協議
1バハオラの書からの抜粋
1.すべてのことについて共に協議せよ。協議は道を照らす導きの灯であり、理解をもたらすもの故に。
2.正義の道を歩かなければ、真の地位を得ることはできない。和合がなければ力はなく、協議なしには幸福にも、安寧にも達することはできない。
3.協議を通してより深い認識力が得られ、憶測は確信に変えられるのである。それは、暗い世の中で人々を教え導く輝く光である。すべてのものには完成と成熟の段階があり、理解力は協議を通してその段階に達するのである。
4.そのようなことは協議によって決められなければならない。選ばれた人たちの協議で決定されたものは神の命令である。
5.万事について協議する必要がある。汝は、このことを強く強調しなければならない…。最も高遠なる方のペンが啓示したことの目的は協議が友らの間で十分に実施されることである。協議はつねに認識と覚醒の由縁であり、善と幸福の源であり、将来もそうあり続けるであろうから。
6.(精神行政会の)メンバーは人人々の中に在って、慈悲深き方から信頼される者となり、自分を、地上に住むすべての人のために神から指名を受けた守護者と見なさなければならない。メンバーは共に協議し、自分自身の利益を考えるように、神のために、神のしもべの利益を考慮し、適切であることを選ばなければならないのである。主なる神、寛大なる方、赦罪者は、このように命じられる。聖なる書に明白に述べられていることを忘れないように注意せよ
7.共に討議するために集まった最初のグループで満場一致が達せられない場合は、他の人が加えられ、その中からくじで[最大名]の数(9人)か、それともそれに近い数の人が選ばれ、そのあとで協議が再開されなければならない。決議されたこことには皆従うべきである。もし再び意見が分かれれば、同じ過程を繰リ返す。三回目まで同じ過程を線リ返しても満場一致に達しなければ、多数決に従わなければならない。まことに、神は自ら望む者を、正しい道へと導かれるのである。(この指示は、精神行政会が設立される前に与えられたものであるが、現在でもバハイがそう望めば、個人的な問題を協議する時に用いられてよい。)
2アブドル・バハの書と言葉からの抜粋
8.誰であっても精神行政会と協議せずに一歩も先に進んではなりません。物事が秩序正しく、整然と運ばれるように、すべての者は行政会の命ずる所に心から従い、それに忠実でなければなりません。そうでなければ、各人別々の行動をとり、自らの判断に従い、自分の欲望の虜となって、大業に害を及ぼすことになります。
9.共に協議する者に最も必要な条件は、動機の純粋さ、精神の輝き、神以外のすべてから超脱していること、聖なる芳香に魅せられていること、神から愛される人たちの間で謙虚であること、困難にあって長く忍耐すること、そして神の高遠なる敷居への奉仕であります。もし、(神の)慈悲深い援助によって、これらの美徳を身につけることができれば、見えざるバハの王国から勝利が下されるでありましょう。行政会のメンバーは、悪感情や不和が起こらないように協議しなければなりません。このことは、すべてのメンバーが全く自由に自分の意見を述べ、論旨を説明する時に可能となります。誰かが反対しても感情を害されてはなりません。問題が十分に討議されるまでは正しい道は明らかにならないからです。真理の閃きは、異なる意見の衝突の後にのみ輝き出てきます。討議の後、万場一致で決議されれば幸いであります。しかし、もし意見の相違が生じるようなことがあれば多数決で決めなければなりません。
10.第一の条件は、行政会のメンバー間の無条件の愛と調和であります。メンバーはお互いに疎遠であったりすることは絶対になく、神の一体性を自分たちの間で現さなければなりません。かれらは、一つの海の波であり、一つの川の滴であり、一つの天の星々、一つの太陽の光線、一つの果樹園の木々、一つの庭園の花々であるからです。考えが一致せず、完全な和合がなければ、その集会はばらばらとなり、行政会は解散となりましょう。第二の条件は、共に会合する時は、高遠なる天上の王国に顔を向け、栄光の国に援助を求めなければならないことです。その後、最高の献身、礼儀、威厳、思いやりと中庸をもって自分の孝えを述べなければなりません。あらゆることにおいて真理を探し出し、自分の意見を強要してはなりません。自分の意見に執ように固執すれば、最後には不和と口論となり真理は隠されたままとなるからです。