第十一 神が人間に与えられた最大の賜物 (十月二十六日、木曜日)
神が人間に与えられた最大の賜物は知性、あるいは理解力です。
人間が、いろいろ創造物の世界、生存のさまざまな段階、それに眼に見えない世界についての知識を獲得できるのは、実に理解力という力のおかげです。
人間はこの賜物をもつがゆえに本質において、創造界の下位にある創造物の頂点にたつものであり、人間はそれらの創造物の世界と接触することができるのです。また、しばしばその科学的知識をとおして、予言者のビジョンで未知の世界を知ることができるのです。
知性は、実際、神の慈愛、恩寵によって人間に与えられたもっとも貴重な賜物です。あらゆる創造物のうちでこの素晴らしい力を持っているのは、唯一、人間だけです。
人間より下位にある創造物はすべて、きびしい自然の法則に縛られています。大いなる太陽、無数の星、大洋、海、山岳、河川、樹木、それに大小のあらゆる動物、これらはいずれも自然の法則への服従から逃れることはできません。
人間だけが自由を持っているのです。そして、その理解力、あるいは知性によって、必要に応じて、自然の法則のあるものには順応し、またあるものを支配してきたのです。急行列車で大陸を横断し、船舶で海洋を航海するだけでなく、魚のように潜航艇で水中を動きまわり、鳥をまねて飛行船で空中を飛びまわる方法を見つけたのも、実に人間の知性の力のおかげです。
人間は、照明、モーター、地球の果から果てまでの通信など、電力をいくつかの方法で使うことに成功しています。電力によって人間は幾千里も離れた遠方の地の声さえも聞くことができるのです。
この知性や理解力という賜物で、人間は太陽光線を使って人や物を描くことや、遙か遠方の天体の姿をとらえることを可能にしました。
私たちは、人間は実に多くの分野において自然の力を思うままに駆使しているということを実感します。
一方、実に嘆かわしいことには、神の与えられた賜物によって戦争道具を作り、「汝殺すなかれ」という神の至上命令に背き、「互に愛しあうべし」というキリストの訓戒を無視しているのです。
神がこの知性の力を人間に与えられたのは、文明の進化発展、人類の福祉増進、愛と調和と平和の増大に用いるためでした。しかるに人間はこの賜物を、建設ではなく破壊のために、不正と迫害のために、憎悪と不和と破壊のために、隣人を自分自身のごとく愛すようにと訓戒したキリストの教えに反して、同じ創造物を絶滅させるために使用する方を選択しているのです。
皆さんは理解力というものを人類の和合と平安の増進、人びとに光明と文明をもたらし、周囲の人びとの間に愛を生み出し、全世界の平和を実現する目的のために使われますよう、私は切に望みます。
あらゆる科学を学んでください。そうすれば、ますます知識を深めることができます。たしかに人は生涯の終りまで学ぶことができます。あなたの知識をいつも他の人びとの利益のために使いましょう。そうしてはじめて、戦争はこの美しい地球から姿を消し、平和と調和の栄光にかがやく建物が建てられるでしょう。天国にある王国のような神の国をこの地上に建設するという皆さんの高遠な理想が実現するよう努力いたしましょう。
第十二 真理の太陽を曇らすもの (十月二十七日、金曜日朝、カムワンス四番地にて)
今日はとても好いお天気です。空気は澄み、太陽は輝き、その輝きを曇らす霧も雲もありません。
きらめく光線はこの街のあらゆるところに浸透しています。同じように真理の太陽がすべての人の心に輝きますように。
キリストは言いました「彼らは人の子の天の雲に乗って来るのを見ん」(マタイ伝二十四章)バハオラはこう言われました。「キリストが最初に来たとき、彼は雲に乗ってこの世に来たのである」(ヨハネ伝三章)と。キリストは、自分は空から、天から、つまり神から生れ出たのである、と言いました。しかし彼は聖母マリアから生まれたのです。しかし、キリストが天から来たと宣言したとき、それは青空から来たという意味ではなく神の王国なる天のことをいっているのであり、その天国から雲に乗って来たと言っているのであるということは明らかです。雲が太陽の光線を妨げる障害物であるように、人間世界の雲がキリストの神性の輝きを人間の眼からさえぎったのです。
人びとは言いました。「キリストはマリアから生まれたナザレの人間だ。私たちは彼を知っている、彼の兄弟を知っている。彼は一体何ができるというのだ。彼は何を言ってるんだ。彼が神から生まれたとは」と。
キリストの肉体はナザレのマリアから生まれましたが、その精神は神から生まれたのです。彼の人間としての肉体的能力には限界がありましたが、精神力は膨大で、無限で、測り知れないほどでした。
