20133月2日

 

イランのバハイ達へ

 

親愛なる友らへ

 

1. これまでの35年間、次々と押し寄せる迫害の波は、その激しさには差があるものの、過酷な試練を受けながらも勇敢な皆さんの共同体を痛め続けて来ました。この弾幕は、160余年前に放たれた一連の中のほんの最近のものにしか過ぎません。しかし、バハオラの母国における彼の信者達の共同体の力を奪うことに力を入れている者達の期待とは裏腹に、彼らの企みは、最終的にはその基盤と地位を補強する結果となって来ました。ますます多くの皆さんの同胞が、彼ら自身も抑圧の被害者でありますが、長年バハイに対して行われてきた不正の軌跡をはっきりと見るだけでなく、社会に対する皆さんの私心のない奉仕の不破の記録が、建設的な変化の力であることを認めています。皆さんに対する同情が高まるにつれ、皆さんが社会生活のあらゆる次元に参加することを妨げている障害の除去を訴える声も高まっています。当然のように、至る所にいるバハイ達が保持している政治活動に対する姿勢に関する質問も、皆さんの仲間の人々の目にはより大きな意味を持つようになって来ました。

 

2. もちろん、歴史的に、イランのバハイ共同体がこの事に関して置かれて来た立場は特異なものです。一方では、政治的に動機づけられた、支配政権に団結して立ち向かう、どこの国であれ告発者の意図に最も都合の良い外国勢力のスパイであると誣告されて来ました。もう一方では、この共同体のメンバーが政党政治活動への参加を断固として拒否している事が、イラン国民の事情に無関心であると言われて来ました。皆さんの抑圧者の真の意図が明らかになった今、誤解により非常に多くの魂と築きつつある友情の絆を弱めることがないよう、仲間の人々が政治に対するバハイの態度を理解したいという関心の高まりに応えることが必要となりました。これに関しては、いかに重要なことでも、愛と和合のイメージを起こさせる少なくとも幾つかの声明を彼らに提供する価値があるでしょう。皆さんがこの主題に関するバハイのアプローチを型取る枠組みのビジョンを彼らに伝えることを助けるために、我々は以下のコメントを提供したいと思います。

 

3. バハイの政治に関する見解と切り離せないのが、歴史、その過程と方向の特別な概念です。これはバハオラに従う各人の固い信念ですが、今日人類は、集団的な幼少期から成熟期の入口まで連れて来られた何千年にも渡る過程の最高段階---人類の統合を目のあたりに出来る段階---に近づきつつあります。青年期という、先天的な力や能力が発揮し始める、落ち着いてはいないものの有望な時期を通る個人とは違い、集合体としての人類が、前例の無い変遷の真っ只中にいます。現代生活の多くの騒乱や動揺の裏には、成年に達しようと苦しんでいる人類の発作があります。幅広く受け入れられている行為や伝統的なしきたり、大切にされてきた態度や習慣などは、成熟の本能的な衝動が現れるにつれ、一つずつ廃棄されて来ています。

 

4. バハイは、人生のあらゆる局面において起こっている革命的な変化の中に二つの基本的なプロセスを見るよう勧められています。一つは本質的に破壊的なものであり、もう一つは統合的なものであります。どちらも、独自の方法で、人類を完全な成熟に向かう道に導く役割を果たしています。前者の成せる業は、由緒ある制度を苦しめる変革の中や、社会の構造に表れているひびを直そうとする全ての階級のリーダー達の無能さの中や、長年不適切な熱情を抑制して来た社会規範の崩壊の中や、いかなる目的意識をも失った個人だけでなく社会全体に見られる失望や無関心の中など、至る所で明らかです。それらの結果は破壊的ですが、崩壊の力は、統合のプロセスが多様な集団を引き付けられるスペースを空け、協力と協調の新たな機会を露わにして、人類の進歩を阻む障害を一掃する傾向があります。勿論バハイは、個人としてまた集団として、眼前の展望がいかに暗くとも、その強さが増して行くと確信している統合のプロセスに関わる力に足並みを揃えるよう努めています。人間社会の営みは完全に再編成され、世界平和の時代が新たに開かれるでしょう。

