落穂集

 

<1>                                                                         

 主なるわが神に讃美と栄光あれ。いかに深い英知を有するものであっても、その舌は決してあなたの御名を充分に称えることはできません。また、あなたをいかに強く求めていても、人の心の鳥は決してあなたの荘厳さと知識の天空に昇ることは望み得ません。このことを確信する私が、どうしてあなたについて語ることができるでしょうか。

 おお、わが神よ。もしあなたを「すべてを見給う御方」と描写するならば、洞察力の最高の権化なる人々もあなたの命令によって創造されたことを私は認めざるを得ません。もしあなたを「すべてに賢き御方」と称えるならば、英知の源泉なる人々でさえあなたの御心の働きによって創られたことを私は認識せざるを得ません。もしあなたを「比類なき御方」と宣言するならば、一体性の最も内なる真髄たる人々でさえあなたによって遣わされたのであり、あなたの()(わざ)の証拠であることを私は直ちに発見するのです。そして、もしあなたを「全知者」と讃美するならば、知識の真髄たる人々でさえあなたの御目的のために創造された道具にすぎないことを私は告白せざるを得ないのです。

 あなたは、あなたの神秘を解き明かし、あなたの栄光を描写し、あなたの本質をわずかにでも暗示しようとする、人間のいかなる努力をもはるかに超越して崇高におわします。このような努力によって得られる結果がどのようなものであれ、それは決してあなたの創造物に課せられた限界を超えることはできません。なぜならば、これらの努力はあなたの御命令によって動機づけられ、あなたの発想より生まれでたものであるからであります。最も神聖なる聖者たちがあなたを讃美するために抱く最も荘厳な想いも、最高の学識に富む人々があなたの性質を理解しようとして語る最も深い知識も、それらはあなたの主権に完全に従順であり、あなたの美を慕い、あなたのペンの動きによってその推進力を得る中心を旋回するものに過ぎないのです。             

 おお、わが神よ。否、あなたの啓示のペンと創造物の本質との間にあたかも直接の関係が存在するかのような言葉を私が発したことを許し給え。あなたに関連づけられた人々は、このような関係を想像することをはるかに超越しています。いかなる比較も、いかなる類似性もあなたの啓示の聖木を正しく評価するものではなく、あなた御自身の顕示者とあなたの美の黎明の場の理解に通ずるすべての道は閉ざされています。     

 あなたの栄光は、いかなる人間があなたについて述べることも、あなたに帰することも、また、あなたを称えるために捧げる讃美をもはるかに超越するものです。あなたはしもべらに対し、あなたの荘厳さと栄光を最高に称える義務を定め与え給いました。しかし、それはしもべらに対するあなたの御恩寵のしるしに過ぎず、自己を知るという彼らの最も内なる存在に授けられた地位に昇り詰めることを可能にするためのものでしかありません。    

  いついかなる時代においても、あなたの神秘を解明し、あなたの偉大さを充分に称えるものはあなた以外に存在しません。未来永劫を通じ、あなたは発見されない存在におわし、人間の讃美を超越した存在にまします。あなた以外に神はいまさず、あなたは到達し難い御方におわし、全能者にして全知者におわし、聖なるものの中の最も聖なる存在にまします。

 

<2> 

 すべては神を知ることに始まり、すべては天と地にあまねく浸透する神の意志の天上より下されたことを厳守することに尽きる。

 

<> 

 神のすべての預言者の目的および約束として太古より称賛され、神の使者たちが最も尊い願いとして待ち望んでいた啓示が、今や全能なる神の普遍の意志と、抗し難い命令により人類に明かされたのである。この啓示の出現はあらゆる聖典に予告されてきたのである。このような告知にもかかわらず、いかに人類がこの啓示の道より遠く迷い、その栄光より自らを遮断しているかを見よ。

 言挙げよ。おお汝ら、唯一真実なる神を愛するものらよ。彼をまことに認め、彼をまことに知ることができるよう努力せよ。そして、その教えを正しく遵守せよ。この啓示のために一滴の血を流すものに対し無数の大海が報酬として与えられよう。おお、友らよ。これほど貴重な恩恵を放棄することのないよう、また、その崇高なる地位を無視することのないよう注意せよ。この世は人々の空しい想像が生みだした妄想によって惑わされている。何と多くの生命がその妄想の犠牲となり、今も犠牲となりつづけているかについて熟考せよ。汝らは心の望みを得て、すべての民族に約束された者と結ばれることができたのである。このことを神に感謝せよ。神の栄光は高遠なり。汝らの到達した地位の高潔さを唯一真実なる神の援助により守り、彼の大業を推進するものにすがれ。まことに、彼が汝らに命ずることは正義であり、人間の地位の向上を促すものである。すべてに慈悲深い御方、このすばらしい書簡の啓示者に栄光あれ。

 

<4> 

 今日こそは、神の最もすばらしい恩寵が人々の上に注がれている日であり、神の最も偉大なる恩恵がすべての創造物に浸透している日である。汝らの間の不和を解消し、完全なる和合と平和をもって神の保護と慈愛の木陰に定住せよ。これは世界のすべての人々に課せられた義務である。人々はまた、この時代に彼らの地位を高め、彼らの真の利益を促進するものにすがらなければならない。栄光に満ちたペンがその名を記憶する人々は幸いなり。また、わが計り難い定めによりその名が隠されている人々に祝福あれ。

 恩寵深き援助により、万人がわれを歓迎することを成し遂げることができるよう、唯一真実なる神に嘆願せよ。現在の秩序は間もなく巻き上げられ、その代わりに新しい秩序が繰り広げられるであろう。まことに、汝らの主は真理を語り、目に見えぬものをも知り給う。

 

<5> 

 今日こそは神の慈悲の大海が人類に顕わされた日であり、神の慈愛の昼の星がその輝きを人類に注いだ日であり、神の惜しみない恩寵の雲が全人類を覆った日である。今こそは、意気消沈している人々を、愛と親善の精気みなぎる微風と、友情と慈愛の活水とにより励まし、活気づけるときである。

 いかなる場所に集い、いかなる人と接するときも、神に愛される人々は神に対する態度と、神を讃美しその栄光を称える姿勢を通じて自らの謙虚さと従順を立証しなければならない。それは、彼らの足もとの塵の原子が彼らの献身の深さを証言するほどのものでなければならない。これら聖なる人々の交わす会話は、塵の原子を感動に震わせるほどの威力に満ちていなければならない。彼らの振舞いは、決して彼らの踏み付ける大地につぎのように語らせるものであってはならない。「われは汝らに優る存在である。農夫がわれに課す重荷をわれがいかに忍耐強く支えているかを見よ。われは、恩寵の源泉におわす神がわれに託し給う恩恵を生命あるすべてのものに絶え間なく分け与えるための手段である。われには名誉と富が授けられ、わが富はあらゆる生命体の必要を満たすに余りあるのである。わが富の数え切れないほどの証拠にもかかわらず、われがいかに謙虚であるかを見よ。完全な従順をもって人の足もとに身を置くわが姿を見よ」。  

 互いに寛容であれ。互いに善意と愛を示せ。仲間のひとりがある真理を把握できないでいるとき、またはある真理を理解しようと努力しているとき、大いなる親切と好意の精神をもって対話せよ。その仲間より自分の方が優れているとか、才能に恵まれているなどと少しも考えることなく、彼が真理を発見し、認めることができるよう援助せよ。

 神は人間に恩寵の洪水を提供し給う。この恩寵の分け前にあずかることこそがこの日を生きる人間の義務のすべてである。それゆえ、自らの器の大小を考えてはならない。あるものの分け前は手のひらにのるほどであるかも知れない。また、湯飲みや樽を満たす分け前にあずかるものもいよう。

 今日、万人の目は、神の大業を最も効果的に推し進めるものを追い求めなければならない。永遠の真理におわす神こそわが証人なり。この日において、この大業に最大の危害を加えるものは何か。それは、神に愛されし人々の間の不和、争い、論争、離反、冷淡である。神の威力と全能なる援助により、これらすべてを逃れよ。そして、統合者、全知者、全賢者という神の御名のもとに人々の心を結び合わせるよう努力せよ。

 神の道における達成の味わいは格別なり。神のために示した謙虚さと従順は甘美なり。これらを味わうことができるよう唯一真実なる神に懇願せよ。自分を忘れ、隣人に目を向けよ。汝の活力を人類の教育を促進するものに向けよ。何事も神から隠されていない、また、決して隠し得ない。彼の道を歩むなら、計り知れぬ不滅の祝福が汝に注がれよう。これは輝かしき書簡であり、そこに記された言葉はすべての世の主なる御方のペンの動きにより放出されたものである。このことを心の中で熟考し、その教えを守るものであれ。

                     

<6> 

 見よ、地上のあらゆる民族は「約束された者」の到来を待ちこがれていた。だが、真理の太陽がその姿を現わすや否や、神にみちびかれた人々を除くすべての人類が彼に背を向けたのである。誠実なる信者がこの日に到達し得る崇高な地位はヴェルによって隠されているが、われは敢えてそれを明かすことはしない。つまり、もしその地位の崇高さが明かされれば、人々の中には喜びのあまり気を失い息絶えるものがでるからである。

 バヤン[1]の心でありその中心である御方はつぎのように書かれている。「つぎに出現するであろう啓示の潜在性をつつみ込む種子には大いなる威力が付与されており、その威力はわれにしたがうすべてのものの威力にも勝るものである」。さらに彼は言う。「われにつづくであろう者に対し、われは多くの讃美を捧げたが、その中でも最高の讃美をわれはここに記して告白する。つまり、われが発するいかなる言葉も彼を充分に描写することはできない。また、わがバヤンの書に登場する彼に関するいかなる言及も彼の大業を適切に言い表わすものではない」。

 これら崇高な言葉の内に隠された大海の深みを探求し、この言葉の真意を理解したものは、この強大にして荘厳なる最も神聖なる啓示に付与されている、言葉に尽くせぬほどの栄光のかすかな輝きを発見したと言えよう。この偉大な啓示の卓越性から、その忠実なる信徒たちに授けられる栄誉のほどをうかがい知ることができる。唯一真実なる神の正義にかけて言う。彼らの吐く息でさえ、この地上のすべての財宝にも増して貴重なのである。この地位に到達したものは幸いなり。そして悲しいかな、無思慮なる人々は。

 

<7> 

 われはまことに言う。この日こそは、人類が約束された者の顔を見、声を聞くことのできるときである。神の呼びかけは発せられ、その御顔の光明は人類に向けられたのである。したがって、人はみな、自己の心の書よりあらゆる空虚な言葉の痕跡を消しさり、開かれた公平な心をもって彼の啓示のしるしを見、彼の使命の真を立証するものに向かい、彼の栄光の証を見据えなければならない。

 この日は偉大なり。すべての聖典はこの日を神の日と称し、その偉大さをたたえている。神の預言者と聖なる使者はみな、このすばらしき日の到来を心から渇望してきた。同様に、地上のすべての民はこの日にめぐり合うことを切望してきた。しかし、彼の啓示の昼の星が神の意志の天上に出現するや否や、全能者の御心によってみちびかれたものを除き、誰もがただ唖然とし、無思慮なままでいたのである。おお、われを記憶するものよ。地上の人々は最も嘆かわしいヴェールによって彼の栄光から遮断され、彼の呼びかけに聞き入ることをさまたげられている。神よ、願わくは、和合の光が地球全体をつつみ、そこに住むすべての人々の額に「御国は神のものなり」のしるしが記されるようなし給え。

 

<8> 

 神の正義に誓って言う。これこそは、神がそのすべての使者や預言者の心を試す日々である。この日、神聖にして侵し難い神の聖域を守る人々も、天上の殿堂の住人たちも、そして栄光に満ちた幕屋の住人たちもその心の真を試されるのである。とすれば、自らを神の協同者と称するものらを襲うであろう試練は何と厳しいものとなるであろうか。

 

<9> 

 おお、ホセインよ。 イマム・ホセインの再来を熱心に待ち望んでいる人々や国々について考えてみよ。過去の時代において、栄光に満ち給う神に選ばれし人々はガエムの出現の後にホセインが再来すると予言した。また、この聖者たちはこうも宣言した。神の無限の恩寵の黎明の場である御方が姿を現わすとき、ガエム[2]をも含むすべての預言者や使者たちは「約束された者」が掲げる聖なる旗印のもとに集合する。その時刻がいまや到来したのである。世界は約束された者の御顔から発せられる栄光に照らされている。しかし、見よ。それにもかかわらず人々は彼の道より遠く迷いでている。自らの空しい妄想とよこしまな欲望によって築かれた偶像をすべての名の主の威力により砕き、確信の都に入った人々のみが彼を信じるに至ったのである。この日、彼の啓示の選り抜きの美酒の封は、「すべてに満ち足り給う御方」という彼の名のもとに開封されたのである。その恩恵はいまや人類の上に注がれている。最も聖なる存在、すべてに讃美され給う御方という彼の名のもとに汝自らの杯を満たし、飲み干せ。 

 

<10>  

 地上の諸々の民族にかねてより定められた時は到来したのである。聖典に記録されている神の約束はすべて成就したのである。神の法はシオンより発せられ、エルサレムとその土地や山々は彼の啓示の栄光に満たされているのである。危急の場の救助者におわし、御自力にて存在し給う神の書に記されていることを心を込めて熟考するものは幸いなり。おお、神に愛されし人々よ。誠実さの清水を心行くまで飲み、神の大業の中にあって大山のように確固不動でありつづけることができるようこのことについて熟考し、神の言葉に耳をかたむけよ。

 イザヤ書にこう書かれている。「岩の間に入り、塵の中に隠れよ、主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて」。この聖句について熟考するものはみなこの大業の偉大さを必ず認め、神御自身の日であるこの日の崇高さを決して疑うことはないであろう。この聖句に引きつづき次のような言葉が記されている。「この日には、主はただひとり高く上げられる」。 この日こそは至上なる御方のペンがすべての聖典を通じて称えた日なのである。聖典に含まれるすべての言葉は彼の聖なる名の栄光を宣言し、すべての聖典はこのすばらしき主題の崇高さを証言するものである。この啓示について天来の書や聖典に記録されていることをすべて述べようとすれば、この書簡は膨大な量となる。この日、人はみな神の豊かな恩恵に全幅の信頼を置き、最高の英知をもって彼の大業の真理を広めるために立ち上がらなければならない。そのとき、この地上は初めて彼の啓示の夜明けの光につつまれるであろう。

 

<11> 

  この日に栄光あれ。慈悲の芳香が全創造物に漂いしこの日に、過去のどの時代もどの世紀も及ばないほど祝福されしこの日に、日の老いたる者の御顔がその聖なる座に向けられしこの日に。まさにそのとき、森羅万象の声が鳴り響き、その彼方からは天上の軍勢の声が重なり合って高らかに聞こえてきた。「急げ、おお、カルメルよ。見よ、名称の王国の支配者にして天界の形成者におわす神の御顔の光は汝の上に掲げられたのである」。 

  歓喜にわれを忘れ、カルメルは声たからかに叫んだ。「あなたは私を見つめ、あなたの恩恵を私に与え、あなたの歩みを私に向け給いました。それゆえ、私の命をあなたに捧げることを許し給え。おお、永遠の生命の源なる御方よ。あなたとの別離により私はもはや焼滅し、あなたの御前を遠く離れることにより私の魂は焼き尽くされました。あなたは私にあなたの呼び声を聞かせ、あなたの足跡により私に栄誉を与え給いました。私の魂はあなたの御代より漂う生命を与える芳香と、あなたの民にとどろく覚醒のラッパと定められたあなたのペンの鋭く響きわたる声により呼び覚まされました。それゆえ、私はあなたにすべての讃美を捧げます。そしてあなたの抵抗し難い信教の啓示の時刻が満ちたとき、あなたはあなたの精神の息吹をそのペンに吹き込まれました。すると、見よ、全創造物は根底より揺り動かされ、森羅万象の所有者なる御方の宝庫に秘められていた神秘が人類に明かされたのです」。

  カルメルの声がこの最も崇高なる場所に届くや否や、われはこう答えた。「おお、カルメルよ。汝の主に感謝せよ。われよりの別離の炎は汝を焼滅しつつあった。まさにそのとき、わが出現の大海は汝の顔前に押し寄せ、汝と全創造物の目をなぐさめ、目に見えるものと見えざるもののすべてを喜びに満たした。この日、神は汝の上にその王座を確立し、汝を御しるしの黎明の場となし、啓示の証拠の曙となしたのである。それゆえ、大いに喜ぶがよい。汝の周囲を巡り、汝の栄光の出現を宣言し、汝の上に注がれた主なる神の恩恵について語るものは幸いなり。主は慈悲の証として汝の悲しみを喜びに変え、苦悩を転じて至上の歓喜となしたのである。それゆえ、栄光に満ち給う主の御名において不滅の聖杯を握りしめ、主に感謝を捧げよ。主はこの地をこよなく愛す。彼の王座の据えられたこの地を、彼の足跡に踏みならされたこの地を、彼の来訪により栄誉を与えられたこの地を、彼の呼び声のとどろいたこの地を、彼の流した涙に潤されたこの地を」。   

