第三編

 

第五十四 アブドル・バハの講演 W.C.ロンドン聖マーチン通りの友の集会所

 (一九一三年一月十二日 日曜日)

 

 約千年前、ペルシャに「友の会」The Society Of The Friends という会が組織されました。ここで友らは共に集り全能の神と無言の交りを行うのでした。

 彼らは聖なる哲学を二つに分けました。一つはその知識を講演や学校、大学における研究によって得るもので、もう一つは啓発された者、あるいは内なる光に従う人たちの哲学です。こうした哲学の勉学は無言で行なわれました。瞑想し、聖なる光の源へ面をむけ、その中心をなす光から神の国の秘密がそれらの人たちの心に映し出されました。聖なる諸問題はすべて、こうした啓発の力によって解決されたのです。

 この「友の会」の会員数はペルシャで大いに増え、その会は今日まで存続しています。数多くの本や書簡が彼らの指導者によって書かれました。彼らは集会所に集ると静かに坐して黙想します。指導者がある課題をだし、参集者にむかって「この問題について黙想なさい」と言うと、彼らはその問題以外の一切を心から閉め出し、静かに坐して黙想するのです。やがてその解答が彼らに啓示されます。数多くの難解な神霊上の諸問題がこうした啓発された人によって解決されるのです。

 人間の心に射しこむ真理の太陽の光線から明かされる大きな問題の幾つかをあげてみると、それは人間の霊の実体の問題、霊の誕生の問題、それが地上に誕生して神の国へ移行する問題、霊の内的生命に関する問題、霊が肉体を離れて昇天したあとの運命の問題などです。

 彼らはまた現代の科学上の問題についても瞑想します。これらの問題も同じように解決されます。

 「内なる光を信ずるもの」といわれるこうした人びとは至高の力に達し、盲目的な独断や模倣から完全に解放されるのです。人々はこうした人びとの言葉を信頼します。彼らはあらゆる神秘を自分たちで−心の中で−解決します。

 もし彼らが内なる光の助けで解決を見出したら、彼らはそれを受け入れて発表しますが、そうでない場合、それは盲目的な模倣であると彼らは考えます。これまでのところ、彼らは神の本質的性格、聖なる啓示や、現世における神の顕示者の本質的性質について瞑想してきました。彼らは神霊の力を通してあらゆる神霊上、科学上の諸問題を解決しています。

 バハオラは、あらゆる現象には(神からの)(しるし)があると言われました。識者の(しるし)は熟考であり、熟考の(しるし)は沈黙である、なぜなら人間は同時に二つのことをすることは不可能だからです。人間は喋りながら、同時に瞑想することはできないのです。

 瞑想はその人のうちなる霊と話しあうことであるというのは自明の事実です。瞑想の状態である問題について内なる霊と話しあうとき、霊が答えます。光が輝きだし、実相が明らかにされます。

 こうした瞑想の能力を欠くものには、「人間」という名を用いることはできません。瞑想能力のないものは動物でしかなく、野獣より低級のものです。

 瞑想の能力をとおして人は永遠の生命に達し、瞑想をとおして聖霊の息吹を感受するのです。聖霊の賜物は反省と瞑想の中で感知されるものです。

 人間の霊は、瞑想しているときに物を知らされ、強化されます。この瞑想のときに、今まで知らなかった事物がその者の眼に明らかにされるのです。瞑想を通して霊的啓示を感知し、瞑想を通して天の食物を授かるのです。

 瞑想は神秘の扉を開く鍵です。瞑想の状態で人は自分自身を引き出します。この状態にあると、人はあらゆる外部の事物から絶縁します。そのような自己の世界に入ると、人は霊的生命大洋に身を浸し、事物それ自体の秘密を明らかにすることができるのです。このことを説明するために、人は二つの視力を与えられていると考えてください。内面的視力がはたらいているときは外面的視力は動かないのです。

 こうした瞑想力は人間をその動物的性質から解放し、事物の実相を識別させ、神に触れさせるのです。

 この瞑想の力が目に見えない世界から科学や芸術を生みだすのです。瞑想の力を通して発明が可能となり、巨大な企業が起こされ、施政が円滑になるのです。この力をとおして人はまさに神の国へ入るのです。

