(暫定訳)
祈りと礼拝の生活
バハオラ、バブ、アブドル・バハの書、
およびショーギ・エフェンディ、万国正義院の手紙からの引用文の編纂集
万国正義院の研究部編纂
2019年2月
祈りの力
私は嘆願します…私の祈りを、あなたの美から私を遮る暗幕を焼き尽くす火となし、あなたの御前の大海に私を導く光となし給え。
(バハオラ バハオラによる祈りと黙想 CLXXXIII) [1]
神の御口をもれる一つ一つの言葉は、すべての人体に新たな生命を授けるに充分な威力を有する。おお、汝ら、この真理を理解するものならば。
(バハオラ 落穂集 LXXIV) [2]
おお、わがしもべよ。汝に授けられた神の聖句を、神のおそば近く仕える人々が唱えるように唱えよ。されば、汝の祈りの調べのうるわしさは、汝自身の魂に火 をともし、また、すべての人々の心をも引き寄せるであろう。何人であれ、自室において神の啓示し給う聖句を唱えるならば、その口をもれる言葉の芳香は、全
能なる神の御使いたちにより、広く世に広められ、すべての心正しい人々の胸を感動に打ちふるわせるであろう。たとえ最初はその作用に気づかずとも、祈るも のに賜わる恩寵の効力は早晩必ずその魂に影響を及ぼすであろう。このように神の啓示の神秘は威力と英知の源である神の御心により定められたのである。
(バハオラ 落穂集 CXXXVI) [3]
もし汝ら永遠の生命を欲するならば、天来の香りを嗅ぐがよい;またもし不朽の生命を求めるならば神の御言葉の庇護のもとに住まえ。
(アブドル・バハ ペルシャ語から訳された一書簡から) [4]
神の御言葉は聖なる春季の、生命を与える微風にたとえられ用。精神的な音調で唱える時、それは生命の香りを授け、真の救済をもたらす。それは汚れのない土壌からバラ園を作り出し、世界中に麝香のような芳香を漂わせる。
(アブドル・バハ ペルシャ語から訳された一書簡から) [5]
もし汝が啓示された祈りのいずれかを唱え、彼に顔を向けて神の援助を求め、礼拝と熱意をもって彼に
(アブドル・バハ ペルシャ語から訳された一書簡から) [6]
…世界にとってそのように素晴らしい使命を彼らに委ね給うた彼は、祈りや嘆願の中で彼らが心を全能者に向けるために彼の聖なるぶどう園で働き、彼によるこの世界のための聖なる計画を彼らが実行できるようにする唯一の手段である援助と指導を探求するのを忍耐強く待っておられる。 (1923年1月7日 カリフォルニア州パサデナのバハイ共同体宛のショーギ・エフェンディの手紙) [7]
あなたがバハオラやアブドル・バハのお言葉を無私と配慮をもって読み、それらに集中するなら、以前は知らなかった真理を発見し、世界の偉大な思想家を困惑させた種々の問題について洞察を得るでしょう。 (1925年1月30日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙の、彼の直筆での追伸) [8]
したがって、守護者は、あなたが神の恩寵を余すところなく頂けるよう全能者に祈り、嘆願するよう望んでおられます。それを通してあなたの精神的なエネルギーは奮い起こされ、あなたは信教のすべての誠実で真の従者らを活気付け、支え、強くするのに必要とされるその精神をより一層吹き込まれるでしょう。
(1934年3月13日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [9]
彼は、聖なる廟であなたの精神的な進化ために祈るということを再度確約したいと願っておられます。神の力は私たちの性格を完全に変え、かつての自分たちとは全く違う存在となすことができるのです。祈りと嘆願、バハオラが啓示された聖なる法への従順、彼の信教へのいや増す奉仕を通して、私たちは自分を変えることができます。
(1941年11月22日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [10]
私たち皆が知っているように、信者らは自分たちの生活や行動で模範を示すよう努力すべきです。すなわち、他の人々が人間性を改革する信教を受け入れようと感じるほどの模範です。しかしながら不幸にして皆が簡単、かつ迅速に自己克服を達成するわけではありません。もし私たちがその力の影響を受けるよう努力すれば、この大業には私たちを再生する精神的力があり、これに関して最大の援助は祈りであるということを新旧すべての信者は認識すべきです。私たちは自身の性格の欠点を克服するために、また、自我を克服するために意志力を発揮できるようバハオラに援助を求めるべきです。
(1945年1月27日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [11]
神があなた方に教えを受けいれる能力のある魂を送ってくださるよう、皆で特別のお祈りをするよう、彼は提案しておられます。お祈りは他の方法では開けることができないと思えるような扉の鍵を開けるのです。
(1945年6月28日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [12]
彼のメッセージを受け入れる能力のある魂に会わせていただけるよう、毎日バハオラに祈るよう、彼はあなたに提案しておられます。祈りの力は非常に偉大で、聖なる確証を引きつけます。
(1951年9月30日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [13]
この輝かしい時代の、一対の発光体たる御方たち(バブとバハオラ)は、祈りについて、次のように教えられました。祈りは、人がその創造主と直接、媒介なしに行う欠くことのできない精神的な会話です。祈りは、精神の生命を維持する精神的糧です。それは朝露のように、心をはつらつとさせ、浄化し、自我への執着から心を清めます。それは暗幕を焼き払う火であり、全能なる御方との再会の大洋へ導く灯火です。祈りと云う翼に乗って、人は神の天空を飛翔し、聖なる実在に近づいていきます。魂の限りない能力の発展や、神の恩恵をどれだけ引き寄せられるかは祈りの質に左右されますが、延々とした祈りは望ましくありません。
(万国正義院 2014年12月18日 イランのバハイたち宛) [14]
神との親交
神の聖句を毎朝、毎タ唱えよ。それらを怠る者は誰であれ、神の聖約とその証言に対する忠誠を怠る者である。この日、これらの聖句から顔を背ける者は誰であれ、神より永遠に顔を背けた者らの一人である。おおわがしもべらよ、皆ことごとく神を畏よ。神の句を大量に読むことや、日夜多くの敬度な行為を重ねることを誇るな。なぜなら、危難の場の救助者におわし、御自力にて存在したまう神のすべての聖なる書をだらだらと読むよりも、たった一行の聖句を喜びと輝く心を持って唱えるほうが良いからである。疲労感に襲われたり、気が沈んだりしない程度に聖句を読むようにせよ。汝の魂を疲れさせる、あるいは、圧迫するようなことを課すことなく、むしろ、活気づけ、高揚させるものを課すようにせよ。それにより、汝らの魂が聖句の翼に乗って、神の明白なしるしの夜明けの地に向かって飛翔できるように。これは汝らを神に近づけるであろう。もし汝ら、理解するものならば。
(バハオラ ケタベ・アグダス 149節) [15]
おお、わが主よ。あなたに下された聖句に耳を傾けることができるよう、私の耳を浄化し、あなたの知識の光で私の心を輝かせ、あなたについて述べ、あなたを称える歌を歌うことができるよう、私の舌を緩め給え。おお、わが神よ、あなたの御力にかけて!私の魂はあなたの他のいかなるものにも礼拝することはなく、私の心はあなたご自身以外の何ものをも求めません。
(バハオラ バハオラによる祈りと瞑想 LXXXIV) [16]
朝早く、拘束されぬ御方の美を思い起こし、夜明けに彼と交信することに専念せよ。おお、アリよ!我を思い起こすことは魂の治療薬であり、人々の心の光である。
(バハオラ ペルシャ語から訳された書簡) [17]
おお、私の魂にあなたの火を灯して、心にあなたの光明の輝きをくださったあなたに感謝を捧げまつる。あなたはあなたの最も聖なる、高貴な舌、またあなたの威厳に満ちた貴重な発言を通して、あなたの僕らに、どのようにあなたのことを述べるかを教え、あなたに嘆願する手段を明かし給いました。あなたの御力と壮大;もしあなたの指示のためでなければ、誰があなたの創造し給うたた王国であなたを満足させる方法を見いだすことができるでしょう。
(バハオラ バハオラによる祈りと瞑想 CLXXVI) [18]
おお主よ、私の祈りをして生命の泉となし給え。そしてあなたのご主権の続く限り、私がこの泉により生き、あなたの諸々の世を通じてあなたについて述べることができますようなし給え。
(バハオラ バハオラによる祈りと瞑想 CLXXXIII) [19]
おお光の子よ!
