アッカ
ペルシアからの追放
「バハオラをペルシャ国内から即刻に追放するというペルシャ国王の勅令は、バハイ最初の一世紀の歴史における、新しく輝かしい一章の幕開けであった。」16 (ショーギ・エフェンディ)
「人々を惑わし邪道に導いたという罪に問われた国外追放者らは、厳しく監禁するようにという明確な命令がトルコ皇帝と大臣らから発せられた。終身禁固刑という処分で彼らは根絶するだろうという予期が自信ありげに表明された。AH1285年ラビウタニの5日(1868年7月26日)付けで交付されたソルタン・アブドル・アジーズの勅令は、彼らを永久に国外追放にするだけでなく、厳しく幽閉し、地元民をはじめ仲間同士とも交わることを堅く禁じた。勅令は市民への警告として、国外追放者らの到着と同時に、その町の主要なモスクで読み上げられた。」17 (ショーギ・エフェンディ)
「AH1285年ジャマデイユル・アヴァルの2日(1868年8月21日)の朝、彼らはオーストリア・ロイド社の蒸気船に乗り、アレキサンドリアへ旅立った。その行程中、マデリを通り、スミルナ(現トルコの都市)に二日停泊した。その時ジアビムニール・イスムラフルマンは重病にかかり、無念にも入院することとなり、その後まもなく他界した。アレキサンドリアで同社のハイファ行きの蒸気船に乗り換え、ポートサイドとジャファで停泊後、下船し、数時間後には帆船に乗り、アッカへ向かった。アッカに到着したのは、AH1285年ジャマデイユル・アヴァルの12日(1868年8月31日)のことであった。」18 (ショーギ・エフェンディ)
アッカへの到着
「バハオラのアッカへの到着は、彼の40年に亘る使命期間の最後の段階の幕開けであり、実にそれは、彼の流刑の全期間の頂点でもあった。」19(ショーギ・エフェンディ)
兵舎
「この兵営における牢獄生活の期間、外部からの訪問は厳重に禁じられていた。イランの数人のバハイたちは崇敬する、自分たちの指導者のお顔を拝したいと徒歩はるばる訪れてきたが、市の城壁内に入ることは許されなかった。そこで彼らはよく、第3の堀の外側の原っぱへ行った。その場所からはバハオラの獄舎の窓を見ることができた。バハオラもまた、その窓のところに姿を現された。訪問者らははるかに彼を見つめて涙し、犠牲と奉仕への熱情を新たに燃え立たせて帰路についた。」20 (エッセルモント)
「刑場であるアッカへの到着は彼(バハオラ)の苦悩の終わりではなく、むしろより重大な国面の始まりであった。それは、耐え難い苦難、厳しい制限、激しい混乱に特徴付けられ、その脅威はテヘランのシア・チャール(地下牢の名)での苦悶をも凌ぎ、アドリアノープルで信教を動揺させた内部の動乱を除き、信教の歴史で他に比べるものはない程であった。バハオラは、かの牢獄都市への投獄の最初の九年間の切迫した状態を強調して、次のように述べておられる−『このことを知れ。この地に到着したとき、我はこれを『偉大なる牢獄』と命名した。我はそれ以前に他の地において鎖と足かせを着けられたこともあったが、その地をこの名で呼ぶことはしなかった。このことについて熟考せよ、おお、理解力を有する者らよ』と」。21(ショーギ・エフェンディ)
「悲惨な船旅の後、アッカで船を下りた流刑者らの全員、男女、子供は、『ペルシャ人の神』を見ようと港に集まった民衆の好奇と無情の目にさらされながら、兵舎に連行され、そこに拘禁され、警備のため番人が配置された。バハオラは『ローへ・ライス(為政者への書簡)』の中で『最初の晩、誰にも食物や水は与えられなかった。…彼らは水を求めたが拒否された』」と書いておられる。」22 (ショーギ・エフェンディ)
突然の悲劇
「これら艱難の悩ましい重圧に、突然の悲劇による激しい悲しみが加わった。『最も純粋な枝』と呼ばれた、高貴で敬虔なミルザ・メッディの余りにも若い死である。アブドル・バハの弟、メッディはその時20歳であった。彼は子供の時、バハオラがスレイマニエから戻られた後に父親(バハオラ)と家族に合流するためテヘランからバグダッドへ連れ来られて以来、バハオラの秘書であり、また流刑の伴侶であった。彼はある日の夕暮、いつものようにお祈りをするため獄舎の屋上を歩いていたが、天窓から転落し、床にあった木箱があばら骨に刺さり、22時間後のイスラム暦1287年ラビウル・アヴァル23日(1870年6月23日)に没した。彼は臨終の間際に、『最愛の御方』の御前に到達することができなかった人々のために自分の命を受け入れてほしいと、悲痛の『父親』に懇願した。」23(ショーギ・エフェンディ)
