アブドル・バハの質疑応答集

Some Answered Questions

by Abdu’l-Baha

 

 

初版に掲載された著者の前がき

 

「私の疲れた時間をさしあげました。」これが、私の質問に答えてテーブルから立ち上がる時のアブドル・バハの言葉でした。

毎日、こんな風に続きました。何時間にもわたる仕事の合い間に、彼の疲労は新しい活動に安らぎを見出しているようでした。時には十分話すことができましたが、たいていはもっと時間が必要な問題であっても、ほんの少しすると彼は呼ばれていってしまいました。そして何日も何週間さえも、私を教える機会がないという具合でした。それでも私は十分辛抱できました。目の前にいつもより大きいレッスン―彼の個人としての生活というレッスンがあったからでした。

私の数回に及ぶ訪問の際に、これらの質問は、アブドル・バハが話されている間にペルシャ語で書き留められました。最初は通訳の口頭の翻訳に、後には、私がペルシャ語を少し分かるようになったので、私の少ない語数に合わせなければなりませんでした。それが話や句の繰り返しの原因となりました。アブドル・バハより広範囲にわたる適切な表現力を持ち合わせている者は誰一人いなかったからでした。これらの授業で、彼は、雄弁家や詩人ではなく、その生徒の程度に合わせた先生でした。

 この本は、バハイ信教のほんの一部を現わしているにすぎません。バハイ信教はその教義において普遍的であり、質問者それぞれの発達段階と必要性に応じた答えを持っています。

 私の場合、教えは私の初歩的な知識に合わせて易しくされました。目次が示しているように決して完全でもなければ徹底的に追求したものでもありません。―目次は、取り上げられた主題を示すために単に付け加えられたのにすぎません。人は皆、異なっていますが、真理を探究する上では結びついていますので、私にとって非常に価値のあるものは、他の人の役に立つのではないかと思いました。そこで、アブドル・バハにこれらの話を出版する許可を求めたのでした。

 もともとは、特別な順序はなかったのですが、読者の便宜のために大まかに分類しました。ペルシャ語の文に厳密に従い、時には英文が損なわれる程でした。翻訳上、訳文があまりに混み入ったり、わかりにくい所では、少しばかり変更されました。意味をはっきりさせる上で必要な言葉が書き加えられましたが、それはどんな形でも示されていません。機会的な印や、説明上の印で思考が中断されることをさけるためです。またペルシャやアラビアの名前の多くは、平均的読者には混乱のもとになる学問的方法に厳密に従わないで、最も簡単な形で書かれています。

ローラ・クリフォード・バーニィ

 

目次

 

初版に掲載された著者の前がき

 

第一部 人類の進化に与える予言者の影響について

 

一、   自然はひとつの普遍的法則に支配されている  ・・・・・・1

二、   神の実在の立証と証拠  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

三、    教育者の必要性  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6

四、    アブラハム  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13

五、    モーゼ  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15

六、   キリスト  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18

七、    モハメット  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20

八、    バブ  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28

九、    バハオラ  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30

十、    ダニエル書に実証されている伝承的証明  ・・・・・・・・・・42

十一、 聖ヨハネの黙示録の十一章に関する解説  ・・・・・・・・・53

十二、 イザヤ書の十一章に関する解説  ・・・・・・・・・・・・・・・・・73

十三、 聖ヨハネの黙示録十二章に関する解説  ・・・・・・・・・・・78

十四、 精神的証明  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・84

十五、 真の富  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・90

 

 

第二部 キリスト教に関する問題

 

十六、 知的概念を伝えるためには、外面的形式や象徴を使わなければならない  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・93

十七、 キリストの誕生  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・97

十八、 キリストの偉大さはその美徳による  ・・・・・・・・・・・・・・・100

十九、 キリストの洗礼  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・102

二十、 洗礼の必要性  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・105

二十一、パンとぶどう酒の象徴するもの  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・109

二十二、奇蹟  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・113

二十三、キリストの復活  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・117

二十四、使徒たちへの聖霊の降臨  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・120

二十五、聖霊  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・121

二十六、キリストの再来と審判の日  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・123

二十七、三位一体  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・126

二十八、聖ヨハネの福音書の十七章五節の説明  ・・・・・・・・・・129

二十九、聖パウロによるコリント人への第一の書簡の十五章二十二節の説明  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・131

三十、  アダムとイブ  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・136

三十一、精霊に対する冒瀆の説明  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・142

三十二、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない。」という節の説明  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・144

三十三、予言者たちによって述べられた復活  ・・・・・・・・・・・・・147

三十四、ペトロの信仰の告白  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・151

三十五、宿命  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・155

 

第三部 神の顕示者たちの力と状態について

 

三十六、精神の五つの段階  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・157

三十七、神は、神の顕示者を通してのみ理解される  ・・・・・・・・161

三十八、神の顕示者の三つの地位  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・167

三十九、神の顕示者の人間的状態と精神的状態  ・・・・・・・・・・171

四十、  神の顕示者の知識  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・174

四十一、宇宙の周期  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・177

四十二、神の顕示者の力と影響  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・179

四十三、二種類の予言者  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・181

四十四、予言者が神から受ける譴責について  ・・・・・・・・・・・・・184

四十五、アクダスの書にある「啓示の夜明けであるお方には、その最も偉大な不謬性を共有する者はいない。」という一節について  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・190

 

 

第四部 人間の起源と能力と状態について

 

四十六、種の変異  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・195

四十七、宇宙には始めがない  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・199

四十八、人と動物の相違  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・205

四十九、人類の成長と発達  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・212

五十、 人間の起源に関する精神的証明  ・・・・・・・・・・・・・・・・・216

五十一、人間の精神と心意は初めから存在していた  ・・・・・・・・219

五十二、肉体における精神の出現  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・222

五十三、神と創造物の関係  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・224

五十四、人間精神は神から生じることについて  ・・・・・・・・・・・・・227

五十五、魂、精神、心意  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・231

五十六、肉体的な力と知的な力  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・232

五十七、人間の性格に相違のある原因  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・234

五十八、人間の持つ知識の程度と神の顕示者  ・・・・・・・・・・・・・239

五十九、人間の持つ神の知識  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・241

六十、  精神の不滅性(一)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・245

六十一、精神の不滅性(二)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・249

六十二、完成には限りがない  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・253

六十三、来世における人間の進歩  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・256

六十四、人間の地位と死後の進歩  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・258

六十五、キタビ・アクダスの一節についての説明  ・・・・・・・・・・・・261

六十六、肉体の死後における理性的魂の存在  ・・・・・・・・・・・・・262

六十七、永遠の命と神の王国への入場  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・265

六十八、運命  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・268

六十九、星の影響  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・270

七十、  自由意志  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・273

七十一、幻と霊の交わり  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・277

七十二、精神的方法による治療  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・280

七十三、物質的手段による治療  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・283

 

第五部 その他の問題

七十四、悪は存在しない  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・286

七十五、二種類の苦痛  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・288

七十六、神の正義と慈悲  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・288

七十七、犯罪者の正しい取り扱いかた  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・291

七十八、ストライキ  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・297

七十九、外部世界の実体  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・303

八十、  真の先在  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・305

八十一、生まれ変わり  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・307

八十二、汎神論  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・317

八十三、知識を得る四つの方法  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・324

八十四、神の顕示者の教えに従う必要性  ・・・・・・・・・・・・・・・・・327

 

第1部

人類の進化に与える予言者の影響について

 

一、      自然はひとつの普遍的法則に支配されている。

 

自然は外見上、生と死、言い換えれば、万物の合成と分解から成り立つ状態であり、実体であります。

この自然は、絶対的組織、決められた法則、完全な秩序、完成した計画に従っており、それからはずれることは決してありません。実際、注意深く、鋭い洞察力をもって見るならば、目に見えない極小の原子から、太陽、大きな星、輝く天体といったような実在の世界にある巨大な物体に至るまで、その配列、組成、形体、運動のどれもが最高度の体系の中にあり、決してはずれることのない唯一の法則のもとにあることがわかります。

しかし、自然そのものを見れば、それ自体は知性も意志もないことがわかリます。例えば、火の本質は燃えることです。しかし、意志も知性もなく燃えます。水の本性は流動性です。意志も知性もなく流れます。太陽の本質は輝くことです。意志も知性もなく輝きます。蒸気の性質は上昇性にあります。意志も知性もなく上昇します。ですから、万物の自然な運動は強制されていることがはっきりします。動物の運動、なかでも人間の運動以外には、自発的運動はありません。人間はものごとの成り立ちを発見することによって自然に抵抗し、対抗することができます。こうして人間は自然の力を支配します。人間が成した発明はすべて、人間によるものごとの成り立ちの発見のお陰です。例えば人間は、東酉の情報交換の手段である電信を発明しました。

このように人間が自然を支配していることは明らかです。

さて、そのような現存の体系、配列、法則を考えてみる時、自然は、知性も知覚もないのにこれら全ては自然の生みだしたものと言えるでしょうか。そう言えないならば、知覚も知性もない自然は、全能である神の手中にあることがはっきりします。神は自然界の支配者であり、神は自ら望むものはどんなものでも自然界に出現させることができます。

実在の世界に現わされ、自然界になくてはならないものとして人間の命があります。こういう見地からすると、人間は枝であり、自然は根です。それでは、枝に存在する意志、知性、美徳は根にはないのでしょうか。

自然の本質は、永遠の全能者である神の力に掌握されています。神は、自然を精密な規則や法則のもとに置き、支配しているのです。@

 

注=@ 神の観念について   37「神は聖なる顕示者によってのみ理解される。」と、59「人間はどの程度神を知ることができるか。」を参照のこと。 読者はそこでバハイ信教は、神の神人同一の概念をとらないこと、もし習慣的用語を用いなければならない場合は、その象徴的意義を注意深く説明していることを知るであろう。

 

二、神の実在の立証と証拠

 

神の実在を実証するもののひとつとして、人間は人間を創造しなかったという事実があります。いえ、人間の創造主、設計者は人間以外のものです。

人間の創造主は人間と同じようなものではないことは確かであり、争う余地のないことです。無力な被造物が他の存在物を創造することはできないからです。物を生み出すもの、即ち創造主は、創造するために、あらゆる完全性を備えていなければなりません。

被造物は完全であるが、創造主は不完全であるということがあり得るでしょうか。絵画は傑作であるが、その作者は自分の芸術に未熟であるということがあり得るでしょうか。なぜなら、それは彼の芸術であり創造物だからです。その上、その絵は作者と同じではあり得ません。でなければ、絵そのものが絵を生み出したことになります。絵がどんなに完全であったとしても、作者に比べれば、その絵は未完成のうちの最高のものなのです。

この依存している世界は不完全さの源であり、神は完全さの源です。この依存している世界が持つ不完全さが神の完全さの証拠です。

例えば、人間を見れば、人間は弱いことがわかります。この被造物の弱さそのものが、永遠に全能なる神の力の証拠です。もし力がないとするならば、弱さは想像できないからです。従って、被造物の弱さは、神の力の証拠です。力がなければ、弱さもあり得ないからです。そこで、この弱さから、世界には力が存在することがはっきりしてきます。言い換えれば、この依存している世界には貧困があります。そこで必然的に富裕が存在します。貧困はこの世で明らかであるからです。この依存している世界には無知があります。必然的に知識があります。無知が見出されるからです。知識がなければ無知もないからです。無知は知識のないことであり、存在がなければ、非存在も認められません。

この依存している世界全体は、従わざるを得ない法則、規則に支配されています。人間でさえも、死、睡眠、その他に服従することを強制されています。即ち、人問はある条件のもとでは支配されています。必然的に、この支配されている状態は支配者の存在を示しています。依存しているものの特徴は依存性にあり、この依存性は必然的な必要性です。

ですから、独立性が本質である独立した存在があるはずです。

同様に、病人がいることから健康である人が理解されます。健康がなければ病気が証明されないからです。

それゆえ、あらゆる完全性を備えた永遠なる全能者がいることがはっきりとします。彼があらゆる完全性を備えていないならば、彼は、彼の創造物と同じになってしまうからです。 

この実在の世界全体を通して同じことが言えます。ごく小さな創作物にも創造者がいます。例えばこのパンの一切れは、製造者がいることを示しています。

神をほめ讃えなさい。ごく小さな物の形体に起こるわずかな変化でさえ、創造者の存在を証明しているのです。この限りない大宇宙が自らを創造し、物質と要素の働きにより存在するようになったといえるのでしょうか。そのような想像は、何とはっきりした誤りであることでしょうか。

このように分かりきった論議は、弱い精神のために引用されるのです。内にある感受性が開かれれば、数知れない、はっきりとした証拠が見えるようになります。このようにして、人が内に宿る精神を感じたとき、神の存在についての論証は必要なくなります。しかし、精神の恩恵に目覚めない人々にとっては、外面的な論証を打ち立てることが必要です。

 

三、教育者の必要性

 

この世に存在しているものについて考えてみると、鉱物、植物、動物、人間の各世界は皆、教育者を必要としていることがわかります。

もし、大地が耕されなければ、役に立たない雑草の生い茂るジャングルになります。しかし、耕作者が土地を耕すようになると、生き物を養う穀物を生産するようになります。ですから、土は農夫による耕作が必要なことがはっきりします。樹木について考えてごらんなさい。木が耕作者のないままにおかれれば実を結ばないでしょうし、実を結ばなければ役に立ちません。しかし、庭師の手入れを受ければ、その同じ実を結ばない木も実を結ぶようになります。そして、耕作し、肥料を施し、にがい実を生じる木に継ぎ木することによって甘い実をつけるようになります。これらは理にかなった論証です。今の時代の人々には、理屈にあった論証が必要なのです。

同じことが動物についてもあてはまります。動物が飼育されると飼い慣らされます。また人も教育されないとけだもののようになり、自然の支配のもとにおかれれば動物より低級なものとなり、一方教育されれば天使ともなることを考えてごらんなさい。多くの動物は仲間を食うことはありませんが、アフリカ中央部のスーダンでは、人が互いに食い殺しあうのです。

東洋と西洋を人間の権威のもとに結びつけるものは教育であることを熟考してください。すばらしい産業を生み出すのも教育、偉大な科学や芸術を広めるのも教育、新しい発見や規則を明らかにするのも教育です。もし教育者がいなければ、快適な生活、文明、人間性というようなものはないに違いありません。もし人が誰一人仲間の見えない荒野に一人きりにされたなら、彼は疑いもなく単なる野獣になるでしょう。ですから、教育者が必要であることがはっきりします。

ところで、教育には三つの種類があります。即ち、身体的、人間的、精神的教育です。身体的教育は、栄養の摂取と肉体的慰安と安楽による身体の成長、発達に関わっています。この教育は、動物と人間に共通しています。

人間的教育は、文明と進歩を意味しています。即ち、政治、行政、慈善事業、費易、芸術、手工芸、科学、偉大な発明、発見、緻密な規則、これらは、動物と区別されるものとして、人間に本質的な活動です。

精神的教育は、「神の王国」の教育です。それは、神の完全性を身につけることにあり、これこそ真の教育です。人はこの段階で神の祝福の焦点となり、「人間をわれの像のごとく、われに似せて作ろう。」[1]という言葉の顕現した人となるのです。これが人間世界の到達目標です。

そこで我々は、同時に身体的で人間的で精神的な教育者、しかもあらゆることに方のある権威を持つ教育者を必要とするのです。ですから、もし誰かが「自分は完全な理解力、知性を持っているから、そのような教育者はいらない。」というとしたら、彼は明白なことを否定していることになります。それはあたかも子供が「自分には教育はいらない。自分の理性と知性によって行動し、存在の完全さに到達するだろう。」といっているのと同じです。または、目の見えない人が「自分には視力はいらない。他の目の悪い人たちも苦もなく過ごしているのだから。」といっているのと同じです。

そこで、人が教育者を必要とすること、しかもその教育者は、疑う余地もなくあらゆる点で完全であり、すべての人を超越していなければならないことが明らかになります。もしそうではなくて、彼が他の人々と同程度であるならば、彼は人々の教育者ではあり得ません。もつとはっきり言うならば、彼は精神的教育者としてばかりでなく、同時に身体的、人間的教育者でなくてはなりません。即ち、彼は、人間に物質界のことを組織し、成就することを教え、どんな事態が起こっても世俗のことが組織され、規制されているように、生活する上で、協調と相互扶助を確立するための社会制度を形成することを教えなければなりません。同様に、彼は人間的教育も確立しなければなりません。つまり、彼は人間が完璧な発達をとげることができるように、知識や思想を教育しなければなりません。こうして、知識や科学が発展し、物ごとの真実、存在の神秘、生存の特性に気づくようにし、日毎に教訓、発明、法規は改善され、感覚にとらえられる物から知的なことがらに関する結論を引き出すことができるように教育しなければなりません。

彼はまた、精神的な教育も施さなくてはなりません。そうして、英知と理解力が形而上の世界に浸み渡り、聖霊のけがれを清めるそよかぜから恵沢を受け、最上の集合の仲間入りができるようにしなければなりません。彼は、人間の本質が神性の現われでる中心となるように、人間の本質を教育し、神の属性と神の名が人間の本質の鏡にまばゆく映り、「われは、人をわれのかたちににせて造ろう。」[2]という聖句が実現されるほどの高みにまで教育しなければなりません。

人間の力は、それほど大きな役割を果たすことはできませんし、人間の理性のみでは、そのような偉大な使命の責任を果たせないことは明らかです。援助も支持もないたった一人の人が、そのような高貴な建設の基礎をどうして築くことができるでしょうか。この使命の達成を可能にするためには、神聖な精神の力に頼らなくてはなりません。一人の聖なる使者が人間の世界に命を与え、地上のありさまを変え、知識を進歩させ、魂を生き生きとさせ、新たな生存の土台を築き、新しい基準を確立し、世界を組織し、あらゆる民族と宗教とを一つの基準のもとにおき、人々を不完全さと悪徳の世界から解放し、生まれながらに持つ美徳と、後天的な完全さへ到達したいという願望でふるい立たせるのです。

神の力を持っていないものが、そのような偉大な仕事を達成できないことは確かです。私たちは、このことを正義に基づいて考えなくてはなりません。これこそ正義の役目だからです。

世界中の政府、人民が全力を尽し、軍隊を動員しても宣布普及できない大業も、一人の「聖なる人」は援助も支持もなしに推進できるのです。はたして人間の力でできるでしょうか。いや、神に誓ってできません。例えばキリストはたった一人で、全ての戦勝国が全軍勢を使っても達成できなかった平和と正義の水準を高めたのです。ローマ帝国、フランス、ドイツ、ロシア、イギリスなどの数多くのさまざまな帝国や人民の運命を考えてごらんなさい。全ての国は同じテントのもとに集結したのです。即ち、キリストの出現は、これらの異なった国々に連合をもたらしたのです。中には、キリスト教の影響でしっかりと結びつき、お互いに生命財産を犠牲しあうほどになった国々もありました。キリスト教の大立者であったコンスタンチンの時代が過ぎて分裂が起こりました。キリストはこれらの国々を結びつけましたが、しばらくして、各政府が争いのもとになったのです。私が言いたいことは、キリストは地上の全ての王たちが成し得なかった大業を維持したということなのです。彼は、さまざまな宗教をひとつにし、古い慣習を修正したのです。ローマ人、ギリシャ人、シリア人、エジプト人、フェニキア人、ユダヤ人、その他のヨーロッパ人の間にどれほど大きな相違があったかをよく考えてごらんなさい。キリストはこれらの相異を取り除き、これらの共同体の間に愛をもたらしたのです。しばらくして各国はこの同盟をつぶしてしまいましたが、キリストの仕事は達成されたのです。

ですから、普遍的教育者というものは、同時に身体的、知的、精神的教育者でなくてはなりません。そして彼は、神の教師としての地位についているために、超自然的力を持たなくてはなりません。もし彼がそのような神聖な力を示せないならば、彼は教育できないでしょう。彼が不完全ならばどうして完全な教育を施すことができるでしょうか。彼が無知であるならどうして人々を賢くすることができるでしょうか。彼が不正であるならどうして人々を正しくすることができるでしょうか。彼が低俗であるならどうして人々を高貴にできるでしょうか。

公正に判断しなければなりません。これまでに出現した聖なる顕示者たちは、これら全ての資質を備えていたのかどうか。[3]

もし彼らがこれらの資質と完全さを持っていないのなら、彼らは真の教育者ではありません。思慮深い人たちに対して、モーゼ、キリストその他の聖なる顕示者たちの予言者性を理性的論議によって証明することは、私たちの任務であるにちがいありません。そして私たちが提供する立証と証拠は、伝統的論理ではなく、理性的論理に基づいていなくてはなりません。このように実在の世界は真に教育者を必要としていること、その教育は神の力によって行なわれるべきであることを理性的論証によって証明してきました。この神聖な力は啓示であり、世界はこの人間の力を越えたこの力によって教育されることは疑いのないところです。

 

 

四、アブラハム

 

この力を所有し、その力によって援助されていた者の一人はアブラハムでした。その証拠は、彼がメソポタミアに生まれ、神の唯一性を知らない家族からでたことです。彼は、彼らのすべての神々を拒絶することによって、自分の国、民衆、家族にさえも対抗したのでした。その仕事は、簡単でもなければ、容易でもありませんでした。それは、あたかも今日、聖書に愛着を持つキリスト教徒の所へ行き、キリストを否定するようなもの、あるいは、ローマ教皇の宮廷でーそのようなことは決して起こりませんように。―最も強力な方法でキリストに不敬の言葉を吐き、民衆に対抗するようなものです。

その民衆は、ひとつの神ではなく、多くの神々を信仰し、奇跡は、神々によって起こされるとしていました。それで彼らは皆アブラハムに反対して立ち上がり、アブラハムの兄弟の息子であるロトと、あまり重要でない一人か二人の者を除いては、誰もアブラハムを支持しませんでした。ついに敵の反対によって絶望の淵に立たされた彼は、生まれ故郷を去ることを余儀なくされました。事実、彼らは、アブラハムがつぶされ、破壊され、彼の根跡すらも失くなるようにするため、アブラハムを追放したのです。

そこでアブラハムは、聖地にやってきました。彼の追放は、彼の破壊と破滅をもたらすと敵は考えたのでした。というのは、権利を奪われ、四方から反対され、生まれ故郷を追放された者は―王といえども―絶滅をさけられないと思われたからでした。しかしアブラハムは動揺もせずに、並はずれた堅固さを示しました。一神はこの追放を彼の永遠の名誉とされ、ついに彼は、多神教の世代の中で、神の唯一性を確立したのでした。この追放はアブラハムの子孫の繁栄のもととなり、聖地は彼らに与えられたのでした。その結果、アブラハムの教えが四方に広まり、彼の子孫からヤコブが出現し、エジプトの支配者になったヨセフが現われました。彼の追放の結果、モーゼやキリストといった者が彼の子孫から現われ、ハガルが見い出され、ハガルからイシュマエルが生まれ、その子孫の一人はマホメットです。彼の追放の結果、バブが子孫から現われました。そしてイスラエルの予言者たちがアブラハムの子孫からたくさんでたのでした。そうして永久にそのように続くでしょう。彼の追放の結果、ヨーロッパ全体とアジアの大部分がイスラエルの神の保護下におかれました。自国から亡命した男がそのような一族をつくる土台となり、そのような信仰を確立することを可能にした力は、どのようなものであったかよく考えてごらんなさい。これらすべては、偶然起こったといえるでしょうか。私たちは公平でなければなりません。この人は、真の教育者であったのかどうか。

アブラハムがウルからシリアのアレッポに追放されたことがこの結果をもたらしたのですから、バハオラがテヘランからバグダットヘ、そこからコンスタンチノープル、ルーメニアヘ、そして聖地へと追放された結果をよく考えてみなくてはなりません。

アブラハムは何と完璧な教育者であったことか考えてごらんなさい。

 

五、モーゼ

 

モーゼは長いこと荒野の羊飼いでした。彼は残忍な家庭に育ち、殺人を犯して羊飼いポなった者であると人々の間に広く知られていました。ファラオの政府や人々は、彼を激しく憎み、ひどく嫌っていました。

このような男が、偉大な国を束縛の鎖から解放し、人々を満足させ、エジプトから連れ出し聖地へ導いたのでした。

この民衆は、堕落の底から栄光の頂きへと引き上げられたのです。彼らは捕われの身でしたが、自由になりました。彼らは諸部族のうちで最も無知でしたが、最も賢くなりました。モーゼが彼らに与えた制度のおかげで、彼らはすべての国の間で、栄誉を与えられる地位に達し、彼らの名声はあらゆる国へ広がりました。実際、まわりの国々で人をほめる時に、「確かに彼はイスラエル人だ。」というほどまでになったのでした。モーゼは法律と祭式を確立しました。これらは、イスラエルの人々に命を与え、当時可能な限りの最高度の文明に導いたのでした。

彼らがそれほどまでに発展したので、ギリシャの哲学者らが、学問のあるイスラエル人から知識を学ぶためにやってきたものでした。その一人はソクラテスでした。彼はシリアを訪れ、イスラエルの子供たちから神の唯一性と魂の不滅性の教えを学びました。彼はギリシャに戻ってこの教えを広めました。後にギリシャ人たちは彼に反対して立ち上がり、その不信心を非難し、アレオパガスの前で彼に罪状認否を問い、毒による死刑を宣告したのでした。

さて、どもりで、ファラオの家に育ち、人々の間に人殺しとして知られ、恐怖から長いこと身を隠し、羊飼いになった男が、どのようにしてそのような偉大な大業を確立できたのでしょうか。地上の最も賢い哲学者でさえ、この千分の一の影響も及ぼすことができなかったというのに。これは本当に驚嘆すべきことです。

どもる舌を持った男、正確に会話することすらできなかった男が、この偉大な大業を維持することに成功したのです。もし彼が神の力によって援助されていなかったなら、決してこの偉大な仕事は実現されなかったことでしょう。これらの事実は否定できません。唯物主義の哲学者、ギリシャの思想家、ローマの偉人たちは世界に有名になりましたが、彼らはそれぞれ、学問のほんの一分野だけを極めたにすぎません。ガレンとヒポクラテスは医学で、アリストートルは論理と論証において、プラトーは倫理と神学で称えられました。一介の羊飼いがどのようにしてこれらすべての知識を習得できたのでしょうか。彼が全能なる力によって援助されていたことは疑いありません。

どれほどひどい試練や困難が人々に振りかかることかも考えなさい。残酷な行為をさけようとして、モーゼはエジプト人をたおしたのでした。

その後、彼は人々の間で人殺しとして、とりわけ彼が殺した男が統治国の者であったがためになおさら広く知れ渡ったのでした。彼は逃げ出し、彼が予言者としての地位に引き上げられたのはその後のことだったのです。

彼の悪い評判にもかかわらず、彼の偉大な制度と法律を確立する上で、彼が超自然の力によって導かれていたことは、何と驚くべきことでしょうか。

 

六、キリスト

 

そののちキリストが現われて、「我は聖なる精神から生まれた。」と言ったのです。今ではキリスト教徒にとってこの主張を信じることは簡単なことですが、当時はとても大変なことだったのです。福音書によれば、パリサイ人はこう言ったそうです。「これは、我々の知っているナザレのヨセフの息子ではないか。それなのに我は天から下って来たなどとどうして言えるのだ。」と。

要するに、誰の目から見ても明らかに身分の低いこの男が、千五百年続いた宗教を廃止するほどの力を持って立ち上がったのでした。

当時はその宗教からほんのわずか逸脱するだけでも違反者は危険や死にさらされたのでした。その上キリストの時代には世界全体の道徳やイスラエル人の状態は完全に混乱、腐敗し、イスラエルは最大の堕落、非惨、束縛の状態に落ち込んでいました。ある時はカルディア人とペルシャ人に捕えられ、またある時はアッシリア人の奴隷に落ちぶれ、その後はギリシャ人に支配され、従者になりさがり、ついにはローマ人によって支配され、さげすまれたのでした。この若い男、キリストは超自然の力の援助によって古代のモーゼの法律を廃棄し、一般道徳を改善し、再びイスラエル人のために永遠の栄光の基礎を置いたのです。その上、彼は人類に普遍的平和の吉報をもたらし、イスラエル人のみではなく全人類の全般的幸福をもたらす教えを外国にも広めたのでした。

最初に彼をなきものにしようと熱心だったのは、彼の同族のイスラエル人だったのでした。全くはた目には、彼らは彼を圧倒し、絶望の淵に追いやったように見えました。ついに彼らは彼にいばらの冠をかぶせ十字架にかけたのでした。しかしキリストは明らかな悲惨さと苦難のどん底にありながら宣言したのでした。「この太陽は輝き渡るであろう。この光は輝き、わが恩恵は世界を取り囲み、我が敵はさげすまれるであろう。」そして彼が言ったとおりになりました。地上の王はすべて彼を凌ぐことはできなかったのです。いやそれどころか彼らのすべての基準は捨てさられ、虐げられた者の旗が天頂に高く掲げられたのです。

しかしこのことは、人間の理解をはるかに越えています。ですから、この栄光に満ちた者は人間の世界の真の教育者であり、彼は聖なる力によって援助され、強固にされていたことが明白です。

 

七、マホメット

 

さて、マホメットにたどりつきました。アメリカ人やヨーロッパ人は、この予言者についての物語をいろいろ聞いています。しかも彼らは、それらが真実であると思い込んでいます。ところがそれらを語った人々はと言えば、無知な人々か、マホメットに反対した人々かのどちらかでした。その多くは聖職者でした。彼らはマホメットに関する根拠のない伝説をくり返し、しかもそれがマホメットを賞讃することになると愚かにも信じていたのでした。

このようにして、一部のイスラム教徒はマホメットの一夫多妻をマホメット賞讃の中心点とし、それを一つの奇蹟として、驚くべきものとみなしたのでした。そして、ヨーロッパの歴史家の多くはこれらの無知な人々の話を信頼しています。

例えば、愚かな人が牧師にこんな話をしました。偉大さの真の証拠は勇敢さと流血である、ある日戦場で、マホメットの一信者は百人の首を切り落とした、と。これは単なる想像にすぎないのに、この話は牧師を誤解させ、マホメットヘの信仰を証明する方法は殺人であると推測させました。それどころか、マホメットの遠征軍は常に防禦体制をとっていたのでした。その証拠に、メッカでの十三年間、彼と信者たちは最も狂暴な迫害に耐えたのでした。この時、彼らは憎しみの矢の的でした。同志のある者は殺され、財産は没収されました。池の者たちは外国へ逃げました。マホメット自身は、クライシテス族の激しい迫害にあい、ついに彼らが彼を殺すことを決めたため、夜中にメジナヘ逃亡しました。それでも敵は迫害を止めず、彼をメジナまで、そして信者をアビシニアにまで追跡したのでした。

これらのアラブの部族は、残忍さと野蛮のどん底に落ち込んでおり、彼らに比較すれば、アフリカの未開人やアメリカの乱暴なインディアンの方がプラトーのように進んでいました。アメリカの未開人は、アラブ人が名誉あることをしていると称えつつ、娘を生き埋めにするようなことはしません。それで、多くの男は、自分の妻に、「もし娘を産んだらお前を殺す。」といっておどしたものでした。現在に至ってもアラブ人は娘を持つことを恐れています。その上、男は千人の女をめとることが許され、多くの夫は、十人以上の妻を家に持っていました。これらの部族が戦争をすると、勝った方は征服した部族の女、子供を捕慮にし、奴隷としました。

十人の妻を持った男が死ぬと、これらの女たちの息子はお互いの母親に突進し、息子の一人が自分のマントを父の妻の頭に投げて「この女は、法律の認める私の財産だ。」と叫べば、たちまちその不幸な女は、彼の囚人、奴隷となりました。彼は彼女に対してどんなことでもできたのです。殺すことも、井戸にとじこめることも、あるいは、死が彼女を解放するまで打ったり、ののしったり、痛めつけることもできたのです。アラブの風俗習慣によれば、彼は彼女の主人だったのです。家庭内の妻たちや子供たちの間に、悪意、嫉妬、憎悪、敵意があったにちがいありません。ですから、この問題をこれ以上広げても意味がありません。ですが、これらの抑圧された女性たちの生活状態がいかなるものであったか、もう一度考えてみてください。その上、これらアラブの種族の生活手段は、掠奪と強盗でした。彼らはいつも闘争と戦争に明け暮れ、互いに殺し合い、互いの財産を掠奪し荒廃させ、女、子供を外部の人に売ったのでした。貴族の娘や息子が、この上もない快楽とぜいたくな生活を送っていたかと思うと、一夜明ければ恥辱と貧困と監禁状態に変わっていたというようなことが、どれほどしばしばあったことでしょう。昨日は王女で、今日はとらわれの身となり、昨日、立派な貴婦人であったものが今日は奴隷であるといった具合でした。

マホメットは、こうした種族の中にあって、神の啓示を受けました。そして、彼らから十三年間に及ぶ迫害に耐えた後、逃亡したのでした。しかし、人々は弾圧を止めませんでした。彼らは、彼とすべての信者を根絶しようと結束したのでした。こうした事情だったので、マホメットは、武器を取って立ちあがらないわけにはいかなかったのです。これが真実です。

私たちは頑迷ではありませんし、彼をかばいたいのでもありません。私たちは正しいですし、また正しいことを言っているのです。公平に見てください。もしキリストが、そのような残虐で野蛮な種族の中でそのような状態に置かれ、十三年間、弟子たちと共にこれらの苦難を耐え、あげくの果て、自分の土地を離れなければならないことを余儀なくされたならば、一しかし、それでもなお、これらの無法な種族が彼を迫害し、人々を殺し、財産を掠奪し、女、子供を捕え続けるとしたら、彼らに対してのキリストの行動はどのようなものであったでしょうか。もし、この迫害がキリストに対してのみ加えられたのであれば、彼は、許したでしょうし、そのような寛恕の行為は、最も礼讃すべきものだったことでしょう。しかし、これらの残酷で血に飢えた殺人者たちが、これらの抑圧された人々すべてを殺し、掠奪し、危害を加え、女、子供を捕まえようとしているのを目のあたりにしたとすれば、彼は彼らを保護し、虐待者に抵抗したにちがいありません。ならば、マホメットの行為に、どんな異議を唱えられるというのでしょう。異議ありとすれば、マホメットが信者やその女、子供を率いて、これら野蛮な部族に服従しなかったことでしょうか。これらの部族をその残忍性から解放することこそ最高の親切であったし、彼らを強制し、拘束することは、真の慈悲であったのです。それはちょうど、毒の入ったコップを持っている人が、まさに飲もうとする時に、友がそのコップを割って、彼を救うようなものです。もしキリストが同じ状況に置かれたとしたら、きっと征服力を発揮して、人々や女、子供を血に飢えた狼の爪から守ったにちがいありません。

マホメットは、キリスト教徒に対して戦ったことはありませんでした。それどころか、彼らを親切に扱い、完全な自由を与えました。キリスト教徒の一団は、ナジランに住み、彼の世話と保護のもとにありました。マホメットは言いました。「もし誰かが、彼らの権利を侵すならば、私自身、彼の敵となり、神の面前で彼を咎めるであろう。」と。彼が布告した法令には、キリスト教徒やユダヤ教徒の生命、財産、名誉は神の保護下にあり、イスラム教徒がキリスト教徒の女性と結婚した場合、夫は妻が教会へ行くことを妨げてはならないし、ベールをかぶることを強制してもいけない。もし妻が亡くなったときには、遺体をキリスト教の司祭にまかせなければならないとはっきり述べられています。キリスト教徒が教会を建てようとした時には、イスラム教徒は、彼らを援助しなければなりません。イスラム教徒が敵と戦う場合には、キリスト教徒は自らの意志でイスラム教を守って戦うことを望む以外は、戦争の義務を免除されます。彼らはイスラム教の保護下にあるからです。しかし、この免除の代償として、彼らは毎年少額のお金を支払わなくてはなりません。要するに、これらの問題に関して、詳しく競明された七つの法令があり、そのうちのある写しは、今なお、エルサレムに現存しています。これは確かな事実ですし、私だけが言っていることではありません。第二世カリフ[4]の布告は今なお、エルサレムの正統派教会に管理され現存しており、このことについては疑問をはさむ余地はありません。[5]

それにもかかわらず、しばらくして、イスラム教徒とキリスト教徒の双方が裏切りあったことから、彼らの間に憎悪と敵意が生まれました。この事実からかけ離れている、イスラム教徒、キリスト教徒の物語は全くの作り話です。それらは、狂信や無知から生じたか、あるいは、激しい敵意から発生したものです。

例えば、イスラム教徒はこんな話をします。「マホメットは月を裂いた。そしてそれがメッカの山の上に落ちた。」彼らは、月はマホメットが二つに割って、一つはこの山に投げられ、もう一方はほかの山に投げられた小さな物体だと思いこんでいます。そうした物語は、全くの狂信です。僧侶が引用する伝承も、彼らが非難する歴史的出来事もすべて誇張されたものであり、さもなければ、全く根拠のないものです。

簡単にお話しします。マホメットはアラビア半島のヒジャスの砂漠に出現しました。そこは荒れはてた、砂ばかりの人の住まない不毛の荒野でした。その一部は、メッカやメジナのように猛烈に暑いのです。人々は砂漠の民としての風俗習慣を持つ遊牧民で、教育も学問も全くありません。マホメット自身、無学でしたし、コーランは、もとは羊の肩胛骨や、やしの葉に書かれたのでした。こうしたいろいろのことから、マホメットが遣わされた当時の人々の状態がわかります。マホメットが彼らに尋ねた最初の質問は、「あなたがたは、どうして旧約聖書の五書と福音書を承認しないのですか。なぜキリストとモーゼを信じないのですか。」というものでした。この言葉は彼らには、とても難しかったので、彼らは尋ねました。「私たちの先祖は、五書や福音書を信じなかったのです。これはなぜですか。教えてください。」彼は答えました。「彼らは誤り導かれていたのです。あなた方は、たとえあなた方の父親であろうと先祖であろうと、五書や福音書を信じない人はすべて拒否すべきです。」

そのような国で、しかもそうした野蛮な部族の中で、一人の学問のない人間が一冊の本を出したのです。その中で彼は全く完璧で、しかも理解しやすい文体で、神の属性、完全性、神の使者たちの予言者としての性質、神の法則、さらにある程度の科学的事実について説明したのでした。

あなた方もご存じのように、近代的観察がなされる以前、即ち西暦一世紀から十五世紀に至るまでの間、世界の数学者たちは、地球が字宙の中心であり、太陽が動くということに意見が一致していました。新しい理論の立役者であった有名な天文学者[6]は、地球の運動と太陽の不動性を発見しました。彼の時代に至るまで、世界の天文学者、哲学者はすべてプトレミー説に従っており、この説に異議を唱える者は無知な者とされていました。ピタゴラスや晩年のプラトンは、太陽が毎年黄道を一回転する運動は太陽によって生じるものではなく、むしろ勉球が太陽のまわりを動くことによって生じるという理論を採用していたにもかかわらず、この理論は完全に忘れ去られ、プトレミー理論がすべての数学者によって受け入れられて.いたのです。

しかし、コーランの中には、このプトレミー理論に反対する節が数ケ所あります。その中の一つに「太陽は固定された場所で動いている。」という節で、これは太陽の不動性と太陽の一つの軸に対する自転を表わしています。[7]また別の節には、「そしてすべての星はそれぞれの天界で動く。」[8]とあります。太陽、月、地球その他の天体の運動は、このように説明されているのです。コーランが世に出た時、すべての数学者はこの言葉を嘲笑して、その理論を無知なものと見なしました。イスラムの学者でさえも、これらの文が世に受け入れられているプトレミー説と反対であることを知って、その説明を避けなくてはなりませんでした。

有名な天文学者(ガリレオ)が自分の発明した望遠鏡の助けによって新しい観測をし、重大な発見をしたのは、実に十五世紀で、マホメットの死後約九百年たってからでした。地球の回転、さらに太陽の固定性とその軸に対する自転も発見されたのです。コーランの節は事実と一致しており、プトレミー説は想像にすぎないことが明らかになったのです。

要するに、中東の人々は、千三百年問、マホメットの宗教のもとで育くまれたのでした。ヨーロッパが野蛮さの深淵に沈んでいた中世に、アラブ人たちは、学問、芸術、数学、文化、政治、その他の科学において、地上のいかなる国よりも優れておりました。これらアラブの部族の啓発者、教育者であり、異なる人種間に人間の文明と美徳をもたらした建設者は、実にこの一人の無学な男、マホメットだったのです。この輝かしい人問は、真の教育者であったかあるいはそうではなかったのか。公正な判断が必要です。

 

 

八、バブ

 

バブについてお話ししましょう。―我が魂を彼の犠牲となしたまえ―。

バブは、青年時代に、即ち彼の祝福された生涯の二五年目に、彼の大業を宣言するために立ち上がりました。彼は一度も学校で学んだことはなく、いかなる教師からも知識を得たことがありませんでした。このことは、シーア教徒に広く認められていましたし、またシラズの人々も証明しています。それにもかかわらず、彼は、最も完全な学識を与えられて、突然人々の前に現われたのです。彼は、一介の商人にすぎなかったのですが、ペルシャのあらゆるイスラム教学者を困惑させました。彼はたった一人で、想像を越えた方法で、宗教的狂信で有名なペルシャ人の間に大業を打ち立てたのでした。この輝かしい魂は、宗教、道徳、当時の状況、ペルシャの風俗習慣の士台を揺るがす力を持って立ち上がり、新しい規則、新しい法律、新しい宗教を制定したのでした。国家の有力者、ほとんどすべての僧侶、役人たちは、彼を滅ぼそうと立ち上がったのですが、彼はひとりで抵抗し、ペルシャ全体を揺さぶったのでした。

一般の人々ばかりでなく、多くのイスラム教学者や役人たちも、彼の大業のために喜んで命を犠牲にし、殉教の平野へと急いだのでした。

政府、国家、神学者、有力者たちは、彼の光を消そうとしましたが、そうはいきませんでした。ついに彼の月は上がり、彼の星は輝き出し、彼の礎石はしっかりと固まり、彼の夜明けの地は、輝かしいものとなりました。彼は無知な大衆に神の教育を施し、ペルシャ人の思想、道徳、習慣、情勢に実にすばらしい効果を及ぼしました。彼は、バハの太陽が顕現するという吉報を信者に告げ、彼らに信じる用意をさせました。

一人の若い商人による、そのようなすばらしい標と偉大な効果の現れ、人々の心や世間一般の思想に与えた影響、進歩発展の基礎の確立、成功と繁栄の原則の系統化などは、彼が完全な教育者であったことの最大の証拠を成しています。心正しい人は、このことを信じることにおいて決してためらったりしないでしょう。

 

九 、バハオラ

 

バハオラは、ペルシャ帝国がまったくの非啓蒙主義と無知にひたり、ひどい盲目的狂信に陥っている時代に現われました。ヨーロッパの歴史において、過去幾世紀にもわたるペルシャの道徳、習慣、思想の詳細な記録が読まれているにちがいありません。ですから、それを繰り返してもしかたがありません。簡単に言うならば、ペルシャは地に落ちて、あらゆる外国人旅行者をして、以前はさしも栄光に満ち、高度な文明を持ったこの国が、今やひっくり返り、衰微し、荒廃し、人民がいかに品位を失なってしまったことかと嘆かせるほどになってしまったということです。

バハオラが現われたのは、まさにこうした時代だったのです。彼の父は大臣でしたが、ウラマ(国教法学者)ではありませんでした。彼は一度も学校で学んだこともなく、ウラマや学者と親交があったわけでもありません。彼の人生の初期は、この上もない幸せのうちに過ぎました。彼の友人や仲間は、上流階級のペルシャ人たちでしたが学者ではありませんでした。

バブが現われるとすぐに、バハオラはこう言いました。「この偉大な人物は正義の主です。そして、バブを信仰することはすべての人の義務です。」国教のウラマたちは、バブに反抗するようにペルシャ政府に強制し、さらに、その信者たちを虐殺し、略奪し、追放することを命じた法令を発したのでしたが、バハオラはバブを援助するために立ち上がり、バブの真理に多くの証明と積極的証拠を与えました。あらゆる地方で、彼らは改宗者を殺し、焼き、略奪し、女、子供に暴行さえ加え始めました。これにもひるまずに、バハオラはバブの言葉を広めるために、確信を持って力強く立ち上がりました。片時も逃げ隠れすることもなく、堂々と敵と渡り合いました。そして、註拠と証明を示すことに没頭し、神の言葉の伝達者として認められました。さまざまに変転する事態の中で、彼は非常な苦難に耐え、いつも殉教の危険にさらされていました。

彼は鎖につながれ、地下牢に監禁されました。莫大な財産や遺産は略奪され、没収されました。次から次へと四回も流刑され、最後にアッカの最大の牢獄に安息を見い出しました。

これらのことにもかかわらず、彼は神の大業の偉大さを広めることを片時も止めませんでした。彼は全ペルシャ人が驚意の的としたほどの徳性、知識、完全性を現わしました。テヘラン、バグダット、コンスタンチノープル、ルーメリア、そしてアッカにおいてさえ、彼に面接した学者や科学者の誰もが、味方であろうと敵であろうと、どんな問題を提起しても、必ず彼の申し分のない、納得のいく解答を得たのでした。彼だけがあらゆる完全性に秀でていることを誰もが認めたのでした。

バグダットでは、イスラム教のウラマやユダヤ教のラビやキリスト教徒たちと、ヨーロッパのある学者たちのなごやかな親睦会がよく開かれました。それぞれ問題を提起しましたが、彼らの文化程度はまちまちであったにもかかわらず、各々、十分確信できる解答を聞いて満足して帰っていきました。カルバラ、ナジャフにいたペルシャのウラマたちも、彼の所へ使いにやる賢者を一人選びました。その賢者の名前は、ムラ・ハサン・アムといいました。彼は聖者の前にやって来て、ウラマに代わってたくさんの質問を提出しました。それに対してバハオラは答えました。するとハサン・アムは言いました。「ウラマは、ためらうことなく、バハオラの英知と徳性を承認しています。そして、あらゆる学問において彼に勝る者はなく、並ぶ者もないと異口同音にたたえています。また、決してその学問を学習したのでもなければ、習得したものでもなかったことは明らかです。それでもなお、ウラマたちは言い張るのです。『我々は、これだけでは満足できない。我々は彼の英知と正義の徳から、彼の使命の真実を認めるわけにはいかない。それゆえ、我々は、我々の心を満足させ、安心させるために奇蹟を示すことを要求する。』」と。

バハオラは答えました。「神がその被造物を試すべきものであり、被造物が神を試すべきものではないのですから、あなた方には、こういう要求をだす権利はありません。ですが、私は、この要求をあえて受けましょう。しかし、神の大業は、時間毎に演じられ、毎日何か新しい出し物を要求される芝居の見世物のようなものではありません。もしそうだとすれば、神の大業は単なる子供の遊びになってしまうでしょう。

ですから、ウラマたちは集まって全員で一つの奇蹟を選ばなければなりません。そしてその奇蹟が演じられた後には、一切私に疑いを持たず、私の大業の真実を認めざんげすると手紙を書いてください。そしてその手紙に封をして私のところに持って来てください。これが当たり前のやり方でしょう。もし、奇蹟が演じられれば、彼らの疑いは晴れるでしょう。もしそうでなければ、私は詐欺師とみなされるでしょう。この賢者、ハサン・アムは立ち上がって答えました。「もうこれ以上お聞きすることはありません。」そして、彼は信者ではなかったのですが、祝福されたお方のひざに接吻して立ち去りました。彼はウラマを集めてこの聖なる言葉を伝えました。「この男は魔術師だ。彼はおそらく魔法を演じるだろう。そうしたら我々は何も言えなくなってしまう。」こう信じて、彼らはそれ以上問題を押し進めようとはしませんでした。

この人、ハサン・アムは、多くの集会でこのことを話しました。カルバラを去って、ケルマンシャーとテヘランに行き、いたる所でウラマたちの畏怖と逃げ腰を強調した詳しい説明を広めました。

要するに、東洋における彼の反対者は皆、彼の偉大さ、威厳、知識、徳性を認めたのでした。そして彼らは敵ではありましたが、いつも彼のことを「かの有名なバハオラ」と呼んだのでした。

この偉大な光がペルシャの地平線から突然昇った時、すべての人々、大臣たち、ウマラたち、その他いろいろな階級の人々が彼に反対して立ち上がり、激しい敵意を抱いて追い廻し、「この男は、宗教、法律、国家、帝国を抑圧し、破壊しようとしている。」と決めつけました。キリストも同じことを言われたのです。しかしバハオラは孤立無援、決して弱気を見せることもなく、彼らすべてに抵抗しました。ついに彼らは言いました。「この男がペルシャにいる限り平和も安泰もない。ペルシャがもとの平穏な状態に戻るように彼を追放すべきだ。」

彼らは、暴力をふるって、彼がしかたなくペルシャを出国する許可を申請しなくてはならなくなるように仕向けました。こうすれば彼の真理の光は消えるに違いないと考えたのでしたが、その結果は全く反対でした。大業は広まり、その炎は、もっと強くなりました。最初はペルシャだけに広まりましたが、バハオラの追放は他の国々へ大業を流布させるもととなったのです。その後敵たちは言いました。「イラク・アラブはペルシャからあまり離れていない。もっと遠い国に送るべきだ。」こういうわけで、ペルシャ政府はバハオラをイラクからコンスタンチノープルヘ送ることを決めたのです。この時もまた大業は少しも弱まらないことが証明されました。さらに彼らは言いました。「コンスタンチノープルはいろいろな人種や人々が通過したり滞在したりする所だ。その中にはペルシャ人もたくさんいる。」こういうわけでペルシャ人は彼をはるかルーメリアに追放しました。とうとう彼らは言いました。「彼の影響を受けない所はどこにもない。彼が無力になり、彼の家族や信者たちが悲惨な目に合う所に送らなければならない。」そして彼らはアッカの牢獄を選びました。そこは、殺人犯、盗人、追いはぎなどを入れるための牢獄でした。事実彼らは、バハオラをそのような人々と同一視したのでした。しかし神の力は現われました。彼の言葉は広まり、バハオラの偉大さは明らかになりました。この牢獄から、しかもそのような屈辱的な状況のもとにありながら、彼はペルシャをより高い位置へと進歩させるもとになったからです。彼はすべての敵を征服し、神の大業には抵抗し得ないことを立証したのでした。彼の聖なる教えはすべての地方に広がり、彼の大業は確立されました。

もちろん、ペルシャのいたるところで反対者は彼に抵抗して立ち上がり、激しく憎悪して彼の改宗者を牢に入れ、殺し、なぐり、何千という家を焼き、破壊し、あらゆる手段を使って大業を根絶しようとやっきになりました。これらのことにもかかわらず、殺人者、追いはぎ、盗人の入っている牢獄から大業は高揚したのでした。彼の教えは外国へも広まり、彼の勧告は激しい憎しみを持っていた人々に影響を与え、彼らを確固とした信者にしました。ペルシャ政府でさえも目覚めてウラマたちの誤りによって起こったことを後悔したのでした。

