確信の書


前書き

 

宗教がしばしば闘争や不和の原因となっている事実は人類の歴史の大きな悲劇の一つである。全ての宗教が兄弟愛、人類愛の原理を説いているにも拘らず宗教の名のもとに大規模な戦いや醜い犯罪が起り、人々はそのために虐待され続けた。新しい信教の創始者は常に既成の伝統的宗教の苛酷な迫害を受け、その初期の信者達は大衆の盲目的狂信の犠牲となってきた。これらの歴史的事実は、人類がいまだ一度も宗教の一体性の原理を理解しなかったという深刻な現実を浮き彫りにしている。そこで現時代における神の顕示者の最も重要な使命の一つは、「長い年月にわたって世界の主要な宗教を救い難いまでに分裂させている障害を一掃」して、「各宗教の全ての信者を完全かつ永遠に統合するために、広大で難攻不落の基盤を設く」(「神よぎり給う」より)ことであると言っても過言ではないであろう。

そして最も新しい顕示者として遣わされたバハオラは、この使命を果すために多くの書の中でこの主題を取り上げられている。しかしここで特に、長年にわたる障害の原因である過去の聖典中の象徴的で不可解な文章を説明し、「難攻不落の基盤」を構成する宗教の一体制や啓示の累進性、神の顕示者達の同一性を明瞭にする目的の一冊の本が捧げられた。この書物は「その論旨の説得力の強さと抵抗を許さない雄弁な文章」、またその主題の比類のない重要性などから、バハオラの筆になる数多くの書物の中で最も聖なる書とされているケタベ・アグダスに次いで二番目に重要なものとされている。本書がその「ケタベ・イガン」又は「確信の書」と呼ばれる著書である。

ケタベ・イガンの勉強を、この書が啓示された時代の歴史的背景に目を通すことから始めるのは最良の方法であろう。それは、バハオラの論旨の方法づけや彼の意図、更にはその時点ではまだ明らかにされていなかった彼の身分を暗示する省略された文章の幾つかを理解する上で大いに役立つものである。

バハオラがテヘランのあの残忍な地下牢へ四カ月間の苛酷な監禁を強制された後、母国を追放されバグダッドヘ到着されたのは一八五三年のことであった。彼はその時この地で、かつては勇気と信仰心をもってイラン国中にバブの伝言を伝播したバビ教徒達が、バブ殉教後引続く厳しい迫害によって最早その勇気や信仰心を発揮することもできず、混乱と落胆の中に打ち沈んでいるのを見出された。そこで彼は「最大の活力をもってこれらの人々の刷新に着手する」ことを決意された。しかしそれを推進するに当り非常に大きな抵抗がつきまとい、ついに彼は一八五五年、突然この市を去って遥か人里を離れたソレイマニエー山中へ身を引かれ、瞑想と祈りのうちに独居を始められた。二度と人々の元へ帰ろうとはされなかったバハオラが、熱心な信者達のたっての願いを聞き入れてバグダッドヘ帰還されたのはそれから二年後のことであった。そこで彼は再びバビ教徒の共同体の復典に力を注がれ、その努力は徐々に実を結び始めた。バハオラの名声は各地に広まり、単にバグダッドの共同体が活気付けられただけでなく、遥か遠くの地方からも彼に面会しようと旅して来る人があとを絶たなかった。

これらの旅人達の中にバブの母方の叔父にあたるハジ・ミルザ・セイエド・モハメッドがいた。彼は甥であるバブの非凡な資質には早くから気付いていたしそれを十分に認めていたにも拘らずバブの主張を承認することができず遂にバブの生存中はバビ教徒にはならなかった。しかし真実を追求して止まない彼は胸に抱いている疑問を解明しようと考え、一八六二年バハオラに面会するためにバグダッドヘ向って旅立った。

バハオラの秘書の手紙の中に、バハオラと彼との会見の模様が記されている。彼はバハオラの威凡と雄弁と博識に深く感動させられバハオラによってバブの主張の真実なることが証明されることを心より願望した。そこで回教の約束された救助者・ガエムとしてのバブの地位に関する彼の疑間を全て、バハオラの要求により一つにまとめて提出した。彼の質問の主題はガエム出現に関する予言、伝承、状況に係わるものであり、知識豊かで信仰深い回教徒がバブの主張の真実性を確めるには非常に重要な鍵となるものであった。これに対してバハオラは二百ぺージに及ぶ回答書を書き与えられた。これが即ちケタベ・イガンと呼ばれる書である。バハオラはこの膨大な回答を二日間で書き上げられたという。

この書に対するバブの叔父の反響は圧倒的なものであった。彼の疑問は一掃され、確固とした信含とバブヘの信仰が生まれたのである。

「私はバハの御前に参じることができた――彼の上に平和のあらんことを!――お前も参じられれば良かったのだが。彼は最高のもてなしをして下さり親切にも泊って行くようにと勧めて下さった。彼と共にいることの栄誉を逸することは誠に嘆かわしい損失である。神が私に永遠に彼の御前にあることの特権を授け給わんことを・・・・」と彼はその時息子に宛てて手紙を書いている。

 

さてここでこの重要な書物が著わされた一八六二年当時のバハオラの地位について考えてみよう。注目すべき点は、この時点ではバハオラは神の顕示者としての身分をまだ明らかにされていなかったということである。バハオラの言葉によれば彼が最初にその自らの使命について啓示を受けられたのは一八五二年暮のことで、重い鎖の首かせをはめられテヘランの牢獄へ繋がれていらっしゃる時であった。しかし彼がその使命を公に宣言されたのはそれから十年も後のことであったからその間外見上彼は、指導者を失ったバビ教徒達の中の単なる秀でた一信徒であり、バビ教徒達の多くの生命を奪った迫害から神の御意により免がれた者、バビ教を復興しようと心を傾けている者にすぎなかった。そして前述したように一八六二年頃にはバハオラは多くの困難を克服しながらその目標を達成されていた。ところが彼の成功があまりに目ざましいものであったためにその地方の聖職者達は自分達の権威を脅かされるのではないかと不安を感じ、バハオラをイランから追放した権力者達は、既に抹殺され尽したかのように見えたバビ教が再び勢いを得て国中に広がっていくことに新しい恐怖を抱いて奮起した。そこでイランの権力者達はバハオラを沈黙させるために一八六三年四月、彼を旧トルコ帝国の首都、コンスタンチノープルヘと追放することにした。バハオラが神の顕示者としての自らの地位を公に宣言されたのはちょう度このコンスタンチノープルへの旅立ちの直前のことであるから、ケタベ・イガンはこの宣言の前年に著わされたことになる。

 

ケタベ・イガンは回教を背景とした一紳士の疑問に答えるために書かれたものであるとは言え、この中でバハオラがコーランの難解な部分を一つ一つ説明される時それが単なるコーラン注釈書では決してなく、全ての人々の求めるものに答えうる普遍的な主題を取扱ったものであることが容易に理解できるであろう。

この聖なる書は二つの部分から成り、短い方の第一部では全ての宗教の発端の共通した歴史について論じられている。それは神の顕示者達の迫害とその教えに対する大衆の拒絶の歴史である。バハオラはこの中で神の顕示者に対する拒絶の理由について究明されている。

即ち第一部の中心的論題は、人々にとって神の顕示者を認めることが何故それ程困難なことであったのか、また何故人々は経典の不可解な神秘にのみ囚われたのか、を説明することである。「神の目的は真実を誤りから、また太陽を暗がりから識別することにあるのであるから、神は季節毎にその栄光の領土から試験の雨を人類の上に注がれたのである。」とバハオラはこれについて述べておられる。人は常に神によってその信仰を試されているが、最大の試練はその時代の神の顕示者を認めることができるか否かである。

バハオラはまた次のように書かれている。「神の聖なる大業を啓示するもの達から放射されるこれら総ての象徴的な言葉や難解なる引喩の根本的な目的は、世の人々を試してみることであり、またそれによって純潔で輝かしい心の大地が朽ち果てる不毛の土壌から区別されるのである、ということを十分承知するがいい。永遠の昔から、神が創造物に対して用いられる方法はこうであった」と。

 

本書の第二部は広範囲に亘る課題を含んでいる。ここでバハオラはバブの顕示者としての地位を立証する種々の証拠を引用されている。その一つはバブの生活そのものに見られる無我と彼の信者達の純潔である。もう一つは、コーランや他の回教の経典中に見られる約束されたガエムについての数多くの予言に関するものである。

この第二部のある章に「日の老いたる者(神)の英知に通じる道に足を踏み入れようと決心する」真の探求者に対するバハオラの教導の言葉がある。私達はここに真理の探求者としての資質と属性の概要、また最も基本的訓戒や高遠な精神的到達点に向って日常行うべきことの概要を見出すことができる。彼は第二部でも諸宗教の聖典中にある数々の言葉の真の意味を明らかにするという最初の任務を継続されている。それらの言葉の中には「復活」、「生と死」、「審判の日」、「神の御前に参ず」、神の顕示者の持つ「主権」等という言葉が含まれている。これらの言葉の真に意味するものを多くの人々は理解することができなかったため、新しい顕示者を認めることに失敗したのであると説明されている。

第二部における最も重要な課題は神の顕示者達の地位と性格、顕示者達の神や人間への関係である。バハオラはここで、世界の総ての宗教は共通して一つの独特な源(神)と、全く同じ一つの目的(人の魂を導き、精神を啓蒙すること)を持っていて、根本的には神の顕示者達は

一つの精神の顕示者であり、人はいかなる方法においても彼等の間に区別をつけるべきではない、諸宗教の間に存在する差異は「それが発布された時代の種々の要求に帰因する」のであるとして、総ての宗教の一体性と累進的啓示について述べ、これらの真理の重要性を強調されている。

総ての宗教が派閥闘争を繰り返し、地球上の平穏は一瞬にして世界の文明を崩壊してしまう宗教的憎悪の火災によって脅やかされ続けている現代、人々が宗教に背を向け、宗教を破綻してしまった制度とみなすのはある意味では無理からぬことと言える。そこで宗教的憎悪や闘争の根本的原因は何であるかを究明し、諸宗教の一体性の真理を人々の目から被い隠している無数の誤解の源は何かを暴露することによって人々に宗教の真髄を伝え、人々の宗教に対する信頼を復活させることは、宗教の真理とその必要性を信ずるバハイにとって、神聖かつ緊急の任務であろう。

この任務を真剣に考える時、私達は本書を熟読する必要性を悟り、そのために要求される深い瞑想や熟考にも力強く耐え忍ぶことができるのである。何故ならこの書を深く研究する人は、その中に「確信」を見い出すことができ、「確信」こそは求め得べき最も高価な報酬となるからである。                   

 

ハジ・ミルザ・セイエド・モハメッドに宛てられたバハオラの言葉、「汝が神の慈悲の大洋の岸辺から喉の渇きを癒さないままで帰って来るようなことのないように、また汝の心の望みである不滅の聖所から貧しい姿で帰って来るようなことのないように、我は心より望んでいる。さてここで、汝の探求と努力の結果は何であるかを拝見する時が来た」は、本書を読む者一人一人にとって極めて鋭い問いかけとして心の底まで響いて行くであろう。

 


確信の書

 

第一部

 

高遠にして最も崇高なる我等の主の御名において

 

何人たりとも天地万物から離脱しなければ、真の悟りの大洋の岸辺に到達することは不可能である。おお汝等世俗の人々よ。神が汝等のために定め給うたその地位に到達して、神の摂理によりバヤンの天上に建てられた神殿に入ることができるように汝等の魂を清めよ。

 

 

この言葉の真髄はこうである。信仰の道を歩み確信の美酒を渇望している人は、世俗的な総てのものから身を清めなければならない。即ちくだらない饒舌から耳を、空虚な妄想から精神を、世俗的な感情から心を、滅び去る束の間のものから眼を遠ざけなければならない。人は神を信頼し、神にしっかりと縋って、その神の道に従わなければならない。そうすれば、人々は神の英知と会得の太陽のまばゆいばかりの光を受けるに相応しいものとなり、眼に見えぬ限りない恩恵を受けるものとなるであろう。人が死滅の運命にある人間の言動をもって、神やその予言者達を真に理解し認識する基準とすることを止めない限り、けっして栄光に満ち給う御方の英知に到達することを望むことはできないし、神の英知や分別の流れの水を一飲することも、不滅の住家に入ることも、神に近づいて恩寵の盃を頂くこともできないからである。

 

過ぎし日のことをよく考えてみょ。身分の上下を問わず、何と多くの人々が神に選ばれたる者達の中の聖別された人達の間からA神の顕示者達が現われることをいつもいつも待ちこがれていたことであろう。人々はどんなに頻々彼の到来を待ち望んだことか。また、神の慈悲の微風が吹き渡り、約束された美が隠れ家の被幕から全世界に姿を現わすようにと人々はどんなに度々祈って来たことであろう。それなのに恩寵の正門が開かれ、神の恵みの雲が人類に大いなる賜物を施し、眼に見えぬ御方の御光が天上の威力の地平線上に輝き出すと、きまって人々は彼を拒絶し、神御自身のお顔でもあるその彼の顔から眼をそむけたのである。汝等、この事実を立証するためにあらゆる聖典の中に記載されていることを参照してみよ。

 

あれほどまで熱心にあこがれ、探し求めていた人々がこのように拒絶した原因について暫時思いをはせ、よくよく反省して見るがいい。その者達の攻撃は実に筆舌につくし難いほど激しいものであった。およそこの世に現われた聖なるものを顕示する者で、周囲の人達から拒否や拒絶、猛烈な反対に悩まされなかったものは一人としていなかったのである。従って次のように述べられたのである。「なんとみじめな人間共よ!神の使者がお前達の所にやって来ると、いつもあざけりや嘲笑を受けないものは一人としていなかった」と。(コーラン36・30)また彼は言っておられる、「どの民族でも、きまって自分達への使者を手荒に捕えようと秘かにたくらみ、真理をやり込めようと愚にもつかないでたらめを持ち出して、議論を吹っかけた」と。(コーラン40・5)

これと同じように権威の源から流れ出し、栄光の天上から降って来たこれらの言葉は数限りなくあるが、人間の普通の理解力では到底分るものではない。しかし、真の理解力と洞察力を持った者にとっては、きっとBフードの章だけで十分であろう。こういう数々の聖句に暫時思いを馳せ、全く俗念を去って、それが何を意味するかを十分把握するよう努めるがいい。予言者達のあの実に素晴らしい態度をよく吟味し、否認や虚偽をこととする子等の語った中傷や拒否についてじっくりと思い出してみよ。そうすれば恐らく汝は人の心に羽ばたく鳥を、無頓着や疑惑のねぐらから信仰と確信の巣へと飛び移らせ、太古よりの知恵の清らかな水で心ゆくまで咽喉を潤わさせ、神の英知の木の実の分け前に預からせることができよう。これこそ神聖で永遠なる国土より、心の清い者に与えられる糧の分け前である。

 

