カラマテ・フェルドフィエ
(楽園の言葉)
彼こそは、発言の王国にて「真理」の力によって語る御方なり。
おお、正義と公平を具現し、そして正直と天の恩恵を顕現する汝らよ!涙を流し、嘆きながら、この虐げられた者は大声でこう叫ぶ――おお神よ、わが神よ!あなたの愛されし人々の頭(こうべ)を離脱の王冠で飾り、彼らの聖堂を正義の衣で装い給え。
発言の力で主に勝利を与え、立派な振舞いと人格で人々に勧告することが、バハの人々にふさわしい。なぜなら、行動は言葉よりもはるかにずっと大きな影響を与えるが故に。
おお、ヘイダー・アリ[1] よ!汝に神の賛美と栄光あれ。言挙げよ――正直や美徳や英知、そして高徳な人格は人の地位を高めるが、不正直や詐欺や無知、そして偽善は人を卑しめる。わが命にかけて誓う!人間の優秀さは、飾りや富にあるのではなく、むしろ高徳な振舞いと真の理解にある。ペルシャの大部分の人々は、ごまかしとたわいない空想に浸っている。これらの人々の状態と、名前の海を越え、離脱の大海原の岸辺にテントを張った勇敢な人々との地位の差は何と大きいことか。まことに、現世代のほんの数人を除いては、最高の楽園に住む鳩のさえずりに耳を傾けることの価値を認める者はいない。「わがしもべらのうちで真に感謝する者は少ない」[2] 。大部分の人々は迷信を楽しんでいる。彼らは幻想の海の一滴を確信の海よりも好ましいと見なす。彼らは名前に固くこだわって内なる真理を失い、空虚な想像に執着して天の印の「夜明け」から隔てられている。願わくば、迷信の偶像を打ち砕き、人々の想像のベールを引き裂けるよう、汝らがあらゆる状況で援助されんことを。啓示と霊感の「源」であり、「復活の日の主」なる神のもとに権威はある。
問題の当人が、「信教」のある布教者たちについて述べたことをわれは聞いた。まことに彼は真実を語った。ある無頓着な者は、神の名においていろいろな土地を訪れては、神の大業を破壊する行為をしながら、神の言葉を広めているのだと言う。そしてこれは、その「信教」の布教者らの能力は、星のように、聖なる「書簡」の天の至る所でまばゆく輝いているというのに、そのようなことがなされているのである。あらゆる公平な心の持ち主は、次のことを証言し、洞察力あるあらゆる者は次のことを十分承知している――それは、唯一の真なる神――その栄光に誉れあれ――は、人の子らを引き上げ、その地位を高めるものを絶え間なく述べられ、説明されたということである。
バハの人々は、集会で蝋燭のごとく明るく燃え立ち、神が意図されたことを固守する。この地位はあらゆる地位の中で最高のものである。この世の人々が所有するものを投げ捨て、永遠の最高の主なる神に関するものを渇望する者は幸いである。
言挙げよ――おお神よ!わが神よ!あなたは、わたしが己の目をあなたの恩恵の地平線の方へ向けて、「あなたの意志の回り」をかけめぐり、あなたの好意の太陽のまばゆく輝く啓示をしきりに待っているのを見ておられます。おお、あらゆる理解力ある心の最愛なる御方、あなたのおそば近くにいる者らの望みなる御方よ、私はあなたに懇願いたします。あなたに愛されし者らが自分の望みから全く離脱し、あなたのお気に召すことにすがりつくようなし給え。おお主よ、彼らに正義の衣を装わせ、離脱の光の輝きによって彼らを明るく照らし給え。そうして、英知と発言の軍勢を彼らの援助のために呼び出し給え。そうすれば彼らは、あなたの言葉をあなたの創造物の間で賛美し、あなたの大業をあなたのしもべらの間で宣言するでしょう。まことにあなたはあなたのお望みになることを行う力がおありで、全ての事はあなたの支配下にあります。強大にして常に許し給うあなたの他に神はいまさぬ。
おお、己の眼をわが顔の方へ向けた汝よ!最近、われを非常な悲しみに落とし入れたことが起きた。神の大業に忠誠を誓うと言いながら悪事を働く行いをする者らが、誠実と正直、そして正義と公平の手足を震わせるようなことをした。最高の親切と好意を与えられた、ある名の通った者が、神の目に涙を流させてしまうようなことをしでかした。以前、われは勧告と警告の言葉を発したが、彼が注意し悔い改めんがために数年間、われはこの事をふせておいた。しかし全ては無駄であった。結局、彼はあらゆる者の面前で神の大業をけなすことに没頭したのである。彼は公平のベールを引き裂き、自分自身にも、また神の大業にも同情することはなかったのである。しかしながら、ある者らの行為は、ここで述べた者ら以前の人々が引き起こした悲しみよりもさらに耐え難い、激しい悲しみをもたらした。無頓着な者らが己の発言を撤回し悔い改めるのを、恵み深く可能にして下さるよう、汝、真なる御方である神に嘆願せよ。まことに彼は許し給い、恵み深く、最も寛大なる御方におわす。
