第二部 

キリスト教に関する問題

 

十六、知的概念を伝えるためには、外面的形式や象徴を使わなければならない

 

問題の核心を理解したり、これまで述べて来た質問や、これから話す事柄を認識するために重要な主題はこれです。即ち人間の知識には二種類あるということです。一つは感覚よって知覚できるものの知識です。即ち目、耳、匂い、味、触わることで知覚できるもの、いわゆる客観的とか知覚され得る物と呼ばれているものです。太陽は見ることができますから、客観的であるといわれます。同様に音は、耳で聴くことができますから、知覚され得る実在です。食べ物は味覚がその甘さ、すっぱさ、塩からさを知覚しますから、感じることのできるものです。熱や冷たさは感覚で感じるものですから知覚できるものです。これらは知覚することのできる実体と言われています。

人間の知識のもう一つは知的なものです。即ち、知性の実体です。それは外面的な形も場所もなく、五感で捕えることはできません。例えば、知性の力は実体のあるものではありません。反対にそれらは知的な実体です。ですから愛は精神的な実体であり、五感で捕えられるものではありません。この実体は耳で聴くことも、目で見ることも、匂いをかぐことも、味わってみることも、触わって感じることもできません。エーテル様の物質についても、その力は物理学上、熱、光、電気、磁気と呼ばれているのですが、それは知的実体であって、知覚され得るものではありません。同様に自然もまたその本質において知的実体であって、知覚し得るものではありません。人間の精神も知的であり、実体のあるものではありません。これらの知的なものを説明するには、それらを表現するために、感覚的形をとることを余儀なくされます。なぜなら、外的存在は全て物質的なものだからです。ですから、精神の実体、状態、地位を説明するためには、知覚できる物の形をとって説明することを余儀なくされます。外界では存在するものは全て知覚し得るものだからです。例えば、悲しみと幸福は目に見えないものです。これらの精神的なものを表現したい時には人間の心は圧迫されたり、大きく広げられたりすることもないのに、「私の心は圧迫される。私の心は大きく広げられる。」と言います。これは知的または精神的状態で、それらを説明するためには、感じることのできる形にたよらなければなりません。また他の例でいえば、人が同じ場所にいるのに「そのような人は、大きな前進をする。」とかまた「そのような人は、高められる。」とかいいます。その人は他の人と同じように地上を歩くのですが。この高めることと、この前進は精神的な状態であり、知的実体です。しかし、それらを説明するためには、知覚的形にたよることを余儀なくされます。外界では知覚できないものはないからです。

知識の象徴は光であり、無知の象徴は闇です。しかし考えてみてください。知識は知覚し得る光でしょうか。無知は知覚し得る闇でしょうか。いいえ、それは単なる象徴に過ぎません。しかし外面的に表現しようとすれば、知識は光と呼び、無知を闇と呼ぶのです。「私の心は暗かった。そして明るくなった。」というふうに言います。そこで知識のその光と、無知のその暗さは、知的な実体であって、実体のあるものではありません。しかし外界で説明しようとする時には知覚できる形を与えることを余儀なくされます。

それで、キリストに降りた鳩は物質的な鳩ではなく、精神的状態であったことが明らかです。それが認識され得るように、実体のある形で表現されました。このように旧約聖書では、神は火の柱として現われたと言われていました。それは知覚し得るイメージによって表現された知的実体です。

キリストは言っています。「父は子の中にあり、子は父の中にある。」キリストは神の中にあったのか、あるいは神はキリストの中にあったのか、いいえ、絶対にそうではありません。そうではなく、知覚することのできる形で表現された知的状態です。

バハオラが言われた言葉の説明に移りましょう。「おお国王よ。私は他の人間と同様に単なる一介の人間に過ぎなかった。しかし私が長椅子の上で眠っているとき、突然、全く栄光ある神の微風が我が身を吹き抜け永遠の昔から続いて来た全ての知識を私に教えた。この知識は、私個人からのものではなく全知全能なるものから伝えられる言棄である。」 

これは顕示者の地位です。それは感じ得る実体のあるものではありません。それは知的実体であり、時、過去、現在、未来から免除され、解放されています。それは説明、直喩、隠喩であり、文字通りに受け取られるものではありません。それは人間によって認識され得る状態ではありません。睡眠と覚醒は、一つの状態からもう一つの状態へと移り変わります。睡眠は休息の状態であり、覚醒は活動の状態です。睡眠は沈黙の状態であり、覚醒は演説の状態です。睡眠は神秘の状憩であり、覚醒は顕示の状態です。

例えば、ペルシャ語やアラビア語の表現では、地球は眠っていた。そして春が来た。それは目覚めた。または地球は死んだ。そして春が来た。それは生き返ったといいます。これらの表現は隠喩であり、寓話であり、言葉の世界での神秘的表現です。

要するに、聖なる顕示者たちは今までも、これからも輝く実体であり、彼らの本質にはいかなる変化も変型も起こりません。顕示を宣言する前には、彼らは沈黙しており、眠っている人のように静かです。そして顕示のあとでは、彼らは話し、輝かされ、目覚めている人のようです。

 

十七、キリストの誕生

 

質問 キリストは、どのようにして、精霊から生まれたのですか

 この質問について、神学者と唯物論者は意見が合いません。神学者は、キリストは精霊から生まれた事を信じていますが、唯物論者は、このことは不可能であり、認められないと考え、疑いなくキリストには父親がいたと信じています。

コーランには次のように言われています。「そして我は精霊を彼女に送った。彼は完全な人の型となって彼女の中に現われた。」この意味することは、あるイメージが鏡の中に作られるのと同じように、精霊は人間の形に似せて作られるように、マリアにゆだねられたということです。

唯物論者は、結婚があったにちがいないと信じ、生きものは、命のないものからは作られず、雄と雌なしには受胎はあり得ないと言っています。そして人間ばかりでなく、動物や植物においても不可能であると考えています。この雌雄の結合は、すべての生き物や植物にあります。この対をなす考え方はコーランにも示されています。

「地上に生えるもの、彼ら自身、および彼らの知らないものことごとくを、雌雄の対として創造したもうたお方を讃えまつれ。つまり、人、動物、植物はすべて対をなしている。――そしてあらゆる物には二つの種類を作った。――つまり、我はすべての存在するものを対になるべく作ったということです。

要するに、父親がない人は考えられないと唯物論者は言っています。それに答えて神学者はこう言います。「このことは不可能でもなければ実現できないことでもない。しかしそれは今までみられなかっただけである。不可能なことと知られていないこととは大きな違いがある。例えば、以前には東西の意志伝達をさせる電信は知られていなかったが、不可能ではなかった。写真、蓄音器も知られていなかったが不可能ではなかった。」

唯物論者は、その考えに固執し、神学者は答えます。「この地球は永遠であるか、有限なものか。」唯物論者はこう答えます。「科学と重大な発見によればそれは有限なものであることが確立されている。最初それは燃えるように熱い有限な球であった。序々に温暖になり、割れ目がそのまわりにでき、その上に植物が現われ、次に動物、そして最後に人が存在するようになった。」と。神学者は言います。「あなた方の発言から、人類は地球上で有限であり、永遠のものではないことがはっきりする。それならば、最初の人は父も母もなかったことになる。なぜなら人の存在は有限なものであるから。父母なしでの人間の創造は、序々であるとしても、単に父なしで人間が存在するようになったことより困難なことではないのか?あなた方は父母なしに最初の人は存在するようになったことを認めたのであるから。それが序々であるか又は同時であるにしても人間の父のない人もまた可能であり、認め得ることは疑問の余地はない。これを不可能と考えるわけにはいかない。さもなければ論理的ではない。例えば、このランプは芯も油もなしに灯ったといって、次に芯なしで火をつけることは不可能であるという。これは論理的ではない。」キリストには母があったが、最初の人は唯物論者が信じるように、父も母もなかったのです。

 

 

十八、キリストの偉大さはその美徳による

 

偉大な人は人間の父から生まれたか、生まれなかったかにかかわらず、偉大な人です。もし父なしであることが美徳であるならば、アダムはすべての預言者や使者より偉大で、はるかに優れていることになります。なぜなら、彼は父も母もなかったからです。名誉と偉大さの根拠となるものは、神の美徳の輝きと恵みです。太陽は父と母にたとえることのできる物質と形から生まれました。そしてそれは完全な美徳です。しかし、闇は物質も形もなく、父も母もなく、それは全くの不完全です。アダムの肉体の物質は土です。しかしアブラハムの物質は純粋な精子です。純粋で汚れのない精子は土より優れていることは明らかです・

さらにヨハネの福音書の第一章十二、十三節にこう述べられています。『しかし、言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。』(黙示録1:12)「この人々は血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネの黙示録1:13)

これらの節から、弟子の存在もまた肉体の力によって作られたのではなく、精神的な実体によって作られたことが明らかです。キリストの名誉と偉大さは、人間の父を持たなかったという事実にあるのではなく、その美徳、恵み、神の栄光によるのです。キリストの偉大さが、その父を持たないことにあるとしたら、アダムの方がキリストより偉大であることになります。彼には父も母もなかったからです。旧約聖書に述べられています。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」アダムは命の精神から存在するようになったと述べられていることを考えてください。さらに、ヨハネが弟子に関して使った表現は、彼らもまた天なる父からきたことを証明しています。ですから、すべての偉大な人の真の存在を意味している聖なる実在は、神から来たのであり、その存在は聖霊の息吹によっていることは明らかです。