バハオラが聖地にあるこの牢獄に来た時、賢者たちは二、三千年前予言者の舌を通して神が与えた吉報が再び現われた、神は約束に忠実であったと悟りました。ある予言者たちに、「万軍の主はこの聖地に出現する。」という吉報が啓示されていたからです。これらすべての約束は成就しました。もし反対者の迫害や追放や流刑がなかったとしたら、どのようにしてバハオラはペルシャを去ることを余儀なくされ、この聖地にテントを張ることができたでしょうか。とても想像できることではありません。反対者は彼を牢獄に入れることによって、祝福された大業を完全に破壊し、根絶しようとしたのでしたが、実際にはこの牢獄は大いに助けになり、発展の足がかりとなったのでした。バハオラの聖なる高名は東西に鳴り響き、「真理の太陽」の光は世界中に輝き渡りました。神をほめ讃えよ!彼は囚人でしたが、彼のテントはカルメル山上に高く張りめぐらされ、彼は堂々と活動しました。彼の面前に来た友人やよそからきた人の誰もが言ったものでした。「このお方はまさに王子です。囚人ではありません。」

牢獄に到着した際(アドリアノープル)、彼はフランス大使を通じてナポレオン三世に書簡を送りました。その要旨は「我が罪状は何か、なぜ我はこの牢獄、この土牢に監禁されるのかおたずねする。」というものでした。ナポレオンは答えませんでした。次に著作スーライ・ヘイカルに記述されている第二の書簡が出され、その概要は次のようなものでした。「ナポレオンよ、汝は我の声明に耳を傾けず、それに答えもしなかった。それゆえ、汝の支配権はまもなく奪われ、汝は完全に打ち負かされるであろう。」この書簡は流刑された仲間が皆知っているように、シーザー・カタファーコーの世話によって郵送でナポレオンに送られました。この警告文はペルシャ全体に届きました。当時ペルシャにはキタビ・ヘイカルという書が広まっていましたが、この書簡はその本の中に載っていたのです。これは一八六九年のことでした。そしてスーライ・ヘイカルは、ペルシャとインドに行き渡っており、信者の手に入ったので、皆何事が起きるかと待ちかまえていました。それからほどなく一八七〇年にドイツとフランスの間に戦争が起きました。当時ドイツの勝利を信じた者は誰一人としてなかったのですが、ナポレオンは敗北し、名誉は奪われました。彼は敵に降参し、彼の栄光は地に落ちました。

バハオラの書簡は、他の王たちにも送られました。その中にナセル・デン・シャー陛下にあてられたものもあります。その書簡の中でバハオラは述べています。「私を召喚されよ。ウラマを集め、真理と虚偽を明らかにするために、証拠と論証を求められよ。」ナセル・デン・シャー陛下はウラマたちにこの聖なる書簡を送り、使命を果たすように提議しましたが、ウラマたちはあえて受けて立ちませんでした。そこで陛下は彼らの中から最も優れた七人にこの挑戦に対する解答を書くように言いました。しばらくして彼らは、「この男は国教の反対者であり、陛下の敵である。」といって、この祝福された手紙を返して来ました。ペルシャの皇帝陛下は激怒して、「これは論証の問題である。しかも真理と虚偽に関する論証の問題である。政府に対する敵意など何の関係があるだろう。この書簡に返答さえできないこうしたウラマたちを我々はどれほど尊敬して来たことか。実に嘆かわしい。」と言われました。

要するに、バハオラが王たちにあてた書簡の中に書いたことはすべて実現されつつあります。もし一八七〇年からこのかたのいろいろなできごとを検討してみれば、殆どすべてのことは予言された通り起こっていることがわかるでしょう。ただ、ほんの二、三の予言はそのままになっていますが、それもやがて明らかになるでしょう。

また他国の人々、信者ではない他の宗派の人々も数多くの目を見張るようなできごとを、バハオラのたまものであるとしました。ある人たちは彼についての論文さえ書きました。中でも、バグダットのスンニ派の学者であるセイエド・ダウオデ氏はバハオラの超自然的行為について短い論文を書いています。今日でも東洋の各地で、バハオラの顕示は信奉しないが、彼を聖者と信じ、バハオラによってもたらされた奇蹟を物語る人々がおります。

話をまとめますと、聖地に迎えられた人々ばかりではなく、反対者も支持者も皆バハオラの偉大さを認め、聖所に入るとたちまちバハオラのかもしだす雰囲気に圧倒されて大抵の人はひとことも言えないほどでした。激しい敵対者の中には、「自分は彼のところへ行ったら、これこれのことを言ってこういう風に論争しよう。」と決心しても、実際バハオラの前にでると驚嘆し、困惑し、ひとこともしゃべれないというようなことが何度起こったことでしょうか。

バハオラはアラビア語を学んだことはありません。先生も家庭教師もありませんでしたし、学校へ通ったこともありません。それにもかかわらず、彼のアラビア語の著述ばかりか、アラビア語での聖なる解説の雄弁さ、美しさには、堂に入ったアラビア語学者でさえ感嘆させられ、胆をつぶされました。そして彼に比較できるものはなく、並ぶものもないことを皆が認めました。

もしトラの書(ユダヤ教)の本文を注意深く調べてみるならば、神の顕示者が自分を否定する者に向かって「あなたの望む奇蹟を何なりと演じて見せます。あなたの提案するいかなるテストも受けます。」などと決して言ってはいないことがわかるでしょう。しかし、シャーへの書簡の中でバハオラははっきりと述べています。「ウラマを集められ、私を召喚されよ。実証を打ち立てるために。」と。

五十年の間、バハオラは敵に対して不動の山のように立ち向かいました。彼らは皆、バハオラを滅ぼすことを願い、破壊しようとしました。何千回も彼らはバハオラをはりつけにし、滅ぼそうと計画しました。そしてこの五十年間、彼は常に危険にさらされていました。

今日ペルシャは、極度の頽廃と破滅の状態にあります。そこで、ものごとの真の状態を認識する知性ある人は、ペルシャ人であろうと他国人であろうと皆、その進歩、文明、再建はひとえにこの教えを広めることと、この偉大な人物の原則を発展させることにかかっていることを認めています。

キリストはその祝福された日に、真実十一人だけを教育しました。彼らのうちで一番偉大だったのはペテロでしたが、しかしながら、彼は試練にあって三度キリストを否定しています。こうしたことはありましたが、結局、キリストの大業は世界に浸透しました。今日では、バハオラは何千という人を教育しました。彼らは剣で威されても、高い天に向かって,「ヤー・バハウラ・アブハ」(おお汝、栄光中の栄光よ)と呼び、試練の火の中にあっても、彼らの顔は黄金のように輝いていました。将来はどのようになるかよく考えてください。

最後に、我々は正しくなくてはなりません。この偉大なお方がどれほど優れた教育者であり、どんなにすばらしい証跡が彼によって示されたか、彼によってこの世にどんな力・威力が実現されたか知らなければなりません。

 

十、ダニエル書に実証されている伝承的証明

 

今日は、食事の席で、少しばかり証明について話し合いましょう。もしあなたが、明白な光(バハオラ)の顕示者のおられた時に、この栄光ある場所に来られたのであれば、また、あなたがバハオラの面前に臨席し、彼の輝く美を目撃されたのであれば、彼の教えや完全さは、それ以上証明の必要がないということが理解できたことでしょう。

彼の面前に来る栄誉を得ただけで、多くの人々は、不動の信者になりました。彼らには、他の証明などいらなかったのです。彼に激しく反抗し、憎悪した人々でさえ、彼に出会えば、バハオラの偉大さを証言してこう言ったものでした。「この方は、全く驚くべき人です。そうはいうものの彼がそのような要求を出すことが何としても残念です。そうでなければ、彼の言うことはすべて受け入れられるのですが。」

しかし今はもはや「真実の光」が沈んでしまいましたので、すべてのことは証明が必要です。そこで、彼の要求が真実であることの合理的証明を提示しようと思います。心の正しい人々にはそれだけで充分であり、また誰も否定できないような証明をしましょう。この輝かしい人間が、彼の大業を「最大の牢獄」(アッカ)でかかげ、この牢獄から彼の光は輝き渡り、彼の名声は世界を征服し、彼の栄光の宣言は東西に届いたということです。私たちの時代になるまで、そのようなことが起こったことは一度もありませんでした。

正義があれば、このことは承認されるでしょう。しかし、目の前に世界中のすべての証拠が提出されても、それでもなお、正しく判断しようとしない人々がいるのです。

いかなる国家、地域も、全勢力をもってしても彼に対抗することはできませんでした。

まことに、彼はたった一人で、しかも囚われ抑圧されながら、彼が望んだどんなことも成し遂げたのでした。

私はバハオラの奇蹟について述べようとは思いません。多分それらは、真実とも誤りともされやすい、伝承にすぎないと言われるだろうと思われるからです。例えば、福音書にあるキリストの奇蹟の話のように、それらは使徒からもたらされたものであって、他の誰からのものでもありません。しかもその話は、ユダヤ人には否定されているのです。もし私が、バハネラの超自然的行為を話そうと思えばいくらでもあります。それらは東洋においては認められていますし、バハイでない人々にも承認されています。しかし、このような物語は、すべての人にとって決定的な証明、証拠ではありません。聞き手は多分、この根拠は実際起きたことに一致していないというでしょう。それぞれの派は、その創始者によって成された奇蹟について詳しく話されていることが知られています。例えば、バラモン教の信者が奇蹟について述べています。それらが偽りであるか、真実であるかをどんな証拠から判断するのでしょう。もしこれらが作り話であれば、その他のものも作り話でしょう。もしこれらが一般に受け入れられるものであるならば、他の物も一般に受け入れられるでしょう。結局これらの証拠は、満足のいく証明ではありません。そうです。奇蹟は見た人だけに信じられるものなのです。しかもその人でさえ、奇蹟ではなく、手品か何かとみなすでしょう。すばらしい偉業も、手品師たちによるものだと思われています。

要するに、私はこう言いたいのです。バハオラによってたくさんの不思議なことが成されましたが、それらを詳細に話したくありません。それらは、地球上のすべての人々にとって証明と証拠を成しませんし、それを見た人にとってさえ決定的な証明ではないからです。彼らはそれを単なる魔法と考えるでしょう。

言い伝えられた予言者の奇蹟の多くは、精神的な重要性があるのです。例えば福音書の中に書かれていることですが、キリストの殉教の時に闇が広がり、地面が揺れ、神殿の幕が上から下まで二つに引き裂かれ、死者が墓より生き返ったということです。

 

(訳注 マタイ27:51 すると見よ。神殿の幕が上から下まで真、二つに裂けた。)

 

もしこれらのことが起こったのであれば、いうまでもなく恐ろしいことであったでしょうし、きっと当時の歴史に記録されており、それらは心をひどく悩ませるもとになったにちがいありません。兵士たちはキリストを十字架より降したか、あるいは逃げ出したかのどちらかだったでしょう。これらのできごとはどの歴史にも述べられてはいません。ですから、それらが文字通り起こったのではなく、精神的に重要な意味があることが明らかになります。

目的は、そのような奇蹟を否定することではありません。それらは決定的な証拠をなしていないが、精神的な重要性があると言いたいのです。

ですから、今日は食事の席で、いろいろ聖典にある伝承的証明の説明をいたしましょう。これまでお話してきたことは、合理的証明です。

人が真剣に真理を探究しようとしている精神状態とは、命の水を熱望して渇きにあえぐ燃えたつ魂のようであり、海に戻ろうとけんめいにもがく魚、聖なる治療を受けるため真実の医師を探し求めている受難者、正規の道を見つけようとしている道に迷った隊商、救済の岸にたどり着こうとあがいている難破船のような状態にあることです。

ですから、探究者は、ある資質を持っていなければなりません。まず第一に公正で、神以外のものから離脱していなくてはなりません。心は至高の地平線に完全に向いていなくてはなりません。自我と感情の鎖から自由になっていなければなりません。これらは皆障害物だからです。その上、あらゆる困難に耐えられなければなりません。完全に純粋で聖別され、世の人々の愛や憎しみから自由でなくてはなりません。なぜでしょう。人や物に対する愛着は、一方で真理の認識を妨げるでしょうし、同様に憎悪も真理を識別するじゃまになるでしょう。これが探究の状態であり、探究者はこれらの資質と属性を持っていなければなりません。この状態になるまで「真理の太陽」に到達することはできません。

それでは、主題にもどります。世界の人々は、二人の顕示者を待ち続けています。彼らは同時代でなくてはなりません。すべての人は、この約束の成就を待ち望んでいます。聖書の中で、ユダヤ人は万軍の主と救世主、福音書では、キリストの復活とエリヤが約束されています。

マホメットの宗教では、メーディと救世主の約束があります。このことは、ゾロアスター教でも他の宗教でも同じです。ですが、これらについて詳しく説明しますと話は非常に長くなります。非常に重要なことは、すべての宗教は二人の顕示者、一人に続いてもう一人が来ることを約束していることです。この二人の顕示者が現われると、地球は改革され、存在の世界は再生し、生き物は新しい衣装をまとうであろうと予言されています。正義と真理が世界を取りかこみ、敵意や憎悪は消えます。民衆、人種、国家間の分裂の原因は消え、和合、調和、一致のもとになるものが現われます。怠け者は目覚め、目の見えぬ人は見、耳の聞こえぬ人は聴き、口のきけぬ人は話し、病人はいやされ、死人は立ちあがります。戦争は平和に置きかわり、敵意は愛によって征服され、争いとロ論の原因は完全に取り除かれ、真の幸福に到達します。世界は天国の鏡になり、人間性は神の玉座となります。すべての国は一つになり、すべての宗教は統合されます。個々の人々は、一つの種族の一つの家族になります。地上のすべての宗教は一つになり、人種、国家、個人、言語、政治にもとづく迷信は消えます。そしてすべての人は、万軍の主の保護のもとで、永遠の命に到達するでしょう。

さて、ここで、すでに二人の顕示者が出現したことを聖典にもとづいて証明しなければなりません。そして、顕示者たちの言葉の意味を見抜かなくてはなりません。私たちは、聖典から導き出される証拠を望んでいるからです。

数日前、食事の席で、これら二人の顕示者の真実性を確立するための理にかなった証明をしました。

結論づけます。ダニエル書においてエルサレムの再建からキリストの殉教まで、七十週が指定されています。なぜならキリストの殉教によって犠牲が果たされ、祭壇が破壊されたからです。これはキリスト顕示の予言です。この七十週は、エルサレムの復旧と再建と共に始まります。このことに関して、三人の王によって四つの法令が出されました。

最初の法令は、紀元前五三六年にクロス王によって発せられました。これは、エズラ書の第一章に記録されています。二番目の法令は、エルサレムの再建に関するもので、紀元前五一九年、ペルシャのダリウス王の法令です。これはエズラ書の六章に書かれています。三番目は、アルタシャスタ王統治の七年に彼によって出された法令です。即ちBC四五七年で、これはエズラ書の七章に記録されています。四番目は、BC四四四年のアルタシャスタの法令です。これはネヘミア記の第二章に記録されています。

しかし、ダニエルは特にBC四五七年に発せられた第三の法令について言及しています。七十週は四九〇日となります。聖典の聖句によれば、一日は一年です。聖書の中で「主の一日は一隼である。」と述べられています。ですから四九〇日は四九〇年です。アルタシャスタ王による第三の法令は、キリスト誕生の四五七年前に発せられました。そしてキリストが殉教し、昇天した時、キリストは三十三歳でした。三三に四五七をたしてみれば四九〇になります。それは、ダニエルによって述べられたキリストの顕示の時にあたります。

しかし、ダニエル書の九章の二五節には、このことは、七週間と六二週というふうに別の方法で表現されています。これは、明らかに初めの説と異なっています。この二つの声明を調和させようと、多くの人がこの違いに悩まされました。一方で七十週が正しく、もう一方で六二週と七週が正しいとどうしていえるのでしょうか。この二つの説は一致しません。

しかし、ダニエルは、二つの日付を述べています。その一つは、アルタシャスタ王がエズラに対して下したエルサレム再建の命令と共に始まります。これは、キリストの昇天と共に終わる七十週であり、その時、キリストの殉教によって犠牲と供え物が終わりました。

二十六節にある第二の時期は、エルサレムの再建の終結後キリストの昇天までに六二週あることを意味しています。七週は、エルサレム再建の期間であり、四十九年かかりました。この七週に六二週をたせば六九週になります。そして最後の週(六十九〜七十)にキリストの昇天が起きたのです。七十週はこのように完了し、矛盾はありません。 

さて、キリストの顕示は、ダニエルの予言によって証明されました。そこでバハオラとバブの顕示の証明をしましょう。これまでに理論的証明だけを述べましたので、これから伝承による証明をお話ししましょう。

ダニエル書の八章十三節にこう述べられています。

私は、ひとりの聖なる者が語っているのを聞いた。するともうひとりの聖なる者がその語っている者に言った。「常供のささげ者や、あの荒らす者のするそむきの罪、および聖書と軍勢が踏みにじられるという幻は、いつまでのことだろう。」すると彼は答えて言いました。十四節「二三〇〇の夕と朝が過ぎるまで。そのとき聖所はその権利を取り戻す。」すると彼は私に言った。十七節「その幻は終わりの時のことである。」即ち、この不幸、破滅、退化、堕落はいつまで続くのであろうか、ということの意味は、顕示者のあけぼのはいつかということです。すると彼は答えました。「二三〇〇日すれば聖所は清められるであろう。」要するにこの一節の意味は、彼が二三〇〇年を定めたということです。聖書の聖句には、一日は一年であると書かれていますから。さて、エルサレムを再建するためのアルタシャスタ王の法令の発布の日からキリストの誕生の日まで四五六年あり、キリストの誕生の日からバブの顕示の日まで一八四四年あります。この数に四五六年を加えれば二三〇〇年になります。即ちダニエルの予言の達成はAD一八四四年に起こりました。そしてこの年はダニエル書の実際の聖句によれば、バブの顕示の年です。彼は何と明確に顕示の年を決定しているか熟考してください。顕示に関してこれ以上明確な予言はありません。

マタイニ十四章三節で、ダニエルがこの予言で意味していることは、顕示者の(再来の)日のことであると、キリストははっきり述べております。その節にこうあります。「イエスがオリーブ山ですわっておられると弟子たちがひそかにみもとに来て言った。『お話しください。いつそのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。』」彼が与えられた説明の一つはこうです。十五節「予言者ダニエルによって語られたあの「荒らす憎むべき者」が聖なる所に立つのを見たならば。(読者よ悟れ。)」この答えの中で、キリストは、ダニエル書の八章について述べ、それを読む者は、それが予言された時であることを理解するだろうと言われた。バブの顕示が旧約聖書や福音書に何とはっきりと述べられているかよく考えてごらんなさい。

終わりに、バハオラの顕示の日を聖書から説明しましょう。バハオラの顕示の日は、太陰暦によってマホメットの使命とヘジラ(回数紀元)から計算されます。(訳注 ヘジラ AD六二二年、迫害をのがれるためにマホメットが行なったメッカからメジナヘの逃走。)マホメット教では、太陰暦が使われており、また礼拝の命令すべてに関して採用されているものも太陰暦です。

ダニエル書十二章六節にこう述べられています。「それで私は、川の水の上にある亜麻布の衣を着た人に言った。『この不思議なことはいつになって終わるのですか。』すると私は、川の水の上にいるあの亜麻布の衣を着た人が語るのを聞いた。彼はその右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って言った。「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。」十二節六、七

私は、これまでに一日の意味を説明してきたのでこれ以上説明する必要はありませんが、簡単に言いますと、父の日の一日は一年として教えられ、一年には十二ケ月あります。ですから三年半は四十二ケ月となり四十二ケ月は一、二六〇日になります。イスラム教の計算の仕方では、先駆者であるバブはマホメットのヘジラから一二六〇年たった年に出現しました。

そのあと、十一節にこう述べられています。「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべき者が据えられる時から一、二九〇日がある。十一・十二節幸いなことよ。忍んで待ち一、三三五日に達する者は。」[9]

この陰暦による計算は、ビジャスの国でマホメットが予言者であることを宣言した日から始まります。それは彼の使命(の宣言)から三年後でした。というのは、マホメットの予言者であることは、はじめ秘密にされていたからです。カリジャとナクール以外誰もそのことを知りませんでした。[10]三年後にそれが発表されました。そしてマホメットの使命の宣言から一二九〇年たって、バハオラは彼の顕示を明かしました。[11]

 

 

十一、聖ヨハネの黙示録の十一章に関する解説

 

聖ヨハネの黙示録の十一章のはじめの部分にこう言われています。「それから、私に杖のような測りざおが与えられた。するとこういうものがあった。立って神の聖所と祭壇とまたそこで礼拝している人を測れ。」

「聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは、聖なる都を四十ニケ月の間踏みにじる。」

この測りざおは、リードに例えられる完全な人です。その類似点は次のようです。もしあしの内部が空で、すべてのことから解放されていれば、それは美しいメロディーを生み出します。そして、音色やメロディーはリードから来るのではなく、それを吹くフルート奏者からくるのと同じように、祝福された存在の聖別された心は神以外のすべてのものから解放され、空になっており、純粋で、人間のあらゆる状態に対する愛着から解き放されており、神の精神の仲間です。彼が発言するものはすべて彼自身からくるのではなく、真のフルート奏者からくるのです。そしてそれは聖なる霊感です。このことが、彼がリードに例えられる理由です。また、そのリードは、杖のようでもあります。即ちそれは、すべての力の無い者の救助者であり、それによって彼は群を守り、神の牧場へ導くのです。

その次にこう言われています。「天使が立って言った。立って神の聖所と祭壇とまたそこで礼拝している人を測れ。」即ち、比較し、測りなさい。ということです。測ることは、配分の発見です。天使はこう言いました。神の聖所と祭壇とその中で祈っている人を比べなさいということは、彼らの真の状態を調べ、彼らがどの程度であり、どのような地位にあるか、彼らがどのような状況、完全性、態度、属性を備えているのかを見い出し、純粋さと神聖さの中で、至聖所に住む聖なる魂の神秘を認識しなさいということです。

「聖所の外の庭は異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。」

キリスト後の七世紀のはじめに、エルサレムが征服された時、至聖所は外面的には保存されました。―つまりソロモンが建てた家です。しかし至聖所の外では、外の庭はとり上げられ、異邦人に与えられました。そして彼らは、四十ニケ月聖都を足下にふみつけるであろう。ということは、異邦人は、一二六〇日を表わす四十二ケ月、エルサレムを統治し、支配するであろうということです。一日は一年を意味するので、この教え方によれば、一二六〇年になり、これは、コーランの周期の持続期問です。エゼキエル書の四章六節に言われているように、一日は一年です。「ユダの家の咎を四十日間負わなければならない。わたしは、あなたのために一年に対して一日とした。」

これは、イスラムの啓示の期間を予言しています。その間、エルサレムは足下に踏みにじられる、即ち、それはエルサレムがその栄光を失うということを意味しているのです。

しかし、至聖所は一二六〇年間保存され、守られ、尊敬されました。この一二六〇年は、バハオラの門であるバブの顕示についての予言です。それはマホメットのヘジラ一二六〇年に起きました。そして一二六〇年が満期になったので、聖都エルサレムは今や繁栄し、人口が多くなりはじめました。六十年前にエルサレムを見た人が今再び見れば、誰でも皆、エルサレムがいかに人口が増え、栄えており、再び名誉を得ていることかを認めるでしょう。

これがヨハネの黙示録のこれらの節の外面的意味です。それには次のような別の象徴的意味があります。神の法は二つの部分に分かれます。一つは、すべての精神的美徳と神の性質について述べており、これは変化しません。それは「神聖中の神聖」(至聖所)であり、アダム、ノア、アブラハム、モーゼ、キリスト、マホメット、バブ、バハオラの法の本質であり、すべての予言の周期の中に引き継がれ、確立されています。それは決してすてられません。それは精神的な真理であって、世俗的真理ではないからです。それは、信仰心、知識、確信、公正、敬虔、正義、信義、神への愛、慈善、純潔、超脱、けんそん、温和、忍耐、平常心です。それは貧しい人に慈悲を示し、抑圧された者を守り、不幸な者に与え、堕落した者を引き上げます。これらの神聖な特質、永遠の命令は決してすてさられることはありません。それどころか、永遠に続き、確立され続けます。これらの人間の美徳は、それぞれの周期毎に再び新しくされます。精神的神の法、即ち人間の美徳はそれぞれの周期の終わりには消え失せてしまい、形式のみが残るのです。

こうして、キリストの顕示に一致するモーゼの周期の終わりに、ユダヤ人の間には神の法は消え失せ、精神のない形式のみが残ったのです。「神聖中の神聖」(至聖所)は、彼らから離れましたが、エルサレムの外の庭―これは宗教の形に対して使われた表現ですが―は異邦人の手に渡りました。同じように、人間の最も偉大な美徳であるキリストの宗教の根本的原則は消えてなくなりました。そしてその形式が神父や聖職者の手に残りました。同じように、マホメットの宗教の基礎は消え失せましたが、その形式は公のウラマの手に残っているのです。

精神的なものであり、人間の美徳であるこれらの神の宗教の根本は、決してすてさられることはあり得ません。それらは取り除くことのできないものであり、永遠のものです。そして個々の予言者の周期毎に新しくされるのです。

神の法の第二の部分は、世俗的世界について述べられ、断食、祈り、礼拝の形式、結婚と離婚、奴隷制の廃止、法的手順、商取引、殺人・暴力・窃盗や傷害などの補償など、神の法のこの部分は時代の必要性に応じて各顕示者の周期毎に変形され、変化します。

要するに、「神聖中の神聖」(至聖所)という言葉によって意味されているものは、決して変形されたり変化させられたり、放棄されることのない精神的な法であり、「聖地」は放棄され得る世俗的な法を意味します。そしてこの「聖地」として述べられている世俗的法は、一二六○年間、足下に踏みにじられました。

「それから私がわたしのふたりの証人に許すと彼らは荒布を着て一二六〇日の間予言する。」(ヨハネの黙示録11:3)この二人の証人とは、神の使者であるマホメットとアブ タリブの息子であるアリです。

コーランの中に言われていますが、「神は神の使者マホメットを指名して言われた。我は汝を証人、吉報の伝達者、警告者とした。」即ち我は汝を証人、吉報の援与者、そして神の怒りをもたらす者として確立した。ということです。証人という言葉の意味は、その人の証言によってものごとが立証させられる者ということです。この二人の証人の命令は十二六〇日実施されるはずでした。一日は一年を意味します。さて、マホメットは根であり、アリは枝です。モーゼとヨシュアと同じです。彼らは荒布を着ていると述べられていますが、彼らは明らかに新しい服ではなく、古い服をまとっていた、いいかえれば、初め彼らは明らかに新しい服ではなく、古い服をまとっていた、ということは、初め彼らは人々の目に、栄光を持っているようにはうつらなかったし、彼らの大業が新しいものとも見えなかったのです。なぜなら、マホメットの精神的法は、福音書のキリストのそれに一致しているし、世俗的事柄に関する彼の法の大部分は、モーゼの五書のそれに一致しているからです。これが古い服の意味です。

その次に述べられています。「彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。」(黙示録11:4)この二人はオリーブの木に例えられます。当時、ランプは皆、オリーブ油で灯されたからです。その意味するところは、その二人から、世界の啓蒙のもととなる神の英知の精神が現われるということです。この神の光は、放射し、輝きだすはずでした。ですから、彼らは二本のローソクに例えられるのです。ローソクは光の住家です。そこから光は輝き出すのです。同じように、導きの光は、これらの輝ける魂から輝き、放射されるのです。

その次には、「彼らは主の御前に立っている。」と述べられていますが、それは、彼らは神への奉仕と神の創造物の教育にたずさわっているということです。アラビア半島の野蛮な遊牧民を当時最高度の文明に到達させ、その名声、名誉は世界中に広まるほどに、彼らが教育したのです。

「彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らのロから出て敵を滅ぼし尽す。」(黙示録11:5)ということは、誰も彼らに逆らうことはできないし、誰かが彼らの教えや法を見くびれば、彼らの口から出たこの法によって取り囲まれ絶滅させられ、また、彼らを傷つけ、敵対し、憎悪しようとする者は、彼らの口から出る命令によって打ち負かされるということです。そして、そのようになりました。敵は皆消し去られ、逃亡させられ、全滅させられました。このように、極めてはっきりした方法で神は彼らを援助しました。

その次に述べられています。「この人たちは、予言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っている。」このことは、その周期において、彼らは王のようであろうということです。マホメットの法と教え、アリの解釈と解説は天の恵みです。もし彼らがこの恵みを与えようと思えば、そのようにする力を持っています。もし彼らがそれを望まなければ、雨は降らないでしょう。この点で、雨は恵みを表わしています。

次に「彼らは水を血に変える。」と述べられていますが、この意味は、マホメットが予言者であることは、モーゼのそれと同じであり、アリの力はヨシュアのそれと同じであるということです。もし彼らが望むなら、エジプト人と彼らを否定する人々に関する限り、ナイルの水を血に変えられるのです。つまり、彼らの生のもとになったものは、彼らの無知と自尊心によって彼らの死のもとになったということです。ですから、因の命のもととなっている王国、富、国王の力、国王の人民は、彼らの反対、否定、自尊心によって、死、破壊、離散、堕落、貧困のもととなりました。このように、この二人の証人は、国を滅ぼす力を持っているのです。

次は「その上、思うままに何度でもあらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。」と述べられています。この意味は、彼らはまた、よこしまな者や圧政者、暴君を教育するために必要な力や世俗的な威力を持っているということです。なぜなら、神はこの二人に、外と内の力を援け、彼らが野蛮で血に飢えた、残酷で、野獣のような遊牧のアラビア人を教育し、治療するようにしたのです。

「そして、彼らがあかしを終えると、」(黙示録11:7)は、彼らが命令されたことを完遂した時、聖なる伝言を広めた時ということです。その間、彼らは精神的命の徴が人々の心に顕示され、人間世界の徳の光が輝きだし、ついには遊牧民の間に完全な発達が実現されるようにという意図をもって、神の法を推進し、神の教えを広めたのです。

「底知れぬ所から上がって来る獣が彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。」(11:7)この獣はウマイヤ王朝を意味しています。ウマイヤ朝は誤りの穴から彼らを攻撃し、マホメットの宗教とアリの本質―言いかえれば神への愛に対して反対して立ちあがりました。

「この獣は、この二人の証人に対して戦う。」

つまり精神的戦争です。この二人の証人によって民衆や部族の間にまかれた徳や完全性が全く追い払われ、動物的性質や肉欲が支配するほどにまで、この獣は二人の証人の教え、習慣、制度に対して完全な反対をしたということです。ですから、彼らに対して戦争をしたこの獣が勝利を得たということは、この獣から生じた誤りの暗黒は、世界の地平線上に支配権をとり、この二人の証人を殺したということです。いいかえればその獣は、神の宗教を足下に踏みつけて、彼らが国中に広めた精神的命を破壊し、神の法や教えを完全に取り去ったということです。その後には、精神の欠けた、命のない身体だけが残りました。

「彼らの死体は、霊的な理解では、ソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。」(11:8)「彼らの身体」は神の宗教を意味し、「大通り」は人々の目には、という意味です。「ソドムとエジプト」の意味するものは、「我が主が十字架につけられた」場所であり、シリア地方のことです。特にエルサレムはその頃、ウマイヤ朝が支配権を持っていました。そして神の宗教と神の教えが最初に消え、精神のない身体だけになったのもここでした、「彼らの身体」は神の宗教を表わし、それは精神のない死んだ身体のように残りました。

「もろもろの民族、部族、国家、国民に属する人々が三日半の間彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。」(11:8)前に説明したように、聖書の用法では、三日半は三年半を意味し、三年半は四十ニケ月で、四十二ケ月は十二六〇日です。聖書では一日は一年を意味しています。この意味することは、コーランの周期に相当する一二六〇年間、国家、部族、民衆は彼らの身体を見るであろうということ、――つまり、彼らは神の宗教を人前で恥をかかせるであろうということです。彼らは神の宗教に従って行動したわけではなかったのですが、それでもなお、彼らの身体――神の宗教をさしている――を墓に入れることを許さなかった。つまり、みかけ上、彼らは神の宗教にすがり、それが彼らの中から完全に消え、その身体が全く破壊され、絶滅させられることを許しはしなかったということです。それどころか実際には、彼らは神の宗教を捨て去り、一方で外見上、その名と記憶を維持したのです。

これらの部族、民衆、国家は、コーランの下陰に集まった人を意味します。彼らは外見上、神の大業、法が完全に破壊され、全滅させられることを許しませんでした。―祈りと断食があるからです。―しかし、神聖な神秘の知識を伴っている道徳と行為そのものである神の宗教の基本的原則は消えてしまっていました。神の愛と知識の成果である人間世界の美徳の光は消えてしまいました。そして虐政の暗黒、抑圧、悪魔的な感情や欲望が勝利を得ました。神の法の身体は、死体のように一二六〇日間、民衆の目にさらされました。一日は一年として数えられ、この期間はマホメットの周期です。

人々は、これら二人が確立した神の法の基礎を没収されました。そして神聖な贈り物であり、この宗教の精神である人間世界の美徳を破壊して、彼らの間から、誠実、公正、愛、連帯、純潔、神聖、超脱、その他の神聖な性質すべてが消え失せてしまうほどでした。この宗教ではただ祈りと断食だけが残りました。この状態は一二六〇年続きましたが、それはコーランの周期の期間です。それはあたかもこの二人が死んでしまったかのように、精神が失われ身体だけが残りました。

「また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って互いに贈り物を贈り合う。それはこの二人の予言者が、地に住む人々を苦しめたからである。」(11:10)「地に住む人々」はヨーロッパや、はるか東洋の人々など、他の国家や人種をさしています。それらの人々はイスラムの特質が完全に変化し、神の法が見捨てられ、美徳、熱意、名誉が彼らから離れ、彼らの質が変わったのを見てうれしくなり、イスラムの人々が道徳の腐敗によって堕落し、結果として他の国に征服されるだろうと喜びました。そして、その通りになりました。力の頂点に達した人々が今やいかに堕落し、踏みにじられているかをよく見極めてください。

「他の国々は、互いに贈り物を贈り合う。」ということは、彼らは互いに助け合うべきであるということです。「その二人の予言者が地に住む人々を苦しめた。」からです。――つまり二人は、世界の他の国々や人々を圧倒し、征服したということです。

「しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が彼らにはいり、彼らが立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。」(11:11)前にも説明したように、三日半は一二六〇年です。魂が抜けている身体を横たえていた二人の人は、マホメットが確立し、アリが推進させた教えと法のことです。しかし、そこからは真実は失われ、形式のみが残りました。息が再び彼らに入りということは、それらの基礎や教えが再び確立されたということです。いいかえれば、神の宗教の精神性は物質主義に変わってしまっており、美徳は悪へ、神の愛は憎悪に、啓発は無知に、神聖な性質は悪魔的性質に、正義は残虐に、慈悲は敵意に、誠実は偽善に、導きは誤りに、純潔は肉欲に置き替ってしまっておりました。それから三日半、聖書の用法では一二六〇年の後、バブの出現とジナビ・ゴドスの献身により、これらの神聖な教え、天の美徳、完全性、精神的恩恵は再び新しくされたということです。

神聖なそよ風が吹き出し、真理の光が輝き出し、命を与える春の季節が訪れ、導きの朝が明けました。この二つの命のない身体は再び生き返り、二人の偉大な者――一人は創始者でもう一人は推進者一―は立ち上がり、あたかも二本のろうそくのようでした。彼らは真理の光を世界に輝かせたからです。

「その時二人は、天から大きな声がして『ここに上れ。』というのを聞いた。そこで彼らは天に上った。(11:12)このことの意味は、目に見えない天から、彼らは、次のように言っている神の声を聞いたということです。あなた方は教えと吉報を広めるのにふさわしいことをすべて成し遂げた。あなた方は人々に我がメッセージを与え、神の呼び声をあげ、義務を果たした。今やキリストのように、良く愛されたる者(神)のために命を捧げ、殉教せよ。そのようにして、その真理の太陽とその導きの月(バブとジナビ・ゴドス)は二人ともキリストと同じように、偉大な殉教の水平線に前進し、神の王国に上りました。

「彼らの敵はそれを見た。」ということは、彼らの敵の多くは、二人の殉教を目撃してその地位の崇高さと徳の気高さを理解し、二人の偉大さと完全性を証言したということです。

「そのとき大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死んだ。」(11:13)バブの殉教の後、シラズで地震が起きました。町は混乱し、たくさんの人々が死にました。疫病、コレラ、欠乏、食料不足、飢きん、苦難などで大きな動乱が起きました。そのような大混乱は今まで見たこともないほどのものでした。

「生き残った人々は恐怖に満たされ、天の神をあがめた。」(11:13)ファーズ(シラズの近く)で地震が起こったとき、生き残った者は皆、日夜嘆き、泣き叫びました。そして神をあがめ祈ることに専念しました。彼らは非常に困惑し、恐れて、夜は寝ることも身体を休めることもできませんでした。「第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。」最初のわざわいは、アブドラーの息子である予言者マホメットの出現です。――彼の上に平安がありますように!第二のわざわいはバブの出現です。――彼に栄光と賞讃がありますように!第三のわざわいは、万軍の主の顕示の偉大な日、約束されたお方の美の輝きです。この問題即ちわざわいの説明は、エゼキエル書の三十章に述べられています。そこで次のように言われています。「次のようなことばが私にあった。人の子よ予言して言え。神である主はこう仰せられる。泣きわめけ。ああその日よ。その日は近い。主の日は近い。」

ですから、わざわいの日は主の日であることは確かなことです。その当時、わざわいは拒否する者にとってあり、わざわいは罪人に対してあり、わざわいは無知な者にとってあったからです。それが「第二のわざわいはすぎた。第三のわざわいがすぐに来る。」と述べられていることの理由です。第三のわざわいはバハオラの顕示の日、神の日です。そればバブの出現の日に接近しています。

「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると天に大きな声々が起こって言った。『この世の国は、私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。』」

第七の御使いは、天の属性を与えられている人で、彼は天の特性と人格をもって立ちあがります。その声はあげられ、その結果、神の顕示者の出現が宣言され、広められます。万軍の主の顕示の日に、そしてまた、予言者たちのすべての本や著作に約束され述べられている全能なる御方の神の周期の時に、即ち、神のその日に、精神的で神聖な神の王国が確立されます。そして世界は再び新しくなるでしょう。新しい精神が創造物のからだに吹き込まれ、神の精神の春が訪れ、慈悲の雲は雨を降らせます。真理の太陽は輝きだし、命を与えるそよ風が吹きます。人間の世界は新しい衣服をまとい、地球の表面は崇高な楽園となり、人類は教育され、戦争、闘争、口論、悪意は消滅します。そして誠実・正義・平和・神に対する崇拝が現われます。連帯・愛・兄弟愛が世界をとりまき、神は永久に支配されるでしょう。――これは、精神的永遠の王国が確立されるであろうということを示しています。それらが神の日です。すべての過ぎ去った日は、アブラハム、モーゼ、キリストあるいはその他の予言者たちの日だからです。しかし、この日は神の日です。真理の太陽が至高の優しさと輝きをもって、この日に立ちあがったからです。

「神の御前で座に着いていた二十四人の長老は、ひれ伏して神を礼拝し、(16節)こう言った。今おられ、かつておられたお方、全能者である神、主よ感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです。」(17節)

個々の周期において、守護者、聖者は十二人でした。ヤコブには十二人の息子がありました。モーゼの時代には十二人の部族の頭または族長がいましたし、キリストの時代には、十二人の弟子が、マホメットの時代には十二人のイマムがおりました。しかし、この栄光ある顕示においては、他のものの二倍の人数の二十四人おります。というのは、この顕示の偉大さがそれを必要としているからです。これらの聖人たちが神の目前で席に着いていたということは、彼らは永遠に統治するということを意味しています。

これら二十四人の偉人は、永遠の統治の王座に座してはいますが、それでも、普遍的顕示者の出現の崇拝者です。そして、謙虚で従順であり、こう言っています。「今おられ、かつておられたお方、全能である神、主よ感謝いたします。大いなる力を振って統治されたからです。」一―即ち、あなたは、あなたの教えのすべてを発せられ、地上の人々をあなたの保護のもとに集め、地上の人すべてを一つのテントの陰に集められるからです、ということです。それは神の永遠の王国であり、彼は昔も今も常に王国を持っていたのですが、ここでの王国は彼自身の顕示を意味しています。そして彼は人間の世界と永遠の命の精神であるすべての法律と教えを公布します。そしてその普遍的顕示者は戦争や闘争によってではなく、平和と平穏のうちにそれを成しとげます。彼は戦争の力によってではなく、真の愛によって天の王国を確立します。彼はこの神の教えを武器や過酷さではなく、親切と正義によって推進します。彼は人々がさまざまな情況、異なった習慣や性格、さまざまな宗教や人種にもかかわらず、聖書に述べられている、狼と子羊、ひょう、子供、乳呑子とへびのように同志、友達、仲間になるように人々を教育します。人種の争い、宗教の相違、そして国家間の障害は完全に取り除かれ、すべては祝福された木の下陰で完全な連帯と調和に到達するでしょう。

「異邦人たちは怒り狂った。」(18節)あなたの教えが他の人々の感情に反対したからです。

「あなたは怒りを現わされた。」(18節)―つまり、皆は明白な損失によって苦しむであろうということです。人々はあなたの勧告、指導、教えに従わないので、あなたの永遠の恩恵から締め出され、「真理の太陽」の光からさえぎられるためです。

「死者の裁かれる時が来ました。」(18節)これは、死者―つまり神の愛の精神から締め出され、聖別された永遠の命にあずからない人々―が正義によって裁かれる時が来るということです。その意味は、彼らに値するものを受けとるようになるということです。彼は、彼らが存在の世界でいかに低い地位を占めているか、そして事実、彼らは死の支配下にあることを示すことによって、彼らの秘密の実体を明らかにするでしょう。

「あなたの僕、予言者、聖なる者、御名を畏れる者には、小さな者にも大きな者にも報いをお与えになる。」―つまり彼は、正しい者を天国の星のように永遠の名誉の地平線に輝き出させるという尽きることのない恩恵によって区別するのです。彼は彼らに人問世界の光、指導の根拠、神聖な王国における永遠の命を得る手段である態度や行いを授けることによって援助します。

「地を滅ぼす者どもを滅ぼされる。」(18節)これは、彼は怠慢な者を完全に締め出すということです。目の見えぬ人の盲目性が明らかにされ、賢者の見識が明らかにされるからです。誤っている人々の無知と知恵の欠除が世間にわかり、指導を受けている人々の知識と英知が明らかになります。その結果、破壊者は滅ぼされるでしょう。

「そして、天にある神の神殿が開かれた。」(19節)ということは、神聖なるエルサレムが見い出され、「神聖中の神聖」が明らかになるということです。英知の人々の専門用語によれば「神聖中の神聖」は神の法のエッセンスであり、前にも説明したように、どの予言者の周期においても変わることのない、神聖で、真実な主の教えです。エルサレムの聖域は、「神聖中の神聖」である神の法の本質に例えられます。そしてすべての戒律、慣習、儀式、世俗的規則はエルサレムの都市に例えられます。―これが神聖なエルサレムと呼ばれるゆえんです。要するに、この周期において、「真理の太陽」は神の光を至高の輝きと共に輝かせるので、神の教えの本質が存在の世界で理解され、無知の暗黒と知識の欠乏がとり除かれます。世界は新しい世界に変わり、啓発が行き渡ります。そして、最も神聖なるものがあらわれるでしょう。

「そして天にある神の神殿が開かれた。」(19節)これはまた、その神聖な教えの普及、これらの天国のような神秘の出現、「真理の太陽」の上昇、成功と繁栄への戸があらゆる方向に開かれ、善のしるしと天の祝福が明らかにされるということでもあります。

「その神殿の中にある契約の箱が見えた。」(19節)つまり彼の「契約の書」は彼のエルサレムに現われ、「聖約の書簡」が確立され、契約と聖約の意味がはっきりさせられるということです。神の御名が東西に広がり、神の大業の宣布が世界を満たすでしょう。聖約の破壊者は堕落させられ、追い払われます。そして、信心深い者は大事にされ、栄誉を与えられるでしょう。彼らは「契約の書」にすがり、聖約に確固とし不動だからです。

「稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った。」(19節)ということは、「契約の書」の出現の後には大きな嵐があり、神の怒りの稲妻が光り、聖約破壊者の雷の音が再び鳴り、疑いの地震が起こり、苦痛の雹が聖約破壊者を打ち、信仰を告白した者でさえ、試練と誘惑にあうということです。

 

十二、イザヤ書の十一章に関する解説

 

イザヤ書の十一章一〜十節にこう述べられています。「エッサイの株から一つの茸が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行なわず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行ない、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びる。狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊と共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」

エッサイの株から萌えいでたこの芽はまさしく、キリストにあてはまります。ヨセフはダビデの父、エッサイの子孫だからです。しかし、キリストは神の霊を通して生まれたので、彼は自分を神の子と呼びました。もし彼がそうしたのでなかったのならば、この叙述は彼にあてはまったでしょう。さらに、その芽の日に出現すると彼が指摘した出来事は、象徴的に解釈すれば、部分的にはキリストの時代に逢成されました。しかし全部ではありません。もし象徴的に解釈しなければ、これらのしるしの一つも起こらなかったことは確かです。例えば、豹と子羊、ライオンとコブラは、さまざまな国、人々、対立する派、敵意を持つ人種たちの隠瞼であり、象徴であり、それらは狼と子羊のように反対であり、互いに敵意を持つものです。キリストの精神の息吹きによって彼らは友好と調和を見い出し、活気づけられ、共に集まったと言えるでしょう。

しかし、「わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」この状態は、キリストの顕示の日には広まりませんでした。なせなら、今日までさまざまな対立した国家が存在するからです。イスラエルの神を認めるものはほんのわずかですし、大部分の人は神の知識を持っていません同様に、世界平和もキリストの時代には実現しませんでした。即ち、対立する敵意のある国の間には平和も友好もなく、闘争と不和は止まず、調和と誠意はあらわれませんでした。ですから今日でもキリスト教の各派や国家間には敵意、憎悪、激しい敵対心があります。

しかし、これらの節は、一語一語バハオラにあてはまります。この驚嘆すべき周期において、地球は変革され、人間世界は平穏と美で盛装するでしょう。闘争、けんか、殺人は平和、真理、調和に置きかわります。国家、民族、人種間に愛と友好が出現します。協力と連帯が確立され、ついに戦争は完全に鎮められるでしょう。最も神聖な書(キタビ・アクダス)の法律が施行されるようになれば、国家や王国の最高裁判所は、論争や闘争に絶対正義の最終判決を与えます。そうして持ち上がった困難は解決されます。世界の五大陸はまさに一つになり、すべての国々は一つにまとまり、地上の表面は一つの国になり、人類は一つの共同体になるでしょう。国家問の関係―人々と共同体の混合、連帯、友好―は、人類が一つの家族であり、血縁であると思われるほどの高い状態に到達します。天国のような愛の光が輝き、敵意や憎悪の暗黒は世界から失くなるでしょう。世界平和は地球の中心にそのテントを張り、祝福された命の木は育ち、東西を覆うほど広がります。強きも弱きも、富める者も貧しい者も、対立する派も敵対する国家も、――狼と子羊、豹と子供、ライオンと子牛のような――完全な愛・友情・正義・公正さをもってお互いに行動します。世界は、科学、存在の神秘の本質についての知識、神の英知で満たされるでしょう。

バハオラの周期であるこの偉大な世紀に、科学や学問がどれほど大きな進歩をもたらし、どれほど多くの存在の神秘が発見され、どれほど多くの発明が明るみに出され、日毎にその数を増加させつつあることかよく考えてください。まもなく、神の英知のみならず物質的科学や学問は目をみはるような進歩をし、神秘を明かすでしょう。そしてイザヤ書のこの節「大地は主を知る知識で満たされる。」の神秘が完全に明らかになるでしょう。

バハオラが出現してからわずかな間に、すべての国家、人種からなる民衆は、この大業の下陰の下に入ったことも真剣に考えてください。キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒、仏教徒、ヒンズー教徒、ペルシャ人たちは、あたかも何千年も彼らとその家族は関連し、結合していたかのように、最高の友情と愛を持って共につきあいます。彼らは父と子、母と娘、姉と弟のようだからです。これは、狼と子羊、豹と子供、ライオンと子牛の親交の意味の一つです。

「並ぶ者なき枝」(バハオラ)の顕示の日に起こるであろう偉大な出来事の一つは、すべての国に神の旗が掲げられることです。この意味は、すべての国々と血族は、「主の枝」そのものにほかならないこの神の旗の下陰に集い、一つの国になるであろうということです。宗教的、派閥的対立、人種や民族の敵意、国家間の相違は失くなり、人は皆、一つの宗教にすがり、共通の信仰を持ち、一つの人種に混ぜ合わされ、一つの民となるでしょう。全員が地球そのものである一つの共通な祖国に住みます。世界平和と調和がすべての国々の問で理解され、「並ぶ者なき枝」はすべてのイスラエル人をまとめ、この周期において、イスラエルは聖地に集められ、東西南北に散らばっているユダヤ人は集合させられることを示すでしょう。

理解してください。これらの事はキリストの周期には起こりませんでした。各国は「神の枝」である一つの旗のもとに集まらなかったからです。しかし、この万軍の王の周期においては、すべての国々や民衆はこの旗の下陰に入るのです。世界中に散らばっていたイスラエル人は、キリストの周期には聖地に再び集合しませんでした。しかし、バハオラの周期の初めに、この神の約束は、予言者のすべての本にはっきりと述べられている通りに、明らかになりつつあります。世界中から、ユダヤ民族は聖地にやって来るのを見ることができるでしょう。彼らは自分たちの作った村や土地に住み、日毎に、全パレスチナが故郷となるほどに増えつつあります。

 

 

 

十三、聖ヨハネの黙示録十二章に関する解説

 

前にも説明しましたが、聖書に述べられている聖なる都、あるいは神のエルサレムいう言葉によって、たびたび言われているものは、神の法です。神の法はあるときは花嫁に、またあるときはエルサレムに、また新しい天と地にも例えられます。それについて、ヨハネの黙示録の二十一章一、二、三節にこう述べられています。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて神のもとを離れ、天から下ってくるのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。」

最初の天と地は、これ以前の法を意味している、これは何とはっきりしていることであるか気づいてください。最初の天と地はすでに過ぎ去ってもう海はないといわれています。――つまり地は審判の場所であり、そしてこの審判の地の上には海はないということは、教えと神の法は完全に広まり、人は皆、神の大業に入り、地は完全に信者が住みつき、その結果、海が失くなるであろう、人聞の住む場所と住居は乾いた土地だからであるということです。言いかえれば、その時には、その神の法の野原は人間の遊園地となるのです。そのような地は固く、足はその上をすべりません。

神の法はまた聖なる町、新しいエルサレムとしても述べられています。天から下ってくる新しいエルサレムは、石、モルタル、レンガ、土や木でできた町のことではないことははっきりしています。それは天から下ってきた神の法であり、新しいエルサレムと呼ばれています。なぜなら、石と土でできたエルサレムは天から下ってこないことは明らかですし、それは再び新しくはなりません。しかし新しくされたものは神の法です。

