第二十一 パリの心霊集会 (十一月四日)

 

 欧州では今日、あちこちで集会や会合、その他いろいろな会が組織されているとお聞きします。商業や科学や政治に関する集会、その他多くの会合が組織されているようです。これらの集会はすべて物質部門の集会であり、物質界の発展と啓発を目指すものです。これらの集会には精神界の息吹はほとんど感じられません。そういう会合は神のことには関心がなく、神の声には気にもとめていないように思われます。しかし、パリのこの集会は本当に精神的な集会です。神の息吹は皆さんの間に吹きかけられ、王国の光は皆さんの心の中に輝いています。神の聖なる愛は皆さんの力になっていて、真理を渇望する皆さんは大いなる喜びをもたらす吉報を享受しています。

 ここにいる皆さんはみんな寄り合い、心と心は互いに引きつけられ、魂には神の愛が満ちあふれ、世界が一つになることを念願し、そのために励んでおられるのです。

 まことにこの集会は精神的な会合です。あたかも美しい香りの花園に来たようです。ここには天上の太陽が黄金の光線を投げかけ、その温かさは会場にあふれ、待ちうける心のすべてに喜びを与えています。すべての知識をもたらしたキリストの愛は皆さんの中にあり、聖霊は皆さんを援助しているのです。

 この集会は日々成長し、ずっと強力なものとなり、その精神が遂には全世界を征服するようになるでしょう。

 皆さんは心魂をつくして、自ら神の恩寵(おんちょう)の水門となるよう努力してください。なぜなら神は全世界に神の愛を広めるメッセンジヤーとなり、また、人類へ精神的賜物を持参する者となり、地上に和合と調和を普及する道具となるものとして皆さんをお選びになったからです。そうした素晴らしい特権を与えられたことについて、神に心から感謝しようではありません。そうした恩恵に対しては、一生を神の讃美に捧げても十分に感謝しきれるものではないでしょう。

 心をふるい起し、現在を越えて、信仰の眼をもって将来を見ましょう。今日、種が蒔かれ、その種は地上に落ちました。それが一本の光栄ある樹木となり、その枝々が果実に覆われる日を思い浮かべましょう。この日の夜明けの始まりを喜び、それがいかに力強いものであるかを悟るよう努めましょう。それは実にすばらしいものです。神は、皆さんに栄誉の王冠を与え、皆さんの心に輝く星をちりばめてくださいました。まことにその光は全世界を明るくすることでしょう。

 

 

第二十二 光の二つの種類 (十一月五日)

 

 今日は陰気な、うっとうしいお天気です。東方ではいつも太陽が輝き、星はかくされることがなく、雲はほとんど見られません。光はつねに東方にあがり、その光を西方にむかって投げています。

 光には二つの種類があります。眼に見える太陽の光です。そのおかげで、私たちのまわりの世界の美を見分けることができます。この光なくしては、私たちは何も見ることはできません。

 この太陽の光は私たちに物が見えるようにする機能はありますが、その物を見る力、またはそれがどんな魅力を持っているかを理解する力を私たちにもたらすことはできません。なぜならこの光は英知とか、意識というものを持たないからです。私たちに知識や理解力を与えるものは英知の光であり、この光なくしては、目は何の役にも立ちません。

 この英知の光は存在する光の中で最高の光です。それは聖なる光から生まれ出るものだからです。

 英知の光によって私たちは存在するすべてのものを理解し、認識することができるのですが、私たちに見えざるものを見させてくれ、今から幾千年後の世界でなければ見られないような真理を私たちに見せることができるものは、聖なる光だけです。

 私たちがいま見ている事を、予言者たちは二千年前に見ることができたというのも全く聖なる光のためだったのです。私たちが探求しなければならないのはこの光です。それは他のいかなる光よりもずっと偉大だからです。

 モーゼが神の顕現を見、それを知ることができ、燃える藪1の中から自分に語りかける天の声を聞くことができたのもこの神の光によるのです。 一:出エジプト記三:

 モハメッドが「アラーは天の光であり、地の光である」と言ったのも、この光のことなのです。

 心をつくして、この天の光を求めましょう。そうすれば皆さんはやがて真実を理解し、神のもろも


ろの秘義を知り、隠されていた道が眼前に見えるようになるでしょう。

 この光を鏡にたとえましょう。鏡がその前にあるものをすべて映し出すように、神の光は、霊眼をもった人たちに、神の王国にあるすべてのものや事物の真実の姿を見えるようにしてくれるものです。この光り輝く神の光の援助によって、聖なる書の精神的解釈のすべてが明らかにされ、神の世界の隠された事物が明らかにされ、私たちが人類に対する神の目的というものを理解することができるようになったのです。

 私は神が慈悲をもって皆さんの心と魂に神の光栄の光を注いで下さるようお祈りします。そうすれば皆さんの一人一人がそれぞれ輝く星のようになって世界の暗黒の地を照らすようになるでしょう。

 

 

第二十三 西洋における精神的願望

 

 アブドル・バハの言葉

 皆さん、ようこそおいで下さいました!私は東方の国から西洋に参ったものです。東洋では、しばしば、西洋の人々は霊性をもたないというようなことが聞かれますが、私にはそうは思えません。私は、西洋の人々の間にも大いなる精神的願望があり、あるときはその精神的知覚は東洋の兄弟たちよりずっと鋭敏であるということをこの目で見、感じています。もし、東洋に与えられた教えが注意深く西洋に広められていたならば、今日の世界はもっと明るい場となっていたに違いありません。