栄誉あるメンバーは全<自由に自分の考えを述べなければなりません。そして、一人が他の人の考えをけなしたりすることは絶対に許されません。いや、それどころか、メンバーは中庸をもって真理を述べなければならないのです。もし意見の相違が生じた時には、多数決で決められ、すべてのメンバーはそれに従わなければなりません。栄誉あるメンバーが、会議中または会議の席を離れたところで、先程下された決定に異議を唱えたり、批判を加えたりすることもまた許されません。たとえその決定が正しくないものであったとしてもであります。というのは、そのような批判があれば、決定されたことが実行に移され難くなるからです。っまり、調和と愛と純粋な動機をもって計画されたものなら、その結果は光であり、もし疎遠感が少しでもあったならば、その結果は闇に闇を重ねたものとなるでありましょう。このことが顧慮されるならば、その行政会は神のもものとなり、もしそうでなければ、それは邪悪者から生ずる冷淡と疎外に行き着くでしょう…もしメンバーがこれらの条件を満たそうと努力するならば、聖霊の恩恵が下され、行政会は神の祝福が降り注ぐ中心となり、聖なる確証の天使は援助に駆けつけ、メンバーは日毎に新たな聖霊の息、吹を感受するでありましょう。
11.数人の人が、神の国を思わせる感覚、聖なる魅惑的な力、清らかな心、全くの清純さをもって精神的な芳香のうちに交わるために集まるならば、その集まりは全世界に影響を及ぼすでありましょう。そこに集まった人たちの状態、ことば、行いは、世界を永遠の幸福へと導き、神の国の恩恵を証明するでありましょう。聖霊は彼らを強め、崇高なる天上の軍勢は彼らに勝利をもたらし、アブハの天使たちは次々に到来するでありましょう。
12.従って行政会のメンバーは、不和も憎しみも起こらないようなやり方で相談し、協議しなければなりません。協議するために会合する時は各人は全く自由に自分の見解を述べ、論証しなければなりません。もし他の人が反対意見を出しても、興奮してはなりません。というのも、問題になっている事柄を調査したり確認したりしないかぎり、皆が納得できる見方は明らかにならないし、理解もされないからであります。考えの衝突から生ずる輝く光は、事実を「照らし出すもの」であります。
13.行政会のメンバーがある議題に関して誤った判断をしても、皆それに賛成するならば、正しい判断で意見が分かれるよりも好ましいのです。というのは、この不和は聖なる大業の基盤を破壊する原因になるからです。意見が分かれた場合、一方が正しくても、それで不和が生じるなら、それはおびただしい誤りの原因となるでありましょう。しかし、双方が誤っていたとしても、互いに合意するならば、和合がある故に、真実が見いだされ、誤りは正されるでありましょう。
14.協議は最大に重要なことで、人類の平穏で幸福な生活を助成する最も強力な手段の一つであります。たとえば、あるバハイが自分の事について確信が持てない時とか、ある計画または事業を始めたい場合、バハイの友だちは集まり、その人のために解決策を考えてやるべきであります。その代わり、その人はその解決策に従って行動すべきです。より重大な事柄についても同様、問題や困難が生じた時は、賢明な人たちは集まり協議をし、解決方法を考えなければなりません。その際、彼らは唯一真実の神に頼り、結果がどんなものになろうと、神の意思に従わなければならないのです。というのは、そうすれば、神の確証が間違いなく下ってくるからであります。このように協議は主が与えられた明白なきまりの一つなのであります。
15.人は何が善であるかを知るために、大きな事柄であっても、小さな事柄であっても、すべての事について協議しなければなりません。協議は人に物事を洞寮する力と、今まで未知であった問題を深く探る能力を与えます。真理の光は協議にたずさわる人の顔から輝いてきます。そのような協議は、人間の実在の草地を水でうるおし、人に古来の栄光の光を輝かせ、人間存在の木をすばらしい果実で実らせるのであります。しかしながら、協議する行政会のメンバーはお互いに最高の愛、和合、そして誠実さをもって振る舞わなければなりません。協議の原刷は、聖なる機構の最も基本的な要素の一つなのであります。たとえ、日常的な事柄であっても、社会の一人一人は協議をすべきであります。