和合と調和をしっかりと固守し、神の大業を促進するために努力することは、この時代に住むあらゆる者の義務である。それによりおそらくは、強情な者らが永続する繁栄を得んがために。
端的に言って、様々な宗派の間の不和は弱さを引き起こした。それぞれの宗派は自分自身のやり方を選び、ある網にしっかりとつかまっている。明らかな盲目と無知にもかかわらず、彼らはその洞察力と知識を誇りにしている。その中のうちの何人かはイスラム教に忠誠を誓う神秘主義者らもいれば、さらにそのうちの何人かは怠惰と隠遁生活を引き起こすものに耽っている者もいる。神にかけて誓う!それは人間の地位を低くし、うぬぼれを強めるのである。人間は、実を結ばねばならない。実を結ばぬ者は、聖霊[3] の言葉で言えば、実のならぬ樹のようであり、そして実のならぬ樹は燃やされるしかない。
前に述べた者らが、神の単一性について述べたことは、大いにたわいなさと空想を引き起こすであろう。これらの滅ぶべき者らは、明らかに地位の差というものをなおざりにし、自分自身を神と見なすようになった。しかし、神は全てを超越して計り知れぬほど崇高なのである。しかし、あらゆる創造物は神から放散される神の印を反映し、明示するのであり、それは神御自身ではない。これら全ての印は生存の書の中に示され、また見ることができる。宇宙の形と模様を描く巻物はまことに偉大な書である。そこに、あらゆる洞察力ある者は、「まっすぐな道」へ導いてくれるもの、「偉大なる告知」に達することを可能にしてくれるものを見いだすのである。世界をおおう光を放つ太陽光線について考えてみよ。その光線は太陽から発散し、太陽の性質を示すが、それは太陽そのものではない。地上で見ることのできるものはみな、神の力と知識、そして神の恩恵のほとばしりを豊富に実証する。しかし、神御自身は全創造物を超越して計り知れぬほど崇高でおられる。
キリストはこう言った――「あなたは、学識ある者や賢き者らに与えられなかったものを子供たちにお与えになりました」。サブズィヴァーの賢者[4] はこう言った――「悲しいかな!注意して聞く耳は見当たらない。さもなくば、『シナイの柴』のささやきはあらゆる樹から聞こえるであろうに」。「模範的真理」の意味について尋ねた、英知ある者への「書簡」の中で、われは次のような言葉でこの有名な賢者に話しかけた――「もしこの言葉が真に汝のものであるなら、どうして世界の頂点から『人類の樹』が上げた『叫び』に耳を傾けることができなかったのか。もし汝はその『叫び』を聞きながら、しかし恐れ、己の命を守らんがためにという望みによってそれに注意を払わずにいるのなら、汝は昔もこれまでも、そして今も語られるに値せぬ者である。もし汝はそれをまだ耳にしていないのなら、汝には聞く力がないのである」。端的に言って、そのような人々は、自分の言葉が世界の誇りであり、己の行為が国々の恥である者らである。
まことにわれは、わが「栄光のペン」に他ならぬ「ラッパ」を鳴らした。すると、見よ!神がその恩恵の印として救わんとお望みになった者ら以外を除いて、人類はすべてその前で気絶してしまった。彼こそは恩恵の主、「日の老いたる御方」なり。
言挙げよ――おお聖職者の群衆よ!この「ペン」がその鋭いかん高い声を上げるやいなや、発言の王国はそれを聞くための準備をし、そしてその「ペン」の強大で栄光ある主題の前において、その他全ての主題は取るに足りないものに色あせてしまった。
神を畏れ、自らのたわいない空想や堕落した想像を追うに従うことなかれ。いや、むしろ、否定しがたい知識と不動の確信をもって汝らの所にやって来た「御方」に従え。
神に栄光あれ!人間の宝とはその発言であるのだが、この虐げられた者は「口」を閉ざしていたその「舌」を動かさずにいた。というのは、不信心な者らが待ち伏せているからだ。しかし、全ての世界の主なる神が保護して下さる。まことに、われは神を信頼し、神に全ての事を委ねた。神はまことに、われと全創造物に十分なのである。彼こそは、そのお許しとその御命令の力によって、最高の力を持つ「太陽」が世界の地平線上に輝くようになさった御方なのである。「真理」を理解し、認める者は幸いなり。片意地で不信心な者は哀れなり。
この虐げられた者は、賢き者らを常に愛情深く取り扱った。賢き者の意味することは、己の持つ知識が単なる言葉だけにとどまらず、人生に実り多く、永続する結果を生じた人々のことである。これらの祝福された者らを敬うことはあらゆる者の義務である。神の教えに従う者らは幸いなり。「真理」を認めた者らは幸いなり。全ての事柄を公平に判断し、侵しがたいわが「正義」の「網」にしっかりと捕(つか)まる者らは幸いなり。
