第二編
バハオラの教えの十一の原則についてアブドル・バハのパリでの説明
真理の探求
人類は本来一つであること
宗教は愛と愛情の源となるべきである(別々のものではない)
宗教と科学の一致
偏見の廃棄
生活の手段
法の前に人間は平等である
世界平和
宗教は政治に関与せず
男女両性の平等―女性の教育
聖霊の力
第四十 パリにおける神知学会
私はパリ到着以来よく神知学会のことを耳にしました。そしていま、この会が名誉ある、世に尊敬されている人たちから構成されていることを知りました。皆さんは知性と思想の持主であり、精神的理想に燃えておられます。こうした皆さんの中にいることは私にとって大きな喜びであります。
今夕、私たちをここへ導いて下さった神に感謝いたしましよう。皆さんが真理の探求者であることを知り、嬉しく思います。皆さんは偏見という鎖に縛られることなく、真理を極めることを願っておられる。真理は太陽になぞらえることができます。太陽はあらゆる暗い影を消散させる発光体です。同じように、真理は私たちの想像からくる暗い影を消してくれます。太陽が人体に生気を与えるように、真理は魂に生気を与えます。真理は地平線上のいろいろな地点から昇る太陽のようなものです。
ある時、太陽は地平線の中央から昇りますが、夏になると北寄りの地点、冬には南寄りの地点から昇ります。しかし、どの地点から昇ろうと、それはまったく同じ太陽なのです。
同様に、真理はその現れかたに大きな相違があるとしても、一つのものである。世間にはそれを見る眼をもつ人もいます。こうした人たちは地平線上のどの地点から夜明けがはじまろうと、太陽を礼拝する。太陽が冬の空に没して夏の空から現われて来ようと、彼らはどうすれば太陽を見つけることができるか知っています。ところが、太陽が昇った地点のみを礼拝する人もいます。こうした人たちは太陽が違った地点から昇っても、依然としてそれが前に昇った地点を礼拝し続けるのです。悲しいかなこうした人たちは太陽の祝福をうけ損ないます。本当に太陽そのものを崇める人たちは、太陽がどの地点から昇ろうとそれが太陽であることを認め、その輝きにまっすぐ面をむけるでしょう。
私たちは太陽そのものを崇め、その出現の場所のみを礼拝するものとなってはなりません。同様に啓発された心の持主はその真理が地平線上のどこから現れようと、真理を礼拝するでしょう。彼らは個々の人物にとらわれることなく真理に従い、それがどこから来ようとそれを認めることができます。真理こそは人類を進歩発展させ、あらゆる創造物に生気を与えるものであり、それは「生命の大樹」なのです。
バハオラはその教えの中で真理について説明しておられます。私はこれについてあなた方に簡単にお話したいと思います。なぜなら、皆さんは理解してくださると思うからです。
バハオラの第一原理:真理の探求
心置きなく心理を探求するためには、人はあらゆる偏見や自分自身の想像から生まれでたものを心から断ち切ってしまわなければなりません。真理はあらゆる宗教で一つであり、このことによって世界の和合を実現させることができるのです。
あらゆる民族は根本的に共通する信仰を持っているのです。真理はただ一つであるがゆえに分裂させられることはありません。諸民族の間に意見の相違があるように見えるのは、彼らが偏見に固執する結果にほかならないのです。人びとが真理を探し出しさえすれば、彼らは自然に一つになるでしょう。
バハオラの第二原理 人類は一つ
唯一の、そしてすべてを愛し給う神は、その聖なる恩寵と恩恵とを全人類に与えておられます。人類はすべて、至高なる御方の僕であり、神の優しさ、慈悲、慈愛は神の創造物すべての上にふり注がれています。この人類の栄光こそ、各人に授けられた財産です。
すべての人は、同じ一つの木の葉であり、果実です。彼らはすべてアダムの樹の枝で、同じ源から生まれているのです。同じ雨がすべてをうるおし、同じ暖かな日光によって成長し、同じ微風をうけて活気づけられています。ただ一つの違い、そしてそれが彼らを別々にしているもの、それは、導きを必要とする子供、教えられねばならない無知者、いたわって癒やされなければならない病人があるということです。このように、全人類は神の慈悲と恩寵に包まれています。聖典に述べられているように−−全人類は神の前に平等である。神は何者も尊敬することなし。
バハオラの第三原理:宗教は愛と愛情の源となるべきである
宗教はあらゆる人の心を和合させ、戦争や不和をこの地上から消散させる源となり、精神性を生み出させ、一人一人の心に生命と光をもたらすものでなければなりません。もし宗教が不和や憎悪や分裂の原因となるなら、そんな宗教はない方がいいのであって、そうした宗教から身を引くことは真の宗教的行為です。治療の目的は癒やすことですが、もしその治療が症状を悪化させるだけであれば、治療をせず、そのままにしておいた方がよいでしょう。愛と和合をもたらさないような宗教は宗教ではありません。すべての聖なる預言者は魂を癒す医者のようなものです。彼らは人類の病を癒す処方箋を与えたのです。ですから、病気を生み出すような治療は、どのような治療であっても、偉大なる至高の医師から出される治療ではないのです。
バハオラの第四原理:宗教と科学との一致
科学を一つの翼、そして宗教をもう一つの翼と思ってください。烏が飛ぶために両翼を必要とします。一方だけでは何の役にも立ちません。いかなる宗教であれ、科学と矛盾する、あるいは科学と相反するようなら、それは無知でしかありません。無知とは知識と相反するものです。
偏見に満ちた祭式や儀式だけで成りたっている宗教は本物ではありません。皆で、宗教と科学を一つに結びつける道具になるよう真剣に努力しましょう。
モハメットの義理の息子アリはこう言いました。「科学と一致するものはまた宗教とも一致するものである。」人間の英知が理解できないようなものを、宗教が承認するはずはないのです。宗教と科学は手に手をとって歩むものであり、科学と相容れないような宗教はすべて本当のものではありません。
バハオラの第五原理:宗教的、人種的あるいは宗派的偏見は人類の基盤を破壊する