  「おお、カルメルよ。シオンに叫び、この喜ばしき吉報を告げよ。人類の目より隠されていた者はいまや出現した。すべてを征服する彼の主権は現わされ、すべてをつつみこむ彼の光輝は明示された。ためらうことも、立ち止まることもないよう注意せよ。急ぎ行き、天より下りきた神の都の周囲を巡行せよ。これこそは神の寵愛を受けた人々、心清らかなる人々、そして最も高遠なる天使の集合が崇敬の念をもって巡る天来のカーバである。この啓示の吉報を地上のあらゆる所に知らしめ、すべての都市にあまねく伝えることをわれは切望する。これこそはシナイの心を魅了した啓示であり、燃える薮はこの啓示の名においてつぎのように叫んでいる。『天と地の王国は、主の中の主なる神に属す』。まことにこの日こそは、地と海とがこの吉報に歓喜する日である。この日の啓示に備えて、神は人間の限られた理解力や有限なる心の視界をはるかに越える恵沢をもって多くのものを蓄え置かれてきたのである。神は間もなく汝の上に神の箱船を浮かべ、名称の書に記されたバハの人々を現わすであろう」。

  全人類の主は神聖なり。主の名が述べられるや否や、地上のすべての原子は震動し、荘厳なる舌は主の知識につつまれ、主の威力の宝庫に隠されていたものを明かしたのである。まことに、彼こそは御力に満ち給う全能者におわし、最も高遠なる御方にましまし、その御名の威力により天と地にあるすべてのものを支配し給う。  

 

<12>

 約束された時刻は今や満ちた。されば、おお人々よ、身を奮い立たせ、神の正義の日々の到来にそなえよ。その重大な意義を取り違えて、あやまてる人々の内に数えられることのないよう注意せよ。

 

<13>  

 過ぎし日のことをよく考えてみよ。身分の上下を問わず何と多くの人々が、神に選ばれた聖者たちの中から神の顕示者が現われることを常に待ちこがれていたことか。人々は何としきりに彼の到来を待ち望んでいたことか。また、人々は何と頻繁に祈りを捧げ、神の慈悲の微風が吹き渡り、約束された美が隠れ家の被いを払い、全世界にその姿を現わすよう懇願してきたことか。にもかかわらず、恩寵の門戸が開かれ、神の恵みの雲が人類に大いなる賜物を施し、目に見えぬ御方の御光が天上の威力の地平線上に輝きだすと、きまって人々は彼を拒絶し、神御自身の御顔でもある彼の顔から目をそむけたのである

 何がこのような行為の原因となったのかをよく考えてみよ。栄光に満ち給う神の美を啓示する者に対し人々はなぜこのような態度をとったのであろうか。過去の時代に拒否と反抗の原因となったその同じことがすべて現在でも人々を邪悪な道に導いているのである。神の証言が不完全であったために人々は拒否したのだと主張することは、公然と神を冒瀆するに等しいのである。人類を教えみちびくために、神は人類の中からひとりの人間を選び給う。こうして選ばれた者に神がそのすばらしき証言の全容を示さず、そうであるのに選ばれた者にそむいた人々を神が厳しく罰するというようなことは、慈悲に満ち給う神の恩寵からしても、神のいつくしみ深い御心や慈愛からしても、およそあり得ないことである。否、創造主の豊かな恩恵は、神の本質の顕示者たちを通じ、この地球とそこに住むすべてのものをいつも覆いつつんでいるのである。神の恩寵は一瞬たりとも止まることはなく、神の慈愛の雨は絶えず人類の上に降り注いでいるのである。したがって、このような態度は、傲慢不遜(ごうまんふそん)の谷にさまよい、遠隔の荒野で道に迷い、とりとめもない妄想の道をたどり、信仰の指導者たちの命令にただ盲従する人々の心のせまさに起因するものである。彼らの関心はもっぱら反対することにある。彼らの唯一の欲求は真理を無視することにある。真理の太陽の顕示者が現われた各時代の人々が、自分たちが見たり、聞いたり、感じたりしたすべてのものから自らの目や耳や心を清めていたならば、彼らは神の美を見る機会を失うことも、栄光の住処より遠くさまよいでることも決してなかったであろう。このことは、洞察力を有するいかなるものにとっても明白な事実である。しかし、人々は信仰の指導者たちの教えの中から拾い集めた知識を基準にして神の証言を推量し、その証言が自らの限られた理解と食い違っていることを発見すると、立ち上がってこのような見苦しい行為に走るのである

 モーゼについて考えてみよ。モーゼは天来の権威の杖で身を固め、神聖なる英知の純白の手で身を飾り、神の愛のパラン山から進みいで、威力と永遠なる主権の大蛇をあやつり、光のシナイ山より世界に輝きわたったのである。モーゼは地上のすべての民族を永遠の王国に召喚し、誠実さの木の実の分け前にあずかるよう招いた。ファラオとその民の激しい抵抗や、無信心な人々があの祝福された聖木に向けた愚かな妄想の投石についても汝は熟知していることであろう。地上のいかなる水をもってしても神の英知の炎を消すことはできず、有限の世のいかなる突風をもってしても永遠なる主権の灯火を消せないという真実に気づかなかったファラオとその民はついに立ち上がり、あの聖木に燃える炎を虚偽と反抗の水で消そうと全力をかたむけたのである。しかし、このような放水は炎の燃焼をむしろ盛んにし、このような逆風は灯火が光を放射しつづけることを保証するのみである。分別の目をもって見、神の聖なる御心と御意思の道を歩むものならば、汝はこのことを容易に理解できよう

 そしてモーゼの時代が終わり、精霊の曙から輝きでたイエスの光がこの世を覆いつつんだとき、イスラエルの民はみな彼に反抗して立ち上がった。人々はこう騒ぎ立てた。その出現が聖書に予言されているものは、モーゼの戒律を普及させ成就しなければならないのに、救世主と名乗るこの若年のナザレ人は、モーゼの戒律の中でも最も重要なものである離婚や安息日の戒律を廃止したではないか。また、人々はこう攻め寄った。その出現が待たれる顕示者のたずさえるはずの証拠はどうしたのか。これらイスラエルの民は、聖書の予言した顕示者の到来を今なお待っているのである。モーゼの時代以来、聖なるものの顕示者や永遠なる光明の啓示者はどれほど多く現われていることか。にもかかわらず、イスラエルの民は悪魔的幻想や誤った妄想に深くつつまれ、自分たちが作り上げた偶像が、自分たちの想像したような証拠をもって現われることを未だに期待しているのである。それゆえに、神は彼らをその罪のために捕らえ、彼らの信仰の精神を消滅させ、地獄の火で彼らを苦しめたのである。こうなったのは、イスラエルの民が、きたるべき啓示の証拠について聖書に示された言葉の意味を理解しようとしなかったがために他ならない。聖書の言葉の真の意味を理解せず、聖書に予告されたような出来事が文字通りには成就しなかったため、彼らはイエスの美を認めることができず、神の御顔を拝することもできなかったのである。それでもなお、彼らは救世主の到来を待ちこがれているのである。太古より現代に至るまで、地上のすべての民はこのような空虚で誤った考えにしがみついてきたのである。そしてこのことにより、人々は清らかさと神聖さの泉より湧きでる清水を飲むことができずにいたのである。   

 イエスの愛の火がユダヤの民の限界の暗幕を焼き払い、イエスの権威が明白となり、その一部が確立されたとき、目に見えぬ美の啓示者なるイエスは、ある日その使徒たちに向かって彼らの心に死別の悲しみの炎を煽りつつ、御自身の昇天に言及してこう語られた。「われは行くが、またお前たちのところに帰ってくる」。他の個所でイエスはこうも語られた。「われは行くが、他のものがやってくるであろう。われがお前たちに語らなかったことを彼はすべて語り、われが言ったすべてのことを彼は成就させるであろう」と語られている。神の唯一性の顕示者たちについて、神から授かった眼識をもって熟考するならば、上述の二つの言葉は結局、双方とも意味するところはまったく同一であることを悟るであろう。

 コーランの宗教制は、イエスの聖典と大業をともに肯定しているのである。洞察力をもって観察するものであれば、誰でもこのことを認めるであろう。名称に関していえば、モハメッドは自ら「われはイエスなり」と宣言されている。モハメッドは、イエスの様々な証拠、予言、言葉が真実であることを認め、それらはすべて神に由来するものであることを証言された。こういう意味合いからすれば、イエスの人格や書物は、モハメッドの人格や聖典と少しも違わないのである。何となれば、両者とも神の大業を擁護し、神を讃美する言葉を唱え、神の法を啓示しているからである。イエスが自ら、「われは行くが、またお前たちのところに帰ってくる」と宣言された意味も、実にここにあるのである。太陽を例にとって考えてみよ。もし太陽が今、「われは昨日の太陽である」と言ったとしても、それは真実を語っていることになろう。また、時間の経過を考慮して昨日の太陽とは違うと主張しても、それもまた真実を語っていることになろう。同様に、一日一日がまったく同一のものでしかないと言えば、それはまさしく真実であろう。逆に、日毎に名称や呼び名が変わるために同一ではないと主張しても、それも真実である。まったく同じものであっても、人はそこに名称の違いや属性の違い、または様々な特異性を見出すのである。神聖なる顕示者たちに見られる特異性、相違性、そして同一性をこれと同じように捉えることができる。そうすれば汝は、特異性と同一性の神秘に関するすべての名称や属性の創造主の言葉を理解することができよう。そして、永遠の美はなぜ時代ごとに違った名称や称号を名乗ったかという汝の疑問に対する回答をも発見できよう

 目に見えぬ者、永遠なる者におわす神聖さの精髄が、モハメッドの昼の星を知識の地平線上に出現させたとき、ユダヤ教の聖職者たちはモハメッドにさからって多くの異論を唱えた。その中の一つは、モーゼの後に神はもはや新たな預言者を遣わすはずがないというものであった。しかし、聖典はモーゼの後に必ず現われる聖者に言及している。彼は、モーゼの宗教制の法が地球全体を覆うまでにモーゼの教えを広め、その民の福利を向上させると聖典に記されている。別離と過ちの谷間をさまよう人々の唱えた異論について、永遠なる栄光の王はコーランでつぎのように述べておられる。「『神の御手は鎖でしばられている』などとユダヤ人は言う。しかし、しばられているのは彼らの手であり、彼らは彼らの発言のためにのろわれている。否、神の両手は大きく広げられている」。「神の御手は、彼らの手の上にある」。コーランの注釈者たちは、この聖句の啓示にまつわる状況をいろいろと述べているが、汝は聖句の言わんとするところをしっかりと理解するよう努力しなければならない。つまり、ユダヤ人たちの考えたことがいかに間違っているかを彼は説いておられるのである。まったくの王であり、モーゼの御顔を出現させ、彼に預言者としての衣を授けた御方の御手、このような御手がどうして鎖にしばられたり、手かせをはめられたりしようか。モーゼの後に新たな使者を出現させる力は神の御手にはないなどと、どうして想像できようか。彼らの主張の愚かさを見よ。彼らの主張は、知識と理性の道から何と遠くそれていることか。そして現代の人々を見よ。彼らもまた同じような愚かで不合理な考えにふけっているではないか。彼らは千年以上もの間、この聖句を吟誦し、無意識のうちにユダヤ人たちを非難しつづけたのである。しかし、彼らは自分たちが公然と、または秘かに口にしていることが、かのユダヤ人たちの意見や信条と同一のものであることにまったく気づいていないのである。この人々の根拠のない言い分を汝は聞き知っているに違いない。神の啓示はすべて終了し、神の慈悲の門は閉ざされ、永遠に神聖なる地平線からは二度と再び太陽は昇らず、久遠の恩恵の大海は永久に(しず)まりかえり、古来の栄光の神殿からはもはや神の使者の出現はないと彼らは主張するのである。これらの狭量で卑劣な人々の理解はこの程度なのである。彼らは、万物を覆いつつむ神の恩寵や豊かな慈悲の流れが止められていると想像しているのである。しかし、その流れの停止はまさに想像を絶する事態を意味するのである。彼らは四方より立ち上がり、暴虐を行う準備を整えている。神の灯火が威力のほやの強大な砦の中に守られていることに気づかず、彼らは自らの空虚な幻想の苦々しい水で神の燃えさかる薮の火を消そうと懸命に努力しているのである

 神の使者なるモハメッドの主権は、まさしく今日、人々の間にはっきりと確立されている。しかし、イスラムの初期においてモハメッドの信教に何が降りかかったかを汝はよく知っている。精神の真髄であり、最も清らかな聖者なるモハメッドは、邪悪な不信仰者たちや、当時の聖職者とその仲間たちの手によって何と痛ましい苦悩を味わったことか。モハメッドの行く手に彼らは何と多くのとげや茨をまき散らしたことであろうか。よこしまで悪魔的な妄想に酔いしれたあの浅ましき世代の人々は、不滅の聖者なるモハメッドに危害を加えることを永遠の幸福を得る手段と考えていたことは明白である。それというのも、アブドラ・オベイ、隠者のアブ・アメル、カーブ・エブンエ・アシュラフ、ナズル・エブンエ・ハレスなど、当時、世に知られていた聖職者たちはみなモハメッドを虚偽者としてあしらい、狂人とか、中傷者と断言していたからである。モハメッドに対する彼らの非難はあまりにも猛烈であったため、われがそれについて語ろうとするとき、神はインクの流れをさえぎり、ペンの動きを止め、紙片がそれを記録することを禁じ給うほどである。これらの悪意に満ちた非難に煽動され、人々は立ち上がり、モハメッドを苦しめた。もしその主な扇動者が時の聖職者であり、その信徒たちに対しモハメッドを非難し、自分たちの間から追放し、異端者と言いふらしたならば、その苦悩はいかに激しいものになるか想像がつくであろう。同様のことがこのしもべ[3]の上にも降りかかったではないか。これは万人が目撃したことである。

 このためにモハメッドは、「神の預言者たちの中で、われがこうむったほどの危害を受けたものはない」と叫ばれた。また、コーランには、モハメッドに向かって吐かれたすべての中傷や非難、ならびに彼のすべての受難が記されている。それらの節を参照し、モハメッドの啓示に降りかかったことを知るがよい。その苦境はあまりにも苛酷なものとなり、しばらくの間、モハメッドやその一行と交わりを持つものは誰ひとりとしていなかった。そして、モハメッドに近づこうとするものは彼の敵の容赦ない残虐行為の犠牲となったのである

 今日に至って、この状況がいかに劇的に変わったかを考えてみよ。モハメッドの名の前にひれ伏す君主の数の多さを見よ。モハメッドの庇護を求め、その教えに忠誠を捧げ、このことを誇りとする国家や領土の数の多さを見よ。今日、最も謙虚な態度につつまれた説教台からは、モハメッドの祝福された名を褒め称える讃美の言葉が立ちのぼり、寺院にそびえる尖塔からはモハメッドを崇拝するようにと信徒たちを招く声が鳴り響いている。モハメッドの教えを拒み、不信仰の衣を脱ごうとしない国王たちでさえ、あの慈悲に満ちた昼の星の偉大さと圧倒的威厳を認め、公言しているのである。この地上でのモハメッドの主権は偉大であり、汝はその証拠を至るところに見ることができる。神の顕示者の主権は、この地上での生涯において、または天上の領土の真の住居に昇天した後に必ず現われ、確立されるものである

 それぞれの宗教制がもたらす変革は、人間の理解の目と、神の真髄の曙から輝きでる発光体との間に割って入る黒雲となることは明白である。このことについて注意して考えてみよ。幾世紀もの間、世の人々は自らの祖先を盲目的に模倣してきたのである。また、人々は、自らの宗教が命ずるままに、決められた規範や方式に慣らされてきたのである。そこにある人物が現われたとしよう。この人物は人々と生活を共にし、人間の持つあらゆる制約についても人々とまったく同一であるとしよう。そして突然、この人物が、人々の信奉する宗教が彼らに課してきた既存のすべての原理を破棄しようと立ち上がったとしたらどうなるであろうか。それらの既存の原理とは、幾世紀にもわたって人々を規制してきたものであり、それに反対するものや拒否するものは異端者、放蕩者、あるいは邪悪者と見なされてきたのである。この状況下では人々はヴェールに覆われ、立ち上がった人物の真理を認めるのを妨げられるに違いない。これらは、内なる存在をもって世俗超脱のサルサビル[4]の清水を味わったこともなく、神の知識のコウサル[5]の水を口にしたこともない人々の目を覆う「雲」なのである。この状況に置かれるとこの人々はすっかりヴェールに覆われてしまい、少しの疑いも持たずに神の顕示者を異端者と決めつけて死刑の宣告を下すのである。このようなことが各時代に繰り返されてきたことを汝は聞き知っているはずである。また、同様のことが現在も起こっていることを汝は目撃している。

 したがって、われわれは神の目に見えぬ援助を請い、これらの黒いヴェールや天来の試練の雲が、顕示者の輝かしい顔の美を見ることの妨げとならないよう、また、われわれが顕示者を顕示者自身を通じて認めることができるよう最大の努力を払わなければならない。

 

<14>     

 おお、最も崇高なるペンよ。神聖なる春の季節は到来し、慈悲に満ち給う御方の祝祭は目の前まできている。汝、眠りから覚めよ。そして全創造物が蘇生の波に洗われ、新しく生まれ変わるほどの威力をもって森羅万象に向かって神の御名を称え、神に讃美を捧げよ。沈黙を破り、声を上げよ。神の御名の王国が天上の創造者なる汝の主の名の装飾によって飾られた今、幸福の昼の星は「至福なる者」というわが名の地平線上に輝きでたのである。この最大名の威力をもって身を固め、地上の国々に向かって立ち上がり、ためらうものであってはならない。