人びとは尋ねました。「彼はどうして自分は神から生まれたと言うのか」と。もしも人々が、キリストの実相を理解していたら、彼の人間としての肉体が雲となって彼の神性を見ることができなかったと悟ったに違いありません。世間は単に彼の人間としての姿だけを見たので、どうして彼が「天から来る」ことができるのかと不思議に思ったのです。
バハオラはこう言われました、「ちょうど雲が太陽や空を私たちから隠すように、キリストの人間としての面が彼の真実の神性を人々の目から隠してしまったのです。」
皆さんが曇りなき目で、世俗の事物を見るのではなく、真理の太陽を見つめ、瞬間的快楽に心惹かれることがないように、また、太陽がその強さを皆さんに授け、偏見の雲があなた方の目から太陽の輝きをさえぎることのないよう切に希望いたします。やがて、太陽は雲にさえぎられることなく皆さんに光を投げかけるでしょう。
清らかな空気を吸いましょう。一人一人がみな天の王国の神の恩恵にあずかるよう、またキリストの人間としての肉体が彼の神性を当時の人びとから見えなくしてしまったように、現世の事物があなた方の目から真理を隠してしまうことがないように。そして、聖霊をはっきりと感知し、心が輝き、あらゆる物質的な雲を通して輝く真理の太陽、宇宙にみなぎる彼の輝きを認めることができますように。
肉体上の現象のために精神の聖なる光を曇らすことのないように、そうすれば、神からの恩恵をさずかり、神の子供たちとともに不滅の王国に入ることができましょう。
これが皆様方へおくる私の祈りです。
第十三 宗教上の偏見 (十月二十七日)
バハオラの教えの基盤は人類の和合であり、彼の最大の願いは人々の心のなかに愛と善意が燃えていることでした。
バハオラは人びとに闘争と不和を避けるよう勧告されました。そこで、私は皆さんに、諸国民の間に存在する心配の主な理由について説明したいと思います。その主な原因は宗教上の指導者や教師たちがもたらす宗教の間違った解釈です。彼らは自分たちの宗教の形だけが神意にかなうものであり、他の宗派の信徒たちはみな、すべてを愛し給う父によって非難されるものであり、神の慈愛や恩恵を奪うものであると信徒たちに説くのです。人びとの間に非難、軽蔑、反抗、憎悪が起るのはこのためです。もし、こうした宗教上の偏見を一掃できれば、諸国民はやがて平和と調和を楽しむようになるでしょう。
かつて私は、ユダヤ人の寺院のあるテベリヤにいました。その寺院の真向いの家に滞在していたので、そこで一人のラビ(師という意味)がユダヤ人の群集に話しているのを見たり聞いたりしました。彼はこう話していました。
「おお、ユダヤの人々よ、諸君はまさに神の民である。他のすべての民族や宗教は邪悪なものである。神は諸君をアブラハムの子孫として創り給い、諸君の上に彼の祝福を降り注がれたのである。神はモーゼやヤコブやヨセフ、その他多くの偉大な予言者たちを諸君のために送られた。こうした予言者はすべて、諸君の民族から出た人々である。
「神はフアラオの権力を破砕して紅海を干上がらせ、また諸君を養うために天からマナを下され、諸君の渇きを癒すために岩石から水を湧き出させ給うた。まことに諸君は神の選民であり、地上のあらゆる民族の優位を占めるものである。したがって、他のあらゆる民族は神の嫌い給うものであり、神の非難をうけるものである。まことに、諸君は世界を治め、制圧し、すべての人類は諸君の奴隷となるであろう。」
「諸君、われわれの宗教を信奉しない者らと交わって自らを冒涜することがないようにせよ。彼らと親しく交わってはならない」
このラビの雄弁な演説が終ったとき、聴衆は心の底から満足し歓喜に満たされました。彼らの幸福そうな様子を言い表すことはとてもできません。
悲しいかな、地球上の分裂や憎悪の原因はこうした間違って指導された人たちなのです。今もなお、何百万もの人が偶像を崇拝し、世界の大宗教が互いに争っています。キリスト教徒とイスラム信徒はもう一三〇〇年間も争っていますが、彼ら相互の間の異論、論争はほんのちょっとした努力で克服でき、平和と調和が樹立され、世界に平安をもたらすことができるのです。
コーランには、モハメットが信徒たちに話した言葉があります。
「信徒たちよ、諸君はどうしてキリストとその福音書を信じないのか。聖書は確かに神の書であるのに、どうしてモーゼやその他の預言者たちを受け入れないのか。事実、モーゼは崇高な預言者であったし、イエスは聖霊に満たされていました。彼は神の力を通してこの世に送られ、聖霊と祝福された聖母マリアから生まれました。キリストの母マリアは天からつかわされた聖女でした。彼女は大寺院で祈りの日々をすごし、天から食物を受けていたのです。マリアの父、ザカリヤがやって来て、どこから食料をもらっているのかと彼女に尋ねると、マリアは『高きところより』と答えました。たしかに、神はマリアを他のいかなる女性より高きものとされたのです。」
