タジャリヤトの書簡(光輝)

 

 

  これは、危難の中の救いであり、御自力で存在し給う神の書簡である。

 

   彼こそは、その「栄光の王国」からお聞きになる御方なり。

 

 神は証言なさる――彼以外に神はいまさず、現れた御方こそは「隠されたる神秘」、「秘蔵の印」、全ての人々の「最高の書」、そして全世界への恩恵の「天」である。彼こそは人々の間の「最も強力な印」であり、創造の王国における最も威厳ある諸々の性質の「夜明け」である。彼を通して、古(いにしえ)より隠され、人間の眼から覆(おお)い隠されていたものが現れた。彼こそは、以前とそして最近の聖天なる「経典」においてその顕現が告げられていた御方である。彼とその印と証言を信じることを認める者は全て、まことに、「壮大の舌」が、天地の創造される前、また名前の王国が啓示される前に発したことを認めるのである。彼を通して、日々の主なる神の命令により、知識の海は人類の間でうねりを上げ、聖なる英知の川が勢いよく流れ出したのである。

 その「真理」を認め理解した眼識力ある者は幸いであり、彼の美しい「声」に耳を傾けた者、そして、この世と次の世の主なる神より生じた決意をもって、彼の「書」を受け取った手は幸いである。また、彼の栄光ある地平線へと急いだ熱心な旅人、そして統治者らの圧倒的な勢力や宗教の指導者たちが起こした騒動にも動揺させられなかった力を授けられた者は幸いである。神の恩恵を拒み、神の慈愛と権力を否定した者は哀れなるかな。かような者はまことに、神の証言と証拠を常に拒否した者として数えられる。

 人々の間で広まっているものをこの「日」に投げ捨て、名前の主にして全創造物の造物主なる神がお命じになったことを固守した者の祝福は大いなるものである。そして神は、地上の全ての権力が彼に抵抗することもできない程の無敵の権威を持って、「最大名」の権力を通して永遠の天からやって来られた。これについては、「最も荘厳なる地位」から呼びかける「母なる書」が証言する。

 おお、アリ・アクバル[1][1]よ!われは汝の声を何度も聞き、全人類の賛美も匹敵できないものをもって汝に答えた――その「もの」を通して、誠実な者らは全てに慈悲深き御方の言葉の甘い香りを吸いこみ、彼の真の愛人たちは天の再会の芳香をかぎ、喉の渇いた者らはまことに命を与える水のせせらぎを聞き取るのである。それを得た者は幸いなり。そして危難の中の救いにして全能で恵み深き神の「ペン」から今、放散されているものを認めた者は幸いである。

汝が、自分の顔を神の方へ向け、神の面前に達し、この「虐げられた者」の声に耳を傾けるまで長い道を旅したことをわれは証言する。そしてこの「虐げられし者」は、神の印と証言を否定し、全世界を輝かせたこの天の恵みを否定した者らの悪行により、投獄された。「彼」の方を向いた汝の顔に祝福あれ。「彼」の声を聞いた汝の耳に祝福あれ。そしてあらゆる主の主なる神の賛美を祝った汝の舌に祝福あれ。神の大業を促進するための旗となるよう汝を恵み深く援助し、常に、またあらゆる条件下で汝が神に近づけるようになし給うよう、われは神に祈る。

その地における神に選ばれし者らと神に愛されし者らは、われにより記憶されている。そしてわれは、「審判の日」の最高の「支配者」である主の発言の「王国」から、彼らに敬意を表して下されたものを、彼らに吉報として授けた。彼らにわれのことを述べ、わが発言の輝かしき栄光にて彼らを照らすがよい。まことに、汝の主は恵み深く、寛大な御方におわす。

 おお、われを賛美する汝よ!わが日々に、残虐な人々がわれのせいにすることに耳を傾けよ。彼らの一部は「彼は神に対して嘘をついた」と言い、さらに別の者らは「彼は不和を広げるためにやって来た」と言う。彼らはまことに卑劣で惨(みじ)めなり。見よ!彼らはまことに、無駄な想像にとらわれてしまっている。