 過去において、偉大なる精神的教師たちはみんな東洋に出現したのですが、いまだに全く霊性を欠く人たちがみられます。彼らは、精神的なこととなるとまるで石のように生気がなく、しかもそれらのことを分かろうともしないのです。人間を、たかだか動物の高度の形態であるにすぎないと考え、神ことにはかかわりのないものと思っているからです。

 しかし、人間の大志はこれを越えて高いところを目ざさすべきです。つねに自分の上を目指し、高きを見て精進し、遂には神の慈悲をとおして天の王国に到達するまで前進を続けるべきです。ここにもまた、物質的発展や物質世界の進化しか見えない人たちがいます。こうした人たちは、自分たちの霊と神の霊との光栄ある関係について熟考することよりも、むしろ自分たちの肉体と猿の肉体との間の相似点を研究する方を好むのです。人間が下位の創造物に似ているのは肉体的な面だけのことであり、人間の英知という観点から見ればまったく似ていないということは明らかなのに、誠に不思議なことです。

 人間はつねに進歩します。人間の知識の輪は絶えず拡大し、精神活動は種々様々な経路を通じて躍動しています。人間が科学の分野で成就した業績を見てください。また多くの発見、無数の発明、そして人間の自然の法則に対する深い理解のことを考えてください。

 芸術の世界においてもまったく同様で、人間の精神能力の驚くべき発達は時が進むにつれてますます速くなっています。過去一五〇〇年間のもろもろの発見、発明、それに物質的業績を見てみると、最近の一〇〇年間のそれは、それ以前の十四世紀におけるものよりはずっと大きいということが分かります。というのも、人間の進歩発展の速度は世紀毎に増大しているからです。

 知力は神が人間に与えられた最大の賜物の一つで、人間をして動物より高位の創造物たらしめるものは、実にこの力です。人間の知性が世紀毎に、そして年毎に成長し、鋭敏になるのに、動物の知力は以前のままで停滞しているのです。彼らの知力は千年前と変わりがないのです。これは、人間が動物とは違う創造物であるということを示すこの上ない証拠です。それは火を見るより明らかです。

 精神的完全性は人間の生れながらに持つ特権であり、あらゆる創造物のうちで唯一人間だけにふさわしいものです。人間は本質的に霊的存在であり、人間が霊的に生きるとき、本当に幸福となるのです。こうした霊的な憧れや知覚はすべての人間に同じように備わっているのであり、私は西洋の人々が偉大なる精神的願望をもつと確信いたします。

 東洋の星がその輝かしい光を西洋世界になげかけ、そして西洋の人々が力強く、真剣に、勇気をもって起ち上り、東洋の同胞に援助をさしのべるよう、これが私の切なる祈りです。

 

 

第二十四 パリのスタジオでの講演 (十一月六日)

 

 これこそバハイの会堂です。こうした会堂や集会所が建てられるたびに、その町、ないしはその町がある国の一般的発展にとって最大の助けになるのです。こうしたものは学問と科学の成長を奨励し、人びとにその強烈な精神性と愛をひろめるということが知られています。

 このような集会所の設立はいつもすばらしい繁栄を見ます。テヘランにあった最初のバハイ行政会は並外れた祝福の的でした。それは一年間で急激に成長し、はじめのメンバーの九倍までになりました。今日、はるか遠方のペルシャには、神の友が喜びと愛と和合に満ちて共に集うそのような行政会がたくさんあります。彼らは神の大業を説き、無知の人々を教育し、兄弟愛の親切をもって人びとの心と心とを結びつけています。貧乏人や困窮者を助けて日々のパンを与えるのは、実に彼らでした。彼らは病人を愛し、面倒を見、孤独な人たちや虐げられた人々に希望と慰めを運ぶ人たちです。

 パリの皆さん、皆さんの集会もこのようになるよう、そしてもっと大きい果実を結ぶよう努力してください。

 おお、神の友らよ!もし、あなた方が神の言葉を信じ、強くなれば、また、もしバハオラの教えに従って病人に優しくし、落伍者を立ち上がらせ、貧乏人や困窮者の世話をし、窮乏の人たちを庇護し、虐げられている人たちを守り、悲しんでいる者を慰め、心をつくして人類世界を愛するならば、必ずや遠からずこの集会所は素晴らしい成果を収めることでしょう。各メンバーは日々進化し、ますます精神性をたかめることでしょう。しかし、皆さんは確固とした基盤に立たなければならず、またその目的や抱負は各メンバーによってはっきりと理解されなければならないのです。その目的や抱負は次の通りです。

 

一、全入類にあわれみと善意を示すこと。

二、人類に奉仕すること。

三、暗黒の中にある人たちを導き、目を開いてやる努力をすること。

四、万人に親切をつくし、生きとし生けるすべてのものに愛情を示すこと。

五、神に対して謙虚であり、日々、神に接近するよう不断に神に祈りを捧げること。

六、あなた方の全員が正直、愛、信仰、親切、寛容、勇気といった性格で知られるほどに、すべての行動に誠実で、真摯であること。神以外のすべてのことから離脱し、天上の息吹、つまり神聖なる魂に魅了されること。そうすれば世間は、バハイ信徒は完全な人間であると認めるようになるでしょう。

 

 これらの集会でこれに達するよう努力してください。そうすれば、神の友であるあなた方は本当にこの上ない歓喜をもって集うことでしょう。互いに助け合い、すべての人が一つとなって、完全な和合に到達してください。

