<51>
おお、人々よ。唯一真実の神かけて誓う。これこそはすべての海が端を発する大海であり、最終的にはすべての海はこの大海に統合されるのである。すべての太陽は彼より発生し、彼のもとに戻るのである。神聖なる啓示の樹は彼の威力を通じて実を結び、果実の一つ一つは預言者の姿をもって遣わされたのである。そして、預言者たちは神の創造物に宛てたメッセージをたずさえて諸々の世に向かったのである。まさに、すべてを包含する知識を有する神のみがその諸々の世の数を把握し給う。彼のペンによって書き記された御言葉のたった一つの文字だけで、これらすべてのことを成し遂げるに充分だったのである。そして、そのペンは彼の指示の指によって動き、また、その指は神の真実の威力によって支えられているのである。
<52>
言挙げよ。おお、人々よ。神の恩寵と慈悲から自らを遠ざけてはならない。自らを遠ざけるものは実に痛ましい損失をこうむっているのである。おお、人々よ。汝らは塵を崇拝し、汝らの主なる恩寵深き御方、すべてに寛大なる御方より顔をそむけるのか。神を畏れよ。そして、滅びるものの仲間に加わるな。言挙げよ。神の書はこの若者の姿で下されたのである。それゆえに、最も卓越した創造者なる神に誉れあれ。おお、世の人々よ。彼の顔より逃げ去ることのないよう充分に注意せよ。それどころか、彼の面前に達するために急ぎ、彼のもとに戻るものの仲間であれ。おお、人々よ。神に祈りを捧げよ。そして、神に対する義務を怠り、神の大業に対し罪を犯したことについてゆるしを請え。また、愚者の仲間に加わるな。彼こそが汝らを創造し、大業を通じて汝らの魂を養育し、最も崇高にしてすべてを知り給う全能者を汝らに知らしめたのである。彼こそが神の知識の宝庫を汝らの目に明らかにし、汝らを確信の天上に引き上げたのである。その確信とは、彼の抵抗し難い、論破し得ない、最も高遠なる教えに対する確信である。神の恩寵を失うことのないよう注意せよ。汝らの努力が水の泡とならないよう注意せよ。そして、この最も明白な、この高貴な、この輝かしい栄光に満ちた啓示の真理を否定することのないよう注意せよ。汝らの創造主なる神の大業について公正に判断せよ。高きにある王座より下されたものを見よ。そして、潔白にして聖別された心をもってそれについて瞑想せよ。そうすれば、この大業の真理は真昼の栄光に輝く太陽のように明白となろう。そして、汝らは神を信じるものとなろう。
言挙げよ。彼の真実性を立証する最初にして最大の証拠は彼自身の存在である。第二の証拠は彼の啓示である。このいずれをも認めることのできない人々のために彼は第三の証拠を確立した。彼の著わした言葉こそがその証拠である。まことに、これこそは人々に対する彼の優しさと慈悲の証である。神は万人の魂に神のしるしを認知する能力を与えたのである。そうでなければ、彼は彼の証言をどのようにして人々に証明し得たであろうか。彼の大業について心の中で熟考するものであれ。彼は誰といえども決して不当に扱うことはない。また、何人の魂にもその能力を超える課題を課すことはない。彼はまことに憐れみ深き御方、すべてに慈悲深き御方なり。
言挙げよ。神の大業の栄光は偉大であり、盲目なれどもそれを知覚できよう。ましてや、鋭敏にして純粋な視力を有するものがそれを見逃し得ようか。盲目なるものは太陽の光を知覚できないとしても、その絶えることのない熱は感知できる。しかし、バヤンの人々の中の心の盲目なるものらは、真の太陽にいかに長い間照らされていてもその栄光の輝きを知覚することも、その光線の暖かみを感知することもできないでいる。このことについては神がわが証人なり。
言挙げよ。おお、バヤンの人々よ。われは、汝らがわれを知り認めるようにとこの世の中で汝らを選び、汝らを楽園の右に位置する地点に引き寄せた。まさに、それは不滅の炎が種々の語調を用いて「力に満ち、最も高遠なるわれ以外に神はない」と叫ぶ地点である。この昼の星は、慈悲者におわす汝らの主の御心の地平線上に輝き、その光を通じて大小を問わずすべてを照らしているのである。自らをこの昼の星より遮断することのないよう注意せよ。他人の目に頼ることなく、自らの目でその栄光を認めることができるよう視力を清めよ。何となれば、神は何人の魂にもその能力以上の重荷を負わすことは決してない。これと同様のことが過去の預言者や使者にも下され、すべての聖典に記録されている。
おお、人々よ。この広大無辺の空間に入ることを許されるよう努力せよ。この空間に神は始まりも終わりも定めず、そこには彼の声がとどろき、神聖さと栄光の甘美なる芳香が漂っている。汝らに与えられた壮麗なる衣を脱ぎ捨ててはならない。汝らの主を想起する恩恵を汝らの心より締めだしてはならない。汝らの主の甘美なるメロディーに聞き入る喜びを汝らの耳より奪ってはならない。まことに、それは荘厳にしてすばらしく、明白にしてすべてを動かす最も雄弁なる声なり。
<53>
おお、ナシル、わがしもべよ。
永遠の真理なる神こそわが証人なり。今日、この天来の若者は、栄光に満ちた不滅の命の聖杯を人々の頭上に掲げ、期待に胸を弾ませ、その座に立って待っているのである。果して誰の目が彼の栄光に気づくであろうか。果たして誰がこの純白の手が掲げる聖杯にためらいなく手を伸ばし、この聖杯を飲み干すであろうか。静かに注がれるいにしえの王の無類の恩寵を口にしたものは未だ数少ない。彼らは楽園の最も崇高なる館に住み、権威の座にしっかりと据えられているのである。神の正義に誓って言う。彼の栄光を映す鏡たちも、彼の名を現わすものたちも、また、過去と未来を通じて創造されるあらゆる存在も決して彼らに優ることはない。おお、汝、このことが理解できたならば。
おお、ナシルよ。
この日のすばらしさは人間の理解力をはるかに越えるものである。いかに優れた知識を有し、いかに聡明な人間でもこの日のすばらしさを理解することは望めない。ましてや、このすばらしき日の光を遠く離れ、その栄光から締めだされた人間にはこの日のすばらしさは想像すらできない。汝の視力を阻む嘆かわしいヴェールを引き裂くことができれば、汝はそこに無類の恩恵を発見することができよう。その恩恵に類似し、または匹敵するものは、太古の昔より未来永劫にかけても存在しない。神の代弁者はどのような言葉を使えばよいのか。どのような言葉を使えば、ヴェールに阻まれた人々は彼の栄光を認めることができるであろうか。天上の王国に住む正しき人々は、栄光に満ちたわが名のために聖なる美酒を飲み干すであろう。彼ら以外には誰もこの恩恵にあずかることはできない。
<54>
わが最愛なる神の正義にかけて誓う。われは決して世俗の主権を求めたことはない。わが唯一の目的はここにある。つまり、恩寵にあふれ、比類なき神がわれに伝えるよう命じたことを人々に告げることである。それにより、人は世俗に係わるすべてのものを超越し、不信心なものが理解することも、不従順なものが想像することもできないほどの高みにまで達することができよう。
<55>
おお、「ター」の地[1]よ。過ぎ去りし日のことを想起せよ。主はその王座を汝の上に据え、主の栄光の光は汝を覆いつつんでいた。汝に対する大いなる愛ゆえに、確信の象徴であった何と多くの聖者が汝のためにすべてを犠牲にし、命をも捧げたことか。汝の上に喜びを、そして汝の内に住む人々の上に至福があらんことを。世界の希望の的である者の生命の息吹は汝の内より発せられたことをわれは証言する。このことは、洞察力を有するすべての人の心が知るところである。目に見えざる者は汝の内にその姿を現わし、人間の目より隠されていたものは汝の内より出現したのである。われは、汝を誠実に愛し、汝の領内をその血潮で染め、その塵が今や汝の土の下に隠されている無数の人々の中の誰を偲べばよいのか。神の甘美なる芳香は絶えず汝の上に漂い、未来永劫を通じてもそれは決して断たれることはない。わがペンは感動に震えて汝を記念し、暴虐の犠牲となって汝の土に眠る老若男女を称える。
その内のひとりにわが姉がいる。彼女に捧げるわが忠誠の証として、またわが慈愛の証拠としてここに彼女を記憶する。その苦境は何と哀れなものであっただろうか。そして、彼女は何と清らかな忍従の精神をもって神のもとへと戻って行ったことか。すべてを包含するわが知識を通じてわれのみがそのことを知る。
おお、「ター」の地よ。神の恩寵により、汝は神に愛されし人々が今も集う中心としてある。彼らこそは幸福なり。このすばらしい時代の主なる神の道に苦しみを味わい、汝の内に保護を求める避難者こそ幸福なり。唯一真実の神を記憶し、神の御名を称え、神の大業の奉仕に献身するものは幸いなり。彼らこそは古来よりの聖典に記された人々である。信奉者たちの指導者は、彼らを称えてつぎのように述べている。「彼らを待ち受ける祝福は、われらの今の祝福をはるかにしのぐものである」。まことに、これが真実の言葉であることをわれはここに証言する。しかし、彼らの地位の栄光は未だに明かされていない。神聖なる威力の御手はこのヴェールを必ず取り除き、全世界の目に光と喜びを与えるものを人類の眼前に置くであろう。
神の栄光は崇高なり。汝はこれほどの恩恵に恵まれ、神の讃美をもって飾られたのであるから、永遠なる真実におわす神に感謝を捧げよ。この日々の真価を正しく認識し、この啓示にふさわしいものにしっかりとすがれ。まことに、彼こそは慈愛に満ちた全知の忠告者である。
<56>
何も悲しむことはない、おお「ター」[2]の地よ。神は汝を全人類の喜びの源として選び給うたゆえに。神が望むならば、正義をもって統治し、狼たちが追い散らした神の羊の群れを再び集めるものを汝の王座に据えて祝福するであろう。その統治者は大いなる喜びをもってバハの人々に顔を向け、彼らに好意を示すであろう。まことに、その統治者は人類の中の宝石として神の目に映るであろう。神の栄光と、神の啓示の王国に住むすべての者の栄光は彼の上に永遠に宿らん。
汝、大いに歓喜せよ。何となれば、神の栄光の顕示者は汝の内に誕生し、神は汝を「彼の光の曙」と定めたのである。汝に授けられたこの名を喜びとせよ。恩寵の昼の星はこの名を通じてその光輝を放ち、天と地を共に明るく照らしたのである。
やがて汝の内の情勢は一変し、主権は国民の手に移行するであろう。まことに、汝の主はすべてを知り、その威力と権威はすべてに及ぶものである。汝の主の恩寵深い好意を確信せよ。主の優しき眼差しは永遠に汝に向けられよう。汝の動揺が、平和と平穏に変わる日は近づきつつある。すばらしき書にはこのように定められているのである。
<57>
おお、モハメッドよ。わが存在の宮廷を離れた後、汝の歩みをわが邸宅[3]に向け、汝の主の代わりにそこを訪問せよ。邸宅の門前に進み、起立してつぎのように述べよ。おお、神の最大なる邸宅よ。神は、古来の美を通じて汝を世界の注目の的とし、汝を古来の美の面影の象徴として天と地に住むすべてのものに宣言したのであるが、その古来の美は今いずこに。おお、神の邸宅よ。汝が古来の美の足台をつとめ、慈悲者のメロディーが絶え間ない旋律を奏でて汝のもとより流れでた過ぎ去りし日々は今いずこに。その栄光を通じて森羅万象を照らしていた汝の宝石は今いずこに。古来の王が汝をその栄光の王座としていた日々は今いずこに。古来の王が汝を天と地の間に置かれた救済の唯一の灯火として定め、日の出、日の入りごとに栄光者の甘き芳香が汝を通じて分散された日々は今いずこに。
おお、神の邸宅よ。その存在の輝きが汝を覆いつつんでいた威力と権威の太陽は今いずこに。汝の内にその座を据えていた束縛されることなき主の慈悲の曙は今いずこに。おお、神の王座よ。何が汝の表情を変え、汝の支柱を揺るがしたのであろうか。汝を熱心に求める人々の面前で、何が汝の門戸を閉ざす原因となったのであろうか。汝の姿をこれほどまでに哀れなものとしたのは何か。それは、諸々の世の最愛なる者が敵の剣の追跡を受けていることを汝が知らされたからであろうか。彼がいかなる悲しみや苦悩を味わったときも、汝は常に彼の伴侶としてとどまったのである。それゆえに、主の祝福が汝の上に宿り、彼に対する汝の忠誠が主によって祝福されることを願う。
われ、ここに証言する。汝は彼の超越した栄光が輝いた場であり、彼の最も聖なる住居である。栄光に満ち給う者の息吹は汝より発せられ、その息吹は森羅万象に及び、楽園の宮殿に住む献身的な人々の心を喜びに満たしたのである。汝に降りかかったことを見て、天上の集合と、神の御名の都市の住人は悲嘆にくれて涙したのである。
今もなお、汝は全能なる者の名と属性の象徴であり、天と地の主がその眼差しを向ける地点である。神の保護の約束を宿した箱に降りかかったと同じことが汝に降りかかったのである。この言葉の意味を理解し、すべての創造の主なる者の意図するところを把握したものは幸いなり。
汝を通じて慈悲者の甘美なる芳香を嗅ぐものは幸いなり。汝の崇高さを認め、汝の神聖さを擁護し、汝の地位に不断の敬意を現わすものは幸いなり。汝より目をそらし、汝の真価を認識することのできなかった人々の目が開かれ、彼らが汝を認め、真理の威力によって汝を高めた者をまことに認めることができるようわれは全能者に嘆願する。今日、彼らは汝に対して実に盲目であり、汝のことにまったく気づいていない。まことに、汝の主は恩寵に満ち、許し給う御方におわす。
われ、ここに証言する。神は汝を通じてしもべらの心を試されたのである。歩みを汝に向け、汝を訪問するものは幸いなり。汝の権利を否定し、汝にそむき、汝の名を汚し、汝の神聖さを傷つけるものに災いあれ。
おお、神の邸宅よ。信仰なきものらが汝の神聖さのヴェ−ルを引き裂いたとしても嘆いてはならない。創造の世において、神は彼の面影という宝石をもって汝を飾ったのである。いかなる時代においても、人は決してこの装飾を汚すことはできない。いかなる状況においても、汝の主の目は常に汝に向けられている。汝を訪れ、汝の周囲を巡り、汝の名を通じて主に呼びかけるすべてのものの祈りにまことに主は耳をかたむけよう。彼こそは許し給う御方、慈悲に満ち給う御方におわす。
おお、わが神よ。あなたとの別離によってこのように変わり果てた姿となり、
あなたの存在との距離を嘆き、あなたを襲った苦悩のために涙を流したこの邸宅を通じて嘆願いたします。どうか私を許し、私の両親を許し、私の家族を許し、あなたを信じた私の同胞を許し給まえ。おお、すべての御名の王におわす御方よ。あなたの恩恵により、私の必要とするものがすべて満たされますようなし給まえ。あなたは、恩恵あるものの中の最も恩恵深い存在におわし、諸々の世の主にまします。
<58>
神秘の地[4]に追放された初年、わがしもべなるメ−ディに著したわが言葉を想起せよ。今やわが邸宅[5]を襲った略奪と暴力に彼が心を傷めることのないよう、われはその邸宅に今後起こるであろうことを予告しておいた。まことに、主なる汝の神は天と地にあるすべてのことを知り給う。
われはメ−ディにつぎのように書いた。これはわが邸宅を襲った最初の屈辱ではない。過去においても、圧制者の手は侮辱を重ね、わが邸宅を汚したのである。まことに、将来においてわが邸宅はさらに卑しめられ、洞察力を有するすべての目はその哀れな姿に涙するであろう。ヴェ−ルにつつまれ、全能にしてすべてに讃美され給う神のみぞ知ることをわれはこのようにして汝に明かすのである。時が来れば、主は真理の威力を通じてわが邸宅をすべての人々の目に映るほどまでに高めるであろう。主はそれを御国の旗印となし、忠実なる集合がその周囲を巡る聖堂となすであろう。主なる汝の神は、悲しみの日の到来に先駆けてこのように述べるのである。敵の襲撃によってわが邸宅が陥るであろう状況を汝が悲しむことのないよう、われはわが聖なる書簡を通じて汝にこのことを明かすのである。すべてを知り、すべてに賢明におわす神に讃美あれ。
<59>
公平な観察者はつぎのことを進んで認めるであろう。この啓示の夜明け以来、この虐げられし者[6]は栄光の黎明の場に顔を向けるよう全人類を招きつづけ、腐敗、憎悪、虐待、不道徳を禁じてきたのである。にもかかわらず、見よ、圧制者のなすことを。その暴虐を敢えて語ろうとするペンは存在しない。永遠の真理なる者の目的は、すべての人間に朽ちることのない生命を与え、人類の安全と平和を保障することにある。にもかかわらず、見よ、この人々は彼の愛するものらの血を流そうと奮起し、永遠の真理なる者に死を宣告したのである。
迫害の先導者たちは、この上もなく愚かであるにもかかわらず、知恵者の中の最も聡明なものとして信望を得ている。この世界は、彼の敷居に仕えるしもべらのために創られたものであるにもかかわらず、迫害の先導者たちは盲目のあまり、その彼自身をこの忌まわしい要塞の牢獄に閉じ込めたのである。迫害の先導者たちと、この「偉大なる宣言」の真実を否定する人々にもかかわらず、全能者はこの牢舎を最も崇高なる楽園と化し、最もすばらしい天国に転じた。
