アブドル・バハの
エピソード集
Vignettes from the Life of ‘Abdu’l-Bahá
アンナマリー・ハノルド編著
バハイ出版局
目 次
まえがき………………………………………………
第一章 師の純粋な心 …………………………………
第二章 師の優しい心 ………………………………
第三章 師の輝く心 ……………………………………
エピローグ アブドル・バハの言葉と行い ………
第一章 師の純粋な心
「今日、最も急務であることは、性格の浄化と、道徳の再形成と、品行の是正です」
「純粋な心とは、完全なる自己の滅却です。無我になることが純粋になることです」
アブドル・バハ
無 我
一
ワンズワースの牢獄で、師、すなわちアブドル・バハは、訪問者の記名帳に
こう書かれました。「最大の牢獄は、自己の牢獄である」と。
二
師がようやく自由の身になられて、まわりの者がどれほどうれしく思っているかとアブドル・バハに申し上げた時、師はこう答えられました。「自由であるということは、場所の問題ではなく状態のことです。私はあの牢獄の中で幸せでした。なぜなら、そこでの日々は奉仕のうちに過ぎたからです。
私にとって牢獄は自由でした。
苦難は休息です。
死は生です。
軽蔑されることは光栄です。
ですから、牢獄に捕らわれていた間、私は幸せでした。
人は自我の牢獄より解放された時、本当に自由になります。自我は最大の牢獄だからです。
自我から解放されれば、人は二度と束縛されることはありません。
大きな苦難を、どんよりとした気分で諦めるのではなく、喜んで耐え忍ぼうという心で受け入れなければ、人はこのような自由を得ることはできません」
三
「悪魔とは何ですか」と、アブドル・バハが尋ねられたことがあります。師は短い言葉で答えられました。「自我に固執することです」
四
師の話には、「私」という言葉が使われることはあまりありませんでした。師はニューヨークの友人たちの集まりでこう言われました。将来、「私は」、「私に」、「私のもの」という言葉は、神を冒涜するものと見なされるであろうと。
五
一九〇八年のある日、二人の巡礼者が師と昼食を共にしました。師は彼らにアッカに来て良かったかどうか、そして幸せかどうかお尋ねになられました。師と共に過ごす時はとても幸せであるが、自分たちの欠点のことを考えると幸せとは思えないと、二人は答えました。師は言われました。
「自分自身のことは考えないようにしなさい。そして、神の恵みを考えなさい。そうすれば、いつもあなたは幸せでしょう」と、ほほえみながら、話はアラビアの諺にまで及びました。「孔雀は醜い足を見ないでいつも美しい羽ばかり見ているので、満足しているのです」
六
アブドル・バハは沈黙を恐れませんでした。むしろ、師は沈黙の徳を知っておられました。ハワード・コルビィ・アイブスは次のように回想しています。「質問者に対して、師はまず沈黙で答えられました。
それは、表向きは沈黙に見えました。師の励まし方は、いつも相手に話させて、それを彼が聞くという方法でした。聞き手が質問者に即座に答えようとして緊張して落ち着かないようなことをよく見かけますが、師の態度には、そういうところは全然ありませんでした」。アイブスはまた、もう一人のユニタリアン派の牧師が、バハイ信教に関する記事について、アブドル・バハにインタビューした時のおもしろい話をしました。(アイブス自身も、その当時、ユニタリアン派の牧師でした)
その人の質問は延々と続きましたが、師は短いあいづちを打ちながら根気よく、注意深く聞かれました。なごやかで興味深げでした。大いなる「理解ある愛」が、アブドル・バハからその牧師に注がれました。アイブスはいらいらしてきましたが、師は違っていました。お客の言い分は最後まで聞くべきだといった態度を示しました。ようやく話が止んで少し沈黙があったあと、アブドル・バハは、「わが息子よ」と呼びかけながら、英知と愛をもって彼に話しかけられました。五分もたたないうちにその牧師は謙虚になって、そのときは師の足元で話を聞く信奉者のように謙虚となりました。……
それから師は立ちあがり、牧師を優しく抱擁し戸口まで送られて、敷居の所で立ち止まられました。師の目は、アメリカンビューティーローズの花束に止まりました。師は声をたてて笑いながら、腕に全部のばらを抱えられ、それを牧師の腕に渡されました。沢山の美しい花の上にでた、白髪の、眼鏡をかけたその丸い顔を、私は決して忘れることはないでしょう。その顔は非常に驚き、大いに輝き、大変謙虚になって、完全に変容していました。
七
ある日、アブドル・バハはアッカからハイファに行こうとして駅馬車の席を求められました。御者が驚いて聞きました。「あなた様は個人馬車をお望みと思いますが」。「いいえ」と、師は答えられました。師がハイファに着いてまだ駅馬車におられた時、悲嘆にくれた漁婦が師の所へやって来ました。一日かかっても一匹の魚も獲れなかったのに、今、空腹の家族の元に帰らなければならないと言いました。師は、彼女に五フランをあげました。それから御者の方を向いて言われました。「なぜ私が個人馬車に乗らなかったか、おわかりになったでしょう。大勢の人たちが飢えているのに、なぜ、私がぜいたくな物に乗らなければいけませんか」
八
アブドル・バハはバハイ信教の布教の重要性を論じられる時、いつも力強く話をされました。アブドル・バハの遺訓にも次のように書かれています。「神より人に与えられたあらゆる贈り物のうちで最大のものは、布教という贈り物である」と。
「キリストの弟子たちは、自己と世俗の一切を忘れ、煩労や所有物を捨て、自我と欲望を一掃し、全てのものから離脱して布教のために至る所に分散し、世の人々を神の教えに導くために努力し、ついにこの世を別の世界へと変えた。……
行動する人々は彼らの足跡に従いなさい!」
謙 遜
九
いろいろなところに師の謙虚さがみられました。師は、「アブドル・バハ」つまり「神の僕」という名以外のどんな名称も称号も望まれませんでした。巡礼者が師の足元にひざまずくことも禁じられました。アッカに移られた頃は、仲間の囚人たちのために食事を作られ、後年には、食卓に訪問者を招待された時に、時々、御自ら、客に食事を出されました。他の人たちにも客をもてなす場合、自分自身で食事を出すようおすすめになりました。
十
アブドル・バハは、一九一二年五月一日、イリノイ州ウィルメット市に礼拝堂の礎石を置かれました。ミシガン湖を見おろす大草原の一角に仮のテントが張られ、いろいろな国の人たちがスコップで土を起こす儀式に参加するために集まっていました。皆は普通のシャベルを使いましたが、師の番が来ると金のシャベルが渡されました。師はそれを返して、代わりに他の人たちと同じシャベルを使われました。それから、礎石を置かれました。
十一
アブドル・バハの謙虚さは、虚弱さから生じたものではありませんでした。ある時、一人の子どもが師に、なぜ地球上の全ての川は大洋に注いでいるのかと尋ねたのに対して、師はこう答えられました。
「なぜなら、大洋は川より低いところに身を置いているから、川を引き寄せるのです」
十二
ハワード・アイブスは次のように書きました。「アブドル・バハにお会いしたり、話を聞いたり、語り合ったりする時、師の教え方にいつでも感動しましたし、その感動は常に深まりつつありました。
…… もちろん、師は決して口争いはなさいませんでした。考えを押し付けたりなさらず、人を自由にさせておかれました。権威をひけらかすこともなく、むしろ謙虚そのものでした。まるで王様に贈り物をするかのように教えられました。アブドル・バハは、私に「こうしなさい」というようなことを告げず、私がしていることは正しいことじゃないですか、と言われるだけでした。私にこう信じるべきだとも決して言われませんでした。師は真実と愛を、非常に美しいもの、気高いものとしてあらわされたので、人々の心もそれらを尊敬せざるを得ませんでした。師は良い土壌から、良い行為と良い言葉の実が必ずなることをご存じでしたので、私がどうすべきかは、師の声や、態度や、物腰、ほほえみで示されました」
簡 素
十三
師はほんの少ししか衣類をお持ちになられませんでした。一枚のコートで十分でした。
また食事もほんの少ししか召し上がりませんでした。お茶と山羊のミルクから作ったチーズと小麦のパンを召し上がられて一日を始められたそうです。夕食には一杯のミルクとひと切れのパンで十分であり、それが健康食と考えておられました。バハオラはソレイマニエにおられた時、ほとんどミルクだけで過ごされました。(時々、バハオラは米とミルクを一緒に料理して食べられました) アブドル・バハのわずかな食事には、ハーブとオリーブも入っていた場合もありましたが、肉はめったに入っていませんでした。
十四
アブドル・バハの家族は、金持ちの手本となり、貧しい人を励ますような装いをするように教育されました。使えるお金は節約によって家族のニーズだけでなく、他のたくさんのことに使われました。彼の娘の一人は結婚する時、花嫁衣装を着ませんでした。——— 清潔なドレスで十分でした。なぜ花嫁衣装を用意しなかったのかと尋ねられた時、師は率直に、簡単に答えられました。「娘は、暖かく装っているし、快適に過ごすための必要な物は全て足りています。しかし、貧しい人は持っていません。娘が必要としない物は貧しい人に与えます」
十五
アブドル・バハは話を有意義な会話に導くのがとても上手でした。まず身近な自然現象、天候、食物、石、木、水、牢獄、庭、鳥、訪問者、小さな奉仕のことなどを会話の中に例え話として取り入れつつ、英知と簡素を示しながら人々を教えました。それらの話には、全ての精神的真理の一体性が示され、それを個人と人類の実生活に適応させていました。師のすべての言葉は、人々の生き方を導くことに向けられています。純正哲学、教理、教訓などは質問されない限り、ほとんどお話しになりませんでした。簡潔に分かりやすく、はっきりと短い文章で話されます。それらは、珠玉の言葉です。
清 潔
十六
師は、清潔さを非常に重要なことと考えておられました。バハオラが弟子に教えられたように、師は言うまでもなく清潔さの真髄でした。フロレンス・カヌンはこう証言しました。雪のようなターバンや、真っ白いあごひげや、長い清潔な服がしみもなく輝いていたと。夏の真昼でしたけれども、早朝から牢獄の病人を見舞ったり、人々のために働いてきたことなど、まるでなかったかのように、彼の服はしわもなくきちんとしていました。時々、優雅でみずみずしいバラが師のベルトにはさまれていました。
忍 耐
十七
アッカに、一人のキリスト教の商人がいました。彼は、他の多くの市民と同じように、バハイを軽蔑していました。数人のバハイがアッカの市外で買うことを許されていた木炭の積荷を運んで帰ってきたのを、その商人が見つけた時のことでした。(バハイはアッカの市内では、そのような買物は禁止されていました) 彼はその燃料が良い品物であることを知って、自分が使うために取り上げました。彼にとってバハイはとるにたりないものだったので、品物を取り上げてもかまわなかったのでした。アブドル・バハはこの事件のことを聞いて、木炭を返してくれるように頼みに、商人の商売している所へ行きました。そこにはたくさんの人がいましたが、商売に夢中でアブドル・バハを無視していました。師はじっと座って待ちました。商人が振り向いて、アブドル・バハに「お前は、この町の囚人か」と聞くまでに三時間が過ぎていました。「そうです」と、アブドル・バハは答えました。「お前は、何の罪で捕えられたのか」と、商人はまた聞きました。「キリストが告発されたのと同じ罪です」。商人は驚きました。彼はキリスト教徒でしたが、今、目の前に、キリストの行為と自分の行為には類似点があると言っている男がいるのです。「キリストについての何を知っているっていうんだ」と、言い返しました。アブドル・バハは穏やかに話しかけました。商人の横柄さは、アブドル・バハの忍耐と対決させられました。アブドル・バハが帰ろうとして立ち上がると、商人も立ち上がって、憎むべき囚人である師に敬意を表わしながら、一緒に通りに出て行きました。その時から、彼は友人であり、またそれ以上に力強い支持者となりました。しかし、木炭に関して、彼はこれしか言えませんでした。「木炭はもうありません。——それをお返しすることはできませんが、代わりにそのお金をどうぞ」。
十八
フロレンス・カヌームは、アブドル・バハから聞いた二つの言葉について話しました。ある時、師は彼女に言いました。
“Sabr kun; mithl-i-Man básh”「耐えなさい、私と同じように」
もう一つは、誰かが、バハイの目指しているすべての特質や美徳を得ることは到底できないと、失意を表わした時のことでした。師は答えられました。
“Kam Kam. Rúz bih rúz” ———「少しずつ、少しずつ、一日、一日毎に」
十九
アブドル・バハはバハイの人たちの精神的な美徳が高められることを待ちこがれて、御自身の忍耐についてお話をなさいました。「友よ、もはや、あなた方と一緒にいられない時が来ます。私は力の及ぶ限り、バハオラの目標に奉仕しました。一生涯、昼も夜も働き続けました。私は愛される者たちが大業の責任を自分たちで負うようになる事をどれほど見たいと願っていることか。今や、バハの王国を宣言する時です。愛と和合の時です」
「私は信者が誠実さと正直さそのものであり、そして、愛と友愛の現れであり、和合と調和の生きた象徴であるという喜ばしい知らせを聞くことを待ち続けています。私の心を喜ばせてもらえませんか。私の熱望を満足させてもらえませんか。私の願いを実現してもらえませんか。私の心の願望を成就してもらえませんか。私の叫びに耳を貸してもらえませんか。私は待っています。辛抱強く待っています」
二十
スタンウッド・コーブは書きました。ある時、師は他人による腹立たしい行為に対する思いやりのある忍耐の必要性を語られました。「このように言う人もあるでしょう。『いいですよ。その人を我慢できるところまで我慢しましょう』。しかし、バハイの人たちは我慢できない人をも我慢しなければなりません!」スタンウッド・コーブは指摘しました。「師は、私たちにとてもできそうもない難しい仕事を与えているような気難しい顔つきをしておられませんでした。むしろ、師は、そのようにふるまうことは私たちにとって非常な喜びであることを示唆しておられるかのように、にっこりされました」
二十一
一九二一年、ジェイコブ・クンズ教授と妻アンナは、師と話し合いました。彼らは、宗教を否定している人たちをどう扱うべきか迷っていました。「あなたたちは、寛容で辛抱強くなければなりません。なぜなら、認識できるということは、恵まれているということだからです。それは能力に基づくものではありません。彼らは教育されなければなりません」
堅 忍
二十二
バハオラはアブドル・バハにどんな難しい仕事をさせても信頼することができました。バハオラは、アブドル・バハが決して、たじろがないことを知っていたからです。そのような難しい仕事のひとつは、当時、地中海に面した小さな町であったハイファにあるカルメル山に、バブの廟を建てることでした。いろいろあった障害の中に、嫌がらせをする聖約破壊者に影響された地主が容易に土地を譲ってくれようとしないということがありました。師は、何度も言われました。「私は限りない涙と非常な犠牲を払って、その建物のすべての石や、建物に通じる道のすべての石をそこに積みあげました」。ある目撃者によると、師は次のように言われたそうです。「ある夜、私は心配事で、もうどうにもならなくなって、手元にあったバブの祈りを、何度も何度も暗誦することしかできませんでした。その祈りを繰り返し暗誦すると非常に落ち着きました。次の朝、地主がやって来て、私に謝り、彼の土地を買ってくれるように頼みました」
清 廉
二十三
アッカでの師への初期の巡礼の一人であるロイ・ウィルヘルムは、アブドル・バハがバハイでない人たちからも尊敬されているのを見ました。「私たちの部屋は、泉のある庭に面していました。泉の近くにテントがあって、そこで、アブドル・バハは自分に会いに来るたくさんの人々とお会いになります。宗教が異なる人々の間の憎しみは非常に強いので、自分たちの宗教以外のことを良く言うことはめったにありませんでしたが、アブドル・バハは、みんなに知恵と正義の人であると見なされて、彼に自分たちの聖典の説明を求めたり、仕事上の争いの調停を持ち込んだり、家庭内の問題の解決まで頼みに来ます。もし誰かがアブドル・バハについて尋ねたら、アッバス・エフェンディ(アブドル・バハ)は差別をしないで、ユダヤ人もイスラム教徒も、キリスト教徒も平等に助けてくれると、まわりの人たちは答えるでしょう。師の対処の仕方が非常に公正だったので、公明正大なアッカの知事であったアウマド・ビグ・トフェクは、息子を勉強のためにアブドル・バハの元に送りました。そして、彼は公正で健全な政治をするために、アブドル・バハに意見を求めました。
誠 実
二十四
師はかつて、一人の巡礼者に次のお話をされました。師は面会の終わりに、ある商人を含んだ一行と一緒に旅行した時のことを話されました。
隊商がある村に立ち寄った時、たくさんの人々がアブドル・バハに会うために集まりました。さらに、彼らは旅を続け、別の町に立ち寄った時も同じ事が起こり、それは何度も繰り返されました。その商人は、師に注がれる明らかな愛と尊敬に気づきました。そこで、師を傍らに呼んで、自分もバハイになりたいと告げました。
師がなぜそう望むのかお尋ねになると、男は恥ずかしげもなく答えました。「あなたはバハイです。どこに行ってもたくさんの人々があなたに会うために集まって来ます。それなのに、私の所には誰も会いに来ません。なので、私はバハイになりたいのです」。師はさらに探って、それが本当の理由かどうかお聞きになりました。
商人はざっくばらんに答えました。「会いに来てくれる人がたくさんいれば、私の商売も助かると思うのです」
師は率直にいわれました。「バハイにならないでおきなさい。あなたは、今のままでいた方がいいです」
純 粋