われより他のすべてを忘れ、わが霊と交われ。これわが命令の真髄である。それ故それに面を向けよ。 (バハオラ 隠されたる言葉 アラビア語 16) [20]
おお栄光の子よ!
聖なる道に急ぎ、われと親交し得る天国に入れ。心霊もて汝の心を磨き浄め、最高なる者の宮廷に急げ。 (バハオラ 隠されたる言葉 ペルシャ語 16) [21]
あなた以外のいかなる者の記述をも超えて高遠なるあなたに栄光あれ、あなたの美徳を適切に賛美すること、あるいはあなたの真髄の内奥の実体を理解することは人間の想像力を超えているが故に。あなたの創造物があなたを描写すること、またはあなた以外の者があなたを知るなどと言うことはあなたの栄光からはるかに離れている。おお、わが神よ、あなたは我があなたを知るよう作られた故に我はあなたを知った。もしあなたが我にあなたご自身を明かし給わなかったなら、我はあなたを知ることはなかった。あなたが我を召喚し給うた御力によりあなたを崇拝す。あなたの召喚でなかったなら我はあなたを崇拝しはしなかった。
(バブ バブの書からの選集 (Haifa: Bahá’í World
Centre, 1978), p. 203) ) [22]
神を想起することは花々やヒヤシンスに鮮やかさや優美を授け、それらを生き返らせ、香しさ、芳香、新たな魅力を得させる雨や露のようである。「そして、汝は地球が干上がり、不毛になっているのを見た:しかし、我がそこに雨を降らせると、地上は撹拌され、潤いを与えられ、あらゆる種類の豊かな牧草を育てる。」[1]それ故、汝、無限の鮮やかさと美に達するよう、日夜、神の賞賛、賛美に努めよ。
(アブドル・バハ ペルシャ語から訳された一書簡から) [23]
神に祈り、神の援助を求めること、彼の助力を嘆願し、懇願することはこの僕の義務である。それが隷属の地位であり、主は彼のお望みのままに、彼の究極の知恵に沿って命じ給う。
(アブドル・バハ アラビア語から訳された一書簡から) [24]
神に誉あれ、汝の心は神を寿ぐことに従事し、汝の魂は神の吉報に喜悦し、祈りに熱中している。祈りの状態は最良の状態である。なぜなら、人はそうして神に結びつけられるからである。祈りはまことに、生命を授ける。特に祈りを一人で、時には真夜中に、日常の雑事から解放されたときに捧げるとき。
(アブドル・バハ アブドル・バハの書からの引用 No.172) [25]
私たちはこの状態に達するため、万物を離れ、世の人々から遠ざかり、ただ神のみに向かうよう努めなければならない。この状態に達するために幾分努力を要するが、それに務め、努力すべきである。私たちは物質的なことにあまりとらわれないで、もっと精神的なことに心を向けることによってこの状態に達することができる。前者から遠ざかれば遠ざかるほど、後者により近付くのである。選択するのは自分である。
私たちの精神的知覚、心眼が開かれれば、万物に神の精神のしるしや証拠を見ることができよう。万物は私たちに精霊の光を反射することができる。
(J.E. エッセルモントが引用しているアブドル・バハの言葉の報告 バハオラと新時代) [26]
誠に、強力なる御方に弱者が祈願し、栄光に満ち給う御方に恵沢を求める者が懇願することはふさわしいことである。人が主に祈願し、主に向かい、主の大海から恵沢を求めるとき、その祈願は人の心に光を、目に明るさを、魂に生命を、存在に高貴さをもたらす。
(J.E. エッセルモントが引用しているアブドル・バハの言葉の報告 バハオラと新時代) [27]
最高の祈りとは、ひたすら神の愛のために祈ることで、神や地獄への恐れ、または恵沢や天国への望みのために祈るのではない…。人が誰かに恋をしたら、その人の名を述べずにはいられない。ましてや、神を愛し始めたとき、その御名を口にしないでいることはどれほど難しいことか…。精神的な人間は神を賛美すること以外に喜びを見出すことはできない。
(J.E. エッセルモントが引用しているアブドル・バハの言葉の報告 バハオラと新時代) [28]
私たちが心を込めて神の向かい、彼の御名を念ずる時、精神的な結びつきが不動のものとなり、それを通して私たちは聖なる力の経路となる。
(1925年10月19日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [29]
祈りの精神とかたち
最も受け入れられる祈りは最大限の精神性と輝きを持って捧げられる祈りである;神は長々とした祈りを、これまでも、いまも愛しいとされない。祈りが超然としており、純粋であればあるほど、神のみ前により一層受け入れられる。
(バブ バブの書からの選集 p. 78
) [30]
祈りの時、プライバシーが申しつけられている理由はこうである、つまり、汝が神を思い起こすことに最高の注意を注ぐことができるようにし、心が常に彼の精神で活気つけられ、汝の最愛なる御方からヴェールのようなもので遮られることがないためである。汝の心が高貴なる栄光の頂、交信の焦点に同調していない間に、汝の舌が口先だけで神を賞賛することがないように。そうすれば、もしかして汝が復活の日に生きていれば、汝の心の鏡は真理の昼の星である彼に向けられよう;そして、彼の光が輝きだすやいなや、その光輝は汝の心に映し出された。何となれば、彼はすべての善の源であり、すべてのものは彼に戻っていくからである。しかし、もし汝が瞑想の中で自分に向かっている時に彼が出現されれば、彼が啓示し給うた言葉で彼の御名を述べない限り、それは汝に利益をもたらさない。と言うのも、やがて現される啓示で、神が想起される御方は彼であり、一方、現在汝が捧げている祈りはバヤンの点によって定められたものであり、復活の日に輝きを放つ彼はバヤンの点に収められている内なる実体の啓示---この前に出た啓示よりも一層強力な啓示、計り知れないほどの力をもつ啓示だからである。
(バブ バブの書からの選集 p. 93-94 ) [31]
必須の祈り以外の祈りを捧げる時、それらを、一緒になって、心地よいメロディーをつけて唱えることにいささかの問題もない。
(アブドル・バハ ペルシャ語から訳された書簡より) [32]
必須の祈りであれ、他の祈りであれ、バハイのお祈りの奉献を特徴つける明快さは保たれるべきです。厳しさや儀式は厳密に避けなければなりません。
(1936年10月30日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [33]
あるときアブドル・バハがおっしゃいました:「礼拝者は捉われない精神、望みの無条件の放棄、集中した注意力、精神的熱情をもって祈らなければならない。…心の琴線に触れない、機械的、習慣的な祈りは役に立たない。」
(1925年10月19日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [34]
その寺院で書簡を詠唱することについて、ショーギ・エフェンディはこれに関して友らに促したいと願っておられます、つまり、礼拝のことでいかなる形式の厳しさも画一性も避けるということ。東洋の言語で祈りを朗唱する、または詠唱することになんら支障はないが、その寺院の講堂での祈祷でそのような祈りの形式を採用する義務もありません。それは義務つけられてもいないし、禁止されてもいません。常に心しておくべき重要な点は、バハオラはある特定の義務の祈り以外には、寺院、またはその他で行われる礼拝に関して厳格な、あるいは特別な規定は与えておられないということです。祈りは基本的に神と人との交わりであり、それ自体あらゆる儀式的形式や公式を超えるものです。
(1935年6月15日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [35]
