万国正義院 書記局

 

20121126

 

社会行動

バハイ世界センター社会経済開発局作成文書

 

 

万国正義院は、2010年のレズワン・メッセージで、活気溢れ、成長し続ける共同体が社会の物質的、精神的進歩に今後果たすであろう貢献について熟考することを、世界中のバハイに求めました。これに関連し、世界全体に夥しい数で広がるクラスターにおける、現行のグローバル計画と連動した核となる活動を導火線とする共同体づくりのプロセスにも言及しました。「人々の家庭が提供する親密な環境の中でディスカッションを織り交ぜた共同の祈りと礼拝が行われ、それが大人、ユース、子供を含めた共同体全員に精神的教育を提供する活動と織り合わされると、豊かな共同体生活のつづれ織りが各クラスターに姿を現わし始めます」。

 

「そこでは社会的意識が自然と高められます。例えば、親の間では子供たちが抱く抱負に関する活発な会話が盛り上がり、ジュニア・ユースの率先力で奉仕のためのプロジェクトが芽を出します」。万国正義院はさらに次の言葉を続けます。「一つのクラスターの中に十分に豊富な人的資源が結集し、成長のパターンがしっかりと確立されると、共同体の社会とのつながりを拡大することが可能となり、また、そうしなければなりません」。同メッセージでさらに、社会行動について、万国正義院は以下のように定義しています。

 

「社会行動を一つの連続体と見ることができます。社会行動は個人や小さな友らのグループが実行する形式張らない期間限定の活動に始まり、バハイに影響を受けた組織が実施する複雑かつ高度な社会経済発展プログラムにまでおよびます。その範囲と規模に関わらず、すべての社会行動は、それがいかに慎ましやかなものであれ、信教の教えと原則を人々の社会経済生活のある側面の改善に適用することを目的とします。」

 

共同体全てのレベルで、社会行動に参加する性質について話し合いが進行しています。この話し合いに貢献すべく、社会経済開発分野での長年の取組みを通じて得られた経験を基に本文書を作成しました。提示する洞察は開発に向けた比較的複雑な取組みから引き出されたものですが、幅広い社会行動全体で展開されている率先的取組みの特徴に光を投げかけるものです。社会行動全てが、その規模に関わりなく、共有の概念、原則、方法、取組み手段に依拠することによります。   

 

 

I. 社会経済開発へのバハイ世界の関与

 

共同体の全世界的な取組みは、数多くの相互作用プロセスの観点から確認することができます。ほんの数例を挙げれば、個人の精神性を豊かにすること、地方と全国の共同体の発展、行政機構の成熟が相当しますが、これらはバハオラの時代にその起源を発し、アブドル・バハとショーギ・エフェンディの任期の間に力を蓄えました。そして万国正義院の指導の下に、着実に前進を続けています。すなわち、影響が及ぶ範囲を徐々に拡大し、その営みに新たな特徴を加えているのです。社会経済開発もその中に含まれます。この特殊なプロセスは、長年の間、多彩な教育活動を通じて格別な努力が払われてきましたが、大きく勢い付いたのは、1983年のことでした。同年1020日付けのメッセージで、1970年代の共同体の急速な拡大に続き、「系統的な関心」をこの活動分野に払うよう、万国正義院が呼びかけたことによります。

 

1983年のメッセージでは、開発分野の進展は共同体の草の根活動の自然な湧き起こりが大きな動因となることが強調されました。メッセージでは、この分野の「友の活動を促進し調整する」ために、社会経済開発局を世界センターに開設することも発表されました。あらゆる大陸のバハイはメッセージの呼びかけにあらゆる方法で応えようと努力し、続く十年間は実験期間となりました。熱意とためらい、慎重な立案計画、場当たり的な活動、達成と後退が、この時期を同時に特徴付けました。開発プロジェクトの大半が世界に蔓延する定型的な開発慣行の影響を免れるのは困難でも、行動に関する有望なパラダイムを垣間見せたものも中にはあります。バハイ共同体は当初の十年間に多様な活動を行った後、しっかりと確立した社会経済開発をその有機的生命体の特性として続行し、紛れもなくバハイならではの方式を徐々に鍛造する能力を高めて新たに出現したのです。

 

19939月、「バハイ社会経済開発:未来への展望」と題する文書を世界センターが作成し、本分野の活動の方向付けと指導に社会経済開発局が活用できるよう、万国正義院が承認しました。この文書では、来る十年間及びそれ以降の段階が定められています。先行する十年間に蓄積された経験を重要な知識系統として活用し、取組み全てに共通する特徴のいくつかが詳述されています。この結果、バハイによる社会経済開発の性質に対する意識がこの時期に世界的に著しく成長し、高い一貫性を備え、系統性を遥かに高めたアプローチが形を取り始めました。当時、現れたビジョンでは、複雑さの度合いが様々でもその異なる水準で、開発活動の促進が求められました。このビジョンの中核を成すのが、能力開発に関する問いです。開始時の活動は小規模でなければならず、複雑化できるのは人材がその成長に見合うだけに育成されている時のみに限定されます。これは概念として、開発への考えと慣行とに徐々に影響を与えるようになりました。

 

2001年、万国正義院はバハイ世界にクラスターという概念を導入しました。複数の村落からなる一つのグループ、または、周辺地域を併合した一都市として概ね定義され、共同体生活に関連する活動の立案と実施の支援を目的とする、地勢上の構成概念です。この概念の導入が可能となったのは、地方と地域レベルのトレーニング機構が1990年代に設立されたことによります。大人数を対象に、奉仕能力の向上を目的とした一連の学習コースを備えた遠隔教育システムを機構は採用しました。一方、最初に敷いた強固な精神的基盤を土台に活力溢れる共同体生活が築かれることが、クラスターでは想定されています。そのプロセスの着実な進歩を促進するために、より多くのクラスターにこの教育システムを徐々に広げるよう、万国正義院は世界のバハイに奨励しました。そのクラスターで取り組む最初の焦点は、住民全てに開かれた特定の核となる活動を増やすことに置かれましたが、やがては対処が必要となる、集団としての能力開発という観点から、住民の社会経済生活の様々な側面にも焦点が当てられたのです。

 

