第一編

 

第一 見知らぬ人や外国の人たちに思いやり深く、親切でなければならない

   (一九一二年十月十六日、十七日)

 

 人は、神へ心をむけるとき、到るところ、万物が太陽の光で輝いているのに気づきます。すべての人が自分の兄弟です。皆さんは、外国から来た、見知らぬ人に出会うとき、昔ながらのかたくな心で思いやりのない冷たい態度をとるようなことがないようにしましょう。まるで彼らが悪事をはたらく者か盗人か、または不作法者なのではなかろうかといった疑いの視線を投げかけてはならないのです。皆さんは、見知らぬ人というのはひょっとしてそうした好ましからざる人であるかも知れないからそのような人と知り合う危険をおかさないよう細心の注意を払う必要があると思っておられるかもしれません。

 皆さん、自分のことしか考えないような人になってはなりません。トルコ、日本、ペルシャ、ロシヤ、中国、その他、世界中のどの国から来た見知らぬ人にも親切であるように。

 彼らが完全にくつろげるようにしてあげましょう。滞在の場所を聞き、何か力になれることはないか尋ね、彼らの滞在を少しでも楽しいものにするよう努めましょう。

このようにする中で、たまには皆さんが最初疑ったようなことが起こるかも知れませんが、たとえそうであってもやはりその人たちに親切であるべきです。親切は彼らがより善い人間になるのを助けます。

 とにかく、どうして他の国から来た人たちは見知らぬ人として扱われなければならないのでしょう。

 あなたが出会う人に、あなたが自分はバハイ信徒であると口に出して言わなくとも、バハイ信徒であると分かってもらえるようにしましょう。

 すべての国の人に親切であれというバハオラの教えを実行してください。言葉だけで友情を示すことに満足してはなりません。あなたの道において出会うすべての人に対してあなたの心を愛情あふれる優しさで燃え立たせなさい。

 西洋の皆さん、東洋から来て皆さんの間に滞在しようとする人たちに親切にしてください。皆さんが彼らと話すときは自分たちの因習は忘れてください。彼らには皆さんの古くからのしきたりは分からないのですから。東洋の人たちから見れば、そのような態度は冷たく、薄情に思えます。むしろ、皆さんは思いやりをもって接しましょう。あなた方が普遍的愛情に満ちているということを示しましょう。皆さんがペルシャ人、あるいは他の国から来た見知らぬ人に会ったときは、友人に話すように話しかけてください。もしその外国人が一人ぼっちであれば手伝い、悲歎にくれていたら慰め、貧窮に苦しんでいたら救いの手をさしのべ、虐げられていたら護り、苦しんでいたら楽にしてあげましょう。そうすることで皆さんは、ただ言葉のうえだけでなく、行為においても本当に全ての人はみな兄弟であると思っているということを証明できるのです。

 普遍の友情は素晴しいということに同意し、人類が一つに結束することは崇高な理想であると話すことにいったい何の益があるでしょう?こうした思想は行動に移されないかぎり何の役にも立たないのです。

 この世の悪が存在し続けるのは、人々がただ自分たちの理想を語るだけで、それを実行に移すよう努力しないからです。もし行動が言葉にとって代るなら、世の中の苦難はまたたくまに楽しみに変えられるでしょう。

 大きな善を行い、それを口にしない人こそ完成の途上にある人です。

 小さな善をなし遂げ、それを大げさにいう人はとるに足らぬ人物です。

 もし私が皆さんを愛していれば、私の愛について話し続ける必要はありません。言わなくとも皆さんは感じとるでしょう。一方、もし私が皆さんを愛していなければ、それも皆さんは感じることができ、私が皆さんを愛していると何千回言っても、皆さんは私を信じないに違いありません。

 世間には、善いことをしたとおおげさに、立派な言葉をならべて口にする人があります。それは彼らが世間的な名声を求め、同輩たちよりももっと偉く、善い人間と見られたと思っているからです。至高の善を行う人は、それらの行為についてほとんど語りません。

神の子供たちは自慢することなく、神の掟に従って働きます。

 皆さんはけっして暴虐や圧制を行うことなく、世界中に正義が行き渡るまで休むことなく働き、心を清らかに保ち、邪なことにかかわらないように。これが皆さんに対する私の望みです。

 以上は、皆さんが神に近づくうえで必要なことであり、私が皆さんに期待していることです。

 

 

第二 正しい思想の力と価値はそれが行動に反映されるかどうかで決まる (十月十八日)

 

 人間の実体はその人の思考であり、その肉体ではない。思考の力と動物性とはパートナーなのです。人間は部分的には動物的な創造物ですが、しかし人間以外のすべての創造物に優る思考の力を持っています。

 もし人が不断に神のことがらに思いを向けていれば、やがて彼は高徳の人となるでしょう。しかし、思考が高められず、現世の俗事ばかりにとらわれるなら、その人はますます物質的になり、遂には動物より少しましといった状態になってしまいます。