 

5. これがバハイ共同体が追求しているあらゆる取組みの根底にある歴史観です。

 

6. バハイの書物の学習から分かるように、地球上の有機的な生命のあらゆる面を満たす原則は、成熟の時代の特徴である人類の一体性です。人類が単一の種族であるということは、かつては疑いの目で見られていましたが、今日では幅広く受け入れられている真実です。深く根付いた偏見の拒絶や世界市民としての感覚の増大は、この意識の高まりの兆しの一部です。しかしながら、全体的な意識の高まりがいかに前途有望なことであっても、それは、何十年、いや何百年もかかって展開されるプロセスのほんの第一歩にしかすぎないものであると理解されるべきです。というのは、バハオラによって宣告された人類の一体性という原則は、単に人々や国家間の協力を求めるものではないからです。それは社会を維持する関係の完全な再概念化を必要とします。より多くを求める貪欲な渇きを満足させるために天然資源の略奪を容認するシステムに駆り立てられた深まる環境危機は、現在の人間の自然との関係の概念がいかに全体的に不適切であるかを示唆しています;家庭環境の頽廃と、それに伴う世界中の女性と子供の系統的な搾取の増加は家族の単位内における関係を定義づける誤った考えが蔓延しているかを明らかにしています;一方では専制支配が持続し、他方ではますます権力を無視するようになっていることは、成熟する人類にとって現在の個人と社会機構の関係がいかに満足のゆかないものであるかを顕しています;世界の人口の少数の手に物質的な富が集中していることは、今や台頭しつつあるグローバル・コミュニティーの多くのセクター間の関係が、いかに根本的にまずい構想であるかを指摘しています。ですから、人類の一体性の原則は、社会の構造そのものの有機的な変化を暗示しているのです。

 

7. ここで明確に述べるべき事は、バハイは、このように描かれた変化が自分達の努力を通じてのみ起こり得るものだとは信じていません。また、バハイは、自分達の将来のビジョンを社会に押し付けることを目的とした運動を起こすことも考えていません。多かれ少なかれ、各々の国やグループ、そして実に各個人が、人類が否応無しに向かっている世界文明の台頭に貢献しているのです。アブドル・バハに予示されたように、「政治の領域における和合」や「世界的事業における考えの和合」、「人種の和合」そして「国家間の和合」など、和合は社会的存在の異なった領域で段階的に達成されていくでしょう。これらが実現するにつれ、文化の完全な多様性を敬い、尊厳と名誉を表現するための経路を提供する政治的に和合した世界は、徐々に形成されていくでしょう。

 

8. ということで、世界中のバハイ共同体の心を占めている問題は、人材の増加に伴い、どうしたらこの文明建設のプロセスに最大限の貢献が出来るかということです。その貢献には二つの面があります。一つ目は共同体自身の成長と発展に関することで、二つ目は社会全般への参加に関することです。

 