 皆さんが日々、霊的に高まり、神の愛が皆さんの中にもっともっと現され、皆さんの心にいだく想念が清められ、そして、皆さんの顔がつねに神の方へと向いているよう、これが私の祈りです。皆さんの一人一人が和合の域に達し神の王国に入り、それぞれが神の愛の炎に明るく輝きわたる燃えさかる松明(たいまつ)となるようお祈りいたします。

 

 

第二十五 バハオラ (十一月七日)

 

 アブドル・バハの言葉

 今日はバハオラについてお話します。パブがその聖なる使命を宣言してから三年目にバハオラは新説を信奉しているというので当時の狂信的な回教指導者たちに告発され、遂に捕えられて投獄されました。しかし翌日、数人の政府の役人たちやその他の有力者たちが彼を自由の身としたのですが、しばらくしてからまた捕えられ、僧侶たちは彼に死刑の宣告をしました。政府の長は革命を恐れて、この宣告の執行を躊躇しました。僧侶たちは、死刑場の向い側にある回教寺院に参集し、町の人びとはその回教寺院の外に群がり集まりました。鋸やハンマーを持った大工、包丁を持った肉屋、鍬をかついだ煉瓦職人や建築業者たちは、狂乱の回教指導者たちに刺激されて、彼を殺す光栄に浴したいと勇んで参集したのです。回教寺院の中には回教学者のお歴々が集まっていました。バハオラは彼らの前に立ち、彼らのすべての質問にその偉大なる知恵の言葉をもって答えられました。特にその中の最高の地位にある賢者はバハオラの反駁にあって完全に沈黙しました。

 そのうちに、二人の僧侶の間に、バブの著述中のある言葉の意味について議論が起こりました。バブのその言葉を誤りとして非難し、その点について弁明できるか否かとバハオラに詰め寄りました。しかし、僧侶は完全にその鼻柱を挫かれたのです。バハオラが、バブは絶対に正しく、バブを非難するのは無知なるが故であるということを全員の前で立証されたからです。

 敗北者たちは彼を、足裏を鞭で打つという拷問にかけましたが、ますます募る激しい怒りに拍車をかけられた彼らは、遂に彼を引き出して、血迷った人たちの集っている死刑場へつれて行きました。

 それでもなお、政府の主脳者たちは彼の刑の執行について僧侶たちの要求に応じることを怖れました。そして、この貴い囚人に迫っている危険をさとった彼らは、数人のものに命じて彼を救出したのです。命をうけたものたちは、寺院の壁を押し破り、その開いた所からバハオラを安全地帯に誘導し、どうにか彼の救済に成功したのですが、自由の身にしたのではなく、政府は彼を首都テヘランヘ送り、その責任をのがれたのです。ここで彼は地下牢獄に閉じこめられ、寸時も日光を見ることができませんでした。バハオラの首のまわりにつけられた重い鎖には他に五人のバビ信徒がしばられていました。鎖は強力な、非常に重いボルトやねじで組み合わされていました。衣服も、また頭の回教帽もぼろぼろになりました。バハオラはこうした恐ろしい状態で、四ケ月間そこにつながれていたのです。

 この間、バハオラの友人は誰も彼に近づくことはできませんでした。

 ある獄吏はバハオラの毒殺を企てましたが、その毒は彼にひどい苦しみを与えただけで殺すことはできませんでした。

 しばらくして、政府はバハオラを自由にしました。彼は家族と共にパグダッドに追放され、そこに十一年間滞在されました。この間、幾多のきびしい迫害をうけ、外敵の執念深い憎悪に取り巻かれていたのです。

 バハオラはこの上もない勇気とねばり強さであらゆる災害と苦悩を耐え忍ばれました。朝起きて日没まで生きるかどうかをいぶかることもたびたびでしたが、一方では、僧侶たちが宗教と形而上学について毎日教えをこうて来るという生活でした。

 トルコ政府は遂に、バハオラをコンスタンテノープルヘ追放しました。そこからまたアドリアノープルヘ送られ、そこに五年間滞在されました。そして結局、はるか僻地の聖ジヤン・ダークルの城砦牢獄へ送られたのです。この城砦でバハオラは軍の管理する一廓に監禁され、きわめて厳重に監視されました。彼が受けなければならなかった幾多の試練や、獄舎で耐え忍んだあらゆる苦難は、とうてい言葉で表現することはできません。このような受難にもかかわらず、パハオラがヨーロッパ諸国の諸君主に書を送られたのは実にこの獄舎からでした。こうした手紙の数々はすべて郵便で送られたのですが、ただ一つ例外がありました。

 ペルシャ王ナシリッド・ディンヘの書簡がそれです。

 ペルシャのバハイ信徒、ミルザ・バディ・クラサニ(Mirza Badi Khurasani)に手紙を託し、直接王に手渡されたのです。この勇敢な男はテヘラン附近で、王の通るのを待ちました。王がその道を通って避暑のための宮殿に行くことになっていたからです。この勇気あふれる使者は王の宮殿の入口近くの道路で何日も待ちました。いつも同じ場所で待っていたので、人びとはなぜだろうといぶかり始めました。彼のことはついに王の耳に入り、王はその男をつれて来るよう僕たちに命じたのです。

 バディは言いました。「おお、王の僕たちよ、私は書簡をもって参りました。この書簡を王さまの御手にお渡ししなければならないのです。」そして王にむかって、「私はバハオラの書簡をもって参ったのです」と。