神の法はまた、美しい飾りをつけて現われた着飾った花嫁に例えられます。それはヨハネの黙示録の二十一章に次のように述べられています。「さらにわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下ってくるのを見た。(黙示録21:2)そして十二章一節にはこう言われています。「また、天に大きなしるしが現われた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。」この女性がその花嫁で、マホメットの上におりてきた神の法です。彼女が着ていた太陽、足の下にある月は、その法の下陰にある二つの国、つまり、ペルシャとオスマントルコのことです。ペルシャの絞章は太陽であり、オスマン帝国は三日月です。このように太陽と月は、神の法のもとにある二つの王国の絞章です。その次に述べられています。「頭には十二の星の冠をかぶっていた。」この十二の星は十二人のイマムであり、その人たちは、導きの天で星のように輝いているマホメットの法の推進者、民衆の教育者です。

その次に第二節について述べられています。「身ごもった女は叫んでいた。」ということは、完全な子が生まれるまで、この法は極度の困難に陥り、非常な苦労と苦難を耐えるということです。――完全な子とは、来たるべき顕示者、約束されたお方、完全な子であるお方、その母親としてのこの法の胸の中で育てられたお方のことです。ここに言われている子供は、最初の点であるバブです。バブは真実、マホメットの法から生まれました。――つまり、彼の母である神の法から生まれた子であり、結果であるお方、また、その宗教によって約束されたお方である聖なる実在は、その法の王国に現わされました。しかし、竜の圧制によりその子は神のもとへ引き上げられました。一二六〇日の後、その竜は破壊され、神の法の子、約束されたお方は明らかになりました。

三、四節「また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。」(黙示録12:3、4)これらの徴は、マホメットの宗教を支配したウマイヤ王朝の隠喩です。七つの頭と七つの冠は、ウマイヤ朝が力をふるった七つの国と領土を意味しています。それらは、ダマスカス周辺のローマ領、ペルシャ、アラビア、エジプト領、それに加えて、アフリカ領、即ち、チュニス、モロッコ、アルジェリアです。現在のスペインであるアンダルシア領、そしてトランソザニアのトルコ領です。ウマイヤ朝はこれらの国々に力を及ぼしました。十本の角はウマイヤ朝の支配者の名前を意味しています。―即ち、重複を避ければ、十人の指導者と首領の名前を意味している十の支配者の名前がありました。―最初はアブ・スフィヤン、最後はマルバンです。しかしそのいくつかは同じ名前です。それで二人のムアビア、三人のヤズド、二人のバァリド、二人のマルバンがいます。しかし重複しないように数えますと十人になります。ウマイヤ朝の初代はメッカの知事であり、ウマイヤ朝の長であったアブ・スフィヤン、そして最後がマルバンであったウマイヤ朝は、天国の星と例えられる神聖で聖人のようなマホメットの血統の三分の一を殺しました。

四節、「そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。」(黙示録12:4)前にも説明したように、この女性は神の法です。竜は、その子を食べてしまおうと女の前に立ちはだかっていた。この子供は、マホメットの法の子である約束された顕示者でした。ウマイヤ朝は常に、マホメットの系統から来る約束されたお方を殺し、絶滅させるために、捕まえようと待ちかまえていました。彼らは約束された顕示者の出現を非常に恐れて、高く評価されそうなマホメットの子孫を皆殺しにしようとしていたのでした。

五節、「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。」この偉大な子は、神の法から星まれ、神の教えの胸の中で育てられた約束された顕示者です。鉄の杖は力の象徴です。―それは剣ではありません。一彼は神の力で地上のすべての国を導くであろうということを意味しています。この子は、バブです。

五節、「子は神のもとへ、その王座へ引き上げられた。」これはバブについての予言です。彼は天の領域へ、神の王座へ、神の王国の中心へと昇りました。すべては、実際起ったこととよく一致していることについて深く考えてください。

六節、「彼女には、神の用意された場所があった。」(黙示録12:6)アラビア半島は、神の法の住み家、居場所、中心となりました。

六節、「彼女が一二六〇日の間養われるように。聖書の用語論によれば、一二六〇日は十二六〇年を意味し、その間、神の法は、巨大な砂漠であるアラビアの荒野に掲げられました。一二六〇年の後、その法はもはや影響力は失くなります。なぜなら、その木の果実は現われ、その結果がもたらされるからです。

いかにそれらの予言がお互いに対応しあっていることか、よく考えてください。ヨハネの黙示録の中では、約束された御方の出現は四十二ケ月後と指定されていますし、ダニエルは三日半と表わしています。三日半はまた四十二ケ月であり、一二六〇日でもあります。ヨハネの黙示録の別の節には、はっきりと一二六〇日と述べられています。聖書では一日は一年を意味します。これらの予言がお互いに一致し合っていること以上の明らかな証明はあり得ないでしょう。バブは、全イスラムの共通の暦計算の始まりであるマホメットのヘジラから一二六〇年たって出現しました。聖書の中で、どの顕示者にとっても、これ以上はっきりした証明はありません。公正な人にとって、偉大なる方たちの言葉によって示された時間の一致は、決定的証明です。これらの予言について、別の説明をすることは不可能です。真実を求める公正な人々に祝福あれ。しかし、公正さがない場合には、キリストの顕示の時のパリサイ人が、キリストと弟子の解釈を極度のがんこさで否定したのと同じように、人々は攻撃し、反論し、明からさまに証拠を否定します。彼らは無知な人々に、「聖書に述べられている状況に依れば、これらの予言はイエスに関するものではなく、後に来る約束されたお方のための予言である。」と言ってキリストの大業を混乱させました。それらの状況のあるものは、彼は王国を持たなければならない。ダビデの玉座に座り、聖書の法を執行し、同じ泉に狼と子羊を集める正義を現わさなければならないというものでした。

このように彼らは、人々がキリストを認めることを妨げました。

 

注= 最後の話の中で、アブドル・バハは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教についての黙示録の予言を、その超自然的特徴を示すことよりむしろ、新しい解釈で調整することを願っている。顕示者の力について40「神の顕示者の知識」と71「幻と霊のまじわり」を参照のこと。

 

十四、精神的証明

 

この物質の世界では、時の流れに周期があり、移り変わる季節によって場所の様子は変化します。魂にも進化があり、退化があり、教育があります。

ある時は春の季節であり、またある時には秋の季節です。また、夏の季節であったり、冬の季節であったりします。

春には、貴重な雨を降らせる雲があり、じゃこうの香りのするそよ風、生気を与える風があります。空気はまことに穏やかで、雨は降り、日は輝き、豊かな風は雲をふわふわと運び、世界は生まれかわり、命の息吹きが植物、動物、そして人間の中に現われます。地上のものは、ある状態から別の状態へと変わります。万物は新しい衣装をまとい、黒い地面は草におおわれます。山々や野原は新緑で飾られ、木々は葉や花をつけます。庭園には花が咲き乱れ、香り高い草が生い茂ります。世界は別世界になり、命を与える精神に達します。地面は命のないからだでしたが、新しい精神を見い出し、かぎりない美しさ、優しさ、新鮮さを生み出します。このように、春は新しい命のもとであり、新しい精神を吹き込みます。

それから夏がやって来ます。暑さが増すと成長と発達は、その最大の力に到達します。植物界の生命力は完成の域に達して、実は結び、収穫の期は熟します。一粒の種子は束をなし、冬に備えて食料は貯えられます。それから騒々しい秋が来て、不健康な、不毛の風が吹きます。それは病の季節であり、万物は枯れしおれ、かおりのよい空気はよごれた空気になります。春のそよ風は秋の風に変化し、豊かな緑の木々は枯れて裸になり、花や香り高い草は色あせ、美しい庭園は塵の山となります。これに続いて、寒さと吹雪の冬の季節がやって来ます。雪が降り、雨が降り、ひょうが降り、嵐となり、雷鳴はとどろき、いなずまが光り、凍てつきます。すべての植物は枯死し、動物は弱り哀れな状態になります。

この状態に到達すると再び新しい、命を与える春が戻って来ます。そして周期は新しくなります。新鮮さと美を持つ春の季節は、かぎりないはなやかさと雄大さで、そのテントを野原や山々に広げます。再び被造物の姿は新しくなり、生物の創造は新しく始まります。からだは成長、発達し、野原や荒野は緑になり、肥沃になり、木々は花を咲かせ、去年の春は最高の豊かさと栄光の中に戻って来ます。生存の周期継続はこのようなものであり、かくあるべきものです。物質の世界の周期循環はこのようなものです。

予言者の精神的周期も同じです。――つまり、聖なる顕示者の出現は、精神的春の季節です。それは神性の輝きであり、天の恩恵、命のそよ風、真理の太陽のあけぼのです。精神は活気づけられ、心はさわやかになり、元気づけられ、魂は善良になります。生活は活発になり・人間の本質は喜ばされ、良い性質や美徳の中で育ち、発達します。全般的進歩がなされ、復興が起こります。なぜならそれは復活の時であり、興奮の時、至上の幸福の季節、大いなる歓喜の季節だからです。

やがて命を与える春は終わり、実を結ぶ夏が来ます。神の言葉は賛美され、神の法は広められ、万物は完成の域に達します。天の食卓は広げられ、神聖なその風は東西をよい香りで満たし、神の教えは世界を征服します。人々は教育され、賞讃すべき業績が生み出され、人間世界に共通の進歩が現われ、神の恩恵は万物を取りまきます。真理の太陽は、神の王国の地平線からこの上もない力と熱を持って昇ります。それは頂点に達すると、傾き、下降し始めます。精神的夏のあとに、成長、発達を止める秋がやって来ます。そよ風は物を枯らせる風に変わり、この不健全な季節は、庭園や野原、木陰の美しさと新鮮さを失なわせます。――即ち魅力や善意は影をひそめ、神聖な特質は変化し、心の輝きは薄れ、魂の精神性は変性し、美徳は悪徳に置き替り、神聖さと清浄さは消え失せてしまいます。神の宗教の名前だけが残り、神の教えの外面的形式ばかり残ります。神の宗教の基礎は破壊絶滅され、ただ形式と習慣のみが残ります。分裂が現われ、確信は不安定になり、精神は死にます。心は弱り、魂は無気力になり、冬が訪れます。――つまり、無知の寒気は世界を包み、人間の誤りの暗黒は世界を覆います。それから無関心、背反、無思慮、怠惰、卑劣、動物的本能、冷淡、石のような鈍感さが来ます。それは、太陽の熱の働きが妨げられ、荒涼とした陰うつな地球の冬の季節に似ています。知性と思想の世界がこの状態に達すると、そこにはただ継続的死と永遠の空虚とがあるばかりです。

冬の季節が力を果たしてしまうと、また精神的春が戻り、新しい周期が現われます。精神のそよ風が吹き、その輝く黎明はきらめき、神聖な雲は雨を降らせ、真理の太陽の光線は輝き出し、この依存している世界は新しい命を得、すばらしい衣をまといます。過ぎ去った春のあらゆる徴と恩恵は再び現われ、恐らくこの新しい春は一層堂々とした輝きを持つことでしょう。

真理の太陽の精神的周期は物質的太陽の周期に似ており、絶えず回転し、更新されています。真理の太陽は物質的太陽のように多数の昇る場所、没する場所があります。ある日、黄道十二宮の力に座から昇り、ある時は天秤座から、または水がめ座から、またある時は雄羊座から光線をまき散らします。しかし太陽は一つの太陽であり、一つの実体です。知識ある人は太陽を愛する人であり、その昇ったり没したりする場所によって惑わされません。知覚力のある人は心理の探究者であり、その出現する場所、没する場所を問題としません。ですから彼らは太陽が黄道十二宮力のどこから昇ろうと太陽を崇拝します。そして真理を現わすすべての聖別された魂に心理をさがし求めます。そのような人は決まって真理に到達し、神の世界の太陽からおおい隠されません。ですから、太陽を愛する人や光の探求者は、太陽が牡羊座から輝こうと、かに座からその恵みを施そうと、あるいは双子座から輝き出ようと、いつも太陽の方に向きます。しかし無知でいまだに教えを受けていない人は黄道を愛します。そして太陽ではなく、その昇る場所に心を奪われ、眩惑されます。太陽がかに座にあるとその方に向きました。しかしその後太陽は天秤座へ移ってしまいました。彼らはその座を愛する人たちであったので、その方へ向き、それに愛着しました。そして太陽がその場所を変えたというただそれだけの理由で、太陽の影響力を受けられなくなりました。例えば、かつて真理の太陽はアブラハムの宮からその光を注ぎ、次にモーゼの宮から昇り、地平線を照らしました。やがてそれはこの上もない偉大な力と輝きを持ってキリストの宮から昇りました。神の真理の探究者は、それをどこに見ても、その神の真理を崇拝します。しかし、アブラハムに執着した人たちは、それがシナイ山を照らし、モーゼの本質を輝かせた時、太陽の影響力から締め出されたのでした。モーゼに執着した人たちはまた、真理の太陽がこの上もなく輝かしく、主の壮麗さをもってキリストから輝き出した時、ベールでおおわれたのでした。等々。

ですから、人は、神の真理の探究者でなければなりません。そうすればそれぞれの聖別された魂たちの中に、神の真理を見つけるでしょう。彼は魅了され、歓喜にあふれ、神の恵みに魅せられるにちがいありません。どのランプから輝きだす光をも愛する蝶のようであり、どの花園に育つばらをも愛するナイチンゲールのようでなければなりません。

例え太陽が西から昇るとしても、それはやはり太陽であることに変わりはありません。その昇る時所が違うからと背を向けたり、西は常に日の没する所であると決めつけてもなりません。同じように、人は神の恩恵を探し、神の夜明けの女神を探し求めなければなりません。どんな場所に太陽が現われようと、人はその熱烈な思慕者でなくてはなりません。もしもユダヤ人がモーゼの地平線を向いたきりではなく、真理の太陽をのみ注視していたならば、キリストの本質の夜明けの地に、この上もなく神聖な輝きの中に現われた太陽を認めたであろうことは疑いありません。しかし、悲しいことに、何とも悲しいことに、彼らはモーゼの外面的な言葉に執着して神の恩恵と主の光輝を見失ってしまったのでした。

 

十五、真の富

 

あらゆる存在物のほまれと歓喜は、それぞれの存在理由と環境によって異なります。大地の優秀さ、盛装、完成は、春の雲の恵みをうけて緑の草木でおおわれ、肥沃になることです。植物が育ち、花や香りの良い草がもえだし、実をつける木々が花でいっぱいになり、水々しい果実が実ります。花園は美しくなり、牧場は飾られ、山や野原は緑のゆるやかな衣をまとい、庭、野、村、町は美しく飾られます。これが鉱物界の繁栄です。

植物界の歓喜の絶頂と完成は、一本の木が新鮮な水の流れる岸辺に育ち、優しいそよ風がその上を吹き、太陽の暖かさがその上に輝き、庭師がその栽培の世話をし、日毎に成長して実を結ぶようになる、というようなことです。しかし、植物界の真の繁栄は、動物界、人間界に進入し、動物や人間の肉体の中で消費される物に置きかわることです。

動物界の歓喜は、動物が完全な五体、器官、力を持ち、必要なものが満たされることです。これが動物界の主な栄光、名誉、歓喜です。ですから、動物の至高の幸福は、緑豊かで肥沃な牧場や、この上もなく清らかな流水や、美しい青々とした森を持つことです。もしこれらのものが与えられれば、これ以上の繁栄は想像できません。例えば、小鳥が青々とした果実がいっぱいある森に、美しい高地に、丈夫な木の上に、高くのびた枝のてっぺんに、その巣を作り、そして、必要とするあらゆる食物と水があれば、これこそ、完全な繁栄です。

しかし動物の真の繁栄は、動物界から人間界へ進入することであり、顕微鏡的な生き物のように水や空気をとおして人間の中に入り込んで同化され、人間のからだの中で消費されるものに置きかわることです。これが動物界の大きな名誉であり、繁栄です。これ以上の名誉は考えられません。

ですから、この富、この慰み、この物質的豊富さが、鉱物、植物、動物の完全な繁栄を形成することは明らかです。物質的世界のどんな富も財産も慰安も安楽も、一羽の小鳥の富にはかないません。これらの平原や山々の全域がその住む場であり、すべての種子、収穫物はその食糧であり財産です。あらゆる陸地、村、牧場、森、荒野はその所有物です。では、この小鳥と、最も裕福な人とどちらが豊かでしょうか。小鳥がどんなに多くの種子を食べたり、他に与えたとしても、その富は全々減りはしないのです。

それならば、人間の名誉と歓喜は、物質的富以上のものでなくてはならないことが明らかです。物質的快適さは枝にすぎません。人間の歓喜の根となるものは、人間の本質を飾る善い属性と美徳です。それらは神性の現れ、天の恩恵、崇高な感惰、神への愛と知識です。あらゆるものに通じる英知、知的理解、科学的発見、公正、平等、誠実、慈悲、生まれつきの勇気と堅忍、権利の尊重、契約、聖約の遵守、あらゆる環境における正直さ、あらゆる状況下での真理への奉仕、すべての人々の利益のための命の犠牲、あらゆる国民に対する優しさと尊敬の念、神の教えに対する従順、神の国への奉仕、人々の指導、国家や種族の教育。これこそ人問界の繁栄です!これこそ世界における人間の歓喜です!これこそ永遠の命であり、神々しい名誉です!

このような美徳は、神の力と神の教えを通してのみ、人間の実体から現われでます。そうした美徳が現われるためには、超自然的力が必要だからです。自然界にはこのような完全なものの痕跡が見られるかも知れません。しかしそれらは不安定ではかないものであり、壁の上を照らす太陽の光のようなものです。

慈悲深き神は、そのようなすばらしい王冠を人の頭に置かれたのですから、人は、その輝かしい宝石がこの世界において目に見えるようにするために大いに努力すべきです。

 

第二部 

キリスト教に関する問題

 

十六、知的概念を伝えるためには、外面的形式や象徴を使わなければならない

 

問題の核心を理解したり、これまで述べて来た質問や、これから話す事柄を認識するために重要な主題はこれです。即ち人間の知識には二種類あるということです。一つは感覚よって知覚できるものの知識です。即ち目、耳、匂い、味、触わることで知覚できるもの、いわゆる客観的とか知覚され得る物と呼ばれているものです。太陽は見ることができますから、客観的であるといわれます。同様に音は、耳で聴くことができますから、知覚され得る実在です。食べ物は味覚がその甘さ、すっぱさ、塩からさを知覚しますから、感じることのできるものです。熱や冷たさは感覚で感じるものですから知覚できるものです。これらは知覚することのできる実体と言われています。

人間の知識のもう一つは知的なものです。即ち、知性の実体です。それは外面的な形も場所もなく、五感で捕えることはできません。例えば、知性の力は実体のあるものではありません。反対にそれらは知的な実体です。ですから愛は精神的な実体であり、五感で捕えられるものではありません。この実体は耳で聴くことも、目で見ることも、匂いをかぐことも、味わってみることも、触わって感じることもできません。エーテル様の物質についても、その力は物理学上、熱、光、電気、磁気と呼ばれているのですが、それは知的実体であって、知覚され得るものではありません。同様に自然もまたその本質において知的実体であって、知覚し得るものではありません。人間の精神も知的であり、実体のあるものではありません。これらの知的なものを説明するには、それらを表現するために、感覚的形をとることを余儀なくされます。なぜなら、外的存在は全て物質的なものだからです。ですから、精神の実体、状態、地位を説明するためには、知覚できる物の形をとって説明することを余儀なくされます。外界では存在するものは全て知覚し得るものだからです。例えば、悲しみと幸福は目に見えないものです。これらの精神的なものを表現したい時には人間の心は圧迫されたり、大きく広げられたりすることもないのに、「私の心は圧迫される。私の心は大きく広げられる。」と言います。これは知的または精神的状態で、それらを説明するためには、感じることのできる形にたよらなければなりません。また他の例でいえば、人が同じ場所にいるのに「そのような人は、大きな前進をする。」とかまた「そのような人は、高められる。」とかいいます。その人は他の人と同じように地上を歩くのですが。この高めることと、この前進は精神的な状態であり、知的実体です。しかし、それらを説明するためには、知覚的形にたよることを余儀なくされます。外界では知覚できないものはないからです。

知識の象徴は光であり、無知の象徴は闇です。しかし考えてみてください。知識は知覚し得る光でしょうか。無知は知覚し得る闇でしょうか。いいえ、それは単なる象徴に過ぎません。しかし外面的に表現しようとすれば、知識は光と呼び、無知を闇と呼ぶのです。「私の心は暗かった。そして明るくなった。」というふうに言います。そこで知識のその光と、無知のその暗さは、知的な実体であって、実体のあるものではありません。しかし外界で説明しようとする時には知覚できる形を与えることを余儀なくされます。

それで、キリストに降りた鳩は物質的な鳩ではなく、精神的状態であったことが明らかです。それが認識され得るように、実体のある形で表現されました。このように旧約聖書では、神は火の柱として現われたと言われていました。それは知覚し得るイメージによって表現された知的実体です。

キリストは言っています。「父は子の中にあり、子は父の中にある。」キリストは神の中にあったのか、あるいは神はキリストの中にあったのか、いいえ、絶対にそうではありません。そうではなく、知覚することのできる形で表現された知的状態です。

バハオラが言われた言葉の説明に移りましょう。「おお国王よ。私は他の人間と同様に単なる一介の人間に過ぎなかった。しかし私が長椅子の上で眠っているとき、突然、全く栄光ある神の微風が我が身を吹き抜け永遠の昔から続いて来た全ての知識を私に教えた。この知識は、私個人からのものではなく全知全能なるものから伝えられる言棄である。」 

これは顕示者の地位です。それは感じ得る実体のあるものではありません。それは知的実体であり、時、過去、現在、未来から免除され、解放されています。それは説明、直喩、隠喩であり、文字通りに受け取られるものではありません。それは人間によって認識され得る状態ではありません。睡眠と覚醒は、一つの状態からもう一つの状態へと移り変わります。睡眠は休息の状態であり、覚醒は活動の状態です。睡眠は沈黙の状態であり、覚醒は演説の状態です。睡眠は神秘の状憩であり、覚醒は顕示の状態です。

例えば、ペルシャ語やアラビア語の表現では、地球は眠っていた。そして春が来た。それは目覚めた。または地球は死んだ。そして春が来た。それは生き返ったといいます。これらの表現は隠喩であり、寓話であり、言葉の世界での神秘的表現です。

要するに、聖なる顕示者たちは今までも、これからも輝く実体であり、彼らの本質にはいかなる変化も変型も起こりません。顕示を宣言する前には、彼らは沈黙しており、眠っている人のように静かです。そして顕示のあとでは、彼らは話し、輝かされ、目覚めている人のようです。

 

十七、キリストの誕生

 

質問 キリストは、どのようにして、精霊から生まれたのですか

 この質問について、神学者と唯物論者は意見が合いません。神学者は、キリストは精霊から生まれた事を信じていますが、唯物論者は、このことは不可能であり、認められないと考え、疑いなくキリストには父親がいたと信じています。

コーランには次のように言われています。「そして我は精霊を彼女に送った。彼は完全な人の型となって彼女の中に現われた。」この意味することは、あるイメージが鏡の中に作られるのと同じように、精霊は人間の形に似せて作られるように、マリアにゆだねられたということです。

唯物論者は、結婚があったにちがいないと信じ、生きものは、命のないものからは作られず、雄と雌なしには受胎はあり得ないと言っています。そして人間ばかりでなく、動物や植物においても不可能であると考えています。この雌雄の結合は、すべての生き物や植物にあります。この対をなす考え方はコーランにも示されています。

「地上に生えるもの、彼ら自身、および彼らの知らないものことごとくを、雌雄の対として創造したもうたお方を讃えまつれ。つまり、人、動物、植物はすべて対をなしている。――そしてあらゆる物には二つの種類を作った。――つまり、我はすべての存在するものを対になるべく作ったということです。

要するに、父親がない人は考えられないと唯物論者は言っています。それに答えて神学者はこう言います。「このことは不可能でもなければ実現できないことでもない。しかしそれは今までみられなかっただけである。不可能なことと知られていないこととは大きな違いがある。例えば、以前には東西の意志伝達をさせる電信は知られていなかったが、不可能ではなかった。写真、蓄音器も知られていなかったが不可能ではなかった。」

唯物論者は、その考えに固執し、神学者は答えます。「この地球は永遠であるか、有限なものか。」唯物論者はこう答えます。「科学と重大な発見によればそれは有限なものであることが確立されている。最初それは燃えるように熱い有限な球であった。序々に温暖になり、割れ目がそのまわりにでき、その上に植物が現われ、次に動物、そして最後に人が存在するようになった。」と。神学者は言います。「あなた方の発言から、人類は地球上で有限であり、永遠のものではないことがはっきりする。それならば、最初の人は父も母もなかったことになる。なぜなら人の存在は有限なものであるから。父母なしでの人間の創造は、序々であるとしても、単に父なしで人間が存在するようになったことより困難なことではないのか?あなた方は父母なしに最初の人は存在するようになったことを認めたのであるから。それが序々であるか又は同時であるにしても人間の父のない人もまた可能であり、認め得ることは疑問の余地はない。これを不可能と考えるわけにはいかない。さもなければ論理的ではない。例えば、このランプは芯も油もなしに灯ったといって、次に芯なしで火をつけることは不可能であるという。これは論理的ではない。」キリストには母があったが、最初の人は唯物論者が信じるように、父も母もなかったのです。

 

 

十八、キリストの偉大さはその美徳による

 

偉大な人は人間の父から生まれたか、生まれなかったかにかかわらず、偉大な人です。もし父なしであることが美徳であるならば、アダムはすべての預言者や使者より偉大で、はるかに優れていることになります。なぜなら、彼は父も母もなかったからです。名誉と偉大さの根拠となるものは、神の美徳の輝きと恵みです。太陽は父と母にたとえることのできる物質と形から生まれました。そしてそれは完全な美徳です。しかし、闇は物質も形もなく、父も母もなく、それは全くの不完全です。アダムの肉体の物質は土です。しかしアブラハムの物質は純粋な精子です。純粋で汚れのない精子は土より優れていることは明らかです・

さらにヨハネの福音書の第一章十二、十三節にこう述べられています。『しかし、言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。』(黙示録1:12)「この人々は血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネの黙示録1:13)

これらの節から、弟子の存在もまた肉体の力によって作られたのではなく、精神的な実体によって作られたことが明らかです。キリストの名誉と偉大さは、人間の父を持たなかったという事実にあるのではなく、その美徳、恵み、神の栄光によるのです。キリストの偉大さが、その父を持たないことにあるとしたら、アダムの方がキリストより偉大であることになります。彼には父も母もなかったからです。旧約聖書に述べられています。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」アダムは命の精神から存在するようになったと述べられていることを考えてください。さらに、ヨハネが弟子に関して使った表現は、彼らもまた天なる父からきたことを証明しています。ですから、すべての偉大な人の真の存在を意味している聖なる実在は、神から来たのであり、その存在は聖霊の息吹によっていることは明らかです。

主旨はこうです。もし父親がないことが、人間の最高の栄光であるとすれば、アダムは誰よりも偉大であるということになります。彼には父も母もなかったのですから。人が生きている物質から作られることは、土から作られることよりも良いことでしょうか?人が生きている物質から作られていることはより良いことであることは確かです。しかし、キリストは精霊から生まれ、存在するようになりました。

結論をいいますと聖者や神の顕示者の輝きや名誉は彼らの天なる美徳、恵み、栄光より来るのであって、他の何物からでもないということです。

 

十九、キリストの洗礼

 

質問 マタイの福音書の三章十三、十四、十五節にこう述べられています。

そのときイエスがガラリアからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネはそれを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのにあなたがわたしのところへ来られたのですか。」しかしイエスはお答えになった。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは我々にふさわしいことです。」そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。

これにはどんな英知があるのですか。キリストはすべての必要な美徳を持っているのになぜ洗礼が必要なのですか。

 洗礼の原理は後悔による浄化です。ヨハネは人々に忠告し、熱心に勧め、悔い改めるようにさせました。そして彼らに洗礼を施しました。ですから、この洗礼はすべての罪からの後悔の象徴であることは明らかです。その意味は次のことばに表わされています。「神よ。私のからだは、肉体的不純から浄化され、清められました。同じように、私の心を自然界の不純から浄化し聖別してください。自然界はあなたの和合の敷居にふさわしくありません。」後悔は、服従への不服従からの復帰です。人は神からの疎遠と喪失の後、後悔し、浄化を受けるのです。そしてこれは「神よ、私の心を善良で純粋なものとなしたまえ、あなたの愛以外のものから解放し、聖別したまえ。」を表わしている象徴です。

キリストはヨハネのこの制度を当時のすべての人にしてもらいたいと思い、人々の目を覚まし、以前の宗教の法律を完成するために、彼自身それに従いました。後悔を洗い清めることは、ヨハネの制度でしたけれども、事実、それは以前に神の宗教において実施されていました。

キリストには、洗礼は必要なかったのですが、当時においては、それは受け入れられるものであり、賞讃すべき行為であり、神の王国の吉報のしるしであったので、彼はそれに従いました。しかし後に彼は、真の洗礼は物質的な水でするのではなく、精霊と水とでなされなければならないと言いました。この場合、水は物質的水を意味しているのではありません。というのは、洗礼は精神と火でなされるとほかのところにはっきりと述べられているからです。このことから、その意味は物質的な火や物質的な水ではないことがはっきりします。火による洗礼は不可能だからです。

ですから、精霊は、神の恩恵であり、水は英知と命であり、火は神の愛です。なぜなら物質的水は、人の心を浄化しないからです。いいえ、それはからだをきれいにするものです。しかし英知と命である天の水と霊は、人間の心を善良にし、純粋にします。神の精神の恩恵の分け前を受け取った心は聖別され、善良になり、純粋になります。つまり人間の本質は、自然界の汚れから浄化され、純粋にされるのです。これらの自然な汚れは悪い性質です。怒り、強い欲望、物欲、自尊心、虚言、偽善、詐欺、自己愛等々。人は、精霊の助けによらなければ、肉欲の熱精の激しさか逃れられません。そういうわけで彼は霊と水と火による洗礼が必要といったのです。そしてそれは欠くことのできないものです。即ち、神の恩恵の霊、英知と命の水、神の愛の火です。人が永遠の恩恵によって満たされるためには、この霊、この水、この火によって洗い清められなければなりません。さもなければ、物質的水によって洗礼をすることは何なのでしょう。いいえ、この水による洗礼は後悔の象徴、罪のゆるしを求める象徴なのでした。しかしバハオラの周期では、もはやこの象徴は必要ではありません。神の精神と愛によって洗い清められるべきであるという、その本質が理解され、確立されたからです。

 

二十、洗礼の必要性

 

質問 洗礼による洗浄は有用で必要なものですか。それとも無用なものですか。

前者の場合、それが有益であるならば、なぜ廃止されたのですか。そして後者の場合、それが無益であるならば、なぜヨハネはそれをしたのですか。

 状態の変化、交代、変形は存在する物の本質にとって絶対避けられないものです。そして本質的必然性は、事物の実体から分離することはできません。例えば、火から熱を分離すること、水から湿気をとること、太陽から光をとることは絶対に不可能です。それらは必要不可欠な必然性です。状態の変化と変更は存在するものに絶対必要なものです。ですから、時の変化と交代に従って法律もまた変化し、変更されます。例えばモーゼの時代には、彼の法律はその時代に従い、適応させられました。しかしキリストの時代には、これらの状態は非常に変化したのでモーゼの法はもはや人間の必要に適合、適応しなくなりました。それでモーゼの法は廃止されました。キリストが安息日を破り、離婚を禁止したのもその理由でした。キリストの後、ペトロとパウロを含む四人の弟子たちは、聖書に禁じられている動物を食べることを許しました。ただし絞め殺された動物、偶像に供えられた動物、動物の血を食べることを除いていました。彼らはまた姦淫も禁じました。彼らはこの四つの戒律を維持しました。その後、パウロは絞め殺された動物、偶像に供えられた動物、動物の血を食することさえも許しました。そして姦淫の禁止だけを維持しました。それでパウロはローマの信徒への手紙の十四章十四節にこう書きました。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。」

またテトスヘあてたパウロの手紙の一章十五節にもこうあります。「清い人にはすべてが清いのです。だが汚れている者、信じない者には何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。」

さて、この変化、変更、廃止はキリストの時代をモーゼの時代と比較することが不可能であることにかかっています。新しい時代の状態や必要性は全く変化し、変質します。ですからそれ以前の法律は廃止されるのです。

世界の本質は、人の本質に例えることができます。予言者や神の使者たちは熟練した医師に例えられます。人間の状態は一つの状態にとどまることはできません。さまざまな病気が生じ、それらにはそれぞれの治療法があります。熟練した医師はいろいろな病気を治すために、同じ薬を与えはしません。その病気と容体の異なった必要性に応じて、治療法や薬を変えます。高熱によってひどい病気になった人には、熟練した医師は熱をさます治療をするでしょう。またある時にはこの人の状態は変化して、熱が寒気に置きかわればその医師は熱をさます薬をやめて、暖かにする薬の使用を許すでしょう。この変化と変更は、患者の状態によって要求されます。そしてそのことは医師の熟練のはっきりした証明です。

旧約聖書の法律が、この時代に強制できるかどうか考えてください。いいえ絶対にできません。それは不可能であり、実施できることではありません。だからこそ、確かに神はキリストの時代に、旧約聖書の法律を廃止したのです。また洗礼者ヨハネの時代に、洗礼は人々にすべての罪を悔い改め、キリストの王国の出現を見守るために、目覚めさせ、忠告するために使われました。しかし現在アジアでカトリックやギリシャ正教は、生まれたばかりの子供をオリーブ油をまぜた水の中に突っ込みます。そして多くの子がショックから病気になります。洗礼の時、子供はもがき不安になります。また別のところでは神父は洗礼の水をひたいに散らします。前者の形式からも後者の形式からも、子供たちはいかなる精神的利益も引き出しません。それならばこの形式からどんな結果が得られるのでしょう。他の人々は驚き、なぜ幼児を水の中に突っ込むのか不思議に思います。これは子供の精神的覚醒のもとにも、信仰の転向のもとにもなりません。それは守られてきた習慣にすぎないのですから。洗礼者ヨハネの時代には、そうではありませんでした。はじめヨハネは、人々が罪を悔い改め、キリストの顕示を待望する希望で満たされるように、人々に熱心に勧めたのでした。洗礼の洗浄を受けた人は誰でも、完全な謙遜と従順の気持ちで、罪を悔い改めましたし、からだも外の汚れから浄化し、清めたのでした。強い熱望を持って、彼は日夜、キリストの顕示と神の精神の王国へ入ることを待ち続けたのでした。

要約しますと、状態の変化と変形、異なる世紀と時代の変化した要求は、法律の廃止の原因となるということです。法が状況にふさわしいように適応されない時が来るからです。

世紀初めと中世と現代との必要性はいかに大きく変わっているか考えてください。世紀初めの法を現在に強制することは可能でしょうか。それは不可能であり、実施できないことは明らかです。同じように、数世紀過ぎれば現代の必要性は、未来のそれらと同じではないでしょう。そこには変化と変更があることは確かです。ヨーロッパでは、法律は絶えまなく変更され、変形されています。過去において、ヨーロッパの組織や制度にはどれほど多くの法律があったことでしょう。そしてそれらは今や廃止されているのです。これらの変化や変更は思考や状況や習慣の変形、変化によるのです。もしそうでなければ人間社会の繁栄は打ち砕かれたことでしょう。

例えば五書には、安息日を破った者は死刑にするという法律があります。これらの法律を私たちの時代に維持することは可能でしょうか。絶対不可能であることは明らかです。結論として、法律には変化と変更があり、それらは神の崇高な英知の十分な証拠であるということです。

この主題には熟考が必要です。そうすればこれらの変化の原因が明らかになるでしょう。

深く考える者に祝福あれ!

 

二十一、パンとぶどう酒の象徴するもの

 

質問 キリストは言われました。「わたしは天から降って来たパンである。これを食べる者は死なない。」この意味は何ですか。

 このパンは天の食物と神の美徳を表わしています。ですから「このパンを食べる者は誰でも」ということは天の恩恵を得るものは誰でも、神の光を受け取るか、またはキリストの美徳に参加し、それを獲得し、それによってその人は永遠の命を得るということです。また血は命の精神と神の美徳、主の壮麗さ、永遠の恩恵を表わしています。からだのすべての器官は、命のもとになる物質を血の流れから得ているからです。

ヨハネの福音書の六章二十六節に書かれています。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

弟子たちが食べて満腹したパンは天の恩恵であることは明らかです。というのは同じ三十三節に述べられています。「神のパンは天から降って来て、世に命を与えるものである。」キリストのからだは天から降って来たのではなく、マリアの子宮から来たことは明らかです。そして天の神から降ってきたものはキリストの精神です。ユダヤ人は、キリストは彼のからだについて話していると考えて反対を唱えました。同じ節の四十二節にこう述べられているからです。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」

キリストが天のパンによって意味しているものは、彼の精神、彼の恩恵、彼の美徳、彼の教えであることは、いかにはっきりしたことであるか考えてください。なぜならそれは、六十三節に述べられています。「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。」

ですから、キリストの霊は、天から降って来た天の恩恵です。その霊から豊富に光――つまり天の教え――を豊かに受け取った者は誰でも皆、永遠の命を見い出します。それが、三十五節に述べられている理由です。「イエスは言われた。わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」「彼のもとに来る」ことを彼は食べること、「彼を信じる」ことを飲むことと表現しています。ですから、天の食物は神の恩恵、精神的輝き、天の教え、キリストの普遍的意味であることは明らかですし、確立されています。食べることは彼に近寄ること、飲むことは彼を信じることです。なぜならキリストは自然のままのからだと天の形を持っていたからです。生来の自然のままのからだは十字架にかけられましたが、天の形は生きており、永遠であり、永遠の命のもとです。前者は人間としての性質がありましたが、後者は神の性質です。ある人たちは、聖餐式はキリストの本質であり、神と精霊がその中に降りてきて存在していると考えています。そこでいったん聖餐式がなされるとすぐにそれは簡単になくなり、完全に変化します。ですから、どうしてそのような考えを思いつくことができるでしょうか。そんな事はありませんように!それは全くの空想です。

結論を申しますと、キリストの顕示を通して永遠の恩恵である神の教えは外に広まり、導きの光は輝き出し、命の精神は、人間に授与されました。導きを見い出した者は誰でも皆生き、導きを見失なっている者は皆、永遠の死によってとらわれました。天から降って来たパンは、キリストの聖なるからだであり、彼の精神的要素でした。弟子たちはそれを食べ、それによって、彼らは永遠の命を得ました。

弟子たちは、キリストの手からたくさんの食事をとりました。なぜ最後の晩餐だけが他のものと区別されたのでしょうか。この天のパンは物質的パンを表わしているのではなく、むしろ、キリストの精神的からだの神の栄養であり、弟子が共にあずかった神の恩恵であり、それによって彼らは満たされました。

同じように、キリストがパンを祝福して弟子に与え、「これは私のからだである。」(マタイ26:26)といいながら、彼らに恩寵を与えた時のことを考えてみてください。キリストは、彼らの目の前に、人の形をして存在したのです。彼はパンとぶどう酒になっていたのではありません。もし彼がパンとぷどう酒に変わっていたのなら、彼は、人の形をして弟子たちの前にはいられなかったはずです。

ですから、パンとぶどう酒は次のことを意味している象徴であることがはっきりします。私はあなた方に私の恩恵と美徳を与えました。そしてこの恩恵を受け取れば、永遠の命を与えられ、あなたの取り分と天の食物の分け前にあずかります。ということです。

 

二十二、奇蹟

 

質問 キリストによって奇蹟がなされたということが記録されています。これらの奇蹟は、真実、文字通りに受け取られるべきでしょうか。あるいは、ほかの意味があるのですか。正確な科学の証明するところによれば、ものの本質は変化せず、またすべてのものは一つの普遍的法則と機構の下にあり、それからはずれることはできない。それゆえ普遍的法則に反することは不可能であるということですが。

 聖なる顕示者たちは奇蹟の源であり、驚くべきしるしの創始者です。彼らにとっては、どんなに難しく、実行不可能なことも可能であり、たやすいことです。超自然的力によって、彼らは不思議なことを現わしました。そして自然を越えたこの力によって彼らは自然界に影響を及ぼします。すべての顕示者から驚くべきことが現われました。

しかし聖なる書の中で、特別な用語が採用されています。顕示者にとっては、これらの奇蹟や、すばらしいしるしは重要ではないのです。彼らはそれらを言うことさえも望みません。なぜなら、たとえ私たちが奇蹟を偉大な証明と考えるとしても、それでもそれらは奇蹟が演じられた時にいた人たちにとって証明と証拠であるにすぎず、そこにいなかった人には証明にもならないからです。

例えばモーゼやキリストの探究者や異教徒に驚くべきしるしのことを話しても、彼らはそれらを否定して言うでしよう。「多くの人の証言によって、すばらしいしるしが偽りの神々について常に語られている。そして、それらは本の中に断言されている。バラモン教徒は梵天によるすばらしい驚異について本を書いた。」またこうも言うでしよう。「ユダヤ教徒とキリスト教徒は真実を話し、バラモン教徒はうそをつくとどうしてわかるのか。どちらも認められた伝承であり、本に集められたものであり、真実とも偽りとも考えられる。」と。他の宗教についても同じことが言えます。もし一つが正しければ、すべては真実です。もし一つが受け入れられるならばすべてが受け入れられなければなりません。ですから奇蹟は証明にはなりません。それらは、居合わせた人たちには証明であるとしても、居合わせなかった人にとっては証明にはなりません。

しかし、顕示者の時代には、洞察力を持った人々は、顕示者のあらゆる状況が奇蹟であることを理解します。彼らは、他のすべての人に優っており、このことだけで完全な奇蹟であるからです。キリストは、孤独で、たった一人で援助者も保護者もなく、軍隊もなく、激しい抑圧のもとで、世界のすべての人々の前に神の旗を掲げました。そして彼らを凌ぎ、ついにはすべてを征服しました。外面的には彼は十字架にかけられましたが。これは、決して否定できない本当の奇蹟です。キリストの真実についてこれ以上の証明は必要ありません。

真実を求める人々にとっては、外面的な奇蹟には重要性はありません。例えば盲人が視力を得たとしても結局は彼は再び視力を失ないます。なぜなら彼は死んで、すべての感覚と力を奪われるからです。ですから盲人を見えるようにすることはそれ程重要なことではありません。この視力は結局は消えてしまうからです。もし死人のからだが生き返らせられるとしても、何の役に立つのでしょうか。そのからだは再び死ぬのですから。しかし理解と永遠の命――つまり、精神的で神聖な命を与えることは重要なことです。

なぜならこの肉体的命は不死ではありませんし、その存在は無に等しいからです。それはキリストが弟子の一人に言ったことです。「死んでいる者たちに、死者を葬らせなさい。」(マタイ8:22)なぜなら「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。し(ヨハネ3:6)からです。 

外見上肉体的に生きた人をキリストは死人とみなしました。命とは、永遠の命のことであり、存在とは真の存在をさすものだからです。聖書で死人を立ちあがらせることを許すと述べられているところはどれも、死人は永遠の命によって祝福されるという意味です。盲が視力を得たといわれているところは、彼は真の知覚を得たという意味です。耳の聞こえぬ人が聴力を得たというところは、彼は精神的な天の聴力を得たということです。このことは福音書の文から確かめられます。そこでキリストは言っています。「これらはイザヤが言っていた人たちのようである。彼らには目はあるが見えず、耳はあるが聴えない。そして私は彼らをいやした。」(マタイ13:14 ヨハネ12:40〜41)

この意味は、顕示者は奇蹟を演じることができないということではありません。彼らはあらゆる力を持っているのですから。しかし彼らにとって内なる視力、精神的聴力、永遠の命は価値ある重要なものです。結果として聖書に盲であった者が視力を回復したと記録されている時は、内において盲であったが、精神的視力を得たということであり、または彼は無知であったが賢くなった、または彼は不注意であったが注意深くなった、または俗人であったが天の人のようになったという意味です。

この内なる視力、聴力、命、治療は永遠であり、それらは重要です。五感を伴うこの動物的命の価値は、それほど重要なものでしょうか。それは数日のうちにはかない考えのように終わるでしょう。例えば消されたランプに再び火を灯しても、それはまた消えます。しかし太陽の光はいつも輝いています。これは重要なことです。

 

二十三、キリストの復活

 

質問 三日後のキリストの復活とはどのような意味ですか。

 神の顕示者の復活は、肉体の復活ではありません。彼らの地位、状況、行為、その確立したもの、その教え、その表現したもの、その寓話、その指導はすべて精神的で神聖な意味があり、物質的なものとは何の関係もありません。例えばキリストが天からきたことについての問題があります。福音書のいたるところに、人の子は天から来た、彼は天にいる、そして彼は天に行くであろうとはっきり述べられています。ヨハネの福音書の六章三十八節に書かれています。「私が天から下ってきたのは。」また四十二節には「そして彼らはこう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないのか。我々はその父も母も知っている。どうしてわたしは天から降って来たなどと言うのか。』またヨハネの三章十三節に「天から降って来た者、すなわち天にいる人の子のほかには天に上った者はだれもいない。」とあります。

当時キリストは地上にいたのに、「人の子は天にいる。」と述べられていることを考えてください。またキリストはマリアの子宮から来て、彼のからだはマリアから生まれたのに、キリストは天から来たと言われていることに気づいてください。ですから人の子が天から来たと述べられている時には、これは外面的ではなく内面的意味があることがはっきりします。それは精神的なものであって物質的な事実ではありません。その意味は、明らかにキリストはマリアの子宮から生まれたのであるけれども、真実彼は天から、真理の太陽の中心から、神の世界から、精神的王国から来ました。キリストは神の王国の精神的天国から来たことがはっきりしたので、彼の地上における三日間の失跡は内面的な意味を持っているということであり、外面的事実ではないことがわかります。同じように彼の地面の中からの復活もまた象徴的なものです。それは精神的で神聖な事実であり、物質的なことではありません。同様に彼の天への昇天も、精神的なものであり、物質的昇天ではありません。

これらの説明の他に、目に見える天は無限に広がり、空虚であり、そこには数えきれない星や惑星が回転していると科学によって確立され、証明されています。

ですからキリストの復活の意味は次のようなものであるということです。キリストの殉教の後、弟子たちは困惑し、動揺しました。キリストの教え、恩恵、美徳、精神的力を意味しているキリストの本質は、彼の殉教の後二、三日間隠され、秘密にされ、輝かず、明らかにされませんでした。いいえ、むしろそれは失われました。弟子たちは数が少なく、困惑し、動揺したからです。キリストの大業は命のないからだのようでした。三日後、弟子たちは確信し、不動になり、キリストの大業に奉仕し始め、神の教えを広める決心をし、キリストの指導を実行に移し、彼に奉仕するために立ち上がりました。キリストの本質は光り輝き、彼の恩恵は現われました。彼の宗教は命を見い出しました。彼の教えと忠告は明らかに目に見えるようになりました。いいかえれば、聖霊の命と恩恵が取り囲むまで、キリストの大業は命のないからだのようであったのです。

それがキリストの復活の意味です。そしてこれは真の復活です。しかし聖職者は福音書の意味を理解もしなかったし、象徴の認識もできなかったので、宗教は科学とは正反対であり、科学は宗教に反すると言われてきました。例えばキリストがありのままのからだで目に見える天に昇天するという、この主題は科学に反しているというようにです。しかしその主題の真実がはっきりし、象徴が説明されれば科学は宗教と決して対立しません。それどころか科学と学問はそれを断言します。

 

二十四、使徒たちへの聖霊の降臨

 

質問 福音書に表わされている使徒たちへの聖霊の降臨は、どんな方法なのか、またどんな意味があるのですか。

 聖霊の降臨は、人間に空気が入り込むようなものではありません。それは厳密な、あるいは文字通りのイメージというよりは、一つの表現、たとえです。いいえ、それはむしろ太陽のイメージが鏡に入り込むようなものです。つまりその輝きがその中にはっきりと現われるのです。キリストの死後、弟子たちは困惑し、彼らの概念や思考は一致せず予盾していました。その後、彼らは強固になり、連帯し聖霊降臨節に集まり解脱しました。我が身のことをかえり見ずに、安楽やこの世の幸福を捨て身も心も愛する者に捧げ、家を捨て放浪者になり、自分の存在さえ忘れました。その結果、彼らは神の援助を受け、聖霊の力が明らかになり、キリストの精神性が勝利を得、神の愛が行き渡りました。その時彼らは援助を受け、神の大業を教え、証拠を示し、証明するためにあらゆる方向へ散って行きました。

ですから、使徒たちへの聖霊の降臨は、キリストの霊による彼らの引力を意味しています。それによって彼らは安定と堅固さを得たのです。神の愛の精神によって彼らは新しい命を得、キリストが生き、彼らを助け、守っていることを知ったのでした。彼らは水滴のようでしたが、大海になりました。彼らは弱々しい虫でしたが、力強いワシになりました。彼らは弱かったのですが、力強くなりました。彼らは太陽に向いている鏡のようになりました。まことにその光の一部は彼らの中にはっきりと現われました。

 

二十五、聖霊

 

質問 聖霊とは何ですか。

 聖霊は神の恩恵であり、顕示者たちから放出される輝く光線です。なぜなら、真理の太陽の光線の中心はキリストでした。キリストの本質であるこの栄光ある中心から神の恩恵は使徒たちの本質であった別の鏡に反射したからです。使徒たちへの聖霊の降臨は、栄光ある神の恩恵が彼らの本質に反射し、現われたことを示しています。さらに、入ることと出ること、下降と上昇は肉体の特色であり、精神の特色ではありません。つまり感じうる実体は入ったり出たりしますが、知的な微妙さや精神的本質、すなわち知性、愛、知識、想像、思考のようなものは入ったり出たりしません。むしろそれらは直接的つながりがあります。

例えば知力によって到達される状態である知識は、知的状態であり、心に入ったり、心から出たりすることは、想像上の状況です。しかし、イメージが鏡に反映するのと同じように、心は知識の習得と結びついています。

ですから知的実体は入ったり下降したりしないことは明らかですし、精霊は上昇したり、下降したり、入ったり出たり、浸みとおったりすることは絶対に不可能ですから、太陽が鏡の中に現われるように、精霊は光輝の中に現われることだけができます。

聖書の幾節かに、霊はある人を指して語られています。近頃、演説や会話の中で、そのような人は具体化された霊であるとか、彼は慈悲と寛大さの化身であると言われています。このような場合、それは私たちが見ている光であり、ガラスではありません。

ヨハネの福音書にキリストの後に出現する約束されたお方について十六章十二、十三節にこう述べられています。「言っておきたいことはまだたくさんあるが、今あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来るとあなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。その方は自分から語るのではなく聞いたことを語る。」