憎悪や戦争や流血といったような、世界にみられる分裂はすべて、これらの偏見のいずれかが原因で引き起こされたものです。
全世界を一つの国と見なし、あらゆる民族を一つの民族と見、全人類をただ一つの人種に属するものであると見なさなければなりません。さまざまな宗教、人種、民族というものはすべて、人間が作った分類であり、人間の思考の上で必要なだけです。神の前では、ペルシャ人もアラビア人もフランス人も、あるいはイギリス人もありません。神は万人の神であり、神にとってはすべての創造物は一つのものなのです。私たちは神のみに従い、あらゆる偏見を捨てて、地球上に平和をもたらすことによって神に従うよう、努力精進する必要があるのです。
バハオラの第六原理:生存手段の機会均等
人間は誰もが生存権をもち、安息とある程度の幸福を楽しむ権利をもっています。富者が大邸宅においてぜいたくと非常な安楽の生活をすることができるように、貧者も生活に必要な品は入手することができなければなりません。誰であれ餓死するというようなことがないようにすべきです。みんなが事足りるだけの衣服をもたなければなりません。一方で何の生活手段もない人がいるのに、一方ではあり余るほどもっているというようなことがあってはなりません。
誰も貧窮に泣くようなことがないよう、全力をつくしてより幸福な状態を実現するよう努力いたしましょう。
バハオラの第七原理:人間は法の前に平等である
法が統治するのであって、個人ではありません。そうであってこそ世界は麗しい住家となり、本当に皆が兄弟という姿が実現されるのです。一体性が達成されたとき、人類は真理を発見するでしょう。
バハオラの第八原理:世界平和
すべての国の人民と政府とによって最高裁判所が設立され、各国と政府から送られたメンバーが心を一つにしてここに集まるでしょう。そして、すべての論争がその法廷で裁かれます。戦争を防止することがこの裁判所の使命だからです。
バハオラの第九原理:宗教は政治問題に関与しない
宗教は精神的な問題にかかわり、政治は現世の問題に関与するものです。宗教は心の世界に作用するものであり、政治は外界のことがらを扱うものです。
人びとを教育し、彼らを導き、善き助言を与え、彼らが精神的に発達させるのは僧侶の仕事です。政治の問題には彼らは関与しません。
バハオラの第十原理:女性の教育と指導
女性はこの地上においては男性と同等の権利をもちます。宗教や社会において彼らはとても重要な構成部分です。女性がその最高の可能性に到達するのをはばまれている限り、男性もその卓越性を成就することはできないでしょう。
バハオラの第十一原理:聖霊の力、それによってのみ精神的発達は成就される
精神的発達というものは聖霊の息吹によってのみ実現されます。物質界がいかに発達しようと、いかに見事に装飾されようと、その内に魂がなければ、それは生命のない物体以外の何ものでもないのです。肉体に活力を与えるものは魂であり、肉体だけでは真の重要性はないからです。聖霊の祝福を奪われた物質的な肉体は活力のないものになるでしょう。
これらは、きわめて簡単な説明ですが、バハオラの原理の一部です。
要するに、真理を愛する者となることは私たちすべての者に課された義務です。いずれの時代、いずれの国においても、私たちは人物にとらわれないよう充分注意して、真理を探求しましょう。それがどこで輝こうとも、光を見、それが何処から昇ろうとも、真理の光を認めることができるようになろうではありませんか。いばらの中から漂いくる薔薇の芳香を吸いこもうではありませんか。そして、清らかな泉という泉から湧き出る水を飲もうではありませんか。
パリに着いて以来、皆さんのようなパリ市民にお会いできたことをとてもうれしく思います。というのも、神様のおかげで、皆さんは偏見がなく聡明で、真理を知りたいと願っておられるからです。皆さんは人類愛に燃え、力の限りをつくして、慈善事業のため、また、和合を実現するために努力しておられます。これはまさに、バハオラが特に願っていらっしゃるところのものです。
このような訳で、私は皆さんと共にあることをとても幸福に感じます。どうか皆さんの心の中につねに神の祝福が宿りますよう、そして皆さんがこの国の至る所に精神性を広める道具となられますようお祈りいたします。
皆さんはすでにすばらしい物質文明を持っておられます。同様に、精神的文明も実現されますように。
プレック氏がアブドル・バハに謝辞を述べると、彼はこう答えられました。
あなたが今述べられた心あたたまる親切なお言葉に心から謝意を表するものであります。これら二つの運動が間もなく全地球上に拡がるよう期待しております。その時、人類の和合は世界の中心にそのテントを張ることでしよう。
第四十一 第一原理:真理の探求 (パリ カムワンス4番地、十一月十日)
バハオラの教えの第一原理は真理の探究です。
真理の探究に成功したければ、先ず、第一に過去からのあらゆる伝統的な迷信に眼を閉じなければなりません。
ユダヤ人も伝統的な迷信をもっているし、仏教徒やゾロアスター教徒もそうした迷信を断ち切れず、キリスト教徒もまたそうです。すべての宗教は徐々に伝統と独断に縛られるようになってきたのです。
すべての宗教がそれぞれ、自分の宗教のみが真理の擁護者であり、他の宗教はすべて誤りから成立っていると考えています。自分たちだけは正しく、他は間違っているというのです。ユダヤ人は自分たちこそ真理の唯一の保持者であると信じ、他のあらゆる宗教を間違ったものと決め付けます。キリスト教徒は自分たちの宗教こそ唯一正しいものであるとし、他は間違ったものであると断言します。仏教徒やモハメット教徒もまた然り。すべては自分で自分を縛っているのです。みんなが互に非難しあうならば、私たちはどこに真理を求めればいいのでしょうか。すべてが互いを否認するなら、すべてが真理でないということになります。自分の宗教だけが唯一真実の宗教であると信じるならば、他の宗教の真理に眼を閉じることになります。例えば、もしユダヤ人がイスラエルの宗教の外面的礼式だけに縛られていれば、彼は他の宗教の中にもある真理を感知することができず、自分自身の宗教以外に真理があるはずはないと思うでしょう。