16.バハイの各々は相手を讃え、他の人の前では自分を取るに足りない小さな存在と見なさなければなりません。すべての事柄は集会で協議され、多数決で決められたことは、それがどんなものであれ、実行に移されなければなりません。唯一真の神にかけて誓うが、一つだけ正しい意見があっても、他の人がそれに賛成しない場合、その意見が選ばれるよりも、間違った意見であっても全員が賛成であれば、その意見が採られた方が好ましいのです。なぜなら、ばらばらの決議は不和の原因となり最後には破滅となってしまうからであります。一方、ある場合には、間違った決議をしたとしても、他の百回の会議では正しい決議が出来、協調と和合が保たれるのであります。こうしてこそ、どんな欠陥も補われやがては誤りは正されるのです。
17.協議の目的は、数人の考えが一人だけの考えより確かに好ましいということを示すことにあります。それは丁度、複数の人の力が一人の力より明らかに優れているのと同じことであります。このように、協議は全能の神の面前で受け入れられることであり、信者に課せられてきました。信者が普通のこと、または個人的な問題、および一般的で普遍的な問題について相談するようにであります。たとえば、ある人が一つの企画を完成したい場合、何人かの友達と協議すれば、納得のいく答えが詮索されて眼前で明らかにされ、真実が現れるでありましょう。より高い段階においても同様であります。村の人が自分たちの問題について協議をすれば、必ず正しい解決策が明らかにされるのであります。同じ様に、それぞれの職業についている人々、たとえば産業や商業のそれぞれの分野で、働く人々は仕事の問題について、協議すべきであります。要するに、協議はあらゆることあらゆる問題において望ましく、また満足のゆくものであります。
18.商業や通商に関して父親が息子と、または,壱、子が父親と協議することについてのあなたの質問に答えます。協議は神の法律の基盤を成す不可欠の要素の一つであります。そのような協議は父親と息子との間であろうが、他人との間であろうが、確かに歓迎すべきことであります。これより善いものはほかにありません。人はすべてのことについて協議しなければなりません。というのも協議により、それぞれの問題の深奥まで達することができ、正しい解答を得ることができるのです。
19.精神行政会の栄誉あるメンバーは、不和が起こらないように努力すべきであります。もし不和が起こった場合は、脅迫ともなりかねない争い、憎しみ、敵意が引き起こされる所まで達してはなりません。敵対心や脅迫といったものが今にも起こりそうだと感じた時すぐに協議を止め、口論、争論、大声の話がおさまって、適当な時が来るまで、問題の討議を延ばさなければなりません。
20.大、小どんなことであれ、すべてを協議で解決しなければなりません。自分の個人的な問題に関しても、協議をせずに重要な一歩を踏み出さないようにしなければなりません。お互いに関心を持ち合い、企画や計画を相互に援助しあうことが重要であります。心痛を共にし、全国で誰一人として困った人がいないようにしなければなりません。皆がすべて一つの身体となるまで助け合わなければならないのです…
21.和合と協調の目的で催されるすべての会合は、見知らぬ人を友達に、敵を味方に変えるのに役立ちます。そしてアブドル・バハは全心全魂を込めてそのような会合に出席されるでありましょう。
22.この大業においては、協議は非常に重要なことであります。しかし、その目的は精神的な協議が行われることであり、単に個人的見艀を述べることではありません。フランスで、私は上院議会の開会中に居合わせましたが、その体験は印象深いものではありませんでした。議院法は、提出された問題に真実なる光をもたらすことがその目的であり、反対や自己主張の戦場を提供することではないと決めるべきであります。敵対心と争いは不幸を招き、つねに真理を破壊するものであります。先に述べた上院の会議では、口論と無意味なこじっけ答弁が頻繁に行なわれ、その結果はほとんどの場合、混乱と騒ぎになり、一時は二人の議員が暴力をふるうことまで起こったのであります。それは協議というより喜劇であったのです。(この話の)意図は、協議は真理の探究をその目的としなければならない、ということを強調することにあります。意見を述べるときは、それが正しく、間違いのないものとしていうのではなく、意見が一致するための一つの貢献として述べるべきであります。というのは、真実の光は二つの意見が一致してはじめて明らかとなるからです。閃光は火打ち石と鉄が打ち合わされて生じます。人は自分の意見を最大の落ち着きと冷静さをもってよく考えなければなりません。