日々の祈りは--「ナマーズ」[2] のような特定の義務の祈りを除き—-信者の好む仕方や様式で朗唱することができる。そのような祈りにおける画一性は、いかなる状況であれ、決して友らに課されるべきではありません。礼拝者はまったく自分が望むように祈る自由が残されています。
(1935年7月6日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [36]
あなたの精神的経験について、守護者はそれらの共有にとても関心を持っておられます。とはいえ、あなたは祈りと瞑想の間、常にバハオラや師によって啓示された言葉を使い、読むよう促しておられます。
(1935年12月6日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [37]
真の礼拝者は、祈っている間、自分の望みや願いの達成を神に求めるということはあまりせず、むしろ、それらを調整し、神の御意志に沿わせるよう努めます。そのような姿勢を通してのみ、人は祈りの力だけがもたらすことのできる内奥の平和や満足の気持ちを得ることができます。
(1938年10月26日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [38]
最大名を使うことを含め、祈りの重要性や力について、過度になら内容にしながらも、もっと強調すべきであると、彼は感じておられます。本当に重要なのは言葉の裏にある精神です。
(1946年3月16日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [39]
日々の祈りは各自自分のために唱えられ、声にして述べようと、暗黙のうちに述べようと違いはありません。死者のための祈り以外に会衆の祈りはありません。私たちは会合のとき治癒やその他の祈りを唱えますが、毎日の祈りは個人的義務です、ですから、誰か別の人がそれを読むことはあなた自身のためにそれを唱えるのとは同じはありません。
(1949年1月31日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [40]
祈りに秘められた力は、怖れや期待を超越し、誇示や迷信から解放され、神への愛に動機付けられる時に発揮されます。祈りは、理性が祈りの効果によって啓発されるよう、黙考と瞑想を呼び起こすような、誠実で純粋な心をもって行わなければなりません。そのような祈りは言葉の限界を超え、単なる音声をはるかに凌ぐものとなります。その旋律の甘さは心を喜ばせ、高揚させ、聖なる言葉が持つ浸透力を強化し、世俗的性向を神々しい属性へと変え、人類への無私の奉仕に駆り立てます。
(万国正義院 2014年12月18日 イランのバハイたち宛) [41]
黙想の役目
汝の主であり、諸々の世の主におわす神の目的を発見することができるよう、われがここに汝に明かしたことについて瞑想せよ。これらの言葉の中には、神聖なる英知の神秘が秘蔵されている。
(バハオラ 落穂集 LXXIX) [42]
バハオラは、あらゆる現象には(神からの)徴があると言われました。識者の徴は熟考であり、熟考の徴は沈黙である、なぜなら人間は同時に二つのことをすることは不可能だからです。人間は喋りながら、同時に瞑想することはできないのです。
瞑想はその人のうちなる霊と話しあうことであるというのは自明の事実です。瞑想の状態で、ある問題について内なる霊と話しあうとき霊が答えます。光が輝きだし、実相が明らかにされます。
こうした瞑想の能力を欠くものに「人間」という名を用いることはできません。瞑想の能力のないものは動物でしかなく、野獣より低級のものです。
瞑想の能力をとおして人は永遠の生命に達し、瞑想をとおして聖霊の息吹を感受するのです。聖霊の賜物は反省と瞑想の中で感知されるものです。
人間の霊は瞑想しているときに物を知らされ、強化されます。この瞑想のときに、今まで知らなかった事物がその者の目に明らかにされるのです。瞑想を通して霊的啓示を感知し、瞑想を通して天の食物を授かるのです。
瞑想は神秘の扉を開く鍵です。瞑想の状態で人は自分自身を引き出します。この状態にあると、人はあらゆる外部の事物から絶縁します。そのような自己の世界に入ると、人は霊的生命大洋に身を浸し、事物それ自体の秘密を明らかにすることができるのです。このことを説明するために、人は二つの視力を与えられていると考えてください。内的視力がはたらいているときは外的視力は動かないのです。
こうした瞑想力は人間をその動物的性質から解放し、事物の実相を識別させ、神に触れさせるのです。
この瞑想の力が目に見えない世界から科学や芸術を生みだすのです。瞑想の力を通して発明が可能となり、巨大な企業が起こされ、施政が円滑になるのです。この力をとおして人はまさに神の国へ入るのです。
にもかかわらず、人間にとって全く無益な想念もあります。それらは大海を当てもなく動く波のようなものです。しかし、もし瞑想力が内なる光を浴びて、聖なる属性をそなえるなら、すばらしい結果が得られることは確かです。
瞑想の力は鏡に似ています。もしも鏡を世俗的な事物に向けるなら、鏡はそれらを反映します。ですから、人間の霊が世俗的なことを黙想するならそうした世俗のことで頭がいっぱいになるのです。
しかし、もし皆さんがその霊の鏡を天界に向けるならば、天界の星座や真理の太陽の光が心に反映し、神の国の美徳が得られるでしょう。
したがって、瞑想の力という鏡を正しい方向に向けましょう。つまり、俗事に向けるのではなく、天の太陽の方へ向けるのです。そうすれば私たちはやがて神の国の秘密を発見し、聖書の寓話の意味や神霊の神秘を理解するようになるでしょう。
私たちが誠に天上の真髄を反映する鏡となり、天の星を反映するほどに純粋になるよう願っております。
(アブドル・バハ パリでの講話集 1911〜1912年 パリでアブドル・バハの講演) [43]
…もちろん、バハイたちはそれらの書の重要性について瞑想し、それらの意味を把握するよう最善を尽くすことができるし、そうすべきです。このことに何ら異論はありません。しかしながら、ある事柄は、それらの性格からして、少なくとも現在の私たちの進歩の段階では、私たちにとって謎です。
(1942年1月14日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [44]
教義に黙想の一定の形は規定されておらず、内面的な進歩のための計画も規定されていません。友らは祈るよう促されている、いや命令されています。そして、彼らは黙想もすべきです。しかし、そのやり方は完全に各人に任せられています。
…
黙想を通して得られたインスピレーションは人が測ることも、限定することもできない性質のものです。神は、もしそうしたいとお望みなら、私たちが前には持っていなかった知識から出るものを私たちの考えに吹き込むことができます。
(1943年1月25日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [45]
黙想を通してより深い知識やインスピレーションへの扉が開かれます。当然、もし人がバハイとして黙想するなら、その者は源なる御方と結ばれます;もし神を信じる者が黙想するなら、彼は神の力と慈悲に調和します;しかし、バハオラを知らない、あるいは神を信じない人が受けるインスピレーションは単に自分自身のエゴからのものであるということはできません。黙想はとても重要であり、友らに黙想するよう教えるべきでないという理由はないが、それに密かに入り込む迷信や愚かなアイディアを警戒すべきであると守護者はみておられます。
(1945年11月19日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [46]
彼は、バハイたちは誰か他の人に勧められた黙想のやり方にではなく、バハオラの示された黙想を使うのが賢明であると捉えておられます;しかし、それら詳細について信者らは自由であり、神との交わりに自分自身の段階を知ることにおいて個人的な自由が許されています。
