バブの霊廟

「この広大なシステムの最も外側に位置する円、つまり、信教の先駆者(バブ)に付与された中軸の目に見える相対物が、地球全体そのものである。そしてこの地球の中心に位置するのが『最も聖なる地』であり、アブドル・バハはそれを 『預言者たちの棲』と呼ばれた。聖なる地は世界の中心であり、国々が向かうケブレと見なされるべきものである。この最も聖なる地に太古より神聖なる山がそびえたつ。その山は『主の葡萄園』であり、バブご自身がその再来を象徴するヘブライの預言者エリヤの避難所でもある。その山に抱かれるように、美しく整備されたバブの聖なる埋葬地とそれを囲む閑静な境内が存在する。敷地内には、信教の象徴として世界的に知られるようになったバブの霊廟が立ち、それを階段状に取り囲む庭園はその境内を美しく飾り、その場所に独特な魅力を与えている。美しい緑に囲まれた庭園のなかに聳え立つバブの廟のたとえようもない美しさは、アブドル・バハが信教の先駆者として殉教したバブのために建てられたこの建物を守るように包み込んでいる。このドームを外郭とした建物の中に、偉大な価値の真珠、最も聖なる御方が祭られる部屋がある。そこがバブの墓そのものであり、それはアブドル・バハによって建設された。この最奥の聖域に聖櫃を収める霊安所である霊廟がある。この霊安所に大理石の石棺が安置されており、その中には計り知れない価値を持つ宝石であるバブの聖なる塵が納められている。バハオラの『聖約の中心』であるアブドル・バハは、この聖なる塵があまりにも貴重であるがために、それを収める建物の周りにある土そのものをも賞揚なさり、それに秘められる力ゆえに、彼は、ご自身が当初建設した六つの部屋につながる五つの扉に、霊廟の建設にかかわった五名の信者の名前をつけられた。また、この塵が収められている建物を指し、『天上の群集』がその周囲を巡る場所であると述べられた。」5 (ショーギ・エフェンディ)

「この貴重な預かり物が聖地に着き、アブドル・バハの元に届くや、彼はその同じ年に購入したばかりの地所へ行き、自らの手で建物の礎石を置かれた。カルメル山上のその地所は、バハオラが選ばれ、祝福された場である。廟の建設は礎石が置かれて数ヵ月後に始まり、それとほとんど同じ頃に、バブの遺体を安置する石棺が、アブドル・バハの提案で完成され、ハイファに送られた。その棺はラングーンのバハイたちの愛の印であった。」6(ショーギ・エフェンディ)

「アブドル・バハの解放というこの歴史的な布告からわずか数ヶ月後、まさにオスマン・トルコ帝国の君主アブドル・ハミドの没落したその同じ年、アブドル・バハは、テヘランに隠されていたバブのご遺体をカルメル山に移すという、彼の在位中の最も特筆すべき偉業の一つと数えられることを成し遂げられた。それを可能にしたのは天来の力であり、それはアブドル・バハが彼に与えられた神聖な権限を侵されることなく守り、父親の創始した信教を北米大陸に確立し、彼を迫害した皇帝に勝利することを可能とした同じ天来の力であった。アブドル・バハは機あるごとに、バブの遺体を安全に運搬し、それを安置するにふさわしい石棺を準備し、最終的に自身の手でバブの遺体を安住の地に埋葬すること、これが神託を受けて以来、ずっと自分が達成すべき目標の一つと見なしていると述べておられた。まことにこの達成は、バハイ最初の一世紀に起こった特筆すべき出来事の一つとして数えるに値するものである。」7(ショーギ・エフェンディ)

「すべてが終わり、シラズ出身の、殉教した預言者の遺骨が遂に、無事に神の山の中腹に恒久的に納められた時、ターバンと、靴とマントを既に脱いでおられたアブドル・バハは、まだ(ふた)をしていない石棺の上に伏された。白髪が揺れ、御顔は神々しい輝きを増し、木の棺の縁に額をつけて、大声で泣かれ、あまりの涙に、その場にいた者らも涙にくれた。その晩、アブドル・バハは、感情のたかぶりのため、一睡もされなかった。」 8 (ショーギ・エフェンディ)