そこで「その方は自分で語るのではなく聞いたことを語る。」という言葉をじっくりと考えてください。真理の霊は、個性を持ったそのお方、聞く耳と話す舌を持っているお方の中に現われていることがはっきりします。同じように『神の霊』という名はキリストに関して使われます。あなたが光のことを言う時、光とランプの両方を意味しているのと同じように。

 

二十六、キリストの再来と審判の日

 

聖書に述べられています。キリストは再来する。そして彼の到来はある決まったしるしが達成されることにかかっている。彼が来る時には次のようなしるしがあるであろう。

「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち……そのとき、人の子のしるしが天に現われる。そしてその時、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」(マタイ24:29、30)

バハオラは、これらの節を「確信の書」の中で説明しています。ですから繰り返す必要はありません。それを参照してください。そうすればこの言葉の意味がわかるでしょう。

ですが、私はこの問題について、もう少し説明したいと思います。キリストが最初に出現した時にも、福音書にはっきりと述べられているように、天から来たのです。キリスト自身言っています。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」

キリストは明らかに、マリアの子宮から来たのではありますが、天から来たことは、誰にも明白なことです。最初の出現のとき、明らかに子宮からではありますが、天からやって来たのです。同じように彼の二度目の出現も、明らかに子宮からではありますが、天からやって来るでしょう。キリストの再来について福音書に示されている状況は、前にも説明したように、最初の出現のときに述べられていることと同じです。

イザヤ書の述べているところによれば、救世主は東西を征服し、世界の全国家は彼の下陰に入ること、彼の王国は確立されること、彼は未知の場所から出現すること、罪人は審判を受けること、正義は狼と子羊、豹と子供、乳呑子と毒蛇が一つの泉に、一つの牧場に、一つの住み家に集うほどの程度にまで浸透するということです。最初の出現もまたこれらの状況のもと

にありました。外面的にはそれらのどれ一つも起こりませんでしたが。ですからユダヤ人はキリストに反対して―神よ許したまえ―救世主をマセクと呼び、彼を神の建造物の破壊者と考え、安息日と神の法の破壊者とみなし、彼に死刑の判決を下したのでした。それにもかかわらず、これらの状況のどれにも、ユダヤ人の理解しない意味がありました。ですから彼らは、キリストの真実に気づくことを妨げられたのでした。

キリストの再来もまた同様です。述べられている徴や状況は、皆意味があり、文字通りに受け取られるべきものではありません。この他、星が地球に降ってくると述べられています。星は無限で数え切れぬほどあり、近代の数学者は、太陽は地球より約百五十万倍も大きいし、また固定した星々は太陽より千倍も大きいと見積っていることを科学的に確立し、証明しています。もしこれらの星が地球の表面に降ってくるとすれば、どこにその場所を見いだせるのでしょう。それはあたかも、からしの種子に十億のヒマヤラ山が降ってくるようなものです。理性と科学によればこれは全く不可能なことです。もっと不思議なことは次のようなキリストの言ったことです。「恐らく私はあなたがたがまだ眠っている時にやって来るでしょう。人の子の出現は、盗人の出現のようだからです。」たぶん盗人は家の中にいて、持主はそれに気づかないでしょう。

これらの徴は象徴的な意味があり、文字通りではないことは明白です。それは「確信の書」によく説明されています。それを参照してください。

 

二十七、三位一体

 

質問 一人の中に三人の人がいるという三位一体の意味は何ですか。

 神の本質は人間の理解から浄化、聖別され、英知や知識のある人々にも決して想像しえず、すべての概念から免除されています。その主の本質は分割を許しません。なぜなら分割と多様性は依存している存在である創造物の特性であり、自存しているものに起こる偶然ではないからです。

神の本質は単一性から聖別されています。ましてや複数性からは完全に聖別されています。その主の本質が状態や段階に下降することは不完全に等しく、完全に反しています。ですからそれは全く不可能です。それは永久に、いままでも今も、神聖さと高潔さの極みにあります。顕示者たちや神の夜明けの場所に関して述べられていることはすべて神の反射を意味し、存在の状態への下降ではありません。

神は全く完全であり、創造物は不完全です。神が存在物の状態に下降することになれば、最大の不完全になるでしょう。反対に神の顕示者、神の出現、神の上昇は曇りのない、清いみがかれた鏡に太陽が反射するようなものです。すべての創造物は、神の明らかな徴であり、太陽の光線が輝いている地上の存在物のようなものです。しかし平野、山々、木々、果実の上には、光の一部が輝いており、その光によってそれらは目に見えるようになり、育てられその存在の目的に到達します。一方、完全な人(神の顕示者)は曇りのない鏡の状態にあり、その鏡の中に真理の太陽がその全特性と完全さを伴って見えるようになり、明らかになります。ですからキリストの本質は、全くの純粋さと鋭敏さをもつ汚れのないみがかれた鏡でした。真理の太陽、神性の精髄はこの鏡にそれ自身を反射し、その光と熱をあらわしました。しかし、太陽は、その神聖さの高みとその高潔さの天国から、鏡の中に住み、とどまるために下降することはありません。いいえ、それはその高貴さと雄大さのうちに存在し続けており、鏡の中に美と完全性をもって現われ、ますます鮮明になってくるのです。

さて、太陽を二つの鏡で見るとします。―一つはキリストでもう一つは聖霊―つまり三つの太陽を見ていることになります。一つは天にあり、他の二つは地上にあります。本当のことをいっているのです。そして一つの太陽があるといえばそれはまったく単一であり仲間も等しいものもありません。これまた本当のことを言っているのです。

この話のあらましは、こういうことです。キリストの本質は汚れのない鏡でありました。そして真理の太陽――つまり無限の完全性と属性を伴った一体性の精髄――はその鏡の中に見えるようになったということです。神性の精髄である太陽が分割され、複数になったという意味ではありません。――太陽は一つですから――しかしそれは鏡の中に現われました。これがキリストが「父は子の中にある。」といったことの理由です。その意味することは、太陽は鏡の中に見えるようになり明らかになったということです。

聖霊はキリストの本質の中に見えるようになり明らかになった神の恩恵です。息子としての地位はキリストの心であり、聖霊はキリストの精神の地位です。ですから、神性の精髄は完全に独特のものであり、等しいものも、似たものも、相当するものもないということが明らかになり証明されました。

これが三位一体の三人の人の意味です。もしそうでないとすれば、神の宗教の基礎は、理性で考えることのできない非論理的命題に基づくことになってしまいます。どうして理性は想像し得ないものを信じることを強制され得るでしょうか。学問のある人も、ものごとが理解できる形になっていなければ把むことができません。さもなければそれは想像上の努力にすぎないでしょう。

この説明で三位一体の三人の意味するものがはっきりしました。神の一体性もまた証明されました。

 

 

二十八、聖ヨハネの福音書の十七章五節の説明

 

「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていた栄光を。」(ヨハネ17:5)

先在には二種類あります。一つは本質的なものであって原因によって先行されません。しかしその存在はそれ自身の中にあります。例えば太陽はそれ自身光っています。その輝きは他の星の光からくるのではありません。これは本質的光と呼ばれています。しかし、月の光は太陽から受け取ったものです。月はその光を太陽に依存しています。ですから光に関しては太陽は原因であり、月はその結果になります。前者は非常に古いものであり、先行するものであり、先に起こったものです。一方後者は先行されたものであり、後のものです。

二つ目の先在は時の先在です。そして時には始まりはありません。神の言葉は時から聖別されています。神に関しては過去、現在、未来はすべて等しいのです。太陽には昨日も今日も明日もありません。

同じように栄光についても先在があります。――つまり最も栄光あるものは栄光あるものに先行します。ですから神の言であるキリストの本質は、本質、属性、栄光に関しては確かに創造物に先行します。人間の形をして現われる以前に、神の言葉は最大の神聖さと栄光の中にあり、その壮麗さの中で、完全な美と輝きを持って存在していました。最も高遠なる神の英知によって肉体の世界に、栄光の高みより輝きだした時、神の言葉はこの肉体によって抑圧され、その結果ユダヤ人の手に落ち、野蛮で無知な者の捕虜となり、ついには十字架にかけられました。それが、彼が神に向けて次のように言った理由です。「私を肉体の世界のしがらみから解放し、この鳥かごから自由にしてください。そうすれば私は名誉と栄光の高みに昇り、肉体の世界以前から存在する者からの壮麗さと威力に到達し、永遠の世界で楽しみ、本来の住まい、場所のない世界、目に見えない世界に昇るでしょう。」

このようにして他の二つの王国――つまり人々と国々の領域の中で――においてさえ、キリストの栄光と壮麗さは彼の昇天の後、地上に現われたのです。肉体の世界にいた時、彼は世界で最も弱い国であるユダヤの侮辱とからかいのもとにありました。ユダヤは彼の神聖な頭にいばらの冠をのせることをふさわしいものと考えました。しかし彼の昇天の後、すべての王たちの宝石で飾られた冠は、いばらの冠の前にへりくだり、頭をさげました。

神の言葉が、この世においてさえ到達した栄光を見よ!

 

二十九、聖パウロによるコリント人への

第一の書簡の十五章二十二節の説明

 

質問 コリント信徒への第一の書簡の十五章二十二節「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」と書かれています。この言葉の意味は何ですか。

 人には二つの性質があることを理解してください。肉体的性質と精神的性質と。肉体的性質はアダムから受け継ぎ、精神的性質はキリストの精神性である神の言葉の本質から受け継いでいます。肉体的性質はアダムから生まれ、精神的性質は聖霊の恩恵から生まれます。前者はすべての不完全さの源であり、後者はすべての完全性の源です。

キリストは、人間が肉体的性質の不完全さから解放され、精神的性質の美徳を持つようにするために、彼自身を犠牲にしました。この精神的性質は、神の本質の恩恵によって存在するようになりましたが、それはすべての完全性の結合したものであり、聖霊の息吹によって現われます。それは光、精神性、導き、賛美、高い向上心、正義、愛、上品、すべての人に対する親切、博愛、生命の本質です。それらは真理の太陽の輝きの反映です。

キリストは聖霊の子孫です。――つまり、キリストの本質はアダムから下ってはきません。いいえそれは精霊から生まれます。ですからコリント人への書簡のこの節「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」は、この専門用語によればアダムは人間の父であることを示しています。――つまり彼は人類の肉体的命の源であり、彼は生きている魂です。しかし精神的命の授与者ではありません。一方キリストは人間の精神的命の源であり、精神に関していえば、アダムは生きている魂であり、キリストは命を与える精神です。

この人間の肉体の世界は、強い欲望の力に支配されています。そして罪は、この欲望の力の結果です。それは公正さと神聖さの法則の支配下にはないからです。人間のからだは自然のとりこです。それは自然の命ずるままに従って行動します。ですから、怒り、嫉妬、争い、貧欲、物欲、無知、偏見、憎悪、自尊心、残虐のような罪が物質的世界にあることは確かなことです。これらのけだもののような性質のすべては、人間の性質の中にあります。精神的教育を受けなかった人は、けだものです。アフリカの未開人のように、彼らの行動、習慣、道徳はあまりに肉欲的なので自然の要求に従ってお互いに引き裂き、食い合うほどに行動します。このように人間の肉体的世界は罪の世界です。この肉体的世界において、人は動物から区別されません。

すべての罪は、自然の要求からきます。そして肉体的性質から起こるこれらの要求は、動物に関しては罪ではありません。しかし人間にとっては罪です。動物は怒り、肉欲、嫉妬、物欲、残虐さ、自尊心のような不完全さの源です。これらの欠点のすべては動物に見られますが、罪とはなりません。しかし人間においては、それらは罪です。

アダムは人間の肉体的命の源です。しかもキリストの本質――つまり神の言葉――は精神的命の源です。それは『命を与える精神』であり、人間の肉体的命の要求から生じる不完全さのすべては、その精神の教えと教育によって、人間の美徳へと変えられるということを意味しています。ですから、キリストは命を与える精神であり、全人類の命の源でした。

アダムは肉体的命の源でした。人間の肉体的世界は、不完全さの世界であり、不完全さは死に等しいものです。パウロは、肉体的なものから生じる不完全さを死にたとえました

しかし大部分のキリスト教徒は、アダムは禁断の木の実を食べたので、彼は従わなかったことにより罪を犯し、この違反の悲惨な結果は、遺産として彼の子孫に移され、残されたということを信じています。それゆえにアダムは人類の死のもとになったのだと。この説明は理屈に合っていませんし、明らかに誤りです。なぜならすべての人は、予言者たちや神の使徒たちさえも、いかなる罪も誤りも犯さないのに、ただアダムの子孫であるということだけで、理由もなしに有罪である罪人となってきました。そしてキリストの犠牲の日まで地獄の苦しみの中に捕われていました。このことは、神の正義からはほど遠いことです。もしアダムが罪人であるならば、アブラハムの罪は何なのですか。イサクやヨセフの誤りは何ですか。モーゼは何で有罪なのですか。

しかし神の言葉であるキリストは、彼自身を犠牲にしました。このことには明らかで深遠な二つの意味があります。外面的意味は次のようです。キリストの意図は人間世界を教育し、アダムの子供たちを活気づけ、全人類を啓発する大業を主張し、推進することでした。そのような大業――世界のすべての人間、国家、王国に対立する大業――を主張することは、殺され、十字架にかけられることを意味しましたので、キリストは彼の使命を宣言して、その命を捧げました。彼は十字架を玉座とみなし、傷を香油と、毒を蜂密と砂糖にみなしたのでした。彼は人間に教え、教育するために立ちあがり、命の精神を与えるために自分自身を犠牲にしました。彼は他の人々を精神によって活気づけるために、肉体を死なせました。

犠牲の二つ目の意味は次のようです。キリストは種子のようなものであり、この種子は木が育つためにその形を犠牲にしました。種子の形は破壊されましたが、その本質は、木の形の中に、完全な威厳と美をもって明らかになりました。

キリストの地位は絶対的完全さの地位です。彼は信者に神の美徳を太陽のように輝きださせ、人間の本質の中に光の恩恵を輝かせ、放射させました。これが彼が次のように言ったことの理由です。「私は、天から下って来たパンである。このパンを食べる者は死なない。」(ヨハネ6:41、50、58――つまりこの神の食物をともにしたものは誰でも永遠の命に到達するであろう。即ちこの恩恵にあずかった者、これらの完全性を受けた者は、永遠の命を見い出し、以前から存在する恩寵を得、誤りの暗黒から解放され、彼の導きの光によって輝かされるであろうということです。

種子の形は、木のために犠牲にされました。しかし、その犠牲によりその美徳は明らかになりました。――木、枝、葉、花は種子の中に隠されていました。種子の形が犠牲にされた時、その美徳は葉、花、果実の完全な形の中に現われました。

 

三十、アダムとイブ

 

質問 アダムの話と彼がその木の実を食べたことの真実は何ですか。

 聖書に書かれています。神はエデンの園を耕し、面倒をみさせるために、アダムをエデンの園に置いて言った。

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世紀2:16,17)その次にはこう述べられています。神はアダムを眠らせ、彼のあばら骨の一つを取り、彼の仲間となるように女を造り上げた。次に述べられています。蛇は女にその木を食べるようにそそのかして言った。「神は目が開かないように、悪から善を知るようにならないようにその木を食べることを禁じられたのだ。」(創世紀3:5)そこでイブはその木から食べ、アダムに与えた。彼も食べた。すると彼らの目は開け、自分たちが裸であることを知り、葉で身体を隠した。その結果、彼らは神のとがめを受けた。神はアダムに言った。「取って食べるなと命じた木から食べたのか?」アダムは答えた。「イブが私を誘ったので食べました。」そこで神はイブをしかった。イブは言った。「蛇がだましたので食べてしまいました。」このことで蛇はのろわれ、蛇と女、その子孫たちの間に敵意が置かれた。そして神は言った。「人は我のように善悪を知る者となった。彼は命の木を食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」そうして神は命の木を守った。

一般大衆の解釈に従って、この物語を表面的意味にとれば、もちろんそれはとてつもないことです。知性はそれを受け入れたり確信したり、想像したりすることはできません。そのような取り決め、細部、会話、とがめは知識のある人の考えからはほど遠いものですし、ましてや神からはもっとかけ離れています。――その神は、この宇宙を最も完壁な形に組織し、数え切れない居住者を、完全な体系、強さ、完全さで組織しているのです。

しばし真剣に考えなくてはなりません。もしこの物語の文字通りの意味は、賢い人の作品であると考えると、すべての人はこの脚色、この作り話は知的な人から出たことをきっと論理的に否定するでしょう。ですから、その木から食べたアダムとイブの物語と、彼らの楽園からの追放は、単に象徴として考えられるべきです。それには神の神秘と普遍的意味が含まれており、驚くべき説明をすることができます。神秘への手ほどきを受けた者、全能なるお方の庭近くにいる者だけが、これらの秘密に気づきます。聖書のこれらの節にはたくさんの意味があるのです。

それらの一つを説明しましょう。アダムはアダムの神のような精神を表わし、イブはアダムの人問的な魂を表わすとします。そのわけは、聖書で女性について述べられているいくつかの節の中で、女性は人の魂を表わしているからです。善悪の木は人間世界を表わしています。というのは神の精神的世界は純粋に善であり、全く輝かしいものですが、人間の世界には、明暗、善悪が対立した状態としてあるからです。

蛇のあらわすものは、人間世界への愛着です。精神の人間世界への愛着は、アダムの魂と精神を自由の世界から束縛の世界へと導き、和合の神の王国から人間世界へ向かせるもとになりました。アダムの魂と精神が人間世界に入った時、彼は自由の楽園から束縛の世界へ落ち込みました。純粋さと完全な善の高みから彼は善悪の世界に入りました。

命の木は、存在の世界の最高の段階、神の言葉の地位、そして至高の顕示者の地位です。ですから、その地位は保存され、最も高貴な至高の顕示者の出現の際に明らかになりました禎の美徳の出現と顕示に関して、アダムの地位は胎児の状態でしたし、キリストの地位は成熟の状態、分別の年代でした。そして最も偉大な発光体(バハオラ)の出現は美徳の本質と特質の完璧さの状態でした。これが至高の楽園で、命の木が表現するものは絶対的に純粋な神聖――つまり神の至高の顕示者――の中心であることの理由です。

アダムの時代からキリストの時代まで、彼らは永遠の命と神々しい普遍的美徳についてほとんど話しませんでした。この命の木はキリストの本質の地位でした。彼の顕示を通して、命の木は植えられ、不朽の果実で飾られました。

さて、この意味が現実と、どの位一致しているか考えましょう。アダムの精神と魂は人間世界に愛着を持った時、自由の世界から束縛の世界へ入りました。そして彼の子孫は束縛され続けました。罪であるこの魂と精神の人間世界への愛着は、アダムの子孫によって受け継がれ、その愛着はアダムの精神と子孫の中に常にあり、それらと常に戦かっている蛇です。その敵意はずっと継続しました。なぜならこの世界への愛着は、霊の束縛の原因となり、この束縛は罪と全く同じものであり、それはアダムから彼の子孫へ伝えられました。この愛着のために人は本質的精神性と崇高な地位を奪われてきました。

キリストの聖別されたそよ風と偉大な発光体(バハオラ)の神聖な光が広がった時、真の人間――つまり神の言葉の方へ向き、神の恩恵を豊富に受け取った人たち――はこの愛着と罪から救われ、永遠の命を獲得し、束縛の鎖から解放され、自由の世界に到達しました。彼らは人間世界の悪徳から自由にされ、神の王国の美徳によって祝福されました。これが次のようなキリストの言葉の意味です。

 「私は世の命のために、私の血を与えました。」(ヨハネ651)――キリストにかわって言いかえますと、私は罪の許し(つまり霊の人間世界からの離脱、そしてそれの神の世界への愛着)というこの目的を達成するために、これらすべての困難、苦難、災難、そして最大の殉教さえ選びました。そうして人々を人類の導きの真髄、至高の神の王国の美徳の顕示となるように立ちあがらせるためでした。

 もし聖書の人々(ユダヤ人とキリスト教徒)の推測によってこの意味が、一般に知られた意味に取られれば、それは全く不当であり、完全な宿命になることに気づいてください。もしアダムが禁じられた木の近くへ行ったことにより罪を受けるとしたら、栄光のアブラハムの罪は何だったのですか。対話者モーゼの誤りは何だったのですか。予言者ノアの罪は何でしたか。誠実なるヨセフの違反は何だったのですか。神の予言者たちの不正、純潔なるヨハネの罪は何だったのですか。アダムの罪のためにこれらの啓発された予言者たちが地獄の苦しみを受け、キリストの出現と彼の犠牲によって、彼らをその激しい苦痛からようやく救うということを、神の正義は許すでしょうか。そのような考えは、すべての法や規則を越えており、知的な人には受け入れられません。

 いいえ、そういうことではありません。それは、前に述べたことを意味しているのです。アダムは、アダムの霊であり、イブは彼の魂です。木は人間世界であり、蛇は罪となるこの世への愛着であり、アダムの子孫を汚染しました。キリストは彼の神聖なそよ風によって、人間をこの愛着から救い、この罪から解放しました。アダムの罪は、彼の地位に関係しています。この愛着から結果が生じますが、それにもかかわらず、この地上の世界への愛着は、精神的世界への愛着と比較すれば、罪と考えられます。正義の者にとっての善行も、神の近くにいるお方たちにとっては罪です。これは確立されています。ですから肉体の力は精神の力に比較して不完全であるばかりでなく、比較上それは弱さです。同じように、肉体的命は、神の王国の永遠の命に比較すれば死と考えられます。それでキリストは肉体的命を死と呼び、そして言いました。「死人に死者を葬らせなさい。(マタイ822)これらの人たちは、肉体的命は持っていましたが、彼の目には、その命は死としてうつりました。

 これが聖書によるアダムの物語のもつ意味の一つです。他の意味と見つけるまでよく考えて下さい。

 

三十一、聖霊に対する冒漬の説明

 

質問 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし聖霊に逆らう冒瀆は赦されません。また人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし聖霊に逆らうことを言うものは、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと赦されません。(マタイ123132

 神の顕示者の神聖な本質には、二つの精神的地位があります。一つは顕示者としての地位であり、それは太陽の球体の地位に例えることができます。もう一つは顕示の光輝であり、それはその光、輝きのようなものです。これらは神の美徳――別の言葉で言えば聖霊です。なぜなら聖霊は、神の恩恵であり、主の美徳です。そしてこれらの神の美徳は、太陽の光線や熱のようなものです。輝く太陽の光線はその存在のもとをなしており、それらがなければ太陽ではあり得ません。もしも、キリストに顕示と神の美徳の反映がなければ、イエスは救世主ではあり得ないでしょう。神の予言者は、主の美徳の顕示です。――即ち、聖霊は彼らの内に現われています。もし人が顕示からほど遠く離れているならば、彼はいつか目覚めるでしょう。彼は神の美徳の顕示を認めることができなかったのですから。しかしもし彼が神の美徳それ自身――言いかえれば聖霊――をひどく嫌うならば、彼は光を憎むこうもりのようであることは明らかです。

この光に対する嫌悪は、治療法もなく、許されません。――つまり、彼が神に近づくことは不可能です。このランプはその光ゆえにランプなのです。光がなければランプではありません。そこで、もし人がランプの光に対する嫌悪を持つならば、彼は今も昔と同じように、目の見えぬ人でありその光を認めることはできません。そして盲目であることは、神からの永遠の懲罰です。

人は神の顕示者に現われる聖霊の恩恵から恵みを受けるのであって、顕示者の人格から受けるのではないことは明らかです。

ですからもし人が精霊の恩恵から恵みを受け取らないならば、彼は神の贈り物から締め出され、彼は罰として許されない所へ置かれるのです。

 これがかつて顕示者の敵であった人たちや顕示者たちを認めなかった多くの人たちがいったん彼らを知ると、彼らの友人となったことの理由です。ですから顕示者に対する敵意は、永遠の罰の原因とはなりませんでした。その考えにふけっていた人は、光を支えている物の敵であったのであり、彼らが神の輝く光であることを知らなかったのです。彼らは光の敵であったのではなく、ひとたび光を支えている物は、光を顕示している者の場であることを理解すると、その誠実な友人となりました。

言いたいことはこういうことです。光を支えているものから遠く離れていることは、永遠の罰を必然的に伴っているのではありません。人は目覚め、注意深くなる可能性があるからです。しかし光に対する敵意は永遠の罰の原因となります。そしてこのことゆえに、治療法はありません。

 

三十二、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない。」という節の説明

 

質問 福音書の中でキリストは言っています。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:14)また、コーランに書かれています。「彼は彼の気に入った者に特別な慈悲を授ける」この英知のさすものは何ですか。

 全宇宙の秩序と完全性が必要とすることは、存在は数えきれないほどの形をとって現われるということであることを理解してください。存在するものはたった一つの段階、一つの地位、一つの仲間、一つの種、一つの種類に統合され得ないからです。段階の相違、形態の区別、属や種の多様性が必要であることは疑いありません。――つまり鉱物、植物、動物、人間の段階は不可欠です。世界は人間だけで配置され、飾られ、組織され、完成されることは不可能だからです。

同じように、動物だけで、植物だけであるいは鉱物だけで、この世界は美しい景色、正確な組織、みごとな装飾を現わすことはできません。存在するものがこの上ない完全さで光り輝くようになるには、段階、地位、種と種類の多様性のお陰であることは疑いありません。

例えば、もしこの木が全く実ばかりであるとすれば、植物の完全性は達成されません。その木がこの上ない美と完全性で飾られるためには、葉、花、実すべてが必要だからです。

同じように、人間のからだについても考えてみてください。それはさまざまな器官、部分から成り立っていなくてはなりません。人間の美と完全性は耳、目、脳の存在、そして爪や髪の存在も必要とします。もし人が脳ばかり、目ばかり、耳ばかりであったとすれば、それは不完全に等しくなります。ですから髪、まつげ、歯や爪の欠除は全くの不完全になるでしょう。目にくらべれば、感覚がないことから、この点についてはそれらは鉱物、植物に似ています。しかし人間のからだにおいては、それらがないことは、必然的に不完全であり、不愉快なことです。

存在の段階は異なっており、さまざまですから、あるものは段階において他のものより高い状態にあります。ですから、神の意志と望みによって、あるものは人として最高の段階に選ばれ、またあるものは、鉱物のように、最も低い段階にとり残されました。

神の恩恵から、人間は最高の段階に選ばれました。そして精神的進歩と天のような美徳に関して人間の間にある相違もまた、あわれみ深きお方の選択によっているのです。永遠の命である信仰は恩恵の徴であり、正義の結果ではないからです。この土と水の世界では、愛の火の炎は引力の力によって来るのであって、苦労と努力によって来るのではありません。それにもかかわらず、努力と忍耐によって、学問、科学、その他の完全性は得ることができます。しかし神の美の光だけが、引力の力によって精神を運び、動かすことができるのです。ですから「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない。」(マタイ22:14)と云われるのです。

しかし、物質的なものは、それらの段階や地位ゆえに軽べつされたり審判を受けたり、責任を負わされることはありません。例えばさまざまな段階にある鉱物、植物、動物は受け入れられます。しかしその段階において、不完全であるならば、それは非難され得ます。その段階そのものは全く完全なのですから。

人間の間にある相違には二種類あります。一つは、地位の相違であり、この相違は非難に価しません。もう一つは、信仰と確信の相違です。これらを失うことは非難に価します。それによって、魂は願望や激情によって圧倒されるからです。願望や激情はこれらの祝福を奪い、神の愛の引力の力を感じなくさせます。その人は、彼の地位において賞讃に価し、受け入れられますが、それにもかかわらず、彼はその段階の完全性を奪われていますから、彼は不完全さの源になり、それゆえに彼には責任があります。

 

 

三十三、予言者たちによって述べられた復活

 

質問 復活について説明してください。

 バハオラは、確信の書の中でこの問題について詳しくはっきりと説明しています。それを読んでくだされば、この問題の真理は明らかになるでしょう。しかし、あなたがお尋ねになったので簡単に説明いたしましょう。福音書から説明をはじめます。そこに平易に述べられています。ザカリアの息子のヨハネが現われて、人々に神の王国の吉報を与えた時、彼らは聞いた。「あなたはどなたですか。あなたは約束された救世主ですか。」彼は答えた。「私は救世主ではありません。」そこで彼らは尋ねた。「あなたはエリヤですか。」彼は言った。「いいえ、ちがいます。」これらの言葉はザカリアの息子のヨハネは約束されたエリアではないことを証明し、示しています。しかし、タボア山でのキリストの変容の日に、キリストははっきりとザカリアの息子ヨハネは約束されたエリアであると言いました。

マルコの福音書の九章十一〜十三章に述べられています。「彼らはイエスにたずねて言った。律法学者たちはまずエリアが来るはずだと言っているのはなぜですか。そこで彼は答えて言った。エリアがまず来て、すべてのことを立て直します。では人の子について多くの苦しみを受けさげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。しかしあなたに告げます。エリアはもう来たのです。そうして人々は彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。」

マタイの十七章十三節に述べられています。「そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」

彼らはバプテスマのヨハネに聞いた。「あなたはエリアですか。」彼は答えた。「いいえ、ちがいます。」福音書にヨハネは約束されたエリアであると述べられていますが、キリストもまたはっきりと言っています。(ヨハネ1:21)それならばもしヨハネがエリアだとするとなぜ彼は「私はちがいます。」と言ったのでしょうか。そしてもし彼がエリアでないとするとなぜキリストは、そうであると言ったのでしょうか。

その説明は次のようです。人格ではなく美徳の本質が問われているのです。――つまりエリアにあったものと同じ美徳がバプテスマのヨハネに存在し、正しく彼の内に現われていました。それゆえバプテスマのヨハネは約束されたエリアでした。この場合、個性ではなく、その特質が考えられています。例えば去年花があり、今年もまた花があるとき、去年の花が戻ったといいます。

さて、厳密に同じ個体の花が戻って来たと言っているのではありません。しかし、この花は去年の花と同じ性質を持っている――同じ香り、優美さ、色、形を持っているので――去年の花が戻って来た、そしてこの花は以前の花であると言っているのです。春が来れば、去年の春に見られたものが皆、この春に存在しているので、去年の春が戻って来たと言います。こういうわけで、キリストは次の言葉を言いました。「あなたは昔の予言者たちの日に起こったすべてのことを見るでしょう。」

また別の例の説明をいたしましょう。去年の種子がまかれ枝や葉が育ち花と実が現われ、そしてすべてはまた種子に戻ります。この二番目の種子が植えられると、それから木が育ち、もう一度それらの枝、葉、花、実が戻ります。その木は完全に現われるでしょう。最初は種子であったし、終わりも種子であるので、種子は戻ったと言います。その木の物質に注目すれば、それは別の物質です。しかし花、葉、実に注目すれば、同じ香り、優美、味が産み出されています。ですからその木の完全性は再び戻ったのです。

同じように個人の復活について考えてみるならば、それは別人の復活です。しかしその性質と美徳について考えれば同じものが戻って来ました。ですからキリストが「これはエリアです。」と言った時、彼が意味したことは、この者はエリアの恩恵、美徳、人格、特質、美点を顕示するものであるということです。バプテスマのヨハネは「私はエリアではありません。」と言いましたが、キリストは二人の特質、美徳、人格、美点のことを考えていたのであり、ヨハネは、物質と個性のことを考えていたのです。それはこのランプのようなものです。それは昨夜ここにあり、今夜も灯をともし、明日の夜にも輝くでしょう。今夜のランプは、昨夜と同じ光であり、光が戻ったと言います。それは光について言っているのであり、油や芯や、支えているものについてではありません。

この問題については、確信の書に充分にまた明解に説明されています。

 

三十四、ペトロの信仰の告白

 

質問 マタイの福音書の中に述べられています。「あなたはペトロ。この岩の上にわたしは教会を建てる。(マタイ16:18)この一節の意味するものは何ですか。

 キリストのこの言葉は、ペトロの述べたことに対する承認です。キリストが「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」と聞くとペトロが答えた。「あなたは生ける神の子であるということを信じます。」するとイエスは彼に言った。「あなたはペトロ−というのはセファスはアラム語では岩を意味するから――わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」なぜなら、他の人たちはキリストに答えて、あなたはエリアであると言ったり、ある者たちは洗礼者ヨハネであると言ったり、またある者たちはエレミヤだとか、予言者の一人だ、とか言ったからでした。(マタイ16:14〜18)

キリストは象徴的に、あるいはほのめかすことによってペトロの言葉の正しいことを証明したかったのです。それでペトロという彼の名前に合わせて彼は言いました。「この岩の上にわたしは教会を建てる。その意味するところは、キリストが生ける神の子であるというあなたの信条は、神の宗教の基礎であり、この信条の上に神の教会――それは神の法である。――は確立されるであろうということです。

ローマにあるペトロの墓の存在は疑わしいし、認められていません。ある者はアンチオキにあると言っています。

さらに、法王たちとキリストの宗教を比べてみましょう。キリストは飢え、住み家もなく、荒野の草を食べ、いかなる人の感情も傷つけることを心良しとされませんでした。法王は黄金でおおわれ乗り物に座り、王たちさえ経験したことのないような快楽とぜいたく、富、崇拝の中で、その生涯を最高の栄光の中に過ごしました。

キリストは誰一人傷つけませんでした。しかしある法王たちは、無実の人々を殺しました。歴史を調べてごらんなさい。法王たちは単に世俗的な権力を維持するために、どれほど多くの血を流させたことでしょう!ごくわずかな意見の相違によって、彼らは人間世界への何千という奉仕者と、自然の秘密を発見した学者たちを逮捕し、牢に入れ、虐殺しました。彼らは真理に対してどれほど反対したというのでしょう。

キリストの教えを真剣に考えてください。そして法王たちの習慣を調べてください。キリストの教えと法王の政府のやり方の間に何か似ているところがあるか考えてごらんなさい。私たちは批判したいのではありません。がしかし、ヴァチカンの歴史は大変異状です。この論点の主旨はこういうことです。キリストの教えが一方にあり、他方、法王の政府のやり方は全く別個のものです。それらは一致しません。どれほど多くのプロテスタントが法王の命令によって殺されたことか、いかに多くの残虐と抑圧が奨励されたことか、どれほど多くの懲罰と拷問が課されたことか考えてください。これらの行為の中に、どんなキリストのかぐわしい香りを見つけられるというのでしょう。いいえ、絶対に見つけられません。これらの人々はキリストに従いませんでした。一方、私たちの前に肖像のある聖バーバラはキリストに服従し、彼の足跡に従い、彼の命令を実行しました。法王の中でも、一部の祝福された魂はキリストの足跡に従いました。特に世俗的なものがなく、神の試練が厳しかったキリスト教時代の初期においてそうでした。しかし、政治的な力を所有するようになり、世俗的な名誉と繁栄が得られるようになると、法王の政府はキリストを完全に忘れ、世俗的権力、威厳、快楽、ぜいたくで占領されてしまいました。それは人々を殺し、学問の拡散に反対し、学者を苦しめ、知識の光を妨げ、虐殺し、略奪するための命令を下しました。何千という人々、科学者、学者、罪なき人々がローマの牢獄で死にました。このような行為や行動があるのに、どうしてキリストの代理者を信じられるでしょうか。

法王座は常に知識に反対してきました。ヨーロッパにおいてさえ、宗教は科学の敵であり、科学は宗教の土台を破壊するものとみなされました。一方、神の宗教は真理の推進者であり、科学や学問の創始者であり、学問のある人々にとって好意にあふれており、人類を文明化するものであり、自然の秘密の発見者であり、世界の地平線を照らすものであるのです。ですから、どうして宗教は知識と対立するといえるのでしょうか。とんでもないことです。いいえ、神にとって知識は人間への最も栄光ある贈り物であり、人間の徳のうち、最も高貴なものです。学問に反対することは無知であり、知識や科学を忌み嫌う者は人間ではなく、むしろ知性のない動物です。なぜなら知識は光、命、至福、完全性、美であり、和合の敷居に近づく手段であるからです。それは人間世界の名誉、栄光であり、神の至高の贈り物なのです。知識は導きと全く同じものであり、無知は完全な誤りです。

知識を得ようとして、また自然の秘密を発見しようとして、純粋な真理の細部に分け入ろうとして日々過ごす者は幸いです。無知に満足する者、その心は無思慮な模倣によって喜ばされ、無知と愚かさのどん底に落ち込み、その命をむだに使っている者は、苦しむがよい!

 

三十五、宿命

 

質問 もし神がある人によってなされる行動について知っており、そのことが運命の書に書かれているとしたら、それに抵抗することは可能ですか。

 ものごとの予知は、その実現の原因とはなりません。神の本質的知識は、ものの存在する以前にも以後にも同じようにものごとの本質を取りまいているからです。それは神の完全性です。聖書の約束されたお方の出現に関して、神の霊感によって予言者たちの舌を通して予言されたものは、キリストの顕示の原因とはなりませんでした。

未来についての隠された秘密は、予言者に顕示されました。その結果彼らは、彼らが告げた未来の出来ごとを知るようになったのでした。この知識やこれらの予言は、その発生の原因ではありませんでした。例えば、今夜七時間後に太陽が昇ることは誰もが知っています。しかし、この一般的な予知は、太陽の上昇と出現の原因とはなりません。

ですから、依存している領域での神の知識は、形あるものを生じません。反対にそれは過去、現在、未来から純化されています。それはものの本質と同様です。それはその発生の原因ではありません。

同じように、聖書にあるものごとの記録や記述はその存在のもとにはなりません。予言者は神の霊感を通して起こるであろうことを知りました。例えば、神の霊感によって、彼らはキリストが殉教するであろうことを知りました。そしてそれを告げました。さてそれでは、彼らの知識と情報は、キリストの殉教の原因となりましたか?いいえ、この知識は予言者の完全性であり、殉教の原因にはなりませんでした。

数学者は、天文学的計算によって、ある時に日食や月食が起こることを知ります。この発見は食が起きることの原因とはならないことは確かです。もちろん、これはほんの類推であり、厳密な比喩ではありません。

 

第三部

神の顕示者たちの力と状態について

 

三十六、精神の五つの段階

 

一般に、精神には五つの区分があることを理解しなさい。まず第一は、植物の精神です。これは、至高の神の命令による元素の結合と物質の混合によって生じる力、さらに、その他の存在物の結合、作用、影響によって生じる力です。これらの物質や元素がばらばらになると成長力も失くなります。別な言い方をすれば、電気は元素の結合から生じ、これらの要素が切り離されると電力は分散され、失なわれます。植物の精神とはそのようなものです。

次は、動物の精神です。これもまた、元素の結合と混合から生じます。しかし、この結合はもっと完成なものであり、全能なる主の命令によって完全な結合が得られ、動物の精神――別な言葉で言えば感覚力――が生み出されます。この感覚力は、見えるもの、聞こえるもの、食べられるもの、触れられるもの、嗅いを嗅ぐことのできるものからものの実体を感じ取ります。結合している元素が分離、分解すると、この精神もまた自然に消えてしまいます。それは皆さんが見ているこのランプのようなものです。油と芯と火が一緒になると光が生じます。しかし、油が無くなり、芯が使い果たされると光も消え失せてしまいます。

人間の精神は、鏡の上に輝いている太陽の恩恵にたとえることができます。元素から組み立てられている人間のからだは、最も完全な形に結合され、混合されています。それは最も堅固な構造物であり、最も高貴な結合体であり、最も完全な存在です。それは、動物の精神を通して成長発達します。この完成された身体は鏡にたとえられ、人間精神は太陽にたとえられます。たとえ鏡が割れても、太陽の恩恵は持続します。鏡がこわされたり、存在しなくなっても、永遠である太陽の恩恵には何の被害もありません。この精神は発見する能力があり、万物をとりまいています。これらすべてのすばらしい徴、科学的発見、偉大な事業、誰もが知っている重要な歴史上の出来ごとは、この人問精神によっています。それらは精神の力によって、目に見えない隠された領域から目に見える平原に引き出されました。人間はこの地上にいて、天国のいろいろな発見もします。知られているものから――つまり目で見て知っているものから――まだ知られていないものを発見します。たとえば、人はこの半球にいても、コロンブスのように理性の力によって、それまで知られていなかった別の半球――つまりアメリカ――を発見するのです。人間のからだは重いですが、人間の発明した乗り物の助けによって飛ぶことができます。人間はゆっくりと運動しますが、人間の発明した乗り物によって、非常な速さで東西を旅します。要するに、この力は万物を包みこんでいます。

ところで、人間の精神は二つの面があります。一つは神性であり、もう一つは悪魔性です。――つまり、それは至高の完全さにもなり得るし、最低の不完全さにもなり得ます。もし人間の精神が美徳を獲得すれば、存在するもののうちで最も高貴なものとなります。もし悪徳を獲得すれば、救いようもなく堕落した存在になります。

精神の第四段階は天国の精神です。それは信仰の精神であり、神の恩恵です。それは聖霊の息吹きから生まれ、神の力によって永遠の命のもとになります。それは世俗的人間を天国の人間とし、不完全な人間を完全な人間にする力です。この精神は不純な者を純粋な者とし、無口な者を有弁にします。肉欲にとりつかれている者を純潔にし、聖別します。無知な者を賢者にします。

第五の精神は聖霊です。この聖霊は、神と神の創造物間の媒介者です。それは太陽に向いている鏡のようなものです。汚れのない鏡が太陽から光を受け、その恵みを他に移すように、聖霊は真理の太陽から来る聖なる光の媒介者であり、聖別された実体へ聖なる光を施します。それは、神のあらゆる完全性で飾られています。聖霊が現われるたびに世界は新しくされ、新しい周期が築かれます。人間世界というからだは新しい衣を身に着けます。それらは春にたとえることができます。春が来るたびに、世界は一つの状態から別の状態に変化します。春の季節の到来によって、黒い大地や野原や荒野は青々とし、花が咲き乱れます。さまざまな花や良い香りのする草が育ちます。木々は新しい命を得て、新しい果実が現われます。そして新しい周期が築かれます。聖霊の出現もこのようなものです。聖霊が現われる時はいつも人間界を新しくし、人問に新しい精神を与えます。それは存在の世界を賞讃すべき衣服で飾り、無知の暗黒を吹き払い、美徳の光の輝きのもととなります。キリストは、この力によってこの周期を新しくしました。この上ない新鮮さと甘美さを伴っている天国の春は、人間世界にそのテントを広げ、命を与えるそよ風は教化された人々の鼻孔に香り高く匂いました。

同じようにバハオラの出現は、聖なるそよ風と永遠に続く命の持ち主たちと天国の力を伴ってあらわれた新しい春のようでした。それは世界の中心に神の国の玉座を確立し、聖霊の力によって魂を復活させ、新しい周期を確立しました。

 

 

三十七、神は神の顕示者を通してのみ理解される

 

質問 神の本質は、壮麗なる昇る所と神の夜明けの地とどのような関係があるのですか。

 神の本質、あるいは一体性の精髄の本質は純粋に清浄であり、絶対的神聖であることを理解しなさい。――つまりそれは、あらゆる賞讃から聖別され、超越しています。この水準に関しては、存在の段階にあるすべての至高の属性は、単なる想像にすぎません。それは目に見えず、理解を越えた、近づくことのできない、表現できない純粋なものです。なぜなら、神の本質は万物を取り囲んでいるからです。まことに、包囲するものは包囲されるものより偉大です。そして包囲されているものが包囲するものを含むことはできませんし、その本質を理解することもできません。知性がいかに高度に発達し、理解力の最高段階、知力の極限に達したとしても、それは神の世界ではなく、創造の世界での神の徴や属性を見るにすぎません。なぜなら、一体性の主の本質と属性は神聖さの極みにあり、知性や理解力にとってその地位に近づく道はありません。「道はとざされ、探究は禁じられている。」

人間の理解力は人間存在の特質であり、人間は神の一つの徴であることは明らかです。であるならばどうしてその徴の特質が徴の創造者を包囲できるでしょうか。――つまり、人間存在の特質である理解力でどうして神を理解することができるでしょうか。ですから、神の本質はすべての理解から隠されており、すべての人の知性から秘められています。その水準に昇ることは絶対に不可能です。低い位置にある物は、高い位置にあるものの本質を理解する力がないことはわかっています。ですから、石、大地、樹木がどれほど進化したとしても、人間の本質を理解できません。それらも皆同じように創造されたものではありますが、それらは視力、聴力、その他の感覚の力を想像することなどできません。それゆえ、創造されたものである人間がどうして純粋な創造者の本質を理解できるでしょうか。この水準は、理解力によって近づくことはできません。それを理解するにはどんな説明も充分ではありませんし、それを表現するどんな力もありません。塵の原子が、清浄の世界とどう関われるのでしょうか。知性は神を理解するには無力ですし、魂は神を説明する段になると狼狽してしまいます。「肉目は神を見ないが神は肉目を見る。神はすべてを知り給う全知者に在します。」(コーラン6104

要するに、この存在の水準に関しては、どのような発言も説明も不完全ですし、どのような賞讃も叙述も無価値であり、どのような概念も空しく、どのような眼想も役に立ちません。しかし、この本質中の本質、この真理中の真理、この神秘中の神秘について、存在の世界に反映、輝き、あらわれ、きらめきがあります。これらの輝きの差し昇る所、これらの反映の場所、こうしたあらわれの出現は、聖なる黎明の地であり、宇宙普遍の本質であり、それらは神聖な者たちであり、聖別された神の本質を映しだす真の鏡です。神から生まれ出るあらゆる完全性、恩恵、輝きは、聖なる顕示者たちの本質の中にはっきり見られます。それはあたかも太陽が、一点の曇りもなく磨きあげられた、澄んだ鏡にそのすべての完全性と思恵を伴って輝いているようなものです。仮に、その鏡が太陽を顕示するものであり、星の昇る審明の地であるとしても、それは太陽が神聖なる高所から降ってきて鏡と一体になってしまったとか、あるいは無限の本質がこの出現の場所に限定されるということを意味するものではありません。絶対にそうではありません。これは、神人同形同性論者の信条です。そうではなく、あらゆる賞讃、叙述、賞揚は聖なる顕示者について言われているものです。――つまり、私たちが口にするすべての叙述、特質、名称、属性は神の顕示者に帰すのです。それにしても誰一人、神の本質に到達したことはないのですから、誰もそれを叙述したり、説明、賞讃、讃美することはできません。ですから、人間の本質が神の名称、属性、完全性について知り、発見し、理解するすべてのことはこれらの聖なる顕示者にあてはまるのです。ほかに神に接近する道はありません。「道はとざされ、探究は禁じられている。」

それにもかかわらず、私たちは聖なる本質の名称や属性について語り、視力、聴力、力、命、知識を神からの賜物であるとして神を賞讃します。私たちがこれらの名称や属性を断言するのは、神の完全性を証明するためではなく、神は不完全であるということを否定するためです。現存する世界を見れば、無知は不完全であり、知識は完全であることがわかります。ですから、聖別された神の本質は英知であるといいます。弱さは不完全であり、力強さは完全です。したがって聖別された神の本質は力の頂点であるといいます。といっても、それは私たちの理解を越えたものなのですから、私たちは神の知識や視力、力や命を理解できるということではありません。なぜなら、神の本質的名称や属性は神の本質とまったく同じものであり、神の本質はすべての理解を超越しているからです。もし、それらの属性が本質と一致しないならば先在が多数あることになり、さらに、本質と属性の間に相異もあることになってしまいます。先在は必然のことですから、したがって先在が限りなく起こることになってしまいます。これは明らかな誤りです。

したがって、あらゆるこうした諸属性や名称、賞讃や讃美の言葉は、顕示者の地位に適用されるのです。そして、それ以外のことについて私たちが想像したり、推測したりすることは単なる空想です。なぜなら、私たちは目に見えないものや、近づくことのできないものを理解する手段を持たないからです。「あなたの明敏な知的イメージの中で、あなたが想像力の幻影によって区別したすべてのものは、あなた自身に似た創造物であるに過ぎない。そして、それはあなたに帰っていく。」(ハディース〔訳注イスラムの伝承〕より)と言われることの理由です。私たちが神の本質を想像しようとする場合、この想像は包囲されたものであり、私たちが包囲するものとなることは明らかです。そして、包囲するものは、包囲されるものより偉大であることは確かです。このことから、もし私たちが聖なる顕示者から離れて神の本質を想像するならば、それは全くの想像であることは確かであり、明らかなことです。神の本質は、私たちから切り離されてはいませんがそれに近づく道はないからです。そして、私たちが想像するすべてのものは単なる推測にすぎません。

そこで、世界中のさまざまな人々は、想像のまわりを堂々めぐりし、いろいろな想念や推測の作りだす偶像を礼拝しています。彼らはこのことに気づいていません。彼らは自分たちの想像があらゆる認識から導き出され、すべての叙述から浄化された本質であると見なしています。彼らは自分たちこそ、 一体性(神)の民であると見なし、他の人たちを偶像崇拝者であると見なしています。しかし、偶像には少なくとも鉱物としての存在がありますが、人間の想念と想像の偶像はただの空想にすぎません。それらは鉱物としての存在すらありません。「気をつけよ。洞察力を授けられている者たちよ。」(コーラン592

完全性の諸属性や神の恩恵の輝き、霊感の光は、すべての聖なる顕示者の中にはっきり見ることができるということを理解してください。栄光ある神の言葉であるキリストも、そして最大名であるバハオラも、想像をはるかに越えた顕示であり証拠です。なぜなら、彼らはそれ以前の神の顕示者たちのすべての美徳を備えているばかりでなく、それ以上に他の顕示者たちを服従させるある完全性を兼ね備えています。ですから、イスラエルの全予言者は霊感の中心でしたし、キリストもまた霊感の受信者でしたが、神の言葉の霊感とイザヤ、エレミヤ、エリヤの啓示との間には、何と大きな相違があることでしょうか!

光は、エーテル物質の振動の表現であることを思い出してください。目の神経は、このような振動の影響を受けて視覚が生まれます。ランプの光は、エーテル物質の振動によって存在します。太陽の光もまた同じです。しかし、太陽の光と星やランプの光との間には、何と大きな相違があることでしょう!

人間の精神は、胎児の状態のときにあらわれ、明らかになります。また、子供の状態、成人の状態のときにもはっきりしますが、完全性を得た状態においてよりはっきりと光り輝きます。精神は一つですが、胎児の状態のときには視力と聴力を欠いています。成人し完全になるとこの上ない輝きの中にあらわれます。同じように、種子は初め葉になります。そこに植物精神があらわれています。――つまり、成長力が最も完全にあらわれます。しかし、葉の状態と果実の状態の間には何と大きな相違があることでしょうか!なぜなら、どちらも同じ植物精神によって成長し、発達するのですが、果実からは何十万という葉があらわれるのです。キリストの美徳、完全性、バハオラの輝きと、エゼキエルやサムエルのようなイスラエルの予言者たちの徳性の差に気づいてください。すべては、霊感の顕示者たちでしたが、彼らの間にはとてつもなく大きな相違があります。ではごきげんよう!