思考は二つに分けることができます。

 (第一)思考という枠内にとどまった思考

 (第二)行動に現される思考

 男でも女でも、高尚な思考を誇りにしている人たちがいるものです。しかし、こうした思考が行動にならなければ、それらはなんの役にもたちません。思考の力は、それがどのように行動に現われるかによってきまります。進化し発展する世界で、ひとりの哲学者の思想が他の人々の行動に反映されることがあるかもしれませんが、それでも、自分たちの生活の中でそれらの立派な思想を実践することはできず、また実践しようとはしないのです。哲学者の大多数がこの部類に属しており、彼らの思想は彼らの行動とはかけ離れています。これが精神的教育者といわれる哲学者と単なる哲学者との間の違いです。つまり、精神的教育者は自らが説く教えに従う最初の人なのです。彼は自分の精神的な概念や理想を実行の世界に移します。彼の聖なる思想は世界に示されます。彼の思想はすなわち彼自身であり、彼とは不可分なのです。正義の重要性と偉大さを強調しながら、強慾な君主の抑圧と虐政を助長するような哲学者は、第一の部類に属するものと思って間違いないのです。なぜなら、彼は聖なる思想を掲げながら、それに応じた聖なる美徳を実践しないからです。

 こうした状態は精神的哲学者にはあり得ないことです。彼らはつねにその高貴な思想を行動の世界に現わすものだからです。

 

 

第三 神こそ真の治癒を施す唯一の偉大なる思いやり深い医師である (十月十九日)

 

 すべて真の治癒というものは神から来ます。病気の原因には二つあります。一つは物質的なものであり、もう一つは精神的なものです。病気が身体上のものであれば物質的治療が必要であり、精神上の病気なら精神的な治療を必要とします。

 私たちが病気の治療を受けている間に、もし神の御恵みがあれば、私たちは健康を回復することができます。なぜなら、薬剤は外的な、目に見える手段でしかなく、私たちはそれを通して神の治癒をうけるのです。精神が癒されないなら、肉体の治癒は何の価値もありません。すべては神の手中にあります。神がなければ私たちの健康はあり得ないのです。

 世の中には、自分が研究してきた、まさにその病気で死亡する人がたくさんあります。たとえば、アリストテレスは消化器を専門に研究した哲人ですが、美食がもとで死亡しました。アヴィゾーは心臓病の専門家でしたが心臓病で死にました。神こそ真の治療を施す力を持つ、思いやり深い偉大なる医師です。

 すべての創造物は、その知識、力、自立性がいかに偉大に見えようとも、神に依存しているのです。

 強大な権力を誇る地上の君主たちをみてください。彼らは人間が与えることができる権力のすべてを持っているのですが、彼らも、身分卑しい農夫とまったく同じように、死の招きには従わなければならないのです。

 動物を見てみましょう。一見強そうに見えても、なんと頼りないことでしょう。動物の中で一番大きい象にしても、蝿に悩まされるのです。ライオンは虫にさされて悩まされています。創造物の中で最高の形態をもつ人間でさえ、生きるために多くのものを必要とするのです。まず、第一に空気を必要とします。数分間でも空気が絶たれれば人間は死ぬでしょう。人間はまた、水や食料、衣服、温度、その他多くのものに依存して生きています。人間は危険と困難とに取巻かれています。肉体だけでこれらを処理することはできません。自分の周囲を見れば、すべての創造物がいかに自然の法則に依存し、またその法則に支配されているかが分るでしょう。

 人間だけが精神的な的な力によって、自分自身を解き放ち、物質世界を超越し、思うままに物質界を支配できるのです。

 しかし、この人間も神の助けなくしては死滅する野獣と同じです。しかし、神は人間に、神の慈愛の治療を懇願し、それを受けることを可能にする素晴しい力を他の贈り物の一つとして授けてくださったのです。

 しかし悲しいかな!人はこの至高の賜物に感謝することなく、怠慢の眠りをむさぼり、神が人間に示し給うた偉大な慈愛に注意を向けず、神の栄光から顔をそむけ、闇黒の中をさ迷っているのです。

 みなさんはこういう風にならないよう、あなた方の顔をしっかりと神の光明に向けてください。そして、それによって人生の暗闇を照らす松明(たいまつ)のようになられますように。これが私の切なる祈りです。

 

 

第四 東洋人と西洋人との融和の必要性(十月二十日、金曜日)

 

 アブドル・バハの言葉

 現在とおなじく過去にも、「聖なる真理の太陽」は常に東方の地平線から輝き出ました。

 アブラハムは東洋に出現しました。モーゼが現われて人びとを教え導いたのも東洋でした。また、主キリストは東方の地平線上に現れ、モハメットも東洋に出現しました。バブが出たのは東方の地ペルシヤであり、バハオラが世に出て教えを説いたのも東洋でした。すべての偉大なる「精神的教育者」は、東方の世界に生れ出ました。キリストという太陽は東方の暁となって姿を現わしましたが、その光輝は西方にまで及び、その燦然たる栄光の輝きは西方にいっそう明らかに見られたのです。キリストの教えの聖なる光は西欧において力強く輝きわたり、その生誕地におけるよりいっそう急速な躍進を遂げたのです。

