注:この文書は校閲を受けていない非正式の訳です。暫定版としてお使いください。ただし、暫定版と明記してお祈りの会や学習等に使用できます。Note: This is a provisional translation,
not officially reviewed or approved by the National Spiritual Assembly. However
it may be used for devotional gatherings and other similar purposes while
indicating clearly these are provisional translations.
音楽に関する抜粋集
I.バハオラの書簡から
1.
おおわがしもべよ。汝が受け取った神の聖句を、神に近づいた者らが唱えるように唱えよ。そすれば、汝の旋律は汝の魂に灯りをつけ、すべての人々の心を引きつけよう...(バハオラ、「落穂集」、136番)
2.
われは、汝らが音楽や歌を聞くことを合法とした。しかし、それらを聞くことより礼節と威厳の限界を越えぬよう注意せよ。わが最大名から生まれた喜びをもって汝らの喜びとせよ。それは心に歓喜をもたらし、神に近づいた者らの理性を陶酔させる御名である。まことに、われは音楽を汝らの魂の梯子とし、魂を天上の領城に引き上げる手段とした。それゆえ、それを自我と情欲の翼としてはならない。まこと、われは、汝らが愚かな者の中に数えられるのを見たくはない。(バハオラ、「アグダスの書」、51段落)
3.
夜明けに思いを神に向け、神を思い起すことに専念し、許しを請い、マシュレゴ・アズカルに歩みを向け、そこへ入り沈黙のうちに座し、主権者、御力の御方、すてに賛美される御方なる神の聖句に耳を傾ける者に祝福あれ。言挙げよ。マシュレル・アズカルは、わが賛美のために町や村に建てられたすべての建物である。この称は栄光の玉座の面前で定められたものである。汝ら、理解する者であれば。(バハオラ、「アグダスの書」、115段落)
4.
すべてに慈悲深き方の聖句を最も麗しい調べで唱える者らは、天と地の主権も決して比較し得ないものを聖句の中に感知するであろう。彼らは、それらの聖句からわが諸々の世界一一今日、この崇高でうるわしい啓示を通して視力を授けられた者ら以は誰も認めることのできない世界一一の聖なる芳香を嗅ぐであろう。言挙げよ。これらの聖句は、清らかな心を言葉で言い表わすことも、隠嚥でほのめかすこともできないもろもろの精神界に引きつけるであろう。耳を傾ける者らに祝福あれ。(バハオラ、「アグダスの書」、116段落)
5.
威厳と力の天から下された句を汝らの子供たちに教えよ。全てに慈悲深き方の書簡を、子供たちが、マシュレゴル・アズカルの小部屋で、最もうるわしい調べで唱えることができるようにするために。最も憐れみ深きものというわが御名に対する敬慕の念から生まれた歓喜で満たされた者はだれであれ、いまだ深い眠りにある者らの心津引きつけるような方法で神の句を唱えるであろう。わが御名において、慈悲深き主の言葉から永遠の生命の神秘の美酒を飲み干した者は幸いなり。その御名により、堂々とそびえたつ山のすべては塵と化したのである。(バハオラ、「アグダスの書」、150段落)
6.
このすばらしき時代は、迷信の暗幕を引き裂き、東洋の人たちの偏見の間違いを指摘した。東洋のある国々では、音楽や旋律を良しとしていない。しかし、この栄光ある時期に、「顕現された光」であるバハオラは、神聖なる書簡の中で、歌や音楽が心と魂の精神的食物であると啓示なさった。この時代に、音楽は非常に歓迎され、悲しく沈んだ心を高揚させるものと考えられる芸術のひとつである。それ故に...聖なる語句や文節に音楽をつけよ。そうすれば、集会において、魂をかきたてるような旋律で神の言葉を歌い、又、聞く者の心を高揚させ、嘆願と祈りのうちにアブハの王国へと昇ることが出来るであろう。 (アブドル・バハ:Bahá’í
World Faith、p.378)
7.