わが苦しみを和らげる物質的恩恵をわれは拒否しなかった。しかし、わがすべての仲間が証言する通り、わが聖なる宮廷はこれら物質的恩恵をはるかに超越して聖別されたものである。この牢獄にいる間、不信仰なる人々が奪おうと奮闘したものをもわれは敢えて受理した。もし、わが名のために純金や純銀の建物を築き、計り知れない価値の宝石に飾られた館を建てようと欲するものが現われるならば、疑いもなくその申し出は許可されよう。まことに、彼は欲するままになし、御心のままに定め給う。さらに、最も高遠なるペンによって記録された予言の言葉が成就し、すべての世の主なる神がこの最も崇高にして、最も神聖にして、強力にして、すばらしい啓示のために定めたことが実現されるために、この地の各所に崇高にして堂々たる建物を築き、ヨルダン川に隣接する豊かにして神聖なる領土を唯一真実なる神への礼拝と奉仕に捧げようとする行為にも許可が下されよう。過去の時代、われはつぎのような言葉を述べた。「おお、エルサレムよ、汝の裾を広げよ
」。この言葉を心に熟考せよ、おお、バハの人々よ。そして、解説者にして、最も明白なる者におわす汝らの主に感謝せよ。
秘められた事柄は、神のみぞ知る。しかし、その秘密が明かされるならば、全人類はそこに完全にして完璧なる正義の証拠を目撃するであろう。そして、誰もが疑う余地もない確信をもって彼の定める教えにすがり、その求めるところに寸分違わずしたがうであろう。不道徳に背を向け、純潔にして正しい生活をおくるすべてのもののために、われは豊富にしてすばらしい報償をわが書に定めたのである。まことに、彼は偉大なる贈与者であり、恩恵に満ち給う。
<60>
わが幽閉はわれを何ら辱しめ得るものではない。わが命にかけて言う。否、むしろそれはわれに栄光を授けるものである。われを辱しめ得るものとは、われを愛すると告白しながらも実際は邪悪な者に追従するわが信徒らの行為である。まことに、彼らは滅びるものらに属す。
この啓示の定められた時刻が満ちたとき、この世の昼の星である者はイラクの地に出現した。そして彼は信徒らに対し、世俗のあらゆる汚れから自らを清めるものを厳守するよう命じた。あるものは、堕落した心の欲望にしたがうことを選んだ。一方、他のものは正義と真理の街道を歩み、正しくみちびかれた。
言挙げよ。世俗の欲望にしたがい、または、地上の事物に心うばわれたものはバハの人々の内には数えられない。わが真の信徒とは、黄金の谷をも雲のごとく超然として通過し、振り向くことも、立ち止まることもないものである。まさに、このようなものこそがわれに属するのである。天上の軍勢は、かようなものの衣より高潔さの芳香を嗅ぐことができよう…。そして、たとえ最も美しく、見目うるわしい女性に会ったとしても、彼の心にはその美を欲する影ほどの誘惑もおこらないであろう。このようなものこそが純潔無垢な存在である。日の老いたる者のペンは、全能にして、恩寵あふれる汝らの主に命じられて、かくあるようにと汝らに指示するのである。
<61>
世界は苦しみの中にあり、その動揺は日毎に強まりつつある。その顔は強情と不信心に向けられている。その状態は実にあわれなものとなり、現在それを暴露することはふさわしくないほどである。その強情は長くつづくであろう。そして、定められた時刻が満ちたとき、突然、人類の四肢を震わせるものが現われるであろう。そのときになって初めて、神の旗はひるがえり、楽園の小夜鳥はそのメロディーをさえずるであろう。
<62>
われが味わった悲しみや、わが深憂と心痛、われにふりかかった災難と試練を想起せよ。また、わが幽閉の有様、われの流したなみだ、わが苦悶のにがさ、そして今やこの遠隔の地におけるわが投獄を、汝の心に呼び起こせ。おお、モスタファよ。神こそわが証人なり。もし汝が、古来の美にふりかかったことについて知らされていれば、汝は荒野に逃れ、そこで大いになみだしたに違いない。悲しみのあまり、汝は自らの頭を打ち、あたかも毒蛇にかまれたもののように泣き叫んだであろう。しかし、全能にして、最も力強き汝の主の御心の天上よりわれに下された計り難い定めの秘密を、汝に知らせることをわれは拒んだのである。このことを神に感謝せよ。
神の正義にかけてわれは言う。毎朝、床をたつとき、われは扉の外に群がる無数の苦難の軍勢を見た。そして毎夕、床に就くとき、見よ、わが心は敵の悪魔のような残虐行為による苦悶に裂かれていた。古来の美が口に運ぶ食べ物の一片一片には、新たな苦しみの猛攻が添えられていた。また、彼の喉を通る一滴一滴の水には、最も悲痛な試練の苦味が混入されていた。彼が一歩ふみだすごとに、そこには予期し得ない災難の軍勢が待ち受けていた。そして後方からは、苦悶の悲しみが徒党を組んで彼を追った。
これがわが状態である。汝、このことを心の中で熟考せよ。しかし、神がわが身の上に注ぎ給うことで汝の心を痛めてはならない。汝の意志を神の御心に融合させよ。何となれば、われはいかなるときも、神の意志以外の何ものをも望んだことはなく、神の不変の定めのすべてを喜んで迎えたのである。汝の心を忍耐強く持ち、うろたえてはならない。心を痛く乱された人々の道を歩むな。
<63>
おお汝、顔をわれに向けたものよ。わが故郷の都市[7]の姿がはるかに見えたとき、そこに立ち止まり、つぎのように告げよ。おお、「ター」の地よ。危急の場の救助者におわし、御自力にて存在し給う神よりの音信をたずさえ、われはかの牢獄より汝のもとへときた。おお、世界の母よ。おお、全人類を照らす光の泉よ。汝の主の愛情あふれる慈愛をわれは汝に告げる。また、永遠の真理におわし、見えざるものを知り給う御方の名において、われは汝に挨拶を述べる。そして、われはここに証言する。隠された御名なる者は、汝のその地において出現し、見えざる宝はその地において現わされた。万物の秘密は、それが過去のものであれ、未来のものであれ、すべて汝を通じて明かされたのである。
おお、「ター」の地よ。諸々の名の主なる者は栄光に満ちた地位にあって、汝に想いをめぐらせた。汝は神の大業の黎明の場であり、その啓示の源泉であった。そして、汝は神の最も偉大なる名の現われであった。その名こそは、人類の心と魂を震わせた名である。汝の境内において、何とおびただしい数の男女が神の道に命をささげ、圧制の犠牲となり、あまりにも惨く汝の土の下に葬られていったことか。その情景は、神の栄誉あるしもべらのすべてを嘆き悲しめるものであった。
<64>
最高の喜びが宿る都市、神聖にして輝かしいかの都市[8]を思い起こすことをわれは望む。まさに、その都市は最愛なる御方の芳香が漂った場所であり、彼のしるしが広められ、彼の栄光の証拠が出現し、彼の旗が翻り、彼の幕屋が打ち立てられ、英知あふれる彼の命令が示された場所である。
まことに、それは再会の甘美なる芳香が放出された都市である。神を誠実に愛する人々はこの芳香に魅せられて彼のもとへと進み、神聖さと美の住処への入場を求めたのである。その歩みをこの都市に向ける旅人は幸いなり。また、恩寵に満ち、すべてに讃美される主の恩寵の発露によってこの都市に入ることを得て再会の美酒を飲み干した旅人は幸いなり。
おお、心の望みである地よ。われは神よりの吉報をたずさえて汝を訪ね、神が汝に向け給う恩恵と慈悲を伝え、神の御名により汝を称え、汝に挨拶を送る。まことに、彼は偉大なる善と恩恵の存在である。汝に顔を向けるものは幸いなり。すべての世界の主におわす神の存在の芳香を汝を通じて知らされたものは幸いなり。神の栄光は汝の上に宿り、神の御光の光輝は汝を覆いつつんだのである。何となれば、神は汝を神のしもべらの楽園となしたからである。神は宣言し給う。汝こそは、神御自身が預言者や使者たちの書に記した祝福された聖地である。
おお、至上の栄光に満ちた地よ。「彼以外に神はなし」の旗は汝を通じて翻り、「まことに、われは真実なる存在であり、見えざるものを知る」の旗印は汝を通じて掲げられたのである。汝を訪ねる者はみな、汝を称えなければならない。また、汝の内に住むわが聖木より現われた枝であり、葉であり、わが栄光のしるしであり、われにしたがい、われを愛すものであり、最も強固な決意をもってわが栄光の地位にその顔を向ける人々を称えなければならない。
<65>
帝都[9]に到着したときのことを想起せよ。皇帝の大臣たちは、汝が彼らの法や慣習を知らないと思い、汝を愚者と見なした。言挙げよ。わが主にかけて言う。正にその通りである。われは、神がその恩寵と恵沢を通じてわれに教えたもの以外は何も知らない。われはこのことを確固と証言し、この事実をためらいもなく告白する。
言挙げよ。汝らのすがる法や規則が汝ら自身の作によるものならば、われはそれに決してしたがわない。これがすべてに賢明におわし、すべてを知り給う御方のわれに対する指示である。これがわれの歩んだ道であり、今後も神の威力と御力によりわれはこの道を歩みつづけるであろう。まことに、これが真実の道であり、正しい道である。汝らの法や規則が神によって定められたものであると主張するのなら、その証拠を提示せよ。汝ら、真実を語るものならば。言挙げよ。すべての人間の最も小さな行いをも記録した書に、彼らが汝に向けた非難と行為をわれは記した。
言挙げよ。おお、大臣たちよ。汝らは神の教えを遵守し、自らの法や規則を放棄し、正しくみちびかれるものでなければならない。これは汝らの所有するすべてのものに増して汝らの利益に資するものである。おお、汝らこのことを知り得たならば。神の戒律に違反するならば、神は汝らのいかなる業績をも認めない。間もなく汝らはこの空虚な生涯で自分の成したことの結果を発見し、その報いを受けるであろう。まことに、これは疑いの余地のない真実である。
過去の時代においても何と多くのものが汝らと同じことを行ったことか。その地位が汝らより上であったにもかかわらず、最後には彼らは土に戻り、避け難い破滅に身をゆだねるに至った。神の大業について心の中で熟考せよ。彼らが歩んだと同じ道を汝らは歩み、やがて汝らにあてがわれる住居においては、汝らに友情の手を差し伸べるものも、汝らを助けるものもいない。汝らはまことに汝らの行いについて詰問され、神の大業に対する責任を果たさなかったことについて弁明を求められ、誠実な態度をもって汝らを訪れた神に愛されし人々をなぜこうも軽蔑し、拒絶したかについて説明を求められよう。
神に愛されし人々に関して汝らは共に協議した。そして、汝らは自らの欲望が命ずるままに行動し、危急の場の救助者にして、全能者なる神の教えを見捨てたのである。
言挙げよ。何たることか。汝らは自らの策略にすがり、神の原理を葬り去るのか。まことに、汝らはその行為によって自らを害し、他人をも害したのである。おお、汝らこの事実を把握できたならば。言挙げよ。汝らの法や原則が正義に基づくものであれば、汝らはなぜ自らの腐敗した意向に合致する法を守り、自らの欲望に反するものを拒否するのか。そのような状態にある汝らに、人を公正に裁く権利があると主張できるであろうか。汝らの命令にしたがって汝らの前に進みでた者を汝らは拒絶し、迫害し、日々新たな残虐行為をもって攻め立てたのである。汝らの規則や原則は、汝らのこのような行動を正当化し得るものなのか。一度たりとも彼が汝らの命令にそむいたことがあったであろうか。イラクのすべての住民を始めとし、洞察力を有するすべての観察者はわが言葉の真実を証言する。
おお、帝国の大臣たちよ。判断に公正であれ。追放に値するどのようなことをわれが行なったと言うのか。流刑をもって罰せられるどのような罪をわれが犯したと言うのか。汝らとの面談を求めたのはわれである。だが、われを迎えることを汝らがいかに拒否したかを見よ。神かけて誓う。汝らの犯したことは痛ましいほどの不当行為であり、この世のいかなる不正もこれに及ばない。全能者はこの事実を証言し給う…。
この世とその虚栄や装飾は消え去るものであることを知れ。そこに永続するものは何もない。唯一永続するものは神の御国である。御国は神のみに属し、神こそはすべてに君臨する主であり、危急の場の救助者であり、栄光に満ちた全能者である。汝らの生涯の日々はめぐり、やがて汝らが没頭し自慢とするものはすべて消滅する。汝らは神の天使たちの一団に召喚され、森羅万象の四肢が恐怖に震え、あらゆる圧制者の肉体が恐怖にしぼむ地点に必ず立たされるであろう。空虚な生涯を通じて行なったことについて問われ、その報いを受けるであろう。これは汝らを待ち受ける避け難い日であり、何人もその時刻を遅らせることはできない。これこそは真理を語り、すべてを知る者の口より発せられた証言である。
<66>
おお、帝都[10]の住民たちよ。神を恐れよ。人々の間に紛争の種を蒔いてはならない。悪魔の道を歩んではならない。残された生涯の数少ない日々を唯一真実なる神の街道を歩め。先立った人々の日々が過ぎ去ったと同様に、汝らの日々も過去のものとなろう。そして汝らの先祖が土に戻ったと同様に、汝らも土に戻るのである。
われは神以外の何ものをも恐れないことを知れ。われはただ神にのみ信頼を置き、神にのみすがり、神がわれに望むことのみを望む。まことに、これがわが心の願いである。汝ら、このことを知り得たならば。われはわが身体と魂を生贄として諸々の世の主におわす神に捧げた。神を知り得たものは神のみを知り、神を恐れるものはたとえ地上のすべての勢力が刃向かってきても神以外の何ものをも恐れない。われは神の許しのもとにのみ語り、神の威力と権威を通じて神の真実にのみしたがう。まことに、神は真実を語るものに報い給う。
おお、しもべよ。汝の証言が人々の間に永く残り、信仰あるものへの忠告となるよう、汝が帝都に到着したときに目撃したことを語れ。帝都に入るや見たものは、粘土に群がって遊ぶ子供のような大臣や長老たちであった。神がわれに教えた真理をわれが伝えようとしても、それを受けとめることができるほど成熟したものをわれは発見できなかった。また、すばらしきわが英知の言葉を理解できるほど熟したものもいなかった。彼らの罪を思い、創造された本来の目的をまったく無視して生きている彼らの姿を見て、わが内なる目は彼らのために涙した。これが都で見たものであり、彼らに対する警告として、また、人類全体に対する警告としてわが書に記録すると決めた事柄である。
言挙げよ。もしこの世とその虚栄を求めるならば、母の胎内にいたときに求めるべきであったのである。つまり、胎児のときには気づかずとも刻一刻とこの世に接近しつつあったのである。一方、この世に生まれ成人したものは刻一刻とこの世から遠のき、土に近づきつつあるのである。だとすれば、余命いくばくもない汝ら、与えられた機会をほぼ使い果たしてしまった汝らはなぜ地上の財貨をかき集めることにこれほどまでに貪欲なのか。おお、無思慮な人々よ。汝らはなおも眠りから覚めないのであろうか。
神のためにこのしもべ[11]が汝らに贈る忠告に耳をかたむけよ。まことに、このしもべは何の報酬も汝らから求めず、神の定め給うことに服従し、神の御心に完全に従順なのである。
おお、人々よ。汝らの生涯の日々の大半は過ぎ去り、汝らの最期は迫りきている。それゆえ、自らが築き、自らすがりつづけているものを放棄せよ。代わりに神の教えにしっかりとすがれ。そうすれば、神が汝らのために定めた目的を達成し、正しい進路をたどるものとなろう。この世のものや、この地上の虚栄と装飾を自らの喜びとしてはならない。同様に、これらのものに望みをかけてはならない。最も崇高にして、最も偉大なる神の面影に全幅の信頼を置け。神は早晩、汝らの所有するすべてのものを無と化すであろう。神を自らの恐怖の的とし、神との間に交わした聖約を忘れてはならない。そして、ヴェールによって神より隔てられた存在であってはならない。
神の御前にあって傲慢に振る舞い、神の愛し給う人々を軽蔑の目で見、彼らを拒絶するようなことのないよう注意せよ。神と神の御しるしを信じ、神の一体性を心より証言し、神の唯一性を声たからかに宣言し、神の許しのもとにのみ言葉を語る信仰深い人々の前では謙虚であれ。汝らがその眠りから覚めるよう、われはこのように正義をもって汝らに忠告し、真実をもって汝らに警告するのである。
自分の望まない重荷を他人に課してはならない。また、自分に望まないことを他人に望んではならない。これは汝らに対するわが最善の忠告である。汝ら、このことを守れたならば。
汝らと共にある聖職者や学識者の内、その言動が一致し、神の定めた限界を逸脱せず、その判断が神の書に記された神の命令に沿うものを尊重せよ。彼らこそは天と地に住むすべてのものに対する教導の灯りであることを確信せよ。自分たちと共に生きる聖職者や学識者を無視し軽視する人々は、まことに神の与え給う恩恵を変質させる人々である。
言挙げよ。神が汝らに与えた恩恵を撤回するときを待つがよい。神は何も見逃さない。神は天地の秘密を知り、神の知識はすべてを覆う。汝らの過去の行為、これから行なおうとする行為、そしてわれに与えた苦悩を汝らの喜びとしてはならない。汝らはこのようなことで自分の地位を高めることは決してできない。汝ら、自らの行いを鋭い目で考察することができたならば。同様に、汝らはわが崇高な地位を損なうことなど決してできない。否、われを襲った苦しみに忍耐をもって耐えたため、神はわれに報いるであろう。まことに、神は忍耐をもって耐えるものの報酬をいや増し給う。
このことを確信せよ。神の選ばれし人々、神に愛されし人々、神以外のすべてを超越した神のしもべら、全能者を記憶することにおいていかなる財宝や商工にも欺かれることのない人々、神が語るまでは決して言葉を発することのない人々、神の命令にしたがって行動する人々はすべて、太古より試練と苦悩を味わう運命にあったのである。これこそは太古よりの神の方法であり、未来においてもこの方法は変わることはない。確固として耐えるものに祝福あれ。あらゆる災難と苦しみに耐え、身に降りかかった不幸を嘆くことなく忍従の道を歩むものに祝福あれ。