その後に到来した10年間で、社会行動はクラスターという状況内で構想を描くことが増えていきました。芽生え始めた草の根の社会行動という構想では、集団としての特徴は以前も明確に述べられていましたが、クラスターという概念により、その集団的側面を遥かに強く宣言することが可能となったのです。さらに、同時期では、有望性が特に高いプログラムの経験の系統化と、世界中の共同体が恩恵を受けるだけではなく、さらなる前進に貢献できるようになるために必要な構造と方法を学ぶための試みも、社会経済開発局が著しく進歩させました。今日、大陸及び亜大陸に開設した事務局は、ジュニアユースを精神的に力付けるプログラムについての学びの普及拠点のネットワーク、または、他の何らかの教育プログラムの促進に尽力するバハイに影響を受けた組織で構成するグループ、いずれかの便宜のために働いています。こうした事務局の開設に、世界全体で構造を引き上げることで、集団で働く能力を高めようとする、社会経済開発局による取組みの最初の成果を見出すことができるのです。現在までに達成されたことの重要性を強調し、万国正義院は20101028付けのメッセージで以下のように記しています。

 

「やがて、村の友らは、地元のインスティチュート・プロセスの勢い、およびそのプロセスが育てた個人の能力によって、バハイの教えに刺激を受けた機関によって開発され、社会経済開発局の提案により、そしてその支持を得て、クラスターに導入され、既に有効性が証明されている方法やプログラムを利用することができるようになるでしょう。」

 

過去30年間に社会経済開発分野で達成されたことは、各地のクラスターで生じている一貫した人材の増加と相乗し、草の根の社会行動に参加する新しい段階へとバハイ世界を導きました。

 

 

II. 集合的学びの枠組み

 

社会経済開発分野で採用される行動様式は、バハイの他の活動分野と同様に、行動における学びの一つです。学びの姿勢を特徴づけるのは、一貫した行動、振り返りと協議、そして知識の獲得ですが、この姿勢で取組みがなされる時には、ビジョンと戦略が繰り返し検討されます。課題が達成されるなかで、障害は除去され、資源は増加し、教訓が学びとなり、目標と方法に修正が加えられます。学びのプロセスは、機構による適切な采配を介して方向性が与えられ、有機体の成長と分化に類似した展開をみせます。場当たり的な変化は回避され、行動は連続性を失うことがありません。

 

いくつかの機会において、万国正義院は、クラスター規模で奉仕する者達がどう社会生活により一層引き込まれていくかについて言及しながら、次のように示唆しています。「進行している現行の成長パターンを特徴付けているのが一貫性ですが、あなたがたが取り組むやり方、採用方法、用いる手段において、こうした一貫性を同程度に持たせることが必要となるでしょう」。ここに、拡大と強化という二重プロセスに揺るぎがないクラスターが次々と現れていく中で、社会行動分野での最初の胎動がどのように明らかにされていくか、機構による育成と指示がどれだけ必要となるか、及び、社会行動という取組みが共同体生活という織物をどのように強化していくか、という問いが生じます。これらの問いは、来る数年間に学びのプロセスの集中度を高めていくことをテーマとする課題に含まれています。 

 

バハイ共同体が関わる取組みには相互関連する分野が幅広く存在します。分野それぞれの中でも、分野間でも、一貫性を徐々に高めることが、重要な関心事であることは明らかです。このことは、活動分野が相互に補完的、整合的、かつ、助け合うべき関係にあることを示しています。さらには、諸々の活動に形を与える包括的な共通した枠組みが存在し、経験の蓄積に伴い、進化し、精巧性を高めていくことも暗示しています。この枠組みの中の多様な要素の表現が、活動分野全域において画一化しないことは当然です。いずれの活動分野でも、前面に出て行く要素があれば、背景でしか作用しない要素もあります。そうした要素は社会行動の中に現れるなかで、長年をかけて経験的に識別されていますが、そのいくつかを本文の次の三つのセクションで紹介します。

 

社会行動に最も関連する要素の中には、進歩の性質について定義した叙述が含まれています。すなわち、文明には物質と精神という両方の側面があること、人類は集団で成熟する入り口段階にいること、完全な成熟に向かう道筋に沿って人類を推し進めるのに役立つ力には、破壊的、建設的の両側面があり、双方が世界で作用していること、社会の維持に必要な諸々の関係はバハオラの啓示に照らして練り直さねばならないこと、必要とされる変革は人類の意識内と社会機構の構造内とで同時に発生しなければならない、ということです。上記はバハイによる開発への取組みの性質に光を投げかけていますが、セクションIIIでテーマとして取り上げます。

 

社会行動の性質を論じる他の要素は、社会の発展における知識の役割に関する個別の観点に由来します。科学と宗教の相互補完性、精神面と物質面双方の発展に有用な教育の義務、技術に固有な価値観の社会の組織への影響、適切な技術の社会の進歩への関連性が、知識の役割に関する観点からの社会行動の性質を論じる課題の中に含まれています。知識の発生と適用に関係する見解は、開発の性質のみならず方法論への問いにも影響を及ぼすため、セクションIVのテーマとなります。セクションIIIIVの考察においては、上述の枠組みの中で別に一組にされた要素が含意されています。すなわち、個人、権力、権威、個人の快適さ、無私の奉仕、卓越性等の概念を分析した上述の記述です。

 

最終的に、社会行動のための概念的枠組みの中心には、人間の性質、人生の目的、人類の一体性、男女平等という、存在に関わる根本的課題についての信念を言い表す要素が存在します。こうした要素は、バハイには不変な信念とつながりがありますが、静止してはいません。様々な状況で理解され、表出する方法が長い時をかけて進化していることによります。こうした強い信念の多くは本文全体で詳述されている論考の根底を流れ、開発への取組みに影響を与えています。その影響について説明するために、セクションVでいくつかを明確にします。  

 

 

III. バハイによる社会経済開発の性質

 

社会経済開発の分野におけるバハイの活動は、信仰や背景が何であれ、あらゆる階層の人々の幸福の促進を目指しています。人間が努力を傾けている様々な分野で蓄積されている知識とともに信教の教えを社会現実に適用することを学びながら、社会を建設的に変化させるための共同体の取組みを表すものでもあります。その目的は、大業の宣布でも改宗の手段とすることでもありません。そこで、バハイによる社会経済開発がどういう性質を備えるのか、その定義に役立つ概念的枠組みの要素のいくつかについて、以下に論じます。

 

 