二十五
全米黒人地位向上協会(NAACP)の第四回年次総会において、アブドル・バハは断言されました。「神聖な素質が吹き込まれ、神聖な道徳性と完全さを反映し、そして、理想と称賛に値する素質を示している人はすべて、正に神と類似するものである。…… 人格と心の純粋さは最も重要です。神の光によって照らされている心は、神にとって最も近く、最も親愛なるものです」
第二章 師の優しい心
「あなたの道において出会うすべての人に対して、あなたの心を愛情あふれる優しさで燃え立たせなさい」
アブドル・バハ
優 し さ
右にあげたパリ訪問の際の師の言葉は、囚人であった時も、自由になった時にも、師の生活に表われていました。バハイ信教の守護者であるショーギ・エフェンディは、師について次のように書きました。
「師の共感と慈愛に満ちた優しさは、それらの自然さ、誠実さ、暖かさにおいて、並ぶ者がありませんでした。友人にも見知らぬ人にも同じように、信者であろうとなかろうと、富める者にも貧しい者にも、身分が高かろうと低かろうと、親しい人にも偶然会った人にも、舟に乗っていようと通りを歩いていようと、公園であろうと広場であろうと、レセプションであろうと晩餐会であろうと、スラムであろうと大邸宅であろうと、信者の集まりであろうと学者の集会であろうと、師はすべてのバハイの徳を体現し、バハイの理想を表わしておられました」。……アメリカでの初期の師の称賛者の一人は言いました。「師は、他の人が口で言うだけのことを真実実行に移されました」
ある日、アブドル・バハは、人はどのように生きるべきか、と尋ねられました。師は答えられて、「すべての人に親切にしなさい」、「人は決して、他の人の考えをけなしてはいけません」。バハオラの書記をしていたミルザ・アガ・ジャンが精神を患った時のことを師がとても美しく説明されたように、この優しさは、精神的な病に苦しんでいる人たちにも示されなくてはなりません。病にかかったミルザ・アガ・ジャンが起こしたトラブルにも関わらず、師は、アッカの市長が提案した、イエメンへ彼を追放することを望まれませんでした。
師は、ジュリエット・トンプソンにこう言われました。「あなたが同席しているとき、誰であっても他の人に対して不親切な発言をさせてはなりません。もし誰かがそうしたなら、止めなさい。彼らに、それはバハオラの命令に背くことだと言いなさい。バハオラは『お互いを愛せ』と命じられた。あなた自身も、誰に対してであっても不親切な言葉を言ってはなりません。もし何か間違いを見たなら、沈黙を唯一の発言としなさい。……」
一
アブドル・バハがアメリカに滞在しておられた時、フレッド・モーテンセンという名の青年が、師に会うため、中西部のクリーブランド市から東部のメイン州まで、はるばるとやって来ました。何年か後に、彼はそのことについて書きました。彼は非常に荒んだ地区に育ちました。そして、けんか、盗み、暴力行為が日常茶飯事のギャングに加わっていました。ある時、彼は裁判を待っている間に監獄から脱走し、四年間逃亡者として生活していました。ある日、別の男を逮捕しようとした警官を妨害しようとしていた最中、突然、数人の刑事が彼を捕らえようとしていることに気づいて、逃げようとして三十五フィートの壁を飛びおり、脚を折りました。
このことがきっかけになって、アルバート・ホールと接するようになりました。アルバート・ホールはバハイで、彼の弁護士であり、彼の自由を得るために手助けしただけでなく、バハイの信仰についても彼に語りました。彼は初め、当惑しましたが、やがて引き付けられ、その結果、彼の全生活が変わりました。彼はこう書いています。「このようにして神の言葉は、私に新しい誕生をもたらしました。……」
一九一二年、アブドル・バハがアメリカに来られた時、フレッド・モーテンセンは師に会いに行く旅をするように聖霊が促していると感じました。印刷業者の大会に出席するためにクリーブランド市に来ていたのですが、だんだん落ちつかなくなってきて、何があってもアブドル・バハに会いに行こうと出発しました。彼は書いています。「クリーブランドを出発する前の晩、私は夢を見ました。私はアブドル・バハの客として、長いテーブルに座っていました。他の人たちもたくさんいて、アブドル・バハは身ぶり手ぶりで話しながら、その側を行ったり来たりしておられました。後に、この夢は実現したのですが、アブドル・バハは夢で見たとおりの様子をしておられました。
私の経済状態はひどかったので、必然的に浮浪者のような旅行をしてグリーン・エイカーに行くほかはありませんでした。ニューヨーク州のバッファロー市に行く交通機関としてニッケルプレイト鉄道の貨物列車を選びました。バッファロー市からボストン市までまた貨物列車に乗りました。真夜中から次の朝九時までかかる長い旅でした。
ボストン―メイン間の鉄道は、アブドル・バハと外の世界を結ぶ最後の架橋のように思えました。そして、ニューハンプシャー州のポーツマス市で客車の屋根からはいずり降りた時、口で表しようもない程の喜びを感じました。船に乗り、市電に乗り継いでから、私はついにパラダイスの門にたどり着きました。心臓は早鐘のように打ち、疲れ、汚れて、不安と期待を感じながら、しかし幸せな気持ちで、やがて有名になる運命にあった中心地の土に足を踏み入れました」。
彼は、他にも敬愛する師に会いにやって来た人々がたくさんいることを知りました。しかも、彼はかなり遅くにそこへ着いたのでした。次の日、「アブドル・バハは、モーテンセン氏に会うことを望んでおられます」と、告げられた時の彼の驚きは、大変なものでした。一人の医師と師の最初の面会が始まったばかりでした。全く思いがけない知らせで、心が萎えそうになりました。事実、なぜか最後に呼ばれるものと思い込んでいたのです。
モーテンセンは、次に起こったことを記しています。「師はにこにこしながら、暖かく手を握り、腰かけるように言いながら私の前に座り、歓迎してくれました。『ようこそ、ようこそ、本当に良く来てくれました』———それから『あなたは幸せですか』———これは、三度繰り返されました。いくつも質問されましたが、その中に、自分が最も避けたかった質問がありました。『快適な旅でしたか』
これこそ、最も逃れたかった質問でした。私は視線を床に落としました。また、同じ質問をされました。私は目をあげて、アブドル・バハの目を見ました。二つの黒く輝く宝石が私の心の奥底まで見つめているように思えました。私には師がすべてを見通していることがわかりましたので、どうしても語らなければなりませんでした。……
私は答えました。『私は、あなたに会いに来る人たちがとるような普通の方法では来ませんでした』
質問:『どういうふうに来たのですか』
答え:『列車の下にもぐったり、屋根に乗ってきました』
質問:『どういうふうなのか説明してください』
私がアブドル・バハの目を見ると、すばらしい光が注ぎ出てくるかのように変わっていました。それは、愛の光でした。私は安心して、大変幸せな気持ちになり、どういうふうに汽車に乗って来たかを説明しました。その後、師は私の両頬に接吻し、たくさんの果物を下さいました。そして、師に会うための旅で泥だらけになった、きたない私の帽子に接吻なさいました」
師がグリーン・エイカーを発つ準備をしておられる時、モーテンセンはお別れの言葉を言おうとしていました。師が、彼に師の車に乗って行くように求めた時、彼は大変驚きました。このようにして彼は、マサチューセッツ州のモールデン市で一週間、師と共にある光栄に浴したのでした。最後に彼はこう言っています。「これらの出来事は、私の心の襞に深く刻み込まれています。そして、私はそのどの場面も愛おしんでいます。バハオラの言葉は私の食物であり、飲物であり、私の命です。私は彼の示す道の奉仕者であり、彼の聖約に従うこと以上の目的を持ちません」
二
優しい師は、病気の人々に心から同情しました。苦痛や不快を軽くすることができるなら、そのために行動しました。ある老夫婦が病気で一ヶ月寝込んでいた時、師は二十回訪問されたそうです。アッカでは毎日、使いの者を送って、病人たちの状況を尋ねさせました。町には病院がなかったので、医者を雇って貧しい人たちの世話をされました。医者は、誰が治療費を提供したのか言わないように指示されていました。ある貧しい、不具の婦人がはしかに罹り、人が寄り付かなくなった時、それを聞くとただちに彼女の面倒を看るように女性を雇い、部屋をとり、師自身の気持ちの良いふとんを運び入れて、医者を呼び、食べ物や彼女が必要とする物はすべて送られました。師は、必要な気遣いが全部なされていることを自ら確かめに行かれました。そして、彼女が安らかに死んだ時、費用を全部支払って簡素な葬式を手配したのも、師その人でした。
三
サンフランシスコで、アブドル・バハは黒人の信者であるチャールズ・ティンズレイを訪ねられました。彼は脚を折って、長い間床についていなければなりませんでした。師は言われました。「悲しんではいけません。この苦難はあなたを精神的に強くするでしょう。悲しまないでください。元気を出しなさい。神に賛美あれ。あなたは私にとって大事な人です」
四
ニューヨークで、師は次の言葉を含む短い話をされました。「私たちは皆、病める人を訪ねるべきです。人が悲しみや苦しみにあるとき、友人が来れば、真の助け、恵みになります。幸せは、病気の人にとって偉大な医師です。東洋では、病人をたびたび訪ねたり、個別に会ったりする習慣があります。東洋人は病気の人や悩める人に非常に親切で、同情的です。これは治療そのものより効果的です。病める人や悩める人を訪ねる時は、この愛と優しさをいつも心にもたなければなりません」
後に、アブドル・バハは宣言されました。
「バハオラこそ、真の医師です。彼は人間の病状を診断し、必要な手当を指示されました。彼の治療の根本原理は、神を知り、神を愛すること、神以外の全てを絶ち、神の王国に心から顔を向け、絶対的な信仰、確信、忠誠心を持ち、すべての創造物をいつくしみ、人類に示された聖なる美徳を獲得することです。これらは、進歩、文明、国際平和、人類和合の根本原理です。これらは、バハオラの教えの根本であり、永遠に続く健康の秘訣であり、人類の治療法です」
許 し
五
アッカのシェイク・マームッドという人は、バハイを憎んでいたと伝えられています。同じアッカに住んでいた多くの人々が、次第に自分たちがいかに間違っていたか徐々に気づくようになり、高い評価と賞讃の気持ちで囚人たちのことを話すようになったにもかかわらず、シェイク・マームッドは頑なに憎み続けました。ある日、彼は人々が集まって、アブドル・バハのことをとても良い人であり、非凡な人だと話し合っているところに居合わせました。彼はいたたまれなくなって、「アッバス・エフェンディというやつの正体をあばいてやる」と、烈火の如く怒ってその場を去り、モスクヘ走っていきました。その時間にアブドル・バハがそこにいることを知っていたからです。そして、荒々しく、師を捕らえました。師は、彼にしか示すことのできないかの平静と威厳をもって、シェイクを見つめ、彼に預言者マホメットの「客に寛大なれ、例え異教徒なれど」という言葉を思い出させました。
シェイク・マームッドは目をそらせました。激怒は消えていました。憎しみさえも消えていました。心の中には、ひどく恥ずかしい気持ちと苦い良心の苛責だけが残っていました。
彼は家へ逃げ帰り、戸にかんぬきを差しました。
数日後、アブドル・バハの所へ直行し、ひざまずいて許しを乞いました。「あなたの扉以外のどの扉を私は求めることができるでしょうか。あなた以外の誰の御恵みを望むことができるでしょうか」。彼は献身的なバハイになりました。
六
一九一二年、シカゴのある会合で、あるグループに話しておられた時、師は言われました。
「完全に和合しなさい。決して、お互いに怒らないようにしなさい。あなたの目を創造物の世界にではなく、真実の王国に向けなさい。創造物を彼らの為にではなく、神の為に愛しなさい。もし、あなたが神の為に彼らを愛するならば、あなたは怒ったり、忍耐できないということは決してありません。人類は無欠ではありません。そして、一人一人に不完全さがあり、彼ら自身を見れば、必ず暗い気持ちになるでしょう。しかし、神の方を見ていれば、あなたは彼らを愛し、彼らに親切になれるでしょう。なぜなら、神の世界は完全性とまったくの慈悲の世界だからです。ですから、誰に対しても、その人の欠点を見ないで、寛容の目で人を見なさい」
繊 細
七
ロンドンでのある日、アブドル・バハが個別面談をする時間がきていました。いろいろな必要から、面会の予定は前もってきっちり守られるように決められていました。しかし、アブドル・バハは中庸と思いやりを説かれた方でした。一人の女性が、約束なしにやって来たのですが、アブドル・バハは他の「大事な方々」とお話になっておられるので、会うことはできませんと、告げられました。階段を降りながら、彼女は大変失望していました。突然、驚いたことに、使いの者がかけ降りて来て、アブドル・バハが彼女に会いたがっておられると告げました。威厳のある師の声が聞こえました。「人の心が傷つけられました。急いで、急いで、彼女を私の元に連れてきてください」
八
アブドル・バハがサンフランシスコにおられた時のこと、師の滞在先の女主人が、バークレーの市長との面会の手筈を整えました。大勢の著名人や、大学関係の人たちが歓迎会に集まる予定になっていました。
「出発予定時間が近づいたので、女主人は二階に上がっていって、アブドル・バハに時間が近づいたことを知らせました。師は笑って『もうすぐ、もうすぐ』とおっしゃりながら、彼女にさがるように手をお振りになりました。
出かける支度が全然できていないようなので、彼女は少し不満に思いながらさがりました。しばらくした後、もう一度上がっていきました。ドアの所で迎えに来てもらった自動車が警笛を鳴らしていて、あたかも市長を待たせているかのようだったのです。しかし、大事な客人は笑顔で『もうすぐ、もうすぐ』というだけでした。もう歓迎会にはどうしても間に合わないと思い、とうとう彼女の忍耐は尽きてしまいました。突然、ドアのベルが鳴りました。その直後、アブドル・バハの足は階段にかかっていました。ドアが開いた時には、師は女中さんの横にいて、敷居をまたいで、汚れて、乱れた恰好の男を引き入れられました。誰もその男の人のことを聞いたこともありませんでしたが、アブドル・バハは長い間行方の知れなかった友達であるかのように抱きしめられました。彼は新聞でアブドル・バハのことを読み、どうしてもお会いしたいと思ったのですが、車代を払えるほどのお金がなかったので、サンフランシスコまでの十五マイルを歩いて来たのでした。もし、アブドル・バハが時間通り出かけておられたら、二人は出会えなかったことでしょう。しかし、師は「彼の接近」を感じておられたのでした。そして、この客人がテーブルについて紅茶とサンドウィッチがふるまわれるまで、出かけられませんでした。その時、ようやく師は言われました。「さて、私は行かなくてはなりません。しかし、食べ終わったら、二階の私の部屋で私が帰るまで待っていてください。それから、たっぷり語り合いましょう」
九
バハオラは書かれました。「賢者とは聞く者を得ざれば語らぬ人々のことである。あたかも酌取りが、求むる人を見出すまでは盃を差し出さ(…)ないのと同じように」
マドモアゼル・レティシアについて、ほほえましい話があります。彼女はハイファの貧しい家庭の出身で、アッカの師の家に住みこんで、子どもたちにフランス語を教えていました。彼女はカトリックの信徒で、尼僧院の修道女たちに見守られていましたが、師の家で幸せに暮らしていました。ある日、フランス人の巡礼者が訪ねて来て、フランス語のわかる人が他にいなかったため、彼女が通訳する必要が生じました。レティシアは困惑して修道女に告白しました。その日から、彼女は何日間か、とても険しい顔をしていました。アブドル・バハはこのことに気づき、彼女を呼んで安心させました。「レティシア、善良な修道女たちに、何も恐れることはないと伝えなさい。あなたに私の通訳を頼んだのは、他にフランス語を話せる人がいなかったからなのであって、私があなたに布教したいと思ったからではありません。ここには、愛を込めて、心の底から教えを乞うバハイが大勢来ます。そういう人たちにだけ、私たちの貴重な教えを与えています」
「あなたに与える前に、あなたは何度も何度も、求めなければならないでしょう。それでも、私は教えないかも知れません。望まれてもいないのに与えられるような安っぽいものではないのです」
「もしいたければ、この家にいてください。ここにいて幸せでないのなら、出ていってもよいのです。あなたにここにいたいという気持ちがあれば、私たちは喜んであなたにここで過ごしてもらいますが、あなたをバハイにさせようとしているというような恐れを抱く必要は少しもありません」
激 励
十
パリでのある時、インドから来た一人の男性がアブドル・バハに率直に言いました。「私の人生の目的は、私の力の及ぶ限り、クリシュナのメッセージを世界に伝えることです」
アブドル・バハは、彼らしい穏やかさで答えられました。
「クリシュナのメッセージは、愛のメッセージです。すべての神の預言者たちは、愛のメッセージをもたらしました。戦争と憎悪が良いと考えた預言者はいません。愛と親切が一番良いものであるということに全ての預言者が同意します」もし否定的に答えれば、彼を傷つけたことでしょう。師は論争を避けました。かわりに深い理解を示し、この熱心なクリシュナの信徒を激励しました。
十一
アブドル・バハがロンドンにおられた時、一人の作業員が道具袋をある集会所に置き忘れました。それで偶然、彼は、にこやかにほほえんでおられる師に出会いました。そして、悲しげに自分の苦境を話しました。「私は宗教的な事についてあまり知りません。私には仕事をする時間しかないのです」
彼を安心させる言葉が返って来ました。
「それは良いことです。たいへん良いことです。奉仕の心で成された一日の仕事は、本質的に礼拝の行為です。そのような仕事は神への祈りです」
十二