ですから私たちは宗教上の外面的な儀式や祭礼の形式にとらわれないようにすべきです。そして、こうした儀式や祭礼の形式は、それがいかに美しいものであったとしても、それはただ聖なる真理の暖かな心と活気ある四肢をつつむ衣服にすぎないということを悟らなければなりません。すべての宗教の心髄にある真理を発見することに成功したければ、伝統的な偏見を廃棄すべきです。もし、ゾロアスター教徒が太陽は神であると信じるなら、その者はどうして他の諸宗教と一つになれるでしょうか。また偶像崇拝者はさまざまな偶像を信じるが、彼らにどうして神は一つということを理解できるでしょう。
それ故、真理の探求を進めたければ、迷信を廃棄しなければなりません。真理の探求者が全員、この原理に従うなら、真理をはっきり見ることができるに違いないのです。
もし五人の人が真理を探求するために集まったなら、彼らは各自の特別の立場をすべて放棄し、あらゆる先入観を廃棄しなければなりません。真理を発見するため、あらゆる偏見を廃し、自分自身の小さな、つまらない考えを放棄すべきです。つまり、すべてを包容する広い心が不可欠です。もし、私たちの杯が自我でいっぱいであれば、生命の水の入る余地はないのです。自分たちだけが正しく、他の人はみんな間違っていると思うことこそが、和合の道における最大の障害物です。そして、もし私たちが真理へ到達することを望むなら、和合は必須です。なぜなら、真理は一つだからです。
したがって、真理の探求を心から望むなら、私たち自身の偏見や迷信を廃棄することが肝要です。もし私たちが自分で独断や迷信や偏見と真理とをはっきり区別できなければ、真理の探求はできません。一生懸命に何かを探すときは、あらゆる所を探しまわるでしょう。真理の探求に当ってはこの原則を適応すべきです。
科学は承認されなければなりません。いかなる真理も他の真理と相反するというようなことはないのです。光はいかなるランプの中で燃えていようとも、すばらしいのです。バラはどの庭園に咲いていようとも美しいのです。星は東洋から輝こうと、あるいは西洋から輝こうと、その輝きは同じです。偏見を断ち切りましょう。そうすれば、真理の太陽が地平線上のいずこの地点から昇ろうとも、それを愛するでしょう。イエス・キリストに輝きわたった真理の聖なる光は、モーゼや、仏陀の中にも輝きわたったということを悟るでしょう。真理の熱心なる探求者はこの真理に達するでしょう。これが「真理の探求」ということの意味です。
それはまた、私たちがいままで学んだすべてのものを取り除き、真理へ到る道の防害となるすべてのものを除去しようとすることを意味し、必要とあらば進んで私たちの教育をはじめからやり直そうとすることを意味します。どれか一つの宗教、あるいは一人の人物に執着するあまり、自分が迷信に縛られていることを自覚できないというようになってはならないのです。こうした束縛の一切を断ち切り、自由な心で真理を探求すれば、やがて私たちは目標に到達できます。
「真理を求めよ、真理はなんじを自由にする。」かくて私たちはすべての宗教の中に真理を見出すことでしょう。真理はすべてのものにあり、真理は一つだからです。
第四十二 第二原理:人類の和合 (十一月十一日)
昨日、私はバハオラの教えの第一原理:「真理の探求」について、このためにはあらゆる迷信的なものや、すべての宗教の心髄に真理が存在するという事実に目を閉じさせるあらゆる伝説を排除することがいかに必要であるかについて語りました。人間はある形式の宗教を偏愛し、それに執着することによって、他のすべての宗教を嫌ったりするようなことがあってはなりません。あらゆる宗教に真理を求める必要があります。そして、もし熱心に真理を探せば確かにそれに成功するでしょう。
さて、私たちが「真理の探求」を実行すると最初の発見が私たちを第二の原理「人類は一つ」へと導きます。すべての人間は、唯一無二の神の僕です。唯一なる神が世界の全民族を統御し、神の子としていつくしみ給うのです。全人類は一つの家族をなすもので、人類の栄冠はめいめいの頭上に輝きます。
創造主の眼には、神の子はみな平等です。神のご親切はすべてのもののうえに注がれています。この民族には恩恵を与えず、あの民族には恩恵を与えるということはなく、すべては同じように神の創造物なのです。であれば、なぜ私たちは互いに不和になり、離れ離れにならねばならないのでしょう。また、なぜ私たちは、人びとの間に争いや憎悪をもたらす迷信や伝統の障壁をつくらねばならないのでしょう。
人類家族のメンバーの間の唯一の違いはその成長の程度にあるのです。あるものは子供のようで無知であるため、成熟するまで教育しなければならず、あるものは病人のようであるため、優しい愛護の手が必要です。悪い人間とか邪な人間というものはないのです。私たちはこうしたかわいそうな子供たちを嫌がってはなりません。大いなる親切をもって、無知なる者に教え、病人を優しく看病しなければならないのです。
考えてみてください。和合は生存に必須のものです。愛は生の根源そのものであり、分裂は死滅をもたらすものです。例えば、物質的創造の世界では万物は和合のおかげでその生を保持しています。木や鉱物、あるいは石を構成する要素は引力の法則によって結合を保っています。もしこの法則が一瞬でもその作用を止めたならば、これらの要素はもはや結合を保つことができず、ばらばらに崩れ、その物はその形で存在することはできないでしょう。この美しい花も、引力の法則が幾つかの要素を一つにすることに寄ってその形を保持しているのですが、引力がその中心から消えるとそれは分解して花として存在することはできなくなるのです。
人類という大きな団体の場合もそうです。引力と調和と和合という驚くべき法則がこの不可思議な創造物を一つにまとめているのです。
全体に当てはまることは部分にも当てはまり、花であろうと人体であろうと、引きつけあいの原理が作動しなくなれば、花でも人間でも死滅するのです。ですから、引力や調和、和合、神の愛は生の根源であり、反発や不和、憎悪、分裂は死をもたらすものであることは明らかです。
