLX、p.337)
72. 人は、自らを全く忘れてしまわねばならないという事について。これは、人が、犠牲という神秘において立ち上がることを意味する。それは、滅ぶべき感情を消し去り、現世を暗くするような悪徳をなくすことである。それは、肉体を病弱にしたり、衰弱させたりするという意味ではない。 (アブドル・バハ:The Divine Art of Living、p.72)
73. 人が、自らを全く忘れることの意味について――それは、人が立ち上がり、真の意味で自らを犠牲にすべきということである。すなわち、人間的な状態の誘惑を消し去り、この世の陰鬱さを成す、とがめられるべき性質を自身より取り除くことである。それは、肉体の健康を衰えさせ、虚弱にさせることではない。(アブドル・バハ:Selections from the
Writings of ‘Abdu’l-Bahá、p.180)
74. 犠牲には、物質的なものと精神的なものの二種類ある。この主題について教会がなす説明は、実に迷信なのである。たとえば、福音書には、キリストがこう語ったと記されている。−『私は天から降(お)りてきた命あるパンであり、このパンを食べる者はみな、永遠に生きるであろう。』[31]彼はまた、こうおっしゃった−『これ〔ワイン〕は、罪の許しを得させるようにと、多くの人々のために流す私の血である。』[32]これらの節は、教会によって迷信的な説明がなされており、それは、人間の理性によって理解することもできなければ、受け入れることもできない...
犠牲の本質について理解するために、イエス・キリストのはりつけの刑とその死について考えてみよう。キリストが、われわれのために自らを犠牲にされたことは真実である。これはどういう意味なのだろう。・・・もし、
キリストが、自らの命を守りたいと思い、犠牲のために自らを捧げる望みがなかったら、彼は、たったひとりの人間を導くこともできなかったであろう。彼の聖なる血が流され、身体が切り裂かれることについては疑いの余地もなかった。しかし、その聖なる人物は、人類への愛において危難と死を受け入れたのである。これが、犠牲の意味のひとつである。
二番目の意味について−『私は、天から降りてきた命あるパンである』とおっしゃった。天から降りてきたものは、キリストの身体ではない。その身体はマリアの子宮から出てきたのである。しかし、キリストの完全性や本質が天からやってきたのである。つまり、キリストの肉体ではなく、精神が天からやってきたのである・・・したがって、自らが天から降りてきたパンであると称することによって彼が意味したことは、彼がふんだんに示した完全性は、聖なる完全性であり、彼の内なる祝福は天なる贈り物であり、彼の光は『真理』の光であるということだったのである。彼は『このパンを食べる者はみな、永遠に生きることであろう』とおっしゃった。つまり、自分の内にあるこれらの聖なる完全性を吸収する者は誰も死ぬことはなく、自分が現すこれらの天なる恩恵をあずかる者はみな、永遠の生命を得、これらの聖なる光を得る者は、永久の生を受けるということなのである。その意味はいかに明らかなことか!キリストの教えによって完全性を養い、天なる啓発を求める者は、疑いなく永久に生きるのである。これも犠牲の意味のひとつである...