これはモハメットがイエスとモーゼについて人々に教えたことです。彼は、これらの偉大なる教育者に対する教徒たちの信仰の欠如をとがめ、真理と寛容について学習するよう彼らに諭しました。マホメットは、野獣のように野蛮で未開の人々の中で働くようにと、神から下されました。彼らはまったく理解力を欠き、愛や思いやりや同情の感情の一切ない人びとでした。女性はきわめて見下げられ、男は自分の娘を生埋めにし、思いのままに自分の奴隷として幾人もの女を妻とすることができたのです。
こうした、半ば動物のような人びとの間にマホメットは神の聖なるメッセンジャーとして送られました。彼は、偶像崇拝の誤りについて、また、キリストやモーゼやその他の預言者たちへの崇敬について教えたのです。彼の偉大な力のおかげで彼らはかなり啓発され、文化的な民族となり、モハメットが出現した頃の野蛮な状態から高められました。これはあらゆる賛美や尊敬、愛に値するじつに素晴しい仕事ではありませんか。
主キリストの福音書を見てください。なんとすばらしいものでしょう。それなのに今日においても、人々はそのうちにある極めて貴重な美を理解することなく、知恵の言葉を誤って解釈しているのです。
キリストは戦争を禁じています。弟子のペテロが主キリストの身をまもろうとして大祭司の僕の耳を斬り落したとき、キリストはペテロにこう言いました「剣を鞘におさめよ」と。自分たちが仕えると公言している主キリストから直接命令されているにもかかわらず今なお人びとは論争し、あらそい、互いに殺し合っています。キリストの勧告や教えはまったく忘れられてしまっているように思われます。
しかし、信徒たちの邪悪な行為をキリストやその他の預言者たちの責任にしてはなりません。もし祭司や伝道師、その他の人々が、自分が信奉していると公言している宗教に反する生き方に導いた場合、それをキリストやその他の偉大な教師たちのせいにできますか。
イスラム教徒たちは、イエスがいかにして神の国から来たのか、いかにして聖霊から生まれ、すべて人びとは彼の栄光を讃えるべきということを悟るよう、教えられました。モーゼは神の予言者でした。そして、彼の時代の人々のために神の書を現しました。
モハメットはキリストの崇高な威厳、それにモーゼやその他の予言者たちの偉大さを認めました。もし世界中の人びとが、モハメットやすべての天来の教師たちの偉大さを認めることができれば、やがて争闘や不和は地上から姿を消し、人々の中に神の王国が実現することでしょう。
キリストの栄光を称えたイスラム教徒たちは、そうしたからといって辱しめられることはないのです。
キリストはキリスト教徒の預言者であり、モーゼはユダヤ人の預言者です。いずれの預言者の信徒であるにせよ、他の予言者たちを同じように称え、尊んでならないという理由はありません。もしも人々が相互の許し合い、理解、同胞愛、一致和合の教えを学ぶことができれば、世界の和合はまもなくたしかな事実となって実現するに違いありません。
バハオラはこの愛と和合の教えを説くことに一生を捧げられました。私たちは、あらゆる偏見や不寛容を放棄し、キリスト教徒とイスラム教徒の間に理解と和合をもたらすよう心魂こめて努力しようではありませんか。
第十四 神の人間への恩恵 (カムワンス四番地にて、十月二十七日)
神のみが万物を定め、すべての力に満ち給います。そうであれば何故、神は僕らに試練与えられるのでしょうか。
人間の試練には二種類あります。(1)自分自身の行為の結果であるもの。もし、食べすぎると消化に変調を来たします。毒を飲めば病気になるか、あるいは死にます。ばくちをすればお金を失うし、飲みすぎれば平静を失うでしょう。こうした苦難はすべて、人間が自分で招くものであり、したがって、悲しみのあるものは、私たち自身の行為の結果生み出されるものであるということは確かです。
(2)もうひとつは、神を信仰する人たちに降りかかる試練です。キリストやその使徒たちが耐え忍んだ大きな苦難について考えて見ましょう。
最も大きな苦難を経験するものはすばらしい完成の状態に到達します。