神の予言者達の上にしばしば加えられた多くの屈辱について詳しく知り、その迫害者共が唱えた数知れぬ異議の真によって来たる所を理解するならば、予言者達の重要性がきっと分るようになるであろう。更にまた、神の属性を備えた顕示者達に反抗した者等の拒否について綿密に観察すればする程、神の大業を一層しっかりと信仰するようになるであろう。そこで総ての時代、あらゆる世紀を通じて、如何なる筆をもってしても書き表すことができない程に凶悪きわまりない虐待を受けたその事実を示すために、神の予言者達に関する種々の記録をこのC書簡で簡単に書き記してみようと思う。そうすれば幾人かの人々は現代の聖職者達や、愚かなるもの達の騒ぎや抗議によって混乱させられることもなくなり、信頼や確信の手段を得ることになるであろう。

 

予言者達の中にDノアという人がいた。九百五十年もの間彼は民衆に向かって、信心深く、熱心に説いてまわり、平和で安全な安息所に来るように招いた。しかし誰一人としてその呼びかけに心を留める者はなかった。毎日毎日人々はノアの祝福された身にひどい苦痛や危害を加えていたから、誰もノアが生き永らえようなどとは思わなかった。何としばしばその人達はノアを拒み、また何と憎々しげに彼に疑惑を仄めかしたことか。そのことについてこう記されている。「だが民の長老達はノアの傍を通り過ぎる度毎に彼を嘲笑した。ノアが言うには『お前達は今こそ我々をこのように嘲笑しているが、いずれ今度は、こちらがお前達を嘲り笑う時がケタベ・イガン

来るぞ。そうなったらお前達も眼が覚めるであろう。(コーラン11・38)それから久しくして、ノアは幾度か自分の仲間達に勝利の日が来ることを約束し、その日時までも定めた。しかし、いざその時になってもこの神の約束は成就されなかった。そこで、いくらもいなかったノアの信徒のうちの何人かは彼から顔をそむけた。最も良く知られている幾つかの書物にこのことを証明ずる記事が載っている。汝はきっと今までにこれらの記事を読んだことがあるに違いないし、まだ読んでいないとしたら、後日きっと読むであろう。数々の書物やE伝承の中に記されているように、彼の信徒達は終りには僅か四十名か、七十二名になってしまった。そこで遂に彼は心の奥底から大声でこう叫んだ「主よ!この地上に不信心ものを只の一人たりとも残し給うな」と。(コーラン71・26)

 

さて、これらの人達の強情な振舞いについて、暫時振り返って考えて見よ。彼等がこのように拒否したり、忌避したりする理由は一体何処にあったのであろうか。拒否の衣を脱ぎ捨てて受諾の衣に着替えることを拒むようにざせたのは一体何だったのであろうか。更にまた、求道者達は、神の約束が果たされなかったために一旦受け入れたことを拒否するに到ったが、約束が成就されなかった原因は一体何だったのであろうか。汝が、目に見えないものの神秘をはっきりと見極め、香わしい霊的な久遠の芳香を嗅ぐことができるように、また太古から永遠の未来に至るまで万能なる御方が、絶えずその民を試して来られ、今後も試し続けられるであろうその真理を、はっきりと認めることができるように深く冥想して見るがいい。神は試すことによって光を暗黒と、真理を虚偽と、正義を邪道と、教導を過誤と、幸福を不幸と、バラを茨と区別できるようにされた。彼はまさしくこう言われている「人間共は『信じます。信じます』と言いさえすれば、もうそれで干渉もされず、試されることもなかろうと考えているのか」と。(コーラン29・2)

 

ノアの後にフードの御顔の光が創造物の地平線上に輝き出た。人々の言い伝えによると約七百年もの間、彼は、神のいますFレズワンの方へ人々が顔を向け、そこへより一層近づいて行くよう熱心に説いたという。ところが彼の上には何と激しい苦難の雨が降り注いだことか。遂に彼の嘆願は、反逆をますます増大させる結果となり、彼の根気強い努力は、彼の民のかたくなな無知をかり立てるだけに終わった。「不信仰は、ただ不信仰な者達の破滅を増すばかりである。」(コーラン35・39)

 

そしてフードの後に、眼に見えない永遠なる御方のFレズワンからGサーリフという聖者が現われた。彼もまた人々に向かって永遠なる生命の川に来るよう勧めた。百年余りもの間サーリフは、人々に対して神の掟を堅く守り禁制を避けるよう諭した。しかし彼の諭しは何の効果ももたらさず、彼の警告も甲斐のないものであるということが明らかとなった。そこで彼は、何度か引きこもって隠遁生活を送った。この永遠の美はただ人々を神の町へと召したのだが、万事はかくの如くになった。まさしくこう記されている、「またHサムード族には、同じ血筋のサーリフを遺した。彼が言うには『おお皆の者、神につかえまつれ。他にお前達の神はいまさぬぞ…一』と。すると一同は答えて言った『これサーリフ、これまでお前は、我々の希望の的であった。それなのに御先祖様が崇め拝んでいたものを、我々に拝むなというのか。お前が我々に勧めていることは、どうも疑わしいと睨んでいる』と。」(コーラン11・61・62)このように万事は実を結ばなかった。しかしこれらの人々は、しまいには大声で叫びながら破滅の渕に落ち込んでしまった。

その後、神の友I(アプラハム)の麗しい御顔が覆いの陰から現われて、神のお導きの旗がまた高く掲げられた。彼は、この世の人達を正義の光の方へとさし招いた。彼が熱心に説けば説くほど、民衆の妬みと強情さはますます激しくなっていった。神以外の総てのものから完全に身を遠ざけ、確信の翼をもって、神によって人間の理解の及ばないほどに高められた地位に舞い上がった人達だけは例外であったが、かようにして敵の大軍は彼を取り囲み、遂には妬みと謀反の炎が彼に向かって激しく燃え上がったことはよく知られた事実である。炎の挿話があった後、総ての書物や記録に記載されているように、人々の間の神の灯であった彼は住んでいる町から追放されてしまった。

 

このようにしてアブラハムの時代が終わると、次はJモーゼの番がやって来た。モーゼは天国の権威の杖で身を固め、神の英知の純白の手で身を飾り、神の愛の濠るパラン山から進み出で、威力と永遠の尊厳の蛇を操って、光のシナイ山より世界に輝き渡ったのである。彼は、地上の人達やその縁者達をことごとく永遠の王国に召集して、誠実の木の実の分け前に預かるように招いた。Mファラオとその人民達の激しい反抗や、異教徒達の手があの祝福された木に向かって行った愚かな妄想の投石についても、汝はきっと熟知していることであろう。いかなる地上の水をもってしても神の英知の炎を消すことはできず、また人間の息を吹きかけたとて、永遠の領土の灯は消せはしないという真実を忘れたファラオとその人民達は遂に起ち上り、虚偽と反抗の水であの神聖なる木の炎を消そうと精一杯の努力をしたのであった。もしも汝等が識別の眼をもって見、神の聖なる御意と御意志の道を歩んで行くならば、このような水は炎の燃焼をむしろ盛んにし、このような一吹きは、灯が燃え続けることを保証するのみであるということがよく分かるであろう。ファラオの血族の中に一人の信徒がいたという話は、栄光に満ち給う御方がその愛し給う者に啓示された聖典中に語られているが、その一信徒はいみじくもこう述べている、「ファラオの血族のもので、ひそかに信仰していた男があって、言うことには『わが主は神であるというだけのことで人一人〔モーゼのこと〕殺そうとなさるおつもりか、あなた達の主から御徴を頂いて来ているというのに。もしあの男が嘘つきなら、その嘘は自分の上に振りかかりましょう。しかし、もしまた、あれの言う通りなら、あれのおどしていることのいくらかは、必ずあなた達の上にも振りかかるでしょう。実に神は罪を犯したり嘘をつくものを手引きしたりはなさるまい』と。」(コーラン40・28)けれどもその者達の邪悪はあまりにひどく、とうとうこの一信徒は屈辱的な殺され方で最期を遂げた。暴虐者達の上に神のたたりのあらんことを。」

 

 

さてこれらのことを、よく考えて見よ。どういうことが原因でこのような論争や衝突が起こるのであろうか。神の真の顕示者が現われる度に、かような争いや騒ぎが、また、かような暴虐や動乱がついて廻るのは、一体どういう訳なのであろうか。神の予言者達が世の人々の間に姿を現わす時にはいつでも、自分達の後からまた他の予言者が出現することを予言し、未来の宗教制の出現を告げる御兆を定めているにも拘らず、この様な事が起こるのである。その事実については総ての聖典中の記録が立証している。それなら何故、聖なるものの顕示者達を探し求め、その出現を待ちこがれているにも拘らず、また多くの聖典中に記録されている種々の御兆が現にあらわれているにも拘らず、かような暴力的行為や抑圧、残虐等の行為が、各時代、各周期に、予言者達や神が選び給うた者達総てに対して行われたのであろうか。このことについてはまさしくこう述べられている、「お前達に気に入らない啓示を持って使徒が出現する度に、いつもお前達は、高慢にそりかえり、或るものをば嘘つき、詐欺師と嘲り、またあるものを殺害したりした」と。(コーラン2・87)

一体何がこのような行為の動機であったのかをよく考えてみよ。栄光に満ち給う御方の美を啓示する者達に対して、一体何がかような態度をとらせるようにさせたのであろうか。昔、あの者達の拒否や反抗の原因となったその同じことが総て現代でも人々を邪悪の道に導いているのである。神の証言が不完全であって、そのため人々の拒否が起こったのだと主張することは、公然と神を冒瀆するも甚しいものである。神が自ら創り給うたものを教え導くために、総ての人々の間から一人の人を選び出されたにも拘らず、その者には神の素晴らしい証言を十分に示さず、他方では神が選び給うた者から眼をそむけたという罪科で人々に厳しい懲罰を与えるなどというようなことは、慈愛に満ちた御方の御恵からしても、また神の慈しみ深い御意やお優しい慈悲心からしても、およそあり得ることであろうか。いやそれどころか、生きとし生けるもの総ての主に在す御方の豊かな恩恵は、神々しい神の本質を顕示するもの達を通して、いつも大地と、そこに住むすべてのものをおおい包んでいるのである。神の御恵は一瞬たりとも止まることなく、神の慈愛の雨は絶えず人類のうえに降り注いでいるのである。したがって人間共のこのような態度は、倣慢不遜の谷にさまよい、疎遠の荒野で道に迷い、とりとめもない妄想の道をたどり、自分達の信仰の指導者達の命令にただ盲従している、そのような者達の狭い心から出たものにほかならない。その者達の主な関心事は、ただ反対することである。彼等の唯一の欲求は、真理を無視することである。真理の太陽を顕示する人達が現われた各時代の人々が、実際に見たり聞いたり感じたりした総てのものからもし自らの眼や耳や心を清めていたならば、彼等はきっと神の美を見る機会を失うこともなく、また栄光の住居から遠くさまよい出ることもなかったであろうというようなことは、およそ洞察力を持つ人ならば総て明瞭に分かることである。しかし人々はその信仰を指導するもの達の教えの中から得た知識を標準として神の証言を推量し、その証言が自らの限られた理解と食い違っているのを発見すると起ち上ってこのような見苦しい行いをしたのである。

 

各時代の宗教の指導者達が、その強力な手中に権威ある指導権を握っていたので、その信徒達は永遠の救いの岸辺に到達することを妨げられていたのである。あるものは指導欲が強かったがために、また他のものは知識と理解力が欠けていたがために人々が損傷を負う原因となったのである。そういった指導者達の承認と権威のもとに、神の予言者はそれぞれ犠牲の苦盃をなめさせられ、栄光の天国へと舞い戻って行った。権威と学識の座を占めていたその指導者達は、世界の真の君主であり、神の美徳の宝石である者達に対して言語に絶する残虐な行為を加えたのである。指導者達は、はかない束の間の支配力に甘んじて永遠の主権を失ってしまったのである。かような状態であったから、まことに最愛なる御方の顔の御光も彼等の眼には見えず、望みの鳥の甘美な調べも彼等の耳には聞こえなかったのである。こういう訳で、総ての聖典中にはそれぞれの時代の聖職者達のことが語られている。かくして彼は次のように述べられている「おお聖典の民よ!お前達は、はっきり自分の眼で見ておりながら、なぜ神の御兆を信じようとはしないのか」、(コーラン3.70)「おお聖典の民よ!お前達は、なぜ真理に虚偽の衣を着せようとするのか。なぜわざと真理を隠そうとするのか」、(コーラン3・71)また「それ聖典の民よ、なぜ信徒達を神の道から追い払おうとするのか」と。(コーラン3・99)ここでいう「聖典の民」が、神の真直な道から自分達の仲間を追い払った当時の聖職者達を指していることは明白であり、もし汝が神の眼でよくよく観察して見るならば、その聖職者達の名前や性格は多くの聖典中に記されており、それらの数々の聖句や伝承は彼等に言及している。ということが分かるであろう。

 

およそ誤りのない神の眼からの、しっかりとした眼差しでしばし神の英知の地平線を凝視しながら、永遠なる御方が示されたあの完全無欠な言葉をとくと沈思黙考してみよ。そうすれば今日まで栄光の覆いの下に隠されて神の恩寵の神殿の内に秘蔵されていた素晴らしい英知の神秘は恐らく汝に明らかにされるであろう。宗教の指導者達が拒否したり、抗議したりしたのは、主として知識や理解力に欠けていたためであった。顕示者の出現を知らせる数々の御兆を明らかにし、唯一なる真の神の美を啓示するもの達が述べたそれらの言葉を彼等は少しも理解せず、また洞察することもできなかった。だから彼等は反旗をひるがえし、災いや扇動をひき起こしたのである。永遠の鳥達の言葉の真の意味は、永遠なる御方を顕示する人達以外の誰にも明らかにされてはいないし、聖なる夜啼鳥の調べは永遠なる領土の住民達の耳以外のどんな耳にも達し得ないことは明白である。暴虐なるNコプト人達は正義のセプト人達の唇が触れた盃から分け前を貰うことは出来ないし、また不信心なMファラオが、真理を告げるモーゼの誓約を認めることは到底望むべくもないのである。まさしく彼は述べられている、「神の他には確固として揺ぎない知識を持っているもの達を除いては、その意味は誰にも分らない」と。(コーラン3.7)それなのに、彼等はなおも覆いに包まれている者達から聖典の説明を求め、英知の泉から啓豪を得ることを拒んだのである。

 