 彼は直ちにとらえられ、バハオラの追害を誘導するような情報を探ろうとする者らによっていろいろ質問されました。バディは一言も答えまいとしたので、拷問されました。それでも彼は沈黙を守ったのです。三日後に彼らはバディを殺しました。彼らは彼に語らせることはできませんでした。こうした残忍な連中が拷問中の彼を写した写真が残っています。 ※註:バディが王のところへ書簡を届けるよう命をうけたとき、その場にいたある人は、彼の顔が変って、彼の体中から光背が見えたと伝えている。

 王はバハオラの書簡を僧侶たちに手渡し、説明するよう命じました。数日後、僧侶たちはこの書簡が政治上の宿仇からの書簡であると王に伝えました。王は怒って、「これは説明ではない。我の書簡を読んで、返事を書いたら報酬を興えるから、命令どおりにしろ」と言いました。

 ペルシャ国王宛の書簡の精神や意味は、要約すれば次の通りでした。「いまや、神の栄光の大業が出現する時が到来した。テヘランに行き、僧侶たちが我に投げかけるあらゆる質問に答えることを我に許していただきたい。」

 「我は汝が汝の帝国の世俗的なはなばなしさから離脱するよう勧告する。汝の前にあらわれたすべての偉大な王たちのことを思い起してみよ。彼らの栄誉も今は消え失せてしまったではないか。」

 この手紙は実に立派に書かれ、将来、東洋と西洋の両世界でバハオラの王国が勝利を収めるであろうと警告し続けていました。

 ペルシャの国王はこの手紙の警告には何らの注意も払いませんでした。そして最後まで従来どおりの生活を続けたのです。バハオラは獄舎にいらっしゃいましたが、偉大なる聖霊の力はつねに彼と共にありました。

 おそらく獄舎の誰もが彼のようであることはできなかったでしょう。彼はあらゆる苦難をうけたにもかかわらず、一言の不平もおっしゃいませんでした。

 彼は神の尊厳を保持し、政府の主脳者や町の有力者たちとの面会を常に拒絶したのです。

 監視は容赦なくきびしいものでしたが、彼は思うまま行ったり来たりしました。彼は聖ジャン・ダーケルからほぼ三キロのところにある邸宅で亡くなられました。

 

 

第二十六 よい思想、観念は実行に移さなければならない (十一月八日)

 

 すばらしいと賞賛される美しい言葉や、感心させられる高尚な教えは世界中で聞くことができます。すべての人が、善を愛し、悪なるすべてのものを憎むと言います。誠実は賞讃され、虚言は卑しまれる。信仰は美徳であり、裏切りは人類の恥。人びとの心に喜びを与えることは祝福すべきことであり、苦しめることは悪しきこと。慈悲深く親切であることは正しいことであり、人を憎むことは罪深いこと。正義は高尚な特質であり、不正は邪悪なもの。つまり、人に憐み深くあって、害を与えず、いかなる場合にも嫉妬と悪意を避けることは人間の義務である。人間の栄誉は知恵にあり、無知にではない、光にあって、暗黒にあるのではない。神へ顔を向けることは良いことであり、神を無視することは愚かしいことである。すなわち、人の向上を導き、間違った指導しないこと、人をおとしめないことは私たちの義務である。と言ったような名言の例はまだまだたくさんあります。

 しかし、こうした名言というものはただ言葉であるにとどまり、行動に移されることはほとんどありません。それどころか、人びとは情欲と利己心に夢中で、皆が自分にとって得になるしか考えず、たとえそれが自分の兄弟を破滅させることであっても関係ないといった状態です。すべての人が自分自身の繁栄に躍起になり、他の人の福利のことなどほとんど、いや、全く気にかけないのです。彼らにとっては自分自身の平和と慰安だけが関心事であり、仲間たちの状態に心を痛めることなど全然ないのです。

 不幸なことに、これが大低の人たちの歩む道です。

 しかし、バハイたちはこのようであってはなりません。彼らはこの状態よりうえであるべきです。行動は言葉以上のものであるべきです。慈悲は彼らの行動をとおして示されるべきものであり、単なる言葉であってはならないのです。いかなる時も、自分たちの言葉は行動によって確認されるのです。彼らの行いは彼らの忠誠を証明し、彼らの行動は聖なる光を射しださなければなりません。

 自分たちの行動を通して、我こそは誠のバハイ信徒であると世界にむかって声高らかに叫ぼうではありませんか。行動こそが世界にむかってもの言うものであり、人類発展の原因となるものだからです。

 もし私たちが真実のバハイ信徒であるなら、言葉は不要です。私たちの行動は世界を援助し、文化をひろめ、科学の進歩を助け、もろもろの芸術を発達させる源となるのです。物質界においては、行動がなければ何も完成されず、また精神界においても、行動の助けのない言葉は人を進化させることはできないのです。神の選民たちが聖なる域に到達したのは口先だけの言葉の力によるのではなく、忍耐強い実践的奉仕の生き方のおかげで世界に光明をもたらしたのです。

 それ故、自分たちの行動が美しい祈りとなるよう、日々努力いたしましょう。神へ顔を向け、常に正しく、高尚な行いをしましょう。貧しいものを豊かにし、落伍者を再起させ、悲嘆にくれるものを慰め、病人に癒しをもたらし、恐れるものを安心させ、虐げられたものを救済し、絶望した者に希望を与え、困窮者を庇護しようではありませんか。

 これが真のバハイの仕事であり、バハイ信徒に期待されるところです。もし、こうしたすべてのことを実行するよう努力するならば、真実のバハハイ信徒といえるのですが、それをおろそかにするようなら光の従者ではなく、バハイ信徒を名のる資格はありません。