 にもかかわらず、人間にとって全く無益な想念もあります。それらは大海を当てもなく動く波のようなものです。しかし、もし瞑想力が内なる光を浴びて、聖なる属性をそなえるなら、すばらしい結果が得られることは確かです。

 瞑想の力は鏡に似ています。もしも鏡を世俗的な事物に向けるなら、鏡はそれらを反映します。ですから、人間の霊が世俗的なことを黙想するならば、そうした世俗のことで頭がいっぱいになるのです。

 しかし、もしも皆さんがその霊の鏡を天界に向けるならば、天界の星座や真理の太陽の光が皆さんの心に反映し、神の国の美徳が得られるでしょう。

 したがって、瞑想の力という鏡を正しい方向に向けましょう。つまり、俗事に向けるのではなく、天の太陽の方へ向けるのです。そうすれば私たちはやがて神の国の秘密を発見し、聖書の寓話の意味や神霊の神秘を理解するようになるでしょう。

 私たちが誠に天上の真髄を反映する鏡となり、天の星を反映するまでに純粋になるよう願っております。

 

 

第五十五 祈り  (ロンドン・カドーガンガーデン九十七番地 一九一二年十二月二十六日)

 

 祈りは行動に表現されるべきか。

 アブドル・バハの言葉:その通りです。バハイ信教では芸術や科学やあらゆる技術は礼拝とみなされます。一冊の帳面を作るとき、能力の限りを尽くし、良心的に、また、完全なものにするために全力を集中する者は、取りも直さず神を讃美しているのです。簡単に言えば、人が心魂を尽くして行う精進のすべては、もし至高の動機に促され、人類への奉仕の意欲に燃えるものであれば、それは礼拝です。人類に奉仕すること、人びとの要求に応じて仕えること、これが礼拝です。奉仕は祈りです。医師がおだやかに優しく、偏見をもたず、人類の一体性という信念のもとに病人に接するとき、その医師は神を讃美しているのです。

 

 私たちの人生の目的は何か。

 アブドル・バハの言葉:それは美徳を備えることです。私たちは大地から生まれました。どうして私たちは鉱物界から植物界へ移され、植物界から動物界へと移されたのでしょう。私たちがこれら三つの世界のそれぞれにおける完全性を達成するためです。つまり、私たちは鉱物界の最良の諸特質を得、植物界における成長力を得、そして動物界の諸本能を備えて視力、聴力、嗅覚力、味覚力を持つようになり、さらに私たちは、動物界から人間界に踏み入れ、理性、発明力、霊的な力を付与されたのです。

 

 

第五十六 悪

 

 悪とは何か。

 アブドル・バハの言葉:悪とはいまだ完全でない状態を言います。罪悪は、劣位の世界にある人間の状態のことです。この状態は不正、暴虐、憎悪、敵意、闘争といったような欠陥があります。これらは世界の罪悪であり、アダムが食べた樹の実なのです。教育をとおして私たちはこうした不完全な状態から解放されなければなりません。神の予言者がこの世に遣わされ、聖典が書かれたのも人間を解放するためでした。人間がちょうど地上の母親の子宮からこの不完全な現世に生まれてきたように、彼は聖なる教育を通して霊の世界に誕生するのです。人はこの現象界に生まれ出て宇宙を発見します。そして、この現世から霊界に生れ出ると神の国を発見するのです。

 

 

第五十七 魂の進歩

 

 現世における魂のより一層の進歩は悲しみを通してか、それとも喜びを通してか。

 アブドル・バハのお話:人間の心と精神は苦しみによって試されるとき発達します。土地もまたよく耕せば耕すほど種子はよく成長し、収穫もよりすばらしいものとなります。ちょうど、土地を深くすいて雑草やアザミをきれいに取り除くように、苦痛や苦難は人間を、遂には現世の事物を完全に超越する状態に到達するまでに、この世のつまらぬ事柄から解放します。そして彼の現世における姿勢は聖なる幸福の態度となるでしょう。人間は、云わば、未熟なものですが苦難という火の熱によって成熟します。過去の時代をふり返って見てください。最も偉大な人は最も辛酸をなめた人であることが分かるでしょう。