そしてモーゼの時代が終り、聖霊の曙から輝き出たイエスの光が世界中をおおい包んだ時にイスラエルの民は皆彼に反抗して起ち上った。バイブル〔聖書〕の中で出現を予言されている者は、モーゼの戒律を宣布し、それを成就しなければならないのに、聖なるメシア〔救世主〕の地位にあることを主張したこの若いナザレ人〔イエス〕は、離婚や安息日の戒律〜これは総てのモーゼの戒律中最も重要なものである〜を廃止した、といって彼等は騒ぎ立てた。その上、来たるべき顕示者の御兆はどうした、と彼等は質問した。これらのイスラエルの民は、今もってなおバイブルが予言しているような、そういう顕示者の出現を待ちうけているのである。聖なるものの顕示者達や永遠の光明を啓示する者達が、モーゼの時代以来何回となく現われているにも拘らず、それでもなおイスラエルの民は、悪魔のような幻想や誤った妄想に深く包まれており、いまだに自分達が作りあげた偶像が、己れの想像したような御兆をもって現われることを期待しているのである。だから神は,彼らをその罪の故に捕え、心の中にある信仰の精神を消滅させ、地獄の火で苦め給うた。このようにされたのも実は、イスラエルの民が、まさに出現しようとしている啓示の御兆についてバイブル中に示されたあの言葉の意味を理解しようとしなかったがために他ならないのである。イスラエルの民は、その言葉の真の意味が分からず、外見上、聖書の言っているような出来事は文字通りには起こらなかったからイエスの美を認めることができず、神の御顔を拝することもできなかった。それでもなお彼等は彼の到来を待ちこがれているのである。太古から現代に至るまで、地上にいる総ての民はこのような気まぐれな、見苦しい考えにしがみついていたから、清浄で神聖な泉から湧き出ている澄んだ清水を飲むことが出来ずにいたのである。

 

このような数々の神秘を説きあかすために、以前に一友人に送ったいくつかの書簡の中で我はPヘジャス地方の美しい口調の言葉で昔の予言者達に啓示された聖句中のいくつかを引用しておいた。そこで今度は汝の求めに応じて、素晴らしいアクセントを持つQイラク語で書かれたその同じいくつかの聖句を、ここ数頁に亘って引用してみよう。そうすれば、疎遠の荒野ではなはだしい喉の渇きにあえぐもの達は神のいます太洋に到達出来るであろうし、また離別の不毛地で思い悩んでいる者達は永遠に続く和合の住家へと導かれるであろう。そこで過誤の霧は追い払われ、実に素晴らしい神の御導きの御光が入の心の地平線上にさし始めるであろう。我は心から神を信頼し、神に御助けを願って叫ぶ。そうすれば、人々の魂を活気づけるものがこのペンから流れ出し、一同が無関心の寝床から起ち上がり、R楽園の木の葉のささやきに耳を傾けるようになるであろう。その楽園の木とは、神の御許を得て、神通力を備えた手〔顕示者の手〕が栄光に輝く御方のレズワンに植えたものである。

 

イエスの愛の火がユダヤの民の限界の覆いを焼き払い、イエスの権威が明白にされ、その一部が実施され始めた時に、眼に見えない美の啓示者、イエスは、ある日その使徒達に向かって彼等の心に死別の炎を扇ぎつつ、御自身の昇天に言及してこう語られた、「我は赴くが、またお前達のところに帰って来る」と。他の個所で彼はまた「我は赴くが、他のものがやって来るであろう。そのものは我がお前達に言わなかったことを全て語るであろう」と語られている。もし汝が、神から授った眼識をもって、神の唯一性の顕示者達についてじっくりと考えてみるならば、上述の二つの言葉は結局双方とも、意味するところは全く同一であることを悟るであろう。

 

およそ洞察力をもってものをみることのできる人なら、誰でもSコーランの宗教制の中にイエスの聖典と大業とが共に確証されていることを悟るであろう。呼び名の点に関していえばSマホメッドは自ら「我はイエスなり」と宣言された。彼は、イエスの数々の御兆、予言及び言葉が真実であることを認め、それらは総て神から由来したものであることを証言された。こういう意味合いからすれば、イエスの人柄や彼の書かれたものは、マホメッドの人柄や彼の聖典と少しも違ってはいなかったのである。その訳は、両者とも神の大業を擁護し、神の讃美を唱え、神の掟を啓示しているからである。イエスが自ら、「我は赴くが、またお前達のところに帰って来る」と宣言された意味も、実にここにあるのである。太陽を例にとって考えてみよ。もし太陽が今、「我は昨日の太陽である」と言ったとしても、それは真実を語っていることになろう。また時の経過を心に抱いて、それはあの太陽とは違うと言ったとしても、それもまた真実を語っていることになろう。同様に、毎日毎日が全く同一のものでしかないと言ったとしても、それはまさしく真実である。また、毎日それぞれ特定の呼び名や名称を持つために、同一ではないと言ったとしても、それも真実である。その訳は、そのものは全く同一であっても尚、人々はそれを別な呼び方で呼び、そのものの持つ特質や特性を認めようとするからである。従って、聖なる顕示者達がそれぞれ持っている個性や相違点や共通点に就いて考えてみるならば、総ての名称や属性を創造された御方によって言及された、違っていて同一であると言うこの不可解な神秘を理解でき、あの永遠の美が、いろいろな時に御自身を違った名称や称号で呼ばれた理由について、不審に思っていた汝の疑問に対する回答が発見できよう。

 

その後、イエスの友人や使徒達は、イエスの再度の出現を示すべき数々の御兆に就いてイエスに尋ねた。彼等はしばしば、あの比類のない美〔イエス〕に尋ねたが、その都度彼は、約束された宗教制が出現することを告げる特別の御兆を示された。四つの福音書〔マタイ伝.マルコ伝.ルカ伝.ヨハネ伝〕中の記事がこのことを証明している。

 

神聖で隠されている木の宝庫中に未だに秘蔵されている賜物を、神に免じて人類に授けることによって、死滅の運命を担っている人類が不滅の木の実の分け前にありつき、また「平和の住居」であるバクダッドから全人類に注がれている永遠の生命の水の一滴にありつくようにと、この虐げられし者〔バハオラ〕は、ここにそれらの内の只一例を引用する。我は賞賛も報酬も望んではいない。「我々は、ただ神故にお前達の魂をはぐくんでいるのだ。我々はお前達から報いも感謝も受けようとは思っていない。」(コーラン76・9)この食物は、心の清らかなもの、精神の輝かしいものに永遠の生命を与えるものである。これこそ、「主よ、あなたの糧を天から我々に下し給え」(コーラン5・117)と言われているその糧のことである。この糧は、それを受けるにふさわしい人々には決して手控かえられることはなく、また決してその糧が使い果たされるということはあり得ない。それは恩寵の木に永遠に実りつづけるし、また正義と慈悲の天から四季を通じて降りて来るのである。まさしく彼はいわれた、「神は実に譬えの引き方がお上手ではないか。よい言葉をよい木になぞらえられた。その根はしっかりと張り、その枝は天まで伸び、四季を通じておいしい実を実らせる」と。(コーラン14・24)

 

この美しい賜物、この不滅の恩恵、この永遠の生命を拒むとは、実に惜しいことである。天から下さったこの糧を尊ぶことは、人間としての義務である。そうしさえすれば、恐らく真理の太陽の素晴らしい恩恵によって、死人も蘇らせられ、萎んだ魂も無限の精霊によって活気づけられるであろう。おお我が兄弟よ、遅きに至らぬ間に急ぎ不滅の一飲で我らの唇を潤そう。それというのも、最愛なる御方の町から現在吹いている生命の微風は、いつまでも続き得るものではないし、聖なる言葉の清い流れも、いつかはきっと止まるに違いない。またレズワンの門とて永久に開かれている筈はないからである。楽園の夜啼鳥も、この世での住居から天上の巣へと飛び去ってしまう時がきっとやって来るに違いない。そうすれば、その美しい囀りの声はもう聞かれなくなり、バラの花の美しさもその輝きを失うであろう。それ故、聖なる春の栄光が失せて、永遠なる鳥がそのうるわしい囀りを止めない内に、その機会を逃さず捕えよ。さもなくば、汝の心奥なる耳はその呼び掛けを聞き漏してしまうであろう。これが、汝や、また神が愛し給うもの達への我が忠言である。その方へ顔を向けたいと望む者はそのようにし、また反対にそれから顔をそむければそうするが良い。実に神は何等人間には依存し給うことなくまた人間が見たりすることにも何等依存し給うことはないのである。

 

これらのことは、マリヤの子イエスが福庁書のレズワンの中で、威厳のある力強い口調で歌った調べであり、その中に彼の後に現われる顕示者の到来を確実に告げる多くの御兆が示されている。第一の福音書、マタイ伝にこう記されている。イエスの再臨の御兆に就いて弟子達が尋ねた時、イエスは彼らに向かってこう言われた、「これら抑圧の日々の直後、太陽は暗くなり月はその光を放つことをやめ、星は空より地上に落ち、天体は揺り動かされるであろう。そして人の子の徴が天に現われるであろう。その時、地上の総ての民族は嘆き、人の子が力と大いなる栄光とをもって、天の雲に乗ってやって来るのを見るであろう。また彼は大いなるラッパの響きと共に、その天使達を遺わさん」と。(マタイ伝24・29〜31)ペルシャ語に翻訳すると、これらの言葉(この一節をバハオラは、アラビヤ語で引用され、ペルシャ語で解説されている)の趣旨は、次の通りである。人類に振り掛かろうとしている抑圧や災厄が現われる時に、太陽はその輝きを止め、月は光を放たず、天の星は地に落ち、大地を支えている柱は震えるであろう。その時人の子の徴が天に現われるであろう。即ちこれらの御兆が現われた時に、約束された美であり、生命の実体である者は、眼に見えない領土から、眼に見える世界へと歩み出て来る。そして、その時に地上に住む総ての人々や同胞は嘆き悲しむであろう。また、威力と威光と荘厳さを備えた神々しい美が、雲にのりラッパを響かせながらその天使達を天より遣わされるのを人々は見るであろう、と彼は述べられた。他の三つの福音書・ルカ伝、マルコ伝、ヨハネ伝の中にも同様なことが書かれている。アラビヤ語で書き示した我の書簡の中でも、これらのことについては詳細に述べておいたから、ここではもうこれ以上は述べないが、只一つだけ引用しておこう。

 

キリスト教の聖職者達は、これらの言葉の意味が十分理解できず、その目ざす目的にも気づかなかった。そして彼等はイエスの言葉の文字通りの解釈にのみこだわっていたので、マホメッドの啓示から流れ出る恩恵や、それから降り注がれる恩寵を受けることが出来なかったのである。マホメッドの宗教制の太陽が昇り始めようとする夜明けに現われる筈であったあのいろいろな御兆が、実際には出現しなかったので自分達の信教の指導者の例にならって、キリスト教界の無知な者達も同様に、栄光に輝く王者の美を見ることができなかったのである。このようにして、時は幾世紀も幾世代も流れ過ぎて行き、あの最も神々しい聖霊はその古来の主権の隠家へと戻ってしまった。そして再び永遠の聖霊が神秘極りないラツパを吹き鳴らし、不注意

と過失の墓場から教導と恩寵の領土へと、死人達をいそぎ出させたのである。それでもなお、待ちうけている集団はこう叫び続けている、こういう予言は何時起こるのであろうか、何時になったら我々の待ち望んでいる約束された御方は現われるのであろうかと。その御方の大業の勝利のために起ち上って、自分達のものを犠牲として供え、その御方の道に自分達の生命を捧げようと。これと同様に、こういう間違った妄想が、他の集団の人達をも、神の限りない慈悲のコウサルからさまよい出させ、自らの愚かしい物思いに耽けらせているのである。

 

福音書には、このような聖旬以外にまだ別の聖句が彼によって述べられている、「天と地は過ぎ行かん。されどわが言葉は、過ぎ行くことなし」と。(ルカ伝22・33)この聖句に基づき、イエスの信徒達は、福音書の捉は決して廃棄されるものではないし、また、約束された美が現われて、すべての御兆が明らかにされる時には、彼の信教以外には、いかなる信教もこの世に残らないようにと、福音書の中で宣言されている掟を彼は再び確認し、またそれを確立しなければならないと主張していたのである。これが彼等の根本的な確信である。彼等のこういう確信は極めて強かったから、もし或る者が総ての約束された御兆をもって現われたとしても、福音書中の捉の条文に反するようなことを宣布したとしたら、彼等はかならずその者を拒否し、その掟に従うことを拒み、その者を異端者と呼び、嘲り笑うに違いない。このことは、マホメッドの啓示の太陽が現われた時に起こった事実によっても証明されよう。もし人々が、多くの聖典中に示されているこのような言葉の真の意味を、それぞれの宗教制の神の顕示者達に、謙虚な気持で求めていたならば、きっと、真理の太陽の光輝へと導かれ、神の英知や知恵の神秘性を発見できたであろうに。聖典中の言葉を誤解することによって人々は究極の目標であるサドラトル・モンタハを認める機会を逃がしたのである。

この僕は今、これらの聖なる言葉の中に秘められている真理の、底知れない大洋から、一滴の露を汝等に分け与えよう。そうすれば、恐らく明敏な心の持主なら、聖なるものを顕示する者達の暗示や含みを残らず理解できもしようし、神の言葉のもつ圧倒的な威厳は、彼等が神の御名やその属性の太洋へ到達することを妨げることもなかろうし、また、栄光に満ちた神の本質を明示する座である神の光明を認める機会を逸することもないであろう。

 

「あの時代の抑圧があって間もなく」、という言葉が指しているのは、人々が抑圧さる苦しめられるようになるその時、真理の太陽と英知や知恵の木の実が、人々の間から痕跡すらも消え去ってしまうその時、人類の統治が愚かで無知な輩の手に落ちてしまうその時、創造物の本質的で最高の目的である聖らかな和合や相互理解の門が閉ざされてしまうその時、正確な知識が愚かな妄想に道を譲り堕落が正義の地位を奪ってしまうその時のこと、なのである。どの社会の統治でも、気まぐれと欲望の趣くままに支配する愚かな指導者達の手中に陥っている今日、以上のような状態が現に見られるのである。彼等の舌が神について述べても、それはただ意味のない空虚な名前でしかないし、彼等の間では、神の聖なる言葉も死語と化している。総ての原子中に太陽の証跡が現わされた程までに、神の威力の指は神の英知の門戸を開き、英知と御恩恵の光は全創造物の実質を照らし、鼓舞したにも拘らず、彼等の欲望はあまりに強く、それは彼等の内なる良心や理性の灯を消し去ってしまう程であった。更にまた、この世をおおい包んでいる神の英知はこのように数多く啓示されているにも拘らず、その者達は今もって、知識の門戸は閉ざされていて、慈悲の雨は降りやんでいる、と得々として考えている。彼等は、くだらない幻想に耽っていたため、神の英知のオルワトル・ウォスガからは遥か遠くにさまよい出ていた。彼らの心は、英知や、その門に向かっているようには見えず、また、彼らが英知の現われに気づく事もない。それと言うのも、彼らは空しい幻想の中に世俗的な富への入口を見出し、英知を啓示する者の出現には、自己犠牲への強要以外の何物をも見い出さなかったからである。だから必然的に彼らはすっかり前者に取りつかれ、後者からは遠ざかろうとしているのである。例え彼等は心の中では、神の掟は唯一無二であると認めていても、なお各方面から新しい命令を出したり、各時期に新しい訓令を布告したりしている。彼等は我欲のみを求めて、神など全く求めてはいず、誤りの道以外の道は歩もうともしていないため、同一の掟に関して同じ意見を持つ者は二人といない。彼等は、指導者としての地位にあることを自らの努力の最終目標とみなし、誇りや自慢を自らの心の欲する最高なるものとみなしている。彼等は自分達の強欲な策謀をもって神の命令より優るものとし、神の御意に服従することを止め、利己的な打算に没頭し、偽善者の道に踏み込んだのである。極く僅かの不評判さえも自分達の権威を傷つけ、自身の尊大さを誇る邪魔となることを恐れて、その取るに足りない仕事の中に自分の地位を確保するため全力を挙げて努力している。もしも眼が、神の英知という洗眼薬で洗い清められ、啓豪されたとしたら、多くの貧欲な獣達が人々の魂の腐肉の上に群がって食べている様をきっと発見できるであろうに。