(1952年1月27日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [47]
祈り、黙想、行動
それ故、自分たちの行動が美しい祈りとなるよう、日々努力いたしましょう。神へ顔を向け、常に正しく、高尚な行いをしましょう。貧しいものを豊かにし、落伍者を再起させ、悲嘆にくれるものを慰め、病人に癒しをもたらし、恐れるものを安心させ、虐げられたものを救済し、絶望した者に希望を与え、困窮者を庇護しようではありませんか。
(アブドル・バハ パリでの講話集 No.26) [48]
おお、神の侍女よ!神の言葉を吟唱し、それらの意味について熟考し、それらを行動に移せ!我は汝が生命の王国で永遠に高い地位に到達させられるよう神に乞い願う。
(アブドル・バハ アブドル・バハ
アッバスの書簡 第1巻) [49]
祈りや黙想は各人の精神生活を深めるうえで極めて重要な要素ですが、それらは祈りや黙想の明白な結果である行動や模範を伴うべきです。両方が不可欠です。
(1944年5月15日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [50]
師は、私たちが努力した後に門戸が開かれた時、導かれると言われました。私たちは祈り、神の御心のみをなすよう願い、懸命に努力します。そして、もし自分たちの計画はうまくいってないと分かったら、少なくとも今のところ、それは正しい計画ではないと考えます。
(1952年10月29日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [51]
人はバハイになると、実は、人の魂に精神の種が成長し始めます。その種子は精霊の流出によって水が注がれねばなりません。精神のそれらの贈り物は祈り、瞑想、聖なる御言葉の学習、神の大業への奉仕を通して受けとられます。実は、大業への奉仕は、種を蒔くとき土壌を耕す鋤のようなものであるということです。土壌は、肥沃にするため、そして種の成長を強化するため、しっかりと耕される必要があります。全く同じように、精神は、精霊を絶えず反射できるように心の土壌を耕すことを通して進化します。この方法で人間の精神は成長し、とんとん拍子に発展します。
(1954年10月6日 一バハイ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [52]
…友らは祈りと黙想の中で神に向かい、信教の教えを学習し、それから立ち上がり、行動すべきです。行動のない祈りと黙想、学習はなんの価値もなく、行動は、魂を強め理性を育てる祈りと黙想によって補強されねばなりません。
(1956年5月30日 アジアの大業の翼成者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [53]
親愛なる守護者は、信教を効果的に伝えるために各人は聖なる言葉を深く学習し、その命を与える活水を吸収し、この栄光ある教えを満喫しなければならないと、繰り返し、再三、強調しておられます。それから、各自、その御言葉の意味を黙想し、精神的な深さを見出し、導きと援助を祈願すべきです。しかし最も重要なのは、祈った後、行動するということです。祈り、黙想した後、人は立ち上がり、バハオラの信教を伝えるために彼の導きと確証に完全にすがらなければなりません。効果的な布教にとって知恵と大胆さが必須であるように、行動における堅忍不抜は不可欠です。各自はこの重要なゴールのためにすべてを捧げるべきです。それから勝利は得られるでしょう。
(1956年5月30日 アメリカの大業の翼成者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [54]
ティーチングは天の確証の源です。導きを求めて熱心に祈るだけでは不十分で、その祈りは行動の最善の方法、そして行動そのものについての黙想が続かなければなりません。たとえ、行動が直ちに結果を生み出さなくても、あるいは、ことによるとまるで正しくないとしても、あまり違いはありません。なぜなら、祈りは行動を通してしか答えられないし、誰かの行動が間違っているなら神は正しい道を示す方法を使うことができるからです。ですから、あなたや…行政会の他のメンバーたちは立ち上がり、この大業を熱心に広めるべきです。あなたはこの活動で導かれ、確証を授けられているということに気づくでしょう。
(1957年8月22日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [55]
必須の祈り
必須の祈りについてのあなたの言及について;実際、絶対的誠意をもってこれを唱える者は、あらゆる創造物を引きつけ、存在の世界に新しい生命を注ぐであろう。この僕は、この世の変転、偏見、暗黒から彼らを救い出し、あらゆる状況下で彼の近くに彼らを引き寄せることで彼らを飾るうえで彼の愛し給う者らが助けられるよう、彼の主に懇願する。誠に、彼は全てを所有し、高遠なる御方[3]なり。
(バハオラ ペルシャ語とアラビア語から訳された書簡より) [56]
必須の祈りは義務である。なぜなら、それは人を謙虚や従順に導き、神に顔を向けさせ、神への愛を表わすのに役立つからである。必須の祈りを通して人は神と霊的に交わり、神に近付くことを求め、真に、心の最愛の御方と対話をし、そして精神的地位に到達するのである。
(アブドル・バハ ペルシャ語から訳された書簡より) [57]
汝、これを知れ、必須の祈りのすべての言葉と動作には、人間が理解し得ない、また書簡や巻物が包含することのできない間接的な言及、神秘、知恵があるということを。
(アブドル・バハ アラビア語から訳された書簡より) [58]
モナジャド[4]の朗唱に関してあなたがロンドン行政会から守護者に具申するよう求められた質問について; 守護者は、まず、ナマーズとモナジャドには基本的な違いがあるという事実にあなたの注意を促すよう私に求められました。バハオラによって特別に制定されたものである前者は、義務であり、アグダスで示された彼の明確な指示に従って、個人的に唱えられるべきものですが、後者は強制されているものでもなく、その唱え方に何らの規定もありません。しかし、モナジャドを唱えるとき友らには自分の好みに従う自由があるとは言え、そのやり方においてあまりに厳格な性格をおびたものとなり、それが慣例化されてしまうことがないよう十分気をつけなければなりません。
これは友らがこの教えに指示された明白な道から逸脱しないようにするため、常に心しておくべき点です。
(1934年10月25日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [59]
…必須の祈りはまさしくそれら本質において大きな効果があり、また必須でない祈りよりもさらに大きな力を付与されており、それ自体必須です。
(1936年1月4日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [60]
手と顔を洗う、ひれ伏す、両手を挙げるというような、これらの祈りに付随する指示はバハオラによって明確に制定されています。それは信者ら、特にバハイの若者によって、完全に、自信をもって実施されるべきです。若者は真理を擁護し、信教の法や条例を無欠の状態で守る重要な任務を担っています。
日々必須の祈りは三つあります。最も短いものは一節からなり、24時間ごと、お昼に一回唱えるべきです。「主は証言し給う、彼の他に神なきことを」という言葉で始まる中位の祈りは日に3回、朝、正午、夕に唱えなければならない。この祈りは特定の身体的動きやジェスチャーを伴います。長い祈りは三つのうち最も精巧なもので、24時間ごとに1回、唱えるべきで、自分が唱えたい時に唱えます。