主旨はこうです。もし父親がないことが、人間の最高の栄光であるとすれば、アダムは誰よりも偉大であるということになります。彼には父も母もなかったのですから。人が生きている物質から作られることは、土から作られることよりも良いことでしょうか?人が生きている物質から作られていることはより良いことであることは確かです。しかし、キリストは精霊から生まれ、存在するようになりました。

結論をいいますと聖者や神の顕示者の輝きや名誉は彼らの天なる美徳、恵み、栄光より来るのであって、他の何物からでもないということです。

 

十九、キリストの洗礼

 

質問 マタイの福音書の三章十三、十四、十五節にこう述べられています。

そのときイエスがガラリアからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネはそれを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのにあなたがわたしのところへ来られたのですか。」しかしイエスはお答えになった。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは我々にふさわしいことです。」そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。

これにはどんな英知があるのですか。キリストはすべての必要な美徳を持っているのになぜ洗礼が必要なのですか。

 洗礼の原理は後悔による浄化です。ヨハネは人々に忠告し、熱心に勧め、悔い改めるようにさせました。そして彼らに洗礼を施しました。ですから、この洗礼はすべての罪からの後悔の象徴であることは明らかです。その意味は次のことばに表わされています。「神よ。私のからだは、肉体的不純から浄化され、清められました。同じように、私の心を自然界の不純から浄化し聖別してください。自然界はあなたの和合の敷居にふさわしくありません。」後悔は、服従への不服従からの復帰です。人は神からの疎遠と喪失の後、後悔し、浄化を受けるのです。そしてこれは「神よ、私の心を善良で純粋なものとなしたまえ、あなたの愛以外のものから解放し、聖別したまえ。」を表わしている象徴です。

キリストはヨハネのこの制度を当時のすべての人にしてもらいたいと思い、人々の目を覚まし、以前の宗教の法律を完成するために、彼自身それに従いました。後悔を洗い清めることは、ヨハネの制度でしたけれども、事実、それは以前に神の宗教において実施されていました。

キリストには、洗礼は必要なかったのですが、当時においては、それは受け入れられるものであり、賞讃すべき行為であり、神の王国の吉報のしるしであったので、彼はそれに従いました。しかし後に彼は、真の洗礼は物質的な水でするのではなく、精霊と水とでなされなければならないと言いました。この場合、水は物質的水を意味しているのではありません。というのは、洗礼は精神と火でなされるとほかのところにはっきりと述べられているからです。このことから、その意味は物質的な火や物質的な水ではないことがはっきりします。火による洗礼は不可能だからです。

ですから、精霊は、神の恩恵であり、水は英知と命であり、火は神の愛です。なぜなら物質的水は、人の心を浄化しないからです。いいえ、それはからだをきれいにするものです。しかし英知と命である天の水と霊は、人間の心を善良にし、純粋にします。神の精神の恩恵の分け前を受け取った心は聖別され、善良になり、純粋になります。つまり人間の本質は、自然界の汚れから浄化され、純粋にされるのです。これらの自然な汚れは悪い性質です。怒り、強い欲望、物欲、自尊心、虚言、偽善、詐欺、自己愛等々。人は、精霊の助けによらなければ、肉欲の熱精の激しさか逃れられません。そういうわけで彼は霊と水と火による洗礼が必要といったのです。そしてそれは欠くことのできないものです。即ち、神の恩恵の霊、英知と命の水、神の愛の火です。人が永遠の恩恵によって満たされるためには、この霊、この水、この火によって洗い清められなければなりません。さもなければ、物質的水によって洗礼をすることは何なのでしょう。いいえ、この水による洗礼は後悔の象徴、罪のゆるしを求める象徴なのでした。しかしバハオラの周期では、もはやこの象徴は必要ではありません。神の精神と愛によって洗い清められるべきであるという、その本質が理解され、確立されたからです。

 

二十、洗礼の必要性

 

質問 洗礼による洗浄は有用で必要なものですか。それとも無用なものですか。

前者の場合、それが有益であるならば、なぜ廃止されたのですか。そして後者の場合、それが無益であるならば、なぜヨハネはそれをしたのですか。

 状態の変化、交代、変形は存在する物の本質にとって絶対避けられないものです。そして本質的必然性は、事物の実体から分離することはできません。例えば、火から熱を分離すること、水から湿気をとること、太陽から光をとることは絶対に不可能です。それらは必要不可欠な必然性です。状態の変化と変更は存在するものに絶対必要なものです。ですから、時の変化と交代に従って法律もまた変化し、変更されます。例えばモーゼの時代には、彼の法律はその時代に従い、適応させられました。しかしキリストの時代には、これらの状態は非常に変化したのでモーゼの法はもはや人間の必要に適合、適応しなくなりました。それでモーゼの法は廃止されました。キリストが安息日を破り、離婚を禁止したのもその理由でした。キリストの後、ペトロとパウロを含む四人の弟子たちは、聖書に禁じられている動物を食べることを許しました。ただし絞め殺された動物、偶像に供えられた動物、動物の血を食べることを除いていました。彼らはまた姦淫も禁じました。彼らはこの四つの戒律を維持しました。その後、パウロは絞め殺された動物、偶像に供えられた動物、動物の血を食することさえも許しました。そして姦淫の禁止だけを維持しました。それでパウロはローマの信徒への手紙の十四章十四節にこう書きました。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。」

またテトスヘあてたパウロの手紙の一章十五節にもこうあります。「清い人にはすべてが清いのです。だが汚れている者、信じない者には何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。」

さて、この変化、変更、廃止はキリストの時代をモーゼの時代と比較することが不可能であることにかかっています。新しい時代の状態や必要性は全く変化し、変質します。ですからそれ以前の法律は廃止されるのです。

世界の本質は、人の本質に例えることができます。予言者や神の使者たちは熟練した医師に例えられます。人間の状態は一つの状態にとどまることはできません。さまざまな病気が生じ、それらにはそれぞれの治療法があります。熟練した医師はいろいろな病気を治すために、同じ薬を与えはしません。その病気と容体の異なった必要性に応じて、治療法や薬を変えます。高熱によってひどい病気になった人には、熟練した医師は熱をさます治療をするでしょう。またある時にはこの人の状態は変化して、熱が寒気に置きかわればその医師は熱をさます薬をやめて、暖かにする薬の使用を許すでしょう。この変化と変更は、患者の状態によって要求されます。そしてそのことは医師の熟練のはっきりした証明です。

旧約聖書の法律が、この時代に強制できるかどうか考えてください。いいえ絶対にできません。それは不可能であり、実施できることではありません。だからこそ、確かに神はキリストの時代に、旧約聖書の法律を廃止したのです。また洗礼者ヨハネの時代に、洗礼は人々にすべての罪を悔い改め、キリストの王国の出現を見守るために、目覚めさせ、忠告するために使われました。しかし現在アジアでカトリックやギリシャ正教は、生まれたばかりの子供をオリーブ油をまぜた水の中に突っ込みます。そして多くの子がショックから病気になります。洗礼の時、子供はもがき不安になります。また別のところでは神父は洗礼の水をひたいに散らします。前者の形式からも後者の形式からも、子供たちはいかなる精神的利益も引き出しません。それならばこの形式からどんな結果が得られるのでしょう。他の人々は驚き、なぜ幼児を水の中に突っ込むのか不思議に思います。これは子供の精神的覚醒のもとにも、信仰の転向のもとにもなりません。それは守られてきた習慣にすぎないのですから。洗礼者ヨハネの時代には、そうではありませんでした。はじめヨハネは、人々が罪を悔い改め、キリストの顕示を待望する希望で満たされるように、人々に熱心に勧めたのでした。洗礼の洗浄を受けた人は誰でも、完全な謙遜と従順の気持ちで、罪を悔い改めましたし、からだも外の汚れから浄化し、清めたのでした。強い熱望を持って、彼は日夜、キリストの顕示と神の精神の王国へ入ることを待ち続けたのでした。

要約しますと、状態の変化と変形、異なる世紀と時代の変化した要求は、法律の廃止の原因となるということです。法が状況にふさわしいように適応されない時が来るからです。

世紀初めと中世と現代との必要性はいかに大きく変わっているか考えてください。世紀初めの法を現在に強制することは可能でしょうか。それは不可能であり、実施できないことは明らかです。同じように、数世紀過ぎれば現代の必要性は、未来のそれらと同じではないでしょう。そこには変化と変更があることは確かです。ヨーロッパでは、法律は絶えまなく変更され、変形されています。過去において、ヨーロッパの組織や制度にはどれほど多くの法律があったことでしょう。そしてそれらは今や廃止されているのです。これらの変化や変更は思考や状況や習慣の変形、変化によるのです。もしそうでなければ人間社会の繁栄は打ち砕かれたことでしょう。

例えば五書には、安息日を破った者は死刑にするという法律があります。これらの法律を私たちの時代に維持することは可能でしょうか。絶対不可能であることは明らかです。結論として、法律には変化と変更があり、それらは神の崇高な英知の十分な証拠であるということです。

この主題には熟考が必要です。そうすればこれらの変化の原因が明らかになるでしょう。

深く考える者に祝福あれ!