 

これまでに述べてきたこと以上に大きな「抑圧」が他にあり得ようか。真理を探求し、神の英知に到達したいと望んでいるものが、それを求めに行く場所が分からず、誰からそれを求めたらよいか分からないということほど辛い「抑圧」が又とあろうか。というのも、はなはだしい相反する意見が横行し、神に到達する道も数限りなく増えているからである。この「抑圧」は、それぞれの啓示に欠くことのできない特色である。それが起こらなければ真理の太陽は明らかにされないのである。何故ならば、神のお導きの夜明けは必ず過失の夜の暗黒に引き続いて到来しなければならないからである。こういう理由から、これらのことが、あらゆる物語や伝承の中に引用されているのである。即ち邪悪が地球の表面をおおい、暗黒が人類を包むようになるであろう、というのである。引用されたこれらの伝承は、既によく知られていることであり、この僕の目的も、簡潔ということにあるのだから、これら多くの伝承の原文を一つ一つ引用することは差し控えることにする。

この「抑圧」という語は、文字通りには圧縮という意味なのだが、この語を地球が縮まるとか、人々のくだらない幻想から、同様な災厄が人類に振りかかるなどと考えるとしたら、そんな出来事は絶対に起こり得ないことは明白である。彼等は、神の啓示の前兆として現われるべきこの必要条件が出現しなかったことを、必ずや抗議するであろう。この点が彼等の論争点でもあったし、また今も尚、論点となっているのである。ところが「抑圧」という言葉は、霊的な知識を得て、神の言葉を理解する能力が欠けていることを意味しているのである。それは、真理の昼の星が沈み、彼の光を反射する幾多の鏡がこの世から無くなってしまった時に、人類はどちらを向いて教導を求めてよいか分からず、「抑圧」や苦難に悩まされるようになる、という意味なのである。だから我は、こういうように伝承の解釈をして汝に教え、神の英知の神秘を、汝に明白にしているのである。そうすれば、恐らく汝はその意味を理解でき、神の英知と理解の盃を飲み干したものとなれるであろう。

 

さて、これから「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空より地上に落ちるであろう」という彼の言葉について述べてみよう。神の予言者達の書いた聖典中に述べられている「太陽」とか『月』とかいう言葉は、ただ単に眼に見える宇宙の太陽や月のことを言っているのではない。いやむしろそうではなくして、予言者達が、これらの言葉を使って言い現わそうとした意味は沢山あるのである。場合場合によって、それらの言葉に特別の意味を持たせたのである。だから「太陽」というと或る意味では、古来からの栄光に満ちあふれた神の曙から立ち登り、天上から惜しみなく降り注ぐ恩恵でこの世を満たすあの真理の太陽達〔予言者達〕のことを指しているのである。これらの真理の太陽達は、神の属性や御名の領域での神の普遍の顕示者達である。それはちょうど、地上にある総てのもの、即ち、草木、果実、それらの色彩、大地の鉱物、その他創造の世界に見られる総てのものを、真正かつ、崇敬されるべき神が定め給うままに発育するよう促進している、眼に見えるところの太陽のようなものであり、聖なる発光体達〔予言者達〕は、愛情のこもった世話と教育的影響で、聖なる和合の木々や神の唯一性の果実、世俗超脱の葉、英知と確信の花、知恵と言葉のかん木〔白い芳香ある花の咲く常緑のかん木〕等々を、生成出現させるのを助けているのである。このようにこれら神の発光体達の出現によって、世界は新しくなり、永遠の生命の水は湧き出し、慈愛の大波は打ち寄せ、恵みの雲は集まり、恩恵の微風は総ての創造物の上に吹き渡るのである。これらの神の発光体達の発する熱と、それが灯し出す不滅の火が、神の愛の光を人類の心の中に激しく燃え立たせるものとなるのである。これらの世俗超脱を象徴するもの達〔予言者達〕の豊かな恩恵によって、永遠の生命の霊魂が死者達の体内に吹き込まれるのである。確かに、あの眼に見える太陽は、肩をならべるものも、似かよったものも、また競争相手もないあの太陽、真理の昼の星の光輝を示す比喩にしか過ぎない。神によって万物は生存し、活動し、それぞれの生活を営むのである。神の恵により万物はこの世に現われいで、またそれらは総て、神のもとへ帰って行<。万物は神から発生し、そして残らず神の啓示の宝庫へと戻って行く。総ての創造物は神から生じ、神の掟の宝庫へと帰って行くo

これらの聖なる発光体達が、時には特定の名称や属性しかないように見えることがある、と汝はいままで考えていただろうし、また現在でもそう認めているだろうが、全くこれはある人達の理解力が乏しくて不完全なことによるのである。否むしろ、顕示者達はいつの世も、あらゆる讃美の名称も及ばぬ程に高遠であり、またいかなる記述的属性よりも遥かに聖なる者であり、未来永劫に旦り、そうあり続けるのである。いかなる名称の真髄をもってしても、彼らの聖なる宮廷に近づける望みはないし、また、あらゆる属性中、最高で最も純潔なものであっても、決して彼らの栄光の王国に近づくことは出来ないのである。神の予言者達というものは、予言者達自身を通じてしか彼らを知り得ぬところの人間の理解力では知ることの出きない高遠なる実体である。神に選ばれた者達が、自身以外の他の者によって高揚されなければならないとしたら、それは正に神の栄光からしてはなはだ不合理である。彼らは、人間の讃美を遥かに超越し、人の理解力の及ぶ所より遥かに高遠である。

 

「汚れなき魂達」の著書の中で、輝かしい世俗超脱の象徴とも言うべき神の予言者達の事を書き表わす時、しばしば「太陽」と言う言葉が用いられている。そういう記述の中に「ノドベの祈り」に記されている次のような言葉(イマム・アリの書いた「哀歌」)がある。「さんさんと輝くその太陽達は一体いずこに行きしや。こうこうと照るあの月達やきらめく星達はいずこに去りしや」と。このように「太陽」とか「月」とか「星」とかいう言葉は、主として神の予言者達や聖者及び、その仲間達を指しているのであり、その英知の光で眼に見えぬ世界と眼に見えない世界に光明を投げかけたあの発光体達を意味していることは明白となったであろう。

また別な意味で、これらの言葉は、後から続いて出現した啓示の時代に生きていながら、しかもなお以前の宗教制の手綱を握っている聖職者達のことを指すこともある。もしこれらの聖職者達が、後から出現した啓示の光によって光明を与えられるならば、そのもの達は神に受け入れられ、永遠の光を発して輝くようになるであろう。ところが、その反対の場合には、彼等は外見上は人々の指導者のように見えても、暗澹たるものとして宣告されるのである。それというのも信仰と不信仰、善導と誤った指導、幸福と不幸、光明と暗黒等は、総て真理の昼の星である神の裁可に掛かっているからである。各時代の聖職者達の中で決算の日に、真の英知の源からその信仰について承認を得た者は、誠に、知識、神の恵み及び真の理解の光の受領者となるのである。そうでないものは、不徳、拒否、冒瀆及び、抑圧の罪あり、という烙印を押されるのである。

星の光さえも太陽のまばゆいばかりの輝きの前には萎んでしまうのであるから、俗界の知識とか知恵とか理解等を持った発光体〔聖職者〕は、聖なる啓豪の昼の星ともいうべき真理の太陽の光り輝く栄光に向かえば、消えて無くなってしまうことは、あらゆる明敏な観察者にとっては明白な事実である。

「太陽」という言葉が宗教の指導者達に適用されてきたのは、そのもの達の高い地位、評判及び名声によるためである。一般に認められている各時代の聖識者達で、権威をもって語り、その名声が確立されているもの達は、これに相当するのである。もし彼等が真理の太陽に似つかわしいものであるならば、必ずや総ての発光体の中で最も崇高なものとみなされるであろうし、もし逆の場合ならば、彼等は地獄の火の中心人物とみなされる筈である。まさしく彼は言い給う、「誠に太陽も月も共に地獄の火の責め苦を受ける罪あり、と申し渡されている」(コーラン55・5)と。この聖句の中で述べられている「太陽」とか「月」とかいう語の解釈について汝にはよく分かっている筈であるから、今さらそれに言及する必要もあるまい。ところで、この「太陽」や「月」と同じ要素から成る者、即ち虚偽に顔を向けて真理から眼をそらしているこれらの指導者達の例にならうものは皆、疑いもなく地獄の暗黒から到来し、またそこに帰るもの達である。

 

さて、おお、真理の探求者よオルワトル・ウオスガにしっかりとすがる事は我々の義務である。そうすれば、我々は過誤の暗い夜から抜け出し、神のお導きの夜明けの光を受け入れるであろう。我々は、拒否の面から逃れて確信の隠れ家へ向かおうではないか。恐ろしい悪の暗黒から自らを解放し、天上の美から指し昇る光に向かって走り寄ろうではないか。汝等が神の英知のレズワンに楽しく喜々として永住できるまでに、我々は汝等に神の英知の木の実を授けるのである。

 

また別の意味で、「太陽」とか「月」とか「星」とかいう言葉は、あらゆる宗教制の中で確立され、宣布されている数々の掟や教え、例えば祈りや断食等の掟を指しているのである。コーランの掟によれば、予言者マホメッドが昇天し、彼の美が覆いで包み隠されてから、これらは宗教制の最も根本的な必須の掟とみなされてきた。このことを伝承や物語の原本は証明している。これらの原本があることは広く知られているから、わざわざここに引用する必要もあるまい。いや寧ろどの宗教制においても、祈りに関する掟は強調され、広く実施されている。このことは、予言者マホメッドの本質である真理の昼の星から放射された光の帰因する、記録された伝承が証明している。

どの宗教制においても、祈りの掟は、あらゆる神の予言者達の啓示の根本的な要素となっていることを、多くの伝承は立証している。

――祈りの掟の形式や方法については、各時代の種々異った必要条件に合ったように変えられて来たのである。次から次へと下されたそれぞれの啓示は、前出の宗教制によって明確に独自に確立されて来た方法、慣習及び教義等を廃止したので、従ってこれらは、「太陽」とか「月」とかいう語で象徴的に表現されて来たのである。「神はお前達を試みて、誰が一番立派な振舞をするかお調べになった。」(コーラン67・2)

 

さらに伝承中では、「太陽」とか「月」とかいう言葉は、祈りや断食にも適用されている。即ち「断食は照明であり、祈りは光明である」といわれている。ある日のこと、一人の有名な聖職者が我の所に訪ねて来た。我がその人と話をしている内に、たまたま話が上述の伝承のことに及んだ。その人は言った、「断食をすると、身体の熱を高めるから、それは太陽の光にたとえられるのである。また夜分の祈りは、気分を爽やかにするから月の輝きにたとえられる」と。そこで我は、この気の毒な人が、真の理解の大洋の只一滴の水さえ恵まれておらず、英知の燃えさかる藪から遠くさまよい出していることを悟った。そして我は丁寧に彼に話しかけてこう言った、「閣下がこの伝承について与えられた解釈は、世間一般人の間で言いならされているものです。それをもっと別な意味に解釈することはできないでしょうか」と。そうするとその人は、「その別の意味とは何でしょうか」と我に尋ねた。我は、「予言者達の打止めであり、神の選び給うたものの中で最も著明なお方であるマホメッドは、コーランの宗教制を、その崇高さ、その素晴らしい威力、その堂々たる威厳、及び総ての宗教を包含していることとによって天になぞらええました。そして太陽や月が天空にある最も輝かしい、最もすぐれた発光体であるように、神の宗教の天空においては、二つの輝かしい天体として断食と祈りとを定められています。 『回教は天空であり断食はそこで輝く太陽であり、祈りはその月である』」と答えたのである。

これが神の顕示者達の象徴的な言葉の基礎をなす意味である。従って、既に述べられている事物に「太陽」とか「月」とかいう語を当てはめることは、聖句や記録された伝承の原文によって立証され、十分な根拠が示されているのである。それ故「太陽が暗くなり、月が光を発しなくなり、また星が天空から落ちる」という言葉が、聖職者達の強情さや、神の啓示によってしっかりと確立された掟の失効、を意味することは明白である。これらのことは総て、予め神の顕示者達によって、象徴的な言葉で示されていたのである。正しいもの以外は何人も、この酒盃のお相伴にあずかれはしないし、また信心深いもの以外は何人もその分け前にあずかれないであろう。「正しいもの達は、薄荷のようにすがすがしい芳香を放つ天国の泉の水をほどよく混ぜた盃を傾けることもできよう。」(コーラン76・5)

 

次の新しい啓示が示される時は、いつも、それ以前の宗教制によって制定され、その時代の人達を律して来た教義や戒律や禁制等の「太陽」や「月」は光を失う、即ち力尽き果て、その威力が振えなくなる、ということは疑いもないところである。さあ、そこで一寸考えてみよ。もし福音書を信じる人達が、「太陽」とか「月」とかいう象徴的な言葉の意味を悟り、片意地で強情なもの達と違って、神の英知の啓示者である彼から啓蒙されようと努めたとしたら、彼等はきっと、これらの言葉が何を意味しているか理解でき、自らの持つ暗黒なる我欲に苦しめられたり、圧迫されたりせずに済んだであろうに。実にその通りなのであるが、しかし彼等は根源そのものから発した真の英知を学びとることができなかったから、強情とか誤った信仰とかいう危険な谷の中で朽ち果ててしまったのである。予言された御兆が残らず示され、約束された太陽が神の啓示の地平線上に昇り、以前の宗教制の教義や掟や修行などの「太陽」や「月」が光を失って沈んでしまったことに彼等はまだ気付いていないのである。

 

さてそこで、汝は、じっと眼をすえ、しっかりした足どりで、確信と真理の道に入るがよい。「きっぱり言うがよい。それが神なのだと。それから後は、いくらでも勝手に文句を言わせておけ。」(コーラン6・91)そうすれば汝は、彼が「『我等の主は神だ』と言って彼の道をしっかりと歩み続けて来たもの達の上には、きっと天使達が降りて来るであろう」(コーラン41・30)と言及されている者達の仲間とみなされるであろうし、また、自分自身のその眼で、これらの神秘が残らず見えるようになるであろう。

 

おお我が兄弟よ!霊的な歩みを進めよ。そうすれば瞬く間に汝は、別離と死別の荒野を通り抜けて、永遠の再会のレズワンに到達し天上の聖霊と親しく交ることができるであろう。それというのも人間の足では、こんなに果てしない距離を横切って、目的地に到達しようなどと望むことは到底できないからである。真理の光によって、総ての真理へと導かれる者、また神の御名において真の理解の岸辺にある神の大業の道に立つ者の上に平安あれ。

