生きるということと死ぬということ
おお怠慢の子等よ!
滅ぶべき主権に愛着するな。
またその中にて喜ぶな。汝等は梢にて
自信満々とさえずる軽率なる小鳥の如き
ものである。突然狩人なる死が、それを塵埃
の上に射ち落とし、そのメロディ−も、
その形も、またその色も消え去り、
痕跡も残さないであろう。
されば心せよ、おお欲望の奴隷等よ!
バハオラ
もくじ
幸せを保証するものは?・・・・・・・・・・・1
人生で何を達成するか?・・・・・・・・・・・5
人間の中身は?・・・・・・・・・・・・・・・12
人を成長させるもの・・・・・・・・・・・・・19
花もやがて散っていく・・・・・・・・・・・・27
肉体の寿命と精神の寿命・・・・・・・・・・・30
鳥かごから飛び立つ鳥に似て・・・・・・・・・40
永遠に残るもの・・・・・・・・・・・・・・・42
胎児にはこの世界の存在が分かっていたか?・・52
人が行き着くところ・・・・・・・・・・・・・54
責任を問われる時・・・・・・・・・・・・・・59
すべては自分の意思にかかる・・・・・・・・・61
反省だけで良いのか?・・・・・・・・・・・・62
死体は単なる物体か?・・・・・・・・・・・・65
創造の源は?・・・・・・・・・・・・・・・・66
結婚の絆は永遠か?・・・・・・・・・・・・・68
故人/先祖のための祈り・・・・・・・・・・・69
両親のための祈り・・・・・・・・・・・・・・70
参考文献及び省略語一覧表・・・・・・・・・・71
おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・76
注:談話と公演からの引用は「です・ます」調になっており、書簡からの引用は「である」調になっています。
幸せを保証するものは?
考えて見よ。あなたの前に過ぎ去った幾多の世代は今どうなっているか?最も魅力的な美女たちに囲まれた者らは今どこに消えたのか?道を迷わないために彼らの結末を戒めとしなさい。
間もなく他人はあなたの財産を手に入れ、今の住まいもみないずれ人の物となろう。我の言葉に耳を傾けるがよい。愚かな者の仲間として数えられないようにせよ。
他人に侵害されない、決して奪われることのないようなものを自分のために選びなさい。これこそはあなた方一人ひとりの最も重要な義務である。全能者は証言する!そのようなものとは、真に、神の愛に他ならない。それを悟るがよい。[1]
豪雨や洪水に決して脅かされない、地上の人生の移り変わりから守ってくれるような住まいを自分のために築きなさい。これは虐待を受け、世界に見捨てられた御方の勧告である。
バハオラ1
神の正義に誓う!間もなく政府の大臣の華やかさ、支配者の主権は過ぎ去り、君主の宮殿は破壊され、帝王の堂々とした建造物は残骸となる。不変なるものは王国[2]においてわれが皆のために定めたもののみである。おお人々よ!神の王座の前で名前が挙げられ、実在の主である神の永遠の世界において汝の名声が残るように、必死に努力すべきである。
バハオラ2
財宝を多く持っていることを誇りにしているのか?それは滅びる物ばかりであるのに。ちょっとした土地を支配していることで喜んでいるのか?この世界全体…は死んだ蟻の目のアカぐらいの価値しかない。そのようなものは、この世の物を欲しがる者らに任せなさい。「世界の憧れ」[3]に向かいなさい。昔の傲慢な支配者たちとその宮殿はどこへ消え去ったであろうか。彼らの墓の中を覗いて見なさい。我は彼らのことを皆のための教訓とした。それを戒めにする者は幸いである。神の啓示のそよ風がもしあなたを捕えれば、あなたはこの世を離れ、王国に向かい、そしてこの崇高な美[4]に近づくために、持っている物をすべて惜しみなく費やすであろう。
バハオラ3
この世界は見せかけであり、無駄で空虚なものである。それは実在を装っているにすぎず、愛着を持つに値しない。汝と創造者を結ぶ絆を切るな。迷った、神の道から逸れた者であってはならない。正に我はここで真実を述べる。この世は砂漠の蟹気楼のようなものである。喉の乾きを癒す水と思って一生懸命にそれを追求するが、いずれ近づいて見ればそれは全くの空想だと分かってしまう。
バハオラ4
おお、神に愛されている友らよ!この世はあたかも砂漠の上で、空中に浮かぶ蜃気楼のようなものであり、乾きにあえぐ人はそれを水と見間違えてしまうのである。この世のワインは砂漠に見る幻であり、この世の哀れみと慈悲は苦労と困難に過ぎず、この世が提供できる安らぎは落胆と悲しみにしか通じない。したがって、この世をそれに属する者らに任せ、顔を「慈悲を与え給う御方」に向けなさい。そうすれば、神の慈愛と恩恵は夜明けの光の如くあなたを照らし、天のご馳走があなたに下され、あなたの主はあなたを祝福し、彼の富はあなたの上に降り注がれるのである。あなたの胸は喜び、心は歓喜に満たされ、思考は高められ、魂は清められ、目は慰められるのである。
アブドル・バハ5
…我の最も聖なる書[5]に啓示したことについて、吉報を宣言する。わが命令の太陽はその書の地平線より、見る者、見られる者を全て照らすのである。それにしっかりとしがみつき、その中で啓示されたことを守りなさい。それはこの世で創造されたいかなる物よりもあなたのためになる。これを悟るがよい。この人生の無常のことがらに惑わされ、真実なる神を求めることが妨げられないように、注意せよ。心にこの世のこと、その争いと移り変わりを熟考しなさい。願わくばこの世の価働扮かり、また、我の「保存された書」の中に下された命令に背いた、心を世俗的欲望に任せた者らの地位が理解できるように。
バハオラ6
人生で何を達成するか?
この世においての人生はいずれ終りをつげます。この世を去る時、私達は何らかの収穫を得て行かなければなりません。人生を木に例えれば、その木は実を結ばなければなりません。実を結ばない木は薪となり、切って燃やされてしまうでしょう。
問:アブドル・バハ、人生の実とは何でしょうか。
答え:人生の果実とは神を愛すること、人類を愛するとと、地球に住む全ての人々を思いやることです。それは人類に奉仕することですそれは誠実で正直であることです。それは人徳を備え、道徳的な生活を送ることです。また、それは神にこころを捧げ、人々を教育することです。こういう果実がなければ、人生の木はただの薪のままで終わってしまうでしょう。
アブドル・バハ 1
こころは精神的に豊かでなければなりません。果樹がどんなに高く伸びて、生い茂っていても、実を結ばなければ意味はありません人生を木と例えれば、その果実は神を愛すること、神に引かれる豊かな心を持つことです。それは神を知り、天の教えに啓発され、誉めるべき振舞いと道徳などを備えることでしょう。人生の木にこういった実を結んでいる人がバハイと言えます。さもなければ、その人は世俗的で、自己本意で、白分の欲望に身を任せた生き物に過ぎません。人間と呼ぶにふさわしくないのです。キリストがおっしゃるごとく、「木のよしあしはその実で決まる。」
アアブドル・バハ2
人生の収穫とは、「全能なる御方」の敷居において捧げてきた奉仕です。「生きている、自存している神」に誓います!そういう収穫がなければ、その人生は死に等しく、生きるよりも生まれてこない方が、存在するよりも存在しない方が良かったに違いありません。その人の娯楽は痛みにしかならず、その人の喜びは悲しみに転化され、その人の永遠不滅のこころは死に至るのです。神の宮居では、私たちは謙遜かつ謙虚、活発で進歩的でなければなりません。私たちは目を見開いて思慮深くなければなりません。正直で誠実、不正を働かず熱心でなければなりません。これこそは人生の果実です!これはたゆまぬ努力をしなければ得られない収穫です!これこそ入生の勝負どころです!これこそ全人類を照らすことです!これは永遠不滅の命を勝ち取ることです!これは人間の崇高さです!これはあの世における栄光です!これは「アブハ王国」の住民を飾る、きらきらと輝く冠です!
アブドル・バハ3
この世は終わりのあるものである。一瞬にしてこれらは全て消えてしまうのである。したがって、安らぎと安楽を味わうのは肉体ではなく、永遠不滅の魂である。実際に生きているのは精神である。身体そのものは、その生命力が衰えたら死なざるを得ないので、大した価値はない。
アブドル・バハ4
人はこの世において、来るべき世のための準備をしなければなりません。神の王国で必要なものはここで養わなければなりません。子宮の世界で、この世で必要な様々な能力を身につけて準備するように、次の世における清らかな生活に必要な能力をこの世で潜在的に備えなければなりません。
このはかない一時的な世を去って、あの世に移されてから、何が必要となってくるでしょうか?あの世は輝かしい、清い場所(浄土)ですから、この世で純粋で輝かしい心を養わなければなりません。あの世では豊かな精神、信念、確信、神を知ること、神を愛する心が必要です。この物質の世界を去って、永遠の世界に上る時、その永遠の生活において必要となるものが準備されるように、この世でこれらのものに到達しなければなりません。
あの世が光輝く世であることは明白です。ですから、この世で啓発されなければなりません。あの世は愛の世界で、この世で神の愛をこころに刻み込まなければなりません。あの世は完全の世界ですから、この世で完成された人徳を身につけなければなりません。あの世は聖霊の世界ですから、この世で聖霊の息吹[6]に耳を傾けなければなりません。あの世は永遠に生きる世界ですから、この世でそれにふさわしい段階まで到達しなければなりません。
どうすればこれらのものが得られるでしょうか?どうすればこれらの神聖な力を手に入れることができるでしょうか?