神は、われの生きた日々を想起する人々をやがて創造するであろう。彼らは、われを襲った苦悩について語り継ぎ、何の証拠もなくわれを不当に処遇したものらに対してわが権利の回復を要求するであろう。疑いもなく、神はわが虐待者の生命をも支配し、彼らの悪行をすべて知り給う。彼らの犯した罪のために、神は必ず彼らを捕らえるであろう。まことに、神は最も凄まじい復讐者なり。
このようにわれは唯一真実の神について汝らに語り、神が定めたことを汝らに伝えた。それは汝らが神に許しを乞い、神のもとに戻り、まことに悔い改め、自らの悪行を認識し、眠りから覚め、無思慮の状態を拭い捨て、過去の失態を償い、善を行なうものとなることを願ってのことである。わが言葉の真実を認めようと欲するものは認めるがよい。また、認めようとしないものは背を向けるがよい。わが唯一の義務は、汝らが神の大業に対する自らの義務を怠っていることを汝らに忠告することである。汝ら、わが忠告を聞き入れるものならば。神がその恩寵により汝らに慈悲を垂れ、汝らの罪を洗い流し、汝らの悪行を許すようわが言葉に耳をかたむけ、神に戻り、悔い改めよ。神の広大なる慈悲は神の怒りの猛威をしのぐものである。そして、神の恩寵は、存在を与えられ、生命の衣につつまれた過去と未来のすべてのものを覆いつつむのである。
<67>
過去に一度も起きたことのないようなことがこの啓示において示されたのである。しかし、それを目撃した信仰なきものらはこのようにつぶやいた。「まことに、これは神に対する嘘を企てる魔術師に違いない」。彼らこそは見捨てられた人々である。
おお、日の老いたる者のペンよ。すべての国々に対し、イラクの地での出来事について述べよ。その地の聖職者たちの使者に任命され、われに面会したもののことを語れ。わが面前に進んだその使者は、様々な学問に関する質問をわれに向けたが、われはわれに内在する知識を通じてそれに答えた。まことに、汝らの主は、目に見えざるすべてを知る。すると使者は言った。「私はここに証言します。あなたの有する知識は他のいかなるものの知識をもしのぐものです。人々はあなたが崇高な存在であると言っています。しかし、この優れた知識だけではあなたの地位の崇高さを立証することはできません。もしあなたが真実を語るものであるのなら、地上のすべての人間が力を合わせてもできないような偉業をお示し下さい」。すると、栄光と愛に満ちた汝らの主の存在の宮廷においてそのための確固たる命令が発せられた。
「見よ、そして汝が何を見たかを語れ」。使者は呆然としていたが、やがて我に返って言った。「まことに私は栄光に満ち、すべてに讃美される神を信じます」。「では人々のもとに帰り、彼らにつぎのように告げよ。『われにどのようなことを求めてもよい。彼は欲するままになす威力を有す。過去のいかなるものも、また、未来のいかなるものも彼の意志を妨げることはできない』。言挙げよ。『おお、聖職者たちの集合よ。希望する事柄を決め、その実現を慈悲の神なる汝らの主に求めよ。ただし、彼がその威力を通じて汝らの希望を実現させたときには、汝らみな彼を信じ、彼の真実を拒むものとはなるな』」。使者は答えた。「悟りの夜明けの光明は現われました。慈悲なる者の証言は成就されました」。そして、栄光に満ち、すべてに愛される神の指示によって使者は席を立ち、彼をわれのもとに送った人々のところに戻って行った。
何日過ぎても使者は再びわれを訪れることはなかった。ついに他の使者がやってきて、聖職者たちが当初の目的を断念したと説明した。何と卑しむべき人々か。これがイラクでの出来事であり、ここに示したことをわれ自身が証言する。その後、この出来事は広く語り伝えられたが、誰ひとりとしてその真実の意味を理解するものはなかった。われはこのように定めた。おお、汝ら、このことを知り得たならば。
われ自身にかけて言う。過去の時代においても、神の証明を示すよう求めたものはいたが、証拠が示されるや否や彼らはいつも神の真実を拒否した。それでも人々は概ね無思慮の状態のままにある。一方、理解力の光明がその視力を照らしている人々は、慈悲に満ちた者の甘美なる芳香を認識し、彼の真実を受け入れるのである。彼らこそはまことに誠実なる人々である。
<68>
おお、わが樹に実る果実であり、葉である侍女よ。わが栄光と慈悲は汝の上に宿らん。汝の身に降りかかった不幸を嘆いてはならない。生命の書を読むならば、そこに汝の悲しみをぬぐい、苦悩を溶かし去るものを必ず発見するであろう。
おお、わが樹に実る果実よ。人の運命や宿命についてつぎのことを確信せよ。命令者におわす主権者が発する命令には二通りあり、人はその両方を受け入れ、したがわなければならない。一方の命令は、決して変えることのできない定めであり、他方は、人の言う「未だ途上にある命令」である。前者は、ひるがえることのない確定した命令であり、人は全身全霊をもってそれを受け入れなければならない。しかし、確定した命令であっても、神はそれを変えたり破棄したりできる。ただし、変えることによって新たに生じる害は、その命令が変えられなかった場合の害を上回るものであるため、人は神の定める命令を進んで受け入れ、確信をもってそれにしたがわなければならない。
反対に、未だ途上にある命令に関しては、祈りと嘆願によってそれを回避することができる。
おお、わが樹に実る果実よ。汝と汝の縁者たちが、その有害な結果から守られることを神に嘆願する。
言挙げよ。おお神よ、わが神よ。私の手に託し給いましたものを、あなたは御心により御自分のお側近く呼び戻し給いました。あなたの侍女なる私は、このことがなぜ私に降りかかったのか、なぜこうでなければならないのか、と尋ねる立場にはありません。あなたのいかなる行いも讃美され、あなたのいかなる命令にもしたがわなければなりません。おお、わが主よ。あなたの侍女は御恩寵と御恵みに望みを託しております。私をあなたのお側近く引き寄せるものと、あなたのすべての世を通じて有益なるものを得ることができますよう助け給え。あなたは許し給い、御恩寵に満ち給う御方にまします。あなたの他に神はなく、あなたは命令者におわし、日の老いたる御方にまします。
おお主よ、わが神よ。人々の面前であなたの愛の美酒を飲み干したものに祝福を垂れ給え。あなたの敵の迫害にもかかわらず、あなたの一体性を認め、あなたの唯一性を証言するものに祝福を垂れ給え。あなたの創造の世にはびこる迫害者の四肢を恐怖に震わせ、地上の傲慢なるものらの身体を震撼させたものに対して自らの信仰を告白したものに祝福を与え給え。私はここに証言いたします。御主権は決して滅びることはなく、御心は決して変わることはありません。あなたに顔を向け、あなたの御綱をしっかりと握りしめたあなたの侍女たちに対し、御恩恵の大洋と御恩寵の天界にふさわしいものを定め与え給え。
おお、神よ。あなたは御自身を富の主と宣言し、あなたに仕えるすべてのものを貧しき困窮者と呼び給いました。まことにあなたは書き給う。「おお、信ずる人々よ。汝らは神を必要とする困窮者であり、神はすべてを所有し、すべてに讃美される御方なり」。このように私は自らの貧しさを認識し、あなたの御豊かさを認めるものであります。どうかあなたの富の栄光を私から取り上げ給わぬよう嘆願いたします。まことに、あなたは最高なる擁護者におわし、すべてを知り、すべてに賢き御方にまします。
<69>
アシュラフの母親の行動を思い起こしてみよ。アシュラフは「ザ」の地[12]で命を捧げたが、彼は現在、疑いもなく真実の座にあり、威力に満ち給う全能者の御前にある。
不信心なる人々は不当にもアシュラフの命を断つことを決意し、母親をその場に呼ぶこととした。母親が息子に忠告を与えれば、息子は信仰を捨て、諸々の世の主なる神の真理を否定した人々の道を選ぶであろうと彼らは期待した。
息子の顔を見た母親の開口一番の言葉は、神を愛する人々と、天上の軍勢の心を悲しみに満たし、彼らは苦痛の悲鳴をあげた。わが舌の語ることをまことに主は知り給う。主こそはわが言葉の証人なり。
母親はアシュラフにこう言ったのである。「息子よ、私のいとしい子よ。主の道に命を捧げることを惜しんではならない。天と地に住むすべてのものがあがめ、その御顔の前にぬかずく御方によせるお前の信仰を捨てることがないよう注意しなさい。息子よ。まっすぐ進みなさい。主なる神の道に忍耐しなさい。諸々の世の最愛なる御方の御前を目指して急ぎなさい」。
わが祝福と、わが慈悲と、わが讃美と、わが栄光は彼女の上に宿らん。われは、われ自らをもって失われた息子を償うこととする。いまやその息子はわが権威と栄光の天幕の内に定住し、彼の顔から放射される光は天上の館にある天の侍女たちを照らしている。その顔の輝きはわが楽園の住人や、あらゆる神聖な都市の住人をも覆いつつむほどである。彼の顔を見るものはこう言うであろう。「見よ。これぞ高貴なる天使の姿に他ならない」。
<70>
世の中の平衡状態は、この最も偉大な、この新しい世界秩序の震えんばかりの影響力によってくつがえされたのである。人類の整然とした生活は、人間の目がこれまでに決して見たことのない、この二つとないすばらしい制度の力によって大改革されたのである。
汝らがその秘密を解き、深い所に隠されている知恵の真珠を残らず発見できるよう、わが言葉の大海に身をしずめよ。この大業の真理を奉じる汝らの決意にぐらつきがないよう注意せよ。これこそは神の威力の可能性を示し、神の主権を確立した大業である。喜びに輝く顔をもって、汝ら、神のもとに急げ。これこそは過去においても、未来においても、神の永遠にして不変の教えである。教えを求めるものには、それが得られんことを。また、それを求めることを拒むものについては、まことに、神は創造物を必要とすることをまったく超越し、自ら満ち足り給う。
言挙げよ。これこそは神の御手に握られた誤りのない秤である。天と地のすべてのものはこの秤にかけられ、その運命が決定されるのである。おお、汝らこの真理を認め、信ずるものならば。言挙げよ。これにより貧しきものは富み、学識者は啓発され、探求者は神の御前に上ることができたのである。汝ら、この秤を自分たちの間の不和の原因にせぬよう注意せよ。強大にして慈愛深き主の大業の中にあって、不動の山のようにしっかりと定住せよ。
<71>
おお、世の人々よ。わが美の昼の星が沈み、わが幕屋の天界が汝らの目から隠されるとき、失望してはならない。わが大業を促進し、わが言葉を人々の間に高めるために立ち上がれ。われは常に汝らと共にあり、真理の力で汝らを強めるであろう。われはまことに全能である。われを認めるものはみな、天と地のいかなる勢力もその行く手を阻むことのできないほどの強い決意をもって立ち上がり、われに仕えるであろう。
世の人々は深い眠りにある。その眠りから目覚めれば、彼らは全知にして、聡明なる神のもとへと一心に急ぐであろう。主が彼らのことを心にとめ、わずか一言でも主に言葉をかけてもらえるのであれば、彼らは地上のすべての財宝を所有していたとしても、それをすべて投げすてるであろう。隠されたる諸事の知識を有する者は、かくして汝らに訓示する。彼はその知識を、創造物の目には触れることのない書簡に納めた。そしてその書簡は、諸々の世の全能なる加護者である彼以外の何者にも明かされることはない。邪悪な欲望に酔いしれるあまり、人々は非常な困惑に陥っている。そのため、もはや彼らは「われ以外に神はなく、われは強大にして、聡明なる者なり」と声たからかに四方より呼びかける万物の主を認めることができないのである。
言挙げよ。汝の所有物を汝の喜びとしてはならない。それらは、今宵、汝が所有していようとも、明日には他人のものとなる。すべてを知り、すべてに精通した者が汝らにこう注意するのである。言挙げよ。汝の所有物が確かなものであり、永続するものであると断言できようか。否、最も慈悲深きわれ自身にかけて言う。汝の生涯の日々は一陣の風のごとく過ぎさり、汝の誇る華美や栄華は、先立ったものらの虚飾や栄華と同様に崩れさるのである。熟考せよ、おお人々よ。汝らの過ぎし日々と、失われた幾百年もの時のながれはどうなったのか。神への思いに捧げた日々は喜びの日々であり、聡明なる御方の讃美に過ごした時は、祝福されたときである。わが命にかけて誓う。権力者の栄華も、富豪の富も、また、不信心者の優勢も持続するものではない。彼の一言でそれらはすべて消滅する。まことに神は御力に満ち、全能にして、すべてを屈服させ給う御方である。人々の所有するこの世のものに何の利益があろうか。彼らは自分たちの真の利益となるものをまったく無視している。そのうち、彼らは眠りから覚め、全能にして、すべてに讃美される彼らの主の日々に逃したものは、もはや取り戻せないことを知らされよう。このことを悟っていたならば、主の玉座の前に彼らの名が語られるためには、彼らは自らのすべてを放棄していたであろう。まことに、彼らは死者の内に数えられる。
<72>
おお、人々よ。わが存在の栄光が退き、わが言葉の大海原が静まるとき、心を乱されてはならない。われが汝らと共にあることには道理があり、わが不在にもまた違った所以がある。比類なき者、全知者なる神以外は誰もそれを知り得ない。まことに、われはわが栄光の王国より汝らを見守り、わが大業の勝利のために立ち上がるものには誰であれ、天上の軍勢と、わが愛する天使の一団をもって援助の手を差しのべるであろう。
おお、地上の人々よ。永遠の真理におわす神こそわが証人なり。何ら束縛されぬ汝らの主の語った甘美なる言葉により、岩の中からも静かにながれる清水が湧きでたのである。にもかかわらず、汝らは今もなお眠りにある。汝らの所有するものを投げすて、世俗超脱の翼に乗り、すべての創造物を超えて高く舞い上がれ。そのペンの動きにより全人類の魂に大変革をもたらした創造の主は、汝らにこう命じるのである。
栄光に満ちた汝らの主がどれほど高遠な所から呼びかけているかを、汝らは承知しているのであろうか。諸々の名の主である汝らの主が、汝らに命令するに用いたペンを、汝らは正しく認識したと想像しているのであろうか。わが命に誓って言う、決してそうではない。もしこのことを理解していたならば、汝らはこの世のものをすて、最愛なる者の御前へと一心に急いだであろう。そして、最愛なる者の言葉に魅せられ、汝らの魂は喜びに恍惚となったであろう。その喜びは全宇宙をも激動させるほどのものであり得たのである。とすれば、この狭く、取るに足りない世界にあっては、どれほどの激動が起こったであろうか。このようにしてわがめぐみの天水は、わが慈愛の天上より注がれたのである。これこそはわが恩寵の証である。されば汝ら、感謝するものであれ。
肉体の欲望と、堕落した心の抱く欲望とによって、汝らの間に分裂が生じることのないよう注意せよ。汝ら、一つ手の指の如く、また、一つ身体の器官の如くあれ。啓示のペンは、かくして汝らに勧告するのである。おお、汝ら、信ずるものならば。
神の慈悲と賜物について熟考せよ。神はいかなる被造物をも必要としない。にもかかわらず、神は汝らに対し、汝らを利するものを命じ給う。汝らの悪行は決してわれを害することはない。汝らの善行もまた、われを利することはない。われはまったく神のためのみに汝らに呼びかけるのである。このことは、理解と洞察力を有するすべてのものが証言するところである。
<73>
つぎのことは明白であり、証明を待たない。神の御名や属性を現わすものの本質を覆いつつむヴェールが引き裂かれるとき、否、目に見える創造物と目に見えぬあらゆる創造物の本質を覆いつつむヴェールが引き裂かれるとき、そこに残るのは神のしるしのみである。このしるしは、神御自身がそれぞれの創造物の本質の内に置いたものであり、天と地の主なる神が望むままに持続するものである。万物には、これほどの祝福が授けられているのである。ならば、真の信仰を得たものを待ち受ける運命はこれをはるかに越えてすばらしいものでなければならない。真の信仰を得た人々の誕生と存在を、全宇宙の創造の目的の原点と見なすことができる。信仰という本質は始まりのない始まりより存在し、終わりのない終わりまで存続する。それと同様に、真の信仰を得たものは永遠に存続し、永遠に生きつづける。その魂は神の御心の周囲を永遠に巡り、神が永続する限り永続しつづける。真の信仰を得たものは、神の啓示を通じて出現し、神の指示によって姿を隠す。不滅の領土の最も崇高なる館は、神をまことに信じ、神のしるしを信じる人々のために用意されていることは明白である。死はその神聖なる座を決して侵すことはできない。汝が彼の愛の道に忍耐し、この真理を理解できるよう、われはこうして汝の主のしるしを汝に託すのである。
<74>