私たちは生存の世界に分裂をもたらすものは何であれ、死の原因となるということを幾つも見てきました。同様に、霊の世界においも同じ法則がはたらいているのです。それ故、唯一なる神の僕はみなあらゆる憎悪や不和や争闘を避けて、愛の法則に従わなければなりません。大自然を見ても、比較的おとなしい動物は群をなして共に集団となるのですが、ライオンや虎、狼などの獰猛な動物は文明世界から離れた野生の森の中に住むものです。二匹の狼、あるいは二匹のライオンが仲よく一緒に住むこともあるでしょうが、一千匹の子羊は同じ囲いの中で住むことができ、多数の鹿は一つの群をなして住むことができます。二羽の鷲が同じ場所に住むこともできるのですが、千羽の鳩は同じ住みかに集まることができます。
少なくとも、人間は比較的やさしい動物のうちに入れられるべきものですが、いったん獰猛になると、最も残忍な動物よりもずっと冷酷で悪意に満ちたものになるのです。
いまやバハオラは、「人類は一つである」と宣言しました。すべての国民や民族は一つの家族をなすものであり、一つの父の子であり、互いに兄弟姉妹のようでなければなりません。私は、皆さんがこの教えを実生活に反映させ、世に広めるよう努力されることを期待しています。
私たちは敵でさえも愛し、友達にならなければならないとバハオラは言われました。すべての人びとがこの原理を遵奉すれば、この上ない和合と理解が人類の心の中に根をおろすことでしょう。
第四十三 第三原理
宗教は愛と優しさの源であらねばならないというこの原理は、他のいくつかの原則の説明と同じく、この本に納められている講話の随所で大いに強調されているものです。
第四十四 第四原理−宗教と科学と関連性の容認 (パリ カムワンス4番地十一月十二日)
アブドル・バハの言葉
私はこれまでに、「真理の探求」と「人類は一つ」というバハオラの原理についてお話してきました。これから第四原理、すなわち、「宗教と科学の関連性の容認」についてお話しようと思います。
真の宗教と科学との間には矛盾はありません。宗教が科学に反するなら、それは単なる迷信となります。知識に反するものは無知だからです。
科学が不可能と実証していることをどうして事実と信ずることができるのでしょうか。理性に反しても信ずるというのは、信仰というよりむしろ無知な迷信です。すべての宗教にひそむ真の原理は科学の教えるところと一致するものです。
神の一体性の思想は論理的であり、この思想は科学的研究によって達する結論に反するものではありません。
あらゆる宗教は、私たちは善をなさなければならない、私たちは寛大で、誠実で、真実に満ちあふれ、法に従い、信仰深くあらねばならないと教えています。こうした教えのすべては理にかなっており、論理的にも人類が進歩する唯一の道です。
あらゆる宗教上の法則は理にかなうもので、それはその法則が定められた当時の人びととその時代によく適合するものです。
宗教には二つの主要な要素があります。
1)精神的要素
2)実践的要素
精神の部分は不変のものです。神の顕示者や預言者はすべて同じ一つの真理を教え、同じ一つの精神的法則をもたらしました。彼らはただ一つの道徳律を教えています。真理に分裂はありません。太陽は人間の知能を照らすためにたくさんの光線を投げかけます。その光はいつも同じ光なのです。
宗教の実践面は外面的形式や祭式、あるいは特定の罪に対する罰の方法を扱うものです。これは法則の物質的側面であり、人びとの風習や作法を導くものです。
モーゼの時代には、死刑に処せられるべき十の罪が定められていました。キリストが顕われるとこれは変えられました。「眼には眼を、歯には歯を」という古い原則は、「汝の敵を愛せよ。汝を憎むものに善を施せ」という原則に変えられました。つまり、古い厳しい律法は愛と慈悲と寛容の法に変えられたのです。
昔は窃盗に対する刑罰として右手が切断されましたが、現代においてはもはやこの法をそのまま適用することはできません。昔は自分の父親に悪態をつくと死刑に処せられましたが、今ではそのような者も生きることを許されます。ですから、精神的法則は変わりませんが、実践的規則についてはその時代の必要に応じて適用法が変えられるということは明らかです。宗教の精神的面は二つの要素の中でも遙かに偉大な、遙かに重要なものであり、これはいつの世でも同じことです。これは決して変るものではありません。このことは昨日も、今日も、そして永遠に同じです。「初めにそうであったように、今もそうであり、また、永遠にそうでしょう。」
さて、すべての宗教の精神的な、不変の法則に含まれている道徳上の論点はすべて論理的に正しいものです。宗教がもし論理的な理性に反するならば、それは宗教ではなくなり、単なる伝統でしかないのです。宗教と科学とは、人間の英知が無窮の高みに舞い上がるためになくてはならない一対の翼であり、それによって人間の魂は成長するのです。一つの翼だけでは飛ぶことはできません。もし人が宗教という翼のみで飛ぼうとしたら、その者は即座に迷信の泥沼に落ちこむに違いありません。一方、科学の翼だけであると、その人の進歩は止まり、唯物主義の絶望の渕に落ちこんでしまいます。今日の宗教はみな、それぞれの宗教が宣言する教えの真の原理からも、またその時代の科学的発見からもずれ、迷信的な因習に堕ちこんでいます。多くの宗教的指導者は、宗教の重要性は主としてある特定の独断的教義や儀式や祭式を守ることであると考えるようになっています。彼らは救済しようとする人たちにむかって自分と同じように信じるよう教え込み、教えられた人たちは外面的な形式をかたくなに固守して、内奥の真理と混同してしまうのです。
さて、こうした形式や祭式はいろいろな教会のあいだで、あるいは異なる宗派のあいだで違いがあり、中には互いに相反するものさえあって、不和と憎悪と分裂を生み出しています。多くの文化人たちが、宗教と科学とは互いに矛盾したものであり、宗教は内省の力を必要とせず、科学によって規制されるべきものではなく、したがって相互に反するのもまた止むを得ないと考えるのは、すべてはこうした意見の相違の結果なのです。不幸にもこうした風潮の結果、科学は全く宗教からかけ離れたものと考えられ、宗教はある宗教指導者たちの教える教義をただ盲目的に、これという感動もなく信じてゆくものと考えられるようになってしまいました。そうした指導者たちは、たとえ科学と矛盾していても、自分たちの都合のよい独断を承認されたものとして堂々と説いているのです。これは実に馬鹿げたことです。なぜなら、科学は光であり、そうであるなら、真の宗教といわれるものは知識に反するものでないということは明らかだからです。