先ずは、神を知る。
二番目に、神を愛す。
三番目、信念を持つ。
四番目、慈善行為をする。
五番目、自己犠牲。
六番目、世俗的な愛着から己を切り離す。
七番目、清潔で、純粋である。
これらの能力を手に入れなければ、これらの条件に到達しなければ、永遠の命をもらい損ねるのです。しかし、人は神を知り、神の愛の火で燃え、神の偉大で強力な証を確信し、人類の間に愛を確立し、純粋で潔白な生活をすれば、その人は生まれ変わり、聖霊によって洗礼され、永遠不滅の命を獲得するに違いありません。
アブドル・バハ5
人は喉が渇いている時、水を飲むでしょう。お腹がすいている時は何かを食べます。しかし、喉が渇いていなければ、水を飲んでも満足感はないし、お腹がいっぱいであれば、食べ物を美味しいと感じないでしょう。
しかし、精神的なものは違います。精神的なものはいつも喜びをもたらします。神の愛は、永遠に続く幸せをもたらします。こういう精神的な喜びは幸福そのものであって、単に、ある欲望を一時的に満たすものとは違います。
動物の生活は人間の生活より単純です。動物には、必要なものはすべて自然から与えられています。草原の草は動物に与えられています。小鳥は木の枝に巣を作り、考えようによっては王様の屋敷よりも美しいものと言えるかもしれません。物質的なものが全てであれば、人間よりも動物の方が豊かと言えるでしょう。しかし人間には、神を知る力という天から授かった恩恵があります。神の顕示者は神の知識という聖なる「糧」を人間に与えるためにこの世に現れました。この糧こそは、人間の精神を強め、成長させるために必要な栄養であり、また、悟りの純粋な光は魂を照らすために欠かせない精神の「食べ物」なのです。この、いわゆる「天の糧」のおかげで、人は聖霊の息吹に満たされ、神に対する知識が深まり、人間の世界にしか見られない美徳を身につけることができるのです。人は正に、「神の形に似せて創造されたもの」に成長するのです。
これ以上の喜びがあるでしょうか?人間は神の聖なる敷居において嘆願する時、こころが開き、精神的な喜びを感じ、様々なことを悟るのです。これを通して、聖霊から来るこの上ない歓喜を味わうことができるのです。それまでと違って、世界が輝いていることを自らの目で確かめるのです。直感力が鋭くなるのです。神の恵みが常に目前にあることが見える、それをはっきり認めることができるようになります。神の顕示者に現れていた美徳を、自分にも備えることができるのです。そうして、昔から聖者や賢者が望んでいた段階に達することが可能となるのです。
人間がこのような精神杓な恵みを手に入れることができなかったなら、また、こころを啓発させることができなかったなら、人間であるよりも鉱物であった方が良かったでしょう。なぜなら、鉱物は鉱物として完全であり、欠けているところはありません。しかし人間は神を知らず、神の愛に照らされていない間は、自分には何かが足りない、何かに欠けているとどうしても感じてしまうのです。
アブドル・バハ6
神様は人間の中に神聖な、知力を備えた、自然の諸々の力を超越する精神を創造されました。それはこの暗い世界を照らし、我を忘れるほどの精神的な喜びを感じることができます。木や石などにはこの力は与えられていません。知力、または意識する魂は備わっていないので、それに伴う責任もありません。しかし人間は精神の力に伴う責任から逃れることはできないのです。人間はこの力によって、事実上、自然を征服することができるのです。つまり、自然の法則を発見し、見えざるものを見える段階に開発する力があります。また、その力によって神の意志を実行し、それを物質世界に確立することができます。バハオラが「我汝を豊かに創れるに、何故自らを貧しくするや。」とおっしゃたのは、この人間の精神の力を指しているのです。また、キリストの言葉で、「天の父は我にあり、我は汝にある。」も、同じことを指しています。バハオラはまた、こうおっしゃいました。「我汝を気高く創った。しかるに汝は自らを卑しくした。」この精神の力は人間にしかない、人間と他の創造物を区別する特徴です。なぜこれを世俗的な目的ばかりに使っているのでしょうか?神の御恵みを取得し、実行し、地上にて神の王国を設立するため、そして、この目に見える世でも、目に見えざる世でも幸福を手に入れるよう、精神の力を使うべきです。
アブドル・バハ7
人は先ず美徳を自分の身につけなければ、他人に分けてあげられるはずがありません。人は真の生命に到達しないかぎり、他人に命を与えることはできません。光を見つけなければ、光を反射することもできません。われわれ自身が先ず人間の美徳に到達できるように努力し、神の精神を求め、不滅の命を手に入れなければなりません。その努力をすることによって我々は他人にも永遠の生命を伝えることができ、生命の息吹を吹き入れることができるのです。アブドル・バハ8
人間の中身は?
この世界において、生命には四つの区分や段階があります。それは鉱物、植物、動物と人間です。鉱物は、結び付く性格を持っています。植物にはその結合の力に加えて成長していく能力があります。動物には鉱物と植物の力に加えて五感の力があります。しかしながら、感覚の力を持ちながらも動物には知覚はなく、精神のことや抽象的なことがらを全く意識していません…動物には。思考によってことがらを発見したりする能力はありません。…そのような能力は人間のみにあるのです。…それは人間の精神というものです。人間の精神は他の現象の段階を超越しています。下の段階の能力を持ちながら、人間はさらにこの精神の力、知覚という不思議な能力にも恵まれています。
…この大きな力は肉体に現われますが、肉体とは区別すべきです。体は色々と変化しますが、精神は変わらない状態にあります。
…肉体は精神が利用する衣のようなものです。その衣がぼろぼろに擦りへっても、着る精神の方は何の影響も受けません。むしろ、それは守られています。
アブドル・バハ1
人間には言わば三つの側面があると私たちバハイは信じる。それは肉体、心意[7]そして不滅の本性、つまり魂や精神である。心意は肉体と魂をつなぐものであり、肉体と魂は互いに鱒し合うものである。
ショーギ・エッフェンディ2
一般的に言えば、精神は五つの段階に区分できます。先ずは植物の精神。崇高なる神の定めにより、植物の精神はさまざまな要素や物質の結合によって生じる能力です…
次ぎは動物の精神です。これも要素の結合によって生じます・・・動物の精神とは、五感の能力です。…動物を構成する結合された要素が分離し、分解してからは、この精神も自然に消え去ってしまいます。それはここにあるランプのように、油と芯と火を合わせれば、光は生じるが、油がなくなり、芯が消耗すれば、光も当然滑えてしまうでしょう。
人間の精神は鏡に移る太陽の恵みのようなものです。人間の体は物質的な要素によって構成されています。それは最も完全な形、その構成は最も頑丈で、その結合は最も高貴で、それはつまり最も完全な存在です。人の体は動物の精神の力によって成長します。この完成された体は鏡のようなものです。人間の精神はその鏡に移る太陽です。しかし、その鏡が仮に割れても、太陽の輝きには影響はありません。鏡が破壊され、存在しなくなっても、太陽の光は何の損害も受けません。人間の精神には発見する力があります。それは物質的な存在を全部包含するものです…
しかし、人間の精神には二つの面があります。一つは神に似ています。方は悪魔のような面です。つまり、それは最も不完全なものに随落する可能性を持っています。精神的な美徳を習得すれば、それは全存在の内、最も高貴なものになれます。悪徳を身に付けれぱ、それは最も卑しい存在に成り下がります。
四番目の精神とは天の精神、つまり信念の精神です。それは神から授かった恩恵です。それは聖霊の息吹から現われへ神の力によって永遠の生命をもたらすものです。この力によって世俗的な人間は尺使のようになり、不完全な人は完全になります。堕落した人は信念の精神によって清められ、口のきけない人は流暢に話り、情欲の慮になった人は清められ、純粋にされ、無知な者に英知をもたらすのです。
五つ目の精神は聖霊です。聖霊とは、神と神の創造物の間の媒介です。それは太陽に向かっている鏡のような:ものです。潔白な鏡は太陽の光を受け、そして伝えます。同じように、聖霊は「実在の太陽」の神聖な光を純粋な心に伝えます。…聖霊が世に現われる度に[8]、世の中は蘇らされ、新しい周期が始まります。
アブドル・バハ3
神の予言者を通じて聖霊というものは人間に精榊勺な美徳を教え、永遠の生命に到達することを可能にします…太陽の光と熱が地
球を豊かにし、成長するものに生命力を与えるように、聖霊は人間の魂に命を与えるのです。
アブドル・バハ4
聖霊の力が最も強く現われるのは、神の顕示者の中です。聖霊の力によって神の教えは人間の世界に伝えられます。聖霊の力によって人の子は永遠の生命を与えられます。
アブドル・バハ5
あなたは魂の本質について我に尋ねた。まことに、人間の魂は神のしるしであり、最も学識ある者もその実体を解明できない天の宝石である。その神秘は、どれほど鋭敏な知力も決して測り知ることを望み得ないことを知れ。
すべての創造物の中で、魂は最初にその創造者の卓越性を宣言し彼の栄光を認め、その真理にすがり、それを賛美しながらその面前にひれふすものである。もし魂が神に忠実であれば、それは神の光を反映し、やがて神に戻るのである。しかしながら、もし創造者への忠実を怠るならば、自我と情欲に踊らされ、最後にはその深淵に沈むであろう。
バハオラ6
神はこの世とそこに住み動くあらゆるものを創造し、その束縛されない卓越した意志の効力により、神を知り、神を愛する独自の特性と能力を人間に与えられためである。全創造物を創造した動機その主要な目的はこの能力を発揮させることであると見なすべきである。神は、それぞれの創造物の内奥の本質に、彼の名のうち、一つの名の光を注ぎ、神の属性のうち、一つの属性の栄光を預けられた。しかしながら、人間の本質には、自らの諸々の名と属性の光輝を全部集中させ、それを神自らの鏡となし給うたのである。全創造のうち、人間のみがそれほど偉大な恩恵、それほど不朽の恩寵を授かっているのである。
バハオラ7
神の知識という澄みきった生水に一滴の露ほどでも到達すれば、真の生命は肉体の生命ではなく、精神の生命であることがはっきり分かる。つまり、肉体の生命は人間も動物も共通しているが、精神の生命は信念の海から飲み、確信の果実を食べた心純粋な人間だけにしかないのである。このような精神の生命は死ぬことはない。それは永遠に生きる存在である。経典に書いてあるではないか。「真の信者なら、この世にも次の世にも生きるのである。」ここで言われる「生きる」ということが地上の人生を意味しているはずがない。地上の人生はいずれ死に追いつかれてしまうことは明白であろう。
バハオラ8
神の愛、超越、高徳な行為、純潔、常に真実を述べること、純粋さ、最後まで動じない精神、信頼、自らの命を犠牲にすること。このようなものを通じて王国[9]に入れるのです。
…神を信じる人、神を愛する人にとって生きることは素晴しい、それはつまり永遠なものです。しかし神からさえぎられた人は、命があるとは言え、それは暗くて、信者の生命と比べれば滅亡したものに等しいものです。
たとえば、爪と目は両方生きているが、目と比較すれば爪は存在
価値がないでしょう。石と人間は両方存在しているが、人間と比べれば石は存在しない、実体のないようなものです。なぜなら、人間が死んで、肉体が分解されたとき、それは正に石と土のようになってしまうからです。したがって、鉱物と人間は両方存在しているとは言え、人間と比較すれば鉱物は存在価値がない。
神からさえぎられた魂は同じようなものです。この世にも、死後の世界にもそのような人は存在しているが、神の王国の子供たちの神聖な生命と比べれば彼らは神から離れた、存在していないものに等しい。
アブドル・バハ 9
人間は絶えず神に懇願しないと石のようになってしまうのです。人間の心はほこりをかぶっている鏡のようなものです。その鏡の汚れを洗い清めるために、常に神に嘆願し続けなければなりません。嘆願する行為そのものはあらゆる物欲を消し取る磨き粉なのです。神の御前で懇願と嘆願をする時、心に感動が与えられ、その感動によって世俗的な愛着が消えていくのです。
アブドル・バハ 10
この世界は人間の肉体のようなものであり、一方神の王国は活気ある精神のようなものである。人間の肉体の存在は暗い、限られたものであり、さまざまな病に惑わされるであろう。一方人間の精神の世界は非常に新鮮で明るいものである。
王国の光がこの世を照らし、王国の法律がどのようにこの地上の世界で反映されるかはこの比喩で分かるであろう。精神というものは目に見えないが、光線が人間の肉体を照らすように、精神の命令はこの世で輝いているのである。同じように、天の王国は目覚めていない人々の目からは隠されているが、心眼で見ればその存在は太陽の如く明白なものである。
常に王国に留まり、この下界のことを無視しなさい。人間の世界のいかなるものにも惑わされることがないように、精神の豊かな流出に没頭しなさい。
アブドル・バハ 11
人は皆何らかの目的を追求し、希望を抱き、日夜それを実現しようと努力する。ある人は富を切望し、ある人は名声、芸術、繁栄などを求める。しかし、最終的に皆失敗と絶望に陥る運命である。一人ひとりは持っている物を残したままこの世を去り、手ぶらで向こうの世へと急ぐのである。彼らの努力はすべて無駄に終わってしまう。裸にされ落ち込んで、落胆し、全く絶望したまま土に帰ってしまうのである。
しかし、あなたは永遠に残る利益を自分にもたらすことに従事している。神に感謝せよ!そのこととは、神の王国に近づこうとし、あなたの信念、知識、心の啓発、そして神の教えを広め伝える熱心な努力である。
この恩恵は誠に不滅であり、この富は天から下されたものである!