犠牲の三番目の意味は、次の通りである。種を土の中に植えれば、その種からやがて樹が現れる。その種は、それから現れる樹のために、自らを犠牲にするのである。種は外見的には破壊され、消え失せるのであるが、犠牲にされたその種は、吸収され、樹とその花や実や枝という形で現れるのである。もし、その種のアイデンティティが、それから現れた樹のために犠牲にされなかったら、枝や花や実は現れることはなかったであろう。キリストは、外見的には消え去ってしまった。彼のアイデンティティは、その種のアイデンティティのように消え去った。しかし、キリストの恩恵や聖なる特質や完全性は、自らの犠牲を通してキリストが築いた、キリスト教の共同体において明らかになったのである。樹に目を向けると、その種の完全性や祝福や特性や美は、枝や花や実において明らかになったことがわかるであろう。もし、
種が犠牲を払わなかったら、その樹は存在しなかったであろう。キリストは、その種のように、キリスト教という樹のために、自らを犠牲にしたのである。したがって、彼の完全性や恩恵や好意や光や恵みは、キリスト教の共同体において現れたのであり、その共同体が現れるために、彼は自らを犠牲にしたのである。
犠牲に関する四番目の意味は、本質はその性質を犠牲にするという原則である。人間は、自然界とその法則から超脱せねばならない。というのは、物質世界は、堕落と死の世界だからである。それは、邪悪と暗黒、肉欲主義と残忍、残虐と貪欲、野望と自己崇拝、利己主義と情欲の世界である...人は、外的、物質世界での存在に特有なこれらの傾向を取り除かねばならない。
これに反して、人は、神々しい特質と聖なる属性を養わねばならない。人は神の像となり、神のような性質を示さねばならない。人は、神の愛や尊さの光、生命の樹、そして神の恩恵の貯蔵庫を明示するようにならねばならないのである。つまり、人は、自然界の特質や属性を、神の世界の特質や属性のために犠牲にせねばならないのである。たとえば、われわれが鉄と呼ぶ物質について考えてみよ。その特質について観察してみよ。それは固体で黒く、冷たい。しかし、この鉄が熱を受けると、それは、冷たいという属性を、火の特質である熱という属性のために犠牲にするのである。そうして鉄は固体、黒さ、冷たさといった属性を失う。その特質は、火の特質や属性のために犠牲となり、鉄は明るくなり、変化する。同じように、自然界の属性から断たれると、人は、鉄の特質が消えて代わりに火の特質が現れるように、その滅ぶべき領域の特質と必要条件を犠牲にし、王国の完全性を顕現するのである。
...したがって、あらゆる啓発された神々しい者は、犠牲の地位にある...神の光が、あなた方の顔に現れ、神聖の芳香が鼻孔を通して活気づけ、聖霊の息が永遠の生命によってあなた方に生気を与えんことを。(アブドル・バハ:The Promulgation of Universal Peace、pp.
449-452)
[1] 訳注:創造主の絶対的存在に対して、それに依存する世界、 すなわちこの創造の世界のこと。
[2] 訳注:本文では”weak soul”(弱い魂)となっていたが、 文脈に合わせて意訳した。
[3] 引用文3と7を参照のこと。
[4] 五感で感じとれるものの意(N.S)
[5] 人間の精神的・知性的性質のこと(N.S)
[6] cf.創世紀1:26
[7] バハオラのこと
[8] したがって、人はその性質に関してとがめを受けるべきではない。(原書の脚注より)
[9]悪そのものが存在しないことについては 2を参照のこと。
[10] たとえば、人間はかつて四つ足であったり、尾があったということを認めたとしても(原書脚注)。
[11] 創世紀1:26
[12] 訳注:絶対的な存在(つまり神)に対して依存する世界、つまり創造の世界。
[13] 訳注:つまり、物質世界、この世の現実的なレベル。
[14] つまり、物質世界、この世の現実的なレベル(N.S)
[15] つまり精神世界(N.S)
[16]英原文ではvision(N.S)
[17] つまり、精神世界、次の世
[18] この世の世界
[19]生存の円弧
[20] コーランの中で言及されている地獄の樹
[21] つまり生存の円周上
[22]文字通りには(何かを)もたらすの意
[23]文字通りには、 何か新しいものを生み出すの意
[24] cf.コーラン37:180
[25] コーラン59:2
[26] バハオラ
[27] 確信の書
[28] 訳注:英原文では宿命=predestination、運命=fateとなっており、翻訳上は最も適した日本語と思われたものを用いたが、この部で意味されていることは通常の意味とは別のものとして扱い、読者は、バハイの説明によってそれぞれの意味をくまれることを提案する。
[29] 次の世
[30] イエス・キリストのこと。
[31] cf.ヨハネ6:32-35
[32] **cf.マタイ26:28、マルコ14:24