「…まさにこの瞬間、『最も偉大なる牢獄』で息子を我らの犠牲とした後、わが息子は面前から運び去られようとしている。その時、アブハの幕屋の住人達は大いに涙し、約束された日の主に在す神の道でこの若者と共に投獄された者らは嘆いている。このような状況にあっても、わがペンは止まることを知らず、全人類の主、その主を思い起こすのである。それは人々を、全能にして、全てに恩寵深き神に招喚する。この日は、バハの光により創造された者、この投獄され敵の手にある者が殉教した日である。」 24 (バハオラ)
「おお、わが神におわす主よ、御名に誉れあれ。あなたは、私がこの日、この牢獄に幽閉され、あなたの敵共の手に落ちているのを見給い、あなたの御顔の前で塵の上に横たわるわが息子(『最も純粋な枝』)を見給う。おおわが主よ、彼はあなたの僕であり、あなたご自身の顕示者、あなたの大業の曙である御方に結びつけ給うた者であります。
「彼は誕生の瞬間から、あなたの取り消すことのできないご命令を通して自身に定められたところに従い、あなたとの離別に悩まされました。そして彼があなたとの再会の杯を飲みほした時、彼はあなたと御印を信じたがために投獄されました。彼はこの最も偉大な牢に入るまで、あなたの美に奉仕し続けました。おおわが神よ、そこで私は、あなたの道に彼を犠牲として捧げました。あなたは、あなたを愛する者らが耐えてきたこの苦難を十分に知り給う。この苦難は、地上の人々を嘆かせ、『天上の群集』をも悲しませております。
「おおわが主よ、私は彼と、彼の追放と、彼の投獄とにより嘆願いたします。彼を愛した者らの心を鎮め、彼らの働きを祝福するものを彼らに下し与えたまえ。あなたは御心のままになす力を持ち給う。あなたの他に神はいまさず、あなたは強大にして御力に満ち給う御方に在します。」25(バハオラ)
アブードの家
この家はアッカ市内の地中海に面したところに建てられている。この家はもともと、ウディ・カンマールの家であったが、カンマールの甥のアブードが一緒に住むようになってウディ・カンマールの家とアブードの家と呼ばれるようになった。カンマールはバージに大邸宅を建てたのでこの家が要らなくなり、バハオラ一行に貸すことになった。アブードは反対して自分の家を仕切りで分けた。バハオラの家族は大家族で、手狭なこの家で一部屋に男女13名が一緒に住むことになった。バハオラはこの家で「アグダスの書」を著され、アブドル・バハはムニレ・カヌームと結婚された。アブドル・バハが結婚されるという話をアブードが知ると、アブードは彼の家を空けてアブドル・バハに貸し出した。それをきっかけに、住宅事情は改善され、それからこの家は「アブードの家」と呼ばれるようになった。バハオラはこの家に1871年から1886年までの15年間住まわれた。アブドル・バハの家族は1871年から1896年までの25年間住まわれた。バハオラの奥様はこの家で1885年に亡くなられた。この家に住んでいた25年間にはいろいろの出来事があったが、最大の事件は聖約の破壊者のアザリ派の3名の殺害事件であった。バハオラはアブードの家からバージの邸宅に移り住んだ後も、時折、アブードの家を訪れている。バハオラがバージで昇天された時も、アブトル・バハの家族はこの家に住んでおられた。
「ケタベ・アグダス」
「バハオラが敵やバハイ信教の信奉者らの謀った行為によって様々な苦難に苛まれていた時期、ウディ・カマールの家へ移されてまもなくの頃(1873年ごろ)に著されたこの書は、バハオラの啓示の貴重な財宝を納めた宝庫である。この書にはそれが説く原則、それが定める行政の機構、その著者が指定した後継者に付与された機能が規定されているが故に、世界の他の聖なる書に比べるものがないほどの独自の位置を占めるものである。」27 (ショーギ・エフェンディ)
アッカの牢獄