師が蒸気船セルティックに乗っておられた時、一人の悩める婦人が師の所へ来ました。彼女は死を恐れていました。師は言われました。「それならば、死なない術をとるべきです。かえって、日一日と、より生き生きとしてくるようになり、永遠の命を得られることをすればいいのです。聖なるキリストの言葉によれば、神の王国に入ったものは、決して死ぬことはないと言われています。ですから、神聖な王国に入って、もう死を恐れないでください」
彼らは大西洋のことを話しました。その時、大西洋はたまたま静かでした。師は忠告されました。
「人は神の舟に乗らなくてはなりません。この世は嵐の海です。地上の大部分の人、即ち二十億以上の魂は、百年たつ前にその中でおぼれてしまうでしょう。神の舟に乗らなかったすべての人たちです。神の舟に乗った人たちだけが救われるでしょう」
十三
それぞれ全く異なった能力をもった者らには、各自にあった方法でこの偉大な教えを広める資質がある、と師は明確に示されました。スイスからアメリカにやってきたジョン・ボッシュは、自分は演説者には向いていないと思ったので、パンフレットや本を配ってまわりました。師は彼を激励されました。「あなたは、非常によくやっています。話すこと以上のよいことをしています。あなたの場合、言葉や唇の動きではなくて、心が話しています。あなたのいるところでは、沈黙が語り、光を放ちます」
十四
バヒーアとして知られるようになった、マーガレット・ランドールがわずか十三歳であった一九一九年に、両親や他の人たちと一緒に、ハイファのアブドル・バハに会いに出かけました。バヒーアは自分の体験を述べています。
「ある晩、私たちはアブドル・バハと共に食卓についていました。師はいつも、私をご自分の左に座らせました。師は、笑いかけながらおっしゃいました。『あなたの名前はバヒーア、バヒーアとは光という意昧です。しかし、あなたの中にその意味にふさわしい何かを持っていなければ、光りません』。まさにその時、私に下さった課題を悟りました。また別の折、アブドル・バハとの面会が許されると知らされ、私の番になって、母も一緒に行きました。私は師にたずねました。『この信仰に奉仕するために何ができるでしょうか』。師は部屋を行ったり来たりして、『勉強、勉強、勉強』と言われました。そのように、三回繰り返して言われることがよくありました。それが私に対するメッセージでした。いつでも師は、個人の人生に最大限の進歩をもたらすものを知っておられました。求められれば、その人をそこへお導きになられました」
温 和
十五
メイ・ボルス(結婚後はマックスウェル)は、一八九八年十二月から一八九九年の初めまで監獄都市アッカに迎えられた幸運な十五人の巡礼者の一人でした。彼女はその時の経験を、神聖な愛の物語である『初期の巡礼』という本に記しました。
聖地では、バラやオレンジの花の香りのする空気が漂い、アブドル・バハの愛、英知、優しさが、彼女の心の底にしみ渡るのを感じました。アッカでは、聖なる家族は、巡礼者たちが居心地良く過ごせるように、ご自分たちの部屋を明け渡されておられました。毎日、朝早いうちに、師は皆の幸福と健康についてたずねられ、夜になると「美しい夢」と安らかな休息を願われました。そこでの貴重な三日三晩の間、皆は神について話すこと以外、何一つ聞きませんでした。彼女は他のどこでもそのような幸福を味わったこともなければ、あれほど多くの笑い声に満たされたこともありませんでした。師は、涙を望まれませんでした。ある時、泣き出した巡礼者たちに師は、師のためにそれ以上泣かないように願われました。皆が完全に落ち着くようになった時にだけ、師は教えを話されました。
彼女はこう書いています。「アブドル・バハと共にあることは、命そのものであり、喜びであり、祝福であることを学びました。師の存在は、清めの火であることも知りました。聖地への巡礼は、魂が試される、るつぼ以外の何物でもありません。そこでは金は純粋にされ、くずは焼き尽されます。愛以外のどんなものも、私たちの言葉や行動を再び活気づけることはできないように思えました。それなのに、まさにその日の午後、私が他の二人の信者と一緒に私の部屋にいた時、一人の同志の欠点を見つけて彼のことをけなしてしまい、自分の心の悪い部分を、言葉で吐き出してしまいました。私たちがまだ一緒に座っている間に、貧しい人や病人を見舞ってこられた師が帰られ、すぐに、私たちと一緒にいた私の精神的母であるルアをお呼びになりました。そして、師の留守中、僕らの一人が他の僕のことを悪く言ったこと、また信者たちがお互いに愛を示さないこと、彼らが誰に対してであれ、悪口を言うことは師の心をとても痛めるということを、ルアに話されました。それから師は、彼女にそのことを話さないで、お祈りするよう仰せつけになりました。しばらくして、私たちは皆、夕食をとりに行きましたが、私の頑なな心は、ずっと誤りに気づかずにいました。しかし、目で愛する師のお顔を追っていると、師の眼差しと出会いました。それは、優しさと憐れみに満ちていたので、私は心を奪われてしまいました。何か不思議な方法で、師の目が私に語りかけました。その純粋で完璧な鏡に私は自分のあさましい姿を見出して泣き伏しました。師はしばらくの間、私に注意を向けず、他の人たちも、私が師のご面前で幾ばくかの罪を涙で洗い流してしまうまで、親切にも夕食を続けてくれました。また、しばらくして、師は振り向いて私にほほえみかけ、私を呼び寄せているかのように、何度も私の名前を言われました。その瞬間、優しい幸福感が私の魂にしみ渡り、私の心は、無限の希望に安らぎ、師が私の全ての罪を清めてくださるのだということを知りました。
十六
ある日、アブドル・バハと通訳と、当時ユニタリアン派の牧師であったハワード・コルビィ・アイブスが応接間にいました。後に、コルビィ・アイブスは書いています。
「アブドル・バハがキリスト教の教義について話しておられました。師によるキリストの言葉の解釈が従来のものとあまりに違っていたので、私は抗議の発言をしないではいられませんでした。私はいくらか興奮して話していたことを覚えています。『どうして、そのように断言できるのですか』と聞きました。『何世紀もの誤解と闘争のあとに、キリストの考えを、誰も確信を持って言うことなどできないでしょう』と。
師は、それは極めて可能なことだとおっしゃいました。
師の穏やかさと権威ある態度が私を納得させる代わりに短気にさせてしまったことは、私の精神的な迷いと師の地位に対する無知の証です。私は『そんなことは信じられない』と声を上げました。その時、通訳が私に投げかけた、怒りに満ちた、いかめしい眼差しを忘れることはできません。それは、あたかもこう言っているようでした。
『アブドル・バハを否定することはおろか、疑問を投げかけたりするなんて、自分を何様だと思っているのか』
しかし、アブドル・バハは、そんなふうには私を見ておられませんでした。そのことを私はどれほど神に感謝していることでしょう! 師は再び口を開くまで、長いこと私を見つめておられました。師の穏やかな美しい目は愛と理解をもって私の魂を探られたので、私の一時的な怒りは消えてしまいました。師は愛する者が愛される者を引き付けるかのようにほほえまれました。師が優しく、あなたは、あなたの方法でやってごらんなさい、私は、私の方法でやってみましょう、とおっしゃられた時、私には、師の心の腕が私をかき抱いているかのように思われました」
共感と理解
十七
アッカでは、師の部屋にベッドさえないことがたびたびありました。というのは、ご自分よりものを必要としている人々に次々と与えていらっしゃったからなのです。毛布にくるまっただけで、床や、自宅の屋根の上にでさえ、横になられたのでした。アッカの町でベッドを買うことはできませんでした。注文したベッドがハイファから届くのに少なくとも三十六時間もかかったのでした。師が朝の見回りをされて、熱のある人が地面をのたうちまわっているのを見たりされたら、必ず、ご自分のベッドを送り届けられました。誰かが、たまたま師のベッドがないことに気付いて届けてくれると、師は親切な友達のお陰で、新しいベッドを受け取られたのでした。
十八
この世での最後の数時間、アブドル・バハは高熱でベッドに横たわっておられました。寝巻きを取り替える必要ができても、一枚も見当たりませんでした。師は全部、他の人たちにあげてしまわれたのでした。
寛 大
十九
アブドル・バハの寛大な心は、既に子どもの頃に表われていました。若いアッバス・エフェンディが、自分の父が当時所有していた何千という羊を見に、山へ行った時の話が残っています。若い客人に敬意を表して、羊飼いたちは師にごちそうしました。一日の終わる頃、アッバスが家に送り届けられる前に、羊飼いの長が師に、羊飼いたちに贈り物をおいていくのが習慣だと告げました。アッバスは何もあげるものがないと言いました。それでも、長は何か贈るべきだと言い張りました。そこで、師は羊を全部彼らにあげてしまいました。
バハオラはこの出来事を聞かれて、笑っておっしゃったそうです。「私たちは、彼を彼自身から守ってやらなければならない。いつか自分も差し出してしまうだろうから」
二十
アブドル・バハは、ご自身のために使われるようにと送られる多額のお金は、お受け取りになられませんでしたが、一枚のハンカチのような小さな、真心を示すものは受け取られました。ロンドンで一人の婦人が師に言いました。「私は友達からの小切手を預かっています。その人は、あなたが英国やヨーロッパで仕事をされる時に使う、良い車を買われるために受け取ってくださることを切望しています」これに対して、アブドル・バハは答えられました。「私はあなたの友達からの贈り物を喜んで頂きます」。師はあたかも祝福を与えるかのように、両手で小切手を受け取り、こう言われました。
「これを、貧しい人のために使ってくださるよう、お返しします」。
またある時、一人のアメリカの婦人が、師ご自身のためか、または、大業のために使われるようにお金を寄付したいと希望しました。師は、ご自身は受け取れないが、何かして下さるお気持ちがおありなら、ハイファにいるキリスト教の学校長の二人の娘の教育をしてほしいと答えられました。その人は最近、妻を亡くし、とても貧しく、困っていたのでした。彼女は師のお言葉通り、その二人の娘をベイルートの学校に通わせました。
アメリカのバハイの人たちは、予定されている師のアメリカ旅行の為に一万八千ドルを寄付したいと思いました。その献金が徐々に師の元に届き始めた時、師はそのお金を慈善のために寄付するように願って返されました。
二十一
アブドル・バハが初めてイギリスに着かれた時、ロンドンからさほど遠くない村の友人の所に迎えられていました。この豊かな国で、周囲がおおい隠せないほどの貧困に満ちていることが、師を非常に苦しめました。師はいつも、白いターバンと長いペルシャのコートをまとって、町を歩かれました。人々の目はこの珍しい訪問者に集中しました。
皆には、師が「東洋からの聖者」であると伝えられていました。自然と子どもたちは師に引き付けられ、ついて回ったり、コートを引っぱったり、手を引いたりしました。すると、師はすぐに子どもを腕にかかえて抱きしめました。これはもちろん、彼らを喜ばせましたし、アブドル・バハを恐がる子どもはまずいませんでした。しかし、彼らをもっと喜ばせ、驚かせたことに、下に降ろされた時、一シリングか六ペンスが小さな手の中に入っているのでした。それは、『聖者』の長いコートの大きなポケットから取り出されたものでした。そんな銀貨をもらったことはめったになかったので、子どもたちは大喜びで家に飛んで帰り、光った6ペンスを数え切れないほど持っている気前のいい東洋から来た訪問者の話をしました。
子どもたちは師の後に群がり、あまりにたくさんの六ペンスが配られたのでアブドル・バハをもてなしている友人が警戒して、このことをもう一人の客人だったロバーツ夫人に相談しました。
「これは残念なことです」二人は憤然として言いました。「師はここへおいでになっても何も受け取られませんでした。それなのに四六時中、私たちの同胞に施しをされている。これが続くことがあってはなりません」。
その日、アブドル・バハはたくさんの六ペンスを授けられました。隣村の人々も『聖者』の祝福と、もちろん六ペンスをもらいに子どもたちをつれて来ました。夜の九時頃になって、婦人たちはその夜はもう誰もアブドル・バハに会わせないことに決めました。しかし、彼女たちが家の外で待っていると、一人の男が道をのぼってきました。彼は赤ん坊を抱き、まわりには小さな子どもたちがすがりついていました。彼は『聖者』に会わせてくれるように頼みましたが、「師はとてもお疲れになり、もうおやすみになったので会えない」と、婦人たちから激しい口調で言われました。「私は彼に会うためにはるばる六マイルも歩いてきました。私はとても悲しい!」と、ため息をつきながら、彼は言いました。
宗教的情熱というよりは、六ペンスほしさにその男は旅をしてきたのだと思って、女主人は邪険に応対しました。男はもっと深いため息をついて立ち去ろうとしました。すると突然、アブドル・バハが家の角から姿を現されました。師が、その男と赤ん坊たちを抱きしめた様子があまりにもすばらしかったので、気を回しすぎていた友人たちの心も和らぎました。その招かれざる客が心安らぎ、喜びに満たされ、手にたくさんの六ペンスをあふれさせて師のもとを去った時、二人の友人は顔を見合わせて言いました。「私達は何というあやまちを犯したのでしょう。もう決して、アブドル・バハのなさることを管理しようとしたりしません」
二十二
アブドル・バハは質素な服で十分満足しておられました。ある時、師はアッカの知事をもてなすことになりました。アブドル・バハの奥様、師が身にまとっていたコートはその場にあまりふさわしくないと思いました。そこで、十分前もって、仕立屋に行って立派なコートを注文しました。師はご自分のことは気にかけないので、古いコートが無くなっていてもきっと気がつかれないだろうと思っていました。とにかく、師は清潔であれば満足でした。
新しい服は、ほど良い頃合いに出されました。しかし、師は自分のコートを探し始められました。そこに置いてあるのは自分のではないとおっしゃりながら、古いコートのことをお尋ねになりました。奥様新しいコートのことを説明しようとしましたが、師はお聞き入れになりませんでした。そして、その訳を言われました。「考えてもごらん。このコートを買うために支払った金額で、私がいつも着ているものを五着、買えます。私が、自分だけ着るコートにそんなにたくさんのお金を使うと思っているのですか。新しいコートが必要と思ってくれるのはよいですが、それなら、これを仕立屋に戻して、その値段で私がいつも着ているようなものを五着、作らせてください。そうすれば、私が新しいのを一着手にするだけでなく、他の人にあげる四着も手に入ります」。
慈 善
二十三
アブドル・バハが、西洋の貧しい人たちと数々の出会いをされた中でも特に、ロンドンの救世軍本部と、ニューヨークのバーウェリイ・ミッションへの
訪問は感動的でした。
一九一二年のクリスマスの夜、アブドル・バハはロンドンの救世軍救護所を訪問されました。そこでは、家のない千人ほどの男たちが、クリスマスの特別の夕食を食べていました。師は彼らが食事をしている間に、キリストが貧しかったことや、天の王国に入るのには、金持ちより貧しい人の方が容易であると話されました。男たちは、心を奪われたように聞いていました。何人かは非常に感銘を受けて、空腹であり、しかも特別な夕食を前にしながら食べるのも忘れて聞き入りました。アブドル・バハが新年の夜にも同じような夕食ができるようにお金を救護所の管理者に預けて帰ろうとされた時、彼らはナイフとフォークを振り回して師に歓呼して立ち上がりました。彼らは自分たちよりずっと厳しい試練、辛苦、困難を、師が経験してきたことは思いもよりませんでした。
バーウェリイ・ミッションヘ行く前に、アブドル・バハは、千フラン紙幣を二十五セント玉に替えてくれるように友達に頼みました。一九一二年四月、そのミッションで、数百人の男たちに、非常に優しい口調で話されました。「あなた方は貧乏であることを神に感謝しなければなりません。聖なるキリストは、『幸いなるかな、貧しき者』と言われました。彼は、『幸いなるかな、金持ち』とは決して言われませんでした。キリストはさらに、王国は貧しい人のものであり、金持ちが神の王国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しいのである、とも言いました」。その次に、師は言われました。「イエス・キリストが現われた時、最初に受け入れたのは貧しい人たちであり、金持ちではありませんでした」。さらに次のように。
「金持ちはたいてい怠慢で、注意深くなく、俗念に捕われ、自分の財産に依存しているのに、貧しい人々は、神に依存し、自分にではなく神に信頼を置いています。ですから、貧しい人は神の王国の入口や神の座のより近い所にいるのです」。
師は彼らしい謙虚さで、その男たちがご自分を彼らの奉仕者として受け入れてくれるように願われながら、話を終えられました。その後、師はミッション・ホールの入口に立たれました。一人一人の手をとられて、一夜の宿代となる数枚の硬貨を渡されました。その中で、少なくとも一人は「このお方は天国から来たような人だ。このお金はただのお金ではない。きっと私に幸運をもたらしてくれるだろう」と言って、そのお金を使わずにとっておくことにしました。
それでもまだ、八十枚の二十五セント硬貨が残りました。
師がアパートに着いた時、以前、幸運にも師からバラを受けとったことのある女中さんに出会いました。師は、彼女のエプロンに残っていたお金を入れ、すばやく立ち去りました。師がミッションで贈り物をされたことを知った時、彼女は、自分もそのお金を誰かにあげようと誓いました。