自分の意見を出す前に、他の人がすでに提出した見解を注意深く考慮しなければなりません。もし先に出された意見が自分のもの以上に真実で価値のあるものと思ったならば、すぐにその意見を認め、強情に自分の考えに固執してはなりません。このすばらしい方法で、人は和合と真理に達するように努めなければなりません。反対と分裂は嘆かわしいことであります。そうであれば、賢明で英知を備えた人の意見にしたがった方が好ましいのです。そうでなければ、さまざまな、異なった意見から生み出される食い違いや激論から、ある司法機関がその問題に関する決定を下さなければならなくなるでありましょう。多数を占める意見または合意さえも誤っているかもしれません。一千人の人々が同じ意見を持っても、その意見は、正しくないかも知れないのです。一方、一人の英知を備えた人が正しいこともあるのです。したがって、真の協議とは愛情ある態度と雰囲気の中で行われる精神的話し合いなのであります。議員は良い結果が生じるように、友情の精神でお互いに愛し合わなければなりません。愛と友情は(協議の)基盤であります。
23.(委員会)のメンバーの第一の義務は、良い結果を得るために自分たちの間に和合と調和をもたらすことであります。もし和合がなければ、あるいは委員会が不和の原因となるならば、明らかにそれは存在しない方が良いのであります。それゆえに、委員会のメンバー間に和合が確立された後、彼らがすべき第二の義務は、各々があたかも神の面前でお互いを見るようになるために聖なる言葉を朗読することであります。
3ショーギ・エフェンディの著書と彼の代理による手紙からの抜粋
24.神の大業の基本は、独裁的な権力ではなく、慎ましい友情であり勝手気ままな権力ではなく、率直で愛情ある協議の精神であることを銘記しておこうではありませんか。真のバハイ精神が欠けていれば、慈悲と正義、自由と服従、個人の権利の尊厳と自己否定、そして警戒、慎重さ、用心深さと友情、率直さ、勇気といった諸原則を調和させることは望み得ないのであります。
25.バハイの友が何からも束縛されずに、良心をもって、自分たちの代表として選んだ人たちの義務は、代表者を選んだ人たちの義務と同様極めて重要であり、責任重大なものであります。選ばれた人の役割は.命令することではなく、協議すること、しかも、自分たちの間だけでなく、選んでくれた友とできる限り協議することであります。代表者は自らを神の大業をより能率的に、威厳のあるやり方で伝えるための選ばれた道具としてのみ見なすべきです。自分たちは大業という胴体の中心的な機関であり、他の人より本質的にすぐれた能力と特性を持ち、大業の教えと原副の唯一の推進者などとは決して思ってはなりません。彼らは自分たちの仕事に全くの謙遜さをもって臨み、広い心、強い正義感と責任感、率直さ、慎み深さ、および同胞、大業、そして人類の福祉と利益に対する心からの献身をもって自分たちが奉仕している人々の信頼、心からの支持、尊敬だけでなくその人たちの敬意と真の愛情も勝ち取るように努力しなければなりません。彼らはつねに、排他的な精神、つまり隠し立てをするような雰囲気を避け、ごう慢な態度を離れて、審議からあらゆる形の偏見と情熱を除かなければなりません。賢明に、そして慎重にバハイの友を信頼し、自分の計画を知らせ、問題や悩みを分かち、彼らの忠告や助言を求めるべきであります。そして、ある決議をしなければならない場合、冷静で真剣、しかも誠意のこもった協議の後で、神に向かって祈り、熱意と確信と勇気をもって投票すべきであります。その後は、多数の意見に従わなければなりません。多数の意見は、真実の意見であり、それは疑われることはなく、つねに心より実施されなければならない、と師(アブドル・ババ)は述べておられます。バハイの友はこの意見に熱心に応じ、それを大業の擁護と発展を保証する唯一の手段と見なさなければならないのです。
26.バハイの友の間で、社会的地位が最も低く、学歴もなく、経験もない人が、無私と熱心な献身という霊感を与える精神力で、行政会の非常に込み入った協議に、顕著で忘れ難い貢献をするのも往々どころか、しばしばあるでありましょう。
27.私たちの師、アブドル・バハがつねに抱いてこられた望みは、地方および全国行政会のメンバーが、会合において、率直さ、目的への誠実さ、表裏のない心、十分な脇議を通してあらゆる事柄に関して満場一致に達することであります。