現代、東洋は物質的発展を必要としており、西洋は精神的理念を欠いています。西洋は東洋に精神的光明を求める一方で、その科学的知識を東洋に与えるというのは合理的で、これこそ恩恵の交換なのです。

 東洋と西洋とは欠けているものを互いに補い合うために融和すべきです。この結合が真の文明をもたらし、そこでは精神性が物質的な形で表現され、実現されるのです。

このように、相互に補い合うようになると調和が拡大し、すべての国民は一つに結ばれ、素晴らしい完全の域に達し、強固な結合が生まれます。そして、この世は神の属性を反映する光り輝く鏡となるのです。

 東洋人であると西洋人であるとを問わず、私たちはすべてこの高邁な理想を達成し、地上のあらゆる民族の結合を固めるために、日夜、心を込めて努力しなければなりません。こうしてはじめて、すべての人は活き活きとさせられ、目覚めさせられ、この上もない素晴しい力を与えられ、人類の幸福は確実なものとなります。

 私たちは、神の限りない慈愛によりペルシャが西洋のもつ物質的、知的文明を受け取り、そのお返しとして、神の恩寵(おんちょう)によってペルシャが精神的光明を西洋に与えることができるよう、祈るべきです。西洋と東洋の諸国民が一体となって、献身的に熱心に働くなら成功するに違いありません。なぜなら聖霊の力が彼らに加護を与えるからです。

 バハオラの教えの原理は、これを心魂こめて理解し、認識できるようになるまで、一つ一つ、丹念に研究しなければなりません。そうすれば、あなた方は光明の強力な使徒となり、また、本当に精神的な、聖なる戦士となって、真の文明を修得し、ペルシャ、欧州、そして全世界にそれを浸透させるでしょう。

 これはこの地上における楽園であり、その時、全人類は神の栄光の王国にあって、融和の幕屋の下に共に集います。

 

 

第五 神はすべてを包含し、何ものにも包含されない (十月二十日 金曜夜)

 

 アブドル・バハの言葉

 パリでは毎日、政治、商業、教育、芸術、科学、その他数多くの間題をさまざまな目的のために討議する集会が数々催されています。

 それらはすべて素晴しい集会ですが、本集会の目的は、聴衆の皆様の心を神へ向かわせ、人類の福祉のために働く最善の方法を学び、偏見を絶滅する方法を研究し、愛と普遍の同胞の思想を人類の心に養うためのものです。

 神は私たちの集会の動機を認め、私たちを祝福しておられます。

 旧約聖書には、神が「私自身のかたちにかたどって人間を造ろうではないか」と言われたと書かれています。ヨハネ伝には、キリストが「われは天なる父の中にあり、父はわれの中に居たまう」と言われたとあります。コーランでは、神は「人間はわが神秘であり、われは人間の神秘である」と言われました。バハオラは、神が「汝の心はわが家である。わが降臨のためにそれを清めよ。汝の精神はわが啓示の場である。わが顯現のためにそれを浄めよ」と言われたと書かれています。

 すべてこうした聖なる言葉は、人間というものは神のかたちにかたどって造られたということを示しています。しかもなお、神の本質は人間の心意には理解できないものです。有限の理解力をもって、無限の秘義を理解することはできないからです。神は万有を包含されます。神が他のものに包含されるということはあり得ないことです。包含するものは包含されるものより優位を占めます。全体は部分よりは大きいのです。

 人間が理解できるものは、人間の理解力の範囲に止まります。ですから、人間の心意は神の秘義がどのようなものであるかを理解することはできないのです。私たちの想像力ではせいぜい私たちが心に想像できる範囲のことを心に描き出すだけです。

 理解力の程度は、創造物のそれぞれの世界で違います。鉱物界、植物界、動物界ではそれぞれその世界の圏外でいかなる創造が行われているかまったく理解できません。鉱物は植物の成長する力を想像することができないのです。樹木は動物が有する運動の力を理解できず、また視覚、聴覚、嗅覚が何を意味するかを理解することもできません。これらはみな物質な創造に属します。

 人間もまたこの創造の性質を分かち合います。人間界より低級な創造界には人間の心に起ることを理解することはできないのです。動物は人間の知恵を認識することができず、ただ動物的な感覚によって感知したことしか分からないのです。また抽象的なことを想像することはできません。動物には、世界は丸い、地球は太陽の周りを回転している、あるいは、電信機の構造といったようなことは理解できないのです。こうしたことは人間だけに理解できることなのです。人間は最高の創造物であり、あらゆる創造物のうちでもっとも神に近いものです。

 すべて優位を占める世界はそれより低級な世界には理解できない世界です。したがって、人間という創造物がどうして万物を創造し給うた全能の創造者を理解することができましょう。

 私たちの想像したものは神の実体ではなく、神は不可知のもの、考えの及ばないものであり、それは人間の最高の概念を遙かに越えたものです。

 存在する創造物はすべて、神の恩恵に依存しています。神の慈愛はそれらに生命を与えます。太陽の光が全世界に輝きわたるように、無限の神の慈愛はすべての創造物の上にそそがれています。太陽が地上の果実を熟させ、すべての生きとし生けるものに生命と温かさを与えるように、真理の太陽はすべての魂を照らし、神の愛と知識の炎で満たしているのです。