(i)    精神的、物質的側面の間の一貫性

 

バハイの観点から着手されている社会行動の性質の探索は文明の前進という幅広い状況の中で位置づけることが絶対的に必要です。物質的、精神的に繁栄する世界文明が、一千年の長きに及んだ社会進化のプロセスの次期段階を示すということは、社会行動のあらゆる出来事を授けるのが歴史であるという観念に、特定の目的を与えます。すなわち、この地球上に住む多様な人々の間に、精神的かつ物質的側面をともなう、本物の繁栄を養成することです。実用面と精神面の双方で人生に必要とされるものが躍動的に統一されるには、活力ある関連性という概念が不可欠となります。アブドル・バハはこのように述べておられます。「物質文明は人類世界を進歩させる手段の一つですが、神の文明と結びつくまでは、その望まれている結果である、人類の幸福は達成されません」。バハは、続けてこう述べられております。

 

物質文明はガラス製のランプにも喩えられます。神の文明はランプそれ自体を、光が灯されていないガラスは暗黒を象徴します。物質文明は身体に喩えられます。どんなに限りなく優美で、洗練されて美しくとも、死んでいるのも同然なのです。神の文明は精神に喩えられ、身体は精神から生命を得ます。さもなければ、死体となります。かくして、人類の世界が聖霊の息吹を必要としていることは明らかにされています。精神を欠いていれば人類世界は生命を失い、光が欠けていれば人類世界は暗黒の闇に沈むのです。

 

精神面と物質面との統一を目指すためには、物質面の開発目標を矮小化して構わないということはありません。しかしながら、世界でも高度工業化した特定地域に蔓延し、そこでの生活そのもののパターンと最終的に分析されている、観念的な思い込み、社会構造、経済慣行、ガバナンスのモデルを社会全てに移すことだと定義される開発には、手法を近似させないことが求められます。一方、地域社会の生活には物質的かつ精神的側面があることが留意され、十分な注意が科学と精神面両方の知識に払われている場合には、開発を物・サービスの単なる消費として軽視したり、技術の成果を疑問を持たずに利用する傾向が回避されます。簡単な例を一つだけ取り上げますと、技術面である提案がなされた場合、科学の知識は、共同体メンバーが、それの及ぼす物質的かつ社会的影響を分析するのに役立ちます。そして精神的洞察がなされることで、社会の調和を維持し、技術を共通善に必ずや役立つものとする道徳的要請が生じるのです。こうした二つの知識の源泉が合わさることで、安全な受身姿勢を打破するに不可欠な、個人と共同体に内在する意欲が根源から引き出され、自分達で消費主義の罠をあばくことができるようになります。

 

科学的知識が開発への取組みに関連することは、世間では一般的に異論なく認められていますが、宗教が果たすべき部分については合意があまりなされていない印象があります。宗教と言うと、分裂、抗争、抑圧という観念が付き纏うことが非常に多いため、物質面から全面的に働きかけることの妥当性を疑問視する者たちの間でさえも、知識の源泉として頼ることへの抵抗感を生み出しています。興味深いことに、科学が大切にされていても、必ずしも、その慣行と目的が十分に理解されているわけではないのです。その根底を流れる意味も又、誤った観念に取り囲まれています。特定の技術と公式の適用という観点から着想されることは少なくなく、魔法によるかのように、これやあれやの影響をもたらしています。その結果、宗教的知識と考えられているものが科学との調和を欠き、科学の名の下に宣伝されているものの大半が、宗教が培った精神的能力を否定しても驚くべきことではありません。

 

規模や複雑さがいかなるものであろうと、社会行動には、科学と宗教にまつわる極度に単純化され、歪められた観念から自由なままでいられる努力が必要です。そのためには、想像上の二元性で理性と信仰を分離させてはなりません。さもなければ、理性は実証された証拠と論証という領域に限定され、信仰は迷信と非合理的な想念として片付けられるようになるでしょう。たとえば、観察、測定、厳密に実験的な発想という科学的能力を取り込み、開発のプロセスは合理的かつ系統的である必要があります。同時に、信仰と精神的確信の深い認識も求められます。アブドル・バハは「信仰とは知識と良き仕事の遂行から成ります」と述べておられます。信仰と理性は、存在の物質的かつ精神的側面について洞察と知識を得ることを可能とする人間の魂の属性として、最も良く理解することができます。さらに、個人と人類全体とに内在する力と潜在性の認識を可能とし、こうした潜在能力が発揮できるよう、人々が努めることを可能とするのです。

 

 

(ii)   参加

 

社会的進化の早期段階を通過し、成年に達しようとする人類に相応しい文明は、選り抜きの国家グループ、国や国際的な機構ネットワークによる努力を介して出現することはありません。むしろ、この課題には人類全てが面と向かう必要があるのです。人類という家族の成員一人一人に、物質的、精神的に繁栄する文明から恩恵を受ける権利だけでなく、その建築に向けて貢献する義務があります。翻れば、普遍的参加の原則に基づき、社会行動は営まれる必要があるのです。

 

参加に関わる課題は、開発を題材にした文献の中で詳細に論じられてきましたが、理論と実践の両方において、この重要な原則は、例えば、調査手段としてフォーカスグループを利用するという技術レベルで取組まれてきたことが少なくありません。もちろん、こうした手段には利点があります。政治的プロセスへの参加を増やす、または、あれやこれやの政府機関、非政府機関が届けるサービスの受益者に訓練を施すことを意図した、より大掛かりな取組みにも活用されています。しかし、こうした手段は、上記で構想を画いた参加を実現させるようにはみえません。所定の地域、ミクロ地域、またはクラスターのいずれにおいても求められていると思われるのは、学びの集団的プロセスへのより多くの人々の参加です。プロセスでは、住む村や近隣地域の物質的かつ精神的進歩を導く道筋の性質と力学とに焦点が当てられています。知識は、文明の前進において最も強力で不可欠な力ですが、このようなプロセスが敷かれることで、その生成と適用、さらに拡散とに人々が参加できるようになるのです。

 