ペルシャの人々は、保護者にして救助者なる御方から顔を背(そむ)けてしまった。彼らは、愚かな者らの空しい想像に執着し、その罠にかかって絡(から)まってしまった。迷信を非常に断固として固守するため、神――その栄光に誉れあれ――の強力な腕以外は、彼らを迷信から切り離すことができないのである。様々な民族や親族を閉め出してしまったベールを、神が、御力の指でもって取り除き、彼らが安全と進歩と発展の役に立つものを得、比類なき「友人」の方へ彼らが急ぐよう、汝ら全能なる御方に嘆願せよ。
第一の葉
「アブハのペン」が「最も崇高なる楽園」の第一の葉に啓示し、記した神の言葉は次の通りである————まことにわれは言う。神への畏れは世界の人々のための確実な防備であり、安全な要塞である。それは人類を守るための主要な原因であり、人類を保護する最高の手段である。まことに人間にとっては、取るに足らず、ふさわしくない物事から人間を思いとどまらせ、それから人間を守ってくれる機能が存在する。その機能は羞恥心として知られている。しかしながら、これは一部の者に限られており、必ずしも全ての者がそれを持っていたわけでもなく、また持っているわけではない。
第二の葉
「最高のペン」が「最も崇高なる楽園」の第二の葉の上に記した神の言葉は、次の通りである――「最も高遠なる御方のペン」は今、権威の顕示者と権力の源、つまり王や君主や大統領、そして統治者や聖職者や賢明な者らに、宗教の大業を支持し、それを固守するよう勧告し命令す。宗教はまことに、世界の秩序を確立し、その民族らの間の平穏を確立するための主な手段である。宗教の柱が弱まったことは、愚かな者たちを強くまた大胆にし、より高慢にした。まことにわれは言う、宗教が衰えれば衰えるほど、不信心な者たちのわがままが悪化するのである。これは結局、混乱と混雑を引き起こすようになることは避けられない。われの言うことを聞くがよい、おお洞察力ある者たちよ、そして警戒せよ、認識力を授けられたる汝らよ!
第三の葉
「最高のペン」が「最も崇高な楽園」の第三の葉の上に記した神の言葉は、次の通りである――おお人の子よ!もし汝の眼が慈悲に向けられているなら、汝の益になることを捨て、人類の益になることにしがみつけ。そしてもし汝の眼が正義に向けられているなら、汝自身に選ぶことを隣人のために選べ。謙遜は人を栄光の天まで高めるのに反し、自惚れは惨めさと堕落のどん底へ人を落とす。
おお神の人々よ!この「日」は偉大で、この「叫び」は強力なり!わが「書簡」の中でわれは次のような崇高な言葉を啓示した――「もし精神の世界が全て聴覚に変えられたなら、それは『最高の地平線』から発する『声』を聞くであろう。というのも、もしそうでなかったなら、偽りの話によって汚されたこれらの耳は、今も昔もその『声』を聞くのにふさわしくなかったし、今もふさわしくはないのだから」。耳を傾ける者らは幸いであり、わがままな者らは哀れなり。
第四の葉
「最高のペン」が「最も崇高なる楽園」の第四の葉の上に記した神の言葉は、次の通りである――おお神の人々よ!統治と権力の顕示者たちを自我と欲望の示唆から守り、正義と導きの輝きを彼らの上に放ってくださるよう、「真なる御方」――彼の「名」に誉れあれ――に嘆願せよ。陛下ムハンマド王は、その優れた地位にもかかわらず、二つの極悪な行為を犯した。ひとつは、「恵みと恩恵の王国の主」なる「最初の点」の追放を命じたことであり、もうひとつは「政治的手腕と文学的業績の市の王子」[5] の殺害である。王たちの過ちはその好意と同様に大きなものでありえる。権力と権威がもたらす自惚れによって正義に忠実であることを妨げられず、ぜいたくや富や栄光、そして軍勢や軍隊を並び立てることによって公平の太陽の輝きを失わずにいる王は、天上の「群衆」の間で高く荘厳な地位を占めるであろう。そのような者に援助の手を差し伸べ、親切を示すことはあらゆる者の義務である。己の情欲を厳しく統制し、己の怒りを抑え、不正や残虐よりも正義と公平を好む王は幸いである。
第 五 の 葉
「最高のペン」が「最も崇高なる楽園」の第五の葉の上に記した神の言葉は、次の通りである――最大の贈り物にして最もすばらしき祝福は、何にもまして「英知」であったし、これからもそうあり続ける。それは人を確実に「守るもの」である。それは人を助け、強める。「英知」は神からの「使者」であり、「全知なる方」という神の御名の「啓示者」である。それを通して、人の地位の高尚さが顕示され、明示される。それは全てを知り、生存の学び舎における最高の「教師」である。それは「案内者」であり、傑出した地位を授けられている。その教育的影響力により、地上の生存物は、諸々の天よりも輝く宝石のような精神を吹き込まれた。正義の町において、それは比類なき「話者」であり、この「話者」は九の年にこの「啓示」の喜ばしき知らせをもって世界を照らし出した。世界の基礎が築かれ始めた頃に内なる意味の階段を登ったものも、そして発言の説教壇で玉座についた時に、聖なる「意志」の働きを通して二つの言葉を宣言したものも、この類なき英知の「源泉」だったのである。最初の言葉は報酬の約束を布告し、二番目の言葉は罰の不吉な忠告を発した。この約束は希望を生み、忠告は恐れを引き起こした。このようにして世界秩序の基礎は、これら二つの原則の上にしっかりと確立されたのである。「英知の主」、「偉大なる恩恵の所有者」は崇高なり。