28.行政会の会合に、ある人々がその招きを受けて出席することに関して(述べます)。ショーギ・エフェンディはこのことを、良い行政に絶対に必要なすぐれた助言であると考えておられます。行政会のメンバーはあらゆる題目について、すべてを知っている必要はありません。したがって、特定の問題に精通した人を招いて、会合でその人の考えを説明してもらうことができるのです。しかし、当然ながらその人には投票する権利はありません。
29.師(アブドル・バハ)は、そういった状況の下では、私たちはバハイの友、特に行政会に相談して助言を求めなければならない、とよく言われたものです。もしあなたがこの助言にしたがい、何人かのバハイの友と相談することになれば大変結構であります。おそらく神の意志は協議によって最もよく、遂げられるでありましょう。
30.適切な協議により、何らかの方法が必ず見いだされるのです。行政会が設立されるまで協議を始める事を待つ必要はありません。二人の熱心な人の意見は一人の意見よりも良いのです。
31.バハイ行政機構の基本的な法則の一つである協議の原則は、信教の全体的な利益に影響するすべてのバハイ活動に適応されるべきであります。というのも、協力と考えや意見の交換を続けてこそ、大業はその利益を最もよく保護し、促進することができるからであります。個人の独創力、能力、資力は欠くことのできないものですが、グループが蓄積した経験と英知によって支えられ、強化されなけれぱこのような大事業を成し遂げることは全く不可能であります。
32.率直で、自由な協議はこの独特な秩序の根底であります。
33.信者は、たとえ行政会の正義または公正さに確信が持てなくでもその指示や命令に信頼を置くべきであります。行政会が多数決で、ある決定を下した場合、共同体のメンバーは進んでそれに従わなければなりません。特に行政会の中で多数派の意見と反対の意見を持っている人たちは、多数決の原則に従うために、私見を犠牲にして、共同体に立派な模範を示すべきであります。多数決の原則は、すべてのバハイ行政会の機能の基本であります。しかし、行政会の大多数がある決議をする前に、他のメンバーの感情を害したり、疎外したりすることを恐れずに、自分の意見を自由に、そして率直に述べることは、すべてのメンバーの権利であるばかりでなく、神聖な義務であります。率直で自由に述べ合わなければならないこの重要な協議の行政原別に照らして、守護者は、自分の意見や提案を他のメンバーに代わって述べてもらうことを止めるように、あなたに忠告されています。このように自分の意見を間接的に行政会に述べることは、大業の精神に最も反する秘密の雰囲気を生じさせるだけでなく、さまざまな誤解と紛糾の原因となるでありましよう。行政会のメンバーは、自分が確信していることを述べる勇気を持たなければなりません。同時に、行政会の大多数が十分に考慮して下した判断と指示に、心から、そして無条件に従うという意思を示さなければなりません。
34.アブドル・バハが言われたように、真理の閃きは、個人個人の意見の衝突によってしばしば生じ、神の導きが現されるのであります。したがって、バハイの友は、行政会のメンバー間に生じるかもしれない意見の相違に意気を挫かれてはなりません。というのは、経験から見られる様に、そして、師(アブドル・バハ)の言葉が証明している様に、意見の相違はすべての行政会の審議に貴重な役割を果たすのです。しかしいったル大多数の意見が確認された時にはメンバーはすべて自動的にそして無条件にそれに従い、忠実にそれを実行に移さなければなりません。しかしながら、地方共同体から選ばれた代表者たちの協議と審議はつねに忍耐と自制で特徴づけられなければならず、どんな状況にあっても、無益でつまらないことをやかましくいうような議論に耽ってはなりません。
35.協議を開くために必要な人々が出席できない時、しかも、ある個人が重要な事柄をどのように取り扱って良いのか分からない場合についてのあなたの先の質問に関して、あなたはアクダス書を用いた「聖典占い」(イスティカ)*にその人が頼っても良いかどうか、と質問されていますが、守護者は次のように述べておられます。そのような場合、必要欠くべからざることは、その人が
心を完全に神に向け、恩寵と霊感の源泉から援助を求めることであります。その他から援助を求めてはなりません。もし決定を延期できるならば、協議が出来るようになるまで延ばした方が好ましく、またより適切でありましょう。