この関連では、既存知識の適用と伝播には、大半が経験を通じて獲得された洞察である、新しい知識の生成が必ずや伴われることを認めることが大切です。ここで、学びの系統化は極めて重要です。草の根で働く人々のグループが社会行動で経験を積み始めると、最初に学びとして得た知識の表現は、時折口頭に上る、物語、秘話、個人的釈明と大差ないかもしれません。しかしやがて、一定の型が姿を現し、文書として記録され、念入りに分析されるようになります。知識の系統化を促進するには、適切な構造が地方レベルで整備される必要があります。その中には、学びのプロセスの完全性を守り、知識が意見や様々な経験の単なる集大成として片付けられないよう、つまり、正真正銘の知識の生成を取り計らうための権威を授けられた機構機関の整備も含まれます。行政秩序機構には、個人の意欲を集団の意思に調和させるために草の根で働く機構もあります。これらが上記権威を授けられることで、参加を育む著しい能力を共同体に与えるようになるのです。

 

しかし、地方レベルでの学びのプロセスがどんなに必要不可欠であっても、人類全体の物質的、精神的繁栄に関わる世界的プロセスと結びつかなければ、その効果は限定的にとどまります。開発についての学びを促進するためには、地方から国際規模に至る全てのレベルで構造が必要となります。国際レベルで求められるのは、進行過程にある全世界的な変革という幅広いプロセスを考慮に入れた、学びのある程度の概念化です。この作業により、開発活動の全体方向が調節しやすくなります。社会経済開発局は、より多くの個人、機関、共同体の参加により世界各地で増大可能な経験の系統化に尽力していますが、自らを機関としては学びの途上にあると見ています。そのため、上述の参加が拡大するに従い、必要とされる構造の強化と、全ての水準での学びのプロセスに勢いを添えながら、草の根の活動を観察し、少なくとも一つの状況下で姿を現しているパターンを識別・分析し、生成された知識を拡散する自らの能力の開発に努力しています。したがって、開発で焦点となる方式は、「上意下達」としても「下位から上位」としても括られることはなく、むしろ、互恵的、相関的となるのです。

 

 

(iii) 能力開発

 

開発が学びの集団的プロセスへのより多くの人々の参加という観点から見られる場合、能力開発の概念は特に大きな重要性を帯びます。そのため、社会行動の事例はいずれも、住民生活の何らかの側面の改善を当然目指すものであっても、物・サービスの提供だけに焦点を当てることはできません。提供するだけというのは、今日の世界にひどく蔓延した開発方式ですが、意見や責任を持たせない父権主義的態度をしばしば伴い、変革の主人公となるべき者たちを無力にする手段が採用されています。状況改善のための特定目標の設定と達成は社会行動の正当な関心事ですが、より遥かに重要なことは、進歩への貢献に参加する者たちの能力が、状況改善に従い、高まっていくことです。能力開発はもちろん個人に対し大切ですが、文明の前進の別の二人の主役である機構と共同体も同様に能力開発が求められるのです。

 

個人レベルで、トレーニング・インスティテュートは大きな影響力があります。精神的な洞察と知識、資質と心構え、さらに、共同体生活に不可欠な奉仕を行うに必要なスキルと能力とを個人が身に付けるよう助けながら、社会経済開発への取組みが発展できるように、人材という予備要員を育てることによります。トレーニングに参加し、諸々を身に付けた者たちは、今度は自分たちが従事する、保健、農業生産、教育他の、特定の活動分野に関連する知識と技術を身に付けられるようになりますが、インスティテュートがすでに耕した能力は引き続き強化していきます。たとえば、多様性の中の和合を養成し、正義を促進し、協議に効果的に参加し、人類への奉仕に取り組む中で他者に付き添います。

 

同様に、機構の能力への疑問には十分な注意が払われることが必要です。特にグローバル計画の規定を必ずや満たすよう努力するという状況において、信教の機構は経験を積むに従い、援助、資源、励まし、適切な自発的活動への愛情を込めたガイダンスの提供、メンバー間及び協議依頼者達との自由で調和が取れた協議、そして、個人と共同体のエネルギーを社会の変革に向けて導くことへの熟達を高めています。そのため、社会行動分野で求められる努力全てにも、機構能力への疑問を検討する必要が生じています。最終的には、草の根で労力を担う個人たちで形成する最小グループでさえも、正直さ、公正さ、忍耐、慣用、礼儀正しさという資質を特徴とする環境を協議の場で維持できる必要があるためです。一方、高度に複雑なレベルでは、社会行動に尽力する団体は、社会の状況を読み、その中で作用している力を識別し、プロジェクトや相互関連する一連の特徴ある活動に進歩のビジョンを翻転させ、財源を管理し、政府機関と非政府機関双方と交流を図ることができる能力を開発する必要があります。

 

人と機構の能力開発は、共同体の発展と手を取り合うようにして進みます。世界中の村落や様々な地域で近隣同士のバハイ達は、共同体の特質である敬虔さを豊かにする活動に従事しています。子供たちに精神的教育を施すこと、ジュニアユースの精神的知覚を高め、持てる表現力を強化すること、より一層多くの者たちが自分達個人と共同体生活とに信教の教えをどう適用するか、その方法の探索ができるようにすることが該当します。しかし、共同体開発のプロセスは、活動というレベルを超え、成年期に達した人類を特徴付けるべき思考と振る舞いを表現しパターンとする様式に関連付けられることが求められます。つまり、文化という領域に入る必要があるのです。こうした観点に照らせば、社会行動は、一体性、正義、男女平等という重要な原則について集団意識を高め、正直さ、公平性、信頼性、寛容さ等の性質が際立つ環境を促進し、社会の破壊的な力の影響に抗する能力を共同体の中で高め、活動の取りまとめ原則である協力という価値観を実証し、集団として行動する意欲を高め、教えから得た洞察を活動の実践に注入する機会になることができます。繁栄する世界文明は、その出現が疑問視されていますが、最終分析においては、その多くの疑問は文化のレベルで解消できるのです。

 

ここで、認識する必要があると思われるのは、主役となる上述の三者各人の能力の向上は単離的に起こらないことです。各人の成長は他の二者の進歩と表裏一体の関係があります。ショーギ・エフェンディによる次の言葉がこの点を証明しています。

 

「私たちは、人間の心を人間の外にある環境から切り離して考えたり、あるいは、このうちの一つが改革されたらすべてが改善されるだろうと考えたりすることはできません。人間は地球と切り離すことのできない存在です。人間の内面的な活動が環境を形成するのであり、また内面的な活動自体も環境に強く影響されます。一方は他方に作用するのであり、人間の生活における永続的な変化というものは全て、これら二つの要因の相互作用の結果なのです。」