「光明と暗黒」「宗教と科学」という言い方をよく耳にしますが、科学と手に手をとって歩まない宗教は自然に迷信と無知の暗黒の中に入ってしまいます。
世界の不和や分裂の多くは人間が勝手につくりだしたこうした反目や矛盾によって生まれました。もし宗教が科学と調和し、共に歩むならば、現在人類に悲しみをもたらしている憎悪や恨みは終焉するでしょう。
人間を他のすべての創造物より優れたものとしているものは何でしょう。それは人間の理性の力、人間の英知とは思いませんか。宗教について学ぶ際にこれらの力や英知を使ってはならないのでしょうか。私は、何であれ、これは宗教ですと示されたときは、理性と科学の天秤をもって注意深く検証するよう、皆さんにお勧めします。もしこのテストに通ったらそれを承認するとよいでしょう。それは真理であるからです。しかし、そうでないときはそれを拒否しましょう。なぜなら、それは無知というものだからです。
今日の世界がどんなに迷信や外面的形式に溺れているかを見てください。
ある人たちは自分たちの想像で産み出したものを礼拝しています。彼らは自分勝手な想像で神をつくり、それを礼拝します。しかもそれは、彼らの限られた思考が創り出す物ですから、眼に見えるもの、不可視のものすべてを含む、無限にして全能なる創造主の創造物とはなり得ないのです。また、太陽や樹木、あるいは石を拝む人たちもいます。過去においては、海や雲、あるいは粘土さえも礼拝する人たちもいました。
今日では、この祭式はどうの、あのやり方はどうのと論義するような、あるいは至るところで退屈な議論や不安の声を聞くようになるほど、人々は外面的形式や祭典への愛着を増強させています。世間には知的に貧弱な、そして道理にかなった考え方の発達していない人たちがいます。しかし、こうした人たちに理解できないからといって、宗教の力を疑ってはなりません。
小さな子供には自然を支配する法則は理解できません。しかし、それはその子供の知性が未熟であるからで、ずっと大きくなり、教育をうければ、その子供もまた永劫不滅の真理を理解できるようになります。子供は地球が太陽の周囲を回っているという事実を把握できませんが、彼の英知が目覚めるとその事実は彼にとって自明の理となるのです。
たとえ知性が貧弱で未熟であるため真理を理解することができない人がいるとしても、宗教が科学に矛盾するということはありえないのです。
神は、宗教と科学を、云わば、私たちの理解力の尺度とされました。そうしたすばらしい力を軽視しないよう注意しましょう。すべてのことをこの天秤にかけて見るべきです。
理解力のある人から見れば、宗教は開かれた書物のようなもので、理性と知性を欠く人がどうして神の聖なる実在を理解できましょう。
科学との調和を信じるべきです。真理は一つですから矛盾があろうわけはないのです。宗教がその迷信や伝統、無知な独断的教義と絶縁し、科学と完全に一致しているならば、そのときこそ世界を統一し、世界を清浄にする偉大なる力となり、その力の進むところには戦争も不和も仲たがいも争いも、すべて姿を消すことでしょう。そして、全人類は神の愛の力のもとに一つに結びつけられるでしょう。
第四十五 第五原理−偏見の廃棄 (パリ、カムワンス4番地、十一月十三日)
私たちは宗教、人種、政治、あるいは国家などの、あらゆる種類の偏見を断ち切ってしまわなければなりません。なぜなら、こうした偏見が世界の病を引きおこしているからです。それは重大なる病であり、阻止しなければ、全人類を破滅させる原因にもなり得るのです。恐ろしい流血や悲惨な破壊的戦争はすべて、これらの偏見のいずれかによって引きおこされます。
現代進行している嘆かわしい戦争は、一国民の他の国民に対する熱狂的な宗教上の憎悪か、あるいは人種上の、または皮膚の色についての偏見が原因です。
偏見からくるあらゆる障壁を除去しないかぎり、人類が平和に暮らすことは不可能です。このゆえにバハオラは言いました。「こうした偏見は人類を破滅に導くものである。」
先ず宗教上の偏見について考えて見ましょう。いわゆる宗教的な民族が、もし真に神を礼拝する民族であるならば、互いに殺し合うことを禁ずるという神の法に従うに違いありません。
宗教を奉ずる僧侶たちが、もし、真に愛の神を礼拝し、神の光に奉仕するものであるならば、彼らは「すべての人びとを愛し、あわれむべし」という主要な戒めを守るよう人びとに教えるでしょう。しかし実際は逆で、僧侶たちはしばしば諸民族に戦うよう奨めているのです。宗教上の憎悪ほど残酷なものはありません。
すべての宗教は私たちに、互いに愛し合い、他人の欠点を非難する前に自己の欠点を省み、隣人よりは自分の法が優れているなどと考えてはならないと教えています。私たちは、面目を失うまいとして高慢にならないよう注意すべきです。
私たちは判断を下すと言いますが、その私たちとはいったい何者ですか。神の目から見てこの人こそ最も正しい人間であるとどうして私たちが知ることができましょう。神の考えは決して私たちの考えているようなものではありません。友人たちの目に聖人のように見えた人たちが、この上もない屈辱を受けるようになったということはなんと多いことか。イスカリオテのユダのことを考えてください。初めはうまくいったのですが、彼の最後はどうだったでしょう。一方、聖なる使徒パウロは、初めはキリストの敵でした。しかし、後になってキリストの最も信仰深い僕となりました。私たちは得意になって他の人びとを軽蔑するようなことはできないのです。
ですから、偏見を捨てて、謙虚になり、自分の利益よりは他の人びとの利益を尊重するようにしようではありませんか。決して、「自分は信者であるが彼は異端者だ」「私は神に近いが彼は神に見放された者である」などと言ってはならないのです。私たちは、最後の審判がいかなるものかを決して知ることはできません。だから、どのような援助であれ、助けを必要としている人がいれば、それらすべての人を助けようではありませんか。