 

 

三十八、神の顕示者の三つの地位

 

聖なる顕示者は永遠の美徳の段階にありますが、それにもかかわらず、一般的に言ってただ三つの地位しかないことを知りなさい。第一の地位は肉体的なもの、第二は人間的なもの、つまり理性的魂の地位、第三は神性のあらわれと天の輝きを備えた地位です。

肉体としての地位は現象的なものです。肉体は元素から組み立てられており、組成されるものはすべて必然的に分解されなければなりません。組成された物が分解されないということはあり得ません。

第二は、人間の実体である理性的魂としての地位です。これもまた現象的なものであり、聖なる顕示者は全人類と共にこれを共有しています。人間の魂はこの地上に果てしない時間、世代を通じて存在してきたのですが、それでもそれは現象的なもの(その誕生において)であることを理解しなさい。人間の魂は神の証しですから、いったん存在するようになれば永遠のものとなります。人間の精神には初めがありますが終わりはありません。それは永遠に続きます。同じように、地上に存在する種も現象的なものです。なぜなら、これらの種が地上に存在しなかった時代があることは一般に認められていることです。さらに地球もまた常に存在していたのではありません。しかし、存在の世界は常に存在しました。宇宙はこの地球に限られていないからです。この意味するところは、人間の魂は現象的なものですが、それにもかかわらず、不滅であり、永遠永久のものであるということです。なぜかと言えば、人間の世界は物の世界に比べれば完全の世界だからです。不完全なものが完全なものの地位に到達すれば、それらは永遠のものとなります。これは、皆さんが意味を理解しなければならないもののひとつです。

第三の地位は、神性のあらわれと天の輝きとを備えた地位です。それは神の言葉であり、永遠の恩恵であり、聖霊です。それには始まりも終わりもありません。なぜなら、始めや終わりといったものは依存している世界に関係しているものであり、神の世界には関わりありません。神にとって、終わりは始まりと同じものです。ですから、日、週、月、年を数えたり、昨日、今日と数えたりすることは地球に関係のあることで、太陽にはそうしたことはありません。同じように、神の言葉はこれらの状態から全く浄化されており、依存している世界にある境界線、法律、制限と言ったものはありません。ですから、神の言葉であり、顕示の完全な地位である予言者の本質には、始まりもありませんでしたし、いかなる終わりもないでしょう。その出現は他のあらゆるものと異なっており、それは太陽の上昇に似ています。たとえば、キリストというしるしにおけるその夜明けは、至高の壮麗さと輝きを伴っておりました。そしてこれは永遠不滅です。他国を征服した王はどれほどたくさんいたことでしょう。政治家、王子、有力な組織者も数えきれないほどおりましたが、彼らは皆、姿を消しました。ところが、キリストの微風は今もなお吹いています。彼の光は今なお輝いています。彼のメロディーは今なお鳴り響いており、彼の旗は今なおたなびき、彼の軍隊は今なお戦っており、彼の天国の声は今なお甘美なメロディーを奏で、彼の雲は今なお宝石を降りそそぎ、彼の稲妻は今なお光っており、彼は今なおはっきりと輝いています。彼の壮麗さは今なお輝いており、そして彼に保護され、彼の光に輝く人々についても同じです。

そこで、神の顕示者には、三つの状態があることは明らかです。肉体的状態、理性的魂の状態、神性のあらわれと天国の壮麗さを備えた状態の三つです。肉体的状態は必ず分解されますが、理性的魂の状態には始めはありますが終わりはありません。それどころか、不滅の命を与えられています。聖なる神の本質についてキリストは「父は子の中にある。」と言っています。それには始まりも終わりもありません。始めと言われている場合は、出現の状態を意味しています。象徴的に言えば、沈黙の状態は睡眠にたとえられます。たとえば、一人の人が眠っている。――彼がしゃべり始めるとき彼は目覚めている。――しかし、常に同一の人です。彼が眠っていようと目覚めていようと、彼の地位、気品、栄光、本質、性格には何の相違も起きてはいません。沈黙の状態は睡眠にたとえられます。そして、顕示の状態は覚醒にたとえられます。人が眠っていようと目覚めていようと同じ人です。睡眠は一つの状態であり、覚醒はまた別の状態です。沈黙の時は睡眠にたとえられ、顕示と導きは覚醒にたとえられます。

福音書の中で、「初めに言葉があった、言葉は神と共にあった。」(ヨハネ1:1)と言われています。そこで、キリストは聖霊が鳩の姿をして彼の上に降りた洗礼の時に至って、顕示者としての地位、その完全性の地位に到達したのではないことがはっきりします。いいえ、神の言葉は永遠の昔から存在しており、またこの先も気高く聖別されて存在するでしょう。

 

 

三十九、神の顕示者の人間的状態と精神的状態

 

顕示者には、三つの面があることをお話しました。第一は物質としての実体であり、それは肉体に依存します。第二は個人としての実体、すなわち、理性的魂です。第三は神性のあらわれです。それは神の完全性であり、あらゆる存在の命の根源、魂の教育の根源、人々の導きの根源、依存している世界を光明化する根源です。

物質としての状態は、やがて亡びる人間としての状態です。それは元素によって構成されており、元素によって構成されているものはすべて必然的に分解され、消散するものだからです。

しかし、神の顕示者の実体は聖なる実体であり、その理由によりそれは聖別されており、その性質と特質に関わるものにおいては、万物から区別されています。それは、太陽のようなものです。太陽はその本質的性質により、光を生み出しており、月と比較し得るものではありません。それは、太陽の球体を作っている粒子は月を構成している粒子とは比べものにならないことと同じです。前者の粒子と組織は光線を生み出しますが、月を構成している粒子は光を生み出すことはできず、光を借りる必要があります。ですから、その他の人間の実体は、月のように太陽から光を受けとる魂です。しかし、聖なる真理は、彼自身で光り、輝いているのです。

その存在(顕示者)の第三の面は、神の恩恵であり、先在の美の壮麗さ、そして全能なるお方の光の輝きです。神の顕示者に独特な本質は、神の恩恵と主の壮麗さから分離することはできません。同じように太陽の球体は、光から切り離せないものです。ですから、聖なる顕示者の昇天は、単にこの元素から成る姿を去ることであると言えます。たとえば、ランプがこのニッチ(訳注=花びん、像などを置くための壁の凹み)を照らしているとします。そこでニッチがこわされてランプの光が照らさなくなったとしても、ランプの恵みが断たれたのではありません。要するに、聖なる顕示者においては、先在の美はこの光のようなものであり、個性はガラスのほやによってあらわされており、そして人間のからだはこのニッチのようなものです。もしニッチがこわされたとしても、ランプは燃え続けます。神の顕示者たちは実にさまざまな鏡です。しかしそれらの鏡に映るものはたった一つの太陽です。キリストの本質がモーゼの本質と異なることは明らかなことです。

まことに、この聖なる真理(顕示者)は、初めから存在の秘密を意識しており、子供の時から偉大さのしるしが彼の中にはっきりあらわれています。ですから、彼がこれらすべての恩恵や完全性を意識していないということがあり得るでしょうか。

聖なる顕示者は、三つの面があることを述べました。肉体的状態、個人としての状態、そして完全性のあらわれの中心の三つです。それは、太陽とその熱、光のようなものです。その他の人々は、肉体的面と理性的魂の面――精神と心意を持っています。そこで、「私は眠っていた。すると聖なる神の微風が私の上を吹いて私は目醒めた。」という言葉は、キリストの言葉、「肉体は悲しい。が、精神は幸福である。」に似ています。あるいはまた、「私は苦しみ悩んでいる。」あるいは「私は安らかである。」「私は困っている。」――これらの言葉は肉体的状態について言っているのであり、個人の実体にとっても、神の真理の顕示にとっても、何の関わりもありません。人間の肉体には何千という浮き沈みが起こることを考えてごらんなさい。しかし、精神はそれらによって影響されません。あるいは肉体の一部が全くかたわになるかもしれません。が、心意の本質は依然として変わりなく不滅です。衣服にはたくさんの出来事が起こるかもしれません。しかし、服を着ている者には何の危険もありません。「私は眠っていた。すると聖なる微風が私の上を吹いて、私を目醒めさせた。」というバハオラの言葉は、肉体について言っているのです。

神の世界には過去も現在もありません。すべては一つです。それゆえキリストの言った「初めに言葉があった。」(ヨハネ1:1)という意味は、それは過去にあり、今もあり、未来にもあるということです。なぜかと言えば、神の世界には時はないからです。時は創造物には影響を及ぼしますが、神には及ぼしません。たとえば祈りの際に彼の言う(御名のあがめられますように。)という言葉の意味は、「おんみの御名は過去も、今も、未来にもあがめられるであろう。」(マタイ69、ルカ11:2)ということです。朝、昼、晩はこの地上に関わるものであって、太陽にとっては朝も昼も夜もありません。

 

 

四十、神の顕示者の知識

 

質問 神の顕示者が持つ力の一つは知識です。それはどの程度限定されるのですか。

 知識は二種類あります。一つは主観的なものであり、もう一つは客観的知識――つまり直感的知識と知覚から得られる知識とです。

人間が一般的に持っている物ごとについての知識は思考によるか、あるいは証拠によって得られます。――つまり心意の力によって対象物の概念が形づくられるか、あるいは対象物を見ることによって形体が心の鏡に作られるかのどちらかです。というのは、それは努力と到達度にかかっているからです。

しかし、第二の種類の知識、つまり存在についての知識は直感的です。それは、人間に備わっている認識や意識といったようなものです。

たとえば、人間の心意や精神は、からだの五体や構成各部のいろいろな状態を認識しており、さらにいろいろな肉体的感覚のすべてを意識しています。同様に、人間は自らの力や感情や精神状態を意識しています。これは、人が理解し、実感する存在についての知識です。なぜなら、精神は肉体を包容しており、肉体の感覚や力を意識しているからです。この知識は努力や学習から生まれるものではありません。それは存在しているものであり、純粋な賜物です。

聖別された本質である至高の顕示者は、創造物の本質と特質を包容し、存在している実体を超越し、しかも含んでおり、万物を理解しています。ですから、彼らの知識は神の知識であり、獲得されたものではありません。――つまり、それは聖なる恩恵であり、神の啓示です。

この問題をはっきりと理解するために、一例をあげましょう。地上における最も高貴な存在は人間です。人間は動物界、植物界、鉱物界を包容しています。――つまり、これら各界の状態は、人間がこれらのものの条件、状態の所有者である程度に応じて人間の中に含まれています。人間は、各界の神秘とそれらの存在の秘密に気づいています。これは単に一例であって類推ではありません。簡単に言えば、至高の顕示者は万物の神秘の実体に気づいているということです。顕示者――つまり聖なる法の賦与者――が、万物の実体を気づいていないならば、万物の実体か生じる必須のつながりを認識できないでしょうし、事実に合った、それらの状態にふさわしい宗教を確立することもできないでしょう。神の予言者、至高の顕示者は、熟達した医師にたとえられ、この依存している世界は人間のからだであり、神の法は治療であり、処置であるとたとえられます。したがって医師は患者のからだの様子や状態はもちろん、五体やあらゆる器官について知っていなければなりません。その結果、医師は病気の猛毒に対する効めのある薬を処方できるのです。実際には、医師は病気そのものから病人に適した処方を導き出します。なぜなら、彼は病気を診断し、それからその病気に対する治療法を処方するからです。病気が分からないのに、どうしてその治療法や処置を指示することができますか。その上、医師は患者のからだの様子や五体、器官や様態について充分な知識を持っていなければなりません。そして、適切な薬を処方するためにあらゆる病気や治療法について知っていなくてはなりません。

そこで、宗教は、万物の本質から放射する必須のつながりです。そして至高の神の顕示者は万物の神秘に気づいているからこそ、彼らはこの必須のつながりを理解し、この知識によって神の法を確立するのです。

 

 

四十一、宇宙の周期

 

質問 存在の世界に起こる周期について、真の説明はどのようなものでしょうか。

 果てしない大空に輝く天体には、それぞれ運行時間を異にする回転周期があります。そして、それらの一つ一つはそれ自身の軌道を回転し、再び新しい回転を始めます。そこで地球は、三百六十五日五時間四十八分と少々で一回転を完了します。そして新しい周期が始まります。――つまり始めの周期がまた新しくなります。同様に、天国であろうと人間の世界であろうと、全宇宙にも、大異変、重大な事実、あるいは事件の周期があります。一周期が終わると新しい周期が始まります。そして古い周期は勃発する大異変のために完全に忘れ去られ、その根跡も記録も残りません。この地球上の生命はたいへん古いものであることを論証によって立証しましたが、皆さんもご存じのように、二万年前の記録は何もありません。それは十万年、二十万年、あるいは百万年、二百万年といった古さではなく、とてつもなく古いものです。そして、古い記録や根跡は完全に抹殺されています。

神の顕示者の一人一人にも同じような周期があります。その周期が続いている間に、彼の法や戒律は広まり実施されます。新しい顕示者の出現によって彼の周期が完了すると新しい周期が始まります。このように周期は始まり終わって新しくされます。世界で宇宙の一周期が完了すると重大な事件や大きな異変が起こって過去のあらゆる根跡や記録を消し去ってしまいます。それから新しい字宙の周期が世界に始まります。なぜなら、この宇宙には初まりがないからです。この問題については以前に証拠や証明を述べましたので繰り返す必要はありません。

要するに、この存在の世界における宇宙の周期は、長い時間の継続、計算しきれないほど膨大な時間、時代を意味しています。そうした周期の中に、顕示者たちは目に見える領域に堂々と出現します。そして遂に偉大な至高の顕示者が世界を彼の輝きの中心とします。彼の出現は、世界を成熟させるもととなります。そして彼の周期の広がりは実に偉大です。その後にまた別の顕示者が彼の陰のもとに台頭するでしょう。そして彼の下陰に留まりつつ時代の要求に応じて、物質的事態や問題に関する戒律を更新するでしょう。

私たちは、アダムと共に始まった周期の中にいます。そしてその至高の顕示者はバハオラです。

 

 

四十二、神の顕示者の力と影響

 

質問 真理の玉座である神の顕示者たちの持つ力と完全性はどの程度ですか。また、彼らの影響力の限界はどの程度ですか。

 存在の世界――つまり物質の世界――について考えてごらんなさい。太陽系は暗くぼんやりしています。その中で太陽は光の中心であり、太陽系のすべての惑星は太陽の力のまわりを回転しており、太陽の恵みの分け前を受けています。太陽は命と輝きのもとであり、太陽系にある万物の成長発達の手段です。太陽の恵みがなければどんな生き物も存在できないし、すべては暗黒になり、破壊されてしまいます。ですから太陽は光の中心であり、太陽系に存在するものの命のもとであることは明らかです。

同じように、聖なる神の顕示者は真理の中心であり、神秘の根源の中心、愛の恵みの中心です。彼らは心と思想の世界に光り輝いており、精神の世界に永遠の恵みを降り注いでいます。彼らは精神的命を与え、真理と目的の光をともなって輝いています。思想の世界の教化は、こうした光の中心と神秘の源から生じます。これらの聖なる存在の輝きや指示の恩恵がなければ、魂と思想の世界はもうろうとした暗黒の世界になるでしょう。それらの神秘の源についての反ばくの余地のない教えがなければ、人間の世界は動物的欲望と特性の放牧場となり、万物の存在は非現実的なものとなるでしょう。そこには真の命はあり得ません。だからこそ、福音書に「初めに言葉があった。」(ヨハネ1:1)と言われているのです。言葉はすべての命の根源となったということを意味しているのです。

さて次に、地上の生き物に及ぼす太陽の影響力について、太陽が近い、遠い、あるいは、太陽の上昇、下降からどのようなしるしや結果がはっきり現われるかについて考えてみましょう。ある時は秋であり、ある時は春、はたまた夏や冬になります。太陽が赤道の線を通るときには、万物に命を与える春が輝いてあらわれます。そして夏至になれば果実は完成の極に達し、穀物や植物は実りを生じ、地上の生き物は成長の最も完全な発達の域に達します。

同じように、神の創造の世界の太陽である聖なる神の顕示者が精神の世界、思想の世界、心の世界を照らせば、精神的春と新しい命が現われ、すばらしい春の力が目に見えるようになり、驚くばかりの恩恵がはっきりします。皆さんもお気づきのように、神の顕示者が出現するたびに心意の世界、思想の世界、精神の世界に驚くべき進歩が生じました。たとえば、この聖なる時代に心意の世界、思想の世界にどれほど進歩があったかを理解してください。しかもそれはまだ夜明けが始まったばかりです。まもなく新しい恵みと神の教えがこの暗い世界を照らし、このみじめな地域をエデンの楽園に変えるでしょう。

個々の聖なる顕示者のしるしと恩恵を説明するには長時間が必要です。ご自分でよく熟考してください。そうすればこの問題の真理に到達するでしょう。

 

 

四十三、二種類の予言者

 

質問 予言者は何種類あるのですか。

 一般的に言って、予言者には二種類あります。一つは人々が信奉する独立した予言者であり、もう一つは独立しているのではなく、彼ら自身信者である予言者です。

独立した予言者は法を与える者であり、新しい周期の創始者です。彼らの出現によって世界は新しい衣を着け、宗教の基礎は確立され、新しい書物が示されます。何の媒介もなしに、彼らは神の真理から恵みを受けます。彼らの輝きこそ本質的な輝きです。彼らは自ら輝く太陽のようなものです。光は太陽の本質的必然であり、他のいかなる星からも光を受けません。これらの一体性の朝の夜明けの場所は恩恵の源であり、真理の精髄の鏡です。

他の予言者たちは信者であり、推進者です。彼らは枝であり、独立してはいないからです。彼らは独立した予言者の恵みを受け、普遍的予言者の導きの光によって予言します。彼らは月のようなものであり、自ら輝くことはなく、その光を太陽から受けています。

 独立して出現する普遍的予言者としての顕示者たちはたとえば、アブラハム、モーゼ、キリスト、マホメット、バブ、バハオラです。その他の信者であり、推進者である予言者は、ソロモン、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルのような人たちです。なぜなら、独立した予言者たちは創造者だからです。彼らは新しい宗教を確立し、人間を新しい創造物にします。彼らは一般道徳を変更し、新しい習慣と規則を推進し、周期と神の法を新しくします。彼らの出現は春の季節のようなものです。地上のあらゆる生き物を新しい衣で盛装させ、それらに新しい命を与えます。

信者である第二種の予言者たちもまた、神の法を推進し、神の宗教を知らせ、神の言葉を宣布します。彼らには独立した予言者たちから受けとる力以外に、彼ら自身の力はありません。

質問 仏陀や孔子はどの部類に属すのですか。

 仏陀もまた新しい宗教を確立しました。孔子は道徳と古代の徳を一新しましたが、彼らの法は全く破壊されてしまいました。仏教徒や儒教徒たちの信条や儀式は、その基本の教え通りには続きませんでした。仏教の創始者はすばらしい魂の持ち主でした。彼は神の一体性を確立しましたが、後に彼の教義の独創的原理は序々に消え失せ、無知な習慣や儀式が起こって拡大し、ついに偶像や肖像を礼拝するようになってしまいました。

さて、よく考えてください。キリストは、五書にある十戒に従わなくてはならないとたびたび繰り返しました。そしてこの十戒は維持されるべきであると主張しました。十戒の中の一つには「いかなる絵、いかなる肖像も礼拝してはならない。」(出エジプト記2045、申命記589)と言われています。現在、一部のキリスト教の教会にはたくさんの絵や肖像があります。ですから、神の宗教は、人々の間にその基本の原理を維持してはいません。それは序々に変化、変貌し、ついに完全に破壊され滅ぼされてしまったのです。こういうわけで、顕示者は新しくされ、新しい宗教が確立されます。それにしても宗教が変化、変貌しなければ、一新される必要もないのです。

木は初め、そのすべての美の中にあり、花や果実をたくさんつけましたが、しまいには年老いて全く実をつけなくなり、しおれ、朽ちてしまいます。そういう訳で真の庭師は、同じ種類の比類のない若い木を植え直すのです。その木は日に日に成長発達し、神の庭に広大な影を広げ、感嘆すべき果実を産み出します。神の宗教の場合も同じです。時の経過と共に、それはその本来の姿から変わってしまい、神の宗教の真理は完全に薄れ、その精神は失われてしまいます。異端が出現し、魂のないからだになります。それゆえ、宗教は一新されるのです。

現代の仏教徒や儒教徒たちは、肖像や偶像を礼拝しているということを言っているのです。彼らは神の一体性など全く無関心であり、古代ギリシャ人のように想像上の神々を信じています。しかし、初めはそうではなかったのです。全く違った原理や法令があったのです。

もう一度、どれほどキリストの宗教の原則が忘れ去られ、どれほど多くの異端があらわれているか考えてください。たとえば、キリストは復讐と違反を禁じました。さらに、傷害や悪を加えられても博愛と慈悲をもって応えるように命じられました。ここでよく考えてください。キリスト教の国自身の間にいかに残酷な戦争が起ったことか、どれほど多くの抑圧、残忍行為、強欲、流血ざたが起ったことでしょう。それらの多くはローマ法王の命令によって行なわれました。ですから、時の流れによって、宗教は完全に変わってしまうことがはっきりします。それゆえ、宗教は更新されるのです。

 

 

四十四、予言者が神から受ける譴責について

 

質問 どの聖典にも予言者に向けられた咎め、けん責の言葉があります。そのけん責は誰に向けられ、誰のためなのですか。

 神に対するあらゆる講話には、咎めの言葉があります。それは明らかに予言者に向かって言われていますが、実際には人々に向かって言われているのです。全くの慈悲の英知によって、人々が勇気を失い、挫折することのないようにするためです。ですから、それらは予言者に向けられているように見えます。しかし、外見的には予言者に向けられてはいても、真実のところ人々に対して言われているのであって、予言者に対してではありません。

また、力のある、独立した王は、その国を代表しています。彼の言うことは万民の声であり、彼の結ぶ協定は万民の協定です。なぜなら、彼の臣民の希望や願いは、彼の希望や願いに含まれるからです。同じようにどの予言者も人類全体をあらわしています。ですから、彼に向かって言われる神の約束や言葉は、全員に向かって言われているのです。一般的に言って、咎めやけん責の言葉はどちらからと言えば、人々にとってあまりにも厳しすぎて胸が張り裂けるような気持ちにさせるでしょう。そこで神の完全な英知は、こうした言い方を使うのです。それは聖書自身がはっきり示しています。たとえば、イスラエルの人々が反抗してモーゼに「我々はアマレク族と戦えない。彼らは力に満ちており、強く勇敢だから。」と言った時、モーゼは背く心はなく、完全に服従していたにもかかわらず、神はモーゼとアロンを咎めました。神の恵みの媒介者であり、神の法をとりつぐそうとした偉大な人間は、当然、神の命令に従わなくてはなりません。こうした聖なる人々は、彼らの欲望によってではなく、吹く風によって動かされる木の葉のようなものです。なぜなら、彼らは神の愛の微風に引きつけられ、彼らの意志は従順そのものです。彼らの言葉は神の言葉であり、彼らの命令は神の命令であり、彼らの禁止は神の禁止です彼らはランプから光を受けるガラスのほやのようなものです。光はガラスから発射するように見えますが、実はそれはランプから輝いているのです。同様に、顕示の中心である神の顕示者にとって彼らの行動や休息は神の霊感からくるのであって、人間の激情から生まれるものではありません。もしそうでないならば、どうして予言者を信頼する価値があるでしょうか。また、神の命令や禁止をとりつぐ神の使者であり得るでしょうか。あらゆる聖典で顕示者たちについて述べられているすべての欠陥はこの種の問題について言われているものです。

 皆さんがここへ来られ、神の僕たちに出会われたことに対して、神を讃えよ!皆さんは、彼らに神への喜びの香り以外のものを感じましたか。もちろん、感じられないでしょう。彼らは日夜、努力精進し、神の言葉の高揚、人々の教育、大衆の向上、精神の進歩、世界平和の普及、全人類への善意、あらゆる国への親切などの目的以外を持たないことをあなたご自身の目で見られたことでしょう。そして人類への親善のために自己を犠牲にして物質的利益から超越し、人類に徳を施そうと努力しています。

ところで、主題に戻りましょう。たとえば旧約聖書のイザヤ書四十八章十二節に「ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ。わたしが呼び出したイスラエル、わたしは神、始めであり、また終わりであるもの。」と述べられています。このことは、イスラエル人であったヤコブのことを意味しているのではなく、イスラエルの人々のことを意味していることは明らかです。また、イザヤ書四十三章第一節には、「ヤコブよ、あなたを創造された主は今こう言われる。恐れるな、わたしはあなたをあがなう。あなたはわたしのもの、わたしはあなたの名を呼ぶ。」と述べられています。

さらに民数記二十章二十三節に「エドム領の海岸近くのホル山で、主はモーゼとアロンに言われた。アロンは先祖の列に加えられる。わたしがイスラエルの人々に与える土地に彼は入ることができない。あなたたちがメリバの水のことでわたしの命令に逆らったからだ。」また十三節には、「これがメリバ(争い)の水である。なぜなら、イスラエルの人々が主と争い、また主はご自分の聖なることを示されたからである。」

ごらんなさい。イスラエルの人々が背いたのです。しかし、明らかに咎めはモーゼとアロンに向けられています。申命記の三章二十六節に言われているとおりです。「しかし主は、あなたたちゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主はわたしに言われた。もうよい。この事を二度と口にしてはならない。」

さて、こうした講話や咎めは、真実イスラエルの人々について言っているのです。彼ら神の命令に背いたので長い間ヨルダンの対岸の乾燥した砂漠に捕われたのでした。それはヨシュア――彼が敬まわれんことを――の時まで続きました。こうした話しかけや咎めは一見モーゼやアロンに向けられているように見えますが、実はイスラエルの人々に向けられているのです。

同じようにコーランの中でもマホメットに向かって言われています。「われは汝に明らかな勝利を授けた。神が汝のこれまでの罪とその後の罪を許したもうためである。」(コーラン48:1―2)この言葉も一見マホメットに向けられているように見えますが、実際には人々に向けられているのです。前に述べたように、こうした言い方は人々の心を悩ませたり、心配させたり、苦しめたりしないようにするために、神の完全な英知が用いた方法でした。

神の予言者や神の至高の顕示者たちはその祈りの中で、自分たちの罪や過ちを告白することが何としばしばあることでしょうか!これは人々に教・え、彼らを勇気づけてけんそんと従順を身につけるようにしむけ、彼らの罪と過ちを告白する気を持たせようとする以外の何ものでもありません。なぜなら、こうした聖なる人々はあらゆる罪から浄化され、過ちから聖別されているからです。福音書の中に述べられています。ある人がキリストの所へ来て「良い師よ。」と呼びかけました。キリストは答えて「なぜあなたは私を良いと言うのですか。良いお方はひとりです。それは神です。」(マタイ191617)このことは、キリストが罪人である―神よ許したまえ―と言っているのではありません。その意図は、彼が話しかけた人に服従とけんそん、従順、慎みを教えるためだったのです。こうした聖者たちは光であり、光は闇と一体にはなりません。彼らは命であり、生と死は混同されません。彼らは人を導くものであり、導きと過ちが一体となることはあり得ません。彼らは従順さの精ずいであり、従順と反抗は両立しません。

結論として、あらゆる聖典の中にある咎めの形でいわれている言葉は一見、予言者、すなわち神の顕示者に向けられているように見えますが、実際には人々に向かって言われているのです。聖典を丹念に調べてみればはっきりするでしょう。

では皆さんごきげんよう。

 

 

四十五、アクダスの書にある「啓示の夜明けであるお方には、その最も偉大な不謬性を共有する者はいない。」という一節について。

 

「啓示の夜明けであるお方(神の顕示者)には、その最も偉大な不謬性(絶対誤りのないこと)を共有する者はいない。」と聖句に言われています。真実、彼は創造の王国で「神は望むことを成し給う。」という言葉の象徴です。まことに、全能なるお方はこの地位をまったく顕示者だけに確保された。そして、他の何人にもこの気高い、最高に高められた栄誉を分け与えられない。

不謬性には二種類あることを理解しなさい。すなわち、本質的不謬性と習得した不謬性と。同様に、本質的知識と習得した知識があり、その他の名称や属性についても同じことが言えます。本質的な不謬性は、至高の顕示者に特有なものです。というのは、それは顕示者としての欠くことのできない必要条件であり、そして、本質的必要条件は物そのものから分離してはあり得ないからです。光線は太陽に欠くことのできない必要条件であり、太陽から切り離すことはできません。知識は欠くことのできない神の必要性であり、神から切り離すことはできません。もしそれが神から分離し得るならば、神ではあり得ないでしょう。もし光線が太陽から分離し得るならば、太陽ではなくなるでしょう。ですから、もし至高の顕示者から最も偉大な不謬性を分離することを想像するならば、彼はもはや至高の顕示者ではあり得ず、本質的に必要な美徳を欠くことになります。

しかし、習得された不謬性は、当然の必要性ではありません。反対にそれは真理の太陽から出て人々の心に輝く不謬性の恩恵の光線であり、諸々の魂に光線の一部を分え与えます。こうした人々には本質的不謬性はありませんが、神の保護下にあります。―つまり、神は彼らを誤りから保護します。このように最も偉大な不謬性の夜明けの地とはならなかった多くの聖者もまた神の保護と後見の下陰にあって過誤から保護されました。なぜなら、彼らは神と人間の間をとりもつ恩寵の媒介者であったからです。もし神が彼らを誤りから保護しなければ、信仰を持つ人々を誤りに陥らせ、神の宗教の基礎は覆されることになります。そのようなことは神にふさわしくありません。

 要約しましょう。本質的不謬牲は、特に至高の顕示者に属し、習得された不謬性はすべての聖なる魂に与えられています。たとえば、万国正義院が必要な条件の下に―つまり、全人民から選ばれた役員によって―設立されるならば、神の保護と誤りのない指導のもとに置かれるでしょう。もし万国正義院が満場一致か、あるいは多数決によって、バハイ書に述べられていない問題を決定するならば、この決定や命令は誤りから守られるでしょう。正義院の役員には個人的には本質的不謬性はありませんが、正義院という団体は神の保護と、誤りのない指導のもとにあります。これは協議による不謬性と呼ばれます。

要するに、「啓示の夜明け」は、「神は望み給うことを成す。」という言葉のあらわれであり、この状態は聖なるお方に特有なものであり、他のいかなる者もこの本質的完全性を共有することはないと言われています。つまり、至高の顕示者は本質的不謬性を持つのですから、彼らから放射されるすべてのものは真理と完全に一致し、真実に適合します。彼らは以前の法の下陰にいるのではありません。彼らの言うことは神の言葉であり、彼らのすることは正しい行為です。信者には批判する権利はありません。信者はある種の絶対服従でなくてはなりません。なぜなら、顕示者は完全な英知をもって立ちあがるからです。一ですから、至高の顕示者の言うこと成すことは完全な英知であり、真実に一致しています。

仮に、顕示者の命令や行動の隠された秘密を理解できない者があるとしても、彼らはそれに反対すべきではありません。なぜなら、至高の顕示者は望むことを成すものだからです。ある賢明で完全な、知的な人がある事を行なったが、その英知を理解できない人々がそれに反対し、この賢人がよくもそうしたことを言ったりしたりすることができるものだとすっかり驚いてしまうようなことがこれまでどれほどしばしば起こったことでしょうか。人々の反対は彼らの無知から生じたものであり、聖人の英知は純粋であり、誤りがありません。同様に、熟達した医師は患者を処置する際に彼の望むことを成しますし、患者には反対する権利はありません。その医師の言うことすべて正しく、すべての人は彼を「彼は欲することを成し、彼の望むことを命ずる。」という言葉のあらわれであるとみなされなければなりません。その医師は、人々の考えとは異なる薬を使うことは確かです。が、ここで科学や薬学についてより優位ではない者がこれに反対することは許されません。絶対にできません。それどころか、すべての人は熟達した医師の言うことに服従し、その通りにすべきです。ですから熟達した医師は彼の望むことを成し、患者はこの権利にあずかりません。まず、医師の技量が確かめられなければなりません。そしていったんその技量が証明されたならば、彼は望むことを成すのです。

さらにまた、軍隊の長官が戦術において無比であるならば、彼が言うこと命ずることにおいて、彼は望む通りにします。船長が航海術にたけていれば、彼の言うこと命ずることにおいて彼は望む通りにします。そして真の教育者が完全な人間であれば、彼が言うこと命ずることにおいて彼は望む通りにします。

簡単に言いますと、「彼は望むことを成す。」という意味は、仮に顕示者があることを言ったり、命令したり、実行したりする際に、信者がその英知を理解できなくても、彼らは彼がなぜそう言ったのだろうかとか、なぜそのようなことをしたのだろうかといぶかしがるような単純な考えで反対してはならないということです。至高の顕示者の下陰にある人々は、神の法の命令に服従し、それから寸分もそれるべきではありません。彼らのすべての言行は、神の法に一致させなければなりません。もし彼らが神の法からはずれるならば、彼らは神の面前で責任を問われ、咎められるでしょう。彼らは、「彼は望み給うことを成す。」という許しにはあずかりません。なぜなら、この地位は至高の顕示者に特有なものだからです。

したがって、キリスト―我が精神が彼への犠牲となりますように。―は、「彼は望み給うことを成す。」という言葉のあらわれでした。しかし、キリストの弟子たちは、この地位を共にする者ではありません。なぜなら、彼らはキリストの下陰にあったのですから、彼の命令や意志から寸分もたがうことはできなかったからです。

 

 

第四部 人間の起源と能力と状態について

 

 

四十六、種の変異

 

さて、種の変異と生物進化という問題にたどり着きました。1つまり、人類の祖先は動物

からきたものであるかどうかという問題点にです。

この理論は、ヨーロッパの哲学者たちに信じられており、今その誤りであることを理解させることは大変困難です。しかし、将来はっきりするでしょう。そしてヨーロッパの哲学者もその誤りを彼ら自身で理解するようになるでしょう。それは明らかな誤りなのですから。人が洞察力をもって存在物に目を向け、その状態を注意深く調べ、この世界の有様、組織、完全性を見れば、この可能性のある世界では、既に存在しているもの以上に、すばらしいものはないということを確信するでしょう。この無限の空間とその中にあるすべてのものはもちろん、地球や天体にある一切の存在物は、それらが当然あるべき様に、創造され、組織され、配列され、完成されたのですから、この宇宙には、不完全なものはありません。ですから、あらゆる存在物が完全な知性を持つようになり、永遠に考え続けたとしても、今あるもの以上にすばらしいものを想像することは不可能です。

しかし、過去における創造が至高の完全性で飾られていなかったとすれば、存在は不完全であり、意味のないものであったでしょう。そして、この場合、創造は十分ではなかったでしょう。この問題は、最大限の注意を払い、深く考えられる必要があります。例えば、この依存している世界は、おおむね人間のからだに似ていると想像してみましょう。今、人間のからだにある組成、組織、完全性、美、完成度が違ったものであったとすれば、それは全く不完全であることでしょう。さて、人間が動物界に属していた時期、あるいは単に動物であった時期を想像してみれば、存在は不完全であることがわかります。-つまり、人間は存在しなかったでしょう。そして世界という体の中で、人間の脳や心に相当するこの主要な成員は存在しなかったことになります。その場合の世界は全く不完全なものであったということになります。このことから、もし人間が動物界にいた時期があったとすれば、存在の完全性は破壊されてしまうことが証明されました。なぜなら、人間はこの世界で最も偉大な成員であり、この主要な器官がない体は、確かに不完全であると言えます。人間は創造物の中で最も偉大な成員であると考えられます。人間は、存在する完全性の全ての総和されたものだからです。私たちが人について語る時、世界で最も重要な個体である完全な人間を意味しています。人間は精神的な、明らかな完全性の総和であり、万物の中の太陽の様なものです。次に太陽が存在せず、それが惑星であった時を想像してみましょう。その時、確かに存在の関係は混乱したことでしょう。そんなことがどうして想像できるでしょうか。存在の世界を探究する人にとって以上の説明で十分です。

また別なとらえ難い証明があります。この世界に宿る尽きることのない存在物は、人間、動物、植物、鉱物であることにかかわらず、確かにそれぞれ元素から構成されています。全ての存在物にあるこの完全性は、神の創造によって、構成元素からそれらを適当に混合し、分量を配分し、組成の様式をつくり、他の存在からの影響を通して生じたものであることは疑いのないことです。なぜなら全ての存在物は、鎖のようにつながり合っており、創造物の存在、進化、発達、成長を促すものは、物の特性に属する相互援助や、相互作用なのだからです。あらゆる存在は、広く他の存在に絶対的に従うか、或いは、結合を通して従うことは、いろいろな証明によって確かめられています。そして最終的に、個々の存在物の完全性、すなわち、それらの原子、器官、能力に関して、人間や、他の存在物に見られる完全性は、いろいろな元素の構成やその程度や釣り合い、構成の様式や相互に力を及ぼし合う影響によるものなのです。そして、これらすべてが揃った時、人間が存在するのです。

人間の完全性が、元素の原子の配合と組み合わせ、構成の様式、また、他の存在と相互に影響し合い、作用し合うことに完全に依存しているのですから、そこで人間は、一万年又は十万年前に、これら地球の元素から同じ配合、釣り合い、同じ組み合わせと混合の方法、他の存在物からの同じ影響を受けて作られました。ですからその時、今と全く同じ人間が存在したのです。これは明らかなことであり、議論の余地はありません。ですから、十億年後にも人間を構成する成分が、この特定の割合に集められ、配列され、その成分が同じ方法によって組み合わされ、他の存在の同じ影響を受けるとすれば、全く同じ人間が存在するでしょう。例えば、十億年後に、油、火、芯、ランプ、ランプに火を付けるものがあれば―つまり、今ある必要なもの全てが揃っているならば、全く同じランプが得られるでしょう。

これは決定的で、明らかな事実です。しかし、ヨーロッパの哲学者が用いる論点は、疑問のある証明を導き、決定的なものではありません。

 

 

四十七、宇宙には始めがない

 

人間の起源

 

存在の世界―つまり、この果てしない宇宙には始めがないということは、最も深遠な精神的真理の一つであることを理解しなさい。

神の御名や属性は、それ自身万物の存在を必要とするということは既に説明しました。この問題については既に詳しく説明しましたが、簡単にもう一度説明いたしましょう。理解して下さい。生徒のいない教育者は想像できませんし、家来のいない王様は存在しません。学生がいなければ先生は任命されませんし、創造物のない創造主は不可能ですし、供給されるもののない供給者は考えられません。なぜなら、神のすべての御名や属性は、万物の存在を必要とするからです。もし、私たちが何も存在しなかった時を想像できるとすれば、この想像は神の神性を否定することになるでしょう。さらに、絶対的不在は、存在とは成り得ません。もし存在物が絶対的不在であるならば、存在は存在とはならなかったでしょう。ですから、「一体性の精髄」(つまり、神の実在)は、永遠不滅です。即ち、神の実在には、始めも終わりもない。―この存在の世界、果てしない宇宙は、始めも終わりもなかったことは確かです。なるほど宇宙の一部、例えば、天体の一個が存在するようになったり、或いは、崩壊することがあるかも知れません。しかし、他の無数の天体はそれでもなお存在し、宇宙は秩序を乱されることも破壊されることもありません。それどころか存在は永遠であり、不滅です。全ての天体は始めがあるのですから必然的に終わりがあります。なぜなら、あらゆる組成物は集合的にせよ、特異的にせよ、必然的に分解されるからです。ただ異なる点は、あるものは速く分解され、他のものはゆっくりと分解されるということであり、紐成されたものが全く分解されないということは不可能です。ですから、重要な存在物は、始めに何であったかを知ることが必要です。1始め、起源は一つであったということは疑いないからです。数の始まりは一であって二ではありません。ですから始め、物質は一つであり、そしてその一つの物質は個々の元素の中にいろいろ異なった姿となって現われたということは明らかなことです。このようにして、さまざまな形体が生み出され、生み出されたさまざまな姿は永久的なものとなり、個々の元素は特殊化されました。

しかし、この永遠性も始めははっきりしたものではありませんでしたが、長い時間がたって実現し、完全な存在になりました。その時これらの元素は無数の形体に組成され、組織され、結合されました。或いはむしろ、これらの元素の組成と結合から無数の存在が出現したのです。

この組成、配合は神の英知と神の先在的力によって、ただ一つの自然の組織から生み出されました。その自然の組織は英知によって導かれた最大の力によって、宇宙の法則に従って組成され、結合されました。このことから、それは神の創造であり、偶然による構成、配列ではないことは明らかです。このことが、自然の組成から存在が生まれ、偶発的な組成からはいかなる存在も生まれないということの理由です。例えば、人間が心意と知性を使って、ある元素を集め、それらを結合させたとしてもシステムが不自然なので、生きたものは産み出せないでしょう。このことが、存在するものは元素の合成と組み合わせによって作られているのに、なぜ元素を集めてそれらを一緒に混ぜ合わせても、生きているものを創り出すことは不可能なのかという含みのある質問への解答です。それは間違った想像です。この組成の起源は神から来るからです。この組み合わせを作るものは神であり、それは自然のシステムによってそれぞれの組成から存在が生み出され、一つの存在が実現するのです。人間によって作られた組成は何も生み出しません。人間は創造することはできないからです。

要するに、諸元素の組成と結合、分解、分量、他の存在からの影響によってさまざまな形態や無限の実体、無数の存在が生み出されたということです。しかし、この地球が現在あるような形に一瞬の内になったのではなく、この宇宙の存在は現在の完全性で飾られるまで序々にいろいろな様相を経てきたことは明らかです。宇宙的存在と微細な存在はどこか似ており、類似点を見つけることができます。なぜなら、両方とも一つの自然の組織、一つの宇宙の法則、神の機構の支配下にあるからです。ですから、宇宙の体系の中にある最小の原子は、最大の存在物と似ていることがわかるでしょう。それらは一つの自然の体系、一つの宇宙の法則のもとで、唯一の力の実験室から生み出されることははっきりしています。ですから、それらは互いに類似点があるのです。このように、母親の子宮の中の人間の胎児は序々に成長発達し、いろいろ異なった形体や状態となって現われ、ついには完成の美の段階で成熟に達し、最高の優美さをもって完全な姿となって現われるのです。同じように、皆さんが見ているこの花の種子は初めは意味もない小さなものでしたが、大地という子宮の中で成長発達し、さまざまな形態をたどった後、この申し分ない新鮮さと優美さの状態となって現われたのです。同じように、この地球も一度存在を見い出した後、宇宙という母体の中で成長、発達し、さまざまな形態、状態をたどり、遂に現在の完全性に到達し、無数の存在物で飾られるようになり、完成された組織として現われたのです。

ですから、胎児のような状態にある原始の物質や、最も初期の形態をなした、混ぜ合わされ、合成された元素は、至高の神の英知を通してある形状から別の形状へと変わりつつ、長い期間と世代を経る間に次第に生長発達し、ついには、この完全性、このシステム、この構成、この秩序となって現われたことは確かです。

さて主題に戻りましょう。人間はその存在の始め、母親の子宮の中の胎児のように、地球という子宮の中で序々に成長発達し、ある形態から別の形態へ変わり、一つの姿から別の姿へ変わり、ついにこの美、この完全性、この力、この能力をもって現われました。人間の胎児は、一挙にこの形として現われたのでもなく、「最も優れた創造者なる神が崇められんことを。」(コーラン2314)という言葉の顕示となったのでもありません。序々に、さまざまな状態や異なった形を経て、最後にこの形、美、この完全性、優美さ、愛らしさを得ました。人間が現在

の完全性に到達したこの地上での人間の成長発達は、母親の子宮の中の胎児の成長に似ていました。それは序々にある状態から別の状態へ、ある形態から別の形態へ、ある姿から別の姿へと変わりました。なぜなら、このことは宇宙のシステムと神の法則の要求するところに従っているのですから。

すなわち、胎児はいろいろ異なった状態を通り、数多くの段階を経て、ついに「至高の創造主なる神が崇められんことを!」という言葉を顕示するような形になり、理性と成熟の徴候が現われます。同じように、この地球上における人間の生存も、初めからこの状態に到達するまである形態と状態は必然的に長期間続き、多くの段階を通り過ぎてこの状態に到達します。しかし人間は存在の初めから別個の種をなしていました。同じように、母親の子宮の中にいる人間の胎児は初め奇妙な形態をしており、次にこの体はある姿から別の姿へ、ある状態から別の状態へ、ある形態から別の形態へと変わっていき、ついに至高の美と完全性を現わしました。

しかし、母親の子宮の中で現在の人間の形態とは全く相違した奇妙な形態をとっているとしても、それは優れた種の胎児であって、動物の胎児ではありません。人間としての種、本質はいかなる変革も受けません。すでに姿を消した器官の痕跡が実際に今あることを認めたからといって、これが種の非永遠性や非原始性を証明するものではありません。たかだかそれは人間の形態や姿、格好や器官が進化したことを証明するに留まっています。人間は常に別個の種でした。即ち人間であって決して動物ではありませんでした。ですから、母親の子宮の中にいる人

間の胎児がある形態から別の形態へと変わり、次の形態が最初の形態に全く似ていないからといって、これがどうして種が変化したという証拠なのでしょうか。それは初め動物だった、そして器官が進化発達してついに人間になったと言えるのですか。いいえ、違います。こうした思想観念こそ何と幼稚な、根拠のないものであることでしょう。なぜなら、人間の種が始めから存在し、人間性は永遠であることの証明は明らかなのですから。

 

 

四十八、人と動物の相違

 

精神の問題についてすでに一、二度お話しましたが、話はきろくされておりません。

人々は二つの部類に属している。―つまり、二つの集団からなっていることを理解しなさい。一方の集団は精神を否定し、人間もまた動物の一種であると言います。動物も人間と同能力と感覚を持っているではないかと言います。空間を満たす単純で単一な元素は無限に結合し、それぞれの結合から存在物の一つが生み出されます。こうした存在物の中に能力と感覚を持つ精神の所有者(人間)がいます。この結合が完全であればあるほどその存在はより高貴なものとなります。人間の体の中における元素の結合は、他のどの存在物の結合よりはるかに完全です。それは絶対的釣り合いのもとで混合されています。ですから、それははるかに高貴であり、より完全です。彼らは言います。「それは人間が他の動物にはない特別な能力や精神を持っているということではない。動物は感覚のあるからだを持っている。しかし人間はある能力においては動物より鋭敏である。けれども、聴覚、視覚、味覚、嗅覚、触覚などの外面的感覚、さらに記憶のような内面的な力においてさえも、動物は人間よりずっと豊かに与えられている。」

「動物はまた・知能と知覚力も持っている。」と。彼らが譲歩する点は、人間の知能はずっと偉大であるということだけです。

これが今の哲学者の言うことです。これが彼らの言葉であり、仮説であり、そういうふうに彼らの想像が決めるのです。それで彼らは強力な論争と証拠によって、人間の祖先を動物にまで戻し、人間もかつては動物であった時があり、それから種は少しずつ変化発達して、ついに今の人間の地位に到達したと言っています。

しかし、神学者たちは、断じてそうではない、と言います。人間は動物と共通の力や外面的な感覚を持ってはいるけれども、人間には動物にないすばらしい力があります。科学、芸術、発明、商業、真理の発見は、この精神的力のもたらすものです。これが万物を包容し、その実体を理解し、存在物に秘められた神秘を発見し、この知識を通してそれらを支配する力なのです。力は、外面的には存在しないもの―つまり、目に見えないために外面的に存在しない、感じられない知的実体を感じさえします。ですから、その力は知的実体である人間の心意、精神、特質、性格、愛、悲しみを理解します。さらに言えば、人間の生み出すこうした現存の科学・芸術・法律・数え切れない発明も、かつては目に見えない、神秘的な隠された秘密でした。

それらを発見し、目に見えない世界から目に見える世界にもたらしたものは、万物を包み込む人間の力にほかなりません。ですから、電信、写真、蓄音器やあらゆるそうした発明やすばらしい芸術はかつては秘められた神秘でした。つまり人間の実体がそれらを発見し、目に見えない世界から目に見える世界へともたらしたのです。皆さんがご覧のこの鉄器-実際すべての金属について言えることですがーの特質が隠された神秘であった時さえありました。人間はこの金属を発見し、こうした工業品の形に作り上げたのです。他のあらゆる人間の発見、発明についても同じことが言えます。それらは数え切れません。このことは否定できません。もし、これは動物にもある能力、体にある感覚器の力の生み出すものであると言うのであれば、これらの能力に関しては動物は人間に優っていることは、はっきりわかります。例えば、動物の視力は人間の視力よりはるかに鋭いですし、嗅覚、味覚の力もまたそうです。要するに、動物と人間に共通にある能力については動物の方が人間より強いことがしばしばあります。例えば、記憶力をとってみましょう。もしも鳩をここから遠くの国へ持っていってそれを放してやると、鳩は戻ってきます。鳩は道を覚えているのです。犬をここからアジアの中央に連れて行き放してごらんなさい。犬はここに戻り、一度として道に迷うことはありません。その他、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の力についても同じことが言えます。

このように、もし人間に動物の持つ力とは違った力がないならば、動物は発明や存在を理解する上で人間より優れていることになってしまいます。ですから人間は動物が所有しない、持って生まれた才能があることがはっきりします。

さて、動物は感じられる事物を知覚しますが、知的実体を知覚することはできません。例えば、動物はその視野の範囲内にあるものを見ますが、その視野の範囲外にあるものは感知することはできませんし、それを想像することはできません。ですから、動物は地球が球体をしていることを理解できません。しかし、人間は知り得たものから未知の事物を立証し、未知の真理を発見します。例えば、人間は地平線の曲線を見て、このことから地球は丸いものであることを推理します。例えば、アッカの北極星は三十三度の位置にあります。―つまり、地平線上三十三度の位置にあります。人が北極に向かって進むと、北極星は進行する距離の度合いに従って、その度合いだけ地平線を上って行きます。―つまり、北極星の高度は三十四度、四十度、五十度、六十度、七十度となります。そして北極に到達すれば北極星の高度は九十度になり、天頂に達します。――つまり、頭のま上にあります。この北極星と北極星が上昇していくことは知覚できることです。北極星に向かって進めば進むほど、北極星は高く昇って行きます。こうした二つの知られた真理から未知のことが発見されました。即ち、地平線は曲線であり、地球のある位置における地平線は、別の位置の地平線とは異なるということを意味しています。人はこのことを感知し、そのことから地球は丸いという目に見えないことを立証します。動物がこのことを感知することはできません。同じ様に、動物は太陽が中心にあって、地球がそのまわりを回転することを理解することもできません。動物は五感のとりこであり、それらに縛られています。五感を越えているもの、五感の支配の外にあるもの、動物はそれらを決して理解することはできません。外面的感覚においては、動物の方が人より優れてはいるのですが。これらのことから、人には発見する能力があることが証明されました。この能力によって、人は動物から区別されます。これが人間の精神です。

神に誉れあれ!人は常に高きに向かい、その向上心は強い。人は常に今いる世界より偉大

な世界へ到達したい、今いる領域より高い領域に昇りたいと願っています。高きを愛する心は人の特徴です。アメリカ、ヨーロッパのある哲学者たちが、動物の世界へとしだいに近づき、退歩することに満足していることは驚くほかありません。なぜなら、存在の傾向は高きに向かっていなければならないからです。それにもかかわらず、もし彼らの誰かに向かって「あなたは動物だ。」と言おうものなら、彼はひどく感情を害して怒るに違いありません。

人間の世界と動物の世界、人間の高貴さと動物の卑しさ、人間の完全さと動物の無知、人間の光明と動物の暗黒との間には、何と大きな相違のあることでしょう!十才のアラブ人の子供でさえ、砂漠で二、三百頭のらくだを支配することができます。彼の一声で、らくだを前進させたり、後退させることができます。か弱いヒンズー人は、巨大な象をこの上もなく従順な召使いになるように制御します。万物な人の手によって支配されます。人は自然に抵抗できますが、他のあらゆる創造物は自然のとりこであり、自然の要求するままにならないものはありません。人間だけが自然に抵抗できるのです。自然は物体を地球の中心に引き寄せます。人は機械的手段によって地球から離れて、空中に舞い上がります。自然は人が海を横断することを妨げますが、人は船を作り、太洋を横断して旅をします。等々、話題はいくらでもあります。

例えば、人はエンジンを運転して山々を越え、荒野を走ります。そして東西に起こった事件のニュースを一ケ所に集めます。こうしたことは皆、自然に反しています。雄大な太洋は自然の法則からみじんもはずれることはできません。さすがに荘厳な太陽も自然の法則から針の先ほどもそれることはできません。人間の条件、状態、特質、運動、性質など決して理解することはないのです。

そうであるなら、この人間の小さな肉体にあるこうしたすべてを包含する力はいったい何なのでしょうか。人間が万物を征服するこの支配力は何なのでしょうか。

もう一つの要点が残っています。近代哲学者たちは言います。「我々は人間の精神などまだ見たこともない。人体の秘密を深く探究しているのにもかかわらず、我々は精神力を知覚しない。知覚できない力などどうして想像することができるであろうか?」神学者たちはこう答えます。「動物の精神も知覚できない。そしてその肉体の力によってもそれは知覚できない。動物の精神の存在は何によって証明するのだろうか?結果からみて、動物には植物にない力が

あることを証明するに違いない。これは五感の力である。―すなわち、視力、聴力、その他の力である。これらから動物には精神の存在することを推論する。同じように、今まで述べてきしるした証拠や徴から、人間の精神があることを論じるのである。動物には植物にない徴があるので、この感覚力が動物精神の特質であると言う。また人間には動物に存在しない徴や力や完全性があることもわかる。であるから、人間には動物にはない力が存在することを推論するのである。」と。

五感に感じられないものを否定しようと言うのであれば、議論の余地なく存在する実在をも否定しなければならなくなります。例えば、工ーテル物質、エネルギーは五感には感じられません。しかし、それは疑いなく存在しています。引力は五感には感じられません。しかし、それは確かに存在します。いったい何によってこうした存在を確認するのでしょうか?それらのしるしによるのです。そういうわけで、この光はかの工ーテル物質の振動です。この振動からエーテル(エネルギー)の存在を推論するのです。

 

 

四十九、人類の成長と発達

 

質問 一部のヨーロッパの哲学者たちの主張する、万物の成長発達に関する理論についてどう思われますか?

