セイエド・アリ・モハメットという名に生まれ、歴史的には「バブ」(アラビア語で「門」を意味する)と知られることになるその人は、1819年にイランのシラズで生まれました。預言者モハメットの子孫で、その信仰と人柄は、幼いころより彼を教えることになった教師や親族に知られていました。19世紀のイランは、イスラム教徒が「時代の主」と呼ぶメシアの到来を待ち焦がれていました。そんな中、バブは、1844年5月23日、自らが神の使者であると宣言しました。
バビ信教の確立
バブは、独自の法・条例・奥義・教義に関する著作を持った、ひとつの独立した宗教、バビ信教を確立しました。道徳的堕落の広まった世にあって、彼はペルシャの社会の精神的・道徳的改革を訴えました。女性の地位向上と、貧困層の状況の改善を強調し、教育と有益な科学の諸分野を推進したのです。しかしながら、バブの言及した主要なテーマとその教えは、神のもう一人の使者がすぐにも現れるというものでした。この二人目の使者は、バブ自身よりも偉大であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ほか世界の偉大な宗教において約束されている平和と正義の時代の到来を告げる、と説きました。バブはこの人物のことを「神が現し給う御方」と呼び、バハオラの到来を告げたのです。バブが全く新しい宗教を宣言したことで、その信者たちを伝統的観念の枠から解き放ち、「全ての時代に約束されていた御方」の出現へと準備せしめることとなりました。
バビ教の壊滅
バブが伝道をしたのは6年という短い期間でしかありませんでしたが、その間に、何千人という信者を惹きつけました。バビ信者たちの大部分は、バブその人に会うことはありませんでしたが、広く行き渡ることとなったバブの著作を読むことによりその宗教を知ったのです。政府当局は、この新しい教義へ人々が改宗することに脅威を覚え、これら信者を激しく迫害しました。当時のイスラム教の僧侶たちはバブの精神的再生への訴えを警戒し、「バブの社会改革への訴えが社会を混乱させる」と当時の政府に警告を促し、バビ教の壊滅を要請します。その結果、何千人ものバビ教徒は拷問の後、自らの信仰のために殺害されていきました。
バブの廟
バブ自身も、3年間の投獄を経て1850年7月9日、タブリーズ市において750名からなる銃殺隊により死刑に処されました。10,000人が見守る中行われ、その様子はその日の西洋の新聞により世界的にも広く報道され、結果的にバビ教の名を世界に知らしめることとなったのです。
バブの遺体は信徒たちにより長年隠され、最終的に聖地(現イスラエル)に運ばれました。バハオラは、その遺体をカルメル山上に埋めるよう指示し、その墓所が建てられるべき正確な場所を示しました。1909年にバブの遺体はその場所に建てられた簡素な墓所に葬られます。後にこの廟は増築され、1953年、現在バブの廟としてよく知られている金色のドームの上部構造が完成しました。これは、世界中に居住するバハイのメンバーたちにとって、最も聖なる場所のひとつです。