キリストのために多くの苦難を甘受することを宣言するものは自分たちの誠意を示さなければなりません。大いなる犠性を払いたいという願望を宣言したものは、自分たちの行動によってのみその真実性を証明することができるのです。ヨブは、自己の生活の繁栄の時にも、また非常な逆境の時にも神を信じることによって、自分の神への愛の忠誠を実証しました。あらゆる試練と苦難に確固として屈せず、耐え忍んだキリストの使徒たちは、彼らの神への信仰深さを証明しなかったでしょうか。彼らの忍耐はその最善の証明だったのではないでしょうか。
さあ、このような悲しみの話はもうやめましょう。
ペテロが悲歎と試練の日々をおくっているとき、カヤバは楽しい幸せな生活を送っていました。いずれの生活を羨むべきでしょう。絶対に私たちはペテロの状態を選ぶべきです。カヤバは永遠の恥辱を勝ち取り、ペテロは不滅の生命を所有しているからです。ペテロの試練は彼の忠誠心を試めすものでした。試練こそは神からの恩恵であり、私たちはこの恩恵を神に感謝すべきです。悲歎や不幸は偶然に私たちを襲うものではなく、神が私たちを完全なものにしようとして与えてくださる神の慈愛です。
人は幸せだと神を忘れがちですが、悲痛に襲われ、悲しみに圧倒されると自分を屈辱から救い出すことができる、天の父を思い出します。
苦難のない人間は完全の域に到達することはありません。庭師の手が最も良く入った植物は、夏が来ると最も美しい花を咲かせ、一番豊かな果実を実らせます。
農夫がすきでしっかりと掘りかえした土地からは、豊富な、潤沢な収穫が生み出されます。人間は鍛えられれば鍛えられるほど、現われてくる精神的徳性の収穫がますます大きくなります。兵士も、最も激しい戦線に立って深い傷を経験するまでは、素晴しい将軍にはなれないのです。
「おお、神よ、私はあなたの道に生命を投げだすことを願います。あなたのためにわが血を流し、あなたの至高の犠性とならんことを願う」という神の予言者たちの祈りは常に捧げられ、今もなお捧げられているのです。
第十五 多様性の中の美と調和 (十月二十八日)
万物の創造者は唯一なる神です。
この同じ神からあらゆる創造物は生み出され、生存するようになりました。自然界のすべては神を切望し、目標として仰ぐのです。この観念は、キリストの「われは初めにして終わりであり、全き存在である」という言葉の中に具現化されています。人間は創造の総和であり、人間は創造主の完全な思考、すなわち神のことばの表現なのです。
創造物の世界を考えると、それらの種類がいかに多種多様であるかが分かります。しかも、それらは唯一の源から出ているのです。現れている相違はすべて、外面的な姿と色彩の相違です。こうした形の多様性は、自然界全体を通して明瞭です。
花や灌木、樹木などが一杯の美しい庭園を見てください。それぞれの花は異なった魅力、特異の美しさ、独特の甘い香り、美しい色をもっています。樹木もまた、大きさ、成長や葉の茂り具合が異なります。それに、なんと色々な果実を実らせることでしょう。しかも、こうした花、潅木、樹木のすべてが全く同じ土から生み出され、同じ太陽から光を受け、同じ雲から雨を得ているのです。
これは人間の場合も同じです。人間にはいろいろな種族があり、彼らは皮膚の色がさまざまに異なります。白、黒、黄、褐色、赤というように。しかし、彼らはすべて同じ神から生み出されたものであり、すべて神につかえる僕ですが、不幸にも、こうした人間の子供たちの間の多様性は、植物界に及ぼす影響とは異なります。このような多様性は植物界に調和した精神をもたらしています。人々の間には多様な敵意が存在し、これが戦争や、世界中の異なった国民の間にある反目の原因となっています。
ただ血が異なるだけでも相互に破壊し、殺し合う原因となるのです。悲しいかな。いまだにそうなのです。むしろ、その多様性の中に美しさと調和の美を見、植物界から教訓を学ぶようにしましょう。もし皆さんが、すべての植物が形も色も香りもみな同じの庭園を見たら、それは美しく見えるどころか、単調で味気ないものに見えるに違いありません。眼を楽しませ、心に喜びをもたらす庭園では、さまざまな色合いや姿、香りのいろいろな花が咲き並んで、喜ばしい色彩の対照が魅力と美しさを与えています。樹木の場合も同じです。果樹がたくさん実る果樹園も楽しい。また多くの種類の潅木の茂る農園もそうです。その魅力は、いろいろさまざまな多様性や種々の違いにあるのです。それぞれの花、樹、果実の魅力は、それ自体の美しさは別として、他の資質との対照のなかで引き出され、それらすべての特殊な愛らしさを見せるのです。