無知の者には教え、幼児については成熟するまで面倒をみましょう。苦難や罪のどん底に落ちこんでいる人を見たら親切にし、手をとって再起を助け、力づけるべきです。私たちは愛情と優しい心でその人を導き、敵ではなく友として遇すべきです。
私たちには他のいかなる人をも悪人と見る権利はありません。
人種的偏見について言えば、それは幻想であり、全く単純な迷信です。と言うのも、神は私たちのすべてを一つの人種として創られたからです。そもそも私たちの間には何の相違もなかったのです。すべてはアダムの子孫です。また、初めはそれぞれの土地の間に制限や国境はありませんでした。地球のどの部分も、特定の人民により多く属するというものではく、神の目には、種々の人種間に違いはないのです。人間はなぜそうした偏見を作り上げねばならないのでしょう。どうして私たちは、ある迷いによって引き起される戦争を支持できるのでしょうか。
神は、相互に破壊し合うような人間を創造されたのではありません。すべての人種、種族、宗派、階級の人々は一様に天なる父の恩恵を平等に受けています。
唯一の相違は、神の法に対する信仰と服従心の度合いにあるのです。明々とともる松明のような人もいれば、人類という天空に輝く星のような人もいます。どのような民族や信仰、あるいは皮膚の色の人でも、人類を愛する優れた人たちがいます。「あっぱれなるかな、我がすばらしき忠実なる僕よ」という神の祝福の言葉をうけるのは実にこうした人たちなのです。その時、神は「お前はイギリス人か、フランス人か、それともペルシャ人か?東洋から来たのか、西洋からか?」などとお尋ねにはならないでしょう。
本当に存在している唯一の区別はこれです。すなわち、天界を仰いで暮らす人間と世俗的な暮らしをする人間、つまり、至高の神の愛で自分を犠牲にして人類のために奉仕し、人類に調和と和合をもたらし、平和と善意を教える人たちと、利己的で、兄弟を憎み、愛情深い親切ではなく偏見が心を支配し、絶えず不和と闘争とをかもし出す人たちです。
こうした二種類の人たちはどの人種に、あるいはいずれの肌の色の人に属しますか。白色人種ですか、黄色人種ですか、黒色人種でしょうか、あるいは東洋人、それとも西洋人でしょうか、北洋ですか、南洋ですか。もしこれらの区別が神によって創られたものであるなら、どうして私たちは別の区別を作り上げねばないのでしょう。政治的偏見も同じように有害で、それは人の子たちの間に激しい闘争を引き起す最大の原因の一つになっています。世間には不和をかもし出すことに快感を覚え、絶えず自国が他国と戦争をするよう煽動する人たちがいるものです。なぜでしょう。彼らは他を害して自国の利益をはかることを考えます。彼らは世界的に有名になり、征服の喜びを味わうために他国を悩まし破壊する目的で軍隊を派遺します。あるいは、「その国は他国を打ち負かし、それを遙かに強力な、優れた支配の下に置いた」と言うかもしれません。こうした勝利は多大な流血の代償を払って買い取られもので、長続きはしないのです。征服者はいつの日か征服され、征服された者が勝利を得ます。過去の歴史を見ても、フランスは一度ならずドイツを征服しましたが、やがてドイツ民族はフランスを打ち負かしました。
周知のようにフランスはイギリスも征服しましたが、やがてイギリス人はフランスを征服し、勝利を得ました。
こうした華々しい征服はきわめて儚いものです。征服を達成するためにはその国民の血をあえて流させることになるのに、いったい彼らはなぜそれほどまでに征服とその名声を重視するのでしょう。いかなる勝利であれ、おそらくは双方の国民の実に数多くの家庭を苦しめ、圧倒する破滅や悲嘆、人間の殺戮の結果として必然的に起こる諸悪や不幸をあえて招いてまで勝ち取るべき値打があるでしょうか。なぜなら、一国だけが災難を被るということはないからです。
おお!神に背く者よ、なぜ精神的法則の力の模範となるべき人間が、神の教えから顔をそむけ、破壊と戦争に全力をつくすのでしょう。
私の希望は、聖なる光が全世界に輝きわたるこのような文明の世紀に、すべての人間の敏感な心の英知をさがし出すこと、また、真理の太陽の光が政治家たちを導き、彼らが偏見と迷信によるすべての主張を振り払い、とらわれない自由な心で神の聖なる政策に従うようになることです。神聖なる政治は力強く、人間の政治は内容の乏しいものだからです。神は全世界を創造し、万物に彼の聖なる恩恵を与え給いました。
私たちは神の僕ではありませんか。師の手本に従わず、神の戒めを無視してよいものでしょうか。
私は神の王国がこの地上に現れ、すべての暗黒が聖なる太陽の燦然たる輝きによって消散させられるよう祈ります。
第四十六 第六原理−生活の手段 (パリ、カムワンス四番地)
バハオラの教えの中で最も重要な原理の一つは、あらゆる人間は生存のための日々のパンを得る権利を持つ、あるいは生活手段の均等化ということです。
人びとの生活状態は、貧乏をなくし、すべての人が可能な限りその地位と身分とに応じて楽しみと幸福とを分かち合えるよう整えられるべきです。
実際、私たちの中にはあり余る財産を積み上げている連中がいるかと思うと、何もなくて飢えている人もいます。数軒の豪邸を持っている者もいれば、寝る場所もない者もいます。また、盛りだくさんの高価なご馳走ばかりを食べている人がいるかと思うと、命をつなぐに足りるだけのパン屑さえも得られない人もいるのです。ビロードや毛皮、リンネルの衣服を着る者もいれば、貧弱な薄っぺらな外套で寒さをしのがなければならない連中もいます。
こうした事態は不適切であり、矯正されなければなりません。いまやその対策を注意深く実施する時期です。これは人々の間に絶対的平等の状態をもってきたところで実現できることではありません。
絶対的平等というものは一種の妄想にひとしく、ギリシヤ神話にでてくる「頭は獅子、胴体は羊、しっぽは蛇で火を吹く怪獣」のようなものです。それを完全に実行するなど不可能なことです。たとえ実行したとしても永続するものではありません。もし絶対的平等が可能ならば、世界の全秩序は崩れてしまうに違いないからです。人類世界には常に秩序がなければなりません。天は人間の創造にあたってそのように定め給うたのです。