9. 一つ目に関しては、世界中のバハイは、最も気取らない環境の中で、人類の一体性の原則とそれを支える信条を具体化する活動のパターンとそれに対応する管理機構を築くことに力を注いでいます。これを説明する手段として、ほんの数例ですがここに挙げてみましょう。理性的魂には、特に女性が自分の潜在能力を発揮し男性と肩を並べて様々な分野の事業に携わることを妨げるようなものなど、耐え難いあらゆる形の偏見をもたらす事実である性別、人種、民族そして階級は無いということ;偏見の真因は無知であるが、これは知識が特権を持つ限られた者だけの所有物にならないよう保証し、全ての人がそれにアクセス出来るようにする教育の過程を通じて消し去ることが可能であるということ;科学と宗教は、知識と実践の相補的な二つの制度であり、それにより人が自分の周りの世界を理解するようになり、文明が進歩するということ;科学を伴わない宗教はやがて迷信と狂信に堕落し、一方、宗教を伴わない科学は未熟な物質主義の道具となるということ;人生の物質的な条件と精神的な条件の間におけるダイナミックな一貫性の果実である真の繁栄は、消費主義が人間の魂にとってアヘンのように作用し続ける限り、ますます手の届かない所に遠ざかって行くであろうこと;正義は、魂の能力として、個人が真実と偽りを区別出来るようにし、現実の究明を導くもので、和合を妨げる迷信的な信念や古臭い伝統を除去するためには不可欠なものであること;適切に社会問題に向けられた場合、正義は和合確立のための唯一最も重要な手段であること;他人への奉仕の精神で行われる仕事は祈りであり、神を崇拝する手段であること、などです。個人のレベルで変化をもたらし、ふさわしい社会構造の基礎を築きながら、これらのような理想を現実に移すことは、確かに容易な作業ではありません。それでも、バハイ共同体は、この仕事が要する学習の長期プロセスに献身しており、この事業にはあらゆる職種階級や人種グループに属するより多くの人々に参加を呼びかけています。

 

10. 現在世界の全地域で行われている学習のプロセスが提起しなくてはならない質問は、もちろん沢山あります。まず、いかにして、異なった背景の人々を、間断ない争いの脅威を感じること無く礼拝的な性格で特徴づけられ、争いの原因となる党派心の強い考え方を捨てることを奨励し、思考と行動でより高いレベルの和合を助長し、真心からの参加を誘い出す環境の中に連れて来るのか;いかにして、地位や特権を主張できる司祭的な機能を持つ支配階級の無い共同体で諸事を司るのか;いかにして、彼らの精神的、社会的かつ知的な発達のためになる活動に従事出来るよう、男女の一団を受動の幽閉や抑圧の鎖から解放するのか;いかにして、若者達が人生の極めて重要な段階を進み、そのエネルギーを文明の進歩に向けるよう力づけられるようになるのを助けるか;いかにして、次代を担う世代に架空の「他人」に対する疎遠感を教え込むことなく、またこの区分に属する者達を搾取しようとする衝動を助長することなく、物質的かつ精神的な繁栄に導くような力を家庭内に創造していくか;いかにして、現実の共同調査として理解されている、個人の見解への固執を断つことを推進し、有効な経験に基づく情報に然るべき重要性を認め、状況に対する単なる意見を述べることをせず、そして真実を相対するグループ間の妥協として見なさない協議のプロセスを通じて、意思決定が多様な見解からの恩恵を受けられるようにするのか、などです。これらに加え、これからきっと出てくると思われる多くの質問を検討するため、バハイ共同体では、行動、反省、協議、そして学習---信教の書物を常に参照するだけでなく、展開しつつあるパターンの科学的な分析も含む学習---に特徴づけられる活動のモードを取り入れました。確かに、いかにして行動の中でそのような学習のモードを維持するか、いかにしてますます多くの人々が関連知識の産出と応用に参加することを保証するか、いかにして拡大してゆく世界中の体験の系統化および学んだ事を公平に配布する構造を創案するかなどは、それ自体が常に吟味の対象です。

 

11. バハイ共同体が追求している学習のプロセスの全体的な方向は、一連の世界計画によって導かれており、その規定は万国正義院によって打ち立てられています。「能力を築くこと」がこれらの計画の金言です。これらは、集団努力の主唱者達が、方法とアプローチにおいて必要な一貫性を保ちながら、村や地域の精神的基盤を強化し、その社会的および経済的なニーズの幾つかを取り上げ、社会で広く交わされている対話に貢献出来るようにすることを目指しています。

 