 

 

(iv)  複雑さの程度

 

開発のプロセスが元来複雑であることは否めません。このプロセスには、農業と畜産、製造とマーケティング、基金と自然資源の管理、健康と衛生、教育と社会化、通信と共同体組織、という分野での活動を、関連させることができます。したがって、世界中の共同体の開発に絡む関心事に集められるべき知識は、単独の分野または領域に収まることはありません。学際的かつ多部門的な行動が明らかに求められます。しかし、このような連動した行動を追求する能力は、これから先、数十年をかけ、バハイ共同体においてしか現れないでしょう。一層の高度化が進む複雑さと効率性で開発課題に取り組む能力も同様です。

 

社会行動は、個人からなる小グループが実行する形式張らない期間限定の活動に始まり、バハイに影響を受けた組織が実施する、ある程度、複雑で洗練された社会経済開発プログラムにまでおよびます。社会行動を生起させるプロセスの相互作用は、単独の定型的な表現に収められないことが、経験から明らかにされています。けれども、状況にかかわりなく、社会行動の範囲と複雑さは、共同体で活動を前進させる人材の数と能力とにいかなる時でも見合う必要があります。また、当事者としての意識的取り組みは、その共同体自体に委ねられるため、ある程度の集団意思が共同体内に存在することが前提となります。

 

活動は、その具体的な性質が何であろうと、小規模から開始することが一般的です。トレーニング・インスティテュートの教育活動がしっかりと定着し、共同体感覚が顕著な地域では、高まった社会意識の最初の胎動は小グループの出現の中で観察されることが殆どです。こうした小グループは、社会経済に固有な現実に取組みながら、簡素でいて適切な活動を開始します。そしてさらに、協議、行動、そして振り返りという継続したプロセスを通じて、持続可能性がより高い一つの試みが、いくつもの取組みから生じる状況があるかもしれません。かくなる場合で重要なことは、理論的な考察のみに基づくことが多い意見から不当な圧力を受けることなく、有機的なやり方で、当事者は活動範囲を増やすことが許可されていることです。そして彼らが経験結果を振り返る中で、プロセスは柔軟に前進します。けれども、複数名で構成される小グループが状況の改善に努力する中で、活動の統合性に妥協があってはならないように、地方精神行政会は道徳的権限の声となることは言うまでもありません。さらに、共同体が進んでいる全体的な方向に、グループの取組みが逆らうことがないよう、注意を払い続けます。

 

一方、ある時点になると、社会経済開発局の後援を受け、その地域で活動するバハイに影響を受けた組織が促進している教育プログラムを、共同体メンバーが活用できる可能性もあります。こうしたプログラムの共同体内での着実な広がりは、人材の増加と、現在進行形の作業を維持する組織構造の強化に役立つようになります。最終的に、こうしたプログラムから便宜を受ける者たちの多くは、今度はその持てるエネルギーを上述の草の根の社会行動の実施に傾けるようになります。しかし、再度ここでも指摘しますが、究極のビジョンが何であろうと、単独の活動分野で働き始め、徐々に少しづつ活動を広げていくには、注意が要されます。たとえば、共同体の学校は、農業生産、保健教育、家庭相談という活動の中心に原則的になれますが、持てる資源の全てを子供達の教育に集中投資し、学校として飾らずに開始することが、殆どのケースでは賢明です。

 

この点に関し、バハイに影響を受けた組織の機構としての能力を強化するための社会経済開発局の取組みは重要性を帯びます。世界中で活動するこうした組織の様相について、ここで少し説明を加える必要があります。専門職業の実践や職業上の責任の遂行、またはその他事項の対処、そのいずれにおいてであろうと、バハイ全てが信教の教えと原則から霊感を得て、日々の交流において高い基準を反映するよう努力しています。さらに、開発分野の性質を踏まえると、数多くのバハイが、人類の幸福のために働く様々な国内や国際的な機関との提携を選択し、可能な限り、その運営にバハイの教えを適用するようになるでしょう。この意味で、彼らの取組みは信教に鼓舞されているのです。けれども、共同体自体の働きに照らすと、この用語は極めて特定の意味で用いられています。すなわち、バハイに影響を受けた組織は、複数の信者からなる小グループで成立することが通常です。バハイ機構による一般的ガイダンスと、その道徳的権限による管轄を受け続けますが、日々の業務の管理ではある程度の自由裁量があるため、開発に向けた様々な取組みを地域で率先的に進めることができます。設立時には、活動の性質が当然強調されますが、最適規模が次第に明確化されるに従い、「大きいほど良いことだ」という観念は除外されます。社会経済開発局を含む、バハイの機構とそのエージェンシーは励ましと方向性を与え、適切であれば、資源を振り向けます。これら少数で小規模の団体は、長年を掛け、比較的複雑な開発分野で取り組む能力と、政府機関と市民社会との協働関係を定着させる能力とを備えた本格的な開発組織へと進化します。

 

バハイに影響を受けた組織という概念がどんなに有用であっても、多様な状況の下での適用には注意深い検討が求められます。こうした組織がある地域の生活からどう出現し、その進歩にどう貢献するかは、極めて重要です。無計画の設立であってはなりません。あるいは、利他的であっても、自分個人の欲望を満たしたいと願う二、三人の熱望だけが創設の動因であってはなりません。バハイに影響を受けた組織が、ある地域で活動するということは、他の活動との関連が一因しています。一貫した進歩が達成される、いくつかの相互作用的な試みの一つなのです。世界各地で活動するこうした組織が開発作業にもたらす価値は歴然としています。とは言うものの、草の根で着手されている無数の素朴な活動の力を過小評価してはなりません。共通の枠組みの中で互いに結び付くことで、変革の力を生んでいるのです。

 

 

(v)   資源の移動

 

バハイの活動全ては人類の一体性への根本的信念を踏まえて進展されます。全員がその持てる才能と資質とを共通目的の前進のために貢献し、全員が進歩の喜びを分かち合います。したがって、地域活動を強調することが、孤立的になることを容認するのだという解釈であってはならないことは明らかです。

 