*これは聖典占いで用いられるような一つの占いの方法で、聖典を何処ともなく開け、そのページにある聖句を読んで、個人の問題に対する導きを、探し出すというものである。
36.行政会の不和は、メンバーの誰かが辞任することによって、または謹慎によって解消することはできません。行政会は不和の要因があっても、一つのまとまったものとして機能し続けなければなりません。そうでなければ、法則に例外を持ち込むことになり、機構全体が信用を失ってしまうでありましょう。大業を何よりも愛し、その利益を第一に考えるバハイの信者たちは、いかなる種類の苦難にも耐え得る用意をしなければなりません。そのような持久精神と自己犠牲によってのみ、一方において、神の機構を完全なものとして保存し、他方においては、私たち自身がこの栄光ある信教に奉仕するためにより高潔にそしてより良い手段となることを望み得るのであります。
37.あなたが手紙の中で尋ねられた個人的な導きに関する質問には、二つの面があります。人々が自分の問題を解決し、自分の行動を導いてもらうために、神に向かい、その援助を求めることは善いことであります。もしそうしたいと望むならば、毎日でもそれを実行してよいのであります。しかし、自分が導きと感じるものを、他の人に、まして行政会や委員会に押しつけてはなりません。バハオラは協議の原則を明確に示され、それ以外のものがそれに替えられるとは、決して述べておられないからであります。
38.守護者は、あなたが他の医者にも相談し、多数の意見に従うように忠告されています。*
*一人の医者は質問者に手術が必要であると云い、別の医者は手術は必要でない、と云っているので、守護者に相談したところ、この助言が与えられた。
39.あなたは、協議会合で、ある題目に関しては、一人のメンバーの意見が他のメンバーより良く
価値があるが、他のメンバーたちはそのような意見を受け入れる準備がないことが時々起こるかも知れないと指摘されました。守護者は、決議に達するまでは、率直に、純粋な動機で協議することが絶対に必要である、と述べておられます。ひと度決断が下されれば、それがたとえ間違ったものであっても、皆、大多数の意見に従い、それを実行に移さなければなりません。
40.私たちは各々異なった考え方をし、誰でも自分の意見を述べる権利があります。しかし、バハイは行政会が多数決によって決定したことを受け入れなければなりません。そして、たとえその決定が間違っていたとしても、その容認と調和が真に重要なのであり、バハイの方法に従って正しく大業に奉仕すれば、神は最終的にはどんな誤りも正されるということを悟らなければならないのです。
41.バハイは行政会の会合で、自分の良心に反して投票する必要はありません。多数意見に従い、満身一致にする方が良いのですが、それは強制されるものではありません。しかし、彼らがしなければならないことは多数決で決議されたことを守ることであります。この多数決こそが効力を発揮するからです。多数決の決定に反対などと言い回って行政会に害を及ぼしてはなりません。つまり、自分の意見ではなく、大業を第一に考えなければならないのです。彼(精神行政会のメンバー)は、行政会にある問題の再考慮を求めることはできますが、行政会がそうしないからといって、強制的にそうさせようとしたり、不和を生みだしたりする権利はありません。満場一致の投票が好ましいのですが、他の団体が用いているような人為的な方法で行政会のメンバーたちにそれを押しつけることは勿論できません。
42.バハイは(発言をした人の)個性を忘れ、一方に味方して争い合おうとする欲望――人間が持っている自然の傾向――に打ち勝つことを学ばなければなりません。バハイはまた、協議という偉大な原則を真に活用することを身につけなければなりません。大業には反対投票というものはありません。行政会の大多数がある事柄を決定すれば、少数派の人もこれを受け入れるべきである、と師は言われています。一人の反対投票を記録するように主張しつづけることは良くありませんし、建設的な目的を成し遂げることもありません。
