第6章 バハオラの世界秩序
1.聖約
1..
. . 神の使徒なるムハンマド以前の律法時代の目的は、ムハンマドの到来のために道を敷くことであったことは、明白かつ明瞭である。ムハンマドの律法時代を含めて、これらの全ての律法時代は、さらに、カイムが宣言した啓示を目的としていた。そして、
この啓示とそれ以前の啓示全ての基礎となる目的も、同じように、『神が顕現し給う御方』の信教の到来を告げることであった。そして、『神が顕現し給う御方』の信教とそれ以前のあらゆる啓示の目的は、その次に来るよう定められている顕示者の到来を告げることなのである。そして、この顕示者とそれ以前の啓示は全て、その次に来る啓示のための準備をすることが目的なのである。このように、『真理の太陽』の出没は、永遠に続くのであり、これは、初めと終わりのない過程なのである。(バブ:Selections from the
Writings of the Báb、pp.105-106)
2.一千年が経過する前に、自らを神より直接下された啓示の顕示者と称するものは、まさしく虚偽を語る偽り者である。その者が、そのような主張を撤回し放棄するために神が恵み深く援助し給うよう、われは神に祈る。もし、
その者が悔い改めるなら、無論、神は彼をお許しになるであろう。しかしもし、誤りに固執するなら、神は必ず、その者を容赦なく扱う者を遣わされるであろう。罰することにおいては、まことに神は、恐るべき御方である。この言葉をその明白な意味以外に解釈する者は、神の精神と全創造物を取り囲む神の慈悲を失ったものである。(バハオラ:「落穂集:その1」、p.99)
3.神がそのしもべらにお定めになった第1の義務は、神の啓示の源にして神の法律の根源である御方、神の大業の王国と創造の世界にて神性を象徴する御方を認めることである。この義務を果たしたものはみな、全ての善を得たことになる。そして、
それを果たすことのできない者はみな、たとえあらゆる廉直な行為をなすとしても、道からそれてさ迷っているのである。そして、 この最も荘厳な地位、この超越した栄光の頂点に達する全ての者には、世界の『望み』なる御方のあらゆる法令に従うことが必要である。一方の義務を果たすことは、他方の義務を果たさずしては受け入れることはできない。このように、聖なる霊感の源なる御方はお定めになった。(バハオラ:Gleanings from the Writings
of Bahá’u’lláh、CLV、pp.330-331)
4.全能者の啓示は、全能者の手により、難攻不落かつ不滅の基盤の上に確立された。人々の争いの嵐は、その基礎を弱める力もないし、人間の気まぐれな理論は、その構造を傷つけることもできないのである。(バハオラ:The World Order of Bahá’u’lláh、p.109)
5.第1の条件は、神の聖約において確固としていることである。なぜなら、聖約の力は、バハオラの大業を、過ちを犯した人々の疑惑から守るからである。それは、神の大業の強化された要塞であり、神の宗教のしっかりとした柱である。今日、バハイの世界をひとつに保つ力は、神の聖約の力以外にない。それがなかったら、意見の食い違いは大嵐のごとく、
バハイの世界を覆ってしまうであろう。人類世界の一体性の軸が、聖約の力の他、 何ものでもないことは、明らかである。もし聖約がなかったら、もしそれが『最高のペン』から啓示されていなかったら、そして、『聖約の書』が『真理の太陽』の光線のごとく世界を照らさなかったら、神の大業の力は全く散らばってしまい、己の情欲と欲望のとりこなる人々が手に斧(おの)を取り、『神聖な樹』の根を切ってしまったであろう。あらゆる人が自らの望みを主張し、自分の意見を振り回したことであろう!それゆえに人は、まず、聖約における歩みをしっかりとせねばならない。そうすれば、バハオラの確証が四方から取り巻き、『最高の群集』の歩兵隊が支持者や援助者となり、アブドル・バハの勧告や助言は石に刻まれた絵のごとく、心の銘版に永遠に残り、消し去られることはないであろう。(アブドル・バハ:The Tablets of the Divine
Plan、p.49)
6.人々や天使等の理解には及びもつかない、はるかに、はるかに、はるかに及びもつかない力——神秘的な力——がこの大業に存在する。その目に見えぬ力が、これら全ての外的活動の源である。それは、心を感動させる。それは、山を引き裂き、大業の複雑な業務を統治し、友人達を奮い立たせ、全ての反撃の力を木端微塵にし、新しい精神界を創造する。これぞ、アブハ王国の神秘である。(アブドル・バハ:Covenant of Bahá’u’lláh、p.70)
7. 今日、人類の動脈の貫通力とは聖約の力であることを確信せよ。人類の身体は、聖約の力以外では動かせないであろう。このような力は他に存在しないのである。この聖約の精神は、真の愛の中心であり、地球のすべての部分にその光線を反映している。そして、それは人類を生き返らせ、再生し、神の王国への道を明るく照らしているのである。(アブドル・バハ:The Power of the Covenant、Part I、 i)
8. バハイの聖約に関して、守護者は2種類の聖約があるとお考えで、それらは大業の文献に明確に述べられています。ひとつは、預言者の本質の再来である、次の顕示者を人類が受け入れ、従うという聖約で、あらゆる預言者がその信奉者と結びます。もうひとつは、師[アブドル・バハ]を受け入れるという、バハオラがその信奉者らと結んだ聖約です。これは、各顕示者の後に現れる一連の光の継承を確立し、強化することが目的です。これと同じ部類に入るのは、バハイの信者が、師が亡くなられた後にその行政機構を受け入れるという、師と信者たちが結ぶ聖約です。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者への手紙より、10/21/32、Lights of Guidance、p.147)
2.アブドル・バハ:聖約の中心[1]
9.わが存在の海が潮を引き、啓示の書が終わった時、汝の顔を、神が意図なさった者へ向けよ。その者とは、この古来の根から分岐した者である。——この神聖なる節の対象者は最大なる技(アブドル・バハ)に他ならない。(バハオラ:Tablets of Bahá’u’lláh、p.221)
10. 書の中で理解できぬことはすべて、この強大なる幹から分岐した者に尋ねよ。(バハオラ:The World Order of Bahá’u’lláh、p.134)
11. 彼に向かう者はみな、確かに神に向かうのであり、彼より顔を背ける者はみな、わが美より顔を背け、わが証拠を否定し、わが法を破る者である。まことに、彼は、汝らの間における神の記憶であり、
汝らの間における神の信託者である。(バハオラ:The
Power of the Covenant、Part I、p.9)
12. ケタベ・アグダスとケタベ・アードの明確な原文によれば、われは、神の言葉の明白な解訳者である...わが解釈から背く者は皆、自我の妄想の被害者である...これらの節[スリ・グスンとマスナヴィからの文節]の真の意味、最も奥底にある神秘は、アブハの美(バハオラ)の神聖なる敷居へのわれ自身の隷属、わが完全なる自己放棄、そして、
彼の前におけるわが無の状態を断言する。これが、われの輝かしい王冠、最も貴重な飾りである。われは、これにおいて、天と地の王国で、われ自身を誇りに思うのである。 (アブドル・バハ:The Revelation of Bahá’u’lláh、Vol.2、p.395)
13. わが不動の確信、わが隠すことのできぬ明白なる信念——それは、アブハ王国の住人らと十分に分かち合う確信と信念だが―—の真髄とは、次の通りである。つまり、祝福された美(バハオラ)が真理の太陽であり、その光は真理の光である。バブも同様、真理の太陽であり、その光は真理の光である...わが地位とは、隷属の地位であり、それは完全にして純粋なる、真の、しっかりと確立された、永続的かつ明白なる、はっきりと啓示されており、いかなる解釈の余地もない...