第六の葉
「最高のペン」が「最も崇高なる楽園」の第六の葉の上に記した神の言葉は、次の通りである――人間の光とは「正義」である。圧制や暴虐という逆風によってそれを消すことなかれ。正義の目的とは人々の間に和合をもたらすことである。神の英知の海はこの崇高なる言葉の内にうねりを上げるが、世界の諸々の本にはその言葉の内なる意義を収めることはできない。もし人類がこの衣服で飾られたなら、人類は、「その日、神は神の豊富さによってあらゆる者を満足なさるであろう」[6] という発言の太陽が、世界の地平線の上にまばゆく輝いているのを見るであろう。汝ら、この発言の価値を理解せよ――それは「栄光のペンの樹」が結んだ高貴な実なのである。それに、耳を傾け、その教えに従うものは幸いである。まことにわれは言う。「神の意志」の天から送られることは全て、世界に秩序を確立し、その民族の間に和合と友好を促進するための手段なのである。「この虐げられた者」の「舌」は「彼の最大の牢獄」からかくのごとく語った。
第七の葉
「最高のペン」が「最も崇高なる楽園」の第七の葉の上に記した神の言葉は、次の通りである――おお汝ら、国々の間の賢明なる人々よ!疎遠(そえん)であることに汝らの眼を閉じ、和合に眼を据えよ。全人類の幸福と平穏をもたらすものをしっかりと固守せよ。この地球とは単にひとつの母国、ひとつの住まいにすぎない。隔たりを生む自惚れを捨て、調和を築くあらゆるものを切望せよ。バハの人々の目において、人間の栄光はその知識や正直な行動、立派な人格や英知にあり、国籍や地位にあるのではない。おお地上の人々よ!この天の言葉の価値を理解せよ。まことにそれは、知識の海に浮かぶ船、そして知覚の領域での輝く発光体にたとえることができよう。
第八の葉
「最高のペン」が「最も崇高なる楽園」の第八の葉の上に記した神の言葉は、次の通りである――学校ではまず子供たちを、宗教の原則においてしつけなければならない。そうすれば神の諸々の「書」の中で記されている「約束」や「罰則」が、子供らが禁じられている行為から守り、子供らを命令のマントで飾るであろう。しかしこれは、無知な狂信や偏狭につながる行為で子供らを傷つけたりしない程度にしなければならない。
「書」の中ではっきりと啓示されていない事柄について、ともに協議を行い、合意することを執行するのは、「正義院の信託人たち」の義務である。まことに神はお望みになることを、彼らに霊感としてお与えになるであろう。そして神はまことに、与え給う御方、全治者なる御方なり。
以前われは、人々が二言語で会話するように命じたが、それを一つの言語にし、同様に世界の文字も一つにする努力がなされなければならない――そうすれば、様々な言語を学ぶことによって人々の人生が浪費され、無駄にされることがなくなるであろう。このようにして全地球はひとつの都市、ひとつの国として見なされるようになるであろう。
第九の葉
「最高のペン」が「最も崇高なる楽園」の第九の葉の上に記した神の言葉は、次の通りである――あらゆる事柄において中庸を守ることが望ましい。もしある事が度を過ぎたら、それは悪の源となるであろう。西洋の文明、そしてそれがいかに世界の人々を動揺させ不安にさせたかについて考えてみよ。地獄の機械が考案され、それは今だかつて、誰も見たり聞いたりしたことがない残酷な破壊的武器となった。世界の人々がひとつの共通の目標を求めて結合し、ひとつの普遍的な信仰を受け入れない限り、そのような深く根ざした抵抗し難い圧倒的な堕落をなくすことはできない。この「虐げられた者」の「叫び」に耳を傾け、「小平和」をしっかりと固守せよ。
奇妙で驚くべきものが地球に存在する。しかしそれらは、人々の知性と理解から隠されている。これらのものは地球の全大気を変えることができるのであり、その汚染は死をもたらすものとなるであろう。何と言うことか!われは驚くべきものについて述べたのである。稲妻(いなずま)やそれに似た力というものは、操作する者によって統制され、技師の命令によって動く。影響力のある無敵な命令の力を通して、意図なさったことを明かされた「力の主」は、計り知れないほど崇高なのである。