神の御口をもれる一つ一つの言葉は、すべての人体に新たな生命を授けるに充分な威力を有する。おお、汝ら、この真理を理解するものならば。この世に見られる驚くべき事業のすべては、彼の最も崇高にして、至上なる意志の働きと、その確固不変たるすばらしい目的とを通じて現わされたものである。御自身の属性の一つを人類に告げるために御口から「創作者」という一言が啓示されることにより、世々代々を通じて人間の手が創作し得る様々な技巧を生みだすに充分な威力が放出されるのである。まことに、これは確かな真理である。この輝ける言葉が語られるや否や、この言葉にそなわった生気みなぎるエネルギーはすべての創造物の中で躍動を始める。そして、それによりあらゆる技巧が編みだされ、完成させるための方法や手段が誕生するのである。今日、汝らが目のあたりにしている多くの驚くべき成果はすべて、この名称の啓示の直接的結果なのである。きたるべき将来、まことに汝らは未だかつて聞いたこともないことを目撃するであろう。神の書にはこのように定められており、洞察力にすぐれたもの以外は、誰もこのことを理解し得ないのである。同様に、わが属性の一つである「全知者」を表わす言葉がわが口より発せられるや否や、すべての創造物は、その能力と限界に応じて、科学の知識を解き明かす最もすばらしい力を付与される。この知識を実現させる能力も、時の経過と共に、全知なる全能者の指示により付与されよう。他にも、あらゆる名称が啓示されるとき、それに伴って同じような聖なる力が放出されるのである。このことを確信せよ。神の御口をもれるあらゆる文字は、まことに母なる文字である。そして、神聖なる啓示の源泉である者が語るあらゆる言葉は、母なる言葉であり、彼の書は母なる書である。この真理を理解するものは幸いなり。
<75>
汝の視力を嘆かわしくも奪ったヴェールをわが名のもとに引き裂け。また、神の一体性に対する信仰より生まれた威力により、汝の空虚な模倣に根づく偶像を霧散させ、慈悲に満ち給う御方の御喜びの清らかな楽園に入場せよ。神以外のすべてのものを離れ、汝の魂を浄化せよ。そして、彼の広大にして強力な啓示の境内と、彼の最高にして過ちのない権威の下陰に安息を得ることの甘美を味わえ。自らを利己的な欲望の暗幕につつんではならない。何となれば、わが業のすばらしさが人々の前に完全に示されるよう、われは汝らの一人一人をわが創造の完成の域にまで引き上げたからである。このことにより人間はみな、栄光に満ち給う神の美を自力で認識する能力を有し、今後も持ちつづけるであろう。人々にこのような能力が付与されていなければ、神の美を認めなかったものの責任をどうして問うことができようか。地上のすべての人々が召集され一堂に会する日、神の面前に立つものにつぎのような質問がなされたとすればどうであろうか。「お前はなぜわが美を否認し、なぜわれに背を向けたのか」。この質問に対し「人はみな過ちを犯し、誰ひとりとして真理に顔を向けるものはいませんでした。私もその例にならっただけです。悲しいかな、その結果、私は永遠なる御方の美を認めることができなかったのです」と答えるならば、その弁解は疑いもなく却下されるであろう。つまり、人の信仰はその本人によるものであり、他人の行動に条件づけられるものではないのである。
これはわが啓示に秘蔵されたる真理の一つである。われはこの真理を荘厳なる舌に語らせ、威力のペンに書かせ、天来のすべての書に記したのである。このことについて熟考するならば、汝は汝の内なる眼と外なる眼とにより神聖なる英知の不思議と天来の知識の宝石を発見するであろう。われはそれらを明快にして重厚な言葉をもってこの崇高にして朽ちることのない書簡に記録したのである。発見に成功すれば、汝は至上の玉座より遠くさまようことはなく、また、越えることのできない聖木や、永遠なる威力と栄光の住処を離れることも決してない。
創造物のなせる業に比べ、神のしるしは太陽のように輝き、明らかである。彼に由来するあらゆるものは他とはまったく違い、人間の作り上げたものとは永遠に異なる。数限りない学識と英知の発光体が彼の知識の源泉より創出され、慈悲に満ち給う御方の息吹が彼のペンの楽園から絶え間なく人々の心と魂に吹きわたっているのである。この真理を知り得たものは幸いなり。
<76>
おお、わがしもべよ。近づき難い最大者なる汝の主の王座より下されたことに耳をかたむけよ。神以外に神は存在せず、神は御自身を知らしめるために創造物を創造した。神こそは慈愛に満ちた慈悲者なり。神はあらゆる民族が築いた都市に使者を送り、使者たちに使命を与えた。それは、神の御心の楽園の吉報を人類に宣言し、久遠の神聖さと超越した栄光の座のもとにある永遠に安全なる避難所に人類を引き寄せるという使命である。
あるものは神の光にみちびかれ、彼の御前の宮廷に入場することができた。そこで彼らは忍従の両手より永遠の生命の清水を飲み、彼をまことに認め、信じた人々の内に数えられるに至った。逆に、あるものは彼に反対し、神の御しるしを拒絶した。神こそは御力に満ちた全能者、全知者なり。
時代は進み、時はやがて時代の完成を見たこの主なる日の到来におよんだ。この日、バヤンの昼の星は慈悲の地平線上にその姿を現わし、栄光に満ち給う御方の美はバブと呼ばれたアリ・モハメッドの崇高なる姿を介して輝きでた。バブが現われると人々はただちに彼に対する攻撃を始めた。あるものはバブを全能なるいにしえの神を冒瀆するものとして非難した。また、あるものはバブを狂人と決めつけた。このように言い張る僧侶にわれ自身も出会ったことがある。さらにあるものは神御自身の代弁者であるというバブの主張を否定した。彼らはバブを全能者の言葉の盗用者として非難し、バブが聖なる言葉の意味を曲げて自分の言葉に混入させたと罵倒した。人々の口から流れでる言葉のために崇高なる者の目は涙にあふれる。そして、彼らは未だに自らの座にあって歓喜しているのである。
バブは声明された。「おお、人々よ。神こそわが証人なり。
われは、汝らのいにしえの祖先の主なる神のもとより啓示をたずさえてきたのである。おお、人々よ。汝らの所有するものに目を奪われてはならない。否、神が汝らに贈ったものに目を向けよ。それは汝らにとって全宇宙にも増して価値のあるものである。汝ら、この真理を理解できたならば。おお、人々よ。
汝らの手元にある神の証拠や証言の言葉に今一度目を向けよ。そして、この日において汝らに届けられた啓示をそれらの証言や証拠と比べてみよ。そうすれば、あやまりのない真実が必ず汝らに示されよう。おお、人々よ。
悪魔の足跡をたどるな。否、慈悲者の信教にしたがい、まことに信ずるもののひとりであれ。神の啓示を認め損なうことに何の利益があるというのか。それには何の利益もない。全能者であり、すべてを知り、すべてに賢明なわれ自身を通じてわれはこの真理を証言する」。
バブが忠告を重ねれば重ねるほど人々の敵意はその猛威を増した。そしてとうとう、恥ずべき残忍さをもって人々はバブの命を奪ったのである。圧制者の上に神の災いあれ。
ごく少数のみがバブを信じ、ごく少数のわがしもべらが感謝を捧げたのである。バブは彼のすべての書簡、そして彼のすばらしい書物のすべての章節を通じてこれらの信者に対しつぎのように忠告されたのである。きたるべき約束された啓示の日が到来したとき、他のことに没頭してはならず、天と地にあるいかなるものにも身を投じてはならない。バブは声明された。「おお、人々よ。われは、きたるべき彼の出現のためにわれを現わしたのである。わが聖典のバヤンを汝らに下した唯一の目的は、きたるべき彼の大業の真実を立証するためである。神を畏れよ。コーランの民はわれと論争したが、汝らはきたるべき彼と決して論争してはならない。彼について何か耳にしたときは、彼のもとに急ぎ、彼が示すすべてのことにしっかりとすがれ。汝らに利益をもたらし得るものは、彼以外に何も存在しない。汝らが、過去のすべての時代を通して人々が積み重ねてきたあらゆる証言の一部始終をそろえてもこのことは変わらない」。
その数年後、神の命令の天界は裂かれ、バブの美は新たな衣をまとい、神の御名の雲海より現われでたのである。しかし、この人々は森羅万象をその輝く光につつむ者に悪意をもって刃向かったのである。この人々は彼の聖約を破り、彼の真理を拒絶し、彼と論戦を交え、彼の示すしるしのあら捜しをし、彼の証言を偽りの言葉と片づけたのである。こうして、彼らは不信仰なるものらの仲間入りをしたのである。やがて、この人々は彼の命を奪おうと決意した。取り返しのつかない過ちの中にある人々の状態はこのようなものである。
目的を達成できないと悟ると、この人々は策略に走ったのである。見てのとおり、この人々は毎日のように新たな策略を準備し、彼に危害を加え、神の大業を挫き、汚そうと必死になっている。言挙げよ。汝らに災いあれ。神に誓って言う。汝らの策略は、汝ら自身を辱めるものである。慈悲の神なる汝らの主はいかなる創造物をも必要としない。いかなるものをもってしても神の所有するものを増やすことも、減らすこともできない。汝らがもし信じるのであれば、その信仰は汝ら自身を利するのである。また、信じないのであれば、それによって苦しむのは汝ら自身以外の何ものでもない。いかなる場合においても、不信仰者の手は決して彼の衣の裾を汚すことはできないのである。
おお、神を信ずるわがしもべよ。全能者の正義に誓って言う。われを襲った出来事について語れば、人の魂と心はその重荷に耐えることはできないであろう。神こそわが証人なり。自分を監視し、この人々と同じ道を歩むな。汝の主の大業についてじっくりと瞑想せよ。他人を通じてではなく、主を通じて主を知るよう努力せよ。何となれば、主以外に汝を利することのできるものは存在しない。森羅万象はこの事実を証言する。汝、このことを理解し得るものならば。
栄光に満ち、最も力強い汝の主の許しによりヴェールの中から姿を現わし、近づき難い至上者なる汝の主の名により永遠なる生命の聖杯を握りしめよ。そして、天と地のすべての住民を前にして、ためらうことなく聖杯を飲み干せ。神に誓って言う。聖杯が汝の唇にふれる瞬間、天上の集合はつぎのように汝を称えるであろう。「心行くまで飲め、おお、神をまことに信じるものよ」。同様に、永遠なる生命の都市の住人たちはつぎのように叫ぶであろう。「喜びに満たされよ、おお、主の愛の聖杯を飲み干したものよ」。さらに、荘厳なる舌は汝をこう迎えるであろう。「おお、わがしもべよ。大いなる祝福が汝を待ち受けている。汝の到達した地点は、天と地にあるすべてのものを超越し、真の超脱の旗印である人々以外は決して到達し得ない地点である」。
<77>
さて、人間の創造に関する汝の質問について。人はみな、庇護者におわし、御自力にて存在し給う神によって築かれた性質をもって創造されたことを知れ。そして、神の保護された、威力あふれる書に定め記されたところにしたがい、各人に対しては前もって決められた分量が与えられている。しかし、汝が潜在的に有するものはすべて、汝自身の意志の働きを通じてのみ実現される。汝自身の行動がこの真理を証明している。たとえば、バヤンの書に記された禁法について考えてみよ。神はその書の中で、御自身の命にしたがい、御心に召すままに合法なるものを規定した。同様に、御主権の威力を介し、神は選ぶままに禁法を定めた。バヤンの書の聖句がこのことを証言している。汝もまたこのことを証言するに違いない。しかし、人は故意に神の法を破る。とすれば、その行為の責任を神に帰することができるのであろうか。それとも、その責任は法を犯した本人にあるのであろうか。公正に判断せよ。善きものはすべて神に属し、悪しきものはすべて汝自身からでたものである。汝にはこのことが悟れないのであろうか。この同じ真理はあらゆる聖典にも啓示されている。汝、このことが理解できるものならば。神にとって、汝が心に描く行為はすべて、その行為がすでに実行されたときと同様に明白である。神をおいて他に神はなく、森羅万象とその統治は神と共にある。神の御前において万事は明白であり、すべては神の聖なる隠されたる書簡に記録されている。しかし、神のこの先見を、人の行動の原因とみなしてはならない。それはあたかも、汝がある出来事を予知していたり、それが起こることを望んでいたとしても、そのこと自体が決してその出来事の原因となり得ないのと同様である。
<78>
創造の起源に関する汝の質問について、つぎのことを確信せよ。神の創造は、永遠なるいにしえより、永遠なる未来を通じて存在しつづけるものである。神の創造には始まりはなく、終わりもない。「人類の主」という名が、しもべの存在を前提としているように、「創造の主」という神の名も、創造の存在を前提としているのである。
古来の預言者たちの言葉として、つぎのようなことが語り継がれている。「最初に神が存在し、神を知る創造物は何一つとして存在しなかった」。「主は独りでいたため、主を敬愛するものは何も存在しなかった」。これらや、これに似た言葉の意味は明白であり、その意味を誤解してはならない。彼の啓示したつぎの言葉がこの真実を物語っている。「神は独りでいた。そして、神と共にあるものは何もなかった。神の永遠なる有り様は永遠に変わらない」。洞察力を有するものは容易にこの事実を認めることができるが、主は現在その姿を現わしているにもかかわらず、主の栄光を認知するものは誰もいない。これらの言葉の主旨はここにある。つまり、神聖なる存在者の住まう場所は、神以外のすべてのものの視界の届くところをはるかに超えるものである。現世は附随の世であり、附随の世で表現され、理解され得るものはおのずとこの附随の世に課せられた限界を越えることはできない。神のみがその限界を超越し給う。まことに、神は永遠のいにしえより存在し給う。永遠なるいにしえより、神には対等者や協同者は存在せず、永遠なる未来を通じてもそれはあり得ない。神の名に比較し得る名は存在しない。また、いかなるペンも神の性質を描写し得ず、いかなる舌も神の栄光を語ることはできない。神は永遠に神以外のすべてのものをはるかに超越して崇高なり。
神の至上の顕示者がその姿を人類に現わすときについて考えてみよ。その時刻が到来するまでは、いにしえの存在者は神の言葉を発しておらず、誰ひとりとしてその存在を知るものはない。その状態においては、いにしえの存在者は、誰もその存在を知らない世における全知者である。まことに、それは創造物を持たない創造主の状態である。そして、彼の啓示に至る直前の瞬間において、すべての創造物は自らの魂を神に捧げて息絶えるのである。つぎの言葉はまことにこの日のことについて書かれたものである。「この日、王国は誰に所属するのか」。そして、この問いに答えるものは誰ひとりとして存在しない。
<79>
神の諸々の世界に関する汝の質問について。神の世は無数にあり、その範囲は無限であるという事実を知れ。すべてを知り、すべてに聡明なる神以外に、これらの世界を計り知るものも、理解し得るものもない。睡眠中の汝の状態について考えてみよ。まことにわれは告ぐ。睡眠の現象は、人の世における神の最も神秘なしるしである。おお、このことを人々が心の中で熟考するならば。見よ、汝が夢の中で見たことが、年月を経て完全に実現されることを。夢の中の世界が汝のいま住む世界と同一であれば、夢の中の出来事は同じ瞬間にこの世においても起こっていなければならない。同時の出来事であれば、汝自身がそのことを証言していたであろう。しかし、事実はそれと異なる。したがって、必然的に、汝の住む世界は汝が夢の中で経験する世界とは異なり、別のものである。後者には始まりも終わりもない。この夢の中の世界は、栄光に満ちた全能なる神の定め給う通り、汝自身の内にあり、汝の内につつまれている、ともし汝が主張するならば、それは真実と一致する。また、汝の精神は睡眠の限界を超え、地上のあらゆる執着を脱ぎすてて、この世の最も内奥の真髄の中に隠された領土を神のなせる業により横切ったと主張しても、それもまた同様に真実である。まことにわれは告ぐ。神の創造は、この世界以外の多くの世界に及び、地上の創造物以外の創造物をふくむ。神はこれら各々の世界において、神以外の何者も探し求めることのできないものを定め置き給うた。神こそはすべてを探索し、すべてに賢き御方である。汝の主であり、諸々の世の主におわす神の目的を発見することができるよう、われがここに汝に明かしたことについて瞑想せよ。これらの言葉の中には、神聖なる英知の神秘が秘蔵されている。われはこの主題に関してくわしく論ずることを差し控えた。それは、わが言葉によって創造されたものらのなす行為の結果、われは悲しみに取りかこまれているからである。おお、汝、わが声に耳かたむけるものならば。
<80>
神の預言者や神に選ばれし人々は別として、人は肉体の死後、この世での生涯を特徴づけた個性、人格、意識および理解をまったくそのまま保持するかどうか、汝はわれに質問した。もしそうだとすれば、失神や重病のような頭脳能力への軽い障害が人の理解と意識を失わせるのに、どうして肉体の分解とその要素の分離を必然的に意味する死が、理解力を滅ぼし、意識を消滅させる力を持たないのかと汝は述べた。人間の存在と機能に必要な器官そのものが完全に分解するときも、人間の意識と性格が保たれていくと誰が想像し得ようか、と汝は質問した。
人間の魂は肉体や心のあらゆる病を超えて崇高なるものであり、それらより独立した存在であることを知れ。病人に見られる虚弱は、魂と肉体の間に介在する障害物によるものである。魂そのものはいかなる肉体の病にも影響されない。ランプの光について考えてみよ。外部の物体はランプの光を遮断するかも知れないが、光そのものは衰えない力で輝きつづける。同様に、人間の肉体を苦しめるすべての疾病は、魂がその固有の実力と能力を顕わすことを妨げる障害物である。しかし、肉体を離れたあと、魂は地上のいかなる力も及ばないほどの権勢と影響力を発揮する。すべての純粋で洗練され、聖別された魂は途方もない力を付与され、非常な喜びに喜悦するであろう。