神に感謝せよ。汝は音楽と旋律に関する訓練を受け、永久なる方、生きた御方を崇め、賛美するために、快い声で歌っている。われは、汝がこの才能を、祈りや嘆願のために用いることを神に祈らん。それにより、魂が活気づけられ、心がひきつけられ、すべての人々が神の愛の火により燃え上がらんことを。(アブドル・バハ:Tablets of Abdu’l-Baha
Abbas, Vol. 1, p.512)
8.
...音とは、耳の鼓膜を影響する空気の振動にすぎない。また、空気の振動とは、空気の存在に依存する偶発的な現象にすぎない。しかし、すばらしき音階や魅惑的な歌がどれだけ精神を影響するか、考えてみよ。すばらしい歌は精神に翼を与え、心を歓喜で満たす...(アブドル・バハ:Bahá’í World Faith, p.334)
9.
最高の喜びが達せられた。なぜなら――神に賛美あれ!――慈悲深き御方の友らは、その日を喜びのうちに過ごし、マシュレゴウル・アズカーで歌を歌い、最大の喜びで聖句の主のことを思い起こしたからである。来るレズワンには、マシュレゴウル・アズカーですばらしいフィーストが開かれることを期待する。そこでは、精神的な祝祭が催され、バイオリンとマンドリンの旋律と、万軍の主の賛美と栄光とが聴衆をすべて、歓喜させ、恍惚とさせよう。(アブドル・バハ:Tablets of Abdu’l-Baha
Abbas, Vol. 3, p.101)
10. おお、神の侍女よ!侍女たちの集まりで美しき旋律にて歌い、最高の主なる御方を賛美し、崇めるが良い。(アブドル・バハ:Tablets of Abdu’l-Baha
Abbas, Vol. 1, p.65)
11. おお、御国に引きつけられし汝よ!芸術と音楽の学業を終わらせ、御国の主ために多かれ少なかれ犠牲を払うがよい。(アブドル・バハ:Tablets of Abdu’l-Baha
Abbas, Vol. 3, p.671)
12. 旋律の美しい声は引きつけられた心に生命を吹き込む。しかし、情欲と欲望に飲み込まれた魂らは、肉欲の方へと誘い込まれる。(アブドル・バハ:The Divine Art of Living, rev. edn., p.100)
13. おお、バハのしもべよ!音楽は、「全能者の敷居」にては賞賛さるべき学問である。そうすれば、汝は、大きな集会や会合ですばらしき旋律にて聖句を唱え、マシュレゴウル・アズカーにて賛美歌を歌い、天上の群集を魅了するであろう。それでは、音楽という芸術が、いかに崇めら、賛美されているかを考えてみよ。できれば、精神的な旋律と歌と音色を用いて、この世の音楽を、点なる旋律と調和させるがよい。そうすれば汝、音楽の影響がいかに大きく、いかに天なる喜びと生命を与えるかを知るであろう。聖なる神秘のウグイスが喜びと歓喜に満たされるような旋律と音色で歌うがよい。
III.