 われは、汝が静止し、わが書簡の紙面を進むのを止めた姿を見る。もしや汝は神聖なる御顔のまぶしい光に呆然としているのであろうか。それとも傲慢なる人々のむなしい言葉が汝を悲しみに満たし、汝の動きを麻痺させてしまったのであろうか。注意せよ。いかなることがあってもこの日の偉大さを称えることをやめてはならない。この日こそは主権と威力の指が再会の美酒の栓を抜き、天と地に住むすべてのものに呼びかけた日なのである。神の日の吉報を伝える微風が汝の上に漂っている今、汝はそれでもとどまることを選ぶのか。それとも汝はヴェールによって締めだされた人々に属するのか。

 すべての名の主におわし、天上の創造者にまします君よ。いかなるヴェールが立ちはだかろうとも、私は決してあなたの日の栄光より締めだされることはありません。この日こそは全世界の導きのランプであり、そこに住むすべてのものに対する日の老いたる者のしるしであります。私の沈黙の原因は、ヴェールに覆われているあなたの創造物があなたを見ることができないからであり、私が言葉を失っていたのは、人々が諸々の障害のためにあなたの真理を認めることができなかったからであります。あなたは私の内に存在するものを御存知ですが、私はあなたの内にあるものを知りません。あなたはすべてを知り、すべてに賢き御方にまします。すべての名に優るあなたの御名にかけて証言します。すべてを統治し、すべてを制するあなたの御命令が私に届けば、私は万人の魂を再生させる力を得ましょう。そして、あなたの威力の舌が語り、私があなたの栄光の御国において耳にしたあなたの最も崇高なる言葉を通じて私はこの偉業を成し遂げることができましょう。御命令をいただけるならば、私はあなたの光みなぎる御顔の出現を宣言することもできましょう。まことに、あなたの御顔の出現により、人々の目から隠されていたものがあなたの御名を通じて現わされたのであります。あなたは賢明なる御方におわし、主権を有する保護者におわし、御自力にて存在し給う御方にまします。                    

 おお、ペンよ。このすばらしき日、汝はわれ以外に何者を発見できようか。創造の世とその象徴は今いずこに。諸々の名と、名の王国は今いずこに。目に見えるものや見えぬもののすべての創造物はどこに消えたのか。宇宙の隠された秘密やその神秘の出現はどうなったのであろうか。見よ、万物は消え去ったのである。栄光に満ち、光にあふれ、永遠に変わることのないわが顔以外には今や何も残っていない。

 このすばらしき日、主の御顔より放射される光の輝き以外には何も見えない。汝の主こそは恩寵に満ち、すべての恩恵にあふれ給う。まことに、われはすべてを征服し、抵抗し難いわが主権によりすべての魂の生命を消した。つぎに、人類へのわが恩寵のしるしとしてわれはまったく新しい生命を呼び起こした。まことに、われは恩恵にあふれる日の老いたる者なり。

 このすばらしき日、目に見えぬ世界は声たからかに宣言する。「おお、地球よ。神の踏台となり、神の強大なる玉座が据えられる場所に選ばれた汝の祝福は何と大いなるものか」。そして、栄光の領土からはつぎのように聞こえてくる。「わが命を汝に捧ぐ。慈悲に満ち給う神の最愛なる者は、過去に存在したあらゆるものに対しても、また未来に存在するすべてのものに対しても約束されている彼の御名の威力を通じてその主権を汝の上に確立したのである」。このすばらしき日、甘美なる芳香を放つもののすべては汝の衣よりその芳香を得、まさにその衣の芳香はあらゆる創造物の上に漂ったのである。このすばらしき日、永遠の生命の清水は慈悲に満ち給う御方の御心より洪水の如く流れでたのである。おお、天上の領土の集合よ。急ぎきて心と魂が満たされるまでこの清水より飲むがよい。

 言挙げよ。彼こそは、目に見えぬものの中の最も目に見えぬ知られざる本質の顕示者である。汝、このことを知り得たならば。彼こそは、隠されたる宝石を汝に現わし示した者である。汝、それを求めるものならば。彼こそは、過去においても未来においても万物の最愛なる者である。汝、彼に心を向けて望みを託すものならば。

 おお、ペンよ。われは汝の嘆願の声を聞き、汝の沈黙を許す。だがしかし、一体何が汝をこれほどまでに当惑させたのか。

 おお、すべての世の最愛なる御方よ。あなたの御前に進むとき、私はあなたの存在に陶酔し、あなたの存在に魅せられ圧倒されるのです。

 立ち上がり、この吉報を全宇宙に向けて宣言せよ。慈悲に満ち給う御方はその歩みをレズワンの園に向け、いまや花園に入場したのである。神の楽園の玉座が置かれたこの喜びの園に人々を誘導せよ。われは汝を選び、汝をわが最も強大なラッパとした。そしてそのラッパの音を、全人類の復活のしるしと定めた。

 言挙げよ。この楽園の木々にはつぎのような言葉が発言の美酒によって書き記されている。「人類の目より隠されていた者は、いまや主権と威力に覆われて出現した」。この楽園の木の葉のささやきはつぎのように宣言している。「天上と地上の住人たちよ。未だかつて現われたことのない者が出現したのである。いにしえよりその御顔を全創造物から隠しつづけてきた者が現われたのである」。この楽園の梢を揺らす微風からはつぎのような声が聞こえてくる。「御主権によりすべてに君臨し給う主が出現したのである。御国は神のものなり」。そして、この楽園の泉に流れる水からはつぎのように聞こえてくる。「すべてのものの目は祝福されたのである。誰も見たことのなかった者、誰もその秘密を発見したことのなかった者が栄光のヴェールを取り除き、うるわしき美の御顔を現わしたのである」。

 楽園の最も高き住処より発せられた天上の侍女たちの叫びがこの楽園に鳴り響いている。「歓喜せよ、おお天上の領土の住人たちよ。栄光に満ち給う御方の名において、日の老いたる者の指は宇宙の中心にあって最大なる鐘を鳴らしている。恩恵の御手は永遠なる生命の聖杯を回している。接近し、心行くまで飲むがよい。切望の権化たちよ。切なる思いに溺れる人々よ。この聖杯を一気に飲み干すがよい」。 

 このすばらしき日、神の御名の啓示者は栄光の幕屋より出現し、天と地に住むすべてのものにつぎのように宣言した。「楽園の聖杯をしまい、その聖杯がもたらした生命の清水をも放棄せよ。何となれば、見よ、バハの人々は神聖なる御前にある幸福の住処に入り、すべてを所有し給う最も高貴なる彼らの主のうるわしき美の聖杯より再会の美酒を飲み干しているからである」。

 おお、ペンよ。 存在の世を忘れ、すべての名の主におわす汝の主に顔を向けよ。永遠の王におわす汝の主の恩恵をもってこの世を飾れ。あらゆる国々の希望の的におわす者が、目に見える領土と見えぬ領土をその最も崇高なる御名の光で照らし、恩寵に満ちた彼の恵みより発せられたる光輝がこれらの領土を覆いつつんだすばらしき日の芳香をわれは感知した。まことに、全宇宙の全能なる保護者におわす彼以外には誰もこの恩恵を計り知ることはできない。

 優しさと慈悲以外の眼差しをもって神の創造物を見てはならない。何となれば、愛に満ちたわが摂理は森羅万象に浸透し、わが恩寵は天と地のすべてを覆うからである。このすばらしき日、神の真のしもべらは生命を付与する再会の清水を飲み、彼に接近した人々は永遠の生命の川の穏やかな流れをくむことができるのである。このすばらしき日、彼の一体性を確信するものは、すべてのものの最高にして最終の目的におわす御方を知ることによって彼の御前の美酒を味わうことができるのである。そして、主権と栄光の舌は彼を通じてつぎのように宣言している。「御国はわれに属す。そして、わが権利ゆえにわれは御国の支配者なり」。                 

 唯一愛されし御方の呼びかけを通じて人々の心を引き寄せよ。言挙げよ。まことにこれは神の声である。汝ら、この声に耳をかたむけるものならば。これは神の啓示の黎明の場である。汝ら、このことを知り得たならば。これは神の大業の黎明の場である。汝ら、このことを認めることができたならば。これは神の命令の源である。汝ら、このことについて公平に判断できたならば。これは明白にして隠されたる秘密である。汝ら、このことを見抜くことができたならば。おお、世界の人々よ。すべての名を超越するわが名のもとに、汝らの所有するすべてを捨てよ。そして、慈悲者なるわが名のもとに波うつ大海、その奥底に英知と言葉の真珠が潜む大海に身を沈めよ。母なる書なる者は、汝らにこう指示するのである。

 最愛なる者は到来し、その右手には彼の名の封印された美酒を握りしめている。彼のもとに向かい、その美酒を心行くまで飲み、声たからかにつぎのように宣言するものは幸いなり。「あなたに讃美あれ、おお神の御しるしの啓示者よ」。全能者の正義にかけて言う。隠されていたあらゆる事柄は真理の力によって現わされたのである。神のあらゆる恩恵は神の恩寵のしるしとしてこの世に下されたのである。永遠の生命の清水は人類に豊富に提供されたのである。最愛なる者は、一つ一つの杯に自らの手によって酌をして回られたのである。ためらうことなく接近せよ。否、一瞬たりともためらってはならない。

 世俗超脱の翼に乗り、全創造物を越えた地位として神が定め給う地位に舞い上がるものは幸いなり。学識者の妄想も、地上の群衆の空しい想像も彼らを神の大業から引き離すことはできない。おお、人々よ。汝らの中にこの世に見切りをつけ、すべての名の主におわす神に接近するものはいないのか。森羅万象を超越するわが名の威力により人間の所有するあらゆるものを放棄し、目に見えるものと見えぬものすべてを知り給う神の命令に全身全霊の力をもってすがるものはどこにいるのか。彼の恩恵は人々にこのようにして与えられ、彼の証言はこのようにして成就し、彼の証拠はこのようにして慈悲の地平線より輝きでたのである。信仰を得てつぎのように宣言するものの報酬は何と豊かなものであろうか。「おお、諸々の世の最愛なる御方に讃美あれ。理解力あるすべての心の希望の的なる御方の御名に御栄えあれ」。  

 おお、バハの人々よ。最高の喜びに満たされ恍惚の境地にあったかのすばらしき日を想起せよ。彼が自らの邸宅を離れてかの聖所に向かったその日を、日の老いたる者の舌が言葉を発したその日を、聖所に立ちて慈悲者たる彼の名の光輝を全創造物の上に注いだその日を。神こそわが証人なり。かのすばらしき日の隠されたる秘密が明かされれば、全能者にしてすべてを知り、すべてに賢明なる神によって守られたもの以外の天と地に住むすべてのものは気を失い死滅するであろう。

 神の御言葉のもたらす酔いは余りにも深く、神の確実な証拠を啓示する者のペンはその動きを止めてしまうほどである。彼はつぎの言葉をもってこの書簡に終止符を打つ。「われ以外に神はなく、われこそは最も崇高にして、最も力強く、最も優れたものにして、すべてを知る」。                

 

<15>

 啓示のペンはこう告げている。「この日、御国は神のものなり」。威力の舌はこう呼びかけている。「この日、すべての権力はまことに神とともにある」。天上の領土の不死鳥は不滅の枝よりこう叫んでいる。「すべての偉大さの栄光は神に属し、神は比類なき御方におわし、すべてを動かし給う」。神秘の鳩は永遠の楽園にある喜びの木陰よりこう宣言している。「この日、すべての恩恵の源泉は神に由来し、神は唯一におわし、許し給う御方におわす」。王座の鳥たちは聖域よりその旋律をこうさえずっている。「この日、至上の支配は神以外の何ものにもなく、神は不二にして比類なき御方、最高の威力に満ち、すべてを制し給う」。すべてのものの最も奥深い真髄は万物を通じてこう証言している。「この日、すべての許しは神より流れでる。神は比類なき御方、協同者を持たない御方、全人類にその主権が及ぶ保護者、人間の罪を覆い隠す御方におわす」。栄光の真髄はわが頭上より声を発し、いかなる筆も舌も叙述できない高みより声たからかに叫んでいる。「神こそわが証人なり。永遠の日の老いたる者は支配と権力をもって出現したのである。彼以外には神はなく、彼こそは栄光に満ち、全能におわし、最も高遠におわし、すべてに賢明におわし、すべてに浸透し、すべてを見、すべてを知り、主権を有する保護者におわし、永遠の光明の源泉におわす」。

 おお、わがしもべよ。洞察力を有するごく少数のものを除くすべての人間が彼を離れて行ったこの日、汝は神の喜び給うものを求め、彼の愛にすがった。人々の目が閉ざされたこの日、汝は彼を切に求めつづけた。御恩寵により、朽ちることのない永遠の報酬をもって神が汝を厚く報いることを願う。このことを確信せよ。神の命令により、そして悪意と嫉妬に燃える人々の手によりわが頭上に降り注がれた苦悩の雨のほんの数滴について汝に明かすならば、汝はわが苦境に、日夜悲嘆の涙にくれるであろう。神の主権と、その主権に内在する偉大な力を宣言するこの啓示の不思議を認識できる洞察力と公正な心を持つものはどこにもいないのであろうか。そのような洞察力を有するものが立ち上がり、人々に公然ともしくは秘かに忠告し、その忠告を神のためのみに発し、その忠告によって万人が奮起し、悪を働く人々のむごい仕打ちに苦しむこの虐げられし者[6]の援助に向かうことをわれは願う。  

 精霊の声が背後より聞こえるようである。曰く、「汝の顔を眺めるものの心が悲しみに沈むことのないよう、汝の話題と口調を変えよ」。言挙げよ。神の恩寵と威力に支えられ、われはこれまでに一度たりとも人に援助を求めたことはない。今後も援助を求めることはない。イラクでの追放の日々、神は真理の威力によりわれを助け給うた。地上の民がわれに刃向かったとき、神はその庇護の下陰にわれをかくまい給うた。そして都を離れるとき、神は権威の衣をわれにまとわせ、悪意と否定の人々以外の誰もがわが威厳を認めたのである。  

 言挙げよ。神への信頼こそがわが軍勢であり、神への確信の威力こそがわが民である。わが愛こそがわが旗印であり、神の記憶こそがわが伴侶である。神こそは主権の主であり、最高の力に満ち、栄光にあふれ、なんら制約されない御方におわす。

 神の愛の道を進む旅人よ。神の大業に加勢するために立ち上がれ。言挙げよ。おお、人々よ。この若者[7]を地上の虚栄や天上の楽しみと交換してはならない。唯一真実なる神の正義にかけて言う。彼の頭髪の一本は、天と地にあるすべてのものに優るものである。おお、人々よ。汝らの所有する金銀のために彼を捨てようと誘惑されぬよう注意せよ。彼以外に汝らを利するもののまったく存在しない日において、すべての支柱が震える日において、身の毛がよだちすべての目が恐怖におののき上空を見上げるとき、彼の愛を汝らの魂の宝の宝庫とせよ。言挙げよ。おお、人々よ。神を畏れ、彼の啓示にそむいたり軽蔑したりしてはならない。神の御前にひれ伏し、昼夜となく彼の讃美を唱えよ。  

 世界の中心に燃えるこの不滅の炎をもって自らの魂に点火せよ。そして、宇宙のすべての水をもってしても決して冷ますことのできないほどの熱意をもって魂の炎を燃え立たせよ。汝らの発する言葉がわがしもべらの中の不注意な人々に対する忠告となり、正しく生きる人々の心に喜びを与えるものとなるよう汝らの主について伝えよ。 

 

<16>

 言挙げよ。おお、人々よ。これは比類なき日である。全人類が切望する者を称える舌も、同様に比類なきものでなければならない。彼の目に受け入れられることを望む行為もまた、比類なきものでなければならない。全人類はその地位にふさわしいものを得、その運命に値することを完遂することを期待し、この日の到来を切望してきた。世俗の事物にさまたげられることなく、万物の主を認めるものは幸いなり。

 都市の破壊も、山々の崩壊も、大地の分裂さえも人々をその眠りからさますことはできない。人間の心の盲目は、これほどまでに達したのである。今や、諸々の聖典に暗示されていたことは実現し、そこに記録されていた諸々のしるしは現われ、予言の叫びは常に響きわたっている。しかし、神の御心によってみちびかれた人々以外はすべて、無思慮の酔いの中で途方にくれている。

 日々新たな災難に苦しむこの世の有様を見よ。その苦悩は絶えず深まりつつある。ライースヘの書簡[8]が著わされて以来、今日にいたるまで、世の中が鎮まることも、人々の心が休まることもなかった。あるときは論争と論議に乱され、あるときは戦争で激しく揺れ動かされ、根深い疾病の犠牲となったのである。そしてその病は絶望の段階に近づきつつある。なぜなら、真の医師は治療を施すことをさまたげられ、代わりに、無能なる療法士ばかりが好まれ、彼らには思いのままに行動する自由が与えられているからである。騒乱の土ぼこりは人々の心をくもらせ、彼らの目を見えなくしている。彼らはやがて、神の日において彼らの手がなしたことの結果に気づくであろう。すべてに精通する者は、全能者にして、御力に満ち給う御方の命にしたがって、汝らにこのように警告するのである。  

 

<17> 

 偉大なる宣言におわす者の名において。慈悲者は確かな主権をもって今や現われたのである。秤は定められ、地上に住むすべてのものは一か所に集められたのである。ラッパは鳴り、そして見よ、すべての目は恐怖におののき、頭上に向けられている。神の聖句の息吹により活力を得てあらゆる事物を超越したもの以外、天と地に住むすべてのものの心は恐怖に震えている。   