われは神の言葉の解釈者であり、これがわが解釈である。(アブドル・バハ:The World Order of Bahá’u’lláh、p. 103)
14. わが名はアブドル・バハである。わが資格はアブドル・バハ、わが本性はアブドル・バハ、わが賛美はアブドル・バハである。祝福された完璧[2]への隷属がわが栄光ある、燦然と輝く王冠であり、全人類への隷属がわが永久の宗教である...アブドル・バハ以外、われはいかなる名前も、肩書きも、言及も賞賛もないし、これからもない。これが、わが願望であり、わが最大の切望である。これが、わが永久の生命であり、
わが永遠の栄光である。 (アブドル・バハ: The World Order of Bahá’u’lláh、 p. 139)
15. 彼(アブドル・バハ)は、これらの称号を超越した、神の神秘であります。神の神秘は、バハオラ自身がアブドル・バハを指すためにお選びになった表現です。それは決して、私たちがアブドル・バハに預言者の地位を与えることを正当化するわけではありませんが、人間性と、超人的な知識や完璧性という矛盾した性質が、いかに、アブドル・バハという人物において完全に調和されているかを示しているのです。(ショーギ・エフェンディ:The World Order of Bahá’u’lláh、p. 134)
16.自分自身の領域で活動し、バハイ信教の『設立者』、
『先駆者』とは全く違った地位を占めながらも、アブドル・バハはバハオラの『聖約』を通して定められたその地位により、バハオラとバブとともに世界の精神的歴史に類のないこの信教の『三大重要人物』の1人であります。アブドル・バハはバハオラやバブと協力して、1千年のいかなる個人も、また、彼の後にこの『信教』の管理をするいかなる機構も近づくことのできないレベルから、この幼い神の信教の運命を見守っているのです。アブドル・バハの権威を、その権威を受け継いだ人々の地位と実際同じであると見なしてその高遠なる地位を低くすることは『中心人物』(バハオラ)や『先駆者』(バブ)と同じ地位に高めようとする異端的な信条と同様に、重大かつ不敬虔な行為です。というのも、この独立した啓示の源であるバハオラとアブドル・バハの間の隔たりは大きいけれど、
『聖約の中心』なるアブドル・バハとその仕事を遂行するアブドル・バハの使徒たち―—その地位や役目、将来の業績がいかなるものであっても―—この間の隔たりは、 比較にならない程もっと大きいからです。
アブドル・バハは神の顕示者ではないこと、そしてその父親の後継者ではあるけれども彼(バハオラ)と同じ地位を占めていないこと、そして少なくとも1千年が経過するまでは、 バブとバハオラ以外、 誰もそのような地位を占めると称することは決してできないこと―—これらがバハイ信教の『設立者』とその教えの『解釈者』の特別な発言の中に刻まれている真理です。(ショーギ・エフェンディ:The World Order of Bahá’u’lláh、
pp.131-132)
3.行政機構
17. 世界の均衡は、この最も偉大で新しい世界的秩序の振動的影響力により狂わされた。人類の整頓された生活は、この独特で驚くべき組織の作用により大変革をもたらされた。それに匹敵するものは、人間はいまだかつて目にしたことがない。(バハオラ:Synopsis and Codification
of the Kitáb-i-Aqdas、p.27)
18. 世界は苦悩しており、その動揺は日に日に増している。その顔は強情と不信に向けられている。その未来は大変な苦境にあるゆえに、それを今、
明かすのは適切でもないし、好ましくもない。その片意地な状態は長く続くであろう。そして、定められた時が来ると、人類の手足を震わせるものが突然現れるであろう。そうして初めて、神の旗は掲げられ、楽園のナイチンゲールはその旋律を美しい声でかなでるであろう。(バハオラ:The World Order of Bahá’u’lláh、p.33)
19. ...現在の秩序は間もなく巻き上げられ、その代わりに新しい秩序が繰り広げられるであろう...(バハオラ:落穂集:その1、p.6)
20. 大業の行政秩序は最初に米国で確立され、他の全国バハイ共同体の模範として模倣されましたが、それは米国が作り出したものではありません。バハオラの教えに基づいた普遍的組織なのです。しかし、それが最初に米国の信者らによって始められ、完成させていかれたのは、単なる偶然ではありません。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へあてた手紙より、10/29/38: Lights of Guidance、p.1)
21. 大業の行政の仕事が着実に拡大し、その重要性と数が増すにつれ、次のような根本的事実を念頭に置くことが絶対に必要です。つまり、これらの組織的活動は、いかに調和的に、また能率的になされても、結局は目的を達するための手段であり、バハイ信教を広めるための直接的手段と見なされるべきなのです。ティーチングのための組織的な事柄にとらわれすぎて、神がお与えになった目的を見失わないようにしましょう。また、この神の新時代に多数の人々を呼び寄せようと最前線で苦戦している人々に仲間入りすることを、行政の専門化の需要が増したがゆえに妨げられないよう、最大の注意を払いましょう。(ショーギ・エフェンディ:Bahá’í Administration、p.103)
22. あなたが自分の時間をできるだけ大業の仕事に捧げ、行政機構の重要性を信者に強く感じさせ、その目的と、それを一度正しく作動させた時に達成できる全てのことを、彼らが真に理解できるように援助なさることを、彼は期待しておられます。すなわち、それは大業の精神によって動かされるべき完璧な手段なのです。それは、精神的法則を、この世の物質的業務に正しく作用させるための理想的な手段なのです。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へあてた手紙より、6/16/45:Lights of Guidance、pp.1-2)
23. バハイ行政機構の目的は、主に、ティーチングの仕事を強化し、指導し、信教確立を促進することであることを心に留めておくよう、私たちはあなた方に勧めます。行政機構は決して、それ自体が目的と見なされるべきではなく、神の言葉が信者の心に生じた精神的活力に、
はけ口を与え、効果的にするための単なる手段であると見なすべきです。(万国正義院からオーストラリア全国行政会にあてた手紙より、11/12/70:Lights of Guidance、p.2)
24. .
. . 行政機構なしに大業を受け入れるということは、バハオラの聖なる地位を認めずにその教えを受け入れるようなものです。バハイになるということは、大業を全体として受け入れることです。あるひとつの根本原則に異議を申し立てることは、バハオラの権威と主権を否定することであり、したがって大業を否定することになります。行政機構は、バハオラの社会的秩序であります。それなしでは、大業の全ての原則は不完全になってしまいます。したがって、これに異議を申し立てることは、バハオラが定められた機構に意義を申し立てることであり、バハオラの法律に反することになります。(ショーギ・エフェンディの代理から米国とカナダの全国精神行政会へあてた手紙より、5/30/30:Lights of Guidance、p.2)
3.ショーギ・エフェンディ:守護者
25. おお我が愛する友らよ!この虐げられた者の逝去後は、神聖なるロートの樹のアグサン(枝)とアフナン(小枝)、神の大業の翼成者及びアブハの美に愛されし者はみな、ショーギ・エフェンディに向かわねばならない。彼は、この二本の聖なるロートの樹より分枝した若年の枝であり、聖木の二本の枝が結合して成育した果実である。まことに、彼は神の証であり、選ばれた枝であり、神の大業の守護者である。アグサン、アフナン、神の大業の翼成者及び神に愛されし者らはみな、彼に向かわねばならない。彼は神の言葉の解釈者であり、彼のあとは、直系の子孫の長子が後を継ぐであろう。
...神の大業の守護者は...万国正義院とともに『アブハの美』[3]の保護下にあり、聖なる御方で『崇高なる御方』[4]の加護と誤りない指導下にある(わが命がこの2人のために捧げられんことを)。彼らの裁決は全て神による裁決である。守護者と万国正義院に従わないものは、神に従わないものである。(アブドル・バハ:「遺訓」、pp.11-12)
26. おお汝ら、主に愛されし者らよ!神の大業の守護者は、死後に不和が生じないように、存命中に後継者を指名しておかねばならず、指名された者は、あらゆる世俗の物事から超脱して純粋さの真髄となり、神への畏敬、知識、賢明さと学識を示さねばならない。しかし、神の大業の守護者が『子はその祖先の秘密の精髄である』という言葉の真実を表さず、すなわち彼(父である神の大業の守護者)に内在する精神性を継承せず、その栄光ある系統にふさわしい品格を備えない場合は、彼は継承者として、他の枝を選ばねばならない。(アブドル・バハ:「遺訓」、p.13)
27. 信教の守護者は、誰も、バハオラの教えの完璧な模範者、またはバハオラの光を映し出す、汚れなき鏡であると主張することができないことを記すのは、私の厳粛なる義務であると感じます。バハオラとバブの完璧で誤ることのない保護下にあり、バハイの教えを解釈する権利と義務をアブドル・バハの次に受け継ぐとはいえ、守護者は、本質的には人間であり、自らの責任に忠実でありたいと望むなら、いかなる口実のもとでも、バハオラがその『息子』に授けられた権利や特権を横領することはできないのです。この真理から考慮して、守護者に祈ったり、守護者を『主』や『師』と呼んだり、『聖なる御方』と呼ぶことは、敬慕する信教の確立された真理から背いてしまうことになるでしょう。また、守護者から祝福を求めたり、その誕生日を祝ったり、その人生に関する出来事を祝ったりすることについても同じです。守護者がバハオラとアブドル・バハの発言の意味を明かす力を特別に受けられたということは、解釈される言葉を発された方自身と同じ地位を授けられることでは必ずしもないのです。その権利を行使し、その任務を果たせても、守護者はバハオラやアブドル・バハの地位よりも限りなく低く、その性質も彼らより全く異なるということがあり得るわけです。(ショーギ・エフェンディ:The World Order of Bahá’u’lláh、p.151)
28. バハオラの行政秩序における守護者の地位は高く、その役目は重要で、その責任は大変重要ではありますが、その重要性は、『遺訓』の中でどのように表現されていようと、決して過度に強調されてはなりません。守護者は、いかなる状況下でも、またその功績や業績が何であれ、『聖約の中心』が占める独特な地位におけるアブドル・バハと同等の地位に置かれるべきではありません。ましてや、神の顕示者のみに定められた地位に置かれてもなりません。信教の確立された信条からそのようにそれてしまうことは、公然なる冒涜に他なりません。すでに述べたように、アブドル・バハの地位について述べるにあたって、彼と、神の啓示の『設立者』との間の隔たりがいかに大きくとも、バハオラの『聖約の中心』なる方と、その選ばれし後継者である守護者との間の隔たりは、前者と比べられないほど大きなものなのです。守護者と『聖約の中心』の間の隔たりは、『聖約の中心』とその聖約の『設立者』の間の隔たりよりもずっとずっと大きなものなのです。(ショーギ・エフェンディ:
The World Order of Bahá’u’lláh、pp. 150-151)