ジュリエット・トンプソンは回想しています。「そのあと、私たちは師を取り囲んで座って話しておりました。慈善の是非についての質問に、師は笑いながら答えておられました。『自信を持って貧しい人に与えなさい。もし、言葉だけを与えるなら、彼らがポケットに手を入れた時、あなたが少しも豊かにしてくれなかったと思うでしょう』。その時、ドアを軽くノックする音がして、敷居にあの女中さんが立っていました。目を涙できらきらさせ、畏敬のような気持ちに捕らわれながら、他の人には目もくれず、師の所へまっすぐ進んでいきました。
『お別れを言いに来ました』。女中さんは恥ずかしそうに、とぎれとぎれに言いました。『あなた様のご親切にお礼を言いたいのです。私はそのようなご親切を受けるとは思ってもいませんでした。それから、私のために祈ってくださるようにお願いします』。彼女の頭が下げられ、声はとぎれ……、くるっと向きを変えると足早に立ち去りました」。
二十四
一九〇七年、コリン・トルーは師と共にアッカにいました。彼女もアブドル・バハの愛に深く感銘を受けた大勢の中の一人でした。その愛は、師が毎週金曜日の朝になさる慈善活動にとても明瞭に表れていました。
彼女の部屋の窓からは、二、三百人の男や女、子どもが集まっているのが見えました。そのような雑多な人の集まりは、他のどこにもありませんでした。そこには、目の悪い人、足の悪い人、非常に身体の弱い人といった、地上で最も貧しいと言えそうな恰好をした人々の集合でした。一人の男の服はつぎはぎだらけの掛け布団から作られていたし、ある老女はズックの袋をマントの替わりに着ていました。子供たちの服はあまりにぼろなので、ほとんど着ていないも同然でした。
二、三人の男性の信者が師と共に回っていました。人々は庭の両側に並ぶように言われました。師は門の近くから始められ、一人一人の手に幾らかのお金を渡され、もらった人は帰って行きました。師が人々を勇気づけるためにお誉めの言葉や、優しい言葉をかけられながら、一人ずつ接していかれる様子は、決して忘れることのできない光景でした。ある者には師は立ちどまって身体の具合を尋ねられ、また、これらの貧しく、うす汚れた者たちの背中を軽くたたかれ、たまに、何もお与えにならず、その怠慢を諫めて帰らせる者もいました。師が順々に施しをなさり、誉めたたえながら進んで行かれる時、その声は何と澄みきって音楽のように響いたことでしょう。師に付き添っている人たちは非常に親切でありながらも毅然とした態度で、秩序を保ち、師から施しを受け取った人たちが速やかに立ち去るよう取り計らっていました。アッカの師の庭で金曜日毎に繰り広げられるこのような光景を他のどこで見ることができるでしょうか。師ご自身、トルコ政府の囚人であり、九歳の時から牢獄に入れられるかあるいは、追放されていたのです。
その後、休憩中に、師はご自分の友についてトルー夫人に語りました。「これらの人たちは友達です。皆、私の友達です。何人かは私の敵です。でも、彼らは親しそうにやって来るため、敵である事を私が知らないと思っています。彼らには私はとても親切にしています。なぜなら人は敵を愛し、良いことをしてあげなくてはなりません」。
アッカには、単に充分な仕事の口が無いだけのことなのです、と師は説明されました。そこには二種類の仕事しかありませんでした。漁をすることができたのですが、その頃ずっと海は荒れていました。また、背で荷物を運ぶこともできましたが、それにはとても力が必要でした。師はだまそうとした人たちを叱られ、どこに行けば仕事があるか教えられました。
犠 牲
二十五
アブドル・バハは、与えることの本質を知り尽くしていました。ご自分がもう欲しくない、あるいは必要としない物だけをあげたわけではありませんでした。ある時、モントリオールで、集まりに出るため、マックスウェル家に戻る支度をされていると、友人が馬車を呼んでも良いでしょうかと聞きました。アブドル・バハは市電を選ばれ、言われました。「これで充分です。お金が節約できます。料金に一ドルの差がでます」。そして、マックスウェル家に着くと召使いたちに一ポンドずつお与えになりました。フィービー・ハースト夫人の屋敷で二晩過ごされたあとで、召使いたちに集まってもらい、お礼を言われました。———彼らは十ドルずつ戴きました。
二十六
ある女性が米国のダブリン市で感動的な場面を目にしました。彼女は師と同じ宿に泊まっていました。アブドル・バハは、秘書と一緒に外におられました。一人の貧しい老人が宿の前を通り過ぎて行ったので、師は秘書に彼を呼び戻すように言われました。男はぼろをまとっていただけでなく、ひどく汚れていました。しかし、師は彼の手を取り、優しくほほえみかけられました。ほんのしばらく話す間に、師はすべてを見てとられました。男のズボンはほとんど用をなしていませんでした。
師は穏やかにほほえまれ、物陰に入って行かれました。通りは全く閑散としていました。師が腰のあたりの衣服を探られるとズボンがすっとすべり落ちました。彼は身体にコートを引き寄せ、「神があなたと共におられますように」と言われながら、そのズボンを貧しい男に手渡されました。
雅 量
二十七
アブドル・バハの雅量は、友人はもちろん、師に敵意を抱く者でさえ感じることができました。誰に対しても悪意を抱かない方でした。
悪に対して善を以って報いることによって、師は出会うすべての人の暮らしに心地よさをもたらされました。その故、次のような忠言を、師をおいて他の誰が与えられましょうか。
「たとえどんなに激しいものであっても、人々の悪意、攻撃、憎悪に決してくじけてはなりません。
もし、他人があなたに矢を投げつけてきたら、ミルクと蜂蜜を返しなさい。
あなたの人生を毒すなら、彼らの魂を癒しなさい。あなたを傷つけたら、慰められる方法を教えなさい。あなたを痛めつけたら、彼らの痛みを和らげるものになりなさい。あなたに苦痛を与えたら、元気づけるものを飲ませなさい」
「あなたになぐりかかる者の友達になるように努めなさい。あなたの心を傷つけた者の痛みをなおす軟膏になりなさい。あなたを嘲ったり、からかったりする者に愛情を返しなさい。あなたの非難をくり返して言う者を賞賛しなさい。あなたに致命的な毒を飲まそうとする者に、お返しに選り抜きの蜂蜜をあげなさい。
……とげのような人間にとって、バラや甘いハーブでありなさい」
二十八
「アブドル・バハをアッカから追放しようとして断念した調査委員会の一人が、後にエジプトへかろうじて逃れましたが」*、持ち物を召使いに奪われてしまいました。カイロにいるバハイの人たちは、彼の要求に従って経済的援助をしました。つづいて彼は、アブドル・バハの助けも求めてきました。師は「直ちに信者たちに、師に代わって彼にお金を贈るよう指示されました。しかし、その指示は、その委員の突然の失踪のために果たされませんでした」。
*注 一九〇七年の冬、帝都コンスタンティノープルからアッカに派遣された調査委員会は、アブドル・バハの取り調べを行い、北アフリカへの追放を言い渡す予定でした。その直前、皇帝暗殺未遂事件が起こり、調査団は急に帝都に呼び戻され、その計画は実行されずに終わりました。その数ヶ月後、オスマン帝国で革命が起きました。
二十九
アッカのある不親切な知事について、これと似た話があります。彼は正直で、平和を愛するバハイの商人たちの店を閉めさせて、生活を破綻させようとしました。しかし、この計画が露見した時、アブドル・バハはバハイの人たちに店を開けないように頼まれました。計画の失敗に挫折を感じていた知事はその時、知事としての職を解かれ、警察によってダマスカスヘ連行されるという知らせを受け取りました。
恐れおののきながら、彼はこの予想もしなかった旅の仕度をするために家に帰りました。師はこの話を聞かれ、手助けをするために彼を訪ねられました。元知事は家族のことを心配し、一緒にダマスカスに行くことを望んでいました。アブドル・バハは、家族は彼の元に送り届けられることを約束されました。師は元知事の家族に、信頼のおける護衛、ラバ、快適な旅に必要なすべての物を与えられました。ダマスカスに着くと、護衛はお金や贈り物など元知事から一切受け取らず、ただ、師の申しつけに従うことだけを望みました。しかし、アブドル・バハに手紙を書きたかったら、それを師に持って帰ることはできると言われ、元知事は、すぐに手紙を書きました。「おおアブドル・バハよ、どうぞ、私をお許しください。私はあなた様をわかっていませんでした。あなた様をよく知りませんでした。あなた様に大変悪いことをしてしまいました。それなのに、私に大きな善をもって報いてくださいました」
三十
もう一人のアッカの知事も職を解任され、新しい任務のため、ベイルートヘ異動になりました。彼はとても不親切で、バハイの人たちが師を訪問することも許しませんでした。しかし、特に広い心をおもちのアブドル・バハは、彼がベイルートでの職を失ったことをお聞きになり、使いの者に幸運を祈る言葉と大変高価な指輪を届けさせました。まだ囚人であったアブドル・バハは、彼を援助するためにできるだけのことをすると申し出られました。
熟 慮
三十一
一九一二年、アブドル・バハがシカゴにおられた時、ミシガン湖の近くの小さな森の木陰で、師は親しみと愛を込めた忠言を友人たちに与えました。「もう気がつかれた方もあるようですが、私はあなた方の個々の欠点には注目してきませんでした。あなた方にお願いしたいのですが、皆さんも同じようにお互いを思いやってください。そうすれば、仲間同志の調和に大きな助けとなるでしょう」
思 い や り
三十二
ある時、師は友人たちに次の忠告を、念を押して伝えました。「私たちは聖なる法律を実行しなければなりません。祝福された美 (バハオラ)は言われています。『もしあなたが他の人の知らない、知恵や真理を持っているなら、それを、深い思いやりをもって与えなさい。もし受け入れられれば、目的は果たされます。受け入れられなかったからといって口出しをしてはいけません。その人をそっとしておきなさい。そして、あなたは全能者、ご自力にて存在し給う御方である神に向かって進みなさい』」
三十三
ロンドンでのある日、数人の人たちがアブドル・バハと話し合っていると、玄関に男の声がしました。それは、田舎の牧師の息子でしたが、その時はまるで浮浪者のようでした。テムズ川の土手が住居だったのです。彼はアブドル・バハに会いたくて三十マイルも歩いて来たのでした。彼は食堂に通され、食べ物をもらいました。しばらく休んでから言いました。「昨晩、私は神や人間にとって無益で、いまわしく、何の役にも立たない生活を終わりにしようと決心したのです。最後の放浪のつもりで歩いていると、新聞店の窓にある『顔』を見ました。根が生えたように、その場でその顔をじっと見つめました。その顔は私に話しかけ、招いているように見えました。…… 私はそのお方がここに、この家におられるという事を読みました。私は自分に言い聞かせたのです。『もし、そのお方がこの世におられるならば、もう一度、人生をやりなおそう』……
彼がここにおられるか教えて下さい。私のような者でも会ってくださるでしょうか」。女主人は答えました。「もちろん、師はあなたに会われるでしょう… 」
ちょうどその時、アブドル・バハご自身がドアを開けられ、あたかも待ちかねた親しい友を迎えるように手を広げられました。「ようこそ、本当に良く来てくれました。あなたが来てくれたので本当にうれしいです。どうぞお座りください」。そのみすぼらしい男は、ふるえながら師の横に座りました。
「喜びなさい!喜びなさい!…… 悲しまないでください」と、師は励まされました。「あなたは、貧しいけれど、神の王国では豊かになれるでしょう」などとアブドル・バハは慰さめ、力づけ、癒しの言葉を述べました。男の心のわだかまりは、師の慈愛に満ちた心の暖かさで、全く溶けてなくなりました。帰りがけに彼は、畑に出て働き、少しお金がたまったら土地を買い、すみれを育てて市場に出すつもりだといいました。
歓 待
三十四
コリン・トルーは初期の巡礼で見たことを記録しました。「朝早く起きて居間に行くと、毎朝六時から七時の間に、師は家族と過ごされていました。ある殉教者の妻が、ペルシャ式に床の上に座ってお茶をたて、ふるまっていました。彼女の夫はこの大業のために投獄された三人兄弟の一人だったのです。何日もの間、その兄弟について何の知らせもありませんでした。ある日、通りが騒がしいのでのぞいてみると、長い棒に三つの頭が載せられて運ばれて来るところでした。そして、兄弟の家の前に来ると、母親の部屋にその頭を投げ込みました。母親は水で頭をふいて、『私が神様にさしあげたものを返して頂くつもりはありません』と言いながら投げ返しました。お茶をたてていた婦人は、兄弟の一人と結婚して一年にしかなりませんでした。迫害のために親類を全て失い、ペルシャの女性は一人で自活していく道がなかったので、師は彼女を引き取られました。何とすばらしい家庭でしょう!
一つの家の中に四十人以上の人が住んでいました。中には、黒人、白人、アラビア人、ペルシャ人、ビルマ人、イタリア人、ロシア人、今、またイギリス人とアメリカ人。大声で命令する言葉も、争いの一言も、あらさがしの一言も聞こえません。みんな、つま先で歩くかのように静かに行き来します。私たちの部屋に入る時には、彼らはドアの前でスリッパを脱ぎ、靴下をはいただけで入ってきて、座るように言われるまで立っているのです」
三十五
また別の巡礼者は、異なった宗教の信者の間にある激しい敵意を感じていました。
例えば、ユダヤ人とイスラム教徒は絶対に一緒に食事をしないし、ヒンドゥー教徒はそのどちらの井戸からも絶対に水を汲みません。
それなのに、アブドル・バハの家では、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ゾロアスター教徒、ヒンドゥー教徒など、皆共に一つの神の子どもとして混ざりあい、完全な愛と調和のうちに暮らしていました。
愛
三十六
かつて、アブドル・バハが「バハイとは何か」と尋ねられた時、こう答えられました。「バハイとは、全世界を愛し、人類を愛し、万国平和と同胞愛のために活動することである」
三十七
グロリア・フェイジィは、師の広い愛の心をみごとに表現しました。「人の心がこの世での神の顕示者によって神に引きつけられる時、その人は創造者と愛の絆を結ぶのです。その絆が強くなるにつれて、その人は神の創りたもうたすべての物にあふれるばかりの愛を感じるようになるでしょう」
アブドル・バハはかつて、ある人が愛する人から受け取った、汚れてくしゃくしゃになった手紙のことを例にあげられました。「届いた時のありさまゆえに、その手紙の貴重さが損なわれることはありません」と師は言われました。「それは、愛する人から届いたからこそ大切なのです。同じように、私たちはたとえどんな人であろうとも、その人を愛することを学ぶことができます。なぜなら、その人は神が創りたもうたものだからです」
三十八
かつて、アブドル・バハは、尋ねられました。「なぜ、あなたを訪問した人は皆、晴々とした顔をして帰って行くのですか」。師はすばらしい笑顔で言われました。「よくわかりません。でも、私は会う人全てに、ただ神のお顔を見るだけです」
三十九
師はいつも愛に対して、愛で答えられました。ロンドンでの昼食会の最中、ペルシャから贈り物が届きました。ある旅行者がロシアのトルキスタン地方の、イシュカバッド市を通過した時、一人の貧しい労働者が彼に近づいてきました。彼はその旅行者がアブドル・バハに会いに行くことを知っていて、贈り物を届けてほしかったのです。———しかし、彼は自分の夕食以外、何も持っていませんでした。その贈り物は大切そうに木綿のハンカチで包まれていました。アブドル・バハは、恭しくそのハンカチを受け取られ、すぐに開けられました。黒パンは乾き、りんごはしなびていました。しかし、師はちょうどできあがった昼食には手をつけられませんでした。師はつつましい食事の方をとられ、それを客にも分け与えながら言われました。「さあ、このつつましい愛の贈り物を私と一緒に食べましょう」
四十
アブドル・バハの花を愛する心は、師が愛された人々の暮らしの中にもあふれていました。師は花を、よく他の人に分け与えました。
ある時、「小柄な掃除婦が美しいばらを腕いっぱいかかえて、アブドル・バハが泊まっていた部屋から出てきました。それは、何人かのバハイから師に贈られたものでした」。エラ・クエントはさらに続けて説明しました。「私たちが皆、師の仲間であると感じて、彼女は固苦しい作法を捨て、私たちの心を動かすような仕草で興奮した声で言いました。『見て!
彼が私にくれたのよ! 見て! 私にくれたのよ!』たぶん、彼女は、アブドル・バハの、神の聖約の中心であり、困窮している世界に向けられたバハオラの教えの解説者としての地位にあることなど、全然知らなかったことでしょう。また、師の名前や称号さえ知らなかったかもしれませんでした。しかし、師は彼女に愛を示されました」
四十一
一九五一年、守護者により、大業の翼成者に指名されたリロイ・アイオアスは、まだ幼い少年だったころの一九一二年に、シカゴを訪問された師に会う光栄に浴しました。ある日、アブドル・バハの話を聞きにプラザホテルに行く途中、彼は師に花を買ってさしあげたいと思いました。彼はほんの少ししかお金を持っていませんでしたが、何とか、リロイ自身の特に好きな白いカーネーションの花束を見つけました。しかし、ホテルが近づくにつれて気が変わりました。とにかく、この花をアブドル・バハにさしあげるのはやめると父親に言いました。父親はすっかり、彼の心がわからなくなりました。師はとても花がお好きなのに、なぜさしあげないのだろう。若いリロイは答えました。
「師に私の心をさしあげるために来たのです。可愛がってもらいたがっているように思われたくありません。師は人の心がおわかりです。私がさしあげたいのは、その真心だけです」
その答えを聞いて、リロイの父は二階に上がって行き、アブドル・バハに花をさしあげました。師はどんなに喜ばれたことでしょう。その香りをかぐ喜びを味わうために師は、いつもなさるように花の中に顔をうずめられました。
話の間中、リロイはこの偉大な教育者の足元に、全く魅せられて座っておりました。その力強く常に変化する目、その威厳ある動作、その魅力!