枡の中に隠されているランプについて考えてみよ。ランプは輝いていてもその光は人の目には映らない。同様に、雲に覆われている太陽について考えてみよ。実際は、光の源泉は不変であるのにその輝きは何と減じたように見えるかを観察せよ。人間の魂を太陽にたとえると、地上の万物は人間の肉体にたとえられる。外部の障害物が両者の間に介在しない限り、肉体の全体が魂の光を反映しつづけ、魂の力によって支えられるのである。しかし、両者の間にヴェールがさしはさまれるや否や、その光の光輝は減ずるように見えるのである。
さらに、雲のかげに完全に隠れた太陽について考えてみよ。地球はそれでもなお太陽の光に照らされているが、地上に届く光の量はかなり減じられている。雲が消えるまで、太陽はその栄光のすべてを現わすことはない。雲の有無は太陽固有の光輝に影響を及ぼすことはない。人間の魂は肉体を照らす太陽であり、肉体は生命を維持するに必要なものを魂より得る。以上のように考えるべきである。
また、果実について熟考せよ。果実は実を結ぶ前に、樹の中に潜在的に存在する。樹を切り砕いても、そこに果実の小片さえ発見できない。しかし、汝も観察する通り、果実が姿を現わすとき、それは驚くべき美とすばらしい完成度をもって出現する。実際、ある果実は樹から切り取られて初めて最高の発展の域に達するのである。
<81>
さて、人間の魂とその死後の生存に関する質問について。魂は肉体より分離後、神の面前に到達するまで進歩しつづけるということを知れ。魂がやがて到達する状態は、年代と世紀のめぐりによっても、この世の変遷と偶然によっても変わることのない状態である。そして神の王国、神の主権、神の統治と威力がつづく限り魂も永続し、神の諸々のしるしや属性を顕わし、神の慈愛と恩恵を放射する。これほど高遠な地位の崇高さと栄光を適切に述べようとするとき、わがペンの動きは止まる。いかなる言葉も慈悲の御手が魂に付与する栄誉を適切に表現することはできず、地上のいかなる力をもってしてもそれを描写することはできない。肉体を後にするとき、世の人々の空ろな想像より聖別されている魂は幸いなり。そのような魂は、創造主の御心にしたがって生き、行動し、最も高遠なる楽園に入る。最も崇高なる館の住人なる天の侍女たちはその魂を取り巻き、神の預言者や神に選ばれし人々はその魂との交友を求める。その魂は彼らと自由に会話を交わし、諸々の世の主なる神の道において耐え忍ばねばならなかったことについて彼らに語るであろう…。死後の魂の状態については決して叙述され得ず、また人間の目にその全貌を明かすことは適切ではなく、許されてもいない。神の預言者や使者たちは、人類を一直線の真理の道にみちびく目的のためにのみ遣わされたのである。彼らの啓示の根底にある目的は、人間が死に際して最高度の純粋さと、聖別された状態で、そして完全なる超絶をもって最も高遠なる御方の王座にのぼることができるように人類を教育することにある。これらの魂が放射する光は、この世の進歩と人々の発展の原因となるものである。彼らは存在の世を発酵させる酵母であり、この世界の技巧や不思議が顕わされるよう活気づける力となるのである。彼らを通じて雲は人々の上に恵みを降らせ、地球はその果実を結ぶのである。万物は原因、原動力、そして活力の源を必要とする。超脱の象徴であるこれらの魂は、存在の世に崇高なる推進力を提供し、これからも提供しつづけるであろう。この世界が胎児を宿す母親の子宮の世界と異なるように、彼方の世はこの世界と異なるのである。人間の魂が神の面前に達するとき、その不滅性に最も適した、そして天界の住居に最もふさわしい姿を装う。しかし、魂の存在は原因に基づく結果であり、絶対的なものではない。つまり、前者は原因に先行されるものであり、後者は原因から独立したものであるからである。唯一神のみが絶対的存在である。神の栄光は高遠なり。この真理を理解するものは幸いなり。神の預言者の行動を心に照らして熟考するならば、汝らは必ず、そして進んで、この世以外に諸々の世が存在しなければならないことを証言するであろう。すべての時代を通じて、真に賢明で学識ある人々の大半は、英知の書簡に栄光のペンによって記録されている通り、神の聖なる書が明かしたことの真理を証言してきたのである。唯物論者さえも彼らの書の中で、神に任命された使者たちの英知を認め、楽園、地獄の火、未来の報酬と罰についての預言者たちによる言及は、人々の魂を教育し高めようとする望みに動機づけられたものであると見なした。それゆえに、いかに人類一般は各々の信仰や意見に係わりなく神の預言者たちの卓越性を認め、優越性を認識してきたかについて熟考せよ。神の預言者たちは超脱の宝石であり、あるものは彼らを英知の権化と称賛し、他のものは彼らを神御自身の代弁者と信じる。神の世がこの地上での生命に限られると信じるならば、預言者たちはどうして敵に自らを引き渡すことに同意したであろうか。また、誰もかつて経験したことも目撃したこともないほどの苦難と責め苦をどうして快く受け入れたであろうか。
<82>
魂の特質について汝はわれに質問した。まことにこのことを確信せよ。魂は神のしるしであり、天来の宝石である。魂の実体は最も学識あるものも理解し得ないものであり、その神秘はいかに鋭敏な心意をもってしても計り知ることは望めない。全創造物の中で、創造主の卓越性を最初に宣言するのは魂であり、神の栄光を最初に認め、神の真理に愛着し、神の前で讃美をもって最初にひれ伏すものも魂である。神に忠実な魂は、神の光を反映し、やがて神のもとに戻る。しかし、創造主への忠誠を怠る魂は、自我と欲望の犠牲となり、結局は自我と欲望の淵に沈むであろう。
この日、人々の抱く疑いや空想のために永遠なる真理者より顔をそむけてはならない。聖職者や世俗の権威者が引き起こす騒ぎのために永遠なる真理者のメッセージを否定してはならない。万人の主なる神は、このことを遵守した人間を神の力強いしるしの一つと見なし、最も高遠なるペンが自らの書にその名を記録した人々のうちに数えるであろう。このような魂の真価を認め、その地位を理解し、その美徳を発見したものは幸いなり。
昔の書には魂の多様な発展段階について多く書かれている。例えば強情、短気、霊感、慈悲、満足、神の御心に適うことなどである。しかし、最も高遠なる者のペンはそれについて論ずるつもりはない。この日、神と共に謙虚に歩み、神にすがるすべての魂は、あらゆる良き名と地位の栄誉と栄光を授かる自己を発見するであろう。
睡眠中の人間の魂は、外部の影響を受けて魂に何らかの本質的変化が起こっているとは決して言えない。つまり、魂の本来の状態や特性は変化するものではない。魂の働きに変化があるとすれば、それは外部的要因によるものである。その環境、理解力、感知力の変化はすべて外部的影響によるものである。
人間の目について考えてみよ。それはすべての創造物を感知する能力を持つが、ほんのわずかな障害が事物を識別する力を奪うほどにその視力を妨げるのである。これらの原因を創造し、これらの原因の原因であり、この存在の世におけるあらゆる変化と変動はその原因によると定め給う神の名に讃美あれ。宇宙のすべての創造物は、神の知識にみちびく扉に過ぎず、神の主権のしるし、神の諸々の名を現わすもの、神の威厳の象徴、神の威力の痕跡、神のまっすぐな道に入る手段に過ぎない…。
まことにわれは告ぐ。人間の魂の本質は神のしるしの一つであり、神の神秘のうちの神秘である。それは全能者の力強いしるしの一つであり、神の諸々の世の実在を宣言する先駆者である。人間の魂の中には、世界が現在まったく理解し得ないものが秘められている。神の法のすべてに遍在する神の魂の啓示について心の中で熟考せよ。そして、神に反抗し、諸々の名の主に向かうことを人々に禁じ、欲望と邪悪にしたがって歩むことを人々に強いるかの卑しく、どん欲な性格とそれとを対比せよ。まことに、それは過ちの道を遠くさまよう魂である…。
さらに汝は、魂が肉体より分離した後の状態についてわれに質問した。まことにつぎのことを確信せよ。神の道を歩んだ魂は、必ず最愛なる者の栄光に戻り、引き寄せられるであろう。神の正義にかけて言う。そのような魂はいかなるペンが叙述することも、いかなる舌が述べることもできないほどの地位に達するであろう。神の大業に忠実でありつづけ、神の道に揺るがず確固とした魂は、昇天後、全能者が創造し給うたあらゆる世界に利益を与え得るほどの力を所有する。そのような魂は、理想の王と聖なる教育者の命により、存在の世界を発酵させる純粋な酵母を提供し、この世の技巧や驚異を現わす力を供給する。粉が発酵するにはいかに酵母を必要とするかについて考えてみよ。超脱の象徴であるこれらの魂は世界の酵母である。これについて瞑想せよ。そして、感謝するものであれ。
いくつかの書簡の中でわれはこの課題に言及し、魂の成長の様々な段階について説明した。まことにわれは告ぐ。人間の魂は、あらゆる出現と退却を超えて高められたものである。それは静止していながら飛翔する。それは動いていながら静止する。魂は、始まりも終わりもない世界の実在を証す証拠であると共に、偶発の世の存在を証言するものでもある。夢の中で見たことが多年の後、汝の眼前にいかに再現されるかを見よ。夢の中に現われた世界の神秘がどれほど不思議なものであるかについて熟考せよ。汝の心の中で、計り難い神の英知について熟考し、その多種多様にわたる啓示について瞑想せよ。
神の工作の驚くべき証跡を目撃し、その範囲と特性について熟考せよ。預言者たちの打ち止めなる彼はこう述べた。「おお、神よ。あなたへのわが驚嘆と驚異を増し給え」。
物質の世界には限界があるかどうかという汝の質問について。このことの理解は観察者の理解力によることを知れ。ある意味では物質の世界には限界が存在するが、他の意味ではそれはあらゆる限界を超えて高遠なるものである。唯一真実なる神は永遠のいにしえより存在し、未来永劫を通じて存在しつづける。同様に、神の創造には始まりも終わりもない。しかしながら、創造されたものはすべてそれに先行する原因の結果である。このこと自体、創造主の唯一性を疑いの余地もなく立証する。
汝はさらに、天体の特質についてわれに質問した。その特質を理解するには昔の諸々の聖典の中に述べられた天体と天空についての言葉の意味を調べなければならない。また、天体とこの地上の世界の関係と、天体がそれに及ぼす影響を発見する必要がある。人の心はこの途方もない主題に驚嘆し、知性はその深い神秘に当惑する。神以外にこのことの意義を計り知ることのできるものはない。ある学者は地球の誕生を数千年前の出来事だとする。しかし、長年の観察にもかかわらず、彼らは地球以外の惑星の数やそれらの年代について考えようとはしなかった。さらに、彼らの唱える理論より生じた多くの矛盾についても考慮せよ。あらゆる恒星は惑星を持ち、あらゆる惑星には固有の生命体があり、その数は誰も計算し得ないほどであることを知れ。
おお、わが顔に目を向けたものよ。この日、栄光の曙はその光輝を顕わし、最も高遠なる者の声は呼びかけている。われは以前、つぎのように語った。「この日は、誰も主に質問を向けてはならない日である。栄光の曙より発せられた神の呼び声を耳にしたものは立ち上がってつぎのように叫べ。『おお、諸々の名の主よ。われここにあり、われここにあり。おお、天界の創造者よ。われここにあり、われここにあり。そして、われここに証言す。あなたの啓示により、神の書に秘められていたものは明かされ、あなたの使者たちによって聖典に記録されたすべてのことは実現した』」。
<83>
人間の真髄に目を向けて見ると、そこには神によって付与された意識というものが存在する。まず、自分自身について考えてみよ。汝の運動と静止、意志と目的、視力と聴力、嗅覚と言語力、そしてそれ以外に汝の五感や精神的洞察力に関連するものや、それらを超越するものを観察してみよ。これらはすべて意識という能力に由来し、意識によってその存在が可能となっているのである。それらは意識と非常に密接に結びついているため、肉体とのつながりが一瞬でも切断されると、それらすべての感覚はただちに停止し、その働きを表わす能力を奪われてしまうのである。上述のすべての感覚は、意識の正常な機能に常に依存していることは明白であり、疑いの余地はない。そして、意識は、万物の主権者なる主の啓示のしるしの一つと見なすべきものである。すべての名や属性は意識が機能することによって出現し、意識の働きの停止によってすべてが崩壊し、消滅するのである。
この能力は視力と同じものであると主張すれば、それはまったくの間違いである。つまり、視力は意識に由来するものであり、視力の働きは意識に依存するものなのである。同様に、この能力は聴力と同じものであるという主張も意味のないものである。つまり、聴力がその機能を果たすためのエネルギーは意識という能力から得られるからである。
同様の関係が意識を、人体に備わっている他のすべての名や属性が与えられたものにも結びつけているのである。これらの名や現実の属性は、神のしるしであるこの能力を通じて発揮されるものである。その本質と真実において、このしるしはあらゆる名や属性をはるかに超越するものである。否、このしるしの栄光に比べれば、他のすべてのものは無と化し、忘れ去られたものとなる。
過去と未来の最も優れた賢者たちが達成し得る知性と理解力を結集し、今から始めて終わりのない終わりまで考えつづけても、汝は決してこの神秘を理解し、その真価を計り知ることはできない。まことに、これは神の定めた捉え難い真理であり、不変にして栄光に満ち給う神の啓示のしるしである。汝に内在するこの真理を充分理解するに無力であることを悟るならば、神を理解することは到底適わないことを容易に認めることができよう。衰えることのない栄光の昼の星であり、永遠なる日の老いたる者におわす生ける神の神秘を解き明かそうとする汝の努力も、他のいかなる創造物の努力も実を結ぶことはないのである。成熟した瞑想の結果、人はやがて自らの無力を告白するに至るが、この告白こそが人間の理解の頂点であり、人間の発展の最高峰を示すものである。
<84>
唯一真実の神を、創造物とは別の、そして限りなく高められた存在として考えよ。全宇宙は神の栄光を反映しているが、神は創造物より独立し、創造物を超越した存在である。これが神の一体性の真の意味である。永遠の真理なる神は、存在の世界に無双の主権を行使する威力に満ち、その姿は万物の鏡に映しだされている。存在するものはすべて神に依存し、万物の生命を維持する糧はすべて神に由来する。これが神の一体性の意味であり、これがその根本の原則である。
あるものは自らの空虚な幻想に惑わされ、創造物を神と同列と捉え、神の協同者と見なした。彼らは自分たちこそが神の一体性の提唱者であると想像した。唯一真実なる神かけて言う。そのような人々は盲目的模倣の犠牲者であり、そうありつづけるであろう。彼らは、神の概念を狭め、限定するものらのうちに数えられるのである。
神の一体性をまことに信ずるものは、二元性と唯一性を混同することはなく、神の唯一性の概念をくもらせる多様性の観念をしりぞけ、聖なる存在者をその本質により数の限界を超えるものと見なすのである。
神の一体性の信仰の真髄は、神の顕示者と、目に見えない、近づき難い、不可知の精髄である神を、一つであり、同じであると見なすことより成り立つ。このことの意味はつぎの通りである。神の顕示者に関するものはすべて何のためらいもなく神御自身の意志と同一視されなければならない。つまり、あらゆる状況下での顕示者の行動と行為や、顕示者が定めるものと禁ずるものすべてのあらゆる様相は神の意志と一致するのである。これは神の一体性をまことに信ずるものが到達することを望み得る最も高遠なる地位である。この地位に達し、信仰に確固たるものは幸いなり。
<85>
おお、わがしもべらよ。魂が振るい立つこの神聖なる春の季節、恩寵に満ちた恵みが汝らの上に降り注いでいる。汝らはこの恵みにより汝らの魂を活気づけ、よみがえらさなければならない。彼の偉大なる栄光の昼の星はその光輝を汝らに注ぎ、彼の無限の恩寵の雲は汝らを覆いつつんでいるのである。このすばらしい恩恵を逸することなく、また、新しい衣に身をつつんだ最愛なる者の美を認め損なうことのないものの報酬は何と大いなるものであろうか。
言挙げよ。おお、人々よ。神のランプは赤々と燃えている。汝らの背反の暴風がその光を消すことのないよう注意せよ。今こそは立ち上がり、主なる汝らの神を大いに称えるときである。肉体の安らぎを追い求めることなく、汝らの心の純粋を守り、汚点のないものとせよ。邪悪なるものは汝らを罠に陥れようと待ち伏せている。その忌まわしい仕掛けに捕らわれることのないよう身構えよ。そして、唯一真実なる神の名の光にみちびかれ、汝らをつつむ暗黒を脱出せよ。自分自身のことに陶酔することなく、汝らの思考を最愛なる者に集中せよ。