29.彼(守護者)は、もし、 ...(さん)が神の啓示の根本原理についてもっと深く考えれば、彼女は守護者の地位について理解できるであろうと思っております。神が、絶対に過ちを犯さない、マウスピースとしての預言者を通して人類を導くという事実を頭と心で一旦つかんだら、アブドル・バハと守護者たちの地位を受け入れるのも、論理的なことです。ひとつの世界となり、人類の業務を統治するためのひとつの国際的管理を必要としている点まで人類がついに進歩したという意味で、守護者らは、人類の成熟の証であります。アブドル・バハがその『遺訓』の中で述べておられるように、神がこの律法時代のために神の信教の業務を、バブとバハオラによって直接導かれる人間(つまり守護者たち)にゆだねることがおできになるという点まで人類は精神的に達したのです。これが、『この日は夜が訪れることのない日である』ことの意味です。この律法時代には、預言者の昇天後、まずアブドル・バハを通して、次に守護者らを通して神の導きがこの世における私たちに送られてくるのです。もしバハオラの役割を受け入れられるなら、バハオラが信教に関する事柄を統治するために神によって導かれた人物をお定めになったことを受け入れるのも、難しいことではないはずです。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ 11/25/48:Lights of Guidance、pp.231-232)
30.守護者が絶対に過ちを犯さないということは、大業に厳密に関連した事柄や教えの解釈に限られています。彼は、経済学や科学といった他の事柄において、絶対に過ちを犯さない権威者ではありません。大業の保護のためにあることが不可欠であると守護者が感じられるときは、もしそれが人に個人的な影響を与えるとしても、守護者に従わねばなりません。しかし、前の手紙であなたの将来について助言なさったように守護者が助言なさるときは、それに従うのは義務ではなく、あなたの望み次第で、従うか従わないかは自由です。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ 10/17/44:Lights of Guidance、p.231)
31. 将来の守護者たちについては、バハイの書の中で明確に述べられ、言及されていますが、守護者の筋が永遠に続くという約束や保証はどこにも見当たりません。それどころか、その筋が途切れ得るという明らかな指摘があります。しかし、聖約の不朽性とこの日における神の目的の普遍性は、バハイの書の中で繰り返し主張されていることです。
守護者の筋が途切れうるという可能性に関する最も著しい文節のひとつは『ケタベ・アグダス』そのものに見出せます:
『慈善のために捧げられた寄付は、印を啓示なさる御方なる神へ戻される。『啓示の夜明けの地』からの許可なしには誰もそれに手をつける権利はない。彼のあとに裁決するのはアグサン(枝)[5]らであり、そのあとは正義院である―—もしそれまでに正義院が設立されているなら。そして、彼らは、大業で賛美される『場所』や全能にして力に満ち給う御方なる神がお命じになったことのためにその基金を使うであろう。もしそうでなければ、その基金は、神の許しなしには語らず、神がこの書簡でお定めになったことにしたがってのみ判決を下し、天と地の間で勝利を得たバハの人々に委託すべきである。』
(万国正義院からオランダNSAへ 12/7/69:Lights of Guidance、p.232)
5.万国正義院
32. おお神の子らよ!世界を教育するものは正義である。それは、報酬と罰という2本の柱によって支えられているのである。この2本の柱は、世界の生命の根源である。その日には新しい問題があり、それぞれの問題には各々の適切な解決策があるゆえに、その義務は正義院の大臣たちに委託されるべきである。そうすれば彼らは時の必要条件に応じて遂行するであろう。神の為に、そしてその大業に仕えるために立ち上がる彼らは、目に見えない天国から来る神の霊感を受ける。彼らに服従するのはあらゆる者の義務である。国家のあらゆる問題は正義院に委託されるべきであるが、崇拝の行為については、神がその書の中に啓示なさったことに従ってなされるべきである。(バハオラ Tablets of Bahá’u’lláh、p.27)
33. 書の中にはっきりと啓示されていない事柄について共に協議を行い、賛成することを執行するのは、正義院の信託人らの義務である。神はまことに、お望みになることをもって彼らに霊感をお与えになるであろう。まことに神は必要なものをお与えになり、全知なる御方である。(バハオラ:Tablets of Bahá’u’lláh、p.68)
34. さて、神が全ての善の源であり、全ての誤りから解放されたものとしてお定めになった正義院に関して。それは、全世界に住む信者たちにより選出されねばならない。正義院の委員は、神への畏敬を示し、知識と理解のあけぼのであり、神の信教に不動で、全人類の幸福を願う者でなければならない。この正義院とは、万国正義院のことを意味する。そして各々の国に2次的な正義院が設立されねばならず、この2次的正義院が万国正義院を選出するのである。この万国正義院に全ての事柄を照会せねばならず、それは、明白な聖典に見出せない全ての法令や規則を制定する。この万国正義院によって全ての困難な問題が、解決されねばならず、神の大業の守護者はその神聖な長であり、終生特別委員である…(アブドル・バハ:「遺訓」、pp.15-16)
35. ...そしてその聖なる書に明白に記されていない全ての事柄は、万国正義院に照会せねばならない。この正義院が満場一致、
または多数決で決定したことは、まことに真理であり、神ご自身の目的である。(アブドル・バハ:「遺訓」、pp.21-22、
改訳)
36. これらの(万国正義院の)メンバーは一ヶ所に集まり、不和の原因となったあらゆる問題、不信のある点、聖なる書に明白に述べられていない事柄について審議せねばならない。彼らの裁決することは、全て聖典と同じ効力を有する。この正義院は、聖典に明白に記されていない日常の諸事に関する法律を制定する権限を持つと同時に、自ら制定した法律を廃止する権限も持っている...これが可能なのは、その法律が明白な聖典の一部をなすものではないからである。(アブドル・バハ:「遺訓」、p.22)
37. 正義院は、 それ自体の考えや意見に応じて判決を下すなどと思ってはならない。そのようなことは決してないように!万国正義院は、聖霊の霊感と確証によって判決を下し、法律を制定する。それは『古来の美』の保護と加護の下にある。そしてその判決に従うことは、全ての者にとって絶対的で不可欠なことである...
簡潔に言って、社会の法律を正義院に委託することの英知は次の通りである。イスラム教では、同じようにあらゆる法令が明白に啓示されているわけではなかった。いや、その10分の1のさらに10分の1さえも原典には含まれていなかった...聖職者たちは、原典に啓示されている法令から矛盾する推論を引き出した。そして、 これらが全て執行されたのである。今日、
これは正義院の権利であり、学者らの個人的な推論や結論は正義院によって承認されない限り、何の権威もない。明確に言って、違いは次の通りである。つまり、正義院のメンバーは世界バハイ共同体によって選ばれ、また知られているが、その裁決や確認から論争が起きることはないのに反し、聖職者や学者の個人的な結論は、論争を引き起こし、
分裂や分散を生じるのである。世界の一体性は破壊され、信教の和合は消え、神の信教の体系が揺り動かされてしまうのである。(アブドル・バハ:The Power of the Covenant、part 1、pp.28-29)
38. ...バハオラの行政秩序のこの二つの機構[守護者制と万国正義院]はその起源が神にあり、その役目は不可欠で、目標と目的において、
お互いに補足的であるということは、明白に述べられるべきです。これらの機構の共通での根本的な目的とは、バハイ信教の『根源』から流れ出る、 神によって指名された権威が継続されるよう確実にし、その信奉者らの和合を守り、その教えの全体性と柔軟性を維持することです。お互いに協力しながら、この2つの切り離せない機構は信教の業務を管理し、活動を調整し、利益を促進し法律を施行し、その補助的機関を擁護するのです。各々は、その明確に定義された管轄内で、別々に活動します。各々にはその付属機関が備えられ、それらの機関は、その特別な責任と任務を効果的に果たすように意図されています。この2つの機構は各々に課された制限内でその権威と権利と特権を行使します。この2つは矛盾でもなければ、各々が占める割合を奪われることもないのです。お互いに矛盾したり、破壊したりするどころか、お互いの権威と役割を補足し、その目標において永久かつ根本的に結合されているのです。(ショーギ・エフェンディ:The World Order of Bahá’u’lláh、p.148)
39. 守護者の解釈と意見の相違を生じる問題や明白でない事柄、また、書〔ケタベ・アグダス〕にはっきりと記されていない事柄について、
協議するという機能を行使する万国正義院の解明には深遠な差があります。守護者は聖典が意味することを明らかにし、その解釈は変えることのできない真実の言明です。そして、守護者の言葉によれば、万国正義院には、『バハイの書に明示されていない事柄について法律を制定する独占権が授けられている』のです...(万国正義院の手紙より:Universal House of Justice、p.41)
40. 万国正義院の不過誤性は、その定められた範囲内で活動しながらも、大業の守護者がそのメンバーとして存在することに左右されません。解釈において、守護者の言明は常に義務的ですが、守護者が法律の制定に参与することにおいては、常に、正義院の裁決が優先されねばなりません。これは、守護者自身の言葉により、支持されています:
守護者の解釈は、それ自体の範囲内で活動しながら、万国正義院——その独占権と特権は、バハオラが明白にお示しにならなかった法律や法令について裁決し、最終判決を下すことですが―—と同様に権威があり、義務的なものです。両方とも神聖で他方の規定された領域を侵害することはできないし、また決してそうすることはないでしょう。
『信教の守護者は、そのような尊厳ある機構の長と定められていますが、決して、一時的にさえも独占的な立法権を持つことはできません。守護者は、仲間のメンバー(つまり、
万国正義院の他のメンバー)の過半数による判決を無視することはできませんが、バハオラが啓示された言葉の意味と矛盾していてその精神からそれていると信じるときには、〔万国正義院の〕法律について再考慮することを主張する義務があります。』
(万国正義院:Wellspring of Guidance、pp.82-83)
41. あらゆる事柄について法律を制定する前に、万国正義院はその主題について、聖典とショーギ・エフェンディの文書を注意深く徹底的に研究するということを友人たち〔バハイ〕は理解すべきです。敬慕する守護者が記された解釈は主題の範囲が非常に広く、原典〔聖典〕と同様に権威的なものです。
...権威的な原典や、アブドル・バハとショーギ・エフェンディの豊富な解釈が存在すること、そして、『権威的』または『霊感を受けた』解釈をしたり、守護者の役割を横奪したりすることが絶対的に禁止されることによって、教えの一体性が維持されています。行政機構の一体性は、万国正義院の権威によって確実にされています。(万国正義院からオランダNSAへ
3/9/65:Lights
of Guidance、p.235)
42.
