第三十一 肉体と霊魂と精神について パリ、カムワンス 四番地にて 

 (十一月十七日 金曜)

 

 人間の世界は肉体、霊魂、それに精神の三つの段階に分けられます。

 肉体は人間の物質的な、あるいは動物的段階をいいます。肉体面から言えば、人間は動物界に属します。人間の肉体も動物の肉体も、それを構成する諸要素が互いに引寄せ合う法則に支配されて一つの形を保持している点で相通じています。

 動物と同様、人間には五感がそなわり、暑さ、寒さ、空腹、渇きなどの感覚に支配されますが、動物と違い人間には理性、つまり、人間の知恵がそなわっています。

 この人知は、肉体と精神を媒介するものです。

 人間が、霊魂を通して、精神の理解力を明るくされると、彼はすべての創造物を包容します。これまでにこの世に現われたあらゆる創造物の極致であり、以前の進化のすべてを越えて優位を占める人間は、下位の世界のすべてをわが内に包容するものだからです。霊魂の助けを得た精神によって啓発されると、人間の輝かしい知性がその者を万物の霊長とします。

 しかし逆に、人間が精神の祝福に心を開かず、魂を物質面と人間性の肉体的面のみに向けているならば、彼は人間の高い地位より転落し、低級な動物界に住む動物にも劣る存在となります。この場合、人間は実に哀れな状態になります。もし神霊の活力に向けて開かれた霊魂の精神的諸特性が全く使われないなら、それらの機能は衰え、萎縮してついには全く能力しなります。一方、魂の物質的資質のみが使われ、それが非常に強くなり、その不幸な、心得違いの人間は下位の動物たちよりもずっと野蛮(やばん)で、不正で、下劣で、残忍で、悪意にみちた人間となります。彼のあらゆる希望や念願はその魂の資質の低級な面を強く反映し、ますます野獣的になり、ついには滅びる運命をもつ野獣にも劣る存在となり果てるのです。こうした人は悪事をはたらき、他を傷つけ、破壊することをたくらみます。彼らは聖なる哀れみの精神をまったくもたないのです。なぜなら魂の聖なる特性が物質的特質によって占拠されているからです。もし逆に、魂の精神的性質が強まり、その物質的性向を支配するなら、その人は神性に近づきます。その人の人間性は実に素晴らしく、天上の集合の諸美徳がその者の内に現わされます。その人は神の慈悲を放出し、人類の精神的発展を刺激します。なんとなれば、その人は人類の前途に光を投げかけるランプとなるからです。

 皆さんは、霊魂がどのように肉体と精神の間の媒介となるかを感知されるでしょう。同様にこの木[]は種子と果実との媒介をなすものです。(注[] 近くのテーブルの上のオレンジの樹を指す)

 木に果実が実り、熟したとき、私たちはその木が完全であることを知ります。もし実を結ばなければ、それは目的を達することのない無益な成長をしたことになるのです。

 霊魂がその内に精神の生命を宿すとき、それはすばらしい果実を生み出し、聖なる木となります。この例を理解していただきたいと思います。そして、神の言いようもない素晴らしさが皆さんを強化し、精神と結びついている皆さんの魂の聖なる特質が永遠にその物質的性向を支配し、感覚を完全に支配して、その魂が天上の王国の完全性に近付くよう、私は希望します。神の光にしっかりと向けられた皆さんの顔が光り輝き、皆さんの想念、言葉、行動のすべてが皆さんの魂を支配する精神的な輝きによって照らされますよう、そして世界の集りにおいて、皆さんが自分たちの生命の完全性を示されるよう祈ります。

 世間には、もっぱら俗事に心をうばわれ、外的様相や因襲的な利害関係に支配されてしまって、他の世界の存在や万物の精神的な意味には全く気付かない生活をしている人たちがいます。彼らは世俗の名声や物質的な発展を考え、夢みています。感覚的な歓びと安楽な環境のみに心をしばられ、世俗的な条件や境遇の良さに最大の望みをかけているのです。自分たちの低級な性質を抑制することなく、食べて、飲んで、寝るのです。動物のように、自分自身の物質的な安寧しか考えません。確かに、こうした生活上の必要はさっそく処理されなければなりません。生活は私たちが地上にいる間、運ばなければならない一種の重荷です。しかし生活上の低級な事物への思いが人間としての想念や大望のすべてを押しつぶすようであってはなりません。心にいだく大望はもっと素晴らしい目標に向かって上昇すべきであり、精神活動はより高いレベルに昇るべきです。人間はその霊に聖なる天国の完全性を見、その魂は聖霊の尽きることのない恩恵の住家とならなければならないのです。

 皆さん、地上に天国の文明を建設するという大志をいだいてください。皆さんが聖霊の活力にみちあふれ、世界の生命の源となられますよう、皆さんのために至高の祝福を祈願いたします。

 

 

第三十二 バハイ信徒は世界によりよい状態をもたらすため心をつくして働かねばならない (十一月十九日)

 

 このような集会に出ることは実に喜ばしい限りです。なぜなら実際この集会は「天国に近い人たち」の集りだからです。

 私たちはみな、ただ一つの聖なる目的のために結ばれています。そこには物理的な動機はありません。私たちの最も大切な願いは神の愛を全世界にくまなく普及することです。

 私たちは人類の和合のために働き、祈ります。つまり、地上のあらゆる種族が一つとなり、すべての国が一つとなり、すべての心臓が一つの心臓として鼓動するように、完全な和合と兄弟愛のために一致団結して働くのです。