 

ここで言う「太陽達」は、それぞれ独自の昇る場所と沈む場所とを持っていて、聖句、「いやいや日の出る数々の所(東)と日の沈む数々の所(西)を統べ給う神にかけて誓おうぞ」(コーラン70・40)の意味もこの点にあるのである。そしてコーランを注釈する入達は、これらの「太陽達」の象徴的な意味を解することができなかったから、上に引用した聖句を解釈するのに骨折ったのである。彼等のうちのある者達は、太陽が毎日遠った場所から昇るという事実によって「東」とか「西」とかいう語が複数の形で述べられているのだと主張した。また他のもの達は太陽の昇る場所と沈む場所とは季節の違いによって変わるから、この聖旬では一年中の四季を意味しているのだと書いている。彼等の理解の深さはこの程度に過ぎない。それでも尚その人達は、あの非の打ちようのない最も純潔な知恵の象徴達、あの英知の宝石達に対して、間違ったもの、馬鹿げたものだと言い張っているのである。

同じように、最後の時、即ち復活の日の到来の前ぶれに不可欠な御兆の中の一つである「大空は裂け」という言葉の意味を、明快で、力強く、決定的で率直なこれらの説明によって理解するよう努めよ。「大空の裂け割れる時」(コーラン82・1)と彼はまさしく述べている。「大空」とは神の啓示の大空を意味している。それは各顕示者と共に高められ、次に現われる顕示者の出現と共に切れ切れに引き裂かれる。「切れ切れに引き裂かれる」とは、これまでの宗教制が取って代わられ、無効になることを意味している。我は神に誓って言う!この、天空が切れ切れに引き裂かれるということは、明敏なもの達にとっては、大空の分裂よりもはるかに力強い業であるということを。しばし考えてみよ。幾年もの間、揺ぎなく確立されていた神の啓示、それを奉じて来たものは皆その保護の下に養育されて来た。その戒律の光によって幾世代もの人々は訓練されて来た。その言葉のすぐれていることを、人々は祖先が物語ることによって聞いている。このように、人々の眼は、その思恵の及ぼす感化以外には何も見なかったしまた人々の耳は、その命令の轟く威厳以外には何も聞かなかったのである。ところが、かような啓示が神の力によって「切れ切れに引き裂かれ」、天の人物の出現によって廃棄されてしまうという、このことよりも力強い業が他にまたとあり得ようか。よく考えて見よ、このことは、これ等の卑屈で愚かしい人達が、「天が裂ける」ということが意味すると想像していることよりも、はるかに力強い業ではないであろうか。

 

さらにまた、神の美を啓示したあの人達の生涯の苦悶や悲痛についてもよくよく考えて見よ。たった一人で、独力で、世の中やそこに住む総ての人達に向かって、神の掟をどうやって広めたか熟考して見るがいい!あの聖なる尊敬すべき、隣み深い人達の上に振り掛かった迫害がどれほど苛酷であろうとも、その人達は尚も十分な威力を保ちながら、耐え忍び続け、自分達が優勢であったにも拘らず、苦しみを受け、しかもそれを堪え忍んでいった。

 

同様に、「大地の変化」の意味を理解するように努力せよ。神の啓示の「天空」からの豊かな慈悲の雨が、ある者の心に降り注ぐ時、その心の大地は、誠に神の英知と知恵の大地に変わるということを知れ。何という美しい統合の相金嬢〔香りのよい白い花をつけた常緑のかん木〕が、その人達の心の土壌に生い茂ったことであろう。真の知識や知恵の花が、何と美しくその人達の輝かしい胸に咲いたことであろう。その人達の心の大地が、変わらないままであったならばどうして一字も教えられず、教師に就いたこともなければ学校に通ったこともない、このような人達が、誰も理解できないような言葉を語り、そのような知識を示すことができたのであろうか。思うに、その人達は無限の知識の粘土で作られ、神の知恵の水で練りあげられたのである。それ故「知識は、神が望み給う者の心の中に投げ入れ給う光である」と言われている。賞讃に価する知識とは今も昔もこのような知識のことであり、覆いで隠された暗い心から発したような狭められた知識ではないのである。その狭められた知識をも、あの者達はいつも他人から秘かに借用し、いたずらに得々としているのである。

人々の心が、人工のこれらの限局性から解き放され、自らをだますあいまいな考えから洗い清められればよいのだが。そうすれば恐らく彼等は、真の知識の太陽の光に照らされて、神の知恵の神秘を理解することができるようになるであろうに。ここでまた考えてみよ。もしこれらの人達の心の、乾ききった不毛の土壌が変わらず、そのままでいたとしたら、彼等はどうして神の神秘の啓示を受ける者となり、神の本質の啓示達となることが出来ようか。従って、大地に変えられる日」(コーラン1448)、と述べられている。

 

もし汝等が、心の中で神の啓示の神秘に就いてよく考えるならば、創造の王の恩恵の徴風は既に、物質的な大地さえも変えてしまっているのが分かるであろう。

さて、「復活のその日には、この広い大地も、御手のただ一握りとなり、天空もくるくると捲き上げられて神の右手に収まってしまう。神に讃美あれ。彼は、彼等が一緒に並べている仲間達とは比較にならないほど高い処に昇っておられる」(コーラン3967)というこの聖句の意味を理解してみよ。ここで、汝の判断は公正でなければならない。もしこの聖旬が人々の考えているような意味を持っているとしたら、果して、それは一体人間にとってどんな利益になるというのか。その上、人間の眼で見ることのできるような手では、到底かような作業は成し遂げられないし、このような手を、唯一の真の神の高遠な本質に帰する事ができないことも明白である。いや、この様なことを認める事は全く、神の冒涜、真理の完全な悪用、以外の何ものでもない。そしてこの聖句は、審判の日に神の顕示者達がこの大業を遂行するよう求められているという意味に解釈するなら、これもまた真実から遠く隔っているように思われ、確かに何の得るところもない。これに反して、「大地」という語は、理解や知識の大地を意味し、「天空」とは、神の啓示の大空を意味しているのである。どのようにして彼はその強力な握力によって、それまでに広げられている知識や理解の大地をほんの一握りのものに変え、また他方では、新しい意気陽々とした大地を、人々の心の中に展開させ、それによって最も新鮮で最も美しい花を、また最も力強く最も高くそびえ立つ木を、啓蒙された人の胸の中から萌え出させるようにしたかをよく考えて見よ。

 

同様に、過去の諸々の宗教制の崇高なる天空が、どのようにして、威力の右手の内にたたみ込まれたか、またどのようにして、神の啓示の天空が、その命令によって奮い起こされ、神の素晴らしい捉の太陽や月や星によって飾られて来たかをよくよく考えて見よ。汝が神の教導の朝の光を感知し、根拠のない空しい幻想やためらいや疑惑の灯を信頼と自制の力で吹き消し、汝の心の奥深い部屋に新しく生まれた神聖な知識と確信の光を燈もすことができるように、これらの神の言葉の神秘は覆いを取り除かれ、はっきり現わされてきたのである。

 

神の聖なる大業を啓示するもの達から放射される、これら総ての象徴的な言葉や難解なる引瞼の根本的な目的は、世の人々を試してみることであり、またそれによって、純潔で輝かしい心の大地が、朽ち果てる不毛の土壌から区別される、ということを十分に承知せよ。永遺の昔から、神が創造物に対して用いられる方法はこうであった。そしてこのことは、多くの聖典の記録が証明しているのである。

 

同様に、「ゲブレー」(祈る時、顔を向ける方向)に関して示された聖旬についても、よく考えてみよ。予言者達の中の太陽であるマホメッドは、バサ(メッカ)の曙からヤスレブ(メジナ)へ逃れて行かれた時、いつものように祈りの際その顔を聖なる町エルサレムの方へ向けられていた。するとユダヤ人達は、彼に向かって、みだらな言葉を吐き始めた一どういう言葉を彼等が吐いたかをここで述べるのは適当ではなく、また、これを読む人を辟易させるであろう。マホメッドは、これらの言葉をひどく不快に思われた。彼が空を見上げながら瞑想と驚嘆に包まれておられた時、ガブリエルのやさしい声を聞かれた。それはこう言った、「我は高い所より汝〔マホメッド〕が天を仰いでいるのを見る。よしそれなら、ここで汝にも得心のゆくゲブレーを決めてやろう」と。(コーラン2・144)後日、予言者〔マホメッド〕が、仲間の者達と一緒に正午の祈りを捧げ、規定による平伏礼拝を既に二度し終わった時、再びガブリエルの声が聞こえて来た。「汝の顔を聖なる礼拝堂(メッカにある)の方へ向けよ」(コーラン2.149)と。マホメッドは今まで続けていた祈りの途中で、急に顔をエルサレムの方角からカーベーの方へ向け直された。すると、その予言者〔マホメッド〕の仲間達は、たちまち非常な困惑に陥った。彼等の信仰は、はなはだしく動揺させられ、当惑のあまり彼等のうちの多くは祈りを止め、自分達の信仰を捨ててしまった。実のところ神がこの混乱を起こし給うたのは、彼の僕等を試し確かめるためだったのである。さもなければ、理想の王である神にとってゲブレーを変えずにおくことは容易にできたことであり、またエルサレムに与えられていた承認の特別待遇を、その聖なる町から取り上げずに、そのまま彼の宗教制〔回教〕の礼拝の方向としておくこともできたのである。

 

モーゼが出現して以来、モーゼとマホメッドの啓示の間にある期間中に、神の言葉を伝達する使者として出現したダビデやイエスやその他のもの達のような、崇高な顕示者達の中で、ゲブレーの掟を変更したものは未だかつてなかつたのである。創造物の主の使者である彼等は、一人の例外もなく彼等の信徒達に同一の方角に顔を向けるよう指導して来た。理想の王である神の眼から見れば、それぞれの顕示者達の時代に神が特別の目的を以って指定する特定の場所以外は、地上のどの場所も総て同じである。まさしく彼が啓示されたように「東も西も神のもの、それ故に汝等いずこに顔を向けようとも、必ずそこに、神の御顔がある。」(コーラン2・115)これらのことは全く真実であるのに、なに故に人々をこんなにまでろうばいさせ、その予言者〔マホメッド〕の仲間達を迷わせ、彼等の間にこんなに大きな混乱を投げかけてまで、ゲブレーを変えなければならなかったのであろうか。誠に、総ての人々の心を仰天させるようなこういう出来事は、神の試金石によって、各人が試され、真実が知られ、虚偽が見分けられる為にのみ起こるのである。人々の間に背信行為が起きた時、彼はこう述べられている、「我〔神〕が汝〔マホメッド〕に対してゲブレーを定めたのは、ただ我ら〔神〕が、使徒〔マホメッド〕について来る者と、直ちに背を向ける者とを、はっきり知りたかったからである」(コーラン2・143)、「恐怖に陥り獅子から逃げだす験馬さながらに」と。(コーラン74・50)

 

もしも汝が、心の中でこれらの言葉をちょっと考えてみるならば、面前に理解への入口が開かれているのを発見するであろう。そしてまた、汝の眼の前に、総ての知識と、その神秘が明らかにされているのを見るであろう。こういうことは、ただ人々の魂を啓発し、自我や欲望の獄舎から釈放するためにだけ起こるのである。実に、あの理想の王〔神〕こそ、御自身の本質において総ての生物の理解力からは永遠に独立しており、御自身の存在に於ては、未来永却を通じて総ての魂の崇敬も及ばないほど高遠なのである。神の豊かさの一陣の微風は、総ての人類を富の衣で飾るに十分であり、また神の豊富な恩恵の大洋からの一滴は、総ての生物の上に、永遠の生命の栄光を授けるに十分である。しかし神の目的は、真実を誤りから、また太陽を暗がりから識別することにあるのであるから、神は季節毎に、その栄光の領土より試練の雨を人類の上に注がれたのである。

 

もし、人々が、昔の予言者達の生涯について熟慮するならば、容易にこれら予言者達の方法を知り、理解することができて、もはや自己の世俗的欲求に反するこれらの言動にさえぎられることもなく、あらゆる邪魔な覆いを、神聖なる知識の薮で燃えさかる火をもって焼き捨て、平和と確信の王座に安住できるようになるであろう。例えば、エムランの令息であり、崇敬されている予言者の一人、神の啓示により書かれた聖典の著者であるモーゼについて考えてみよ。モーゼが、まだ聖職者として宣言していなかった若い頃の或る日、市場を通り抜けていると二人の男が争っているのを見た。その内の一人がモーゼに向かって、自分の方に加勢してくれと頼んだ。そこでモーゼは二人の中に入って相手を殺してしまった。このことは、聖典の記録が立証している。もしこの事件の詳細をここに引用しようとすれば、ここでの話を長引かせ話の腰を折ることになるから止めるが、この事件の評判は町中に広がり、聖典中に示されているように、モーゼは恐怖におののいていた。そして「おおモーゼよ!大変だ。実は長老達が、お前を殺そうと相談しているぞ」(コーラン28・20)という警告が彼の耳に入ったので、彼は町から逃げ出し、ショエブに雇われて、ミディアンに滞在していた。そして帰って来る途中、モーゼはシナイ山の荒野の中にある聖なる谷間に入った。そこで「東にも西にも属さない木」から出た栄光の王の幻を見た。その時彼は、燃えさかる火から語りかける聖霊の、魂をふるい立たせる声を聞いた。それは、ファラオのような人々に神の導きの光を与えよ、と命じた。彼らを自我と欲望の谷間の暗がりから救い出し、それによって彼らが、天上の歓喜の牧場に到達するのを可能にし、遠方にいることの当惑より彼らを救い出し克己自制のサルサビルを通り抜けて、神のいます平和な町に入るようにさせよ、と命じた。モーゼがファラオのところにやって来て、神が命じ給うた通りの伝言を伝えると、ファラオは侮辱してこう言った、「お前は、人殺しをして、異端者になった身ではないか」と。ファラオがモーゼに言った通りのことを、威厳に満ちた主はこう述べておられる「〔ファラオが〕お前〔モーゼ〕のなした行いは何ということだ!お前は恩知らずの一人だ。すると彼〔モーゼ〕はこう答えた、『確かにあの時私は、あのようなことをしましたが、あれは、まだ私が迷いの中にいた頃のこと。私はあなた達に復讐されることを恐れて逃げました。しかしその後、我が主が私に、正しい知力を授け、使徒の列に私を加えて下さったのです』と。」(コーラン26・19)

 

さてここで、神が引き起こし給うた動揺について、汝は心の中でよく考えてみよ。神が僕等を試し給う風変りで多様な試練について熟考してみるがよい。どうして神は、人もあろうに殺人罪を犯したものとして知られており、自らもその残虐性を認め、また世間の見るところでは約三十年もの間、ファラオの家で育てられ、その食卓で養われて来た者を突如として僕等の中から選び出して、神の御導きの崇高な使命を委ねられたのだろうかをじっくり考えて見よ。万能の王である神がモーゼの手を引き止めて、人々の間に当惑や嫌悪感を起こさせる殺人罪を犯さないようにすることはできなかったのであろうか。