これら三つのうちどれを選ぶかはまったく信者らの自由ですが、それらの一つを、それらに伴う特定の指示に沿って唱える義務があります。
(1936年1月10日 アメリカ・カナダ全国精神行政会宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [61]
マシュレゴウル・アズカルで必須の祈りを唱えることについてあなたは質問しました。守護者は私に次のように書くよう言われました:「必須の祈りをマシュレゴウル・アズカルで唱えることは禁じられてはいないが、友らは寺院でそれを唱えたこともなければ、またそうするよう求められてもいない。会衆の祈りは、死者のための特定の祈り以外、禁じられている。マシュレゴウル・アズカルの中に必須の祈りを唱えるため特定の場を指定することや条件を決めることはその都市の精神行政会に照会されるべき二次的問題である。」
(1937年1月30日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [62]
彼は、あなたが、日々必須の祈りを唱えることに関するバハオラの指令を忠実に守り、それによりあなたの周りのバハイの若者たちに極めて高度な模範を示しているということを、殊に評価しておられます。これら日々の祈りには、それらを定期的に唱える人たちだけが適切に賞味できる特別な効力が授けられています。従って、友らは、自分の生活の特殊な状況や条件がどうであれ、これらの祈りを毎日の使用するよう努めるべきです。
(1939年2月23日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [63]
三つの日々必須の祈りについてのあなたの質問に関して:バハイの礼拝者は毎日、それら三つのすべてを唱えるように求められてはいませんが、一つを選ばなければなりません。そしてそれを唱える時は、両手を挙げる、平伏などのような、バハオラの示されたすべての指示に厳密に従わなければなりません。何らかの理由で、特に病気や身体的欠陥のためにそれらの規則を物理的に守ることができず、これらの指示に従うことができない人たちは、短い祈りは非常に簡単ですからこれを選ぶ方が良いでしょう。
(1939年12月7日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [64]
彼は短い、お昼の必須の祈りだけを使うようあなたに助言しておられます。これは、平伏などはなく、ただ、信者はこれを唱えるとき、バハオラが埋葬されているアッカに向かうということだけが求められるものです。あたかも植物が日光に向かって伸び、そこから生命と成長を得るように、私たちは祈るとき内面的実体の物理的象徴で、心を神の顕示者・バハオラに向けます;私たちはこの短い祈りのとき、内面的行為の象徴として、バハオラの亡骸がこの地上に横たわる場所に顔を向けます。
バハオラはあらゆる儀式や形式を、彼の信教に絶対的最小限に減らされました。二つの長い、日々必須の祈りに伴うもののような、僅かな形式は単に内面的感情の象徴です。これらには知恵があり、大きな祝福があります。しかし、私たちはそれらのことを理解したり、感じたりするよう強いることはできません。ですから、彼は、他の二つに付随する行いをしたくない人のために極めて短い、単純な祈りも授けてくださいました。
(1949年6月24日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [65]
長い必須の祈りの適切な使い方に関する質問について: この信教のすべての書は、友らの教訓とインスピレーションのために読まれるであろうし、また読まれるべきです。これは特定の祈りも含みます。もしその祈りに付随する平伏などを行うことは身体的に不可能であるが、それでも必須の祈りとしてそれを唱えたいのなら、そうすることはできます。身体的な不能というのは、本当に身体的に無能であると医師が立証することを意味します。
(1955年2月17日 カリフォルニア ロスアンジェルス地方精神行政会宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [66]
そこで、我々は、個人、そして共同体に敬虔な生活を直接育てる法がもたらす祝福について信者全員、そしてまた共同体の認識を深めることが緊急であると判断しました。それらの法の真髄はすべてのバハイに知られています。しかし、それらの意義について一層深い洞察をえるには、それらの遵守において天より啓示された要素のすべてを実践するということが含まれます。それらは必須の祈り、断食、日々95回最大名を唱えることに関する法です。
バハオラは断言しておられます:「善行も礼拝の行いも実施しない者は果実を実らせない木、足跡を残さない活動のようなものである。礼拝の聖なる喜悦を経験した者なら誰でも、そのような行いや神への賛美を世のいかなるものとも交換しないであろう。断食と必須の祈りは人の生活の二つの翼のようなものである。その助けをもって全世界の主である神の愛の天上へ飛翔する者は祝福される。」 (万国正義院 1999年12月28日 世界のバハイ宛) [67]
共同体の礼拝の性質
最高の喜びと慈しみをもって共に集い、慈悲深き主の啓示された聖句を唱えよ。そうすることで真の知識の扉は汝らの内奥に開かれ、魂が確固とするのを感じ、心は輝かしい喜びに満たされよう。 (バハオラ アラビア語から訳された書簡より) [68]
あなたは礼拝の場所と、その根源的な理由について尋ねました。そのような建物を建てる英知は、与えられた時間、人々はそれが会う時間であり、皆が共に集い、互いに睦まじく交わり、祈りに従事する時であると知っているべきということです。この共に集まるということによって、団結と愛情が人の心に育まれ、繁栄するでしょう。
(アブドル・バハ アブドル・バハ選集 No.58) [69]
神に誉れあれ、汝ら二人は自分たちの行いによって自分たちの言葉の真理を立証し、主、神の確証を得た。汝らは、毎日夜明けにバハイの子供たちを集め、神との親交や祈りを教えている。これは最も賞賛に値する活動であり、子供たちの心に喜びをもたらしている:
彼らは毎朝、その顔を王国に向け、主について述べ、神の御名を称え、甘美な声で朗唱すべきである。
これらの子供たちは若木のようであり、彼らに祈りを教えることは、雨が若木の上に降るように、彼らに優しさや新鮮さを与えるであろう。そして、神の愛のその柔らかい微風は彼らのうえを吹きわたり、彼らを喜びで震わせるであろう。
(アブドル・バハ アブドル・バハ選集 No.115) [70]
実際、現在、社会に蔓延している邪悪の主な理由は精神性の欠如です。私たちの時代の物質文明は、人類の活力や興味を吸い上げてしまい、それは一般の人々がもはや毎日の物質的存在の力や状況を超えて自分たちを高める必要性を感じなくなるほどです。私たちの身体的存在のニーズや必要を区別するために精神的なことを必要とするという十分な要求がありません。というわけで、人類に影響を及ぼす普遍的な危機は本質的にその原因において精神性です。全体的に見て、この時代の精神は反宗教的です。人間の人生観は、自分を精神性のより高い領域に高めるにはあまりにぞんざいで唯物論的です。
宗教が改善し、変革しようとしているのは社会が落ち込んでいるとても悲しく憂鬱なこの状態です。なぜなら、宗教的信条の核は神と人間を結びつける神秘的な感覚だからです。この精神的な親交の地位は黙想や祈りという手段でもたらされ、現されます。そして、これこそが、バハオラが礼拝の重要性をこれほどまでに強調された理由です。信者にとって単に教えを受け入れ、遵奉するだけでは不十分です。それに加えて、信者は精神的感覚を養うべきです。人はそれを、もっぱら祈りという手段で得ることができます。バハイ信教は他のすべての聖なる宗教と同じく、このように、性質において基本的に神秘的です。その主たる目的は、精神的徳と力を習得することによって個人と社会を発展させることです。最初に養われるべきは人の魂です。そして祈りは精神的栄養を最も良く供給します。バハオラの考察とおり、法と制度は、私たちの内奥の精神的生活が改善され、変革された時にのみ、真に効果を発揮します。さもなければ、宗教は単なる組織に退化し、死んだものとなるでしょう。