 人間が聖なる精神の宿る魂を持っているということでもまた、人間が他の創造物より優位を占めるということが分かります。低位の創造物の魂は本質において劣等なのです。

 あらゆる創造物のうちで人間は神の性質に一番近いものであり、従って、神の慈愛の素晴しい賜物を受けとるものであるということは間違いありません。

 鉱物界は生存する力をもっています。植物は生存し、成長する力をもっています。動物には生存と成長に加え、動きまわる力と感覚の機能があります。人間界は、すべてこれら低位の世界の属性を有するだけでなく、さらに多くのものを持っています。人間はいままであげたそれぞれの創造の総和で、それらすべてを包含しているのです。

 神は人間に、豊かな神の栄光をうけとることを可能にする英知という特別の賜物を施与し給いました。完全な人間は、真理の太陽を反映し、神の属性を顕現する磨かれた鏡のようなものです。

 主キリストは「われを見るものは父を見るものである」と言いました。つまり、神は人間の中に顕現されたのです。

 太陽が天上の場を去って鏡の中に降りてくるのではありません。昇ったり降ったり、また、行ったり来たりという行為は無限なるものの属性ではなく、それらは有限なものの方法です。完全に磨かれた鏡である神の顕示者の中には、人間が理解できる形でもろもろの神性が映し出されます。

 これは極めて単純なことですから、誰にでも理解でき、理解できれば承認せざるを得ないことになるでしょう。

 私たちが、理解することも信ずることもできない教義を拒否したからといって、私たちの天なる父は私たちに責任をおわせるようなことはされません。彼は常に限りなく、彼の子供たちに公平であるからです。

 この例は極めて論理的ですからそのことに進んで考える人なら誰でも容易に把握することができるでしょう。

 皆さんの一人一人が、神の愛の光に輝くランプになられますように。皆さんの心が和合の光で燃えるように。そして、皆さんの目が真理の太陽の光輝にたらされますように。

 パリの街は大変美しく、現代の世界のどの国にも見られないほどに各分野において物質的発展を遂げた、どこよりも文化的な街です。しかし、長い間、パリの街には精神的光が射し込まなかったので、その精神的発展は物質文明からするとずっと遅れております。パリを精神的真理の実在に目覚めさせ、その眠れる魂に生命を吹きこむためには最高の力が必要です。皆さんは、パリの覚醒という仕事のために、また最高の力の助けによってパリの人々を再生させるために、皆で和合しなければなりません。

 病気が軽いときはちょっとした治療で十分治りますが、その軽い病気も恐るべき重病になると、聖なる医師によって極めて強力な治療が施されなければなりません。寒冷地で花を咲かせ実を結ぶ樹木もあれば、完全に成熟するために最も暑い日光を必要とする樹木もあります。パリは、その精神的展開のために、神の聖なる力に燃えさかる太陽を必要としている樹木の一つです。

 皆さん一人ひとりが、しっかりと聖なる教えの真理の光に従っていかれますように。これが私の念願です。そうすれば、やがて神は皆さんがあらゆる困難を克服し、人びとの間の不和と憎悪の原因となっているあらゆる偏見を絶滅できるよう、聖霊によって力づけて下さることでしょう。皆さんの心を神の大きな愛で満たし、すべての人にそれを感知してもらうようにするといいでしょう。すべての人は神に奉仕する僕であり、神の限りない恩恵に浴す資格をもつのです。

 特に、唯物的な、退歩的な思想の持主に対しては気長に、しかも最高の愛を示すべきです。皆さんの親切の輝きによって彼らを仲間としての和合に誘うことができましょう。

 皆さんが脇道にそれることなく、真理の聖なる太陽に従う、あなた方のすばらしい仕事に忠実ならば、この美しい都に普遍的な兄弟愛に祝福された日の夜明けをみるのです。

 

 

第六 戦争の悲しむべき原因と平和を追求するすべての人の義務 (十月二十一日)

 

 アブドル・バハの言葉

 皆さん、幸せでお変わりないことと思います。しかし、私は憂鬱で悲しい気持です。ベンガジの戦争のニュースが私の心を悲しませているからです。私は現代世界に今なお人間の残忍性が残存していることを実に不思議に思います。人間が、同胞の血を流しながら、相互に殺し合い、朝から晩まで戦争をするというようなことがどうしてあり得るのでしょうか。いったい、その目的は何なのでしょうか。地球の一部を所有するということなのでしょうか。動物でも闘争するときは、その攻撃について直接の、もっと道理にかなった理由があります。動物よりはずっと高度な部類に属する人間が、土地の所有をめぐって、同胞を殺し彼らを悲惨な状態に追い込むというところまで身をおとすとは、なんと恐るべきことではありませんか。

 すべての創造物の中で最高の人間が、物質のうちでも最下級に属す土地の獲得のために戦うとは。土地というものは一国民に属するものではなく、それはすべての国民のものです。この土地は人間の住む家ではなく、彼の墓所なのです。人類は自ら埋葬される墓地を求めて戦争をしているに過ぎません。この世で、朽ち果てた人間の肉体のおさまる場である墓ほど恐ろしいものはないでしょう。