 

二十一、パンとぶどう酒の象徴するもの

 

質問 キリストは言われました。「わたしは天から降って来たパンである。これを食べる者は死なない。」この意味は何ですか。

 このパンは天の食物と神の美徳を表わしています。ですから「このパンを食べる者は誰でも」ということは天の恩恵を得るものは誰でも、神の光を受け取るか、またはキリストの美徳に参加し、それを獲得し、それによってその人は永遠の命を得るということです。また血は命の精神と神の美徳、主の壮麗さ、永遠の恩恵を表わしています。からだのすべての器官は、命のもとになる物質を血の流れから得ているからです。

ヨハネの福音書の六章二十六節に書かれています。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

弟子たちが食べて満腹したパンは天の恩恵であることは明らかです。というのは同じ三十三節に述べられています。「神のパンは天から降って来て、世に命を与えるものである。」キリストのからだは天から降って来たのではなく、マリアの子宮から来たことは明らかです。そして天の神から降ってきたものはキリストの精神です。ユダヤ人は、キリストは彼のからだについて話していると考えて反対を唱えました。同じ節の四十二節にこう述べられているからです。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」

キリストが天のパンによって意味しているものは、彼の精神、彼の恩恵、彼の美徳、彼の教えであることは、いかにはっきりしたことであるか考えてください。なぜならそれは、六十三節に述べられています。「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。」

ですから、キリストの霊は、天から降って来た天の恩恵です。その霊から豊富に光――つまり天の教え――を豊かに受け取った者は誰でも皆、永遠の命を見い出します。それが、三十五節に述べられている理由です。「イエスは言われた。わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」「彼のもとに来る」ことを彼は食べること、「彼を信じる」ことを飲むことと表現しています。ですから、天の食物は神の恩恵、精神的輝き、天の教え、キリストの普遍的意味であることは明らかですし、確立されています。食べることは彼に近寄ること、飲むことは彼を信じることです。なぜならキリストは自然のままのからだと天の形を持っていたからです。生来の自然のままのからだは十字架にかけられましたが、天の形は生きており、永遠であり、永遠の命のもとです。前者は人間としての性質がありましたが、後者は神の性質です。ある人たちは、聖餐式はキリストの本質であり、神と精霊がその中に降りてきて存在していると考えています。そこでいったん聖餐式がなされるとすぐにそれは簡単になくなり、完全に変化します。ですから、どうしてそのような考えを思いつくことができるでしょうか。そんな事はありませんように!それは全くの空想です。

結論を申しますと、キリストの顕示を通して永遠の恩恵である神の教えは外に広まり、導きの光は輝き出し、命の精神は、人間に授与されました。導きを見い出した者は誰でも皆生き、導きを見失なっている者は皆、永遠の死によってとらわれました。天から降って来たパンは、キリストの聖なるからだであり、彼の精神的要素でした。弟子たちはそれを食べ、それによって、彼らは永遠の命を得ました。

弟子たちは、キリストの手からたくさんの食事をとりました。なぜ最後の晩餐だけが他のものと区別されたのでしょうか。この天のパンは物質的パンを表わしているのではなく、むしろ、キリストの精神的からだの神の栄養であり、弟子が共にあずかった神の恩恵であり、それによって彼らは満たされました。

同じように、キリストがパンを祝福して弟子に与え、「これは私のからだである。」(マタイ26:26)といいながら、彼らに恩寵を与えた時のことを考えてみてください。キリストは、彼らの目の前に、人の形をして存在したのです。彼はパンとぶどう酒になっていたのではありません。もし彼がパンとぷどう酒に変わっていたのなら、彼は、人の形をして弟子たちの前にはいられなかったはずです。

ですから、パンとぶどう酒は次のことを意味している象徴であることがはっきりします。私はあなた方に私の恩恵と美徳を与えました。そしてこの恩恵を受け取れば、永遠の命を与えられ、あなたの取り分と天の食物の分け前にあずかります。ということです。

 

二十二、奇蹟

 

質問 キリストによって奇蹟がなされたということが記録されています。これらの奇蹟は、真実、文字通りに受け取られるべきでしょうか。あるいは、ほかの意味があるのですか。正確な科学の証明するところによれば、ものの本質は変化せず、またすべてのものは一つの普遍的法則と機構の下にあり、それからはずれることはできない。それゆえ普遍的法則に反することは不可能であるということですが。

 聖なる顕示者たちは奇蹟の源であり、驚くべきしるしの創始者です。彼らにとっては、どんなに難しく、実行不可能なことも可能であり、たやすいことです。超自然的力によって、彼らは不思議なことを現わしました。そして自然を越えたこの力によって彼らは自然界に影響を及ぼします。すべての顕示者から驚くべきことが現われました。

しかし聖なる書の中で、特別な用語が採用されています。顕示者にとっては、これらの奇蹟や、すばらしいしるしは重要ではないのです。彼らはそれらを言うことさえも望みません。なぜなら、たとえ私たちが奇蹟を偉大な証明と考えるとしても、それでもそれらは奇蹟が演じられた時にいた人たちにとって証明と証拠であるにすぎず、そこにいなかった人には証明にもならないからです。

例えばモーゼやキリストの探究者や異教徒に驚くべきしるしのことを話しても、彼らはそれらを否定して言うでしよう。「多くの人の証言によって、すばらしいしるしが偽りの神々について常に語られている。そして、それらは本の中に断言されている。バラモン教徒は梵天によるすばらしい驚異について本を書いた。」またこうも言うでしよう。「ユダヤ教徒とキリスト教徒は真実を話し、バラモン教徒はうそをつくとどうしてわかるのか。どちらも認められた伝承であり、本に集められたものであり、真実とも偽りとも考えられる。」と。他の宗教についても同じことが言えます。もし一つが正しければ、すべては真実です。もし一つが受け入れられるならばすべてが受け入れられなければなりません。ですから奇蹟は証明にはなりません。それらは、居合わせた人たちには証明であるとしても、居合わせなかった人にとっては証明にはなりません。

しかし、顕示者の時代には、洞察力を持った人々は、顕示者のあらゆる状況が奇蹟であることを理解します。彼らは、他のすべての人に優っており、このことだけで完全な奇蹟であるからです。キリストは、孤独で、たった一人で援助者も保護者もなく、軍隊もなく、激しい抑圧のもとで、世界のすべての人々の前に神の旗を掲げました。そして彼らを凌ぎ、ついにはすべてを征服しました。外面的には彼は十字架にかけられましたが。これは、決して否定できない本当の奇蹟です。キリストの真実についてこれ以上の証明は必要ありません。

真実を求める人々にとっては、外面的な奇蹟には重要性はありません。例えば盲人が視力を得たとしても結局は彼は再び視力を失ないます。なぜなら彼は死んで、すべての感覚と力を奪われるからです。ですから盲人を見えるようにすることはそれ程重要なことではありません。この視力は結局は消えてしまうからです。もし死人のからだが生き返らせられるとしても、何の役に立つのでしょうか。そのからだは再び死ぬのですから。しかし理解と永遠の命――つまり、精神的で神聖な命を与えることは重要なことです。

なぜならこの肉体的命は不死ではありませんし、その存在は無に等しいからです。それはキリストが弟子の一人に言ったことです。「死んでいる者たちに、死者を葬らせなさい。」(マタイ8:22)なぜなら「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。し(ヨハネ3:6)からです。 

外見上肉体的に生きた人をキリストは死人とみなしました。命とは、永遠の命のことであり、存在とは真の存在をさすものだからです。聖書で死人を立ちあがらせることを許すと述べられているところはどれも、死人は永遠の命によって祝福されるという意味です。盲が視力を得たといわれているところは、彼は真の知覚を得たという意味です。耳の聞こえぬ人が聴力を得たというところは、彼は精神的な天の聴力を得たということです。このことは福音書の文から確かめられます。そこでキリストは言っています。「これらはイザヤが言っていた人たちのようである。彼らには目はあるが見えず、耳はあるが聴えない。そして私は彼らをいやした。」(マタイ13:14 ヨハネ12:40〜41)

この意味は、顕示者は奇蹟を演じることができないということではありません。彼らはあらゆる力を持っているのですから。しかし彼らにとって内なる視力、精神的聴力、永遠の命は価値ある重要なものです。結果として聖書に盲であった者が視力を回復したと記録されている時は、内において盲であったが、精神的視力を得たということであり、または彼は無知であったが賢くなった、または彼は不注意であったが注意深くなった、または俗人であったが天の人のようになったという意味です。

この内なる視力、聴力、命、治療は永遠であり、それらは重要です。五感を伴うこの動物的命の価値は、それほど重要なものでしょうか。それは数日のうちにはかない考えのように終わるでしょう。例えば消されたランプに再び火を灯しても、それはまた消えます。しかし太陽の光はいつも輝いています。これは重要なことです。

 

二十三、キリストの復活

 