 今日こそは地球がその悲報を伝える日である。悪を働くものは地球の重荷である。このことを認めることができたならば。空虚な妄想の月は砕かれ、天界には濃い煙が立ちのぼっている。全能者にして威力に富む汝らの主の恐怖に圧倒され地に伏す人々をわれは見る。呼び人は声たからかに叫び、主の怒りは人々を引き裂くほどである。左側の人々は溜め息をつき、悲しみ嘆いている。一方、右側の人々は高貴な館を住まいとし、慈悲に満ち給う者の御手より命の美酒を飲み、まことの喜びの中にある。

 地は揺れ、山は崩れ、天使たちは幾重にも列をなしてわが眼前に整列している。ほとんどの人間は酔い痴れて呆然とし、怒りの表情をしている。われはこのようにして悪を働く人々を一堂に集めたのである。自分の築いた偶像に走り寄る人々の姿をわれはそこに見る。言挙げよ。この日、いかなるものも神の命令を逃れることはできない。まことに、これは耐え難い苦しみの日である。人々を過誤の道に誘いだしたものをわれは指さすが、人々はその姿を見てもなおその正体を認めることができないでいる。泥酔した彼らの目はまさに閉ざされているのである。彼らの口より流れる中傷の言葉が彼らの提供する証明である。危急の場の救助者におわし、御自力にて存在し給う神は彼らの中傷をとがめ給う。邪悪者は、彼らの心の内に悪を芽生えさせたのである。そして、彼らは、誰にも防ぐことのできない苦悩に侵されているのである。悪を働く人々の名簿を手に、彼らはよこしまな人々のもとに急ぐのである。彼らの行いはこのようなものなのである。

 言挙げよ。天空はたたみあげられ、地球は彼の手中にあり、悪を働く人々は前髪を掴まれている。にもかかわらず、彼らは気づかないでいる。彼らは毒された水を飲み、そのことに気づかないのである。言挙げよ。呼び声が鳴り響き、人々は墓の中から立ち上がり、周囲を見回している。あるものは慈悲者なる神の宮廷に到達しようと急ぎ、他のものは地獄の炎の中にうつぶせに倒れている。また、あるものは唖然として右往左往している。神の聖句はもはや明らかにされているが、彼らはそれに背を向けている。神の証拠は提示されているが、彼らはそれを知らない。そして、慈悲者の顔に対面するとき、彼らの顔は悲しみに覆われ、なおも遊びに興じている。彼らは地獄の炎を光明と取り違えてそれに向かって急ぐ。彼らが心に描く愚かな空想は、神とはまったく関係のないものである。言挙げよ。汝らが歓喜しようとも、激怒しようとも、天空はすでに引き裂かれ、神は輝ける主権につつまれて天上より降り給うたのである。そして、森羅万象は声たからかにこう宣言しているのである。「王国は神に属し、神こそは全能にして、すべてを知り、すべてに聡明なり」。 

 このことを確信せよ。不信心なる人々の手がなしたことにより、われは苦悩に満ちた牢に投獄され、圧政の軍勢に包囲されているのである。しかし、地上のいかなる喜びも、この若者[9]の味わった喜びに匹敵するものではない。神かけて言う。圧政者の加える危害は、この若者の心をくもらすことは決してない。また、彼の真実を拒絶する人々の優勢も、この若者を決して悲しませることはない。

 言挙げよ。苦しみはわが啓示の地平線であり、恩寵の昼の星はこの地平線上に輝いているのである。人々の虚しい空想の雲をもってしても、また、侵略者の空虚な妄想をもってしても恩寵の昼の星の輝きを遮断することはできない。

 主の足跡をたどれ。主が汝らを記憶すると同様に、汝らもまた主のしもべらを心に留めよ。このことにおいて、不注意なる人々の騒動や敵の剣に妨げられてはならない。主の甘美なる芳香を広く伝えよ。主の大業への奉仕の道において一瞬たりともためらってはならない。常に許し給い、恩恵に満ち給う汝らの主の勝利が宣言される日は間近に迫っているのである。 

 

<18> 

 言挙げよ。汝らの心の土壌に英知と理解の野草が芽吹くよう、われはわが玉座より神聖なる言葉の大河を放出させたのである。このことを汝らは感謝すべきではないか。主の礼拝を軽んずるものは、切り捨てられた人々の内に数えられよう。わが聖句を幾度となく彼らに読み聞かせたにもかかわらず、彼らは傲慢と軽蔑の態度を改めず、その事実に気づくことなく彼の法を著しく犯しつづけたのである。また、彼を信じないものは黒煙に覆われるであろう。約束の時刻が彼らを捕らえているにもかかわらず、彼らはたわむれつづけている。そして、彼らは前髪を掴まれていることにまったく気づいていない。      

 来るべきことが突然訪れたのである。見よ、それを逃れて走る彼らの姿を。不可避の出来事が起こったのである。見よ、それを背後に捨て去る彼らの姿を。この日こそは、誰もが自分から逃れようとする日である。ましてや、親族からも逃れようとする。汝ら、このことを洞察することができたならば。言挙げよ。神かけて言う。ラッパの音は鳴り響き、そして見よ、人類はわが目前に卒倒した。先駆者は叫び、招集者はつぎのように声たからかに宣言したのである。「王国は神に属し、神こそは威力に満ち、危急の場の援助者におわし、御自力にて存在し給う御方にまします」。

 この日こそは、すべての目が恐怖に満ちて天上に向けられる日である。この日こそは、すべてを知り、すべてに賢き汝らの主が救済すると欲したもの以外の地上のすべての人々の心が恐怖におののく日である。慈悲なる神より輝ける心を付与されたもの以外の顔はすべて暗黒と化したのである。栄光に満ち、すべてに讃美される神の御顔を拝することを公然と拒否する人々の目は泥酔している。  

 言挙げよ。汝らはコーランを読んだことはないのか。真理を発見できるよう、まっすぐな道であるこの書を読んでみよ。これこそは、天上と地上に住むすべてのものに提供された神の道である。コーランに無関心でも、バヤンの書は汝らにとって身近な存在のはずである。その書を開き、眼前に据えて見よ。神の使者たちが嘆き悲しむようなことを犯すことのないようその聖句を読んでみよ。   

 汝らの(ひつぎ)より急ぎでよ。いつまで眠っているのか。二度目のラッパの音も鳴らされたのである。汝らは誰の顔を眺めていると思うのか。これこそは慈悲の神なる汝の主に他ならないのである。彼の証拠を否定する自分自身の姿を見よ。地球は激しく揺れ、その重荷を振るい落としたのである。汝らはこのことを否定するのであろうか。言挙げよ。山脈が糸くずのようにほぐされたのを汝らは認めないのであろうか。畏怖の念を呼び起こす神の大業の尊厳によって人々が深い苦悩に陥っている事実を汝らは否定するのであろうか。廃墟と化した彼らの家々を見よ。また、溺れる軍勢と化した彼ら自身を見よ。

 この日こそは、慈悲に満ちた者が明白なる主権をまとい、英知の雲に乗って地上に降り立った日である。彼は万人の行いをすべて知る。いかなるものも、彼の栄光を見誤ることはない。汝ら、このことを理解するならば。あらゆる宗教の天界は引き裂かれ、人間の理解力の地上は破壊されたのである。神の天使たちがくだりくる様子を見よ。言挙げよ。この日こそは、人々が互いを欺く日である。ならば、汝ら、どこに逃れるつもりなのか。山々は押しつぶされ、天空は折りたたまれ、地球は彼の御手に治められている。汝ら、このことを理解できたならば。汝らを守り得るものがどこにいようか。慈悲に満ちた者にかけて言う。誰も汝らを守ることはできない。全能者にして、栄光に満ち、良きものを授け給う神以外に汝らを守り得るものは存在しない。すべての女性は(はら)んでいたものを産み落としたのである。人間と天使が共に集うこの日、わが目に映るのは泥酔しきった人々の姿である。

  言挙げよ。神に関して疑いの余地があろうか。威力と主権をまとい、恩寵の天界からくだりくる彼を見よ。彼の証拠に疑いの余地があろうか。目を開き、彼の確かな証拠を検討せよ。楽園は汝らの右手に位置し、汝らのすぐそばまできている。そして地獄の炎は燃え盛っている。すべてを飲み込むその猛烈な炎を見よ。楽園に急ぎ入り、慈悲者の手より命の美酒を飲め。これこそは、汝らに対するわが慈悲の証である。                  

 おお、バハの人々よ。歓喜してこの美酒を味わえ。汝らはまことにすべての良きものを得よう。これこそは、神に接近した人々に与えられたものである。これこそは汝らに対する慈悲なる神よりの報いとしてコーランの書において、そして後にはバヤンの書において汝らに約束された流水である。この水を飲むものは幸いなり。

 われに顔を向けたわがしもべよ。この書簡は、栄光に満ち、すべてを知り給う汝の主の日々について汝が人々に語ることができるよう牢獄より汝に授けられたのである。このことを神に感謝せよ。このようにして、われはわが英知と言葉の水をもって汝の信仰の礎を築いた。まことにこれこそは、汝の主の玉座が据えられた水である。「彼の玉座は水の上に立つ」。この意味が理解できるよう、このことを汝の心の中で熟考せよ。言挙げよ。諸々の世の主なる神に讃美あれ。

 

<19>

 神は不可知の本質であり、聖なる存在者である。そして、神は肉体的存在、上昇や下降、前進や後退などのあらゆる人間的属性をはるかに超越した存在である。聡明にして啓発された心の持ち主にとってこのことは明白である。人間の舌が神の讃美を充分に述べ、人間の心が神の計り知れない神秘を理解することは、神の栄光からして到底不可能である。神は、古今を通じ、御自身の永遠なる本質の中に隠されておられ、神の実在は永久に人間の目から隠されたままにされるのである。「いかなる視力も神を捉えることはできないが、神はいかなる視力をも包含する。神は鋭敏におわし、すべてを感知し給う」。

 このようにして、日の老いたる者を知ることは不可能であり、その知識に通ずる門戸は生きとし生けるものに対し堅く閉ざされている。そして彼曰く、「神の恩寵は万物を超越し、わが恩寵は万物を余すところなくつつみ込む」。この言葉の通り、無限なる恩恵の源におわす神は、神聖さの輝く宝石たちを霊の世界より遣わし、彼らに人体という高貴な形を与え、人類の前に出現させたのである。彼らの出現の目的は、不変なる存在者の神秘を世に伝え、神の不滅の本質の不可思議について語ることである。

 彼らは清められた鏡であり、いにしえの栄光の曙である。そして彼らは、宇宙の中心天体であり、その真髄であり、その究極の目的である神の地上での解説者である。彼らの知識や力は神に由来し、彼らの主権は神に源を発する。まさに彼らの顔の美は神の御姿の反映であり、彼らの啓示は神の不滅の栄光の象徴である。彼らは神の知識の宝庫であり、天上の英知の貯蔵庫である。無限の恩寵は彼らを通じて提供され、衰えることのない光は彼らによって顕わされるのである

 彼らは聖なる神殿であり、不滅の栄光の光を反射する最初の鏡である。そして、まさに彼らは目に見えぬものの中の見えぬものである御方の表現にすぎないのである。これら聖なる徳性の宝石の出現によって、知識や威力、主権や支配、慈悲や英知、栄光、恩恵や恩寵という神のすべての御名や属性が顕示されるのである。

 神のこれらの属性は、ある預言者にのみ特別に与えられ、他のものには差し控えられるということは決してない。否、神のすべての預言者、神に愛され、神に選ばれたすべての使者は例外なく神の御名の保持者であり、神の諸々の属性の権化である。彼らの間に差異が存在するとすれば、それはただ彼らの啓示の威力の違いと、彼らが放射する光の威力の違いに限られる。まさしく、つぎのように述べられている通りである。「われは、使者たちの内のあるものを他のものより卓越させた」。

 したがって、神の無限の御名と崇高なる属性が預言者や神に選ばれた者らの内に反映されていることは明白である。たとえ外見上、ある属性の光が人々の目に映らないとしてもこのことには変わりはない。彼らは世俗超脱の精髄であり、神の属性の曙であり、神の聖なる御名の宝庫なのである。神のある属性を外面に現わしていないとしても、それはその属性を所有していないことを意味するものでは決してない。外見上、彼らは世俗の威厳をすべて剥奪されているように見えるかも知れない。しかし、彼らにはひとり残らず主権や支配という神のあらゆる属性が付与されているのである。彼らこそは輝ける魂であり、美しき顔である。

 

<20> 

 このことを確信せよ。不可視なる御方は決して御自身の本質を具現し、人間に現わすことはない。過去も現在も、神はあらゆる説明や知覚し得るものを超えて無限に高遠である。栄光の隠れ家より神の声は絶えずこう宣言しつづけている。「まことにわれは神なり。全知者、全賢者なるわれ以外に神はなし。われはわれ自身を人類に顕わし、わが啓示のしるしの曙なる者を遣わし、彼を通じて森羅万象につぎのように証言させた。比類なき御方におわし、すべてを知り、すべてに聡明なる神以外に神はなし」。神は永遠に人間の目より隠されたままであり、神の顕示者を通じて以外に神を知る方法はない。そして、顕示者がその使命の真実を証明するために提示できる最大の証拠は自らの存在である。

 

<21>

 おお、サルマンよ。いにしえの存在者の知識に通ずる扉は人間の面前で閉ざされており、未来永劫に閉ざされつづけるのである。いかなる人間の理解力をもってしても神の聖なる宮廷に接近することはできない。しかし、神はその慈悲のしるしとして、またその慈愛の証拠として、人類に聖なる教導の昼の星を遣わし、神の一体性の象徴を顕わすのである。そして、これらの聖別された存在を知ることは、神御自身を知ることと同じであると神は定めたのである。彼らを認めるものは、神を認めるものである。彼らの呼びかけに応えるものは、神の声に応えるものである。彼らの啓示の真実を証言するものは、神そのものの真実を証言するものである。彼らに顔をそむけるものは、神に顔をそむけるものである。彼らを信じないものは、神を信じないものである。彼らはみなこの世と天界を結ぶ神の道であり、天と地の諸々の王国に生きるすべてのものに対する神の真理の旗印である。彼らは人類に遣わされた神の顕示者であり、神の真理の証拠であり、神の栄光のしるしである。

 

<22>

 神の信託をもたらす者たちは、新しい大業の唱導者として、また、新しいメッセージの啓示者として世の人々の前に出現するということは汝にとって明白であろう。これら天上の王座の鳥たちはみな、神の御心の天上から遣わされたものであり、何人も抵抗し得ない神の教えを宣布するために立ち上がったものらである。したがって、彼らはみな同一の魂として、また、同一の人物とみなされるのである。なぜなら、彼らはみな神の愛の同じ聖盃から飲み、唯一性の木の果実を分け合っているからである。

 神の顕示者たちは、それぞれ二つの地位を有する。その一つは、純粋な抽象と本質的一体性の地位である。この点からして、もし汝が、彼らをみな同じ名で呼び、同じ属性を持つものであると主張しても、それは真実に反するものではない。彼曰く、「われは、神の使者たちの間に区別をつけない」。なぜなら、神の顕示者たちはみな神の一体性を認めるよう世の人々に呼びかけ、無限の恩寵と恩恵の大河の存在を人々に知らせるからである。彼らはみな預言者としての衣をまとい、栄光のマントを与えられている。それゆえ、コーランの原点なるモハメッドは、「われは預言者の全員なり」と著わしたのである。同様に、「われは最初のアダム、ノア、モーゼ、そしてイエスである」とも述べている。同様な言葉がアリによっても語られている。唯一性の唱道者たちの本質的一体性を語るこのような言葉は、神の不朽の御言葉の水路や、聖なる知識の宝石の宝庫からも放出され、多くの聖典に記録されている。これらの御顔は神の命令の受領者たちであり、神の啓示の曙である。この啓示は複数性の覆いや、数の次元などをはるかに超越するものである。彼曰く、「わが大業はただ一つである」。神の大業が唯一無二であるならば、その唱道者たちもまた、必然的に同一でなければならない。同様に、確信の灯であるイスラムのイマムたち曰く、「モハメッドはわれらの最初であり、モハメッドはわれらの最後であり、モハメッドはわれらのすべてである」。  

 預言者たちはみなそれぞれ異なった衣をまとって現われた神の大業の中心であるということは汝にとって明白であろう。洞察力をもって観察するならば、預言者たちはみな同じ神殿に住み、同じ天空を舞い、同じ玉座に座し、同じことを語り、同じ教えを宣布していることが理解できよう。存在の本質であり、無限で計り知れない光輝を放つ発光体たちである彼らの同一性とはこのようなものである。したがって、もし聖なるものの顕示者たちのひとりが、「われはすべての預言者の再来である」と宣言したとしても、まことにそれは真実を語った言葉である。同様に、次々と現われる啓示が、それ以前の啓示の再来であることは事実であり、確立された真理である

 もう一つの地位は特異性の地位であり、それは創造の世界とその有限性に属するものである。この第二の地位について、神の顕示者たちは、それぞれ独自の個性と明確に規定された使命、予定された啓示、そして特定の制限を与えられている。各顕示者は、それぞれ異なった名で知られ、特別な属性で特徴づけられ、一定の使命を果たし、特定の啓示を託されている。まさしく彼曰く、「われは、使徒たちの内のある者を他のものより卓越させた。神はある者には語りかけ、ある者を起し、高めた。そしてわれは、マリヤの子、イエスにも数々の明らかな証拠を与え、聖霊をもって彼を強化した」。 

 これら聖なる知識の源泉からほとばしりでる種々の言葉や発言に相違があったり、異なっているように見えるのは彼らの地位や使命にこのような差があるからである。しかし、聖なる英知の神秘を伝授された人々の目には顕示者たちの言葉はすべて一つの真理を表現するものである。ほとんどの人は、われが述べてきたこれら二つの地位を認識することができなかったため、本質的には同一である顕示者たちが述べた種々異なった発言に困惑したり、とまどったりしたのである。