44.行政会の審議は内密で公開できないものである、という師のことばに照らして、行政会のメンバーでない人が全国精神行政会の会合に出席することはできません。守護者は(ある人がそうすることに対して)残念に思われています・・・他の人たちの名誉と幸福を害するような極めて個人的な問題が、しばしば全国行政会によって取り上げられます。信頼が裏切られる危険は行政会のメンバーでない人を考えるまでもなく、全共同体から選ばれた九人の代表者たちだけでもすでに大きいのであります。この非常に重要な原則を守るためにあなたたちの行政会は、議事録をもう少し手短に、そして、もし必要であれば、少々の能率性を犠牲にしなければならないでしょう。*
*この忠告は、合衆国全国精神行政会が、そのメンバーでない人に審議中に出席し、行政会の決議事項を記録するように頼んでも良いか、という要請に守護者が答えられたものである。これは第二十八の項目にある指示と矛盾するものではない。
4 万国正義院からのメッセージ
45.地方精神行政会は、主として個人の問題に関して、信者の相談に応じる責任を持っています。しかし場合によっては、全国、または、地方行政会が、個人、または、委員会に個人問題の相談や助言を任せた方が望ましいと判断する時があるかも知れません。この判断は行政会に任されています。
46.バハイの協議の精神は、バハイでない団体で、現在一般的に使われている決定方法と非常に異なっています。このことを理解することは大切であります。バハイ協議の理想は、万場一致で決議することです。これができない時は、投票が必要であります。敬愛する守護者は次のように述べておられます。・・・ある決議をしなければならない場合、冷静で真剣、しかも誠意のこもった協議の後で、神に向かって祈り、熱意と確信と勇気をもって投票すべきであります。その後は、多数の意見に従わなければなりません。多数の意見は、真実の意見であり、それは疑われることはなくつねに心より実施されなければならない、と師は述べておられます。ある決議に達した途端、それは行政会全体の決議となり、たまたま多数の側にいたメンバーだけの決議ではなくなります。ある問題が票決に付されるように提案された場合、行政会のメンバーの一人が、分別をもって票を投じる決心をする前に、もっと他の事実や見方があるのではないか、と感じるかも知れません。その人は感じていることを行政会に表明すべきです。そして、行政会は投票に移る前に、これ以上の協議が必要かどうかを決めるのです。ある提案に関して採決することに決まれば、メンバーのうち何人がその提案に賛成かを確認することだけが必要であります。もし出席者の多数が賛成であれば、その提案は可決され、賛成者が少数であれば、否決されます。このように、そもそも「棄権」という問題は、バハイの投票においては起こらないのであります。提案に賛成の投票をしない人は、事実上、それに反対していることになるのです。投票時にその提案に関して決心がつかない、と感じたとしてもです。
1973年2月14日付のバハイ協議の用い方に関するあなたの手舐を受け取りました。これは勿論、融通のきかないやり方を避けなければならない問題であります。信者が決断をしなければならない問題を抱えている時、その人にはいくつかの道が開けています。もしそれが信教の利益に影響を及ぼすものであれば、適切な行政会、または委員会に相談すべきであります。一方、各個人は、さまざまな個人的な問題を持っていますが、そのような問題は信教の機構にもっていく義務はないのです。実際、布教活動が緊急に必要としている現在、バハイの友は自分で解決できる個人的な問題で、行政会に重荷を課せない方がよいのであります。心の中で問題のあらゆる面を十分考慮した後で、自分で解決したいと望むかも知れません。または、個人的な友達や、かかりつけの医者や弁護士のような専門的な助言者に相談して決める時の参考にしたいと思うかも知れません。あるいは、家族関係のように、複数の人々が関わっている場合、全体としての決定が出るように、影響を受ける人たちを全部集めて決定したいと思うかも知れません。また、バハイが自分が直面している問題について、数人の人に、一緒に協議してもらうように要請することには何の異論もありません。すべての協議は問題を解決するのが目的であり、ある団体で近頃流行っている一種の告白に似た心の打ち明け会とは、全<異なることを、心に留めておかなければなりません。告白は信教では禁じられています。告白について、守護者の秘書が彼に代わって、ある信者に次のように書いています。「力トリック教徒が神父に自分の罪や欠点を告白するようなことは、私たちバハイには禁じられています。またある宗派が行なっているような公の場でそうすることも禁じられているのです。しかしながら、自分が間違っていたことや性格に欠点があったことを自発的に認めたいと望み、誰かに許しや詫びを乞いたければ、自由にそうしてよいのです。しかし、守護者が指摘されたいことは、バハイにはそうする義務はないことであります。そうすることは、全く個人に任されているのです。