質問 三日後のキリストの復活とはどのような意味ですか。

 神の顕示者の復活は、肉体の復活ではありません。彼らの地位、状況、行為、その確立したもの、その教え、その表現したもの、その寓話、その指導はすべて精神的で神聖な意味があり、物質的なものとは何の関係もありません。例えばキリストが天からきたことについての問題があります。福音書のいたるところに、人の子は天から来た、彼は天にいる、そして彼は天に行くであろうとはっきり述べられています。ヨハネの福音書の六章三十八節に書かれています。「私が天から下ってきたのは。」また四十二節には「そして彼らはこう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないのか。我々はその父も母も知っている。どうしてわたしは天から降って来たなどと言うのか。』またヨハネの三章十三節に「天から降って来た者、すなわち天にいる人の子のほかには天に上った者はだれもいない。」とあります。

当時キリストは地上にいたのに、「人の子は天にいる。」と述べられていることを考えてください。またキリストはマリアの子宮から来て、彼のからだはマリアから生まれたのに、キリストは天から来たと言われていることに気づいてください。ですから人の子が天から来たと述べられている時には、これは外面的ではなく内面的意味があることがはっきりします。それは精神的なものであって物質的な事実ではありません。その意味は、明らかにキリストはマリアの子宮から生まれたのであるけれども、真実彼は天から、真理の太陽の中心から、神の世界から、精神的王国から来ました。キリストは神の王国の精神的天国から来たことがはっきりしたので、彼の地上における三日間の失跡は内面的な意味を持っているということであり、外面的事実ではないことがわかります。同じように彼の地面の中からの復活もまた象徴的なものです。それは精神的で神聖な事実であり、物質的なことではありません。同様に彼の天への昇天も、精神的なものであり、物質的昇天ではありません。

これらの説明の他に、目に見える天は無限に広がり、空虚であり、そこには数えきれない星や惑星が回転していると科学によって確立され、証明されています。

ですからキリストの復活の意味は次のようなものであるということです。キリストの殉教の後、弟子たちは困惑し、動揺しました。キリストの教え、恩恵、美徳、精神的力を意味しているキリストの本質は、彼の殉教の後二、三日間隠され、秘密にされ、輝かず、明らかにされませんでした。いいえ、むしろそれは失われました。弟子たちは数が少なく、困惑し、動揺したからです。キリストの大業は命のないからだのようでした。三日後、弟子たちは確信し、不動になり、キリストの大業に奉仕し始め、神の教えを広める決心をし、キリストの指導を実行に移し、彼に奉仕するために立ち上がりました。キリストの本質は光り輝き、彼の恩恵は現われました。彼の宗教は命を見い出しました。彼の教えと忠告は明らかに目に見えるようになりました。いいかえれば、聖霊の命と恩恵が取り囲むまで、キリストの大業は命のないからだのようであったのです。

それがキリストの復活の意味です。そしてこれは真の復活です。しかし聖職者は福音書の意味を理解もしなかったし、象徴の認識もできなかったので、宗教は科学とは正反対であり、科学は宗教に反すると言われてきました。例えばキリストがありのままのからだで目に見える天に昇天するという、この主題は科学に反しているというようにです。しかしその主題の真実がはっきりし、象徴が説明されれば科学は宗教と決して対立しません。それどころか科学と学問はそれを断言します。

 

二十四、使徒たちへの聖霊の降臨

 

質問 福音書に表わされている使徒たちへの聖霊の降臨は、どんな方法なのか、またどんな意味があるのですか。

 聖霊の降臨は、人間に空気が入り込むようなものではありません。それは厳密な、あるいは文字通りのイメージというよりは、一つの表現、たとえです。いいえ、それはむしろ太陽のイメージが鏡に入り込むようなものです。つまりその輝きがその中にはっきりと現われるのです。キリストの死後、弟子たちは困惑し、彼らの概念や思考は一致せず予盾していました。その後、彼らは強固になり、連帯し聖霊降臨節に集まり解脱しました。我が身のことをかえり見ずに、安楽やこの世の幸福を捨て身も心も愛する者に捧げ、家を捨て放浪者になり、自分の存在さえ忘れました。その結果、彼らは神の援助を受け、聖霊の力が明らかになり、キリストの精神性が勝利を得、神の愛が行き渡りました。その時彼らは援助を受け、神の大業を教え、証拠を示し、証明するためにあらゆる方向へ散って行きました。

ですから、使徒たちへの聖霊の降臨は、キリストの霊による彼らの引力を意味しています。それによって彼らは安定と堅固さを得たのです。神の愛の精神によって彼らは新しい命を得、キリストが生き、彼らを助け、守っていることを知ったのでした。彼らは水滴のようでしたが、大海になりました。彼らは弱々しい虫でしたが、力強いワシになりました。彼らは弱かったのですが、力強くなりました。彼らは太陽に向いている鏡のようになりました。まことにその光の一部は彼らの中にはっきりと現われました。

 

二十五、聖霊

 

質問 聖霊とは何ですか。

 聖霊は神の恩恵であり、顕示者たちから放出される輝く光線です。なぜなら、真理の太陽の光線の中心はキリストでした。キリストの本質であるこの栄光ある中心から神の恩恵は使徒たちの本質であった別の鏡に反射したからです。使徒たちへの聖霊の降臨は、栄光ある神の恩恵が彼らの本質に反射し、現われたことを示しています。さらに、入ることと出ること、下降と上昇は肉体の特色であり、精神の特色ではありません。つまり感じうる実体は入ったり出たりしますが、知的な微妙さや精神的本質、すなわち知性、愛、知識、想像、思考のようなものは入ったり出たりしません。むしろそれらは直接的つながりがあります。

例えば知力によって到達される状態である知識は、知的状態であり、心に入ったり、心から出たりすることは、想像上の状況です。しかし、イメージが鏡に反映するのと同じように、心は知識の習得と結びついています。

ですから知的実体は入ったり下降したりしないことは明らかですし、精霊は上昇したり、下降したり、入ったり出たり、浸みとおったりすることは絶対に不可能ですから、太陽が鏡の中に現われるように、精霊は光輝の中に現われることだけができます。

聖書の幾節かに、霊はある人を指して語られています。近頃、演説や会話の中で、そのような人は具体化された霊であるとか、彼は慈悲と寛大さの化身であると言われています。このような場合、それは私たちが見ている光であり、ガラスではありません。

ヨハネの福音書にキリストの後に出現する約束されたお方について十六章十二、十三節にこう述べられています。「言っておきたいことはまだたくさんあるが、今あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来るとあなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。その方は自分から語るのではなく聞いたことを語る。」

そこで「その方は自分で語るのではなく聞いたことを語る。」という言葉をじっくりと考えてください。真理の霊は、個性を持ったそのお方、聞く耳と話す舌を持っているお方の中に現われていることがはっきりします。同じように『神の霊』という名はキリストに関して使われます。あなたが光のことを言う時、光とランプの両方を意味しているのと同じように。

 

二十六、キリストの再来と審判の日

 

聖書に述べられています。キリストは再来する。そして彼の到来はある決まったしるしが達成されることにかかっている。彼が来る時には次のようなしるしがあるであろう。

「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち……そのとき、人の子のしるしが天に現われる。そしてその時、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」(マタイ24:29、30)

バハオラは、これらの節を「確信の書」の中で説明しています。ですから繰り返す必要はありません。それを参照してください。そうすればこの言葉の意味がわかるでしょう。

ですが、私はこの問題について、もう少し説明したいと思います。キリストが最初に出現した時にも、福音書にはっきりと述べられているように、天から来たのです。キリスト自身言っています。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」

キリストは明らかに、マリアの子宮から来たのではありますが、天から来たことは、誰にも明白なことです。最初の出現のとき、明らかに子宮からではありますが、天からやって来たのです。同じように彼の二度目の出現も、明らかに子宮からではありますが、天からやって来るでしょう。キリストの再来について福音書に示されている状況は、前にも説明したように、最初の出現のときに述べられていることと同じです。

イザヤ書の述べているところによれば、救世主は東西を征服し、世界の全国家は彼の下陰に入ること、彼の王国は確立されること、彼は未知の場所から出現すること、罪人は審判を受けること、正義は狼と子羊、豹と子供、乳呑子と毒蛇が一つの泉に、一つの牧場に、一つの住み家に集うほどの程度にまで浸透するということです。最初の出現もまたこれらの状況のもと

にありました。外面的にはそれらのどれ一つも起こりませんでしたが。ですからユダヤ人はキリストに反対して―神よ許したまえ―救世主をマセクと呼び、彼を神の建造物の破壊者と考え、安息日と神の法の破壊者とみなし、彼に死刑の判決を下したのでした。それにもかかわらず、これらの状況のどれにも、ユダヤ人の理解しない意味がありました。ですから彼らは、キリストの真実に気づくことを妨げられたのでした。

キリストの再来もまた同様です。述べられている徴や状況は、皆意味があり、文字通りに受け取られるべきものではありません。この他、星が地球に降ってくると述べられています。星は無限で数え切れぬほどあり、近代の数学者は、太陽は地球より約百五十万倍も大きいし、また固定した星々は太陽より千倍も大きいと見積っていることを科学的に確立し、証明しています。もしこれらの星が地球の表面に降ってくるとすれば、どこにその場所を見いだせるのでしょう。それはあたかも、からしの種子に十億のヒマヤラ山が降ってくるようなものです。理性と科学によればこれは全く不可能なことです。もっと不思議なことは次のようなキリストの言ったことです。「恐らく私はあなたがたがまだ眠っている時にやって来るでしょう。人の子の出現は、盗人の出現のようだからです。」たぶん盗人は家の中にいて、持主はそれに気づかないでしょう。