アブドル・バハ 12
神の愛という磁石が神の知識を自分に引き付けるよう、神に嘆願しなさい。すべてのことにおいて魂が高徳になり、清められ、潔白である時、神の知識への門が広く目前に開かれる。
アブドル・バハ 13
人を成長させるもの
人間の創造に関するあなたの問いについて。これを知れ。すべての人間は神が創られた性質をもって創造される。彼こそは守護者なる、自力で存在する神である。彼の隠された、威力あふれる書にて定められたとおり、一人ひとりの人間には前もって定められた分け前が寸与される。しかしながら、自分の潜在的に授かっているその能力は、自分自身の意思を働かせて初めて発揮できるものである。汝自身の行動がこの真理を証明するであろう。
バハオラ 1
すべての魂は神の性質に似せて創られる。誕生した時すべての魂は純粋で神聖なものである。その後、この世において美徳、もしくは悪徳を修得することによって個々の地位は異なってくる。あらゆる創造物はそれなりの地位や段階を持って創造され、それぞれは違う潜在能力を持っているが、誕生した時には、一人一人は神聖で純粋である。
アブドル・バハ 2
人間は最高の神器である。しかしながら、適切な教育を受けないため、潜在的に持っているものを発揮できずに留まっている・・・人間は正しい教育を受けなければ、生まれながらに持っている能力を発達させることはできない。人間を、計り知れないほどの価値ある豊富な宝石が埋蔵されている鉱山と見なしなさい。教育によってのみ、その宝石を探り出すことができ、人類は利益を得ることができるのである。
バハオラ 3
肉眼の網膜は敏感で精巧とは言え、心眼の視力を妨げることがある。様々な知的、肉体的な暗幕は心眼の視力を奪い、その能力が発揮されるのを妨げる。その結果、すべての現象に託される神の恩恵が隠されたままとなることがある。しかしその目からうろこが落ち、そのような暗幕を破ってしまう時、神の偉大な印が見えてきて、不滅な光が世界を満たしていることを目撃するであろう。
・・・この物質的、現象的な環境から精神の自由で高潔な生命へと生まり変わり、心眼を開くなら、この滅ぶべき世界とその良きものは全く比較するに値しないものだということが分かる。
…人はこの現象の世界で、その潜在的な能力を発揮するように全心全魂を込めて、思考力を集中させて一生懸命に努力すべきで
ある。なぜなら、人間の真髄は種のようなものである。種を蒔けば、大きな樹を育てることができる。種の潜在能力は樹において、つまりその枝、葉、花と果実として現わされる。その能力はすべて種に潜在的に隠されている。同じように、創造者である慈悲深い神は人間の真髄に潜在的な能力を託された。樹が種から現われるように、教育と養成を通して愛する神によって与えられた力は人間の中に現わされるのである。
アブドル・バハ 4
人間の世界において神に近づくことは最も偉大な達成である。神に近づくことによって消えることのない栄光、名誉、たしなみ、美点に到達できる。全ての予言者とその弟子たちは創造者へ近づくことを熱心に祈り、そればかりを憧れていたのである。その地位に到達できるよう幾晩を眠れずに過ごしたことであろうか。神に近づき、それが達成できるようにと懇願し続けた日はどれほどあったことであろうか。
しかし、神に近づくことはそう簡単に達成できることではない。例えば、イエス・キリストが地上にいた時、人々は皆神に近づくことを求めていたが、それに到達できた人はほんのわずかであった。それはイエスの弟子たちであった。彼らは神の愛を通じて神に近づくことに成功したのである。神に近づくためには神を知り[10]、神以外のものに対する愛着を断つ必要がある。自我を犠牲にする必要があり、また富と世俗的な所有物を放棄して初めて到達できる。新約聖書に啓示されているように、水と火によって洗礼を受けることによって可能となる。水とは、生命の水、つまり知識を象徴しており、火とは神の愛という火である。したがって人間は言わば生命の水、聖霊、そして王国に対する愛によって「洗礼」されなければならない。この三つに到達しない限り、神に近づくことは不可能である。
・・・神へ近づくことは純粋な心と、王国の吉報に鼓舞された精神に依存している。太陽がどれほど遠くにあろうとも、潔白で磨きをかけた鏡ならその輝きを十分反射できるであろう。鏡を磨き、潔白にすれば太陽は必ずその中に現われる。同じように人間の心が純粋になればなるほど、清められれば清められるほど神に近づき、「実在の太陽」の光がその中に現われる。その光によって神の愛の火が灯され、心が照らされ、知識への扉が開かれ、神の神秘への封印が開かれ、精神杓な発見が可能になる。すべての予言者はこのような離脱を通して神へ近づいたのである。我々はその神聖な人々を模範にし、個人的な欲や願望を捨てなければならない。世俗的な汚物や塵から自らを清めることである。すると我々の心は鏡の如きとなり、最も偉大なる導きの光はその中に現われるのである。
神はそのしもべに霊感を与え、しもべらを通して神が顕われるということを「隠された言葉」の中で述べておられる。「汝の心はわが家である。わが降臨のためにそれを清めよ。汝の精神はわが啓示の場である。わが顕現のためにそれを清めよ。」つまり、神に献身し、その王国に入り[11]、人類に奉仕をすることによって神に近づくことができる。人類と和合し、皆に親切をすることによって達成できる。それは真理を探究すること、賞賛に値する美徳を修得し、普遍的な平和のために奉仕し、そして自らの心を純粋にすることに依存している。一言で言えば、神に近づくためには自我を犠牲にし、すべてを神に委ねなければならない。神に近づくことは神の性格を身につけることである。
…緑あふれ生い茂る樹なら、太陽の恵みを吸収することができる。一方、死んだ根、枯れた枝は太陽によって破壊される。精神
の太陽の恵みを吸収するために人間はその精神的な潜在能力を発揮する努力をし、精神拘な準備をしなければならない。神の影響を感知できない限り、神の光を反射し、その力吸収することはできない。…神の慈悲の雨が心を活気づけ、神の薔薇とヒヤシンスを咲かせるために我々は心の土を耕して土造りをしなげればならない。
アブド:ル・バハ5
間:この世において、魂の成長に最も役立つのは喜びですか?それとも悲しみですか?
答え:人間は試練に試された時、納神と、恩考が高められます。土を耕せば耕すほど種の成長が良くなり、収穫も豊かになるでしょう。すきで深い溝を作れば作るほど土から雑草などを排除することができます。同様に、苦しみと試練を通して人は世俗的なことがらから解放され、完全に超越した段階に到述します。そのとき、神聖な幸福に達成します。人間は言わば未熟であり、試練の火の熱によって成熟するものです。歴史を振りかえって見なさい。人は偉大であればあるほど苦労が多いでしょう…
問:では、困難がなげれぱ幸福には到達できないものですか?