 人は苦難をとおして発達するのなら、はたして人は幸福を恐れるべきか。

 アブドル・バハのお話:人間は苦難をとおして永遠の幸福に達します。そして、永遠の幸福は人間から何ものも奪い取ることがないのです。キリストの使徒たちは苦しみ、不滅の幸福に達しました。

 

 しからば、苦難なくして幸福を得ることは不可能なのだろうか。

 アブドル・バハの言葉:不滅の幸福に到達するには苦難が必要です。自己犠牲の域に達した人は本当の喜びを感じることができます。刹那的な喜びは消滅するでしょう。

 

 死者の霊魂は地上に住む人と談話を交わすことができるか。

 アブドル・バハの言葉:交わすことができますが、現世における私たちの交わりのようなものではありません。より高次の世界の力がこの地上の力と相互に作用しあうことは疑う余地もないのです。人間の心がインスピレーションを受け入れようとしているとき、それが霊的な交わりです。夢の中で人は、口は黙しているのに友と語ります。霊界における会話もそれと同じです。人は内なる自我に、「私はこれを行ってもいいのか。この仕事をすることは賢明なのか」と話しかけます。より高次の自我との会話はこのようなものです。

 

 

第五十八 愛の四つの種類 ロンドン・カドーガンガーデン九十七番地にて 

  (一九一二年一月四日 土曜日)

 

 愛とはなんとすばらしい力でしょう。それは、あらゆる活力の中で最もすばらしい、最も偉大なる力です。

 愛は生命なきものに命を与え、冷たい心に炎を燃やし、絶望している人に希望を与え、悲嘆にくれた人の心に喜びをもたらすものです。

 存在の世界で、事実、愛の力ほど偉大な力は他にありません。心が愛の炎で燃えたっているとき、人はすべてを、自分の命さえも喜んで犠牲にします。聖書に、神は愛であるとあります。

 愛には四種類あります。第一は、神から人間に注がれる愛です。それは、尽きない恩寵(おんちょう)と聖なる輝き、天上の光明からなりたっています。この愛をとおして存在の世界は生命を受けています。この愛をとおして人間は肉体的生存を与えられ、そして遂に、聖霊の息吹をとおして、すなわちこの同じ愛をとおして永遠の生命をうけ、生ける神の像となるのです。この愛こそ創造の中のあらゆる愛の根源なのです。

 第二は、人間が神へ捧げる愛です。これが信仰であり、神へ惹きつけられ、燃え立ち、進化し、神の王国へ進入し、神の恩恵の享受し、神の王国の光に照らされることです。この愛はあらゆる博愛の根源であり、人びとの心に真理の太陽の光を反映させるものです。

 第三は、神のご自身、あるいは神の本性に対する愛です。これは、神の美の変貌であり、神の創造の鏡の中に映る神自身の反映です。これが愛の真髄であり、古来の愛、永遠の愛です。この愛の一条の光で、他のすべての愛は存在するのです。

 第四は、人間の人間に対する愛です。信者たちの間にある愛は、心霊の和合という理想によって促されます。こうした愛は神を知ることによって達成されます。神を知れば、心に反映する神の愛が分かるようになります。誰もが自分たちの魂に神の美が映しだされているということを知り、相互に同じであると思うようになり、互いに愛で結ばれるのです。この愛が全人類を一つの海の中の波、一つの天の星、一本の樹の果実とします。この愛によって真の調和についての認識、本当の和合の基磯がもたらされます。

 しかし、友人間に時折ある愛は(真実)の愛ではありません。なぜなら、それは移ろい易い、単なる魅惑にすぎないものだからです。微風(びふう)が吹けば、貧弱な木はなびきます。もしも風が東方から吹けば、木は西方へかたむき、風が西へまわれば木は東へかたむきます。こうした種類の愛は人生の偶然の状況で発生します。これは、愛ではなく、ただ知り合いという程度のものにすぎません。いつどう変るか分らない状態です。