言挙げよ。おお、道を外れ、迷える人々よ。真実以外を語ることのない神聖なる使者は、最愛なる者の到来を汝らに告げる。見よ、今や最愛なる者は出現したのである。ならば、汝らはなぜ悲しみと憂鬱の中にあるのであろうか。純粋にして隠されたる者は、ヴェールを捨て、汝らと共にいるではないか。ならば、意気消沈する理由はどこにあろうか。始まりと終わりであり、静と動である者は汝らの眼前に今や姿を現わしたのである。見よ。この日、終わりの中に始まりの姿が映しだされ、静寂の中から動きが生じたのである。この動きは、全能者の言葉により創造の世の隅々にまで放出された強力なエネルギーより生じたものである。生命力あふれるその威力により活力を得たものは、最愛なる者の宮廷に向かわざるを得ない自分を発見するであろう。そして、これより自らを遠ざけるものは、救い難い落胆と悲嘆に沈むであろう。この世と、そこに存在するいかなるものにも邪魔されず、この時代の光明を発見し、人々の言葉に惑わされることなく正道に踏みとどまることのできたものこそが真の意味の賢者である。この啓示のすばらしき夜明けに漂う微風は、魂を振るい立たせる息吹である。それでも蘇生されないものは、まことに死者にも等しい。至上の救世主を認めず、自らの魂を自らの欲望の鎖で縛り、魂を悲嘆と無力の状態に放置するものはまことに囚人に等しい。
おお、わがしもべらよ。この泉の水を味わったものは永遠の命を獲得し、飲むことを拒むものは死者にも等しいのである。言挙げよ。おお、不正を働く人々よ。嫉妬心が原因となり、汝らは、すべてに満ち足り給う御方の甘美なる声に耳をかたむけようとしない。彼の神聖なる秘密が汝らに明かされるよう、ねたみを心から排除せよ。栄光の頂点にある太陽の如く出現して輝く彼を見よ。
言挙げよ。おお、理解力を持たない人々よ。厳しい試練が汝らを追跡し、突然汝らに襲い掛かるであろう。この試練が汝らに危害を加えることなく過ぎ去るよう奮起せよ。偉大なる栄光をもって汝らの前に現われた主なる汝の神の名の高貴を受け入れよ。まことに、彼はすべてを知り、すべてを所有する最高の保護者なり。
<86>
さて、人間の魂は肉体より分離後も、引きつづき互いに認識し合うか、という汝の質問について。深紅の箱船に入り、そこに定住するバハの人々の魂は、肉体より分離後も互いに親密に交わり、語り合うことを知れ。彼らは生活、希望、目的、努力のすべての面において非常に密接な係わりを持ち、あたかも一つの魂のようになるであろう。彼らこそはまことに博識であり、鋭い洞察力を持ち、理解力を授けられた人々である。すべてを知り、すべてに賢き者はこのように定めたのである。
神の箱船の住人であるバハの人々はみな、互いの置かれている状態と様子を充分認識し、親しさと友情の絆でむすばれている。しかし、この状態に達することは、各自の信仰と行いとに必然的にかかっている。同じ地位と等級にあるものは、互いの能力、性格、業績、真価などを充分に知っている。しかし、低い地位のものは、上級者の地位を正しく理解することも、真価を評価することもできない。各人は、汝の主よりその分け前を与えられよう。神のもとへと魂が飛び立つまで、常に顔を神に向け、神の愛の道を確固として歩むものは幸いなり。神こそは主権に満ち給う万物の主であり、最も力強く、常にゆるし給う御方、すべてに慈悲深き御方である。
一方、不信心者の魂に関しては、われはつぎのように証言する。最後に息を引き取るとき、彼らは生涯を通じて逸した善きものに気づき、自分の置かれた苦境を嘆き、神の御前において自らをいやしむであろう。魂が肉体を離れた後も、彼らのこの状態はつづく。
肉体の死後、人はみな、自分の行いの価値を評価し、自らの手が何をなしたかを知らされる。このことは明白明瞭である。神の威力の地平線上に輝く昼の星にかけてわれは誓う。唯一真実の神を信奉するものがこの世を後にする瞬間、叙述し得ないほどの喜びと歓喜を経験する。一方、過ちの内に生きてきたものは、比べようのない恐怖とおののきにとらわれ、非常な驚きと混乱に覆われる。すべての宗教の主におわす御方の、御恩寵に満ちた賜物と、諸々の御恩恵とにより、信仰の不朽なる選り抜きの美酒を飲み干したものは幸いなり…。
神に愛されし人々はこの日、神の顕示者に目を向け、顕示者が御心にしたがって啓示したものに目をしっかりと据えなければならない。過ぎさりし時代から引き継がれてきた伝承の中には、何ら根拠を持たないものがある。また、過去の世代の人々が心に抱き、書物に記してきた概念は大部分、堕落した心の欲望に影響されたものである。汝も見て知っている通り、神の言葉に関して今日一般に普及している評論や解釈のほとんどは、真実をまったく含んでいない。その解釈の誤りは、そこに介在するヴェールが引き裂かれることによって暴露される場合もある。神のいかなる言葉の意味をも理解できていないことを、彼ら自身が認めるのである。
人々は、過去の時代に語られた空虚な言葉より自らの心と耳を清めなければならない。そして、魂の奥底から神の啓示の曙である御方に向かい、彼によって顕わされたすべてのものに向かわなければならない。神に愛されし人々がこのことを果たすならば、それは神の目から見て、非常な賞賛に値するのである。この真理を示すことがここでのわが趣旨である…。
彼の名を讃美し、感謝するものであれ。わが愛する人々にわが挨拶を伝えよ。彼らこそは、神の愛を受けるために、神によって選ばれた人々であり、神は彼らの目標を成就させ給う。諸々の世界の主におわす神に栄光あれ。
<87>
さて、汝はつぎのように質問した。「人類の父なるアダム以前に生きた預言者たちや、その時代の王たちについては何も記録されていないが、それはなぜか」。彼らに言及するものが存在しないことは、彼らが現実に存在したことを否定する証拠にはならない。記録が現存しないのは、それが非常に遠い過去の出来事であったということと、この間、地球上に数多くの極めて大きな変化があったことに起因している。
アダム以前の人々は、今の時代に存在するような文字や筆記様式を知らなかった。さらに、読み書きの術をまったく知らない時代もあり、当時の人々は現在とは完全に違う方法や様式を持っていた。このことを正確に論ずるには詳しい説明を要する。
アダムの時代以降に起こった様々な変化について考えてみよ。地球上の人々に現在広く使われている言語も、もとは存在しなかった。地球上に現在広く普及している戒律や習慣についても同様のことが言える。過去の時代の人々は、現在知られている言語と異なる言語を用いていた。その後、バベルという地において言語の分化が始まった。その地は「言葉の混乱が起こった場所」という意味の「バベル」と呼ばれた。
後に、様々な言語の中でシリア語が優勢となり、古代の聖典はこの言語を用いた。やがて、神の友なるアブラハムが出現し、地上を神の啓示の光で照らした。ヨルダン川を渡る際にアブラハムが使った言語は「渡る際の言葉」という意味の「ヘブライ語」と呼ばれた。そして、神の書や教典はこのヘブライ語をもって示されるようになった。アラビア語が啓示の言語となったのはそれからさらに長い時代が経過してからである…。
アダムの時代以降に起こった言語、言葉、書体における度重なる広範囲な変化を見よ。アダム以前の時代に起こった変化はこれをはるかに上回るものであったに違いない。
このようなことを著すわが目的はつぎのことを示すことにある。つまり、その最も高く超越した地位において、唯一真実なる神はいにしえより永遠の未来を通じて常に御自身以外のあらゆるものの讃美と想像を越えて崇高である。神の創造は永遠に存在し、神の栄光の顕示者たちと、永遠なる神聖さの黎明の場である人々は太古よりこの世に遣わされ、人類を唯一真実なる神のもとに召集する任務を付与されてきたのである。彼らの名前が一部忘れられてしまい、彼らの生涯に関する記録を失われたのは、この世界を巻き込んだ度重なる動乱や変革が原因である。
様々の書に大洪水のことが記されており、その大洪水は歴史の記録や地上にあったすべてのものを破壊したとある。同じような大災害が数多く起こり、それにより過去の出来事の痕跡は消滅したのである。地球はいつ生まれ、歴史はどこまでさかのぼるのか。このことについても、現存する史料や様々な民族の言い伝えに異なる説明を見ることができる。ある民族は八千年の歴史を有するとし、他の民族は自分たちの歴史は一万二千年前までさかのぼるとする。ジュークの書を読めば明らかであるが、様々な書に登場する記述には多くの相違点がある。
汝が汝の目をこの最も偉大なる啓示に向け、これら相反する物語や伝承を完全に無視することができるよう、われは神に嘆願する。
<88>
まことに、このことを知得せよ。正義の真髄と正義の源泉とはいずれも、人類に対する神御自身の顕示者によって定められた法の内に具現化されている。おお、汝ら、この真理を認めるものならば。実に、顕示者は最高にして、誤りのない正義の基準をすべての創造物に対し具現するものである。顕示者の定める法が、たとえ天と地にあるすべてのものの心に恐怖をもたらすものであったとしても、その法はなおも明白なる正義に他ならない。この法の啓示が人々の心に引き起こす恐怖と不安は、実に、母親の乳より離された乳児の泣き叫ぶ声にたとえられよう。おお、汝ら、洞察力を有するものならば。人間は、もし神の啓示の根底に存在する目的を発見することができれば、必ず恐れをすて、感謝の念に心を満たし、至上の喜びをもって悦に入るであろう。
<89>
神の言葉は永続するものであることを汝は固く信じている。神の栄光は崇高なり。ならば同様に、神の言葉には無限の意味が含まれていることを、疑念を許さない信念をもって確信せよ。神の言葉の選ばれた解釈者と、その言葉の秘密を胸に秘めた人々以外は誰も神の言葉の大いなる英知を計り知ることはできない。聖典を読み、神の代表者の権威をくつがえそうと聖典の中から意のままに選ぶものはまことに死者同然である。表向きは隣人と歩み会話し、隣人と飲食を共にしていても、死者同然である。
おお、この世の人々はなぜわれを信じようとしないのであろうか。すべての名の主なる神がバハに教授し、バハの胸のうちに秘められていることが人類に明かされるならば、この地上の人々はひとり残らず唖然とするであろう。
言葉の衣につつむことのできない真理は何と多く存在することか。いかなる表現法をもってしても充分に言い表わすことのできない真理は無限に存在する。そのような真理の意義を解明することはできない。また、何らかの比喩を用いたとしてもその真理に接近することはできない。定められた時刻が到来するまで、多くの真実については語ることすら許されない。まさに、つぎのように書かれている通りである。「人は、自分の知っていることのすべてを明かすことはできない。また、明かし得ることのすべてが時機を得ているとは言えない。そして、時機を得た言葉のすべてが聞き手の能力に合致しているとも言えない」。
これらの真理の内、わが知識の光の宝庫であり、わが隠されたる恩寵の受領者である人々の能力に合った真理のみが開示される。神が御力により汝を強化し、汝がすべての知識の源である者を認めることができるよう助け、汝がすべての人為的学問より自らを解放できるようわれは神に嘆願する。つまり、「すべての知識の対象である者を既に発見し認めたのであれば、さらに学問を追求する利益はどこにあろうか」。知識の根本である御方にすがれ。知識の源泉である御方にすがれ。そうすれば、明白な根拠を持たず、明瞭な書の証言にも支持されることのない人為的学問にたけていると自負するあらゆる人々の支配を逃れることができよう。
<90>
天上に存在するすべてのものと、地上に存在するすべてのものは、みなその中に示されている神の属性や御名の直接の表われである。例えば、一つ一つの原子の中には、あの最大の光の啓示を雄弁に立証する数々のしるしが秘められている。思うに、あの啓示の偉大なる力がなかったなら、すべての存在はあり得なかったであろう。一つの原子の中に輝く知識の発光体は何と輝かしく、一滴の雫に波打つ英知の大洋は何と広々としていることであろう。人間はこの原理を立証する最高の証拠である。つまり、すべての創造物の中にあって、天賦の衣は人間に与えられ、人間はこのようにすばらしい栄光が得られるよう選び抜かれたのである。何となれば、神のすべての属性や名は人間の中に潜在する。そして人間に宿るその潜在性は、他のいかなる創造物もしのぐことのできないほどのものである。人間は神のすべての名や属性を享受することができる。まさしく、こう述べられている。「人間はわが神秘であり、われは人間にとっての神秘である」。この最も微妙で高遠なる主題に関する数多くの聖句は、すべての天来の書や聖典に繰り返し登場する。まさしくこう述べられている。「われは、彼らに対し、わがしるしをこの世と彼らの内に必ず示す」。また、こうも述べられている。「そして、汝らは自らの内に宿る神のしるしが見えないのか」。さらにまた、こう述べられている。「神を忘れ、そのために神により自分を忘れさせられたものらのようにはなるな」。これに関連して、永遠の王におわす者はつぎのように述べ給う。願わくは神秘なる礼拝堂に住むすべてのものの魂が彼に捧げられんことを。彼曰く、「己を知るものは、神を知るものである」。
これらの言葉はつぎのことを明白に示している。神の名や属性はあらゆる創造物の内に啓示されており、万物の最も内なる本質がこのことを証言している。あらゆる創造物は、その能力に応じて神の知識を示したり表わしたりする。これは非常に力強く普遍なる啓示であり、目に見えるもの、見えぬもののすべてを覆いつつんでいる。まさしくこう述べられている。「神を表わすだけの啓示の力を有するものが神以外に存在し得ようか。神を発見できない目は盲目なり」。同様に、永遠なる王はこう言われた。「何を見ても、われは常にその内部に、またその前後に神を見る」。さらに、コメイルの伝承にこう書かれている。「見よ、永遠の朝から一条の光がさし、その光の波は人間の本質の奥底にまで浸透した」。すべての創造物の中で、人間は最も崇高なる存在であり、最も完成された存在である。そのため、この啓示の光度において人間は他のあらゆる創造物をしのぎ、この啓示の栄光をより完全に表現している。そしてすべての人間の中で最も完成され、最も秀でて、最も卓越した存在は真理の太陽の顕示者たちである。否、顕示者以外のすべての人間は、顕示者の意志の作用によって生き、その満ちあふれる恩寵を受けて存在し、活動するのである。
<91>
この啓示が真実であることを示す証拠の中に、つぎのようなものがある。どの時代のどの宗教制においても、不可視の本質が顕示者を通してその姿を現わすとき、預言者という太陽を求め、聖なる教導の月を求めて神の御前に集まってくるのは名も知れず、世俗のいかなるしがらみにも捕らわれない人々であった。このため、各時代の聖職者や富者たちは彼らを軽蔑し、あざけり笑った。まさしく、あやまてる人々について聖典はこう語っている。「すると、彼の民のうちの不信心なる人々の長老たちは言った。『お前を見ると、われわれと同じ人間にすぎない。また、お前にしたがう人々を見ると、われわれの中でも、最も思慮が浅く、最も卑しいものばかりである。さらに、お前にはわれわれにまさる長所は何も見受けられない。否、われわれはお前を単なる嘘つきと見る』」。人々は神聖なる顕示者の揚げ足をとり、異議を唱えて言った。「われわれの中で卑しいものや、取るに足りないもの以外は誰ひとりとしてお前にしたがうものはいない」。彼らの言わんとするところは、学識者や富者や名声を博した人々の中には、ひとりとして顕示者を信じるものはいないということであった。彼らはこれを根拠とし、真実のみを語る者を嘘言者と決めつけようとしたのである。
しかし、最強の主権たるこの最も輝かしい宗教制においては、多くの啓発された聖職者、最高の学識者、博学円熟の博士たちが顕示者の宮廷に到達し、顕示者の神聖なる御前の盃より飲み、最もすばらしい恩寵にあずかる栄誉を授けられたのである。彼らはみな、最愛なる御方のためにこの俗世とそこにあるすべてを捨てたのである…。
この人々はみな、神の啓示の太陽の光にみちびかれ、顕示者の真理を受け入れ、その真実性を告白したのである。その信仰のために、彼らの大半は財産や血族縁者を捨て、栄光に満ち給う御方の御心に忠実にすがったのである。彼らは最愛なる御方のために命を投げだし、所有するすべてを彼の道に捧げたのである。彼らの胸は敵の投げ矢の的となり、彼らの首は不信心者の槍を飾るに至った。これら世俗超脱の権化の血潮に塗られなかった土地はどこにもなく、また、剣という剣は彼らの首を突き刺したのである。彼らの行動は、彼らの言葉の真実を明かすに充分な証明である。この聖者たちは最愛なる御方のために命をも捧げようと雄々しく立ち上がり、その犠牲の様相に全世界は驚嘆したのである。ならば、彼らの証言は現代の人々を納得させるに充分なものではなかろうか。この証言は、何の価値もないものを得るために自らの信仰を裏切り、永遠の生命を朽ち果てるものと交換し、塩泉を求めて神の御前の大河を放棄し、他人の財産を奪うことを人生の唯一の目的とするものらの不誠実さを充分に立証するものではなかろうか。汝は、まさしくその目で、世の人々が世間の空しい俗事に追われ、主なる最も高遠なる御方のもとを遠く離れ、さまよっている様子を見ている。