おおバハの人々よ!わが啓示した法令のひとつひとつは、生存の世界を保護するための強力な要塞である。まことにこの「虐げられた者」は、汝らの安全と向上のみを望む。
男性、女性、子供たちを確実に保護するよう、われは正義院の者らに勧告し、命令する。常に、あらゆる条件下において、人々の利益に最大の配慮を示すことは彼らの義務である。囚(とら)われた者を救助する統治者、貧しき者らの世話をする裕福な者、虐待する者から虐げられた者らの権利を守る者は幸いであり、「お命じ給う御方」、「日の老いたる御方」が規定されたことに従う信託されし者は幸せである。
おおヘイダー・アリよ!わが栄光と賛美が汝の上にあらんことを。わが勧告と忠告は世界を取り囲んだ。しかし、喜びとうれしさを放散させるかわりに、彼らは悲しみを引き起こしてしまった。というのも、われを愛すると主張する者らの幾人かが、以前の宗教の信奉者らやペルシャの聖職者たちが未だかつて与えたことのないような苦難をわれに与えたからである。
われはこう言った――「われが投獄されたことも、わが敵の手によってわが身にふりかかったことも、われを傷つけない。われを傷つけるのは、わが名を語りながらもわが心とペンを嘆かせることをする、わが愛する者らの行いである」。このような発言は何度もくり返し啓示されたにもかかわらず、無頓着な者らはそれによって益を得ることができなかった。なぜなら、彼らは己の邪悪な情欲と堕落した欲望の虜であるからだ。あらゆる者が悔い改め、神に戻ることを可能にして下さるよう、汝、「唯一」の真なる神に嘆願せよ。人の性質が邪悪な情欲に屈服する限り、犯罪や違反がはびこるであろう。神の力の手と天の祝福のほとばしりが、全ての人々を支え、許しと恩恵の衣服を彼らに着せ、神のしもべらの中で神の大業を害するものから彼らを守って下さるという望みをわれは心に抱いている。彼こそはまことに、強力で、力に満ち給う御方なり。そして彼は常にお許しになり、慈悲深き御方なり。
第十の葉
「最高のペン」が「最も崇高なる楽園」の第十の葉の上に記した神の言葉は、次の通りである――おお地上の人々よ! 隠遁生活を送ることや禁欲主義を実践することは、神の面前において好まれない。喜びや輝かしさをもたらすようなことを守るのが、洞察力と理解力ある者らにとって似つかわしい。たわいなき空想や迷信から生まれた慣習は、認識力ある者らにはふさわしくない。昔も今もそして最近も、ある者らは山のほら穴に住まいを持ったり、またある者らは夜、墓地を訪れたりしている。言挙げよ、この「虐げられた者」の勧告に耳を傾けよ。汝らの間に、今広まっていることを捨て、忠実なる「勧告者」が汝らに命じることを採用せよ。汝らのために創造された恩恵を失わぬようにせよ。
慈善行為は神の眼において好ましく賞賛されるべきものであり、立派な行いの間の王子と見なされる。汝ら、よく考え、「全てに慈悲深き御方」がコーランに啓示なさったことを思い出すがよい――「貧困が運命であろうとも、彼らは自身よりもその教えを好むであろう。己の貪欲から守られたものをもって、幸いになるであろう」[7] 。この見地から考慮すれば、今述べた聖なる発言はまことにあらゆる発言の太陽である。己よりも同胞の方を好む者は幸いである。まことに、かような者は、「全知なる御方」で「全てに賢き御方」なる神の「意志」により、「深紅の箱舟」に住む「バハ」の人々と共にあると見なされる。
第十一の葉
「最高のペン」が「最も崇高なる楽園」の第十一の葉の上に記した神の言葉は、次の通りである――神の諸々の名称の属性の象徴なる者らにわれはこう命ずる。これからは、この「最も偉大なる啓示」において述べられたことをしっかりと固守し、己自身が争いの原因とならぬようにせよ。また、終わりを知らぬ終わりまで、この「書簡」に記されたこれらの輝かしい言葉の夜明けの方向に目を据えよ。争いは流血を引き起こし、人々の間に暴動を起こす。汝ら、この「虐げられた者」の「声」に耳を傾け、それから逸(そ)れるなかれ。
もし人が心の中で、この「啓示」において「栄光のペン」から流れ出でたことについて熟考するなら、この「虐げられた者」が何を断言したとしても、「彼」には「彼自身」のために何の地位や卓越性をも得ようという意図は全くなかったことを確信するであろう。いやむしろその目的とは、「彼」の言葉の崇高さによって人々を超越した栄光の頂点へと引きつけ、宗教的差異が引き起こした争いや不和から世界の人々を洗い清めるものを知る能力を彼らに与えるということであった。これについては、わが心と「ペン」、そしてわが内なる「存在」と外なるの「存在」とが証言する。あらゆる者が己自身の内にある宝に眼を向けることを神がかなえて下さるよう願う。
おおバハの人々よ!技能や科学や技術の源は熟考力である。地球に住む全ての親族の幸福と調和を促進するような真珠や英知や発言が、この理想的鉱山から輝き出でるよう、汝ら、最大の努力を尽くすがよい。