 神に賛美あれ、私たちの努力は心からのものであり、心は神の国に向けられています。真理をこの世に確立することこそ私たちの最大の念願であり、この希望のもとに私たちは愛と思いやりをもって互いに近づいています。すべての人が、人々の間の兄弟愛、平和、和合という大いなる理想にむかって、あらゆる個人的願望を犠性にして、一意専心、無私で精進しているのです。

 私たちの右にも左にも神は私たちとともに在り、そして、日々、神は私たちの数を増大させ、私たちの集会は強力で有用なものとなることを疑ってはなりません。

 皆さんのすべてが他の人にとって祝福となること、霊的に盲目の人たちに視力を与え、霊的に聾の人たちに聴力を与え、罪に死んでいる人たちに生命を与える人になっていただくことが私の最高の希望です。

 皆さんは、物質生活におぼれている人たちに自分が神の子供であることを悟らせ、立ち上がり、生きるにふさわしい人となるように彼らを励ます人となってください。やがて皆さんの努力で人類の世界は神とその選民の王国となるでしょう。

 私たちがこの大いなる理想の下に一つであり、私の念願はまた皆さんの念願であり、完全な和合のもとに共に働けることを、神に感謝いたします。

 今日地上では、残酷な戦争の悲惨な光景が見られます。人間は利己的利益のために同胞を殺し、自分の領土を拡大しています。こうした卑しむべき野望のために人間の心は憎悪の虜となり、ますます血は流されているのです。

 新たな戦争が始まり、敵の数は増大し、もっとたくさんの大砲や銃やあらゆる種類の爆発物が送り込まれ、恨みや憎悪は日ごとに増強しています。

 しかし、ありがたいことに、この集会はただただ平和と和合を念願し、世界によりよい状態をもたらすために心魂をつくして働きます。

 神の僕である皆さんが弾圧や憎悪や不和に抗して戦っているので、やがて戦争はやみ、平和と愛の聖なる神の法則が人類の中に樹立されるでしょう。

 働きましょう。あらん限りの力をつくして働き、神の国の大業を人類の間に拡大しようではありませんか。尊大な人たちに対し謙虚に神へ向かうよう、また罪深き人たちに再び罪を犯さぬよう教え、神の王国の到来を、悦びをもって期待しましょう。

 天の父を愛し、従いましょう。そして、神の助けは皆さんのものであることを確信しましょう。まことに、私は心から皆さんに申します、皆さんは確かに世界を征服するであろうということを。

 ただただ信仰と忍耐と勇気とを持つことです。これは始まりに過ぎませんが、必ずや皆さんは成功するでしょう、なぜなら、神は皆さんと共にあるからです。

 

 

第三十三 中傷について (十一月二十日 月曜日)

 

 世のはじめから今日に至るまで、神から遣わされたすべての「顕示者」は「暗闇の力」の権化によって妨害されました。

 この暗闇の力はいつも光を消そうと努力しました。暴虐はつねに正義を征服しようとし、無知は執拗に知識を踏みにじろうと試みました。これが物質界における昔からの方法であったのです。

 モーゼの時代には、古代エジプトのファラオはモーゼの光が世界にひろがるのを防ごうとしました。

キリストの時代には、アンナズとカヤバがユダヤ人たちを扇動してキリストに反対させ、イスラエルの学者たちも彼の力に抵抗するために結集しました。キリストに対するあらゆる種類の中傷が世間に流されました。法律学者やパリサイ人たちは、彼のことを嘘つきで背教者で不敬者であると人びとに信じさせようと共謀したのです。彼らは、反キリスト的なこうした中傷を東方の全域に流し、彼に対して恥ずべき死刑を宣告させたのです。

 モハメットの場合もまた、同時代の学者たちは彼の影響の光を消そうと決議し、剣の力で彼の教えの普及を妨げようと試みました。

 あらゆる彼らの努力にもかかわらず、真理の太陽は地平線上に照りかがやきました。どの場合にも、光明の軍隊はこの地上の戦場における暗黒の勢力を征服し、神の教えの光が地上を照らしたのです。教えを受け入れて神の大業のために働いた人たちは人類の天空に輝く星となりました。

 いま私たちの時代においても、歴史は繰り返されます。

 宗教は各人の個人的な財産であると人々に信じさせた人たちがまたもや、真理の太陽に抵抗しようと懸命になりました。彼らは神の命令に抵抗しました。彼らはそれについて論議することも、実証を求めることもしないで、中傷をねつ造したのです。彼らは日の光の中にどうどうと出てくることなく、覆面をして攻撃しました。

 私たちの方法はこれと違い、攻撃したり、中傷したりすることはありません。私たちは議論や論証で示し、彼らに私たちの声明の誤りを立証するよう促します。彼らはそれに答えることができず、かえって、聖なるメッセンジャー・バハオラについて考え出せるかぎりの中傷を書き立てました。

 こうした中傷的な文書に心を迷わされないようにしましょう。バハオラの言葉に従い、抽象的な言葉に応じないように。むしろ、こうした虚偽の宣伝が真理を普及する結果になることを喜びなさい。こうした中傷が流布されると、調査をします。調査をした人たちはやがてバハイ信教を知るようになるのです。