48.あなたが、手紙の第二文節に引用されている文は、アブドル・バハのある書簡から取られたものであります。それは、あるバハイが精神行政会に相談もせず、その許可も得ず、政府の法律にも従わないで、アクダス書を印刷していた時に、アブドル・バハが一人のバハイにあてられたものです。あなたが引用されているアブドル・バハの指示は、その折りに、そしてその文脈の下に出されたものです。万国正義院は次のように指摘しています。ショーギ・エフェンディが、「バハイ行政」の37ページで地方精神行政会の機能を列挙された際、地方精神行政会に提出されるべき地方の問題は、「大業に関わるもの」である、と述べておられます。これは、もちろん、個人的問題は、バハイ行政会に持ち込んではならない、という意味ではありません。しかし、地方行政会はバハイの友が個人的問題を協議する唯一の機構でも機関でもないのです。そういった協議は、家族の人々、友達.あるいはその面の専門家とすることもできます。たとえば、アブドル・バハは、ある書簡の中で、ある職業の専門家が集まって共に協議する可能性を考えておられるのです。
引用文献
1.今まで翻訳されていなかった書簡より
2.同上
3.同上
4.同上
5.同上
6.バハイ行政p.21
7.質疑応答
8.バハイ行政p,21
9.同上
10.同上p.22-23
11.アブドル`バハの書簡p.508
12.バハイ世界信教p.406
13.同上p.411
14.今まで翻訳されていなかった書簡より
15.同上
16.同上
17.1922年2月15日、守護者からペルシャの全国精神行政会にあてられた手紙に引用されているもの
18.今まで翻訳されていなかった書簡より
19.同上
20.同上
21.アブドル・バハの書簡p.533
22.世界平和の宣布pp.68-70
23.西の星、第八巻、九章p.114
24.バハイ行政p.63
25.同上p.64
26.同上p.79
27.同上p.80
28.1926年10月23日、ショーギ・エフェンディの代理から英国の全国精神行政会にあてられた手紙より
29.1930年11月12日、ショーギ・エフェンディの代理から個人にあてられた手紙より
30.1932年6月16日、ショーギ・エフェンディの代理から個人にあてられた手紙より
31.1933年8月30日、ショーギ・エフェンディの代理から個人にあてられた手紙より
32.1933年11月18日、ショーギ・エフェンディから米国とカナダの全国精神行政会にあてられた手紙の追伸より
33.1935年10月28日、ショーギ・エフェンディの代理から個人にあてられた手紙より
34.1939年4月18日、ショーギ・エフェンディの代理から個人にあてられた手紙より
35.1941年4月23日、ショーギ・エフェンディの代理から個人にあてられた手紙よりペルシャ語から翻訳されたもの
36.1941年11月20日、ショーギ・エフェンディの代理から個人にあてられた手紙より
37.1943年1月25日、ショーギ・エフェンディの代理から個人にあてられた手紙より
38.1945年2月14日、ショーギ・エフェンディの代理から個人にあてられた手紙より
39.1946年1月12日、ショーギ・エフェンディの代理から個人にあてられた手紙よりペルシャ語から翻訳されたもの
40.1947年10月19日、ショーギ・エフェンディの代理から個人にあてられた手紙より
41.1947年10月19日、ショーギ・エフェンディの代理から個人にあてられた手紙より
42.1949年6月30日、ショーギ・エフェンディの代理からドイッとオーストリアの全国精神行政会にあてられた手紙より
43.1950年3月19日、ショーギ・エフェンディの代理から個人にあてられた手紙より
44.1950年7月5日、ショーギ・エフェンディの代理から米国の全国精神行政会にあてられた手紙より
45.1966年3月27日、ボリビアの全国精神行政会にあてられた手紙より
46.1970年3月6日、カナダの全国精神行政会にあてられた手紙より
47.1973年3月19日、カナダの全国精神行政会にあてられた手紙より
48.1975年4月8日、個人にあてられた手紙より