 すべての心を知りたもう神は、私たちの生活が私たちの言葉をどれだけ実行しているかをご存知です。

 

 

第二十七 水と火の洗礼の真の意味 (十一月九日)

 

 聖ヨハネによる福音書には、キリストは言いたもう「人は水と霊とによりて生れずば、神の国に入ること能わず」とあります。僧侶たちはこの言葉を、救済には洗礼が必要であるという意味に解釈しているのです。また、他の福音書では、「彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん」と言っています。

 このように洗礼における水と火は一つのものです。ここでいう「水」がいわゆる物質的な水でありえるはずはありません。水は「火」とは正反対のものであり、一方は他方を滅ぼすものだからです。福音書の中でキリストが「水」と言っているのは、生命をもたらすところのものという意味です。つまり、水がなければ地上の(かぶ)造物は生きることができません。鉱物、植物、動物、人間など、あらゆる生存は水に依存しているのです。そうです、ごく最近の科学的発見によって、鉱物でさえある種の生命をもち、その生存のためにはまた水を必要とすることが証明されました。

 水は生命の根源であり、キリストが水について言われた時、彼は永遠の生命の源を象徴しているのです。

 キリストのいうこの生命を与える水は火に似ています。それは神の愛に他ならず、この愛はすなわち私たちの魂の生命を意味するのです。

 この神の愛の火によって天上のもろもろの実在から私たちを引き離している暗幕が焼きつくされ、明確なビジョンのもとに、美徳と清らかな道において不断に、進歩発展するために前向きに努力することができ、世界に光を投げかけることができるのです。

 神の愛こそは最も偉大で祝福されるものであり、これに優るものはありません。神の愛は病人を癒やし、負傷者を慰め、全世界に喜びと慰安を与えます。そして、神の愛をとおしてのみ人は不滅の生命に達することができるのです。神の愛はあらゆる宗教の本質であり、あらゆる聖なる教えの基礎です。

 アプラハムやイザク、ヤコプを導き、エジプトのヨセフを力づけ、モーゼに勇気と忍耐力を与えたのは神の愛でした。

 神の愛をとおして、キリストはこの世に送られました。そして、自己犠性と献身の完全な人生を示す啓発的な模範となり、不滅の生命のメッセージを人びとに伝えたのです。モハメッドに、アラブ人をその動物的堕落の状態から一段と高い生存状態に引上げる力を与えたのは神の愛です。

 バブを支え、彼に最高の犠牲者の地位を得させ、その胸を喜んで何千もの弾丸の標的とさせたのは神の愛でした。

 そして、バハオラを東洋に出現させたのも神の愛であり、今日その彼の教えの光ははるか遠い西欧において、また極地から極地に至る全世界に送られているのです。

 このように私は、皆さんの一人ひとりが神の愛の力と美を認識し、あなた方のすべての考えと、言葉と、行動をつくして、神の愛についての知識をすべての心にもたらすよう、強く皆さんにお勧めいたします。

 

 

 

第二十八 心霊集会における演説 パリ、サン・ジエルマンアテネ食堂にて(十一月九日)

 

 皆さんのご歓待に感謝し、皆様が精神的な考えをお持ちであることを喜んでおります。聖なるメッセージを聞くため集会であるこうした集りに出席できて幸せです。もし皆様が直理の眼をもって観ることができれば、偉大なる霊波がこの会場にうねっているのがみえることでしょう。聖霊の力は皆様のためにここにあります。神に賛美あれ、皆さんの心は聖なる熱情で啓発されています。皆さんの魂は精神の海の波のようです。つまり、それぞれの波は明らかに別々の波ですが、大洋は一つであり、すべては神のもとに結ばれているのです。

 すべての人の心は和合の光を放射しなければならなりません。そうすれば、すべてのものにとって唯一の聖なる源の光が燦然と輝きでるでしょう。私たちは個々別々の波のことだけを考えるべきではなく、海全体を考えるべきです。私たちは個を超越して全体的に考えるべきです。神霊は一つの大きな海のようであり、波は人びとの霊魂です。

 聖書は、新たなるエルサレムが地上に出現するであろうと説いています。いま、この聖なる都市は物質的な石材やモルタルで建てられるものではないということが明らかです。つまり、それは人間の手で造られる都市ではなく、天国の不滅の都市ということです。

 これは、人びとの心を啓発する神の教えの再来を意味する予言的な象徴です。聖なる導きが人類の生活を支配しはじめてから長い年月が過ぎました。しかしいまや、ついに新たなるエルサレムの聖なる都市が現世に再現しました。それは東方の空のもとに新たに姿を顕わしたのです。それは全世界を照らす光となるために、ペルシャの地平線上から明るく輝き出ました。私たちはこれらの日々にこの聖なる予言の成就を見ています。エルサレムは姿を消し、天国の都市は破壊されました。しかし、いまやそれは再建されました。それは崩れ落ちたのですが、いまやその壁や尖塔は復興され、その新しく、栄光に満ちた美しさは高々とそびえ立っているのです。

 西洋の世界では物質的繁栄が勝利し、東洋では精神的太陽がかがやいています。私はパリに精神的発展と物質的発展とが一つになっているこうした会合があることを知り、とても嬉しく思います。