 もし人が、「隣の部屋のランプは明かりがつかない」と言ったら、それを聞いた人はその報告で満足するかもしれませんが、より賢明な人は自分で判断するためその部屋へ行って見るでしょう。そして、あかあかと明かりがついているのを見て、彼は真実を知ります。

 また、ある人が「あそこの庭園の樹々は枝が折れ、果実は実らないし、葉は色あせて黄色になっている。花の咲く樹は花も咲かせず、バラの木は枯れて死んでいる。あの庭園には行かないように」と言いました。その庭園についてそのような説明を聞いても、公正な人は、それが真実であるか否かを自分で見なければ満足しないでしょう。ですから、彼は庭園に入って見て、その庭園は手入れが行き届いていて、樹々の枝はしっかりとしており、美しい緑の葉の華やかさの中に甘く熟した果実がたわわに実っているのを発見します。花の咲く樹々はさまざまな色合いの花を咲かせ、バラの枝々にはすばらしい匂いの、美しい花が咲きみだれ、すべては青々と茂っています。この庭園の栄光が公正な人の眼前にくりひろげられるとき、彼は、つまらない中傷によってかくもすばらしく美しいところに導かれたことで神を讃美するのです。

 これが中傷者たちのはたらきの結果です。つまり、真理の発見へと人々を導く源となるのです。

 キリストやその使徒たちについての虚偽の報道、または反キリスト的著述のすべては人をキリスト教の教義の探求へと導いたにすぎませんでした。彼らはその美を見、その芳香を嗅ぎ、それ以来、あの聖なる庭園のバラの花や果実の中を歩いたのです。

 従って、私は、心を尽して神の真理を普及するようにと皆さんに申します。そうすればその人びとの知性は啓発されましょう。これが中傷者に対する最善の回答です。私は彼らについてとやかく言うとか、悪口を言うつもりはございません。ただ、中傷は重大な問題ではないということを言いたいだけです。

 雲は太陽を覆うかもしれませんが、いくら厚くなっても太陽の光線をさえぎることはできません。何ものも神の花園に暖を与え、活気つけるために降りそそぐ太陽の輝きを妨げることはできないのです。

 

 いかなるものも天国から降る雨を妨げることはできないのです。

 神の言葉の実現を妨げ得るものは存在しません。

 だから、神の啓示を否定する書や論文を見ても悩むことはなく、それによって大業がますます強くなることを確信して気楽にするといいのです。

 果実のない樹にむかって石を投げる人はいません。光のない灯を消そうとするものもないのです。

 昔を見てみましょう。ファラオの中傷はどのような影響を及ぼしたでしょうか。彼は、モーゼが人殺しであり、人を殺したのだから死刑に処すべきと主張しました。また、モーゼとアロンとが不和を誘発するもので、エジプトの宗教を破壊しようとした罰によって死刑にしなければならないと言いました。こうしたファラオの言葉は空しいものでした。モーゼの光は輝きわたりました。神の法則の輝きは世界を取り囲んだのです。

 パリサイ人がキリストについて、彼は安息日を守らず、モーゼの掟を無視し、エルサレムの寺院と聖都を破壊すると脅かしたので十字架にかけなければならないと言ったのです。こうした中傷的な攻撃は少しも福音書の普及を防害することはなかったことを私たちは知っています。

 キリストの太陽は天空に光り輝き、聖霊の息吹は全地球に漂いました。

 皆さん、いかなる中傷も神の光に打ち勝つことはできません。それはそのことをより広く認めさせることになるだけです。もし大業が重要なものでなければ、誰がわざわざそれに低抗したりするでしょう。

 しかし、大業が大きければ大きいほど、いつも、それを打ち破ろうとする敵の数はますます多くなるものです。光が明るければ明るいほど、その影はますます暗くなるのです。謙遜に、そして確固としてバハオラの教えに沿って行動することこそ私たちの任務です。

 

 

第三十四 霊性なくして真の幸福と進歩はあり得ない (十一月二十一日)

 

 動物にとって獰猛や残忍性は当然のことであるが、人間は愛と優しさという性質を体現すべきです。神がその予言者たちをこの世につかわし給うたのはすべて、人びとの心に愛と善意とを植えつけるというただひとつの目的のためでした。そして、この偉大な目的のために彼らは喜んで苦しみ、死んでいったのです。すべての聖典は人びとを愛と和合の道へと導くために書かれました。にもかかわらず、私たちの周りでは戦争や流血の悲しい光景が展開されています。

 過去、現在を問わず、歴史をひもとくと、黒土が人間の血で赤く染められたことが分かります。人びとはまるで残忍な狼のように互に殺し合い、愛と寛容の法則を忘れています。

 いまや、このように輝かしい時代がすばらしい文明と物質的発展をもってやってきました。人びとの知性は拡大し、その感知力は伸びました。にもかかわらず、悲しいかな、鮮血が毎日のように流されています。現在の土伊戦争をみてください。しばし、こうした不幸な人びとの運命について考えてみましょう。この悲しむべき戦争で何人の人が殺されたことでしょう。いかに多くの家が壊され、妻たちが未亡人に、子供たちが孤児になったことか。すべてこうした苦悩と心痛の代償として一体なにが得られるというのでしょう。せいぜい、地球の片隅の狭い土地を得るに過ぎないではありませんか。