したがって、信者ら、特に若い信者たちは祈りの必要性をしっかりと認識すべきです。なぜなら、祈りは人の内奥の精神的発展にとってまったく欠くべからざるもので、先に述べたように、これは神の宗教の基礎そのものであり、その目的だからです。
(1935年12月8日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [71]
…共同体の繁栄は、特に地方レベルでは、行動パターンをどれだけ高めることができるかにかかっています。…共同体が一体となって神を崇拝するということも含まれます。そこで、信者の家や地区のバハイセンター、その他可能な場所で定期的に祈りの会を持つことは、その共同体の精神生活にとって欠くことのできないものです。
(万国正義院 1996年レズワン・メッセージ) [72]
個人が行う礼拝が生み出す精神的な成長は、各地の友らの間の愛情あふれる交流によって、また共同体としての礼拝、そしてこの信教と同胞たちへの奉仕によって強められます。これら神を敬う生活の共有の側面はケタベ・アグダスに書かれているマシュレゴウル・アズカルの法につながります。…すべての人に開放された定例の祈りの集いを持つことや、人道的な奉仕活動へのバハイ共同体の関与はバハイ生活のこの面を表現するものであり、神の法の実施におけるさらなる一歩です。 (万国正義院 1999年12月28日 世界のバハイ宛) [73]
いまや世界中の何十万もの多種多様の人々が神 の「創造的言葉」の系統的な学習に従事しています。その学習の環境は実に真剣ながらも、同時に、参加者の心を高揚させるものでもあります。こうして得られた洞察を、行動、反省、協議のプロセスを通じて活用しようとするとき、彼らは自分たちの大業奉仕能力が新しい段階に高められることを発見します。彼らは、
創造主との対話を求めるすべての人々の切なる願いに応えるべく、さまざまな状況下で共に礼拝し、祈りを通じて和合しあい、精神的な感受性を呼び覚まし、敬虔な態度に特徴つけられた生活パターンを形成しております。
(万国正義院 2008年レズワン・メッセージ) [74]
バハイの皆さんは、共同体づくりの取組みを、新しい社会のあり方の構築の一環と認識するよう求められています。その全体像を見ると、その様式は奉仕の能力、すなわち、若い世代を教育する、ユースに力をつける、子どもたちの精神教育をする、奉仕の分野で他の人々に寄り添うなかで神の言葉の力を生かす能力を高める、この時代のための聖なる教えに照らして、人々を社会的経済的発展させるといったような奉仕の能力を養うのです。その様式に祈りの会は不可欠なのです。敬虔な生活の中で共同参加活動の一つであり、マシュレゴウル・アズカルの概念の一面である祈りの会は、あなた方の共同体にとって単に全能者を礼拝し、自分たちの生活に神の祝福を求める素晴らしい機会となるだけではありません。それは、同じ地域の住民にも祈りの持つ精神的エネルギーをもたらし、彼らに純粋な礼拝をとり戻させ、彼らの心に神の確証に対する信仰を燃え立たせ、さらに、国民と人類に奉仕し、正義の道において建設的な強靱性を示したいと願う意欲を、あなた自身のなかにだけでなく、彼らのなかにも強化する機会を提供するものです。
親愛なる友らよ。あなた方の祝福された国の全土で、すべての町、村、部落において催される祈りの集会と、祖国の人々がバハイの祈りを手にするますます多くの機会が、あなた方の共同体に人類をまとめる和合の光を放射させ、世界中のバハイの友らの努力に加勢することを可能にしているのです。ですから、万人を利するために将来のマシュレゴウル・アズカルの種を蒔き、憎悪や不正の闇を跳ね返す無数のかがり火を灯してください。
(万国正義院 2014年12月18日 イランのバハイたち宛) [75]
計画の全ての側面での系統的な遂行は、奉仕へのコミットメントにだけでなく、礼拝への引き付けにも際立つ集団としての活動のパターンを生みだします。これからの五年間に求められる活動の強化は、世界中のクラスターで支え合って奉仕する者らが参加する祈りに満ちた生活をより豊かにするでしょう。この強化のすでに相当進んでいます:例えば、祈りの集まりがどのように共同体の生活の核に組み込まれているか見てください。祈りの集りは、誰もが参加でき、天上の芳香を嗅ぎ、祈りの甘さを味わい、創造的な言葉について熟考し、精神の翼で運ばれ、最愛の御方と交わる機会です。特に、そのような時に自然に起こる精神的な会話で、また、「人々の心の都」が開かれることで、親睦の感情や共通の大義が生まれます。いかなる背景の大人も子どもも歓迎する礼拝の場を持つことで、マシュレゴウル・アズカルの精神はどこにでもよび起こすことができます。共同体の祈りに満ちた特性は19日毎のフィーストにも影響を与え、また、その他の集まりの際にも感じることができるでしょう。
(万国正義院 2015年12月29日 大陸顧問団大会宛) [76]
さらなる考察
祈りと治癒
神に嘆願し、「あなたの御名は私の治癒であります」と唱えるとき、あなたの心がいかに慰められ、魂が神の愛の精神によって歓喜し、思いは神の王国に魅せられていることか!それらの引力でその者の潜在能力や理解力は高められる。容器が大きくなれば水量は増し、喉の渇きが増すと雲からの恵みは人の好みに合ったものとなる。これが嘆願の神秘であり、欲すると述べることの知恵である。
(J.E. エッセルモントが引用しているアブドル・バハの言葉の報告 バハオラと新時代) [77]
おお、神の侍女よ!祈りは神の普遍的な顕示者たちを通して与えられる。たとえ望みが物質的なものを取得することであっても、たとえ無思慮な考えであっても、もし彼らが謙虚に神の援助を乞い願い、嘆願するなら、彼らの祈りも効果があるのである。
…
おお、神の侍女よ!治癒を求めるために啓示された祈りは身体的、および精神的治癒の両方に適用される。したがって、魂と身体両方のちゆのためにそれらを唱えよ。もし患者にとって治癒が適正であれば、必ず聞き入れられよう;しかし、ある病人にとって、治癒は単に他の病気の原因となることにもなるので、その場合、英知はその祈りに対して肯定的な答えを許さない。
おお、神の侍女よ!精霊の力は身体的な病気も精神的な病気も共に治療する。
(アブドル・バハ アブドル・バハ選集 No.139) [78]
精神は影響力をもちます;祈りは精神的影響を及ぼします。したがって、私たちは祈るのです、「おお神よ!この病人を癒したまえ!」と。神はあるいはお答えになるでしょう。誰が祈るかは重要なことでしょうか?神は、もし祈りが切迫していれば、すべての僕の祈りに答えられましょう。神の慈悲は広大で、無限です。神はすべての僕の祈りに答えられます。この植物の祈りにも答えておられます。この植物は「おお神よ!雨を降らせたまえ!」と潜在的に祈っているのです。神はその祈りにお答えになり、植物は成長します。神は誰の祈りにも答えられるでありましょう。
(アブドル・バハ 普遍的平和の伝播: 1912年 北米とカナダ訪問中のアブドル・バハの講話 Book1第2章セクション7) [79]
最終的には、神の御意志で私たちのために行く手が定められますが、病人のための祈りは有効であり、しばしば答えられます。時間がかかるかもしれませんが、私たちは信念をもつべきです。
(1931年11月8日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [80]