 真の人間は霊であって肉体ではありません。人間の肉体面は動物界に属するのですが、なお魂のゆえに彼は他の創造物より優位にあるのです。太陽の光がいかに物質界を照らしているかを見てください。それと同じように、神の光は霊界に照り輝やいているのです。人間という創造物が聖なる実在たり得るのは、実に霊のためです。

 人間の霊を通して働く聖霊の力によって、人間は万物のうちに宿る神性を感知することができます。偉大なる芸術や科学の作品などあらゆるものがこの聖霊の力の証拠となるものです。

 この同じ霊が不滅の生命を与えるのです。

 この聖霊の洗礼をうけた者のみがすべての人間を和合のきづなで結びつける力を与えられています。聖霊の力によって、精神的考えの東洋世界が西洋の行動の世界と一体になり、物質界は清らかにされます。

 当然のことながら、至高の計画を遂行するために励むすべての人たちは聖霊の軍隊の兵士ということになります。

 聖なる世界の光は影と幻想の世界と戦います。真理の太陽の光は迷信と誤解の暗闇を追い散らします。

 皆さんは神霊の人です。真理を探求する皆さんにとってバハオラの啓示は大いなる喜びとなります。この教えは霊的な教えであり、この中には神聖なる教えでないものはありません。

 神霊は外界の兆候や作品に表現されない限り、肉体的な感覚で感知されるものではありません。人間の体は見えますが、魂は見えません。にもかかわらず、人間の諸機能に方向を与え、人間性を支配するのは魂です。

 魂は二つの主要な機能をもちます。(a)外界の諸状況が目や耳や頭脳によってその人の霊に伝えられるように、魂は頭脳をとおして手や舌にその願いや目的を伝達してそれを表現するのです。魂の中の霊こそが、まさに生の真髄なのです。(b)魂の第二機能は、ビジョンの世界に表現されます。そこには霊が宿る魂があり、それが物質的な感覚の助けをうけることなく機能するのです。ビジョンの世界では、魂は肉眼の助けをうけずしてものを見、耳の助けによらずしてものを聞き、肉体の動きに頼ることなく旅をします。ですから、人間の魂は肉体的な感覚を使い、肉体をとおして機能することができ、また、それらの助けをうけずしてビジョンの世界で活動することもできるということは明らかです。これによって人間の魂は肉体より優位を占め、精神は物質よりも優位にあることがはっきりと証明されます。

 たとえば、このランプを見てください。このランプの明りはそれを保持しているランプより優位にあるのではないでしょうか。ランプの姿がどんなに美しかろうと、その明りがなければランプの目的は達成されず、生命のない、死んだものとなります。ランプはどんな場合でも明りを心要としますが、明りはランプを必要としません。

 精神は肉体を必要としませんが、肉体は精神を必要とし、それがなければ肉体は生きることができないのです。魂は肉体がなくても生きることができますが、肉体は魂がなければ死ぬだけです。

 もし人間が視力や聴力、あるいは手や足を失っても、霊が宿っていれば彼は生存し、聖なる美徳を表すことができます。しかし、精神がなくなれば、いかに完全な肉体でも生存することは不可能です。

 聖霊の最大の力は真理の聖なる顕示の中に存在します。聖霊の力をとおして、天なる教えが人類の世界にもたらされました。聖霊の力をとおして不滅の生命が人の子のたちにもたらされ、聖なる栄光が東方より西方へかがやきわたりました。聖なる人徳が現されたのも、実にこの聖霊の力のおかげです。

 私たちは、全力をつくして世俗的な事から離脱するよう精進しなければなりません。より精神的で、もっと光かがやく人間になり、神聖な教えの忠告に従い、和合と真の平等の源に仕え、慈悲深く、すべての人たちに至高の愛を反映するように努力すべきです。そうすれば、私たちの行動のすべてに聖霊の光が輝きでて、ついには全人類が一つになり、荒れ狂う海は静まり、荒々しい波のすべてはあらゆる人生の大洋の水面から姿を消し、それ以後は、波立つことなく平穏になるでしょう。その時、新しいエルサレムは人類の前に現れ、彼らはその門を入り、神の恩恵をうけるでしょう。

 私はこの午後、皆さんと共にあったことを神に感謝し、皆さんの精神的姿勢に対し皆さんに感謝します。

 皆さんが聖なる熱情に燃え立ち、聖霊において和合の力を増されますよう、切にお祈りいたします。そうすれば、もろもろの予言は成就され、神の光の偉大な世紀において、聖書にかかれているすべての福音は現実のものとなるでしょう。このときこそ、主イエス・キリストが私たちに教えた、「あなたの天国は近づきたり。あなたの御心は天国にあるごとく、地上になるべし」という祈りの言葉が意味する栄光の日です。これはまた、皆さんの期待であり、大いなる願望であると私は思います。

 私たちは、すべての人が一つとなり、すべての人の心が我らの天の父、神の愛によって輝くようにという一つの目的と希望で結ばれているのです。

 私たちの全行動が精神的で、すべての関心と感情が栄光の王国に集中するよう祈ります。

 

 

第二十九 霊の進化 パリ グリーゼ街十五番地にて (十一月十日)

 

 アブドル・バハの言葉

 今夜は霊の進化、あるいは発展についてお話します。

 自然界には絶対的な休息は存在しません。万物は進歩するか、衰退するかです。すべては前か後へ動いており、動かないものはないのです。人間は生まれてから、肉体的に成熟の域に到達するまで進化し、人生の最良の時というべき時期を迎え、やがて衰退しはじめ、体力や勢力は減退し、次第に死期に到ります。同様に、植物は種子から成長して実を結ぶようになり、やがてその生命が減退しはじめ、ついに色あせて枯れてしまいます。鳥は空高く舞い上がり、可能な限りの最高の高さにまで達するとだんだん地上に降りはじめす。