 

同様に、マリアの様子を振りかえってみよう。あの最も麗しい顔に当惑の色が非常に濃く現われ、その境遇もいたく悲しいものであったから、彼女は生れて来たことをはなはだしく悔んだ。このことを聖句は証明している。イエスを産んだ後でマリアは、その苦境を嘆いてこう叫んだと聖句に記されている、「ああ、こんなことになる前に死んでいればよかったのに。無に帰して忘れ去られていた方がよかったに」と。(コーラン19・22)我は神かけて誓う!かような嘆きは、心を消耗させ、生存を危くする。これほどの魂の驚きや、これほどの落胆は、敵方の非難や異端者達や意地悪共の揚げ足とりによってのみ引き起こされるものであった。周囲の人達へ、マリアがどのように答えることができたであろうか、よく考えてみよ。父親の分からない赤児を聖霊によってみごもったと、どうして言うことができたであろうか。そこで、覆いでおおわれた、不朽の御顔のマリアは、自分の産んだ児を抱き上げて我が家に戻った。あたりの人々は彼女を見るや否や、声をはり上げて言った、「おお、アロンの姉妹よ!お前の父親は、悪い人間ではなかったし、母親だって淫らな女ではなかったのに」と。(コーラン19・28)

さて、この大異変、この悲しむべき試練についてよく考えてみよう。色々これらのことが起こったにも拘らず、人々の間に、父無し子として知られていた。あの聖霊の本質ともいうべきものに、神は予言者としての栄光を授け、彼を天と地にある総てのものに対する御自身の証しとされた。

 

創造物の王によって定められた神の顕示者の道は、庶民の道や欲望とはどれほど相反しているかを見よ。汝がこれらの神の神秘の本質を分かるようになれば、聖なる魅惑者におわし、最も敬愛される御方にまします神の御目的を把握できるようになるであろうし、またあの万能なる主権者の言葉と行動は全く一致するものであることを認めるであろう。汝は、彼の行動の総ての中に彼の言葉と同一のものを見い出し、彼の言葉を読めばそれを総て、彼の行動の中に認めることができるであろう。そういう訳で、このような行動や言葉は、外見上は邪悪なものへの復讐の火であるが、内面的には、正しい者への恵みの水である。もしも心の眼を開くならば、神の御意の天から述べられた言葉は、神の権威の王国から発せられた行動と全く同一であることにきっと気づくであろう。

そこで注意してみよ。おお兄弟よ!もしもこのようなことが、この宗教制で啓示され、またこのような種々の出来事が、今現在起こったとしたら人々は一体どうするであろうか。人類のための真の教育者であり、神の言葉の啓示者でもある彼の名にかけて誓って言うが、人々は疑いもなく直ちに彼を異端者と宣告し、死刑に処するであろう。見よ!一人のイエスが聖霊の息吹から出現し、一人のモーゼが、神の定め給うた任務に召された、と宣言する声に耳を傾けようなどという気は、彼等には露ほどもないのである。よしんば無数の声が張り上げられたとしても、またもし我が、一人の父無し子が、予言者としての使命を授けられたとか、一人の殺人者が「誠に誠に我は神なり」という伝言を、燃えさかる薮の炎からもたらした、と言ったとしても、どの耳もそれを聞こうとはしないであろう。

 

もし正義の眼が開かれるならば、既に述べられていることからして、これら万物の根源であり、究極の目的である人物が、今日現われていることを容易に認めるであろう。同じような出来事はこの宗教制では起こらなかったけれども、それでも尚、人々は、神に見放されたもの達が抱いて来た空しい想像に今もってしがみついているのである。彼が受けた非難問責はどれほど痛ましいものであったか。彼に加えられた迫害はどれほど苛酷なものであったか。それは、人類がこれまでに見たことも聞いたこともない程のひどい非難問責と迫害であった。

 

偉大にまします神よ!語り語って、話がこの段階にまで来た時に、我は眺めた。すると見よ!神の香わしい芳香が啓示の曙から漂って来て、轍の微風が永遠のシバから吹いていたではないか。その福音は、あらためて心を喜ばせ、魂に計り知れない喜びを分かち与えてくれた。それは、万物を更新し、知り得ない友からの、無数の詐り知れない賜物をもたらしてくれた。人間の、いかなる讃美の衣もその気高い容姿に合わせることは望まれずいかなる言葉の外套もその輝かしい姿に合わせることはできない。それは、言葉を用いず内奥に潜む神秘を現わし、しゃべることなく神の言葉の秘密を明らかにしている。それは、離別と死別の枝でさえずる夜啼鳥達に嘆きと悲しみを教え、愛の技法を教授し、心の降伏の秘密を示したのである。それは天上の再会のレズワンに咲く花々に熱烈な愛人の愛撫を示し、美人の魅力を公開したのである。それは、愛の園に咲くアネモネの花の上に真理の神秘を授け、愛人達の胸の内に最も深い機微の象徴を託したのである。現在では、その恩寵の余りの豊富な発露に、聖霊自体もうらやんでいる。それは水滴に海の波を分け与え、微片に太陽の輝きを授けた。そして、最も不潔な甲虫がじゃこうの香りを捜し求め、こうもりが太陽の光を探し求める程までに、その恩恵の流出は激しいものである。それは、生命の息吹きで死者達を甦らせ、彼等を必滅の肉体の墓場から急ぎ出させた。それは、無知なもの達を学識の座につかせ、圧制者達を正義の玉座に引き上げた。

 

宇宙は、これら多くの恩恵に満ち溢れており、その目に見えない賜物の影響がこの世に現わされるのを待っている。その時、思い悩み、喉の渇き切った者達が、彼等の最愛なる御方の生気漲るコウサルに到達し、遠い不毛の荒野で道に迷う誤ちの浮浪者達が生命の神殿に入り、自らの心の願望に再会できるのである。これらの聖らかな種子は、一体誰の心の土壌に芽を出すのであろうか。目に見えない真実の花は、一体誰の魂の園に咲くのであろうか。誠に我は言う。心のLシナイ山で燃える愛の薮の炎があまりにすさまじいので、聖なる言葉の流水も決してそれを消すことはできない。大洋も、この大海獣の焼けつくような喉の渇きを鎮めることはできない。また不滅の火の不死鳥は、最愛なる御方の顔の輝き以外の何処にも住むことはできない。それ故におお兄弟よ!知恵の油で汝の心の奥底の部屋に心霊の灯をともせ。そして不信仰なもの達の息が、その炎を吹き消し、その輝きを曇らせないように、理解力のほやでそれを守れ。汝の心が平安を見い出し、また汝が、確信の翼に乗って、慈悲深き者である彼等の主の、愛の天上まで舞い上がれるものとなるように、こうして我は、言葉の天上を神聖な英知と理解の太陽の輝きで明るく照らしたのである。

 

さてここで、「それから人の子の御兆が天上に現われるであろう」という彼の言葉について話すことにしよう。この言葉は次のことを意味している。即ち、天上の教えの太陽が欠け、神の定め給うた掟の星が落ち、真の知識の月――人類の教育者――がおおい隠された時、教導と幸福の基準が逆になり、真理と正義の朝が沈んで夜になる時、人の子の御兆が天上に現われるであろうと。ここでいう「天上」とは、眼に見える天空の意味である。正義の天上の昼の星が現われ、神のお導きの箱舟が栄光の海上に船出する時が近づくと、一つの星が天上に現われてあの最も偉大な光の到来を、その人々に告げるのである。同様に、地上の人々に対して、真実で崇高な朝の到来を告げるものとして、眼に見えない天空に一つの星が現われるであろう。眼に見える天空と眼に見えない天空とにあるこれら二つの御兆は、一般に信じられているようにそれぞれ神の予言者の啓示を知らせているのである。

 

予言者達の中に神の友、Iアブラハムがおられた。彼がまだ自身を予言者として表明されていなかった頃、ニムロッドが夢を見た。そこで彼は占い師を呼んだ。その占い師は彼に、天空に一つの星が昇ることを告げた。同様にアブラハムの到来を国中に知らせる先駆者が現われた。

 

アブラハムの後に、モーゼが出現された。彼は神と談話された。その時代の占い師達は、Mファラオにこう言って注意した、「一つの星が天空に昇った。見よ!それは、あなたや、あなたの人民達の運命を手中に握る御子の受胎を表している」と。また同様に、一人の賢人が現われた。この人は、夜の暗がりの中でイスラエルの人達に喜びの音信をもたらし、彼等の魂に慰めを、彼らの心に保証を与えていた。このことを多くの聖典の記事が証明している。その詳細を一々述べていたら、この書簡は一冊の本に膨れ上ってしまうし、我の望みは古い時代の物語をすることではない。我がここに述べていることは総て、我の汝に対する優しい愛情によるものであり、地上の貧しい人達を富の海辺へ到達させ、無知なもの達を神の英知の大海原へ導き、理解にあこがれるもの達に神の御知恵のサルサビルの水を飲ませるようにするためであることは、神の証言されるところである。さもなければ、この僕がかような記載について考慮することは、大きな間違いであり、また悲しむべき違反だと思っている。

 

同様に、イエスの啓示の時期が近づいた時、数人の東方の博士達が、イエスの星が天空に現われたことを知って、それを探し求めようとその後について行った。そして遂に彼等はヘロデ王の王国の首都にたどり着いた。当時彼の統治権は、その全土に及んでいた。

これら東方の博士達は言った、「ユダヤ人の王として生れ給うたお方は、何処に在すか。我ら東方にて、その御方の星を見たれば、拝せんために来れるなり」と。(マタイ伝2・2)彼らは探している内に、ユダヤの国のベツレヘムにその御子が生誕されたことを知った。これは、眼に見える天空に現われた御兆であった。眼に見えない天空、即ち神聖なる知識と理解の天空に現われた御兆は、イエスが現われたという吉報を人々に伝えたザカリヤの子、ヤーヤであった。まさしく、こう告げられている。「神は汝に、ヤーヤという子が生まれることを告げる。彼は偉大にして純潔なる御方、神からの言葉の確証者となるであろう」と。(コーラン3・39)ここでいう「言葉」という語は、イエスを意味している。ヤーヤはイエスの出現を予言したのである。更に、天上の聖典にこう書かれている、「その頃、洗礼者ヨハネ来たり。ユダヤ人の荒野で教えを宜べて言う、汝等悔い改めよ、天国は近づきたり(マタイ伝3・1〜2)と。ヨハネとはヤーヤのことである。

 

同様に、マホメッドの美が出現する前に、眼に見える天空の数々の御兆が現われた。眼に見えない天空の御兆はというと、四人の人物が現われて、相次いで人々に向かって、あの聖なる発光体が昇って来るという喜ばしい音信を告げた。後にサルマンと呼ばれたルーズ・べーは彼らに仕えるという栄誉を得た。これら四人の内の一人に死期が近づくと、その人はルーズ・べーを他の一人の処に派遺した。遂に四人目のものが、自分の死期が近づいていることを感じてルーズ・べーに向かって言うには、「おおルーズ・べーよ。お前は私の遺骸を葬って後、ヘジャズに行け。そこにマホメッドの昼の星が上がるであろうから。お前は幸せだ。お前は彼の御顔が見られるから。」と。

さて、この素晴らしく、最も崇高な大業(バブの宗教制〕については、どうであったであろう。多くの天文学者が、眼に見える天空にその星が出現したと報告している事実を、汝はしっかりと知っておかねばならない。同様に、地上においてはあの二つの輝かしい光明であるアーマド(シェイク・アーマド・アーサーイ)とカゼム(セイェド・カゼムニフシュティ)とが現われたP一神よ、この二人の墓所を聖別し給え!

神の本質を反射する鏡の、それぞれの啓示の前には、その出現を知らせる御兆が必ず、眼に見える天空及び、眼に見えない天空に現われるということは、我がこれまでに述べて来たことからはっきりして来たと思う。その眼に見えない天空に、知識の太陽、英知の月及び理解と言葉の星の座があるのである。それぞれの顕示者が出現する前には、人類の中にあって、神の一体性の光である聖なる発光体〔顕示者〕の出現に対して、人々の魂を教育し、準備させるために眼に見えない天空の御兆が、完全な人物の形をとって必ず現わされなければならない。

さて「それから地上の諸々の種族は皆、悲しむであろう。すると天上の雲に乗って、権威と大いなる栄光をもった人の子が降りて来るのを見るであろう」、という彼の言葉について述べてみよう。これらの言葉は、その時代の人々が、聖なる美の太陽、知識の月、聖なる英知の星を失って嘆き悲しむことを意味している。そうすると彼らは、雲に乗って天上から降りて来る約束されたお方、あこがれている美の御顔を拝するであろう。このことは、聖なる美が、神の御意の天空から現わされ、人間の寺院の形をとって出現することを意味している。「天上」という語は、それが古来の栄光の曙である聖なる顕示者の啓示の座であるから、高貴と崇高とを意味するものである。これら古来の人物達〔顕示者〕は、いずれも母の胎内から産れて来たとはいえ、実は神の御意の天上から降りて来られたのである。彼等はこの地上に住んでいるとはいえ、その本来の住居は、天上の領土にある栄光の隠れ家なのである。死すべき運命を持った人間達の間を歩いていながら、彼らは神のいます天上を舞っているのである。彼らは、脚なくして霊魂の道を歩み、翼なくして聖なる和合の崇高な高所に昇って行く。瞬間に、彼等は無限の空間をのり越え、一瞬にして、眼に見える王国や眼に見えない王国を横切って行く。彼らの玉座にはこう書かれている、「彼らが他のことに従事するのを、いかなることも妨げることはできない」と。また彼らの座には「誠に、彼の手段は、日に日に違う」(コーラン55・29)と刻まれている。彼らは日の老いたる者の卓越した偉力によって遣され、最も偉大な王にまします神の崇高な御意によって出現させられる。これが、「天上の雲に乗ってやって来る」という言葉の意味なのである。

 

聖なる発光体達の言葉の中で「天上」という語は、種々違った多くのことに使われて来た。例えば「命令の天上」、「御意の天上」、「聖なる御意図の天上」、「神の知識の天上」、「確信の天上」、「御言葉の天上」、「啓示の天上」、「隠匿の天上」等々。あらゆる場合に、神は「天上」という語に特別の意味を持たせ給うた。その意味は、聖なる神秘を伝授され、永遠の生命の盃を頂いたもの達以外には、誰にも啓示されてはいない。例えば、「天上には、お前たちの日々の糧と、お前達に約束されたものが貯えてある」(コーフン51・22)と彼は言っているが、かような糧を生じるのは大地である。同様に、「御名が天上から降りて来る」と言われているが、それらは人々の口から出て来る。もしも汝が、心の鏡を悪意のちりから清めるならば、あらゆる宗教制の中に明示されている、万物を抱擁する神の言葉によって示された、象徴的な言葉の意味が分かり、神の知識の神秘を発見できるであろう。しかし、もし汝が、人々の間に現在流布されているあの空虚な知識の覆いを、完全に世俗離脱の炎で焼き尽くしてしまわないならば、真の知識の輝かしい朝を見ることはできないであろう。

 