答え:永遠の幸ネ',iに到遠するためには苦労が必腰です。自我を犠牲にする段階に到逆して初めて真の喜:びが手にはいります。一時的な喜びはすべて消え去ってしまうものです。アブドル・バハ6
…この世の人生の行いに対する報いと罰、天国と地獄、報酬と報復は向こうの世界において明らかにされる。
…人間の知力では把握できない、人間の思考力では捕えられない、目に見えないいくつもの世界は主なる神にある。それを確信せよ。精神的な感覚を世俗的な汚染から清めてはじめてその楽園の歓喜あふれる園より吹き送られる神の芳しい薫を感知できるであろう。
レアブドル・バハ7
神(彼以外に何も存在しない)に誓います!バハオラの教えを一つでも実行すれば、私たちはここに置いてあるランプのごとくさんぜんと輝くものになるでしょう。逆に、私たちが口先だけでバハオラの原則を認め、つまり彼の教えは神に近づき、永遠不滅の命を獲得する道であることを口先で認めても、それを実践しなければ、私たちはバハイとは言えません。したがって、バハオラの全宇宙に及ぶ精神が私たちの人生で効果を表すことができますよう、お互いのために日夜祈りを捧げるべきです。
アブドル・バハ8
この世において、公益を図ることほど素晴らしいことが考えられようか?神のしもべの教育、発展、栄光と繁栄のために献身的に尽くすことほど尊い職業があろうか?無力な人々の手を取り、彼らを無知や堕落や貧困から救うこと、あるいは、誠実な動機を持って、あらゆる人々のために奉仕し、神のために私的な利益を脇に置き、全体のために尽くすことこそは、最も誉められるべき行いである。
アブドル・バハ9
この世においての人生はいつまでも続くものではなく、夜明けのそよ風のごとく過ぎ去っていくものです。これは極めて明白な事実です。したがって、神の道を歩みなさい。願わくはこの世を去る時、記念すべく、賞賛に値する評判を残すことが出来るように。そういう人は幸いなり!「心が清らかであれば、王座で死んでも地面で死んでも構わないであろう。」
アブドル・バハ1O
自分に満足しないことは進歩の証です。自分に満足している人は悪魔の証で、自分に満足していない人は「寛大なる御方」の証なのです。自分に美徳がたとえ千ほどあったとしても、それらに目を向けてはなりません。それどころか自分の欠点と短所を見いだすよ
う努力すべきです。例えば、とても素晴らしい芸術品で飾られた大きな屋敷があっても、壁や天井にひびが入っているのを見つければ、その持ち主は直ちに壁の修理にかかるでしょう。その時すでに備えている諸々の立派な装飾は全く関係ないのです。一方、人間には絶対的な完全は不可能です。人がどれほど進歩しても、彼はまだ不完全です。なぜなら、人の進歩には限りがないからです。どこまで進んでもいつも更に目指すべき目棟が必ずあるはずです。したがって、努力をし、更に前進を目指すべきです。
アブドル・バハ11
純粋でありなさい。純粋であることは無我であることです。
アブドル・バハ12
苦しみと苦悩の原因は神が定められたものに満足しないことにあります。人が神の意志に従えば[12]、その人は幸福になります。
アブドル・バハ13
断固として動じない精神を持ち加さい。根がしっかり張っていれば、木は果実を結ぶであろう。ですから、どんな試練が来ても動揺してはならない。がっかりしてはならない!失望してはならない!神の試練は多かろう瓜忠実で断固たる精神を持ち続ければ、試練は人類の進歩のための踏台となるのである。
アブドル・バハ14
花もやがて散っていく
地上の苦労や困難のために嘆くな。また、苦もなく楽に暮らしているからといって、それは喜ぶに値しない。なぜなら、両方は消え去ってしまうからである。この世の人生は波のうねり、蚕気楼、映っては消え去る影のようなものである。砂漠に浮かぶ蚕気楼が喉を癒す水となれるか?まさか!主の中の主にかけて誓う!実在とその影は同等ではない。空想と事実、真理と妄想の間は大きく隔たっている。
真の世界は王国である。この下界はその影に過ぎない。影には、自らの命がない、それは空虚な存在に過ぎない。水面に映る影のように、それは本物に見えるだけである。
アブドル・バハ1
人生の短い日々が過ぎ去り、この世の生活は私たちの目から消えてしまう。新鮮で美しい薔薇は必ずしおれ、世俗の成功と喜びはい捌古れてしまうものである。榔の活気が鰍の死にとって代わり、輝かしい宮殿の楽しい暮らしが、月光さえも射さない墓の暗闇に代わって行く。だから、この世に属するものには愛着を持つ価値がない。賢者は決して心の望みを世俗のものに置かないであろう。
むしろ、知識と力を備えた者なら、世俗のものではなく、天の栄光、精神的な卓越、終わりのない生命を求めるであろう。そのような人は神の神聖な敷居[13]に近づくことを熱望するであろう。この束の間の世は酒場に過ぎず、神を求めた者はそこで酔いつぶれることはない。その人は一瞬たりともも安易な道を選苓ことはなく、地上の生活に対する執着には一切汚されないであろう。
アブドル・バハ2
現象の世界は決して一定の状態に留まることはなく、それは一刻一刻変化し、変わって行くものである。この世に基盤を置いたものはどんなものであろうと、いずれ崩れてしまう。この世俗の栄光や光輝も消え去ってしまうものである一方、神の王国は不変であり、神の主権と威厳は不動で永遠である。したがって、賢者の目から見れば、この世の政府の王座に座るよりも、神の王国にゴザを敷く方が好ましいのである。
アブドル・バハ3
別の世界が存在していることは明白です。しかし、植物に人間の世界が認知できないと同じように、私たちもこの下界に続く「偉大な生命」を知ることはできません。あの世の生活力理解できないからといって、それが存在しない証拠にはなりません。鉱物は人間の存在には全く気づいていない、それを把握することもできないが、知らないからといって、それが存在しないとは限らないでしょう。この無限の世界が地上の人生で終わってしまうはずはありません。それを証明する断定的な証拠は数多くあります。
アブドル・バハ4
幸せに暮らしている時神を忘れてしまうことがあります。しかしながら、悲しい時、困った時、その苦しみから救って下さる天の父のことを思い出すでしょう。
苦労しない人は精神的に進歩しません。せん定してこそ、その樹は夏に最も美しい花を咲かせ、最も豊かな収穫を誇ることができます。
アブドル・バハ 5
物質的な考え方を持つ人にたとえ永遠の生命のことを理解できないからと言って、永遠の生命が存在しない証拠にはなりません。
永遠の生命を理解するには精神的に生まれ変わることが必要です。
精神的な能力や希望が毎日のように増え続け、物質的感覚のために天の輝きから遮られることがないよう、皆さんのためにお祈りしています。
アブドル・バハ 6
肉体の寿命と精神の寿命
人は死によって滅亡するという概念は人間を退歩させ、堕落させ、卑しくする要因である。それはまた恐怖や卑賎の源である。その考え方は人間の思考力を弱め、その焦点をぼかす要因である。一方、人間の実在は永遠に生き続けるものであることを悟れば人間は崇高な理想の段階にまで高められる。進歩の基盤が築かれ、精神的な美徳を習得する刺激が与えられるのである。ですから、人間が死んで滅亡するという全くの空想を捨てねばならない。魂を退歩させるような考えを捨て去り、毎日、いや一刻一刻、魂を高め、人間の真髄が永遠に生き続けるものだと心で感知するために、神の目的によって人間は不滅で永遠に生きるものとして創られていることを悟るべきである。いずれ滅亡するだろうという考え方に陥ってしまえば、その人は全く駄目になる。意志の力が弱まり、進歩に対する熱望は冷め、美徳を修得しようとする気持ちは消え失せてしまう。
アブドル・バハ 1
物質の創造全体は滅びる性格のものである。これらの肉体は原子によって構成され、その原了がお互いに分離して、分解し始めるとき、死と言われる状態になる。原子によって構成されているものは…一時的な存在である。その原子を引き合わせる力が失われれば、肉体はなくなってしまうのである。
魂となると、話は別である。魂はいくつかの要素によって構成されているものではない。それはひとつの、分解できない素材によって創られている。つまり、魂は物質の世界に属さないものであり、永遠なものである!
…不滅の生命が存在して初めて、滅亡という概念が成立する。永遠の命がなかったならば、この世の命を計ることはできない。
…精神が不滅でなければ、神の顕示者はそれほど厳しい試練を甘んじて受けられることはなかったであろう。
アブドル・バハ 2
問:死はどのように迎えるべきですか?
アブドル・バハは答えられました.「旅をするとき、希望と期待をもって目的地に向かうでしょう。地上の人生という旅も同じです。あの世では、この世で耐えなければならない多くの不利な点から解放されるのです。この世を去り、死に到違した人はこことは違う段階に属しています。しかし、それは私たちの世界とかけ離れたものではありません。彼らの仕事、つまり王国での仕事は私たちの仕事と一緒です。しかし、次の世では、私たちが言う「時間と場所」がないのです。私たちにとって、時間は太陽によって計るものです。日の出も、日の入りもなければ、そのような時間は存在しません。亡くなった人は地上にいる人と違った特貿を持つが、彼らが実際私たちから離れているわけではありません。」
アブドル・バハ 3
…この世俗はそのようなものである。つまり、ここは苦しみと苦悩の倉庫に過ぎない。人はそれに気づかないうちは、無知ゆえ
にこの世に執着をもつものである。考えれば、王であろうと、最も地位の低い一般人であろうと、地上の世界で安らぎを確保することはできないということが分かるはずである。この人生では一度楽しい杯を飲むと、後で苦い杯は百ほど続くであろう。この世はそういうところである。
したがって英知を持つ者はこの一時的な人生に愛着を持たず、それを頼りにしない。場合によっては、世俗の悲しみや苦しみから解放されたいあまり、死を必死に熱望することもあろう。また、極端な悲痛に苦しめられ、自殺にまで追いやられた人もいる。
アブドル・バハ 4
尊敬するご主人が亡くなられたことを嘆くな。なぜなら、彼は威力ある王の御前、真理の王座にて彼の主と交わることに到達されたからである。彼を失ったなどと思ってはならない。いずれべ一ルが引き上げられ、「天上の群衆」の中に彼の輝いている顔を見るに違いない。高遠なる神が述べられたように「彼を活気づけ、幸福な暮らしを定めた。」[14]したがって、最も重視すべきものはこの最初の創造界ではなく、未来の死後の生活である。
アブドル・バハ 5
その親愛なる若者を亡くしたこと、彼があなたから離れたためにあなたは悲しみと嘆きのどん底にいる。何しろ彼は人生の盛りに天の巣へ飛び立ったからである。しかし、彼はこの悲嘆にくれた世から解放され、王国の永遠の巣へ顔を向け、暗くて狭いこの世から、清らかな光の世界へと急いで行ったのである。それは我々のこころの慰めである。
このような胸が張り裂けるできごとの根底に神の計り難い英知がある。親切な庭師が若くてか弱い木を狭い場所から広大に広がる土地へ移植することと同じである。移植したからといって、その木が枯れたり、弱くなったり、小さくなったりすることはない。否、むしろそれはますます生い茂り、成長し、生き生きとした緑となり、そして実を結ぶのである。庭師にとってこれはごく当り前のことである。しかしその秘密を知らない人びとは、庭師が怒ってその木を根こそぎにしたと誤解するかもしれない。しかし、目覚めた人びとにとって、この隠された事実は明白であり、この前もって定められた命令はありがたい恩恵に他ならない。したがって、この忠実な小鳥が昇天したことで悲嘆にくれたり、嘆いたりしてはならない。いかなる状況の下でもその若者のために祈り、彼の罪が許され、地位が高められるように祈りなさい。
アブドル・バハ 6
息子を亡くすことは胸が張り裂ける、耐えられないほど辛い経験であろう。しかし、悟った、理解をもつ人であれば、その息子は失われたのではないことが分かる。むしろ彼はこの世から別の世へと足を踏み入れたのである。神の世界で彼と再会することは間違いないことである。そこでの再会は永遠に続く、この世において、引き離されることは避けられない運命であり、それは激しい悲嘆を伴うことであろう。
幸い、あなたは信念を持ち、天の世界を信じ、顔を不滅の王国へ向けている。神に誉れあれ。嘆息し、沈み込んだり、泣き叫んだり、嘆き悲しんだりしてはならない。なぜなら、動揺と悲嘆は天の世界にいる息子の魂にも深い影響を与えるからである。
その親愛なる子供は隠された世界からあなたに次のように呼びかけている。「私の親切なお母さんよ!神に感謝しなさい。なぜなら、私は小さくて暗い鳥かごから解放され、牧場の小島たちのように神の世界へと舞い上がってきているからです。この世は広々とした明るい、常に楽しく、歓喜に満ちたところです。ですから、お母さん、嘆かないでください。悲しんだりしないでください。私は失われた者ではない。私は滅ぼされたり、破壊されたりしたのではありません。私は世俗の亡骸を抜け出し、この精神的な世界に私の旗を掲げました。今は離れていますが後々水遠に続く交わりが待っています。主の天国にて、光の海に浸っている私を見い出すでしょう」と。
アブドル・バハ 7
問:分別ができる年齢に達しないまま、あるいは生まれる前に死ぬ子供はどういう状態にありますか?