 このように、あらゆる生存物にとって動きは必須のものであることが明らかです。すべての物質はある点まで発達するが、それから衰退しはじめます。これが物質的な創造物のすべてを支配する法則です。

 さて、霊について考えてみましょう。運動はあらゆる生存物に必須のものであり、生存するもので運動をしないものは一つもないことが分かりました。それが鉱物であれ、植物であれ、動物界に属するものであれ、すべての創造物は、進化か、退化の運動の法則に従うことを余儀なくされているのです。しかし、人間の霊には衰退ということはありません。その運動は、ただ完全無欠の極みへ向けての運動だけです。霊の運動には、成長と進歩があるだけです。

 神の完全性は無限であり、したがって霊の発達もまた無限です。人間が生れおちた時から霊は進歩し、英知は成長し、知識は増大します。肉体が死滅しても、霊は生き続けます。すべての物質的創造物のそれぞれの生存には制限がありますが、霊の生存は無限です。

 すべての宗教には、魂は肉体の死後もなお生存を続けるという信仰があります。最愛の死者のために神へのとりなしの言葉がおくられ、死者の進化と、彼らの罪がゆるされるようにと祈りが捧げられます。もし霊魂が肉体と共に死滅するのであれば、こうしたことはすべて、全く意味のないことでしょう。それに、もし霊魂が肉体から解放された後に完全の極致へと前進することができないとすれば、これらの愛のこもった祈りや献身は一体何の役に立つのでしょうか。

 聖典には「すべての善行は果報をもたらす」と書かれています。ところが、霊魂が肉体の死後に生存しないとすれば、これまた無意味となります。

 物質界から去った私たちの最愛の人たちの安寧のために祈りを捧げずにはおれないという私たちの霊的本能は、確かにかなえられるとするこの事実こそは、死者の霊が生き続けるという証拠となるのではないでしょうか。

 霊界には退歩はありません。死すべき宿命の人間の世界は矛盾の世界であり、対立の世界です。運動は強制的なものであるが故に、すべてのものは前進するか後退するかしなければならないのです。霊界では後退は不可能で、すべての運動は完全性に向かって前進します。「進歩」は、物質世界での霊の表現です。人間の英知、推理力、知識、科学的業蹟、これらのすべては霊の顕現で、精神的進化という不可避的な進歩の法則の適用をうけるものですから、それらは必然的に不滅のものです。

 私は、皆さんが物質世界におけると同様、霊の世界においても進歩し、皆さんの知性が発達し、知識が豊かになり、理解力が拡大されますように願っております。

 絶えず前進し、断じて立ち止まってはなりません。後退への第一歩である停滞で腐敗しないようにしなければなりません。

 物質的創造物はすべて死滅する運命にあります。こうした物質的肉体は原子で構成されています。これらの原子が分離しはじめると分解作用が起り、いわゆる死が到来します。肉体やその他あらゆる創造物の、朽ちる要素を構成するこの原子構造というものは、一時的のものです。こうした原子を一つにしている牽引力がなくなると、もはや肉体は肉体として存在しなくなるのです。

 霊はこれとは違います。霊は要素の結合体ではなく、多くの原子で構成されているのではありません。それは一つの不可分離の実在で、したがってそれは不滅です。それは完全に物質的創造物の秩序の外にあり、永劫不滅を特性としています。

 科学は単一なる要素(単一とは結合体でないことを意味する)は破壊することができず、永続するということを実証しています。霊魂は要素の結合体ではないので、その性質上、単一要素と同じく滅亡はあり得ないのです。

 霊は一つの不可分離の物質から成っているので、分裂や破壊をこうむることはなく、したがって、終末に到る理由もありません。生きとし生ける物は、それぞれ何らかの姿を現わし自己の生存を表します。必然的結果として、こうした生物の生存の表示というものは、その生存の元となるものが存在しなくなるとそれ自身もはや存在できません。勿論、存在しないものは何の存在をも表示することはできないわけです。精神の存在を示す様々な印は私たちの前に永遠に存在します。

 イエス・キリストの霊の証跡、彼の聖なる教えの影響は今日なお私たちとともにあり、それは永遠です。

 存在しないものが存在を示す印を現わすことはできないということは、誰も異論のないところです。書くためには人間の存在がなければならず、存在しない人間が書くことはありません。書物はそれ自体、書いた人の魂と英知の証跡です。あらゆる聖典(永遠に同じ教えと共に)は精神の永劫性を証明するものです。

 万物創造の目的は何でしょうか。万物は幾世代を通じて創造され、進化発展しますが、その創造が、人間のごく僅かな年月の地上生活といったきわめて小さな目標のためであるはずはないでしょう。これが生存の最終の目的であるなどとは思えるはずがないでしょう。

 鉱物は最終的に植物の生命に吸収されるまで進化し、植物は成長発達して、最後に動物の生命のためにその生命を失うのです。動物はまた人間の食料の一部となって、人間の生命に吸収されます。

 このように、人間はあらゆる創造物の総和であるということが分かります。つまり、あらゆる創造物の優位を占めるものであり、世代を通じた存在の進化発展の目標なのです。

 人間はこの世に生をうけてせいぜい九十歳位の寿命しかありません。実に短い人生です。

 はたして人間は肉体を去るとき生存しなくなるものなのでしょうか。もし生存しなくなるとすれば、これまでの進化はすべて無駄であり、全く何もなくなってしまいます。万物の創造がこれだけの目的のために行われると想像できますか。