アブドル・バハの講和より
14.これはなんとすばらしい集会であろうか。これらは御国の子どもたちである。今聞いた歌は、旋律も歌詞も非常に美しい。音楽という芸術派、聖なるものであり、効果がある。それは魂と精神の食べものである。音楽の力と魅力で、人間の精神は引き上げられる。それは、子どもたちの心にすばらしい影響を及ぼす。彼らの心は純粋であるから、旋律は影響を及ぼすのである。これらの子どもたちの心の中にある潜在的な才能は、音楽という媒介を通して表現されるであろう。したがって、あなた方は、子どもたちが音楽に長けるようになすがよい。効果的で優れた歌を歌えるように指導しなさい。子どもたちにはみな、音楽について何らかのことを教えなくてはならない。なぜなら、この芸術の知識なしには、楽器や声が奏でる旋律を楽しむことはできないから。同じように、学校でも音楽を教えるべきである。そうして、生徒の心と魂が活気づけられ、喜ばせられ、生徒たちの生活は楽しみで明るくされよう。(アブドル・バハ:The Promulgation of Universal Peace, p.52)
15.音楽は重要な芸術のひとつである。それは人間の精神に大きな影響を及ぼす。音楽の旋律は、天なる振動に偶発的な影響が生じてできたものである。なぜなら、声とは、振動の表現にすぎず、鼓膜に到達すると、耳の神経に影響を及ぼすからである。したがって、音楽的旋律は、振動により、あるいは振動から生じた特殊な影響力なのである。しかし、それらは、精神にもっとも鮮烈な影響を及ぼす。実際、音楽は物質的なものではあるが、それが与える強い影響は精神的なものであり、その最大の結びつきは精神界へのそれである。もし講演をしたいならば、その前に音楽を使うと、より効果があがろう。古代ギリシャ人も、ペルシャの哲学者たちも、講演をするときは次のように行う習慣があった。すなわち、最初に音楽をいくらか演奏し、聴衆の受容性がある程度まで高まるとすぐに楽器を置いて講和を始めたのである。ペルシャで最も著名な音楽家のうちにバルボドという人がいた。国王の宮廷で難題が持ち上がり、大臣たちが国王を説得できないときはいつも、彼らは問題をバルボドに委託した。バルボドは自分の楽器を持って宮廷に行き、最も適切で心を動かす音楽を演奏すると、目的はすぐに達成された。なぜなら、国王は感動的な旋律にすぐに心を動かされ、寛大な気持ちにあふれ、譲歩したからである。汝も試みてみるがよい――もし何か目的を達成したいと思ったなら、大勢の聴衆の前で独唱をさせるがよい。しかし、そのような聴衆は、音楽が影響を及ぼせる聴衆でなくてはならない。ある人々は石のようであるから。石は、音楽により影響を受けない。
音楽は、人類の教育と発展に重要な手段である。しかし、真の方法は神の教えを通して行うことである。音楽は完璧に磨かれた鏡のようなものである。それは、われわれの面前にある、この杯のようなものであり、神の教え、神の言葉が、そこに入れられる水のようなものである。この鏡や杯がきれいであれば、そこに映る水、あるいはそこに入る水も、純粋で、透き通っており、それは生命を与えてくれる。それゆえに、神の教えも、それが賛美歌にせよ、祈りにせよ、美しい旋律で歌われると、非常に強い印象を与えるのである。
それで、ダビデ王は、至聖所で賛美歌を甘美な旋律で歌ったのである。この大業では、音楽は最高の重要性がある。「祝福された完全」(バハオラ)が初めてこの兵舎(アッカのこと)に来られた時、よく、こう言われた――「この信奉者らの中にフルートやハープなどの楽器を演奏できる者がいたならば、みなを喜ばせることが出来たのに」、と。すなわち、音楽的旋律は、人間の内面的そして外面的性格や特質に重要な役割を果たす。それは、物質的そして精神的感受性を刺激するからである。音楽は、愛という感情を刺激する、なんと強力な力であることか!人が、神の愛に愛着を感じる時、音楽は強い影響を及ぼす。(1909年7月、アッカでのお話より)
16.声とは空気の振動により生じるもので、海の波のようなものである。それは、唇、喉、歯、舌などの媒介を通して生じる。これらの媒介が、空気中に波動を引き起こし、それが耳の神経に届き、耳に影響を及ぼすのである。これが、声と呼ばれるものである。
純粋なものは、全て好ましい。たとえば、清い水、きれいな空気など。純粋なものは全て好ましく、心地よいので、きれいな声もまた、非常に好ましく、大いなる喜びをもたらす。