「彼(アブドル・バハ)は何度も、『我は数えきれない涙と、はなはだしい苦労をし、その建物の石を一個ずつ、その建物に通じる道の石を一個ずつ、自分で持ち上げては置いた』とおっしゃった。目撃者は、アブドル・バハはある時こう語られたと証言している−『ある晩、我はあまりの心痛で、手元にあったバブの祈りを繰り返して唱える以外何もすることができなかったが、その祈りを唱えると大分気持ちが落ち着いた。すると、次の朝、その土地の持ち主自らが我のところに来て謝り、どうか自分の土地を買ってほしいと嘆願してきたのである。』」9(アブドル・バハ;ショーギ・エフェンディによる引用)

「アブドル・バハはこの栄光の勝利を、ある書簡で信者たちに次のように知らせておられる−『最も喜ばしい知らせはこれである。聖なる輝かしいバブのご遺体は、敵の勢力への懸念と妨害への恐れから、60年間もあちこちの場所に移動させられ、安らぐ時はなかったが、アブハの美の恵みによりノウ・ルーズのこの日、粛々とカルメル山の廟堂の聖なる棺に納められた。奇遇にも、同日、アメリカ大陸の国々から選ばれた代議員がシカゴに集まり、マシュレゴウル・アズカル建設に合意しただけなく、その地所も決まったと知らせる電報がシカゴから届いた』。」10 (アブドル・バハ;ショーギ・エフェンディによる引用)

「私(ショーギ・エフェンディ)はこの時点で、こう断言する。つまり、神の葡萄園の胸に抱かれる聖なる塵の神聖さについていくら強調してもし過ぎることはできない。また、我らの信教の創始者が御心の働きに沿ってあの聖なる山に赴かれた歴史的な機会に、確固として選定された場所に、60年前に基礎を据えられたこの強大な建物のもつ想像を絶する可能性についても高く評価し過ぎることはない。さらに、この建造物の上部構造の建設が前例を見ないほどの推進力を与えるよう確定されており、バハオラの信教の世界行政センターの進展、および今はまだ胎芽期にある未来の世界秩序を構成する最高機関の開花の過程で果たすよう定められている、この建物が担う役割は、重視し過ぎることもできない、と。」11 (ショーギ・エフェンディ)

 

解説:ハイファのカルメル山の中腹にあり、ハイファ港が見渡せる場所にある。バブの霊廟は金色のドームをもつ建物で、守護者ショウギ・エフェンディとスーザーランド・マックスウエル氏の設計によるものである。建物の中は、9つの部屋になっていて、バブの霊廟にはその中央の3部屋が使われている。バブの遺体はその中央の部屋に埋葬してある。その両側の部屋はそれぞれ入り口があり、お祈りを上げる部屋になっている。部屋の床には厚いペルシャ絨毯が敷き詰めてあり、部屋の中は静寂そのもので、雑念のない心でお祈りをすることができる。1891年バハオラはバブの遺体をここに埋葬することをアブドル・バハに指示した。アブドル・バハは、1898年にイランのバハイにバブの遺体をテヘランの隠し場所からイスラエルのハイファに移すよう命じた。遺体は無事翌年の1899年にハイファに到着した。アブドル・バハは早速、霊廟建設の地鎮祭を行い、建設が開始された。バブの遺体を収める綺麗に彫刻された大理石の棺は、ビルマのラングーンのバハイによって寄贈された。霊廟建設には難問が幾つもあった。当時は舗装された道路がなかったし、建物建設を許可する役人の反対があった。また、当時、アブドル・バは、依然拘束中の身でハイファへ行っていろいろ指示することが出来なかった。建物が完成したのは10年後の1909年になってしまった。 この間、バブの遺体はアブトル・バハの住むアブトルパシャの家の2階の一室に密かに安置されていた。1909年の3月21日に、ビルマのバハイから送られた棺が、地下の置所に置かれ、アブドル・バハの指示でバブの遺体の収められていた木製の棺がその中に収められた。現在の建物は、ショウギ・エフェンディがスーザーランド・マックスウエル氏に命じ初期の建物を包むように黄金のドームに輝く現在のバブの霊廟を完成した。威厳と荘厳に満ちたバブの霊廟内の飾りつけはショウギ・エフェンディご自身で行われた。現在あるバブの霊廟内の飾りつけは守護者ショウギ・エフェンディがなされたそのままの配列を守っている。