 こうしたことはすべて、物質的発展だけでは人間を向上させることはできないということを示しています。逆に、人間は物質的発展に浸れば浸るほど、その霊性はますます曇らされるのです。

 過去の時代には、物質的発展はさほど急速ではなく、また、このようにおびただしい流血もありませんでした。古代の戦争には大砲も、銃も、またダイナマイトやさく裂弾、魚雷艇、戦艦、潜水艦というものはなかったのです。いまや、物質文明のおかげでこうしたものがすべて発明され、戦争はますます悪質になって行きました。ヨーロッパ自体があらゆる爆発物に満ちあふれる一つの拡大な軍需工場であるかのようです。神よ、その点火を防ぎたまえ。もしそのようなことが起ったなら、世界全体が巻きこまれてしまうでしょうから。

 皆さん、物質的発展と霊的発展とは二つの非常に異なったものであり、物質的発展が霊性と共に進む場合にのみ真の発展が生み出され、最大平和が世界に行きわたるということを理解してください。もし、人びとが聖なる勧告や予言者たちの教えに従うなら、もし聖なる光がそれらすべての人びとの心にかがやき、本当に宗教心のある人間となったなら、やがて地上に平和が訪れ、人類の間に神の王国が築かれるでしょう。神の法則は魂にたとえられ、物質的発展は肉体にたとえることができます。肉体が霊魂によって活気づけられていなければ、肉体は存在しなくなるのです。現世において霊性がますます成長し、風習が啓発され、平和と調和とが確立されること、これが私の切なる祈りです。

 すべての残虐性を伴う戦争や強奪は、神の目には忌まわしいことであり、それぞれに罰を受けるものです。なぜなら愛の神はまた正義の神であり、各人はみずから蒔いたものを自分で刈り取らなければならないからです。至高の御方の命令を理解し、私たちの生活を神の指示に従って処すよう精進しようではありませんか。真の幸福は、精神的に喜ばしい状態にあって、常に神の恩恵を受けるように心を開いているかどうかによって決まります。

 もし、神が与えたもう祝福に背けているならばどうして幸福を望むことなどできましょうか。また神の慈悲を望まず、信じないとすれば、どこに平安を見出すことができるのでしょう。おお、神を信じましょう。神の恩恵は永遠不滅のものであり、その祝福はすばらしいものだからです。おお、あなたの信頼を全能なる御方のうえに置きなさい。神にはし損ないはなく、そのすばらしさは永遠に続くものだからです。神の太陽は光を放ち続け、神の慈悲の雲は憐みの水に満ちあふれています。そして、その水は神を信ずる人たちのすべての心をうるおすのです。神のさわやかな微風(びふう)はその翼でいつも人びとの乾いた魂に癒しを運びます。神の祝福を惜しみなく私たちに与えてくださる慈愛深き天の父に背を向けて、むしろ物質の奴隷となり果てるということははたして賢明でしょうか。

 無限のすばらしさをもつ神は、私たちをかくも栄誉ある者として高め、物質界の支配者にされたのです。しからば、私たちは神の奴隷になるのでしょうか。否、むしろ神の相続権を主張し、神の霊的な子として生きるよう精進しようではありませんか。真理の、栄光ある太陽はふたたび東方に昇りました。はるかペルシャの地平線からその光は遠く、また広く輝きわたり、迷信の濃雲を消散させるのです。人類和合の光は世界を照らしはじめ、間もなく、聖なる調和と民族団結の旗が天界に高くひるがえるでしょう。そうです、聖霊の微風(びふう)が全世界に霊感を与えるでしょう。

 おお、人々と諸国よ。起ち上り、働き、そして幸福になりましょう。人類和合のテントの下に共に集いましょう。

 

 

第三十五 苦しみと悲しみ (十一月二十二日)

 

 現世において私たちの心を動かす感情には二つあります。喜びの感情と苦しみの感情です。

 喜びは私たちに翼を与えてくれます。嬉しいとき私たちはますます活気付き、知性はずっと鋭くなり、理解力はよりはっきりしてきます。世事もよりうまく対処でき、いっそう有益な存在となります。しかし、悲しみが訪れると、気弱になり、力がぬけ、理解力は鈍り、知性は曇ります。自分の人生の実情が把握できず、内なる眼は聖なる神秘を発見し得ず、まさに生ける屍となるのです。

 こうした二つの力に影響されない人間はいないのですが、この世の悲しみや苦しみはすべて物質界から来るものです。霊の世界は喜びのみを与えてくれます。

 私たちの苦しみは物質的な事物の結果であり、すべての災難や問題は幻影の世界から来るのです。

 たとえば、商人が商売に失敗して不況になってしまう。職人が解雇されて餓死寸前となる。農夫が不作で悩まされる。建てた家が全焼し、ホームレスになり、落ちぶれ絶望している。

 すべてこうした例は、私たちの進路をさえぎるあらゆる苦難、悲しみ、苦しみ、恥辱、失敗が物質の世界から生み出されるものであるということを示すためのものです。一方、霊の王国が悲しみを生み出すことは決してないのです。この霊の王国を思いつつ生活する人は永遠の歓びを知るのです。すべての肉体が悩まされる病気も人を襲いますが、病気はただ人の生命の表面を犯すだけで、内奥は穏やかで落ち着いているのです。