公平に判断せよ。言行が一致し、外面的行動と内面的生活とが完全に一致するものの証言は充分なるものであり、注目に値するものではなかろうか。彼らの行動に心は衝撃を受け、彼らの堅忍不抜の精神と肉体の忍耐力に魂は驚嘆させられるのである。それとも、自らの空虚な幻想の檻の中に幽閉され、我欲の空気のみを吸うあの不信心者たちの証言が受け入れられるべきなのか。不信心者たちは暗黒のこうもりの如く、世俗の束の間の事物を追い求めるとき以外は床から頭をもたげようとしない。また、自らの強欲な生活の目的を遂行するために働くとき以外は、夜も落ちついていられない。彼らは自己本位の策謀に熱中し、神の命令を完全に忘れている。昼間は世俗的な利益に全魂をかたむけ、夜間はただただ自分たちの肉欲を満足させることだけに熱中するのである。この狭量な人々の唱える拒否の言葉に執着し、神の御心にしたがって自らの生命、財産、名声、評判、名誉の一切をなげうった人々の信仰を無視するのを、一体いかなる掟や規準が正当化することができようか…。
彼らは何という愛の心、何という献身、何という歓喜と聖なる喜悦をもって自らの命を栄光に満ち給う御方の道に捧げたことであろうか。すべてのものはこの事実を証言している。なのに人々は、どうしてこの啓示を軽んじることができようか。過去のどの時代がこのように重大な出来事を目撃したであろうか。もし、これらの使徒たちが、まことに神を求めて努力するものでないというのであれば、他に誰がこの名で呼ばれるに値するであろうか。これらの使徒たちは権力や栄光を何ら求めなかった。富を追求することもしなかった。彼らは、神の喜びを得る以外にはいかなる希望も抱かなかった。もしこれらの使徒たちが、そのすばらしい証言や驚くばかりの業績にもかかわらず、偽り者だとしたら、一体誰が自らを真実と主張するに値するのであろうか。われは神かけて誓う。もし人々が、自分の心の中で神聖なる啓示の神秘について熟考するならば、使徒たちの行動そのものが全人類に対する充分な証言であり、反駁し難い証明であることに気づくであろう。「正義に反して行動するものは、いかなる運命が彼らを待ち受けているかを今に思い知らされるであろう」…。
非の打ちどころのないほどに誠実なこれら殉教者たちのことについてよく考えてみよ。聖典の明文は彼らの誠実さについて証言している。この人々はみな、汝が現に目撃したように、自らの生命、財産、妻や子、その他すべてのものを犠牲にして、天上の楽園の最も崇高なる部屋へと昇って行ったのである。この優れたる光栄に満ちた啓示の真実性に対するこれら世俗超脱の気高い人々の証言を拒否し、黄金のために自らの信仰を投げ捨て、権力を守るために全人類への指導者の第一人者たる御方を拒否した不誠実なる人々が、この燦爛と輝く光に反対して述べた非難を是認し、受け入れることは、正しいと言えようか。自らの生命や財産はもとより、神の聖なる教えのために自らの有する世俗の権力の一片さえも決して放棄しようとしない彼らの正体は暴露され、すべての人々はそれを認めているにもかかわらず、なお、彼らの述べる非難を受け入れるとは。
<92>
神の書は開けひろげられ、彼の言葉は人類を彼のもとへと呼びよせている。しかし、この大業にすがり、自らをこの大業の推進の道具となすことを望むものはほんの一握りしかいない。この世の塵を純金に変えることのできる神聖なる霊薬は、この少数の人々に付与された。そして、人類の子らを悩ます病に効く誤りのない妙薬を投与する能力が彼らに与えられた。この崇高なる啓示、この計り知れぬほどすばらしい啓示の真実を受け入れない限り、誰も永遠の生命を得ることはできない。
おお、神の友らよ。この世の虐げられし者[13]の声に耳をかたむけよ。そして、彼の大業を高めるものにしっかりとすがれ。まことに、彼は欲するものを彼のまっすぐな街道にみちびく。この啓示は、弱者に力を与え、貧者に富の冠を授けるものである。
最高の友情と、完全なる友愛の精神をもって共に協議せよ。そして、汝らの生涯の貴重な日々を、世の改善と、いにしえよりつづくすべての主権者なる彼の大業の促進に捧げよ。まことに、彼は正しきことを全人類に命じ、人の地位の堕落につながるすべてのことを禁じたのである。
<93>
あらゆる創造物は神の実在の象徴の一つであることを確信せよ。あらゆる創造物は、その能力に応じて、全能者のしるしの一つであり、永遠にそうありつづける。すべてに君臨し給う主は、御主権を諸々の名と属性の王国に現わすことを欲し、その御心の働きによりすべての創造物を神の栄光の象徴とされた。神の実在の普遍なる啓示はすべてを包含したため、全宇宙を探しても神の光輝を反映しないものを発見することはできない。この状態では、接近や遠隔という概念は完全に消滅する…。これはすべての創造物に付与された崇高なる賜物である。もし神の威力の御手がこの賜物を奪いさるならば、全宇宙は荒廃し、無と化すであろう。
主なる汝らの神は万物をはるかに越えて高遠なることを見よ。神の主権の荘厳なることを見よ。神の高遠なることと、至上なる威力を見よ。神の栄光に誉れあれ。万物は神によって創造され、神の御名と属性を現わすものとして定められ、神より付与された恩寵により接近と遠隔を越えて崇高である。ならば、これらすべてを創造した神の本質はそれらに増して何と崇高であろうか。
詩人の記した言葉について瞑想せよ。「最愛なるものが、われにも増してわれに近いことを不思議に思うな。これほど近いにもかかわらず、なおもこれほどわれは彼より遠いことを不思議と思え」…。この詩人は、「われは、人間の血管よりも人間の近くにいる」という神の啓示の言葉に言及してこう述べたのである。わが最愛なる者の啓示がわが存在のすべてに浸透したため、最愛なる者はわが血管よりもわれに近いのである。この真実を確信し、われ自身の地位についても充分認識しているにもかかわらず、われは最愛なる者からはるか遠くにある。詩人のいわんとする意味はこうである。自分の心は、慈悲に満ち給う御方の座であり、その啓示の輝きが宿る王座である。しかし、自分の心は創造主を忘れ、神の道を外れ、神の栄光から自らを遮断し、世俗の欲望に汚れている。
このことに関連して決して忘れてはならないことがある。つまり、唯一真実の神は、いかなる接近や遠隔をもはるかに超越し給う。神の実在はこのような限界を超越する。神と創造物との間に尺度を置くことはできない。あるものは神に近く、あるものは遠いとしても、その違いは各人の状態にのみ原因があるのである。
人間の心は、慈悲に満ち給う神の啓示がその中心を置く王座である。過去に著したわが神聖なる言葉はこの事実を証言する。その中につぎのような言葉がある。「天と地をもってしても、われをつつみ込むことはできない。われを信じ、わが大業に忠実なるものの心のみがわれをつつみ込むことができる」。人間の心は神の光をいただき、慈悲に満ち給う御方の出現の座である。にもかかわらず、人間の心は何と頻繁に過ちを犯し、この光の源とこの出現の源泉におわす御方に背を向けるのであろうか。人間の心を神より遠ざけ、疎遠の状態に陥れるのは人間のかたくなな心である。しかし、彼の存在に目覚めた心は、神に接近し、神の王座に近づいたものと見なされるのである。
つぎのことについて考えてみよ。人間は自分を忘れることがよくある。一方、神はすべてを覆う知識により常に創造物を思い、その栄光の明白なる光を注ぎつづける。この状況にあって、明らかに神は人間にとって自分よりさらに近い存在であり、未来永劫を通じてそうありつづける。何となれば、唯一真実の神はすべてを知り、すべてを見、すべてを理解するが、有限なる人間は過ちを犯し、自らの存在に秘められた神秘について無知であるからである…。
すべての創造物は神の実在の象徴であるとわれは説いた。これは善人も悪人も、敬虔なものも信仰なきものもすべて神の目には同等に映るという意味ではない。そのようなことは断じてない。また、神聖なる存在者が、何らかの状況においては人間に比較できる存在であるとか、神とその創造物の間に何らかの関連があるという意味でもない。神の御名に誉れあれ。神の栄光は崇高なり。しかし、一部の愚かな人々はこのような誤解に陥っている。彼らは虚しい空想の天界を舞い、神聖なる一体性の意味を曲解したのである。彼らによれば、神聖なる一体性の意味は、万物が神の象徴であり、したがって創造物の間には何の区別も相違も存在しないというのである。さらに踏み込んで、これら象徴に過ぎないものは神御自身と同等であり神の協同者であると主張するものもいる。神よ、許し給え。まことに神は唯一であり、不可分である。神はその本質において唯一であり、その属性においても唯一である。神の御名の中のたった一つの名より放出される輝き、もしくは、神の栄光のほんのかすかな暗示に接するとき、神以外のすべてのものは無と化してしまう。ましてや、神御自身に直接対面したらどうなるであろうか。
慈悲者というわが名の正義に誓って言う。これらの言葉を現わすとき、崇高なる御方のペンは大いに震え、震撼させられた。神の無限にして永遠なる大海原の波やうねりに比べて、はかない水滴は何と小さく、取るに足らない存在であろうか。永遠なる御方の栄光は、創造以前よりつづく本質である。無常にして滅び去る存在が、この言葉に尽くせぬ栄光に直面するとき、それは何と卑しい存在と映るであろうか。このような考えを持ち、そのような言葉を口にする人々に代わってわれは力に満ち給う神に許しを乞う。言挙げよ。おお、人々よ。一瞬の気まぐれにすぎない存在を、どうして御自力にて存在し給う神に比較できようか。神の創造物であり、神のペンによって記された文字に過ぎない存在を、どうして創造主と比べることができようか。否、神の記し給う文字はすべてに優り、あらゆる創造物をはるかに越えて崇高であり、聖別されたものである。
さらに、神の実在を象徴する存在同士の関係について考えてみよ。太陽は神の実在の象徴の一つに過ぎないが、太陽を暗闇と同等と見なすことができようか。唯一真実の神はわが証人なり。心の困窮者や、目を惑わされたもの以外は誰もそのようなことを信じるものはいない。言挙げよ。自分の存在について考えてみよ。爪も目も身体の一部に違いないが、それらに同等の地位と価値を認めることができようか。同等だと答えるのならば、汝はまことに栄光に満ち給う主なるわが神を偽り者と攻撃するものである。何となれば、汝は爪を切り捨て、一方、目は命ほどに大事にするではないか。
自らの地位と身分の限界を逸脱することは決して許されない。それぞれの地位と身分の限界は保全されなければならない。つまり、いかなる創造物も、それに定め与えられた地位に照らして考えなければならない。
つぎのことを心に記憶せよ。すべてを覆うわが名の光が宇宙を照らしたとき、どの創造物にも定められた程度に応じて、特定の影響力を行使する能力が付与され、独自の美徳が与えられたのである。猛毒の効果について考えてみよ。それは命を奪うものにせよ、特定の状況のもとでは有益な影響を持ち得るのである。創造物に注ぎ込まれたそれぞれの潜在能力は、この最も祝福された御名の出現の直接の結果によるものである。すべての名と属性の創造主におわす御方に栄光あれ。枯れて朽ち果てた樹は火にくべよ。そして、緑あざやかな良き樹木の陰にとどまり、その果実を味わえ。
神の顕示者の時代に生きた人々は、多かれ少なかれ、同様の不適切な言葉を口にしてきたのである。その状況は啓示の書や聖典に記録されている。
神の一体性の真の信奉者とは、あらゆる創造物の中に永遠の真理なる御方の実在のしるしを見るものである。創造物と創造主の間には区別はないと主張するものは神の一体性の真の信奉者ではない。
たとえば、「教育者」という神の名より放射される光について考えてみよ。この光の痕跡はすべてのものの中に存在し、あらゆる存在の改善はこの光によるものである。ここでいう教育には二種類ある。その一つは普遍的であり、その影響は万物に及び、万物を支えるものである。神を「諸々の世の主」と呼ぶのはこのためである。他方は、この御名の陰に寄り添い、この最も強大な啓示に避難所を求めた人々に限定される教育である。この避難所を求めないものは、この特典を自ら放棄し、最大名の天来の恩寵によって下された精神的糧の恩恵を享受することはできない。この両者の間に存在する隔たりは何と大いなるものであろうか。神に完全に向かい、神を愛するがためにこの世を放棄するものの地位を覆うヴェールが取り外され、この地位に備わった真の栄光が明らかとなれば、森羅万象は唖然とするであろう。既に説明したように、神の一体性の真の信奉者は、これら二つの名の出現の徴候を、信者たるものと不信者なるものの両者に見るであろう。そして、もしこの光の放出が停止されれば万物は消滅する。
同様に、「比類なき御方」という神の名より放射される光について考えてみよ。見よ、この光は全宇宙をつつみ、万物はみな神の一体性のしるしを現わし、永遠の真理なる御方の実在を証言し、神の主権と唯一性と威力を宣言している。この啓示は、森羅万象を覆いつつむ神の慈悲の証拠である。ただし、自らを神の協同者とするものは、この啓示に気づくことはなく、人間を神に引き寄せ、神と融合させる信教を得ることはない。世界のあらゆる国民や民族は神の一体性を証言し、神の唯一性を認めている。神の一体性のしるしが彼らに内在しなかったならば、彼らは決して「神以外に神は存在しない」という言葉の真実を認識することはできなかったはずである。にもかかわらず、見よ、彼らは嘆かわしい過ちを犯し、神の道より遠く迷いでたのである。荘厳なる啓示者を認めることができなかったため、彼らは神の一体性の真の信奉者の内にもはや数えられることはない。
神の啓示のしるしは、自らを神の協同者とする人々の内にも存在するが、それをどう見なせばよいのか。それは、ある意味では、誠実なる人々を照らす栄光の反射光によるものである。しかし、理解力を付与されたもの以外は誰もこの真理を把握することはできない。神の一体性をまことに認識した人々は、この御名を最初に表わすものと見なされよう。彼らこそは神の御手が差し伸べた聖杯から神聖なる一体性の美酒を飲み干し、神に顔を向けた人々である。このように聖別された人々と、神のもとを遠く離れた人々の間には何と広大な距離があることか。
洞察力をもって、いにしえの王なる御方の啓示の御しるしを万物の中に発見し、その聖別された神聖なる存在が全創造物をはるかに越えて神聖であることを汝が認めることができるよう、われは神に嘆願する。まことに、これこそは神の一体性と唯一性に対する信仰の根源であり、その真髄である。「神は独りであった。そして、神と共にあるものは何も存在しなかった」。今も神は変わらぬ存在である。神以外には神はなく、神こそは唯一であり、無二であり、全能者であり、最も崇高にして、最も偉大なる存在である。
<94>
さて、二つの神の存在に関する汝の言及について。注意せよ、注意せよ。主なる汝の神に協同者が存在するなどと決して考えてはならない。神は現在も過去も永遠の昔より唯一であり、単独であり、比肩者も同等者もなく、過去においても永遠であり、未来においても永遠であり、万物を超越し、常に永続し、不変であり、御自力にて存在し給う。神の王国において神は仲間も相談相手も指定することなく、神に比較されるものも、神の栄光に匹敵するものもない。宇宙のあらゆる原子はこの真実を証言する。さらに、高き王国の住人たち、すなわち最も高遠なる座を占め、栄光の王座の前にその名が記憶されている人々もこのことを証言する。
神は御自身により御自身のためにこう宣言し給う。すなわち、神の他に神はなく、神以外のものはすべて神の命令によって創造され、神の許しにより形造られ、神の法の支配の下に置かれ、神の唯一性の輝く証拠に比べると忘れられた存在であり、神の一体性の力強い啓示に直面するとき無と同様のものである。汝も心の最も奥なるところでこれが真実であることを証言せよ。
まことに、神は永遠にその真髄において唯一であり、その属性において唯一であり、その業において唯一である。いかなる比較も神の創造物にのみ適用され、いかなる関連性に関する概念も神に奉仕する人々にのみ属するものである。神の真髄はその創造物の叙述を超えて無限に高遠である。超絶なる威厳の座にあるのは神のみであり、崇高にして近づき難い栄光の玉座を占めるのは神のみである。人間の心の鳥は、いかに高く飛翔したとしても、神の不可知の真髄の高みに達することは決して望めない。創造の世を存在に呼び起こしたのは神であり、森羅万象は神の命令により生じたのである。ならば、神の御心の指示にしたがい彼のペンが記した言葉によって生命を得たものをどうして神の協同者と認め、神御自身の顕現と見なすことができようか。神の栄光は、人間のペンや舌がその神秘について暗示したり、人間の心が神の真髄について想像するものをはるかに超越した存在である。彼以外のすべてのものは神の御扉の前に貧相な姿でわびしく立ち尽くす。また、万人は神の威力の偉大さの前で無力であり、万人は神の王国において隷属者にすぎない。そして、神はいかなる創造物をも必要としないほどに豊かなり。
崇拝者と崇拝される者、創造物と創造者の間に確立される隷属の絆は、人間に対する神の慈悲深い恩恵の現われであり、人間の価値を示すものではない。明敏で、真の信者はすべてこのことを証言する。
<95>