社会経済開発には、物資と知的資源、両者の自由な移動が必要です。バハイ共同体は、地方、地域、国、大陸、国際レベルで、人類の一体性の原則の遵守に尽力する機構や機関とつながりを持ちます。機構としてのこうした取り計らいにより、構造的かつ系統的な資源の移動が可能となり、農村地域でも、高度工業化地域でも、平等に共同体を潤しています。「発展国」と「途上国」、「先進国」と「後退国」という枠で世界を二分化する慣行は、開発分野におけるバハイの取組みには馴染みません。と言いますか、バハイ全ての活動には相容れないのです。

 

しかしながら、世界中の人々に物質的富の公正な分配がされなければ、貧困は緩和できないことを率直に認める必要があります。事実、ホゴコラ制度は、人類の繁栄を育成する有効手段を提供しています。ホゴコラの法では余剰の富の一定割合の提供が求められます。この法を遵守するとともに、基金の使途を万国正義院の自由裁量に委ねることで、物資の移動が容易になり、社会の安寧が促進することを、世界中のバハイは理解しています。しかし現段階では、必要不可欠な金融手段を欠いた世界の広大な地域の貧困に対処するには、裁量の下にある献金額では遠く及びません。それでもなお、この法の遵守により、全ての大陸で進行している開発計画に万国正義院が基金提供できるのです。

 

ホゴコラ制度を介した基金や、社会開発に特化したものも含め、他の制度を対象とする定期的献金を介して活用できる基金の他にも、社会経済開発分野の取り組みにおいては、政府や寄贈機関から得た資金も活用できます。しかし、財源がいずれであろうと、開発への共同体の取組みでは、資金援助の受け入れは全く計画されていません。今日の世界でひどく蔓延している依存関係により、特定の地域が他者の恩義で資金を得ていますが、こうした関係は共同体では認められません。  

 

2010年のレズワン・メッセージで万国正義院が明らかにしたように、「社会変革」は、「あるグループの人々が他の人々のために実行するというような性質のものではありません」。そして一般的には、ある地域から訪れたバハイが、他地域のために開発プロジェクトを設立することはありません。共同体から共同体へ、国境を越えて、バハイ個人の移動は生じますが、ここにおいて、バハイ一人一人がバハオラの言葉に導かれています。「疎遠であることに汝らの目を閉じ、和合に目を据えよ」。バハイが何らかの仕事の絡みで引っ越したり、別の場所に移動したりすることがあります。そうした時、彼らは移動先地域の共同体という集団の一部となり、他全ての者たちも彼らをそうしたものと認識します。その彼らに新しくガイダンスを授ける地方共同体は、知識の移動の促進と共同体内のメンバー全てのエネルギーを導くことに責任を持ちます。そのため、部外から来た専門家がその立場を利用し、自分個人の要望を地域の人々に強要することは認められません。

 

すると、各地のバハイの取組みのなかで目の当たりにできるのは、全世界的な一つの共同体の出現です。機構を介して結び付き合い、全体から離れた孤立感を生むことなく然るべき敬意を地方自治体に払い、支配の手段となることを認めることなく物的手段に重きを置き、意見や責任を持たせない父権主義的態度を導入することなく知識を移動させ、経済的背景に一切関係なく個人に内在する能力を強化するという、活動パターンの定着に努力が払われています。このようにバハイは、身近な環境の改善活動に積極的に従事する一方、範囲と影響力が地球規模に広がる開発プロセスに参加している気持ちでいるのです。

 

 

IV.   バハイの社会経済開発の方法論

 

開発に向けたバハイの取組みの性質を定義する概念的枠組みの上述の要素以外にも、採用すべき方法に光を当てる概念は数多くあります。個人の見解に執着しないよう勧奨する雰囲気の中で、現実への共同調査が最善の形で着手できること、その現在進行形の調査は実証され根拠がしっかりした情報に正当な意義を与えること、単なる意見を事実に仕立て上げないこと、結論には目下の課題の複雑さを反映させ、分解して過度に単純化した要点の列挙としないこと、観察事項と結論は正確で冷静な言葉で明確に表明すること、活動分野全ての進歩は、力の増強が統一行動の中に現れる環境づくりに掛かっている、ということが挙げられます。上記一般的概念は、科学と宗教の双方から引き出され、以下に論じる方法論の具体的観点を特徴付けます。

 

 

(i)    社会を読み取り、ビジョンを形成する

 

上述したように、社会行動分野での活動は、ある地域に居住する複数名からなる小グループが実施する小規模活動の形をとることが頻繁です。ある意味、草の根のこうした胎動は、社会レベルのものとして明確に表現されることは滅多になくても、社会現実を読み取ったことへの対応とみなすことができます。一方、より複雑な社会経済開発の取組みに関しては、より高い精度で社会を読み取ることを、学びの方法論の明確な要素にする必要があります。

 

開発への取組みはいずれも、社会の性質と状態、課題、活動する機構、社会に影響を与える力、人々の能力を、いくらか理解したことへの一つの対応であると言うことができます。このようにして社会を読み取ることは、社会現実の詳細のあらゆる事項の探索のためではなく、正式な研究が必ずしも必要とされるわけでもありません。特定活動の目的という観点と、人類は集合的存在であるというビジョンとの双方に照らし、状況を徐々に理解する必要があります。確かに、社会の読み取りが信教の教えに矛盾しないことが重要です。例えば、人間の本質は精神的であること、人間一人一人が無尽の潜在性を秘めた「宝石に富む鉱山」であること、統合と分裂という力それぞれが、人類をその先の運命に向けて推し進めていることが、社会現実を理解させる教えの一部として挙げられます。比較的複雑な一連活動を支持するバハイに影響を受けた組織は、できる限り科学的手法を用い、社会を読み取る力を継続して磨きをかける必要があります。

 

社会内の人々から彼らの社会的現実を読み取ることは、一介の部外者として研究することとは違うことに留意することが大切です。対象となる人々が物資に比較的乏しい事例では、大きな資力が手に入る部外者には、貧困しか目に映らないことが頻繁です。そのため、才能という人々に内在する富、一人一人が持つ願望、立ち上がって変革の主役となる能力、これら全てが見逃されている可能性があります。しかも、貧困の部外観察者は、自分自身の感情である、憐憫、恐れ、憤り、ためらいが、社会を読み取る自分の視点に影響を与えることを許し、自身の経験に重きを置く価値観を自分が提案する解決案の根拠とさせてしまいがちなことに、往々にして気付かないのです。一方、参加型で取り組む場合には、「部外者−部内者」や「有識−無知」という二分性は速やかに消失します。皆そろって進歩の道を築いていくという観点から、知識の生成と適用とを自ら行うよう、人々に参加を求めることによります。