彼は、あなたが今、完全に回復し、再び大業のためにあなたの重要な仕事をしていると聞き、喜んでおられます。しかしながら、自分の健康をおろそかにしないで、あなたが奉仕できるようにする手段を考慮すべきです。身体は個性と精神を運ぶ馬のようなものです。それがその仕事を果たせるよう、十分に世話をされるべきです。確かに、自分の神経を護り、祈りや黙想のためだけでなく、真の休息や気晴らしのために自分自身の時間を取るべきです。私たちは精神的になるためという理由で何時間も祈ったり黙想したりすべきではありません
(1947年11月23日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [81]
守護者は友らの祈りが…氏の治癒にそのように有益な効果をもたらしたと知って喜んでおられます。祈りは魂を天国へ上昇させる梯子です。それは精神的領域との結び付きであり、真の礼拝をもって使えば、この世の信者らは精神的な力で助けられ、援助されます。
(1953年3月28日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [82]
暗記の重要性
私たちは「隠されたる言葉」を暗記し、比類なき主の勧告に従い、唯一真なる神の御敷居において、私たちの隷属にふさわしいふるまいをすべきです。
(アブドル・バハ ペルシャ語から訳された書簡より) [83]
あなたの心が完全に唯一真の神に惹きつけられると、あなたは、聖なる経典に述べられているように、聖なる知識を身につけ、証拠や証言に心を配り、慈悲深き御方の美の顕示に関する吉報の暗記に献身するでしょう。そして、あなたは彼の確証がいかに素晴らしいものか、彼の援助がいかにありがたいものか分かるでしょう。
(アブドル・バハ ペルシャ語から訳された書簡より) [84]
守護者はあなたがすでにいくつかのバハイの書を読み始めたと知ってとても喜ばれ、あなたに対して、バハオラの書からの特定の句、とりわけバハオラの祈りの幾つかを暗記する努力をするよう助言しておられます。この訓練は、あなたが今後大業について学習するとき間違いなく素晴らしい助けになり、また、あなたのいまの精神的生活をかなり深め、豊かにする上で助けとなるでしょう。
(1939年4月10日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [85]
私たちの礼拝の対象
祈っている時は顕示者に自分の考えを向けると良いでしょう。と言うのは、彼は引き続き、他の世界で、全能者とつながる上で私たちのための手段となるからです。しかしながら、私たちは神ご自身に直接祈ることはできません。
(1937年4月27日 インドとビルマ全国精神行政会宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [86]
あなたは私たちの祈りはバハオラを超えるかと尋ねました:それはすべて、私たちが直接彼に祈るか、あるいは彼を通して神に祈るかということにかかっています。私たちはどちらもでき、神に直接祈ることも可能ですが、私たちの祈りは、もし神の顕示者、バハオラを通して神に届けられれば、確かに一層効果的で、啓発的になるでしょう。
しかし、いかなる状況下であれ、私たちは祈りを繰り返しているとき、「神」という言葉が使われているところにバハオラの名を挿入することはできません。それは冒涜と等しいことです。
(1937年10月14日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [87]
あなたの質問に関して:私たちは祈りについて堅苦しくあってはなりません;それを支配する一連の規則はありません;主要なことは、神、顕示者、師、守護者についての正しい概念から始めねばならないということです。私たちは祈る時、思考の中でこれらのどれか一つに向かうことができます。たとえば、あなたはあることをバハオラに求めることができます、あるいは神のことを考えながら神にそれを求めることもできます。師や守護者についても同じことが言えます。あなたは思考の中で彼らのどちらかに向かい、それから彼らの仲介を求めるか、あるいは神に直接祈ることもできます。彼らの地位について混同しない限り、または彼らのすべてを同等としない限り、あなたの思考をどのように方向つけるかは、問題ではありません。
(1946年7月24日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [88]
もしあなたが、祈る時に誰かを思い浮かべる必要があるなら師のことを思いなさい。彼を通してバハオラに話しかけることができます。徐々に、顕示者の資質に思いを向けるように努めれば、知的な形式は消えていくでしょう。なぜなら、結局、身体は物体ではなく、そこに彼の精神があり、彼の精神は絶対的で、不朽の要素だからです。
(1949年1月31日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [89]
…神の精神は顕示者の魂たちを通して私たちに達します。私たちはそれらの魂との交信を学ばねばなりません。それは殉教者たちが行ったと思われることであり、生命など価値がないというほどまでの恍惚感を彼らにもたらしたものです。これが真の神秘体験であり、生命の極意、内奥の意味で、人類は現在そこからあまりに遠くに漂流しています。
(1950年7月28日 英国 マンチェスター地方精神行政会宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [90]
あなたの質問について:もちろん、バハオラは神でも創造主でもありませんが、彼を通して私たちは神を知り、この聖なる仲介者の地位のゆえに、ある意味で、私たちは彼(またその他の予言者すべて)を通して、神という無限の真髄について知ることができます。したがって、私たちは祈りの中で自分自身に向かい、彼について思い、あるいは彼を通して彼の後ろや彼方の、あの無限の真髄に向かうのです。
(1951年6月4日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [91]
私たちは神に関して守護者に祈るべきではありません; 祈りの時に誰に向かおうとも、その人の地位について正しい概念をもっていなければなりません。すなわち、神の最高の顕示者としてのバハオラ、完全な人間であり、聖約の中心たる師、その機能を師の遺訓で規定されている守護者ということ。友らはひとえに聖なる書を読む必要があります;答えはすべてそれらの中にあります;この信教には私たちのために解釈したり、答えたりする僧侶はありません。
(1957年4月23日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [92]
追加の句
おお、わが神よ、それゆえ、あなたの美を見ること、またあなたの不変の創造物の不思議なる証拠について熟慮することを妨げるものを何一つ許さない者らのなかに彼を数え給え。それにより彼は、あなた以外のいかなる者とも交わらず、あなたのみに向かい、あなたが天上と地上の王国に創造し給うたものの中にあなたの不思議なる美とあなたの顔の輝きの発現の他には何も発見しないでしょう。そして、あなたの圧倒的な摂理の大波がうねる大洋や聖なる唯一性の波打つ海洋の底にしっかりと浸り、あなたの卓越した一体性に関する言及以外のすべての言及を忘れ、すべての悪魔的暗示の痕跡を彼の魂から追放するほどでありましょう。おお、すべての名称と属性の王国はその手の中にもち給う御方よ。
(バハオラ バハオラによる祈りと瞑想 CLXXXIV) [93]