人間相互の間もそういう風でなければなりません。人類という家族の中の多様性は愛と調和の源であるべきです。ちょうど、多くの異なった音調が一つに融け合って完全な和音となる音楽と同じようなものです。もしあなたが、異なった人種や皮膚の色の異なった人と出会っても、彼らを疑ったり、従来の因襲の殻に引きこもったりしないで、むしろ、喜んで、親切にしましょう。彼らのことを人類という麗しい花園の中に成長しているさまざまな色彩の薔薇の花とみなし、自分がその中にあることを喜びましょう。
同様に、自分の意見と違った意見の人と出会っても、顔をそむけてはなりません。みんなが真理を探究しており、真理に到る道は幾つもあるのです。真理はいくつもの局面をもち、常に変わらず、永遠に一つです。
意見の相違や思想の相違を仲間との仲たがいや、反抗、憎悪、争いの念を起こす原因としないようにしましょう。
むしろ、丹念に真理を探求し、すべての人々と友達にならなければなりません。
堂々たる建物はみな、さまざまな数多くの石で造られています。どれか一つの石が置きかえられても、それが建物の全体に影響するほどに相互依存の関係にあり、もしその一つに欠陥があれば構造全体が不完全となるのです。
バハオラは和合の輪を描かれました。彼はすべての人々を和合させ、普遍的和合のテントのもとに彼らみなを集合させる設計図を作られました。これは聖なる恩寵の仕事であり、私たちは、私たちの中に真の和合を築くまで心をこめて精進しなければなりません。精進すれば私たちには必要な力が与えられます。あらゆる私心を捨てて、ひたすら神の意志に従順に従うよう努力すべきです。これこそは神の王国の市民となり、永劫不滅の生に到達する道なのです。
第十六 キリスト出現に関する予言の真の意義 (十月三十日)
聖書にはキリスト出現についての予言が書かれています。ユダヤ人はいまなお救世主の出現を待っていて、彼の到来の早からんことを日夜神に祈っています。
キリストが出現したとき、ユダヤ人は「これは私たちの待っている偉大なる救世主ではない。救世主が出現するときには、その人がまことの救世主であることを実証する前兆や奇跡が起るはずである。私たちはその前兆や奇跡を知っているがそれらは現れなかった。救世主は未知の町から出現し、ダビデの王座につくであろう。見よ、彼は鋼の刀をたずさえて現れ、鉄の王笏をもって統治するであろう。彼は予言者たちの律法を履行し、東洋と西洋を制覇し、神の選民であるユダヤ人に栄光を与えるであろう。救世主は平和の御代を実現し、動物でさえも人間に敵意を抱かなくなるであろう。見よ、狼と小羊が同じ泉から水を飲み、ライオンと牝鹿が同じ牧場に住み、蛇と鼠が同じ巣にたわむれ、神の創造物のすべてが安らぐであろう。」と言って彼を非難し、殺害しました。
ユダヤ人によると、イエス・キリストはこうしたことを何一つ実現しなかったのです。と言うのは、彼らの目は拘束されていて、真実を見ることができなかったからです。
彼は未知の町とは言えないナザレの地から来ました。手に刀も持たず、一本の棒さえも持っていませんでした。ダビデの王座につくどころか、一人の貧しい男でした。彼はモーゼの律法を改革し、安息日を守らず、東洋と西洋の制覇もせず、彼自身がローマ法に従いました。ユダヤ人を高めることもなく、平等と人類すべて兄弟であることを説き、ユダヤ教の学者とパリサイ人を非難したのです。平和の御代は実現しませんでした。彼の生きている間は不正と残虐とがその極に達し、彼自身その犠牲となり、十字架にかかって屈辱的な死をとげました。
このようにユダヤ人は考え、言いました。彼らは聖書の言葉も理解できなかったし、またその中に書かれてある栄光に輝く真理を理解することもできなかったのです。彼らは文字を暗記していましたが、その生命溢れる精神については理解しなかったのです。
聴いてください。私はその意義を明らかにしようと思います。彼は人に知られているナザレの地から現れましたが、彼はまた、天からやって来たのです。肉体はマリアから生まれましたが、彼の精神は天から来たのです。彼が持っていた剣とは彼の舌でした。この剣を持って、彼は善を悪と、真実を虚偽と、信仰を無信仰と、そして光明を暗黒と区別しました。彼の言葉はまさに鋭利な剣でした。彼が坐した王座は、キリストが永遠に統治した、天上の玉座、永遠の王座であり、地上の王座ではなかったのです。なぜなら、地上の事物は一過性のものですが、天界の事物は過ぎ去るものではないからです。彼はモーゼの律法を解釈しなおし、完成させ、予言者たちの律法を成就しました。その言葉は東洋と西洋を制覇しました。彼の王国は永劫不滅です。彼は自分を認めたユダヤ人たちを高めました。彼らは生まれの卑しい男たちや女たちでしたが、彼と接することで彼らは高められ、不滅の尊厳を与えられました。かつてはいろいろな宗派や民族に分かれて、争いながら生きていた動物たちも、今や、永遠の泉であるキリストから生命の水を共にくみかわし、愛と慈愛のうちに生きるようになったのです。