これらの徴は象徴的な意味があり、文字通りではないことは明白です。それは「確信の書」によく説明されています。それを参照してください。

 

二十七、三位一体

 

質問 一人の中に三人の人がいるという三位一体の意味は何ですか。

 神の本質は人間の理解から浄化、聖別され、英知や知識のある人々にも決して想像しえず、すべての概念から免除されています。その主の本質は分割を許しません。なぜなら分割と多様性は依存している存在である創造物の特性であり、自存しているものに起こる偶然ではないからです。

神の本質は単一性から聖別されています。ましてや複数性からは完全に聖別されています。その主の本質が状態や段階に下降することは不完全に等しく、完全に反しています。ですからそれは全く不可能です。それは永久に、いままでも今も、神聖さと高潔さの極みにあります。顕示者たちや神の夜明けの場所に関して述べられていることはすべて神の反射を意味し、存在の状態への下降ではありません。

神は全く完全であり、創造物は不完全です。神が存在物の状態に下降することになれば、最大の不完全になるでしょう。反対に神の顕示者、神の出現、神の上昇は曇りのない、清いみがかれた鏡に太陽が反射するようなものです。すべての創造物は、神の明らかな徴であり、太陽の光線が輝いている地上の存在物のようなものです。しかし平野、山々、木々、果実の上には、光の一部が輝いており、その光によってそれらは目に見えるようになり、育てられその存在の目的に到達します。一方、完全な人(神の顕示者)は曇りのない鏡の状態にあり、その鏡の中に真理の太陽がその全特性と完全さを伴って見えるようになり、明らかになります。ですからキリストの本質は、全くの純粋さと鋭敏さをもつ汚れのないみがかれた鏡でした。真理の太陽、神性の精髄はこの鏡にそれ自身を反射し、その光と熱をあらわしました。しかし、太陽は、その神聖さの高みとその高潔さの天国から、鏡の中に住み、とどまるために下降することはありません。いいえ、それはその高貴さと雄大さのうちに存在し続けており、鏡の中に美と完全性をもって現われ、ますます鮮明になってくるのです。

さて、太陽を二つの鏡で見るとします。―一つはキリストでもう一つは聖霊―つまり三つの太陽を見ていることになります。一つは天にあり、他の二つは地上にあります。本当のことをいっているのです。そして一つの太陽があるといえばそれはまったく単一であり仲間も等しいものもありません。これまた本当のことを言っているのです。

この話のあらましは、こういうことです。キリストの本質は汚れのない鏡でありました。そして真理の太陽――つまり無限の完全性と属性を伴った一体性の精髄――はその鏡の中に見えるようになったということです。神性の精髄である太陽が分割され、複数になったという意味ではありません。――太陽は一つですから――しかしそれは鏡の中に現われました。これがキリストが「父は子の中にある。」といったことの理由です。その意味することは、太陽は鏡の中に見えるようになり明らかになったということです。

聖霊はキリストの本質の中に見えるようになり明らかになった神の恩恵です。息子としての地位はキリストの心であり、聖霊はキリストの精神の地位です。ですから、神性の精髄は完全に独特のものであり、等しいものも、似たものも、相当するものもないということが明らかになり証明されました。

これが三位一体の三人の人の意味です。もしそうでないとすれば、神の宗教の基礎は、理性で考えることのできない非論理的命題に基づくことになってしまいます。どうして理性は想像し得ないものを信じることを強制され得るでしょうか。学問のある人も、ものごとが理解できる形になっていなければ把むことができません。さもなければそれは想像上の努力にすぎないでしょう。

この説明で三位一体の三人の意味するものがはっきりしました。神の一体性もまた証明されました。

 

 

二十八、聖ヨハネの福音書の十七章五節の説明

 

「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていた栄光を。」(ヨハネ17:5)

先在には二種類あります。一つは本質的なものであって原因によって先行されません。しかしその存在はそれ自身の中にあります。例えば太陽はそれ自身光っています。その輝きは他の星の光からくるのではありません。これは本質的光と呼ばれています。しかし、月の光は太陽から受け取ったものです。月はその光を太陽に依存しています。ですから光に関しては太陽は原因であり、月はその結果になります。前者は非常に古いものであり、先行するものであり、先に起こったものです。一方後者は先行されたものであり、後のものです。

二つ目の先在は時の先在です。そして時には始まりはありません。神の言葉は時から聖別されています。神に関しては過去、現在、未来はすべて等しいのです。太陽には昨日も今日も明日もありません。

同じように栄光についても先在があります。――つまり最も栄光あるものは栄光あるものに先行します。ですから神の言であるキリストの本質は、本質、属性、栄光に関しては確かに創造物に先行します。人間の形をして現われる以前に、神の言葉は最大の神聖さと栄光の中にあり、その壮麗さの中で、完全な美と輝きを持って存在していました。最も高遠なる神の英知によって肉体の世界に、栄光の高みより輝きだした時、神の言葉はこの肉体によって抑圧され、その結果ユダヤ人の手に落ち、野蛮で無知な者の捕虜となり、ついには十字架にかけられました。それが、彼が神に向けて次のように言った理由です。「私を肉体の世界のしがらみから解放し、この鳥かごから自由にしてください。そうすれば私は名誉と栄光の高みに昇り、肉体の世界以前から存在する者からの壮麗さと威力に到達し、永遠の世界で楽しみ、本来の住まい、場所のない世界、目に見えない世界に昇るでしょう。」

このようにして他の二つの王国――つまり人々と国々の領域の中で――においてさえ、キリストの栄光と壮麗さは彼の昇天の後、地上に現われたのです。肉体の世界にいた時、彼は世界で最も弱い国であるユダヤの侮辱とからかいのもとにありました。ユダヤは彼の神聖な頭にいばらの冠をのせることをふさわしいものと考えました。しかし彼の昇天の後、すべての王たちの宝石で飾られた冠は、いばらの冠の前にへりくだり、頭をさげました。

神の言葉が、この世においてさえ到達した栄光を見よ!

 

二十九、聖パウロによるコリント人への

第一の書簡の十五章二十二節の説明

 

質問 コリント信徒への第一の書簡の十五章二十二節「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」と書かれています。この言葉の意味は何ですか。

 人には二つの性質があることを理解してください。肉体的性質と精神的性質と。肉体的性質はアダムから受け継ぎ、精神的性質はキリストの精神性である神の言葉の本質から受け継いでいます。肉体的性質はアダムから生まれ、精神的性質は聖霊の恩恵から生まれます。前者はすべての不完全さの源であり、後者はすべての完全性の源です。

キリストは、人間が肉体的性質の不完全さから解放され、精神的性質の美徳を持つようにするために、彼自身を犠牲にしました。この精神的性質は、神の本質の恩恵によって存在するようになりましたが、それはすべての完全性の結合したものであり、聖霊の息吹によって現われます。それは光、精神性、導き、賛美、高い向上心、正義、愛、上品、すべての人に対する親切、博愛、生命の本質です。それらは真理の太陽の輝きの反映です。

キリストは聖霊の子孫です。――つまり、キリストの本質はアダムから下ってはきません。いいえそれは精霊から生まれます。ですからコリント人への書簡のこの節「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」は、この専門用語によればアダムは人間の父であることを示しています。――つまり彼は人類の肉体的命の源であり、彼は生きている魂です。しかし精神的命の授与者ではありません。一方キリストは人間の精神的命の源であり、精神に関していえば、アダムは生きている魂であり、キリストは命を与える精神です。

この人間の肉体の世界は、強い欲望の力に支配されています。そして罪は、この欲望の力の結果です。それは公正さと神聖さの法則の支配下にはないからです。人間のからだは自然のとりこです。それは自然の命ずるままに従って行動します。ですから、怒り、嫉妬、争い、貧欲、物欲、無知、偏見、憎悪、自尊心、残虐のような罪が物質的世界にあることは確かなことです。これらのけだもののような性質のすべては、人間の性質の中にあります。精神的教育を受けなかった人は、けだものです。アフリカの未開人のように、彼らの行動、習慣、道徳はあまりに肉欲的なので自然の要求に従ってお互いに引き裂き、食い合うほどに行動します。このように人間の肉体的世界は罪の世界です。この肉体的世界において、人は動物から区別されません。

すべての罪は、自然の要求からきます。そして肉体的性質から起こるこれらの要求は、動物に関しては罪ではありません。しかし人間にとっては罪です。動物は怒り、肉欲、嫉妬、物欲、残虐さ、自尊心のような不完全さの源です。これらの欠点のすべては動物に見られますが、罪とはなりません。しかし人間においては、それらは罪です。

アダムは人間の肉体的命の源です。しかもキリストの本質――つまり神の言葉――は精神的命の源です。それは『命を与える精神』であり、人間の肉体的命の要求から生じる不完全さのすべては、その精神の教えと教育によって、人間の美徳へと変えられるということを意味しています。ですから、キリストは命を与える精神であり、全人類の命の源でした。