12. 学習のプロセスの中心にあるのは、個人と共同体、そして社会の機構---常に権力を求める奮闘に閉じ込められてきた、歴史という舞台の役者達---を繋ぐ関係の吟味です。この状況では、この3者間の関係は必然的に競争の命じるところに従うという想定、即ち人間の精神の並外れた可能性を無視する考えは却下され、それらの調和のとれた相互作用が成熟した人類にふさわしい文明を育めるというより希望のある前提が選ばれています。この3者の主役達の新たな関係の本質を明らかにするというバハイの努力に生命を吹き込むことは、世界を人間の体に例えた、約150年前に書かれた書簡の中で、バハオラにより引き出された喩えから着想を得た将来の社会のビジョンです。協力はそのシステムの機能を司る原則です。丁度この存在の領域における理性的魂の出現が、その組織や器官における編成により独特の能力が実現される数えきれない細胞の複雑な結びつきにより可能になるように、文明も、それ自体の存在だけを構う狭い目的を超越した、密に統合した多様な構成要素の相互作用のまとまりの結果であると言えます。そして、一つ一つの細胞や器官の生存能力が身体全体の健康に依存するように、各個人、各家族、各民族の繁栄も、人類全体の福利の中に求められるべきです。そのようなビジョンに合わせて、機構は、実りある結果に向けられた調整された行動の必要性を正しく認識しながら、個人を管理するのではなく、育てて導くことを目指します。そうすれば、次にその個人は、盲目的な服従ではなく、意識した知識の基に築かれた信頼を以て、快く指導を受け入れます。その間、共同体は、共通の福利と機構の計画に従って責任を持って自己表現を実践したいと望む個人の力が統一された行動の中で倍増する環境を支える挑戦に取り組みます。

 

13. 上述の関係の網が形成され、人類の一体性の原則を守ることで区別された生活のパターンを起こすことになれば、いくつかの基礎的な概念を注意深く考察しなければなりません。その中で最も注目すべきものは、力の概念です。明らかに、支配の手段としての力の概念は、それに伴う競争、争い、分裂、優越感などの考えと共に後に捨てて行かなくてはいけません。これは力の作用を否定することではありません。詰まる所、社会の機構が人民の同意を得て権限の委託を受けても、権力の行使には力が関与します。しかし、政治のプロセスは、人生の他のプロセス同様、バハイ信教---これについてはこれまでの時代の中で現れた全ての偉大な宗教の伝承---が繋げたいと希望する、和合の力、愛の力、謙虚な奉仕の力、純粋な行為の力など、人間の精神の力に影響を受けないままでいるべきではありません。この意味での力から連想される言葉は、「解放する」、「励ます」、「チャンネル(伝える経路)となる」、「導く」、「可能にする」等です。力は「掴まれ」たり「油断なく護られ」たりする有限の存在ではありません。それは、集団としての人類の中に存する、限り無い変化する能力の本質を成すものです。

 

14. バハイ共同体は、積まれた経験からその望ましい相互作用の働きについて必要な洞察が得られるようになるには、まだまだかなりの距離を踏破しなくてはいけないことを十分承知しています。完全であるという主張はしません。高い理想を掲げることとその具現を達成することとは同一ではありません。無数のチャレンジがこの先に待ち受けており、まだ多くのことを学ばなくてはいけない状態です。単なる傍観者が、共同体がこれらのチャレンジを乗り越えようとする試みに「理想主義」というレッテルを貼るのも無理ないことでしょう。しかし、バハイが自国の事情に無関心であるとか、ましてや愛国心に欠けるという風に述べるのは、全く正当化出来ないことです。一部の人達にとって、バハイの努力がいかに理想主義的に見えようとも、人類の利益に対してそれが抱く深く根差した関心は無視出来ません。そして、世界の現在の制度のどれもが、対立や争いの泥沼から人類を救いその至福を保証することが出来そうにないことを考えれば、なぜ、一つの人の集団が、人類が否応なく向かわされている共通の未来に内在するこれらの不可欠な関係の性質に対する理解を深めようとする努力に反対する政府がいるでしょうか。これにどのような害があるというのでしょう。

 