 

社会行動の当事者は自分なりに読み取った社会の姿に従い、自分達が活動できる社会空間の中で自分達の取組みのビジョンを形成し磨きをかけます。ここで使う言葉「ビジョン」は、一連の目標や、理想化された未来の状況の描写にその意味はとどまりません。特にバハイに影響を受けた組織が関与する時は、目標をどう達成すべきか、概念をビジョンで表現しなければなりません。すなわち、戦略上の性質の考案、取るべき手段、想定される態度、さらに、採用すべき方法の一部の概略化さえもが相当します。しかし、取組みのビジョンを団体が明確にしていても、それは決して完成することがありません。精密さを高めること、絶えず進化し複雑性をより高めた行動の便宜を図ることができるようになること、より一層高い精度で運用されることが求められています。

 

(ii)   協議

 

活動における学びを社会経済開発分野で主な行動様式としなければならない場合、協議原則を十分理解する必要があります。特定問題の分析であろうと、課題のより高度な理解に達することであろうと、可能な行動計画の探索であろうと、協議とは、集団による真実探求と見なすことができるかもしれません。協議プロセスに参加する者達は異なる見解から現実を見ます。そうした別々の見解が調査され理解されていくに従い、真実がはっきりしていきます。集団による現実の調査というこの概念において、真実は利害関係で対抗するグループ間の妥協の産物ではありません。勢力の張り合いを欲すれば、協議プロセス参加者は意気減退します。むしろ求められるのは、思考と行動の和合から生じる力なのです。

 

社会行動との関連では活動が発生する空間にふさわしい様々な形で、協議原則は表現されます。小グループがある活動に従事する時には、多くの場合、懸念事項全てが協議の対象となります。けれども、組織の中では、この原則は様々な形で表れるようになります。この関連で留意すべきことは、精神行政会による評議の場合のように、立場が平等であると見なされている者達の間で合意に達することを目的に、協議がなされることがあるということです。一方、共通の理解を高めることに向けて考えや情報を引き出すために、必要であれば、議論の形が取られる状況では、決定は権限を有する者達が下します。バハイに影響を受けた組織の運営は後者に属し、ある程度の個人またはグループ権限が責任を授けられている者達に与えられます。

 

したがって、意思決定全てに、団体内の成員全てが平等に参加するわけではないことは明らかです。責任の所在は適切に構造化され画定される必要があります。今後は、たとえば、仕事の中の特定した構成要素の当事者の間で洞察を分かち合い、より高い水準の理解に達し、働く分野に関連する決定をなす機会を持つ空間が数多く存在するようになるでしょう。理事会と常任理事がいる団体であれば、多くの場合、彼らが決定し、成員全てと協議する必要はないでしょう。しかし、関連情報と知識とを公開し、空間全てで行われた協議の結果に理解と合意を成員の間に広げる雰囲気作りの責任も彼らにあります。

 

こうした検討にとどまらず、協議の精神は、社会行動の規模や複雑さがどれほどであろうと、その当事者と受益者との交流の中に浸透します。かといって、正式な仕組みの整備が必要なわけではありません。むしろ、協議の精神が流れることで、人々の願望、所見や発想が絶えず表明され、計画とプログラムに意識的に反映されるということです。

 

 

(iii) 行動と行動への振り返り

 

開発活動全ての中心には、一貫した系統的行動があります。けれども、目標への到達に継続して必ず役立てるよう、行動は定期的な振り返りをともなう必要があります。目標が具体的に規定され、成否いずれであっても、採用した方法と成否理由の評価を実施後に行うのがプロジェクトであるという観点からは、策定するだけの開発戦略は進展に限界があります。学びという観点から定義される開発への取組みは正式な評価を折々に受けますが、遥かに信頼性が高いのが、構造化され、活動パターンに織り込められたリフレクションです。この振り返りを通し、疑問が浮上し、方法と取り組み方の調整ができるのです。人類が必要とするものは数多く、信教の教えに感化を受けたプログラムがしばしば熱狂的に受け取られることを踏まえると、あらゆる機会を追求し、熱狂的な活動に取り組もうとすることは、バハイに影響を受けた組織には魅了的に映るかもしれません。系統的かつ焦点化されるべき学びは、小グループから共同体自体まで、開発の当事者全員が対処しなければならない課題です。

 

この点で有用であると証明されているのが、一連活動という観念です。一連活動とは、各活動が一つ前の活動の上に築き上げられ、次の活動のために道を用意するという、連続した活動として着想されています。一種類の行動だけで始まるものが殆どですが、相互関連する活動が次第にたくさん現れ、縦横無尽に連係し合うようになります。たとえば、子供教育の分野だけに焦点を当てる草の根の取組みですら、有効であるためには、教師トレーニング、教育についての地域社会での意識喚起、教えることの学習体験への出席という、一連活動への追従が同時に求められます。

 

焦点化された系統的思考も、絶えず細部に気を配った労働も、社会行動を活発化させる奉仕の精神から逸れることは当然ながらありません。実際面でごく小さく細かな事柄に注意を払う一方で、最も深遠な精神的事柄に専念することもできます。バハイによる活動はいずれも、手がける精神に強調が置かれていることを際立った特徴とする必要があります。このためには、動機の純粋さ、行いの清廉さ、謙虚さ、無私、人の尊厳への敬意が参加者から求められます。バハオラは次のように述べられています。

 

たった一つの正しい行いは、塵のような存在を高め、天中の天を越えるところまで引き上げることができる。正しい行いの威力はあらゆる束縛を寸断し、消耗し尽くされもはや消滅してしまった活力をも復活させることができる。

 

 

(iv)  物的手段の利用

 

社会行動分野の活動で目的を遂行するには、物的手段が求められます。世界の多くの団体の間では、受取って支出した金額の観点から成功を主に測る傾向があります。賞賛に値する目的達成のために働いている団体も例外ではありません。開発へのバハイの取組みではこうした基準の除外が求められています。小規模な社会行動では、資財は共同体から寄付されることが通常ですが、より複雑な活動であれば、基金を活用するためにより大きな能力を身に付ける必要があるでしょう。バハイに影響を受けた組織の場合、上述したように、この能力は寄贈機関から助成金を受けることに及ぶかもしれません。基金確保に際しては、所定の人々の中での能力開発という第一義的な目的から注意が逸れることがないよう、当事団体は多大な注意を払うことが求められます。