アダムは肉体的命の源でした。人間の肉体的世界は、不完全さの世界であり、不完全さは死に等しいものです。パウロは、肉体的なものから生じる不完全さを死にたとえました

しかし大部分のキリスト教徒は、アダムは禁断の木の実を食べたので、彼は従わなかったことにより罪を犯し、この違反の悲惨な結果は、遺産として彼の子孫に移され、残されたということを信じています。それゆえにアダムは人類の死のもとになったのだと。この説明は理屈に合っていませんし、明らかに誤りです。なぜならすべての人は、予言者たちや神の使徒たちさえも、いかなる罪も誤りも犯さないのに、ただアダムの子孫であるということだけで、理由もなしに有罪である罪人となってきました。そしてキリストの犠牲の日まで地獄の苦しみの中に捕われていました。このことは、神の正義からはほど遠いことです。もしアダムが罪人であるならば、アブラハムの罪は何なのですか。イサクやヨセフの誤りは何ですか。モーゼは何で有罪なのですか。

しかし神の言葉であるキリストは、彼自身を犠牲にしました。このことには明らかで深遠な二つの意味があります。外面的意味は次のようです。キリストの意図は人間世界を教育し、アダムの子供たちを活気づけ、全人類を啓発する大業を主張し、推進することでした。そのような大業――世界のすべての人間、国家、王国に対立する大業――を主張することは、殺され、十字架にかけられることを意味しましたので、キリストは彼の使命を宣言して、その命を捧げました。彼は十字架を玉座とみなし、傷を香油と、毒を蜂密と砂糖にみなしたのでした。彼は人間に教え、教育するために立ちあがり、命の精神を与えるために自分自身を犠牲にしました。彼は他の人々を精神によって活気づけるために、肉体を死なせました。

犠牲の二つ目の意味は次のようです。キリストは種子のようなものであり、この種子は木が育つためにその形を犠牲にしました。種子の形は破壊されましたが、その本質は、木の形の中に、完全な威厳と美をもって明らかになりました。

キリストの地位は絶対的完全さの地位です。彼は信者に神の美徳を太陽のように輝きださせ、人間の本質の中に光の恩恵を輝かせ、放射させました。これが彼が次のように言ったことの理由です。「私は、天から下って来たパンである。このパンを食べる者は死なない。」(ヨハネ6:41、50、58――つまりこの神の食物をともにしたものは誰でも永遠の命に到達するであろう。即ちこの恩恵にあずかった者、これらの完全性を受けた者は、永遠の命を見い出し、以前から存在する恩寵を得、誤りの暗黒から解放され、彼の導きの光によって輝かされるであろうということです。

種子の形は、木のために犠牲にされました。しかし、その犠牲によりその美徳は明らかになりました。――木、枝、葉、花は種子の中に隠されていました。種子の形が犠牲にされた時、その美徳は葉、花、果実の完全な形の中に現われました。

 

三十、アダムとイブ

 

質問 アダムの話と彼がその木の実を食べたことの真実は何ですか。

 聖書に書かれています。神はエデンの園を耕し、面倒をみさせるために、アダムをエデンの園に置いて言った。

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世紀2:16,17)その次にはこう述べられています。神はアダムを眠らせ、彼のあばら骨の一つを取り、彼の仲間となるように女を造り上げた。次に述べられています。蛇は女にその木を食べるようにそそのかして言った。「神は目が開かないように、悪から善を知るようにならないようにその木を食べることを禁じられたのだ。」(創世紀3:5)そこでイブはその木から食べ、アダムに与えた。彼も食べた。すると彼らの目は開け、自分たちが裸であることを知り、葉で身体を隠した。その結果、彼らは神のとがめを受けた。神はアダムに言った。「取って食べるなと命じた木から食べたのか?」アダムは答えた。「イブが私を誘ったので食べました。」そこで神はイブをしかった。イブは言った。「蛇がだましたので食べてしまいました。」このことで蛇はのろわれ、蛇と女、その子孫たちの間に敵意が置かれた。そして神は言った。「人は我のように善悪を知る者となった。彼は命の木を食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」そうして神は命の木を守った。

一般大衆の解釈に従って、この物語を表面的意味にとれば、もちろんそれはとてつもないことです。知性はそれを受け入れたり確信したり、想像したりすることはできません。そのような取り決め、細部、会話、とがめは知識のある人の考えからはほど遠いものですし、ましてや神からはもっとかけ離れています。――その神は、この宇宙を最も完壁な形に組織し、数え切れない居住者を、完全な体系、強さ、完全さで組織しているのです。

しばし真剣に考えなくてはなりません。もしこの物語の文字通りの意味は、賢い人の作品であると考えると、すべての人はこの脚色、この作り話は知的な人から出たことをきっと論理的に否定するでしょう。ですから、その木から食べたアダムとイブの物語と、彼らの楽園からの追放は、単に象徴として考えられるべきです。それには神の神秘と普遍的意味が含まれており、驚くべき説明をすることができます。神秘への手ほどきを受けた者、全能なるお方の庭近くにいる者だけが、これらの秘密に気づきます。聖書のこれらの節にはたくさんの意味があるのです。

それらの一つを説明しましょう。アダムはアダムの神のような精神を表わし、イブはアダムの人問的な魂を表わすとします。そのわけは、聖書で女性について述べられているいくつかの節の中で、女性は人の魂を表わしているからです。善悪の木は人間世界を表わしています。というのは神の精神的世界は純粋に善であり、全く輝かしいものですが、人間の世界には、明暗、善悪が対立した状態としてあるからです。

蛇のあらわすものは、人間世界への愛着です。精神の人間世界への愛着は、アダムの魂と精神を自由の世界から束縛の世界へと導き、和合の神の王国から人間世界へ向かせるもとになりました。アダムの魂と精神が人間世界に入った時、彼は自由の楽園から束縛の世界へ落ち込みました。純粋さと完全な善の高みから彼は善悪の世界に入りました。

命の木は、存在の世界の最高の段階、神の言葉の地位、そして至高の顕示者の地位です。ですから、その地位は保存され、最も高貴な至高の顕示者の出現の際に明らかになりました禎の美徳の出現と顕示に関して、アダムの地位は胎児の状態でしたし、キリストの地位は成熟の状態、分別の年代でした。そして最も偉大な発光体(バハオラ)の出現は美徳の本質と特質の完璧さの状態でした。これが至高の楽園で、命の木が表現するものは絶対的に純粋な神聖――つまり神の至高の顕示者――の中心であることの理由です。

アダムの時代からキリストの時代まで、彼らは永遠の命と神々しい普遍的美徳についてほとんど話しませんでした。この命の木はキリストの本質の地位でした。彼の顕示を通して、命の木は植えられ、不朽の果実で飾られました。

さて、この意味が現実と、どの位一致しているか考えましょう。アダムの精神と魂は人間世界に愛着を持った時、自由の世界から束縛の世界へ入りました。そして彼の子孫は束縛され続けました。罪であるこの魂と精神の人間世界への愛着は、アダムの子孫によって受け継がれ、その愛着はアダムの精神と子孫の中に常にあり、それらと常に戦かっている蛇です。その敵意はずっと継続しました。なぜならこの世界への愛着は、霊の束縛の原因となり、この束縛は罪と全く同じものであり、それはアダムから彼の子孫へ伝えられました。この愛着のために人は本質的精神性と崇高な地位を奪われてきました。

キリストの聖別されたそよ風と偉大な発光体(バハオラ)の神聖な光が広がった時、真の人間――つまり神の言葉の方へ向き、神の恩恵を豊富に受け取った人たち――はこの愛着と罪から救われ、永遠の命を獲得し、束縛の鎖から解放され、自由の世界に到達しました。彼らは人間世界の悪徳から自由にされ、神の王国の美徳によって祝福されました。これが次のようなキリストの言葉の意味です。

 「私は世の命のために、私の血を与えました。」(ヨハネ651)――キリストにかわって言いかえますと、私は罪の許し(つまり霊の人間世界からの離脱、そしてそれの神の世界への愛着)というこの目的を達成するために、これらすべての困難、苦難、災難、そして最大の殉教さえ選びました。そうして人々を人類の導きの真髄、至高の神の王国の美徳の顕示となるように立ちあがらせるためでした。

 もし聖書の人々(ユダヤ人とキリスト教徒)の推測によってこの意味が、一般に知られた意味に取られれば、それは全く不当であり、完全な宿命になることに気づいてください。もしアダムが禁じられた木の近くへ行ったことにより罪を受けるとしたら、栄光のアブラハムの罪は何だったのですか。対話者モーゼの誤りは何だったのですか。予言者ノアの罪は何でしたか。誠実なるヨセフの違反は何だったのですか。神の予言者たちの不正、純潔なるヨハネの罪は何だったのですか。アダムの罪のためにこれらの啓発された予言者たちが地獄の苦しみを受け、キリストの出現と彼の犠牲によって、彼らをその激しい苦痛からようやく救うということを、神の正義は許すでしょうか。そのような考えは、すべての法や規則を越えており、知的な人には受け入れられません。

