アッバス・エフェンディは、「アブドル・バハ」(アラビア語で「栄光のしもべ」)として知られています。彼はバブがその使命を宣言した、まさにその日の晩、1844年5月23日に生まれました。バハオラの長男で、父親が最初に投獄された時、アブドル・バハは8歳の幼子でした。
アブドル・バハはバハオラの40年間におよぶ流刑と投獄をともにし、成人したころから偉大な父の側近としてだけでなく、バハオラを守る盾として、そして主な代理として様々な役割を果たしました。アブドル・バハの指導、知識、そしてその奉仕は、流刑の身にあったバハイ共同体に、ただならぬ名声をもたらしました。
バハオラの他界
1892年5月29日にバハオラが没すると、以前よりバハオラに任命されていたとおり、アブドル・バハがバハイ共同体の指導者となりました。こうして、歴史的に他の宗教を悩ました宗教上の継承の問題は避けられました。バハオラは、遺訓(遺言)を残し、分裂を防ぎ、自らの教えを完全な形で保持することにより、その信教のさらなる発展と前進の基礎をしっかりと築いたのです。
バハイ共同体の建設者
バハオラは、アブドル・バハを、「聖約の中心」と呼び、全てのバハイがその指導に従うように命じました。バハオラの教えを解釈する権威を持つのはアブドル・バハのみで、その父の教えを多岐にわたり解説しました。その誤りのない指導と、急速に成長するバハイ共同体の建設者として、教義を詳述し、信教の行政機構の主要な特徴を概説しました。それと同時にアブドル・バハは、バハイが目指すべき生き方の手本を自ら信徒たちに示しました。
40年以上にわたる投獄と苦難の後、1911年にアブドル・バハは、西洋に旅をすることが許されました。ヨーロッパと北アメリカを訪問し、社会の倫理的・精神的再生をもたらすバハオラの処方箋を様々な聴衆に向かって広く訴えました。
「平和と和解の使者」
アブドル・バハは、自分は、「平和と和解の使者」、「人類の同一性の提唱者」であるとし、当時の新聞や報道機関、また、社会の指導者から喝采を浴びました。しかし彼は自分が受ける最高の栄誉と称号は、「アブドル・バハ」(バハオラのしもべ)であることと、自らが述べたこと、行ったことは皆、自分の父の教えから来ていることを強調しました。アブドル・バハは、1921年11月28日、ハイファで没しました。葬儀には、約一万人の、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の人たち、そしてバハイが参列しました。そこでは、「自己犠牲の生きる模範」であり、「平和を打ち建てる柱」であり、人類を「真理の道」へと導いた人であると、多くの賛辞が送られました。
バハオラと同じようにアブドル・バハもまた、自らの遺訓を残しました。そこで、自分の孫であるショーギ・エフェンディを後継者として任命し、彼は、「バハイの守護者」として知られるようになります。これによりバハイ共同体の一体性は再度維持され、その成長と発展が保証されるにこととなりました。