話が終わって、師は立ちあがり、客の一人一人と握手されました。めいめいに一本のカーネーションを手渡されました。とうとうほんの少しになりました。アブドル・バハの後ろに立っていたリロイは思いました。「花が全部なくならないうちに師が振り向いて、私と握手してくれたらいいのに」。
そう思っていると、師が振り向いて彼をご覧になりました。アブドル・バハは美しい赤いバラを付けていましたが、それをコートから引きぬいて少年に与えました。カーネーションを持ってきたのは自分であると、師がご存じだったことをリロイは察知しました。
四十二
ある日、師はフランスのジュネーブ湖に面したトノン=レ=バン近くを馬車に乗って出かけられました。一行は谷間の古い宿で、簡単な飲み物を摂るために休みました。アブドル・バハがポーチに座られると、すみれを売っている子どもたちがすぐに気付いて、師の方ばかり見つめているようでした。子どもたちは師を取り囲みました。師はすぐにポケットに手を入れ、この小さな売り子たちを喜ばせようと数フラン取り出されました。
四十三
次に述べるアブドル・バハのニューヨーク滞在中の出来事についてのほほえましい話は、師が「色盲」ではなく、むしろ、人種の違いを美しいものと考えておられたことを示しています。
師はバワリー・ミッションで数百人の男性たちに講演するために出かけて行くところでした。数人のペルシャ人とアメリカ人たちがお伴していました。ゆれる上衣とターバンをしている東洋人たちの光景に好奇心をそそられて、少年たちが後について歩き始めました。じきに、手に負えないほど騒がしくなりました。師にお伴していた一人の婦人が、彼らの不作法な態度にひどく当惑しました。彼女は後ろにさがって、その男の子たちに話をしようと立ち止まりました。そして、アブドル・バハがどのようなお方なのか少し話しました。彼女の招待を彼らが受けるとは完全に期待していたわけではありませんでしたが、それでも、自分の住所を教え、次の日曜日に来れば、師に会わせてあげるといいました。
それで、日曜日になると、二、三十人の少年たちが彼女の家に現われました。少し汚れて、騒がしかったけれど、その場にふさわしいように、きちんとしようとしているのがわかりました。二階のアブドル・バハの部屋で、師は暖かい笑顔で、少年のような笑い声をたてながら、ドアの所で少年一人一人に手を握ったり、肩に手をまわしたりしておられました。師の最高の歓迎は、列の終わり近くにいた十三歳の少年に向けられました。彼は肌の色がかなり暗くて、自分は歓迎されるかどうか、戸惑っていたようでした。この少年を見て、師の顔は輝いて、みんなが聞きとれるような大きな声でうれしそうに言いました。「ここに、黒いバラの花があります」。その少年の顔は、幸福と愛で心がいっぱいになり、顔がぱっと輝きました。少年たちが新たな意識でその友を見たとき、部屋中に沈黙が流れました。
しかし、師はそれだけで終わらせませんでした。彼らが来た時、師はおいしいチョコレートが五ポンド(注:約2キロ)入った箱を持って来させてありました。師はそれを持って部屋を回り、一人一人に、手に一杯のチョコレートをすくってやりました。おしまいに、ほんの少し残っていた中から一番黒いチョコレートを取り出して、部屋を横切り、それを黒人の少年のほおにつけました。師は優しく少年の肩に手を回し、それ以上何も言わないで、おどけた、身にしみいるような目でみんなを見まわされました。
四十四
ロバート・ターナーは、慈善家フィービー・ハースト夫人の執事で、西洋系黒人で初めてバハイになった人として知られていました。後に、メイ・マックスウェルは、巡礼に到着した朝のことを思い出しました。「私たちが休息したあとで、師は私たち全員を、地中海を見渡す長い部屋に召集されました。師は、静かに窓の外を見ながら座っておられました。それから、顔を上げて全員そろったかどうか尋ねられました。信者の一人がいないことに気づいて言われました。『ロバートはどこにいるのですか」……
じきに、ロバートの輝いた顔が入口に現われました。師は彼にあいさつしようと立ち上がり、座るように手招きされながら言われました。『ロバート、主はあなたを愛しておられます。神はあなたに黒い肌をお与えになりましたが、心は雪のように白い心をお与えになりました』
彼の信仰はとてもねばり強かったので、敬愛する女主人が自発的に受け入れた大業から、その後、脱落してしまったことさえ、彼から神の輝きを曇らせることもありませんでしたし、アブドル・バハから降り注がれた愛に満ちた優しさによって、彼の胸に灯った感情の強さを損なうこともありませんでした」。
奉 仕
四十五
ハワード・コルビィ・アイブスは、食事に招待された時のことを思い出しました。「その時、アブドル・バハは、遠慮なく食べて、楽しむようにおすすめになり、自ら一心にもてなされました。師は召し上がらずに、テーブルのまわりを堂々と歩きながら、話しかけられ、ほほえまれ、もてなされました」
後に、アイブスはこのように書きました。「師が、客のために台所へ行き、食事の仕度をされることありました。師は、もてなす部屋ができる限り居心地がいいように、どんな小さな心遣いも怠りませんでした。しかし、ご自分の安楽のためには、何の注意も払われませんでした」。バハイ共同体の名誉議長となるように求められた時、師はただこう答えられました。「アブドル・バハは、僕です」
四十六
ルア・ゲッチンガーが師を訪ねてアッカに滞在していた時の話です。ある日、師はあまりに忙しくて、ひどい病気をしている貧しい友を訪ねることができないので、自分の代わりに彼女に行くように依頼なさいました。食物を持って行き、師がいつもしているように世話してきてくれるように仰いました。師はどこに行けば、その男が見つかるかお教えになりました。彼女は師に信頼されて、この使いを頼まれたことを誇りに思い、喜んで出かけました。
ところが、彼女はすぐ戻って来ました。「師よ! 」彼女は興奮して言いました。「あなたが行くように仰った所が、どんなにひどい所か、きっとご存じないのでしょう。ひどい悪臭がして、部屋は汚れていて、その男の人と家のあまりの汚さに私は気絶しそうになりました。恐ろしい病気を移されるような気がして怖くなって、逃げてしまいました」
アブドル・バハは悲しそうに、厳しい目で彼女を見つめて仰いました。「あなたは、神に奉仕したいと願っているのではないのか。同じ人間であるその男に奉仕しなさい。そうすれば、彼の中に神の姿を見出すであろう」。そして師は、彼女にその家に戻るように仰いました。「もし、汚なければ、きれいにしなさい。兄弟である彼が汚れていれば、体を拭きなさい。おなかが空いていたら、食べさせなさい。その事ができないうちは、戻ってきてはなりません。自分は、何度もそうしてきました。たった一度くらいできないことはないでしょう」
公 正
四十七
経済上の公正さは、たとえどんなに小さいことであっても、師には大事なことでした。
ある時、エジプトで、アブドル・バハは昼食会の客人のパシャ*に乗り物を提供するために馬車をお呼びになりました。彼らが目的地に着いた時、御者は途方もない料金を要求しました。師はこの請求は高すぎるとわかっておられましたので、全額を払うことを拒否なさいました。大きな身体をした粗野な運転手は不当な料金を要求しながら、師の帯をつかんで前後にゆすりました。アブドル・バハは毅然としていましたので、とうとう運転手は手を離しました。師は正当な金額だけを払い、こう仰いました。もし彼が正直だったら、料金の他に、かなりのチップももらえただろうにと。そして、師は立ち去られました。
師の孫であるショーギ・エフェンディは、このことが起きた時、その場におられました。後に彼は、この事がパシャの御前で起きたのでとても恥ずかしく思われたことを認められました。一方、アブドル・バハは全く取り乱さず、ただごまかされないように毅然とされていたのでした。
*パシャとは、トルコ・オスマン帝国の高官や高級軍人の称号です。
平 等
四十八
アブドル・バハがパリのホテルで過ごしておられた時、師にしばしば会いに来た人々の中に、貧しい黒人がいました。彼はバハイではありませんでしたが、とても師を慕っておりました。ある日、彼がやって来た時、あなたのような貧しい黒人がここに来るのは、ホテルにふさわしくないので経営者が嫌がっていると、誰かが告げました。その可哀想な男は行ってしまいました。アブドル・バハはこのことをお知りになると、そう告げた者を呼び寄せられました。「私の友達を必ず見つけなさい。彼を追い返されたことに対して、私は悲しいです」と言われました。そして、アブドル・バハは仰いました。「私は、高価なホテルや家具を見に来たのではありません。友達に会いに来ました。パリの風習に合わせるために来たのでもありません。バハオラの原則を確立するために来たのです」
四十九
アブドル・バハがアメリカにおられた時、師はみんなのために、ユニティ・フィーストを行いたいと言われました。準備委員会は、白人専用で有名な、その町で最も高級なホテルの一つを選びました。有色人種の友人たちは侮辱されたり、差別されたりすることを恐れて、出席しないことに決めました。アブドル・バハはこのことをお知りになると、必ず全員出席するように強く言われました。宴会には全員集まり、白人も有色人種も並んで座り、不愉快なこと一つなく、この上なく幸せに行なわれました。
五十
一九一二年五月下旬、ニューヨークで、アブドル・バハはホテルから立ち退きを求められました。というのは、マームッドが書き記したように、多種多様な人々の出入りと職員に対する余分な仕事や迷惑、ホテルにかかってくる絶え間ない問い合わせなどが原因でした。
「しかし」とマームッドはさらに説明しました。「師が発たれる時、大いなる優しさと好意を見た職員たちは、自分たちの行いを恥じて、師にもっと滞在するように頼みました。しかし、師は、断られました」
五十一
師がなさることには、みな何か理由がありました。アメリカ合衆国首都ワシントンで開かれたあるお祝いの席で、師は、正義と愛が成せる事を実演してお見せになりました。その市のペルシャ公使館の代理大使とその夫人が師に敬意を表して、昼食会を用意しました。招待客のリストには、たくさんのバハイと共に、社会的、政治的な重要人物たちが入っていました。
ルイス・グレゴリーは、教養ある紳士で政府の役人でした。———後に、最初の黒人の大業の翼成者になりました。———彼も師に会うように(昼食会とは別に)招かれていました。昼食会があることを知っていたので、招かれた時間に驚きましたが言われた通りの時間に来ました。会議は引き延ばされているようでした。———師がわざと引き延ばしておられるかのように。
ついに、執事が食事の用意ができたことを知らせました。アブドル・バハが先に進まれ、招待された人々はすぐ後ろに着いていきました。グレゴリーは立ち去るべきか、師が戻られるのを待つべきか戸惑いました。皆が着席すると突然、主賓であるアブドル・バハが立ち上がり、まわりを見回して英語でお尋ねになりました。「私の友、グレゴリー氏はどこですか」続けて「私の友、グレゴリー氏は、私と一緒に昼食をとらねばなりません!」ルイス・グレゴリーは昼食会のリストには初めから載っていませんでしたので、当然引き下がっておりました。代理大使は急いで彼を連れてきました。師はご自分の右側に、もちろん名誉ある場所に、席を用意されました。———外交儀礼のきめ細かい決まりを全く無視して。
———グレゴリーが着席してから、やっと昼食会が始まりました。それから最も自然な方法で、一九一二年のその日、アメリカの首都で何一つ変わったことはなかったかのように、機転とユーモアで、師はさっきぎくりとさせられた招待客に、人類の和合について話され、感動させました。
五十二
ルイス・グレゴリーは巡礼に行く光栄に浴しました。その巡礼が終わる頃、アブドル・バハはルイス・グレゴリーと白人のイギリス人巡礼者のルイザ・マシューを呼ばれました。師は二人の気持ちを聞かれた後、彼らが驚いたことに、二人が人生を共にするよう希望されました。師の望みに従って、彼らは結婚しました。師は彼らを師が望まれる人種間における精神的結合、協力、尊厳を保つ関係、奉仕の最高の在り方の象徴として、二人を前面に送り出されたのでした。その結婚は、二人に多くの努力を要することをもたらしました。多くの無理解や、敵意や、度重なる残酷な圧力がありました。しかし、結ばれた二人の魂は世間の圧力や、彼ら自身をもはるかに越えた愛によって導かれ、守られていましたので耐え抜くことができました。彼らの愛は、神の英知で鼓舞され、魂に反映した愛の実証でした。二人はお互いの中に神の美を認め、その心にすがりついて、数々の試練、人生のさまざまな偶発的な状況、人生の移り変わりと巡り合わせを耐え抜いたのでした。
五十三
男女間の関係の質についても、アブドル・バハの正義と平等の思慮は及んでいました。師はかつてアメリカで、聴衆の婦人たちの方を向いて、にこにこされながら言われました。ヨーロッパやアメリカでは、多くの男性が妻にぜいたくをさせるために一所懸命働いています。
優しくほほえまれながら、かつて師を訪問した夫と妻の話をされました。妻の靴にごみが付いていたので、妻は夫にそれを拭き取るように、居丈高に言いつけると、夫は素直にそれを拭き取りました。彼女は夫のために同じように尽くしているでしょうかと、アブドル・バハは尋ねられました。否というのがその答えでした。彼女は彼の服を洗濯します。それは平等ではありませんと、アブドル・バハは言われました。この話を語り終えると、アメリカの聴衆の婦人たちに言いました。「さて、ご婦人方、たまには男性の人権の保護の姿勢を取らなければいけません」。それは、上手なユーモアと共に語られましたが、教えは分かりやすかったのです。すべてのことに節度が必要だという意味です。
中 庸
五十四
師がアメリカ東部を旅行中、友人たちは寝台車をお勧めしたのですが、体を楽にすることばかり考えてはいけないと言われ、またそれにお乗りになられませんでした。「私たちは『真理を追求する道』で兵士のように旅の苦痛に耐える能力を持つべきで、楽をすることのとりこになるべきではありません」
次の夜、同伴していた五人は寝台車を勧めませんでした。彼らは『真理を追求する道』で兵士のように旅をすることを学んでいたでしょうか。そうはいっても、アブドル・バハはその夜、あまりに行きすぎた緊縮は良くないと言われ、六つの寝台席を予約するように言われました。彼らは師のために一つだけ予約するように提案しましたが、「いいえ、お互いに平等に分け合うべきです」と、師は言われました。
真 実
五十五
アブドル・バハにとって、誠実であることは、息をするくらい自然なこととして身についていました。彼は人気を得ようと話されることもありませんでしたし、人々が聞きたがっていることを話されるわけでもありませんでした。彼の言葉は耳を傾けようとした人々を教育し、助けることに役立ちました。師の一定した生き方について、以下少しばかりの例をとりあげましょう。
五十六
ある時、アメリカ連邦政府のある高官が、国民と政府に奉仕するための最善の方法をアブドル・バハに尋ねました。師は即座に答えられました。『もし、あなたが世界市民として世界の人々と国々の関係に、あなたの国の土台である連邦制度の原則を序々に適用していくことに努力すれば、あなたの国に最も役立つでしょう』
五十七
アブドル・バハがアメリカ滞在中に、北極探検家のピアリー海軍大将に会われた時、こう言われました。「あなたが、神の王国の目に見えないものを探検されるよう願っています」
五十八
アブドル・バハの言葉には、驚嘆すべきことがたくさんありました。———愉快なものもあれば、それほど愉快でないものもありました。書面上に残された師の言葉の中に、次のようなものがあります。
「もし、この世が人に一つの楽を与えたならば、百の苦が続くでしょう。それがこの世のならわしです」
「子供たちを良く働き、努力するように育てなさい。そして困難に慣れさせなさい」
「バブは言われました。バハの民は食物によって病気を直してしまうほどの高い水準にまで医学を進歩させなくてはなりません」
「バハイの人たちが神の教えを広める努力をしない場合、神をふさわしいようにあがめることに失敗するでしょう」
師は真実の種子をあちこちにまかれました。———その種子はゆっくりと芽を出し、だんだんと、有益で、幸福を増す収穫をもたらすでしょう。