 いいえ、そういうことではありません。それは、前に述べたことを意味しているのです。アダムは、アダムの霊であり、イブは彼の魂です。木は人間世界であり、蛇は罪となるこの世への愛着であり、アダムの子孫を汚染しました。キリストは彼の神聖なそよ風によって、人間をこの愛着から救い、この罪から解放しました。アダムの罪は、彼の地位に関係しています。この愛着から結果が生じますが、それにもかかわらず、この地上の世界への愛着は、精神的世界への愛着と比較すれば、罪と考えられます。正義の者にとっての善行も、神の近くにいるお方たちにとっては罪です。これは確立されています。ですから肉体の力は精神の力に比較して不完全であるばかりでなく、比較上それは弱さです。同じように、肉体的命は、神の王国の永遠の命に比較すれば死と考えられます。それでキリストは肉体的命を死と呼び、そして言いました。「死人に死者を葬らせなさい。(マタイ822)これらの人たちは、肉体的命は持っていましたが、彼の目には、その命は死としてうつりました。

 これが聖書によるアダムの物語のもつ意味の一つです。他の意味と見つけるまでよく考えて下さい。

 

三十一、聖霊に対する冒漬の説明

 

質問 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし聖霊に逆らう冒瀆は赦されません。また人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし聖霊に逆らうことを言うものは、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと赦されません。(マタイ123132

 神の顕示者の神聖な本質には、二つの精神的地位があります。一つは顕示者としての地位であり、それは太陽の球体の地位に例えることができます。もう一つは顕示の光輝であり、それはその光、輝きのようなものです。これらは神の美徳――別の言葉で言えば聖霊です。なぜなら聖霊は、神の恩恵であり、主の美徳です。そしてこれらの神の美徳は、太陽の光線や熱のようなものです。輝く太陽の光線はその存在のもとをなしており、それらがなければ太陽ではあり得ません。もしも、キリストに顕示と神の美徳の反映がなければ、イエスは救世主ではあり得ないでしょう。神の予言者は、主の美徳の顕示です。――即ち、聖霊は彼らの内に現われています。もし人が顕示からほど遠く離れているならば、彼はいつか目覚めるでしょう。彼は神の美徳の顕示を認めることができなかったのですから。しかしもし彼が神の美徳それ自身――言いかえれば聖霊――をひどく嫌うならば、彼は光を憎むこうもりのようであることは明らかです。

この光に対する嫌悪は、治療法もなく、許されません。――つまり、彼が神に近づくことは不可能です。このランプはその光ゆえにランプなのです。光がなければランプではありません。そこで、もし人がランプの光に対する嫌悪を持つならば、彼は今も昔と同じように、目の見えぬ人でありその光を認めることはできません。そして盲目であることは、神からの永遠の懲罰です。

人は神の顕示者に現われる聖霊の恩恵から恵みを受けるのであって、顕示者の人格から受けるのではないことは明らかです。

ですからもし人が精霊の恩恵から恵みを受け取らないならば、彼は神の贈り物から締め出され、彼は罰として許されない所へ置かれるのです。

 これがかつて顕示者の敵であった人たちや顕示者たちを認めなかった多くの人たちがいったん彼らを知ると、彼らの友人となったことの理由です。ですから顕示者に対する敵意は、永遠の罰の原因とはなりませんでした。その考えにふけっていた人は、光を支えている物の敵であったのであり、彼らが神の輝く光であることを知らなかったのです。彼らは光の敵であったのではなく、ひとたび光を支えている物は、光を顕示している者の場であることを理解すると、その誠実な友人となりました。

言いたいことはこういうことです。光を支えているものから遠く離れていることは、永遠の罰を必然的に伴っているのではありません。人は目覚め、注意深くなる可能性があるからです。しかし光に対する敵意は永遠の罰の原因となります。そしてこのことゆえに、治療法はありません。

 

三十二、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない。」という節の説明

 

質問 福音書の中でキリストは言っています。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:14)また、コーランに書かれています。「彼は彼の気に入った者に特別な慈悲を授ける」この英知のさすものは何ですか。

 全宇宙の秩序と完全性が必要とすることは、存在は数えきれないほどの形をとって現われるということであることを理解してください。存在するものはたった一つの段階、一つの地位、一つの仲間、一つの種、一つの種類に統合され得ないからです。段階の相違、形態の区別、属や種の多様性が必要であることは疑いありません。――つまり鉱物、植物、動物、人間の段階は不可欠です。世界は人間だけで配置され、飾られ、組織され、完成されることは不可能だからです。

同じように、動物だけで、植物だけであるいは鉱物だけで、この世界は美しい景色、正確な組織、みごとな装飾を現わすことはできません。存在するものがこの上ない完全さで光り輝くようになるには、段階、地位、種と種類の多様性のお陰であることは疑いありません。

例えば、もしこの木が全く実ばかりであるとすれば、植物の完全性は達成されません。その木がこの上ない美と完全性で飾られるためには、葉、花、実すべてが必要だからです。

同じように、人間のからだについても考えてみてください。それはさまざまな器官、部分から成り立っていなくてはなりません。人間の美と完全性は耳、目、脳の存在、そして爪や髪の存在も必要とします。もし人が脳ばかり、目ばかり、耳ばかりであったとすれば、それは不完全に等しくなります。ですから髪、まつげ、歯や爪の欠除は全くの不完全になるでしょう。目にくらべれば、感覚がないことから、この点についてはそれらは鉱物、植物に似ています。しかし人間のからだにおいては、それらがないことは、必然的に不完全であり、不愉快なことです。

存在の段階は異なっており、さまざまですから、あるものは段階において他のものより高い状態にあります。ですから、神の意志と望みによって、あるものは人として最高の段階に選ばれ、またあるものは、鉱物のように、最も低い段階にとり残されました。

神の恩恵から、人間は最高の段階に選ばれました。そして精神的進歩と天のような美徳に関して人間の間にある相違もまた、あわれみ深きお方の選択によっているのです。永遠の命である信仰は恩恵の徴であり、正義の結果ではないからです。この土と水の世界では、愛の火の炎は引力の力によって来るのであって、苦労と努力によって来るのではありません。それにもかかわらず、努力と忍耐によって、学問、科学、その他の完全性は得ることができます。しかし神の美の光だけが、引力の力によって精神を運び、動かすことができるのです。ですから「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない。」(マタイ22:14)と云われるのです。

しかし、物質的なものは、それらの段階や地位ゆえに軽べつされたり審判を受けたり、責任を負わされることはありません。例えばさまざまな段階にある鉱物、植物、動物は受け入れられます。しかしその段階において、不完全であるならば、それは非難され得ます。その段階そのものは全く完全なのですから。

人間の間にある相違には二種類あります。一つは、地位の相違であり、この相違は非難に価しません。もう一つは、信仰と確信の相違です。これらを失うことは非難に価します。それによって、魂は願望や激情によって圧倒されるからです。願望や激情はこれらの祝福を奪い、神の愛の引力の力を感じなくさせます。その人は、彼の地位において賞讃に価し、受け入れられますが、それにもかかわらず、彼はその段階の完全性を奪われていますから、彼は不完全さの源になり、それゆえに彼には責任があります。

 

 

三十三、予言者たちによって述べられた復活

 

質問 復活について説明してください。

 バハオラは、確信の書の中でこの問題について詳しくはっきりと説明しています。それを読んでくだされば、この問題の真理は明らかになるでしょう。しかし、あなたがお尋ねになったので簡単に説明いたしましょう。福音書から説明をはじめます。そこに平易に述べられています。ザカリアの息子のヨハネが現われて、人々に神の王国の吉報を与えた時、彼らは聞いた。「あなたはどなたですか。あなたは約束された救世主ですか。」彼は答えた。「私は救世主ではありません。」そこで彼らは尋ねた。「あなたはエリヤですか。」彼は言った。「いいえ、ちがいます。」これらの言葉はザカリアの息子のヨハネは約束されたエリアではないことを証明し、示しています。しかし、タボア山でのキリストの変容の日に、キリストははっきりとザカリアの息子ヨハネは約束されたエリアであると言いました。

マルコの福音書の九章十一〜十三章に述べられています。「彼らはイエスにたずねて言った。律法学者たちはまずエリアが来るはずだと言っているのはなぜですか。そこで彼は答えて言った。エリアがまず来て、すべてのことを立て直します。では人の子について多くの苦しみを受けさげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。しかしあなたに告げます。エリアはもう来たのです。そうして人々は彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。」

マタイの十七章十三節に述べられています。「そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」

彼らはバプテスマのヨハネに聞いた。「あなたはエリアですか。」彼は答えた。「いいえ、ちがいます。」福音書にヨハネは約束されたエリアであると述べられていますが、キリストもまたはっきりと言っています。(ヨハネ1:21)それならばもしヨハネがエリアだとするとなぜ彼は「私はちがいます。」と言ったのでしょうか。そしてもし彼がエリアでないとするとなぜキリストは、そうであると言ったのでしょうか。

その説明は次のようです。人格ではなく美徳の本質が問われているのです。――つまりエリアにあったものと同じ美徳がバプテスマのヨハネに存在し、正しく彼の内に現われていました。それゆえバプテスマのヨハネは約束されたエリアでした。この場合、個性ではなく、その特質が考えられています。例えば去年花があり、今年もまた花があるとき、去年の花が戻ったといいます。