世間には知性にあふれている人もあり、並みの知性しか持たない人もあるし、また、知性を欠いている人もあります。こうした三つの階級の人たちの中には平等はありませんが秩序があります。知恵と愚鈍とが平等であるなどということはあり得ないでしょう。人類は大軍団と同じように、一人の将軍と隊長たち、およびそれぞれの階級の将校たちとそれぞれの義務を課せられた兵隊が必要です。秩序ある組織の保持には階級が不可欠です。将軍だけでも、隊長たちだけでも、また一人の指揮者も持たない兵隊だけでも軍隊は成り立ちません。そのようなことを行えば、その軍隊全体は無秩序となり、結局、士気を失ってしまうに違いないのです。
スパルタの哲学者であったリクルグス王はスパルタ人民の平等化という大計画を立て、知恵と自己犠牲をもってこの実験を開始しました。やがて、王は自分の王国の人民を招集し、たとえ自分が国を去ることがあっても今のままの政府の制度を維持し、自分が帰国するまではどんな事情があろうとそれを変えないと誓約させたのです。彼はこのような確約をさせてスパルタの国を去ったまま二度と帰って来ませんでした。リクルガスは自分の王国の財産や生活条件を平等化することによって人民の永遠の福利と幸福を達成させようと考え、王という高い地位をすて、それまでのすべての状態をあきらめたのです。王の自己犠牲のすべては無駄でした。この大実験は失敗したのです。しばらくすると、すべては破壊され、彼が丹念に考え出したこの制度も終りを告げました。
そうした計画をたてることがどれだけ無駄なことであるか、生活条件を平等化することがいかに不可能であるかはスパルタの古代の王国が十分に物語っています。現代においても、およそそうした企ては同じように失敗の運命をたどるに違いありません。
たしかにある者は莫大な財産を持ち、ある者は嘆かわしいほど貧しい状態にあるという状態に対して組織が統御し、改善する必要があります。金持ちに制限が重要であるように貧乏に対する制限もまた重要です。いずれにせよ、極端は良くありません。中庸[2]が一番望ましいのです。資本家が莫大なお金を所有することが正しいことであるならば、彼が使う労働者が充分な生活資金を得ることも同様に正しいことです。(注〔2〕「金持ちでもなく、貧乏でもないようにしてください」箴言書三〇・八)
その人のそばには極貧にあえぐ貧乏人がいるのに、巨大な富を持つ金融資本家があるというようなことがあってはなりません。貧困が放置され餓死のところまで来るようならば、疑いもなく何処かで圧制がある兆しです。人々はこの問題のために奮起しなければなりません。これ以上、みじめな貧困の悲しみを大勢の人たちに及ぼさないよう、きっぱりとして事態を変革すべきでしょう。富める者は彼らの豊満な財産を分ち与え、本当に日々の必需品にも事欠いて苦悩している惨めな人びとに思いを寄せ、心情を和らげ、哀れみ深い知性に目覚めなければなりません。
こうした極端な貧富の差を是正する何らかの特別の法律を制定すべきでしょう。政府の各メンバーは人民統治に関する諸計画を考えるとき神の法則を考慮に入れなければなりません。人類の普遍的権利は保護され、確保されなければならないのです。
国の政府は万物に平等に正義を与え給うた神の法則に従うべきです。この神の法則に従うことなくしては、到底、あの莫大な富の悲しむべき偏在をなくすことも、また社会の品位を落とし、秩序を乱すかの嘆かわしい貧困を廃除することもできません。こうした政治が行われてはじめて神の法則は遵奉されるのです。
第四十七 第七原理 人間は平等である
「神の法則というものは神が気ままな気持から、あるいは権力をふるい、あるいは面白がって下す命令ではない。それは、真理と理性と正義とから生まれる神の決議である。」
すべての人間は法の前に平等であり、この「法」は絶対的な支配をもつものです。刑罰の目的は復讐ではなく、犯罪防止にあります。
王は知恵と正義とをもって統治しなければなりません。王子も貴族も、農民も、それぞれ正当な取扱いを受ける権利を平等に持っています。個人をえこひいきすべきではありません。裁判官は「人を尊重する人」ではなく、自分に委ねられた事件のすべてについて厳格に、公平に法を執行する人であるべきです。
もしある人があなたに対して罪を犯したとして、あなたには彼を赦す権利はありません。法は、他の人びとが同じ犯罪を再び繰返すのを防止するため、彼を罰さなければならないのです。個人の苦痛は多くの人びとの最大幸福に比べれば重要ではないからです。
完全な正義が東洋と西洋のあらゆる国を支配するようになるとき、この地上は美しい土地となるでしょう。神の僕、全員の尊厳と平等が認められ、人類は一つであるという理想、つまりすべてが兄弟姉妹であるという人間の真実の姿が実現されるでしょう。そして真理の太陽のすばらしい栄光は人類の魂を明るく照らすことでしょう。
第四十八 第八原理 世界平和 (パリ、カムワンス四番地)
各国の人民と政府からこのために選ばれたメンバーによって構成される最高裁判所が世界各国の人民や政府の手で設立されるべきです。この大評議会のメンバーは心を一つにして集らなければなりません。国際的な紛争はすべてこの大裁判所に提出され、この裁判所は、そのままにしておけば戦争の原因となるようなあらゆる問題を平和裡に処理する必要があります。この最高裁判所の使命は戦争防止にあります。
世界平和に向かう重要なステップの一つは、一つの国際語を制定することです。バハオラは、人類の僕たちは共に集い、現存する言語のうちの一つを選ぶか、または一つの新たな言語をつくるべきであると命じておられます。これは四十年前に「アグダスの書」に書かれています。言語の多様性の問題は実に難しいものであるということは、アグダスの書が指摘するところです。世界には800以上の言語がありますが、それらのすべてを修得することは誰にもできません。
人類の各種族は昔のように孤立状態ではなく、いまや、あらゆる国々と密接な関係を保持するためにはそれらの国々の言語を話せなければなりません。