 今日、人類は苦難や悲しみにくれ、誰もそれから逃れられません。世界は涙で湿っています。しかし、ありがたいことに救済が直ぐそこにあります。物質の世界に顔をそむけ、霊の世界に生きようではありませんか。それだけで私たちは自由を得ることができるのです。もし、私たちがいろいろな問題に取り囲まれたとき、ただ神に助けを求めます。そうすれば、神の大いなる慈愛によって私たちは救われるでしょう。

 もし、悲しみや逆境に見舞われたら、霊の王国へと顔を向けましょう。そうすれば、天の慰めが流れでるでしょう。

 もしも病気になったり、貧苦に悩まされたりしたら、神の治癒を懇願しましょう。神は私たちの祈りに答えて下さるでしょう。

 私たちの頭がこの世の苦痛でいっぱいになったときは、神の憐みの甘美さへと目を向けようではありませんか。神は聖なる平穏を与えて下さるでしょう。たとえ物質的世界に閉じこめられていようと、私たちの精神は天界に舞い上がることができ、私たちは本当に自由になれるのですから。

 自分の寿命が終わりに近づいているとき、永遠の世界について考えましょう。そうすれば私たちは歓喜に満たされます。

 物質的な事物が不適当なものであるという証拠は皆さんの周りの到るところにあります。実に歓喜、安楽、平和、慰めというものはこの世のはかない事物の中に見出されるものではありません。ならば、これらの宝物があると思われるところで宝物を探すべきであり、それを拒否するのは愚かでしょう。霊の王国の扉はすべての者に開かれており、その扉の外はまったくの暗黒です。

 ここにお集まりの皆さんはこのことを知っています。神に感謝しましょう。なぜなら皆さんは、人生の悲しみのすべてに対し、至高の慰めを得ることができるからです。かりにあなたの地上での寿命が残り少なくなったとしても、皆さんは永遠の生が待っていることをご存知です。もし物質的な不安が皆さんを暗雲に包んだとしても、霊の光は皆さんの行く手を照らします。まことに、至高の霊によって思考が照らされている者はこの上もなく慰められます。

 私自身、四十年間獄舎にいました。ただの一年でさえ耐えられないものであったかもしれないあの獄舎の生活で、だれも一年以上生き残った人はありませんでした。しかし、神様のおかげで、その40年間、毎日、私はこの上もなく幸福でした。朝、目が覚めるとすばらしい福音を聞き、夜は限りない喜びが私のものだったのです。精神的なことが私の慰めであり、神へ向かうことが私の最大の喜びでした。もしこうでなかったならば、私があの四十年の獄舎生活を耐えることができたと、皆さんは思いますか。

 このように、霊性は神の最大の贈り物です。そして、「永遠に不滅の生命」とは、「神へ心をむける」ことにほかなりません。皆さんは一人残らず、日々、霊的に高められ、あらゆる善性を強め、聖なる慰めによってさらに助けられ、神の精霊によって自由にされること、また、天上の王国の力が皆さんの間に生き、作用するように。これが私の切なる念願であり、皆さんがこうした恩恵を受けとられるよう神にお祈りいたします。

 

 

第三十六 完全な人間的感情と美徳 (十一月二十二日)

 

 アブドル・バハの言葉

 皆さんはいま大いなる光栄に浴していることを神に感謝し、至福の喜びを感じるべきでしょう。

 これは純粋に精神的な集会です。神に賛美あれ。皆さんの心は神へ向けられ、魂は王国に惹きつけられ、霊的情熱に燃え、思いは塵の世界を超えて飛翔しています。

 皆さんは純粋の世界に属し、食べて飲んで眠って一日を過ごす動物の暮らしに満足してはいません。皆さんはまことの人間なのです。皆さんの重いと情熱は人間性の完成を習得することに向けられており、善を行い、他人に幸福をもたらすために生きておられます。皆さんは悲しむものに慰安を与え、弱者に力を与え、絶望した魂に希望を与えるものとなることを最大の願いとしておられます。皆さんは日夜、王国に向かい、心は神の愛に満ちあふれています。

 そういうふうに皆さんは、生きとし生けるものを尊い存在とみなし、すべてに良かれと願って尽しておられるのですから、敵対や嫌悪や憎悪を知りません。

 こうしたことが完全な人間的な感情であり、美徳なのです。こうしたことの全くない人間は生存を止めた方がよいのです。ランプが光を出さないようなら、こわしてしまった方がよいし、樹も実を結ばないなら切り倒してしまった方がよいのです。それは邪魔になるだけですから。

 まことに、人は徳のない生活を続けるよりは死ぬ方が千倍もましです。

 私たちは見るために眼を持っていますが、もし私たちがそれを使わないなら、眼は私たちの役にたつことができません。私たちに耳があるのはそれをもって聴くためです。でも私たちが聞かないなら、耳は何の役に立つでしょうか。

 私たちに舌があるのは神を讃美し、神の福音を宣言するためですが、もし私たちが口をきかなければ、それはとても無用なものとなるでしょう。

 万物を愛し給う神は、聖なる光に輝き、その言葉や行動や生きかたによって世界を照らすようにと人間を創造されました。人間にして徳がなければ動物と変わらないし、しかも知性なき動物は卑しいものです。