答 この問題については既にお話しましたが、今一度お話しましょう。簡単にいえばこの問題は、種は初めから存在するか否かを決めることによって決定されるでしょう―つまり人という種は、人としての起源から確立されたか、あるいは後に動物から派生したかどうかということです。

あるヨーロッパの哲学者たちは、種は成長発達し、その変化、変革もまた可能であるという意見に一致しています彼らがこの論理に与える立証の一つは、地質学の注意深い研究と立証によって、植物の存在は動物の存在に先行し、動物の存在は、人間の存在に先行したことが明らかになったということです彼らは、植物の種も動物の種も、変化したのであると考えます。というのは、地球のある地層に、過去に存在したが今は絶滅した植物を発見して、それらは進化し、力を増し、形や様相が変化したと考えます。同じように、地球の地層に変化、変形した動物がいる。こうした動物の一つは蛇である。蛇にはかつて足があった徴候があるが、時の経過と共に足は消えてしまった。同じように、人間の脊椎には他の動物のように、かつて尾があったことを殆ど立証するような徴候がある。かつてはその器官も有用であったが、人間が進化したので、もはや役に立たなくなり、しだいに姿を消した。蛇が地下に避難して這う動物となるにつれて、もはや足の必要はなくなり、かくして足は姿を消した。しかしそれらの痕跡は残っている。その主な論点はこうです。そうした器官の痕跡の存在は、それらがかつては存在したけれども、今はもはやいらなくなったので、しだいに姿を消したということを証明している。だから、完全で、必要な部分は残っているが、不必要なものは種の変異によってしだいに姿を消したが、それらの痕跡は存続していると。この論議に対するまず第一の解答は、動物が人に先行したという事実は、種の進化、変化、変革を立証するものでもなく、また人間が動物の世界から生じたということを立証するものでもないということです。これらのあい異なる存在は、個々に出現したことは確かであるとしても、人間が動物の後に存在するようになったことはあり得ることです。植物界を調べてみると、異なる木々の果実は同時に熟すことはありません。あるものは早く、他のものは遅く熟します。

この先行性は、遅く結ばれたある樹の果実は、早く実を結ばれた樹の実から生み出されたものであるということを証明してはいません。

第二に、こうした器官のほんのわずかな徴や痕跡には、まだ解らない何か大きな理由があるかも知れないということです。今だに、存在理由の解らないものがどんなにたくさんあることでしょう。器官の組成に関する学問である生理学は、動物の色の違い、人の髪の色の違い、唇の赤さ、小鳥の色の多様さの理由と原因は今だに分らず、かくされた秘密であると書いています。しかし、目の瞳は太陽の光線を吸収するために黒い色をしていることが知られています。

もしも他の色、たとえば、一様に白い色であるとすれば、瞳は太陽の光線を吸収しな.いでしょう。ですから、今まで述べたものの存在理由はわかりませんから、これらの器官の痕跡が動物のものであろうと人間のものであろうと、存在することの理由と英知も同様にわからないことはあり得ることです。たとえそれが分からなくても、何か理由があることは確かです。

第三に、ある動物、あるいは人間でさえも、今は失ってしまった器官を持っていた時があったと想像してみましょう。このことは、種の変化と進化の十分な証拠ではありません。人間は胎児期の始まりから、成熟の段階に到達するまでにさまざまな形や姿を経過します。その姿、形、外形、色は変化します。ある形から別の形になり、ある外形から別の外形へと変わって行きます。それにもかかわらず、胎児期の始めからそれは人間の種です。―つまり、人間の胎児であって動物の胎児ではありません。しかしこれは初めははっきりしませんが、後にはっきり目に見えるようになります。例えば、かつて人間は動物に似ていた、そして今や進化し、変化したと仮定してもなお、それは種の変化の証明ではありません。それは違います。前にも述べたとおり、それは人間の胎児が理性と完全性の段階に到達するまで変化し、変革していくことに似ているにすぎません。もっと分かり易く言いましょう。人間が手足で歩き、尾を持っていた時代があったと想像してみましょう。この変化、変革は母親の子宮の中にいる胎児の変化に似ています。それはいろいろに変化し、完全な形になるまで成長、発達しますが、それは初めから特別な種です。

要約します。母親の子宮の中の人間は、ある形から別の形へ、ある姿から別の姿へと変化し発達しますが、それは胎児の始めから人間です。―同じように、人間は宇宙という母体の中に存在するようになったその始めから、はっきりとした種―つまり人間―であり、ある形から別の形へと序々に進化してきたのです。ですからこうした外形の変化、器官の進化、成長発達は、成長と発達の実態を認めたとしても、種が独自なものであることを妨げるものではありません。人間は初めからこうした完全な形、組成をしており、肉体的、精神的完全性を獲得する能力と素質を持っており、「我は、我のかたちに似せて人を作ろう。」(創世紀1"26)という言葉の現れでした。人間はますます魅力的になり、ますます美しく、ますます優美になるばかりです。文明は人間を未開の状態から連れ出しました。それはちょうど、庭師によって栽培された野生の果実がますますみごとに甘くなり、ますます新鮮さとおいしさを獲得するのに似ています。

人間世界の庭師は、神の顕示者です。

 

 

五十、人間の起源に関する精神的証明

 

人間の起源に関してこれまで提示してきた立証は、論理的立証でした。さて、ここで欠くことのできない精神的立証をしましょう。既に、論理的論法によって神を立証しました。また人間は人間としての起源と基礎から存在し、人間の種は永遠の昔から存在していることを立証しました。ここで、人間の存在−−つまり人間の種−−は必然の存在であり、人間がいなければ神の完全性は現われ得ないという精神的立証をしましょう。しかし、これらは、精神的立証であって、論理的立証ではありません。

人間は、存在物のうちで最も高貴なものであり、あらゆる完全性の総和であり、すべての生物、存在物は、神の栄光が輝きでる中心であることーつまり、神の神性の徴が存在物や創造物の実体にあらわれていることをたびたび示し、立証しました。ちょうど地球が太陽の光線を反射する所であるようにーその光、熱、影響が地球のあらゆる分子のうちにはっきり見えるように存在物の分子はこの無限の空間の中で、神の完全性の一つを宣言し、立証しています。いかなるものもこの恩恵を奪われることはありません。それは神の慈悲の徴であるかまたは、神の力、神の偉大さ、神の正義、神の成長を促す摂理の徴です。あるいは、神の寛大さ、神の視覚、神の聴力、神の知識、神の恩寵等々の徴です。

疑いなく、おのおのの存在物は、神の栄光が輝き出る中心です。―つまり、神の完全性は、存在物からあらわれ、その中に輝き渡っています。それは、砂漠や、海の上、木々、果実、花、その他あらゆる地上の存在物の中に輝き渡る太陽のようなものです。この世界、もちろんひとつひとつの存在物も、神の御名の一つを宣言しています。しかし、人間の本質は集合的本質、総体的本質であり、神のすべての完全性の輝き出る中心です。―つまり、私たちが神について確認する神の御名、属性、完全性は、人間の中に徴が存在します。もし、そうでないとすれば、人間は神の完全性を想像し、理解することはできないはずです。それゆえ、神はすべてを見給うお方であり、目は神の視覚の徴であると言われるのです。こうした視力が人間にはないとすれば、人間はどうして神の視覚を想像することができるのでしょうか。なぜなら、生まれつきの盲人は見ることを想像できません。生まれつき耳の聞こえぬ人の人は"聞くことを想像できません。死んでいる人は、命を理解できません。ですから、あらゆる完全性の総和である神の神性は、それ自身、人間の本質に反映しているのです。―つまり、一体性の精髄は、あらゆる完全性の集合したものであり、この一体性から、神は人間の実体に反映を投げかけます。その時、人間は真理の太陽へ向いている完全な鏡となり、輝きの中心となります。真理の太陽は、この鏡に輝いています。神の完全性の反映は、人間の実体に現われます。ですから、人間は神の代表であり、神の使者です。もし人間が存在しなければ、この宇宙は空しいものであるでしょう。なぜなら、存在の目的は、神の完全性の出現にあるからです。

ですから、人間が存在しない時があったとは言えないのです。ただ、この地球は存在していなかった時があり、地球が存在し始めた時には、人間は地上には出現していなかったと言い得るだけです。しかし、始めなき始めから、終わりなき終わりまで、「完全な顕示者」は常に存在しています。私の言っているこの人間とは、一人、一人の人間のことではありません。「完全な人間」のことです。木の最も高貴な部分は果実です。それは、木の存在理由だからです。木が果実をつけないならば、意味がありません。ですから、星であれ、地球であれ、存在の世界にはかってロバ、牛、ねずみ、猫が住んでおり、しかも人間はいなかったとは想像できません。この想像は誤りであり、無意味です。神の言葉は太陽のように明らかです。これは、精神的立証の一つです。しかし、唯物主義者のためになるように、はじめにこの精神的立証を論じることはできません。まず論理的立証を論じ、その後に、精神的立証をしなければなりません。

 

 

五十一、人間の精神と心意は初めから存在していた

 

質間 人間は初めから心意と精神を持っているのですか。それとも、それらは、人間の進化の結果現われたのですか。

答 この地球上における人間の存在の始まりは、母親の子宮の中における人間の形成に似ています。母親の子宮の中の胎児は序々に成長発達して出生し、出生してから後も、分別と成熟の年代に到達するまで成長発達し続けます。幼時の人間にも、心意と精神の徴が現われますが、それらは完全な段階に達しません。それらは不完全です。人間が成熟の域に達した時になってようやく心意と精神はこの上なく完全に現われ、はっきりするのです。

そしてまた、世界という母体の中における人間の形成も初めは胎児のようでした。それから、しだいに完全さを得て進歩し、成熟の域に達するまで成長発達します。その時、心意と精神はこの上ない大きな力となって現われてきます。人間の形成の初期にも心意と精神は存在しましたが、隠されていました。後になってそれらは現われました。世界という子宮の中でも心意と精神は存在しましたが、それらは隠されていました。しかし後に現われました。種子の中に木が存在するのですが、それは隠され秘められているのと同じことです。種子が成長発達して完全な木が現われます。同じように、万物の成長発達は序々に起こります。これは普遍的な神の組織であり、自然の方式です。種子は一瞬のうちに木にはなりません。胎児は一瞬のうちに大人にはなりません。鉱物は突然石にはなりません。いいえ、それらは序々に成長発達して、完全の域に到達するのです。

すべてのものは大小七かかわらず、始めから完全に、完成されたものとして創造されました。しかし、その完全性は序々にそれらの中に現われます。神の組織は一つです。存在の進化は一つです。神のシステムは一つです。すべてのものは大小にかかわらず、一つの法則と方式の支配下にあります。一つ一つの種子には、初めから植物としてのすべての完全性が備わっています。例えば、種子の中には、初めから植物のすべての完全性が存在しますが目には見えません。後に少しずつそれらが現われてきます。種子から最初に現われるものは新芽であり、次に枝、葉、花、実が現われます。しかし、その存在の初めから、これらすべてのるのははっきりとは見えないのですが、潜在的に種子の中にあるのです。

同じように、胎児も初めから精神、心意、視覚、嗅覚、味覚1ひと言で言えばすべでの能力といったあらゆる完全性を備えているのですが、それらは目に見えず、ただ、序々に現われてくるのです。

同様に、地球は始めからそのあらゆる要素、物質、鉱物、原子、有機体とともに創造されました。しかし、これらは序々に現われました。始めに鉱物、次に植物、その後に動物、そして最後に人間が出現しました。

始めからこれらの種類や種は存在していたのですが、地球の中で未発達だったのです。それからごくゆっくりと現われたのでした。なぜなら、神の至高の組織や宇宙普遍の自然の方式は万物をとりまき、すべてのものは、この法則の支配下にあるからです。この宇宙の体系を考えてみるならば、万物のなかには存在し始めたときから完成の域に達していたものは一つもないことがわかります。絶対にそのようなことはありません。万物は序々に成長発達し、やがて完成の段階に到達するのです。

 

 

五十二、肉体における精神の出現

 

質問 肉体に精神を出現させる英知は何なのですか。

答 肉体に精神を出現させる英知はこうです。人間の精神は神の信託物です。精神はあらゆる状態を通過しなくてはなりません。なぜなら、精神が生存上のあらゆる状態の中を経験し運動することによって、完全性を獲得する手段が得られるからです。そこで人が系統だった方法で、さまざまな地方や、多くの国を旅行し通過すれば、それは彼が完全性を獲得する手段であることは確かです。なぜなら、彼はいろいろの場所、景色、国々を見、そこから他国の状態、様子を知るからです。こうして彼は国々の地理、不思議、芸術を知り、人々の風俗、習慣、しきたりに慣れ、その時代の文明や進歩を見、各政府の政策、それぞれの国の力、許容能力を知るようになります。人間の精神が存在の状態を通過する場合も同じです。人間の精神は、それぞれの段階、地位の所有者となります。それは肉体という状態の中にあっても必ず美徳を獲得するようになるでしょう。

そればかりでなく、この創造された世界が限りない成果を生み出し、この世が生を受け、神の恩恵を現わすために、精神の完全性の徴がこの世に現われることが必要です。例えば、太陽の光線は地上を照らさなければなりません。そして、太陽の熱は地上の生類を成長させます。もし太陽の光線と熱が地上を照らさないならば、地球には何も住まないし、意味がなくなります。そして、その発達は阻害されるでしょう。同じように、もし精神の完全性がこの世に現われないならば、この世界は啓発されず、全く野蛮になるでしょう。肉体の形の中に精神が出現することによってこの世は啓発されます。人間の精神が肉体の命の根源であるように、この世界は肉体であり、人は精神です。もしも人間が存在しないならば、精神の完全性は現われず、心意の光はこの世に輝かないでしょう。この世は魂のない肉体のようになってしまいます。

この世はまた、果実をつける木とも言うべきです。人は果実であり、果実のない木は意味がありません。

その上、人間という有機体に見られるこうした器官、元素、組成は、精神に対する引力であり、磁石です。精神が人間の中に現われることは確かです。澄んだ鏡は確かに太陽の光線を引きつけます。それは明るく輝き渡り、すばらしいイメージがその中に現われます。一つまり、こうした現存の元素が完全な力で、自然の秩序に従って集められれば、それらは精神に対する磁石となります。そして精神はあらゆる完全性を持ってその中に現われます。

これらの状況のもとでは、「どうして太陽の光線が鏡に降下する必要があるだろうか。」ということは問題になりません。なぜなら、物事の実体相互の関係は、それらが精神的なものであろうと、物質的なものであろうと、鏡が澄んでいて太陽の方へ向いているときは、太陽の光は鏡の中に必ず明らかになることを必要とするからです。同じように、元素がこの上もなくすばらしい体系、組織、有様に配列され、結合されると、人間の精神はそれらの中に現われ明らかになります。これは全知全能なる御方の御命令です。

 

 

五十三、神と創造物の関係

 

質問 神と創造物の関係1つまり、独立しておられるお方である至高のお方と、他の存在物との関係はどのようなものなのでしょうか。

答 神の創造物との関係は、創造主と創造との関係です。それは、太陽と依存している存在物の暗い物体との関係、製作者と彼の製作物の関係のようなものです。太陽はその本質において、太陽が照らす物体とは独立しています。なぜなら、太陽の光はそれ自身の中にあり、地球とはかかわりなく独立しています。ですから、地球は太陽の影響下にあってその光を受け取ります。一方太陽とその光は地球とは全く独立しています。それにしても、もし太陽が存在しなければ、地球も地上のあらゆる存在物も存在できません。

創造物が神に依存することは、放射による依存です。―つまり、創造物は神から発するのであって、神を現わしてはいません。その関係は放射の関係であり、顕示の関係ではありません。太陽の光は太陽から発します。それは太陽を現わしてはいません。放射による出現は、世界の地平線にある天体からの光線の出現のようなものです。―つまり、真理の太陽の神聖な本質は分割されませんし、創造物の地位に下降することもありません。同じように、太陽の球体も分割状態にはなりませんし、地球にまで降りて来ることもありません。そうではなく、太陽の恩恵であるその光線は、太陽から発して暗い物体を明るく照らすのです。

しかし、顕示による出現は、種子から枝、葉、花、果実が現われることです。なぜなら、種、子はその本質の中で、枝、果実になり、その実体は枝、葉、果実の中に入ってしまいます。顕示による出現は、最も高遠なる御方である神にとっては、単なる不完全になり、このことは全く不可能です。なぜなら、その意味するところは、「絶対的先在」が、現象的な属性を具えているということになってしまうからです。しかし、もしそうだとすれば純粋な独立は単なる不毛となり、真の存在は不在となってしまい、こうしたことはあり得ません。

ですから、全ての創造物は神から発します。―つまり、あらゆるものが実現するのは、神によるのであり、神によって万物は存在するようになりました。神から生じた最初のものは、宇宙の実体であり、古代の哲学者たちはこれを「第一の心意」と言い、バハの人々は「第一の意志」と呼びました。神の世界におけるその作用に関するものにおいて、この放射は時間や空間に制約されません。それは始めも終わりもありません。神に関する限り始めも終わりも一つです。神の先在は本質の先在であり、また時間の先在です。そして、依存しているものの現象性は、後で述べるように、本質的なものであり、束の間のものではありません。

「第一の心意」は始まりがありませんが、それは神の先在における共有者にはなりません。なぜなら、神の実在から見れば宇宙の実体の存在は無であり、そしてそれは、神と同列になる力、先在において神と同等になる力は持っていません。この問題は後で説明します。

あらゆる生物の存在は合成、死、分解を意味します。しかし、宇宙の物質や元素は、完全に絶滅され、破壊されてしまうことはありません。そうではなく、それらが存在しなくなることは、単なる変形です。例えば、人が死ぬと塵になります。しかし、彼は完全になくなってしまうのではありません。彼は塵の形でなお存在しますが、変形が起こり、この組成は偶然に分解されるのです。その他の存在が滅亡するときも同様です。というのは、存在は絶対的無にはなりませんし、絶対的無が存在するようになることはありません。

 

 

五十四、人間精神は神から生じることについて

 

質間 聖書に、神は精神を人間の肉体に吹き入れられたと述べられています。この一節の意味するものは何ですか。

答 発生には二種類あることを理解しなさい。すなわち、放射による発生と出現、顕示による発生と出現の二つです。放射による発生は、俳優から演技が出るようなもの、作者から著作が生じるようなものです。さて、著作は作家から生じ、講演は演説者から生じます。同じように、人間精神は神から生じます。それは、人間精神は神を顕示するということではありません。

―つまり、神の実体から一部が引き離されて、人間の肉体に入るということではありません。そうではなく、演説が話し手から生じるのと同じように精神は人間の肉体に現われます。

しかし、顕示による発生は、あるものの実体が別の姿となって現われることです。ちょうどこの木は、この木の種子から生じ、あるいはこの花がこの花の種子から生じるようなものです。

なぜなら、枝、葉、花の形になって現われるのは種子そのものなのですから。これが顕示による発生と呼ばれるものです。人間の精神は、神に関する限り、放射に依存しています。あたかも講演が演説者から生じ、著作が作家から生じるように。1つまり、演説者自身は講演にはなりませんし、作家自身が著作になってしまうのでもありません。そうではなく、放射による発生です。演説者は申し分のない能力と力を持っており、講演は彼から生じます。ちょうど演技が俳優から生じるようなものです。「真の話し手」、「一体性の精髄」は、常に一つの状態にあり、変化、変更もなければ、変形も移り変わりもありません。彼は、永遠なるお方、不死のお方です。ですから、人間精神が神から生じることは放射によります。聖書に、神は神の精神を人間に吹き入れたと述べられている場合、この精神は、演説のように、「真の話し手」から生じ、人間の実体に効果を及ぼします。

しかし、先に述べた顕示による発生(神の出現はこうした意味であり、部分に分割されないものであるとすれば)は、「聖霊」と「言葉」の発生と出現について当てはまります。それは神から来ます。ヨハネの福音書に、「始めに言葉があった。言葉は神と共にあった。」と述べられているように、「聖霊」と「言葉」は、神の出現です。「聖霊」と「言葉」は、キリストの本質に現われた神の完全性を意味しており、これらの完全性は神と共にありました。ですから、太陽はその全ての栄光を鏡に現わします。なぜなら、「言葉」は、キリストの肉体を意味しません。そうではなく、神の完全性が彼の内に現われたのです。キリストは、「真理の太陽」に向いている澄んだ鏡のようでした。そして、「真理の太陽」の完全性―つまり、その光と熱―は、この鏡の中にはっきりと見えました。もしこの鏡を見れば、私たちは太陽を見て「ああ、太陽だ。」と、言います。ですから、神の完全性を意味する「言葉」と「聖霊」は、神の出現です。これが「言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」という福音書の一節の意味です。なぜなら、神の完全性は「一体性の精髄」に外ならないからです。キリストの持つ完全性は「言葉」と呼ばれます。なぜなら、万物は文字の状態にあり、一つの文字は完全な意味を持ちません。一方、キリストの完全性は、言葉の力を持っています。というのは、一つの言葉から完全な意味を推論できるからです。キリストの本質は神の完全性の現われでしたので、それは言葉のようでした。なぜか?彼は完全な意味の総和だからです。これが彼が「言葉」と呼ばれる理由です。

顕示による発生と出現である「言葉」と「聖霊」の神からの発生は、「神の本質」が部分に分割し、あるいはいくつにも増え、あるいは神聖さと純粋さの高みより降ってきたということを意味していると理解してはなりません。絶対に違います。もし、清浄で立派な鏡が太陽に向いているならば、-太陽の光、熱、形、像は鏡の中に輝き渡り、見る人に、鏡の中で輝いて見える太陽を「これこそ太陽だ。」と、言わせるでしょう。それは正しいことです。それにもかかわらず、鏡は鏡であり、太陽は太陽です。「一つの太陽」、たとえそれがたくさんの鏡に現われようと、それはただ一つです。この状態は留まったり、入り込んだりするのでもなければ、混合したり、下降したりするのでもありません。なぜなら、侵入、滞在、下降、流出、混合は肉体の必然性、特徴であって、精神に関わることではないからです。まして、それらは聖別され、清浄な「神の本質」からどれほど離れていることか。神は、神の清浄、神の崇高な神聖さに従わない一切のものとは、何の関わりもありません。

「真理の太陽」はすでに述べたように、常に一つの状態にあり、変化も変更も変形も移り変わりもありません。それは永遠不滅です。しかし、神の言葉の聖.なる本質は、清浄でみごとな、輝く鏡です。熱、光、イメージと姿、つまり、「真理の太陽」の完全性がその中に現われます。それがキリストが福音書の中で「父は子の中にあり。」(ヨハネ14111721)と言ったことの理由です。ーつまり、「真理の太陽」がその鏡に現われます。この聖なる本質の上に輝くお方に誉れあれ!そのお方こそ万物の中で聖別されています。

 

 

五十五、魂、精神、心意

 

質問 心意と精神と魂の相違は何ですか。

答 精神は、一般に五つの部類に分けられることは前に説明しました。つまり、植物の精神、動物の精神、人間の精神、信仰の精神、聖霊です。

植物の精神は、他の存在の影響を受けて種子の中に引き起こされた成長力です。

動物の精神は、あらゆる感覚力のことです。感覚力は元素が紐成され、混合されることによって現われます。この組成が分解するとその力も失われ、絶滅させられます。それはこのランプにたとえることができます。油、芯と火が結び合わされると光を放ちます。そしてこの結合が解けると−つまり、結合体の各部がそれぞればらばらになると−ランプもまた消えます。

人間を動物から区別する人間精神は、理性的魂です。この二つの言い方―人間精神と理性的魂―は、同じことを指します。哲学者の用語法で理性的魂であるこの精神は、万物を包み込み、人間の能力の限界内で、物事の実体を発見し、それらの特殊性や影響力、ものごとの性質や特性を認めます。しかし、人間の精神は、信仰の精神によって援助されなければ、神の神秘と神の実体を理解するようにはなれません。それは鏡のようなものであり、鏡はどんなに澄み、磨かれ、輝いていても、なお光を必要とするのです。太陽の光線が鏡の上に反映してはじめて、神の秘密を発見するのです。

しかし、心意は人間精神の力です。精神はランプです。心意はランプから輝き出す光です。精神は木です。そして、心意は果実です。心意は精神のもつ完全性であり、精神の欠くことのできない特質です。太陽の光線は、太陽に欠くことのできない必然であるのと同じです。

この説明は短いですが完全です。ですからこれを深く考えて下さい。神が望まれるなら、その詳細が解るようになるでしょう。

 

 

五十六、肉体的な力と知的な力

 

人間には五つの外的能力があります。それらは知覚の媒体です。―つまり、これらの五つの能力によって人間は物質的なものを理解します。目に見える形を知覚する視力、耳に聞こえる音を知覚する聴力、匂いを認める嗅覚、食物を認める味覚、体全体に広がっていて触れることのできるものを知覚する触覚です。この五つの能力は、外部の存在を知覚します。

人間にはまた精神的能力があります。物を考えつく想像力、実体を熟考する思考力、実体を理解する理解力、想像し考え、理解したものを覚えている記憶力です。その五つの外的能力と内的能力の間を媒介するものは、両者が共通に持つ感覚です。つまり、外的能力と内的能力の間の媒介をする感覚は、外的能力が認識するもの全てを内的能力に伝えます。それは共通の機能と呼ばれます。それは外的能力と内的能力の間で情報を伝え合い、それゆえに、外的能力と内的能力に共通のものだからです。

例えば、視覚は外的能力の一つです。視覚がこの花を見て知覚すると、この知覚を内部の能力―共通機能―に伝えます。共通機関は、この知覚を想像力に伝達します。この想像力は、今度は自分がこのイメージを描き、形作り、思考力に伝えます。思考力はよく考え実体を把握して、それを理解力に伝えます。理解力は、それを理解すると知覚された目的物の像を記憶力に伝達します。そして、記憶力がそれを保管場所に保存します。

外的能力は五つあります。視力、聴力、味覚力、嗅覚力、触覚力の五つです。

内的能力もまた五つあります。共通機能、想像力、思考力、理解力、記憶力の五つです。

 

 

五十七、人間の性格に相違のある原因

 

質間 人間には何種類の性格があるのでしょうか。人間にある相違と多様性の原因は何ですか。

答 人間には生まれつきの性格、つまり先天的性格と教育によって得られる後天的性格があります。

生まれつきの性格について言えば、神の創造は全く善であるにもかかわらず、人間の生来の素質の多様性は程度の相違から生じます。全ての人は優れていますが、程度によってより優れたり、劣ったりします。ですから、全ての人類は知性と才能をもっていますが、人々の知性、才能、価値は相違します。これは明らかです。

例えば、同じ家族の者で、同じ場所に住み、同じ学校に学び、同じ先生に教えられ、同じ食物で育ち、同じ気候の中に住み、同じ衣服を与えられ、同じ勉強をしている子供たちを考えてごらんなさい。ある者は学問に優れ、ある者の才能は普通であり、またある者はぼんやりしているということは確かです。ですから、生まれつきの性格には程度の相違と、価値と才能の多様性があることは明らかです。この相違は善悪の意味を持つのではなく、単に程度の相違を意味しているだけです。ある者は最高の程度であり、ある者は中位であり、ある者は最低の程度です。人間も動物も植物も鉱物も存在しますが、この四つの存在の程度は相違しています。人間の存在と動物の存在の間には何と大きな相違のあることでしょうか。それにもかかわらず、両者は存在するのです。存在には程度の相違のあることは明らかです。

遺伝した素質の多様性は、体質の強弱から生じます。―つまり、両親が弱いと、子供たちは弱いでしょう。両親が強ければ、子供たちはたくましいでしょう。同じように、血統の純粋さは大きな影響を及ぼします。なぜなら、純粋な胚種は植物や動物に存在する優秀な血統のようなものです。例えば、弱々しい虚弱な両親から生まれた子供は、おのずから弱々しい体格と弱々しい神経を持っていることが知られています。彼らは悩まされ、忍耐力も、持久力も、決断力も、不屈の精神もなく、短気でしょう。その子供は両親の弱点と虚弱さを受けついでいるからです。

また、ある特別な祝福が、ある家族、ある世代の人たちに授けられています。アブラハムの子孫から、イスラエルの人々の全ての予言者が出たということは、そのような特別の祝福です。

これは神がこの家系に与えられた祝福です。アブラハムの血を引く父母から生まれたモーゼ、母の系統から生まれたキリスト、マホメットとバブ、そしてイスラエルの全ての予言者と聖なる顕示者に祝福が与えられました。「祝福された美」(バハオラ)もまたアブラハムの子孫の系統です。アブラハムには、イスラエルとイサクの他にも息子たちがおり、その当時、彼らはペルシャやアフガニスタンヘ移住しました。「祝福された美」は、その子孫の一人なのです。

ですから、遺伝した性格も存在することは明らかです。そして、ある系統に肉体的に属してはいても、その起源の性格に一致せずに、精神的にはその家族のメンバーとは考えられないという程度までいろいろあります。ノアの一族とはみなされないカナン(創世紀9.25)のように。

しかし、文化による特質の相違もたいへん大きなものです。教育は大きな影響力を持っていますから、教育によって無知な者が物を知るようになり、臆病な者が勇敢な者になります。栽培することによって曲がった枝はまっすぐになり、山や森にあるすっぱく苦い果実は、甘く、おいしくなります。五枚の花びらをした花は、百枚の花びらを持つようになります。教育によって野蛮な国家は文明化し、動物さえも馴らされます。教育は最も重要なものとして考えられなければなりなせん。肉体の世界の病気は極めて感染しやすいものだからです。教育は広大な影響力を持っています。そして、それが及ぼす相違は実に大きいのです。

一部の人たちは、人間の才能や価値はそれぞれ相違している、だから才能の相違が性格の相違をもたらすというかもしれません。

しかしそういうことではありません。なぜなら、才能には生まれつきの才能と後天的な才能との二種類があるからです。神の創造である前者は全く善です。―神の創造においては、悪はありません。しかし後天的な才能は、しだいに悪を出現させる原因になります。

 例えば、神は砂糖や蜂蜜によって利益を受け、毒によって害され、破滅させられるように人間を創造し、そういう肉体と才能を授けました。この性質や肉体は生まれつきのものであり、神はそれを全人類に平等に授けました。しかし、人間は日々ほんの少しの毒を取って徐に自らを毒に慣らし、しだいにその量を増し、ついには毎日一グラムの阿片がなければ生きていけなくなります。生まれつきの才能と肉体が変化して、ついにはさまざまな習慣や訓練によってどれ程大きくゆがめられてしまうか考えて下さい。人は誰しも、生まれつきの才能や性ゆえに、悪人を非難するのではなく、むしろ彼らの後天的な才能や性質ゆえに非難するのです。

創造には悪はありません。ある人々の中にある生まれつきの明らかに非難すべき、ある素質や性質は、実際には悪ではありません。例えば、乳児の内に、人生の最初から欲望や怒りや間癪の徴候が見られます。そこで、善悪は人間の本質に生まれついているのであり、こことは創造と性質の完全な善に反すると言われるかもしれません。この質問に対する答は、もっと欲しいと求める欲望が適切に使われるならば、賞賛すべき特質であるということです。ですから、もし人が科学や知識を習得しようとして貧欲になるとか、あるいは情深く、寛大に、正しくなるために貧欲になるならば、最も賞賛すべきことです。もし怒りや憤怒を寧猛で野獣のような血に飢えた暴君に対して行使するならば、きわめて賞賛すべきことです。しかし、こうした特質を正しく用いなければ、非難すべきことです。

そこで、創造と自然においては、悪が全く存在しないことは明らかです。ですけれども人間の生まれつきの特質も違法に用いられると、非難すべきものとなります。そこで、裕福で寛大な人が、貧しい人に彼の要り用のお金を与えたとして、もし彼がそのお金を不法なことに費すならば、それは非難すべきことです。人生の資本ともいうべき人間の自然の特質についても同じです。もしそれらが不法に使われたり、むき出しにされれば非難すべきことです。ですから創造が全く善であることは明らかです。すべての悪の根源をなす最も悪い特質、最も嫌悪すべき属性は、嘘であることをよく考えて下さい。これほど悪い、非難しようもない特質が他に存在することを想像することはできません。それは人間のあらゆる完全牲を破壊し、無数の悪の原因となります。これ以上に悪い特質は他にありません。それはすべての悪のもとです。それにもかかわらず、もしも医師が患者を慰めて、「神様のおかげで快方に向っている、回復の見込みがあります。」と言うならば、その言葉は事実に反してはいますが、患者を慰める言葉となり、病の転機になるかもしれません。これは非難すべきことではありません。

この問題はいまやはっきりしました。ではごきげんよう。

 

 

五十八、人間の持つ知識の程度と神の顕示者

 

質間 人間世界の理解はどの程度のものですか。またその限界は何ですか。

答 理解は一様ではないことを知りなさい。理解の一番低い階段は動物の理解です。―つまり、五官の力を通して現われる生まれつきの感情であり、感覚と呼ばれます。この感覚は、人間も動物も共に持っています。それどころか、五官の感覚に関しては、ある動物の方がより強い力を持っています。しかし人問の場合、理解は人間のさまざまな状態に従っていろいろに変化します。

自然界における理解の最初の状態は、理性的魂の理解です。この理解とこの能力においては、すべての人間は共有者です。怠惰な人であろうと、用心深い人であろうと、信者であろうと、否定者であろうと。この人間の理性的魂は神の創造です。それは他の創造物を包み込み、それより優っています。それがより高貴であり、顕著であればあるほど、万物を包含します。理性的魂の力は、ものごとの実体を発見し、存在物の特質を理解し、存在の神秘を見抜きます。あらゆる科学、知識、芸術、奇跡、制度、発見、事業は、理性的魂の訓練された知識から生じます。それらがかつて未知であり、保存された神秘であり、かくされた秘密であった時代がありました。理性的魂は、徐々にそれらを発見し、目に見えない、かくされた世界から目に見える世界へ導き世しました。これは自然界における最大の理解力です。それが最高潮になると、依存しているものの実体、特質、影響力を理解します。

しかし、自然を超越している普遍的神の心意は、「先在する力」の恩恵です。この普遍的心意は神聖なものであり、存在する実体を包含し、神の神秘の光を受けます。それは意識であって、探究や調査をする能力ではありません。自然界の知性の力は探究の力であり、その探究により、存在の実体や特質を発見します。しかし、自然を超えた天の知性は、万物を包含し、感知し、理解し、神秘や本質、神の意味を知っており、神の王国の秘された真理の発見者です。この神性の知性の力こそ、聖なる顕示者と予言者の夜明けの場所に特有な属性です。この光の光線が正しい人の心の鏡にさし込み、この力の一部と分け前が聖なる顕示者を通して彼らにもたらされます。

聖なる神の顕示者には三つの状態があります。一つは肉体的状態、一つは理性的魂の状態、もう一つは完全性の顕現と主の光輝の顕現の状態です。その肉体は、肉体の世界においては、その力の程度に従って物事を理解します。ですからある場合には、肉体的弱さを示します。例えば、「私は眠っていて、無意識だった、神の微風が私の上を吹いて目覚めさせた。そして、私に「言葉」を宣言するように命じられた。」または、キリストが三十才であった時、彼は洗礼を受け、聖霊が彼の上に降りました。それまでは聖霊は、彼の中に現われませんでした。こうしたことはすべて、顕示者の肉体的状態を物語っています。しかし彼らの神の状態は万物を包含し、すべての神秘を理解しており、すべての徴を発見し、万物を支配します。彼らの使命の後と同じように、それ以前もそうでした。これがキリストが「私はアルファであり、オメガである。始めの者であり、終わりの者である。」〈黙示録2213)と言った意味です。1つまり、我は、過去においても未来においても、何らの変化、変更はない、という意味です。

 

 

五十九、人間の持つ神の知識

 

質問 人間の理解力でどの程度神を理解できますか。

答 この問題は、十分な時間を要します。このように食卓を囲んでの席で説明することは容易ではありません。ですが、簡単にお話ししましょう。

知識には二種類あることを理解しなさい。物の本質についての知識と、物の特質についての知識の二種類です。物の本質は、その特質を通して知られるものであって、その特質によらなければ、それは知られず、かくされています。

存在物についての私たちの知識、そればかりでなく、創造物や限られた物の知識でさえ、それらの本質についてではなく、それらの特質についての知識です。ですから、限りない神の実在をその本質において理解することなどどうしてできるでしょう。なぜかといえば、いかなるものでも、その内なる本質は理解されるものでなく、たかだかその特質が理解されるにすぎないからです。例えば、太陽の内なる実体はわかりません。しかし、熱と光という特質によって理解されます。人間の内なる本質は計り知れないものであり、はっきりしたものではありません。しかし、その特質によって、特徴づけられ、理解されます。このようにあらゆるものはその本質によってではなく、その特質によって理解されます。心意は万物を包含し、外界の存在は心意によって理解されるのですが、それにもかかわらず、こうした存在もその本質については未知であり、ただそれらの特質を理解するばかりです。

そうであれば、一切の理解と概念から聖別されている永遠不滅の主を、その本質から理解することなどどうしてできるでしょうか。つまり、物事はその本質によってではなく、その特質によってのみ理解できるのですから、「神の本質」はその本質については理解できず、その属性について理解されるということは確かです。さらに、現象的実体が「先在する実体」を包含することがどうしてできるでしょうか。なぜなら、理解は包み込む結果である。―理解が成立するためには包含が必要である。―さらに「一体性の精髄」は全てを包み込むものであり、包み込まれるものではありません。

また、存在の世界における地位の相違は、理解の妨げとなります。たとえば、この鉱物は、

鉱物界に属しています。それがどれほどがんばっても成長する力を理解することはできません。植物、木がどれほど立派に成長しても、視覚力やその他の感覚力を考えることはできません。動物は人間の状態―つまり、その精神的能力を想像することはできません。地位の相違は理解の妨げとなります。低い階段にあるものは、高い階段にあるものを理解できません。だとすれば、現象的な実体が「先在する本質」をどうして理解することができるでしょうか。ですから、神を知ることは、神の属性を理解し知ることであって、神の本質について理解することではありません。こうした神の属性についての知識はまた、人間の力、力量に比例しており、絶対のものではありません。哲学は人間の才能、力量に従って存在する物の本質を、あるがままに理解することにあります。なぜなら、現象的実体は、人間の能力の程度でしか「先在するもの」の実体を理解できないからです。神性の神秘は存在物の理解から聖別され、純化されています。

なぜなら、想像できるすべてのものは、人間の理解するものであり、人間の理解力は神の本質の実体を包容できません。人間の理解できるものといえば、せいぜい神の属性であり、この世界や人間の魂の中に現われ、目に見えるようになった神の属性の輝きだけです。

この世と人間の魂を見つめると、そこに、はっきりとした神の完全性のすばらしい徴を見ます。なぜなら、物の本質は「普遍的本質」を証明しているからです。神の本質は太陽にたとえることができます。それは威力の頂上から、すべての地平線上に輝き渡り、それぞれの地平線、すべての心がその輝きの分け前を受けます。もしこの光や光線が存在しなければ、あらゆるものは存在しないでしょう。すべての存在は何かを示し、この光や、この光の一部を受けるのです。神の完全性、恩恵、属性の輝きは「完全な人間」―つまり「特別なお方」、神の「至高の顕示者」の本質から輝き出るのです。他の存在物は一つの光線を受けるのみですが、至高の顕示者は、この太陽の鏡です。太陽はそのすべての完全性、属性、徴、奇跡を伴ってはっきりとその鏡に現われ、明らかになるのです。

神の本質について知ることは、不可能であり達成できません。しかし、神の顕示者を知ることは、神を知ることです。なぜなら、その恩恵、光輝、神性の属性は彼らの中にはっきり現われているからです。ですから人が神の顕示者の知識に到達すれば、神の知識に到達するようになるでしょう。もし人が聖なる顕示者の知識を無視するならば、神の知識を得られないでしょう。ですから、聖なる顕示者は神の恩恵、徴、完全性の中心であることは、確立され、証明されています。光明の夜明けの地点からさすこの神の恩恵の光を受けとる者に祝福あれ!

私は神の友人たちが引力のように、こうした恩恵をその源から引きよせ、真理の太陽の明らかな証拠となるような輝きと徴と共に立ちあがるように希望します。

 

 

六十、精神の不滅性()

 

人間の精神が存在することを示しましたので、次にその不滅性を立証しなくてはなりません。精神の不滅性はあらゆる聖典に述べられており、神聖な宗教の根本的基礎です。さて罰と報酬には二種類あると言われています。第一は、この世における罰と報酬、第二は来世にお

ける罰と報酬です。存在する界堺の天国と地獄は、この世であろうと精神的天の世界であろうと、神の全世界に見い出されます。これらの報酬を得ることは永遠の命を得ることです。キリストが「永遠の命を見い出し、水と霊から生まれるように行動しなさい。そうすれば、神の王国に入ることができます。」(参照ヨハネ35)と言ったのはこの意味です。

この世の人生における報酬は、人間の実体に精彩を添える美徳と完全性です。例えば、彼は暗かったが明るくなった、無知であったが賢くなった、怠慢であったが注意深く成った、眠っていたが目覚めた、死んでいたが生き返った、目の見えぬ人であったが見る人になった、耳の聞こえぬ人であったが聴く人になった、俗人であったが聖人になった、物質的であったが精神的になったなどです。これらの報酬によって、人は精神的に生まれ変わり、新しい創造物になります。

彼は、福音書で弟子について述べている一節(ヨハネ113)、「彼らは血すじによらず、肉の欲によらず、人の欲によらず、ただ神により生まれしなり。」という言葉どおりになって現われます。―つまり、彼らは人間の特質である動物的特徴と特質から解放されて、神の特徴を与えられます。それは神の恩恵です。これが第二の誕生の意味です。そうした人々にとっては、神からべールでさえぎられていることより大いなる苦しみはなく、肉欲の悪徳、暗黒の性格、たんできかこく低級な性質、肉欲に耽溺することほど苛酷な罰はありません。彼らが信仰の光によってこうした悪徳の暗黒から解放され、真理の太陽の輝きによって照らされ、すべての徳によって気高くされるとき、彼らはこれを最大の報酬と考え、それを真の楽園と理解します。同じように、彼らは精神的罰1つまり、生存の苦しみと罰は、この自然界に属すること、神からべールでさえぎられていること、動物的で無知であること、肉欲に耽溺すること、動物的無節操に陥ること、虚偽、残虐、残忍、世俗への執着、悪魔のような思想に没頭するというような暗黒な性質で特徴づけられることであると考えます。彼らにとってはこれらのことがとてつもなく大きな罰であり、苦しみなのです。

同じように、来世の報酬はあらゆる聖典にはっきり述べられている永遠の命と、神の完全性、永遠の恩恵と不滅の幸福です。来世の報酬はこの世を去った後の精神界で獲得する完成と平和です。一方この世の報酬は、この世で実現される真の輝かしい完成であり、永遠の命の根源です。なぜなら、それこそ、存在の進歩に他ならないからです。それはちょうど人間が胎児の世界から成熟の状態になり、「もっともすぐれた創造者なる神が崇められんことを。」(コーラン2314)という言葉の現われとなることと同じです。来世の報酬は、神の国における平和、精神的美点、さまざまな精神的贈り物であり、心と魂の願いを獲得し、永遠の世界で神と会合することです。同じように来世での罰1つまり、来世での苦しみーは神の特別な祝福と絶対的恩恵から締め出され、最低の存在段階に落ちることです。これらの神の恵沢を奪われている者は、死後も存在し続けるとはいえ、真理の人から見れば、死んだものとみなされます。

精神の不滅性の論理的証明は次のようです。存在しないものから徴が現われることはありません。―つまり、絶対的不在から徴が現われることは不可能です。なぜなら徴は何か存在するから現われるのであり、結果は原因が存在することにかかっています。ですから不在の太陽から光は輝かず、不在の海に波はたたず、不在の雲から雨は降らず、不在の木から果実は生まれず、不在の人間は何も顕示せず、何も生み出しません。ですから存在の徴が現われる限り、それらは徴の所有者が存在することの証拠です。

現在、キリストの王国が存在することを考えて下さい。そのように偉大な王国が王なしでどうして現われることができるでしょうか、海が存在しないのにそれほど高い波が立つでしょうか、花園が存在しないのにどうしてそのような香り高い微風が漂うのでしょうか、鉱物にしろ、植物にしろ、動物にしろ、その器官がばらばらになり、元素が分解されれば、その結果も痕跡も影響も残らないことをよく考えて下さい。人間の実体と精神のみが、肢体の分解、構成分子の離合、組成の崩壊の後も、生存を続け、働き、力を持ち続けるのです。

この問題は極めて微妙です。注意深く考えるべきです。賢明な人は理性と正義がつり合うようによく考えるであろうと思い、この論理的証明を試みました。しかし、人間精神が喜ばされ・神の王国へ引きつけられれば、また、内なる視力が開かれ、精神的聴力が強まり・精神的感情が優勢になれば、彼は太陽を見るようにはっきりと精神の不滅性を理解し、神の吉報としるしが彼を包むでしょう。

明日、別な証明をいたしましょう。

 

 

六十一、精神の不滅性()

 

昨日は精神の不滅性についてもっぱら論議しました。人間の精神の力と理解力には二種類あることを理解しなさい。―即ち、それらは二つの異なった方法で知覚し、働きます。一つは、器官によるものです。精神はこの目で見、この耳で聴き、この舌で語ります。それが精神の働きであり、器官を使った実在の人間の知覚です。つまり、精神は目を通して見・耳を通して聴き、舌を通して語ります。

精神の力と働きのも三つの現われ方には、道具、器官はいりません。例えば、眠っている状態では精神は目を使わずに見、耳を使わずに聴き苦なしで語り、足なしで走ります。要するに、これらの行動は道具、器官を全然使いません。眠りの世界で精神が夢を見、それが二年後にそれに対応した出来ごととなって意味がはっきりわかるようになるというようなこがいかにしばしば起こることでしょう。同じように、目覚めの世界で解決できない問題が夢の世界で解決されることがいかによくある事でしょう。目覚めている時には、目はほんのわずかな距離しか見ません。しかし夢の中では、東洋にいる人が西洋を見ます。目覚めている時は速い輸送機関を使ってもせいぜい一時間に八十マイルを旅することしかできません。眠っているときにはほんの一瞬のうちに東洋と西洋を横断します。なぜなら、精神は二つの異なった方法で移動するからです。手段を使わない精神的移動と、手段を使う物質的移動です。ちょうど飛ぶ鳥と、運ばれる鳥のように。

眠っている時には、この肉体は死んでいるかのようです。見もしなければ聴きもせず、感じもしません。意識も知覚もありません。―つまり人間の能力は不活発になります。しかし精神は生きて活動しています。それどころか、その洞察力は増やされ、その飛躍はより高くなり、その知性はますます大きくなります。肉体の死後、精神も滅びると考えることは、篭がこわされると篭の中にいる鳥も滅ぼされてしまうと想像するようなものです。篭がこわされたからといって、鳥には何も恐れるものはないのです。

私たちの肉体は鳥篭のようなものです。そして精神は鳥です。篭がなければ鳥は眠りの世界を飛びまわります。篭がこわれても鳥は存続します。その感情はますます強くなり、その知覚力はより大きくなり、その幸福は増大します。実際、それは地獄から歓喜の楽園にたどり着きます。その感激に満ちた鳥にとっては篭から自由になることよりすばらしい楽園はないのですから。殉教者がこの上もない喜びと幸福感に満ちて犠牲の荒野へ急ぐのもこういう訳なのです。

目覚めている時、人間の目はせいぜい一時間の距離しか見ません。なぜなら、精神の力は肉体の器官によってこのように限定されているからです。しかし、精神は内にある視力や知的な目によってアメリカを見、そこにあるものを知覚し、ものの状態を発見し、ものごとを組織します。そこで、もし精神が肉体と同じようであれば、内にある視力の能力も同じ比率になっていることが必要でしょう。ですから、この精神は、肉体とは別のものであり、鳥は篭とは別のものであり、精神の能力と洞察力は、肉体という媒介がなければより強くなるということが明らかになります。さてそうした道具が放棄されても、その道具の所有者は活動し続けます。