 いかにその征服者が偉大であろうとも、また、いかに多くの国々を隷属させたにせよ、いったい彼はどれ程の荒廃した国土を保持できるでしょう。それはただごく小さい一部の土地、すなわち自分の墓地だけなのです。国民の生活状態を改善するために、文明を普及させるために、(野蛮(やばん)な風習に代えて正しい法律をしくために)もっと広い土地が必要というのであれば、平和裡の内に必要な領土を拡大することができるはずです。

 戦争は常に人間の野望を満足させるためにされます。少数の人の世俗的利益のために無数の家庭がこの上もない悲惨な状態に追いまれ、幾多の男女の心が悲歎に暮れさせられるとは。

 そして、私たちはいかに多くの未亡人たちが夫の死を悲しみ、いかに多くの残忍行為の物語を聞くことでしょう。死んだ父親を慕って泣き呼ぶ孤児たち、殺された息子のために泣きくれる婦人たちのいかに多いことか。

 人間の残忍性の爆発ほど恐ろしい、悲しむべきことはありません。

 皆さん、愛と和合に心からの思いを集中してください。戦いへの思いが湧いた時にはそれを払いのけ、それよりもっと強い平和への思いをふるい起していただきたいのです。憎悪の思いはそれよりずっと強力な愛の思いで絶滅させなければなりません。戦いへの思いはあらゆる調和、幸福、安寧、安心の状態を破壊に導きます。

 愛の思いは同胞の思想、平和、友情、幸福を打ちたてます。

 世界の兵士たちが殺すために劔をぬくとき、神の兵士たちは互いに握手をするのです。純粋な心とまこと溢れる魂で行動すれば、神の慈愛によってすべての人間の残忍性は姿を消してしまいます。世界の平和などというものは到底達成されない理想だと思わないでください。

 神の偉大なる慈悲に不可能なものはありません。

 皆さんが、地上のすべての民族と仲よくしたいと心の奥底から願うなら、そのような精神的な、積極的な思いは他にもひろがり、それが他の人たちの願いにもなり、だんだんその力は強くなり、遂にはあらゆる人間の心に同じ思いを植えつけることになるでしょう。

 絶望しないでください。精進しましょう。誠実と愛は憎悪の念を征服するでしょう。不可能と思われた多くのことが、今日、現実のことになっています。神の世界の光明にしっかりと面を向けることです。すべての人たちに愛を示しましょう。「愛は人間の心の中にある聖霊の息吹です。」勇気をだしましょう。神は努力し、働き、祈る神の子たちを決して見捨てられません。平穏と調和が、この闘争の世界の全部を取り巻くようにという熱心な願いで心を満たしましょう。そうすれば、皆さんの努力は功を奏し、世界全体が同胞となって、平和と善意のうちに神の国が出現するでしょう。

 本日この部屋にはフランス人、アメリカ人、イギリス人、ドイツ人、イタリア人という多くの民族の人たち、兄弟姉妹が友情と調和のうちに集っています。この集会をこの世界に実際に出現するものを示すものとしようではありませんか。それはすべての神の子供たちが自分たち皆は一本の樹木に茂る葉であり、一つの庭園に咲きほこる花であり、大洋の一滴であり、愛という名の唯一無二の父の息子であり、娘であるということを悟るときに出現するのです。

 

 

 

 

 

第七 真理の太陽 (十月二十二日)

 

 アブドル・バハの言葉

 今日は実に好い天気です。太陽は明るく地上に輝き、あらゆる創造物に光と温かさを投げかけています。真理の太陽もまた燦然と輝きわたり、人々の魂に光と温かさを与えています。太陽は地上の生きものすべての肉体に生命を与えます。太陽の温かさなくしては生物の成長は妨げられ、その発達は途絶え、ついには朽ち果ててしまいます。人間の魂もこれと同じで、魂を進化発展させ、訓練し、生気をふきこむためには真理の太陽の光線がその魂に注ぎ込まれることが必要です。太陽と人間の肉体との関係のように、真理の太陽は人間の魂に深くかかわります。

 高度に物質的発展をなしとげた人もいるかも知れません。しかし、真理の光明がなければ彼の魂はその成長を妨げられ、餓死の状態になるでしょう。また、物質的にはめぐまれず、社会的出世という点ではどん底の暮らしをしている人がいるかも知れません。しかし、彼の魂が真理の太陽であたためられていれば彼の魂は偉大であり、その精神的知性はすばらしいに違いありません。

 全盛をきわめたキリスト教初期の時代のあるギリシヤ哲学者は、自らはキリスト教徒ではなかったのですが「私の信ずるところでは宗教こそ本当の文明の基礎である」と書いています。文明の確固とした基礎は民族の知性、才能は勿論のこと、その道徳的要素が教育されてはじめて確立されるものだからです。