 天の父は人間に英知というきわめて貴重な賜物を与えてくださいました。それによって人間は霊の光となり、有形の暗黒を突き通し、世界に善と真理をもたらすのです。もし皆さんがバハオラの教えに真剣に従うなら、実に、皆さんは世界の光となり、世界という肉体の魂となり、人類の慰安と助けとなり、全宇宙を救済する源泉となるでしょう。それゆえ、心魂をつくして、祝福された完全の勧告に従うよう努力いたしましょう。もし皆さんが、皆さんのために定められた生活を生きることができたなら、天上の王国における永遠の生と不朽の歓喜は必ず皆さんのものとなり、皆さんの一生を通じてすばらしい支えが皆さんを力づけるということを確信してください。

 皆さんの一人一人がこうした完全な喜びに達するようになること、これが私の心からの祈りです。

 

 

第三十七 外国人の苦しみに対する人々の冷酷な無関心 (十一月二十四日)

 

 アブドル・バハの言葉

 ついいましがたこの国[フランス]で大きな事故があったと聞きました。列車が事故で河に落ち、少なくとも二十人の尊い人命が失われたのです。このことが今日仏議会で討議される予定になっています。国有鉄道総裁が証言のために召喚されています。総裁は鉄道の現状と事故の原因について尋問を受け、激しい議論になるでしょう。20人の尊い犠牲者についてはなんと大きな関心が払われていることでしょう。それに対して、何千人ものイタリア人、トルコ人、アラブ人の尊い人命がトリポリで失われたことにはそれほどの関心は無いのです。これはなんということでしょうか。トリポリの大虐殺については、仏政府は全く無関心です。しかし、不幸にも尊い生命を失ったその人々も同じ人間なのです。

 なぜ二十人には大きな関心と共感が払われて、トリポリで生命を失った5千人に対しては誰も関心を払おうとしないのでしょうか。外国人だからでしょうか。しかし、彼らも全て人間で、人類の家族の一員なのです。関心の無い国にとっては、彼らが死んでも何でもないのでしょうか。もしそうなら、なんという不正義、冷酷で、また、善良で真実な感情を欠いていることでしょう。この外国の人々にも、子供たち、妻、母、娘や小さな息子たちがおります。亡くなった人々の所では、悲しみのために泣かないですむ家はほとんど無く、また、戦争の残酷な手から免れている家はほとんど無いでしょう。

 なんと悲しいことでしょう。人間はなんと冷酷で、偏見に満ちていて、不正義なのでしょう。神の言うことを信じ、神の命令に従うことに人間はどうしてこれほどまで遅々としているのでしょう。

 もし人々が剣や大砲をもって破壊することに熱心になる代りに、お互いに愛しあい助け合うなら世界はずっと気高いものになるでしょう。もし、人々が狼のように互いをむさぼり喰う代りに、平和と和合のうちにある鳩の群れのように生きるならばその方がずっとよいでしょう。もし人間が霊的な心を持つなら悲惨な結果をもたらす行為は不可能なはずです。神の預言者の法と教えが信じられ、理解され、従われてさえいれば、もはや戦争が地球上を暗くすることはないでしょう。

 もし、人間に基本的な正義があれば、現在のような悲惨な事態は不可能であろうに。

 なにゆえ人間の心はそのように冷酷なのでしょうか。それは人間がまだ神を知らないからです。もし人間が神を知っていれば神の法を犯す行為はできないでしょう。

 それゆえ私はあなた方に、神に対面し、神よ、あなたの無限の同情と慈悲をもって、これらの誤って導かれている人間を助け、援助して下さいと祈って下さるようお願いします。神が人間に霊的な理解力を与え、人間に寛容と慈悲を教え、人間の心の眼を開き、霊の賜物を与えてくださいますようにお祈り下さい。そうすれば、平和と愛が世界中に満ちて、悲惨で不幸な人間が安らぐことができるでしょう。

 よりよい状態をもたらすために昼夜を問わず頑張りましょう。私の心は現在の悲惨な状態によって大きな悲しみと悲嘆にくれています。願わくはこの嘆きが他の人々にも届きますように。

 そうすれば、盲目の者が見、死者がよみがえり、正義が地球を支配するでしょう。

 このことが実現するよう、私はあなた方全員に心からのお祈りを懇願いたします。

 

 

第三十八 バハイ信徒の数の少ないことに落胆(らくたん)してはならない (十一月二十五日)

 

 キリストがこの世に現われたとき、キリストはエルサレムにその姿を現しました。彼は人びとを神の国へと導き、永劫不滅の生命へ招待しました。そして、人間性を完成させるよう教えたのです。その導きの光はその輝かしい星から輝き出ました。そして、キリストはついに生命をなげうって人類のために犠牲となりました。

 キリストの祝福された生涯は苦難に満ちていました。にもかかわらず、その当時の人々はキリストの敵でした。

 彼らはキリストを否定し、侮蔑し、虐待し、呪ったのです。キリストは人間として扱われなかったのですが、キリストは憐愍と至高の善と愛の具現者であったのです。

 キリストは全人類を愛しましたが、彼らはキリストを敵として扱い、キリストの進化を認めることができませんでした。キリストの言葉を尊重せず、その愛の炎によって輝かされることはなかったのです。

 後になって彼らは、キリストがなにものであるか、聖なる神の光であり、その言葉は永遠の生命をもたらすものであるということを悟りました。

 キリストの心は全世界を包容する愛に満ちあふれ、彼の優しさは一人ひとりに行きわたるようになっていました。こうしたことが分かりはじめると、彼らは後悔しましたが、そのときキリストはすでに十字架にかかってしまっていたのです。