 顕示者たちの言葉にみられる差異は、地位の相違によるものであるということは常に明白であった。したがって、彼らの同一性と崇高な超脱という観点からすれば、神性、神格、最高の単一性および内奥の本質というような属性は、これら実在の精髄たちにすべて当てはまるのである。というのも、彼らはみな聖なる啓示の王座にとどまり、神聖なる隠蔽(いんぺい)の座に据えられているからである。彼らの出現により、神の啓示は明らかにされ、彼らの顔により、神の美は現わされる。このために、神聖なる実在の顕示者たちの語るところに、神御自身の口調を聞きとることができるのである。  

 顕示者たちの第二の地位、即ちそれぞれの特異性、差異、物質の世に係わる限界、特質および規準という観点から見ると、彼らは絶対的隷属、まったくの窮乏、完全な自己滅却を現わしているのである。まさしく彼曰く、「われは神のしもべであり、お前たちと同様の人間に過ぎない」

 万物を覆いつつむ神の顕示者たちの中の誰かが「われは神なり」ともし宣言したとしたら、彼はまことに真実を述べており、そこには疑いの余地はない。なぜなら、彼らの啓示や属性や名を通して、神の啓示、神の御名、神の属性が世の中に明らかにされるからである。このことはこれまでにも繰り返し立証してきたところである。彼曰く、「あの槍は神の槍であって汝のものではなかった」。また、こうも述べられている。「まことに、汝に忠誠を誓うことは、即ち神に忠誠を誓うことである」。また、預言者たちの中の誰かが「われは神の使者である」と宣言したとしたら、それもまた疑う余地のない真実を語っているのである。まさにこう言われている、「モハメッドは、お前たちの中の誰の父親でもなく、彼は神の使者である」と。この観点から見れば、顕示者たちはみな、あの理想の王、あの決して変わることのない本質の使者に外ならないのである。また、もし彼ら全員が「われはすべての預言者の打ち止めである」と宣言したとしても、まことに彼らは疑いのかすかな影さえない真実を語っているのである。つまり、彼らはみなただひとりの人物、ただ一つの魂、ただ一つの霊魂、ただ一つの本質、そしてただ一つの啓示であるからである。彼らはみな「始め」と「終わり」、「最初」と「最後」、「明らかなるもの」と「隠されたるもの」の現われであり、それらはすべて最も深奥なる精霊におわし、永遠なる本質の真髄におわす神に属するものである。同様に、もし彼らが「われらは神のしもべなり」と宣言するならば、これもまた明白で争う余地のない真実である。なぜなら、彼らは何人も決して達し得ない完全なる隷属の状態で現われたのである。それゆえ、これら存在の精髄たちは、古来永劫の神聖さの大海原に底深く沈んでいたとき、あるいは神聖なる神秘の最高峯の絶頂に舞い上がったとき、自らの言葉が神の御声であり神御自身の呼び声であると公言したのである。

 もし慧眼(けいがん)が開かれていれば、顕示者たちはこのような地位にあるにもかかわらず、万物に浸透し不朽におわす神の御前にあっては、自らを完全に滅却し、無に等しい存在とみなすことが理解できよう。思うに、顕示者たちは自らを完全な無とみなし、神の宮廷において自らの名が語られることを神に対する冒瀆とみなすのである。何となれば、神の宮廷では、自己に関するわずかなささやきさえも、自己主張と独立自存の証拠とされるからである。神の宮廷に到達した人々から見れば、このようなことを連想すること自体、重大な罪悪なのである。ならば、神の御前にあって神以外について語り、最愛なる御方以外のものに心や舌や精神や魂を向け、神の美以外の顔を見、神の御声以外の調べを聞き、神の道以外の道を歩むことは何と重大な罪であろうか。  

 顕示者たちは、彼らに与えられたこの地位のために、自らが神の御声であるなどと主張したのである。また、彼らに与えられた使者としての地位のために、自らが神の使者であると宣言したのである。顕示者たちは、常に状況に応じた言葉を述べ、それらの発言のすべてを自らに関するものとして認めたのである。実に、その発言は神の啓示の領域から創造の領域にまで、また、神性の領域から地上の存在の領域にまでおよんでいる。したがって、顕示者たちの言葉は、それが神性の領域、主の領域、預言者の領域、使者の領域、守護者の領域、使徒の領域、あるいは隷属の領域のいかなる領域に属するものであろうとも、それはすべて、疑う余地のない真実なのである。であるから、目に見えぬ者の顕示者たち、神聖さの曙たちが述べた種々異なった言葉が、以後、決して人々の魂を騒がせたり、心を惑わせたりすることのないよう、われがこれまでに説明の裏づけとして引用してきたことについて注意して考えてみよ。

 

<23>

 過去の時代について考えて見よ。神の恩恵の昼の星が出現し、この世をその啓示の光で照らすごとに、その時代の人々は彼に刃向かい、その真実を否定したのである。世の指導者と見なされた人々は、自分たちの配下にある民衆が神の無限の恩恵の大洋である御方に向かうことを例外なく妨げようと努力したのである。

 各時代の聖職者たちが下した判決の結果をみよ。その判決のために人々は神の友なるアブラハムを火に投げ入れたではないか。同様に、全能者と対話したモーゼを人々は嘘つきとののしり、中傷を語るものとして糾弾したではないか。また、その極めて優しく温和な性質にもかかわらず、神の精神なるイエスの敵がイエスをどのように攻めたかについて考えてみよ。存在の真髄であり、目に見えるものと見えぬものの主なる御方が直面した反抗の激しさゆえに、イエスは休む所さえなかった。安住の地を奪われ、イエスは放浪を余儀なくされたではないか。預言者たちの打ち止めであるモハメッドに降りかかったことについて熟考せよ。万人の命が彼のために捧げられんことを。万人にその主権が及ぶ主なるモハメッドは神の一体性を宣言し、自らの教えの真実を主張した。そのためにユダヤの指導者たちや偶像崇拝者たちは何と酷い苦悩を彼に与えたことか。わが大業の真にかけて言う。神の聖約を破り、証言を侵し、証拠を拒否し、神の御しるしに異論を唱えた人々が彼に加えた苦しみを思うとき、わがペンはうめき声をたて、万物は号泣する。われが過去の出来事を語る目的は、それにより汝が理解を得ることにある。

 神の預言者たち、神の使者たち、そして神に選ばれし人々がいかに酷い扱いを受けたかは汝の知る通りである。人々がなぜ彼らに迫害を加えたのか、その動機や理由についてしばし考えてみよ。どの時代のどの宗教においても神の預言者は敵に冒瀆されることを免れることはなかった。圧政者の残虐行為を免れた預言者はなく、また、見せかけの正義と敬虔の衣に身をつつんだ時の学識者たちの非難にさらされなかった預言者もいなかった。彼らは昼も夜も苦悩の中を歩んだのである。栄光に満ち給う唯一真実の神以外には、誰もその苦しみを計り知ることはできない。                      

 この虐げられし者[10]について考えてみよ。最も明白な証拠が彼の大業の真を証明している。また、明白な言葉をもって彼が告げた予言は成就した。また、学識もなく、神学者たちが精通する議論について教育を受けた訳でもなければ経験をつんだ訳でもない彼が、神聖なる霊感により無限の知識を人々の上に雨と降らせたのである。見よ。それにもかかわらず、この世代の人々は彼の権威を否定し、彼に刃向かったのである。彼はその生涯のほとんどを敵の手中にあって苦悩を強いられた。圧政者の非道によりこの悲惨な牢獄に縛られている今、彼の苦しみはその頂点に達したのである。今までに起こったことと、現在まさに起こっていることを洞察力と輝く心をもって観察し、それについて心の中で熟考し、この時代のほとんどの人々が認めることのできなかったことを汝が発見できるよう、われは神に嘆願する。彼の日の甘美なる芳香を嗅ぎ、無限に放射される彼の恩寵にあずかることができるよう、われ神に嘆願する。この日、彼の恩恵を通じていにしえの王の名のもとに波だっている最大なる大海より汝が心行くまで飲み、彼の大業に山のごとく確固不動でありつづけることができるよう、われは神に嘆願する。  

 言挙げよ。あなたに栄光あれ。すべての聖者は、あなたの威力の無数の証拠に直面し、自らの無力なることを証言いたしました。また、すべての預言者は、あなたの変わらぬ栄光の輝きの前にあって自らの無なることを告白いたしました。天上の門を開け放ち、高きにある軍勢を喜びに満たしたあなたの御名により嘆願いたします。この日、私があなたに献身できますよう助け給え。あなたの書に定められたことを守ることができますよう私を強くなし給え。おお、わが主よ。あなたは、私の内にあるものを知り給う。しかし、私はあなたの内にあるものを知るすべを持ちません。あなたはすべてを知り、すべてに精通し給う御方におわします。  

 

<24>

 おお、神の一体性を信ずる人々よ、注意せよ。神の大業の顕示者たちの間に差別をつけようとしたり、または彼らの出現に伴いその啓示を宣言した諸々のしるしの間に区別をつけようとする誘惑にかられてはならない。これこそが神の一体性の真の意味である。汝ら、この真理を理解し、信ずるものならば。さらに、神のすべての顕示者の行いやそのなしとげた事業、否、それのみか、彼らに係わるあらゆることや、彼らが未来に顕わすであろうものはすべて神によって定められ、神の意志と目的の反映であることを確信せよ。彼らの人格、言葉、メッセージ、行為、ふるまいの間にわずかでも区別をつけようとするものは、実に、神を信じず、神のしるしを否認し、神の使者の大業を裏切るものである。 

 

<25>

  神の顕示者が生きたどの時代も神によって定められた時代であり、ある意味ではどれをも「神の約束の日」と呼ぶにふさわしい日なのである。このことは明白である。しかし、今のこの日は比類なき日であり、過去のいかなる日にも優る日である。「預言者たちの打ち止め」という言葉は、この日の崇高なる地位を充分に表わすものである。まことに、予言の周期は終わり、永遠の真理が到来したのである。そして、彼は威力の旗印を掲げ、雲によってさえぎられることのない啓示の光輝を今や全世界に注いでいるのである。  

 

<26>

 すべてを所有し、比類なき栄光に輝く王なる神に讃美あれ。あらゆる創造物の理解をはるかに越え、人の心の想像をもはるかに超越する讃美をもって神を讃美する。神以外に、神を充分に讃美できるものは存在せず、人間は決して神の栄光の全容を語ることはできない。神の崇高な本質に到達したと主張できるものはどこにいようか。また、神の計り知れない神秘の奥底を理解できたと誇れる心はどこに存在しようか。神の栄光の源より新たな啓示が発せられるたびに、想像をはるかに越える神聖にして無限なる象徴が出現するのである。同様に、神の無敵の威力が表されるたびに、永遠の光が大海となって放出されるのである。神の全能なる主権のすばらしい証拠は無限に崇高なり。そのかすかな光に触れただけでも、天と地にあるすべてのものは完全に消滅するであろう。神の無限の威力の証は語り得ぬほど崇高である。その中の最小のものでさえ全創造物の理解を超越する。始めのない始まりより、終わりのない終わりまで創造されるいかなる創造物もそれを理解することはできない。神の神秘を解き明かそうとするとき、神の御名の具現者でさえも探究の荒野をさまよい、渇きと熱意を抱いて神の本質を求めつづけるのである。同様に、神の属性の顕示者たちは、神聖さのシナイ山に立って神に嘆願し、神が御自身の神秘を解き明かすよう懇願するのである。

 神の無限の慈悲の大海原のひと(しずく)は、森羅万象に存在という装飾を与え、神の無類の楽園よりただよう微風は、すべての創造物を神聖さと栄光の衣につつんだのである。すべてに君臨し、すべてに浸透する神の御心の無限の深海より立ちのぼるしぶきは、まったくの無の中から創造の世を呼び起こし、創造の世に無限の広がりと無限の時間を与えたのである。神の恩恵の不思議は無限なり。慈悲に満ちた神の恩寵の流れは止まることを知らない。神の創造の過程には始まりはなく、終わりもあり得ない。

 どの時代のどの周期においても、神は神の不可思議な真髄の顕示者たちの放つ光輝を通じてすべてのものに新たな生命を与えるのである。その目的は、天と地にあって神の栄光の証を反映するものに、ほとばしる神の慈悲と恩恵の雨にあずかる機会を与えることである。見よ、神の無限の恩寵の不思議はすべてを包含し、創造の世にあまねく行きわたっている。全宇宙を探しても、神の威力の証拠を語らない原子、神の御名を称えない原子、神の一体性の輝きを表現しない原子を一つたりとも発見することはできない。神の恩寵の不思議はこれほどまでに強大なのである。神の創造は完璧にして完全なり。したがって、最も鋭い知性や、最も純粋な心をもってしても、神の創造物の中の最も取るに足らない存在の性質さえも理解することはできない。ましてや、真理の昼の星であり、見ることも知ることもできない本質におわす御方の無限の神秘を理解することは到底望めない。最も敬虔な瞑想者の想像も、最も優れた人間の完成度も、人間の舌やペンが記し得る最高の讃美も、すべては人間の有限なる知性の産物であり、その知性の限界によって条件づけられているのである。探究のシナイ山に立つモーゼに匹敵する一万の預言者が、「汝は決してわれを見ることはない」ととどろく神の命令の声に唖然とし、天上の玉座に座するイエスにも匹敵する無数の使者が、「汝は決してわが本質を理解することはできない」と響きわたる禁令に呆然としているのである。神の崇高なる実在は、古来より、言葉に言い表わせないほどの神聖さにつつまれ、神の不可思議なる本質は、未来永劫を通じて神秘に覆われつづけるであろう。神の近づき難い実在を理解しようとするいかなる試みも、その終着点は完全なる当惑である。また、神の崇高なる存在に近づき、神の本質を心に描こうとするいかなる努力も絶望と失敗に終わるのである。

 あなたの知識の神聖なる奥底を理解しようとするとき、取るに足らない存在なる私は途方に暮れてしまいます。あなたの創造力を表わすあなたの御業に秘められた威力を推量しようとする私の試みはすべてむだに終わります。私の目は、私の目を見る能力すら持ち合わせていません。ならば、あなたの本質を発見したとどうして主張できましょうか。私の心は、私の心に潜むものの真価を推し量ることすらできません。ならば、あなたの性質を理解したとどうして偽ることができましょうか。全宇宙は、あなたの神秘を前に唖然としています。ならば、私はあなたを知り得たとどうして主張できましょうか。見よ、全宇宙はあなたの存在を声たからかに宣言し、あなたの真理を証言しています。ならば、私はあなたに気づいていないとどうして主張できましょうか。御恩寵の扉は永遠に開放され、あなたの御前に進む手段はすべての創造物に提供されています。そして、あなたの比類なき美の象徴は、目に見えるもの、見えぬものを問わずすべての創造物の真髄に刻み込まれています。私はここに証言いたします。御恩寵に満ちたこの恵み、完全にして完璧なこの賜物にもかかわらず、あなたの神聖さと栄光の宮廷はあなた以外のいかなるものの理解をもはるかに超越し、あなたの存在の神秘はあなた以外のいかなるものの心にも不可思議であります。あなた以外にあなたの性質の神秘を解き明かすことのできるものは存在しません。また、あなたの崇高なる本質以外に、あなたの発見し難い存在の実態を理解できるものはありません。何と多くの天来の栄光に満ちた人々が、生涯を通じてあなたとの別離の荒野をさまよい、なおもあなたを発見することができなかったことでしょうか。何と無数の神聖にして不朽の魂があなたの御顔を眺めるために行脚し、探究の砂漠に迷い、呆然と立ちすくんだことでしょうか。すべてを焼き尽くすあなたの別離の炎は、あなたを熱烈に愛する数えきれない人々を死滅の淵に沈めました。そして、あなたの御顔の輝きを見るためによろこんで命を捧げた忠実なる魂は何と多くあったことでしょうか。あなたを切望し、あなたを追い求める人々のため息やうめき声は決してあなたの神聖なる宮廷に届くことはなく、あなたの御顏の前に立つことを乞い願う旅人の嘆きも決してあなたの栄光の座には届きません。

 

<27>

 神の一体性に讃美あれ。不二の主権者にして宇宙の栄光みなぎる支配者におわす神に栄誉あれ。神はまったくの無より万物の実在を創造した。また、神は創造界の最も洗練され、最も微妙な要素をも無より創造した。神はその創造物を別離の屈辱と究極の滅亡の危機より救い、不朽の栄光の王国に迎え入れたのである。これを可能にしたのは、すべてを覆いつつむ神の恩寵と、すべてに遍在する神の慈悲以外の何ものでもない。そうでなければ、まったくの無が無の状態から存在の領域へと進む価値と能力を自ら獲得することはあり得ようか。

 神はこの世とそこに生きて動くすべてのものを創造した。つぎに、神は何ものにも束縛されぬ御主権と御心により、人間にある特有の能力を与えた。それは神を知り、神を愛する能力である。この能力の付与こそは森羅万象の創造の動機であり、その存在の基礎をなす目的である。どの創造物に対しても、神は御自分の御名の中の一つの名の光を注ぎ、御自分の属性の中の一つの属性の栄光を付与し、それらは創造物の本質の内奥にそれぞれ納められている。しかし、人間に対しては、神は御自分のすべての名と属性の光を集中し、人間の本質をして神御自身を映す鏡とした。全創造物の中で人間のみがこの偉大な恩恵と不朽の恵沢のために選ばれたのである。