知識と英知
五十九
一九一三年、ドイツのシュツットガルト市で、アブドル・バハはまだ幼い子供だった頃に起きた事を話されました。「子どもである間に神の教えの布教者になることは良いことです。私はこの子(八歳か九歳)の年頃から、この大業の布教者でした。思い出した話をしましょう。ある人が私の所に弟をつれて来ました。その人は高い教育を受けていましたが、バハイではありませんでした。私はまだ子どもでしたが、次のように彼に信者になってもらいました。彼に布教しようと思って、一緒におりました。彼は言いました。『私は、確信できません。私は納得できません』。私は答えました。『もし、のどの乾いた人に水を差し出したら、彼は水を飲んで満足するでしょう。彼はコップを取るでしょう。しかし、あなたはのどが乾いてはいません。もしあなたののどが乾いていれば、あなたも満足できるでしょう。見る目を持つ人には見えるのです。太陽を見ている人に太陽のことを話すことはできますし、昼の徴であると言えます。しかし、目の見えない人は太陽を見ることができないので、確信が持てないでしょう。良く聞く耳を持った人に美しい音楽を聴くように言えば、それを聴いて幸せに思うでしょう。でも、耳の聴こえない人に最高に美しい音楽を奏でても彼には何も聴こえないでしょう。さあ、見る目と聞く耳を探しに行ってください。その後で、このことをもっと話し合いましょう』
彼は行き、やがて戻って来ました。彼は良く理解し、立派なバハイになりました。これは私が幼かった時のことです」
六十
アブドル・バハがアッカの兵舎に捕われてまもなく、肉屋から、師が聡明であるという話が広まりました。師とバハオラの友が数人、市場に食べ物や必要な品々を買いに出かけました。肉屋で師が応対されるのを待っていると、イスラム教徒とキリスト教徒が自分たちの信仰の長所を言い合っているようでした。キリスト教徒が論争で勝っていました。
そこで、アブドル・バハも話に加わり、平易に、かつ雄弁に、キリスト教徒の満足のいくようにイスラムの正当性を証明しました。この出来事の話が広まって、多くのアッカの人々が師に暖かい心を向けるようになりました。このことが、人々の師に対する強い尊敬の念のきっかけとなったのでした。
やがて、市の知事、アフマッド・ビッグ・タウフィッグは、指導と教化を願って、息子を師の元に預けるまでになったのでした。
六十一
一九一四年、師はデンバーにいる友に、バハオラのメッセージを広める方法について手紙を書かれました。「神の大業を布教する三つの条件は、社交術、行為の純粋さ、弁論の優美さである。皆さんが、これらの特質を身につけてくださるよう望んでいます」
ニューヨークに来られたばかりの頃、師はメイン州のバハイ・サマースクールが開かれるグリーンエイカーに行く人たちに、その心がけについて話されました。「あなた方は言葉だけでなく、行動や、行為を通してメッセージを伝えなければいけません。言葉には行為が伴わなければなりません。自分よりも友達を愛さなければなりません。そうです、自分を犠牲にする覚悟を持ってください。バハオラの大業は、まだこの国には現れていません。あなた方がお互いのために全てを、自分の命さえも犠牲にする覚悟を持つことを望みます。そうしてこそ、バハオラの大業は確立されると思います。あなた方が神の栄光を高める原動力となることを祈っています。周りの人々全員に、『この人達は、どうしてこんなに幸せなのですか』と、問われるほどになってください。グリーンエイカーで、あなた方がまわりの人達を幸せにするように、笑い、ほほえみ、喜び、幸せでいてください」
同じ課題について、師は書かれました。「しかし、聖典に記録されているように、用心や思慮分別も必要です。ベールは、決して突然に裂かれてはなりません」
布教者はまた、聞く人の体の状態に気を配らなければいけません。この実用的なアプローチは、アブドル・バハの言葉にも明らかに示されています。「空腹の人間に対して神のことを話すな、まず食べ物を与えよ」
六十二
ある時、師はこう聞かれました。「キリスト教に満足しているし、この新しい顕示者を必要としませんという人々にどう言ったら良いでしょうか」。師の答えは、はっきりしていました。「彼らをそのままにしておきなさい。前の王様の統治していた所に新しい王様が王座に座れば、彼らはどうするでしょうか。彼らは新しい王様を認めなければなりません。さもなければ、王国の真の民ではありません。去年、春の季節がありました。人は去年の春で充分だから、今年は新しい春はいらないと言えるでしょうか。いいえ、新しい春は地上を美と光輝で満たすために、必ず来なければなりません」
六十三
一九一二年、大統領選挙の年、アブドル・バハはカリフォルニアにおられました。十月のある朝、この選挙のことが話題にのぼりました。
師は言われました。「大統領には、大統領の職を渇望しない人がならなければならない。名声や評判などの思惑に支配されない人間であるべきである。自分はその地位に値しないと考えなければならない。そして、その任に適していないし、責任の重い職務に耐えられないと思うべきである。もし公益が目的なら、大統領は大衆の幸福を考える人で、わがままで利己的ではない人でなければならない」
第三章 師の輝く心
「人が神に顔を向けた時、至るところに太陽の輝きを見いだす」
「すべてを愛したもう神は、人間が聖なる光を放射し、その言葉、行動と生き方によって世界を輝かせるようにと人間を創造された」
「大きな苦難を、どんよりとした諦めではなく、喜んで耐え忍ぼうという心で受け入れなければ、人は
… 自由を得ることはできません」
アブドル・バハ
アブドル・バハはバハオラの次の言葉の意昧を深く理解していました。「汝は、どんな物にも悲しまされないように注意しなさい」
悲しみを良く知っておられた師は、バハオラや、家族や、一緒に追放されたバハオラの信者たちが耐えた困難を語る時、涙を流されたのでした。バハオラの教えに耳を傾けるようにという師の呼びかけに、応えてくれる人が少ないことに対して師が時々、悲しそうに見えることはありました。しかし、師はご自分がよく口にした次の言葉の通りに生きておられました。「この霊の王国を思いつつ生活する人は永遠の喜びを知るのです。全ての肉体が悩まされる病気もその人を襲いますが、病気はそのような人の生命の表面を冒すだけで、内奥は穏やかで落ち着いているのです」
幸 福
一
教育者として名高いスタンウッド・コーブは書きました。
「この喜びの哲学は、アブドル・バハの教えの基本に流れていました。『あなたは、幸せですか』と、師はよく訪問者にあいさつされました。『お幸せでありますように』とも。
幸せでない人は、(そして、悲しんだことのない人は一人もいないでしょう!)こう言われると泣き出してしまいました。そして、アブドル・バハはあたかも『お泣きなさい。涙のむこうには希望があります』と言われているかのように、ほほえまれたのでした。
時々、師は自らの手で彼らの濡れたほおを、ぬぐわれたのでした。そして、彼らは心が明るくなって師の元を去るのでした」
カリフォルニアでは次の様子が目撃されました。「師が、時々疲れておられたり、体調を崩されていても、誰にでも晴れやかなほほえみで歓迎され、気持ち良く響く声で、『あなたは、幸せですか』と尋ねられていました」
二
アブドル・バハの幸福に関する言葉を読み、その精神的意義を聞き、その暖かさに身をひたせば、内なる深い喜びと霊感を見出すことができるでしょう。例をあげてみましょう。
「喜びは私たちに翼を与えてくれます。嬉しいとき私たちはますます活気付き、知性はずっと鋭くなり、理解力はよりはっきりしてきます。世事もよりうまく対処でき、いっそう有益な存在となります。しかし、悲しみが訪れると、気弱になり、力がぬけ、理解力は鈍り、知性は曇ります。自分の人生の実情が把握できず、内なる眼は聖なる神秘を発見し得ず、まさに生ける屍となるのです」。
「決して失望してはなりません」
「アブドル・バハは誰も傷つけられることを望みませんし、誰を悲しませることもしません。人が受け取ることのできる最高の贈り物は、他人の心を喜ばせることなのです」
「この言葉を覚えておいてください。『最高の巡礼は、悲しみに打ちひしがれている心を喜ばせることです』」
「バハオラのメッセージをうまく伝えることは、立派な行い、精神的な特質、はっきりした話し方、教えを説明する人の顔に表われている幸福を通してのみ、できることを理解しなさい」
「最善を尽くして、次のことを子どもたちに教えなさい。バハイとは、あらゆる完全性を体現し、灯を点すろうそくのように輝く者のことであり、闇の中の闇でありながらバハイの名を語る者ではないことを」
「来たるべき将来、道徳は極端に堕落するでしょう。この世と来世に幸福を見出せるように、バハイの方法で子どもを育てることが不可欠です。さもなければ、子どもたちはさまざまな悲しみと難題に悩まされるでしょう。なぜなら、人間の幸福は精神的姿勢の上に築かれるものだからです」
「精神的幸福、これが人生の真の基盤です。命は幸福のために作られたのであって、悲しみのためではありません。喜びのために作られたのであって、悲嘆のためではありません。幸福は生であり、悲嘆は死です。精神的幸福は永遠の命です。これは次に闇が続くことがない光です。……
この偉大な祝福と貴重な贈り物は、神の導きを通してのみ得ることができます。…… 」
「この幸福は神の愛にほかなりません」
「愛ほど人を幸福にするものはありません」
三(割愛)
四
ある日、黒衣をまとい、悲嘆にくれたユダヤの少女が師の前に連れて来られました。彼女は涙ながらに、悲しい身の上話を師に語りました。「兄は三年も前から無実の罪で投獄され、刑期をあと四年務めなければなりません。両親はいつも悲しみに暮れています。皆の生活を支えていた義理の兄は亡くなったところでした。神を信仰すればするほど事態が悪くなって行くのです」。彼女は不平を言いました。……「母は、年中、(聖書の)詩編を読んでいます。母は、神がこのようにお見捨てになるには値しません。私自身も詩編を読んでいます。毎晩寝る前に、九十一章と二十三章を読んでいます。お祈りもします」。
彼女を慰め、忠告しながら、アブドル・バハは答えられました。「お祈りをすることは、詩編を読むことではありません。祈ることは神を信じ、全てのことで神に従順であることです。従順になりなさい。そうすれば、事態は変わるでしょう。家族を神の手にゆだねなさい。神の意志を愛しなさい。頑丈な船は海に負けません。———それは波に乗ります。さあ、朽ちた船ではなく、頑丈な船になりなさい」
精神性
五
一九一一年、ボストン郊外のメドフォードに、ロンドンから一人の婦人がバハイ信教の初期における殉教者について講演にやって来ました。ウィリアム・ランドルも、マリアン・ウィリアムス・コナント家に招かれていました。ランドルは、バハイ信教について聞いたことがありませんでしたが、ある程度の関心を持って行ってみました。その会が終わって、初期の殉教者の写真を説明した講演者とランドルが握手していると、講演者は彼を見つめて言いました。「ランドルさん、今晩の話の精神がちゃんと伝わったのはあなただけです。あなたの所に、バハイ信教のことをお話ししに誰かを行かせます」
ランドルは驚きましたが、お礼を言って別れました。二、三週間過ぎたある朝、机から顔を上げると、ハーラン・オバーという人が目の前に立っていました。彼はすぐにハーレンの目とその誠実さに打たれました。ハーランは腰をおろして、バハイ信教について話し始めました。
ランドルは、長いこと、宗教に深い興味を持っていました。カトリックの家に生まれ、聖公会の信者になったり、神智学、クリスチャン・サイエンスや、新思想運動を探求したり、古い宗教も研究しました。宗教に関することは皆わかったように思い、今、新しい宗教を研究したい気持ちはありませんでした。しかし、オバーはあきらめませんでした。何ヶ月も、ハーラン・オバーはウィリアム・ランドルの所に立ち寄って、この新しい信教について勉強するようにすすめ、いろいろと話しました。
一九一二年、アブドル・バハがボストンに来られた時、ハーランはこの気の進まない生徒に、「師に会いに行って来なさい……
」と言いました。ランドルは乗り気ではありませんでしたが、結局、ボストンで師の講演を聞くことに同意しました。師の話を聞くうちに、この人は、間違いなく偉大な人であり、真の聖人だと思いました。
講演が終わって、ランドルがホールを出ようとしていると、アブドル・バハの秘書の一人が「誠にすみませんが、この中に、アブドル・バハにグレープ・ジュースを買って来てくださる方はおられませんか。師はそれが大変お好きで、講演のあとお飲みになりたいのですが」と言っているのが聞こえて来ました。とっさに、ランドルは「私が買って来て差し上げましょう」と答えました。町かどの店で六本のグレープ・ジュースを買って、師の滞在しておられるホテルに持って行きました。関わり合いたくないと思って、誰かにアブドル・バハの所に持って行ってもらおうと思いました。エレベーターを降りるとすぐに、そばに立っている友人たちの会話に引き込まれてしまいました。自分が何をしているのか気にもかけないで、瓶をアブドル・バハの秘書の一人に渡しました。
次に気づいてみると、秘書はグレープ・ジュースを入れたコップをお盆にのせて戻って来ていました。そして、ランドルに言いました。「ランドル氏、あなたは、ご親切にアブドル・バハにこれを買って来てくださったのですから、ご自身で届けてくださいませんか」。その申し出は気に入らなかったのですが、無礼を働くのも嫌だったので同意しました。しかし、一番近いテーブルに置いてすぐ立ち去ろうと思いました。師のおられる部屋のドアの前のカーテンを引いて、適当なテーブルを見つけ、お盆を置きました。部屋のずっと向こうで、一人で眠っておられるように見えたアブドル・バハを起こさずにすんで良かったと思いながら、帰ろうとすると、師は目を開けて彼を見つめて言われました。「お座りなさい」。上手に断われないと思って、ランドルは、部屋の中央にある長椅子に腰かけました。アブドル・バハは椅子に座り直して目を閉じました。
ウィリアム・ランドルはしばらくじっと座っておりましたが、師は誰の前で眠っているのかわかっていないのではないかと思って、怒り始めました。ますます腹が立って来ました。「眠っている老人の前で、何で自分が座っていなくてはいけないのだろうか」
立って部屋を出て行こうと思いましたが、自らの苦境に対するこの解決のし方はやめることにしました。アブドル・バハはそこに座っているように言われたし、礼儀知らずにはなりたくありませんでした。そのうち、足がだるくなり、しびれてきました。全身もしびれて来て、彼が自慢にしている公衆の前でしわになったことのない、糊づけされ、ピンとしていた衿でさえ垂れてしまいました。怒りが頂点に達した時、心の中で声がしました。「あなたは世界中の偉大な宗教を研究しました。それらが、何の役に立ちましたか。老人の前に、なごやかに落ちついて二十分も座っていられないなんて」
ランドルがこの考えに心打たれた時、アブドル・バハは目を開けて言われました。「知性はよいものです。しかし、それは心の召使いにならないうちは、何の役にも立ちません」。それから、師はランドルにほほえみかけ、立ち去らせました。師は眠っておられたのではありませんでした。
ランドルは師の言葉を決して忘れませんでした。———その言葉は彼の人生に転機をもたらしました。
六
「ヨーロッパのある首都に駐在の日本大使(荒川子爵
− マドリッド)は、ドゥ・ジュネ・ホテル(パリ)に滞在していました。この紳士と夫人はパリにアブドル・バハが滞在されていることを知らされ、ことに夫人は師にお会いする名誉にあずかりたいと切望しました。
『とても悲しいことに風邪がひどくて、今晩は外出できません。それに明朝早くスペインに発つことになっています。でもどうにかして、師にお会いすることはできないでしょうか』と、夫人は言いました。
このことは、一日の長時間の活動で疲れて帰ってこられたばかりの師に告げられました。
『彼女が私の所へ来られないのなら、私の方からお訪ねすると夫人と御主人に伝えなさい』
そうして、時間が遅かったにもかかわらず、師は寒さと雨の中をわざわざ来訪され、ドゥ・ジュネ・ホテルのタピストリィ室
(つづれ織りの間) で師をお待ちしていた私たちに、ほほえみながら応対され、皆を喜ばせてくださいました。