 彼らがキリストは誰であるかを悟ったのは、キリスト昇天後幾年も経ってからのことでした。キリストが昇天した頃、使徒の数はごく少数でした。彼の教えを信じ、そのおきてに従うものはほんの少数しかなかったのです。無知な人は、「この者はいったい何だ、使徒もわずかしかいないではないか」と言いました。しかし、知者は、「彼こそ、東洋と西洋とに輝きわたる太陽であり、世界に生命を与える顕示者である」と言いました。

 世間は後になって初期の使徒たちが見たことを悟りました。

 それ故、ヨーロッパに住んでいる皆さん、信徒の数が少いからといって、あるいは世間があなた方の大業を重要視しないからといって、失望してはなりません。集会にあまり人が集まらないといって消沈することなく、嘲笑され、反対されても悲しむことはありません。キリストの使徒たちは同じことを耐え忍んできたのですから。彼らは口汚くののしられ、迫害され、呪われ、虐待されましたが、最後には、勝利をおさめ、彼らの敵の方が間違っていたということが分ったのです。

 もし歴史が繰り返し、同じことがあなた方に起るとしても、悲しむことなく、喜びに満ちあふれ、むかしの聖人たちが苦しめられたように自分も苦難を受けるために呼び出されたことに対し、神に感謝しようではありませんか。反対するものがあっても、その人たちには優しく接し、否認されても自分の信念に確固として揺るがず、もし彼らがあなたを見捨て、あなたを避けたとしても、その人たちを探し出し、親切に付き合いましょう。どんな人をも害してはならず、すべての人のために祈り、あなた方の光が世界到るところに輝き、皆さんの旗が天空高くひるがえるよう努力すべきです。皆さんの高貴なる生活の美しい芳香は到るところに浸透し、皆さんの心にともされた真理の光ははるか彼方の地平線まで輝きわたるでしょう。

 世間の無関心や嘲笑は問題ではありません。最も重要なのは皆さんの生活です。

 聖なる王国の真理を探求する人たちはすべて星のようにかがやきます。彼らはえり抜きの果実が実る果樹のようであり、貴重な真珠にみちた海のようです。

 ただひたすら、神の慈愛を信じ、聖なる真理を普及しようではありませんか。

 

 

第三十九 パリのパスター・ワグナー教会でのアブドル・バハの講話  (十一月二十六日)

 

 私は、私に寄せられた数々の共感の言葉に深く感動し、私たちの間に真実の愛と思いやりが日ごとに深まっていくことを望んでおります。神は愛がこの世の活力になることを意図されております。そして、皆さんもお気づきのように愛について語ることは私の喜びとするところであります。

 いつの時代も、神の預言者たちは真理の大業に仕えるためにこの世に遣わされました。モーゼは真理の法則をもたらし、彼につづくイスラエルの予言者たちはすべてそれを普及しようとしました。

 イエスが出現すると、その真理の燃え立つたいまつに点火し、世界全体が啓発されるようにと、それを高々と掲げました。イエスに続いて選らばれたる使徒たちが世界各地に散らばり、自分たちの師の教えの光を暗黒の世に広めました。そして、彼らの役割は終わりました。

 つづいてモハメットが遣わされました。彼は(やばん)な人たちの間に真理を知らしめました。いつも、こうしたことが神に選ばれたものの使命だからです。

 かくしてついに、ペルシャにバハオラが出現しました。すべての国で消えかけていた真理の灯を再び燃え上がらせるというのが彼の熱烈な念願でした。神の聖なる使徒たちはみな、愛と和合の光明を全世界にひろめようと心魂をつくして努力しました。それにより、人類の子供たちの間に霊性の光が輝きわたり、物質性の暗黒が消えさるようにするためです。やがて、憎悪、中傷、殺害は姿を消し、それにかわって、愛と和合と平和が行き渡るようになりましょう。

 神の顯示者たちはすべて同じ目的をもって出現しました。人びとを徳の道へと導いたのです。それなのに、彼らの僕である私たちはどうでしょう。いまなお互いに争い合っているのです。なぜそういう風なのでしょう。どうして、たがいに愛し合い、和合して行けないのでしょうか。

 それは、私たちがあらゆる宗教の基本原理に眼を閉じているからです。つまり、神は唯一であり、私たち人類すべての父であり、私たちはみな神の慈愛の海に浸り、神のご親切な世話のもとに庇護されているのであるということにです。

 実にすばらしい真理の太陽は万物に同じように光をなげかけ、聖なる慈愛の水はそれぞれを浸しています。その聖なる恩恵はすべての神の子供たちに与えられているのです。

 この愛情あふれる神はあらゆる創造物に平和を望んでおられるのに、なぜ、人々は戦争ばかりしているのでしょうか。

 神は神の子供たちを愛し、庇護しておられるのに、なぜ、彼らは神を忘れるのでしょう。

 神は私たちのすべてを父親のように世話してくださっているのに、なぜ、私たちは兄弟たちをおろそかにするのでしょうか。

 いかに神が私たちを愛し、庇護してくださっているかを知れば、私たちも神に近くなるよう私たちの生活を建てなおすはずです。

 私たちはみんな、神に創造されました。私たちはすべて神の子であり、同じ父親を愛しているのに、神の意志に反して行動するのは一体なぜなのでしょう。私たちの周囲に見られるあらゆるこうした分裂、意見の相違、対立は人びとが儀式や外面的な慣例に心をとらわれ、基本的な真理を忘れてしまっていることから生み出されているのです。違いは宗教の外面的な慣例であり、それが意見の相違や敵意を生み出しているのです。ところが、実体は常に同じで、一つです。実質は真理であり、真理に分裂はありません。真理は神の導きであり、それは世界を照らす光であり、愛であり、慈愛です。こうした真理の属性はまた、聖霊によって霊感を与えられた人間の徳性です。