法律を制定する際に万国正義院が取る過程について、 バハイの友らが知っていたなら、この関係について理解する助けになるかもしれません。まず、万国正義院はもちろん、全てのメンバーの意見を考慮すると同時に、聖典を研究し、守護者の解釈に最大の注意を払います。長い協議の後、声明書の草案を作る過程に入ります。この過程の間に、その問題全体について再び考慮されることもありえます。その再考慮の結果、最終的な裁決は以前に支持されたものとはかなり違っているかもしれません。この過程の間、もし守護者が生きておられるなら、彼の意見にどれだけ注意が払われるかおわかりになるでしょう。(万国正義院の代理による手紙、
12/7/69:The Universal House of
Justice、 p.56)
43. もし万国正義院の声明書が詳細なものでなかったなら、その理由は、隠し立てをすることではなく、むしろ教えを解釈することを控え、次のような守護者の言葉の真実性を保ちたいというこの機構の決意であるということを友人たちは理解すべきです―— 『宗教の指導者や政治論の解説者や社会施設の理事なる人々は...〔バハイ〕信教の支持者らが世界の至る所に築き上げている機構の性質や起源や合法性について何らの疑いや不安を持つ必要はありません。なぜなら、これらのものは教えそのものの中に記されており、バハオラの言葉について、
不法に推論したり不当に解釈したりすることによって、〔他の教えと〕混同されたりあいまいにされたりすることもないからです。』(万国正義院:Wellspring of Guidance、p.88)
44. あなたの質問についてですが、万国正義院に女性のメンバーがいないことに関する英知は、将来明らかになる、とアブドル・バハはおっしゃいました。私たちには、これ以外の指図はなにもなされていません...
現在のところ[6]、
国際委員会には女性のメンバーがおります。この委員会がある限り、続くことでしょうが、万国正義院が選出されるときには、男性のみがメンバーとなるでしょう。これは、アグダスに記されている法律だからです。(ショーギ・エフェンディからある個人へ 9/17/52:Lights of Guidance、p.498)
45. 男女の平等というバハイの偉大な原則を考慮して、万国正義院のメンバーに女性が選ばれないことについて明瞭にしてほしいというあなたの手紙(1971年3月26日)を受け取りました。私たちは次のようにお答えします。
アブドル・バハは、初期の女性の信者に宛てられた書簡の中で、こう述べられました―— 『おお神の侍女よ!神の目からして女性の行いは男性の行いと同じであることを知りなさい...精神的な見地から言えば...女性と男性の間に差はないのである...』しかし、彼はこうつけ加えておられます―— 『正義院については、神の法律の明白な原典によると、そのメンバーは男性だけとされている。これには神の英知があり、それは間もなく真昼の太陽のごとく明らかになるであろう。』
最愛なる守護者は、ある信者からの同じ質問に答えて、代理による手紙(1947年7月15日)の中で次のように指摘しておられます:
『人々は、女性が万国正義院のメンバーとして選ばれないという事実を単に受け入れるしかありません。『師』が言われるように、これに関する英知は、将来、明らかになるでしょう。私たちができることは、それが正しいと信じて受け入れるだけです。しかし、熱心な女性拡張論者をなだめさすことのできる説明をなすことはできません。』
私たちは、神の最高の顕示者とその模範者に信念を持たねばなりません。その模範者なるアブドル・バハの予知は、ある日『真昼の太陽のごとく明らかになる』という言葉の中に示されているのです。(万国正義院からある信者へ 5/26/71:Lights of Guidance、p.498)
6.全国精神行政会
46. そして、 各々の国に2次的な正義院が設立されねばならず、この2次的正義院が、万国正義院を選出するのである。(アブドル・バハ:「遺訓」、p16.rev.)
47. 地方正義院と万国正義院は、『ケタベ・アグダス』によってはっきりと定められており、その仲介的な機構として、
『師』の遺訓の中で『2次的正義院』として言及されている全国精神行政会には、アブドル・バハの承認があることを注意深く念頭に入れておくべきです...(ショーギ・エフェンディ:The World Order of Bahá’u’lláh、p.5)
48.
その直接の目的は、頻繁な個人的協議を通して地方行政会と同様に友らの様々な活動を激励し、統一し、調整することであり、そして緊密で不断な連絡を聖地と保つことにより、方針を創案し、その国の大業の業務全般を指揮することです。
それはまた、最初に上げた目的に劣らず本質的な目的がもうひとつあります。つまり、それはやがて全国正義院(アブドル・バハの遺訓は2次的正義院として言及されている)へと発展するのですが、遺訓の明白な原文によれば、それは世界中の業務を指揮し、組織化し、統一する万国正義院のメンバーを世界中の他の全国行政会とともに、直接選出することになるでしょう。(ショーギ・エフェンディ:Principles of Bahá’í Administration、p.73)
49. ...常にあらゆる共同体の地方の状況について知り、個人的な連絡や規則正しい通信により、個人的にまたはグループとして、あらゆる活動において友らの指導に努めるのは、全国行政会の重要な役割のひとつです...(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ 1/30/38:Lights of Guidance、p.36)
7.地方精神行政会
50. バハの数の顧問が集まる正義院があらゆる市に確立されるよう、
主はお命じになった。この顧問がこの数を超えても問題はない...彼らは、人々の間で、慈悲深き御方に信頼された者らとなり、自らを地上に住むあらゆる者のために神によって任命された保護者と見なすのが似つかわしい。ともに協議を行い、ちょうど自らの利益を考えるように、神のしもべらの利益を神の為に尊重し、適切でふさわしいことを決めるのは、彼らの義務である。主なる汝らの神はこのように、汝らにお命じになる。神の書簡の中に明白に啓示されたことを見過ごさぬよう注意せよ。神を畏れよ、おお、理解力ある汝らよ。(バハオラ:Synopsis and Codification
of the Kitáb-i-Aqdas、p.13)
51. 今日の精神行政会が、やがて正義院によって取って代わられ、またほとんどあらゆる点においてそれは別の機構ではなく同一のものであるということは、アブドル・バハ自身により至る箇所で確証されています。最初のシカゴ精神行政会は、米国で設立された、最初の選出されたバハイ機構でありますが、アブドル・バハはそのメンバーたちに宛てた書簡の中で、彼らをその市の『正義院』のメンバーとして言及なさっておりますし、こうして、自らのペンにより、疑いなく現在の精神行政会と、バハオラによって言及された正義院とが同じものであることを確証なさいました。比較的容易に挙げられるいくつかの理由により、世界中のバハイ共同体の代表者らに、一時的な名称として精神行政会という名称を授けるのが適切であると思われました。そしてその名称は、バハイ信教の地位と目標がより良く理解され、より深く認識されるにつれて次第に、よりふさわしく永久的な名称である『正義院』によって取って代えられるでしょう。(ショーギ・エフェンディ:The World Order of Bahá’u’lláh、p.6)
52. 布教に関する事柄やその指導、その方法や手段、その拡張や強化ということは、大業の利益における必要事ではありますが、これらの精神行政会が、全注目を向けるべき唯一の事柄では決してありません。バハオラとアブドル・バハの書簡を注意深く調べてみれば、大業の利益に劣らず重要な他の業務が、あらゆる地方のバハイによって選ばれた代表者らに託されていることがわかるでしょう。
用心深く慎重に、また思慮深く、油断せずに、人の仲を裂くものや、敵の攻撃から、常に大業の組織を守ることは、彼らの義務です。
彼らは、バハイの友好と和合を促進し、あらゆる人の心から消えずに、残っている不信や冷淡や疎遠の感情を消し去り、その代わりに、大業の奉仕のための活発で熱心な協力を確保するよう努めねばなりません。
彼らは、皮膚の色や階級や信条に関らず、貧しい人や病人、孤児や未亡人に常に援助の手を差し伸べるよう、 最善を尽くさねばなりません。
彼らはできる限りを尽くして、若者の精神面や物質面における啓発を促進し、子供の教育のための手段を促進し、可能ならバハイの教育施設を設立し、その業務を組織化し、監修し、その進歩と発展のための最善の手段を供給せねばなりません。
彼らは、世界のバハイセンターと正式で規則正しい頻繁な連絡を維持し、それらのセンターに活動内容を報告し、受け取ったうれしい便りを大業のあらゆる仲間と分かち合うよう努力せねばなりません。
彼らは、できる限りを尽くして、自由に、購読や報告や記事を通して、 様々なバハイの雑誌を出し発展させるよう励まさねばなりません。
彼らは、バハイの社会的、知的、精神的要求に応え、それを促進するために計画された特別なミーティングと同時に、バハイやフィーストや記念日のための定期的なミーティングを計画せねばなりません。(ショーギ・エフェンディ:Principles of Bahá’í
Administration、pp.39-40)
8.バハイ選挙法
53. 投票は秘密投票としてなされるべきです。個人の名前で言及することは決して許されません。バハイは、政治家らの邪悪なやり方や忌まわしい慣例を避けねばなりません。彼らは完全に神を頼り、純粋な動機と自由な精神、そして神聖な心で選挙に参加すべきです。さもなければ、無秩序と混乱が起こり、続いて重大な問題が起き、危害が満ち、神からの確証が断たれてしまうでしょう。(ショーギ・エフェンディ:Guidelines for the Local
Spiritual Assemblies、p.34)
54. 選挙の前に、人の人格について話すことは、誤解や不和を生じると私は感じます。バハイがなすべきことは、お互いを徹底的に知り、意見を交換し、自由に交わることであり、いかに間接的であれ、特定の人々について話したり、その人に関連させたりせずに、メンバーとしてふさわしい必要条件や資格についてバハイたちの間で話し合うことです。私たちは、他人の意見を左右したり、ある人のために勧誘して回ったりすることは、避けるべきです。しかし、大切な書簡の中で言及されているメンバーの資格について熟知し、友人の報告や意見より、
むしろ直接的で個人的な経験を通して、お互いを知ることの必要性を強調すべきです。(ショーギ・エフェンディ:Guidelines for the Local Spiritual Assemblies、p.34)
55. 選挙当日、 和合と友好の精神にて神のほうへ心を向け、神以外の全てから離脱し、神の導きを求め、援助と恵みを請い、熱心な態度で選挙に参加しなければなりません。(ショーギ・エフェンディ:Guidelines for the Local
Spiritual Assemblies、p.34)
56. 選挙が自由にかつ普遍的に、そして秘密投票でなされるよう、彼らは最大の注意を払わねばなりません。あらゆる陰謀やごまかし、共謀や強制を避けねばなりませんし、また、そのような行為は、禁止されています。(ショーギ・エフェンディ:Guidelines for the Local
Spiritual Assemblies、p.34)
57. ...情欲や偏見を全くなくし、また、いかなる利己的な物質的利益を考えたりせず、疑いのない忠誠と自我をなくした献身、訓練された知性と認められた才能や充実した経験という必要な資質を最も素晴らしく結合できる人たちの名前のみを考慮するのが、選ばれたる代議員らの義務です。(ショーギ・エフェンディ:Guidelines for the Local
Spiritual Assemblies、p.33)
58. 代議員や行政会のメンバーの資質に関するあなたの質問ですが、彼(守護者)が挙げられた資質は、バハイの役職が何であれ、あてはまるものです。しかしそれは単に指摘であり、その資質に合わない人はその役職に選ばれないということではありません。私たちは、
できる限り高い理想を持たねばならないのです。(ショーギ・エフェンディの代理の手紙より:Guidelines for the Local Spiritual Assemblies、p.33)
59. ...精神行政会のメンバーについては、常に忘れてはならない根本的に重要なことがあります。それは、機構としての精神行政会と、それを構成するメンバーとの間にある差異です。これらのメンバーは決して、完璧であらねばならないというわけではなく、他の信者らより生まれつき優れているとも考えられません。共同体の他のメンバーたちを特徴づける、
同様な人間的限界が行政会のメンバーにもあるからこそ、 メンバーは毎年選出されねばならないのです。選挙があるということは、行政会のメンバーは神聖で完全な機構の一部でありながらも、
そのメンバー自身は完璧ではないということを十分に示しています。しかし、 それはメンバーの判断に欠如があるという意味では必ずしもありません。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ 11/15/35:Lights of Guidance、pp.10-11)
60. もし選挙のとき、そう強く感じるなら、信者は、自分自身に投票する権利があります。それは必ずしもその人に野心があり、利己的であるということではありません。その人は、自分がバハイ行政機構のメンバーの資格にそっていると心から誠実に信じているかもしれないし、それは正しいことかもしれないからです。しかし要点は、その人が誠実にそれを信じ、良心の指図に従って行動すべきということです。さらに、行政会あるいは委員会のメンバーであるということは奉仕のひとつであり、生まれつき優越であるとか、自己賞賛のための手段として見なされるべきではありません。(ショーギ・エフェンディの代理の手紙より:Lights of Guidance、p.11)
9.協議の原則
61. 全てのことについて共に協議せよ。協議は道を照らす導きの灯りであり、理解をもたらすもの故に。(バハオラ:協議、p.1)
62. 協議を通してより深い認識力が得られ、憶測は確信に変えられるのである。それは、暗い世界で人々に道を示し導く、
輝く光である。あらゆるものには完成と成熟の段階があり、理解力は協議を通してその段階に達するのである。(バハオラ:ibid、p.1 rev.)