答え:このような幼児は神の御,恵みの木陰にいる。彼らには罪がなく、自然界に汚されていないので恩恵の対象となり、「慈悲の目」が彼らに向けられるのである。
アブドル・バハ 8
人間は母親の子宮から外の広い世界に生まれてきます。この地上の世界はまた母親の子宮のようなものと言えます。生まれたばかりの赤ん坊はこの新しい世界にはすぐには慣れないでしょう。子宮という狭い故郷から離れたくないかのようにその赤ちゃんは泣くでしょう。まるで自分の生活は狭い子宮に留まるべきものだと思っているようです。胎児は元の家を離れたくないが、自然の力によってこの世界に無理やり押し出されます。新しい状況に生まれてくる赤ちゃんは、暗闇から明るい世界へ到着したことに気が付きます。陰気で狭い状態から広い、楽しい環境に移されたことが分かります。それまで栄養は母親の血から得ましたが、今は美味しい食べ物を食べられます。その新しい生活は輝かしくて美しいものです。喜びをもって感激しながらこの世の山々、緑あふれる草原や畑、素晴しい星空を見、活気を与える空気を吸い込みます。そして以前の状態から解放されたこと、新しい、自由の世界へ到達できたことを神に感謝するのです。
この比瞼はこの世と死後の世界の関係を現わしています。つまり、人間の魂はこの不安に満ちた暗い世界から永遠の王国の光、その実在に移るのです。最初は死を受け入れることは非常に難しいのです。しかし、魂がその新しい状態に到達してしまえば、魂は感謝するのです。なぜなら、限られた世界の束縛から解放され、無限の世界の自由を味わうことができるからです。悲しみ、悲嘆と苦しみの世界から解放され、永遠に尽きることのない歓喜と喜びに満ちた世界に住めるからです。理想と精神の潜在能力を発揮するために、現象と物質を捨てるのです。したがって、この地上の人生という巡礼が終了し、この世を去る魂は…ここよりも優れた世界へと急いで行ったのです。微かにしか見えないこの暗い状態から光の世界へと舞い上がったのです。
アブドル・バハ 9
全ての物は人間のために創られ、人間は神のために創られました。人間は他のいかなる創造物よりも優れています。人間には、動物的な部分があります。身体を持っているために、鉱物の徳を備えており、植物の持つ成長する力もあり、動物の持っている五感もあるのです。そしてその上、ものの実体を判明できる知力、思考力が人間だけに与えられています…
世界を木と例えれば、鉱物はその根、植物はその枝、動物はその花で、そして人間はその果実です。木は実を結ぶためのものです。果実を収穫しようと思わないなら、お百姓さんは果樹をわざわざ植えることもないでしょう。同じように、全創造は人間という果実を実らせるために創られたものです。
人間には二つの面があります。一方は精神的で、もう一方は世俗的です。一つは輝いており、もう一つは暗いものです。一つは天使のようで、もう一つは悪魔のようです。人間の感覚は動物に等しいものです。動物のもつ性質はすべて人間にもあります。人間は善の性質と悪の性質を両方備えています、知識と無知、正義と不正、真実と虚偽、寛大さと強欲、神に引かれる性質と悪魔に引かれる性質、純粋さや慎み深さと堕落や卑しさ、勇気と臆病、満足とどん欲、善と悪など、これらはすべて人間の中に存在しているものです。
人間の中にある天使の部分が強くなり、善の力と輝きがその人を包めば、経典に書いてある「第二の誕生」に到達します。そこで永遠の生命が得られるのです。そこで人間は全ての創造物の内、最も崇高なものになります。しかし逆に、物質の暗闇と情欲の方が強くなれば、世俗的な悪の虜となってしまいます。永遠に、死に等しい状態に陥ってしまいます。その人は全ての創造物の内、最も卑しいものになり下がるのです。そういう人に神の力はありません。動物の残酷な行為は誰も悪いとは思いません。なぜなら、人間と違って、善と悪を区別する神聖な力は動物には与えられていないからです。しかし、人間が動物のような状態に陥ってしまうのは、精神的な部分よりも悪の部分に自分を任せるからです。
アブドル・バハ 10
人間には五つの外的能力があります。それらは知覚の媒体です。つまり、これらの五つの能力によって人間は物質的なものを理解します。目に見える形を知覚する視力、耳に聞こえる音を知覚する聴力、匂いを認める嗅覚、食べ物を認める味覚、体全体に広がっていて触れることのできるものを知覚する触覚です。この五つの力は外的なものを認める感覚です。
人間にはまた独自の精神的な能力があります。ものを考えつく想像力、実体を熟考する思考力、実体を理解する理解力、想像し考え、理解したものを覚えている記憶力です。その五つの外的能力と内的能力の間を媒介する機能をもつ一つの共通する感覚もあります。
…例えば、視覚は外的能力の一つです。視覚はこの花を見て知覚すると、この知覚を共通の機能に伝えます。その機能はこの花を想像力に伝達します。想像力は、今度は花のイメージを形作り、思考力に伝えます。思考力は熟考し、花の実体を把握して、それを理解力に伝えます。それを理解すると知覚された物の像を記憶力に伝達します。
アブドル・バハ 11
おお人の子よ!
汝はわが領土である。わが領土は滅びることなし。汝何故に汝の滅びることを恐れるや。汝はわが光である。わが光は決して消されることなし。何故汝消滅を畏れるや。汝はわが栄光である。わが栄光は萎むことなし。汝はわが衣服である。わが衣服は決して古びることなし。さればわがための汝の愛の中に住まえ。汝われを栄光の国土の中に見い出すを得ん。
おお至高なるものの子よ!
われ死を汝への喜びの使者とした。汝いかなれば死を悲しむや、われ汝を照らすために光を造った。汝何故にその光から自身を蔽うや。
おお心霊の子よ!
光のうれしい便りもて、われ汝に喜べ!と呼びかく。聖なる宮廷にわれ汝を招く。永久に平安に暮らせるよう、そこに住まえ。 バハオラ 12-14
鳥かごの中から飛び立つ鳥に似て
しかしながら、「神の恩寵の太陽」である「天の導きの源泉」が人間の実体に与えたこの諸々のエネルギーは、炎がローソクの中に隠され、光がランプの中に潜在するように、人間の中に潜在している。太陽の光が鏡を被うごみやちりに隠されるように、このエネルギーの光輝は世俗の欲望でおおい隠されることがある。ローソクもランプもそれ自体何らかの手助けなしには点されることはできず、鏡も自らそのちりを取り除くことは決してできないのである。ランプは火を点されるまでは決して燃えることはなく、鏡もその面よりちりを取り除かなければ、太陽の映像を現わすことも、その光と栄光を反映することもできないということは明白である。
バハオラ 1
汝は、あたかも強力な翼でカー杯に、そして完全かつ喜びに満ちた自信に溢れて膨大な天空をかはめぐる鳥のようなものである。しかし、その烏はやがて空腹に強いられ、下界の水と土に対して憧れを覚え、そして舞い降りて自らの欲望の網に掛かったまま、もとの天空へと再び飛び立つ能力がなくなったことに気づいたのである。その汚れた翼にのしかかる重荷を振り払うこともできず、それまで天に属していた鳥は、塵の上に住処を探さなげればならないはめになったのである。おお我がしもべらよ!それ故に、わが聖なる知識の天界に飛びめぐることを妨げられないよう、汝らの翼を強情と空ろな欲望の土で汚したり、妬みと憎しみというほこりでおおったりしないようにせよ。
バハオラ 2
永遠に残るもの
死後の魂の状態を描写することはできない、その性格をすべて明らかにすることも許されていない。神の予言者と使者が地上に顕わされた唯一の目的は人類を真理の正道へと導くためである。彼らの啓示の最も根本的な目的はすべての人を教育することである。その教育の動機は、臨終の際に人が清らか且つ全く純粋な状態で、また世俗的な愛着を完全に離脱した状態で「最も高遠なる御方」の王座に昇ることができるようにするためである。
この世の進歩とその人民の発展はこのような魂から輝き出る光のおかげである。彼らはこの世に発酵を起こさせるパン種のようなものであり、彼らの活気ある影響力によりこの世の技術や発明が現わされるのである。彼らを通じて雲は人びとに恵みを降りそそぎ、地球は実を結ぶのである。
バハオラ 1
さらに、汝は魂が肉体より分離した後の状態に関してわれに質問した。もし人の魂が神の道を歩んだならば、必ず『最愛なる御方』の栄光に引き寄せられ、そこに戻るという事実を知れ。神の正義に誓う!その魂はいかなるペンが述べることも、いかなる舌が語ることもできないほどの地位に達するであろう。神の大業に最後まで忠実であった、神の道にゆるがずに確固としていた魂は、昇天後、全能の神が創造したあらゆる世界に利益を与えるほどの力を所有する。
バハオラ 2
人間の魂の純粋さは、肉体が生きていた間に努力して到達できた程度に留まるのです。肉体から解放された後は神の慈悲の大洋に沈められ、神の意思次第となります。
肉体を離れ、天の世界に到着する瞬間から、魂の進化は精神的なものになります。精神的な進化とは、神に近づくことです。
アブドル・バハ 3
人間の肉体の死と、神への帰還に関する神秘は明らかにされていない、また解読もされていないのである。神の正義にかけて誓う!もしこれらの神秘が明らかにされるならば、ある者は恐怖と悲しみのあまり死滅してしまうであろう。一方、ある者は非常な喜びに満たされ、そのため死を望み、切なる思いを込めて、自らの死期が早まるよう、唯一真実の神(その栄光は高遠なり)に嘆願し続けるであろう。
すべての確信を得た信者に対して、死は生命そのものの聖杯を提供する。死は喜びを与え、歓喜をもたらすものである。それは永遠の生命の賜物を付与する。
高遠なる、唯一真実の神を認めることは人間の地上の人生の果実である。その果実を味わった者の死後の生については、われが述べることのできないものである。それを知るものはすべての世界の主である神のみである。
バハオラ 4
ようやく神の御前に出る時、魂はその永遠性に最もふさわしい、その天上のすみかに最も適した形を取るであろう。それは依存的な存在であり、絶対的な存在ではない。なぜなら、魂は原因によって生じるものであるが、絶対的な存在とは、原因を超越しているものである。絶対的な存在は神のみである。神に栄光あれ!