アブドル・バハは、日本の状態・日本の国際的重要性、人類への大いなる奉仕、戦争廃止のための事業、労働者の生活改善の必要性、及び男女の教育の均等の必要性などについて、大使やその夫人と話し合われました。『宗教の理想は、人類の福祉のためのあらゆる計画の精髄を成すことにあります。宗教は決して党派的政治家の道具に用いられてはなりません。神の政策は強大であり、人間の政策は微弱です』
『宗教と科学について言うなら、両者は人類という鳥が舞い上がることを可能にする二つの偉大な翼です』と師は言われました。『科学的発見は、物質文明を増進させて来ました。幸いなことに、今だに人間には発見されていない驚くべき力が存在しています。精神文明が人間の心を支配するようになるまで、この力が科学によって発見されないよう、敬愛する神に嘆願しましょう。低俗な性格を持つ人間たちの手に入れば、この力は、全地球を破壊し得るでしょう』
師のこの言葉は予言的な発言でしたが、その意味がより深く理解できるようになるまでには何十年もかかりました」。
七
スタンウッド・コーブは、師との面会のなかで、一番重要なのは一九一三年、パリ滞在中のときだったと記録しました。彼は次のように書きました。「私は少年のためのポーター・サージェンツ・トラベル・スクールの教員でした。私が最初に訪問した時、師は学校のこと、私が何を教えているかを尋ねられました。私は、英語・ラテン語・代数・幾何を教えていると言いました。師はいつもの輝く目で、私をじっと見つめて言われました。『精神的なものは教えているのですか』
私はこの質問を聞いて恥ずかしく思いました。大学入試に対する準備の必要性が教育課程の性質を支配していることを、どのように説明したら良いかわかりませんでした。それで私は『いいえ、精神的教育をする時間はありません』とだけ答えました。
これに対して、アブドル・バハは何も言われませんでした。しかし、その必要はなかったのです。私の口から、自分と現代教育を非難する言葉が出たのでした。『精神的なものには時間をとれません!』それこそが現代の物質主義の「文明」の悪いところです。精神的なものに費やす時間を取ろうとしません。
しかし、アブドル・バハの質問と沈黙の対応は、師の見解からは精神的なものが先に来るべきであることを示唆していました」
八
師は、子どもたちが大好きでした。講話の多くは、子ども一人を抱きながら実施されました。親たちには、次のようなことをよく言いました。「この子どもを立派に教育しなさい。あなたの経済状況が許す限りの最善の教育を与えるように努力しなさい。そうすることによって、この子どもは、この栄光ある時代の利益を享受できるようになるでしょう。子どもの霊性を高めるように全力を尽くしなさい」
九
師がニューヨークを訪問されていたある日、セントラル・パークをご覧になりました。自然史博物館で何時間か過ごされ、木陰で休息を取られるために出て来られました。親切な、小柄な年老いた警備員が尋ねました。「お休みになられましたら、お戻りになりますか。化石や鳥類もあります」。アブドル・バハはにこにこしながら答えられました。「いいえ、私はこの世の物を見てまわることに疲れました。上へあがって、精神界を旅して見て来たいと思います。あなたはどう思われますか」
警備員は首を傾げました。すっかり当惑してしまいました。さらに師は聞かれました。「物質界と精神界のどちらを持ちたいですか」。「さあ、物質界のほうだと思いますが」。「しかし、」アブドル・バハは続けられました。「精神界を手に入れれば、物質界を失うことはありません。家の中で上の階にのぼっても、家を出ることはないでしょう。低い階はあなたの下にあります」。老人は、突然光が見えたようでした。
十
一九〇九年の新春に、大業の翼成者ポール・ヘイニーの両親、チャールズ・ヘイニーとマリアン・ヘイニーは、アブドル・バハに会いにアッカヘ行きました。彼らは「聖なるフィースト」という本の中で、そこでの九日間の間に、アブドル・バハから聞いた言葉を記録しました。
ある日、アブドル・バハはチャールズ・ヘイニーに健康について尋ねられました。彼は極めて率直に、「私の身体はいつも健康です。でも、ここにいる間に精神的食物をとりすぎて、精神的消化不良を起こすのではないかと心配しています」と答えました。しかし、師は保証しました。「いいえ、あなたは消化するに違いないでしょう。あなたに精神的食物を与えられるお方は、消化力を与えようとしておられるからです」
そこで過ごしている時、アブドル・バハは彼らに次のことを常に念頭に入れるように勧めました。「本当の健康は精神的健康です。精神的健康によって、永遠の命は得られるからです。ところが一方、肉体的健康は一時的な結果しか得られないのです」
信心深さ
十一
アブドル・バハの信心深さのお陰で、深刻な悲しみや激しい苦悶の時でさえ、平静さを保たれました。どんな苛酷な環境にもゆるがない平静さと、いかなる逆境にも影響されない内なる幸福感は、神に対する師の深い愛から生じているのでした。
確かに、バハオラがソレイマニエ山の荒野に去られた時や、師が偽りの告発を受けたことより、師自身がアッカで死の危険にさらされておられたような苛酷な状態の時に、アブドル・バハは一晩中、お祈りをしたり、たまに唱えたりしたことがありました。師の最愛の父上であられたバハオラの死は、師から一時的にすっかり生気を奪ってしまいましたが、師は回復なさり、神への不変の愛によって支えられました。事実、師は、「試練にたち向かう力がもっと増すため、自分を取りまく状態がもっと厳しくなるように」と、しばしば祈られていたと言われています。
十二
アブドル・バハはある人に手紙でこう書かれました。「汝は、祈りの英知を尋ねた。祈りは欠くべからざるもの、義務であると知れ。人は精神的に健康でないか、どうにも避けられない障害が妨げない限り、どんな口実をもってしても祈ることを免除されることはない。祈りの英知は次のようなものである。祈りは、僕と真実なる神とを結びつけるものである。なぜなら、人は祈る時、神との交際を求め、神の愛と同情を願いつつ、全身全霊で高遠にして全能なる神に顔を向けるからである。愛する者にとって最大の幸せは、最愛の人と話をすることである。探求者にとって最大の恵みは、切望しているものと親しくなることである。ですから、神の王国へ魅きつけられた人にとって、愛する神の面前で嘆願し、神の慈非と恩恵を懇願し、神の言葉、美徳、寛容の大洋に身をひたす機会を見いだすことが、最大の望みである」
「これらの他に、祈りや断食は霊的目覚めや注意深さを保つのに役立ち、試練からの保護、予防の助けとなるのである」
十三
アブドル・バハがニューヨークにおられた時、師はある熱心なバハイをお呼びになられて言われました。「明日の明け方、私の所に来れば、祈りの方法を教えましょう」
喜び勇んでM氏は四時に起き、町を横切って、その勉強のために六時に着きました。この機会をどのような歓喜の気持ちで迎えたことでしょう! すでにアブドル・バハはベッドの横にひざまずいて祈っておられるのを見て、M氏もそれにならって師の真正面になるようにひざまずきました。
アブドル・バハが祈りに没頭しておられたので、M氏は黙って友人や家族のために祈り始めました。しまいには、ヨーロッパの君主のために祈りました。目の前の静かな人は、一言も言われませんでした。それで、知っている祈りを全部しました。なお、それらを二、三回繰り返しました。———それでも、今か今かと待っていても、静けさを破る物音一つしませんでした。
M氏は秘かに膝をこすり、何となく背中のことを考えたりしました。初めからやり直そうとした時、窓の外で鳥が夜明けを告げるのを聞いていました。一時間過ぎ、ついに二時間過ぎました。M氏はすっかりしびれてしまいました。壁にそって目を動かすと、大きな割れ目を見つけました。少し憤りを感じながら手持ち無沙汰にしていましたが、再び、ベッドの向こうでじっとしている人に目を移しました。
彼は目にした師の法悦に捕えられ、その光景を深く飲み込みました。突然、そのように祈りたくなりました。わがままな願いは忘れました。悲しみ、争い、そして自分を取り巻く環境さえ、前から存在しなかったかのようでした。彼はただ一つのこと、神の元に近づきたいという熱烈な願いだけを意識していました。
再び目を閉じて、この世を完全に切り離しました。驚いたことに、彼の心は祈り、それも熱烈で、喜びあふれた、ごうごうたる祈りに満ちました。彼は謙遜で洗われ、新しい安らぎで高められたように感じました!
アブドル・バハは彼に祈りを教えられたのでした。
『アッカの師』はすぐ立ち上がり、彼の所に来られました。優しく微笑みながら、新たに謙虚になったM氏を見つめ、こう言われました。「祈る時には、痛む身体のことや、窓の外の鳥のことや、壁の割れ目のことなどを考えてはなりません」。
それから、真剣な表情になり、つけ加えられました。「あなたが祈りたいと思う時、まず、第一に、全能者の面前に立っていることを意識しなさい」
十四
ある時、友人が師に尋ねました。「人はどういう心構えで死を待つべきでしょうか」。師は答えられました。「人は、どのように旅の目的地への到着を待ちますか。希望と期待をもってである。この世の旅の終わりも同じである。来世では、人は現在悩み苦しんでいる多くの無能から解放されたことに気づくであろう。死を通して彼岸に渡った人たちは、独自の領域を得るのである。しかも、その世界は現世と分離したものではない。彼らの仕事、つまり神の王国の仕事というものは、現世の仕事と同じものである。しかし、その領域は、いわゆる『時間と空間』というものを遥かに超越したものである。我々の言う時間は太陽によって計られるが、日の出も日没もない領域では、その種の時間は存在しない。昇天した人たちは、地上に住む人たちとは違った属性を持っているのである。しかし、真の分離はない。
祈りの中で、地位や状態の交流がある。死者たちがあなたのために祈っているようにあなたも彼らのために祈りなさい!
」
十五
ある時、師は、祈りは利己的になり得るということを、こんな話で説明されました。「ある時、イスラム教徒とキリスト教徒とユダヤ教徒が、一艘の舟を漕いでいたそうです。突然、大嵐が起こって、舟が波の峰に乗り上げ、生命が危険になりました。イスラム教徒は、『おお神よ!
この邪教のキリスト教徒をおぼれさせてください』と祈り始めました。キリスト教徒は、『父よ! このイスラム教徒を深みの底に送ってください』と懇願しました。二人は、ユダヤ教徒が何も祈っていないのに気づいて、尋ねました。「どうして君は、救いを求める祈りをしないのかね」。彼は答えました。『私も祈っています。二人の祈りに答えてくださるよう主に頼んでいるところです』」
平静と冷静
十六
アブドル・バハの冷静さは、予想される個人的悲劇、将来の追放や処刑に対する師の対処の仕方にも、はっきりと表われていました。師の苦難は、聖約破壊者によってもたらされました。聖約破壊者とは、バハオラの死後、信者は「最大の枝」即ち、アブドル・バハをバハイ信教の指導者として、その教えの唯一の解説者として従わなくてはならないというバハオラの聖約を受け入れなかったバハイのことです。この人たちは自分たちで主導権を握ろうとしました。そのために、アブドル・バハに対する驚くべき偽りの告訴を意図的に持ち出しました。実際、彼らは師がカルメル山に要塞を築こうとしているという噂を流しました。そこには、バブの廟がひときわ目立って立っていました。彼らは、師がスルタン(オスマン帝国の君主、アブドル・ハミド)自身を葬ろうと三万の軍をあげたということさえ主張しました。
当時、トルコは不穏な状態にあったので、謀反に対するさし迫った恐怖心から、スルタンは調査団を任命し、アブドル・バハは法廷に呼び出されました。勇気をもって、アブドル・バハはその告訴の不合理性を明らかにし、論証のためにバハオラの遣言の規定を委員たちに説明しました。そして、法廷が下すいかなる判決にも従う覚悟のあることが表明されました。例え、鎖につなぎ、通りを引きまわし、呪い嘲り、石を投げ、唾をかけ、公衆広場に吊し、弾丸で穴だらけにしようとも、それを師は、愛する先導者であるバブの足跡をたどり、苦難を共にすることとして、大いなる栄誉と見なすと雄弁に断言されました。状況はあまりにも深刻であったので、巡礼は一時中断され、手紙はハイファではなくエジプトで取り扱われ、バハイの聖なる書物は安全な場所に保管されました。アブドル・バハの家での集会は減らされ、スパイはいつも師の行動を見張っていました。
守護者(ショーギ・エフェンディ)は次のように書かれています。そのような状況にもかかわらず、「師の時代のこの騒然とし、最も劇的な期間で、師の人生と力の絶頂期において、師は、尽きることないエネルギーと、驚くべき穏やかさと不動の自信を持って、聖務に関わるさまざまな難事業を抵抗なく遂行されました」。アッカの牢獄都市に捕われたまま、困難の極みにありながら、バブの廟の建設を決して中断させなかったのもこの時のことでした。師の文通に関して守護者は書いています。「この、騒ぎ立てられ、危険な時期に、師はご自分の手で、一日に九十通を超える書簡を書かれ、多種多様な責任の圧力で日中書けない手紙を、一人寝室で、日暮れから明け方まで書かれて夜を過ごされることが多かったと目撃者は証言しました」。守護者の書かれた『神よぎり給う』(十七章)によるこの時期の説明を参考にすれば、当時のアブドル・バハの活動と業績がいかに広範囲に及び、多様性に富んでいたかがわかるでしょう。
アブドル・バハの平静さは少しもゆるがず、師は海に投げ込まれるだろうかとか、トリポリターニアのフィザンに追放されるだろうとか、絞首台で首をつられるだろうとかいう噂が言いふらされても、友人たちの驚嘆と敵の嘲笑の中で、師は家の庭に木やぶどうなどを植えておられました。嵐が吹き荒れた後、忠実な庭師のイスマイル・アカに命じてその果実を収穫させ、その友人や敵が師を訪問した折にふるまわれました。」
師は次のことを書かれた時、その意味を充分にわかっておられました。
「…… 汝ら、神を愛する者よ、最悪の災難が世界を襲ってもびくともしないという決心を持って、大業にしっかりと足跡を記せ。いかなる状況においても、いかなることにもかき乱されることのないように」
勇 気
十七
その後、一九〇七年に、第二次調査団の四人の委員が、トルコから船でやって来ました。その到着の二、三日前に、アブドル・バハは夢をご覧になり、それを信者たちに詳しく話されました。夢の中で、船はアッカの沖に錨を降ろし、その船からダイナマイトに似た数羽の鳥が飛びたち、驚いている町の群集の中に立っておられる師の頭の回りをまわり、爆発せずに船に戻っていったのでした。
調査団の委貝たちは、およそ一ヶ月、アッカに留まりました。彼らは(カルメル)山にある石造りの建物を見に行きました。彼らはアブドル・バハに自分たちの前に来るように言いましたが、今回は、師は断られました。後にロンドンでアブドル・バハは言われたのですが、この時、猛り狂った委員長は、師をアッカの門で吊るすようにという、スルタンからの命令を望んでいました。船は、委員たちと一緒にアブドル・バハを連れて行くために待機していました。師は、落ち着いて自信に満ちておられました。師はまた、まだアッカに残っている信者たちにこう言われました。「私の見た夢の意味が、今やはっきりしました。願わくば、このダイナマイトが爆発しませんように」
それから不可解なことに、ある日、調査団の船はハイファの港を離れ始め、アッカに向かって動き出しました。バハイの人たちと師の家族は、このことを知って大変心配しました。師が船に乗せられ、連れて行かれるのではないかと恐れました。その間、師は一人で黙って、家の中庭を行ったり来たりして歩いておられました。ところが、夕方になってから、不思議なことに船は方向を変え、コンスタンティノープルの方にまっすぐに向かっていったのです。
ちょうどその頃、スルタンを暗殺する企てがあったのです。調査団が報告を提出した時、スルタンとその内閣は事件のことに気をとられて、この件を検討する余地もなかったので、報告書は取り上げられませんでした。数ヶ月後、一九〇八年「青年トルコ党革命」は、旧体制下の政治的、宗教的犯罪者たちを解放しました。これに、アブドル・バハも含まれておりました。———この年、ついに、師は自由の身になられたのです!