 霊魂は永遠で、不滅のものです。

 唯物論者は「霊魂はどこにあるのか。それは何か。私たちはそれを見ることも触れることもできないではないか」と言います。

 私たちは彼らにこう答えるべきでしょう。鉱物がどれだけ進化しようとも、それは植物界を理解することはできません。しかし、それが理解できないからといって、植物が存在しないということにはなりません。

 植物がいかに成長発達したとしても、植物は動物の世界を理解できません。植物が動物界を知らないからといって、動物が存在しない証拠にはなりません。

 動物は、これ以上高度になることはできないというほど発展していますが、それでも人間の英知を想像することはできないし、また、自身の霊の性質を知ることもできません。しかし、これは人間に英知や霊魂がないという証明ではなく、ただ、一つの生存形態はそれより高位の存在を理解できないということを説明するものです。

 この花は人間のような存在を意識しないでしょう。しかし花が知らないからといってそれは人間の存在を妨げません。

 同じ論法で、たとえ唯物論者が霊魂の存在を信じないとしても、彼らの不信は決して精神界といった世界の不存在を証明することにはならないのです。人間に英知があるというそのこと自体が、実に人間が不滅であるということの証明であり、さらには暗闇は光の存在を証明するものです。と言うのも、光がなければ影というものはないでしょうから。貧乏は裕福の存在を証明するものです。なぜなら、裕福というものがなければ、私たちはどうして貧乏を評価できましょうか。無知は知識の存在を証明するものです。知識の存在がなければ、無知もないでしょう。

 ですから、死すべき運命にあるという考えはすでに永劫不滅の存在を想定しているのです。と言うのも、もし永遠の生命が存在しなかったら、現世の生命を測る目安はどこにもないからです。

 もし精神が不滅でなかったなら、どうして神の顕示者たちはかくも残虐な試練を耐えることができたのでしょう。

 なぜイエス・キリストは十字架にかかって恐ろしい死をとげたのでしょう。

 なぜモハメットは幾多の迫害を耐え忍んだのでしょう。

 バブが至高の犠性者となり、バハオラがその生涯の長年を獄舎で過ごしたのはなぜなのでしょう。

 もしそれが、精神の生命の永遠性を証明するものでないなら、なぜこうした苦しみを(かぶ)る必要があったのでしょうか。

 キリストは耐えられました。彼は自己の精神の不滅性の故にすべての試練を受け入れられたのです。もしふり返って見るならば、誰もが進化の法則の精神的意義を理解し、すべてのものがどのように低きより優位にむかって動くかを理解するでしょう。

 このように考えると、万物創造の偉大なる計画が突然進化を止めるとか、万物の進化が不適切に終末を遂げると想像するなど、それは知性を欠いた人間でなければできないことでしょう。

 このように理屈をならべて精神界など見ることができないとか、あるいは神の祝福を感知することはできないと主張する唯物論者たちはたしかに理解力をもたない動物に似ており、眼があって見えず、耳はあるけど聞こえないのです。この視力や聴力の欠如は、とりもなおさず、彼らが劣等であるという証拠です。そういう人たちについてコーランにはこう書かれています。「彼らは精神界について盲目であり、耳の不自由な者である。」彼らは神の偉大な賜物である理解力を使わないのです。それを使えば、彼らは霊眼をもって見、霊の耳をもって聞き、また天上から啓発された心をもって理解できるようになるはずです。

 唯物主義的な考えの人が不滅の生命という観念を把握できないからといって、そうした生命が実在しないということにはならないのです。

 そうした別の生命の理解のためには、私たちは精神的に生れかわらなければならないのです。

 皆さんが霊的能力と抱負を日一日と増大させ、そして物質的感覚の支配によって聖なる光明の栄光から視力を遮られることがないように。これが私の祈りです。

 

 

第三十 アブドル・バハの念願と祈り(十一月十五日)

 

 アブドル・バハの言葉

 皆さん、ようこそおいで下さいました。私は皆さんに心からの愛を捧げます。

 私は日夜、皆さんが強く生き、全員がバハオラの祝福をうけて王国に入られますよう天に祈りを捧げております。

 皆さんが新しく生まれ変り、光が輝いているランプのように神の光で照らされますように、そしてヨーロッパの端から端まで神の愛が知れわたりますよう、嘆願いたします。

 皆さんの心や考えは悲しみが入り込む余地がないほどに、この限りない愛に満ち溢れ、歓喜に満ちた心で、燦然と光り輝く天界に向かって小鳥のように舞い上がることができますように。

 皆さんの心が真理の太陽の全栄光を反映する磨き上げられた鏡のように澄みわたり、純粋になりますように。

 皆さんの眼が神の王国の兆を見、また、皆さんの耳が開かれて自分たちの中にひびきわたる天の宣言を完全に悟ることができますように。

 皆さんの魂が助けと慰めを得て、バハオラの教えに従って生きられるほどに強められますように。

 皆さんの一人一人が世界の愛の炎となり、皆さんの光の輝きとあたたかな愛情とが悲歎にくれる神の子供の心にしみわたりますように。

 皆さんが、永遠に、王国にあかるく光り輝く星となられますように。

 私は、皆さんがバハオラの教えを熱心に学び、神の助けを得て、正真正銘のバハイ信徒になられるよう謹んでお勧めいたします。