バハオラ 5
肉体から分離の時、世の人々の空ろな空想より清められた魂は幸いである。そのような魂は、創造主の意志に従って生き、行動し、そして最も高遠なる楽園に入る。最も崇高な館の住民である天の乙女らがそのまわりを巡り、そして神の予言者らと、神より選ばれた人々はその人と交友を求めるであろう。その人は彼らと自由に会話を交わし、あらゆる世界の主である神の道において耐え忍ばなければならなかった事などを彼らに物語るであろう。
バハオラ 6
道を求める者は、罪深い人達を許し、彼らの地位の低さを決して軽蔑してはならない。なぜなら、誰も自分の人生の結末がどうなるかを知る者はないからである。罪深い者が、臨終の際に、信仰の本質に達し、不滅の盃を飲み干し、天上の群衆に向かって舞い上がったという例が何としばしばあったことか!一方、信心深かった人が、魂の昇天に際し、あまりもの変りように地獄の烈火の中に落ち込んでしまったという例が何としばしばあったことか!
バハオラ 7
すべての宗教には、肉体が死んでも魂は生き残るという信条がある。人々は先祖のために祈りを捧げ、彼らの罪が許され、魂が進歩できるようにと懇願する。魂が肉体と共に滅びるのであれば、このような祈りは無意味であろう。また、魂が肉体から解放されてからさらに完成した状態に進歩できなければ、いくら愛を込めて先祖のために祈りや献身を捧げても何の役にも立たないであろう。
…愛していた人びとがこの物質の世を去ってしまうとき、我々
は精神的な本能が刺激され、彼らのために祈りたい気持ちが自然に湧いてくるであろう。そのような本能は決して空虚なものではない。それが働くこと自体先祖の魂が生き続けていることを証明しているのである。
アブドル・バハ 8
問:この滅びるべき世界を去る時、人間の精神、つまり思考力を備えた魂はどのように進歩しますか。
答え:塵挨の肉体との絆が切れたら、人の精神は
・神の恩恵と慈悲によって、
・他の人の懇願や誠実な祈りによって、
・その人の名前において行われる慈善事業と奉仕活動
によって進歩する。
アブドル・バハ 9
死後の世界で「真理」を知る[15]ことができるかどうかという問について。その知識に到達することは可能であり、それは全能なる神の慈愛の印のひとつである。たとえこの世でそれを悟らなかったとしても我々は祈りを通じて死んだ人の魂が徐々にこの高い地位に到達できるよう手助けできる。魂の進歩は死によって終わることはない。それはむしろ新しい道を歩み始めるのである。バハオラによれば、死後の世界において膨大で素晴しい可能性が魂を待っている。その王国では精神の進歩は無限であり、この地上にいる間に王国の力と範囲を十分に想像できる者はいない。
ショーギ・エッフェンディ 10
肉体を離れてから人の魂は互いのことを意識できるかどうかという問について。紅色の箱船に乗っているバハの人々の魂は互いに仲良く交わり、親しく交るものである。彼らは生活、希望、目的、努力においてあたかも一つの魂のごとくある。
…神の箱船の住民であるバハの人々は皆お互いの状態や状況をよく知っている。彼らは友情と愛情の絆によって和合される。しかし、この地位に到達できるかどうかはその人の信念と行いにかかる。同じ段階と地位に達した者らは互いの能力、性格、実績、長所を十分に認識できる。低い段階にある魂は上級の魂の地位を十分に理解できず、その長所の真価を評価することもできない。それぞれは主からそれなりの分け前を与えられる。すべての主権を手中に収め給う神へと飛び立つ前に、神に顔を向け、神を愛するゆえにその道を最後まで歩む魂は幸いなり。
しかしながら、神に逆らった者らは…最後に息を引き取るとき、自らが逸した善きものに気づき、自分の苦境をなげき、神の面前でひれ伏すであろう。魂が肉体を離れて後もこの状態が続く。
…神の力という地平線より輝き出る昼の星にかけて誓う!唯一真実の神に従う者らはこの世を離れる瞬間、言葉に絶するほどの歓喜と感謝に満たされるのである。一方、人生を誤った者らは震えに覆われ、恐ろしい、想像を絶する恐怖に覆われるのである…
バハオラ 11
人間はこの地上の世界で気づかなかった神秘を天上の世界で発見するであろう。そこで真理の秘密を知らされるのである。更に、もちろんこの世で交際のあった人を認識したり、発見したりする。純粋な目をもち、洞察力に恵まれた神聖な魂は、光の国土ですべての神秘を知らされるであろう。その人は昔の偉人たちの実在を拝見する恩恵を得られるであろう。その世界で彼らは「神の美」をも明らかに見るであろう。同様に、彼らは天上の集いで過去と最近の神の友をすべて見いだすであろう。
この世を去った後、人々の間の段階や地位の違いは自然に明らかにされるであろう。しかし、その違いとは場所に関するものではなく、魂と良心に関するものである。なぜなら、神の王国は時間と場所から清められているからである。その世界は別の世界であり、別の宇宙なのである。しかし、神聖な人々には神に代願[16]する能力が約束されている。それに次のことを確信せよ。神の諸々の世界では、親愛なる、心豊かな者たち(神を求めた人達)はお互いに認め合い、精神的に交わり合うことを望む。同様に、誰かに愛を抱いたなら、それは神の世界で忘れられることはない。また、あなたが物質界で過ごした生涯も忘れることはないであろう。
アブドル・バハ 12
間:死んだ人はこの世にいる人と会話を交すことができますか?
答え:会話を交すことができるが、それは我々の会話の形とは違います。ここより高い次元の諸々の世界の力がこの世界と関わり合っていることは確かです。たとえば、人間の心は霊感を受けるようにできているでしょう。それは精神のコミュニケーションです。夢の中で口を使わずに友達と話すでしょう。精神の会話も同じです。「これをしようか?この仕事をした方が良いかしら?」というように人は自分の中の精神とも話すでしょう。これは自分の精神との会話です。
アブドル・バハ 13
この世で心霊的現象をむやみにいじることは死後の世界における自分の魂の状態に悪影響を与えます。このような霊的な力は実在しますが、それは普通この地上の次元では発揮されるものではありません。子宮にいる胎児は目、耳、手足などを持っていますが、生まれるまでその力は発揮されません。この物質の世界の人生の唯一の目的はまさに次の、真に実在する世界に到達することです。このような力はそこで発揮されます。それはその世界に属するものです。
アブドル・バハ 14
バハオラによれば、魂は死んだ後も意識と個性を失わず、また他の人と交信する力もある。この交信は完全に精神的な性格のものであり、交信する人々同士の間にある無我の、超越した愛情が条件である。
ショーギ・エッフェンディ 15
あの世の富とは、どれほど神に近いかで決まる。したがって、神の神聖な宮廷に近い人が他人に代わって神の援助を求めることができるのは確実である。他人をこのように援助することは神の承認の下に行われる。しかし、この世で人を代弁し、援助を求めることとは違う性格のことである。それは違った実在であり、言葉で説明できるものではない。
死ぬ前に、裕福な人が恵まれない貧しい人々のために財産の一部を寄付したとすれば、その行為によって彼の罪が許されるかもしれない。それによってその人は神の王国にての進歩が促進されるかもしれない。
また、父親と母親は子供を育てるために大変な苦労と苦しみを耐え忍ぶ。ところが、子供が成人するや否や親が次の世に行ってしまうことが多く、親が子供のために捧げた苦労に対する報いをこの世で見ることは少ないであろう。したがって、子供は親の苦労と世話の恩返しとして親の罪が許されるように祈り、寛大で慈善的な行いをすべきである。すなわち、父親があなたに示した愛と親切を思い出して、彼に代わって貧しい人々のために寄付をしたり、お父さんの罪が許されるように神の前に謙虚にひれ伏し、神の最大の慈悲を懇願すべきである。
…我々が亡くなった人のために祈ることができるように、次の世においてもこの世の人のために祈ることはできるのである。
…人は自分の祈りを通じて進歩でき、ましてや神聖な顕示者が代弁して神に援助を求めてくださる時はさらにそうである。
アブドル・バハ 16
創造の世の現象の一つに夢[17]というものがある。夢の中にどれほど多くの秘密が託され、どれほど多くの英知が納められ、どれほど多くの世界が隠されているかを見よ。例えば、貴殿は家の中に眠っていて門には鍵がおりているとしよう。すると突然、遥かな町に居る自己を発見する。しかし、その町に辿り着くために貴殿は足を動かしたわけでもなく、身体を労したわけでもない。貴殿は眼を用いることなく見、耳を労することなく聞き、舌を動かすことなく語るのである。そして十年の月日が過ぎた時、正に今夜夢に見たことを外面の世界で再び目撃することがある。
さて、夢の世界の中には、熟考に値する多くの英知が存在する。しかし、この谷[18]の人々以外にその英知の真価を悟ることはない。第一に、眼も耳も手も舌もなくしてそれらの機能をすべて用いることのできる世とはどのような世なのであろうか。第二に、十年も前に眠りの世に見た光景を、今日は外面の世界にその夢の結果を見るのは何故なのであろうか。神よりの援助を得て天来の発見を我がものとし、聖なる領域に入ることができるよう、この二つの世界の違いとそこにひめられた神秘について熟考せよ。
高遠に在す神がこれらの微候を人間の内に置き給う目的は何か。それは、哲学者達が次の世の生命の神陪を否定し、人間に約束されているものを軽んずることのないようにするためである。つまり、ある者は理性を尊ぶあまり、理性によって把握できないすべての事柄を否定するのである。だがしかし、我がここに伝えたことを弱き知性を介して把握することは決してできない。それを理解するのは至上の神聖なる英知のみである。
…人間がどれほど完全な創造物であるかについて熟考せよ。つまり、これらの次元や状態はすべて、人間の内に折り込まれておりその内面に秘められているのである。
汝の存在の内に宇宙の全容が折り込まれているのである。なのに、汝は自らを取るに足らない形体と見なすのか。[19]
従って、我らは動物的状態を打破し、人間性の意味が明らかになるまで努力を続けなければならない。
バハオラ 17
胎児にはこの世界の存在が分かっていたか?