声には二種類ある。ひとつは、媒介が完全である時のもので、その時、声の放射も完全となる。もうひとつは、媒介が不完全な時のもので、この時は、声もそれに影響を受け、快い声からはかけ離れたものとなる。今述べたことは、声そのものに関することである。
さて、心や精神にとって、対称性、調和、完全性を示すものは何でも、喜びとたしなみを感じることは自然なことである。たとえば、美しい家、よく設計された庭園、対称性のある線、優雅な動き、よく書かれた本、美しい衣服など。優雅さや美のあるものは全て、心や精神にとって喜びとなる。ゆえに、真に美しい声もまた、深い喜びをもたらすことも確実である。
では音楽とは何であろう?それは、調和された音の組み合わせである。では詩とは?それは、対称的な言葉を集めたものである。
したがって、そのような音は、和音やリズムがあり、心地よいのである。詩は、散文よりも効果的で、完全である。それはより繊細に組み立っているので、より深いレベルで刺激する。
美しい声に美しい音楽をつけると、大きな効果がある。両方とも、快いからである。これらは、組織されており、自然の法則の上に構成されているのである。ゆえに、型にきれいにはまるように、生存世界の秩序にうまく対応するのである。美しい声は自然という型にうまく収まる。そのような時、それは神経に影響を及ぼし、心と精神も影響する。
生存世界では、物質が精神的実在とつながっている。そのひとつが声であり、声は、精神とつながっている。声は、精神を引き上げることが出来る。声は、物質的なものではあるが、組織化されているので、影響を及ぼすのである。
全ての形態のものが、正しく理解されると、精神を喜ばせる。旋律は、水のようなものであり、声は、コップのようなものである。透明なコップに入った水は、心地よいものである。したがって、その水は受け入れられる。しかし、たとえ水が純粋であったとしても、コップが汚ければ、水も快さを失う。したがって、旋律が良くても、声に問題があれば、心地よいとは言えない。
つまり、旋律は、物質的なものではあるが、精神的なものとつながっているので、大きな効果を表す。ある種の旋律は精神を喜ばせ、またある種の旋律は悲しませ、さらにある種の旋律は行動にかき立てる。
声と旋律は、精神を動かし、刺激するので、これらの事柄は全て、声と旋律より、引き起こされるのである。音楽は、動物にさえ、影響を及ぼす。たとえば、ラクダに砂漠の道を歩かせる時、ラクダにベルをつけたり、笛を吹いてやったりするが、このような音は、ラクダの旅の疲れを和らげる。ラクダには、思考というものはなく、身体的感覚しかないが、そのような音が、神経を影響するのである。
人間が心にどのような思いを持っていても、戦慄はそれを刺激し、呼び起こさせる。良い思いが心にあり、美しい声が聞こえると、大きな効果を及ぼす。たとえば、愛の思いがあれば、ある旋律をとおして、その思いは勢いを増していく。しかし、心に、憎しみのような悪い思いがあると、それも、旋律を通して、勢いを増す。たとえば、戦争で用いられる音楽は、流血の思いをかき立てる。つまり、旋律は、心の思いを増す力があるのである。
ある思いは偶然に生じるものであり、ある思いは意識的に生じる。たとえば、ある人たちは親切な性格なのだが、たまたま、怒りのために一時的に機嫌を害しているかもしれない。しかし、音楽を聴くと、彼らの真の性質が再び現れる。音楽は、その人の真の性質、本質を呼び覚ますのである。
あなたが、どのような目的で音楽を聴こうとも、その目的はより勢いを増して果たされよう。貧しい、恵まれない人たちのための慈善コンサートが開かれて、あなたが慈善の目的を心に思いつつ、コンサートに行けば、音楽は、あなたの思いやりと寛大の心を強めよう。逆に、これが、戦争で音楽が使われる理由でもある。神経を刺激する事に関しては全て、同じことが言えるのである。
しかし、主な効力は、「言葉」により引き起こされる。言葉が美しい旋律と合わせられると、最も優美な調和が生じる。(「アッカ訪問記」、Mary Lucas、英語版、pp.11-14)
IV.ショーギ・エフェンデイの代理による手紙より
17....夫人が書かれた賛美歌を歌うことについてですが、守護者はそれをとてもすばらしいアイデアだと思っておられます。ルア・ゲッツインガー夫人が「師」の」ご家族と滞在しておられた時、彼女はそれらの賛美歌をよく歌っておられましたし、また、ご家族の小さい子どもたちに教えようとなさっておられました。