一つの国際語はあらゆる民族との交りを可能にしてくれます。こうなると、母国語と国際語の二つを知るだけで事足りるのです。国際語を使えば世界中の誰とでも交流できます。
第三の言語は必要なくなります。あらゆる人種、あらゆる国の人たちとの会話に通訳の必要がないということは、実に有益で、必安まることでしょう。
エスペラントはこうした観点で作られました。それは立派な創案で、すばらしい仕事ですが、完成の必要があります。現行のエスペラントはある人々にはとても難しいのです。
西洋と東洋の世界の各民族の代表からなる国際会議が組織され、この会議では万人が修得できる一つの言語が使われるべきです。これが実現すれば、すべての国はどれほど益を得ることでしょう。
こうした言語が用いられるまでは、世界は相互の交流を容易にする手段の必要性を痛感し続けることでしょう。現在、諸民族問の嫌悪や不信を助長する原因となっているものは言語の相違です。それらの民族の心が互いに離れるというのも、何はともあれ、彼らが互いの言葉を理解しないからです。
誰もが一つの同じ言語で話すことができれば、人類への奉仕もどんなに容易になることでしょう。
ですから「エスペラント」の良さを認めましょう。それはバハオラの最も重要な法則の一つを実行する手始めで、やがて改善され、ますます完成された言語になるにちがいありません。
第四十九 第九原理−宗教は政治に干渉せず (パリ、カムワンス四番地 十一月十七日)
人間は日々の生活で、二つの主要な動機、つまり「報酬への期待」と「刑罰に対する恐れ」によって行動を決します。
政府の重要な地位を占める人たちは、当然、人びとがこの希望と恐怖とによって動いているという点を十分に考慮しなければなりません。彼らの仕事は法体制について共に協議し、正しい行政を行なうことです。
世界的秩序の幕屋はこの「飴と鞭」の二つの柱を土台に張りめぐらされます。
神聖な信仰がない人たちによって行われる専制政治にあっては精神的応報への恐怖というものはなく、法の執行は残酷で不当です。
圧制を抑えるうえでこうした二つの感情、すなわち、希望と恐怖とに優るものは他にありません。それらは政治的、および精神的結果を生み出すのです。
もし法の執行者が、自分たちの下す判決が生み出す精神的な結果を考慮し、宗教の導きに従うなら、「彼らは行動の世界における神の代理者、地上の人たちの神の代表者となり、神の愛の代行者として神の僕らの利益をあたかも自分自身の利益をまもるごとく保護するに違いありません。」もし統治者が自分の責任を自覚し、神の法則を侮ることを恐れるならば、彼の判決は正しいものになりましょう。なかでも、自己の行動の結果はこの地上での生活で終るだけではなく、来世にまでもついてまわるものであり、「自分の蒔いた種は自分で刈り取らなければならない」ということを信ずる人は、確かに、残酷な、不正なことを回避するはずです。
これに反して、神の恩恵や歓喜あふれる霊の国のことなどなにも知らず、信じず、自分の行動の責任はすべてこの地上生活で終るものと考える役人は、正しい行動をとろうという動機や、圧制と不正を撲滅しようというインスピレーションに欠けているでしょう。
統治者が、自分の判決はやがて聖なる裁判官の審判をうけ、その結果、合格と認められるなら天国に入り、天の恵みの光をわが身にうけるものであることを知るとき、彼は必ずや正義と平等をもって行動することでしょう。国の大臣たちが宗教によって啓発されることのいかに重大であるかを見てください。
しかしながら、僧侶は政治的問題にはなんの関係もありません。宗教上の諸問題は今の世界の状態では政治と混同されるべきではないのです。(つまり、彼らの関心事は全く宗教と一致しないからです)
宗教は心、精神、道徳上の諸問題に関与するものです。
政治は人生の物質的事物を扱います。宗教上の教師は政治の領域を犯すべきではないのです。彼らは人々を精神的に教え導くことに精進し、神と人類への奉仕を心がけるよう絶えずに人々に善き助言を与え、精神的希望に覚醒めさせ、人類についての理解と知識を広げ、道徳牲を高め、正義への愛を深めるよう努力すべきです。
これがバハオラの教えていることです。福音書にもあります。「カイザルのものはカイザルに返せ、神の物は神に納めよ」と。(新約聖書マタイ伝 第22章)
ペルシャにも、重要な国務大臣たちの中に宗教的であり、模範的で、神を礼拝し、神の法則に背くことを恐れ、正しい判定を下し、平等の精神をもって人民を統治するものがあります。この地のその他の知事たちの中には、神を恐れず、自分の行動の結果についてなにも考えず、自分自身の欲望を満たすためだけに働くものがあり、このような者がペルシャに困難と苦境をもたらしているのです。
おお、神の友らよ、正義の生ける模範となりましょう。そうすれば、神の慈悲によって、世間はあなたの行動が正義と慈悲の行動であると見るようになるでしょう。
正義には限界はなく、普遍的な性質のものです。その作業は、最高の階級から最下位の階級にいたるまで、すべての階級で実施されなければなりません。正義は神聖であり、すべての人々の権利が考慮されるべきです。自分が自分自身にこうありたいと願うことのみを、他人のためにも望むべきです。そうすれば、私たちは、神の地平線から輝きわたる正義の太陽に歓喜することでしょう。
私たちはみな栄誉ある地位に置かれているのです。それを棄てるべきではありません。身分卑しい職人が不正を犯したら、それは悪名高き暴君と同じに非難されるべきです。このように、人には正義と不正義のどちらを選ぶか、選択権が与えられているのです。
私は、皆さんの一人一人が正しい人になり、絶えず人類の和合に思いを寄せ、断じて隣人を傷つけず、悪口を言わず、すべての人の権利を尊重し、自分自身の利害よりも他の人々の利害を心にかけるよう希望します。そうしたならば皆さんは、バハオラの教えに従う神の正義の松明となるでしょう。バハオラこそ、その存命中、神の世界の美徳を人類世界に明示し、霊の優位性を悟らしめ、神の正義に歓喜せしめんために数えきれぬ試練と迫害を耐え忍んだのです。
神の慈悲のはたらきで、神のお恵みが皆さんの上に降り注ぎますよう、これが私の祈りです。