この世界と母親のお腹にいる胎児の世界が違うように、死後の世界とこの地上の世界もそれほど違うものである。
バハオラ 1
…この地上に住む者らは王国[20]の世界には全く気づいていない、その存在を否定する。彼らは「王国はどこにあるのか」とか「王国の主はどこにいるのか」と言う。このような人々は動物や人間の世界を知らない鉱物や植物のようなものである。彼らは王国を見たり、発見したりすることはない。
アブドル・バハ 2
死後の生命について。魂は多くの世界を昇っていくものであるとバハオラがおっしゃっている。そのような世界の実体やその性格を知ることはできない。生まれる前の胎児がこの世を把握できないと同じように我々は向こうの世界を把握することはできない。
ショーギ・エッフェンディ3
この世を去った後我々はどうなるのかとあなたは尋ねた。いかなる予言者もこの質問に対して詳しい答えを出していない。その理由は単純である。全く体験していないことを人に分からせることは不可能だからである。それについてアブドル・バハは素晴しい比喩を使って説明しておられる。彼はこの生活と死後の生活の関係を胎児にたとえて説明された。子宮の中で胎児は目、耳、手、足、舌を発達させる。しかし、子宮内では見たり聞いたりするものがなく、歩いたり、物を掴んだり、話したりする必要はないであろう。それらの能力は実は生まれてから使用されるものである。胎児にこの世のことを説明しようとしても無理である。しかし、生まれてからは分かる。生まれてからその能力を発揮することができる。死後の世界での我々の状態を想像することはできない。我々に言えることはせいぜい次の程度である。すなわち、我々の意識、我々の個性は何らかの形で新しい次元に残っていく。そして母親の暗い子宮の世界と比べてこの世の方がずっと良いと同じように、死後の世界はこの地上の世界よりずっと素晴しいものである。
ショーギ・エッフェンディ4
人が行き着くところ
楽園はどこにあるか?地獄はどこにあるか?言上げよ。「楽園は我と再び融合することにあり、地獄はあなた自身にある。」
バハオラ 1
楽園について。楽園が実在することは明白な事実である。この世において我を愛し、我の意思に従うことによって楽園に到達できる。それに到達すれば、神はその人をこの下界で援助し、そして死後は天と地のように広大である楽園に入れるようなし給う。
…また地獄の烈火という実在についても熟考し、本当に信じる者であれ。人が行う行為一つ一つに対し神の判断に従って報いが
定められる。神によって規定された法令や禁令が存在していること自体がこの事実を十分証明しているはずである。なぜなら、行為に対し報いがなかったら、実を結ばないものだったら神の大業は・・・無駄に終わってしまうからである。神はそんな冒涜をはるかに超越されているのである!しかしながら、すべての執着を捨てた者であれば、善行そのものが十分な報いである。
バハオラ 2
顕示者が顕わされる度に神を信頼し、彼が啓示されることを受け入れることによって人間はその最も高い地位に到達できるのである。その地位は学問に依存するものではない。学問ぐらいなら、さまざまな学問に精通している学識者が各国に大勢いるであろう。その地位はまた富によって到達するものではない。なぜなら、各国に見られる階級の中で財産を所有する人々が数多くいるからである。他の一時的な存在についても同じである。
したがって真の知識は神を知ることにあり、神を知ることは神の顕示者が顕わされる度にその彼を認めることである。真の富もまた、神以外のものにおける貧困にあり、彼以外のものへの愛着を断つことにある。神の啓示の太陽[21]に忠誠を示すことによってのみこの状態に到達できるのである。
バブ 3
神の、顕示者が現れている日にその顕示者を知り、彼の聖句に耳を傾け、その御言葉を信じ、彼の御前、すなわち神自らの御前に進み、彼の御心という王国の大洋に航海し、彼の神聖な一体性の楽園の選り抜きの果実をいただくこと――これ以上に不可思議な楽園が人間にあろうか?
バブ 4
神の唯一性を信じる者にとって、神の命令に従うほど高遠な楽園はない。また、神とその印を認めた者にとって、神の法を犯し、芥子の種ほどでも他人に不正を働くことほど強烈な烈火はない。復活の日、神はまことにすべての人を裁くであろう。我々は皆神の慈悲を懇願する。
バブ 5
これを知れ…神に近づくために最もふさわしい方法は自らを清めることである。それはすべての行いの中でもっとも称賛すべき行為である。
…真の信念をもって神の御言葉に耳を傾ける者は烈火から守られる。真の信者は、顕示者を認め、その言葉の卓越性を悟り、人々の中から顕示者だけを心から選び、彼を信じない者らの誘惑に惑わされないであろう。次の世において得られるものはすべてこのような信念の果実である。
バブ 6
この地上の人生の実を結んだ人、すなわち唯一真実の神(彼に栄光あれ)を認めた者について。彼らの死後の状態を我は描写できない。それを知るのはすべての世界の主なる神のみである。
バハオラ 7
おお我がしもべらよ!今日、この地上の生活で、あなたの望みに反するようなことが神より定められたり、示されたりしても悲しんではならない。なぜなら、喜悦に満ちた日々、至上の喜びに酔った日々が必ずあなたのために準備されているからである。神聖で精神的に輝かしい諸々の世界があなたの目に明らかにされるであろう。あなたは、この世と次の世で、その恩恵にあずかり、その喜びを分かち合い、そしてその活気をもたらす慈悲の分け前をいただくであろう。あなたは間違いなくそれらすべてに到達するであろう。
バハオラ 8
神が人間を創造した目的は、人間にその創造主を知らしめ、神の面前に臨ませることである。それは過去も未来も変わらないことである…「神の導きの曙」[22]を認め、彼の宮廷に進んで入った者は、誰であれ、神に近づき、神の御前に達した者なり。彼の御前に達することは真の楽園に達することである…彼を認め損なった者は誰であれ、神からの離反という苦しみを自ら招くことになる。神から離れていることは、全く存在しないことに等しい、それは地獄の烈火そのものに他ならない。たとえ、見た目にはその者が地上の最も高められた座を占め、最高の王座に就いていようとも、行き着く所はそれである。
バハオラ 9
この世にいる間、情欲や性欲、法外な欲望や、その時代を染める軽々しい言動に身を任せることほど、苦悩し、悔いを残す人生がありましょうか。神に誓います!そういう人生を送った人の、最後の希望の炎が消えようとするところを目の当たりにすると、誠に情はないものです。そういった放蕩に身を誤った人生の幕が閉じるその時に、その人のこころは限りない後悔にさいなまされてしまいます。自分の精力が消耗され、精も根も財産もすり減らされ、希望が叶えられず、機会が失われ、その夢は達成できず、その活気も気力も台無しに終わり、精神の光が消えていることに気づくのです。その人の娯楽生活の結果は何だったでしょう!その人の思考力は何を生み出したのでしょうか?この放蕩の結末は何でしたか?立派な夢を持っていたあの若い頃の自分は一体どこに消えたのでしょうか?すばらしい、宝石のように輝いていた理想はいったいどこの泥沼に捨てられたのでしょうか?神から与えられた知力はどういうふうに使われたのでしょうか?その人は自分の情欲に浸って、放蕩に身を持ち崩して、まことに全く実を結ばない人生を送ってしまったのです。悲しいかなその人の人生は後悔に満ちた悲惨な結末になってしまいます。
しかし、それとは対照的に、この地上で過ごす日々が終わろうとする時、自分の人生を振り返って見て、神のおかげで、また全能なる御方の助けにより、「よくやりましたぞ!」という最高の満足感を味わえる人は幸いでありましょう。そういう人は神を愛するが故に降りかかってきた侮辱や苦しみを、落ち着いた安らかなこころで歓迎できたのです。またすべての財産も命も精神も身体も、全ての力も神を愛する道に使い尽くしたこと、そして最後に息を引き取る瞬間まで、大業に対して自分が揺るがず、不動であることを自ら確認できるでしょう。
アブドル・バハ 10
責任を問われる時
あなたとあなたが持つ物はすべて消え去ってしまうのである。あなたは必ず神の下に戻り、全創造物を召集する御方の面前で自分の行いに対する責任を問われるのである。
バハオラ 1
地上の人生が必ず終わり、この世の快楽は消え去ってしまう。間もなくあなたは神へ戻り、悔恨の念に苦しまされるのである。じきにあなたは眠りから起こされ、神の御前にいることに気づき、自分の行動について問われるであろう。
バブ 2
人は皆神から現れ、そして神へと帰って行く。人は神の面前に出て、判決を受けるのである。彼こそは復活、再現と審判の日の主である。神が啓示された言葉[23]はその判決の尺度となる。
バブ 3
地上の人生は終わりを告げる。人は必ず死んでしまい、わが主である神の下へ帰る。最後まで耐え忍ぶ者は選り抜きの恩恵によって神から報いられるのである。神が全ての創造物に尺度を定めたまう。主の御心に従う[24]者は、実際、喜ぶ者のうちに入る。
バブ 4
まもなく神の御前からあなたと、神の印を信じた者らに優れた報いが授けられる。
バブ 5
神は皆を創造し、皆は神へ戻ります。
アブドル・バハ 6
すべては自分の意思にかかる
…すべての人間は「神の美」[25](彼に誉あれ)を自分の力で認めることができる。そのような能力がそもそもなかったならば、その義務を怠る責任を問われることはないであろう。実際、地球の民が神の面前に召集される日、「なぜわが美を認めなかったか?なぜ我に背いたか?」と問われる時、人はたとえ「申し訳ありません。他の人も皆道を誤り、「真理」に顔を向ける者はだれもいなかったので、私もつい皆と一緒に「永遠の美」を認める義務を怠ってしまいました」と弁解しても、その訴えは拒否されるに違いない。なぜなら、自分の信念を他人の責任にすることは断じてできないからである。
バハオラ 1
反省だけで良いのか?