汝ら、自分たちの子どもが聖なる句を毎朝夕読むよう、子どもたちに教えよ。神はすべての父親に、自分の子どもを、男の子も女の子も共に、科学や道徳、工芸や専門知識を教育するよう命じ給うた。 (バハオラ アラビア語から訳された書簡から) [94]
もし汝の礼拝が汝を火に導いたとしても、また同じく汝の報酬が楽園であるとしても、汝の礼拝に何らの変化ももたらさないほどに神を崇拝すべし。このようにして、ただただ、そうしてのみ唯一にして真の神に相応しい礼拝となるのである。もし汝が、恐れの故に神を礼拝するなら、それは彼の御前の聖別された宮居に不相応で、汝が彼の存在の一体性に捧げた行為と見なされることはできない。あるいは、楽園は人間に望まれるという現実にもかかわらず、もし汝の熟視するものが楽園で、そのような希望を抱いて彼に礼拝するなら、汝は神の創造と彼を同等としているのである。
(バブ バブの書からの選集 p.77-78) [95]
僕は、それぞれの祈りの後、両親に神の慈悲と許しを嘆願するがよかろう。すると神の呼びかけが上がるであろう:「汝が両親のために求めた何千ものことは汝の報酬となるであろう!」神と交信するとき両親のことを思い起こす者に祝福あれ。誠に、強力なる御方、愛される御方なる彼の他に神はなし。
(バブ バブの書からの選集 p.94) [96]
おお主よ、この最も偉大な宗教制において、あなたは子が両親のためにとりなすことを認めておられます。これは、この宗教制の無限で、特別な賜物の一つであります。それゆえ、おお親切なる主におわす御方よ、この僕があなたの唯一性の敷居で求めることを受け入れ、その父親をあなたの恩寵の大海に沈め給え。なぜなら、この息子は、あなたに奉仕するために立ち上がり、あなたの愛の道で常に努力しているからであります。まことにあなたは与え給い、許し給い、親切なる御方におわします。
(アブドル・バハ バハイの祈りの書) [97]
汝は物質的な手段と祈りについて尋ねました。祈りは精神のようなもので、物質的手段は人間の手のようなものです。精神は手の媒介を通して動作します。唯一、真なる神はすべてを供給し給う御方ですが、生存に必要なものを供給する手段となるのは地球です。「天は汝らの生命に必要なものを保有する。」[5] しかし、生存に必要なものが与えられるよう命じられると、いかなる手段であれ、それは利用可能となります。人が物質的手段の使用を拒むとき、それは、喉の渇きを水やその他の液体以外の手段で癒そうするようなものです。全能なる主は水の供給者、そしてその作者であり、水を、喉の渇きをいやすために使われるとお定めになりました。しかし、その使用は神のご意志次第です。もしそれが神の御心に沿うものでなければ、人は、大海をもってしても癒すことのできない喉の渇きで苦しめられます。
(アブドル・バハ ペルシャ語から訳された書簡より) [98]
個人の導きの源としての直感の価値についてのあなたの質問に関して:私たちの直感力への盲目的な信頼は賢明ではありませんが、日々の祈りや持続的な努力を通して、いつもと云うわけではなく、完全でもないかもしれませんが、人は神の御意志に直感的に気づくことができます。しかし、どのような状況であれ、人は自分の直感力で神の御意志を認識したと完全に確信することはできません。多くの場合、後者は真理を完全に間違って伝える結果となり、そのため導きとなるよりむしろ過誤の源となります。
(1938年10月29日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [99]
…守護者は、バハイの子供たちの母親、あるいはこの任務のためにあなたの行政会が任命した特定の委員会が聖なる言葉の中から子どものために使う引用文を選択する方が、すでにできているものより良いと感じておられます。もちろん、お祈りは純粋に任意のものですが、お祈りの性質をもつバハイの書に組み合わされた文章や考えの多くは理解し易く、啓示された言葉はそれ自体の力を与えられています。
(1942年8月8日 イギリス諸島全国精神行政会宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [100]
信教の内外を問わず、人々の生活に浸透し、動機つける真の精神的認識は世界中、至る所でとても必要です。いかなる行政手続きも、また規則の遵守も人間の真髄であるこの魂の性格、この精神性の代わりにはなりません。
(1945年4月25日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [101]
…大業があらゆる人種や宗教のメンバーを受け入れるにつれて、私たちは以前の信仰の習慣を持ちこまないよう注意しなければなりません。バハオラは私たちに必須の祈りや、眠る前の祈り、旅行者のための祈りなどを与えておられます。彼がすでに非常に多くの、様々な機会のための祈りを私たちに授けてくださったのですから、私たちは彼が指定しておられない新たな祈りを持ち込まないようにしなければなりません。
(1947年9月27日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [102]
彼は、そこでのあなたの通常のティーチング活動に加えて、一般的な成功のためだけでなく、神があなたに準備のできた魂たちを送ってくださるよう熱心に祈る特別な局面を作るよう提案しておられます。
(1950年3月18日 チリ パンタ・アリーナ地方精神行政会宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [103]
祈り、および、祈りによっては解決されない問題もあるという事実についてのあなたの質問に関して、私たちは常にこのことを認識しなければなりません。つまり、人生は私たちに多くの状況をもたらすということ。そのうちのあるものは神が私たちの性格を磨くために送られる試練、あるものは私たちが自然の世界に住んでいて、死や病気などの事故を被りやすいゆえの偶発的なもの、またあるものは私たちの愚かさ、わがまま、その他人間的特性の弱さ故に自ら招くものです。
愛しい人が死ぬ、病気が治らない、問題が解決されないのは、神が私たちの祈りにお答えにならなかった、あるいは私たちが好意的なお答えを受けるような方法で神に祈らなかったせいだと言うのは正しくありません。おそらく、私たちが祈ったことは神の御意志にかなうものでなかったか、または偶然の結果であって、それが死や病気、破産などといった取り消すことができない結論をもたらしたのです。
あなたの言うように、時にバハイたちは神の御意志を遂行していると信じ、それでも結果は非常に悪いことが分かります;ですから私たちは、彼らは自分たちの決定や一連の行動が神の御意志に沿っていると勘違いしていると受け止めざるをえません。それが意味することはこうです、つまり、私たちは常に神の御意志を自分たちのものよりも優先させるという条件付きで神に嘆願すべきということです。私たちはまた、彼の教えの法に従うべきです。なぜなら、私たちがそうすればする程、私たちは信者らの模範となり、彼の導きをより多く受け取るようになるからです。
(1951年3月18日 一信者宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [104]
守護者はあなた方の魂の覚醒、聖なる神秘の展開、聖霊の祝福のためにお祈りされるでしょう。新しい生命をもたらすのは聖霊で、それは今日、バハオラの書の中に潤沢に見いだすことができます。彼のお言葉と教えは生命の水であり、精神的成長の食物です。ですから、あなた方は聖なる言葉を注意深く学習し、その趣旨について熟考し、そしてその精神に触れたならあなた方の知性と心をその状況に結びつけるべきです。そうすれば、道は明確になり、扉は開かれるでしょう。
(1956年6月11日 オハイオ コロンブスのバハイ学習グループ宛にショーギ・エフェンディの代理によって書かれた手紙) [105]