 今日、二人は大変仲良しですが、明日になると全然変ってしまうかもしれません。昨日まで二人は互いのために死ぬほどの覚悟でしたが、今日は絶交しているのです。これは、愛ではありません。それは人生の偶然のことに心をふりまわされている状態です。こうした愛はそれを発生させた原因がなくなればなくなってしまいます。これは真実の愛ではありません。

 愛には私がいままで説明した四種類しかありません。()神の、神の本性に対する愛。キリストは神は愛なりと言っています。()神の、神の子たち、つまり神の僕に対する愛。()人間の、神への愛。そして、()人間相互の間の愛です。これら四種類の愛は神から生じたものです。これらは真理の太陽からの光であり、聖霊の息吹であり、実在の(しるし)なのです。

 

 

第五十九 アブドル・バハの著わされた書簡  (一九一三年八月二十八日)

 

 おお、汝、わが愛する娘よ.

 汝の雄弁な、そして流暢な手紙を花園の、穏やかな微風(びふう)が漂う涼しい木陰で精読した。目の前には物理的喜びをもたらすあらゆるものがあり、汝の手紙は我にとって精神的喜びの原因となった。まことに、それは手紙ではなく、ヒヤシンスやさまざまな花で飾られたバラ園となったのである。

 そこには天国の甘い芳香が漂い、神の愛の軟風がそのバラ色の言葉から吹いていた。

 私は多忙で余り時間がないので、簡単に、要点をかいつまんで返事をしたためる。

 このバハオラの啓示においては、女性は男性と肩をならべて行くのである。いかなる動きにおいても女性は取り残されることはない。女性の権利は男性の権利と同等である。女性は政治のあらゆる部門に入り、およそ人間世界の最高の地位と考えられる位にもつき、あらゆる事業にも参画するであろう。確信せよ。現在の状態が女性の地位などと見てはならない。女性の世界があまねく光り輝き、すべてがすばらしいものとなるのもそう遠くはない。なぜなら、それは尊師バハオラがそうなることを意図されたからである。選挙の際の投票権は、女性から奪うことのできない権利であり、女性が人間活動のあらゆる部門に進入することは、論争の余地のないことである。何人もそれを防害することはできない。

 しかし、女性の参与がふさわしくないこともある。たとえば、国が敵の攻撃に対して活発に防衛戦線をはっているときは、女性は軍事行動から免除される。好戦的な野蛮(やばん)な種族が国民の全部を大規模に虐殺しようと激しく攻撃してくる場合があるかもしれない。そうした事情の下では防衛は必要である。しかし、そうした防衛手段を組織し、施行するのは男性の任務であって、女性の任務ではない。女性の心情は優しく、それがたとえ防衛のためであっても、慄然とする虐殺の光景には到底耐えることができないからである。女性はそうした仕事は免除される。

 正義院の組織に関して、バハオラは男性に呼びかけておられる、「お、汝ら正義院の男性諸君よ!」と。

 しかし、そのメンバーを選挙する場合、投票と発言に関する限りその権利が女性にあることは言うまでもない。そして遂に女性が最高度の発展をとげるとき、時代と場所の緊急度と、女性の偉大な能力に応じて、すばらしい特権が与えられよう。汝ら、これらの記述を信じよ。尊師バハオラは女性の正当性を大いに力説された。女性の権利と特権はアブドル・バハの最大原則の一つである。安心するがよい。まもなく、男性が女性にむかって、こう言いかける時が来るであろう、「汝ら、祝福されたるものよ。汝ら、祝福されたるものよ。まことに汝らはあらゆる神の賜物をうけるにふさわしい。まことに、汝らはその頭を不滅の栄光の冠で飾るにふさわしい。なぜなら、科学や芸術、それにあらゆる美徳や完成において、汝らは男性と同等であり、心の優しさ、あふれるばかりの慈悲とあわれみ深い情という点では汝らは男性に優るものだからである。」