神の確実な尺度を目前に置きなさい。神の面前に立っているつもりで、毎日、いや一刻一刻生きている限りその尺度で自分の行いを計りなさい。審判に召される日が来る前に反省しなさい。誰であれ、その日、畏れ多い神の御前に立つ力はない。その日神を無視した者らの心は恐怖におののくであろう。
バハオラ 1
人は皆水から創られ、塵に還ってしまう。あなたを最後に待ち受けている死を思い出し、不正を働く者の真似をしないように。神聖なロートの樹[26]が唱える聖句に耳を傾けなさい。その聖句こそは絶対確実な尺度である。その尺度はこの世と次の世の主なる神によって設定されたのである。それらの聖句によって人の魂は「啓示の曙」へと舞い上がり、真の信者の心は光で満たされるのである。神が制定し給うた法律、神の聖なる書簡に定められた命令はまさにそのために啓示されたものである。感謝と喜びをもってそれに従いなさい。それは何よりあなたのためになる。それを悟るがよい。
バハオラ 2
我はあなたの行いを確実に見ている。その行いから純粋さと聖らかさの芳しい薫を嗅ぐことができれば、我は必ずあなたを祝福する。そのとき、楽園の住民の口はあなたを賞賛し、神に近づいた者らの中であなたの名前が称えられるであろう。
バハオラ 3
おお友らよ!
まことにわれ言う。汝らが心の中に何を包み隠そうとも、われには太陽の如くあからさまに分かっている。しかもそれが隠されてあることは、わが慈悲と恩恵の故であり、汝の功績ではない。
おお我がしもべよ!
この世の束縛より自由になれ。また自我の牢獄より汝の魂を解き放て。この好機を掴め。そは再び汝を訪わざれば。
おお怠慢の子等よ!
滅ぶべき主権に愛着するな。またその中にて喜ぶな。汝等は梢にて自信満々とさえずる軽率な小鳥の如きものである。突然狩人なる死が、それを塵挨の上に射ち落とし、そのメロディも、その形も、またその色も消え去り、痕跡も残らないであろう。されば心せよ、おお欲望の奴隷等よ!
おおわがしもべよ!
消滅するもののために永遠の国土を見捨てるな。また世俗の欲望のために天上の主権を放棄するな。これは慈悲深きもののペンの源泉より流れ出づる永遠の生命の川である。それを飲む人々に恵みあれ。
バハオラ 4−8
死体は単なる物体か?
この肉体は内なる宮殿[27]の王座である。それゆえ、前者に起こることは後者にも感じられる。嬉しさと喜びを実際に感じるのは肉体そのものではなく、その内なる宮殿である。肉体は内なる宮殿が置かれている王座のようなものであるので、不快感を与えるようなことがないようにできる限り死体の保存に努めるようにと神は定められたのである。内なる宮殿は、王座であった肉体の亡がらを見ることができる。死体に敬意が払われれば、それはあたかも内なる宮殿に敬意が払われることである。反対もそうである。
それゆえ、死体には敬意をはらい、尊敬を示すようにと定められている。
バブ 1
創造の源は?
バハイでいう「神」とは、目に見えないしかも見識ある実在を指している。地上に顕わされる神の顕示者を大いに称えたい気持ちは分かるが、「神」とは「聖霊の最も内なる精神」あるいは「真髄のうちなる不滅の真髄」と言われるものである。神が自らの無限なる、不可知で不朽の、またすべてを包含する本質を、死すべき人間の具体的かつ限られた人体に化身するとは絶対に考えられない。バハオラの教えに照らしてみれば、自分の本質を完全に人間の体に化身した神は直ちに神ではなくなるわけである。それほど幼稚で不合理な神の化身論はバハイの根本的信条とはほど遠い、矛盾するものである。
ショーギ・エッフェンディ 1
日の老いたる者を知る道はこうして全ての人々の面前に閉ざされている。しかしながら、神は限りない慈悲の源である。神は…精神の国土よりこれらの光輝く、神聖なる宝石[28]を世に顕わされるのである。神は彼らを人間という気高い形で出現させ、彼らを全ての人々の前に顕わされるのである。その目的は、不変なる神の神秘を世界に知らしめ、神の不滅の真髄の捕え難い特性を語ることである…全ての神の預言者たち、神の清らかな、選ばれた使者たちは、例外なく、神の名を示し、神の特性を具現する者である…彼らは神性な幕屋であり、彼らは消えざる栄光の光を反映する太古より存在する鏡である。彼らは神のしるしである。神は見えざるもののうち、最も見えざるものである。
バハオラ 2
「古来の実在」の認識への扉は人間の面前で閉ざされてきた。未来も永遠に閉ざされたままであろう。人間の理解力がいかなるものであれ、神の聖なる宮廷には決して近づくことはできないであろう。しかしながら、神は、慈悲のしるし、そして慈愛の証拠として、「神の一体性の象徴」である、天の導きを人間に伝える「太陽」を顕わし、これらの聖別された「御方」を知ることを神自身を知ることと同一であると定め給うた。彼らを認める者は神を認める者なり。彼らの呼び声に耳を傾けた者は神の声に耳を傾けた者であり、彼らの啓示の真理を証言する者は神自身の真理を証言する者である。彼らより顔を背けた者は神に顔を背けた者であり、彼らを信じない者は神を信じない者である。彼らはみなこの世と天界を結びつける「神の道」である。彼らは天と地の諸々の世界にあるすべての者にとり「神の真理の旗」である。彼らは人類間におけるr神の顕示者」であり、神の真理の証拠であり、神の栄光のしるしである。
バハオラ 3
結婚の絆は永遠か?
バ八イの結婚は結婚する二人の互いの約束であり、互いの心と精神を結びつけるものである。二人の間の固い公約が永遠に残る絆となるためには、結婚する前に互いの性格を十分知り合う努力が極めて大切である。愛情溢れる伴侶と協力者になること、二人の和合が永遠に続くことを目的としなければならない…
真のバ八イの結婚は、夫と妻が肉体的にも、精神杓にも一致和合し、互いの精神的な生活を高め、神のすべての世界において永遠の和合を味わうことである。これこそはバハイの結婚である。
アブドル・バハ 1
不倫は死後の魂の成長を妨げる嘆かわしい行為であるとバハオラは述べられ、またアルコールを飲むことは心[29]を駄目にすると述べておられる。これを考えれば、道徳に関するバハイの教えは極めて明白であることが分かる。
ショ−ギ・エッフェンディ 2
故人・先祖のための祈り
おおわが神よ、罪を許し給う御方よ。賜物を授け給う御方よ。苦しみをぬぐい去り給う御方よ。
肉体のころもを捨て、霊の世界にのぼった人々の罪を許し給うよう切に嘆願いたします。
おおわが主よ、彼らを罪の汚れから清め給い、彼らの悲しみをぬぐいさり、彼らの暗黒を転じて光明と化し給え。彼らを喜びの園に入らしめ、最も清らかな水で洗い清め給え。そして彼らに至上の頂に映えるあなたの御光を仰がせ給え。
アブドル・バハ 1
両親のための祈り
しもべは祈りをする時、両親の罪が許され、慈悲の対象になるよう神に嘆願するべきである。そうすれば、神は声高らかに呼びかける。「両親のために嘆願した何千倍もの報いを汝に与える!」神と交信する時両親のことを思い起こす者は幸いである。彼以外に神はなく、彼は威力あるもの、親愛なるものである。
バブ 2
おお主よ、この最も偉大なバハイの時代において、あなたは子がその両親のためにとりなすことを認めておられます。これは、この宗教の無限で特別な賜物の一つであります。それ故、おお親切なる主におわす君よ、このしもべがあなたの唯一性の敷居でこいねがうことを受け入れ給い、その父親をあなたの御恩恵の大洋に沈め給え。この息子は、あなたに奉仕するために起ち上がり、貴方の愛の道で常に努力しております。まことにあなたは与え給い、許し給い、親切なる御方におわします。
アブドル・バハ 3
[1] バハオラが言う「神」の定義について、66ページ参照。
[2] 死後の世界
[3] バハオラ
[4] バハオラ
[5] アグダスの書
[6] 顕示者の言葉
[7]思考、自覚、意思、注意などの働きを持つ心。原本の英語はmindである。
[8]神の顕示者が顕わされる度に
[9]死後の世界
[10] 「神を知り」とは、顕示者を認め、その教えを実践することを指している。
[11] バハオラを認めること
[12] 顕示者の教えに従うこと
[13]神に最も近づけるところのシンボル。神の顕示者を指している。
[14]死を指す、コーランの言葉
[15] バハオラを知ること
[16]人に代わって、神に助けを求めること。神の許しを得て、人を助けること。
[17]夢については『落穂、集』79番(『落穂集その二』33項)を参照
[18]驚嘆の谷(『七つの谷』)参照
[19] モハメッドの後継者アリの言葉を引用
[20]死後の世界。昔からの経典において「神の王国」と呼ばれている。
[21]神の顕示者
[22]神の顕示者
[23] バハオラの教え
[24]神の御心に従うということは、顕示者の教えに従う意味である。
[25] バハオラ
[26]神の顕示者であるバハオラ
[27]魂
[28]神の顕示者
[29] mind