さて、厳密に同じ個体の花が戻って来たと言っているのではありません。しかし、この花は去年の花と同じ性質を持っている――同じ香り、優美さ、色、形を持っているので――去年の花が戻って来た、そしてこの花は以前の花であると言っているのです。春が来れば、去年の春に見られたものが皆、この春に存在しているので、去年の春が戻って来たと言います。こういうわけで、キリストは次の言葉を言いました。「あなたは昔の予言者たちの日に起こったすべてのことを見るでしょう。」

また別の例の説明をいたしましょう。去年の種子がまかれ枝や葉が育ち花と実が現われ、そしてすべてはまた種子に戻ります。この二番目の種子が植えられると、それから木が育ち、もう一度それらの枝、葉、花、実が戻ります。その木は完全に現われるでしょう。最初は種子であったし、終わりも種子であるので、種子は戻ったと言います。その木の物質に注目すれば、それは別の物質です。しかし花、葉、実に注目すれば、同じ香り、優美、味が産み出されています。ですからその木の完全性は再び戻ったのです。

同じように個人の復活について考えてみるならば、それは別人の復活です。しかしその性質と美徳について考えれば同じものが戻って来ました。ですからキリストが「これはエリアです。」と言った時、彼が意味したことは、この者はエリアの恩恵、美徳、人格、特質、美点を顕示するものであるということです。バプテスマのヨハネは「私はエリアではありません。」と言いましたが、キリストは二人の特質、美徳、人格、美点のことを考えていたのであり、ヨハネは、物質と個性のことを考えていたのです。それはこのランプのようなものです。それは昨夜ここにあり、今夜も灯をともし、明日の夜にも輝くでしょう。今夜のランプは、昨夜と同じ光であり、光が戻ったと言います。それは光について言っているのであり、油や芯や、支えているものについてではありません。

この問題については、確信の書に充分にまた明解に説明されています。

 

三十四、ペトロの信仰の告白

 

質問 マタイの福音書の中に述べられています。「あなたはペトロ。この岩の上にわたしは教会を建てる。(マタイ16:18)この一節の意味するものは何ですか。

 キリストのこの言葉は、ペトロの述べたことに対する承認です。キリストが「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」と聞くとペトロが答えた。「あなたは生ける神の子であるということを信じます。」するとイエスは彼に言った。「あなたはペトロ−というのはセファスはアラム語では岩を意味するから――わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」なぜなら、他の人たちはキリストに答えて、あなたはエリアであると言ったり、ある者たちは洗礼者ヨハネであると言ったり、またある者たちはエレミヤだとか、予言者の一人だ、とか言ったからでした。(マタイ16:14〜18)

キリストは象徴的に、あるいはほのめかすことによってペトロの言葉の正しいことを証明したかったのです。それでペトロという彼の名前に合わせて彼は言いました。「この岩の上にわたしは教会を建てる。その意味するところは、キリストが生ける神の子であるというあなたの信条は、神の宗教の基礎であり、この信条の上に神の教会――それは神の法である。――は確立されるであろうということです。

ローマにあるペトロの墓の存在は疑わしいし、認められていません。ある者はアンチオキにあると言っています。

さらに、法王たちとキリストの宗教を比べてみましょう。キリストは飢え、住み家もなく、荒野の草を食べ、いかなる人の感情も傷つけることを心良しとされませんでした。法王は黄金でおおわれ乗り物に座り、王たちさえ経験したことのないような快楽とぜいたく、富、崇拝の中で、その生涯を最高の栄光の中に過ごしました。

キリストは誰一人傷つけませんでした。しかしある法王たちは、無実の人々を殺しました。歴史を調べてごらんなさい。法王たちは単に世俗的な権力を維持するために、どれほど多くの血を流させたことでしょう!ごくわずかな意見の相違によって、彼らは人間世界への何千という奉仕者と、自然の秘密を発見した学者たちを逮捕し、牢に入れ、虐殺しました。彼らは真理に対してどれほど反対したというのでしょう。

キリストの教えを真剣に考えてください。そして法王たちの習慣を調べてください。キリストの教えと法王の政府のやり方の間に何か似ているところがあるか考えてごらんなさい。私たちは批判したいのではありません。がしかし、ヴァチカンの歴史は大変異状です。この論点の主旨はこういうことです。キリストの教えが一方にあり、他方、法王の政府のやり方は全く別個のものです。それらは一致しません。どれほど多くのプロテスタントが法王の命令によって殺されたことか、いかに多くの残虐と抑圧が奨励されたことか、どれほど多くの懲罰と拷問が課されたことか考えてください。これらの行為の中に、どんなキリストのかぐわしい香りを見つけられるというのでしょう。いいえ、絶対に見つけられません。これらの人々はキリストに従いませんでした。一方、私たちの前に肖像のある聖バーバラはキリストに服従し、彼の足跡に従い、彼の命令を実行しました。法王の中でも、一部の祝福された魂はキリストの足跡に従いました。特に世俗的なものがなく、神の試練が厳しかったキリスト教時代の初期においてそうでした。しかし、政治的な力を所有するようになり、世俗的な名誉と繁栄が得られるようになると、法王の政府はキリストを完全に忘れ、世俗的権力、威厳、快楽、ぜいたくで占領されてしまいました。それは人々を殺し、学問の拡散に反対し、学者を苦しめ、知識の光を妨げ、虐殺し、略奪するための命令を下しました。何千という人々、科学者、学者、罪なき人々がローマの牢獄で死にました。このような行為や行動があるのに、どうしてキリストの代理者を信じられるでしょうか。

法王座は常に知識に反対してきました。ヨーロッパにおいてさえ、宗教は科学の敵であり、科学は宗教の土台を破壊するものとみなされました。一方、神の宗教は真理の推進者であり、科学や学問の創始者であり、学問のある人々にとって好意にあふれており、人類を文明化するものであり、自然の秘密の発見者であり、世界の地平線を照らすものであるのです。ですから、どうして宗教は知識と対立するといえるのでしょうか。とんでもないことです。いいえ、神にとって知識は人間への最も栄光ある贈り物であり、人間の徳のうち、最も高貴なものです。学問に反対することは無知であり、知識や科学を忌み嫌う者は人間ではなく、むしろ知性のない動物です。なぜなら知識は光、命、至福、完全性、美であり、和合の敷居に近づく手段であるからです。それは人間世界の名誉、栄光であり、神の至高の贈り物なのです。知識は導きと全く同じものであり、無知は完全な誤りです。

知識を得ようとして、また自然の秘密を発見しようとして、純粋な真理の細部に分け入ろうとして日々過ごす者は幸いです。無知に満足する者、その心は無思慮な模倣によって喜ばされ、無知と愚かさのどん底に落ち込み、その命をむだに使っている者は、苦しむがよい!

 

三十五、宿命

 

質問 もし神がある人によってなされる行動について知っており、そのことが運命の書に書かれているとしたら、それに抵抗することは可能ですか。

 ものごとの予知は、その実現の原因とはなりません。神の本質的知識は、ものの存在する以前にも以後にも同じようにものごとの本質を取りまいているからです。それは神の完全性です。聖書の約束されたお方の出現に関して、神の霊感によって予言者たちの舌を通して予言されたものは、キリストの顕示の原因とはなりませんでした。

未来についての隠された秘密は、予言者に顕示されました。その結果彼らは、彼らが告げた未来の出来ごとを知るようになったのでした。この知識やこれらの予言は、その発生の原因ではありませんでした。例えば、今夜七時間後に太陽が昇ることは誰もが知っています。しかし、この一般的な予知は、太陽の上昇と出現の原因とはなりません。

ですから、依存している領域での神の知識は、形あるものを生じません。反対にそれは過去、現在、未来から純化されています。それはものの本質と同様です。それはその発生の原因ではありません。

同じように、聖書にあるものごとの記録や記述はその存在のもとにはなりません。予言者は神の霊感を通して起こるであろうことを知りました。例えば、神の霊感によって、彼らはキリストが殉教するであろうことを知りました。そしてそれを告げました。さてそれでは、彼らの知識と情報は、キリストの殉教の原因となりましたか?いいえ、この知識は予言者の完全性であり、殉教の原因にはなりませんでした。

数学者は、天文学的計算によって、ある時に日食や月食が起こることを知ります。この発見は食が起きることの原因とはならないことは確かです。もちろん、これはほんの類推であり、厳密な比喩ではありません。

 



 ナセル・デン・シャーへの手紙からの抜粋

 コーラン19:17

 コーラン36:25

 この話は、そのような問題についで議論することは無益であることを示している。キリストの誕生についてのアブドル・バハの教えは次の章にある。

 

 創世紀2:7

  ヨハネの福音書6:50、51

 これらの会話の中で、読者もすでにわかっているとおり、アブドル・バハは正確な本文を述べることよりも、聖書のある一節の意味を示すことの方を望んでいる。

 

 マセク―即ち怪物、アラビアでは、マシー=救世主、マセク=怪物と言う言葉を使った遊びがある。

 テサロニケ信徒への手紙(一)5:2  ペトロヘの手紙(二)3:10

 82「汎神論」参照のこと。

 57、「人間の性格に相違のある原因」を参照せよ。

 ペトロの本当の名前はシモンであったことはよく知られている。しかし、キリストは彼をセファスと呼んだ。セファスはギリシャ語のペトラスに対応し、それは岩を意味している。