例えば、ペンが捨てられたり、こわされても作者は生きています。家がこわされても持ち主は生きています。これは霊魂の不滅性の論理的証拠の一つです。

別な証拠もあります。この肉体は弱くなったり、重くなったり、病気になったり、また健康になったりします。疲れたり、休息したり、ある時には手や足が切断されたり、あるいはその肉体的力が麻痺させられます。目の見えぬ人、おし、耳の聞こえぬ人になったり、手足が麻痺するかも知れません。つまり肉体はあらゆる不完全さを持つ可能性があります。それにもかかわらず、精神はその本来の状態とそれ自身の精神的知覚において永遠です。精神は不完全な状態にもならず、不具にもなりません。しかし、肉体が病気や不幸ですっかりうちのめされると、肉体は精神の恩恵を奪われます。ちょうど鏡がこわされたり、汚れ、ほこりだらけになると太陽の光線を反射することもできなくなるし、太陽の恩恵を示さなくなるのと同じことです。

人間の精神は肉体の状態である入場とか退場とかいうことから解放され、聖別されているので、肉体の中にあるのではないことをすでに説明しました。精神と肉体の関係は太陽と鏡の関係と同じです。簡単に言えば、人間の精神は一つの状態にあります。それは肉体の病気によって病気になるものではなく、肉体の健康によっていやされるものでもありません。それは病気にもならず、弱くもならず、みじめにもならず、貧しくもならず、軽くもならず、小さくもなりません。1それは肉体の虚弱さゆえに傷ついたりすることもなく、肉体が弱くなっても、手足や舌が切断されても、聴力や視力を失っても、精神には何の影響もないでしょう。ですから、精神は肉体とは別のものであり、その存続期間は肉体の存続期間とは無関係であり、反対に精神は肉体の世界をこの上もない力強さをもって支配しており、その力と影響は鏡の中の太陽の恩恵のようにはっきり目に見えるということは明らかで確かなことです。しかし鏡がほこりにまみれたり、こわれたりすれば太陽の光線を反映しなくなるでしょう。

 

 

六十二、完成には限りがない

 

存在の状態は、しもべの状態、予言者の状態、神の状態の三つに限定されますが、神聖なものと依存しているものの完成には限りがありません。深く考えれば、外面的にも存在の完成もまた限りがないことに気がつきます。なぜなら、ひとは完全なものを見つけても、もっと優れたものを想像しないではいられません。たとえば鉱物界のルビー、植物界のバラ、動物界の夜啼鳥を見ても、必ずもっと良いものがあるかもしれないと想像します。神の恩恵が限りないものであるように、人間の完成もまた限りありません。もし完成の限界に到達できるとすれば、存在する実体のうち、ある一つのものは、神より独立したものの状態に到達し、依存するものが、絶対の状態に到達することになってしまいます。しかしあらゆる存在物には乗り越えることのできない一点があります。−つまり、しもべの状態にある人は限りない完成を得られるように、どれほど進歩したとしても、神の状態に到達することは絶対にありません。その他の存在物についても同じです。鉱物は鉱物界でいかに進歩したとしても、植物の力を得ることはできません。花が植物界でどんなに進歩したとしても、感覚力は花の中に現われないでしょう。ですから、この銀の鉱物も聴力や視力を得ることはできません。それはその状態の中でのみ、良くなり完全な鉱物になるばかりです。成長力、感覚力を得たり、生命に到達することはできません。ただそれ自身の状態の中でのみ進歩するばかりです。

例えば、ペテロはキリストになることはできません。彼のできることは、しもべの状態の中で限りない美徳に到達することのみです。なぜなら、あらゆる存在の実体は進歩することができるからです。人間の精神がこの肉体的形を離れて後に、永遠の命があるように、確かにあらゆる存在物は進歩することができます。ですから人の死後、進歩、寛恕、慈悲、恩恵、祝福を求めることが許されています。存在するものは、進歩できるからです。バハオラの祈りの中で死者の為に罪の寛恕と許しが求められているのは、こういう理由からです。さらに言うならば、人々がこの世において神を必要としているように、来世においてもまた神を必要とするでしょう創造物は常に神を必要としています。そして神はこの世においても、来世においても、完全に独立しています。

来世の富は、神に近くにあることです。したがって、神の宮廷近くにいる者たちは、とりなしをすることを許されています。そして神はこのとりなしを承認していることは確かです。しかし来世でのとりなしはこの世におけるとりなしとはちがいます。それは別のものであり、異なった実体であり、言葉で現わすことはできません。

もしも富める人が死ぬとき、貧しく不幸な人たちに贈り物をし、財産の一部を彼らの為に使

われるようにするならば、多分、こうした行為は、許しと寛恕のもとになり、神の王国での彼の進歩のもとになるでしょう。

また、父や母は子供たちの為に非常な苦労、困難を耐え忍びます。そして多くの場合、子供たちが成熟の年代に達すると両親はあの世へ行きます。父や母が現世において、子供たちの為に受けた苦労、苦難の報酬をうけることはめったにありません。ですから、子供たちはこの世話や苦労のお返しとして、両親の為に、慈善と善行を示し、許しと寛恕を懇願しなくてはなりません。父が示した愛と親切に対するお礼に、父のために貧しい人々に与え、大きな服従心とけんそんな心をもって罪の許しと寛恕を懇願し、至高の慈悲を求めなければなりません。

罪深く、無信仰のまま死んだ人の状態が変化することも可能です。ーつまり彼らも、神の正義によってではなく、神の恩恵によって許しの対象となり得ます。―恩恵はそれを受ける価値のないものにも与えることであり、正義は受ける価値あるものに与えることだからです。私たちはここで、こうした人たちの為に祈る力を持つように、神の王国であるあの世でも同じ力を持つでしょう。あの世の人々も神の創造物ではありませんか。ですからあの世でも彼らは進歩できます。この世においても切に祈ることによって光を得られるように、あの世でも人々は許しを乞い願い、切に祈り求めることによって光を受けることができます。そういう風に、現世の人々は切なる祈りや嘆願の助けと聖なる者の祈りの助けによって進歩することが可能であり、死後においても同様です。自分自身の祈りや嘆願によっても進歩できます。まして聖なる顕示者のとりなしの対象となったときは格別です。

 

 

六十三、来世における人間の進歩

 

存在するもので静止の状態にとどまるものは何一つないことを知りなさい。―すなわち万物は運動しています。すべてのものは成長するか衰えるかのどちらかです。万物は無(不在)から有(存在)へ向うか、有から無へ向っています。ですから、この花、このヒヤシンスはある期間、無の世界から、有の世界へやって来て、今、有から無に向っています。この運動の状態は必然のものーつまり、自然であると言われます。それは、存在するものから引き離すことはできません。ちょうど燃えることが火の本質的必要条件であるように、それは、存在するものの欠くことのできない必要条件だからです。

そういう風に、成長するにしろ衰えるにしろ、この運動は、存在に必然的に起ることは、既定のことです。さて、精神は死後も存続しますからそれは必然的に成長するか衰えるかです。来世においては成長がとまることは、衰えることと同じです。しかし、それはそれ自身の状態から決して離れず、その状態の中で発達し続けます。例えば、ペトロの精神の本質はそれがいかに進歩しても、キリストの本質の状態には到達しないでしょう。それはペテロ自身の環境の中でのみ進歩します。

この鉱物を見て下さい。これがいかに進化しようとも、それ自身の状態の中で進化するのみです。水晶を、視力を持つ状態にまで持ってくることはできません。それは不可能です。ですから、天にある月がどれほど進化しても輝く太陽にはなれません。が、月自身の状態には遠地

点と近地点があります。弟子たちがいかに進歩しても絶対にキリストになることはできません。なるほど石炭はダイヤモンドになれます。しかし両方とも鉱物の状態にあり、その構成元素は同じです。

 

 

六十四、人間の地位と死後の進歩

 

本質を見抜く目をもって存在物を考えると、それらは三種類に限られていることがわかります。―すなわち、全体としてそれらは、鉱物か植物か動物のいずれかです。その三種類のそれぞれに種があります。人間は最高の種です。なぜなら人間はその三種の完全性の所有者からです。―つまり、人間は成長し、ものを感じる肉体を持っています。鉱物の完全性、植物の完全性、動物の完全性ばかりでなく、他の存在物にはない特別の優れたものーつまり、知的完全性も持っています。ですから人間は存在物のうちで最も高貴なものです。

人間は最高の物質段階にあり、精神性の始まりにありますーすなわち、人間は不完全さの終わりにあり、完全さの始まりにあるのです。人間は暗黒の最後の段階にあり、光明の始まりにあります。それゆえ人間の状態は、夜の終わりであり、昼の始まりであると言われているのです。つまり、人間はあらゆる不完全なものを合計したものであり、完全性のさまざまな度合を持っているということです。人間は天使のような面を持つと同時に、動物的な面を持っています。教育者の目的は、人間の魂を、天使の面が動物的な面に打ち勝つように教育することにあります。そこで人間の中にある人間の本質的完全さである神性の力が、絶対的不完全さである悪魔の力に打ち勝つならば、人間はすべての創造物の中で最も優れたものとなります。しかし悪魔の力が、神性の力を圧倒するなら創造物の中の最低のものとなります。そういうわけから人間は不完全さの終わりであり、完全さの始まりにあるといわれるのです。存在の世界のどの種をみても、人間の種ほどにそうした相違、対照、矛盾、対立があるものはありません。そのように、人間にはキリストにおけるごとくに、「神の光」が反映していました。人間は何と深く愛され、大きな名誉を与えられていることか理解して下さい。同時に石や土くれ、あるいは、樹木を礼拝する人を見かけます。その礼拝の対象といえば、最低の存在物―つまり、石や粘土、精神のない山や森や木といったものであるとは何と情けないことでしょう。人間にとって最低の存在物を礼拝すること以上の恥があるでしょうか。同じように、知識は人間の特性であり、無知もまたそうです。正直は人間の特性であり、嘘をつくこともまたそうです。信頼と不信、正義と不正、等は人間の特性です。簡単に言えば、あらゆる完全性と徳、あらゆる悪徳は人間の特性です。

個々の人間の相違も同じように考えてごらんなさい。キリストは人間の姿をしていました。

カヤパ(訳注ユダヤの大祭司で昔リストの死刑を判決した。)も人間の姿をしていました。モーゼとファラオ、アベルとカイン、バハオラとヤーヤも人間でした。

人間は、神の代表の最大のものであると言われます。人間は「神の創造の書」です。なぜなら存在物のすべての神秘は人間の中にあるからです。もし人間が「真の教育者」の下に来て、正しく教育されるなら、人間は本質中の本質、光の中の光、精神の中の精神となり神の顕われる中心、精神的特質の根源、天なる光の昇るところ、神性の霊感の貯蔵所となります。もしこの教育を受けなければ悪魔的特性のあらわれ、動物的悪徳の総計、あらゆる暗黒の状態の根源となるでしょう。

予言者の使命の根拠は、人間を教育することです。その結果、この石炭の魂はダイヤモンドなり、この実のならない木はつぎ木され、この上もなく甘く、おいしい実をつけるようになります。人間が人間世界で最も高貴な地位に到達すれば、地位は変わらずに、完全性の状態の中でさらに進歩することができます。なぜならそのような地位は限られており、神性の完全性は無限だからです。

この物質からできている形を離れる以前も以後も、地位は変わらずに、完全性の中での進歩があります。ですから存在物は完全な人間において完成します。完全な人間より高い存在はありません。しかし人間はこの地位に達したのちも、地位があがることはないが、完全性の中でなお進歩することができます。なぜなら、完全な人間がみずからを移行させることのできるより高い地位はないからです。人間は人間の地位の中で進歩するのみです。人間の美徳は無限だからです。そういうわけで、ある人がどんなに学問があったとしても、それ以上に学問のある人を想像できるのです。

ですから、人間の美徳が無限であるように、人間はこの世を去ってからも美徳の中で進歩することができるのです。

 

六十五、キタビ・アクダスの一節についての説明

 

質問 キタビ・アクダスに述べられている一節「…彼はあらゆる善行の主であるとは言えどもそれ(神の知識)を奪われている者は、誰でも皆道をはずれている。」この意味するものは

何ですか。

答 この聖なる一節は、成功と救いの基礎は神を知ることであり、神を知る結果として善行がなされ、善行は信仰の果実であることを意味しています。もし人問がこの知識を持たなければ、彼は神から引き離されるでいよう。そしてこの隔離が存在するなら、善行は完全な効果をもたらしません。この一節は神から離れている人々は善行をなしても悪行をなしても同じであるということを意味しているのではありません。それは単に、根本は神を知ること、そして善行はこの知識から生じることを意味しているのです。それにもかかわらず、ヴェールで神からおおい隠されている善人、罪人、悪人の間には、相違のあることは確かです。神からおおい隠された者でも善い信条と性格を持つ者は、神の許しに価するからです。一方、罪人で悪い性質と性格を持つ者は、神の恩恵と祝福を奪われます。ここに違いがあるのです。ですから、この聖なる一節は、神の知識がなく、善行だけでは永遠の救い、不滅の成功、繁栄をもたらし得ず、神の王国へ入ることはできないということを意味しているのです。

 

 

六十六、肉体の死後における理性的魂の存在

 

質問 肉体が捨てられ、精神が自由を得たのち、理性的魂はどのように存在するのでしょうか。仮に精霊の恩恵によって援助された魂は真の存在、永遠の命に到達するものとしておきましょう。そうであれば、理性的魂―つまり、べールでおおい隠された(信仰心のない)精神@はどうなるのでしょうか。

答 ある人たちは、肉体は物質であってそれ自身によって存在しており、精神は偶発的なものであり、肉体の物質に依存すると考えています。実際はこれとは反対に、理性的魂が本質であり、肉体はそれに依存しているのです。もし偶発的なもの―つまり肉体―が滅ぼされても、本質である精神は存続します。

第二に人間精神を意味する理性的魂は、肉体に降りてくるのではありません。―つまり、精神は肉体に入るのでもありません。降下したり、入ったりすることは肉体の特徴であり、理性的魂には、こうしたことはないからです。精神は決して肉体に入ったのではありません。ですから肉体が失くなっても、居場所を必要としないでしょう。逆に、この光がこの鏡につながっているように、精神は肉体につながっているのです。鏡が澄んで完全であれば、ランプの光は鏡の中にはっきり見えるでしょう。鏡がほこりだらけになったり、こわされたりすれば、光は消え失せるでしょう。

理性的魂―つまり人間精神―は、この肉体に入ったのでもなければ、肉体によって存在するのでもありません。ですから、肉体の組成が分解したのちも、精神が存在するための実体を必要とすることなど、どうしてあり得るでしょうか。逆に、理性的魂は、肉体が存在するために依存する実体です。理性的魂の個性は、始めから存在するのであって、肉体の媒介によるのではありません。しかし理性的魂の地位や個性は、この世において強化され得ます。それは進歩し、完成の段階に到達することもできるし、あるいは、無知の深淵に沈み、ヴェールをかけられ神の徴を見ることができなくされることもあり得ます。

質問 理性的魂である人間の精神は、この死を免がれない世界を去ってから、どんな手段によって進歩するのでしょうか。

答 人間の精神が塵の肉体との結合から分離したのちに、神の世界で進歩するには、主の恩恵と恩寵のみによるか、あるいは他の人のとりなしや誠実な祈りによるか、あるいは、その人の名のもとに行なわれる慈善や、重要な善行によるのです。

 

「子供の不滅性」

質間 分別のできる年令に達する以前や、出生予定日前に死ぬ子供の状態はどのようなのですか。

答 こうした幼児は、神の恩恵の保護のもとにあります。彼らは、何の罪も犯さず、自然界の不浄さにも汚されていないので、恩恵の顕現の中心となり、神のあわれみの目は、彼らの上にそそがれるでしょう。

 

 

六十七、永遠の命と神の王国への入場

 

あなたは永遠の命と神の王国への入場について質問されました。神の王国に対して使われる外面的表現は天国です。しかしこれは、たとえであり、似たものであって、真実でも事実でもありません。なぜなら神の国は物質的な場所ではなく時間と空間から聖別されているからです。それは精神的世界であり、神の世界であり、神の統治の中心です。それは肉体や形のあるものから解放されており、人間世界の想像から浄化され、聖別されています。場所が限定されることは、肉体の特性であり、精神の特性ではありません。場所と時間は肉体を取りまいていますが、心意と精神を取りまいてはいません。人間の肉体は小さな場所にとじこめられていることに気づいてください。それは地上のほんのたたみ一枚(2u)をおおうばかりです。しかし、人間の精神と心意は、あらゆる国や地域へ旅します。−天界の限りない空間を通りぬけても行へきます。−存在するすべてのものを取りまき至高の領域と無限のかなたで、さまざまな発見をします。精神は場所を持たないからです。精神には場所がありません。精神にとっては、地上も天国も一つです。精神は、その両方において、さまざまな発見をするからです。しかし肉体は場所に縛られており、肉体を超えているものを理解しません。

命には二種類あるからです。肉体の命と精神の命です。肉体の命は物質的な命です。しかし精神の命は、神の王国の存在を表わしており、神の精神を受信し、聖霊の息吹きによって活気づけられることもあります。物質的な命は存在していますが、神聖な聖者からみれば、完全な無であり、絶対的死です。同様に、人間が存在し、この石も存在しています。しかし、人間の存在と石の存在との間には何と大きな隔たりのあることでしょう。石は存在していますが、人間の存在に比べれば石は存在しません。

永遠の命は聖霊の贈り物であることを意味しています。ちょうど、花が季節の贈り物や空気や春のそよ風を受け取るように。考えてごらんなさい。この花は、始め鉱物の命のような命を持っていました。しかし春の季節の到来、春の雲の恩恵や輝く太陽の熱の到来によって、それは、この上もなく新鮮で、優雅で芳わしい全く違った命に到達します。この花の始めの命は第二の命からみれば死です。

このことは、神の王国の命は、精神の命であり、永遠の命であること、また、人間の精神が場所を持たないと同じように、それは場所から浄化されています。人間の肉体を調べてみても、精神のとどまる特別な場所や部分を見い出せないでしょう。精神には決して場所がありません。それは非物質的なものです。精神は、この鏡と太陽の関係のような肉体とのつながりを持っているのです。太陽は鏡の中にはありません。しかし、それは鏡とのつながりを持っています。

同じように、神の王国の世界は、目やその他の感覚-聴覚、嗅覚、味覚、触覚によって知覚されるあらゆるものから聖別されています。人間の中にある心意、その存在は認識されますが、―それは一体人間のどこにあるのですか。目や耳、あるいは、他の感覚を使って肉体を調べてみても、見つからないでしょう。それにもかかわらず心意は存在します。ですから心意には場所がありません。しかし脳につながっています。神の国もまたこれと同じです。同じように愛には場所がありません。しかし心とつながっています。そのように神の国には場所がありませんが人間とつながっています。

神の王国への入場は神の愛を通して、世俗を離れ、神聖と貞節、誠実、純潔の徳をなし、不動の信仰心を持ち命を犠牲にすることによります。

これらの説明は、人間が不死であり、永遠に生きるものであることを示しています。神を信じ、神を愛し、信仰を持つ人々にとって、命はすばらしいものです。つまり、それは永遠です。しかし、神からヴェールでおおいかくされている人々にとっては命があるとはいえ、それは暗く、信仰を持つ人の命に比べれば無です。

たとえば、目も爪も生きています。しかし爪の命は、目の命に比べれば無です。この石も、この人間もともに存在しています。しかし、石は人間の存在に比べれば無です。それは命がありません。なぜなら人間が死んで肉体が滅びると、それは石や土のようになります。ですから鉱物は存在しますが、人間に比べれば存在しません。

同じように神からヴエールでおおわれている人々は、この世と死後の世界で存在するとはいえ、神の王国の子供の聖なる存在に比べれば無であり、神から引き離されています。

 

 

六十八、運命

 

質問 聖典の中で述べられている運命とは、定められたものでしょうか?

もし、そうであるならば、それを避けようとする努力は無駄なのではないですか。

答 運命には二種類あります。一つは定められたものであり、もう一つは、条件つきであり、

今すぐにでも起り得るものです。定められた運命は変化したり、変更されたりするものではなく、条件つきの運命は起るかもしれないものです。そこで、このランプについて言えば、定められた運命は油が燃え尽されてしまうということです。ですから、火が結局消えてしまうということは、定められた運命なのですから、変更したり、変化させたりすることのできないさだめです。

人間の肉体の中の力が創り出され、それがこわされ、終わりになると、肉体は確かに分解されます。そのように、このランプの中の油が燃え尽されてしまうと、ランプは疑いもなく消えてしまうでしょう。

しかし、条件付きの運命は、このように、たとえることができます。まだ油があるとき激しい風がランプに当り、それを消してしまうというようなことです。これが条件つきの運命です。それを避け、それから自分を守り、用心深く慎重であることは賢明なことです。しかし定められた運命は、ランプの中の油を使い果たしてしまうようなもので、変更されたり変化させられたり、遅らせたりすることはできません。それは必ず起ります。ランプが消えてしまうことは避けられることではありません。

 

 

 

六十九、星の影響

 

質問天の星は、人間の魂に何か影響を及ぼすのでしょうか。それとも及ぼさないのでしょ

うか。

答 天にある星のあるものは、地球と地球上の存在物に、はっきりとした物質的影響を及ぼしており、説明する必要はありません。太陽を考えてごらんなさい。太陽は神の摂理と援助によって、地球や地球のあらゆる存在物を発達させています。太陽の光と熱がなければ、地球のあらゆる創造物は全く存在しないでしょう。

星の精神的影響について言えば、人間世界に星の影響があると言えば奇妙に思えるかもしれません。ですが、この問題について深く考えてみれば、それほど驚かれないでしょう。しかし、私の言いたいことは、昔の星占い師が星の運動から推論した宣言が実際に起ったということではありません。なぜなら、そうした昔の星占い師たちの宣言は、エジプト、アッシリア、カルディアの僧侶たちによって始められた想像の形式でした。と言うよりは、ヒンズー人の空想やギリシア人、ローマ人やその他星を礼拝する人たちの神話によるものでした。しかし、この無限の宇宙は人間の体のようなものであり、体の各部は相互に大きな力によって結びつけられ、つながりあっているということを言いたいのです。人間の体の器官や手足その他の部分は、相互に助け合うために、どれほどしっかりと混り合い、つながりあい、いかに互いに影響しあっていることでしょう!同じように、この無限の宇宙の各部も、その部分や要素を互いに結び

つけ、精神的にも物質的にも影響しあっています。

たとえば、目がものを見ます。すると体全体が影響を受けます。耳が聴きます。すると体中の部分が感動します。このことについては、疑問の余地はありません。そして宇宙は生きている人間のようなものです。さらに言うならば、存在物間にあるつながりは、必然的に、物質的にせよ、精神的にせよ、影響や印象を及ぼしあいます。

物質的なものに及ぼす精神的影響を否定する人たちには、こんな簡単な実例をあげてみましょう。すばらしい音や調子、メロディーや魅力的な声は空気に影響を及ぼす出来事です。1音は空気の振動を表わすことばだからです。―この振動によって耳の鼓膜の神経は影響をうけ、聴くことが起ります。

さて、ここで何でもない出来ごとである空気の振動が人間の精神をひきつけ、うきうきさせ、大きな影響を及ぼすことを考えて下さい。それは、彼を泣かせたり、笑わせたりします。もしかしたら、自らを危険にさらすほどに影響するかもしれません。

人間の精神と大気の振動の間にあるつながりを理解してください。そこで空気の運動は人間を一つの状態から別の状態へ動かし、完全に圧倒して、忍耐と平静さを奪ってしまいます。何と不思議なことでしょう。歌手から聴く人に入ってくるものはありません。それにもかかわらず、大きな精神的影響を及ぼし合う大きなつながりのあることは確かです。

人間の器官や部分は互いに影響しあうことを述べてきました。たとえぱ、目がものを見ると、心が影響されます。耳が聴くと精神が影響されます。心から安らいでいれば、思考は静かになり、体全体に楽しい状態が感じられます。これは何とすばらしい結びつき、何とすばらしい呼応、一致でしょう!

無数にある有限の存在物のほんの一つのものに過ぎない人間の体の各部分の間には、このつながり、この精神的効果、この影響力があるのですから、ましてやこの宇宙普遍の無限の存在物の間にも、精神的、物質的なつながりのあることは確かです。現存の法則や現在の科学では、こうしたつながりは発見できませんが、あらゆる存在物、の間には、そうしたつながりのあることは確かであり、絶対的なことです。

結論を申します。万物は大きなものも小さなものも、神の完全な英知によって互いにつながり合い、相互に影響を及ぼしあっています。そうでないとすればこの宇宙の体系と存在物の全体の配置には、混乱と不完全さがあることになります。しかし存在物は、大きな力によってお互いにつながり合っているのですから、万物は、それぞれの場所にあって秩序を保ち、しかも完全なのです。

この間題は、吟味する価値があります。

 

 

七十、自由意思

 

質問 人間はあらゆる行為において自由に行動するのでしょうか。それとも強制されたり束縛されたりしているのですか。

答 この間題は神に関する問題の中で、最も重要で難解な問題です。もし神が望まれるならば、別の日に食事の始めにこの間題について、詳しく説明したいと思います。ですが今簡単に説明いたしましょう。ある事柄は人間の自由意志でどうにでもなります。たとえぱ、正義、公正、残虐と不正、言いかえれば善行と悪行です。これらの行為は、大部分、人間の意のままにできることは明らかです。しかし、人間が強制され、服従させられている事があります。たとえば、睡眠・死・病気・力の衰え・けが・不幸といったものです。これらは人間の意のままにならず、人間の責任ではありません。なぜなら人間はそれらを耐え忍ぶようにしいられているからです。しかし善い行いをするか、悪い行いをするかを選ぶ上では、人間は自由です。人間は自分自身の意志によってそれらをするのです。

たとえば人間は、自分が望むなら、神を賛美することに時間を費すこともできるし、あるいはほかの考えに没頭することもできます。神への愛の火によって燃えたたせられた光になることもできれば、世界を愛する博愛主義者になることもできます。あるいは人類を憎悪し、物質的なものに夢中になることもできます。正しい者にもなれれば、残酷な者にもなれます。これらの行動・行為は、人間自身の意志の制御の支配下にあり、したがって人間に責任があります。

ここで別の問題が生じます。力は特に神に属するものですから、人間は絶対的に無力であり、依存しているものです。最高の名誉も屈辱も共に「最も高遠なるお方」の善意と意志によっているのです。

神は、一つの容器を名誉あるものに作り、他の容器を不名誉なものに作る陶工のようなものであると、新約聖書に述べられています。さて、不名誉な容器は、陶工の過失を見つけて「なぜあなたは私を人の手から手へと持てはやされる貴重なカップに作らなかったのか。」という権利はありません。この一節の意味は存在物の地位はそれぞれ異なっているということです。鉱物のような、存在の一番低い地位にあるものは、「神よ、あなたはなぜ私に植物の完全性をお与えにならなかったのですか。」と不平をいう権利はありません。同じように植物は、動物世界の完全性を奪われていることについて不平をいう権利はありません。また動物が人間の完全性がないといって、不平を言うこともふさわしくありません。そうではなく、これらのあらゆるものは、それ自身の段階において完全であり、それぞれの段階の完全性を得るように努力しなければなりません。すでに述べたように、劣っているものは、優位のものの完全性の地位になる権利もなく適性もありません。いいえ、それらの進歩は、それら自身の地位の中でなされなければなりません。

人間の不活動、怠惰あるいは運動もまた、神の援助に依存しています。もしも神によって援助されていなければ、人間は善も悪も成すことはできません。しかし「寛大なる主」から存在の援助が来れば、人間は善でも悪でもなすことができます。しかし、援助がなくなると人間は完全に無力になります。いろいろな聖典に、神の援助について述べられているのはこうした理由からです。この状態は、風や蒸気の力で動かされる船の状態に似ています。もしこの力がなくなれば、船は全然動けません。それにもかかわらず、船のかじは船をどの方向へも向け、蒸気の力は船を望む方向へと動かします。もし東へ向けられれば東へ進み、西へ向けられれば、西へ進みます。この運動は、船から生み出されるのではなく風や蒸気から生み出されるのです。

同じように、人間はあらゆる活動、あるいは不活動において、神の援助による力を受けています。しかし善悪の選択は、人間自身に属しています。そこである王がある者をある都市の長官に任命し、権力を授け、法律によって正義と不正の道を示したとすると−この長官が不正を犯す時には、王は不正の責めを負いません。しかし彼が正義をもって行動する場合にも、また王の権威によってするでしょう。この場合王は喜び、満足するでしょう。すなわち善悪の選択は人間に属していますが、どのような状況の下にあっても、人間は「全能なるお方」から生まれ出る生命を持続させる援助に依存しています。

神の国は誠に偉大であり、万物は神の偉方の掌中に捕らわれています。しもべは、自分自身の意志で何一つすることはできません。神は力にあふれ、全能であり、万物の救助者です。

この質問は明確に説明されました。ではごきげんよう。

 

 

七十一、幻と霊の交わり

 

質間 一部の人々は、自分たちは精神的な発見を達成すると信じています。つまり、彼らは霊と語り合うということです。これはどのような交わりなのですか。

答 精神的な発見には二種類あります。一つは想像によるもので、ごく少数の人々の言い分にすぎません。もう一つは霊感に似ており、これは真実です。-例えば、イザヤ、エレミア、ヨハネの啓示のようなもので、これらは真実です。

人間の思考力には二種類あることを考えてください。一つはそれが、決定的真理に一致するとき真実です。そうした概念は外の世界で実現します。たとえば、正確な意見、正しい理論、科学的発見、発明といったようなものです。

概念のもう一つは、実も結ばず、結果も生じない空しい思考や役に立たない観念から作られるものであって、現実性はありません。それは想像の海の波のように押し寄せてくるのですが、はかない夢のように消え失せます。

同じように精神的発見にも二種類あります。一つは予言者たちの啓示であり、選ばれた者たちの精神的発見です。予言者たちの幻は夢ではありません。いいえ、それらは精神的発見であって現実性があります。たとえば彼らは言います。「私はある人がある形をしているのを見た、そして私はあることを言い、彼はそのように答えた。」この幻は目ざめている世界のものであり、眠っている世界のものでありません。いいえ、それはあたかも幻の出現であるかのように表現された精神的発見です。

精神的発見のもう一つは、純粋な想像から作られています。しかしこうした想像は、多くの単純な心を持った人々が現実性があると信じるからこそ具体化するのです。このことは、そのような精神のコントロールからは、いかなる結果も果実も、これまで生み出されて来なかったことによって、はっきり証明されます。いいえ、それらは、たんなる物語にすぎません。

人間の本質は万物の実体を包み込み、万物の真理・特質・秘密を発見するものであることを知りなさい。あらゆる芸術・奇跡・学問・科.学・知識は、人間の本質によって発見されました。かつてこれらの学問・知識・奇跡・芸術はかくされた秘密でした。それからしだいに人間の本質がそれらを発見し、目に見えない世界から目に見える世界へもたらしました。ですから人間の本質は万物を包み込むことは明らかです。そういうふうに、精神的発見はヨーロッパにあってアメリカを発見しました。それは地上にあって、天界の発見をします。それはものごとの秘密を見い出し、存在するものの本質を知ります。真実に一致しているこれらの発見は、精神的理解、神聖な霊感、人間精神の交際である啓示に似ています。たとえば予言者は言います。

「わたしはそのようなことを見た、言った、聞いた。」ですから精神は目や耳のような五感の媒介なしに、大きな知覚力を持っていることがはっきりします。精神的な人々の間には、精神的な理解や発見、想像や空想から浄化された心のつながり、時間や場所から聖別された交際があります。福音書に、タボル山上で、モーゼとエリアがキリストの許にやって来たことが書かれていますが、これは物質的会合でなかったことは明かです。それは肉体的な会合として表現された精神的状態でした。

もう一つの精神の会話・存在・交わりは、想像と空想にすぎないものであり、実在性を持つものと思われるにすぎないものです。

人間の心意と思考は、時々真理を発見し、この思考と発見から徴や結果が生み出されます。

この思考には基礎があります。しかし想像の海の波のように、人間の心意に浮かんでくる多くの事は、そこから果実も結果も生まれて来ません。同じように人問は、眠りの世界で必ず実現する幻を見ます。またある時には、絶対に実現しない夢を見ます。私の言いたいことは、いわゆる精神の対談・交わりという状態には二種類あるということです。一つは単なる想像であり、もう一つはヨハネやイザヤの啓示、キリストのモーゼとエリヤとの会談といった、聖書に述べられている幻のようなものです。これは真実のものであり、人間の心意や思想に驚くべき影響を与え、人間の心をひきつけるものです。

 

 

七十二、精神的方法による治療

 

質問 ある人々は病気を精神的方法−つまり薬なしで治療します。これをどう思われますか。

答 薬によらない治療・治癒には四種類あることを知りなさい。二つは物質的方法により、

他の二つは精神的方法によって治療します。

二つの物質的治療のうちの一つは、人間においては健康と病気はともに伝染するという事実によります。病気の伝染は猛烈で急速ですが、健康の伝染は極めて弱くゆっくりしています。もしも二つの肉体が接触するならば、微生物的粒子は一方から他方へ移行することは確かです。病気が一つの肉体から他の肉体へと急速で強烈な伝染力をもって移行するのと同じように、健康な人間の強力な健康は、病人の病気をごくわずか軽減するでしょう。つまり病気の伝染は、猛烈で急激な影響を与えます。一方、健康の伝染は非常にゆっくりしており、小さな影響しかありません。しかも、それがこうしたわずかな効果を及ぼせるのは非常に軽い病気のみです。健康なからだの強力な力は、病気のからだの軽いひ弱さを克服することができ、健康がもたらされます。これは治療の一種です。

薬を使わない治療のもう一つは、一つの肉体から他の肉体へ働きかけ、治癒のもとになる磁力によります。この力もまたほんのわずかな効果しかありません。時に自分の手を病人の頭や心臓の上におくことによって、病人の役に立てる人がいます。なぜか。磁力の効果と病人に及ぼされる精神的感銘の効果のために、それが病気を消滅させるもとになります。しかし、この効果もまたわずかであり、弱いものです。

残りあと二つの治療法は、精神的なもので−つまりそこでは治癒の手段は精神的な力です。−その一つは、強健な人の心意が病人に完全に集中することによって生じます。その時病人はその強健な人の精神的力によって治癒がもたらされるという強い集中した信念を持つので、強健な人と病人の間には、心暖まるつながりができます。強健な人は病人を治療するためにあらゆる努力をし、そして病人はたしかに直ると確信します。これらの精神的感動の結果、神経の興奮が生み出され、この感動、この神経の興奮が病人の回復のもとになります。ですから、病人があることに強烈な欲望と強い希望をもっており、それが突然実現されるという吉報を聞くと、神経の興奮が生み出され、それは完全に病気を消してしまうでしょう。同じように、もし恐怖の原因が突然起ると、強健な人の神経にもある興奮が起こり、それが直接病気の原因となります。その病気の原因は物質的なものではありません。なぜならその人は、何か食べたのでもなければ、害を及ぼすものに触れたのでもないのですから。その場合、神経の興奮だけが、その病気の原因なのです。同じように、主だった望みが突然実現されると、それによって神経が興奮させられるほどの喜びがもたらされこの興奮が健康を生じます。

結論づけますと、その精神力を使う医師と病人の完全な関係−すなわち、その精神的な医師は完全に自分自身を集中し、病人の全注意力は、健康を実現してくれると期待しているその精神的な医師に払われる。―それが神経の興奮をもたらし、健康が生まれます。しかしすべてこうしたことは、ある程度の効果があるばかりで、いつもそうであるとは限りません。なぜならもし誰かが非常に重い病気に冒されたり、あるいは重傷をおった時には、これらの手段は病気をとり除いたり、傷口をとじ、癒すことはないでしょう。−つまりこうした手段には、体力の助けがなければ、重病を直す力はありません。というのは強健なからだはしばしば病気を克服するからです。これが第三の治療法です。

しかし第四の治療法は、聖霊の力によって生み出されます。この治療は接触したり、見たり、面接したりすることに依りません。どんな状態にも依存しません。病気が重かろうと軽かろうと、身体の接触があろうとなかろうと、病人と直す人の間に個人的関係が確立されていようといまいとかかわらず、この治療は聖霊の力によって起こります。

 

 

七十三、物質的手段による治療

 

昨日は食事の席で、治療上の手当と精神的力によって病気を扱う精神的治療について話しました。

さて、物質的治療についてお話しましょう。医学は今だに幼稚な状態にあり、成熟の域に達していません。しかしそれが成熟したならば、治療は人間の嗅覚や味覚を不快にしないものによってなされるでしょう。―つまり、人間の味覚や嗅覚に心地よい栄養物、果物、野菜によって。なぜなら、病気を起す原因(人間の体に病気が入りこむ原因)は肉体的なものか、神経の興奮の影響であるかのどちらかだからです。しかし病気の主な原因は肉体的なものです。なぜなら人間のからだは、無数の元素から構成されており、特別な均衡の中にあります。この均衡が保たれる限り、人間は病気から保護されています。しかし肉体のかなめであるこの基本的な均衡が乱されると、人体の秩序は乱れ、病気が次々と起ります。

たとえば、人体のある構成成分が減少し、あるものが増加すると、均衡の度合が乱れ、病気が起こります。たとえば、ある成分は千グラムの重さで、またあるものは五グラムでなくてはなりません。それによって均衡が保たれます。千グラムの部分が七百グラムに減少し、五グラムの部分が均衡の基準を乱すほどに増加すれば、病気が起ります。治療や処置によってその均衡が元に戻されれば、病気はなくなります。ですから、もし糖分が増加すれば、健康は損なわれます。そして医師が甘い澱粉質の食物を禁じ糖分が減れば、均衡が回復して、病気は追い払われます。さて人体のこうした構成成分の再調整は、二つの方法-薬によるか、栄養分によるか−によって達成されます。そして人体がその均衡を回復したなら病気はなくなります。人間のもっているあらゆる元素は植物にも存在します。ですから人間のからだを構成する成分の一つが減少するならば、その減少した構成成分をたくさん含む食物をとれば、均衡は回復し、治癒します。その目的が人体の構成成分の再調整であれば、薬によっても、食物によっても果されます。

人間をおそう病気の大部分は、動物もおそいます。しかし動物は薬によって治療されません。山々においても、荒野におけるように、動物の医師は味覚と嗅覚です。病気の動物は荒野に生育する植物の香りを嗅ぎます。そしてその嗅覚と味覚にとって甘くかぐわしい植物を食べ、治癒されます。動物の治癒のもとはこのようなものです。動物のからだの中で糖分が減少すれば、甘いものをほしがるようになります。それで甘い味のする草を食べます。なぜなら、自然が動物を促し、導き、その香りと味が彼を喜ばせ、動物はそれを食べます。そうしてこの動物の自然状態の糖分が増加し、健康が回復するのでしょう。

ですから、食物や栄養物や果実によって治療することは可能であることは明らかです。しかし、今日医学は不完全なので、この事実はまだ充分に理解されてはいません。医学が完成の域に達するならば、治療は食物や栄養物、芳しい果物や野菜、さらに低温や高温のさまざまな水によってなされるでしょう。

この話は簡単にしました。ですが神が望まれるなら、別の機会に適当なときに、この問題をもっと詳しく説明しましょう。

 

 

 

第五部 その他の問題

 

七十四、悪は存在しない

 

この問題の真の説明はきわめて困難です。万物には物質的なものと精神的なものと二種類あることを知りなさい。五感に知覚されるものと知的なものと。

 知覚されるものは外面的な五感によって感じられるもので、肉眼が見る外界の存在は知覚し得るものと言われます。知的なものは外面的には存在せず、心意の概念です。たとえぱ、心意それ自体、何ら外面的存在のない、知的なものです。人間のすべての特徴、特質は知的存在を形づくり、五感には感じられません。

簡単に言えば、人間のもつあらゆる特質や賞賛すべき美徳のような知的な実体は、全く善であり、悪はこの本質の不在によります。-つまり盲目は視覚の欠如であり、ろうは聴覚の欠如であり、貧困は富のないことであり、病気は健康の不足であり、弱さは強さの不足です。

ですが、ある疑問が心に生じます。―つまりさそりや蛇は有毒です。それらも存在してい

る以上、善でしょうか、悪でしょうか。そうです。さそりは人間との関係においては悪です。蛇も人間との関係においては悪です。しかしそれら自身に関しては悪ではありません。それらの毒は、彼らの武器であり、その毒牙で自分自身を守っているのですから。しかし、その毒の成分は私たちの成分と一致しません。−つまり異なった成分の間には対立があります。

それでこの対立が悪なのです。しかし実際には彼ら自身に関してはそれらは善です。

この話のあらましは、あるものが他のものとの関係において悪であっても、同時に、その固有な環境の限界内では悪ではないかもしれないということも可能であるということです。そこで存在には、悪がないということが証明されます。神は創造したすべてのものを善として創造されました。こうした悪とは、何もないことです。ですから、死は命のないことです。人間がもはや命を受けないようになると死にます。暗黒は光のないことであり、光のない所には暗黒があります。光は実在するものであり、暗黒は存在しません。富は実在するものであり、貧困は存在しません。

そこであらゆる悪は不在に戻ることが明らかになります。善は実在し、悪は存在しません。

 

 

七十五、二種類の苦痛

 

苦痛には、微妙な一の一激しいものと二種類あることを知りなさい。たとえば無知は、それ自身苦痛です。それは、微妙な苦痛です。神への無関心はそれ自身苦痛です

裏切りもそうです。らゆる不完全さは苦痛です。しかしそれらは微妙な苦痛です。知性のある人にとっては、罪を犯すよりは、死の方が良く、嘘をつくこと串傷よりは舌を切られる方が良いことは確かです。

もう一つの苦痛は激しいものです。―例えば、刑罰、投獄、殴打、追放、放逐といったようなものですしかし、神の人々にとっては神から離れていることが最大の苦痛です。

 

 

七十六、神の正義と慈悲

 

正義を行うことは・人それぞれにふさわしい賞罰に応じて与えることであることを理解しなさい。たとえば、労働者が朝から晩まで働くなら、彼には賃金が支払わなければならないということは、正義の要求するところです。しかし彼が何の仕事もせず、何の骨折りもしないのに、贈り物を与えられるならば、これは恵沢です。もしあなたが、貧しい人に施し物や贈物をするなら、しかも貧しい人があなたに何かしてくれたのでもなく、贈り物にふさわしいことをしたのでもなければ、これは恵沢です。ですから、キリストが自分を殺した者たちのために赦しを願ったこと、これは恵沢と言われます。

さて、物事が善であるか悪であるかの問題は、理性によるか、法律によって決定されます。

一部の人々は法律によって決められると信じています。たとえばユダヤ人のように、旧約聖書の五書のおきては、全部絶対的義務であると信じており、善悪の判断を、理性の問題ではなく、法律の問題であると見なしています。

そこで彼らは五書のおきての一つとして、肉とバターを一緒に摂ることは不法であるな、なぜならそれはタレフであるからだと言います。ヘブライ語でタレフは不潔を意味し、コーシャが清潔を意味するのと同じです。これは法律の問題であり、理性の問題ではないと彼らは言います。

しかし神学者たちは、ものごとの善悪は、理性と法律の両方によっていると考えています。殺人・窃盗・裏切り・偽り・偽善・残虐の禁止の主要な根拠は理性です。知性ある人の誰もが、それらは悪であり、非難すべきものと理解しています。なぜなら人をとげで刺せば、その人は泣き叫び、苦痛を訴え、うめくでしょう。ですからその人は、殺人は理性によれば悪であり、非難すべきものであることを理解することは明らかです。もし彼が殺人を犯すならば、たとえ予言者の名声が彼に届いていようといまいと、彼には責任があります。なぜならその行為を非難すべきものと考えるのは実に理性であるからです。人がこうした悪の行為を犯すならば、彼はまちがいなく非難されるべきです。

しかし予言者の命令が知られていないところや、悪に対して善を返せというキリストの命令のような、人々が神の教えに従って行動せずに、ただ自然の欲望のままに行動するところでは、―つまり彼らは苦痛を与えた者に苦痛を与える。―宗教の見地からすれば、赦されます。

なぜなら神の命令は今だ彼らに、届けられていないからです。彼らは慈悲や恩恵をうける価値はありませんが、それにもかかわらず、神は慈悲をもって扱い、彼らを赦すのです。

さて理性によれば、復讐もまた非難すべきものです。なぜなら復讐しても復讐するものには何の利益も得られないからです。ですからもし人が他の者をなぐり、なぐられた者がなぐり返して復讐するとして、何の利益を得るというのでしょう。このことは傷のぬり薬や苦痛の治療薬になるのでしょうか。いいえ、絶対にそうではありません。実際のところ、双方の行動は同じであり、双方とも侵害行為です。ただ違うのは、一つは先に起こり、他は後に起こったということです。ですからもしなぐられた者が赦し、いえ、彼がもし彼にされたこととは反対の態度をとるならば、これは賞賛すべきことです。共同体の法律は侵略者を罰するでしょうが、復讐はしないでしょう。この刑罰には、他の人々が残酷性を発輝しないように、残酷性と犯罪を警戒し、保護し、対抗する目的があるのです。

しかし、なぐられた者が赦すならば、彼は最大の慈悲を示しているのです。これこそ、賞賛に価します。

 

 

七十七、犯罪者の正しい取扱いかた

 

質問 犯罪者は罰せられるべきですか。あるいはゆるされ、罪は見過ごされるべきですか。

答 報復のための罰には二種類あります。一つは復讐であり、もう一つは懲罰です。人には復讐する権利はありません。しかし、共同体は犯罪者を罰する権利があります。そしてこの刑罰はほかの人々が同じ犯罪を犯すことのないように警戒し、阻止する意図があります。この刑罰は人権の保護のためであり、復讐ではありません。復讐とは一つの悪を他の悪に対抗させることによって復讐者の怒りをやわらげるものです。これは許されません。人間には復讐する権利はないからです。しかし、もし犯罪者が完全に許されるとしたら、世界の秩序はひっくり返ってしまうでしょう。      

ですから刑罰は共同体の安全のために基本酌に必要なものの一つです。しかし、犯罪人によって苦しめられた人には復讐する権利はありません。反対に彼は許すべきです。なぜなら、これこそ人間の世界にふさわしいことだからです。

社会は圧制者、殺人者、犯罪人を罰しなければなりません。それはほかの人が同じような罪を犯さないように警告し、抑制するためです。しかし、最も必要なことは、犯罪を犯さないように人々を教育することです。多くの人々に犯罪を犯すことを避け、しりごみするように教育する、また、犯罪それ自身が彼らにとって最大の懲罰であり、最高の非難に価し、最高の苦しみであると思われるほどに十分に教育することは可能だからです。そうなれば、懲罰を必要とする罪を犯すことはなくなるでしょう。

この世で、実行可能なことを話さなくてはなりません。この問題について数多くの理論や高遠な思想があります。しかし、それらは実用的ではありません。ですから、実行可能なことについて話さなければなりません。

たとえば、ある人がほかの人を抑圧し、危害を加え、虐待し、それに対して虐待された人が仕返しをする場合、これは復讐であり、非難すべきことです。もしアムルの息子がザイドの息子を殺しても、ザイドにはアムルの息子を殺す権利はありません。もし彼がそうするならば、これは復讐です。もしアムルがザイドの名誉を傷つけても、ザイドにはアムルの名誉を傷つける権利はありません。もし彼がそうするならば、これは復讐であり、極めて非難すべきことです。いいえ、むしろ彼は悪に対するに善をもって報いなくてはなりません。許すだけではなく、できれば加害者に対して奉仕しなければなりません。この行為こそ人間にふさわしいものです。復讐してもどんな利益が得られるのでしょう。二つの行為は同じことです。一方が非難すべきものであるならば、両方とも非難すべきものです。たった一つの違いは一つが先になされ、もう一つは後でなされたということだけです。

しかし、共同体は防衛、自己防護の権利を持っています。その上、共同体は、殺人者に対して憎しみも恨みも持っていません。ただほかの人々の保護と安全のために殺人者を牢に入れたり、罰したりするのです。それは殺人者に復讐するためではなく、罰を課すことによって社会を保護するためなのです。もし共同体や被害者の遺族たちが許し、悪に対して善をもって報いるならば、残酷な者は常に他人を虐待し続け、暗殺は絶え間なく起こるでしょう。悪徳の人々は狼のように神の羊たちを滅ぼすにちがいありません。共同体は罰を課すに当たって、悪意や憎悪があるのでもなければ被害者の心の怒りをやわらげようというつもりもありません。その目的は、罰することによってほかの人々を保護し、凶悪な行為が犯されないようにするためです。

そういうわけで、キリストが「汝 右の頬を打たれれば、左の頬も打たしめよ。」(マタイ539)と言ったのは、人々に個人的復讐をしないように教えるためでした。狼が羊の群れに飛びかかり、殺そうとする場合、狼はしようとしていることを奨励されるということをキリストは言おうとしたのではありません。いいえ、もし、キリストが、囲いに入れられた羊の群れに狼が入って、羊を殺そうとしていることを知っていたならば、キリストもそれを防禦したであろうということは確かなことです。

許すことは慈悲深きお方の属性の一つであるように、正義もまた「主」の属性の一つです。存在のテントは、正義の柱の上に支えられるものであり、許しの上に支えられるものではありません。人類の存続は正義によるのであり、許しによるのではありません。ですから、もし免赦の法律がすべての国で実行されるとすれば、ほどなく世界は混乱に陥り、人間生活の基礎は粉々にくだけてしまうでしょう。たとえば、もしヨーロッパの各政府があの悪名高いアッチラに抵抗しなかったならば、彼は一人の人間も生かしてはおかなかったに違いありません。

血に飢えた狼のような人がいます。もし、彼らが刑罰がないと知れば、単なる楽しみや気晴らしのために人を殺すでしよう。あるペルシャの暴君は、浮かれふざけて、ただおもして慰めのために家庭教師を殺しました。有名なペルシャの僧侶ムタワキルは、彼の大臣、顧問官、役人たちを自分の前に集め、その集団の中でさそりのたくさん入った箱を開け、誰も身動きすることを禁じました。さそりがそこにいる人たちに咬みついた時、彼はわれんばかりに爆笑したということです。

要するに、共同体の組織は正義に依存するものであって、許しに依存するものではありません。キリストが許しとして意味しているものは、他の国々が攻撃をしかけ、家を焼き、財産を略奪し、妻子や親類をおそい、名誉を侵害しても、こうした残忍な敵の前に屈服し、彼らは残虐と抑圧をほしいままにさせておかなければならないということではありません。そうではなく、キリストは二人の個人間の行為について言っているのです。もし一人が他におそいかかるならば、傷つけられた者は相手を許すべきであると言っているのです。しかし、共同体は人間の権利を保護しなくてはなりません。ですから、もし誰かが私をおそい、傷つけ、抑圧し、負傷させたとしても、私は何の抵抗もせずに彼を許すでしょう。しかし、もし誰かがサイドマンシャディ(同じテーブルについていたバハイ)をおそおうとするなら、私はきっと彼を阻止するでしょう。悪人にとっては、干渉されないことは明らかに親切ですが、これはマンシャデイにとっては抑圧になります。もし今、野蛮なアラブ人が引き抜いた刀を持って、あなたをおそい傷つけ、殺そうとするなら、私は絶対に彼を阻止するでしょう。もし私が、あなたがたをアラブ人のなすがままにさせれば、それは正義ではなく不正です。しかし、もし彼が私個人を傷つけるならば、私は彼を許すでしょう。