63. 誰であっても、精神行政会と協議せずに一歩も先に進んではなりません。物事が秩序正しく、整然と運ばれるように、すべての者は行政会の命ずるところに心から従い、それに忠実でなければなりません。そうでなければ、各人別々の行動をとり、自らの判断に従い、自分の欲望の虜となって、大業に害を及ぼすことになります。(アブドル・バハ:ibid、p.4)
64. 従って、 行政会のメンバーは、不和も憎しみも生じないようなやり方で相談し、協議しなければなりません。協議するために会合する時は全く自由に自分の見解を述べ、論証しなければなりません。もし、
他の人が反対意見を出しても、興奮してはなりません。というのも、問題になっている事柄を調査したり、確認したりしない限り、皆が納得できる見方は明らかにならないし、理解もされないからであります。考えの衝突から生ずる輝く光は、事実を『照らし出すもの』であります。(アブドル・バハ:協議、p.8)
65. 神の大業の基本は独裁的な権力ではなく、謙虚な友好の精神であり、勝手気ままな権力ではなく、率直で愛情ある協議の精神であることを忘れないようにしましょう。真のバハイの精神が欠けていたなら、慈悲と正義、自由と服従、個人の権利の尊厳と自己否定、用心深さと友好の精神や率直さや勇気といった諸原則を調和させることは望み得ないのです。(ショーギ・エフェンディの代理:協議、p.17)
10.任命制の機構
神の大業の翼成者
66. 光と栄光、祝賀と賛美が主の大業の翼成者にあらんことを。彼らを通して、不屈の精神の光は輝き出て、選び定める権威は神にあるという真理が確立されたのである。神は強力かつ強大にして全く自由な御方である。また、彼らを通して恩恵の海はうねりを上げ、人類の主なる神の恵み深き好意の香りは放散した。神の軍勢の力によって彼らを守り、神の領土の力によって彼らを擁護し、全創造物にみなぎる神の不屈の強さによって彼らを援助し給うよう、われは神に懇願す―神は崇高なり。主権は神のものであり、神は諸々の天の創造主にして、諸々の名前の王国の主であられる。(バハオラ:Tablets of Bahá’u’lláh、p.83)
67. ...神の大業の翼成者は、常に油断なく警戒し、もし誰かが神の大業の守護者に反対、もしくは反抗し始めたなら、直ちにバハの人々の集まりから追放し、いかなる理由があってもその者の口実を受け入れてはならない...
神の大業の翼成者は、神の大業の守護者の仕事に常に重要な奉仕をするために、その中から9人を選ばなければならない。この9名の選挙は、神の大業の翼成者の中から満場一致、または多数決で決定されねばならず、選ばれた9名は、神の大業の守護者が後継者として選んだ者に満場一致か多数決で同意を示さねばらない...
おお友人たちよ!神の大業の翼成者は、神の大業の守護者により指名、任命されなければならない。全ての者は、彼の保護の下にあり、彼の命令に従わねばならない。神の大業の翼成者の一員であるないに関らず、不従順で分裂を起こそうとする者があれば、神の怒りと天罰が、その者の身に降りかかるであろう...
神の大業の翼成者の義務は、神の芳香を放散し、人々の魂を啓発し、学問を促進し、すべての人々の性質を改善し、常に、またあらゆる条件の下で世俗的なことから聖別し、超脱していることである。彼らは、振る舞いや態度、行動や発言によって、神への畏敬を示さねばならない。(アブドル・バハ:「遺訓」、pp.13-14)
68. この律法時代において、大業の翼成者は、いかなる名や称号を相続するわけでもない。彼らは聖なる偉人であり、その神聖と精神性の光線は、人々の心に光を投げかける。その道徳と意志の美や、平等と正義感により、心はひきつけられる。人々の魂は、知らぬうちに彼らの賛美さるべき道徳観や素晴らしい性質に引きつけられるのである。それは気に入られたものすべてに授けられる称号でもなければ、望む者が誰でも席を取るという栄誉の座でもない。大業の翼成者は、神の翼成者である。ゆえに、神の言葉のしもべであり、それを促進する者はみな神の翼成者なのである。対象とされるものはその精神であり、文字や言葉ではない。自我をなくせばなくすほど、
人は神の大業において援助される。そして温順かつ謙遜であればあるほど、 人は神に近づくのである。(アブドル・バハ:Lights of Guidance、pp.237-238)
69....神の大業の翼成者の制度は、バハオラの時代にもたらされたもので、アブドル・バハがその遺訓の中で行政機構の秩序を宣言なさり、正式に設立なされたとき、守護者の補助の制度となりました。補佐*は、ショーギ・エフェンディにより大業の翼成者の補助の制度としてもたらされました。(万国正義院から大陸顧問及び全国精神行政会へ
、4/24/72:Lights of Guidance、p.238)(*訳注:現在「顧問補佐」と呼ばれている役職のことで、当時は「翼成者の補佐」であった)
大陸顧問団・顧問補佐
70. バハオラの世界を救う行政機構の威厳に満ちた展開は、その神によって創られた『秩序』の骨組みをなす様々な機構や機関が次々と設立されることによって示されました。こうして、バハイ世界における最初の全国精神行政会が現れてから、25年以上たってから、神の大業の翼成者の機構が正式に設立されました。その時、守護者は、アブドル・バハの『遺訓』の規定に従い、信教におけるこの高い地位の役員の第一団を指名なさいました。神の大業の守護者が亡くなられてからは、『大業の翼成者の定められた役目である保護と拡大という義務を未来にまで引き続かせるということを考えて』、万国正義院が、行政秩序のもとで、『翼成者の機構』を発展させる方法を考えることになりました。そしてこれが、9年計画の目標とされたのです。過去4年にわたってかなりの考慮と研究がこの課題に対してあてられ、様々な原典が集められ、検討されました。この2ヶ月間、この目標は、全国大会への電報の中で発表しましたように、万国正義院と神の大業の翼成者らの間における、長く、祈り深い協議の目的でありました。これは全て、この目標が達成されるべき骨組みを明らかにしました。それは次の通りです。
万国正義院は、神の大業の翼成者がこれ以上指名されることはありえないと理解している。
信教の守護者が存在しないことは、万国正義院と大業の翼成者の間に全く新しい関係をもたらし、大業の翼成者が、その神によって授けられた保護と拡大の役目を実行する流儀を万国正義院が、累進的に展開させることが要求された。
大業の翼成者の仕事を強化し、補足すると同時に、新しい手順を始め指導することにおいて、翼成者らが、彼ら自身を援助するようになすために、新しく開始された企画や機構の活動をできるだけ早く始めるべきである。
そのような機構は全て、神の大業の翼成者の機構の活動を統治するという原則に従って発展し、活動すべきである。
以上の点を考慮した上で、万国正義院は、最近の電報で知らせましたように、 バハイ信教の保護と普及の為に大陸顧問委員会を設立することを決定しました。大陸顧問の義務は、
顧問補佐を各地域にて指導し、全国精神行政会と協議し、努力し、その地域の大業の状態について大業の翼成者らと万国正義院に報告することを含みます。(万国正義院から世界中のバハイへの手紙より、 6/24/68:Wellspring of Guidance、pp.140-141)
71. 奉仕の為に特定の地域を割り当てられた顧問補佐は、それぞれ地方行政会や、その補佐の管轄内にあるその他の地方との連絡を保ち、目標達成のための活動において、そのような共同体全てを励まし、導き、各地方の相対的な強さや弱点について知り、そして、
神の前において自らの任務を遂行する責任を感じるべきであります。もし、 ある地方精神行政会やある地方との連絡が断たれたなら、補佐は自ら、その問題を解決しようとすべきであります。補佐はまた、顧問に定期的な報告や提案をすべきであります。(万国正義院からイランNSAに宛てられたペルシャ語の通信に基づいた万国正義院による要点のまとめより、5/20/70:Lights of Guidance、p.244)
72. ...顧問は、全国精神行政会を励まし、助言し、援助する責任があり、さらに、個人やグループや地方行政会とも一緒に働きます。(万国正義院から大陸顧問とNSAへ
10/1/69:Lights
of Guidance、pp.241-242)
11.委員会
73. 地域委員会を補助機関とすれば、全国布教委員会は、もっとスムーズに運営できるであろうと彼は信じておられます。委員会は、あまり多すぎると案内状と同じように、仕事をわかりやすくするよりも混乱させるだけです。(ショーギ・エフェンディの代理から米国NSAへ