万人の主なる汝の主はその書につぎのように定めた。つまり、神が人類に注ぎ給う恩恵は無限なり。これは過去においても未来においても不変なることを確信せよ。全能者が人間に付与し給う第一に重要な恩恵は理解力という賜物である。神がこの賜物を与え給う目的は、創造物が唯一真実の神を知り、認めることを可能にするための他の何ものでもない。まことに、神の栄光は高遠なり。この賜物は、ものごとの真理を見いだす能力を人間に付与し、人間を正しい方向にみちびき、創造の神秘の発見を助ける。つぎに重要な賜物は視力であり、それは理解力を機能させるための主な手段である。聴覚や心の感受性などその他も同様に人間の身体に付与されている賜物のうちに数えられる。これらの能力を創造し、それを人間の身体に現わした全能者は無限に高遠なり。
これらの賜物は唯一真実の神の威厳、威力、主権、そしてすべてを包含する神の知識の確実な証拠である。まことに、神の栄光は高遠なり。触覚について考えてみよ。触覚が人体の全体にわたって広がっていることを目撃せよ。視力と聴力はそれぞれ特定の局部に限られているが、触覚は身体の全体を覆う。神の威力に栄光あれ、神の主権に讃美あれ。
これらの賜物は人間に固有のものである。しかし、他のあらゆる賜物を超越し、不朽の特性を持ち、神御自身に属する賜物が存在する。それは神の啓示という賜物である。創造主は物心両面の恩恵を多く人間に与えているが、それらはすべて神の啓示という賜物に対する補助的な働きをするものにすぎない。この賜物は、その本質において天より下されたパンであり、永遠にそうありつづけるであろう。それは神の崇高なる証言であり、神の真理の最も明白なる証拠であり、神の無上の恩恵のしるしであり、すべてを包含する神の慈悲の証であり、慈愛に満ちた神の摂理の証明であり、神の完全なる恩寵の象徴である。この日において神の顕示者を認めるものは実に、神のこの最高の賜物の分け前にあずかったものである。
これほど大いなる恩恵を汝に授けた汝の主に感謝し、声たからかに告げよ。「おお、理解力を有するあらゆる心の希望の的におわす御方よ。すべての讃美をあなたに捧げます」。
<96>
最も高遠なるペンは絶え間なく呼びつづけているが、その声に耳をかたむけるものは何と少数であろうか。識別力ある目と聞く耳を有するものは、この世をいろどるものがいかにはかないかを容易に認めることができる。しかし、諸々の名の王国の住人たちはこの世の無常を忘れ、その派手な装いに気をとられている。
現在、新しい生命が地上のすべての人々の間に目覚めつつある。しかし、その原因を発見し、その目的を知るものは誰もいない。西洋の人々について考えてみよ。彼らは空虚で取るに足らないことを追求し、それを確立し促進するために数えきれないほどの生命を犠牲にしてきた。この犠牲は現在もつづいていることを目撃せよ。一方、ペルシャの人々には明白で輝かしい啓示が託されており、この啓示の崇高さと名声の栄光は今や地球上を覆っている。にもかかわらず、彼らは意気消沈し、深い無気力の淵に沈んでいるのである。
おお、友らよ。汝らに付与された徳をなおざりにしてはならない。汝らの崇高な運命に不注意であってはならない。人の心が案出した空虚な想像のために汝らの労力を浪費してはならない。汝らは理解の天上にきらめく星であり、夜明けにそよぐ微風である。汝らは万人の生命を支えなければならない静かな清水であり、彼の聖なる巻物に書き記された文字である。最高の和合と完全な友情の精神をもって、この神の日にふさわしいことを成し遂げることができるよう努力せよ。まことにわれは告ぐ。紛争や不和やその他、人間の心が忌み嫌うものはすべて、人間の地位にふさわしいものではない。汝らの活力を神の信教の普及に集中せよ。この高い使命に値するものは立ち上がり、信教の普及に尽力せよ。これができないものは、自分の代わりにこの啓示を宣布するものを任命する義務がある。まことに、その威力によりこの啓示は最強の構造物の基礎をも震わせ、山々を塵と粉砕し、すべての魂を唖然とさせたのである。この日の偉大さの全容が明かされれば、人はみなたとえ一瞬であろうともその大いなる栄光の分け前にあずかろうとする熱望のためにこの世とその滅び行く財宝はおろか、何千回でも自分の命を捨てるであろう。
汝らのすべての行動は英知によってみちびかれなければならない。そして、汝らは確固として英知による行動を貫かなければならない。汝ら全員が神の意志を実行できるよう強化されることをわれは神に嘆願する。神に愛されし人々の中で、彼への奉仕とその名を高めるために立ち上がるものに付与される地位を正しく評価できるよう汝らが慈悲深く援助されることをわれは神に嘆願する。神の栄光と、天と地にあるすべての栄光がこの地位を得た人々の上に宿らんことを。最上の楽園である最高の天上の住人たちの栄光が彼らの上に注がれんことをわれは願う。
<97>
自らを神の協同者と見なす人々がこの地の住人の心に植えつけた疑念について考えてみよ。「銅を金に変えることは本当に可能なのか」と彼らは問う。答えて言え。まさに、主に誓ってそれは可能である。その秘密はわが知識の内に秘められ、われはその秘密をわれの欲するものに明かそう。わが威力を疑うものは、その秘密が明かされ、その真実を確信できるよう主なる神に嘆願せよ。銅を金に変えることが可能であるということは、金もまた同様に銅に変質できるという充分な証明である。汝、この真理を理解できたならば。ある鉱物の密度、形、本質を、他のいかなる鉱物にも付与することは可能である。その知識は、われと共にある隠されたる書に秘められている。
<98>
言挙げよ。おお、宗教の指導者たちよ。汝らの間に今日普及している基準や学問をもって神の書を推し量ってはならない。なぜならば、神の書はそれ自体、人の世に確立された誤りのない秤なのである。地上に住む諸々の民の有するものはすべて、この完全なる秤にかけられなければならない。そして、この秤に用いられる基準は、この秤固有の基準によってのみ試されよう。おお、汝ら、このことを知り得たならば。
昼に夜に、朝に夕べに汝らが呼びつづけてきた者を、汝らは認めることができなかったのである。汝らのこの有様をわれは嘆き、わが哀れみの目にはなみだがあふれる。おお、人々よ。雪のように純白な顔と、輝く心とをもって、祝福された深紅の地点に向かって進行せよ。そこでは、サドラトル・モンタハ[14]がこのように呼びかけている。「まことに、われ以外に神はなく、われは全能なる庇護者にして、自力にて存在する者なり」。
おお、宗教の指導者たちよ。洞察力や看破力において、われに比べられるものが汝らの中にいようか。また、わが言葉と英知に匹敵するものを持つとあえて主張できるものがどこにいようか。否、慈悲深きわが主にかけて言う。地上にあるすべてのものは朽ち果てる。そして、これこそが全能にして、敬愛される汝らの主の御顔である。
おお、人々よ。あらゆる学問の最高にして、究極の目標としてわれが定めたものは、すべての知識の的である者を知ることである。にもかかわらず、見よ、この有様を。汝らの学識はまるでヴェールのように彼との間をさえぎっており、汝らはこの状態にあまんじているではないか。彼こそはこの光明の曙であり、隠されていたものはすべて、彼を通じて明かされたのである。この言葉の輝きの光源を発見できたならば、汝らはこの世の人々と彼らの所有するすべてをすて、この最も祝福された座に接近したであろう。
言挙げよ。まことに、これこそは母なる書が納められている天界である。おお、汝ら、このことを理解し得たならば。彼こそは岩を叫ばせ、聖地のそびえる山頂に燃えさかる藪に「御国は神のものなり。神は万物を支配し給う主におわし、御力に満ち、愛し給う者なり」と声たからかに語らせた者である。
われは学び舎に学んだこともなければ、汝らの論文をひもといたこともない。常に存在し給う神のもとへと汝らを召喚するこの無学なる者の言葉に耳をかたむけよ。これは汝らにとって、地上のすべての財宝にまさるものである。おお、汝ら、このことを理解し得たならば。
<99>
神に対する信仰心はあらゆる国で衰えつつある。彼の健全なる妙薬の他にそれを回復させ得るものは何もない。不信心による腐食は、人間社会の核心をもむしばみつつある。彼の威力みなぎる啓示の霊薬以外に何が人間社会を浄化し、復活させ得るであろうか。おお、ハキムよ。物質の微小かつ不可分な分子の構成要素に完全な変化をもたらし、その物質を純金に変えることが果して人間の力で可能であろうか。これは複雑で困難な課題に見えよう。しかし、われにはより偉大なる事業を成し遂げる力が付与されているのである。その事業とは、悪魔的勢力を、天来の威力に変革させることである。このような変革をもたらし得る力は、かの霊薬の効力をも越えるものである。神の言葉以外に、これほど崇高な、そして広範囲にわたる変革を達成するに必要な能力を有するものは存在しない。神の言葉のみがこのような卓越性を誇り得るのである。
<100>
神の王座より発せられた聖なる布告者の声はつぎのように宣言する。おお、汝ら、わが愛する人々よ。わが聖なる衣服の裾をこの世の事物で汚してはならない。そして、汝らの腐敗した邪悪な欲望の衝動にしたがうな。その栄光の頂点に達し、この牢獄の天界に燦然と輝く神聖なる啓示の昼の星こそわが証人なり。森羅万象の愛慕の的である者に心を向ける人々は、この日、目に見えるもの見えぬもののすべての創造物を超越し、それらより自らを聖別しなければならない。もしわが大業を教えひろめるために立ち上がるならば、彼らは、何ものにも束縛されぬ御方の息吹によって奮い立たされなければならない。そして決意を固め、思いをまったく彼のみに集中し、あらゆるものを完全に超越し、独立した心と、この世とその虚栄より聖別された魂とをもって、わが大業を地球上にひろく伝えなければならない。旅のそなえとして彼らが選び得る最高のものは、神への信頼である。また、最も崇高にして、栄光に満ち給う彼らの主の愛をもって身を装うことが彼らにとって最もふさわしいことである。これをなせば、彼らの言葉はその聞き手に影響をおよぼすであろう。
この日、自らの邪悪な欲望におぼれ、地上の事物とそのはかない栄光に望みをかけたものらは深い淵によってわれより隔てられている。その隔たりは何と大であろうか。慈悲に満ちた者の宮廷は、外見上この世の財を完全に剥奪された状態に幾度となく置かれてきた。彼と生活をともにするものは、そのつど、困窮を極めた。彼らのその苦しみにもかかわらず、最も高遠なる者のペンは、いかなるときにも、この世とその財貨に関連するものに言及することも、わずかに暗示することも良しとしなかった。そして、何らかの贈り物が彼に届けられたときは、それは贈り主に対する恩寵のしるしとして受け取られた。もしかりに、われが地上のすべての富をわれ自らの使用のために専有したとしても、わが主権に対し異論を唱え、わが権限に挑戦する権利は誰にも与えられていない。唯一真実の神の名のもとに、金品を人にせがむことほど卑しい行為はほかに想像すらできない。
汝を初めとし、永遠の真理なる御方にしたがう人々に課せられた義務はこれである。つまり、人間を地上の事物への執着から聖別させ、その汚れを清めるもののもとへと万人をまねくことである。それにより、栄光に満ち給う御方の衣の甘美なる芳香が、彼を愛するすべてのものよりただよって来よう。
しかし、富めるものは、困窮者に対し最善の配慮を払わなければならない。なぜならば、貧しい中にあって、たゆまず忍耐するものに対し神は大いなる栄誉を準備し給う。わが命にかけて誓う。神が御心により与え給う栄誉以外に、この栄誉に比較し得るものはない。忍耐強く耐え、自らの苦しみを覆い隠す貧しき人々を待ち受ける祝福は大いなるものなり。同様に、自らの富を困窮者に分け与え、彼らを自分自身に優先する富者は幸いなり。
神よ、願わくは、貧しきものも生計を立てるに努力せんことを。この最も偉大なる啓示において、これは万人に課せられた義務であり、神はそれを善行とみなし給う。この義務に忠実なるものに対しては、見えざる御方の援助が確実に下されよう。神は望み給う者を、御恩寵を通じて富ますことができ給う。まことに、神は万物を支配し給う。
おお、アリよ。神に愛されし人々に告げよ。人間の持ち得る徳の中にあって、最も根本的なものは公正である。あらゆる事柄の評価は公正によらなければならない。この囚人の身に降りかかってきた悲痛と苦難についてしばし熟考せよ。生涯を通じてわれは常にわが敵の意のままにされた。そして、神の愛の道において、日毎、新たな苦悩を味わってきた。だが、われは神の大業の名声が地上にひろく伝えられるまで忍耐強く耐え忍んできた。もし、ここである人物が立ち上がり、自らの心の内に案出した空虚な想像にみちびかれるままに、人々の間に不和の種をまこうと、公に、またはひそかに画策したとすれば、そのような人間は公正に行動したと言えようか。否、万物にその御力が及び給う御方に誓ってそうではない。わが命にかけて言う。わが心は神の大業のために、そして自らの発言の意味をも理解せず、自らの理解し得ないことを想像するものらのために嘆き、わが目は悲痛のなみだを流す。
この日、万人に求められることはこれである。つまり、最大名に確固としてすがり、人類の一体性を確立することである。彼のもとに向かう以外に逃げ場はない。また、彼以外に避難所を求めることはできない。人々を神の無限の大海の岸辺から引き離し、人間的制約を受ける姿をもって現われたこの栄光あふれる明白なる存在者以外のものに人々の心を向ける言葉を語るものがいたとすればどうであろうか。それがいかに高い地位のものであれ、その人物は全創造物の非難を浴びるに違いない。即ち、彼は慈悲に満ち給う御方の甘美なる芳香を自ら逸したものであるからである。
言挙げよ。おお、理解力を持つ心を有する人々よ、汝らの判断に公正であれ。判断に公正を欠くものは、実に、人間の地位を特徴づける特性を欠くものである。永遠の真理なる御方は、人の胸の内に隠されているものをよく知り給う。しかし、神の寛容は永きにわたり、そのため、人類はその大胆さを増した。つまり、定められた時がくるまで、神は諸々の覆いを引き裂く手をとどめ給う。すべてにまさる神の慈悲は、神の激怒の嵐を押さえているのである。そのため、ほとんどのものは、唯一真実の神は彼らがひそかに犯したことに気づいていないと想像している。すべてを知り、すべてに精通し給う御方にかけて誓う。あらゆる人間のあらゆる行為は、完全な明白さをもって神の知識の鏡に正確かつ忠実に映し出されている。言挙げよ。おお、弱きものと哀れなるものの罪を覆い隠し給う御方に讃美あれ。御名に誉れあれ、おお、あなたに対し罪を犯す無思慮な人々をゆるし給う御方よ。
人々が自らの心に抱く想像にしたがって歩むことを、われは断じて禁じた。その趣旨はこれである。つまり、諸々の知識の至上の源泉と目的である者を認め、彼が御心のままに顕わすことをすべて受け入れることができるようにするためである。しかし、見よ、いかに人々が自らの無益な幻想と、空虚な想像に捕われているかを。わが命にかけて言う。彼らは自らの心が案出したものの犠牲者なのである。だが、彼らはそのことに気づいていない。彼らの口をもれる言葉は空虚で無益なものである。だが、そのことを彼らは悟っていない。
われは神に嘆願する。万人が彼を知り、自らをも知り得るよう、御恩寵を慈悲深く垂れ給え。わが命にかけて言う。彼を知ったものは、彼の愛の限りない空間に舞い、この世とその中のすべてを超脱するであろう。地上のいかなる勢力も、ここに至ったものをその進路からそらすことはできない。ましてや、空虚な想像にみちびかれ、神の禁じ給うことを語るものらが彼らをその進路からそらすことは決してできない。
言挙げよ。この日は、万人が彼の声に耳をかたむけなければならない日である。この虐げられし者の呼び声に耳をかたむけ、唯一真実の神の御名を崇めよ。神を記憶することをもって汝らの身を飾る装飾とし、神の愛の光をもって汝らの心を照らせ。これこそが人々の心の錠を開ける鍵である。これこそが命あるものすべての魂を清める研磨である。神の御心の指より注がれたことを心にとどめないものは、明らかなる過ちの内に生きるものである。真の信仰の証明は親和と公正なる行為にある。不和と害毒は決して真の信仰の証とはなり得ない。真理を語り、神の信託をたずさえた者が汝に守るよう命じたものを人々に伝え知らせよ。おお汝、わが名を呼び、自らの目をわが宮廷に向け、自らの舌をもって恩恵に満ちた汝の主を讃美するものよ、わが栄光は汝と共にあらん。
[1] バハオラの生誕の地テヘラン
[2] バハオラの生誕の地テヘラン
[3] バグダッド滞在中のバハオラの家
[4] アドレアノープル:バハオラの追放の地(1863−1868年)
[5] バグダッド滞在中のバハオラの家
[6] 「この虐げられし者」:バハオラご自身を指す言葉
[7] テヘラン
[8] テヘラン
[9] トルコ帝国の首都、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)
[10] トルコ帝国の首都、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)
[11] 「このしもべ」:バハオラご自身を指す言葉
[12] 多くのバビ教徒が殉教したイラン北西部の町ザンジャン
[13] 「この虐げられし者」:バハオラご自身を指す言葉
[14] 人間と顕示者の世界を隔てる「限界点に立つ樹」