このように、キリスト出現に関する霊的予言のすべては果たされました。しかし、ユダヤ人は目を閉じて見ようとせず、耳を塞いで聞こうとせず、キリストの聖なる実相は彼らに認められず、愛されず、聞かれないままに通りすぎていきました。
聖典を読むのは容易ですが、その真の意義を理解するにはきれいな心と純粋な心意がなければなりません。聖典を理解できるようになるために、神の助けを請い願いましょう。見る目と聞く耳、平和を祈願する心を持つことができるように、祈りましょう。
神の永劫不滅の慈愛は広大です。神は常に特定の魂を選んで神の心からなる聖なる恩寵をその者の上にそそぎ、その人たちの心意を聖なる光で照らし、その人たちに聖なる神秘を啓示し、真理の鏡を常に明るく保ちました。こうした人たちこそ神の使徒であり、神の親切は無限のものです。最も高きにあるお方の僕である皆さんもまた、神の使徒となることができます。神の財宝は無限です。
聖典を貫いて息づいている精神は飢えているすべての人びとの食料です。彼の預言者たちに啓示を与えられた神は、確かに、忠実に彼に求めるすべての人たちに日々の糧を豊富に与え給うことでしょう。
第十七 聖霊‐神と人間との間の媒介力 (カムワンス四番にて、十月三十一日)
神の実相は、想像を超える、無限で、永遠不滅の、不可視のものです。
創造界は自然の法則に縛られており、有限で、死滅するものです。
無限の実相は上昇とか下降ということばでは表現できません。それは人間の理解力を超えており、創造界の現象に適用する言葉で言い表せるものではないのです。
そこで人間は、神の実相から援助を受けることのできる媒介となる唯一の力を絶対に必要としています。その力のみが人間にすべての生命の源との接触をもたらすのです。
両極端を相互に関係づけるには媒介物が必要です。富と貧困、豊さと欠乏、これらの正反対のものは媒介力がなければ関係づけることはできません。
このことで私たちは、神と人間との間には偉大なる媒介者があると言えます。それこそが聖霊にほかならず、この聖霊が創造された地球と想像を超えるもの、すなわち神の実相とを関係づけるのです。
神の実相は太陽に、聖霊は太陽の光線になぞらえることができます。太陽の光線が地球に太陽の光と温かさを与え、あらゆる創造物に生命を与えるように、神の顕示者たちは聖なる真理の太陽から人間の魂に光明と生命を与える聖霊の力をもたらすのです。
見てください、太陽と地球との間には媒介物が必要です。太陽は地球に降りてはきませんし、地球が太陽へ昇って行くこともありません。この接触は、光と温かさと熱をもたらす太陽の光線によってなされるのです。
聖霊はその無限の力であらゆる人類に生命と光明とを与え、あらゆる魂を聖なる輝きでみなぎらせ、神の慈愛の祝福を全世界に伝える真理の太陽から出る光です。地球は、太陽の光線の温かさと光とを媒介する物がなければ太陽の恩恵を受けることはできません。
同様に、聖霊は人間の生命の本源です。聖霊がなければ人間は知性を得ることができず、他の創造物に対して多大な影響力を持つ科学的知識の獲得も不可能です。聖霊の光は人間に考える力を与え、人間をして意のままに自然の法則を変えるような発見をさせます。
聖霊は神の予言者たちの媒体をとおして人間に精神的徳性を教え、永遠の生命に到達できるようにするものです。
こうした祝福のすべては聖霊によって人間に与えられます。したがって、聖霊は創造者と創造物との間の媒介であるということが分かります。太陽の光や熱は土地を肥沃にし、そこに成長するすべての物に生命をもたらし、聖霊は人間の魂を生き返らせます。
キリストの二大使徒、ペテロと伝道者ヨハネはただの身分卑しい労働者で、日々のパンのために働いていました。その彼らの魂は聖霊の力によって啓発され、主キリストの永遠の祝福をうけたのです。
第十八 人間の二つの性質 (十一月一日)
今日はパリの祝日です。万聖節が祝われる日です。これらの人たちが「聖者」と呼ばれるのはなぜだと思われますか。この言葉は深い意味をもちます。聖者とは清浄な生活をし、あらゆる人間的な弱さや不完全さを超越した人のことを指します。