3/20/52:Lights
of Guidance、 p. 126)
74. 布教活動を拡張させるために最大の成果をあげるため、各国行政会が採用する布教委員会については、行政会の思慮分別に任せられていますが、仕事をバハイの行政機構の原則にのっとり敏速に遂行させるため、布教の組織は能率的であらねばなりません。私たちの敬慕する守護者は、ラテン・アメリカでの布教の活動についてこう述べられました―— 『その国の原住民である...布教旅行者が開始した、
まさに必要とされ賞賛さるべき活動を強く支持し、 その支持を維持すべきです...そしてこれらの布教者らは、強大な任務が遂行されるにつれ、その自国にて、 バハイ信教を広めるための責任をますます果たすようにならねばなりません。』(万国正義院からマス・ティーチングに従事している全てのNSAへ、2/2/66:Lights of Guidance、pp.125-126)
75. 全国委員会は、地方行政会に対して勝手な命令をするのではなく、地方行政会の要求に応えるために、そして、
大業の活動を統一化するために構成されたのであることを地方行政会が理解できるよう励まされるべきであると、彼は感じておられます...その問題の委員会は元気に活動し始めている新しい行政会と接するときには、慎重であらねばなりません。なぜなら、この自主的な精神は、もし適切に扱われたなら、その行政会を弱めたり、
また、他の機構に頼らせたりするのではなく、強力で自主的なものにしてくれるからです。しかし、もちろん、行政会は全国委員会と協力すべきで、その援助を拒むべきではありません。(ショーギ・エフェンディの代理からイギリス諸島NSAへ、11/5/48:Lights of Guidance、pp.131-132)
76. 若いバハイが青年委員会以外の委員会で奉仕することが許されるかどうかという質問は、
最近多くの手紙の中で取り上げられています。それを考慮するにあたり、彼(守護者)は、21歳以下のバハイの若者が委員会の仕事をするという特権を奪われるべきではないと思われます。21歳以下の若者は、バハイ共同体で投票する権利がなく、(つまり、 21歳になるまで選挙権がなく)行政会のメンバーとして選ばれることもないのですが、そのような若者が様々な委員会を通して大業に奉仕すべきでないという理由はどこにもありません。あらゆる委員会は、全国のものであれ地方のものであれ、全て行政会の管轄下にあり、そのメンバーは選出されるのではなく、行政会によって指名されるのです。選挙権を持つ年齢に達していなくとも、大業に大きな助けとなる献身的で才能ある若い信者はたくさんいます。(ショーギ・エフェンディの代理から米国・カナダNSAへ
2/28/45:Lights
of Guidance、p.132)
12. 基金・献金
77. ...施与と寛大とは我が属性である。我が美徳をもって自己を飾るものは幸いである。(バハオラ:隠されたる言葉、ペルシャ編、#49)
78. 神の友人たちはみな...その額がいかに少なくとも、できる限り献金すべきである。神は人に、能力以上の負担を負わせられることはない。そのような献金はあらゆるセンターや信者からくるべきである…おお神の友人たちよ!この献金の代償に、汝らの農業や産業や商業はすばらしい贈物や賜物が何倍にもなって祝福を受けるであろう。ひとつの善行をなすものは、
10倍の報酬を受けるであろう。生きた主が、自らの富を主の道において費やす者らを豊かにし、 確証なさることは、疑いの余地のないことである。(アブドル・バハ:Bahá’í Prayers、p.84)
79. おお神よ、我が神よ!あなたを真に愛する者らの顔を明るく照らし給え。そして、
確実な勝利の天使の軍勢によって彼らを支え給え。あなたのまっすぐな道において彼らの歩みをしっかりとしたものとなし、あなたの知恵の恩恵により彼らの目の前にあなたの祝福の門を開き給え。なぜなら彼らは、あなたが彼らに授け給うたものをあなたの道において費やし、あなたを思い起こすことに信頼を置き、あなたへの愛のために自らの心を捧げ、あなたの美を崇敬し、あなたがお喜びになるよう、
所有物を保留せずにいるのですから。
おお我が主よ!豊富な分け前と定められた償いと確実な報酬を彼らに定め給え。
まことに、あなたは維持なさる御方であり、救助者にして寛大であり、恵み深く、常に与え給う御方におわします。(アブドル・バハ:Bahá’í Prayers、pp. 84-85)
80....さらに、地方と全国の基金は、地方と全国の精神行政会に必要な補助的制度となっていますが、それは東洋のバハイたちに宛てられた書簡の中でアブドル・バハによって設立されただけでなく、その重要性と必要性は、アブドル・バハの発言と文書の中で繰り返し強調されています...(ショーギ・エフェンディ:Universal House of Justice.p.19)
81. 精神的活動を遂行し発展させるには、物質的手段が必要で、それに依存します。従って、地方と全国の精神行政会が設立されるとすぐにバハイ基金を設け、その精神行政会が直接管理するようにするのは、不可欠なことです。その地方または国全体の大業の利益を促進するという明らかな目的のために、全ての献金はその行政会の会計に送るべきです。その基金を増加させるために惜しげなく寛大に献金するのは、バハオラの大業が発展するのを見たいと望む、
誠実で忠実なバハオラのしもべ全ての神聖な義務であります。布教活動を促進し、困っている人々を助け、バハイの教育機関を設立し、できる限りの方法で奉仕の領域を拡大するために、精神行政会のメンバーは思慮深く、
基金を使うでしょう。この手段の必要性を理解し、あらゆる友人(バハイ)がその基金をすぐに設け、増加させるために奮起し、そして、 初めはいかに少なくとも献金するという望みを私は胸に抱いています。(ショーギ・エフェンディ:Guidelines for the Local
Spiritual Assemblies、p.135)
82. ...全てのバハイは、いかに貧しくとも、このことに関していかに重大な責任を背負っているか悟らねばなりません。そして、
バハオラの世界秩序の信者としての精神的な成長は、バハオラの信教の聖なる機構を物質的に進んで援助する態度を行動においていかに示すかに大きく依存していることを知るべきです。(ショーギ・エフェンディの代理からインドNSAへ
7/17/37:Lights
of Guidance、p.201)
83. 基金への献金は、 その性質において全く自発的であるという基本原則を常に念頭に入れるべきであるという必要性を思い出してください。強制は全て、いかなるやり方でも、基金の基礎となる根本原則を侵すことになることは、あらゆる人に明白にされるべきです...大業を広めるための献金の性質や金額や目的は、あらゆる誠実な信者の思慮分別に完全に任すべきです。(ショーギ・エフェンディ:Principles of Bahá’í
Administration、p.92)
84. ...これ(バハイ以外から寄付を受けないこと)には2つの理由があります。ひとつは、バハイが築き上げている機構はバハオラが世界に授けられた贈り物であるということ。もうひとつは、バハイ信教に特有な目的のために信者以外から献金を受け入れることによって、遅かれ早かれ、
バハイは他の人々との思いがけない面倒や困難に巻き込まれ、そして大業の機構に予期できない害を与えるであろうということです。(ショーギ・エフェンディの代理から:Guidelines for the Local
Spiritual Assemblies、p.136)
85. バハイ特定の活動は人道的、博愛的、慈善的事業とは異なり、それらは将来、バハイの援助のもとで指導されるかもしれませんが、バハイ特定の活動の指導においては、信教にすでに属し、認められ、全面的な支持者と見なされる人のみが参加し、協力するように招かれるべきであるということを、バハイ行政機構の金言、
そして指導原則として見なすべきであると私は感じます。なぜなら、厳密には、バハイの性質を持つ機構の財政に信者以外の人が関ることは、将来のバハイ共同体の行政に厄介な事情をもたらすかもしれませんが、さらに、
これらの特別なバハイの機構は、バハオラが世界に授けられた贈り物として見なされるべきですが、それらはバハオラの啓示に本来備わっている要求について十分に理解し、それに全面的に従順である人々の援助によって、
育成され維持されてこそ、この世界において最善に活動し、最大の影響を及ぼすことができることを忘れてはなりません。(ショーギ・エフェンディ:Baha’i Administration、p.182)