また翌年には、スルタン自身が退位させられました。
十八
パリ滞在中、アブドル・バハは一通の警告の手紙を受け取られました。それには、もし師がある国を訪問されると危険な目に遭うだろうと書いてありました。師はこのことを聞かれて、笑いながらブロムフィールド夫人に言われました。「わが娘よ、私の人生で危険でなかった日は一日たりともありませんでしたし、私は喜んでこの世を去り、父なる神の元に行くだろうという事を、あなたはまだ分かっておられないようですね」
ブロムフィールド夫人は、「悲しみと恐れに圧倒され」ました。師は続けられました。「心配しないでください。これらの敵は、天から彼らに下されたもの以外、私の命を奪う力はありません。もし、最愛なる神が、私の血を神の道に犠牲にされるべきだと望まれるなら、それは栄光の日であり、真に望むところです」
落ち着きと晴朗
十九
アブドル・バハの神とバハオラに対する愛は、どんな逆境にもゆるがない平静さと落ち着きをもたらしました。夜中に銃の発射音を聞こうと、鎖に繋がれようと、イナゴが来襲しようと、ハイファに砲撃があろうと、死の脅威が襲おうと。
例えば、親切な兵士に伴われて見せしめに通りを歩かされる時、繋がれた鎖を隠そうとはなさいませんでした。一九一五年、イナゴが作物を全滅させました。何ヶ月も、バハイ世界からのニュースが師に届きませんでした。ハイファは三回も砲撃を受けました。ルア・ゲッチンガーは記しています。
「師が人々の中を進まれる時、師の落ち着いた威厳を目撃することはすばらしいことでした。師は人々の唯一の希望と救いでした」
二十
一九一二年、九月のある日、アブドル・バハはケノーシャ市に向かってシカゴを発たれました。一行は途中で汽車を乗り換える予定でした。
ところが、友人たちが悔しがったことに、師は乗り換えに間に合いませんでした。しかし、師はこう言われただけでした。「…… たいしたことではありません。これには何か訳があるのです」。一行は次の列車に乗りました。途中で、乗り遅れたその列車が、別の列車と衝突してひどく壊れ、乗客が怪我をしたことを知りました。師は一行が十分に守られていることを完全に承知しておられました。そして、アメリカヘお行きになる途中、アレキサンドリアから出発なさろうとしていた時のことを皆に話されました。ロンドンから、新しく進水したタイタニック号に師はお乗りになるべきだという提案があったのでしたが、それに乗られませんでした。タイタニック号は処女航海で沈んでしまいました。師は、直通のルートでおいでになるよう導かれていたことを断言されました。
二十一
ロンドンでの多忙な日々の中でさえ、師はご自分の成すべき事を一体どう成し遂げられるかと心配したり、緊張したり、いらいらされた様子は少しもありませんでした。師は目的をよく承知しておられたので、物事を正しく総合的な見方で判断できました。一九一三年、師の二度目の訪問が終わってロンドンを去られる前、カドガン・ガーデンで話をされました。そこではっきりと、バハイを布教するには『わき目もふらない注意』が必要であると述べられました。「大業のことを知らない人たちに布教しなさい。私がセイェド・アサドラから、私の妹や娘たちに数行の手紙を書くように頼まれてから六ヶ月たちました。私は布教しなくてはならないと思っているので、まだ手紙を書いておりません。私は、大業が広まるようにとあらゆる集会、教会に出かけました。『最も重要な』仕事が目の前にあるなら、『重要な』ものは手放さなければなりません」
信 頼
二十二
師は、神が舵をとっておられることをご存じでした。師は、神なる船長が望まれるように動くだけでした。師は、自分に関わるすべてのことを神の手に委ねたので、ほとんどの人が経験する挫折や心を乱すことを回避されました。この一例として、エルサレムやダマスカス市の軍事司令官たちが師を訪問されたときのことがあります。聖地エルサレムに招待されても、(それは、大変名誉なことなのですが) 師のお返事は『Inshallah』つまり『神の御心のままに』ということでした。実際、師は決して慌てたり、狼狽したりなさいませんでした。師の計画は、良くお使いになられた言葉ですが、『神のご意志』に基づいておりました。
従 順
二十三
アブドル・バハはたまたま、二十一年前に最愛の赤ちゃんを亡くした女性を慰める機会を持ちました。師は嘆かないように願われて、こう言われました。「私にも四歳の息子がおりました。彼が死んだ時、私は自分の態度を全々変えませんでした。私は息子を神に託しているのですから、彼の死を悲しまないのです」
献 身
二十四
C夫人がアッカの師の家を立ち去る直前、師は別れを告げようと彼女の部屋に入って来られました。そして窓のそばに腰をおろされ、長い間黙って海を見おろしておられたので、夫人は自分の存在を忘れられたのではないかと思い始めました。
それからようやく、師は振り向いて、師の特徴の一つである熱のこもった話し方で言われました。「C夫人、ニューヨークに戻られたら、神の愛について人々に語りなさい。世界の人々は神について充分話しません。人々の話はつまらないことばかりで、最も大切な話題を忘れています。しかし、あなたが神について話せば、彼らは幸せでしょう。そして、やがて心を開くでしょう。この栄光ある啓示について話せないことがたびたびあるでしょう。人々が抱く偏見が妨げになり、聞く耳を持たないからです。しかし、神の愛について、いつでも話せるはずです」。
そして、師は出ていかれました。C夫人はしばらく忍び寄る暗闇の中に座っていました。そうしているうちに、太陽の輝きは地中海のきらめく水面に沈んでいきました。香しい影が、アブドル・バハの最後の言葉を優しくこだまさせているかのようでした。「神の愛について、いつでも話せるはずです」。
満 足
二十五
ヨーロッパにおられた時、アブドル・バハはバハオラが投獄され、家を略奪され、財産を没収されたテヘランでの絶望的な日々のことを思い出されながら、それでもこうおっしゃいました。
「超脱は、財産を皆捨てたからと言って得られるものではありません。それは、心の自由によって特徴づけられるものです。テヘランで私たちは、日没には何でも持っていたのに、次の朝には、食べる物もないほどに、すべてを奪われました。私は空腹でしたが、パンさえもありませんでした。母は私の手のひらに小麦粉を注いでくれ、私はそれをパンのかわりに食べました。それでも、私たちは満足していました」
二十六
牢獄の壁は、アブドル・バハの心の幸福を曇らせることはありませんでした。牢獄にいても、師は次のように書くことができました。
「私の入獄と災難の故に悲しまないでください。この牢獄は私の美しい庭であり、私の大邸宅のある楽園であり、私の人類統治の玉座です。獄での私の災難は、正義の人々の間に私が誇りうる王冠です」。
また別な時、こう書かれました。「誰でも、心地良く、平穏、健康、成功、歓喜の状態にあれば、幸福であり得ます。しかし、問題が起きた時、辛苦の時、悪疫の流行している時でも幸福で満足していられるなら、それは高貴さの証拠です」。
人生の苦しい経験が、師の人生観を歪めなかったことは大きな励みになります。七歳の時の結核、貧困、追放、バハオラとの別離、入獄、息子たちの死———師はこれらすべて、そしてそれ以上を耐えられました。それでもなお、人生に対して楽観的で、愉快に過ごされました。師は、逆境を気高く歩まれたのでした。
二十七
『アブドル・バハの遣訓』は、特別な危険と困難が差し迫っていた時期に書かれたのですが、その中で、師は祈りで神に向かわれました。「神よ、あなたは私が最悪の苦難の大洋に浸され、底知れぬ深淵に沈められ、敵に苦しめられ、敵の憎悪の炎に焼滅させられ、血縁の者たちに燃やしつけられているのを見給う。あなたは私の血縁の者たちに強力な聖約と確固とした遣訓を残され、その中で、あなたは、彼らがこの虐待された者に心を向けるように命じられた。……」
それでもなお、師は、こう祈られるのでした。「おお神よ、わが神よ、地にひれ伏し、敬虔に、最も熱烈に嘆願する。私を傷つけた者すべてを許し、私に対して陰謀を企て、罪を犯した者を容赦し、私に不正を働いた者の悪行を洗い浄め給え。彼らにあなたのご恩寵と歓びを与え給え。……」
師は、心から友たちに語られました。他人が「もしあなたの人生を毒すなら、彼らの魂を癒しなさい。……」満足と幸福は、しばしば、悲しみと嘆きから鍛造しなければならないことを、師は充分にわかっておいででした。
師が生涯、安易な道を求められなかったことは、既に十分示されてきました。どんな苦難もありがたく受け入れられました。遂行が困難なことにも決してたじろがれませんでした。
奉仕の精神で成される仕事は礼拝に等しいことを知り抜かれて、そのように仕事をされました。不平を言うことは師には無縁のことでしたし、神のご意志に満足することが、師の精神にとって一番自然なことなのでした。
二十八
ある日、ハイファのアブドル・バハの家の門を、寵を背負った一人の男が通りました。そして、師を見つけるや否や、急いで籠を下におろしました。荷物を運ぶ人夫が見つからなかったので、しかたなく自分で運んで来たと言いました。「人は、役に立つ仕事をすることに対して、恥を感じることはない」と、アブドル・バハは後で言われました。
二十九
アブドル・バハは暑さの中を、肩に花の鉢を乗せて二マイル(約三キロ)の道をいつも歩かれたのでした。師は白い髪と白いあごひげをした、ひどく年老いた老人になっておられたのに、バハオラの墓のそばに花を植えるために、庭から鉢をいつも運んでおられたのでした。その頃、バハオラの墓の壁の横に手動式のポンプがありました。アブドル・バハは老いておられたのに、いつもそこにお立ちになって水を汲みあげられたのでしたが、壁を背にして立たれ、身体が棒のようになってそこから動くことがおできにならなくなるまで働いていらしたということです。ある時は、皆で師を抱えて壁から引き離して、足の血が通うまでさすらなければならなかったことさえありました。
「アブドル・バハ、なぜそんなに疲れるほど働かれるのですか?」皆は聞きました。師は答えられました。「私はバハオラのために、他に何をしてあげられるでしょうか」。これは、ルヒヤ・カヌーンがインド旅行中にされた話です。
三十
師は時に、物語をされて要点を示されました。ジュリア・グランディは次のような師の話を記録しました。
「ある主人には、彼に一身を捧げている奴隷がいました。ある日、その主人は彼にメロンをあげました。切った時、とても熟れておいしそうに見えました。奴隷は一切れ食べ、おいしそうに次々と食べ、その日は熱かったせいか、ほとんどメロンがなくなるまで食べました。主人は最後の一切れをつまんで、味見しました。そして、とても苦くてまずいのに気が付きました。『やあ、これはとても苦い!気がつかなかったのか?』と、奴隷に聞きました。『はい、御主人様、それは、苦くておいしくはありません。でも、私はあなた様からたくさんの甘味を味わわせて頂いたので、たった一つの苦いメロンのことなど言うほどのことではないのです』」
笑 い
三十一
ロンドンで、アブドル・バハは「ウィークリー・バジェット」という雑誌の代表者のインタビューを受けられました。師は、アッカでの初めての夏のことを話されました。
アッカは熱病に襲われている町です。アッカの上を飛ぶ鳥は、死んで落ちるとさえ言われるほどでした。食糧は粗末で不足しており、水は熱病に汚染された井戸から引かれ、気候や状況はその土地の人でさえも病気になるほどひどいものでした。たくさんの兵士が死に、私たちの番兵十人のうち八人が死にました。猛暑の間、マラリア、腸チフス、赤痢などが囚人を襲いました。それで、男も女も子どもも皆、一度に病気になりました。医者も、薬も、適当な食べ物も、そして何の手当もありませんでした。
「私は皆の為にいつも煮汁を作ったのですが、いっぱい練習したので、とても上手に作れるようになりました」。師は笑いながら証言されました。
三十二
ある夏の日、ニューハンプシャー州のダブリン市で、パーソン夫人が各界の名士を二十人ばかり、アブドル・バハに会わせようと、昼食会を開きました。文化人、科学者、芸術家、富豪、政治家、業績のある人たちなど、そうそうたる顔ぶれでした。出席者たちのほとんどはアブドル・バハの生い立ちについて少し知っていましたので、たぶん、師からバハイ信教についての講話を聞かされるものと思っていたことでしょう。夫人は永遠の命について話してくれるように師に頼んでおりました。しかし、食事が進むにつれて上流階級のありきたりな話ばかりなので、夫人は考えて、アブドル・バハが精神的なことを話されるようにと話題を変えました。
師はこれに応じて、彼らに物語をしても良いかと聞かれ、師が豊富に蓄えている東洋の物語をひとつ語りました。その話のおちに人々は心から笑いました。緊張感がほぐれ、みんながすっかり打ち解けました。人々は、師の逸話が思い出させた話を次々にしました。それから、アブドル・バハは幸せに輝く顔をされながら次々と物語を語りました。師の笑い声が部屋中に鳴り響きました。師は言われました。………笑うことは良いことです。笑いは精神をくつろがせます。師と仲間が牢獄に入れられていた時、必要なものは欠乏し、極度に困難な状態に、一日の終わりに、めいめいその日に起こったおかしな出来事を語ったのでした。たった一つでさえ見つけることが難しい時もありましたが、いつも涙がほおを流れるほど笑うのでした。
「幸福は物質的環境によって得られるものではありません。そうでなければ、そこで過ごした年月はどんなに悲しかったことでしょう。しかし、実際には、いつも歓喜と幸福の絶頂にいました」
その日、師がバハイの教えについて語ったのはこれくらいでしたが、出席者への効果は、どんな「学問的論述」がもたらしたものより大きかったに違いありません。
客が帰ったあと、師はホテルに戻ろうとしておられました。師は夫人のそばに行き、彼女があとで人によく話していたように、まるで良かったと認めてもらいたがっている子どもみたいに、少し物欲しそうな笑顔で、自分の話に満足したかどうか尋ねられました。
三十三
版を重ねた『バハオラと新時代』の著者である、J・E・エッセルモント博士は、一九一九年〜二〇年の冬の二ヶ月半の間、ハイファでアブドル・バハの客人として過ごしました。
彼は次のような光景を見ました。「昼食の時も夕食の時も、師はいつも何人かの巡礼や友人をもてなしておられました。そして皆に、非常に豊富な話題について貴重な話ばかりでなく、楽しく面白い話をして喜ばせておいででした。師は『私の家は、笑いと喜びの家である』と言われましたが、まさにその通りでした。師は、さまざまな人種、肌の色、国家、宗教の人々が和合して、心からの友情をもって、師のもてなす食卓を囲むことをとても喜ばれました」
別の折に言われたことですが、「私の家は平和の家です。私の家は喜びと歓喜の家です。私の家は笑いと高揚の家です。この家の門をくぐって入ってきた人は皆、幸せな気持ちになって帰らなくてはいけません」
ユーモア
三十四
ある日、聖地で師は、アメリカ人バハイのハーラン・オバーにインドに行くようにと言われました。ハーラン・オバーは信教のために、あちこちを旅行することがありました。しかし、この時はその旅をする気になれませんでした。
二、三日後、アブドル・バハは彼にアメリカに行くように言われました。「しかし、師よ、私はインドヘ行くものだと思っていました」と、オバーは言いました。「クリストファー・コロンブスもそう思っていましたね」と、アブドル・バハは答えられました。
三十五
ロンドンで一人の記者が、アブドル・バハの計画について尋ねました。———
彼が驚いたことに、師は英語で答えられました。記者は師の発音がすばらしいと言いました。すると、アブドル・バハは立ちあがり、部屋を歩きながら、ヒポポタマス(かば)のような複雑な英語の単語をたくさんしゃべられました。そして笑いながら言われました。「私はこんな難しい英語を言えるのですよ」
三十六
ブロムフィールド夫人は師のすばらしいユーモアの別の例をあげました。ある日、集会のあと、いつものように師の周りにはたくさんの人が集まったので、アブドル・バハはたいへん疲れて家にお着きになりました。私たちは、師がこんなに疲れておられることに心を痛めておりました。アパートの部屋までたくさんの階段を昇らなければならないことも気がかりでした。突然、驚いたことに、師はすさまじい速さで上まで止まらずに駆け上がられました。
師は、後から登ってくる私たちを見下ろされながら、晴れやかな笑顔―疲労の陰さえ消えてしまっていた笑顔―をして言われました。
「あなた達は、皆ずいぶん年をとっていますね!私はとても若いですよ!」
そして、付け加えられました。「バハオラの力によって、すべてのことが可能になります。私はたった今、その力を使いました」
三十七
ニューヨーク市で、ある若い税制改革支持者が尋ねました。「私は仲間に何を伝えればいいでしょうか」。師はお笑いになりながらたっぷりのユーモアを込めて言われました。「皆さんに神の王国に来るように伝えなさい。そこには土地がいくらでもあります。おまけにそれには税金がかかりません」
三十八
アブドル・バハは、共通語の必要性を指摘する話をされました。「城門に、ペルシャ人、トルコ人、アラブ人、ギリシャ人の四人の旅人が座っていました。彼らは空腹で、夕食を食べたがっていました。それで、みんなのために買物をしてくる人を一人選びました。しかし、何を買うか意見がまとまりませんでした。ペルシャ人はアングールがいいと言い、トルコ人はウズム、アラブ人はアネブがほしいと言い、ギリシャ人は緑と黒のスタフィリオンがほしいと大声で叫びました。けんかが始まり、激論が戦わされ、めいめい自分の欲しがっているのが一番の食事であることを証明しようとして、もう少しで殴りあいになるところでした。突然、ぶどうを積んだロバが、通りかかりました。みんな飛び上がって一所懸命、指をさしました。
『ほら、ウズムだ!』トルコ人が言いました。
『アネブだ!』アラブ人が言いました。
『アングールだ!』ペルシャ人が言いました。
おしまいにギリシャ人が言いました。『スタフィリオンだ!』
そこで彼らはぶどうを買い、仲良くいただきました」
エピローグ
アブドル・バハの言葉と行いの影響
一
盗人でさえも、師に感化されました。一九七二年に、マーガレット・ルーはハイファから次のような手紙を寄こしました。
「親愛なる老エイブロンが、最近、ペルシャからの巡礼に来ました。彼は以前、一九一九年に五十七日間、巡礼としてパレスチナにおりました。第一次世界大戦終了後、最初に招かれたグループの一員だったのでした。その時、テヘランからの旅は汽車や船、最後には馬車を乗りついで三ヶ月もかかりました。イスタンブールで友人たちが、ハイファにおられるアブドル・バハヘの贈り物として彼に銀貨を預けました。しかし、彼らがアッカを通りかかった時、盗賊が近寄り、物をせびりました。荷物はすべて破られ、いろいろな物が盗まれました。
彼らが銀貨を手にした時、エイブロンは言いました。『その銀貨はアブドル・バハに差し上げるものです』。突然、盗賊たちは静かになり、言いました。『アブドル・バハは私たちに食べ物、着物と宿を与えてくれた。アブドル・バハに渡す銀貨は返します』」
マーガレット・ルーは書きました。「アブドル・バハは四十年以上もアッカに住まわれ、その町の最も優れた市民であり、果てしない年月、昼も夜も、さまざまな形で人々に奉仕した、偉大な社会福祉家でおられたことを思い起こさせられました」
二
アブドル・バハの友人たちがした師の話は、感動的です。師の生活、言葉、行いは、光栄にも師の話を聞いたり、会ったりした数え切れない人々に強い影響を与えました。師の魂を揺さぶるような人生を知った時、師の影響は、まだ生まれていない何百万人もの人にも感じられるでしょう。彼らもまた、師と同じようになるために一所懸命、努力するでしょう。そして、今、私たちがしているように、聖なる愛の物語である、『初期の巡礼』を大切に思うでしょう。その中で、メイ・ボルス(マックスウェル)は親愛の気持ちを込めて、アブドル・バハの言葉を伝えています。
「あなたの心が自分自身や世俗から切り離され、聖霊によって強固にされ、神の愛の火で満たされるように祈りなさい」。「今日、神の大業のために立ち上がったものは誰でも、神の精神で満たされるでしょう。神は天からあなたを助けるために、多くの天使を遣わされるでしょう。信仰を持てば、不可能なことは何一つありません。ここで、あなたと私の間の聖約となる命令を与えましょう。
——— 信仰を持ちなさい。その信仰はどんな嵐も動かすことのできない岩のように不動であり、何ごとにも煩わされず、終わりに至るまで、あらゆることに耐えるものでありなさい。……信仰があればあるほど、あなたの力と祝福も増すでしょう。これが天秤です、これが天秤です、これが天秤です」。
「私があなたに与えるもうひとつの命令は、私があなたを愛するのと同じように、あなた方もお互いに愛し合うことです。偉大な恵みと祝福があなた方の国の人々に約束されています。ただし、条件があります。つまり、その国の人々の心が愛の火で満たされ、身体は異にしても心はひとつというように、完全な優しさと調和のもとで暮らす場合です。もし、この条件が叶わないならば、偉大な祝福は先に延ばされるでしょう。このことを決して忘れないように。完全性の目でお互いを見つめなさい。私を見なさい。私に従いなさい。私のようになりなさい。自分自身や自分の人生のことを考えないようにしなさい。あなたが食べようと眠ろうと、居心地が良かろうと、健康であろうと病気であろうと、友と一緒であろうと敵と一緒であろうと、称賛を受けようと非難を受けようと、これらすべてのことに全く心を煩わされないようになりなさい。私を見なさい。私のようになりなさい。自分自身と現世を捨てなさい。そうすれば、あなたは再び生まれ変わって神の王国に入るでしょう。ろうそくがどのように光を出すのかよくご覧なさい。それは、明るい輝きを生み出すために、一滴一滴、涙を落としながら命を削っていくのです」