人間には2つの性質、つまり精神的な、高位な性質と、物質的な、低級な性質があります。一方では人間は神に接近し、もう一方では物質界だけに生きています。こうした二つの性質の徴は誰にも見られるものです。人間の物質的性質は虚言、残忍性、不正に現れます。これらは人間の低級な性質から出るものです。人間のもつ聖なる性質の属性は、愛や慈悲、親切、真実、正義として表現されます。これらはみな、高位も精神的性質の現れです。すべての善い習慣、高尚な性質は人間の精神的性質に属するものであり、人間のすべての不完全で罪深い行動は物質的性質から生まれるものです。もし聖なる性質が人間的性質を支配するなら、その人は聖者といわれるでしょう。
人間は善を行う力と悪を行う力の両方を持っています。もし善を行う力の方が勝っていて、悪を行う性癖を克服するならば、その人はまことに聖者と呼ばれましょう。しかし、逆に、神のことを排撃し、悪の情慾に支配されるままになれば、もはや彼はただの動物にも劣るものとなります。
聖者とは物質世界を解脱し、罪を克服した人たちです。彼らは現世に生きながら現世に縛られることなく、その思いは絶えず精神の世界にあります。聖なる生活を営み、その行為からは愛と正義と神々しさを表します。彼らはいと高きところから光をうけ、この世の暗さの中で光り輝くランプのような存在となります。これらの人々が神の聖者と言われる人たちです。イエス・キリストの門弟であった使徒たちは世間の人と全く同じでした。世俗のことに心惹かれ、自分自身の利益のことしか考えていませんでした。正義のことなど何も知らず、聖なる完全性が彼らの中にあるということも知りませんでした。しかし、彼らがキリストに従い、キリストを信じるようになったとき、彼らの無知は知恵に変わり、残忍性は正義に、虚偽は真実に、暗闇は光明に取って代ったのです。世俗的であったのが精神的になり、暗黒の子らが神の子供たちに一変し、聖者たちとなったのです。彼らにならって、世俗のことがらをすて、精神界に到達するよう努力しようではありませんか。
神が皆さんの心に聖なる徳性を強め給うようお祈りいたします。それによって皆さんは世の中の天使のようになり、理解力ある人々に王国の神秘を明かすかがり火となられることでしょう。
神は、人間を教え導き、啓発し、聖霊の力の神秘を説明し、彼のなかにその光を反映させ、そして、ひいてはその彼が他の人びとを教え導く源となるようにするため、預言者を世につかわされました。天上の書である聖書やコーラン、その他の聖なる書物は神が聖なる美徳や、愛、正義、平和への道の指導書として与えられたものです。
ですから私は、皆さんがこれらの祝福された書に書かれている勧告にしたがって精進し、示された実例にならって生活を建て直し、至高なるお方の聖者となられますよう、お祈りします。
第十九 物質的発展と精神的発展 (十一月二日)
アブドル・バハの言葉
今日はなんと美しいお天気でしょう。空は澄み、太陽は光り輝き、人の心も歓喜に満ちています。
このように明るい、美しいお天気は人々に新たなる活気と力を与え、病気の人も健康な楽しい希望が心によみがえってくるのを感じます。すべてこれら自然の贈り物は人間の物質面に関することです。というのは、物質的恩恵をうけることができるのはその肉体だけだからです。
商売、芸術、または自分の職業で成功すると、それによって物質的な幸福を増大し、肉体のよろこびと満足をもたらす安心と慰安を得ることができます。今日、周囲を見ると、私たちはいかに近代の便利さや贅沢品に埋もれ、肉体的な欲求はすべて満足させているかが分かります。しかし、肉体上のことばかりに心を奪われ、魂のことを忘れてしまうようなことがないよう注意しましょう。物質的利益は人間の精神を高めるものではないからです。世俗のことがらの成就は肉体を喜ばせることができるが、決してその魂を高めるものとはならないのです。
物質的思恵のすべてを得、近代文明から得られる最大の安楽を享受し、何ひとつ不自由なく暮らす人が、聖霊の重要な恵みをまったくうけていないということがあるかも知れない。
事実、物質的発展を遂げるということは素晴しく、称讃に値することですが、そのためにより重要な精神的発展を無視して、私たちの中に輝く聖なる光に目をつぶるようなことがあってはなりません。
物質面と同時に、精神的にも発展せしめることによってのみ真の発展を遂行することができ、完全な存在となるのです。偉大なる教師達が出現したのも、実にこの精神的生命と光をもたらすためでした。真理の太陽の顕現は人びとの心の中に輝きをもたらします。そして、その驚くべき力をとおして人びとは永遠不滅の光明へ到達するのです。
主キリストが出現したとき、彼は聖霊の光を周囲の人々にまき散らしました。キリストの使徒たちと、彼の光をうけた人たちはすべて啓発され、精神的になりました。
バハオラがこの世に出現したのも、実にこめ光明をもたらすためだったのです。彼は人々に永遠の真理を教え、すべての国々に聖なる光を投げかけました。