 道徳について教えているのが宗教ですから、宗教こそが最も正しい哲学であり、その上にのみ永遠の文明が築かれるのです。この例として、彼はその道徳性が極めて高度であった当時のキリスト教徒を指摘しています。この哲学者の信ずるところはまことに真理にかなったものといえます。なぜならキリスト教文明はこの上もなくすばらしいものであり、世界で一番進歩したものだったからです。キリスト教の教えは神の真理の太陽に照らされた信者たちはすべての人を兄弟の如く愛し、何ものも恐れず、死をも恐れないよう教えられました。自分自身を愛するように隣人を愛すること、そして、自分自身の利害を顧みることなく人類のより大なる利益のために努力するのです。キリストの唱えた宗教の偉大なる目的は、全人類の心を神の光り輝く真理へより近く導くことでした。

 もし、キリストの信者たちがたゆみなく忠実にキリスト教の原理に徹し、信奉し続けたなら今ごろは偉大なる光輝ある文明が全世界を支配し、天の王国が地上に出現しているはずであり、いまさらキリストの言葉をあらためて伝え、信者たちを再び目覚めさせる必要はなかったでしょう。

 しかしながら、実際はどうだったでしょう。人々は、自分たちの主キリストの神の栄光に光り輝く教義に従うことをせず、主より顔をそむけ、人びとの心は冬におそわれたのです。人間の肉体の生存が太陽の光線に依存してはじめて可能であるように、人間の魂の精神的美徳を育てるにはぜひとも光り輝く真理の太陽の光線がなければなりません。

 神は本来、神の子供たちである私たちを不幸なままに放置されはしません。つまり、冬の闇黒におそわれて私たちの心が暗くなると、祝福された春が再び訪れるように、神は再び使者、予言者を遣わされます。真理の太陽は再び世界の地平線上に昇り、眠れる人たちの目に光を投げこみ、彼らを目覚めさせてその目に新しい夜明けの光を仰がせてくださるのです。やがて再び、人類の樹木は花を咲かせ、すべての民族を癒すために正義の実を結ぶでしょう。というのは、人は真理の声に耳をふさぎ、聖なる光から目をそむけ、神の法を無視しているので戦争、混乱、不安、不幸の闇黒が地上を荒廃させているからです。皆さんは一つになって、すべての神の子供たちをそれぞれ真理の太陽の光の中に連れ出し、さしこんで来る栄光の輝きによって闇黒が取り除かれ、神の慈愛の温かさによって冬の厳しさ、冷たさが溶かされるように努力していただきたい、これが私の祈りです。

 

 

第八 真理の光は今や東洋と西洋を照らしている (十月二十三日、月曜日)

 

 とかく人は、あるところで人生の歓びを見出したら、もっと大きな歓びを見出そうとしてそこへ戻っていくものです。ある鉱山で金を発見した場合、再びその鉱山で更に多くの金を採掘しようとします。これは、神から与えられた、人間の潜在力、自然の本能であり、人間が生れながらに持つ活力です。

 西洋はいつも精神的信条を東洋から受け入れてきました。天国の歌のしらべははじめ東洋で聞かれました。しかし、それは西洋においてより大きな音声となって人びとの耳になりひびいたのです。

 キリストは東方の空に明星のようにかがやき出でましたがその教えは西洋においてより完成した光を放ちました。つまり、その勢力は彼の出生の地、東洋におけるよりもずっと堅固に西洋に根をおろし、その大業は一層高度に拡大したのです。

 キリストの歌のひびきは西欧世界の全土に満ちあふれ、人びとの心に浸透しました。

 西洋の人びとは堅実で、彼らが建設するものはすべて岩のような基礎の上にたっています。実に不動の精神を持つ民族で、容易に物事を忘れたりはしません。

 西洋はちょうど強い頑丈な樹木のようなものです。しとしとと降る雨で栄養をとり、太陽の光をうけるとやがて花を咲かせ、時が来れば素晴らしい実を結びます。主キリストによって映し出された真理の太陽が西洋の世界に光をあててから久しいときが流れ、その間に神の面は人の罪と忘却のためにヴェールで覆われてしまいました。しかし、神に讃美あれ、いまや聖霊が新たに全世界にむかって話しかけているではありませんか。神の光を見ようと望むすべての人たちにこの上ない歓喜を与えようと、神の地平線から今ふたたび愛と知恵と力の星座がきらめきはじめたのです。バハオラは、いままで人々の魂を窒息させていた偏見と迷信のヴェールを剥ぎ取られました。人々がふたたび聖霊のいのちによって希望と生気とを与えられ、神の意志を実行しようとする望みが人々の心に湧いてくるよう神に祈りましょう。すべての人々の心と魂が生き生きとよみがえり、それによって人びとが新たな生まれ変わりを喜ぶことができますように。

 人類には神の愛の光に輝く新たな衣が着せられ、それが新たな創造のはじまりとなるでしょう。最も慈愛深きお方の慈愛の雨は全人類に降りそそぎ、彼らは新しい生きかたを始めるでしょう。