この牢獄は19世紀以降トルコの支配下になり、牢獄の町となっていた。1868年バハオラと家族一行80余名はアッカ港に着くと直ちに兵舎の3部屋に収容され、鍵をかけられ、厳しい監視のもとにおかれた。当時、この兵舎は極悪罪人の収容される牢獄となっていた。牢獄には食べ物もなく飲み水もなかった。のどの渇いた一行は飲み水が欲しいと言ったが拒否された。 その後、飲み水は近くの天水桶にたまった水を飲まねばならなかった。この水は黒く濁っていてとても飲めるような水ではなかった。 しかし、ほかに水は無かったのでその水を飲まねばならなかった。初めの数日間子供たちは泣き続け、殆んど眠ることも出来なかった。一日の食事として一人に3ケの黒い硬いパンが与えられたが、塩辛くてとても食べられるものではなかった。事情を役人に話し、役人の看視の下でマーケットへ行ってそれらのパン3ケと少しましなパン2ケと取り替えてもらった。その後は、パンの替わりにごく小額の食事代が支給された。その食事代では買える食べ物は非常に限られ、味のない石のように固くなったパンしか手に入らなかった。
この牢獄に、家具や寝具は全然なく、外部からの訪問は厳重に禁じられた。また、誰も牢獄の外に出ることを許されなかった。ただ、僅か4名のものだけが厳重な監視の下で食料の買出しに出ることを許された。バハオラと家族の一行はコンクリートの床の上に寝具なしで寝なければならなかった。また、食物も極度に不足した状態での生活で、多くの者が病気に罹り、飢えと疫病で死んでいった。2人の死者が出た時、バハオラは2人の埋葬費用としてご自身の絨毯を提供したが、その金は牢獄の役人に横領されてしまった。そして、死体は穴に投げ込まれた。この頃、バハオラの最愛の息子ミディ(ピュアレスト・ブランチ)が明り取り窓から転落し亡くなられた。イランの数名のバハイはバハオラのお姿を拝見しようとはるばる徒歩でアッカまで着たが、牢獄に入ることは許されなかった。 そこで、彼らは第三の濠の外側の原で、バハオラの幽閉されている部屋の窓を遠くに見るところに出た。 バハオラはその窓の一つから姿を現した。来訪者は遥かにバハオラを見て涙を流した。そして、帰路にについた。1870年この牢獄が兵舎として使われる事になったので、一行は この牢獄から出された。バハオラと一行はこの牢獄で2年2ケ月と5日間過した。(上の写真:バハオラが幽閉されたアッカの牢獄)(下の写真:バハオラが2年2ヶ月幽閉された部屋)
アブドル・パシャの家
アッカ市の提督であったアブドル・パシャによって1810年代に建てられた石造りのお城のような家でアッカ市内にある。アブドル・バハの家族は1896年から1910年までの14年間住まわれた。バブの殉教から50年たった1899年にバブの遺体を収めた木の棺が密かにイランから何ヶ月もかけてアッカのアブドル・パシャの家に運び込まれた。バブの遺体の収められた棺は1909年にバブの霊廟が完成されるまでここに保管された。守護者ショーギ・エフェンディもこの家で誕生された。1898年にアメリカの最初の巡礼団が来たとき、アブドル・バハは巡礼団とこの建物で会っている。イシカバードの最初の礼拝堂の建設や、バブの家の再建計画の指示はアブドル・バハがこの家から出していた。ローラ・クリッフォード・バーニィはこの家でアブドル・バハにいろいろな質問をして、それをまとめあげて「質疑応答集」を完成させた。この様にいろいろの出来事に満ちたこの家は1975年にバハイの手に戻り、ルヒヤ・カヌームの指揮の下で昔の面影に近い調度品が配備された。
アバミッド・カーニィ
アッカの城壁内にある隊商宿。バハオラ一族はアッカの牢獄を出された後、この隊商宿で数ヶ月を過ごした。バハオラの従者の一行はこの隊商宿の西と南側の建物の2階の部屋に入った。アブトル・バハは一部屋を借り、イランやイラクからはるばるバハオラに会いに来る巡礼者との面会の部屋とした。アブードの家に移った後も、アブドル・バハはこの隊商宿の一室を借り続け、イランやイラクからはるばるバハオラに会いに来た巡礼者をもてなしたり、バハオラに面会させる手はずを整えたりした。従って、この隊商宿はバハイの歴史において最初の巡礼館であった。
スレイマンの水道橋 [建造物]
その昔、アッカに水を供給する為に作られた水道橋があった。バハオラ一行がアッカに流された時は、部分的に残っていたが使われていなかった。アッカの町に住む人々は衛生的な飲み水が不足して困っていた。アハマッド・ビッグ・タウフィッグがアッカ市の市長になった.時、アブドル・バハと交際があり、バハオラの書物を読んでバハオラに好意を持っていた。彼は、バハオラに会って、私が市長になったので何をしたらいいかとバハオラの意見を求めた。バハオラは、水道橋を修復したらどうですかと言った。 市長は早速、水道橋を修復する大事業に着手しアッカの町で水道が使えるようになった。この水道橋は、今は使用されていないが、水道橋の一部は今も残っている。