もう一つ言い残していることがあります。共同体は日夜、刑罰の法律を作成することや、刑罰の道具や方法を準備し組織することに専念しているということです。獄舎を建て、鎖や足かせを作り、追放、流刑の場所を手配し、さまざまな苦役、拷問を用意し、これらの手段によって罪人を罰することを考えています。ところが実際は道徳の破壊と人格の荒廃をもたらしているのです。共同体はこれとは反対に人問の教育の完成、人々が日毎に進歩し、科学や知識を増大させ、徳を高め、悪徳をさけて立派な徳を身につけさせるようにし、そうして犯罪が起こらないように最大限の熱意をもって日夜努力すべきです。現在はその反対のことが行き渡っています。共同体はいつも刑罪の法律を強化することを考え、懲罰の手段、死刑や懲罰の道具、投獄や追放の場所を用意することを考え、犯罪の起こることを期待しています。これは堕落させるもとです。

反対に、もし共同体が大衆を教育することに努力するならば、知識や学問は日に日に増大し、理解力は拡がり、感受性は発達し、風俗習慣は改良され、道徳は正常になるでしょう。ひとことで言えば、いろいろな美徳は進歩し、犯罪は少なくなるでしょう。

犯罪は非文明人より、文明人の方が少ないことが確かめられてきました。―つまり、真の

文明を獲得した人々の間では、ということです。その文明は神の文明であり、―あらゆる精神的、物質的美徳を兼ね備える人々の文明です。無知が犯罪の原因なのですから、知識や学問が増加すればするほど犯罪は少なくなります。アフリカの野蛮人の間では、どんなに多くの殺人がなされているか考えてごらんなさい。彼らはお互いの肉と血を食べるために殺し合うことさえします。ではなぜ、そうした野蛮な行為はスイスでは起こらないのでしょうか。その理由は明らかです。教育と美徳がそうした行為を防止しているのです。

ですから、共同体は、犯罪を厳しく罰することよりも防止することを考えなくてはなりません。

 

 

七十八、ストライキ

 

あなたはストライキについて質問されました。この問題は今も、この先も当分の間、非常に困難な問題です。ストライキは二つの原因によります。一つは企業家や資本家側の極端な貧欲、強欲であり、他方は労働者や職人の要求過多、貧欲、がんこさです。ですから、これら二つの原因を矯正することが必要です。

しかし、これらの困難の主な原因は、現代文明の法律にあります。なぜなら、法律はごく少数の個人に、比べものにならないような財産を彼らの必要とする以上に蓄積させ、一方、大多数の者を貧困、欠乏、極端な悲惨にあえがせています。それは非道の極みであり、神を満足させるものとは反対のものです。

この対比は、人間世界に特有なものです。他の創造物―つまり、ほとんどすべての動物―には、ある種の正義と平等があります。羊飼いのひきいる一群の羊にも、田舎にいる鹿の一群にも平等があります。同じように、草原、平野、岡、果樹園にいる小鳥の間にも、また、すべての種類の動物の間にも、ある種の平等が行き渡っています。これらの動物には生存上の手段におけるそのような相違は見い出されません。ですから、彼らは、完全な平和と喜びのうちに生活しています。

人間はとなるとことは全然違っています。人間は大きな誤り、全くの非道を続けています。

自分の利益のために国を植民地にすることによって財産を貯えた個人を考えてごらんなさい。

彼はたとえようもない富を獲得し、川のように流れる利益や収入を確保しており、一方、多くの力のない弱い不運な人々は、一口のパンにこと欠いています。そこには、平等、慈悲心もありません。ですから、全般的平和と喜びは破壊され、人類の福祉は、多くの人々の生活を実りないものにするほどに否定されています。財産、名誉、商業、工業は一部の資本家の手に握られ、他方、他の人々は、次々と起こる困難や果てしない難題にさらされています。彼らには、何の特典も利益もなく、楽しみも安らぎもありません。

ですから、ある特定の個人の持つあり余る財産を規制し、何百万という貧しい大衆の窮乏を満たす規則や法律が制定されるべきです。こうすればある程度の中庸が得られるでしょう。

しかし、絶対の平等もまた不可能です。財産、名誉、商業、農業、工業における絶対的平等は無秩序、混乱、生活手段の分裂に終わり、全員が失望するようになるでしょう。共同体の秩序はひどく破壊されるでしょう。このような不当な平等が押しつけられた場合にも困難が起こるでしょう。ですから、特定の個人に過剰な富が集まらないようにし、大衆の基本的必要を保護するために、法律や規則によって中庸が確立されることがより望まれます。たとえぱ、企業家や資本家は日々富を蓄積し、貧しい職人たちは日々の生活費も得られません。これこそ、不正の極みであり、正しい心を持つ人にはとても承認できることではありません。ですから、職人は工場主から賃金をもらい、さらに工場の能力に応じて、利益の四分の一か五分の一の分け前が得られるようにする、あるいは、別の方法で労働者の団体と企業側は、利益と特典を公平に分けるような法律や規則が設けられるべきです。もちろん、工場主は資本や管理を提供し、労働者の団体は仕事や労働を提供します。労働者は、適正な生計を保証する賃金を受けるべきであり、また、仕事をやめ、身体が弱くなったり、動けなくなれば、工場主の収入の中から十分な給付金を受けるべきです。あるいは、労働者の受けとる額が、貧しくなったり、動けなくなった日に備えて彼ら自身で少しづつ貯えることができるよう、十分彼らを満足させるものでなければなりません。

こういうふうに事が決まれば、工場主はもはや絶対必要以上の財を日々貯えることはないでしょう。(なぜなら、富が不均衡であれば、資本家は手に負えない負担に屈服し、非常な困難と苦労に追い込まれるでしょう。過度の財産の管理は非常に難しく、人間の体力をすり減らすからです。)そして、労働者や職人はもはやひどい悲惨や欠乏に追い込まれることはないでしょう。晩年になっても極度の貧困に悩まされることはなくなるでしょう。大衆が不足の状態にあるのに、一部の少数の個人に法外な財産を分配することは非道であり、正義に反することは以上で明らかです。同じように絶対的平等は、生活、福祉、秩序、人類の平和への障害となるでしょう。そうした問題では中庸が望ましいのです。それには資本家が自分の利益の取得に当たって適度にすること、貧しい人や困っている人の福祉に対して考慮することにかかっています。―つまり、労働者や職人は決まった日々の賃金を受けること―さらに彼らも工場の総利益の分け前を受けられるようにすることです。

資本家に適正な利益を与え、労働者には生活に必要な手だてと将来に対する保証を与える法律が制定されることは、資本家、労働者、職人の共通の権利として理にかなっています。こうすれば彼らが弱ったり、働けなくなったり、年老いて動けなくなったり、未成年の子供を残して死んだりしても、彼らも子供たちも極度の貧困によって死ぬようなことはなくなるでしょう。

さらに彼らは、彼らが権利を持っている工場それ自体の収入からたとえわずかであろうと、暮らしに対する分け前を得られるでしょう。

同様に、労働者も行き過ぎた要求や反乱も起こさず、権利を超えた要求もしなくなるでしょう。ストライキもせず、従順に服従し、法外な賃金を要求することもなくなるでしょう。しかし、労資双方の団体の相互の合理的権利は、正義とかたよらない法律によって、習慣に応じ合法的に確保され、定められるでしょう。双方の当事者の一方が違反した場合、裁判所は違反者に有罪を宣言し、行政部門は判決を執行し、こうして秩序は再興され、困難な問題は結着します。資本家と労働者の間の未決の困難な問題に裁判所や政府が干渉することは合法的です、というのは、労働者と資本家間の現在の情勢は、私的な個人間の普通の事情とは比較できないという理由からです。個人間の事情には公は関係なく、政府は関与しません。実際には、これら二つの当事者の困難な事態は、一見、個人的問題のように見えますが、公に損害を生じます。

商業、工業、農業そのほか国のすべてのことは緊密につながっているからです。そのうちの一つが悪用されても損害は全体に及びます。このように、労働者と資本家間の困難な事態は全般的損害の原因となります。

ですから、裁判所と政府は干渉する権利を持つのです。二人の個人間に困難が生じた場合、

第三者がこの問題を解決する必要があります。これが政府の役目です。そうであるならば、ストライキの問題-国の難問題を引き起こし、企業家の強欲ばかりでなく、労働者の過度のいらだちに結びついている一をどうしてほおっておくことができるでしょうか。

神よ!人は、同胞が飢え、すべてに事欠いているのを見ながら、自分はぜいたくな邸宅に心地良く暮らすことができるものなのでしょうか。他人が極度の悲惨の中であえいでいるのにであった人は、自分の幸運を楽しめるものなのでしょうか。だからこそ、神の宗教では、富める者は毎年、財産の一部を貧しく、不運な者の生活費として与えることが命ぜられ、定められているのです。それが神の宗教の根本であり、すべての人の義務です。そしてこのことに関して、人は政府によって強制されたり、義務づけられたりはされませんが、その人の真心の自然のなりゆきによって自発的に、輝かしい心で貧しい人に慈善心を示すのです。そのような行為は大いに讃美され、承認すべき喜ばしいことです。

そうした行為は、聖典や聖なる書簡にある善行の意味するものです。

 

 

七十九、外部世界の実体

 

一部の詭弁家は、存在は一つの幻影であり、それぞれの存在は、存在しない絶対的幻影であると考えています。―言いかえれば、万物の存在は蜃気楼のようなもの、あるいは水や鏡にうつる反映の像のようなものであり、それ自体、原理も根拠も実体もないあらわれにすぎないと考えています。

この理論は、まちがっています。万物の存在は神の存在に関していえば幻影ですが、万物の状態においてはそれは真実であり、確かな存在です。このことを否定することは、無益です。

たとえば、鉱物の存在は、人間の存在に比べれば存在しません。人間が死亡するとそのからだは鉱物になります。しかし、鉱物は鉱物界では存在します。ですから、地球は人間の存在に関しては存在しません。しかもその存在は幻影です。しかし、鉱物との関係においては存在します。

同じように、万物の存在は神の存在に比べれば幻影にすぎず、無です。それは一つのあらわれであり、鏡にうつる像のようなものです。しかし、鏡に見えている像は幻影ですが、その幻影と見える像の根源、実体はうつされた人間であり、その人の顔が鏡にあらわれます。簡単に言えば、うつされる人間からみれば、その反影が幻影です。

ですから、万物は神の存在との関係においては存在せず、蜃気楼のようなもの、あるいは、

鏡にうつる反影のようなものですが、しかし、それ自身の段階においては存在することは明らかです。

それゆえに、無頓着な者、神を否定する者は、一見、生きているように見えますが、死んでいるとキリストに言われたのです。信仰を持つ人々からみれば、彼らは死んでおり、目の見えぬ人、耳の聞こえぬ人、口のきけぬ人です。キリストが「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。」(マタイ822)と言ったのはこの意味です。

 

 

八十、真の先在

 

質間 先在と現象は何種類あるのですか、

答 一部の賢者、哲学者は、二種類の先在があると信じています。即ち、本質的先在と時の先在と。現象もまた本質的現象と時の現象と二種類あります。

本質的先在は原因によって先行されない存在であり、一方、本質的現象は原因によって先行されます。時の先在は始めがなく、時の現象は始めと終わりがあります。あらゆる物の存在は四つの原因―動因、物質、形体、目的因の四つに依存するからです。たとえば、この椅子は、大工という製作者がおり、木材という物質があり、椅子という形体があり、坐るために使用するという目的があります。ですから、この椅子は本質的に現象的なものです。なぜなら、それは原因によって先行され、その存在は原因に依っているからです。これが、本質的で真に現象的なものと言われるものです。

さて、この存在の世界は、その創造者との関係においては真の現象です。肉体は精神によって維持されるのですから、肉体は精神との関係においては本質的現象です。精神は肉体とは独立しています。そして肉体との関係においては、精神は本質的先在です。太陽の光線は常に太陽から切り離すことはできませんが、それにもかかわらず太陽は先在しており、光線は、現象的なものです。なぜなら、光線の存在は太陽の存在に依存しているからです。しかし、太陽の存在は光線の存在には依存していません。なぜなら、太陽は与えるものであり、光線は賜物だからです。

第二の命題は、存在することと存在しないこととは相対的であるということです。あるものが無から存在するようになったという場合、絶対的無について言っているのではなく、その現象の状態からみれば、それ以前の状態は無であったということを意味しているのです。絶対的無は存在する力がないのですから、存在するようになることはできないからです。人間は、鉱物と同じように存在します。しかし、鉱物の存在は、人間の存在からみれば無です。なぜなら、人間のからだが死滅すれば塵となり、鉱物になるからです。しかし、塵が人間世界に前進してこの死体が生きるようになれば、人間は存在するようになります。塵―つまり鉱物―は、それ自体の状態においては存在しますが、人間との関係においては無です。どちらも共に存在しています。しかし、塵や鉱物の存在は、人間の存在に関しては不存在であり、無です。人が存在しなくなれば、塵や鉱物に戻るからです。

ですから、依存している世界は、存在していますが、神の存在からみれば不存在であり、無です。人間も塵もどちらも存在しています。しかし、鉱物の存在と人間の存在との間には何と大きな隔たりのあることでしょう。一方は、他方との関係においては不存在です。同じように創造物の存在は神の存在からみれば不存在です。このように万物は存在しますが、神と神の言葉からみれば、それらは不存在であることは明らかです。これが「われはアルファーであり、オメガである。」と言っている神の言葉の始めと終わりです。なぜなら、神は恩寵の始めであり終わりであるからです。創造主は、常に創造物を持っていました。太陽の光線は常に太陽の実体から輝き渡っています。なぜなら、光線がなければ太陽は不透明な暗黒体になってしまうだろうからです。神の御名と属性は万物の存在を必要とします。そして、永遠の恩寵は尽きません。もし尽きるとすれば、それは神の完全性に反するでしょう。

 

 

八十一、生まれ変わり

 

質問 ある人たちが信じている生まれ変わりという問題の真相は何ですか。

答 ここで述べることの目的は、真実を説明することです。―他の人たちの信じていることを笑ったりするためではありません。ただ事実を説明する、それだけです。何人の思想にも反対しませんし、批判を認めているのでもありません。

 まず、生まれ変わりを信じる人々には、二種類あることを知ってください。一つの派は、他界における精神的罰や報酬を信じません。人間は生まれ変わりによってこの世に戻り、報酬と補償を得るものであると想像します。彼らは、天国と地獄はこの世だけにあるのであって、他界の存在を語りません。こうした人々もさらに二つの派に分けられます。その一方は、人間は時に厳しい罰を受けるために動物の姿となってこの世に戻り、この苦しい苦痛を耐えた後には動物界から解放され、再び人間世界に戻ると考えます。これは、輪廻転生と呼ばれます。もう一つの派は人間は人間世界からまた人間世界に戻り、この復帰によって前世の報酬や罰を受けると考えます。これは生まれ変わりと呼ばれます。これらの派の人々は皆、この世以外の他界について語りません。

生まれ変わりを信じるもう一派の人々は、他界の存在を肯定し、生まれ変わりを完全になるための手段であると考えています。一つまり、人間はこの世を去ったり、戻ったりすることによって次第に美徳を獲得し、ついに内面的完成に到達するということです。言いかえれば、人間は物質と力によって構成され、物質は始め―つまり第周期においては―不完全であり、この世に繰り返しやってくることによって進歩し、洗練と優美さを獲得し、ついには磨かれた鏡のようになる。そして、精神にほかならない力は、すべての完全性を備えてその中に実現されると考えます。

以上が生まれ変わりを信じる人々が、この主題に関して述べていることです。もし細かいことに立ち入れば長時間を要しますので、話を煮つめました。この要約で十分です。この問題についての論理的論議や証明も提出されていません。それは、ただ推測にもとづく仮定であり、推論であって決定的論証ではありません。生まれ変わりを信じる人々から、推測、仮定、想像ではない実証をしてもらわなくてはなりません。

しかし、あなたは、生まれ変わりの不可能であることの論証を尋ねておられるのです。このことについてまず説明しなければなりません。それが不可能であることの第一の論証は、外面は内面の表現であり、地球は神の王国の鏡であり、物質の世界は精神の世界に一致するということです。さて、感覚で捕えられる世界では出現は繰り返されません。存在物は何らかの点で他のものと異なり、全く同じということはないからです。単一であることのしるしは万物の中に明らかに示されています。仮に世界の穀倉が穀物でいっぱいであるとしても、完全に同じで、何の相違もなく全く同一であるようなふたつぶを見いだすことはできないでしょう。それらの間には相違や差異があることは明らかです。独自性の証拠は万物の中に存在しており、神の一体性と唯一性は万物の実体の中に現われているのですから、同じ出現の繰り返しは全く不可能です。ですから、生まれ変わり、つまり以前と同じ本質と状態を持った同じ精神が、この同じ出現の世界に繰り返し現われるということは不可能であり、あり得ないことです。それぞれの物質的存在物にとって、同じ姿で繰り返し現われることは不可能であり禁止されているように、精神的存在も下降の円弧にあろうと上昇の円弧にあろうと同じ状態に戻ることは禁止されており、不可能です。なぜなら、物質的なものは精神的なものと一致するからです。

それにもかかわらず、種に関しては物質的存在の復活は明らかです。過ぎ去った年月に葉、花、実を着けた木々は、これから来る年月にも全く同じ葉、花、実を着けるでしょう。もし誰かが葉、花、実は分解され、植物界から鉱物界へ降り、そして再び鉱物界から植物界へ戻ったのであるから同じ植物が繰り返しあらわれたと言って反対を唱えるのであれば、それに対する解答はこうです。昨年の花、葉、実は分解され、それらの構成要素は崩壊し、空間に分散されます。そして分解の後、昨年の葉や実をなしていた粒子が再び構成されることはありませんし、戻ってくるのでもありません。そうではなく、新しい要素の構成によって種が戻って来たのです。このことは人間の肉体についても同様です。人間の肉体も分解した後、崩解し、その構成要素は分散されます。同じように、仮にこの肉体が鉱物界あるいは植物界から再び戻ってくるとしても、以前の人間と全く同じ構成要素を持っていることはないでしょう。その構成要素は分解され崩解し、この広い空間にまき散らされます。その後、他の要素の粒子が結合し、第二の肉体が形成されます。以前の個体の要素の一つが次の個体の構成に入りこんだかも知れませんが、しかし、こうした粒子は何らの増減なしに正確で、その構成と混合から他の個体が存在するようになることはありません。ですから、この肉体がそのすべての粒子と共に戻ってくるとか、以前の人間が後の人間になるとか、その結果反復があるとか、肉体と同じように精神も戻ってくるとか、死後、その本質がこの世に戻ってくるとかと言うようなことは実証されません。

仮にこの生まれ変わりは物質が精練され、優雅になり、精神がその物質の中にこの上なく完全に現われるように、完全な美徳を身につけるためのものであるとしても、これまた単なる想像にすぎません。たとえこの論証を信じるものと仮定しても、再生と復活によって性質が変化することは不可能です。復活によって不完全さの本質が完全性の実体になることはありません。完全な暗黒が復活によって光の源になることはありません。弱さの本質は、力や強さに変わることはありません。世俗的な性質が神聖な実体になることもありません。ザクームの樹(コーランにある悪魔の木)は、何度生まれ変わろうとも甘い実をつけることはありません。そして良い木は、何度戻ってこようともにがい実はつけません。ですから、この世に復活することや回帰することによって完全になることはできないということは明らかです。その理論には証明も証拠もありません。それは単なる観念です。いいえ、実際のところ、美徳を獲得するもとは神の恩寵なのです。

神知学者の信じるところによれば、上昇の円弧にある人は「至高の中心」に到達するまで何回でも復活し、その状態では物質は曇りない鏡となり、精神の光は、そのすべての力をもってその上に輝きわたり、そうして本質的完全性が得られるということです。さて、物質の世界は下降の円弧(存在の周期の)の終点で終わり、人間の状態は下降の円弧の終点にあり、また「至高の中心」とは反対側にある上昇の円弧の始点にあるというのが確立された深遠な神学上の命題です。また上昇の円弧の始点から終点までには多くの精神的段階があります。下降の円弧は起源(生み出す)と呼ばれ、上昇の円弧は進歩(何か新しいものを生み出すこと)と呼ばれます。下降の円弧は物質性で終わり、上昇の円弧は精神性で終わります。円を描くコンパスの先は後退する運動をしません。なぜなら、逆行することは自然の運動と神の秩序に反することになるからです。そうでなければ、円の対称性は損なわれてしまいます。

その上、この物質の世界は人間がこの鳥かごから解放された後、再びこのわなに捕らえられたいと望むほどの価値のある、すばらしい世界ではありません。人間の価値、本当の能力は、永遠の恩恵を通して、復活によってではなく、存在の段階を横切ることによって明らかになります。いったん貝が開かれれば、真珠があるか、つまらないものが入っているかは一目瞭然です。植物もいったん成長すればとげを出すか、花を生じるかのどちらかでしょう。それがもう一度成長しなおす必要はありません。さらにあらゆる世界において、自然の法則に従って、直線的順序によって前進し、運動することは存在のもとであり、自然の組織、法則に反する運動は不存在のもとです。死後、魂が復活するということは、自然の運動に反しており、神の秩序にさからっています。

ですから、復活することによって存在を得ることは全く不可能です。それはあたかも、人が子宮から解放された後、再び子宮に戻るようなものです。生まれ変わりの信仰に含まれているものは何と子供じみた空想であることかよく考えてください。それを信じる者たちは、コップに水が入っているように、肉体を精神の入っている器と考えています。この水はコップから取り出され、別のコップに注がれたと。これは子供の遊びです。彼らは、精神の形のないものであり、出たり入ったりするものではなく、太陽と鏡の結びつきのように肉体に結びついているにすぎないことを理解していません。仮に彼らの言う通りだとし、精神はこの物質の世界に戻ることによって多くの段階を通過し、本質的美徳に達することができるとするならば、神がこの世における精神の命を完全な美徳と優雅さを獲得するまで引き延ばすほうがよいことになります。そうすれば、精神が死の盃を味わったり、第二の生を得る必要はありません。

存在はこの亡ぶべき世だけに限定されているという考えや、神の世界の存在の否定は、そもそも、生まれ変わりを信じる一部の人たちの想像から生まれたものです。しかし、神の世界は無限です。もし神の世界が極点に達してこの物質の世界ができたとすれば、創造にたわいもないものであったでしょう。いいえ、存在は完全に子供の遊びになってしまいます。この尽きることのない存在物の結果である人間の高貴な存在が、この亡ぶべき住み家に数日間去来して罰と報酬を受けたのち、ついにすべての者が完全になることになります。神の創造と無限に存在する存在物が完成され仕上げられることになり、その結果、このようにあらゆる存在物が精神的存在になるのであるから、主の神性、神の御名や特質はその影響に関して無為、無活動になることになります。「汝の主、力強き主に讃えあれ、彼らが描くものとはなんのかかわりもない方に。」(コーラン37180)

以上はプトレミーやその他の者たちのような昔の哲学者の狭い心からでたものです。彼らは、世界、生命、存在はこの地球に限られ、この無限の字宙は天の九つの領域に限定され、すべては空で虚しいものであると信じ想像しました。彼らの考えはどんなに狭く、心はどんなに貧弱であったか考えてください。生まれ変わりを信じる人たちは、精神的世界は人間の想像の世界に限定されると考えています。さらにドルーズ派やヌーセイリ派のように、彼らの一部のものは、存在はこの肉体の世界だけに限定されると考えています。何と無知な想像でしょうか。なぜなら、至高の完全さ、美、威厳の中にあらわれるこの神の世界に、物質の世界の輝く星は無限にあるのですから。そこで私たちは、欠くことのできない基礎である精神の世界はどんなに広く、無限であるかを考えなくてはなりません。「見る目をもっている者は、よく注意を払うがよい。」(コーラン592)

ところで主題に戻りましょう。聖書や聖典には「復活」について語られています。しかし、無知な人はその意味を理解せず、生まれ変わりを信じる人々はこの問題についていろいろな推論を出しました。聖なる予言者が「復活」によって意味したものは本質が復活するのではなく、特質が復活することなのです。それは顕示者の復活ではなく、完全な美徳の再現です。福音書にゼカリアの息子であるヨハネはエリアであると述べられています。この言葉は、エリアの理性的魂と個性がヨハネの肉体に再現したと言っているのではありません。そうではなく、エリアの完全性と特質がヨハネの中に現れたという意味です。

昨夜、この部屋にランプがともっていました。そして今夜、ほかのランプがともる場合、昨夜の光が再び輝いていると言います。泉から水が流れ出ている、次にそれが止まって再び水が流れ始めると同じ水が再び流れていると言います。あるいは、この光は以前の光と同じものであると言います。去年の春についても同じです。その時、さまざまな花、甘い香りの草花が咲き乱れ、おいしい果実が実りました。次の年、その味のよい果実が戻って来た、その花々が再び戻って来たと言います。このことは、昨年の花を作りあげていた全く同じ粒子が分解したのち、再び結び合わされ戻り、復活したということではありません。そうではなく、昨年の花の甘さ、新鮮さ、甘い香り、あでやかな色彩が今年の花の中に全く同じように現われるということです。簡単に言えば、この表現は以前の花と後に現れる花との類似性のことを言っているのに過ぎないのです。聖典にいわれている復活とはこの意味です。崇高なるペン(バハオラ)は確信の書でこのことを十分に説明しています。それを参照してください。そうすれば、神の神秘と真理がわかるでしょう。

皆さんに、挨拶と称讃のあらんことを。

 

 

八十二、汎神論

 

質間 神知学者やスーフィ派(回教神秘主義者)は、汎神論の問題をどのように理解しているのでしょうか。汎神論とは何を意味するのですか。またどの程度、真理なのですか。

答 汎神論の問題は非常に古くからあります。それは神知学者やスーフィ派に限られる信仰ではなく、アリストテレスのようなギリシャの賢人たちも信じていました。アリストテレスは、「単一の真理は全てのものである。しかし、そのどれでもない。」と言いました。この場合、「単一な」は「組成された」の反対である。それは孤立した真理であり、それ自体無数の姿に分解する。だから真の存在は万物であり、しかもそのどの一つでもない、と。

要するに、汎神論者は、真の存在は海にたとえられ、存在物は海の波のようなものであると考えています。存在物を意味しているこれらの波は、真の存在の無数の姿である。だから、聖なる本質は先在の海()であり、創造物の無数の姿は、あらわれた波である。

同様に、彼らはこの理論を真の一と無数の数にたとえます。真の一は、無限の数の段階にそれ自体を反映する。なぜなら、数は真の一の繰り返しだからである。だから二という数は一の繰り返しであり、他の数についても同じである。と。

彼らの論証の一つは次のようなものです。万物は神によって知られているものであり、知られている物のない知識は存在しない。なぜなら、知識は存在するものに関係しており、無には関係していないからである。真の無は知識の段階で類別化や特徴づけができない。だから、存

在物の本質は、最も高遠なるお方である神によって知られているものであり、神の知識の形を持つのであるから、それは知識の持った存在(知的存在)を持つ。神の知識が先在するように、それらもまた先在する。知識が先在するので、知られているものも同じように先在し、一体性の精髄の先在する知識である存在物の類別化と特徴づけは、神の知識そのものである、一体性の精髄の本質、知識、知られている物は真実であり、確立ざれた絶対的一体性を持つのであるからである。さもなければ一体性の精髄は多様な現象の場となり、先在の多様性(神々)が必要になってしまう。これは不合理である。

そこで、知られているものは知識そのものを成しており、知識は精髄そのものを成している―つまり、知り給うお方、知識、知られているものは単一の実在であるということが証明される。もしこれ以外のことを考えるならば、先在の多様性と、原因と結果の果てしない繰り返しに戻ることが必要となる。そして先在は無数になることによって終わる。神の知識における存在物の類別化と特徴づけは一体性の精髄そのものであり、またそれらの間には相違はなかったのであるから、そこには全くの単一性のみがあり、知られているすべてのものは、一つの精髄の本質の中にまき散らされ、含まれていたのである。―つまり単一性の方式と唯一性の方式によれば、それらは最も高遠なる神の知識と真理の精髄を成しているのである。神がその栄光を現わした時、真実の存在を有する存在物はこれらの特徴づけと類別化1つまり、神の知識の姿をしていた存在物1は、外部世界にその存在を具体化したのである。そしてこの真の存在は、それ自身を無数の姿に分解したのである。以上が彼らの論議の基本です。

神知学者とスーフィ派も二派に分かれます。大多数を占める一派は、有名な学者たちの意味することを理解せず、ただ模放的に汎神論を信じています。スーフィ派の多くは、神の意味は普遍的に実在する実体であると考え、それは理性と知性によって理解される―つまり人間はそれを理解するということである。他の一派によれば、この一般的存在は、存在物の実体に浸み渡っている偶然の一つであり、存在物の特質はその本質であるとする。万物に依存する存在であるこの偶然の存在は、それらに依存する物の他の所有物のようなものである。それは偶然中の偶然であり、本質的なものは偶然にできたものより優れていることは確かである。なぜなら本質は根源であり、偶然は結果であるからである。本質はそれ自身に依存し、偶然はほかの何かに依存する。―つまり偶然は依存する本質を必要とする。この場合、神は創造物の結果になってしまいます。神は創造物を必要とし、創造物は神から独立してしまいます。

たとえば、個々別々の要素が神の普遍的システムに従って結合するごとに、あらゆる存在の中から一つの存在がこの世にあらわれる。つまり、ある要素が結合すると動物になる。また他のものが結合すると違った創造物が生み出される。こうなると、万物の存在は、万物の実体の結果となります、偶然中の偶然であり、依存すべき他の本質を必要とするこの存在が、万物の創造者である先在の精髄であるなどということがあり得ましょうか。

しかし、この問題を研究した神知学者やスーフィの奥義を授けられた学者たちは、存在には二つの部類があると考えています。一つは一般的存在であり、人間の知性によって理解される。これは一つの現象であり、偶然中の偶然であり、存在物の実体がその本質である。しかし、汎神論はこうした一般的な想像的存在に適用ざれるものではなく、あらゆる言説から解放され、聖別されている真の存在のみに適用される。真の存在を通して万物は存在する。この真の存在は、物質、エネルギー、人間の心によって理解される一般的存在のようなすべてのものをこの世にもたらした神の一体性であるとする。神知学者やスーフィによれば、以上がこの問題の真理です。

要するに、万物はこの一体性によって存在するという理論に関しては全員が同意します。―つまり哲学者たちと予言者たちと。しかし、彼らの間には相違があります。予言者はこう言います。神の知識は万物の存在を必要としない。しかし、創造物の知識は知られている物の存在を必要とする。もし神の知識が他の何かを必要とするならば、それは神の知識ではなく、創造物の知識となってしまう。なぜなら、先在は現象的なものとは異なっており、現象的なものは先在とは対立している。存在物に帰すことのできるもの―つまり依存している物の必要性―は、神には必要ないと言っているのである。不完全さからの浄化、聖別化は、神の必然の特質の一つである。そこで、我々は現象的なものには無知を見い出す、故に先在に知識を認める。現象的なものには弱さを見い出す。故に先在には力を認める。現象的なものには貧困を見い出す。故に先在には富を認める。だから、現象的なものは不完全さの源であり、先在は完全性の総和である。現象的知識は知られている物を必要とする。先在する知識は、それらの存在から独立している。それゆえ、最も高遠なる神に知られているものである万物の特徴づけと類別化は存在しない。そしてこれらの神聖で完全な属性は、我々が知性によって、神の知識は知られているものを必要とするかしないかを決定できるというようには理解されない、と予言者は言います。

要するに以上がスーフィ派の主な論議です。もし彼らのすべての証明を述べ、その答えを説明しようとすれば長時間必要です。これは少なくとも、スーフィ派や神知学者にとっては決定的証明であり、彼らの明白な論議です。

しかし、万物を存在させる真の存在の問題―つまり、あらゆる創造物をこの世に生じさせた一体性の精髄の本質―は、皆に認められています。違いはスーフィの言う「物の実体は真の一体性の顕示である。」というところにあります。しかし予言者はこう言います。「物の実体は、真の一体性から放射する、」と。顕示と放射の違いは非常に大きい。顕示による出現は一つのものが無限の形をとって現われることを意味します。たとえば種子は植物の完全性を持つ一つの物ですが、自らを枝、葉、花、果実に分解して、さまざまな形となって現われます。これは顕示による出現と呼ばれます。一方、放射による出現では、真の一体性はその神聖さの高みに留まり続け、創造物の存在はそれから放射しているのであり、それによって顕示されるのではありません。それは、すべての創造物に注ぎかける光を放射する太陽にたとえることができます。しかし、太陽はその神聖さの高みに留まっています。それは下降しませんし、光が、輝くいろいろな姿に分解することもありませんし、物を類別化したり、特徴づけることによって物の物質の中に現われたりすることもありません。先在は現象的なものとはなりませんし、独立している富は、鎖のようにつながった貧困になることもありません。全くの完全性は、絶対的不完全にはなりません。

まとめましょう。スーフィ派は、神と創造物を認める。そして神は自らを創造物の無限の姿に分解させ、海のように現れる。その海は波の無限な姿となって現れる。これらの現象的で不完全な波は、神のすべての完全性の合計したものである先在の海と同一のものであると。これに対して予言者は、神の世界、神の王国の世界、創造物の世界の三つがあると信じます。始めに神から放射されるものは神の王国の恩恵であり、それは創造物の実体に放射し、反映しています。ちょうど、太陽から放射する光が創造物の中に反映しているのと同じです。光であるこの恩恵は、万物の実体の中に無限の姿となって反映し、自らを物の許容量、価値、本来の価打ちに従って類別化し、特徴づけます。しかし、スーフィ派の信じるところに依れば、独立している富は、依存している物の限界に応じて、貧困の段階に下降し、先在は自らを現象的姿に制限し、純粋な力は弱い状態に限定されることになります。これは明らかな誤りです。よく考えてください。創造物中、最も高貴な人間の本質が動物の本質に下降することはありません。感覚力を与えられている動物の本質は植物の段階に身を落とすこともありません。成長する力そのものである植物の本質は鉱物の本質に下降することはありません。

要するに、より優れているものは、下位の地位に下降したり、身を落とすことはありません。それならば、すべての記述から解放されている神の普遍的本質が、その絶対的神聖さと清浄さにもかかわらず、不完全さの源である創造物の本質の中に自らを分解させるなどということがあり得るでしょうか。これは誰も考えることのできない全くの想像です。

 それに反して、この聖なる本質は神の美徳の総和です。そしてあらゆる創造物は放射による輝きの恩恵によって恵みを受け、その王国の光、完全性、美を受けとります。それはちょうど、地上のあらゆる創造物は太陽の光線の光の受けてはいますが、太陽は恩恵を受けている地上のものの実体に下降することも、自らを落とすこともないということと同じです。

夕食後のことでもありますし、時間も遅くなりましたので、これ以上説明する時間がありません。では、ごきげんよう。

 

 

八十三、知識を得る四つの方法

 

理解の方法には、一般に認められた四つの方法しかありません。―つまり、ものごとの実体はこれら四つの方法によって理解されます。

第一の方法は五感によるものです。―つまり、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚によって感じられるすべてのものは、この方法によって理解されます。今日、ヨーロッパの哲学者たちは、この方法が最も完全なものであると考えています。知識を得る主な方法は五感による方法であると彼らは考えています。それは誤りを犯しますから不完全なものなのですが、彼らはそれを最高のものと見なしています。たとえば、五感のうちで最も偉大なものは視力です。この視力でさえ、蜃気楼を水と見、鏡に映るさまざまな像を真実で実在するものと見ます。巨大な物体も遠くにあれば小さく見、まわっている点は円と見ます。視覚は、地球は動かずに太陽が運動しているように思ったり、同じような状態でたくさんの誤りを犯します。ですから私たちは視力に信頼を置くことはできません。

二番目は理性による方法です。それは英知の柱石とも言うべき古代の哲学者のとった方法でした。これは理解力による方法です。彼らは理性によってものごとを説明し、論理的証明にしっかりすがっていました。彼らの論議はすべて理性によるものです。それにもかかわらず、それらはまちまちで、彼らの意見は矛盾していました。彼らは自分の見解を変更さえしました。―つまり、二十年間あることの存在を論理的論法で証明していたかと思えば、その後、また論理的論法でそれを否定したりしました。―プラトンは始め、地球の不動性と太陽の運動を論理的に証明しましたが、後にまた論理的論法によって太陽は不動の中心であり、地球は動いていると証明したようなことはまさにその例です。後にプトレミー説がひろく普及し、プラトンの思想は全く忘れ去られ、ようやく新しい観測がそれを蘇らせました。このように、あらゆる数学者は理性による論議に頼ったのですが、皆くいちがっていました。同じようにある問題についてある時はこれを論理的に実証し、やがて同じ論法によってそれを否定したりしました。それで哲学者のうちにはしばらくの間、強力な論法と証明で一つの理論をしっかり支持していたかと思えば、後に理性の論法でこの論理をひっこめ、否定する者もありました。ですから理性による方法も完全ではないことが明らかです。古代哲学者の意見の相違、彼らの意見の安定性のなさと変動がこのことを証明しています。もしそれが完全であるならば、彼らは皆その思想において一致し、意見に同意するはずです。

第三の理解の方法は伝承によるものです。―つまり聖典の聖句によるものです。―「旧約聖書や新約聖書では神はこう言っている。」と人は言います。この方法も同様に完全ではありません。伝承は理性によって理解されるからです。理性そのものが間違いやすいものなのですから、伝承の意味を解釈する際にも間違いをしないとどうして言えるでしょうか。理性は間違いを犯す可能性があり、確実性は得られません。宗教的指導者の理解法はこの方法です。彼らが聖典の聖句から理解するものはすべて彼らの理性が理解するのであり、必ずしも本当の真理とは限りません。理性は秤のようなものであり、聖典の聖句の中に含まれる意味は秤で測られるようなものだからです。もし秤が狂っているならば、どうして重さを確かめることができるでしょうか。

ですから、人々の手の中にあるもの、人々が信じるものはとかく間違いやすいということをわかってください。あることを実証したり反証したりする際、私たちの五感から生まれる証明が持ち出されるならば、この方法もまたすでに明らかになったように完全ではありません。その実証が理性による場合も同じことが言えます。あるいはその実証が伝承によるものであってもそのような実証もまた完全ではありません。ですから人間の手中には信頼できる標準はありません。

しかし、聖霊の恩恵は、決して誤りのない、疑う余地のない真の理解法を与えてくれます。これは聖霊の助けによって人間に与えられたものであり、この場合のみ、確実性が得られるのです。

 

 

八十四、神の顕示者の教えに従う必要性

 

 

質間 善行とひろい慈悲心で祝福されている人々、賞讃すべき人格を持つ人々、すべての創造物に愛と優しさをもって接する人々、貧しい人の世話をする人々、世界平和確立のため努力へする人々―-そのような人々には神の教えの何が必要なのでしょうか。確かに彼らは神の教えから独立していると考えていますが。このような人々はどのような状態にあるのですか。

答 そうした善行、努力、言葉は賞讃すべきであり、認められるべきですし、人類の名誉であることを知りなさい。しかし、こうした行為だけでは十分ではありません。それらはこの上ない愛らしさの主体ですが、しかし精神が欠けています。いいえ、永遠の命と名誉、普遍的啓もう、真の救いと繁栄のもととなるものはまず第一に神の知識です。神の知識は、あらゆる知識を超えるものであり、人間世界の最大の名誉です。ものごとの実体についての今ある知識には物質的利益があり、それによって外界の文明は進歩発展します。しかし神の知識は、精神的進歩と引力のもとであり、それによって真の理解、人間性の高揚、神の文明、道徳と啓もうの正しさが得られます。

二番目に来るものは、神の愛です。神の愛の光は、神を知る人の心の灯に光り輝いています。その光り輝く光線は、地平線を照らし、人間に神の王国の命を与えます。事実、人間存在の果実は神の愛です。神の愛は命の精神であり、永遠の恩恵だからです。もし神の愛がなければ人の心は死に、存在の感動はないでしょう。神の愛がなければ精神的統合は失われ、和合の光は人類を照らさないでしょうし、東西が二人の恋人のように抱擁しあうこともないでしょう。神の愛がなければ分裂と不和は同胞愛に変わることもないし、無関心が愛情に終わることもなく、見知らぬ人が友人になることもないでしょう。人間世界の愛は神の愛から輝き出たのであり、神の恩恵と恩寵によって現れでたのです。

人間の実体はさまざまであり、意見はいろいろに分かれ、感情はまちまちであることは明らかです。そして人間にあるこうした意見、思考、知性、感情の相違は、本質的必然から生じます。創造物の存在の段階にある相違は存在の必然の一つであり、無数の姿となって現れます。

そこで、すべての人の感情、意見、思考を支配する普遍的な力が必要です。この力のお陰でこれらの分裂はもはや影響力がなくなり、個々の人々は人類世界の和合の影響力のもとに導かれるのです。それはさまざまな人々を愛情のテントの陰に導き、敵対意識のある国家や家族にこの上ない愛を和合をもたらします。

ごらんなさい。キリストの出現以来、神の愛の力によって、どれほど多くの国家、民族、家族、種族が、神の言葉の陰に結集したことでしょう。一千年もの間の分裂と不和が完全にうちくだかれ、取り払われました。人種とか祖国といった思想は完全に消え失せました。魂の和合、生活の和合が生じ、すべての人が本当の精神的キリ.スト教徒となりました。

人間性の第三の美徳は善行の基礎である善意です。ある哲学者は意志を行為より優れているものと考えました。善意は絶対的光であり、利己心、敵意、ごまかしといった不徳から浄化され、聖別されたものだからです。ところで、人は一見正しいように見えるが、実は貧欲に指示された行為をとることがあり得ます。たとえば肉屋は羊を飼い保護します。しかし、肉屋のこうした正しい行為は、利益を得たいという欲望にかられたものであり、この保護の結果はあわれな羊の屠殺です。いかに多くの正しい行為が貧欲によってなされていることでしょうか。しかし、善意はそのような不純から聖別されています。

簡単に言えば、神の知識に、神の愛、引力、喜悦、善意が加えられてこそ、正しい行為は完全になり、完成されます。さもなければ善行は賞讃すべきものではあっても、神の知識、神の愛、誠実な動機によって支えられていなければそれは不完全です。人間という存在は、完全であるためにあらゆる美徳を兼ね備えていなければなりません。たとえば視力は実に貴重な感謝すべきものですが、聴力によって援助されなければなりません。聴力は大いに感謝すべきものですが、しゃべる力によって助けられなければならないといった具合です。人間の他の能力、器官、肢体についても同じです。これらの力、感覚器官、肢体がともに備わって、始めて人間は完全になります。

 さて今日、真実、普遍的善を願う人々、また力の及ぶ限り抑圧されている人々の保護と貧しい人の援助に専念する人々にであいます。彼らは平和と全人類の安寧に熱狂しています。この限りにおいて彼らは完全であるかも知れませんが、もし彼らが神の知識と神の愛を持っていなければ、彼らは不完全です。

医師であるガレン氏は、プラトンの政治方法論を論評する彼の著作の中でこう言っています。宗教の基本的原理は、理想的な文明に非常に大きな影響を及ぼす。なぜなら、「大衆は説明されている言葉の結びつきが理解できない。そこで、他界の報酬と罰を告げる象徴的言葉が必要である。」「この断言の真実を証明するものは、今日、報酬と罰を信じているキリスト教と呼ばれる人々がおり、この宗派は、真の哲学者が行うような美しい行為を見せることである。そして彼らは死を恐れず、大衆に正義と平等以外のものを望まず、彼らは真の哲学者と見なされることがはっきりわかる。」と。

ここで、キリストを信じている者の誠意、熱誠、精神的感性、友情に対する感謝の気持ち、善行はどの程度であったか考えてください。哲学者的医師であったガレン氏は、キリスト教徒ではありませんでしたが、こうしたキリスト教信者の美徳や道徳を証言して、彼らは真の哲学者であると言い切るほどでした。これらの美徳、道徳は善行を通してのみ得られたのではありません。し美徳が単に善を得たり、与えたりするだけのものであるならば、このランプが灯されてこの家を照らしているのに―疑いもなくこの明かりは有益ですなぜ私たちはこのランプを賞讃しないのでしょう。太陽は地上のすべての生き物を増やします。そしてその熱と光は成長発達を促します。これほど大きな恵みが他にあるでしょうか。それにもかかわらず、この善は善意からでたものではなく、神の愛、神の知識から生まれたものではないので不完全なのです。

これに反し、ある人が他の人に一杯の水を与える場合、後者は彼をありがたく思い、感謝します。ある人は深く考えることもしないで、こう言うかも知れません。「世界に光を与える太陽、その明らかな至高の恩恵は、崇拝され、賞讃されるべきである。我々はほんの小さな親切をする人を賞讃するのに、なぜ太陽の恩恵に対して感謝しないのだろう。」と。親切は、はっきり意識された感情から出たものであるので賞讃に価しますが、もし神の愛、神の知識から生まれたものでなければ、それは不完全です。さらに公正に考えてみるならば、神を知らない人たちのこうした善行も、根本的には神の教えの導きによってなされていることがわかります。―つまり、昔の予言者たちが、人々にこうした行為をするように導き、善行の美しさを説き、そのすばらしい効果を宣言したのです。やがてこれらの教えは人々の中に普及し、次々と人々の心を動かし、その心をこうした美徳へと振り向かせたのです。こうした行為が美しいものと見なされ、人類の喜びと幸せのもとになることが理解され、人々はそれに従うようになったのです。

ですから、こうした善意もまた神の教えから生じるのです。このことを理解するには、論争や討論ではなく正義が必要です。ありがたいことに、皆さんはペルシャを訪れ、ペルシャ人がバハオラの聖なる微風を受けて、いかに人類に対して慈悲深くなったかを目撃されました。以前には、別の人種に会えばその人を悩ませ、激しい敵意、憎悪、悪意に満ちて、汚物を投げつけたりするほどでした。福音書や旧約聖書を燃やしたり、これらの書に触れて手が汚れたといっては手を洗ったりしました。今日では、彼らの大多数がこれら二つの聖典の内容は立派なものであると親しく相集まって暗誦し、吟誦し、その深遠な教えを解釈します。彼らは敵を厚くもてなし、神の愛の平原にいるガゼルのように、血に飢えた狼に優しく接します。皆さんは彼らの風俗習慣を知っており、以前のペルシャ人の振舞について聞いています。この精神の変革、言動の改善、これらは神の愛による以外に可能なことでしょうか。いいえ、絶対に可能ではありません。学問と知識の助けによってこれらの道徳と習慣を取り入れようとするならば、真実、千年もかかることでしょう。しかも広く大衆に行き渡ることはないでしょう。.

今日、神の愛のおかげで、それらはいともたやすく達成されます。

知性の所有者たちよ、注意深くあれ!

 



[1]創世紀1:26

[2]創世紀1:26

[3]聖なる顕示者は、宗教の創立者である。43、二種類の予言者”参照

バブは、マホメットの子孫である。

ヨハネ 6:42

バヌータミム、アラブの最も野蛮な部族の一つは、この醜悪な習慣を行なった。

 

[4] ウマー

[5] Jurj:Zayba’nの「ウマイヤ朝とアッバス朝」

[6] コペルニクス

[7] コーラン36:37

[8] コーラン36:38

 

 この時のバハオラの答えを見抜く判断は、敵の悪意を圧倒しました。彼らはどの奇蹟を選ぶか絶対に一致しなかったに違いありません。

 

 イランで当時イラク・アザムとして知られており、現在アラクと呼ばれている地方の向いにある。

 

 シリアのフランス大使の息子。バハオラは彼と親交があった。

 ダニエル書九.二四 あなたの民とあなたの整なる都については、七十週が定められている。それはそむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と予言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。

 

[9] 一三三五年後は一九六三年のことで万国正義院の最初の選挙が行なわれた。

[10] バラカト・イブン・ノーファル、カディジャーのいとこ。

[11] マホメットの使命の宣布 (訳注:六一三年)から一二九〇年たった年は、ヘジラ一二八○年、または現代暦の一八六三〜六四です。まさにその時期一八六三年四月に、バハオラはバクダットからコンスタンチノープルに発とうとする時、彼をとりかこんだ人々に、彼こそは、バブによって告げられた顕示者であることを宣言しました。これは、バハイがレズワンの祝祭日として祝う宣言で、その名は、その市の入口にある庭園の名に由来し、バハオラはそこに十二日間滞在し、その宣言をされた。

 この文は、引用されたコーランのアラビア語の文をペルシャ語に訳したものである。

 

 彼の完全な顕示

 バハオラの作品の一つ。その中で彼は彼の死後全ての人がたよるべき者としてアブドル・バハを明確に指名された

 ナセル・デン・シャーへの手紙からの抜粋

 コーラン19:17

 コーラン36:25

 この話は、そのような問題についで議論することは無益であることを示している。キリストの誕生についてのアブドル・バハの教えは次の章にある。

 

 創世紀2:7

  ヨハネの福音書6:50、51

 これらの会話の中で、読者もすでにわかっているとおり、アブドル・バハは正確な本文を述べることよりも、聖書のある一節の意味を示すことの方を望んでいる。

 

 マセク―即ち怪物、アラビアでは、マシー=救世主、マセク=怪物と言う言葉を使った遊びがある。

 テサロニケ信徒への手紙(一)5:2  ペトロヘの手紙(二)3:10

 82「汎神論」参照のこと。

 57、「人間の性格に相違のある原因」を参照せよ。

 ペトロの本当の名前はシモンであったことはよく知られている。しかし、キリストは彼をセファスと呼んだ。セファスはギリシャ語のペトラスに対応し、それは岩を意味している。

 

エーテル、電気、磁気などを伝える媒質として考えられている仮想的な物質。

 

人類の世界においてのみ精神が不滅を顕示する。36「精神の五つの段階」および64「人問の地位と死後の進歩」参照のこと。

55魂、精神、心意、参照のこと。

アクダスの書、最も聖なる書、バハオラの主要な著作であり、その戒律の大部分が含まれている。それはバハイ信教の原則の基礎をなしている。

 

即ち、例えば、人間は以前四つ足であったとか、尾を持っていたということを認めたとしても・ということ。

 

 この発生と顕現の問題は、次の章でさらにくわしく説明する。

280頁「真の先在」参照

即ち、人々は性格ゆえに非難されるものではないということ。

 「人間と動物の相違」参照

ペルシャでは、距離を時間によって数える習慣がある。

ミルザ・ヤーヤ・スブヘ・アザール、バハオラの異母弟であり、バハオラの妥協できない敵。

「べールでおおい隠された精神」はここでは、信仰の精神を持たない魂の理性的魂を意味する。