 皆さんは一つになって、この光栄ある目的のために努力され、新たな精神文明の建設に忠実に、しかも愛をもって尽力され、心からの喜びをもって素直に神の至高の計画を遂行する、神によって選ばれた者となってください。これが私の切なる願いです。まことに、成功はごくまじかに来ています。神の聖なる旗は高だかとひるがえっており、神の正義の太陽はすべての人の目にも明らかに地平線上に現れているのです。

 

 

第九 普遍の愛 (十月二十四日)

 

 あるインド人がアブドル・バハに言いました。

 「私の人生の目的はクリシュナの言葉を力の及ぶ限り世界にひろめることです」と。

 アブドル・バハは 「クリシュナの言葉は愛の言葉です。すべての神の予言者たちは愛の言葉を説いたのです。戦争や憎悪を素晴しいと考えるものは一人もいません。皆さん口をそろえて愛と親切を最も善しとしたのです。」と答えられました。

 愛の実体は言葉の上だけのものではありません。それは現実に行動となって現われるもので、言葉の上だけでは何の効果もないのです。愛がその力を現わすためには、そこに目的、手段、動機がなければなりません。

 愛の本質を表現する方法は数々で、家族愛、国家愛、民族愛、それに政治的熱情、また自分が属し、関係がある社会への愛があります。こうしたものはすべて愛の力を示す手段であり、方法です。そうした手段や方法がなければ愛というものは決して表現されず、顕現されないので、見ることも、聞くことも、感じることもないでしょう。水は渇きを癒やし、種子を成長させるなど、色々な方法を通じてその力を示します。石炭はその偉力の一部をガスや光として表現し、電気はまたその一つの力を電灯として示します。もしガスも電気もなかったなら夜の世界は真っ暗であるに相違いありません。ですから、愛の顕現には手段、動機、目的、表現の方式が必要です。

 私たちは人類に愛をひろめるために何らかの方法を見出さなければなりません。

 愛は無限で果てしなく、無窮のものです。物質的事物には限りがあり、その範囲は限定されます。無限の愛を有限な物質的手段や方法で充分に表現することなど、とてもできるものではありません。

 完全な愛はいかなる束縛もない、無欲無私の媒体を必要とします。この意味で家族愛は限られた愛です。血縁関係が最強のきづなではないからです。同じ家族のもので意見が違い、互いに憎みあうということもしばしばです。

 愛国心も限られた愛の表現です。一つの国を愛するということはその他のすべての国を憎む原因となるので、完全な愛とはいえません。同胞の間にも争いがなくはないのです。

 民族愛も限られた愛です。ここパリには何か連盟といったようなものがありますが、それは充分なものとは言えないでしょう。愛は国境を越えたものでなければなりません。

 同族を愛するということは、しばしば他の民族を憎むことを意味します。同じ民族の間でも互いに憎みあっています。

 政治的愛もまた、政党が互いに憎みあうことによって結ばれるもので、こうした愛はきわめて制限された不安定なものです。

 自分が関係している団体に対する愛も同様に不安定です。たびたび競争が起り、それが嫉妬となり、遂には愛は憎悪に代ります。

 二、三年前、トルコとイタリアは政治的に友好関係を結んでいましたが、今は戦争状態になっているのです。

 すべてこうした形の愛のつながりは不完全なものです。普遍の愛を充分に表現するためには、限りのある物質的結びつきでは不十分ということは明白です。

 人類に対する無私無欲の偉大なる愛はこうした不完全な、半ば利己的な結合のいかなるものにも拘束されはしません。この人類愛こそが全人類に可能な唯一の完全な愛であり、聖霊の力によってはじめて実現できるものです。世俗的ないかなる力もこの普遍の愛を完成させることはできないのです。

 すべての人々がこの神の愛の力によって結ばれるようにしましょう。すべての人々が真理の太陽の光を受けて輝き、この光り輝く愛をすべての人に反映させるよう努力しましょう。人々の心が一つになり、常に限りない愛の輝きの中に安住できますように。

 私が、パリに滞在した短い期間中に皆さんにお話した言葉を記憶してください。私は、皆さんの心がこの世の物質的事物によって縛られることがないよう、切に勧告するものです。そして、怠慢のベッドに安臥し、物質のとりこになることなく、その束縛の鎖を断ち切って自由になられますよう願います。

 動物は物質に支配されるように創られていますが、神は人間には自由を与えられました。動物は自然の法則からのがれることができません。でも、人間は自然の法則を支配することもあるのです。なぜなら人間は自然を包み込み、その上に立つことができるからです。

 聖霊の力は人間の知性を啓発し、多くの自然の法則を人間の意のままに変える方法の発見を可能にします。空中を飛び、海上を浮遊し、水中で行動するのは人間だけです。

 こうした例はすべて、人間の知性がいかに人間を自然の制約から自由にすることができたか、そして、幾多の自然の神秘を解決することができたかを証明するものです。人間は物質の束縛の鎖をある程度までたち切ったのです。