15. 次に、上述の考えで描かれた枠組みの中で、文明の発展に貢献するバハイ共同体の努力の二つ目の面、即ち社会全般との関わり合いを考慮することが可能です。明らかに、バハイが貢献の一面として見なしていることはもう一つの面と矛盾する訳にはいきません。彼らの共同体の中で一体性の原則を表現する思考や行動のパターンを確立することを求めながら、程度はどうであれ、社会的存在に関して全く異なった前提を強化する別の状況の活動に従事することは出来ません。そのような二重性を避けるため、バハイ共同体は、信教の教えに基づいて、社会生活参加における主な特性を、これまで次第に精錬してきました。最初で最たるものは、個人としても共同体としても、バハイは「誠実さと忠実を授けられた者らは喜びと輝きを以て地上の全ての人々と交わるべきである、なぜなら人々と交わることは和合と調和を促進してきたし、これからも促進するであろうし、引き続き世界の秩序の維持と国家の再生の助けになるからである。」という、バハオラの命令を実行に移すことに努めています。アブドル・バハはさらに、「個人であれ集団であれ、私達が幸福と発展を見いだすのは交流と出会いを通してである。」と説明なさいました。これに関連して、「人の子の間の連携、魅かれ合うこと、和合に貢献するものは人類の世界の生きる手段であり、分裂、嫌悪、疎遠の原因になるものは何であれ、人類の死に至る。」とも書かれています。宗教の場合でさえ、師は、「愛と友情の原因とならなくてはいけない。もし宗教が争いや憎しみの原因になるようなことがあれば、それは無い方がましである。」と明言なさっています。ですから、バハイは常に全力を尽くして、「離反に対して汝の眼を閉じ、汝の関心を和合に注げ。」というバハオラの忠言に心を留めようとしているのです。彼は彼の信者達に、「今日、人類全体への奉仕に自分を捧げる者は本当の人間である。」と訓示なさっています。「汝等の生きる時代の要求を憂慮し、そこに関心を向けよ。そして、その時代に急務とされるもの、また、必要とされることに汝等の審議を集中させよ。」というのが、彼の警告です。「人類が最も必要としているものは協力と相互援助である。」とアブドル・バハは指摘なさっています。「友情と連帯の結びつきが強くなればなるほど、人間のあらゆる活動分野における積極性や達成の力が増々大きくなるであろう。」バハオラは、「和合の光は非常に強力であり、それは地球上をすべて照らし得るほどである。」と宣言なさっています。

 

16. このような考えを心に持ち、バハイは、人材が増えるにつれ、より多くの運動、組織、グループ、そして個人と共同して社会の変革に努め、和合を推し進め、人類の福祉を促進し、世界の連帯に貢献するパートナーシップを築いています。確かに、上述のような引用に設定されたスタンダードは、実現し得る限り多くの近代生活の側面に積極的に参画するようバハイ共同体の気持ちを駆り立てます。協調の領域を選ぶにあたり、バハイは、手段と終わりは一致すべきであるという、教えに秘められた原則を心に留めるべきです。気高い目標は、賞賛に値しない手段で達成することは出来ません。特に、いかに微細でも、争いを必要としたり全ての人間の相互関係の根底には利害の対立が本来存在すると想定したりする努力により恒久的な和合を築くことは不可能です。この原則を固守することで課された制限にも拘らず、共同体は協力の機会が不足しているという体験はまだしていないことをここに特筆すべきでしょう。今日、世界中の非常に多くの人々が、バハイが共有する何らかの目標に向かって熱心に働いています。これに関して、彼らはまた、自分達の仲間や同僚達とのある境界を越えないよう気も遣っています。彼らは、どのような共同事業でも、それを宗教的信念を押し付ける機会とは見なしていません。独善や他の宗教的熱意の不適切な現れは完全に避けなければなりません。しかし、バハイは、彼らの協力者たちとの関係を通じて得られた洞察を共同体建設の努力に喜んで取り入れるのと同様に、自分達の経験を通して学んだ教訓を進んで彼らに提供します。

 