小さい子どもたちがグループでそれらを歌うのは特にすばらしいと守護者は思っておられます。(ある信者へあてた手紙より、1928年4月22日)
18.守護者は、あなたが書いておられる賛美歌をとても貴重であると思っておられます。それらの歌はまことに、信教の真理を含んでおり、若い人たちにメッセージを伝えるのに必ず役立つでしょう。音楽は、人間の精神に影響を及ぼすのに役立ちます。それは、魂と意思疎通をするための重要な手段です。守護者は、あなたが、音楽の援助を通してメッセージを人々に伝え、彼らの心を引きつけられるよう望んでおられます。(ある信者へあてた手紙より、1932年11月15日[1933年2月U.S. Baha’i News, No.1, 第2ページに引用])
19.バハイの会合で賛美歌を歌うことに関するあなたの質問についてですが、守護者は、それはまったく問題ないとわたしに答えるようおっしゃいました。疑いなく音楽は、全てのバハイの集まりに欠かせない要素です。「師」ご自身も、その重要性を強調なさいました。しかし友らは、他の事柄も含めて、中庸という限度を超さないようにすべきです。また、バハイの会合の非常に精神的な性質を保持できるように最大の注意が必要です。音楽は精神性を引き出すべきであります。そのような雰囲気をかもし出せるのであれば、音楽を用いることは問題ありません。
しかし、信者が書いた賛美歌と、聖典の言葉を唱えることとを明確に区別することが最も重要です。
(ある信者へあてた手紙より、1935年3月17日)
20.十九日毎のフィーストで音楽を用いることに関する質問について、守護者は友らにこうお答えになります。つまり、フィーストで音楽を用いることを許可するだけでなく、バハイの会合で、バハイが書いた賛美歌や、聖典の言葉に基づいた賛美歌や詩やチャンテイングを用いることが好ましいとさえおっしゃっておられます。(ある信者へあてた手紙より、1935年4月7日)
21.現在はまだ、バハイの芸術活動が始まったばかりですが、そのような事柄に才能のある友らは、その才能を伸ばし、育むべきです。そして、バハオラが世界に吹き込まれた聖なる精神を、いかにささやかであろうとも、作品を通して反映するように努めるべきです。(ある信者へあてた手紙より、1937年11月4日)
22.芸術のひとつとしての音楽は、文化的な発展の自然な現象です。守護者は、「バハイ音楽」という(型にはまった)ものを開発すべきでない、と感じておられます。それは、絵画や文学に関するバハイの流派を開発すべきではないのと同じことです。信者は、自分の才能が導くやり方で、自由に絵を描き、物を書き、音楽を作ることができます。聖なる言葉を含めた音楽作りをするのであれば、それは自由にそうすることができます。しかし、バハイの会合で、必ず、そのような音楽を用いるべきであるという必須条件と考えるべきではありません。一定の形態から解放されればされるほど、好ましいです。なぜなら、大業は、普遍的なものであることを友らは理解すべきですし、また、フィーストなどの行事に加えるすばらしい要素として見なされたものが、他の国では、不快な音として聞こえることもあるからです。また、その逆もまた可能だからです。つまり、音楽をたしなむことは当然よいことですが、「バハイ音楽」という型にはめることはすべきでありません。(米国の全国精神行政会へあてた手紙より、1946年7月20日)
23.バハイフィーストで楽器による音楽の演奏をすることはできます。(ある信者へあてた手紙より、1956年8月20日)
24.バハイの曲集を作成するにあたって、現時点ではバハイ音楽と呼べるような文化的な表現形態はないというあなたの理解は正しいです。つまり、新しい神の啓示の始まりにおいてでてくるものではなく、文明の開化として独特な音楽や文学や美術や建築などの形態という意味で、です。しかし、それはわれわれにはバハイの歌――すなわち、バハイの人により、バハイのテーマに関して書かれた歌――がないという意味ではありません。(米国の全国精神行政会へあてた手紙より、1957年9月21日)
25.あなたは、それらの歌に関する質問を、校閲委員会か全国精神行政会と協議して解決するように努めるべきです。バハイは、信教について述べた歌を書くことはできます。ただし、これを「バハイ音楽」と呼ぶことはできません。単に、信教について述べられている音楽なのです。これら、おそらくあなたの全国精神行政会が意味したことだと思われます。(ある信者へあてた手紙より、1957年10月24日)