 

支出がどんなに小額であっても、財務管理の健全性を監督するシステムの整備は大切です。清廉性は、参加者の信頼と誠実さで確保されることは当然ですが、団体内の財務管理で効果が証明済みであるシステムは、不正の誘因となり得る杜撰さと不正確さを許す雰囲気から財源を守るのに役立ちます。

 

健全な財務システムに加え、効率性への問いにも注意が必要です。回避すべきなのは、効率性について限定された概念です。例えば、取組みを数量で表す何らかの測定基準が物資投入に導入されている時でさえも、結果である産出物を投入物資との関係だけで考える概念が相当します。効率性には洗練性を高めた理解が求められるように思われます。投入に関しては、例えば、奉仕の精神と、鮮やかな卓越をめざす内なる衝動とを動機として注入した仕事は、個人利益を優先する手段にされる仕事とは価値が違います。結果について、もう一つ例を挙げるなら、例えば、学校のための小さな施設の建設という特定の仕事を達成しても、一体的な行動において、参加者が協力し関与する能力を開発することに比べれば、その重要性は遥かに低いのかもしれません。

 

入手できる物資が何であろうと、精神的、知的資源という富も、取組みに活用できます。こうした富たる資源はバハイの書物の中でたくさん述べられています。「弛みなき決意と調和ある協力」、「エネルギー、忠誠、機知に富むこと」、「決意」、「絶対的な献身の精神」、「まとめる能力」、「熱意」、「粘り強さ、深い知性、忠誠」、「一心に専念すること」、「絶対的な献身」、「忍耐」、「活力」、「勇気」、「大胆さ」、「一貫性」、「不屈の精神」、「不屈の決意」、「常時注意を怠らないこと」。物的手段が限られた拡大と強化という仕事においてバハイ共同体が現在までに達成したことが、こうした精神的資源の有効性を証明しています。この資源を社会行動の分野に徐々に広げていく必要があります。

 

社会行動の当事者は彼らの裁量の下に置かれているお金に対しては厳然たる責任があることを常に意識しておく必要もあります。この関連で、信教の聖なる基金に対し、バハイがはっきりと示している態度を覚えておくと役に立ちます−献金は自由に喜びをもって献身的に行い、機構はその支出に際しては、慎重さと高度な節約の精神を遵守します。

 

 

V. 指針

 

社会行動とは、遥かに大規模な一大事業、すなわち、人類全体の物質的、精神的繁栄を確かなものとする文明の前進に照らして、実施するべきものであることを本文書で提案しました。この文明を鼓舞するのは信教の基本的な教えです。そのいくつかを文中で述べましたが、これらは社会行動の分野で表出する必要があります。そして、繁栄に必須な原則を共同体の社会的、物質的進歩に適用するには、広大な学びのプロセスがともなわれることは明らかです。

 

一般に、いずれの社会行動でも課題となるのが、数ある強い信念を確実に調和させることです。明示されているにせよ、含意されているにせよ、それら信念は、率先的行動、その行動が促進する価値観、参加者が採用する姿勢と方法、そして追及する目的を支えています。信念が実践と矛盾しないようにすることは小さな仕事ではありません。不和、孤立、分離、競争が蔓延らないよう、人類の一体性を深奥なレベルで認識することにより、取組み全てで予防する必要があります。人類の高貴さに対する揺るぎなき信念、低次の情熱を鎮める能力、天来の資質の立証により、偏見と父権主義から侵害されないよう、人々の尊厳を守らなければなりません。不変の信念を正義に置くことで、特権を握る少数の者達の気まぐれや願望によってではなく、本当のニーズと共同体の願望に従い、資源が割り当てられるよう、取組みを導かなければなりません。男女平等の原則により、女性達が開発の主役としての役割を引き受け、その成果から恩恵を受けるだけでなく、世界の人口の半分を構成していること自体が、開発に関わる考えにおいてより一層強調なされるよう、道を開かなければなりません。上記だけでも、開発慣行を導くのに、精神的原則がどんなに密接に関わるかがわかります。 

 

矛盾を回避できる場合、参加者達は取組みが進展する環境への意識を高める必要があります。他方では、様々な哲学、学説、共同体プログラム、そしてその環境内の社会の動きから自由に洞察を引き出すことも、進歩に影響を及ぼす最新の技術傾向を知っておくこともできます。しかし、信教の教えがこれやあれやのイデオロギー、一時的な思想、流行の実践理論に迎合しないよう、慎重さを失わずにいることが求められます。この関連では、広く普及した手法、発想、姿勢、方法の価値を、信教という秤に掛けて、測定する能力が非常に大切です。こうした能力を持つことで、例えば、率先的行動の陰に潜むことが極めて多く、力の掌握と通常関連している栄達志向を見破り、完全に物質的な世界観を貧しい人々に押し付ける傾向が開発への特定の取組みにあることを見極め、競争と貪欲さを正義と繁栄の名の下に推進を可能にする微妙なやり口を見抜き、最終的には、より広い社会で束の間の知名度を得ている様々な理論や運動が有意義な変化への近道をもたらすことができるという観念の放棄が可能となります。この関連で、万国正義院は以下のようにガイダンスを与えています。

 

「バハオラの啓示は広大です。個人レベルだけでなく、社会構造の中においても、深遠な変化を引き起こすことが求められています。「内外の両面に現れ、内なる生活と外的な環境の両方にも影響を与える変革を人類の性格全てで生じさせることが、全ての啓示の目的ではないのか?」と、バハオラ自身が宣言されておられます。バハオラの教えの中で奉じられている輝かしき文明の核心部を創り出すバハイの取組みは現在進行しています。その最新段階が、今日、地球上の隅々で前進している活動に現れているのです。文明の建設は、複雑さと規模において際限はなく、結実させるためには、数世紀に及ぶ努力を払うことが人類に要求されています。近道も公式もありません。バハオラの啓示から得た洞察と人類が蓄積しつつある知識とを活用し、バハオラの教えを人類の生活に知的に適用し、生起する問題について協議することだけが、必要な学びが生じ、能力開発される唯一の方法なのです。」