17. ついに、これで政治活動という特定の質問に辿り着きました。人類は、これ以前の社会的進化の段階を過ぎ去って集団的成熟の入口に立っているというバハイ共同体の信念;成熟の時代の刻印である人類の一体性の原則は、社会の構造そのものの変化を示唆していると信じること;この原則により活気づけられた、個人、共同体、社会機構という三者の文明の進歩に関わる主役達の間の新しい関係の働きを探求する学習のプロセスへの献身;競争、争い、分裂、優越感などの考えが伴う支配の概念から解放された、改訂された力の概念が望ましい関係の根底にあるという確信;人類の豊かな文化の多様性の利益を受けながら、分離の境界線を許さない世界のビジョンに対するコミットメント---これらの全てが次に簡潔に述べる政治に対するバハイのアプローチを形成する枠組みの不可欠な要素になっています。

 

18. バハイは政治権力を求めません。彼らは、自国の政治体制がどのようなものであれ、純粋に事務的な性質の仕事と見なすもの以外は、政府で政治職に就くことを引き受けません。彼らは政党に属することもしませんし、党派問題に巻き込まれることもしませんし、グループや派閥の争いのもととなる議題に関連するプログラムに参加することもしません。同時に、バハイは、心から自国に仕えたいという気持ちで政治の道を選んだり、政治活動に参加することを選んだりする人達を尊敬しています。バハイ共同体が採っているそのような活動への不参加のアプローチは、真の意味での政治に対するある基本的な反対を表現する声明として意図されたものではありません。

 

19.  実際、人間は政治問題を通じて組織化するものです。バハイは、選挙において政党所属を証明しなくてよい限りは、民間選挙で投票します。これに関連して、彼らは、政府は社会の福祉と秩序ある進歩を維持するシステムと見ており、内心の宗教的信仰が侵害されることを許すこと無く自分達が住む国の法律に従うことを皆が約束しています。バハイは政府を倒そうとする扇動の当事者にはなりません。また、異国の政府間の政治関係にも干渉しません。これは彼らが今日の世界の政治プロセスに対して世間知らずであるとか、正義と専制支配の区別をつけないということではありません。地球上の支配者達は、国家の最も貴重な宝と見なされるべき国民に対して果たさなくてはいけない神聖な義務があります。何処に住もうとも、バハイは正義のスタンダードを保ち、自分達や他人に向けられた不正に対しては、全ての暴力的抗議の形態を避け、合法的な手段を通してのみ訴えます。さらに、彼らが心に抱く人類に対する愛情が、自国に対する奉仕の為にエネルギーを費やすという彼らが感じている義務感と逆方向に行くことはあり得ません。

 

20. 前述の段落で概説された簡潔な範囲のアプローチ、または戦略、により、国家や種族が争い合い人々が社会構造によって分け離されている世界で、バハイ共同体が世界的な統一体としてその結束と高潔さを維持し、ある国のバハイの活動が他国のバハイの存在を危険にさらさないことを保証することが可能になります。このように、国家や政党の相容れない利害から護られて、バハイ共同体は平和と和合を促進するプロセスに貢献する能力を築くことが出来るのです。

 

21. 親愛なる友らよ。これは皆さんが何十年も非常に上手くやってきたことですが、この道を歩むことは困難が無い訳ではありません。それには、揺るがされない高潔さ、曲げられることの無い行動の公正さ、ぼやけることの無い思考の明確さ、操られることの無い自国に対する愛情などが求められます。皆さんの仲間の人々が皆さんの苦境を理解し、皆さんが社会生活にさらに参加する可能性が疑いなく開こうとしている今、友人や同胞達にこの手紙の中で明確に説明されている枠組みを説明し、1世紀余りも前に人類を新しい世界秩序に召還なさった御方の信者としてのアイデンティティーを損なうこと無く、友人や同胞達と協調して自国の人々の福利のために働く機会をより多く見つけられるよう皆さんが高遠なる所から援助されるよう、私達は祈ります。

 

 

                                                                                万国正義院