 神の恩恵の昼の星と聖なる教導の源泉によって人間の本質に付与されたこのエネルギーは、潜在能力として人間の内に秘められているのである。それはちょうど蝋燭の中に炎が隠され、ランプの中に光が潜在するのと同様である。世俗の欲望はこのエネルギーの光輝を覆い隠してしまう。それはちょうど太陽の光が、鏡を覆う塵やごみの下に隠されてしまうのと同様である。蝋燭もランプも外部の助けなしに自らに点火することは不可能である。鏡もまたそれを覆う塵を自ら取り除くことはできない。ランプは点火されるまで決して燃えることはなく、鏡もその表面の塵を取り除くまでは太陽の姿を映し、その光と栄光を反映することはできない。これらは明白な事実である。

 唯一真実の神をその創造物に結びつける絆や直接の交わりはあり得ない。また、永遠なる絶対者と、はかない従属者の間にはなんらの類似点も存在し得ない。したがって、神は各時代と各時節において、清廉潔白な魂が天と地の王国に出現することを定めた。この不可思議で神秘的な、かつ霊妙な存在者に対し神は二重の性質を与えた。その一つは物質界に関係する肉体的な性質である。他方は精神的性質であり、これは神御自身の実質より生じたものである。さらに、神はこの存在者に二重の地位を授けた。第一の地位は神の最も奥に潜む本質に関係するものであり、彼らの声は神御自身の声であることを意味する。つぎの伝承はこのことの真実を証言する。「われと神との間の関係は多様かつ神秘的である。われは神そのものであり、神はわれそのものである。しかし、われはわれたるものであり、神は神たるものである」。同様に、つぎの言葉がある。「立ち上がれ、おおモハメッドよ。そして見よ。愛する者と愛される者は融合し、汝の内に一つの存在となっている」。さらに、つぎのように言われている。「神と彼らの間には、彼らが神のしもべであるということ以外にはまったく差異はない」。その第二の地位は人間としての地位であり、つぎの聖句はそのことを指している。「われは汝らと同様の人間にすぎない」。「言挙げよ。わが主に讃美あれ。われは普通の人間や使徒以上のものではない」。しかし同時に、彼らは世俗超脱の精髄であり、光輝みなぎる実在者であり、すべてを覆う神の恩寵の水路なのである。確かな指導の光にみちびかれ、最上の主権を付与された彼らにはつぎの使命が与えられている。それはつまり、彼らの言葉の霊感と、彼らより放出される誤りのない恩寵と、彼らの啓示の神聖なる微風とをもって、愛慕と感受性を備えたすべての魂を清め、世俗の煩労と限界の塵埃をその心から取り除くという任務である。このことが果たされたとき、人間の本質に内在する神への信頼は初めてその姿を現わし、それを覆い隠すヴェールの奥より昇りくる啓示の太陽と同様の輝きをもって出現し、人間の心の頂きにその明らかなる栄光の旗を掲げるのである。

 前述の章句や引喩はつぎのことを明白に示し、そこには疑いの余地はない。天と地の王国は、神御自身を顕示する存在の出現を必要とする。その顕示者は、神御自身の恩寵を媒介する本質的存在者なのである。神こそはすべてを治める主権者なり。人間は、真理の昼の星の教えを通じて、自分の真髄の奥底に潜むすべての潜在力を顕わし得る地位に達するまで進歩発展する。各時代や宗教制において出現した神の預言者や選ばれし人々は、まさしくこの目的のために世に現われたのである。そして彼らは、神のみに由来する偉大な力を発揮し、永遠なる存在者のみが表わし得る威力を示したのである。

 意味を理解できない言葉を根拠に、神の無限の教導の扉が人間に閉ざされているとどうして主張できようか。健全な心意の持ち主であれば、このようなことを真剣に想像することもないであろう。彼らは聖なる発光体であり、光輝みなぎる光明である。このような存在に始まりや終わりがあるとどうして考えられようか。いかなる洪水も、すべてをつつみ込む神の恩寵の流れに比べることはできない。また、いかなる祝福も、すべてに遍在するこの大いなる慈悲に優ることはない。神の慈悲と恩寵の潮が一瞬たりともこの世から差し控えられるならば、この世は完全に消滅してしまうことは疑いもない。この理由により、神の慈悲の扉は始めなき始めより全創造物に開け放たれ、真理の雲は終わりなき終わりまでその賜物と恩恵を人間の能力と実質と個性の土壌に降らせつづけるのである。これこそが永遠より永遠につづく神の方法である。

 

<28>

 わが大業への奉仕に立ち上がり、わがうるわしき名を称えるものは幸いなり。わが威力の力によりわが書を握りしめ、すべてに賢き命令者なる汝の主がそこに記したあらゆる戒律に確固としてすがれ。おお、モハメッドよ。イスラム教シーア派の信奉者たちの言動が、初期の時代の喜びと熱意をいかに鈍らせ、その光の純粋な輝きをいかにくもらせたかを見よ。人類の主なる彼らの預言者の名に結びついた教えにしたがっていた初期のころ、彼らの前進は途切れることのない勝利と成功によって飾られた。しかし、彼らは次第に理想の指導者であり師である者の道を外れ、神の光に背を向け、神の一体性の原理を汚していったのである。そして、彼らは徐々に、主の御言葉の威力の提唱者に過ぎない人々に注意を向けるようになった。すると、彼らの威力は消えて弱体化し、栄光は屈辱に転じ、勇気は恐怖と化した。彼らがどのような状況に置かれているかは、汝も見て知っている通りである。自分たちを、神聖なる一体性の焦点である御方と同等と見なす彼らの姿を見よ。自分たちの犯した悪行のために、栄光に満ちる「真理なる言葉」を復活の日において認めることができない彼らの姿を見よ。今後、この人々が空虚な希望や虚しい空想から自らを擁護し、神聖なる一体性の真の意味を理解できるようわれは切に願う。

 顕示者は常に神の代表者であり、神の代弁者である。まことに、顕示者は神の最も優れた称号の曙であり、神の最も崇高な属性の黎明の場である。ある人物を顕示者と同列に据え、顕示者と同等と見なすならば、神聖なる存在を唯一無比と説き、彼の本質を不可分にして不二とどうして主張し得ようか。われが真理の威力により汝に示したことについて熟考し、その意味を理解するものであれ。

 

<29>

 神が人間を創造した目的は、人間に創造主を知らしめ、神の御前に到達させることである。これは未来永劫を通じて変わることのない崇高なる目標であり最高の目的である。天来の書と、神の啓示による荘厳な聖典はすべてこのことについて明白に証言している。神聖なる導きの曙を認め、彼の宮廷に入るものは神に接近し、神の御前に到達したものである。そこは真の楽園であり、天上の最も崇高な館もその象徴にすぎない。そこに達したものは、サドラトル・モンタハ[11]の向こうに立ち、「弓を二つ並べた距離」にまで接近した者の地位を理解し得たものである。逆に、神聖なる導きの曙を認めることのできない人々は、神より遠く離れていることの苦しみを自らにもたらす。神より離れていることは地獄の烈火そのものであり、まったくの無そのものである。たとえ見た目には地上の最も絢爛(けんらん)たる座を占め、最高の玉座に着いていようとも、これこそがそのような人々の行き着くところである。  

 真理の曙にとって、迷走する魂を遠隔の淵より救い、神の宮廷に引き寄せ、神の御前に誘導することは無論容易である。「神がそう望むなら、全人類を一つの民にまとめたであろう」。しかし、神の目的は違うところにある。清い魂の人々と、世俗超脱の心を持つ人々が、自らに内在する力によって、最大の大海の岸辺にのぼりつくことを可能にすることが神の目的である。それにより、栄光に輝く御方の美を探し求めるものが、傲慢と強情なる人々と区別され、分けられる。栄光に満ち、光り輝くペンはこのように定めたのである

 神の正義の顕示者である天上の恩寵の曙たちがこの世に出現するとき、彼らは地上の権力をまったく持たず、世俗の権勢の手段も剥奪された状態に置かれている。このことも、神の目的の根底にある区別と分類の原則を反映しているのである。永遠なる本質におわす御方が御自分に内在するすべてを明らかにし、御自分の栄光のすべてをもって輝くならば、誰ひとりとして彼を疑い、彼の真理を拒むものはないであろう。否、すべての創造物は彼の光の証拠によって完全に消滅するほどに圧倒され当惑するであろう。そのような状況の中で、いかにして信仰深きものと強情なものを区別することができようか。

 この原則は過去の宗教制においても適用され、充分に立証されている。この理由により、新しい顕示者が現われ、神の卓越した力の新たな啓示が人々に授けられたどの時代においても、神について誤った理解を持つものらは、比類なき永遠の美がはかない人間の姿で出現することに惑わされ、顕示者を受け入れなかったのである。彼らは顕示者の示す道をはずれ、神への接近を象徴する顕示者との同行を嫌ったのである。そして彼らは信仰を得た人々を無数に殺害し、顕示者にしたがう人々の壊滅に立ち上がったのである。

 この宗教制において、価値のない愚かな人々が抱いた幻想を見よ。虐殺や略奪、追放などの手段を用いることで、神の威力の手によって点火されたランプを消し、永遠の輝きの昼の星の光を奪うことができると彼らは想像したのである。このような逆境は、このランプの炎を煽る油であるという真理に彼らはまったく気づいていない。神の変革力は大なり。神の御力はすべてに及び、神は御心のままに変え給う

 理想の王が行使し給う主権について常に熟考し、神の御力と至上の影響力の証拠を見よ。拒否の象徴であり、暴力と怒りの提唱者であるものらの空虚な言葉から汝の耳を清めよ。唯一真実なる神の威力が全創造物に勝利し、神の主権のしるしが森羅万象を覆いつつむことを汝らが目撃するときは近づきつつある。汝らはその日、神以外のものはすべて忘れ去られ、無と見なされることを発見するであろう。

 そして、つぎのことを心に銘記せよ。いかなる状況にあっても、神とその顕示者たちはその固有の高貴と崇高さから分離されることはない。否むしろ、高貴と崇高さはそれ自体、神の御言葉によって創造されたものである。汝らもし、自らの目ではなく、わが目を通じて見ることを選ぶならば。

 

<30>

 神以外に神はなく、神は御恩寵にあふれ、最愛なる御方におわすことを神御自身が証言し給う。すべての恩寵と恩恵は神に属し、神は欲する者に欲するままに与え給う。神こそは御力に満ち、全能者におわし、危急の場の救助者にましまし、御自力にて存在し給う御方におわす。われはまことに、王の中の王であり、すべてに讃美され給う唯一真実の神の御心により遣わされたバブを信奉するものである。さらに、われはモスタガスの時に出現することが運命づけられている者にわが忠誠を誓い、彼につづいて終わりなき終わりまで出現しつづけるであろうすべての顕示者にわが忠誠を誓う。われは、これらすべての顕示者の内面と外面の双方に神御自身の出現を認める。汝ら、このことを理解できたならば。彼らはみな神の鏡であり、その鏡は神御自身と、その美と、その威力と、その栄光のみを映すのである。汝ら、このことを理解できたならば。顕示者は神聖なる存在を映す最初の鏡であり、顕示者以外のものは顕示者の栄光を映す能力のみを持つ鏡と見なさなければならない。汝ら、理解力が完全に欠落していないのであれば。誰も顕示者を逃れることはできず、また、誰も顕示者の目的の成就を阻むことはできない。この鏡たちは永遠に途切れることなく次々と出現し、日の老いたる者の光を反射しつづけるであろう。同様に、神の御恩寵は永遠に流れつづけるため、顕示者の栄光を映す人々も永遠に存在しつづけるであろう。これこそは誰も論破できない真理である。  

 

<31>

 アダムの出現からバブの出現につらなる一連の啓示について、心眼をもって熟考せよ。神の御前にあってわれはつぎの真理を証言する。すべての顕示者は、神の御心と目的の働きによってこの世に遣わされたのである。各顕示者は、具体的なメッセージをたずさえ、神聖なる教典を託され、強大なる書簡の神秘を解く任務を与えられたのである。各顕示者に与えられた啓示の範囲は前もってはっきりと定められていたのである。これを明かすことは、まことに、汝に対するわが恩恵のしるしである。汝、この真理を理解できたならば。やがてこの累進的啓示の過程は、最も神聖にして崇高なる者の比類なき顔が人類の目に明かされる段階に到達した。しかし、その栄光が人々の汚れた目に発見されることを嫌い、彼は御自分の姿を千にも及ぶヴェールにつつむことを選んだ。それは丁度、神によって定められた啓示の証拠やしるしが彼の上に降り注がれている最中であった。神以外の何者もそれらの証拠やしるしを計り知ることはできない。やがて隠遁の時期は終わった。若者は無数のヴェールにつつまれたままであったが、われは若者の顔を包含する栄光のごく少量の光を放出させた。すると、見よ。天上の住人の全員が激しい興奮に見舞われ、神の寵愛を受ける人々は彼の前に額ずき、敬慕の念を表わした。まことに、この大業を天と地に住むすべてのものに宣言するために彼は御自分で立ち上がったのである。こうして、創造界の誰の目も目撃したことのないような栄光がその姿を現わしたのである。  

 

<32>  

 慈悲に満ち給う御方の友なるアブラハムについて汝が聞いていることは疑いのない真実である。神の声は、イシュマエルを生贄(いけにえ)に捧げるようアブラハムに命じた。その目的は、神の信教への確固不動なるアブラハムの態度と、神以外のすべてのものからの超脱を人々に示すことにあった。さらに、神はその生贄を通じて地上の人々の罪や不正をあがなうことを意図された。マリアの息子イエスもこれと同様の栄誉を渇望し、唯一真実なる神に嘆願した。神の御名と栄光は高遠なり。また、神の使徒なるモハメッドも同じ理由をもってホセインを生贄に捧げたのである。   

 神の秘められた無限の恩寵の本質を理解したと主張できるものは誰もいない。また、すべてを覆いつつむ神の慈悲を計り知ることのできるものは誰もいない。人々の犯した罪や悪行は余りにも非道であり、神の預言者や選ばれし者に浴びせられた試練は余りにも苛酷なものであった。そのため、苦しみもがきながら滅亡して行くことが全人類にとってふさわしい報いである。しかし、人類は愛に満ちた神の秘められた摂理によって守られている。神の摂理は、目に見える威力と、目に見えぬ働きを通じて人類をその悪行の罰則から守り、これからも守りつづけるであろう。真理を発見し、神の道に不動となり得るよう、この言葉を心にとどめて熟考せよ。

 

<33>

 神の御言葉とそこに潜む潜在力の啓示についてわれはこう定めた。つまり、神の御言葉を人類に示すとき、全知者にして全賢者なる神が前もって定めた条件に厳密にしたがって啓示は行なわれる。さらにわれはこう定めた。神の御言葉そのものが御言葉を覆いかくす役割を果たすのである。これこそはわが目的を達成するわが威力である。御言葉の内に潜むエネルギーのすべてが突然放出されるならば、誰もそのように強大な啓示の衝撃に耐えることはできない。否、天と地にあるすべてのものは、狼狽(ろうばい)のあまり逃げ去るであろう。

 神の使徒なるモハメッドに下されたことについて熟考せよ。モハメッドがもたらした啓示の範囲は、威力に満ち給う全能者により前もって明白に定められていた。しかし、モハメッドの言葉を聞いた人々は、彼らの地位と精神的能力の程度に応じてのみ彼の目的を理解したのである。モハメッドも同様に、そのメッセージの重荷に耐え得る彼らの能力に比例して英知の顔を現わしたのである。人類が成熟の段階に達するや否や、御言葉はその内に潜在するエネルギーを人々の目に披露した。即ち、このエネルギーは、六十年[12]にアリ・モハメッドなるバブの内に古来の美が現われたとき、完全な栄光をもって顕わされたのである。

 

<34>

 御力の威力により創造物を無存在の裸形(らぎょう)より救出し、生命のマントを着せた神に讃美と栄光あれ。神は特別な恩恵として全創造物の中より人間のもつ純粋で宝石のような本質を選び、神を知り、神の栄光の偉大さを反映する無類の能力を付与した。人間に与えられたこの二重の特異性は、空しい欲望のさびを人の心より洗いながし、創造主が与え給う衣を着るにふさわしい存在となし、人間の魂を無知のあさましさより救出したのである。

 人間の身体と魂を飾るこの衣は、人間の幸福と発展の基礎そのものである。唯一真実の神の恩寵と力に助けられ、この世とそのすべての束縛と腐敗から自らを解放し、知識の木に到達し、その木陰で変わらぬ真の安らぎを味わうことのできる日は何と祝福された日であろうか。

 汝の心の鳥は、友らに対する汝の大いなる愛の歌をさえずり、その調べは友らの耳に達した。われはそれに感動し、汝の質問に答え、明かすことの許されている秘密を汝に伝えることとした。貴書にはつぎのような質問が記されていた。つまり、神の預言者の中で誰が最も優れていると見なされるべきかという質問である。このことを確信せよ。神のすべての預言者の本質は一つであり同じである。彼らの一体性は絶対的である。創造主なる神は言う。わがメッセージの伝達者の間には何らの区別もない。彼らの目的は一つである。彼らの秘密は同じ秘密である。ある預言者を他より高く尊び、他より高めることは決して許されない。あらゆる真の預言者は、自らのメッセージを、過去に現われたすべての預言者の啓示と基本的に同じであると見なした。この真理を理解できない人々は、見苦しい愚かな言葉を吐くかも知れない。しかし、鋭敏な視力を有し、啓発された理解力をもつものは、そのような空言によって自らの信仰をゆるがされることは決してない。