知識には二種類あることを、しっかりと覚えておくがよい。それは聖なるものと悪魔的なものとである。一つは神の霊感の泉から湧き出るものであり、もう一つは空虚で、あいまいな思想の反射にしか過ぎない。前者の根源は、神御自身であり、後者の原動力は、我欲のささやきである。一つは次のような原理によって導かれている、即ち「神を畏れよ。神はお前を教え導くであろう」。もう一つは、「知識は人類とその創造主との問の最も悲しむべき覆いである」という真理を確認するものにしか過ぎない。前者は忍耐、熱望、真の理解及び愛という実を結ぶが、後者は傲慢、慢心、うぬぼれ以外の何ものも生じることはできない。聖なる言葉を述べられた、あの多くの師達は、真の知識の意味を解きあかしておられるが、その述べておられた言葉からは、世の中を暗くしたこのような暗黒の教えの臭気すらも見い出すことはできない。その暗黒の教えの木は、不正と反抗以外には何も生じることはできないし、憎悪とねたみ以外のどんな実も結ぶことはできない。その木の実は、猛毒であり、その木影は、まさに燃え尽きる火に等しい。「汝の心の望む御方の衣にしがみつけ、そして総て恥となるものを捨てよ。いかに彼らの名が偉大であろうとも、世才にたけたもの達に去るように命じよ」とは、いみじくも述べられた言葉である。

だから、心はぜひとも人々の愚にもつかない言説から清められ、あらゆる世俗の感情から聖別されなければならない。そうすれば、聖なる霊感の隠された意味を発見して、神の知識の神秘を蓄える宝庫となるであろう。そういう訳で、「雪のように純白な路を歩み、紅の柱の足跡をたどって行くものは、その両手を、人々が大事にしているあの俗事から離脱させないかぎり、自分の住家には決して到達し得ないであろう」ということが言われている。こうすることが、この道を歩もうとする誰もが守るべき根本的な要件である。このことを深く考えて見るならば、汝はこれらの言葉の真理を、おおわれない眼で見てとることができるようになるのであろう。

 

 

どういうことを述べても、それは只、我の趣旨を確認することに役立つだけだが、どうやら我は、本来の趣旨から外れてしまったようである。神に誓って言う、簡潔に述べることは我の望みなれど、我はペンを抑えることができそうもない。これまで我の述べた総てをもってしても、尚、我の心の貝殻の中に潜んで、外に出て来ないほどになっている真珠が無数に残っている。

神の知恵の部屋の中には、まだまだ隠されていて、奥深い意味を持った天上の娘達が何と大勢いることであろう。その者達―彼女等には未だ誰も近づいた者はないのである。「この天上の娘達には、これまで人間も霊魂も手を触れたことはなかった"(コーラン55・56)これまでに色々のことが述べられて来たが、我の趣旨に関しては一語も語られてもいないし、また、我のめざすものへの只一つの御兆も漏らされてはいないように思われる。巡礼の服装をして、心中渇望の的である31カーべ一に到達し、耳も舌も使わずに、神の言葉の神秘を発見するような信心深い求導者は、何時になれば見つかるのであろうか。

 

これらの争う余地のない、意昧が、はっきりして来た。しかも明快に説かれた説明によって、前述の聖句中の「天上」のそこで、人の子が「天上の雲に乗ってやって来るであろう」という彼の言葉について述べることにしよう。この「雲」という語は、人々の行動や願望とは相反するものを意味しているのである。既に引用した聖句の中でこう述べられている。「汝らは、己が気にくわぬものを携えた使徒が現われるたびに、傲慢不遜の態度を示し、あるものをば嘘つきよとののしり、またあるものを殺害した」と。(コーラン2・87)これらの「雲」という語はある意味では、碇の効力の喪失、これまでにあった宗教制の廃棄、人々の間に流布されていた儀式や習慣の廃止、信教に反対する学識者達より無学で信心深い人達の方を賞揚すること、を意味している。またもう一つの意味では、その「雲」という語は、かの不滅の美〔顕示者達〕が人々の心の中に疑いを投げかけ、人々が顔をそむける原因となるような飲食、貧富、栄華と没落、睡眠と覚醒などの人間的制約を受け、必滅の人間の姿をして現われる事を意味している。

このような、覆いとなるもののことを総て象徴的に「雲」と呼ぶのである。

 

地上に住む総てのものの知識や理解の天空を、切れ切れに引き裂くのはこの「雲」である。まさしく彼は、こう述べられた、「その日に、密雲たちこめて、天空が引き裂かれるであろう」と。(コーラン25・25)丁度、雲は、人々の眼が太陽を見ることを妨げるように、これらのことは、人々の魂が聖なる発光体の光を認めることを妨げるのである。次に述べる聖典中の不信心者達の言葉がこのことを証明している。即ち「また彼らはこう言っている『何とこれが使徒のすることだろうか。彼は、飯を食べたり、町を歩き回ったりしている。天使が遣わされ、一緒に警告者とならなければ、我々は信用しないであろう』と」。(コーランン25・7)他の予言者達も同様に、貧困、苦悩、飢餓、この世の不幸や災難を受けて来た。これらの聖なる入達が、このような困窮や欠乏に悩まされていたので人々は不安や疑惑の荒野に迷い、当惑や混乱に陥ったのである。人々は不思議に思った。どうして、こんな些細な世事からも逃れることのできない者が、神から遣わされ、地上の人々や同族達を支配すると表明し、「汝のためでなければ、我は天地にある総てのものを創ることはなかった」と、神が述べられている様に、自らを全創造の目標であると宣言できるのであろうかと。神の総ての予言者やその仲間達の上に振りかかった試練、貧困、災難や凋落について、汝は無論、知らされているであろう。汝は、彼らの信徒達の首がどのようにあちこちの町へ贈物として送られたか、また信徒達が命じられたことが、どんなに

えじき痛ましくも妨害されたか聞いているに違いない。彼らは一人残らず神の大業の敵達の手の餌食となり、その敵達の下す判決に堪えなければならなかたのである。

 

 それぞれの宗教制がもたらす変革は、人間の理解の眼と、神の真髄の曙から輝き出る聖なる発光体との間に割って入る黒雲となることは明白である。世の人達が、如何に幾世紀もの問、自分達の祖先を盲目的に模倣して来たことか、また自分達の信仰の命ずるままに、決められたやり方や方式に、如何に慣らされて来たことか、よく考えてみよ。それ故に、もしこれらの人達が、自分達と共に生活していて、しかも入間のもつあらゆる制約についても自分達と全く同一である一人の人が、自分達の信仰によってこれまで課せられて来たあらゆる既存の原理―幾世紀もの間、人々が規制されて来た原理、そしてそれに反対するものや、それを否定するものは皆、異教徒、放蕩者、あるいは、悪人とみなすようになっていた、そんな原理を廃棄しようとして起ち上がったことを突然発見したとしても、人々は覆いでおおわれて、きっとその人の真理を認めるのを妨げられるであろう。これは、内奥なる存在が、世俗超脱の35サルサビルの水を味わったこともなく、神の知識の23コウサルから水を飲んだこともないような人達の眼をおおう「雲」のようなものである。こういう人達は、こんな環境に馴らされると、すっかり覆いでおおわれてしまい、少しの疑いも持たずに神の顕示者達を異端者と呼ばわり、彼に死刑の宣告をする。汝は、このようなことが幾世紀この方、ずっと起こって来たことを耳にしているに違いないし、また現在でも、それを見ているに違いない。

 

 故に、眼に見えない神の御加護によって、これらの黒い覆いや、天上から下された試練の雲が、顕示者の輝かしい顔の美を見ることを妨げないように、また、その顕示者を、直接彼御自身を通して認めることができるように、最大の努力をすることは我々のなすべき義務である。そしてもし我々が、彼の真実性の証を要求するのであれば、我々は、只一つの証拠を求めるにとどまるべきである。そうすることにより我々は、限りない恩恵の泉であり、そのお方の御前にいれば世俗の豊かさなどは消え失せてしまう、その彼の処に到達でき、日毎彼に異論を唱えることも、我々自身の空しい幻想にしがみつくことも止める事ができるであろう。

 

 御恵み深き神よ!過ぎし日に、神の恩寵の波打つ大洋から来る彼等への分け前が奪われないようにと、素晴らしく象徴的な言葉と巧妙な引喩で、世の人々を目覚めせる警告が発せられたにも拘らず、今以て既に見られているようなことが起こっているとは。コーランにもまた、これらのことが次のように述べられている、「あのもの共は、神が雲でおおわれて、彼等の処に降りて来るとでも思っているのか」と。(コーラン2・210)神の言葉の文字だけに固執している多くの聖職者共は、この聖句を、彼らのとりとめもない幻想から生じる、あの予期された復活の御兆の一つとみなすようになった。同じような引用が、大部分の聖典中になされており、出現しようとしている顕示者の御兆と関連を持った総ての節や句の中に記載されている、というはっきりした事実があるにも拘らず、こんなことが考えられているのである。

 

 同様に、彼はこう述べられている、「いまに天空が、もくもくと黒煙を吹き出し、人間どもの頭上をおおう日が来よう。恐ろしい天罰とはこのことだ」と。(コーラン14・10)最高の栄光に輝く御方が、正しいものと邪なものとを区別し、信心深いものと不信心なものとを見分けられるように、邪な者達の欲求とは正反対なるこれらのことを、僕等を試すための試金石や基準として定め給うたのである。「煙」という象徴的な言葉は、危機をはらんだ紛争、承認されている基準の廃棄及び破壊、また、心の狭い解釈者達の完全な崩壊を示している。今や、総ての世の人をおおい隠し、その苦悩の種となり、いかなる努力をもってしても自らをそこより救出することはできない、あの煙よりももっと濃くて圧倒的なものが他にまたとあり得ようか。彼らの体内で燃え立っている自我のこの火は、非常に猛烈であるため、彼らは、いつも新たな苦悩に悩まされているように見える。この素晴らしい神の大業、最も高き御方からのこの啓示が、全人類に示され、それが日毎に増大強化して行くことを告げられれば告げられるほど、彼らの心の中の火災は、ますます猛烈に燃えさかって行くのである。神の御加護によって、日毎に、尚一層の気品を高め、輝きを増して行く神の聖なるお仲間達の不屈の威力、抜群の自制心、確固とした節操に気付けば気付く程、彼らの心を乱した落胆はますます深まって行く。有難いことに、近頃では、神の言葉の威力が、人々に対して非常に優勢になって来たので、彼らはあえて一言も口に出さなくなった。敬愛する御方のためならば、自らを犠牲にして、何千何万もの生命を、惜しまずに喜んで捧げようとしている神のお仲間達の一人に、もし彼らが巡りあったと

したら、彼らの恐怖は非常に大きなものとなるであろうから、彼らは直ちにその人に対して信仰を告白するであろう。ところが、また一方では、彼らはひそかに彼の名をけなしたり非難したりするであろう。まさしくこう述べられている、「ところが彼らは、汝等に面と向えば『我々も信じている』などと言うくせに、自分達だけになると憤怒のあまり汝等に向かって指を噛む。言ってやるがよい『怒り狂って死んでしまえ、お前等が胸の中でどんなことを考えているか神はすっかり御存知だぞ』

 

 やがて汝の眼は、各地に翻えっている聖なる威力の御旗と、各地に現われている彼の意気揚々とした神通力と主権の御兆を見るであろう。多くの聖職者達は、これらの聖句の意味を理解できず、復活の日の意義をつかむことができなかったから、彼らの浅薄で誤った考えに従ってこれらの聖句に愚かな解釈を加えていたのである。唯一の誠の神こそが我が証人に在します。

 これらの二つの聖句の象徴的な言葉から、我がのべようとしていることの総てを理解するにはわずかな知覚力で十分であり、そうすることにより、慈悲深い御方の恩恵を通じて確信の輝かしい朝に到達することができよう。これこそ、汝が聖なる知識や英知の道を歩けるようにと、天上の不滅の鳥が神のお許しを得て、47バハのサドレ[枝]でさえずりながら、汝に聞かせている天上の妙なる歌の調べなのである。

 

 さて、彼の言葉「そして神は、天使達を遣わすであろう……」について話そう。この「天使達」とは、聖霊の力によって援助され、神の愛の火で、爪、総ての人間的特性や制限を消滅させ、最も崇高なお方達や48智天使の属性を身につけた人達を言うのである。聖なる人物であったあのサデグ(49シーア派の六番目のイマム)は、彼の、智天使を賞めたたえる文中でこう言っている。

 「玉座の後に我々シーア派の仲間の一隊が控えている」と。「玉座の後」という言葉の解釈は種々雑多である。一つの意味では、真のシーア派の信徒というものは存在しない。ということを暗に示している。まさしく他の一節で彼はこう言っている「真の信徒というものは、50賢者の石にたとえられる」と。その後、彼は聴衆に呼びかけてこう言っている、「君達は、これまでに賢者の石を見たことがあるか」と。この象徴的な言葉は、どんなに単刀直入な他の言葉より一層雄弁に、真の信徒は存在しないことを物語っている。このことをよく考えてみるがいい。

 これがサデグの証言である。さてここで、自分では信仰の芳香を嗅ぐことがなかったにも拘らす、信仰そのものを確認し、確立した言葉を発した者等を、異端者だと責め立てた者達が、いかに不当であったか、そして彼らの数がいかに大であったかを、よく考えてみよ。

 

 さてこれらの聖なる人達は、あらゆる人間的制限から自身を浄め、精神的なもの達の属性を授けられ、祝福されたもの達の気高い諸特性で飾られているから、「天使達」と呼ばれて来たのである。以上がこれらの諸聖句の意味である。その諸聖句の言葉の一つ一つは、最も明快な原典、最も説得力のある論拠及び最もよく立証された証拠の助けによって説明されている。

 

 イエスの信徒達は、これらの言葉の中に隠されている意味が全く分らず、その上、彼等と、彼らの信仰の指導者達が予期している色々の御兆が現われなかったので、彼らはイエスの時代以来、明らかにされて来たあの聖なるものを顕示する者達の真理を今もって承認することを拒んでいるのである。このようにして彼等は、神の聖なる恩恵や、彼の聖なる言葉の不思議が降り注がれるのを拒んで来た。復活の日である今日に於ても、彼らの低級な状態はこの程度である。各時代に、神の顕示者の御兆が、既に言い伝えられている伝承の原文通りに、眼に見えるこの世に現われるとしたら、誰も、敢えて否定したり、顔をそむけたりできる筈はないし、祝福された人々と憐れな人々とを見分けることも、また罪人達と神を畏敬する者を区別することもできないということに、彼らは気づいていないのである。公正な判断をせよ。もし福音書中に記載されている数々の予言が、文字通りに実現して、マリアの子イエスが、天使達を従えて宝に乗り、限に兄える天上から降りて米たとしたら、一体准が敢て疑い、誰が敢て真実を拒み、また、軽蔑しようとするであろうか。いやそれどころか、地上に住む総ての人々は忽ち非常な驚きに陥ってしまい、誰一人として一言も言えなくなり、ましてや、真実を拒否したり受け入れたりすることなど、とてもできはしないであろう。この真理を理解できなかったために多くのキリスト教の聖職者達がマホメッドに反対して「もしお前が実際に約束された予言者であるならば、なぜ我々の聖書が予言しているように、あの天使達を伴って来ないのか。その天使達は、その約束された美が啓示を受けるのを助けるために必ず彼と一緒に降りて来て、彼の民へ知らせる役をする筈になっているのだが」と言った。まさしく栄光に満ち給う御方は、彼等が述べたことをこう記しておられる「どうして天使が遣わされて来て一緒に警告しないのだろう」と。(コーラン25・7)