 もし人間が物事を精神的に探求し、神の無限の愛に自分の心の波長を合わすよう努力しさえすれば、聖霊によってより偉大な力を与えられるでしょう。

 家族や同国人を愛す場合、無限の神の愛の光をもって愛するようにしましょう。神の中にある愛、また神に対する愛と同じ愛で愛しましょう。その人があなたの家族であろうと、他人であろうと、その人に神の属性をみつけたらいつもその人を愛するようにしようではありませんか。あなたの出会う人が自国の人であろうと、同族であろうと、同じ政党人であろうと、また、他国の人であろうと、あるいは肌の色や、その人の政見が多少変っていようと、とにかく、すべての人に限りない愛の光を投げかけましょう。こうして、世界各地に離れ離れになっている人々を和合させる神の天幕の下に集めるという仕事にあなたが精進するかぎり、天は助けの手をさしのべるでしょう。

 皆さんは、神のお側にはべる神の僕となり、全ての人類に仕える奉仕において神の聖なる援助者となるのです。全ての人類。一人一人の人間のすべて。決してこのことを忘れないようにしましょう。

 彼はイタリア人だ、フランス人だ、アメリカ人だ、イギリス人だなどと言うことなく、ただ神の子供である、至高のお方の僕である、人間である、ということを憶えてください。みんな人間です。国籍などは忘れましょう。神の目には人間はみな平等なのです。

 自分の限界などは忘れてください。今にも神の援助の手があなたにさしのべられてくるからです。自分自身などは忘れ去ることです。神の援助は必ずもたらされます。

 援助しようとして待っている神の慈愛にすがったなら、皆さんの力は十倍に強められるでしょう。

 私を見てください。このとおり弱っていますが、皆さんのところへ来るだけの力を神は与えてくださいました。つまり、私はこの言葉を皆さんに送るためにやって来た一人の貧相な神の使者です。皆さんと一緒に居られる時間はあまりありません。断じて自分自身を弱いものと思ってはなりません。どの人間の内にも聖霊の愛の力は宿っており、その力によって誰でも教えを説くことができるのです。自分自身を弱いものと思う考えは絶望を生み出すだけです。私たちは、この世のどのような考えよりも高い世界を見なければなりません。つまり、あらゆる物資的な思想から離れ、精神的な物事を探究し、私たちの魂を神の「人類は相互に愛しあうべし」という至上命令に、喜びをもって奉仕するという幸せで溢たしてくれる全能者の不滅の恩寵(おんちょう)溢れる慈愛に目を向けねばなりません。

 

 

第十 アブドル・バハの入獄 (カムワンス四番地にて、十月二十五日、水曜日)

 

 今朝は皆さんをお待たせいたし、大変申し訳ありません。私には限られた時間しかなく、神の愛の大業のためにたくさんのことをしなければなりません。

 皆さんは私に会うためしばらく待たされたことを気にしていらっしゃらないでしょう。私は皆さんにお会いするこの機会を幾年もの間、獄舎で待ったのです。

 何よりも、神に賛美あれ、私たち人間の心は常に和合し、一つの目的で神の愛へと導かれています。私たちの願望、心情、精神は天国の恩寵(おんちょう)によって一つに結ばれているのではないでしょうか。私たちの祈りは、全人類が調和して一つに集まるための祈りではないでしょうか。それゆえ私たちはいつもいっしょに暮らしているのではないしょうか。

 私は、昨タドレフェス氏のお宅から帰ったときとても疲れていたのですが、眠れず、横になったままで色々考えました。

 私は言いました、おお神よ、私は今パリに来ている、ここが果たしてパリなのだろうか、そしてここにいるのは果たして私なのだろうか。私が獄舎の暗黒の中から皆さんのところへやって来られるとは夢にも思いませんでした。もっとも、私は刑の宣告を受けたとき、そのままでいつまでも入獄しているとは信じなかったのですが。

 当時、アブドール・ハミッドが私に終身刑を命じたということでした。私は「そんなことはあり得ない。私はいつまでも囚人のままでいることはないだろう。もしアブドール・ハミッドがいつまでも生きていれば、あるいはその判決が実際に行なわれるかも知れないが、私はいつかきっと自由の身になるだろう。私の身体はしばらくの間捕われの身であるかも知れないが、アブドール・ハミッドには私の精神までも支配する力はない。この精神こそはいつまでも自由のままであるにちがいない。これこそ誰も監禁することのできないものである」と言ったものです。

 神のお力によって私は獄舎から解放され、このとおりパリで神の友らに会っています。神への感謝の念で一杯です。

 神の大業をいっしょにひろめようではありませんか。私はこのために迫害に耐えてきました。

 私たちがここで自由に会見できるということは何という特権でしょう。神の定めに従って、王国の到来のために共に働くことができる私たちは最高の幸福者です。

 皆さんに栄光あるメッセージをお伝えするために獄舎から解放されてきたこのような客を迎えることを、皆さんは喜んで下さっているでしょうか。このような会合ができようなどとは夢にも考えられなかった私です。東洋の僻地で終身刑の宿命を担っていた私ですが、今や、神の恵みにより、そして神の偉大な素晴しい力により、このとおりパリに来て皆さんとお話しているのです。

 やがて、全人類が平和の歌を唄いながら王国の天幕の下に共に集う日が到来するまで、私たちはこれからも常に心と魂と精神を一つにして前進しようではありませんか。