86. それら[信教の友人や同情者からの贈り物]は、彼ら[信教の選出された代表者たち]により、博愛的、
あるいは慈善の目的を専門として設けられているバハイ基金の部分を強化するために使われます。(ショーギ・エフェンディ: Baha’i
Administration、 p. 182)
87.しかし、バハイ信教の友人や信教に同情を寄せる者が信教の促進のために献金する事を熱心に主張する場合は、そのような寄付が博愛的、慈善的目的のためのみに設けられたバハイ基金の部門の強化にのみ使われるということをはっきりと理解させて、
信者の選ばれた代表者らによって受け入れられ、正式に承認されるべきです...(ショーギ・エフェンディ:Baha’i
Administration、p.182)
88. 全国行政会の基金に献金するよう、 あらゆる信者ができるだけ犠牲を払うことをショーギ・エフェンディは勧められましたが、そのために友人たち(バハイ)が借金をすることには、賛成されません。私たちは、持っていないものをではなく、持っているものを与えるよう求められているのです。特に、このことが他人に苦しみをもたらすならなおさらです。そのような事柄について私たちは、分別と英知を活かし、他の献身的なバハイにそのことについて相談すべきです。((ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ 5/4/32:Lights of Guidance、p.202)
89....まず、あらゆる信者は、 自分の金銭の使い道に関しては自らの良心の指図に従えるということです。次に世界の人口に比べると、バハイの数はとても少なく、また困っている人々はとても多いため、もし、
私達全てが持っているものを全て与えたとしても、苦しみをあまり和らげることにはならないことを常に忘れてはなりません。これは、私たちが困っている人々を助けるべきでないということではなく、もちろん、そうすべきです。しかし、信教への献金は、飢えと困窮の重荷を人類からきっぱりと取り除くための確実な方法なのです。なぜなら、神に起源を持つバハオラの機構を通してのみ、世界は立ち直り、立ち上がり、貧困や恐れや飢えや戦争などを排除することができるからです。バハイ以外の人は私たちの仕事のために寄付できず、また、私たちの代わりにそれをすることもできないのです。従って、私たちの第一の義務は、私たち自身の布教活動を援助することであります。それによって、諸々の国が立ち直ることになるからです。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ 12/8/47:Lights of Guidance、pp.101-102)
90. 私たちは、常に持っているもの全てを空にし、目に見えない源によって常に満たされている泉のようであらねばなりません。貧困の恐れによって妨げられず、全ての富と善の『源』の尽きることのない恩恵を信頼して、仲間のために絶えず与えること、これが正しい生き方の秘訣です。(ショーギ・エフェンディ:Principles of Bahá’í
Administration、p.95)
13. バハイ暦
バハイ暦の起源
91. バブは新しい暦を制定することによって、 彼が先駆者として世界に伝えられた宗教制の重要なことを顕著に表明された。この暦では、グレゴリー暦と同様に太陰暦が廃止されて太陽暦年が採用されている。バハイの1年は、毎月19日の19ヶ月...からなり、この暦を太陽暦に合わせるため、18ヶ月目と19ヶ月目の間に閏日(平年は4日、閏年は5日)を入れる。
バブは月々を神の属性によって命名なさった。バハイの新年は古代イランの新年と同じく、天文学的に定められている。それは3月の春分の日(3月21日)に始まり、バハイ紀元は、バブの使命宣言の年(西暦AD1844年、 又はAH1260年)に始まる。近い将来、世界の全ての人々が共通の暦を用いることが必要となるであろう。(Principles of Bahá’í
Administration、pp.53-54)
19日毎のフィースト
92. たとえ、 水だけのもてなしとなっても、
フィーストは毎月に1度開かれるよう命ぜられている。まことに地上と天国のあらゆる手段が必要とされたとしても、 神は、人々の心を結びつけることを目的となさったのである。(バハオラ:Bahá’í Meetings and
Nineteen Day Feast、p.17)
93. 神の友人たちはみな、 『最高のペン』によって記憶されている。『恩恵の源』の恩恵は常に、明らかに示されている。いかなる国に住んでいようと、集会に集まって賢明かつ雄弁に語り、神の文節を唱えることが友人たちに似つかわしい。愛に火をつけそれを燃え立たせるのは、神の言葉ゆえに。(バハオラ:Bahá’í Meetings and
Nineteen Day Feast、p.3、ある信者への書簡)
94. 我が慈愛に達し、我が記憶が祝われ、我が愛されし者らの存在によって高潔にされ、わが賛美を宣言し、我が恵みの網にしっかりとつかまり、我が文節を唱えることで栄誉を授けられた家は祝福されている。まことに彼らは、神がガユムール・アスマや他の経典の中で賛美なさった崇高なるしもべである。まことに、
神は全てのことをお聞きになり、お答えになる御方であり、全てを知覚なさる御方である。(バハオラ:Bahá’í Meetings and Nineteen Day Feast、p.3、ある信者への書簡より)
95. 19日ごとのフィーストは、人々がともに集まって友好と愛を示し、神の神秘が明かされるよう、バブによってもたらされ、バハオラがそれを確認なさった。その目的は和合であり、その友好の精神を通して心が完全に結ばれ、互恵主義と相互援助が確立されることである。人類は団結せねば存在できないゆえに、協力と援助が人間社会の基盤となっている。この2つの偉大な原則がなかったら、偉大な運動が推進されることはないのである。(アブドル・バハ:Guidelines for the Local
Spiritual Assemblies、p.129)
96. 19日ごとのフィーストについてであるが、それは知性と心に喜びをもたらす。このフィーストが適切なやり方で開かれるなら、友人たちは19日に1度、精神的に回復し、この世のものではない力を授けられるであろう。(アブドル・バハ:Bahá’í Meetings and
Nineteen Day Feast、p.19)
97. 汝は19日ごとのフィーストについて書いた。このフィーストは喜びをもたらすものであり、一致と和合の基礎となるものである。それは愛情と友好へのかぎであり、人類の一体性を広めるものである。(アブドル・バハ:Bahá’í Meetings and
Nineteen Day Feast、p.18)
98. 汝は毎月(バハイの月)に開かれるフィーストについて尋ねた。このフィーストは友好と愛を促進し、神のことを思い起こし、悔恨の心で神に嘆願し、慈善活動を進めるために開かれるものである。
つまり、 フィーストに参加する友人たちは、神のことを深く考え神を賛美し、祈りや聖なる文節を唱え、最高の愛情と愛をもってお互いを扱うべきなのである。(アブドル・バハ:Bahá’í Meetings and
Nineteen Day Feast、p.19)
99. 19日ごとのフィーストについてであるが、汝らは、このことに最大の注意を向け、しっかりと確立すべきである。このフィーストは神を愛する人々に幸せと和合と愛をもたらすからである。(アブドル・バハ:Bahá’í Meetings and
Nineteen Day Feast、p.18)
100. 19日毎の集会を重視せよ。そうすればその集会で、主に愛されし者らと慈悲深き御方の侍女らは、王国へ顔を向け、祈りを唱え、神の援助を請い、お互いに引きつけられ、純潔と神聖と神への畏れにおいて、そして、
情欲と自我への抵抗において成長するであろう。こうして彼らは、この自然の世界から身を断ち、精神の熱情に浸るであろう。(アブドル・バハ、Bahá’í Meetings and
Nineteen Day Feast、p.18)
101. 19日ごとのフィーストの主な目的は、信者がそれぞれ提案を地方行政会に出せるようにすることです。さらに、 地方行政会は、それを全国行政会に伝えることになります。それで、地方行政会は、地方のバハイ共同体が、全国の代表者らの機構と通信するための適切な機構であります...