あらゆる条件下において、苦難の時も安楽な時も、栄光に満ちた時も苦しめられた時も、この「虐げられた者」は、愛と優しさと情けと調和を示すよう、あらゆる者に指導してきた。しかし少しでも進歩と発展があると必ず、ベールの後ろに隠れていた者らが突撃し、剣よりも人を傷つける悪口を吐いたのであった。彼らは間違った非難すべき言葉にしがみつき、神が啓示された節の海を失ってしまうのである。
もしこれらの、障害になるベールが邪魔しなかったならば、ペルシャは二年程の間に、発言の力によって征服され、政府と国民両方の地位は高められ、「最高の目標」はベールがはがされ、明らかにされ、栄光で燦然と輝きながら、公然とした栄光において現れたことであろう。端的に言えば、ある時は明白な言葉で、またある時は暗示によって、我は言うべきことを全て語ったのである。したがって、一旦ペルシャが復興したなら、神の「言葉」の甘い味はあらゆる国の上に漂ったであろう。なぜなら、「最も崇高なるペン」から出でたことは、地上のあらゆる民族や親族の栄光と発展と教育のためになるからである。まことにそれは、あらゆる病のための最高の治療薬である――もし彼らがそれを理解し知ることさえできるならば。
最近、アフナンたちとアミン――彼らの上にわが栄光と慈愛あれ――がわが面前に達し、わが顔を見た。同様にナビルとその息子、そしてサマンダーの息子――彼らの上に神の栄光と神の慈愛があらんことを――もそこに居合わせ、再会の杯を交わしたコップを取って飲んだ。彼らのために、この世と次の世のよきものを神が恵み深く定め給い、神の寛大の天と神の優しき同情の雲から神の祝福と恩恵のほとばしりが彼らの上に注がれるよう、われは神に懇願す。まことに、慈悲を示す者らのうちでも神は最も慈悲深き御方であり、また神は恵み深く、情け深くあり給う。
おお、ヘイダー・アリよ!汝がジュド[8] (恩恵)という称号を持つ者を通して送った、汝の別の手紙は、わが聖なる宮廷に届いた。神に誉れあれ!それは聖なる和合(神の単一性)と離脱の光によって飾られ、愛と愛情の火によって輝いて燃え上がっていた。汝の眼に鋭敏さを与え、新しい光によってその眼を明るくなし給い下さるよう、神に祈れ。さればおそらく、その眼は匹敵するもののない類なきものを見るであろう。
この日、「母なる書」の節は太陽のごとく輝かしく明白である。それらの節は、昔や今の言葉の、そして最近の発言と取り違えられることは決してありえない。まことに、この「虐げられた者」は「自らの大業」を他人が出した証拠によって実証したいとは思わない。彼こそは全てを包みこむ御方であり、彼以外の全ては取り囲まれているのである。言挙げよ、おお人々よ、汝らの間で広まっているものを熟読するが良い。しかし、われは我にふさわしきものを読む。神にかけて誓う!世界の諸々の民族による賛美も、地球の諸々の親族が所有するものも、わが名の記憶の前においては語るに値しない。これについては、あらゆる条件下で「まことに彼こそは、『復活の日』の最高の統治者にして強大なる玉座の主なる神におわす」と宣言し給う御方が証言なさる。
神に栄光あれ!人は、バヤンの人々の中にいる不信心な者らは、何を証拠とし、また何が理由で生存の主から顔を背けてしまったのであろうかと思っている。まことに、この啓示の地位は、これまでに顕現されたものとこれから顕現されるもの全ての地位を超越するのである。
もし、「バヤンの最初の点」がこの日に生きていて、この大業を認めるのをためらったなら――そのようなことは決してありえないが――「彼自身のバヤン」の源から流れ出た、まさに次の聖なる言葉が彼に当てはまる。彼は次のように言う、そして彼の言葉こそ真理である――「『神が顕示なさるであろう御方』が、地上で最も偉大な者を拒絶することは合法的なのである」。言挙げよ、おお、理解力に欠けた汝らよ!今日、その「最も崇高なる存在」はこう宣言している――「まことに、われは彼を崇敬する最初の者である」。人々の知識は何と浅く、その理解力は何と弱いことか。わが「栄光のペン」は、彼らの救い難い非常な貧しさと、全ての世界の主なる神の富について証言す。
創造をもたらされた御方に誉れと栄光あれ。彼こそは最高の「真理」であり、目に見えぬものについて知っておられる御方である。「母なる書」は啓示され、恩恵の主は、最も聖なる栄光の座の上に確立された。「夜明け」は訪れたが、その人々は理解していない。印はもたらされたのに、それらの印を啓示した御方は明らかな悲しみにひしがれている。まことにわれは、生存の世界を嘆かせたものに耐えてきた。