 ですから、私たちはみんなが一つになり真理を固守しようではありませんか。そうすれば、私たちは本当に自由になれるでしょう。

 世界のあらゆる宗教が一つになる日が来つつあります。と言うのも、あらゆる宗教はすでに一つだからです。これらの宗教を分離させているのは、実は外面の形だけのことであるということが理解できれば何ら分裂の必要はないはずです。人の子たちの中には無知のために苦しんでいる魂があります。さっそく彼らの教育にかかりましょう。また、他の人は子供たちのように、成長するまで庇護と教育を必要としています。また、他の人は病んでいます。私たちはこうした人たちに聖なる癒しをもたらさなければなりません。

 無知であろうと、あるいは子供のような状態、または病気であろうと、彼らは愛され、助けられなければならず、不完全な状態だからといって嫌われるべきではないのです。

 宗教の学識者たちは人びとを霊的に治癒し、諸国民を和合させるためにあります。もし彼らが分裂の原因となるのなら、存在しない方がよいのです。病気を癒すために治療が施されますが、もしそれが症状を悪化させるばかりだとすれば、放っておく方がよいでしょう。もし宗教がたんに分裂をうみだすだけならば、宗教などない方がよいのです。

 神によって世に遣わされたあらゆる聖なる顯示者たちは、人類の中に真理と和合、調和を普及するという唯一の希望のために、艱難辛苦に耐えられました。キリストは完全な愛の模範をこの世にもたらそうと、悲嘆と苦悩の生活を耐え忍ばれたのですが、私たちはいまだに相互にかたくなな姿勢で対立しているではありませんか。

 愛は神が人間に期待されている目的の基本的な原理です。神が私たちを愛されるように、私たちが互いに愛し合うよう神は私たちに命じておられます。私たちの身辺で見られるこうした不和や意見の相違はすべて、ただ物質性を助長だけのものです。

 世界の大部分は唯物主義におぼれていて、聖霊の祝福など無視されています。真実の霊的感情はほんの少ししかありません。進歩の大方が単に物質的なものです。人は滅びゆく野獣のようになりつつあります。彼らには霊的感情がないからです。彼らは神に顔をむけず、宗教を持たないのです。霊的感情は人間だけがもつ属性であり、もし人がそれらを持たないなら、その者は自然の奴隷であり、動物と変りがないでしょう。

 神は人間を万物の霊長とされたのに、動物的な生き方をすることにどうして満足できるのでしょうか。神は、すべての創造物を自然の法則に従うものとされましたが、人間はその法則を征服することができるようにされたのです。太陽はその栄光と威力にもかかわらず自然の法則に縛られ、その運行のコースを寸分も変えることはできません。あの偉大な大洋も、潮の満ち干を変える力はないのです。自然の法則に抗し得るものは人間の他にありません。

 神は人間に自然を導き、支配し、征服する実にすばらしい力を与えられました。

 自然の法則からいえば人間は地上を歩くものですが、人間は船を造ったり、空を飛んでいます。乾いた土地の上に住むよう創られているのに、海をわたり、海の下をさえ旅するのです。

 人間は電力を支配することを学びました。そして、電力を思うままに使い、それをランプの中に閉じこめたのです。人間の声は短距離間で話せるようにできているのですが、人間の力は東洋から西洋へ話しかけることのできる道具を作りました。こうした実例は、いかに人間が自然を支配し、自然の剣をねじとってその剣を自然に対して振っているかを示しています。人間は自然を支配するように創られていると分かったならば、その人間が自然の奴隷になるということは実に馬鹿げたことではありませんか。神はその優しさで、人間を自然の支配者とされたのに、人間が自然を崇め、拝するのは無知で、ばかばかしいことです。神の力はすべてに明らかですが、人間は眼を閉じてそれを見ないのです。真理の太陽はその輝きのすべてを放出しているのに、人間はかたく眼を閉じているためその栄光を見ることができません。神の慈悲と愛情深い親切とによって皆さんが一つに結ばれ、至高の喜びに満たされるようになること、これが私の切なる神への祈りであります。

 戦争や流血が終結し、愛と友情と平和と和合が世界を支配するように、私が捧げる祈りに協力して、皆さんも一諸にお祈りして下さるよう懇願します。

 幾世代を通じ、私たちは流血がいかにこの地上を汚したかを見てきました。しかし、いまや偉大な光がさしこみ、人間の理性は一層高められ、精神性も成長し、世界の全宗教が仲良くなるときが来つつあることは明白です。外面の形に関する耳障りな口論をやめ、一つの聖なる大業にむかって一致団結しようではありませんか。そうすれば、あらゆる人類は一つの家族となり、愛情によって結ばれるでしょう。