(ショーギ・エフェンディの代理から米国・カナダNSAへ、11/18/33:Lights of Guidance、p.188)
102. 19日ごとのフィーストに関してですが、フィーストへの出席は義務的な命令ではありませんが、バハオラがそれを非常に好ましく貴重なことであると見なされたことを、守護者は全国精神行政会への前の手紙の中で明らかになさいました。アグダスの書の中で、
バハオラは、その精神的、祈祷的性質について特に強調され、また、信者間の、 より綿密な友好と和合をもたらす手段として、バハイ共同体におけるフィーストの社会的重要性も強調されました。バハイ行政機構の原則や方法について友人たちが教育されることがますます必要とされていることを考慮して、守護者は、フィーストの行政的重要性について述べられました。
したがって、19日ごとのフィーストには3つの重要性があります。それは精神的、祈祷的、社会的、行政的重要性のある集いであります。この3つの特徴がみな結合されるとき、フィーストは最高の成果を必ず生じることができるし、又、 生じることでしょう...(ショーギ・エフェンディの代理から米国・カナダNSAへ、10/2/35:Bahá’í Meetings and Nineteen Day Feast、p.26)
103. 19日ごとのフィーストへの出席は必須ではありませんが、出席することは非常に好ましく、友人たちはバハイの月に1度開かれるこの精神的な共同体の集合の場を奪われないよう努力すべきです。(ショーギ・エフェンディの代理から米国・カナダNSAへ
12/23/48:Bahá’í
Meetings and Nineteen Day Feast、p.29)
104. 19日ごとのフィーストは大業の制度であり、今や信教の行政的秩序の重要な部分を成しています。この19日ごとのフィーストは、 バハイのためのものであり、バハイだけに限られるもので、この原則から反れることは許されません。(ショーギ・エフェンディの代理からドイツとオーストラリアのNSAへ
5/28/54:Lights of Guidance、 p. 241)
105. バハイだけがフィーストに参加できるという規則は新しいものではなく、それは敬愛する守護者がしばしば繰り返し述べられたことです。しかし、
バハイ以外の人がフィーストに来た時には、その場を去ってもらうように言うべきではありません。むしろ行政会は、フィーストの協議の部分を省いて、その人を歓迎すべきです。もちろん、その人がバハイの人たちと親しく、感情が傷ついたりしなければ、協議の間引き下がってもらうよう頼むことはできます。しかし、一般には、できればそのような問題を避けるようにすることがずっと望ましいことです...(万国正義院:Guidelines for the Local
Spiritual Assemblies、p.132)
106. 19日ごとのフィーストはできれば、バハイの月の第1日目、即ち日の入りに始まるバハイの日に開かれるべきです。もし、 妥当な理由のために―—例えば定例の公のミーティングと重なったりして―—これが可能でないなら、後の日に開くことができます。しかし、
それはそのバハイの月の間に開かれるべきで、できるだけ1日目に近い期日に開くべきです。(万国正義院からイギリス諸島NSAへ
8/8/69:Lights
of Guidance、p.193)
聖なる日
107. ...『アブハの美』(バハオラ)と『最初の点』(バブ)に関する日々、すなわち、
この9つの日においてのみ、商業や工業や農業などに関する仕事を休まねばならない。同じように政府に関する仕事にせよ他の仕事にせよ、あらゆる種類の仕事を休むべきである。(アブドル・バハ:Lights of Guidance、p.229)
108. ...聖日は実際には11日ありますが、すでに述べたように、書簡で言及されている最初の9つの聖日においてのみ、仕事を休むようにされています。(ショーギ・エフェンディの代理による手紙より 3/8/51:Lights of Guidance、p.229)
109. ...もし信者が、政府やその他の雇用者によってこれらの日に仕事を休むことを拒否されても、信者は仕事を失う必要はありません。しかし、
信者は、自分の信教の独立した地位を認めてもらい、その宗教的聖日の行事を行う権利を認めてもらうよう最善を尽くすべきです。(ショーギ・エフェンディの代理による手紙より:Principles of Bahá’í
Administration、p.55)
14. マシュレゴウル・アズカル
110. 夜明けにマシュレゴウル・アズカルの方へ歩み、神と会話を交わし、神の記憶と調和し、神の話を請うものは幸いである。そこへ足を入れたら、腰をおろし、主権者にして全能者であり、誉れ高き御方なる神の節に静かに耳を傾けるべきである。言挙げよ。マシュレゴウル・アズカルはまことに、我が御名を述べるために諸々の町や村に建てられた『礼拝堂』(聖殿)のことである。(バハオラ:Kitáb-i-Aqdas or
Bahá’í World、Vol. XVV、p.568)
111. この建築物の神秘は偉大である。そして、
それはまだ明かすことのできないものである。しかし、 それを建てることは、今日最も重要な事業である。マシュレコウル・アズカルには重要な附属機関があり、それらは基礎的な土台をなすものである。それらは、孤児のための学校や、貧困者のための病院、身体障害者のためのホームや、高等科学を教える学校、そして、
宿泊所などである。このように、あらゆる都市に、マシュレゴウル・アズカルが建てられるべきである。マシュレゴウル・アズカルでは毎朝、礼拝が行われるであろう。礼拝堂内にはオルガンはない。餐宴や礼拝や大会、公共の集会や精神的な集いは近くの建物で開かれるであろうが、礼拝堂内では、節の詠唱や賛歌が行われることはない。全人類に礼拝堂の門を開放せよ。
これらの施設や大学や病院、不治の病に苦しむ人々のための建物や高等な科学を教え、大学院の課程を提供する学校、そして、
その他の博愛的事業を行う建物が建てられた時、その門戸は、あらゆる国や宗教に開放されるであろう。そこには、いかなる境界線も引かれることはないであろう。その慈善事業は、皮膚の色や人種にかかわりなくなされるであろう。何人にも偏見を示すことなく、全ての人に愛をふりまき、その門戸は全人類に広く開け放たれるであろう。中央の建物は、祈りと礼拝のために用いられるであろう。こうして...宗教は科学と調和し、科学は宗教の侍女となり、両方とも、その物質的、精神的贈り物を全人類に豊富に与えるであろう。(アブドル・バハ:Bahá’u’lláh and the New Era、pp.187-188)
112. マシュレゴウル・アズカルは外見的には物質的な建物であるが、それは精神的な影響を及ぼす。それは、
心と心の和合の絆を作り出す。それは、人々の魂が集合する中心である。顕示者の日々に礼拝堂が建てられたあらゆる都市は、安全と安定と平和をもたらした。なぜならそのような建物は、神を永遠に賛美するために捧げられたのであり、神を記憶することによってのみ、心は安らぎを見出すことができるのだから。全く驚くべきことである。礼拝堂という建物は、生活のあらゆる面において強烈な影響を及ぼすのである。東洋ではすでに、これが事実であることがはっきりと実証済である。ある小さな村で、ある家がマシュレゴウル・アズカルとして定められたとしても、それは著しい影響を及ぼしたのである。では、
マシュレゴウル・アズカルとして特別に建てられたものの影響は、いかに大きなものであろうか、 わかるであろう。(アブドル・バハ:Selections from the Writings
of ‘Abdu’l-Bahá、pp.95-96)
113. 汝は、礼拝の場所とその理由について尋ねた。そのような建物を建てる英知とは、人々がともに集まる時刻であることを知り、全ての人が集合して、
お互い調和し和合して祈りを行う、ということである。そして、 その集まりの結果として和合と愛情が人々の心の中に育まれ、あふれるようになるのである。(アブドル・バハ:Selections from the
Writings of ‘Abdu’l-Bahá、pp.94-95)
114. 最近起きた最も素晴らしい出来事のひとつは、マシュレゴウル・アズカルの建物が、アメリカ大陸の中心に建設中であり、その周りの地域から数多くの人々が、この聖なる礼拝堂の建設のために寄付しているということである。そのような人のひとりが、マンチェスター市のある非常に尊敬された淑女である―—彼女は心を打たれ、自分なりの寄付をした。
この世の利益や富がないために、彼女は、その頭を優雅に飾っていた長く美しく貴重な髪を自らの手で切り、それを売るために提供した―—それによって得られたお金が、マシレゴウル・アズカルの事業を促進するために。
では、 よく考えてみよ―—女性にとって、流れるような豊富な髪ほど貴重なものはないにもかかわらず、あの誉れ高き淑女はそのようなまれで美しい自己犠牲の精神を示したのである。
これは要求されたわけでもなかったし、アブドル・バハはそのような行為に賛成しなかったであろう。しかし、それは高潔で崇高な献身性を示すがゆえに、彼は深く感動したのである。西洋の女性にとって髪は大切なものである。いや、それは命よりも大切なものである。しかし、彼女は、マシュレゴウル・アズカルの事業のためにその髪を犠牲として捧げたのである!....
神の大業がいかに強大かつ強力なものになったかについて、深く黙想してみよ!西洋のあるひとりの女性が、マシュレゴウル・アズカルの栄光のために、自らの髪を捧げたのである。(アブドル・バハ:Selections from the
Writings of ‘Abdu’l-Bahá、pp.98-99)
115.しかし、この崇高なる礼拝堂の中心の建物で見られるように、バハイの礼拝の概念がいかに感動的なものであれ、バハオラがお定めになったように、マシュレゴウル・アズカルがバハイ共同体の有機的生活において果たすように定められた唯一の要因として、いや、本質的な要因として見なすことはできません。マシュレゴウル・アズカルの附属機関を中心としてなされる社会的、博愛的、教育的、そして科学的活動から切り離されたら、バハイの礼拝は、その概念においていかに崇高であれ、また、その熱心さにおいていかに情熱的であれ、苦行者の瞑想や消極的な崇拝者の祈りが生じる、
乏しく、はかない成果を超えることもできないのです。それは、マシュレゴウル・アズカルの附属機関が最高の特権として促進し助長する人類の事業への、 精力的かつ非利己的な奉仕活動へと移されない限り、崇拝者自身にも、ましてや人類全体にも、永続する満足と利益を与えることはできないのです。また、マシュレゴウル・アズカルの周辺で、将来のバハイ共同体の業務運営に従事する人々の努力は、いかに非利己的かつ精力的であっても、マシュレゴウル・アズカルの中央の礼拝堂に集中し、また、
そこから広がる精神的な機関との密接な日々の交わりがない限り、実を結び、成功することはないでしょう。マシュレゴウル・アズカルの中心に位置する礼拝堂から発される精神的な力と、人類への奉仕の業務を司る人々が、
意識的に示す活力との直接で常時の相互作用の力以外いかなるものも、人類を非常に長い間、激しく苦しめてきた病を取り除くのに必要な力を与えることは到底できないのです。というのは、苦悩する世界の救いは、確かに究極的には、バハオラの啓示の効力を意識することに依存するからです。そして、
その意識は、バハオラの精神との交わりによって、また、バハオラが啓示された原則や法律を理知的に応用し、忠実に遂行することによって強化されるのです。そして、バハオラの聖なる御名に関する全ての機関の内で確かに、マシュレゴウル・アズカルの機構ほど人類の新生のために、
非常に重要なバハイの礼拝と奉仕に不可欠なものを十分に与えることのできるものはないのです。そこに、バハオラがもたらされた顕著な機構のひとつとしての、 マシュレゴウル・アズカルの思慮深さと力と独特な地位の秘密があるのです。(ショーギ・エフェンディより米国とカナダのNSAへの手紙より、10/25/29:Bahá’í Administration、pp.185-186)
[1] 訳注:バハオラにより指名された神の言葉の解釈者。アブドル・バハの言葉は、バハオラの言葉と同じ妥当性であるが、神の言葉と同等ではない。預言者ではないが、人間と超人的性質の融合された人物である。アブドル・バハに与えられた称号には次のようなものがある:(1)神の言葉の解釈者、(2)聖約の中心、(3)神の神秘、(4)隷属性――謙遜と謙虚と無我の頂点を達した人物、(5)教えの完璧な模範者、(6)全てのバハイの美徳の具現者、(7)神の法律の手足、(8)あらゆる名前が周りを駆け巡る存在、(9)人類の一体性の主力(原動力)、(10)最大平和の旗、(11)この最も聖なる律法時代の天体の月。
[2] 訳注:バハオラ。
[3] バハオラ
[4] バブ
[5] 訳注:バハオラの家族のこと。
[6] 訳注:1952年、万国正義院がはじめて選出される11年前。