 しかし、この世における神の預言者たちの啓示の範囲は当然異なる。各預言者は特有のメッセージを伝達し、特定の行為を通じて自らを明かすよう命じられているのである。この理由により、預言者たちの偉大さに優劣があるように見えるのである。彼らの啓示は、地上に輝きを注ぐ月光にたとえられる。月の光量は月がその姿を現わすごとに異なる。しかし、その固有の光輝は減じることもなければ消滅することもない。

 したがって、つぎのことは明白である。預言者たちより放射される光量に差異があるように見えても、それは光そのものに固有な現象ではない。むしろその差異は、絶えず変わりつつあるこの世の感受性の違いに原因があるのである。全能なる比類なき創造主は人類に預言者を送り、各預言者に固有のメッセージを託し、その現われた時代の要求に最も適した行動をとるように命じたのである。神が人類に預言者を送る目的は二つある。第一の目的は、人の子らを無知の暗黒より解放し、真の理解の光にみちびくことである。第二の目的は、人類の平和と平安を保障し、それらが確立されるためのあらゆる手段を提供することである。

 神の預言者たちを医師と見なせ。その使命は人類の健全を促進し、人類に取りついた分裂という病を和合の精神を通じて癒すことである。彼らの言葉に疑いをはさんだり、彼らの行動を非難したりする権利は誰にも与えられていない。なぜならば、彼らのみが患者を理解し、その病を正しく診断したと主張できるからである。知覚力がいかに鋭敏であろうとも、聖なる医師が有する英知と理解の高さに達することは誰にも望めない。ゆえに、聖なる医師がこの時代に処方する治療法が以前に処方されたものと同一でないとしても驚くことはない。否、それはむしろ当然である。病人を苦しめる疾病は、その進行状態によってまったく違う治療法を必要とするのである。同様のことが神の預言者たちに当てはまる。この世を神の知識の昼の星の光輝で照らすとき、神の預言者たちは常にその時代の状況に最も適した方法を用いて人々を神の光の信奉へと召喚したのである。彼らはこのようにして無知の暗黒を追い払い、彼らの知識の栄光を世に注ぐことができたのである。したがって、明敏なる人々の目は預言者たちの最も奥深くにある真髄に向けられなければならない。何となれば、どの時代においても、彼らの唯一の目的は過てる人々をみちびき、苦しむ人々に安らぎを与えることであるからである。今は繁栄と勝利のときではなく、全人類は多種多様の疾病にとらわれている。したがって、誤りのない医師の全能なる御手が用意する妙薬を用いて人類の生命の救助に誠心誠意努力せよ。 

 さて、宗教の本質に関する汝の質問について。真の賢者はこの世を人間の身体にたとえたことを知れ。人間の身体はそれに着せる衣服を必要とする。同様に、人類の身体は正義と英知のマントによって飾られなければならない。また、神によって与えられた啓示が人類の衣である。この衣がその目的を果たし終えたとき、全能者は必ずその衣を更新する。なぜならば、どの時代も神の新たな光を必要とするからである。すべての神聖なる啓示は、それが現われた時代の状況に適する内容をもって下されたのである。

 つぎに、過去の宗教の指導者たちの言説に関する汝の質問について。疑いもなく、賢明で称賛に値する人はみなそのような空虚で無益な話を避けるであろう。比類なき創造主は、すべての人間を同じ物質より創造し、人間の本質を他の創造物より高めた。それゆえ、人間の成功と失敗、利得と損失は自らの努力に依存する。努力すればするほど、人の進歩は大である。神の恩恵の春雨が人間の心の土壌に真の理解の花を咲かせ、世俗のあらゆる汚れを洗い流すことをわれは切望する。 

 

<35>    

 つぎのことについてしばし考えてみよ。どの宗教制においても、地上の人々は慈悲に満ち給う神の顕示者を忌み避けた。何が彼らにそうさせたのであろうか。人々はなぜ顕示者に背を向け、顕示者の権威に反旗を翻したのであろうか。神聖なる命令者のペンより流れでるこの言葉について熟考するならば、人類はひとり残らず神より贈られたこの永遠なる啓示の真実を直ちに受け入れ、彼の荘厳なる言葉の証人となるであろう。神の一体性の顕示者であり、神の永遠なる栄光の曙である者がこの世に生きたどの時代においても、常に人々を顕示者から遮断し、今後も遮断しつづけるであろうものは人々の抱く空虚な妄想のヴェールである。つまり、永遠なる真理におわす御方は自らの目的に沿って自らを現わしたのであるが、それは人々の期待と希望に反する姿であったのである。これに関連して彼はつぎのように記している。「神の使者が汝らの魂の望まないものをたずさえて汝らを訪れるたびに、汝らは傲慢のあまり、ある使者を嘘つきと非難し、他の使者を殺害した」。

 過去の時代の使者たちが、人々の心が編みだした虚しい空想に添って現われていたならば、誰もこの聖者たちの真実を拒否しなかったであろうことは明白である。この人々は、昼も夜も、唯一真実の神の思いに没頭し、献身的に礼拝してきたにもかかわらず、最終的には神の御しるしの曙と、神の論破し難い証拠の顕示者を認めることも、その恩寵にあずかることもできなかったのである。このことは聖典が証明するところである。無論、汝もこのことを耳にしたことがあろう。

 キリストの宗教制について考えてみよ。約束された者の到来を熱心に待ち望んでいたにもかかわらず、当時の学者たちは例外なくキリストを否認した。神学者の長であったアナニアも、僧侶たちの長であったカイアパもキリストを非難し、死刑を言い渡した。  

 神の預言者モハメッドも同様であった。万人の魂が彼に代わって捧げられんことを。啓示の初期のころ、メッカやメディナの学識者たちはモハメッドに刃向かい、その教えを拒絶した。ところが、無学の人々がモハメッドを認め、その教えを受け入れたのである。考えてみよ。無学のエチオピア人バラルは信仰と確信の天に昇ったが、学者を率いるアブドラ・オバイは悪意みなぎる態度でモハメッドに刃向かったではないか。神の御言葉に陶酔した羊飼いは最愛なる御方の住処に入ることを許され、人類の主なる御方との統合を果たした。ところが、博学と英知を誇った人々は、彼の道を迷いでて、彼の恩寵にあずかることもできなかった。そのため、彼はつぎのように記した。「汝らの中の地位の高いものは卑しめられ、地位の低いものは高められるであろう」。この主題をほとんどの聖典に発見することができ、また、このことは神の預言者や使者たちの言葉にも登場する。

 まことに、われは言う。この大業の偉大さゆえに、父親は飛ぶようにして息子のもとを走り去り、息子もまた飛ぶようにして父親のもとを走り去るのである。ノアとカナンの地の物語を思い起こしてみよ。この日々は楽園のような喜びの日々であり、汝が栄光に満ち給う神の甘美なる芳香を逃すことなく、この精神の春季と彼の恩寵の放出にあずかることができるよう神に嘆願する。すべての知識の的におわす御方の御名において立ち上がれ。そして、人々の有する学問を完全に離脱し、声たからかに彼の大業を宣言せよ。神聖なる啓示の昼の星にかけてわれは誓う。汝が立ち上がる瞬間、神聖なる知識が洪水のごとく汝の心より放出されるのを汝は目撃するであろう。そして、彼の天来の英知の不可思議の完全な栄光を目の当たりにするであろう。慈悲に満ち給う御方の言葉の甘美を一度たりとも経験したものは、何のためらいもなく自らを捨て、自らの命を最愛なる御方に捧げるであろう。

 神のこのしもべ[13]が世俗の栄誉や利益を心に求めたことが一度でもあったと誰が信じようか。彼の名をいただく大業は、この世のはかない事物をはるかに超越するものである。流刑に処せられ、圧政の犠牲となり、この最大なる牢獄につながれた彼の姿を見よ。敵は彼を四方より囲み、この状況は彼の生涯を通じてつづくであろう。したがって、彼が汝らに伝えることはすべて神のために語ることであり、その目的は地上の人々の心を邪悪な欲望の汚れから清め、欲望のヴェールを引き裂き、人々を唯一真実なる神の知識にみちびくことにある。これこそは、人間が志すことのできる最も崇高な地位である。人々がわが大業を受け入れるか拒否するか、いずれもわれを利することもなければわれを害することもない。われは、ただ神のために人々に呼びかけるのである。まことに、彼はいかなる創造物をも必要としない。

 

<36>

 人の子[14]が息を引き取り神に向かったとき、森羅万象は大いに嘆き涙したことを知れ。彼が自らを生贄(いけにえ)として捧げることによって、あらゆる創造物に新たな能力が付与されたのである。その明らかな証拠は汝の目前にあり、地上のすべての人々がその証人である。哲人たちの語った最も深い英知の言葉も、人の知性が編みだした最も深遠な学問も、最も器用な手が作り上げた芸術も、最も強力な指導者が及ぼした影響力も、すべてを超越し、すべてに行き渡る彼の輝かしい精神によって放出された霊感と生命力の現われにすぎない。

 われはここに証言する。彼がこの世に姿を現わしたとき、彼の栄光の輝きはすべてのものを覆ったのである。悪と無知という癩病(らいびょう)に侵されていたものは彼を通じて癒されたのである。汚れた人々や、強情な人々は彼によって治癒されたのである。そして、全能なる神より生まれた彼の威力により、盲目なる目に光が与えられ、罪人の魂は清められたのである。

 癩病という表現は、人間を主なる神の知識から遮断するヴェールを指すものとして解釈できよう。神より遮断されることに甘んじるものはまさに癩病者であり、御力に満ち、すべてに讃美され給う神の王国において記憶されないものである。われはここに証言する。神の御言葉の威力によりあらゆる癩病者は清められ、すべての病は癒され、人間のあらゆる疾病は消し去られたのである。彼こそは地上を浄化した者である。光り輝く顔をもって彼に向かうものは幸いなり。

    

<37>   

  神への信仰を告白し、神の御しるしを信じ、「神の行いに対し、理由を問うことはならない」の真理を認識したものは幸いなり。神はこの認識をすべての信仰の装飾とし、礎となした。いかなる善行も、それが受け入れられるか否かは、この認識の有無によって左右される。反抗者のささやきによって道を踏み外すことのないよう、汝らの目をこの真理にしっかりと据えよ。    

 古来より禁止されてきたことを彼が合法と定め、いつの時代にも合法と見なされてきたことを彼が禁じたとしても、彼の権限を問う権利は誰にも与えられていない。一瞬たりともためらうものは違反者と見なされよう。                   

 この崇高にして根本的な真理を認めず、この高遠なる地位に達し得なかったものは、疑念の嵐に動揺し、その魂は不信心な人々の言葉に惑わされるであろう。逆に、この原理を受け入れたものは、最も完成された不動の精神を付与されるであろう。この栄光に満ちた地位、すべての崇高なる書簡を飾るこの地位に誉れあれ。これこそは神が汝らに与え給う教えであり、この教えは汝らをあらゆる疑念や混乱から救い、この世ときたるべき世における救済を汝らに提供するものである。まことに、彼は常に許し給い、恩恵に満ち給う御方である。 

 

<38>  

 このことを確信せよ。どの宗教制においても、神聖なる啓示の光は人々の精神的能力に直接比例するかたちで人々に与えられてきたのである。太陽について考えて見よ。地平線上にその姿を最初に現わすとき、太陽の光線は何と微弱なものか。しかし、頂点に向かって昇るにつれ、太陽の熱と勢力は次第に増し、その間にあらゆる生物は光線の強度に順応することができる。その後、太陽は徐々に落ちて行き、やがては地平線に沈む。もしも太陽に秘められているすべてのエネルギーが突然現わされるのであれば、あらゆる生物が害されることは疑いもない。真理の太陽についても同様である。もしも真理の太陽が全能者の摂理によって授けられたその威力のすべてを突然現わすとすれば、人間の理解力の土壌は消耗し朽ち果てるであろう。つまり、人の心はその啓示の強度に耐えることも、その光線の輝きを反射することもできないからである。人々は困惑し、圧倒されて息絶えるであろう。                          

 

<39> 

 主なるわが神よ。あなたの不可思議なる命令のすばらしい出現と、私のために準備し給う無数の苦悩や試練を思い、あなたに讃美を捧げまつる。あるときは、あなたは私をニムロデの手に委ね、またあるときは、ファラオの(むち)が私を責めたてることを許し給いました。私は計り知れぬ苦悩を彼らの手によって強いられました。あなたのみが、すべてを覆うあなたの知識とあなたの御心の働きによりその苦悩のほどを理解することができるのです。あなたは私に幻影を現わし、あなたの知識によりその幻影を通じて私に霊感を授け給いました。そして、あなたの御力の威力によりその意味を私に明かし給いました。ところが、私の見たことのほんの断片をあなたの王国の敬愛の的なる住人たちに伝えようと彼らに耳打ちしただけで、あなたは私を邪悪な人々の牢獄に閉じ込め給いました。さらに、あなたの御命令により不信心者の剣が私首をねました。つぎに、人々の目に触れることのないあなたの栄光に満ちた一体性の宝石を披露し、あなたのご主権と永遠なるご威力のすばらしいしるしを彼らに示したことによって私は(はりつけ)となりました。それにつづく時代、私はカルベラの平野にて何と苦い屈辱をめさせられたことでしょうか。あなたの民に囲まれながら私は何という孤独を味わったことでしょう。私はかの地で何という無力感を味わったことでしょう。これほどの屈辱にも飽き足りない迫害者たちは私の首を切断し、それを高く掲げながら各地を練り歩き、私の首を不信仰なる群衆の目にさらし、最後には心なき邪悪者の玉座の前にそれを据えたのです。つぎの時代、私は宙にるされ、私の胸板は悪意みなぎる敵の残虐さの的とされました。銃弾の嵐が私の四肢を貫き、私の身体を引き裂きました。最後に、見よこの日の出来事を。不実なる敵は、私に刃向かって団結し、悪意と憎しみの猛毒をあなたのしもべらの魂に注ぎ込もうと絶えずたくらんでいます。彼らは力を結集し、この目的を遂げようと努力しているのです。神よ、わが最愛なる御方よ。私の置かれた状況がいかに悲惨なものであれ、私はあなたに感謝を捧げます。そして、あなたの御心の道において私に降りかかってきたことに対し私の精神は感謝を捧げます。あなたが私のために定め給うことに私は満足し、それがいかに悲劇的なものであれ、私は私を襲う苦痛と悲しみを喜んで受け入れます。

 

<40>  

 おお、わが最愛なる御方よ。あなたは私にあなたの息を吹き込み、私を私自身より分離し給いました。しかし、後にあなたは命令を下し、私の中に存在するあなたの実在のほんのわずかな象徴とかすかな影のみを過てる人々と嫉妬に溺れる人々に示すことを許し給いました。見よ、この象徴にまどわされた彼らは私に反対して立ち上がり、拒絶の言葉を私に浴びせたのです。おお、わが最愛なる御方よ。あなたの御姿を現わし、私をこの窮地より救い給え。

 すると、答える声が聞こえた。「われはこの象徴をこよなく愛した。この象徴がわが目のみに映ることをなぜ許すことができようか。この象徴をわが心のみが知ることをなぜ認めることができようか。汝の美と同一なるわが美にかけて言う。わが真の願いは、汝の姿をわれ自身の目よりも隠すことであり、ましてや人の目には決してさらしたくはないのである」。

 この言葉に返答しようと思った瞬間、突然書簡は巻き上げられ、私の主題は完成を見ず、私の言葉の真珠は日の目を見ることはなかった。

 

<41>

 おお、人々よ。神こそわが証人なり。われが寝所に眠っていたとき、見よ、神の微風がただよいきて、われを眠りよりさました。生気を与える神の精霊はわれをよみがえらせ、わが舌は神の召集を声にするために解かれた。神にそむいたといってわれを非難するな。汝の目ではなく、われの目でわれを見よ。全知者にして恩寵深き者は、汝らにこう忠告するのである。おお、人々よ。神の究極の意志と目的をわれが手中におさめていると思うのか。われは決してそのような主張を唱えはしない。このことをわれは全能者、高遠なる者、全知者、全賢者なる神の御前で証言する。神の信教の究極の運命がわが手中にあったとすれば、われは決して一瞬たりともわれ自身を汝らに顕わすことに同意することはなく、わが唇より言葉の一つさえも漏れることをゆるさなかったであろう。このことについては、まことに、神御自身こそが証人なり。

        

<42> 

 おお、正義の子よ。夜のうちに不滅なるものの美は、忠誠の新緑の丘より、サドラトル・モンタハヘ行ってさめざめと泣いた。彼の悲しむ様を見て天上の群衆も、天国の住人たちももらい泣きしたほどであった。そして何故にかくも歎き悲しむやと問われたとき、彼は答えた。命じられた如く、われ忠誠の丘にて期待して待てり。されど地上の住人たちより誠実の香りは匂い来らず。かくてわれ帰るよう召されしとき、われは見ぬ、見よ。ある聖なる鳩らは、地上の犬らの爪に甚だしく苦しめられたるを。そこで天の侍女は彼女の神秘なる家よりヴェールを脱ぎすて、光り輝きつつ走り出で、彼らの名を尋ねた。すると一つを除くすべての名が告げられた。せき立てられて残りのひとりの第一の文字が語られた。そこで天上の館に住む人たちが栄光の住居より駈けだした。第二の文字が述べられたとき、彼らはひとり残らず塵埃(じんあい)の上に平伏した。このとき最奥の神殿より一つの声あり、曰く「これまでは、されどもうこれ以上は断じて」。まことにわれ彼らがなせること、またなしつつあることの証人とならん。

 

