あるイスラム神学者に向けた言葉

 

 

おおアブドス・サへブよ!誠に神と、すべての創られしものは、全能者であり最愛なる御方であるわれ以外に神はいないことを証言する……

汝の視界はムハンマドの到来をもって神の啓示が終了したとの所信により遮られている。このことはわが最初の書簡にてわれが証言している。実際に神の使徒ムハンマドに聖句を啓示した者はアリー・ムハンマドにも聖句を啓示している。学識者たちをも圧倒するほどの明瞭で明快な聖句を人に啓示できるものが神以外にいようか。汝は神の使徒ムハンマドの啓示を認めている故、「最初の点」が啓示したものも、危難の中の御救いに在し、御自力にて存在し給う御方である神より発したものであることを認める以外に汝に道は開かれていない。コーランは神が下さったものであり、誰もがその啓示の前においては無力であることは事実ではないか?同じようにこれらの言葉も神により啓示されたものである、汝、認知しさえすれば。バヤンの中の何が、汝をしてこれらの聖句が、得難い御方、最も崇高なる御方、栄光に満ち給う御方である神により送られたものであるということを認めることから引き留めているのか。

これらの言葉の真髄はこれである。もしわれが汝を審判にかけたとすれば、汝が提示し得る成果は何もないことを証明するだけである。われは誠にすべてを承知している。もし汝が神の言葉を聞いたとたんに「然り」と答えていれば、始まりのない始まりから今日に至るまで神を崇め続け、瞬きの間でさえも彼に背くことなどなかったものと見なされたであろう。しかし、汝が生涯を通じて行った高潔な行為も、神の御心以外のすべての思いを心から追放する努力も、実に何一つとして、辛子の種一粒程でさえも汝の為にはならなかったのである。何故ならば、汝は彼の出現のときに神から自らを遮り、躊躇したからである。

誠にカーフ[クーフェ]の地におけるすべての神学者は汝と同様に「啓典と共に使者が汝に遣わされたにもかかわらず、汝は自らが無力なことを認めながらも彼がもたらした神の信教に従うことを拒み、自らの不信仰に固執し続けるなど、奇妙と思わないのか」と神に問われることになる。よって、汝は彼らの指導者であるが故に、汝にはその地において神に背いた者のために準備された火が与えられる。汝が耳を傾ける者であらんことを。

もし汝が神の定めに忠実に従っていれば、汝の領土における住民は皆すべて汝に従い、彼らもまた自ら天上の楽園に入り、未来永劫に神の御心に満足したことであろう。しかし、神が汝を創造してさえいなければと汝はその日に望むことであろう。

汝は信者を助けようとの思いで自らをイスラムの教えの学者として身を立てた。しかし、汝は信者を火の中に降下させた。それは神の句が下されたときに、汝自信をそれから隔離しながらも、公正な者の内に自らを数えたからである。……否、神が顕わし給うであろう御方の命に懸けて誓う汝であろうが、また神のしもべらの内の誰であろうが、最低限の証拠すらも挙げることはできない。一方、神は彼の創造物を超えてまばゆく輝き、彼の命令の力により天と地とその間に住むあらゆるものの上に君臨し給う。誠に彼はすべての創造物にも勝る力を持ち給う。

 汝は自らをアブドス・サへブ[主のしもべ]と称している。しかし、実際に神が汝の主を顕し、汝は汝自らの目を彼に据えながらも、彼を認めなかった。神は汝を彼の御前に到達する目的で存在するよう呼び起こしているにも関わらず。「雷鳴」[1]の章の第三節を誠に信じていたならば。

汝は「反駁できない証拠に過ぎない言葉しか聞いていないのに彼をどのようにして認めることができるのか」と主張する。汝はコーランを通して神の使徒であるムハンマドを認め、認識したわけであるから、「彼のしもべ」と自らを呼ぶにもかかわらずいかにして啓典を汝に送ったその彼を認めることを拒むのか。まことに、彼は全人類への啓示において明白な権力を行使するものである。

神聖なる啓示がわれに下されているうちに汝がわれに来るのならば、神は汝の火を光に変えるであろう。誠に彼は常に許し給い、最も寛大なる御方である。そうでなければ既に啓示されたものは決定的で最終的であり、復活の日まで全ての者により誠実に維持されるのである…。もし神聖なる啓示が止まれば、汝は神が顕わし給うであろう御方に嘆願書を書き、彼にそれが届くように懇願すべきである。その中で汝は汝の主の許しを請い、悔い改めて彼に向かい、完全に彼に献身する者らの内の一人とならなければならない。神は次の復活の際に汝の火を光と変えるであろう。彼は誠に擁護者であり、保護者であり、最も崇高なる御方、常に許し給う御方である。天と地とその間にある全てのものは彼を崇めるためにひれ伏し、すべては彼の元に戻るのである。

われは汝自らとその土地のすべての住民を火から救い、そして唯一無二であり崇高なる楽園である彼の御心に入るよう申しつける。さもなくば、汝が滅びて火に入る日が近づきつつあり、その時汝には、神からの擁護者も援助者もなかろう。汝はわれと関わっている故、われからの恩寵の印としてわれは汝に哀れみをかけている。誠にわれはすべてを認知している。われは汝の良き行いをも認識しているが、それは汝にとって何の得にもならないであろう。それというのも、そのような善行の全目的は汝の主である神を認識することと、彼により啓示された御言葉に対し疑いもない信仰心を抱くこと以外の何ものでもないからである。

 



[1] コーラン13