悲しいかな。人類はいかにこの光明を無視していることか。人類はなお暗黒の途上にあり、分裂や闘争、凶暴な戦争が盛んに行われています。
人類はその戦闘意欲を満足させるため物質的発展を利用し、破壊的な道具を作り、同胞を破滅するためにそれらを応用します。
しかし、私たちはむしろ精神的利益の達成のために精進しましょう。これこそ真の進歩への道であり、神から来るものであり、神々しいものだからです。
私は、皆さんが一人残らず聖霊の恩寵をうけ、真に啓発され、神の王国へ向かって不断に発展し向上されるようお祈りします。やがて、皆さんの心は吉報をうけとるよう準備され、目は開かれ、神の栄光を見るでしょう。皆さんの耳をふさいでいる障害物は取り除かれ、天国の呼び声を聞くことができ、神の力と愛を認識するよう、雄弁な舌をもって人類に呼びかけるでしょう。
第二十 物質の進化と魂の発達 (十一月三日)
パリは大変寒くなってきました。あまり寒いのでやむなく他へ移るべきかとも思いますが、皆さんの暖かい愛情のおかげで今なおここに滞在しております。私がもう少し皆さんと共にここに留まるということは神さまのご意思でもありましょう。肉体的な暑さや寒さは精神に何の影響も及ぼすことはできません。精神は神の愛の火によって温まるものだからです。これを理解するとき、来世における私たちの生活を少しだけ理解できるように思えます。
神の慈愛のおかげで私たちはこの世において来世について味わい、肉体と魂と精神の間の違いについてある程度の証拠を見ることができるのです。
私たちは、寒さや暑さ、苦しみなどは単に肉体にかかわるもので、精神にかかわるものではないということを知っています。
私たちはよく、貧乏でしかも病気でみすぼらしい服装をして生計の道もない身でありながら精神的に強固な人を見ます。肉体がどれだけ苦しみをうけていようとも、精神は自由で健全なのです。一方、裕福で肉体的にも強健であるのに、魂が病んで死んでいるという人をしばしば見かけます。
物事をきちんと見る人には、人間の精神は肉体とは大いに異なるということは極めて明白なことです。
精神は不変であり、壊されるものではありません。魂の進化や発展、歓びや悲しみというものは物質的な肉体とは無関係のものです。
もし私たちが友人によって歓び、あるいは苦痛をもたらされたら、また、もしその愛情が真実か虚偽か、いずれかであることがわかった場合、影響されるのは魂です。私たちの親しい人たちが遠く離れている場合、悲しむのは魂であり、魂の悲しみや悩みは肉体に作用するでしょう。
このように精神が聖なる美徳で満たされているときは肉体も歓びに溢れています。もし魂が過ちを犯すと肉体は苦しみます。真実や貞節、忠実、愛を見いだしたら、私たちは幸福になりますが、虚偽や不貞、たくらみに出会ったらみじめになります。
こういうものはすべて魂に関するもので、肉体の病気ではありません。魂は肉体と同じようにそれ自身の個性をもっています。もし肉体上に変化が起ったとしても、精神は必ずしもその影響を受けることはありません。太陽の光が射し込んでいるガラスを壊したとき、ガラスは破損しても、太陽はなお輝き続けています。小鳥を入れている籠が壊されても、中の小鳥は何の傷害も受けません。ランプが割れても、炎はなお明るく燃え続けます。
人間の精神についても同じことが言えます。死は人間の肉体を崩壊させますが、その精神を支配する力はありません。精神は生まれることも死ぬこともない永劫不滅のものなのです。
死後の魂についていえば、それは肉体の生存中に達した清浄さの程度を保ち続け、肉体から解放された後は神の慈愛の大海に身を沈め、生存し続けます。
魂が肉体を離れ、天上の世界に入った瞬間からその進化は精神的なものであり、神への接近です。
物理的創造では、進化は完成の一つの段階から次の段階に進みます。鉱物はその完全性を植物に進化させ、植物の完全性は動物の世界に吸収され、やがて人間の世界に吸収されます。この世界には一見矛盾に見えることが一杯です。鉱物界、植物界、動物界のそれぞれにそれぞれの段階の生命が存在します。土地の生命は人間の生命に比べれば死んでいるように見えますが、その土地もまた生きているのであり、それ自身の生命をもっているのです。この世界では、万物は生まれ、死んで行き、そして再び別の形で生きるのですが、精神界はこれとはまったく異なります。
魂は、法則に従って一段一段進化するようなものではなく、それは、神の慈愛と恩恵によってただひたすら神へと接近する進化です。
私たちのすべてが神の王国に入り神に接近する、これが私の切なる祈りです。