<43>

 おお、アフナンよ、わが古来の幹より分枝したものよ。わが栄光と慈愛は汝に向けられる。神の大業の幕屋は何と広大であろうか。それは地上のあらゆる国や民族を覆いつつんでいる。そして、まもなく、全人類はその庇護のもとに結集されよう。汝の奉仕の日は今やきた。いかに大いなる恩寵が汝の上に注がれてきたかについては、無数の書簡が証言している。わが大業の勝利のために立ち上がり、汝の言葉の威力により人々の心を征服せよ。不幸なもの、虐げられたものに安らぎと安寧を保証するものを、汝は身をもって示さなければならない。汝の努力によって、囚われの身にある人々が鎖から解放され、真の自由を得ることができるよう精進せよ。

 この日、正義は苦境にあって嘆き、公正は圧制の頸木(くびき)の下でうめき声をあげている。暴虐の暗雲は地上より光をうばい、人々をつつんだ。しかし、全能なる命令者の指示にしたがい、われはわが栄光のペンの動きにより、あらゆる人体に新しい生命を吹き込み、すべての言葉に新たな威力を付与した。この蘇生の波は全世界に及び、その証拠はあらゆる創造物に現われている。これこそがこの虐げられし者のペンより人類に伝えられた最も偉大で、最も喜ばしい吉報である。それゆえ、おお、わが最愛なる人々よ、何を恐れる必要があろうか。汝らを狼狽(ろうばい)させ得るものがどこにあろうか。この邪悪な世代の人々はかわいた粘土の土塊(つちくれ)にすぎず、それを溶かすには一滴の水で充分なのである。そして、汝らの集い合う行為だけでも、これら空虚で価値のない人々の勢力を分散するに充分なのである

 この日、洞察力のあるものはみな、つぎのことを容易に認めるであろう。つまり、この虐げられし者のペンによって著わされた忠告こそが、世界の進歩と、人類の高揚にとって最高の推進力となるものである。立ち上がれ、おお人々よ。そして、神の御力の威力により、自己との葛藤に勝利することを決意せよ。これが果たされるならば、人類は自らの無益な幻想によって作り上げた偶像への隷属から解放され、聖別されよう。まことに、これらの偶像はその哀れな崇拝者たちに非常な損失を負わせ、彼らのみじめな境遇の原因となってきたのである。それらは、完成への道を進もうと努力する人間の行く手を阻む障害物なのである。神聖なる威力の御手が人類に援助の手を差しのべ、彼らをその嘆かわしい零落(れいらく)の状態より救い給うよう、われは切望する。

 わが書簡の一つにつぎのような言葉が記されている。おお、神の人々よ。私事におぼれるな。心を常に人類の繁栄の回復と、人々の心と魂を聖別させるものに向けよ。このことを成し遂げるための最善の道は、純粋で清らかな行為、そして徳の高い生活と、正しいふるまいにある。この大業の勝利を保証するものは勇敢な行動であり、その力を確固たらしめるものは聖人にふさわしい人格である。おお、バハの人々よ。正義に愛着せよ。まことに、これはこの虐げられし者[15]が汝らに与えた法であり、その束縛されることのない意志が、汝らすべてに第一に選定したものである。

 おお、友らよ。魂も奮い立つこの神聖なる春季にあって、慈悲深い恩恵が汝らの上に雨のように注がれている。この恩恵を通じて、汝らは自らの魂を活気づけ、蘇生させなければならない。神の偉大なる栄光の昼の星はその光輝を汝らに注ぎ、その限りない恩恵の雲は汝らを覆っている。この大いなる恩寵を逸することなく、新しい装いに身をつつんだ最愛なる者の美を得たものの報酬は何と高遠なものであろうか。汝ら、用心せよ。邪悪なる者が汝らを(わな)に陥れようと待ち伏せている。その悪意に満ちた策略を警戒し、すべてを見給う神の御名の光にみちびかれ、汝らをとりまく暗黒より逃れよ。汝らの視野を汝ら自身に限ることなく、むしろ全世界をつつむものとせよ。邪悪な者とは、人の子の進歩をさまたげ、その精神的発展を妨害するものである。

 この日、あらゆる国家と公正な政府の利益を促進し、その地位を高めるものを固守しなければならない。このことは万人に課せられた義務である。最も高遠なる者のペンが著わした各々すべての聖句により、愛と和合の門戸は、その錠が解かれ、人類の面前に大きく開け放たれた。過去にわれはつぎのように宣言した、そしてわが言葉は真理なり。「親愛と友情の精神をもって、あらゆる宗教の信者と交われ」。人の子が互いを忌み嫌い、彼らの間に不和と分裂を生みだす原因となっていたものは、この言葉の啓示によってすべてことごとく廃絶されたのである。全人類の教育にとって最も有効な手段が神の意志の天上より下されたのである。その目的は、存在の世界を高貴なものとなし、人々の心と魂を高めることに他ならない。昔日(せきじつ)の人々が語り、または書き記した事柄の至上の真髄と最も完全な表現がこの最強の啓示によって、すべてを所有し、常に持続し給う神の意志の天上より下されたのである。過去の時代にはつぎのように記された。「自国への愛は、神の信教の基本的要素である」。しかし、荘厳なる舌はその出現の日につぎのように宣言した。「自国を愛するは自慢に値せず、真に誇るべきは、世界を愛するものである」。この崇高なる言葉によって、世に大いなる力が放たれた。そして、彼はこの力を介して人類の心の鳥に新鮮な衝撃を与え、新しい方向を定めた。また、彼は神の聖典より、束縛と限定のあらゆる痕跡を抹消したのである。

 おお、正義の人々よ。燃えさかる(やぶ)にきらめく光のように輝かしく、その火炎のように壮麗であれ。汝らの愛の炎の光輝は、疑いもなく、地上の争い合う国や民族を融合し、和合させるであろう。一方、敵意と憎悪の炎の激しさは、闘争と破滅の原因としかなり得ない。神が全創造物を神の敵の邪悪な策略より守り給うよう、われは嘆願する。まことに、神はすべてのものを支配し給う。

 唯一真実の神に讃美あれ。神の栄光に誉れあれ。神は、最も高遠なる者のペンを通じて、人類の心の扉の錠を開けたのである。このペンによって啓示されたすべての聖句は、燦然(さんぜん)と輝く門戸である。そしてこの門戸は、清く敬虔(けいけん)な生活と、清純無垢(せいじゅんむく)な行いの栄光を明かすものである。われより発した声明と教えは、決して特定の国のみに宛てられたものでも、特定の民族のみを利するものでもない。この啓示によって下されたことは、全人類がそれをことごとく厳守しなければならない。そうしてこそ初めて、真の自由に達し得よう。地球上は、神の啓示のけんらんと輝く栄光にすべて照らされている。六十年[16]には、神の教導の光の先駆者が立ち上がり、精霊の新たなる啓示を発布した。すべての創造物が彼のために命を捧げんことを。つづいて、二十年後[17]に現われた者により、この約束された栄光と、驚くべき恩恵が世界に授けられた。見よ、いかに人類の大半が、神の最も高遠なる言葉を傾聴する能力を与えられているかを。人類の融和と精神的更生は、すべてこの言葉に依存するのである。

 おお、神の人々よ。真実無比の友の忠告に心を向けよ。神の言葉は、人間の心に植えられた苗木にたとえられよう。この苗木がしっかりと根をおろし、枝が天空とそのかなたまで高くのびるよう、汝らは英知と聖別された清らかな言葉の活水をもってその成長を育成しなければならない。

 おお、地上に住む人々よ。この最大なる啓示の卓越性を明示するものはここにある。つまり、われは一方において、人の子らの争いの原因となり、悪意と危害のもととなるものを神の聖典の紙面よりすべて消しさった。他方においてわれは、理解と調和、そして恒久にして完全なる和合の必要条件を定め記したのである。わが法規を守るものは幸いなり。

 害毒の悪臭が察知される事柄をすべて避けるよう、否、むしろそれを逃れるよう、われはわが愛する人々に幾度も忠告してきた。世界は大いなる動乱のさなかにあり、世の人々の心は完全な混乱状態にある。われはここに全能なる神に嘆願する。神よ、あなたの正義の栄光により、この人々を恩寵深く照らし給え。そして、彼らがいついかなる状況にあっても、彼らにとって有益な道を常に見いだすことができるよう援助し給え。まことに、神はすべてを所有し、最も高遠なる御方であり給う。

 

<44>   

  世の知識者たちよ。神への畏敬の念をなおざりにしてはならない。保護者におわし、御自力にて存在し給う神のすべての書が言及するこの無学なる者の大業について公平に判断せよ。神の逆鱗(げきりん)に触れることの恐怖と、比類なき不二なる者の恐怖をもってしても汝らは目覚めないのであろうか。この世の虐げられし者は、汝らと交流したこともなければ、汝らの書物を読み、汝らの議論に参加したこともない。彼のまとう衣、長くのびた頭髪、頭にかぶった帽子はすべて彼の言葉の真実を物語っている。汝らの不正はいつまでつづくのであろうか。正義の化身なる者が押し込められたこの場所を見よ。彼の神聖なる言葉の光明を見逃し、彼の知識の大海よりの分け前を逸することのないよう汝らの目を開き彼の苦悩を見よ。そして、汝らのしたことについて真摯に黙考せよ。     

 聖職者でもなければ預言者の末裔(まつえい)でもないことを理由にこの虐げられし者に異論を唱えるものが庶民の中にも貴族の中にもいる。言挙げよ。おお、正義を自負する人々よ。彼の現在の地位は、彼に備わっていなければならないと汝らが主張する地位をはるか超えるものである。少しでも考えればこの真実は汝らに明白となろう。神の大業は聖職者や神学者や哲人や学者が共有するものをまったく持ち合わせていない家から出現し進行したのである全能者の御心によりこのように定められたのである。

 精霊の息吹は彼を目覚めさせ、啓示を宣言するために立ち上がるよう彼に命じたのである。眠りから目覚めるや否や、彼は声たからかに全人類を諸々の世の主なる神のもとに召喚したのである。われは、人間の弱さともろさを考慮してこれらの言葉を著わしたのである。そうした配慮を入れなければ、われの宣布する大業は本来いかなるペンも描写し得ず、いかなる心も想像し得ないほど偉大なるものである。母なる書を所有する御方こそわが証人なり。

 

<45>

 古来の美が鎖に繋がれることに同意したのは、人類がその束縛から解放されるためであり、この最も強固な砦の囚人となることに甘んじたのは全世界が真の自由に達するようにするためである。古来の美は、地上のすべての人々が永遠の喜びを得て歓喜に満たされるよう悲哀の杯を飲み干したのである。これは汝らの主の慈悲である。彼こそは憐れみ深く、最も慈悲深き御方におわす。おお、神の一体性を信ずるものらよ。われは、汝らが高められるようにと卑しめられることを受け入れ、汝らが繁栄するようにと無数の苦悩に耐えるのである。全世界の再建のために到来した彼のおかれた状況を見よ。自らを神の協同者と称するものらによって、彼は最も荒廃した都市に住むことを強いられたのである。

 

<46>

 わが投獄の重荷をわれは嘆かない。また、敵の手がもたらした屈辱と辛苦もわれを悲しませることはない。わが命にかけて誓う。これらの苦しみはわが誉れであり、神が自らを飾り給う栄光である。おお、汝らこのことを知り得たならば。

 われに負わされた恥辱は、全創造物に付与された栄光を現わした。そして、われが耐え忍んだ虐待を通じて、正義の昼の星が出現し、その光輝を人類に注いだのである。

 われを悲しませるのは、腐敗した情欲におぼれていながら、恩寵にあふれ、すべてに讃美される神の信教の関係者として自らを名乗るものらである。

 楽園の住人がバハの人々の衣より高潔さの甘美な芳香を嗅ぎ、地上の人々が彼らの顔に慈悲深き御方の輝きを見出し、彼らを通じて全能にして、すべてを知り給う神の御しるしと証跡がひろく普及されるよう、バハの人々はこの世とそこに存在するすべてのものに死し、あらゆる物質的事柄を超越しなければならない。世俗の事物にふけり、神の大業の令名を汚すものは、まさに非常な過ちにある。

 

<47>   

 おお、ユダヤの人々よ。神の精神なるイエスを再び(はりつけ)にしたいのであれば、われを死刑に処すがよい。何となれば、イエスはわれを通じて再び汝らの前に現われたのである。欲するままにわれを処遇せよ。何となれば、われは神の道に自らの命を捧げることを誓ったのである。天と地の全勢力が結集してわれに刃向かっても、われは誰をも恐れない。おお、福音書の信奉者らよ。神の使者なるモハメッドを殺害することを望むのであれば、われを捕らえ、わが命を断つがよい。何となれば、われは彼であり、われ自身は彼自身である。われを欲するままにせよ。何となれば、わが心に抱く最高の希望は、わが最愛なる御方の御国に昇り、その御前に到達することである。これこそは神聖なる命令である。汝ら、このことを理解するならば。おお、モハメッドの信奉者らよ。バヤンの書を汝らに下した者の胸を槍で貫くことを望むのであれば、われを捕らえ、われを攻め立てるがよい。何となれば、名は違えども、われは彼の最愛なる者であり、彼自身の出現なのである。われは栄光の雲に覆われて出現し、神より不屈の主権を与えられたのである。まことに、彼こそは真実であり、目に見えぬものを知り給う。まことに、われに先駆けて現われた者に対して汝らが行ったと同じことを汝らがわれにも強いることをわれは予期する。万物はこのことを証言する。汝ら、聞く耳を持つものならば。おお、バヤンの人々よ。バブがその出現を宣言し、モハメッドがその到来を約束し、イエス・キリストがその啓示を伝えた者の血を流すと決意したのであれば、覚悟を決めて無防備な姿で汝らの前に立つわれを見よ。汝らの欲するままにわれを処遇するがよい。

 

<48>   

 神はわが証人なり。神の書に記された教えに反するものでなかったならば、われはわが血潮をもって最愛なる御方の道を染めようと欲するものの手をとり、喜んでその手に接吻したであろう。われを殺害するものの行為は全能者の怒りを買い、呪いを招き、すべてを所有し、公平におわし、すべてに賢明なる神が存在しつづける永遠を通じて苦しめられるに値する行為であるにもかかわらず、われは神がわれに所有を許し給う富を惜しまずわが殺害者に与えたであろう。            

 

<49>

 まことにこのことを知れ。自分自身に目を向けるとき、この若者[18]は全創造物の中で最も取るに足らない存在をそこに見る。しかし、自分に与えられた能力により放射されるまばゆい光を熟視するとき、見えるものと見えざるもののすべての精髄に浸透する主権の威力に変貌する自己を目の当たりにするのである。真理の威力により御自身の顕示者を世に遣わし、全人類へのメッセージを彼に託し給うた神に栄光あれ。 

 

<50>

 おお、思慮なき人々よ。怠慢のまどろみを振りはらい、彼の栄光を通じて全世界を取りまいた輝きを見よ。彼の光の誕生には、未だ時期尚早と反対をささやく人もいる。何と愚かなものらであろうか。おお、盲目なる心を持つものらよ。それが早すぎようと、遅すぎようと、現に今や彼の燦然(さんぜん)と輝く栄光の証拠は顕わされているのである。その光が出現したかどうかを確かめるのが汝らに課せられた義務である。その出現の時刻を定めることは、汝らの力も、わが力も及ぶところではない。その時刻は、神の計り知ることのできない英知によって、前もって定められたものである。おお、人々よ。神が汝らのために望み、定めたことに満足せよ。おお、わが不幸を願うものらよ。永遠の教導の昼の星こそわが証人なり。もしわれにその権限があったならば、われはいかなる状況のもとでも、決して世に名を挙げることに同意することはなかったであろう。なぜなら、われの有する名は、汚れた舌と、偽りの心を持つこの世代の人々と係わることをまったく蔑視(べっし)するからである。そして、われが沈黙し、静止することを選ぶときはいつも、見よ、わが右手に立つ精霊の声がわれを()まし、わが面前に至上の精霊が現われ、ガブリエルがわが頭上を覆い、そして栄光の精神がわが胸の内にあって奮い立ち、われに立ち上がって沈黙を破るよう命じるのである。汝らが聴力を清め、耳をすますならば、わが四肢のすべてが、否、わが存在のすべての原子がつぎの言葉を宣言し、証言していることを必ず感知するであろう。「神をおいて他に神はなく、そして、今やその美が顕わされている者は、天と地にあるすべてのものに向けられた神の栄光の反映である 

 



[1] バブの聖典

[2] イスラム教の「約束された者」

[3] 「このしもべ」:バハオラご自身を指す言葉

[4] コーランに登場する「楽園に湧く泉」

[5] コーランに登場する「楽園に流れる川」

[6] 「この虐げられし者」:バハオラご自身を指す言葉

[7] 「この若者」:バハオラご自身を指す言葉

[8] トルコ帝国の総理大臣、アリ・パシャに宛てられたバハオラの書簡(1868年)

[9] 「この若者」:バハオラご自身を指す言葉

[10] 「この虐げられし者」:バハオラご自身を指す言葉

[11] 人間と顕示者の世界を隔てる「限界点に立つ樹」

[12] イスラム陰暦1260年(西暦1844年):バブの宣言の年

[13] 「このしもべ」:バハオラご自身を指す言葉

[14] キリスト

[15] 「この虐げられし者」:バハオラご自身を指す言葉

[16] イスラム陰暦1260年(西暦1844年):バブの宣言の年

[17] バブの宣言から20年後:バハオラの宣言の年(1863

[18] 「この若者」:バハオラご自身を指す言葉