言挙げよ!――おお、ヤーヤ(アザール)よ! ひとつの節を作り出してみよ、もし汝、神の霊感を受けた知識を持っているのなら。これらの言葉は、この時代に「まことに、われは彼を崇敬する最初の者なり」と叫ぶわが「先駆者」によってかつて語られた。公平であれ、おお、わが兄弟よ!わが発見のうねりを上げる海に面と向かう時、汝は己を表現することができるというのか。わが「ペン」の鋭い声に直面する時、汝は言葉を発する舌を緩めることができるのか。わが全能の啓示の前で、汝に何の力があるというのか。われは神にかけて汝に命ず。公平に判断せよ。そしてこの虐げられた者の面前に汝が立ち、危難の中の救助者にして自力にして存在し給う神の節を、われが口述し書き取らせたときのことを思い起こせ。偽りの源によって汝らから明らかな「真理」が隠されることのないよう注意せよ。
おお、わが顔に己の眼を据(す)えたる汝よ!言挙げよ――おお汝ら、無頓着な者らよ! たった一滴のために汝らは天の節の大洋を失い、取るに足りない原子のために「真理の太陽」の輝きから己を閉め出してしまった。バハ以外の誰に、人類の面前で発言する力があるというのか。公平に判断し、不正な者らのようではあるな。彼を通して、海はうねりを上げ、次のように叫んだのである――「天と地の王国は、印の『啓示者』にして明白な印の『源なる御方』、神のものである」。この「啓示」の先駆者なる御方が啓示されたペルシャ語の「バヤン」を熟読し、公平の眼にてそれを見よ。まことに、彼は彼の道へ、汝らを正しく導いて下さるであろう。今彼は、その最も崇高なる名の玉座の上に座っていた時に語りし彼の舌が発したことを宣言す。
汝は、それらの地域に住む愛されし者らのことを語った。神に誉れあれ、彼らのひとりひとりは真なる御方――彼の栄光に誉れあれ――によって記憶されるという名誉を得、彼らの名前は全て、発言の王国にて「壮大の舌」より流れ出でた。彼らの祝福と幸せは、まことに大いなる非常なものである。なぜなら、彼らは、あわれみ深くまた慈悲深き彼らの主の手から、啓示と霊感のえり抜きのワインを飲んだが故に。確実たる堅忍不抜を顕現するために彼らを助け、英知と発言の軍勢を彼らの援助のために呼び出し給うよう、われは神に懇願す。まことに、彼こそは強大にして全能なる御方なり。わがあいさつの言葉を彼らに伝え、記憶の「太陽」は出現して、常に許し給い、全てに慈悲深き彼らの主の、恵み深き恩寵の地平線の上からその輝きを放ったという吉報を彼らに告げよ。
汝はフセインのことを述べた。われは彼の身体を許しの衣で装わせ、彼の頭を許しの王冠で飾った。全ての人々の間で、この輝かしく明らかな恵みを誇りとすることが彼に似つかわしい。言挙げよ――落胆するな。この聖なる節が啓示された後は、汝はまるで母親の子宮から新しく生まれたごとくであろう。言挙げよ――汝は罪と過ちから免れている。まことに神は、その最も偉大な牢獄において彼の発言の生きた水の中に汝をお浸しになった。神――彼に祝福と誉れあれ――をほめたたえ、神の栄光を賛美することにおいて汝に確証を与え、神の目に見えぬ軍勢の力によって汝を強くし給うよう、われは神に懇願す。まことに彼は全能にして無限の力を有する御方なり。
汝はタール[9] の人々について述べた。われは、そこにいる神のしもべらの方に「わが顔」を向け、この啓示に関して「バヤンの点」が啓示したことをまず考慮するように勧告す。そして、この啓示によってあらゆる名前や称号は震えあがり、空虚な想像の偶像は砕かれ、「壮大の舌」は栄光の領域から次のように叫んだのである――神の正義にかけて誓う!「隠されたる宝」、「不可解な神秘」は人間の眼に明かされ、過去と未来の全てのものを喜ばせたのである。彼は次のように言い、彼の言葉は真実である――「われの後に来る御方に対して、われが述べた敬意の言葉の中で最も偉大なものは、書き記されたわが告白なる次の言葉である。わが言葉は彼について十分に述べることはできず、わが『書』なる「バヤン」の中で彼について述べたいかなる言及も彼の大業について公平に評価することはできない」。
さらにわれは、正義や公平や正直や敬虔な態度を身に付けるよう彼らに勧告す。それに従い、「神の言葉」や彼ら自身の地位が共に人々の間で高められるものに従うよう、彼らに勧告す。まことに、われこそは正義にて勧告する者なり。これについては、その「ペン」から慈悲の川が流れ出し、その発言から命ある水が全創造物へ向けて流れ出でた御方が証言し給う。この恩恵は計り知れぬほど崇高であり、この輝かしい好意は非常に神聖なり。