 ここでわれは雄弁な言葉[2][2]を使うのをやめる。まことに、汝の主は強力にして、束縛されることのない御方におわす。われは喜んでペルシャ語で話すことにする。そうすればおそらく、ペルシャの人々は全て、慈悲深き主の発言に気づき、「真理」を見つけるために出てくるであろう。

 

 

 第一の光輝

 

  「真理の太陽」から出でた第一の光輝は神――その栄光に誉れあれ――の知識である。そして永遠なる日々の「王」の知識は、「最大名を持つ者」なる「御方」を認めること以外によって得ることは決してできない。「彼」こそはまことに、今、「啓示」の玉座に座っているシナイの上で話された「御方」なのである。「彼」こそは「隠された神秘」であり「大事にされたる象徴」なのである。あらゆる以前の、そして後の「神の書」は「彼」の賛美によって飾られ、「彼」の栄光を称えるのである。「彼を通して知識の標準は世界に据えつけられ、神の唯一性の旗は世界の人々の間に出たのである。「神の面前」に達することは、「彼」の面前に達することによってのみ実現できる。「彼」の力によって、太古から隠されてきたことは今、明らかにされた。「彼」は「真理」の力によって顕示され、「全能なる御方」の望みによって免れた者以外を除く、天と地の全ての者らを唖然とさせた「言葉」を発したのである。神を真に信じ認めることは、神が啓示なさったことを受け入れ、神が命令し、「栄光のペン」によって「書」の中に示されたことを守ること以外によっては完全とはなりえない。

 「彼」の発言の海に身を浸す者らは常に、神によって啓示された法令や禁止に最大の注意を払うべきである。まことに、「彼」の法令は世界とその人々の保護のための最強の要塞を成すものである――それは、真理を認め認識する者らへの光であり、真理から背(そむ)き、それを否定する者らへの火である。

 

 

    第二の光輝

 

 第二の光輝は、神――「彼」の栄光に誉れあれ――の大業において不動であり、神の愛において確固としていることである。そして、これは神を完全に認めること以外を通しては達成できない。さらに完全に認めるということは、「彼は望むままになし給う」という神聖なる言葉を信じない限り、達成できない。この荘厳なる言葉にしっかりとしがみつき、その内に本来備わっている発言の活水を飲み干す者は皆、「母なる書」以外の世界中のいかなる書物にも頼らずにすむ程の堅忍不抜の精神を与えられるであろう。ああ、この荘厳なる地位、この高貴なる地位、この究極の目的は何と栄光に満ちたことか!

 おおアリ・アクバルよ!不信心な者らの状態がいかに惨めなものであるかを考えてみよ。彼らはみな次のような言葉を発する――「まことに『彼』は『彼』の行いにおいて賛美さるべきで、『彼』の命令において従われるべきなり」。それにもかかわらず、もしわれがほんの少しでも彼らの自分勝手なやり方や欲望に反することを啓示するなら、彼らは横柄(おうへい)にもそれを拒むのである。言挙げよ、神の最高の英知の様々な必要条件については、誰も知ることができない。まことに、もし神が地を天であると告げられたとしても、誰も神の権威を疑う権利はないのである。これが、夜明けをもたらされた御方なる神の命令によってまことに、「バヤンの点」に下された全てのことについて、「バヤンの点」が証言したことである。

 

 

    第三の光輝

 

 第三の光輝は、技術や技能や学問に関することである。知識は人間の生命の翼のようであり、人間が上昇するための梯子(はしご)のようである。知識の習得はあらゆる者の義務である。しかしながら、言葉に始まり言葉に終わるような学問ではなく、世界の人々のためになるような学問を習得すべきである。科学者や技術者たちが世界の人々に主張することは、まことに偉大なものである。これについては、「母なる書」が「彼」の再来の日において証言する。聞く耳を持つ者らは幸いである。まことに、知識は人間にとって正真正銘の宝であり、人間の栄光と喜びと高揚と慰め、そして歓喜の源である。この「最も偉大なる牢獄」において「壮大の舌」はかくのごとく語った。