 

 このような異議や意見の相違は、いつの時代にも、どの世紀にも引き続き起こっている。人々は、いつもこのような、もっともらしい論議に花を咲かせていた。そして「何故、あの御兆や、この御兆が現われなかったのだろう」等と無益な抗議を続けていた。彼らが、当時の聖職者達のやることにばかり頼っていて、これら世俗超脱の精髄、これら聖なる神々しい人達を受け入れるも拒否するも、総て盲目的に聖職者達を模倣して来たからこそ、かような不幸が彼らの上に振りかかって来たのである。これらの指導者達は、我欲に没入し、無常で下劣なことの追及にばかり没頭しているために、これらの聖なる発光体達を、自分達の知識や理解の基準に反するもの、また、自らのやり方や判断に敵対するものとみなしていたのである。彼らは、神の言葉や和合の文字(予言者の使徒達)の言ったことや伝承を、文字通りに解釈したり、また自身の不十分な理解によって説明したりしていたから、自分自身は勿論のこと、信徒達全員をも神の恩寵と慈悲の豊かな贈物から遠ざけてしまったのである。しかも尚、彼らはこの有名な伝承「誠に我の言葉は難解である。当惑するほど難解である」ということを認めている。もう一つの例として、こういうことが言われている、「我の大業は、試練に満ち、大いなる困惑をもたらす。天上の寵愛をうけるもの、霊感を受けた予言者、あるいは神に信仰を試されたもの以外は誰一人として、それに堪え忍ぶことは出来ない」と。宗教のこれらの指導者達は、このように明記された三つの条件中のどれにも自分達が当てはまらないことを認めている。最初の、一つの条件は明らかに、彼らの手の及ばないものである。第三の条件に関しては、彼等は神が下し給うた色々の試練にはいつも堪えられなかったし、また刑、なる試金石(顕示者)が現われた時に彼らは自らが価値のないものでしかないということを示したのは明白である。

 

 偉大なる神よ!この伝承の真理を受け入れておきながら、これらの聖職者達は、自分の信教の神学的に不明な箇所を今もって疑ったり論争したりしているが、それでいて神の掟の難解な箇所の説明者であり、神の聖なる言葉の本質的な神秘を解釈する者である、と主張している。

 彼らは、予期された51ガエムの出現を暗示している。こういう種々の伝承が、いまだに実現していない、と自信ありげに主張する一方、自らはこれらの伝承の意味の芳香すら嗅ぐことができず、予言されていた御兆は総て現われ、神の聖なる大業の道が示され、今や信心深い者達の群集が電光のように速かにその道を行進しているという事実に気づいていないうえ、これらの愚かな聖職者達は、今もって予言された御兆を見ようと、待ちかまえているのである。おお、汝等愚かなる者達よ!お前達も以前から待ち続けている人々と同様に、待ち続けるがいい。

 

 我が既に言及したマホメッドの宗教制の太陽の出現や上昇の前ぶれとなるべき多くの御兆はそのどの一つをとっても文字通りには実現されなかったが、それらの御兆についてもし彼らが尋ねられたとしたら、また、もし彼らに向かって「なぜお前達は、キリスト教徒達や他の宗教の信徒達が唱えている主張を拒否して、その信徒達を異端者とみなしたのか」と、質問されたとしたら、彼らは答える術を知らず、只「これらの本は改悪された物であり、今も昔も神とは何らの関係もないものである」と答えるであろう。聖句の言葉そのものが、雄弁に、それらは神から出たものである、という事実を立証している。このことを、よくよく考えてみよ。もしも、汝等が理解する者ならば、同様の聖句がコーランの中にもまた、啓示されていることが分かるであろう。誠に我は言う、今日に至るまで、彼等は常に、聖典の原文を改悪する、ということが何を意味するのかを全く理解できなかったのである。

 

 実に、マホメッドの宗教制の太陽の光を反射する鏡達の書いたり、語ったりしたものの中で「崇高な人達によってなされた修正」と「尊大ぶった輩によってなされた改変」とについて言及されている。しかし、こういう記述は、特別な例についてだけなされている。その記載中に、52エブンエ・スーリヤの話が載っている。53カイバルの人達が、既婚の男女間に行われた姦通の刑罰について、回教の啓示の焦点〔マホメッド〕に尋ねた時、彼はこう答えられた、「神の淀によれば、石を投げつけて殺す刊に相当する」と。そこで彼らは「いや、そんな淀は54モーゼの五書には示されていない」と抗議して言った。それに応えてマホメッドの言われるには、「お前達博士の内で一体誰が、承認された権威があり、真理について確かな知識を持つ者とみなされるか」と。彼らは、エブンエ・スーリヤが、そういう人物だと言った。そこでマホメッドは彼を呼ばれ、「お前達のために海を裂き、お前達に55マナを下し給い、雲でおおい、14フアラオとその入民達からお前達を救い出し、総ての人民よりもお前達の地位を高め給うた神に誓って話して貰おう。モーゼは既婚の男女間の姦通について、どういう捷を定められたか」と問われた。すると彼は「おお、マホメッドよ。石を投げつけて殺すのが掟だ」と答えた。マホメツドが言われるには、「では、この掟が廃止され、ユダヤ人達の間に行われなくなったのはどういう訳か」と。そこで彼は答えて、「56ネブアドネザルが、エルサレムに火を放ち、ユダヤ人達を殺した時、生き残った者はほんの少数であった。当時の聖職者達は、ユダヤ人の数が極めて少ない一方57アマレキ人の多数なことを考えて相談し合い、彼らがモーゼの五書の掟を強行するとすれば、ネブカドネザルの手から逃れ得た生存者は全員、その聖典の判決によって死刑に処されねばならなかであろうという配慮から、彼は死刑を全廃した」と言った。するとその時、天使30ガブリエルは、マホメッドの啓蒙された心の中に「彼らは、神の言葉の原文をねじまげている」(コーラン4・45)という語を吹き込んだ。

 

 これは、これ迄に引用されている例中の一つである。原典を「ねじまげる」という意味は、これらのユダヤ教やキリスト教の聖職者達が、マホメッドの顔を賞揚したり讃美したりしている聖句を聖典から削除し、その代りに反対のことを挿入したということを意味していると、これらの愚かで卑屈なもの達は想像しているが、これとは全く違うのである。こういう説明は、全く空虚であり、誤っている。ある聖典を信じ、それが神の霊感によって書かれたものであると考えているものが、どうしてそれを削除し不完全なものにすることができようか。しかもモーゼの五書はメッカやメジナに限らず、全世界に広く行き渡っていたので、彼らが秘かに、その原文を改悪したり、ねじまげたりできた筈はないのである。否、むしろ原典の改悪ということは、総ての回教の聖職者達が今日かかりきっていること、即ち彼等の愚かな想像や空しい欲望によって神の聖なる聖典を解釈することを意味しているのである。そしてマホメッドの時代に、モーゼの五書中にあるマホメッドの出現に言及する多くの聖句を、自分達の妄想によって解釈し、彼の聖なる言葉に満足することを拒んだユダヤ教徒に対して、原典を「ねじまげている」という非難があびせかけられたのである。同じように今日においても、コーランの信徒達が、出現を予期されている顕示者の多くの御兆に関して、神の聖なる聖典の原文をどれほどねじまげたり、彼らの欲望や意に添うように解釈したりして来たか、それは明白な事実である。

 

尚もう一つの例で、こう述べられている。「彼らの中には、神の御言葉を聞き、それを理解した後、それと知りつつみだりにそれを改変したものがあった」と。(コーラン2・75)この聖句もまた、実際の言葉そのものが削除されたというのではなく、神の言葉の意味がねじまげられたことを示しているのである。このことが真実であることは、心の健全なもの達により証言されている。

 

 またもう一つの例で、こう述べられている、「ああ、自分達の手で聖典を不正に書き直しておいて『これこそ神の下し給うたものだ』と称し、それを売っては僅かな金を儲ける者どもに禍いあれ」と。(コーラン2・79)この聖句は、ユダヤ教の聖職者達や指導者達について述べられたものである。これらの聖職者達は、金持ちを喜ばせたり、世俗的な報酬を受けたり、彼等の羨望や誤った信仰にはけ口を与えたりするために、マホメッドの主張に反駁し、言うに足りないような証拠をもって、自分達の議論の支えとし、多くの論文を書いた。そして、これらの議論はモーゼの五書の原文から出たものであると主張した。

 

 同様なことが、今日でもなお見られるのである。この最もすばらしい大業に対する非難で、今日の愚かな聖職者達によって書かれたものがいかに多くあるかを考えて見よ。これらの中傷が、神の神聖な聖典中の聖旬に従ったものであり、眼識ある人達の言葉と一致している、と思っている彼等の想像の、いかに愚かなことであろう。

 

こういうことを我が語るのも、つまりは汝に次のことを警告したいからである。即ち、福音書中に引用されている御兆についての色々の聖旬は総て改変されたものだ、ともし彼等が主張してそれを拒否し、その代りに、他の聖句や伝承の方に執着しているとしたら、彼らの言ってることは全くの虚言であり、また全くの中傷下あるということを、汝は悟るべきであみ。実に、我がこれまでに引用して来たような意味での原典の「改悪」ということは、特殊な例にあっては実際なされていたのである。それらの内のいくつかを、我が述べて来たのは、幾人かの、教育も受けていない聖なる人達が、人間的学識に精通していたということを、あらゆる明敏な観察者に明らかにしたいがためと、また悪意を持った反対者が、ある聖旬をもって原典の「改悪」を示しているといって論争したり、或は又、我の知識が欠けているために、こういう聖旬に言及している、といって風刺するのを止めさせるためである。更にまた、もしも汝等が、コーランの啓示の島々を探検したとしたら、原典の「改悪」を示す聖句の内の大部分が、ユダヤの人達について述べられていることに気付くであろう。

 

 我はまた、地上の多くの愚かもの達が、天来の福音書の真正の原典は、もうキリスト教徒達の手中にはなく、天上に上ってしまっていると主張しているのを耳にした。彼らは、何と痛ましい誤ちを犯していることか。この様な言説は、御恵み深く、慈悲に富み給う神の摂理にゆゆしき不公平と暴虐を負わせるものであるという.ことに、彼らは全く気付いていないのである。ひとたびイエスの美の昼の星が、その信徒達の視界から姿を消して、第四の天上に昇ってしまった時に、創造物中で最も偉大な彼の証であるところの彼の聖なる聖書をもまた、神はどうして消滅させることができようか。イエスの昼の星が沈んでから回教の太陽が登るまで、あの人達には、何が拠り処として残されるであろうか。どんな掟が彼等の支えとなり道しるべとなり得たであろうか。どうして、かような入達を、全能なる復讐者、神の懲罰の犠牲にさせてよいものであろうか。どうして天上の王による懲らしめのむちで、彼らが苦しめられてよいものであろうか。とりわけ、慈悲深い御方の恩恵の流れを、どうしてくい止めることができようか。神のお優しい慈悲の大洋の波を、どうして鎮めることができようか。神の創造物達の、神についての妄想から、我は神の許へ避難する。神は彼等の理解の及ばない、高遠なものである。

 

 親愛なる友よ!今や神の永遠なる朝の光がさし始め、「神は天と地の光」(コーラン24・35)という聖なる御言葉の光輝が全人類を明るく照らし、彼の神殿の神聖さが、神は、ますますその光を見事なものにしようとしておられる」(コーラン9・33)、という聖なる御言葉で宣言され、また、「神の御手の内に、万物の王国を掌握しておられる」、という証を携えて、地上の総ての人々や同胞達に全能の手をさしのべておられるこの時に当たり、神の慈愛と恩恵とによって「誠に我らは神のものなり」、と天上の町に入り、「神の御もとに帰る」、と崇高な住家に住むように、努力することこそ我々の義務である。神のお許しにより、汝の心の眼を、俗世間の事物から浄めることは汝に課せられた義務である。それにより、神の知識の無限なることを悟り彼の実在を示す証拠も、また彼の証言を立証するものも必要でなくなる程、はっきりと真理が見えるようになるであろう。

 

 おお親愛なる探求者よ!もし汝が聖らかな霊界に舞い上ったなら、汝の眼は、はっきりと万物を超越し給う崇高な神を認めることができ、それ以外には何ものも見えないようになるであろう。「神は単独に在し、神をおいては何ものも存在しなかった。」この地位は、非常に高遠なものであり、いかなる証言もそれを立証するには足りず、また、いかなる証拠をもってしても、その真実性を正しく評価することはできない。もしも、汝が真理の聖域を探究するならば、万物は只、神の認識の光によってのみ知られ、神は、昔も、また未来永劫にわたっても、神御自身によってのみ知られ給う、ということを悟るであろう。そしてまた、もし汝が、証言の地に住む者であるならば、神御自身が述べられている「我が、こうして汝に聖典を下したにも拘らず、それだけでは、まだ彼らには足りないのか」(コーラン29・51)、というこの聖句で満足せよ。

 これこそ神自らが授け給うた証明であり、これに勝る証明は他にはなく、また今後とも永遠にないであろう。「この証明こそ神の御言葉であり、神御自身は、自らの真理の証言である。」

 

 さて我は、バヤンの民と、彼等の間にいる総ての学者達、聖人達、聖職者達及び証人達に対し、彼等の聖典中に啓示されている種々の要請や訓戒を忘れぬよう嘆願する。真理の精髄であり、万物の奥深くにひそむ本質であり、総ての光の根源である彼が姿を現わす時に、彼らが聖典中の一句一節に拘泥し、コーランの宗教制において見られたような迫害を彼に加えることのないように彼〔バブ〕の大業の本質をじっと見つめてほしい。何となれば、彼は誠に神通力を持ち給う王であり、彼の素晴らしい御言葉の一文字で、バヤンの総てとその民の生命の息の根を絶やし、また一文字で、彼らに新しい永遠の生命を授け、彼等を空虚で利己的欲望の墓場から起ち上がらせ、急ぎ出させるほどの威力に満ち給う御方であるからである。注意深く用心せよ。

 そして万物は、彼を信じ、彼の日に達し、彼の聖なる臨場を悟ることにより完成の域に到達する、ということを忘れてはならない。「真の宗教心とは、汝らが顔を東に向けたり、西に向けたりすることではない。いやいや、本当に信心深い者とは、神と、最後の日とを信ずるものをいう」。(コーラン2・176)おおバヤンの民よ!我が汝等に諭した真理に耳を傾けよ。そうすれば汝等は神の日に、総ての人類の上にさし延べられる陰に隠れ家を見い出すことができよう。

 

 

 

 



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