おお、タールの人々よ!お望みになることを全てなし給う御方の「叫び」に耳を傾けよ。まことに彼は、諸々の世界の主なる神に汝らを近づけさせるものを汝らに思い出させ給う。彼は、アッカの「牢獄」から汝らの方へ顔を向け、「書」の中で汝らの記憶と名前を不滅にするものを、汝らがために啓示なさった。その「書」を消し去ることはできないし、それは、片意地な者らの疑いによって影響を受けることもない。人々の間に広まっているものを投げ捨て、お命じになる御方、日の老いたる御方の意志によって汝らに命ぜられたことに固守せよ。しっかりとつかまるがよい。この「日」は、聖なるロートの樹が大声で次のように叫ぶ「日」である。――おお人々よ!わが実と葉を見、そうしてそのさわぐ音に耳を傾けよ。人々の疑惑によって、汝らを確信の光から離れさせぬよう注意せよ。発言の「海」は叫び、次のように語る。「おお、地上に住む汝らよ!わがうねりを上げる水を見、われが流し出した英知と発言の真珠を見よ。神を畏れ、無頓着な者らのようではあるな。」
この「日」、偉大な祭りが天上の領域で開かれている。諸々の聖典で約束されていたことが実現したのだから。非常な喜びと歓喜に満ち溢れ、神に近い彼の接近の宮廷の方へと急ぎ、遠隔の火から自らを救うことが、あらゆる者の義務にふさわしいことである。
おお、タールの人々よ!わが御名の強さを与える力によって知識の聖杯をつかみ、この世の人々を物ともせず存分に飲め。その人々とは神の聖約と遺言状の法を破り、神の証拠と明らかな印を拒否し、天と地の全てにみなぎる神の印にけちをつけた人々である。
バヤンの人々の中にいる間の不信心な者らは、シーア派の信奉者のようであり、彼らのした通りのことをしている。彼らを、自らのたわいない空想と空虚な想像にふけさせ、ほおっておけ。彼らはまことに、全知にして全てに賢き神の書簡の中で、道に迷った者らとして見なされている。シーア派の聖職者たちはみな、今、その説教檀から真なる御方を罵(ののし)り非難している。何と言うことか。ダウラト・アバディ[10] もその真似をした。彼は説教檀に上り、「書簡」を苦痛のために泣かせ、「ペン」を嘆き悲しませるような言葉を発した。彼の振る舞いとアシュラフ[11] ――彼の上にわが栄光と慈愛あれ――の振る舞いについて瞑想せよ。そして、同様に、わが名において殉教の場へと急ぎ、世界の望みなる御方の道において命を捧げた、愛されし者らのことを考えてみよ。
この大業は明らかであり、それは太陽のごとくまぶしく輝く。しかし、人々は自らをベールでおおって帳(とばり)にしてしまった。神の方へ戻るために彼らを恵み深く助け給うよう、われは神に懇願す。彼こそはまことに、お許しになり、慈悲深き御方なり。
おお、タールの人々よ!われはこの「場所」から汝らにあいさつの言葉を送り、神が――彼に祝福と誉れあれ――御恩寵の御手で好意の手から堅忍不抜の選り抜きのワインを汝らに飲ませ給うよう、神に懇願す。まことに、彼は恩恵の主にして恵み深く、誉れ高き御方におわす。我欲のままに利己的な望みによって動き、たわいない空想の解説することにしがみつく、この世の未熟な者らをほおっておくがよい。まことに、彼こそは汝らの救助者であり、救援者におわす。彼はまことに、お望み給うこと全てをなさる力がおありである。唯一にして類なく、強大にして最も偉大なる彼以外に神はいまさぬ。
彼の啓示の「夜明け」の方へ己の顔を向け、発言の「舌」がこの祝福され、栄光に満ち、他に匹敵するもののないこの「日」に語ったことを認めた者らの上に、わが存在からの栄光があらんことを。
[1] 優れたペルシャのバハイの伝道者、そして著者。彼は9年間をカートゥムで牢獄・追放生活を送り、イランのあちこちを旅し、1920年に聖地で没した。彼は、「カルメル山の天使」として、西洋の巡礼者らに知られていた。(英語訳注)
[2] コーラン、34:12
[3] イエス・キリスト
[4] ハジ・ムラ・ハディ・サブズィヴァリのこと。バハオラと同時代の人物で、イランの著名な哲学者かつ詩人。1873年没。
[5] ミルザ・アブル・カスィム・ファラーニ、ガイーム・マカーム。ファート・アリー・シャー時代の優れた詩人、学者。
[6] コーラン、四章百二十九節参照
[7] コーラン、五十九章九節
[8] ムハムマド・ジャヴァデイ・ガズヴィニ。バハオラは彼に、「イシュムラヒ・ジュド」(神の御名、恩恵)という称号を授けた。彼は、バハオラの時代にバハオラの書簡を数多く書き写す仕事をしたが、後に聖約を破壊した。( God Passes By[神よぎり給う]の二四七ページおよび三一九ページ参照のこと)。
[9] イスファハンの近くの村
[10] ミルザ・ハデイ・ダウラト・アバデイ。イシュファハンの神学者。バブの信奉者になったが、後に、ミルザ・ヤーヤを支持し、イランにおけるミルザ・ヤーヤの代理、後継者に指名された。バビ教徒の迫害の間、信仰を否定した。
[11] ミルザ・アシュラフ。イシュファハンで殉教した。God Passes By、二百一ページ参照。