 

 

    第四の光輝

 

  第四の光輝は神や神性などに関する。もし洞察力ある者が、祝福された「ロートの木」とその実の方へ視線を向けるならば、その者はそれによって非常に豊かになる。それ故に、他のそれ以外の全てのものから独立し、シナイ山の上で話した「者」が「啓示」の玉座から発したことを信じることを認めるであろう。

 おおアリ・アクバルよ!人々を汝の主の聖句なる節に精通させ、主の強力な「告知」である「彼」が説く一直線の「道」について彼らに知らせよ。 おお人々よ、もし汝ら、公正かつ公平に判断するなら、「最も高貴なるペン」から流れ出でたあらゆることの真実性について証言するであろう。もし汝ら、バヤンの人々であるなら、ペルシャ語のバヤンが汝らにとって十分な証明となるであろう。もし汝ら、コーランの人々であるなら、シナイ山の上での「啓示」と、「柴」からイムランの「子」[モーセ]に発された「声」について熟考せよ。

 何ということか!「唯一の」真なる神が啓示された時には、神を認める能力が発達し、成熟し、またその最高の状態を維持するにようにと意図されていたにもかかわらず、不信心な者らにとってはこの能力は未発達にとどまり、むしろ退化してしまったことが今や明らかに実証された。

 おおアリよ!彼らが「柴」から受け入れたことを、彼らは今、生存の世界の「樹」なる「御方」から受け入れるのを拒んでいるのである。言挙げよ、おおバヤンの人々よ、情欲や自分勝手な望みの命ずるままに語るなかれ。地上の大部分の人々は「柴」から出でた、祝福されし「言葉」の真実性について証言するのである。

 神の正義にかけて誓う!神の「啓示」の先駆者であった「彼」が発した賛歌がなかったら、この「虐げられた者」は、無知なる者らの心をおののかせ、滅ばせるような言葉を発したりはしなかったであろう。神が顕示し給う「御方」――「彼」の顕示に誉れあれ――を賛美すべく、バブはバヤンの初めにおいてこう書いておられる――「彼こそはあらゆる状況においてこのように宣言なさる『御方』なり――『まことに、まことにわれこそは神なり、全創造物の主なるわれ以外に神はいまさず。まことに、われ以外の全てのものはわれの創造物なり。おお、わが創造物よ!汝ら、われのみを崇拝せよ』」。同じ様に、顕示し給う「御方」の「御名」を称えて、別のおりにバブはこう書いておられる――「われは、彼を崇拝する最初の者であろう」。さて、「崇拝する者」と「崇拝される者」の意義について熟考すべきである。そうすれば、おそらく地上の人々は、神の知識の海からひとつの雫(しずく)をいただき、この啓示の偉大さを理解することを可能にさせられるであろう。まことに、「彼」は現れ、「真理」を宣言するために舌を緩(ゆる)めたのである。真理を本当に認める者は幸いであり、片意地で強情な者は哀れなるかな。

 おお地上の親族たちよ!世界を覆う聖なる「ロートの樹」から発される「声」に汝らの耳を傾けよ、そして地上の残虐な人々――神の顕示者とその無敵の権威を否定し、神の好意を受け入れなかった者ら――とはなるな。そのような者らこそはまことに、全人類の主なる神の「書」において卑劣なる者らとして見なされている。

 わが優しき慈愛の地平線の上に輝く「栄光」は、汝の上にあり、汝とともにある。また、栄光に満ち、全能の「御方」なる神の大業に耳を傾けるあらゆる者の頭上にある。 

 




[1][1] ヤズードにいた忠実な信者のひとり。彼はイシュガバードのマシュレゴウル・アズカルをデザインし、それはアブドル・バハによって承認された。彼は1903年に殉教した。(英語訳注)

 

[2][2] アラビア語(英語訳注)